噺の話

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根岸のこと。

 今日は二十四節気の小満だが、先日、柳家小満んの『茶の湯』を楽しんだ。

 舞台となった根岸は、今日では、あの落語家ご一家が住む地という印象が強いが、あの地については、少し認識をあらためる必要があると思う。

 二冊の落語関連本からご紹介したい。

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 まずは、北村一夫さんの『落語地名事典』(昭和53年、角川文庫)より。
 前半には、根岸が登場する落語の抜粋が並ぶ。

根岸

 ・・・・・・いろいろ思案した結果、おいらんを身請けして根岸の里へ妾宅をかまえてかこいました・・・・・・「悋気の火の玉」
 ・・・・・・日も長々と六阿弥陀、五阿弥陀ぎりで、引っ返し、根岸へまわった罰あたり・・・・・・「芝居風呂」
 へェ、東京といえば東京でございますが、モウ片ッ隅でございまして、根岸の御院殿の傍におりました・・・・・・「猫の茶碗」
 むすこさんは、江戸っ子でございますから、風流も心得ておりました、根岸に別荘がございます・・・・・・「茶の湯」
                            (他、「お若伊之助」)
▼台東区根岸一ー五丁目のうち。
 かつては呉竹の根岸の里といわれた閑静な地で、音無川が流れ、鶯や水鶏(くいな)の名所だった。地内に時雨ヶ丘、御行の松、梅屋敷、藤寺などがあった。文人の住居や大商人の寮などの多かったところである。
▼光琳風の画家で、文人としてきこえた酒井抱一、町人儒者亀田鵬斎、『江戸繁盛記』の著者寺前靜軒をはじめ、文化・文政頃からこの地に住んだ有名人ははなはだ多い。
  山茶花や根岸はおなじ垣つづき 〔抱一〕
 明治期には饗庭篁村(あえばこうそん)、多田親愛、村上浪六、幸堂得知、正岡子規などがここに住んだ。有名人である点では、ここに豪壮な妾宅をかまえていた掏摸の大親分仕立屋銀次もひけはとらない。

 子規の句。
  妻よりも 妾の多し 門涼み

 子規が主催した根岸短歌会は、後にアララギ派に発展した。

 だから、以前は多くの方が、根岸->子規、という連想をしたはず。

 また、根岸短歌会のことや饗庭篁村らの文人のことを、根岸派と呼んだ。

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吉田章一著『東京落語散歩』(角川文庫)

 吉田章一さんの、平成9(1997)年に青蛙房から最初に発行された『東京落語散歩』からも引用したい。

 天王寺の前の芋坂を進んで鉄道を越える。通りに出た右角にある羽二重団子の店(荒川区東日暮里五ー54-3)は、文政二年(1819)に創業し、藤棚があって藤の木茶屋といわれた。餡と醤油だれの団子を供す。圓朝人情噺にも登場し、明治以後文人にも親しまれた。
 このあたりから根岸の里(台東区根岸)になる。元は今の荒川区東日暮里四・五丁目と一緒に金杉村といったが、明治二十二年に音無川以南が下谷区に編入されて、今の根岸一~五丁目になった。呉竹の里ともいい、台東区根岸二ー19~20が輪王寺宮の隠居所御隠殿の跡である。公弁法親王が京から取り寄せた訛りのない鶯数百派を放って鶯の名所となった。弘化四年(1847)から関東大震災まで、梅屋敷(根岸二ー18)周辺で鶯鳴き合わせ会が催された。文人墨客が住み、茶の湯、悋気の火の玉にあるように隠居所や妾宅が多かった。

 鶯谷の地名の由来が、紹介されているねぇ。

 輪王寺宮の名前を見ると、吉村昭の『彰義隊』を思い出す。

 『落語地名事典』と重複もあるが、もう少し引用する。住居の番地は割愛。

 そのほか根岸には次のような多くの文化人たちが住んだ。
 俳優市川白猿、伊井蓉峰、画家酒井抱一、谷文晁、北尾重政、初代及び二代目柳川重信、岡倉天心、儒学者亀田鵬斎、『江戸繁盛記』も作家寺門靜軒、寺堂得知、森田思軒、俳人河東碧梧桐、寒川鼠骨、漢学者大槻如電・国語学者大槻文彦、浜野矩随の門人の彫刻家、二代目浜野矩随。


 今日、根岸は、どうしてもあの落語家一家の住む地、という印象が強いのだが、少し歴史を紐解いてみれば、根岸の印象は変わる。

 根岸、子規をはじめ多くの文人・墨客が住んだ地だったんだよね。


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# by kogotokoubei | 2018-05-21 12:23 | 落語の舞台 | Comments(2)
 久しぶりに、この会へ。

 奇数月の開催だが、何かと野暮用と重なり、一月と三月は行けなかったので、今年初。
 会場に着いた時は、開口一番、林家彦星の『道具屋』のサゲ近く。
 なんとも、棒読みだなぁ。

