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噺の話

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三遊亭圓生『江戸散歩』(P+D BOOKS)
 
 このシリーズ、五回目。

 第一次落語研究会が、明治三十八(1905)年に始まり大正12(1923)年の関東大震災で終了するまでの18年間には、若手や中堅の噺家さん達も台頭し、中には抜擢されて研究会に名を連ねる噺家さんもいた。

 当時の“若手”のことを、圓生はこう書いている。
 
 当時、若手、若手といいましてあたくしの父親ですね、それが圓窓時代。それから大阪へ行って三代目圓馬になりました七代目朝寝坊むらく。こないだ亡くなった志ん生の師匠だった、その前の志ん生。本名鶴本勝太郎といいました。馬生から志ん生になったんですが、その他八代目桂文治になった人、本名山路梅吉といった、こういう人がもうみんな、ばりばり売り出して、聞いておりましても実にお客様に受けるし、うまいなと思う人達ですが、相当みな腕を上げてきた。
 その時に、楽屋で幹部連中やまた先生方が、もうこの人達も相当にみんなよくなってきたから深いところへあげる・・・・・・深いところって、つまり幹部が二人あがりその間へ順々に入れて行くわけですね。交替で。それであとへ幹部が二人出るという事になっていた。次会からトリを取らしてもいいんじゃないかって事になった。
 トリというのは一番最後へ上げる事です。じゃァこれと、これとこれと、これと、トリを取らしてみようという事に決定した。そこでみんなトリを取るようにと云った時にいっせいに手をついて、研究会のトリだけはどうぞご勘弁を願いたいといってあやまったんですが。これはどうも実に偉いもんだと思います。やはりいかにできても若手であって、まだまだその幹部には及ばざるところは多々あるわけなんです。しかしみんな人間ですから、自惚れはありましょう。俺はまずいと思ったら高い所へ上がって喋っちゃいられないんだから。だから各自自惚れはあっても、なおかつ自分の芸は分っている。だから研究会のトリ席にまわってどうなるかてェ事を考える。できないとは思わないでしょうけれども、研究会のトリだけは勘弁していただきたいと云っていっせいに断っちまった。
 今の人間ならば「あァ。よろしゅうがす」てンんで、軽く引受けたでしょうけれども、やはりそれだけの芸に対する心掛けというものが昔と今とは時代も違い、変ったのかも知れませんが、なかなかやかましい会でした。
 第一次落語研究会が、どれほど権威のある会だったかが察せられる。

 三代目の圓馬は、八代目文楽の芸の上での師匠として有名。三代目金馬も、多くの噺を伝授された。その圓馬でさえ、朝寝坊むらく時代、研究会のトリだけは受けることができなかった、ということか。

 圓生が名を挙げた三代目圓馬や四代目の志ん生、八代目桂文治は、第一次落語研究会の準幹部に名を連ねていた人。準幹部の中で、圓生は名を挙げていない人に、三代目蝶花楼馬楽がいる。岡村柿紅の推薦で抜擢され出演し大絶賛された。一部の新聞は「名人馬楽」とまで誉めた。しかし、彼はそのチャンスを生かすことなく、四十歳台で病のため旅立った。馬楽の人生の頂点は、落語研究会に出た時だったかもしれない。

 さて、紹介した文の後、圓生はこう続けている。

まあそんな思い出がこの宮松の研究会にはずいぶんありました。こりゃ大正十二年八月まであって、あたくしもその研究会へずっと行ってたわけですが、それが九月に大地震があって、そしてこの第一次落語研究会というものがなくなります。

 ということで、そろそろ、第一次から第二次への“替り目”である。

 とはいえ、関東大震災のダメージは大きく、復興の声は、昭和も少し経ってからのこと。
 本書の著者、六代目圓生も、大いに関わることとなった。

 再興落語研究会 第二次は先代圓生、父親の希望でわたくしが八方先生がたにお願いしてやっと再興したのが、昭和三年三月十一日、茅場町薬師内宮松亭で開催、第二回より神田立花亭に移り、東宝に変り、さらに日本橋倶楽部(当時日本橋区浜町河岸)、それも空襲はげしきため、昭和十九年三月二十六日研究会臨時大会、お名残り公演、会費金二円税共。

 この昭和十九年三月二十六日の最終回の出演者が、紹介されている。
 代数と本名も記されている。
 春風亭柳枝を、七代目、としているには八代目の誤りと思うので修正したうえで引用。

 この時の出演順
  桂文雀(現橘家圓蔵 市原虎之助)
  柳家小三治(元協会事務員 高橋栄次郎)
  船勇亭志ん橋(故三代目三遊亭小圓朝 芳村幸太郎)
  桂右女助(故三升家小勝 吉田邦重)
  春風亭柳枝(故八代目 島田勝巳)
  三笑亭可楽(故七代目 玉井長之助)
  三遊亭金馬(故三代目 加藤専太郎)
  三遊亭圓生(著者 山崎松尾)
  三遊亭圓歌(故二代目 田中利助)
  桂文楽(故八代目 並河益義)
  柳家小さん(故四代目 平山菊松)
 以上をもって一時閉会となった。

 昭和三年から十九年まで16年間も続いた第二次落語研究会、その開催にご本人も奔走したようなのだが、この本で書かれているのは、これだけ。

 すぐ後、第三次について、こう書いている。

 第三次はあたくしは知らなかった・・・・・・。それはあの満州へ行きましてね。志ん生とあたくしと二人帰れなかった。その留守中に第三次落語研究会というものはできたんでございます。ところがこれは短命にして、五回か六回やってつぶれてしまった。
 だいたいこの落語研究会というものはこの人と、この人を、というんで初めから人選をして、ちゃんとまじめに噺をする人、本当の落語というものをやるべき本筋のものというのか規定でございます。
 ところが第三次の時にはそうではなくして、そういうふうな初めから制限をするてェ事はよろしくない。一般の噺家を入れてこそ、本来の落語研究会であるからその制限をして、初めから差別をしてやるてェ事はかしからんことであるという・・・・・・。
 論法はたいへんにお立派なんですがね、駄目なんです。誰でも彼でも出演(で)られるという、それでは本来の研究会にはならないわけで。だからどこへでもこれはあてはまるわけなんですね。政治でも、それから芸界でも。一般に平等に、こうこうやったらいいという・・・・・・いかに論法が立派であっても、やっぱり一つのちゃんと固まったもの、芯がなくちゃいけないんじゃないかと思います。
ですから第三次落語研究会というものは、五回か六回やったけどお客様もこない。ま、云っちゃ失礼だが、その人選は落語研究会へ出る噺家じゃないてェのが出演(で)ていたわけなんです・・・・・・。それがためにつぶれてしまった。

