噺の話

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 歌丸さんの後継は、あの番組と同様に昇太となったようだ。

 メディアにニュースが出て以来、拙ブログで過去に落語芸術協会(芸協)のことを書いた記事へのアクセスが急増している。

 2012年に、新宿末広亭の席亭から、芸協の寄席の入りが悪く、他流派からの人気者の出演を含むテコ入れを要請されたことなども紹介していた。
2012年1月27日のブログ

 当時は、落語協会のホームページに比べ、芸協のサイトは、当日の寄席の代演情報がないなど、広報活動にも差があった。

 しかし、あの危機的な状況から、歌丸会長の陣頭指揮もあったのだろう、寄席そのものの活気も出てきたし、サイトも改訂され、落語協会のサイトが改悪されたことと好対照で、芸協のホームページやメールマガジンは実に充実している。

 また、小痴楽や松之丞など若手の人気、実力を備えた人たちの抜擢真打昇進というニュースもあり、協会の勢いという点では、芸協が勝っているように思う。

 昇太は、いいタイミングで会長になるように思う。

 ただし、問題はある。

 ベテラン、中堅の噺家の顔ぶれは、どうしても、落語協会からは見劣りがする。

 一つの目安を示したい。

 文化庁の芸術選奨である。
 昭和42年以降、文部科学大臣賞を受賞した噺家は、次の通り。

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 芸協からは、桂小南、桂文治、そして平成16年の歌丸前会長以降、受賞者は出ていない。

 やや、上方に偏重しているような気がする。

 そうそう、先日の居残り会では、昨年度の受賞者について、「なぜ一朝ではなく、鶴瓶なんだ!?」という話題もあった。

 東京落語界からの受賞者は、落語協会の実力者が続いている。

 私などは、小満んがなぜ受賞していないのか不思議でならない。

 芸術祭と違って、自主的に参加することを表明する賞ではない。

 よって、多分に審査委員の恣意的な面は影響するだろう。

 しかし、落語協会からの受賞者の顔ぶれには、不思議はない。

 昇太自身もそうだし、他のベテランも含め、結果として芸協から受賞者を出すこと、中堅クラスでも落語協会と競えるようになることが、今後十年ほどの課題ではなかろうか。

 客の入りが悪いからと漫談で逃げたりする噺家が減ることにも、新会長は目を配るべきだろう。

 歌丸前会長が寄席も自分の独演会も大事にしていたことを、人気者の新会長は忘れてはならない。

# by kogotokoubei | 2019-03-22 12:54 | 落語芸術協会 | Comments(4)
 「横浜 柳家小満んの会」は、『らくだ』で有終の美を飾った。

 元は上方の『駱駝の葬礼(そうれん)』で、四代目桂文吾が完成させた噺とのこと。

 この噺については、ずいぶん前に、志ん生を中心にした記事を書いた。
2012年6月27日のブログ

 あの記事は、大手町落語会で権太楼の見事な高座を聴いたこと、また、真打に昇進したばかりの一之輔が三田落語会でこのネタをかけた後、彼のブログで悩んでいる様子を目にしたことから書いたものだった。

 記事の中で、松鶴に代表される上方版のことや、八代目可楽の割愛の芸の魅力などにもふれたが、平岡正明の『志ん生的、文楽的』の次の文章なども紹介し、あえて東京版の、中でも志ん生のこの噺の良さを強調した。

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平岡正明著『志ん生的、文楽的』(講談社文庫)

 文吾に対して三代目小さんと志ん生は、したがって剣術の小さんも可楽も、久蔵が泣き上戸であるという演出を採らない。小心で善良な屑屋の久蔵が、三碗の酒でトラになり、生傷男を圧倒するのだ。三碗にして岡を過ぎず。水滸伝の武松が景陽岡で、三碗呑んだら岡を越えられないという強いききめの「透瓶香」という酒(同じ銘柄の白酒が現在の景陽岡にある)をぐびぐび飲んで、ますます気宇壮大になって、虎が出るから夜間の山越え禁止という役所の高札を無視して岡を越え、あんのじょう人喰虎に出くわしたが、これを素手で殴り殺したとき、虎の魔性が武松にのりうつったことを感じる。同様に三杯の酒でらくだが久蔵にのりうつったのだ。三代目小さんが「らくだの葬礼」を東京に移植するにあたって、久蔵が三杯の酒でがらっと性格が変って関係が一気に逆転したほうがよく、屑屋の内心の変化を追う上方の演出はぬるいと感じただろうことを志ん生も感じているようだ。

 先日の小満んも、この三杯目からの激変を、見事に演じていたなぁ。

 その会の記事に、屑屋とらくだの兄貴分の主客逆転の後、らくだを弔うために坊主にする場面の演出について、コメントをいただいた。
 志ん生が、髪の毛を毟り取るようなことを、小満んはしなかったと記事で書いたのだが、志ん生がそんな演出をしていたことをご存知なかった、というコメントだった。

 少し、自分の記憶への疑問へのあり、あらためて志ん生の音源を聴き直したり、本を再読した。

 聴き直した音源は、こちら。
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Amazon「五代目古今亭志ん生 らくだ 二階ぞめき」
 日本伝統文化振興財団(日本ビクター)から発売された、倒れた後の音源だが、私はこの高座のなんとも言えない味わい、好きだ。
 しっかり(?)、らくだの髪の毛を毟っている。

 ちなみに、Amazonには、こんなレビューも書いていた。
『らくだ』はサゲまで通しの長講。昭和40年の収録だから倒れてから4年後。
『二階ぞめき』は昭和39年の収録で、こちらも病後である。
志ん生の数あるCDを選ぶ際に昭和36年以前の作品を選ぶことは落語ファンの常識かもしれない。
しかし、昭和38年の東横落語会での『疝気の虫』のように、復帰後の何とも言えない味わいを好む人もいる。もちろん残された膨大な作品の中には、最盛期ですら必ずしも傑作ばかりとはいえないので、病後の作品を選ぶのは一層リスクが大きいのだが、この二作品は“当たり”だと思う。
元気な頃の同じ演題と聞き比べるのも一興だろう。