 できるだけ静かに、空いている席に座った。

 客の入りは、80人位だったろうか。200席の会場なので、それほど空虚感は、ない。
 小満んのネタ出しされている三席、順に感想などを記す。

柳家小満ん『花色木綿』 (30分 *18:45~)
 結論から。絶品だった。
 ネタ出しが『出来心』だったが、『花色木綿』としたほうがよいだろう。
 寄席でも、宵のうち泥棒ネタが多く、これは「お客さんの懐に飛び込もう、ということで」というマクラそのもので、しっかり、聴く者の懐に飛び込んできた。
 「(泥棒に入る時は)裸足で入っちゃいけねえ。足の油で、ぬちゃっと音が出る」というのは、初めて聞いた。
 軽い口調なのだが、そのリズムが、この日は実に良かった。たとえば、出来の悪い泥棒の新米が「やじり切りに入りました」と言うと、師匠(?)が「土蔵破りか」と即座に答えるあたりの呼吸が、なんとも心地よい。
 しかし、「親分、それが大笑い」と新米。間違って寺に入って、墓場に抜けたという大失敗。「星を見て気が付いた」「そら、見たことか」などのクスグリも、なんとも可笑しい。「せっかくだから、卒塔婆を持って来た」「そんなもん、何にする」「カンナで削って、冬にスキーでもできるかと」なんてぇ軽妙なやりとりが続く。
 こじんまりしていて綺麗に掃除がしてあって、電話のあるような家に入るんだ、と言われた新米「そういう家に入ったんですよ、親分。それが、大笑い」なんと、そこは交番。「つかまるのに、世話がない」と言う新米が、楽しい。
 空き巣狙いに出かけた新米泥棒の失敗が続く。最後の長屋、入るとケヤキの如鱗杢の長火鉢があり、南部の鉄瓶にお湯が沸いている。鍋の中には、出来立てのおじや。
 これ幸いとおじやを食べる場面が絶妙。「あわてちゃいけねぇぃ。あわてて出世したのは、ボラばかり」などと呟きながら、丁寧に椀のおじやを箸でぬぐって食べていると、外から人の声。そこの住人、八五郎が帰ってきたのだ。裏は崖で逃げられないので、縁の下へ。
 新米泥棒、一軒前の家で慌てて逃げたので、下駄を置いてきた。その汚い足で上がったから、足跡がついている。「泥棒か!?」と驚く八五郎だが、ちょうど家賃がたまっていたので、この泥棒が貯めていた家賃を盗んだことにしよう、という悪知恵が浮かんだ。
 大家を呼んでくると、警察に盗難届を出すから、盗まれたものを言え、と言う。
 実際に盗まれたものは、干してあった褌と、おじや(食い逃げ)だけなのだが、金の茶釜や布団などを挙げる八。大家「布団の表は」「表は、にぎやか」などのトンチンカンな会話が、笑える。八五郎が、大家さんの家の布団と同じと言うと、「表が唐草、裏は花色木綿」ということになり、それからは、黒羽二重も帯も箪笥までも「裏は、花色木綿」と八五郎が
馬鹿の一つ覚えで繰り返すのだが、分かっていても、実に笑える。
 そんな会話の中にも、大家は「蚊帳は一張り」「刀は、一振り」などと数えるんだと教える場面があり、落語はいろいろタメになるのだ。
 縁の下で聞いていた泥棒が、たまらず出て来て、八五郎に向かって「嘘つきは泥棒のはじまりだ」にも笑った。泥棒が八の嘘をバラしていると今度は八が縁の下へ。その八がまた出て来て、泥棒の科白を真似て、「ほんの、出来心でございます」でサゲ。この展開も、ありだろう。
 まさに、軽妙洒脱という形容が相応しい好高座、今年のマイベスト十席候補とするのに、迷わない。

柳家小満ん『鍬潟』 (28分)
 いったん下がって、すぐ再登場。
 マクラで、昔、釋迦ヶ嶽(しゃかがたけ)雲右エ門という大男の相撲取りがいて、ご贔屓と浅草にお詣りに行ったが、人混みがひどく、ご贔屓が賽銭を入れるのを釋迦ヶ嶽に頼んだところ、腕を伸ばしてその賽銭は、屋根の上に乗った、という逸話を紹介。
 逆に、小さな人もいて、と、背丈が二尺三寸の男のお話へ。
 その男が、大きくなりたいと甚兵衛さんに相談に行くと、昔、上方に鍬潟という三尺二寸(小満ん、三尺三寸、とい言い間違え)の相撲取りがいて、あの雷電に勝った、という話を聞かせる。雷電との一番の前、鍬潟は体に油を塗りたくって、八十六度マッタをして立ち、雷電の股をくぐって逃げ回った挙句、後ろから“折り屈み”になって、雷電の膝を叩き、四つん這いにさせた、とのこと。
 小さな男、相撲取りになって稽古し、たくさん食べて寝れば大きく成れるかと思い、甚兵衛さんに頼んで、朝日山部屋に入門。なんとか、稽古をつけてもらい、その日は帰って熟睡。起きると、布団から手足が出ている。「かかぁ、ほら、相撲のおかげで大きくなった」「なに言ってんだよ、それは座布団だよ」でサゲ。
 珍しい小品と思っていたが、この高座も約30分。さて、今回は、いつもよりお開きは遅く庵るかなぁ、なとと思いながら、外の空気を吸いに行った。

柳家小満ん『茶の湯』 (40分 *~20:40)
 仲入り後は、この噺。
 マクラの、カメラマン濱谷浩さんが、ネパール・カトマンズから来日したご友人を茶の湯でもてなした時の逸話が、可笑しかった。内容は、ヒミツ。
 濃茶は苦手で、と「青蛙 おのれもペンキ ぬりたてか」の芥川龍之介の句が登場。このあたりが、小満ん落語の楽しさ。
 利休が茶の湯の作法を考えたのは、堺のキリスト教会でのミサがヒントになってのかもしれない、というのは新説かな。
 茶の湯で、老人たちが回し飲みする際、最初の方の人が、水っ洟を・・・というマクラでは、大笑い。

 あらすじは、随分前になるが、このネタについて書いているので、その内容を引用。
2009年11月5日のブログ
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(1)蔵前の大店の主人、家督を倅に譲り根岸の隠居所へ移る。
(2)供としてつれていった定吉と退屈な日々を過ごすご隠居だったが、
  せっかく茶室があるので「茶の湯」を始めることになった。
(3)しかし、ご隠居も定吉も茶の湯のことはまったく分からない。根が
  ケチな隠居、定吉が探してきた青黄粉で茶を点てようとする。しかし、
  泡が立たないので、またもや定吉が探してきた椋の皮で泡立てる始末。
  このとんでもない代物を茶だと信じて二人は毎日「風流だなぁ」と、
  必死に飲むのだった。
(4)二人はとうとうお腹をくだしてしまうが、今度は他人に飲ませよう
  と企てる。孫店(まごだな)に住む手習いの師匠、鳶頭、豆腐屋に
  茶会をするから来るように手紙を出した。店子の三人、茶の湯の流儀
  を知らないので恥をかくから引っ越そうと思ったが、手習いの師匠の
  真似をしてなんとかその場をしのごうということになり、隠居の家へ。
(5)師匠、豆腐屋、鳶頭の順でなんとかひどい茶(もどき)を飲んだもの
  の、まずくて口なおしに羊羹をほおばって退散。隠居は懲りずに近所の
  者を茶会に呼ぶのだが、噂が広まり、呼ばれた者は飲んだふりをして、
  羊羹をいくつも食べていく始末。羊羹代が馬鹿にならない勘定になって
  きた。ケチな隠居、何か安く菓子を作れないかと考え、薩摩芋を買って
  きて蒸かして皮をむき、すり鉢に入れて黒砂糖と蜜を加え、すり粉木で
  摺って椀型に詰め型から抜こうとするがべとついてうまく抜けない。
  そこで胡麻油がないので灯し油を綿にしめして塗るとうまく抜けた。
  この油まみれの物体に「利休饅頭」などと名付けて客に出すことにした。
(6)ある日、蔵前にいたころの知り合いの吉兵衛さんが訪ねてきたので、
  さっそくお茶(もどき)を点てる。吉兵衛さん、隠居がいつもより多く
  椋の皮を入れて泡だらけになった液体を目を白黒させて飲み込んで、
  今度は口直しにと「利休饅頭」をほおばったが、とても食べられる代物
  ではなく、あわてて便所へと逃げた。
(7)吉兵衛さん、饅頭を捨てようとするが掃除が行き届いた縁側には捨て
  られず、前を見ると垣根越しに向こう一面に菜畑が広がっている。あそ
  こなら捨ててもいいだろうと放った菓子が畑仕事をしている農夫の横っ
  つらに当たった。農夫の「ははは、また茶の湯か・・・・・・」でサゲ。
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 この噺は、まず、ご隠居と定吉との会話に魅力がある。
 冒頭の会話には、このご隠居と定吉が繰り広げる騒動を予感させる、二人の性格の一端がかいま見える。麻生芳伸さんの『落語百選』を元に再現。