 ということなのだが・・・・・・。

 Wikipediaの「落語研究会」で確認すると、第三次は、会長に久保田万太郎、参与に正岡容と安藤鶴夫の名が並んでいる。顧問には、渋沢秀雄も登場。
Wikipedia「落語研究会」

 しかし、昭和21年2月から8月までと、たしかに短命であった。

 立派な論法が道を誤らせることがある・・・というのは、なかなかに奥深い指摘ではなかろうか。

 短命だったのは、圓生が指摘するがごとく、“芯”がなかったからか。

 その“芯”となるべき人が、満州に行っていて不在だったから、という声が、この文章からうっすら聞こえてもくるなぁ。

 というわけで、次の最終回では、第四次と第五次についてご紹介。

# by kogotokoubei | 2019-07-18 12:54 | 落語の本 | Comments(0)
 昨日のアクセスランキングでも、志ん生と『替り目』について書いた過去の記事へのアクセスが100近かった。

 「いだてん」の影響なくしては、考えられない。

 14日の放送「替り目」には、三つの“替り目”の場面が登場した。

 一つ目は、ネタと同様に、若き志ん生が、自分では売れない納豆を女房のりんさんが売りに出かける、と言って出かけた(と思っていた)後、出来すぎた女房への感謝の思いを呟いていたら、まだ、りんさんがそこにいた・・・「元帳を見られた!?」という場面。

 そして、田畑政治が、金栗四三に三度出場したオリンピックでの一番の思い出は何かと質問したところ、紅茶と甘いお菓子が美味かったこと、という答えに呆れて、帰ってくれと追い出した(と思っていた)後、やはり日本人オリンピック出場第一号の四三は偉い、と呟いたところ、まだ、そこには四三がいたという、落語『替り目』へのオマージュ(決して、パクリではない^^)の場面。

 そして、三つ目は、田畑政治に向って「さよなら」と金栗四三が呟いたように、四三が熊本に帰ることになり、田畑が今後の主役になる、という“替り目”である。

 さすがのクドカン、やってくれる!

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三遊亭圓生『江戸散歩』(P+D BOOKS)
 さて、このシリーズ、四回目。

 第一次落語研究会は明治三十八年に始まり、関東大震災の影響で終了する大正十二年まで続いたわけだが、後半、若き日の圓生(当時は、圓童)も、その権威ある会に接することができた。

 そして、得がたい体験をしている。

 いや怖い会だと思ったのは、当時の幹部は四人でした。圓喬、圓左の二人はもはや歿していたので、圓右、圓蔵、小圓朝、小さんの四人です。それに圓右は三遊派の最高幹部であり出演者の中でも権力がありました。その圓右の倅、小圓右(前名圓子)が春に真打昇進をして、圓右も倅をどうか出世をさしてやりたいという親心で、研究会へ出してやりたいというその心持は分りますが、あるとき研究会へ圓右が出て噺にかかる前に、
「さて、あたくしの倅小圓右でございますが、今年の秋頃より、当落語研究会へも出して頂くことに相成りましたので、その節はよろしくお引立てを願います・・・・・・」
 と云ったが、これはもし出演させるならば、前もっと相談をするべきなのです。そして一同が承知した上でお客様に口上を云うべき筈なのに、いきなり高座で喋ったので岡先生が客席で聞いていたが、いきなり楽屋へ入ってきて今村さんに、
「今の口上をあなた聞きましたか」
「いえ、何です」
「小圓右を秋から研究会へ出すというが」
「いえ、あたくしは全然知りませんが」
「そうですか。あんなものが出演(で)るなら、私は断然今日限り研究会から手を引きかすから」
 常にはやさしい先生が、いやたいへんな立腹です。圓右が高座から下りてくると今村さんが陰に呼んで、暫時、こそこそ話をしていたが、圓右はつまり倅を出してもらいたいと希望をのべたつもりだというが、希望だけでなく出して頂くと・・・・・・なってしまった。結局岡先生に圓右が詫びておさまったが、これは圓右師が悪いのだが、例のおっちょこちょいで、云わずもがなの事を云って失敗した。

 出来の悪い子ほど、親は可愛い・・・ということか。
 この小圓右は、大正13(1924)年に父が亡くなってすぐ、二代目圓右を継いだが、なかなか売れずに数年後に廃業し、郵便局に勤めたとのこと。

 なお、岡鬼太郎は、歌舞伎作家、劇評家で知られているが、三代目小さんのために創作した落語『意地くらべ』でも知られている。
 この噺、最近では、春風亭一之輔が、彼ならではの改作で口演しているらしいが、未見。そのうち、ぜひ聴きたいものだ。

 この後、圓生の師匠四代目圓蔵が、静岡に旅興行に出ていても、落語研究会には、その興行を休んで弟子に代演させて出演したと書かれている。

 師匠のフトコロではきっと損をしていたと思いますが、大切な会だから欠席はできないというので、旅興行を休んで帰ったのは偉いと思いますね。それに当時の師匠方は実にうまかったもんです。まだ十四か十五の子供時代に聞いていて、生涯に俺はこれだけうまくなれるのかしら、と考えたこともあり、悲観した事もありました。なかなかあのうまさなんてェものは頭へこびりついていますが。
 昼間の四時頃ですが、圓右の『真景累ヶ淵』を聞いていた時に「はッ」と云われた時にぞッとした。聞いていたら真ッ暗になっちゃったんで。あんまり恐いかたハッと後ろを向いたらお尻のところに夕日が当っていたんで。
 芸の力てェものは恐ろしいもので・・・・・・昼も夜も忘れてしまった。さもさも真っ暗な中を、おじさんと新吉が提灯をつけて歩いていると、もう聞いているうちに錯覚しちゃって昼ってことを忘れちゃったんですね。実にうまいもんだと思って感心した事がありました。

 圓喬の『鰍沢』を聴いていた志ん生が、その高座の世界にどっぷり入り込んで、急流の場面、外は晴れているのに雨が降ってきたと錯覚したという逸話を思い出させる、圓生がかたる圓右の高座だ。

 柳家から一人参加した三代目小さんの高座の思い出も語っている。

『猫久』 それから三代目柳家小さんの『猫久』なんてえ噺を・・・・・・こりゃ柳派の噺です。その当時はやはり柳派、三遊派といって二派ですから三遊でやっても柳の方ではやらない。柳でやって三遊派ではやらないという噺がありました。
 この『猫久』という噺はあたくしは初めて三代目小さんのを聞いたんです。あんまり聞いておかしいんで、大きな声で楽屋で笑ったんで怒られました。楽屋でそんな大きな声で笑っちゃいけないって叱られた。叱らたってしょうがない、おかしいんだから。どうにもしようがない。もう一言々々にそのまあおかしさなんてえものは、いやわたくしだって子供の頃からやってる噺家ですからね、噺を聞いたってそんなに素人のようにおかしくもないし、受けないわけですが。
 ところがあなたそれが、聞いていて、どうにもこうにもおかしくておかしくて声を出さずにはいられないてェ程・・・・・・実に大したもんでした。
 その『猫久』という噺はまあ、失礼ですがどなたのを聞いていも何ンかちっともおかしくないんです。その後も、この人は大看板と云われた人のを聞いたんだがまるっきりおかしくない。三代目小さんの『猫久』という噺のいかに優れていた事か。