 私の持っている病気前の音源も良いのだが、短縮版なので、らくだを坊主にする場面は、ない。

 活字でも確認したが、その本は『志ん生 長屋ばなし』(立風書房)。

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 この本は、その後、同じ立風書房の「志ん生文庫」版にもなり、ちくま文庫でも再刊されている。

 志ん生は、音源によっての違いもあるのだが、この本で小島貞二さんがラジオの音源を書き取った内容においては、屑屋久蔵の科白と行動、次のようになっている。

「な、こんなやつァ、どうせ、おめえ・・・・・・極楽に行ける野郎じゃないけどもよォ、な、ウン・・・・・・。おう、だからよォ、おめえ、そこいら少ぅし片づけろよ、おれ、坊主にしてやるから・・・・・・。え?なァに大丈夫だよ、こんなもの坊主にするくれえ・・・・・・エ、朝めし前よ、ウン・・・・・・。この野郎、ずいぶん毛がのびてやがる、えェ、こンちくしょうァ・・・・・・。
 おれがやるから、いいってことよ。・・・・・・どうでえ、うめえもんだろう。ウ、ウン、アハハハ。
 ガ、ガーッ、プッ、プーッ・・・・・・。(と、髪の毛を指に巻きつけてむしりとる。酒を口に含んで、プーッと霧にして、その頭に吹きつけ、またむしる。指先にからまった髪の毛を突ン出して)
 おう、これ・・・・・・やろう・・・・・・!」

 この本(初版の単行本)の冒頭に、志ん生自身の話(小島貞二さん聞き書き)で、こう記されている。ちなみにこの文章は、『志ん生芸談』(河出文庫)にも収録されている。

『らくだ』てえはなしの中で、はじめは気の弱い屑屋が、酒が入ると、だんだん気が強くなって、酒乱の本領をあらわし、らくだの兄貴分てえすごい野郎を、あべこべにおどかすでしょう。酒のみてえなァ、ああいうもんで、酔った勢いで、自分の立場なんざァ、忘れてしまって、天下ァ取ったような気になる。「べらぼうめ、矢でも鉄砲でも、持って来やがれッ」てえ、アレですよ。
 屑屋がらくだの頭の毛を、むしり取るでしょう。アレで特殊部落の人間だてえことがわかって、らくだの兄貴分がびっくりする。『らくだ』てえはなしは、なくなった可楽も売りものにしていたが、あの人もあたしの『らくだ』なんですよ。ただ、あの人ァ、頭の毛を剃刀でそぐようにした。その辺のところが研究なんですナ。

 志ん生は可楽が剃刀にしたことを“研究”と評したが、たしかに、あの場面、髪の毛を毟り取るという演出にすると、どぎつくなる。

 しかし、髪の毛毟りの場面があることにより、上方と東京とで、それぞれに兄貴分に与える効果があるということも考える必要がある。そして、その心理的な効果は、微妙に異なっている。

 四代目桂文吾が創った上方の『駱駝の葬礼(そうれん)』は、兄貴分の熊が隠亡と知り合いという設定。
 だから、らくだも兄貴分の熊も、そして隠亡もお仲間。
 剃れない剃刀を熊が借りてきたので久さんが髪の毛を毟り取ることで、熊は、きっと屑屋に親近感を抱いたはずだ。仲間意識、とでも言うべきものを感じたはず。

 対して東京版では、髪の毛毟りに加え久さんが火葬場の隠亡と知り合いであると告げることによって、兄貴分は、屑屋にある種の恐怖感を抱いたはず。上方版とは逆で、屑屋との距離感ができたと思う。


 東京の落語の過半数以上は、元ネタが上方にある。
 そして、三代目小さんや他の噺家さんにより、演じる場所に会わせ、また自分なりの解釈で脚色されて、今日に至っている。

 この『らくだ』という噺も、上方と東京では設定と演出の微妙な相違があること、そして、その違いが登場人物の心理的な位置関係を変えていることを思うと、落語というものの奥の深さをあらためて感じる。

 もちろん、小満んのように、あの場面を剃刀でさっと短く演じるのも、軽妙洒脱、品格を持ち味とする噺家さんらしく、良かった。

 そう、その噺家の持ち味、あるいは“らしさ”ってぇのは、大事だなぁ。

 そう思うと、志ん生だから、髪の毛を毟り取ってもいいのだろう。
 加えて、その演出の底流に流れているものを、志ん生はしっかり把握している。

 ぞろっぺいな面が強調されるが、実はその高座の背景には、噺の本質を捉えているからこその、志ん生なりの繊細な感性があるのだと私は思う。

# by kogotokoubei | 2019-03-20 20:54 | 落語のネタ | Comments(4)
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 これは、16日に開催された横浜での柳家小満んの会の千秋楽でいただいた、「全百五十回 演目控え」の表紙だ。

 これが、最初のページ。
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 内容をエクセルにしてみた。

 これが、その表の抜粋。

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 毎回三席、計450席のうち、どれほど重複があるか、数えてみた。

 なんと、開始から十七年後の平成23年五月、第104回の『猫の災難』まで、重複なし。
 
 隔月開催で、連続三百席以上も、違うネタを演じ続けていた、ということになる。

 その後は、さすがに演じていないネタは少なくなり、全百五十回で、重複した噺の合計は77席あるが、それにしても450席から77を引いて、373席もの演目を演じてきたことになる・・・・・・。

 私がこの会に最初に行ったのは、平成26年七月の第123回。
 会の存在は知っていたが、強く動機づけられたのは、佐平次さんからのお勧めだった。
 初めて聴く『有馬のおふじ』を堪能。
2014年7月18日のブログ