定吉 少しはご近所の様子をとおもいまして、ひとまわりしてみましたが、
   蔵前とちがって、根岸てえところは寂しいとこですねえ
隠居 なぜ寂しいと言う。おなじ言うなら、閑静と言えば雅があっていい
定吉 ご近所に住んでる方、みんな上品な方ばっかりで・・・・・・
隠居 そりゃそうだ、なんといっても風流な土地だからなァ
定吉 お向こうの垣根のあるお庭の広い家があるでしょ?あそこでね、いい音が
   してンですよ、なんだろうって、そうっと行って覗いて見たら十七、八の
   娘さんが琴をひっかいていました
隠居 ひっかくてやつはないよ。猫じゃあるまいし・・・・・・琴は弾じる、
   あるいは調べるとでも言うもんだ

 小満んは、定吉が垣根をかぎ裂きにして覗いた、と言っていたような。
 「風流」が、この二人の会話のキーワード。
 知ったかぶりの隠居と、大胆不敵な定吉によって、何人もの犠牲者を出すことになる。
 小満んは、このご隠居、赤ん坊の頃に、母親の乳房にぶら下がりながら、片目で茶の湯を見ただけ、と言って笑わせた。
 小満んの高座、主役二人の会話の楽しさ、加えて、青黄粉と椋の皮とで茶もどきをたてる仕草などの可笑しさに加え、孫店の騒動、鳶頭の啖呵の切れの良さなども程よいアクセントとなって、まったく、飽きさせなかった。
 これまた、今年のマイベスト十席候補とすべき逸品。

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麻生芳伸編『落語百選-秋-』(ちくま文庫)

 参照した麻生芳伸さんの『落語百選』の麻生さんの解説が、なんとも楽しいので、紹介したい。
«解説»「落語」から見た<風流>の実態、<風流>に対する痛烈な反抗(レジスタンス)が込められた一篇。茶、生花(いけばな)などのとりすました、お体裁の、しかも高額な免許、伝授料をとるーいわゆる<流儀>に、日ごろ「なにをくだらねえことをやってやンでッ」と、一撃を加えたくなるのは、筆者ならずとも、庶民だれしもが心の底に抱いている感情・・・・・・衝動であろう。
 そもそも・・・・・・と、茶の湯の発祥に関して<解説>を記すほど、筆者は残念ながら知識も見聞も持ち合わせていないが、わずかな愚見を述べれば、・・・・・・豊臣秀吉が天下を取って、南蛮渡来の絢爛豪華、贅沢三昧の、いわゆる桃山文化の時代に、千利休が二畳の部屋を造り、野の木を切って、杉の皮や葉で天井を作り、そこへ秀吉を招き、朝鮮の庶民の井戸端にざらに転がっているような茶碗に、茶の湯をたてて、自然な、素朴なものに秘められた真実の<美>をたたきつけた、のだった。つまり、それは千利休が体を張った、命がけの、秀吉に対する挑戦であり、ルネッサンスだったのである。-それが<原点>であり、最初の意図だったのである。・・・・・・ところが、その<原点>が忘れられ、その後、千利休の帰依者や研究家によって理論家され、形式化され、<侘び>だの<寂び>だの、やれ<表>だの<裏>だのと、こじつけられ、体系づけられて、それぞれの<流儀>が派生し、その<流儀>を習得することが、茶道の心に通じると、いつのまにかすりかえられてしまったのではないか。

 なかなか、読んでいて、スッキリする内容。
 そうなのだ、落語は、権威的なるものに対して、笑いで反抗する芸能でもある。


 さて、お開きとなり、今回は佐平次さん欠席で、Iさんと二人のミニ居残り会。
 もつの塩煮込みが美味しいお店で、落語をはじめ、いろんなお話。

 なんとか、日付変更線を越えずに帰還。
 
 久しぶりに、小満ん落語を満喫した夜だった。

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# by kogotokoubei | 2018-05-18 18:53 | 寄席・落語会 | Comments(2)
 昨日、高畑勲のお別れの会が開かれたことを、各紙が報じている。

 最後の外出は、落語会だった、とのこと。
 スポニチから引用。
スポニチの該当記事

2018年5月15日
高畑勲氏 最後の外出は落語会だった…涙の小三治「そんな思いで来てくれたのか」
 4月5日に死去したアニメーション映画監督の故高畑勲氏のお別れの会が15日、東京・三鷹の森ジブリ美術館で営まれた。お別れの会委員長は盟友・宮崎駿監督(77)が務め、山田洋次監督(86)、岩井俊二監督(55)、宮本信子(73)、瀧本美織(26)ら関係者約1200人が参列した。

 高畑監督がファンだった落語家の柳家小三治(78)は「亡くなったとは思えなかった」と複雑な思いを告白。「若い頃から案内状を出したことがなく、高畑監督にも出したことないのに、年に何回かは奥様と2人で落語会にきてくれた」と明かし、高畑監督の最後の外出も小三治の落語会だったことを聞かされると「そんな思いで来てくれたのかと思うと…」と涙をぬぐった。

