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『大山詣り』

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 夏の旅の代表的な噺。別名『百人坊主』。写真は、大山阿夫利神社の下社拝殿。

 大山は現在の伊勢原市郊外の山である。別名を雨降山(あふりやま)。参詣先の神社は阿夫利神社。なんとその歴史は紀元前に遡る、らしい。阿夫利神社のホームページから抜粋する。
大山阿夫利神社のサイト

 大山阿夫利神社の神社創立は、今から2200余年以前の人皇第10代崇神天皇の御代であると伝えられています。
 大山は、またの名を「あふり山」という。あふりの名は、常に雲や霧を生じ、雨を降らすことからこの名が起こったといわれ、標高は、1251mで、関東平野にのぞんで突出している雄大な山容は、丹沢山塊東端の独立峰となっています。
 阿夫利神社は、古代からこのあたりに住む人達の心のよりどころとなり、国を護る山・神の山としてあがめられてきました。
 山野の幸をつかさどる水の神・山の神として、また、海上からは羅針盤をつとめる海洋の守り神、さらには、大漁の神として信仰をあつめると共に、庶民信仰の中心として、今日に及んでいます。
 山頂からは、祭りに使ったと考えられる縄文時代の土器片が多く出土していて、信仰の古さを物語っており、 仏教が伝来すると神仏習合の山となり、阿夫利神社は延喜式内社として、国幣(こくへい)の社となった。武家が政治をとるようになると、代々の将軍たちは、開運の神として武運長久を祈られました。
 引目祭・筒粥祭・雨乞い・納め太刀・節分祭・山開きなど、古い信仰と伝統に守られた神事や、神に捧げられる神楽舞・神事能・狂言などが、昔のままに伝承されており、全山が四季おりおり美しい緑や紅葉におおわれ、神の山にふさわしい風情で、山頂からの景色もすばらしく、多くの人達に親しまれ、常に参詣するひとが絶えません。


 通常参詣のための登山は、中腹700メートルにある阿夫利神社の下社まで。
豊作祈願、無病息災、商売繁盛などの祈願のため、「講元」さんとか「先導師」「先達」(せんだつ)さんなどと呼ばれるリーダーによる「大山講」という組織が関東一円にでき、白装束の行者姿で集団で参詣することが多かったらしい。古今亭志ん朝の噺によると「博打」の神様でもあり、鳶の頭など博打好きな町人なども盛んに参詣したようだ。大山までは日本橋から18里、約70km。
大山まいりは一般的には「5泊6日」のコースが多かったらしい。 当時の長旅では一日に十里(約40km)は歩いたらしいから、距離をかせぐ旅ではなく、じっくり時間をかけた参詣の旅だったわけだ。

当時の標準的な旅程を紹介しよう。
初 日:「お江戸日本橋七つだち~」ということで夏場なら午前3時頃に江戸を出発。大山街道を三軒茶屋・二子・溝ノ口と進み荏田か長津田宿で一泊。
2日目:下鶴間・海老名・厚木と歩き、伊勢原で二泊目。
3日目:目的の大山阿夫利神社に参詣した後、田村通り大山道で藤沢宿を目指し、夕方藤沢宿に着き三泊目。
4日目:江の島に入り江の島神社と岩屋を参詣した後鎌倉に向かい、鎌倉の寺と鶴岡八幡宮を参詣。その後、朝比奈切通しを抜けて金沢に向かい、六浦の景観を楽しんだ後、金沢八景の称名寺を参詣して、金沢宿で四日目の宿をとる。
5日目:最後の日は途中川崎大師を参詣して品川宿で五泊目の宿をとり、品川遊郭で精進落としをして、翌日江戸に帰ったようである。
ただし、四泊目あるいは五泊目は、落語のように神奈川宿泊まりというパターンも多かったのだろう。
*この旅程情報は「旧東海道の『今・昔』」という素晴らしいホームページ(http://www17.ocn.ne.jp/~ykhm-s/index.html)を参考にしました。

 旧暦6月27日から7月17日の間に参詣することを大山まいりと言うのが本寸法らしい。今年の旧暦6月27日は新暦で7月29日なのだが、今年は7月27日から8月17日が「夏季大祭」と神社のホームページに記されている。旧暦と同様、最初と最後を「7」につく日にして分かりやすくしているのだろう。

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歌川広重の「神奈川宿」(安藤広重、ではないのですよ・・・・・・)