 その次の九月の124回では、文楽譲りの絶品『寝床』に酔った。

 そして、佐平次さんが事前の散歩で目をつけていたお店、団欒での最初の居残り会は、その夜のことだった。
2014年9月27日のブログ

 懐かしいなぁ。

あらためて私が行けた回は、次の通り。

第123回 平成26(2014)年7月
第124回 平成26(2014)年9月
第125回 平成26(2014)年11月
第126回 平成27(2015)年3月
第127回 平成27(2015)年5月
第128回 平成27(2015)年7月
第129回 平成27(2015)年9月
第130回 平成27(2015)年11月
第131回 平成28(2016)年1月
第132回 平成28(2016)年3月
第133回 平成28(2016)年5月
第134回 平成28(2016)年7月
第135回 平成28(2016)年9月
第136回 平成28(2016)年11月
第137回 平成29(2017)年1月
第138回 平成29(2017)年3月

 ここまでは、16回、皆勤だった。
 その後。

第140回 平成29(2017)年7月
第142回 平成29(2017)年11月
第145回 平成30(2018)5月
第149回 平成31(2019)年1月
第150回 平成31(2019)年3月

 平成29年11月第142回から翌年11月の148回まで、関内ホールが改装のため会場が吉野町市民プラザに移ったので、やはり行きにくくなった。

 ということで、通算21回、通ったことになる。

 いただいた演目控えを見ても、また、自分のブログを読んでも、それぞれの高座が脳裏に蘇る。 

 この会は、関内ホールが相応しく、だからこそ、落語会とすぐ近くの常盤町にある団欒での居残り会が、強く結びついて記憶にある。

 居残り会は、いろんな噺家さんの会の後で開かれてきたが、関内小満んの会後の団欒での会は、特別なものだった。

 昨年の忘年会も今年の新年会も、落語会がない場合でも、最近では団欒で居残り会が開催されるようになった。

 昨年、団欒のご主人が病気から快復されてお店が再開されてから、なおさら特別の思いで開催されている。

 そのご縁も、お店から徒歩五分の小満んの会との縁だったことを、あらためて感じる。

 二十五年に渡り四百席近い演目を披露してきた柳家小満んという噺家さんと、関内で四十年続く老舗への思いは深く結びついている。

 四百五十席の演目を眺めて、その高座とその後の旨い酒、楽しい会話を思い出す。
# by kogotokoubei | 2019-03-19 21:18 | 落語家 | Comments(4)
 オスカー受賞作の『グリーンブック』を桜木町の映画館で観てから関内へ。
 ホールに着いた時は、まだ涙が乾いていなかったかもしれない。

 二十五年間続いた関内の小満んの会が、百五十回をもって千秋楽。

 土曜の午後の開催ということもあり、関内ホールの小ホールは、七割ほどの入り。

 これまで半分も入ったことのない会だったので、ロビーのモニターを見て、「毎回、最終回と言って続けてくれないかな・・・・・・」などと思っていた。

 受付でこれまでの全演目一覧をいただく。
 なんとも幅広いネタを演じられてきたことか。

 久しぶりに師匠の奥様もいらっしゃった。
 どこか、すっきりした笑顔でお客さんを迎えていた。
 
 会場に入ると、お誘いしたOさんのお隣が空いていたので、そこに落ち着く。

 出演順に感想などを記す。
 なお、今回は、記録としては、師匠という敬称は省略するが、後半は、どうしても呼び捨てにはできないので、表記が混在すること、ご容赦のほどを。

柳家り助『二人旅』 (12分 *14:00~)
 初。協会のHPを見ると海舟の弟子のようだが、四年前に真打に昇進した人が、もう弟子をとっていたんだ。
 噺家らしい見た目。印象は悪くない。
 それにしても、この噺は、いわゆる放送禁止用語たっぷりだなぁ、と思いながら聞いていた。「いざり」「おし」「つんぼ」などが続々登場^^
 もはや、落語以外では聞かれない言葉になりつつある。
 その言葉を発することが差別、という風習、なんとかならないものだろうか。

柳家小満ん『長屋の花見』 (23分)
 短いマクラから本編へ。
 二人目の師匠小さん型が基本だが、ところどころに独自性があった。
 大家の花見の誘いを受けた戸無し長屋の一行。
 「どうする、上野の山へ行くかい」と問われたお調子者が「行くとも、上野の山でも、カムチャッカでも」というクスグリは、小さん譲り。
 終演後の居残り会で、「あそこは、他の場所じゃだめで、カムチャッカしかないなぁ」と皆が同意^^
 月番が幹事役に立候補するというのは、小満んの工夫か。
 幹事役として何か目印にという話題に「サイダーの口金でも」で笑った。
 卵焼き(たくわん)と蒲鉾(大根のこうこ)の器は「切り溜め」。
 最初はピンとこなかったが、切った野菜などを入れる木箱のことだから、箱膳やお重と言わず、切り溜めのほうが、貧乏花見には相応しいわけだ。
 「甘茶でかっぽれ、番茶でさっぱり」などとぶつぶつ言いながらの、ご一行の宴会の様子が目に浮かぶ。いったん飲んだお茶けを吐きだす者や、「大家さん、最近では練馬のカマボコ畑も少なくなって」なんて言い出す者など、このネタのなんとも言えない可笑しさが描かれる。
 「大家さん、酒柱が立った」でサゲ。まさに、軽妙洒脱と言える好高座。

柳家小満ん『狸の鯉』 (21分)
 すぐに高座に引き返して、二席目。
 『狸』の噺には、「札」「賽」「釜」「鯉」と四話あるが、この日は今では珍しいネタ。
 とはいえ、狸の「札」もあって、長寿庵の蕎麦代を払って、逃げてくる。
 兄貴分の子供の初節句の祝いにと、次に狸が鯉に変身。
 兄貴分が、鯉こく、あらいにして食おうと言うのを聞いて怖がる狸の姿が可笑しい。
 師匠小さんが説く「狸の気持ち」になっての佳品。


 仲入りとなって、師匠の奥さんに、この日の私の企み(?)を明かす。
 それは、『小満んのご馳走』という本を持参していて、ぜひ、この本に何か書いていただきたかったのである。
 「これに何か書いていただきたいのですが」と奥さんにお聞きすると、私の肩を掻いて「かいてあげる」と笑う。
 さすが、噺家の女房^^
 終演後に直接頼んでみますね、と言うと、「そうしな!」と優しい笑顔が答えていた。
 