 デイリースポーツによると、この落語会は、3月13日にジブリ美術館で行われた小三治の会だったようだ。
デイリースポーツの該当記事

 Literaには、親交があった映像研究家の叶精二が、ツイッターで公開した年賀状の内容が掲載されている。
 引用したい。
Literaの該当記事

2017年の正月に高畑監督から送られてきた年賀状を公開。そこにはこのような文章が書き添えられていた。

〈皆さまがお健やかに
お暮らしなされますようお祈りします
公平で、自由で、仲良く
平穏な生活ができる国
海外の戦争に介入せず
国のどこにも原発と外国の部隊がいない
賢明強靭な外交で平和を維持する国
サウイフ国デ ワタシハ死ニタイ です〉

 残念ながら、“サウイフ国”になる前に、高畑勲は旅立った。

 私は、それほど、高畑勲という人を知らなかった。

 しかし、落語がお好きだったことを知り、この年賀状を読んで、遅ればせながら、好きになってしまった。

 いわば、年賀状の内容は、高畑勲の遺言ではないだろうか。
 
 一人の日本人として、残った言葉を、噛みしめたいと思う。

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# by kogotokoubei | 2018-05-16 21:17 | 落語好きの人々 | Comments(6)

これまでの、ネタ。

 テニス合宿の記事を書いたが、今回の余興の落語ネタ『井戸の茶碗』を含め、これまで大学の同期会、および、テニス合宿の余興で演じたネタは、メモを見ると、次のようになっている。

 あえて、おことわりするが、自慢でもなんでもない。備忘録代り。

 『道灌』・『金明竹』・『寿限無』・『牛ほめ』・『替り目』・『小言念仏』・
 『千早ふる』・『代書屋』・『高砂や』・『居酒屋』・『うどん屋』・『雑排』・
 『厩火事』・『買い物ブギ』・『看板のピン』・『天災』・『目黒のさんま』・
 『紙入れ』・『元犬』・『持参金』・『三方一両損』・『たらちね』・『そば清』・
 『親子酒』・『藪入り』・『子ほめ』・『夜の慣用句』・『あくび指南』・
 『転失気』・『二人癖(のめる)』・『子別れ(子は鎹)』・『鈴ヶ森』・
 『野ざらし』・『井戸の茶碗』
 
 こうやって並べてみると、「えっ、あれもやってたっけ!?」というネタが多い。

 忘れてるねぇ^^

 もちろん、これらのネタがいつでも出来るわけではない。
 それぞれ、その前に、それなりの稽古もして臨んでいるのである。

 帰宅する道を歩きながら、ぶつぶつやっていて、通り過ぎる人に不思議な目で見られたことも、何度かある。

 今回の『井戸の茶碗』は、昨年末の居残り会忘年会での、途中を端折った“なんちゃって落語”が、結果として練習になった^^

 そうか、居残り会の新年会では、Yさんとのリレー落語で『二番煎じ』をやらせていただいたなぁ。

 今回は、志ん朝の音源を何度も聴いた。
 途中で、権太楼の音源も聴いて、そのクスグリを頂戴した。


 あくまで、酒の席での素人の落語であり、話す方も聞く方も酔っているから、科白を忘れたり、言いよどんだり。
 とはいえ、素面では、できないなぁ。

 九月に大学の同期会がある。その後には、またテニス合宿がある。

 そうだ、同期の中には、このブログを見ている人もいるなぁ。

 ネタ替えようか、『井戸の茶碗』でいくか・・・・・・。

 やはり、同期会とテニス合宿用に、新ネタにすべきか。

 今から、結構、悩ましいのである。

 居残り会仲間からは、『二番煎じ』の次は、リレーで『子別れー通しー』を、などという無茶振りがあったが、一人では、とても出来そうにない。

 同じ相手に同じネタにはしたくない。
 とはいえ、前座噺など短いネタは、ほとんど過去にやっている。

 まぁ、今後行く落語会なども踏まえ、考えるとしよう。


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# by kogotokoubei | 2018-05-15 12:36 | 幸兵衛の独り言 | Comments(6)

2018年5月、テニス合宿(2)

 13日の日曜、テニス合宿の二日目は、朝食後にみんなで相談し、車で30分ほどの場所にある、大雄山最乗寺へ行くことにした。

 同寺のサイトから、沿革をご紹介。なお、ルビは( )でくくった。
大雄山最乗寺のサイト

はじめに
 大雄山最乗寺は、曹洞宗に属し全国に4千余りの門流をもつ寺である。
 御本尊は 釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)、脇侍仏(わきじぶつ)として文殊、普賢の両菩薩を奉安し、日夜国土安穏(こくどあんのん)万民富楽を祈ると共に、真人打出の修行専門道場である。
 開創以来6百年の歴史をもつ関東の霊場として知られ、境内山林130町歩、老杉茂り霊気は満山に漲り、堂塔は30余棟に及ぶ。


 130町歩、ってぇのは、まったくイメージできないのだが、周囲の山林(主に杉林)の広さ、そして境内の広さには、驚いた。

 私のガラケーでは、全体図を撮りきれない^^
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 境内の石段を登る、メンバーたち。
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 サイトから、開創の由来をご紹介。
開創の由来
 開山了庵慧明禅師(りょうあんえみょうぜんじ)は、相模国大住郡糟谷(さがみのくにおおすみごおりかすや)の庄(現在伊勢原市)に生まれ、藤原姓である。
 長じて地頭の職に在ったが、戦国乱世の虚しさを感じ、鎌倉 不聞禅師(ふもんぜんじ)に就いて出家、能登總持寺(そうじじ)の峨山禅師(がさんぜんじ)に参じ更に丹波(兵庫県三田市)永沢寺通幻禅師(ようたくじつうげんぜんじ)の大法を相続した。
 その後永沢寺、 近江總寧寺(おおみそうねいじ)、越前龍泉寺(えちぜんりゅうせんじ)、能登妙高庵寺(のとみょうこうあんじ)、通幻禅師の後席すべてをうけて住持し、大本山總持寺に輪住する。
 50才半ばにして相模国に帰り、曽我の里に 竺圡庵(ちくどあん)を結んだ。そのある日、1羽の大鷲が禅師の袈裟をつかんで足柄の山中に飛び大松(袈裟掛けの松)の枝に掛ける奇瑞を現じた。その啓示によってこの山中に大寺を建立、大雄山最乗寺と号した。應永元年(1394年)3月10日のことである。

 ということで、開創から六百年を超えるお寺なのであった。


 曹洞宗、と言えば、道元。
 途中で、売店の方にお聞きすると、曹洞宗にも二系統あり、道元の開いた永平寺系と、總持寺系とがあって、大雄山最乗寺は總持寺系とのこと。
 なるほど、了庵慧明禅師は永平寺ではなく、能登総持寺に行っている。