 三代目の高座で、笑いを抑え切れなかったという『猫久』という“柳派”の噺は、五代目の小さんに、三代目小さんを尊敬していた七代目三笑亭可楽を通して伝わった。
 師匠四代目小さんが、自分の真似になることを嫌って稽古をつけないようになり、他の師匠からネタを教わっていた五代目は、この七代目可楽から多くの三代目十八番を継承している。

 そのことは、以前、記事にしたことがある。
2014年5月15日のブログ

 もちろん、五代目小さんの十八番でもあった。

 今につながる第五次の落語研究会は、昭和四十三(1968)年三月十四日に、国立劇場小劇場で始まったが、その時の五代目小さんのネタが、まさに『猫久』。
 
 あら、第五次の初回、なぜ、第一次と同じ三月二十一日ではなかったのだろうか・・・・・・。
 烏亭焉馬による「咄の会」由来の、「昔」という字を分解した「二十一日」に執着して欲しかったなぁ。

 さて『猫久』のことだが、今では、この噺を聴く機会は実に少ない。

 私は、ほぼ五年前、池袋の下席、柳亭燕路で聴いたっきりだ。

 たしかに、今ではあの噺の可笑しさは伝わりにくくなっているが、柳の噺家さん達にもっと演じて欲しい噺である。


 それにしても、名人たちの凄い高座を、若き日の圓生は体験していたんだねぇ。

 次回は、第二次落語研究会のことに“替り(目)”ます。


# by kogotokoubei | 2019-07-16 21:18 | 落語の本 | Comments(0)
 昨日のアクセスランキングで、志ん生の『替り目』について書いた記事へのアクセスが急増した。
 間違いなく、「いだてん」の影響だろう。
 今年は、志ん生関係の記事のアクセスが、ときおり急増する。
 視聴率など関係なく、番組への強い視聴者の関わり方を感じる。

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三遊亭圓生『江戸散歩』(P+D BOOKS)
 さて、このシリーズ、三回目。

 明治三十八年三月二十一日、常磐木倶楽部で第一次落語研究会が幕を開けたことまでを前回までにご紹介した。

 圓生は、その第一回のネタなどは記していないので、以前、暉峻康隆さんの『落語の年輪』から紹介した内容をを再度引用。
2017年1月29日のブログ

初席は圓左の「子別れ」、次席は小圓朝の「文違い」、続いて圓右の「妾馬」、圓喬の「茶金」、圓蔵の「田の久」、承知の上で欠席した圓遊に代わって、圓左が「富久」を再演、最後に小さんの「小言幸兵衛」で、いずれもそれまでのように端折らず、サゲまで演じて聴衆を堪能せしめた(「万朝報」)。これを第一回として、大正十二年(1923)九月の関東大震災で中絶するまで毎月開催し、東京落語の声価を高めた功績は大きい。

 圓遊にも声をかけていたんだねぇ。

 さて、開催は続いたのだが、途中で会場は変わっている。

 あらためてことわっておくが、『江戸散歩』は、さまざまな土地を訪ねて、それぞれにちなんだ話題、中でも落語に関わることが書かれている。
 第一次落語研究会のことは、「日本橋」の常磐木倶楽部をお題にして書かれ始めたもの。
 お題は、変わる。
 薬師の宮松亭 それからのちになって薬師の宮松、これは茅場町にあります。今でも薬師様がございますが、あの茅場町の境内に宮松亭という席がある。これは圓朝などはよくここで興行いたしました寄席でございます。
 ところがもうその時代になりますと落語というものはやりませんで、主に女義太夫・・・・・・たれぎだってェましたが、その義太夫ばかりをかけていたんですが、会場をこの宮松亭へ移すことになりました。
 それというのはやっぱり常磐木倶楽部で演っていたかったんですが、村井銀行という銀行がその倶楽部の前に建つわけで、鉄筋を打ち込む、どォん、どォん、という音、それが響いて噺の邪魔になってどうしても演れないんで、仕方がないから、じゃ会場をこりゃ移す事にするよりしょうがない、なかなか工事はお終いにならないからと云うので、そこでこの宮松の方へ落語研究会というものが引き移ったんです。

 第一回が開催された明治三十八(1905)年は、圓生が五歳だったが、大正十二(1923)年関東大震災まで続いた第一次落語研究会の十八年の歴史の中で、圓生自身と研究会との接点ができる。

 わたくしも十四歳ぐらいでしたか研究会へ・・・・・・と云ってもいきなり出演したわけじゃァないので、つまり前座になったわけですよ。ただし寄席ではわたくしは二ツ目で、前座がお茶を汲んで、「ご苦労さまです」と云って敬意を表して出してくれる。
 それが研究会へ行けばお茶を汲んで出し、下駄をそろえ、羽織をたたむ、前座通りの仕事をしなければなりませんが、それを無上の光栄だと思って本当に嬉しかった。何故かと云って研究会の前座になれば、かならず今に演らして。研究会へ出演できるということは将来を約束されたようなものですから、見込みのない者は絶対に出してくれません。
 もちろん、この前座になるには自分の師匠から「どうでしょう」といって推薦される、今村さんへ。すると、「ああ、あれならいいでしょう」
 もちろんその芸も聞き、人間も知っていての話ですが、ただし今村さんは玄関口でそれで決まるわけじゃァないので、岡先生に聞き、石谷、森、全部の先生がよろしい、と云って初めてゆるされるのですからたいへんに手数が掛かる。
 わたしは幸いと義太夫語りから転向して落語家になり、つまり普通の二ツ目よりと違い先生方も知っているのでスラスラとゆるされましたが。

 大阪で生まれた圓生は、五 ~六歳の頃から豊竹仮名太夫の元で義太夫の稽古を受けていた。生家の破産後に両親が離婚。三味線で生計を立てていた母と東京に移住し新宿角筈に居を構える。豊竹豆仮名太夫の名で子供義太夫の芸人として寄席に出演していた。
 その後、伊香保温泉の石段で転んで胸を打ち、医者から義太夫をやめるよう言われて、橘家圓蔵門下で落語家になった。