柳家小満ん『らくだ』 (44分 *~15:56)
 小満ん落語の醍醐味は、まず、受けを狙ったあざといクスグリなどはないこと。たとえば、それは一席目の『長屋の花見』で言うなら、今では多くの噺家が挟む「長屋中 歯を食いしばる 花見かな」という三代目蝶花楼馬楽の専売特許(?)とも言える句を、小満んは加えない。ご自身でも俳句たしなみ、川柳にも造詣が深いから、あえて、人様の句を借りることもない、とも言えるが、風潮などには背を向ける姿勢を感じる。
 また、ネタの本来の味わいとして、あるいは、演出上で、割愛しても良いと思われる部分は大胆にカットするところも、特徴だろう。
 この高座では、屑屋長さんがらくだの兄貴分に言われ、長屋の月番に出向いて香典を頼む場面を割愛。また、らくだの頭を剃る場も短く、あっと言う間につるつるにしている。
 あの場面は、剃刀で剃るにしても、毛を抜くにしても、あまり聴いていて気持ちの良いシーンとはいえない。そのへんは、品を大事にする小満んらしさか。
 とはいえ、あの場面は、毛を毟る志ん生の演出には、この噺の奥の深さを思わせる面もあるのだが、それについては、別の機会に書くとしよう。
 この高座で初めて聴いたのは、らくだの火葬代の稼ぎ方。
 長さんの知り合いの隠亡がいる落合の火屋に連れて行くことになったが、その隠亡への手間賃を、らくだの兄貴分が、質屋の奥で賭場が開かれているのを知っていて、それをネタに強請って二両巻き上げるというのは、初めて聴いた。
 その二両をまるまる、隠亡に渡すところは、江戸っ子!
 そういった筋書きの妙もあったが、やはり圧巻は、屑屋と兄貴分の主客逆転の場面だ。
 大家がカンカンノウに怯えてもって来た、まあまあの酒を兄貴分が屑屋に「かけつけ三杯だ」と飲ませようとして、屑屋が「勧め上手だねぇ」と言うあたりから、逆転が始まる。
 長さんの科白。「できるときは、やったほうがいいね。どれほど金があっても、高みの見物・・・俺だって、見てられねぇ性分だからねぇ・・・」
 その三杯目を飲み干して、煮しめを食べた後の屑屋の「なぁ、兄弟!」も効果的。
 四杯目に、らくだが「絵を買って欲しい」と言って背中の彫り物を見せたことを思い出す時分には、完全に屑屋が上だ。
 サゲの願人坊主の絶叫まで、堪能した。
 二十五年、百五十回を締める絶品の高座、今年のマイベスト十席候補であるのは当然である。

 さて、終演。

 大事な仕事(?)が、残っている。
 いつものように、お客様を見送る小満ん師匠の姿を見ながら、最後のお見送りが済んだと思しき頃、『小満のご馳走』を手に、お声をかけた。

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「東京かわら版」サイトの該当ページ
 この本は、発行直後にこの会で「東京かわら版」の方が販売していたのを入手したのだった。

 読後、二回記事にしている。
2015年7月24日のブログ
2015年7月25日のブログ

 さて、私にとって、初めての試み。こんなにミーハーになるとは^^

 師匠に声をおかけした。
 「ぜひ、この本に何か書いていただけますか。師匠は、大好きな堀口大學さんからは、書いていただけなかったようですが」と切り出すと、「そうですか、では、大學さんに代わって。」と笑顔で、私が差し出した筆ペンで、ささっと、大學の詩を書いてくださったのである。

 その本に、こう師匠は書かれている。
 
堀口大學は私にとって、運命であり、母校である。そんな風に感じている。

 そんな師匠のある思い出。

 叙勲の際にとある会で逢えるかもしれないチャンスがあって、この時、羽織を持っていった。

 「エロスの技法」
 “お手(てて)で口説くのよ”

 間が良ければ、このフレーズを書いてもらおうと思って持っていったが、いらっしゃらなかった・・・・・・。私はほとんど、こういうことをしたことがなかったけれど、この時だけは特別な気持ちだった。

 私もほとんどこんなことをしたことはなかった。
 でも、師匠は願いを叶えてくれて

 
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 「お手ゝで 口説くのよ」 大学様に代って

 としたためていただいたのだ。

 さて、心も躍る宝物を頂戴した後は、居残り会。
 師匠に書いていただく間、お待ちいただいた居残り会仲間の方と、関内で四十年の老舗、団欒へ。

 本来はお休みのところを開けていただき、落語会を聴いた佐平次さん、I女史、Oさんと私のよったりに、近くでお芝居をご覧になった後にお越しのM女史、そして、Nさんも合流。

 お任せでご用意いただいた刺身も他の肴も、いつものように絶品、小満ん落語のことや、さまざまな話題も、これまた絶品。男山の燗の具合も、絶品。
 他にどんな話題が飛び出していたのやら、半ば記憶は飛んでいるが、あっと言う間に三時間余りが経つ。

 帰り際、Nさんからはお菓子のお土産をいただき、団欒のご主人からは手拭を頂戴した。

 そして、何より、小満ん師匠からいただいた、宝物を大事に持って帰宅し、最良の一日が暮れたのであった。

 さて、お江戸日本橋亭の会は、元々、本牧亭で始まった独演会の流れのある、四十年を超える歴史のある会で、そちらは継続されるとのこと。

 あちらへ行かなきゃならないなぁ、これからは。

 そして、団欒へは、落語会とは関係なく宴会を企画し、皆さんをお誘いしようと思っている。

 関内の千秋楽で、いい思い出をつくっていただいた。

 小満ん師匠、ありがとうございます。


# by kogotokoubei | 2019-03-18 12:25 | 寄席・落語会 | Comments(4)

 昨日は、二十五年続いてきた横浜の柳家小満んの会が、百五十回にて最終回。

 
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 終演後、師匠にお願いして、著作の表紙裏に、こんな素敵な言葉を書いていただきました。
 私のガラケーのせいと、撮影が下手なのでボケておりますが、これは、宝物になります。