 ちなみに、現在は大本山総持寺は、能登から横浜の鶴見に移っている。
 
 境内の多宝塔に立ち寄る。
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 拝む、仲間のお一人の後ろ姿。
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 サイトから、引用。
文久3年(1863年)建立。多宝如来を奉安、方形層上円形木造二重の塔。南足柄市の重要文化財に指定されている。

 途中で、とんでもなく大きな下駄に遭遇。
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 サイトから、ご紹介。
御真殿脇に奉納された大小の高下駄。天狗さんの履き物は、高下駄だが、下駄は左右一対そろって役割をなすところから、夫婦和合の信仰がうまれ、奉納者が後を絶たない。

 なぜ、天狗なのか。
 了庵慧明が最乗寺を開山した際に、了庵の弟子の道了が、寺を守るために天狗に変身したという伝説があるからなのだ。
 写真は撮らなかったが、境内の各門には天狗の像がたくさんあった。

 さらに登って行く先に、奥の院がある。
 この地図の左上。
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 サイトから、引用。
鬱蒼とした老杉に囲れた350段余りの階段を登ると、御本地十一面観世音菩薩(当山守護道了大薩の御本地)が奉安されている奥の院につく。大雄山のもっとも高い所に位置するが沢山の参詣者がこの階段を登られてお参りに来る。

 前日のテニスで、全員が6ゲーム先取の試合を三試合しているので、結構、足腰の疲れが残っている。

 「さぁ、三百五十段、どうします?」
 という声に、「ここまで来たら、登りましょう!」と、いうことになった。

 しかし、この階段を見上げると、一瞬、気持ちが萎えてきたのは事実^^

 これ位の石段が、もう一度続く。
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 その後に、この石段・・・・・・。

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 途中、休み休み、たどり着いた、奥の院。

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 十一面観世音菩薩を拝み、すぐ脇にある売店で、お守りを買った。
 帰りは、石段ではなく、坂道を下る。

 途中の杉林の風景が、なんとも良いのだ。
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 同寺のサイトにある言葉、“老杉茂り霊気は満山に漲り”という表現そのままだった。

 奥の院をはじめ、大雄山は「パワースポット」として有名らしい。

 テニス仲間一同、大いにパワーをいただき、また、「四季の里」へ向かったのであった。

 奥の院までの三百五十の石段を含め、一同、たっぷりお腹をすかして、また、「いこいの村あしがら」の近くの「四季の里」に戻った。

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 私のガラケーの写真では、全体が分からないので、「大井町農業体験施設・四季の里」のサイトから、写真を拝借。

「大井町農業体験施設・四季の里」のサイト

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 なぜ、戻ったのか・・・・・・。

 実は、現在この地域を含む丹沢一帯では「丹沢アートフェスティヴァル」という催しが開かれている。
「丹沢アートフェスティヴァル」のサイト

 その一環として、「四季の里」でアートギャラリーを開いていた「相和もりあげ協議会」の方から、貴重な情報を、お聞きしていたのであった。

 「四季の里」がピザづくり体験で使っている釜を使いナンを焼いて、小田原のインド料理店が、12日と13日だけ、「四季の里」に出張して、本場のインドカレーを食べさせてくれるのであった。

 そのお店は、バルティヤ・ザイカ 。ヒンズー語で「インドの味」という意味らしい。

 ナンを釜で焼く様子などを見ていたが、早く食べたいのと、足腰が張っていたこともあり、写真はまったく撮る余裕がなかった^^

 メンバーは、チキン派とポーク派に分かれ、程よく甘い絶品のナンに驚き、ルーもチキンも美味い辛すぎないカレーをいただいたのであった。

 大雄山から戻ってきて、大正解!

 朝、インドカレーのことを教えていただいたのは、アートギャラリーを開いていらっしゃった國島和子さん。
 いただいた名刺には、「神奈川県大井町 相和もりあげ協議会」と書かれている。

 名刺の裏には「Siihoki Retreat」のサイトが案内されていて、次の文章があった。

都会からは姿を消した「かみさま」が、まだ生きている丘の上で日帰り農作業とリトリート体験

 その「Siinoki Retreat」サイトからも引用。
Shiinoki Retreatのサイト

シイノキリトリートでは、学校や企業の研修など、団体での農村体験企画も受け入れています。富士山を望む、ゆったりとした里山風景のなかで、農作物の収穫、そば打ち、桜の花摘み、竹風鈴づくり、民泊など、農村ならではの作業を楽しむ。その体験を通して、農村に受け継がれてきた知恵や技術を学び、自然と人とのつながりに思いを馳せる。そんなプログラムを企画・提案いたしますので、まずはご相談ください。


 「相和地域」についても、同サイトからご紹介したい。
神奈川県大井町の東側半分を占める台地の上のことを、相和地域と呼びます。この台地は 水田の多い「山田」、古代の道の合流点にあり渋沢から大山へ抜ける道のある「篠窪」、小高い丘の上にシイノキのある「赤田」、稲荷社を中心とした集落「柳」、大井町で最も標高の高い「高尾」という特徴的な五つの地区となっており、シイノキネットワークに見守られてきた丘です。

 今回の合宿、初日はテニスと宴会を楽しみ、二日目には大雄山のみならず、自然を大事にする活動を地道に続ける人たちからも、パワーをもらったように思う。

 次回も、ぜひ、丹沢の自然に戻って来たいと思いながら、帰路についたのであった。

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# by kogotokoubei | 2018-05-14 12:54 | 小さな旅ー2018年5月、テニス合宿。 | Comments(0)

2018年5月、テニス合宿(1)

 昨日と今日は、テニス仲間との旅行。
 
 三年前から、テニスコートのある「いこいの村あしがら」で春と冬の二回が、恒例となっている。
「いこいの村あしがら」のサイト

 「いこいの村あしがら」に行く前に、その近く、東名大井松田インターを降りてすぐの場所にある、浜松餃子が美味い、五味八珍の大井松田店で昼食。
 写真を撮り忘れたので、五味八珍のサイトから借用。
「五味八珍」のサイト
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 安くて美味い餃子、この店は一押しである。

