今年は大祭 『佃祭』
2008年 08月 09日

8月6日の末広亭夜席の主任、入船亭扇遊のネタは、今がまさに旬の噺。といっても通年は8月6日と7日が祭りなのだが、今年は三年に一度の大祭で、8月1日から始まり土日をはさんで4日がクライマックスであった。上の画像は「佃住吉講」が作っているホームページからいただいた例大祭のポスターである。このホームページにある佃島、住吉神社そして佃祭の解説は次のとおり。
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佃煮のルーツで知られる東京都中央区佃は、隅田川の河口に位置し、いまだに
江戸情緒を残すレトロな町として多くの観光客が訪れています。そもそも佃は、
天正18年(1590年)徳川家康公が関東に下降の際、摂津国佃村から漁民33人
呼び寄せ、鉄砲州向干潟を埋め立てさせ佃島と命名し住まわせたことに始まり
ます。この佃を社地とする住吉神社は、正保3年(1646年)6月29日、住吉大社
の分神霊を奉遷祭祀し建立されました。以来、住吉神社の例大祭(佃祭り)
は、江戸幕府に許可された由緒ある祭りとして今日に至っております。揃衣の
若衆が獅子頭の鼻先めがけ殺到する獅子頭宮出しや隅田川を渡御する船渡
御祭、江戸三大囃子のひとつである佃ばやしにのって、高さ20米にも及ぶ六基
の大幟のもと八角神輿が繰り出す風情は、文化的にも希有なものと言えましょう。
佃 住 吉 講
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矢野誠一さんの『落語歳時記』には、「摂津国といえば、いわずとしれた現大阪府。だんだんと残り少なくなってきている生粋の江戸っ子が、いまなお多く住むといわれる佃島も、もとはといえば、大阪からの移民によって開かれたとは、なんとも皮肉なことではないか」と書かれている。たしかに佃と大阪というのは、まったく意外な組み合わせである。

佃住吉講活動記録から、今年の4日最終日の宮神輿とにぎわいぶりの画像である。今年はNHKの朝の連続ドラマ『瞳』の舞台ということで、ドラマ出演者も収録のため神輿をかついだようだ。
さて、噺は、まだ佃島に橋がかからず渡し舟に乗る必要のあった時代の話。実際に佃の渡しが沈む事件があったので実話がベースかと思わせるが、原話は中国明代の『輟耕録(てつこうろく)』(陶宗儀著)に収録されている「飛雲の渡し」だといわれる。
現在の橋と船のルートは、いつも参照させていただくすばらしいホームページ「落語の舞台を歩く」から拝借。
落語の舞台を歩く