噺の概要は次の通り。

(1)先達、熊に釘をさす
今年も大山詣りの時期が来たが、毎年喧嘩をして周囲に迷惑をかける熊五郎。先達さんから、もし喧嘩の原因をつくったら罰金に二分(一両の半分である)、あばれたら髷を切って坊主にすると釘をささされる。志ん朝は、この取り決めのことを「決め式」と表現している。

(2)案の定、熊が喧嘩。頭を丸められる
無事大山まいりも終わり、最後の神奈川宿。しかし案の定、熊五郎が原因となり風呂場で喧嘩発生。喧嘩相手は先達さんに苦情を言いに駆け込んできた。二分払うから熊の髷を切らせてくれ、とせがむ。しかし、先達さんはせっかく無事にお詣りも済んで後は帰るだけなので、熊を坊主にすることを渋る。さて、夕食で酒も入り先達さんが床についた後、おさまりがつかないのは熊さんに甚振られたままの面々である。気持ち良さそうに酔って寝ている熊さんを見て、酒の勢いもあるのだろう、熊の頭を丸めてしまう。

(3)熊、先に帰る
翌朝、一人宿に取り残された熊五郎。一計を案じ頭を手拭いで包み早かごで一足先に長屋に帰る。「講」のメンバーのおかみさんを全員集めて、「実は藤沢に泊まったあくる日にみんなで金沢八景を見物し、せっかくここまで来たんだから米が浜のお祖師様(横須賀の龍本寺)にお参りしようということになって、船に乗った。しかし急に雨風がきびしくなり、大波がきてその船がひっくり返った。みんな海に投げ出され、気がついたら助かったのはおれだけだった・・・・・・。」「おれだけ生き残っておめおめと帰れるものじゃねえ、死のうと思ったが、江戸で亭主の帰りを待っているおめえさんたちのことを思い、恥をしのんで帰ってきたんだ。」と言う。

(4)熊の大芝居
かみさん達は、普段「ホラ熊」とか「千三つ」と呼ばれている熊さんの言葉をを最初は信じない。そこで熊さんの一番の見せ場登場。「おまえさん達に知らせた後は、高野の山にでも登って死んだみんなの菩提をとむらうつもりで・・・ほら、この頭を見てくれ。」と手拭いをとる

(5)坊主の大量生産
おかみさん達、ふだん見栄っ張りの熊さんが髷を切って坊主になるくらいだから、この話は本当だろうと信じ、泣き叫ぶ。なかには、井戸に飛び込んで死のうとするおかみさんもいる。
ここで熊さんが「おまえさんたちも黒髪を切って尼になり、亭主の菩提をとむらっちゃどうだい」と言ったから、私も私もとかみさんたち全員が髪を切ってしまった。熊さんのおかみさんだけは無事!

(6)エンディング、サゲ
尼さんが集団でお経を唱えているところへ、品川経由で他のメンバーが帰ってくる。自分のかみさんの坊主姿に驚く亭主達、死んだはずの亭主を見て「幽霊!」と驚くおかみさん達、といった大騒動。
サゲは先達さんの言葉。「みんなお毛が(お怪我)なくておめでたい」

 この噺のお奨めは、やはり古今亭志ん朝。神奈川宿での騒動、そして後半の熊さんの大芝居からエンディングまでが山といえる。サゲは地口落ちの典型。この噺を軽快なリズムでテンポ良く聞かせる志ん朝の芸は素晴らしい。熊さんや先達さん、その他ご一行の演じ分けの見事さは言うまでもないし、おかみさん達の色っぽさがこの人ならでは。CDで聞いていて情景が浮かぶ。

 古いところでは長年に渡って落語芸術協会に君臨した春風亭柳橋(六代目)が、「昔はこう演じられていたのかぁ」という意味も含め味がある。熊さんは熊五郎ではなく熊吉。熊さんの大芝居の後にご一行が帰るくだりについては、品川で待っていても迎えが来ないので待ちきれず鼻歌まじりに帰る、と描写されている。その昔は、大山まいりでも、迎えの者が品川まで出向くのが本寸法だったのだろう。落語って本当に生きた歴史の勉強になるんだよねぇ。ほぼ江戸時代に限るけど。加えて大学受験にはまったく役に立たないけど・・・ね。

古今亭志ん朝_大山まいり
春風亭柳橋_大山まいり
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by kogotokoubei | 2008-07-25 08:56 | 落語のネタ | Trackback | Comments(0)

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by 小言幸兵衛