 最初に落語研究会の楽屋入りした時は、橘家圓童の頃だったと察する。

 若き圓生にとって、そこはどんな空間だったのかは、次回。

# by kogotokoubei | 2019-07-15 08:45 | 落語の本 | Comments(0)
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三遊亭圓生『江戸散歩』(P+D BOOKS)

 このシリーズ、二回目。

 前回は、明治三十八年、三遊亭圓左が今村次郎に相談したことから第一次落語研究会が始まることになったことを紹介した。
 圓遊人気に沸く寄席の様子に、落語の将来への危機感を圓左が抱いたわけだが、その思いは、速記者として落語、講談界で大きな権力を持っていた今村のみならず、顧問として名を連ねた岡鬼太郎、森暁紅、石谷(いしがや)華堤らも同感だった。

 さて、それでは、どんな噺家を出演させるか、ということになった。

 落語研究会の名人たち その当時、まず選ばれましたのが三遊派の橘家圓喬という、あたしども聞きました噺家の中で、まあそれ以上うまい噺家というのは今もって聞いたことありません。あたしが十二の年まででしたが、聞いたのは。こりゃまあ圓朝の直門でございますけれども大した芸の人でした。
 それから三遊亭圓右、橘家圓蔵・・・・・・私の師匠で。それから三遊亭小圓朝。この間亡くなりました小圓朝、あの人は本名芳村幸太郎という、そのお父っつぁん・・・・・・芳村忠次郎といいました。それから発起人である三遊亭圓左、この五人。全部三遊派の者でございまして。その当時は柳、三遊に分かれておりました。三遊派が五人でて柳の方からは柳家小さん。これは三代目でございますが・・・・・・一人だけ、六人・・・・・・。これが発起人としてスタートをしたわけで、明治三十八年の三月でございます。
 凄い顔ぶれだ。
 それにしても、当時の落語界における三遊派の充実ぶりは、現在の状況とはあまりにも、対照的。

 圓遊調が流行る時勢、客は入らないかもしれないが、なんとか続けようということで、この六人が、一人五円ずつ出して始めることになった。

 一カ月に一回の会で五円。と、六人いるんですから三十円の金が集るわけで、まだあなた、明治の三十年代に三十円の金というのはたいへんなものです。だから諸経費、それから会場費、それらのものを全部払ったところで三十円あれば立派にできるわけなんです。だからそれだけの金を出そうじゃないかという相談の上でやったわけです。

 明治三十年代、小学校教員の初任給が八~九円という記録がある。

 また、明治後半の寄席の木戸銭は十銭の時期が長く、大正になって十三銭に上ったとのこと。
 当時の一円の価値、現在なら二万円~三万円だろうか。

 ざっくり、六人の発起人(噺家)が、一人十万円ずつ拠出したと考えて、そう間違いはなさそうだ。
 それだけ、客の入りが悪かろうと思っていたわけだが。

 ふたをあけてみると予想に反してお客様がたいへんにおいでになった。一同、もうびっくりするぐらい。十二時から開演というんですが、もう十一時過ぎてお客様はどんどん入ってくる。
 (中 略)
 開演時間までこの入ったお客様をただ待たしておいては悪いからというので、その時にどうしようって事になって・・・・・・、小圓朝の弟子で、のちに二代目の金馬になりましたこの人が来ていたので、まだ当時二ツ目だったんです、圓流といった。これが楽屋にいたもんですから、「じゃァ何だ、おまえちょいと、お客様のお集りのあいだ十二時まで演って、それからあとは全員の者があがるようにするから」というようなわけで、急に臨時がとび出すというわけで。

 あら、二代目金馬の名が登場。
 
 常磐木倶楽部での初開催は、明治三十八年の三月二十一日。
 とかく、この二十一日は、「昔」を分解する字ということもあり、江戸落語中興の祖と言われる烏亭焉馬が「咄の会」を開いた日でもあり、縁起の良い日。

 予想以上のお客様が集まり、終演後には出演者、当時の大看板たちが、下足番を手伝ったという。

 さて、こうやって始まった第一次落語研究会は、会場を替えて長く続くことになる。
 その歴史の中に若かりし頃の圓生自身も、関わっていくのだが・・・・・・。

 今回は、これにてお開き。

 三週続いて、雨でテニスが休みになった。
 さて、どこへ行こうか。
# by kogotokoubei | 2019-07-14 09:47 | 落語の本 | Comments(2)
 三遊亭圓生に『江戸散歩』という著作がある。

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 初版は昭和53年、あの騒動がある直前に、集英社から上下二冊の単行本として発行された。

 私は、昭和61年の朝日文庫版(上の画像)を持っている。


 なんと、三年前、小学館から、紙の書籍と電子書籍を同時発行する「P+D BOOKS」で再刊されていた。
三遊亭圓生『江戸散歩』(P+D BOOKS)

 この本、必ずしも土地や建物だけのことではなく、縁のある落語のこともいろいろ書かれていて興味深い。

 それらの貴重性もあって、P+D BOOKS化されたのかとも思う。

 その中で、伝統ある落語研究会の歴史を、自分が見聞した内容を含め書かれている部分をご紹介したい。

 なぜ、落語研究会のことか、というと・・・・・・。

 今、TBSが主催している第五次落語協会が、大きな曲がり角にきているように思うからである。

 TBS落語研究会は、昭和43年、今年三月十一日に亡くなった川戸貞吉さんの発案で始まった。
 川戸さんの訃報に接して、著作からの引用を含め記事を書いた。
2019年3月13日のブログ

 昭和33年に第四次が終了していたから、十年ぶりの再開になるが、その運営形態は、大きく変わった。

 それまでのように落語家が会の運営にタッチすることのない、テレビ局主導の会のため、プロデューサーの力量が物をいう会となった。

 名プロデューサーの言われた白井良幹さんのアドバイスで、桂歌丸さんが圓朝ものを演り始めたことは、以前、『歌丸 極上人生』から紹介した。
2019年5月19日のブログ

 その白井さん亡き後、何人かのプロデューサーが携わってきたが、白井さんの下で薫陶を受けた今野徹さんが旅立ってから、この会の将来は結構危うくなっていると思う。

 居残り会仲間の数名の方は、大変な努力をして、年間会員となったことをお聞きした。
 私も、そのご縁で二度聴く機会があった。
2012年11月1日のブログ
2014年11月26日のブログ