 この内容や、落語会、そして居残り会については、次の記事にて!
# by kogotokoubei | 2019-03-17 09:35 | 落語家 | Comments(5)
 落語・演芸評論家の川戸貞吉さんの訃報に接した。
 
 サンスポから。
サンケイスポーツの該当記事

2019.3.12.05:00
演芸評論家の川戸貞吉氏が死去、「現代落語家論」など著書多数

 演芸評論家の川戸貞吉(かわど・さだきち)氏が11日午前11時55分、直腸がんのため東京都杉並区の自宅で死去、81歳。横浜市出身。通夜は13日午後6時から、葬儀・告別式は14日午前9時半から杉並区和泉3の8の35、龍光寺大師堂で。喪主は妻、恵子(けいこ)さん。早大の落語研究会で活動し、1961年にアナウンサーとしてラジオ東京(現TBS)に入社。ディレクターに転身後は数々の落語番組を制作。学生時代から立川談志さん、五代目三遊亭円楽さんらと交流し、五代目柳家小さんさんにも目をかけられた。「現代落語家論」「落語大百科」など著書多数。

 多数の著作があるが、代表作はこの記事でも挙げている『現代落語家論』だろう。

 私も、何度か記事で引用させてもらっている。
 五代目小さんの十三回忌追善落語会が開かれていた頃に書いた記事で、川戸さんのこの本から、他の人の著作では知りえない逸話を引用した。

 重複するが、あらためで紹介したい。
2014年5月14日のブログ

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 川戸さんは、早稲田の落研時代から当時の小ゑん(談志)や全生(五代目円楽)と懇意になり、TBS入局後に、今につながる落語研究会の再開を企画した人。

 本書は昭和53年五5月10日初版発行なので、あの落語協会分裂騒動の直前。よって、著者は翌年早々に『新現代落語家論』を書くことになる。

 さて、上下二巻のうち下巻にある小さんの章からの引用。

 不精な私だが、『落語日記』と称して、落語に関する日記だけは、つけてきた。この日記から、小さんの芸談を、少し拾い出してみよう。

 昭和四十二年十月三日
 夜、イイノホールへ行く。楽屋では正蔵・小さん両師のやりとりが印象に残った。
 小さんが正蔵に、いろいろと聞いている。まず朴炭(ほおずみ)のこと。『湯屋番』に出ているという。
「家の愚妻さんも使っているよ。四代目(四代目小さんのこと)も使っていた」
 と、、正蔵がいう。
 朴炭は朴の木の炭で、それでこすると、たいへんすべすべするそうだ。
「垢すりも近頃は使わなくなったねェ」
「昔は三助が使ったが」
 と、しばらく雑談。
『湯屋番』は小さんの十八番といわれているのに、まだ調べている。頭が下がる。
 (中 略)
 この夜の小さんの演しものは『王子の狐』。

 稲荷町と目白の楽屋話、なんともいい感じだ。
 横で聞いていた人が羨ましい。しかし、誰にでも話すようなことではない。
 やはり、川戸さんが小さんや正蔵が心を許して話せる相手だった、ということだろう。

 日記の紹介を続ける。
 
十月八日
 夜、小さん師と飲む。『王子の狐』について話を聞いた。前座・二ツ目時代に八代目文治から教わったもので、ずっとオクラにしていたという。
「久々此間(こないだ)演ったが、もう忘れちゃったよ」
 そういってケラケラ笑った。
 四代目小さんは、狐をだます人間を二人連れにして演っていたという。『そのほうが演りやすいから』という理由からであった。
「なるほどそのほうが演りやすいやね」

 今まで『王子の狐』で二人連れで狐をだます噺は聞いたことがないが、なるほど面白いかもしれないなぁ。

 この師匠四代目小さんにまつわる逸話を、昭和四十八年三月二十二日の日記の、小さんの会話の途中からご紹介。

「とにかく昭和の名人というと、五代目円生、三語楼、四代目小さん、八代目文治だな。文楽師匠は、まだそのあとだよ。あたしも三語楼の噺を聞いて噺家になろうと思ったんだから。そりゃァ素人のときは、三語楼を追いかけたもんだ」
 それから話は、自分の師匠四代目小さんのことに移った。
「うちの師匠は本当に上手かった。でも、うちの師匠の本当のよさをわからねえ奴が、大勢いたね。あの小勝(五代目小勝)だってそのうちのひとり、それから正岡容。
 その人が、うちの師匠のことを悪くいったんだ。『志ん生の代わりに四代目が出たが、あれじゃァ代演にならない。志ん生の代わりに小さんなんて・・・・・・』等と書いたんだな。いまにして思うと、これはセコだとかなんとかいうんじゃァない。芸風が違うから代演にならないという意味なんだろうけれど、なにしろこっちゃァ若かったからねェ、浅草のほうの鳶の鳶頭(かしら)が見せてくれたんだが、『うちの師匠のことをこんなに悪くいうなんて』と思ったら、体がぶるぶる震えてきたね。『よーし、あの野郎明日ぶん殴りに行ってやる』と思ったン。『そうだそうだ』なんて、鳶頭もこっちを煽るしね。本当に行こうと思ったン。
 ところが、その晩に赤紙がきて、こっちは軍隊に連れてかれちゃったァ。いまから考えると、殴らなくていいことしたよ」
 本当だ。もしこのとき殴っていたら、おそらく大騒動になっていたに違いない。
 もし、小さんが正岡宅に殴りこみに行っていたら五代目を継ぐこともできなかったかもしれない。

 学生時代からの談志との縁、そして、テレビ局の演芸担当としての仕事柄もあるだろうが、昭和の落語家との交流の幅広さや深さ、という点においては、この人を超える人はいなかったのではなかろうか。

 昭和の名人たちの得がたい逸話で、川戸さんの著作からしか知ることができないものは少なくない。
 
 たとえば、『現代落語家論』から、志ん朝の二ツ目時代の奮闘ぶりを紹介したことがある。
2011年10月1日のブログ

 実に貴重な記録でもある。川戸さんしか書けない内容だと思う。


 また、学生の頃から集めはじめた高座の録音テープも有名。自身が担当したTBSラジオの「早起き名人会」でも放送され、『席亭 立川談志の「ゆめの寄席」』などがCD化された。