さて噺は次のようなストーリーである。
(1)神田お玉ケ池の小間物屋の主、次郎兵衛さんは、大の祭り好き。今日もやきもち焼きの女将さんに「どうせお祭りが白粉(おしろい)つけて待っているんでしょう」などと言われながらも佃祭りに出かけた。
(2)祭りを楽しみ、目一杯帰りの乗客を乗せた暮れ六つの終い船で帰ろうと船に足を踏み出した次郎兵衛さんの袖を引く女がいた。次郎兵衛さんが女に引き止められているうちに船は出てしまう。しょうがなく女の話を聞いたところ、実は三年前に奉公先の主人の金三両(五両とする場合もある)を盗まれ、橋(本所の一つ目の橋、とか吾妻橋など設定はいろいろ)から身を投げようとしたところを助けたのが次郎兵衛さんだった。女は結婚して佃に住んでいるので、ぜひ寄って欲しいと懇願する。連れあいが船頭なので、後でお送りすると言われ、ほっとして家を訪ねる次郎兵衛さん。
(3)女の家で次郎兵衛さんが一杯ご馳走になっていると、急に外が騒がしくなってきた。なんと終い船が沈んで岸は死体の山になっているとのこと。三年前に命を救った女に、今度は次郎兵衛さんが助けられたわけだ。女の連れあいが次郎兵衛さんに挨拶に立ち寄ったが、船を出すのは騒動がおさまってからになるので、家でゆっくりしていってくれと言われ、腰を落ち着けてご馳走になる次郎兵衛さん。
(4)一方、神田の次郎兵衛さんの家で帰りを待つ女将さんに、終い船が沈没したとの伝聞が届く。どうも一人も助からなかったらしいという噂に泣き崩れるおかみさん。近所の若い衆がさっそく弔いの準備を始める。若い衆の半分は、次郎兵衛さんの遺体をひきとにり行こうということで、おかみさんに次郎兵衛さんの体の特徴を聞いたところ、次郎兵衛さんの二の腕におかみさんの名前が彫ってあるとのこと。「なんとも、ごちそうさまで」と出かけていく。はっきりしない伝聞ではあるが、次郎兵衛さんが死んだらしい・・・・・とのことで弔問客でごったがえす。中には、とんちんかんな悔やみを言う者もいるが、とにかく早桶も届き坊さんも駆けつけて通夜が始まった。
(5)すっかりご馳走になり明け方に船で神田川まで送ってもらった次郎兵衛さん。ご機嫌で家に帰ってきたが、家では弔いの最中。「おやっ、簾が裏返しになって“忌中”って、誰が死んだんだ。お袋か。かかぁか・・・・・・」と家の中に入って、居並ぶ弔問の者たちが「幽霊!」、という大騒動。
(6)次郎兵衛さんにいきさつを聞いたご一同、坊さんに若い衆があやまるが、坊さんいわく。「けっこうけっこう。因果応報と言いましてな。次郎兵衛さんが三両の金で若い女の人を助けた。だから今日んなって、その三両のために、こんどは自分の命を買うようになったのです。人を助けるということは、みんな自分の身にかえってくることでございます・・・・・・」と法談のように場を締めた。
(7)さて、この話を聞いていたのが与太郎。「身投げを助けて三両やれば、自分が死なねぇですむ」とばかり三両を都合して、毎日、ほうぼうの橋に身投げを探しだした。三日目にようやく、橋に若い女の姿。目に一杯の涙をため手を合わせている。与太郎、ここぞとばかりうしろから抱きついて「待ってくれ。三両の金がねえために、身を投げるんだろう。おれが三両やるから、待ちねえ」」と止めにかかったが、女の言い分はこうだった。「あたしはね、歯が痛いから、戸隠さまへ願をかけているんだよ。」与太郎が「うそぉつきやがれ、え、懐に石があらあ」女の言葉がサゲとなる「これは納めるありの実(梨)だよぉ」
このサゲのために、まずほとんどの噺家が、マクラで戸隠さまへの願かけのことを説明する。矢野誠一さんの『落語歳時記』からふたたび引用する。
「戸隠さんは、平維茂の鬼女退治で知られる長野県は戸隠山にある神社。古くより虫歯の神様として有名だった。このでんで、薬師様が目、水天宮が産婦人科、トゲ抜き地蔵は外科。神様にも専門があるわけだ。戸隠に願をかけるには、生年月日と、上下、何枚目の歯が悪いかを梨に書き、橋の上から戸隠様におがんで川に流す。その様子、遠くからみると、さながら身投げ同様というから、与太郎が間違えるのも無理はない。」
梨を「有(あり)の実」と言うのは、「なし」では縁起が悪いからだが、せっかくマクラで説明していても、サゲで「有の実」と言う噺家はほとんどいない。もったいない。ぜひ死語にならないよう、この噺も語り続けてほしいし「有の実」をサゲでも使って欲しい。
東京オリンピックのあった昭和39(1964)年の佃大橋の完成で姿を消した渡し船が題材となっていることや、神田お玉ケ池町内の若い衆や与太郎によるドタバタ、次郎兵衛さんが昔助けた女の連れあいの船頭(辰五郎)の「いなせ」な立ち居振る舞いなど、季節感もたっぷり役者もいっぱいで江戸落語の代表作の一つだと思う。また、(4)の場面の滑稽な“悔やみ”もこの噺の売りの一つ。噺家がそれぞれ工夫しているので、噺家によってどう悔やむかを聞き比べるのも一興だ。
江戸、祭り、粋といなせで、おっちょこちょいな町人たち、「落語って、本当にいいですねぇ」と、誰かの口癖をまねしたくなる噺である。
お奨めは、迷うことなく古今亭志ん朝である。
古今亭志ん朝_佃祭
