「めだか」と「らくだ」 その壱
2009年 03月 14日

『雨ン中の、らくだ』の執筆は、最初に出版社から志らくに対し、師匠談志の全音源の解説本「談志音源全集」という企画が持ち込まれたことがきっかけらしい。しかし、怖いもの知らずで引き受けたものの、感想文なら書けるが批評はできない、と気がついた志らくは断念。企画変更となったわけだが、その後のことについては、『雨ン中の、らくだ』の「まえがき」から引用。
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そこで浮上してきたのが、落語ブームにもっとも乗っかった男、
立川談春の著書『赤めだか』です。
便乗するわけではありません。この本を読んだ談志の感想が、
談春にしてはよく書けている、しかし俺が教えた落語のことは
一切書いていない。「イリュージョン」についても「帰属論」に
ついても・・・・・・。
ならばそこを私が書こうと思い立った次第で。
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しかし、「談志の落語論」という直球ではなく、志らくが好きな家元の噺を十八章のタイトルにし、時系列的にたどる青春物語としながら、「イリュージョン」や「帰属論」についても書こう、となったようだ。やはり、『赤めだか』を大いに意識し、しっかり「便乗」しようとしている。それは別に悪いことでなない。落語ファンも本好きにとっても、この2冊の比較を意識しないと言えば嘘でしょう!
だったら、修行時代に二人が同じ時間を共有していた「その時」を中心に、この二冊の中からいくつか文章をひっぱり出して比較してみるのも一興と思った次第。徒然なるまま書きましょう。
■志らく入門、築地、親
「めだか」における談春と家元の会話から。祭り好き、ケンカ好き、落語好きの激情派の兄弟子である文字助師匠から、「あの野郎だけは許せねえ。必ずクビにしてやる。手前らもそのつもりで野郎をイビリ抜け!」と云われていた談春が、築地での修業を終えて家元宅を訪ねた際の会話である。
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「おかげさまで河岸の修業も、もう少しで一年たちます。満期です。
また一からよろしくお願い致します」
「そうか、わかった。奥で弟子が働いてるだろ。志らくってんだ。
何も満足にできないから、河岸に行って修業してこいって云ったら、
野郎、嫌ですって云いやがンだ。じゃあクビだって云ったら、クビも
嫌ですとよ。両方嫌じゃしょうがねェよナ。それじゃウチに入るかと
聞いたら、はいって涼しい顔してやがる。変な奴だぞ」
力が抜けた。文字助師匠が云ったことは本当だった。築地の修業は
嫌です、というたった一言で許されてしまう程度のことなのか。
河岸で歯を喰い縛った僕達は、一体何だったんだろう。
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談春にとっては、これは当然の思いであろう。さて、一方の志らくはというと。
「らくだ」ではこうある。大学落研の大先輩である高田文夫の推薦で入門し、最初は家元にも見込まれていたが、相次ぐ失敗(しくじり)を重ねた入門半年後のことである。
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「お前は見込みがあると思ってたいがいのことは我慢してきたが、
やっぱり駄目だな。お前も明日から築地に行け」
とうとう審判が下されたのです。私の頭の中に一瞬、高田先生の顔が
浮かびました。高田先生にこのことを報告したらどれだけ悲しむか。
それから師匠のあのときの言葉が浮かんできました。
「お前は築地に行くような馬鹿になるなよ」
私は覚悟を決めて言いました。
「師匠、築地に行くのは嫌です」
「・・・・・・お前だけエコひいきするわけにはいかないのだ。行け」
「嫌です。行きたくないです」
「ならば、破門だ。辞めてもらう」
「それも嫌です」
師匠に逆らうなんてこの世界ではありえないことです。師匠の言うこと
は絶対というのが不文律。でも、師匠の「師匠は絶対ではない。
ケースバイケースだ」という言葉を思い出しました。築地には行きたく
ないし、破門は嫌なのだから、ここはどんなことがあってもくらいつか
ないといけない。私は必死でした。
師匠はちょっと驚いた顔をしましたが、しばらく無言のあと、こう言って
くれました。
「両方嫌なんじゃしょうがねェ。じゃあ今までどおり、いろ」
(中略)
談春兄さんは半ば呆れた顔で私に言ってきました。
「嫌って言えばよかったのか。ずるいなぁ」
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昭和61(1986)年、談春が二十歳、志らくは二十三歳での会話である。
たしかに、談春は「ずるい」と言いながらも、築地「菅商店」での修業がムダだとは思っていなかったはずだ。築地とは言っても餃子やシュウマイの卸なのだが、このお店の夫婦がいいんだなァ。
さて、志らくのこの「ズルさ」はどこから来てるのか。もちろん学生結婚しており早く稼げるようにならなければいけない状況もあったが、たぶんに彼の性格というか気質も影響していると思う。そこで参考になりそうなのが、両親だと思う。「らくだ」第二章「粗忽長屋」に両親のことが次のように書かれている。
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主観の強い人間というと、私の母がそうかもしれません。
長唄の師匠で、曲がったことは大嫌い。物凄く真面目な女性。
(中略)
私の父はクラシックギター奏者。無口で物怖じせず、マイペースな
遊び人です。落語に登場する若旦那的な雰囲気。母は「粗忽長屋」
です。
(中略)
師匠は両親を前に「こいつは落語家にするしかしょうがない奴でしょ」
と言いました。すると母は「そうです。私もそう思うのです」と返答
しました。これにはさすがの師匠もたまげていました。
いまだに師匠は言います。
「お前のおっかさんは、凄いな。『そうです』と言いやがった」
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では、談春の書く父親の像を、「めだか」の書き出しから少し引用。
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本当は競艇選手になりたかった。
家の近くに戸田競艇場があって、子供にくれるお菓子が楽しみで
父親にせがんで日曜日になると連れていってもらった。競艇場で
食べるチョコフレークは格段にうまく、僕にとってこの世で一番上等
のお菓子だった。だからチョコフレークがビスコに替わった時には泣いて
悔しがった。八十円のお菓子ごときで泣きだす息子に親父はあきれ、
しまいに怒りだし競艇場の売店にあるだけのチョコフレークを買うと、
「全部喰え。ひとつでも残したら許さん」と僕に渡した。
(中略)
「もう食べれません」
「喰え」
「ごめんなさい」
「菓子を欲しがるのは子供の権利だがな、権利を主張するなら義務
がついてまわるんだ。覚えておけ。ひとつも残さず喰え」
少年は競艇場のスタンドで、泣きながら権利と義務の因果関係を
学んだ。未だにチョコフレークを食べると人間の自由とは何かと考える。
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私は何か偉そうに論評しようとは思わない。ただ、「その時」を中心に談春と志らくが綴る印象的な文章を取り出して、この戦友でありライバルである二人がどう落語家として成長してきたかを、二冊の本を鏡のように向かい合わせにしてたどってみたい、というだけである。
すこし、長くなりそうなので、第一回はこれにてお開きということで・・・・・・。