 今、その時の記事を読み返してみて、あまり楽しんでいなかったことが、分かる。

 TBSは、毎年、欠員となった方の席の年間会員権を売り出しているが、年々その席数は増えている。居残り会で会員をやめた方もいらっしゃる。

 もちろん、ご高齢によるものもあるが、会そものものに魅力がなっくなってきたことも、要因の一つに違いない。

 演者の選定とネタ選びに「えっ!?」「おやっ!?」と思うことが少なくない。

 そこで、あらためて落語研究会の歴史を確認するには、実に相応しい内容を、圓生は残してくれたことを思い出したのである。

 それでは、「日本橋」の中での記述からご紹介。

 常磐木倶楽部 それから大震災までは、あの榛原(はいばら)という紙屋さんは橋のちょいど前のところにございました。となり・・・・・・角が西川という蒲団屋さんで。そのとなりが榛原。そのとなりに常磐木倶楽部という貸席。ここで落語研究会というものをばやりました。明治三十八年の三月でございますが、これが第一回で。
 当時落語というものが非常に乱れてきた。というのは、初代と称します、これは本当は三代目になるんですが、あまりに人気があり、明治時代にこの、圓遊という人が落語界を風靡いたしました。
 三遊亭圓朝というような大名人ができまして、その弟子でございますが明治調で、非常に時代に合った、噺をくずして面白くした人ですが、けれども圓遊調は落語本来のものではない。けれども圓遊という人はそれだけ功があって、圓遊は圓遊の値打ちがあるわけですが、ところがその弟子なんかは圓遊のただ本当の物真似にすぎないというので・・・・・・。ただし、これがまた時代ですね、物真似でも何でも当時はうけたわけなんです。
 (中 略)
 それを当時、三遊亭圓左といいいまして、やはり圓朝の弟子でございますが、この人は非常な芸熱心で、どうかして本当の落語というものをば存続させるのは今である。時期がおそいてェと落語というものはこんなだらしのない、下らないものかというように世間から馬鹿にされて捨てられてしまってからではもはやじたばたしてもしょうがない。今ならばまだいい噺家も残っているんだから、ここで立て直そうというんで。当時、速記者というものがございまして。今でもまあ速記というものは議会やなにかで使います。落語を初めて速記というものに掛けて、口演したのは圓朝だそうでございます。それからまァおいおいに速記をやる者もふえましたが。
 今村次郎という、この方はずいぶん古いかたでございまして落語、講談界に対して隠然たる勢力を持っていた。というのは、今の講談社でしょうな、そのほか本屋さんの大きいところ・・・・・・ま、落語、講談なんてえものを掲載する雑誌、そういうところの権力はこの今村次郎という人が一人で握っていたわけで、だから噺家が真打になりますと必ずこの今村さんのところへ、まず顔出しをしなくちゃいけない。

 今村次郎は、当時、講談落語の世界で最も有名な速記者で、『講談倶楽部』に掲載される原稿は彼から提供されるものが少なくなかったし、もともと浪花節を載せていない『講談世界』にいたっては、掲載原稿のほとんどすべてを彼に頼っていたとのこと。

 この今村次郎のご子息が、『落語の世界』などの著者、今村信雄。

 さて、圓遊人気に落語の将来を危惧する三遊亭圓左は、その今村次郎を訪ねる。

 この人にまず頼んで落語研究会・・・・・・こういうものをやってみたいという話をした。それならばというので、当時批評家でありました岡鬼太郎、森暁紅、石谷(いしがや)華堤という、この三人の先生がたに話をしたところが、「まことに結構である。このままではいかんからぜひとも、ちゃんとした噺を残すようにしてもらいたい。じゃあ私たちが顧問になろう」というわけで、三人が落語研究会顧問。今村次郎が万事一般の事務のこと、会計から何から引きうけようという事でできましたが・・・・・・これが明治三十八年でございました。

 明治三十八年、圓生は、まだ五歳。

 さて、第一次落語研究会の始まりなのだが、どんな運営形態だったのかなどについては、次回。

 
# by kogotokoubei | 2019-07-12 12:36 | 落語の本 | Comments(0)
 二週続いて、昨日も雨でテニスが休み。

 そうなると、落語の虫がうずうずする。

 上野広小路亭、南なんが主任の席にも食指が動いたが、久しぶりに志ん輔を聴きに鈴本へ。
 
 この人のことで気になっていたこともあった。

 帰りがけに撮った、幟。
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 客席は、最終的に、七割ほどだったか。
 日曜であることを考えると、若干雨の影響もあったかと思う。
 とはいえ、鈴本の席数は三百近い。末広亭なら一階は満席で二階を空ける人数。池袋なら、立ち見でも全員は入れない^^

 久しぶりの鈴本だが、ご通家さん割合が低い印象。
 四~五名のお仲間が多く、その方たちの大半が、寄席体験の浅い方だったように察する。
 噺家さんが上手から顔を出しても、なかなか拍手が起こらない、不思議な空間だった。

 さて、出演順に感想などを記す。

柳亭市松『道灌』 (14分 *12:16~)
 初。市馬門下、その後も増えてるねぇ。見た目はサッパリと清潔感があって悪くはない。ただし、落研の落語を聴いている印象。昨年から前座修行開始では、しょうがないか。

古今亭志ん松『近日息子』 (15分)
 始との交互出演。この人は、『不精床』に出会うことが多く、犬好きの身にはあまり笑えないのだが、この日はこの噺。
 悪くはないが、途中気になる科白でひっかかる。
 息子が気を回して医者が来た際、父親が「お医者さまではないですか」と言うのは不自然。「○○先生ではないですか」と名を言うか、「先生じゃないですか」でよいのではないかな。

鏡味仙三郎社中 太神楽 (14分)
 親子で登場。近くでお仲間数人でいらっっしゃったお客様が、初めて見ると思しく、さかんに「ほう!」「へぇ!」「凄い!」などと小さな声で歓声。
 私も最初に見た時は、心の中でそう思っていたはず。だんだん、嫌な寄席の客になってきたかもしれない^^

鈴々舎馬風 漫談 (15分)
 定番に時事ネタを交えた漫談だった。
 「ゴーンといえば、鐘(金)はつきもの」は、私の落語のマクラでいただこう^^
 今年の師走で、この人も小三治も満八十歳。そろそろ、元気な姿を見ることができるだけで嬉しい、という噺家さんになりつつある。

古今亭菊志ん『だくだく』 (14分)
 やはり、この人はいい。先月国立で聴いた『野ざらし』も良かったが、こういう掛け合いの多いネタは、持ち味のスピード感、リズムの良さが生きる。というか、この人で、ハズレたことがない。
 菊朗時代から注目していたが、豊富な陣容を誇る圓菊一門でも、決して、兄弟子や弟弟子に負けない実力者だと思う。

すず風にゃん子・金魚 漫才 (11分)
 金魚、頭の上は、もちろん、七夕。
 定番ネタだが、そろそろ聴いていて辛くなってきた。
 
金原亭伯楽『猫の皿』 (16分)
 四月に末広亭で聴いたネタ。マクラの志ん生の思い出も、ほぼ同じ。となると、少し眠くなってしまった。それだけ、語り口が柔らかい、ということでしょう。