 川戸さんのライブラリーに関しては、NHKラジオで、玉置宏さんが「早起き名人会」の音源を無断で使用したことが発覚し、川戸さんと玉置さん側でひと悶着あったが、落語愛好家としては、なんとも言えない残念な事件だった。

 小朝が書いた文章への抗議なども含め、やや、喧嘩っぱやい性格だったかもしれない。

 談志の著作では「貞やんを知らない奴は、(落語の世界の)モグリ」と書かれていたなぁ。

 昭和の落語家、落語界の語り部が、また一人旅立った。

 3月11日という命日は、忘れることはないだろう。


 家元が、「よっ、待ってました!」と迎えていたに違いない。

 川戸貞吉さんのご冥福をお祈りします。
# by kogotokoubei | 2019-03-13 12:27 | 落語評論 | Comments(2)
 時事的な内容は、兄弟ブログに引越したのだが、3.11から八年を迎えた今日、どうしても書いておきたいことがある。

 さまざまな角度から特別番組が組まれているが、重要な問題がおざなりになっているように思う。

 それは、原発事故による、甲状腺がん患者の増加に関する問題だ。

 検索しても、大手メディアのサイトでは、ここ最近ほとんど扱われていない。

 朝日が今年1月に掲載した記事は、福島県立医大の発表をそのまま扱い、原発事故との関連性を希薄化しようとしているような記事で、感心しない。
朝日新聞の該当記事

 真実は、もっぱら、他のサイトから確認することになる。

 なかでも、「福島原発事故の真実と放射能健康被害」のサイトが有益だ。
 昨年末更新された、甲状腺がん増加に関する詳細な記事を紹介する。
「福島原発事故の真実と放射能健康被害」のサイト


福島の甲状腺がん→現状で子供201人が発病!原発事故の現在と影響
更新日:2018年12月27日 公開日:2014年3月14日

2019年、福島原発事故の現状。それは子供達の甲状腺がんの多発を抜いて語ることはできません。

そこで今回は『福島原発事故と甲状腺癌』のカテゴリに属する7つの記事をまとめて5分で読めるようダイジェストでご紹介します。詳細な内容は各記事への青色のリンクをクリックすることで閲覧できます。

福島原発事故の現状…現在の状況がどうなってしまっているのか…

2018年9月5日に公表された最新の福島県民調査報告書によると、福島県の小児甲状腺がん及び疑いの子供達は、2か月半前…前回の198人から3人増えて合計201人になりました。

それから手術で良性結節だったことが確定し甲状腺がんではなかった1人も元々は、この甲状腺がん及び疑いにカウントされていましたから、この1人も数えれば甲状腺がん及び疑いは合計202人となります。

福島県の発表は甲状腺がんを、悪性…悪性とはがんのことですが『悪性ないし悪性の疑い』という言葉を使い、あたかも甲状腺がんでない子ども達もこの中に含まれているように書くことで、焦点をぼかしチェルノブイリ原発事故との比較を困難にしています。


しかし手術を終えた165人の中で、良性結節だったのはたった1人にすぎず、162人が乳頭癌、1人が低分化癌、1人がその他の甲状腺癌との診断です。

つまり手術を終えた165人中164人が小児甲状腺癌でした。

%表記にすれば『悪性ないし悪性の疑い』のうち99%は、小児甲状腺癌。

ですので疑いという言葉を過大評価して安心するのは危険です。

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この記事は現状、福島県で甲状腺癌と考えられる201人の子どもたちを市町村別、事故から病気発見までの経過年数別、男女別、事故当時の年齢別、地方別にそれぞれ分類して、チェルノブイリ原発事故や過去の日本や福島県のデータと比較しています。比較することで、現状の福島の小児甲状腺がん患者数が多いのか?少ないのか?放射能の影響はあるのか?ないのか?客観的に見ることができます。

なお混乱しやすい先行検査と本格検査の定義の解説もおこなっていますので初めて『福島の甲状腺がん問題』に接する方にも最適です。


 サイトから、他の記事もぜひご確認いただきたい。

 国は、甲状腺がんと原発事故との因果関係を認めようとしない。

 しかし、さまざまな事実、データなどを踏まえて、その因果関係は明らかではなかろうか。

 国策として原発を推進してきた国、そして、想定可能だった津波対策をないがしろにした東京電力は、甲状腺がん患者となった人々に対して、大きな責任を持っている。

 なぜ、「あれから八年」の番組で、甲状腺がんのことが避けられているのか・・・・・・。

 政府への忖度であったり、メディアの自主規制であるなら、これは、由々しき問題である。

# by kogotokoubei | 2019-03-11 21:36 | 今日は何の日 | Comments(7)
 先日、矢野誠一さんの『人生読本 落語版』から、いくつか記事を書いた。

 その中で、『唐茄子屋政談』など、若旦那が勘当されるネタについて、「久離」という言葉の由来について、矢野さんが三笑亭夢樂に、まんまとかつがれた、という逸話を紹介した。
2019年2月23日のブログ

 その際、夢樂のことをWikipediaで紹介したのだが、「永井荷風を通じて正岡容を知り、その紹介で、1949年3月に5代目古今亭今輔に入門」という説明に関し、どこで、夢樂と永井荷風がつながっていたのか不明、と書いていた。

 最近、ある本を再読していて、その糸口が見つかった。

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大西信行著『落語無頼語録』

 その本とは、大西信行さんの『落語無頼語録』。
 元は「話の特集」での連載で、昭和49年に芸術生活社から発行され、その二年後には角川文庫の一冊となった。
 私は、初版の単行本を読んでいたが、最近、古書店で文庫も手に入れ、再読していた。