 神奈川県に一店舗、開店から30年を超えた大井松田店。

 82歳の社長さんが、自ら駐車場の交通整理をしていて、この社長さんが、なんとも気さくで、お話が楽しい。
「五味八珍」サイトの大井松田店のページ


 腹ごしらえができて、「いこいの村あしがら」へ。

 まだ、チェックインには早いので、直接テニスコートへ行き、練習、そして、試合。
 今回は都合の悪い方が数名いらして8名の参加だったので、ダブルス4組の6ゲーム先取総当たり戦。
 結果は・・・内緒としよう。

 テニスの後は、温泉につかってから、夕食。
 これが結構、豪華なのであった。
 その後は、恒例のカラオケ。
 そして、部屋に戻って、ワインやウィスキーとチーズやナッツなどをつまみに、その日の試合のことなど、話に花が咲く。
 途中で、メンバーから、「師匠、そろそろ」とのお声^^
 恒例の私の落語。
 今回は『井戸の茶碗』にした。
 前座噺を含め、短いネタを二席、ということが多かったのだが、ほぼ短いネタが尽きた。
 昨年末、居残り会忘年会で、つい図に乗って、途中を短縮した“なんちゃって落語”でこの噺をやったところ、結構、評判が良かったので、今度は、短縮せず、ご披露。
 元は、志ん朝版だが、権太郎のクスグリも混ぜてみた。
 まぁまぁの評価。
 
 その後も、話は続き、さて、何時頃に寝たのかは、酔いもあって、よく覚えていない^^

 さて、カラス、かぁーで今日の朝。
 朝食の後、部屋に集合し、観光場所を相談。
 そして、近くの「森の駅」「四季の里」で近くの農家の方のつくった野菜などを買い物。

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 その後、向かった先や、また、「四季の里」に昼食のため戻ったことなどは、次の記事でご紹介したい。
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# by kogotokoubei | 2018-05-13 17:24 | 小さな旅ー2018年5月、テニス合宿。 | Comments(4)
 柳家喬太郎が、ラサール石井の演出による、こまつ座の「たいこどんどん」に出演していることを知り、少し喬太郎のことを検索していたら、少し古いが、文蔵、白鳥、喬太郎の対談記事を、朝日新聞のサイト、asahi.comで発見した。

 テーマは、池袋。
 
 なかなか楽しい内容なので、紹介したい。
Asahi.comの該当記事

「無理して来なくてもいい」 人気落語家3人が“嫌われがちな池袋”を大いに語る
2017年10月13日

 「池袋が苦手」だという話をよく耳にする。統計があるわけではないし、イメージと言ってしまえばそれまで。だがしかし、新宿とはまた違った“怖さ”があり、何となく避けるという話を聞くことはないだろうか。池袋で修行し、いまもってその周辺に住まう橘家文蔵さん、三遊亭白鳥さん、柳家喬太郎さんはその曖昧なイメージについてどう考えるのか。池袋演芸場近くの居酒屋で、修行時代の思い出から知られざる池袋グルメまで、愛する池袋の魅力をたっぷり語っていただいた。

苦手なやつは来なきゃいいんだよ。

三遊亭白鳥(以下、白鳥):俺は大学3年から15年くらい池袋の赤線地帯だったアパートに住んでたんですけど、当時は危険な雰囲気でしたよ。池袋の駅からちょっと離れれば落ち着いてるけど、街なかは上品とは言えないよね。

文蔵:子どもの頃からこの辺ウロウロしてたけど、やっぱり北口のほうは怖そうな人がたくさんいたね。

喬太郎:俺も学生時代に寄席とかで来てましたけど、新宿って幅の広い怖さなんだけど、池袋は奥が深い怖さっていう感じがしましたね。でも、意外と住みやすい。要はイメージでしょう、池袋が嫌いって。

文蔵:おれはいまのところに住んで7、8年だから、芸人になってからの池袋歴はふたりよりも浅い。でも、池袋に来ると開放的になるもんね(笑)。

白鳥:ほっとする。外で飲むと疲れちゃうんですよ。

文蔵:そう。この人ね、浅草とかで飲むと「早く帰ろうよ」になっちゃうんだよ。

喬太郎:でも飲むのはさ、駅の向こう側(東・南池袋)じゃなくて、こっち側(北・西池袋)ですよね。

白鳥:そうそう。

文蔵:カウンターしかない焼きとん屋とかね。

 三人の“池袋愛”に満ちた会話は、この後も続く。

 私は、池袋ではあまり飲んだことはないのだが、池袋演芸場には何度も行っている。

 今年も、二度出かけた。

 新宿末広亭には、都合と内容との巡り合わせの悪さもあり、今年はまだ行っていない。
 
 池袋演芸場のあの空間が、なんとも言えず、好きだ。

 三人の対談には、イニシャルで美味い店のことも登場するので、そのうち探索したいと思っている。

 この対談では、こんなことも話している。

白鳥:多文化が入り乱れた場末のアパート。もうなくなりましたよ。みんなつぶしてマンションになってる。立地的には、駅まで3分くらいで行けちゃいますからね。

文蔵:そうだよね。すごいいいところに住んでたんだよね。

白鳥:それで家賃8000円ってどういうこと。まあ、そういう歴史もあり。でも今、(若手に話を)聞くとみんな風呂付の家とかね。

文蔵:うちの弟子なんかも「風呂がなきゃいやです」とか言って、家賃貯めながら住んでるよ。

白鳥:サラリーマンみたいになってきちゃってるもんね。

文蔵: 俺たちのころは、自由だったかもしれないなぁ。

喬太郎:このひと(白鳥師匠)が立前座(前座のなかで一番上)でさ、俺と扇辰っつぁんとで一緒に楽屋に入ったんですよ。なんかつまらなそうにしててさ。「お前たちはつまらない人間だ!」って言われて。「なんでそんなこと言われる必要があるんだよ、にいがた兄貴(白鳥師匠の前座名)」と、思ったけどね(笑) 。

白鳥:あの頃はね、とんがってましたよね。

文蔵:とんがってたっていうか、あんたもゆがんでたんだよ(笑)。

白鳥:いや、昔は本当に殴る蹴るが当たり前でしたからね。(三遊亭)歌武蔵兄貴が、あの巨体で「バカヤロー」って言って、(三遊亭)金時兄貴とか花緑兄貴をばちで殴ったりとかして。

文蔵:みんなね、戦ってたんですよ。それなりにね。

白鳥:芸人になろうなんてやつは、まともな人間じゃないんだから。それが今、サラリーマンみたいになっちゃってるから面白くない。


 入門順では、文蔵が昭和61(1986)年、翌昭和62(1987)年に白鳥、喬太郎は平成元(1989)年。
 二ツ目昇進は、白鳥が平成2(1990)年3月、文蔵が同年9月、喬太郎は平成5(1993)年の5月。
 喬太郎は、平成12(2000)年3月に真打に昇進し、二人を抜く。
 文蔵と白鳥は、翌平成13年に昇進。