三遊亭歌奴『佐野山』 (13分)
 一之輔の代演。なんと、ワイヤレスマイクを持参し、国技館の館内放送の声色を披露。へぇ、あれって行司さんがやるんだ。呼び出しの声、市馬よりいいんじゃないか^^
 途中で携帯が鳴ったが、びくともせず客席から笑いをとる。
 人によって設定や相撲の決まり手が違うが、歌奴は、病気なのは佐野山の父親、決まり手は、谷風の勇み足にしていた。実に、楽しい高座。

ぺぺ桜井 ギター漫談 (14分)
 昭和10年生まれだから、今年84歳。
 元気な姿を拝めるだけで、嬉しい。ギターの出来栄えは、二の次^^

古今亭文菊『長短』 (16分) 
 仲入りは、久しぶりのこの人。いつもながらの、青々とした頭。
 マクラのオカマちっくな語り口は、いつからなのだろう。あまり、感心しない。
 本編、長さんでこれだけドスの利いた語り口は初めて。話しぶりではなく、動作や程よい間で、長さんの気の長さを造形していたが、これは、生で見なけりゃその良さが分からない。短七さんの気の短い江戸っ子ぶりとの演じ分けも見事。やはり、この人は達者だ。
 ネタが良かっただけに、マクラが残念だ。以前は、落語は弱い芸で、という内容が中心だったように思う。
 この人なら、その時々のニュースも取り入れてどうにでもマクラにできるはず。男前で落語家らしくない、なんて気障を演じる必要はなかろう。
 ネタに登場する江戸っ子との対照を考えた演出なのかもしれないが、私は、あまり楽しくなかった。師匠亡き今、周囲に忠告する人はいないのだろうか。

 エレベーターで一階におり、喫煙室で休憩。

 さて、後半。

松旭斎美智・美登 奇術 (13分)
 ハワイアンをBGMに、小さな傘の芸から紐。定番のキャンディーの後に、時計とパン。
 近くの団体さんから、さかんに「へぇーっ!」「すごい!」の歓声。

桂才賀『カラオケ刑務所』 (15分)
 ここ数年、このネタ以外を聴いたことがない。
 気になるのは、この作品が落語協会が募集した新作落語台本の準優勝になったのは、2014年で、五年前。そろそろ「一昨年の準優勝」というのは、あらためましょう^^

林家正蔵『お菊の皿』 (15分)
 『味噌豆』以外のネタは、久しぶり。
 マクラで、八代目正蔵が、怪談ばなしの勉強会を開いてくれた、という話は知らなかった。声の強弱などのメリハリのある高座で、そう悪くはない。「やればできるじゃないの」という印象。とはいえ、香盤からは当り前とも言える。副会長、だしね。

林家二楽 紙切り (13分)
 ご挨拶代わりの「桃太郎」から「七夕」「赤鬼と青鬼」。
 最後のお題で、信号機を使って赤と青を切り分けた機転に拍手^^

古今亭志ん輔『唐茄子屋政談』 (35分 *~16:35)
 昨年も、雨でテニスが休みになり行くことのできた、龍志との二人会以来だ。
 今年二月の国立での名人会で『中村仲蔵』をお聴きになった居残り会メンバーの酷評を耳にしていたので、気になっていた。
 結論から言うと、不安は払拭された。
 時間の関係もあるだろう、徳が吉原田圃で「唐茄子や~でござい」の掛け声を稽古しながら、つい吉原の花魁との蜜月を回想する場面でサゲたが、良かった。
 なかでも、叔父さん夫婦が良い。吾妻橋で身投げをしようとした徳を助けて叔父さんが本所の家に帰ってくる。叔母さんは、徳が臭うのだろう、袖で顔を隠す。このあたり、なるほどと思わせる所作だ。
 心を鬼にして徳を鍛えなおそうとする叔父さん、徳が不憫でならない叔母さん。唐茄子を担いで売りに行かせる直前のやりとりで、目頭が熱くなった。
 徳が着替えてからの姿は、叔父さんの言葉が描写する。須崎で着たはんてん、大山に行く時の笠。「股引の膝が破けてる・・・そのほうが風通しがよくっていいや」「あとは足袋だ、白足袋と黒足袋が片っぽずつ・・・まぁ、いいや、色どりがよくって」
 そんな格好で外を歩いて、知っている人に会ったら・・・と腰が引ける徳。「嫌ならやめろ。とっとと出て行け」と叔父さん。その叔父さんをなだめようとし、徳に謝れと言う叔母さん。
 徳が子ども時分に、叔父さん夫婦に可愛がられたことが察せられる。子どものいないような叔父さん夫婦に、徳は自分たちの子どものように思えていたことが、この場面でしっかり伝わってくる。
 やっと、ふんぎりがつき、荷を背負い唐茄子を売りに出かけた徳だが、汗が目に入り、石につまづいて転んだ田原町。
 もちろん、あの人のいいお兄さんも健在だ。
 このお兄さん、私が好きな落語の登場人物のベスト3に入るなぁ。
 さて、荷が軽くなってからの徳。吉原田圃の回想場面で、花魁と鍋をつついた思い出も、志ん生のように夏の雨の日ではない。かといって師匠のような季節の明確ではない雨でもなく、はっきりと冬の雪の日に設定。花魁の舌の先で、しらたきが結ばれるのも、抜かさない。
 口ずさむのは、小唄♪のびあがり。これは、志ん生の♪薄墨を、師匠志ん朝が変えている形の継承。なかなか結構な一節を披露。
 特徴でもあるが、場合によっては障りにもなる独特の長い間はほとんど挟まず、リズムに乗った一席。とはいえ、人物描写は、決して軽くはない。
 今年のマイベスト十席候補とする。

 
 外はまだ雨。

 このところ、三度、雨の恵みでの落語だ。
 
 さて、徳の叔父さんの住いは、本所達磨横町。
 ここは、『文七元結』の左官の長兵衛さんの住んでいる場所でもある。
 昨年、しばしばお世話になるサイト、「はなしの名どころ」の管理人さん田中敦さんの著作『落語と歩く』から、達磨横町のことを紹介した。
2018年4月6日のブログ

 せっかくなので(?)、再度ご紹介。

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田中敦著『落語と歩く』(岩波新書)

 「第3章 まだ見ぬ落語をたずねて」の「失われた地名」から。

 本所達磨横町は、二席の落語にとって、とても大事な地名です。「文七元結」の長兵衛親方の住まい、「唐茄子屋政談」の酸いも甘いもかみ分けた叔父さんの家が、達磨横町にあります。昭和五十八年(1983)に、江戸本所郷土史研究会が墨田区東駒形一丁目に木製の立て札を建てています。区画整理によって道筋が変わっていますので、多少場所はずれているようですが、本当にありがたいことです。写真では文字が見えませんので、一部を引用します。