 「可楽と夢樂」の章に、夢樂の入門場面に大西さんが偶然居合わせたことが書かれていたのだ。

 夢樂は可樂の弟子になる前、古今亭今輔の弟子で今夫といっていた。
 かれが落語家になるそもそもに、ぼくは偶然立合っている。
 思えば、あの場に居合わせていた人はみな死んでしまって、夢樂とぼくと二人だけになった。
 二十五年も前のことだ・・・・・・。
 市川の菅野というところに長唄の三味線弾きで杵家五叟という人がいた。戦後永井荷風がこの五叟の家に寄宿していて、荷風の没後に五叟の次男が荷風の著作権者になったりしているのだかで、荷風の縁戚なのだろう。その五叟がおなじ市川の真間にいた正岡容の家へ、夢樂を連れて来た。満州の北京大学を出たとかで、夢樂は海軍将校の着るような黒っぽい外套を着ていて、あれはいったいいつのことだったろうと聞いてみたら昭和二十四年の三月だったそうだ。
 落語家の弟子になろうというなら少しは粋なところもありそうなものだのに、五叟の連れて来た渋谷滉と名乗る青年は体ばかりやけにがっしりといかつくて、むしろ講釈師になら向いていそうだなと、そんなことを考えながら部屋の隅に坐って黙って話を聞いていると、正岡は今輔という人が弟子の育て方にも新しい考え方を持っていて、それを実行するだけの力もあるからとすすめて、夢樂の渋谷滉は今輔の弟子になった。

 その後、古典がやりたい夢樂は、今輔が一升瓶を下げて可樂の家を訪ねて弟子入りを願い、その後、可樂が一升瓶を下げて今輔を訪ね「たしかに今夫は私がひきうけました」と、無事、夢樂の移籍(?)が成立。
 夢樂は、「つまり私は酒一升でトレードされたようなものでして・・・・・・」と大西さんに笑って言っていたらしい。

 少し調べてみたら、杵家五叟は荷風の従弟のようだ。

 縁戚が正岡容の元に夢樂を連れて行ったことは、分かった。

 しかし、なぜ、その五叟と夢樂との縁があったのかが、まだ、謎ではある。

# by kogotokoubei | 2019-03-08 20:27 | 落語の本 | Comments(2)
 新聞のコラムニストには、落語好きが多いようで、たびたび落語をコラムの素材に使うが、昨日の毎日新聞の「余録」は、次のような内容だった。
毎日新聞の該当コラム「余録」

余録
三軒続きの長屋の右隣は….
毎日新聞2019年3月6日 東京朝刊

三軒続きの長屋の右隣は鳶(とび)の頭(かしら)で若い衆の出入りがうるさい。左隣は侍(さむらい)が剣術を教えていて稽古(けいこ)の音がやかましい。真ん中の家にすまわせた妾(めかけ)に引っ越したいと言われた伊勢屋、両隣の追い出しをはかる▲両隣はこのたくらみを察知したが、双方ともにあっさりと金を受け取って引っ越すという。伊勢屋が「どこへ」と頭にたずねると「へえ。あっしが剣術の先生のところへ越して、先生があっしのところへ」。落語「三軒長屋」である▲さて、こちらは引っ越しを頼んでもいないのに、勝手に入れ替わるつもりらしい。松井一郎(まつい・いちろう)大阪府知事と吉村洋文(よしむら・ひろふみ)大阪市長がこの8日にも辞職表明し、4月の統一地方選で知事選に吉村氏が、市長選に松井氏が出馬する構えだという▲この奇計、目的は両氏の率いる大阪維新の会の看板政策「大阪都構想」の実現である。都構想は4年前の住民投票で否決されたが、その再投票実施へ向けた公明党との協議が不調となり、民意をダブル首長選で問うというのである▲ポストの交換は、出直し選では当選しても両氏とも今年中に任期が切れるという法の規定への対策らしい。当選すれば4年の任期をまるまる確保でき、無駄遣い選挙との批判も避けられる「首長入れ替わりの術」の一挙両得(いっきょりょうとく)である▲何が何でも住民投票の再実施という維新の意気込みのほどはよく分かった。だが知事や市長のポストなど長屋の空き家同然といわんばかりの党利党略、有権者が“名案”と感心してくれるかどうかは分からない。


 『三軒長屋』と、大阪の選挙の共通点は、どちらもやかましい同志で入れ替わる、ということか。

 落語と大きな違いは、落語の方は、お互いが相手の家に引越すという秀逸な奇策のサゲで、聴く者が大いに笑える、また、感心できるのだが、大阪の引越しは、まったく笑えないし、感心できようもない。

 コラムニストは、「意気込みのほどはよく分かった」と書いているが、さて、それもどうなのか。

 おなじ住民投票でも、沖縄のそれは、住民の意気込みの強さが十分に感じられた。

 大阪のそれは、政治家の我侭しか、見えてこない。
 住民は、「またかいな!?」という思いの人が圧倒的に多いのではないか。
 
 落語のオチのような策略なのである、その選挙に、オチがつくかもしれないよ^^
# by kogotokoubei | 2019-03-07 20:57 | メディアでの落語 | Comments(4)
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ドナルド・キーン著『二つの母国に生きて』