 前座修業も同じ時期、二ツ目時代も長期間重なっている。

 年齢も、文蔵が昭和37(1962)年生まれで56歳、白鳥と喬太郎は同じ昭和38(1963)年生まれで、今年55歳と近い。

 三人について、まだ若手と思っていたが、いまや、東京の落語界を背負って立つ中堅と言うべきなのだろう。

 しかし、彼らの戦いは、まだ終わっていないはずだ。

 相手は、師匠も含む上の世代であり、同世代でもあり、台頭する若手、か。


 それにしても、時の経つのは、早い。

 拙ブログも、来月で満十年になる。
 
 志ん朝のマクラを借りるならば、「光陰は、あぁ~、矢のごとしだなぁ~」・・・なのだ。

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# by kogotokoubei | 2018-05-09 21:16 | メディアでの落語 | Comments(8)

 先日の横浜にぎわい座で、三遊亭円馬の『蒟蒻問答』を聴いた。
 
 この噺は、瀧川鯉昇をはじめ、何度も聴いている。

 永平寺の雲水、沙弥托善と蒟蒻屋の六兵衛との問答があの噺の中核。

 托善の問いに答えない六兵衛を見て、托善は「無言の行」と思い、手を使って問う。
 沙弥托善が出した問いと、彼が六兵衛の答えを勘違いした内容は、仏教用語なのだが、いったいどんな意味なのか。

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関山和夫著『落語風俗帳』(白水Uブックス)

 関山和夫著『落語風俗帳』から、引用。

 まず、噺のその問答と托善の誤解、六兵衛の言い分の部分を引用。

 托善は、両手の人さし指と親指で丸い形を作って示す。六兵衛が両手で大きな輪を作ると托善は平伏する。ついで托善が十本の指を出すと六兵衛は五本の指を出す。托善は、また平伏し、指を三本出すと六兵衛は右の人差し指を目の下に当てる。托善は、あわてて逃げ出す。八五郎が追いかけて聞くと、
「大和尚のご胸中はとおたずねいたしましたるところ、大海のごとしとのお答え。二度目に十方世界はときけば、五戒で保つ。三尊の弥陀は、と聞けば、目の下にありとのお答え、とうてい及ぶところではございません」
 一方、六兵衛は怒って、
「なぜ坊主を逃がした。あいつは、おれの商売を知ってやがって、手前(てめい)んとこのこんにゃくは、これっばかりだって小さな丸をこしらえたから、こんなに大きいぞと両手で輪をこしらえたところ、十でいくらだって値をきいた。少し高いが五百文だといったら、しみったれな坊主よ、三百文にまけろてえから、赤んべえをしたやったんだ」

 よく出来た噺だなぁ、と思うが、では「十方世界」とか「五戒」、「三尊の弥陀」って何だ、という疑問が浮かぶ。

 あらためて、引用。

 仕草で落とす(サゲる)技巧は落語として申しぶんのない卓抜なものである。禅問答を熟知していることや「無言の行」「十方世界(インド仏教以来、方角を東・西・南・北の四方に東南・西南・西北・東北を加えた八方、さらに上・下を加えた十方を説く。十方世界、十方諸仏などは十方で全体を代表させる表現である」「五戒(在家信者のために制せられた戒。不殺生(ふせっしょう)戒・不偸盗(ふちゅうとう)戒・不邪淫(ふじゃいん)戒・不妄語(ふもうご)戒・不飲酒(ふおんじゅ)戒)で保つ」「三尊の弥陀(中尊は阿弥陀仏、左右の脇侍は観世音菩薩と勢至菩薩)」「目の下にあり」という専門用語の扱い方に仏教落語の真価を見ることができる。

 最後の「目の下」は、仏教は自分の足元にある、という意味のようだ。

 『野ざらし』とともに、托善正蔵と言われた二代目林屋正蔵による傑作も、こういう内容を知っていると、もっと高座を楽しめるように思う。

 
 落語って、ためになるんだよねぇ。

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# by kogotokoubei | 2018-05-08 12:27 | 落語のネタ | Comments(0)
 前の記事、文春オンラインから、喬太郎が真打昇進した後、これからは小さんや志ん朝とライバルであると思い、楽屋で震えた、という話を紹介した。

 現役を引退したコーチや監督に指導を受けるスポーツの世界の師弟関係と、まだ現役の芸人さんが師匠として弟子を育てる関係は、たしかに、違ったものなのだろう。

 師匠は一所懸命に自分のライバルを育てている、とも言える。

 落語とスポーツの世界の師弟関係の相違点が、もう一つ。

 落語家の弟子は、自分で師匠を選んでいる、ということ。

 師匠と弟子はライバル、ということで、以前にそんなことを紹介した記事を書いたような気がして、少し遡ってみた。
 ずいぶん前の記事が見つかった。

 その師匠は、五代目春風亭柳昇。そして、弟子は昇太。
 柳昇の命日に書いたものだ。
2010年6月16日のブログ

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浜美雪著『師匠噺』

 その際に引用した本は、浜美雪著『師匠噺』。
 Amazonには、レビューを書いていた。(ドートマンダー名義)

 古い記事と重複するが、柳昇と昇太の師弟について、あらためて同書から引用したい。

 落語に対するファイティング・スピリッツでもこの師弟は似ている。
 昇太の高座からは「やってやろうじゃないの」の光線がビシビシ飛んでくる。独演会であろうがホールの落語会であろうが地方のいわゆる営業といわれる落語会でえあろうが、学校寄席であろうが、もちろん寄席であろうが、高座には俺さまが一番ウケてやるという気迫がみなぎっている。その気迫が必ずや爆笑に巻き込む。
 柳昇もまた、闘う落語家だった。
 八十三歳で亡くなるまで、柳昇は闘う姿勢を失わなかった。
「あの風貌であの口ぶりなんで、そうは見えないかもしれませんけど、うちの師匠は実はすごいファイターだったんです。だって輸送船の甲板から機関銃で米軍機を撃ち落そうとした人ですからね(笑)。
 だから、『戦争には勝たなきゃダメだね。それには敵のことをよく研究して、敵がもってない武器で戦わないといけないね。それは落語も同じだね』ってよく言ってました」
 戦争で手を負傷して、戦前の職場へ復帰がかなわなかった柳昇にとって、落語は食べるための命綱、背水の陣で臨んだ世界だった。