    旧本所達磨横町の由来

  江戸時代から関東大震災後の区劃整理まで此の辺りを本所表町番場町と謂い
  紙製の達磨を座職(座って仕事をする)で作っていた家が多かったので、
  番場では座禅で達磨出来るとこ と川柳で詠まれ有名であり天保十年(1839)
  葛飾北斎(画家)が八十一歳で達磨横町で火災に遭ったと謂われる。
  初代三遊亭円朝口演の「人情噺 文七元結」は六代目尾上菊五郎丈の当り
  狂言で(中略:文七元結の梗概)文七とお久は偕白髪まで仲良く添い遂げた
  と謂う。(後略)

 風情ある立て札でしたが、墨色は次第にあせてきており、ついには木札が朽ちてしまったのでしょうか。今は、区の教育委員会が建てた将棋の木村義雄名人の生誕地を示す金属製のプレートに置きかわっています。

 本書には、「旧本所達磨横町の由来」の立て札の写真も掲載されている。

 さすがに、終演後に本所に立ち寄ることはせず、帰って一杯やりながら、「いだてん」を観た。
 いいじゃないの、視聴率なんて関係ないよ。
 今後、若き志ん生と田畑政治をどうからませるのか、楽しみだ。
 つい、うとうとして、早めの就寝。
 ということで、やはり、その日のうちには書き終えることができなかったのであった。

 ところで、志ん輔の日記風ブログ「日々是凡日」では、6日土曜に『唐茄子屋政談』にしようかな、と思いながらも客席を見て、もっと楽しいネタということで『お見立て』をかけ、昨日は、終演後に、昨日のような日は別のネタにすべきで唐茄子屋は選択ミスだった、なんて書いている。
「志ん輔日々是凡日」
 さて、昨日、どんなネタにすべきと思っていたものやら。

 彼のブログ、いろいろ謎かけをしてくれるんだよね。

 まぁ、そんなところも、志ん輔らしさかな。
 

# by kogotokoubei | 2019-07-08 12:57 | 寄席・落語会 | Comments(12)
 体調が気になる金馬だが、金時が来年秋に、五代目金馬を襲名することが発表された。

落語協会HPの該当ページ

 良い襲名だと思う。
 四代目は、金翁か・・・・・・。

 それにしても、相変らず味気のない落語協会のHP。
 それぞれのプロフィールにリンクしているだけで、後は、何ら補足する情報も、なし。


 さて、金馬という名は、三代目が大きくしたことは間違いがない。

 とはいえ、四代目が、師匠とは芸風は違うものの、テレビの人気者の小金馬から、落語の四代目金馬として、しっかり継承したことは評価されて良いと思う。

 テレビで顔を売ってくれた「お笑い三人組」が終了してから、小金馬が「いななく会」という独演会で芸を磨いていたことは、大西信行さんの『落語無頼語録』から紹介した。
2019年5月5日のブログ

 
 では、初代、二代目はどうだったか。

 初代は、二代目三遊亭小圓朝。
 それ以前、金馬は立川だったが、三遊亭で最初にこの人が名乗っていた。
 なお、この人を初代小圓朝とする人もいる。
 しかし、昭和の名人に多くの演目を伝えたあの一朝老を初代小圓朝とする説を支持したい。
 この小圓朝は、志ん生の師匠としても有名。東京落語界の内紛の影響で旅興行に出た小圓朝についていった志ん生の逸話は、「いだてん」でも登場したね。
 もっとも盛んで多くの弟子をとっていたのが金馬時代だったと言われている。

 その弟子の一人が実子の三代目小圓朝であり、二代目の金馬だ。
 最初は太遊、次に圓流、そして二代目金馬を継いだ。
 師匠の参謀役であり、また、師匠没後は三遊派の復興にも活動した人。
 関東大震災の後、「睦会」と「演芸会社」が合併して、現在の落語協会につながる「東京落語協会」ができたが、二代目金馬は、協会に入らず三遊派復興を目指し「三遊睦会」を設立したが、不成功に終わっている。
 
 初代も二代目も、そして三代目も、理由はともかく、東京落語界本流の組織から離反した時期があるのは、共通している。

 三代目は、二代目の弟子ではなかったが、金馬を襲名する際、二代目が金翁になっているので、この形は、四代目と五代目も継承することになる。


 先のことではあるが、金翁が口上に並ぶ姿を、ぜひ見に行きたいものだ。
# by kogotokoubei | 2019-07-04 12:27 | 襲名 | Comments(4)
 先月二度行った寄席で、二度とも聴くことのできた柳亭小燕枝。

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 先日、『落語界』の第24号、昭和54(1979)年11月号から、笑福亭松之助に関する記事を紹介した。
2019年6月21日のブログ

 同誌に、当時の二ツ目、小三太の記事が載っていたことを思い出した。

 これが、「若手ずうむあっぷ」という連載記事で掲載されていた写真。若い!

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 昭和20年生まれなので、当時はまだ、34歳。

 真打昇進を目前に控えた小三太を取り上げていたのだ。
 筆者は、演芸評論家の中野良介さん。

 ご紹介する。

「人間辛抱だ」の十五年選手

 小さん一門といえば落語界の最大所帯。孫弟子まで数えると五十人近い。小三太は、その十六番目。真ん中より少々上の十五年選手である。

 あら、先日の池袋の高座では、十八番目、とおっしゃっていたなぁ。
 まぁ、細かい(?)点は、よしとしよう。
 小団治が今秋の真打昇進のあとは一門の域にとどまらず落語協会の二ツ目勢筆頭を占める。いいかえれば真打への最短地点に到達したといえる。ここで年功序列やランクをどうこうするつもりはないのだがー。
 この数年の春秋に、とかくの批評を浴びながら続いた“集団真打昇進”が今回で終わるという。あとは実力・人気重点に戻って「二年後、小三太と春風亭小朝を昇進させる」という噂について確かめたいと思う。
「どうなりますか、正直いってそれは気にしてないンです。師匠から何もきいていないし、一人で思ってもどうなるもンじゃないしネ。好きなことをやってるンですから、それで充分」というのが当人の心境。

 結果として、小三太は、翌昭和55年に真打昇進し七代目小燕枝を襲名。
 とはいえ、小朝の三十六人抜きがあったので、話題はそっちに持っていかれたと思う。 
 小三太時代、昭和47(1972)年の第一回NHK新人落語コンクールで優勝している。
 小朝が優勝する六年も前のことだ。

 香盤順だけでなく、実力もしっかりあった若手だったということ。

 この記事では、一度はお姉さんが勤務していた百貨店に勤めたものの、落語家を目指して辞めたことや、そのお姉さんが彼の給料を天引きで貯めていてくれたことや、奥さんのことなどが書かれている。