 ドナルド・キーン『二つの母国に生きて』は、初版が昭和62(1987)年の朝日新聞から単行本で発行され、平成27(2015)年に朝日文庫にて再刊。

 1980年代に書かれた文章を中心に編集された本。

 本書からの、二回目。

 「戦争犯罪を裁くことの意味」(1983・5・27)の章から。

 ドキュメント・フィルム『東京裁判』を見ながらさまざまの思い出が甦った。とはいえ、私は裁判と関係したわけではない。当時の占領軍の方針として宣教師や貿易商以外の外国人を日本に入国させなかったが、裁判の通訳は入国できたので、一日も早く日本へ行きたがっていた私は募集に応じた。しばらくして採用通知があったが、迷いに迷ったあげく、断りの電報を打った。日本へは行きたかったが、戦犯を裁くことについての疑問があまりにも深すぎたので、通訳としても参加したくなかったのだ。
 当時の私の考え方は終戦直後、友人に出した手紙の中に手短に書いてあるから引用する。
「日本の指導者たちを“戦争犯罪人”の名の下に処罰するのは、名目がいかに高尚な響きを持つものであっても、結局は、人類の歴史が始まって以来、多くの国々が行ってきたことを繰り返すことにすぎない。もし、征服された民族の犯罪のみならず、イギリス人がインドや香港で犯した罪、フランス人がシリアで犯した罪、ロシアが東ヨーロッパで犯した罪、そしてアメリカが無防備の住宅地に住む日本人たちに爆撃を浴びせたことなどが問われるのであれば、この戦争裁判は新しい時代の幕開けを象徴するものであるという言葉は、それなりの意味を持つ。しかし、今回の戦争裁判は、実際には終戦を祝う儀式として開かれるものであり、例によって敗戦国非難と自己満足の精神に満ち満ちているのだ」(1945年9月23日付の書簡。オーテス・ケーリ編『天皇の孤島』に収録。1977年、サイマル出版会)

 終戦直後に書かれた書簡の内容が、キーンさんの戦争への一貫した思いを表していると思う。

 なお、この書簡を含む本の編集者のオーテス・ケーリは、キーンさんアメリカ海軍日本語学校の同級生。二人は、通訳として従軍する戦友だった。
 書簡の宛先は、きっとケーリだったのだろう。
 ケーリは戦後、同志社大学で教授を務めた。
 ケーリも貴重な記録を著作で残している。後日、紹介したいと思っている。

 さて、本書からの引用を続ける。

 戦時中、私は日本軍が戦場に残した書類の翻訳をしていた。日記の中に、アメリカの飛行士が捕虜になった後、死刑に処されたという記入が時々あった。私はこうした事実を知った時、人道にそむく行為であり、明らかな犯罪だと信じていた。しかし、戦争末期、アメリカの飛行機が日本の都市の無差別攻撃を行うようになった段階、それも犯罪ではないかと思い、自分の正義感に迷いが生じた。

 この文章を読んで、私は数年前にCSで観た、ある映画を思い出した。
 藤田まことが主演の『明日への遺言』だ。大岡昇平の小説『ながい旅』を原作に、2007年に製作された映画。
 昭和20年5月14日の名古屋空襲の際に、撃墜され捕虜となったB29の搭乗員を処刑したため、B級戦犯となった軍人の裁判を中心とする物語だった。
 陸軍中将の岡田資(たすく)は、戦犯裁判において、米軍の空襲について「一般市民を無慈悲に殺傷しようとした無差別爆撃である」とし、「搭乗員はハーグ条約違反の戦犯であり、捕虜ではない」と徹底的に主張した。岡田は、これを『法戦』と呼び、検察や米軍関係者による爆撃の正当化を批判、捕虜虐待の罪に付いても全面的に争った。
 藤田まことが亡くなる二年前の迫真の演技が、印象に残っている。
 岡田資のことや、大岡昌平の本のことは、また後日書こうと思う。

 さて、キーンさんの本からの引用を続ける。

 人間の想像力には限界がある一人の軍人が敵の軍人を殺す、または同じ軍人が壁の前に立たされた何の防備も持たない民間人を銃剣で刺し殺すことを想像するのは、それほどむずかしくない。現に、終戦直後、私が中国の青島に駐在していた時、似た話を多き聞いた。日本の兵士の戦意を高めるために、何の罪もない中国人を逮捕し、銃剣の練習の対象とした日本軍人にも会い、号令をかけた海軍大尉をも尋問した(彼は、弾丸が足りなかったためそうさせたと私に語った)。殺された中国人の死体から肝を切り取って薬にした日本兵にも会った。
 これらの戦犯を調べていた時、何回もぞっとしたことがあるが、犯罪そのものは想像することができた。しかし、一万メートルの高度でハンドルを回して巨大な爆弾を投下する飛行士の犯罪の大きさは想像できなかった。数万人が焼死した場合でも、爆弾が目標をはずれて海に落ちた場合でも、殺戮を意図している以上、犯罪性は変わらないといえるかどうかーこれは並の想像力をはるかに超える難問である。

 上空から爆弾を投下することの犯罪の大きさを想像できないとしたキーンさん。
 では、あの湾岸戦争で、まるでテレビゲームのよう、と形容されたハイテク機器による戦争に、どんな感想を述べていらっしゃたのだろうか。

 ボタン一つで、何万、何十万人の生命を奪う時代。
 その危機は、まだ続いている。

 キーンさんは、この章を次のように締めくくっている。

 言うまでもなく、国家が存在する限り、国と国との摩擦が起ころうし、また、人間に攻撃性がなくなるまで“実力”で摩擦を解決しようとする傾向も残るだろう。しかし、攻撃性を法律で限定するように、戦犯裁判で戦争を政治手段として利用する指導者をある程度まで限定することもできるはずである。そして現在の日本における反戦思想が根強いのは東京裁判とも無関係ではなかろう。
 現在の私は、三十八年前の私ほど自分の見解に自信がない。今も一方的な裁判に深い疑問を抱き、『東京裁判』を見ながら、あらゆる偏見や政治的配慮が公平な裁判を妨げたことが改めてわかったが、欠点だらけの国連でも、あることがないよりはましだと思うと同様に、あの悪名高き裁判にも戦争を不法行為として告発しただけの意義はあると信じたいのである。

 “意義はあると信じたい”との思いを、残された日本人は、大事にしなくてはならないだろう。

 あの裁判を批判する人々は多い。
 もちろん、戦勝国による敗者への不公平な見せしめの行為、という側面はあるだろう。
 しかし、東京裁判で裁かれた日本の戦争指導者や、米軍捕虜への対応により戦犯となった岡田資のことなども含め、一連の戦犯裁判を明日につなげるためには、戦争そのものがすべての元凶であり、何としてても、戦争を起こしてはならない、ということだ。
 もちろん、何百万人という犠牲者のことを忘れず、反戦の声を上げ続けることが重要だ。

 キーンさんが、信じたかったのは、そういうことだったと思う。

# by kogotokoubei | 2019-03-05 12:36 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(0)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