 柳昇の戦争体験は、自著の『与太郎戦記』に描かれ、映画にもなった。

 昭和19年にアメリカ戦艦の攻撃を受けて乗っていた船が沈没しながらも生き延び、玉音放送は入院中の北京の病院で聞いている。

 そういう体験が、柳昇のファイティング・スピリッツの背景にある。

 昇太は、こんな逸話も紹介している。
「弟子にだって、負けたくないって思う師匠でしたからね(笑)。亡くなる直前まで寄席に出ていたんですけど、最後まで誰にも絶対負けないっていうオーラが高座から出てました」
 当の柳昇自身、こんなことを語ってくれたことがある。
「人生喧嘩ですよ。
 泥棒でも戦争でも早くやったほうが勝ちだね。負けちゃだめ。
 人間、泥棒根性がなかったら偉くならないですよ」
 新作への思い入れも昇太以上だったかもしれない。昇太の時以上に新作は異端視され、古典に負けたくないという思いが常に心のなかに熱くたぎっていたに違いないからだ。
 柳昇が八十近くなった頃、昇太が柳昇の古典落語の会を企画し、意向を確かめたことがあった。
 だが、師匠の返事はノーだった。
「ありがとう。
 でも、やらない。
 そんな会をやると、もう柳昇は新作が書けなくなったと思われるからね」
 
 あらためて、なかなか良い話だと思う。

 晩年のテレビで見た、あの飄々とした優しい表情からは、壮絶な戦争体験をしたことなどは、とても察することができない。

 柳昇は、「新作の芸協」の大きな柱だった。

 その伝統は、ファイティング・スピリッツとともに弟子に伝承された、と思いたいが、あの人気番組の司会者になった弟子に、今、どれほどのファイティング・スピリッツがあるのかは、正直、疑問もある。

 
 ともかく、落語家の師匠と弟子。
 弟子は、ある時から、師匠をライバルとも思い、精進する。
 師匠もまた、成長する弟子をライバルとみなして、負けないように切磋琢磨する。

 他の伝統芸能にも、そういった関係性があるのかもしれない。

 なかなかに、深~い関係だと思う。


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# by kogotokoubei | 2018-05-07 21:10 | 師匠と弟子 | Comments(4)
 文春オンラインに、なかなか興味深い記事が載っていた。

 柳家喬太郎と、落語好きの俳優、東出昌大の対談。

 後編から、引用。
文春オンラインの該当記事

「文春オンライン」編集部
2018/05/02
東出昌大が柳家喬太郎に聞く「真打になるということ」 落語“大好き”対談【後編】
異色の落語対談、まだまだたっぷりと

俳優・東出昌大さんと、落語家・柳家喬太郎師匠による異色の落語対談。後編は、二人の落語ブーム観から、「真打こわい」の話、そして役者と噺家の大きな違いまで。まだまだ話は尽きません!

今や、落語が好きって「カミングアウト」できるようになった

東出 落語ブームって言われていますけど、落語そのものと人々との関係って歴史的に見ると面白いなって思うんです。いろんなところに寄席があって、みんな夏になると何夜連続で怪談噺を聴いて涼をとるみたいな、生活に落語が根差していた時代。文楽、志ん生、金馬が人気を博したラジオ寄席ブームの時代。爆笑落語ブームもあったし、今みたいにドラマや漫画で、より多くの世代に支持される時代もある。

喬太郎 そう考えると隔世の感がするんですよ、今のブームって。今年僕は55になるんですが、大学の落研に入ったときには先輩にビックリされましてね。当時の落研なんてかっこ悪いものの象徴でしたから。戦後一番チャラチャラしていた80年代に、落語好きなんて自殺行為(笑)。「女の子にモテたくないのか」ってことです。つまり、ダサかったわけですよね。「落語ってじじいがそば食ったりするやつだろ」みたいなイメージ。ところが、今なんて「あ、俺、けっこう落語聴くけど」みたいなカミングアウト、普通にできちゃうでしょ。

東出 カミングアウト(笑)。今だと、深夜ラジオのファンってことも普通にカミングアウトできるようになりましたよね。

喬太郎 アハハハ、そうですよね。でも、そうやって落語が「ダサい」「かっこ悪い」ものではなくなったのは、ある段階で従来の落語というものがいっぺんなくなったからだと思っているんです。

東出 落語がなくなった?

喬太郎 ええ、従来の落語に対する固定観念が、おそらくチャラチャラした時代が終わったどこかの段階でプツッと消えてなくなったんじゃないかと。

東出 いったんそこで途切れているんですね。

 この後、落語を素材にしたテレビドラマが人気になるなどの結果、落語が身近なものとなったことなどが語られ、真打に関して、少し意外な喬太郎の発言があった。

東出 小痴楽さんは「尊敬する噺家挙げてみろ」と米助師匠に言われて、喬太郎師匠だったり一之輔師匠だったり、白鳥師匠だったり、いろいろ噺家さんを挙げたんですって。すると「お前、真打になったら、その人たちと横並び一線で戦うことになるんだぞ。それだけの芸はあるのか」って言われたと。二ツ目ブームに、あぐらをかいてはいないけど、真打になるのが怖い、それがいまの悩みだっておっしゃってました。

喬太郎 僕自身も、真打昇進披露が終わったとき、怖いって思いました。披露目のときはお客さんも新真打として見てくれるけど、以降は一演者でしかない。小さんも志ん朝も、同じ真打として横並びになるわけです。そう楽屋で気づいたときに震えが止まらなくなっちゃって。怖くて怖くて。

 一之輔が尊敬する噺家として名を挙げたのが、みな落語協会というのが、彼らしい。

 喬太郎でさえ、真打になって、小さんも志ん朝もライバルだと楽屋で気づいて、震えが止まらなくなった・・・とはねぇ。

 順風満帆で、怖いもの知らずだったのではないか、と思っていただけに意外だ。

 たしかに、仕事を取りあうという意味においては、一人一人の芸人の戦いという面も、あの世界にはある。

 そして、その競争における切磋琢磨の結果、我々客の側が楽しめる噺家さんが生まれる、ということも確かだろう。

 志ん朝が高座に上がる直前、手に人と書いて呑んでいた逸話を、思い出した。

 
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# by kogotokoubei | 2018-05-05 09:23 | メディアでの落語 | Comments(6)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