 そして、最後の部分。

ー最近仕込んだネタは?
「小さいのが多く『麻のれん』『元犬』『阿武松』あたり」
 一方、大ネタ専門に挑戦しているのが馬太呂(現馬好)ぬう生(現圓丈)と組んで四年目の「とんでけ!御三家の会」(次回十月二十五日・大山落語亭)なのだ。
 私が一度だけ聴けた(一度しか聴けなかった)馬好の名も出てきた。
2019年3月27日のブログ

 圓丈が昭和53年、馬好が翌54年、そして、小燕枝が55年の真打昇進。
 三遊亭、柳家、金原亭だから、“御三家”か。
 

 この記事を読んで、“好きなことやってるンですから、それで充分”という言葉は、きっと、その後も変らぬ彼の心境ではないかと思った。

 なかなか、そういう了見にはなれないものだ。

 今年七十四歳。

 今後もぜひ聴き続けたい噺家さんだ。

# by kogotokoubei | 2019-07-03 21:36 | 落語家 | Comments(4)
 6月の記事別アクセスのトップ10は、次のような結果だった。

1.「万引き家族」における、樹木希林さんのアドリブのことなど。(2018年9月19日)
2.『抜け雀』のサゲ-『米朝らくごの舞台裏』『落語鑑賞201』などより。(2015年5月15日)
3.あれから八年・・・風化しつつある、甲状腺がん問題。(2019年3月11日)
4.関東大震災と、志ん生。(2012年9月1日)
5.今から140年前、なぜ明治政府は改暦を急いだのか。(2013年1月14日)
6.落語を楽しむための「マナー」について。(2016年6月21日)
7.志らくの弟子なら、「降格は、嫌です!」と言えばいい^^(2019年6月5日)
8.健さんが愛した歌、「ミスター・ボージャングル」についての補足。(2014年11月25日)
9.国立演芸場 六月上席 6月9日(2019年6月10日)
10.「七夕」は秋の季語・・・・・・。(2010年7月7日)

 1位の「万引き家族」に関する記事、さすがに1000は切ったが約800アクセス。古くなってもアクセスが多い記事の一つになりそうだ。

 2位は、約700のアクセスの落語ネタの記事。この記事も四年余り前になるのだが、アクセスが減らないなぁ。

 3位は約600のアクセスがあった、今年3.11の記事。

 4位の記事へのアクセス増は、間違いなく「いだてん」の影響だろう。

 5位の改暦の記事も、とにかくランキングから消えないなぁ。

 6位に、落語を楽しむためのマナーの記事が入った。

 7位に、ようやく当月の記事。

 8位に、よくご訪問を受ける、健さんの好きだったあの歌の記事。

 9位、やっと当月の生の落語の記事。

 10位には、もっとも古い2010年の記事が入った。もうじき新暦で七月七日だからか。旧暦では、明日7月3日から六月、水無月だ。

 6月に二度行けた落語は、どちらも日曜のテニスが雨で中止になったおかげ(?)

 今松、勧之助、という好対照な主任の席で、どちらの高座も実に良かった。

 私のテニスは、しばらくご無沙汰だが、海の向こうでウィンブルドンが始まり、大坂なおみが一回戦敗退。

 全米、全豪と、あまりに早くに勝ってしまった反動、かな。

 まだまだ若い。

 サッカー女子の“なでしこ”もそうだが、若い時には、たくさん負けて悔しい思いをしたほうが、後々のためには良い。

 それは、噺家さんなど芸人にも当てはまるように思う。

 大きな壁にぶち当たることなく、とんとん拍子で進んでからの挫折は、なかなか挽回できないものだ。

 問題は、局所的に、勝った、負けた、と騒ぐ周囲、メディアに惑わされないこと。

 長い目で、自分を客観視し、目標を立て、他人を思いやる気持ちを失わない・・・そんな若者の良い見本が、エンゼルスの大谷ではなかろうか。なかなかできることじゃないけどね。

 安易に金銭や人気が出ることを求めると、大きな崖が待ち受けていることは確かだろう。

# by kogotokoubei | 2019-07-02 08:27 | アクセスランキング | Comments(0)
 昨日、雨で日曜恒例のテニスは中止。

 国立演芸場に電話したが、「円朝に挑む」のチケットは完売、とのこと。

 北海道の帰省で思った以上に歩いたため、やや下半身に疲労が残っており(トシだなぁ^^)、末広亭の居続けは断念。

 木戸銭二千円で三時間という程よい寄席、池袋下席の昼の部を確認すると、昨年真打に昇進した花ん謝改め勧之助が主任の楽日。

 さがみはら若手落語家選手権で彼が優勝した場に居合わせた縁もあり、池袋へ向った。

 雨は止んでいた。

 少し早めに着いて、喫茶店へ。
 隼町のつもりでバッグに入れておいた、森まゆみさんの『円朝ざんまい』を再読。
 これが、やはり面白い。

 その後、やたらと量の多いツケ麺で昼食。中盛り・大盛りサービスとのことで「中」にしたのだが、普通の大盛りだ。
 重たいお腹で演芸場へ。

 出足が遅かったが、最終的には八割程度の入りになった。

 出演順に感想などを記す。

林家八楽『からぬけ』 (15分 *13:46~)
 初。後で調べると、二楽の弟子。ということは、将来は紙切りになるための修行の一環としての落語・・・・・・。
 親子の馬鹿から与太郎の酒の粕、そして、からぬけへ。
 よく覚えていないせいかどうか、あまりに無駄な間があり、体がむずむずするが、もし、紙切りになるのなら小言を書くのも大人気ないか。

春風亭一猿『鮑のし』 (20分)
 この後の寿伴と同じ五月下席から二ツ目昇進。
 勧之助が主任の芝居の楽日なら、一猿と寿伴も二ツ目昇進披露の大千秋楽、ということになる。
 昨年の、さがみはら若手落語家選手権での開口一番(『一目あがり』)以来。それ以前にも小満んの会の開口一番や末広亭で聴いているが、一朝門下で順調に育っている、という印象。

柳家寿伴『清書無筆』 (13分)
 ほぼ一年前の末広亭の開口一番で『真田小僧』を聴いて以来。小満んの会では、『饅頭怖い』のサゲあたりを聴いたかな。
 『真田小僧』でも、金坊が按摩さんの口真似をするなど、なかなか可笑しいクスグリがあったが、こういうネタは、持ち味が生きると思う。
 子ども「宿題は地理だよ」->父親「チリなら任せとけ、テッチリに鯛チリ」とか、子ども「次に歴史」->父親「轢かれたか?」などで客席から程よい笑い。
 ご贔屓のお客さんも少なくなかったようだが、定席四つの披露目の楽日、日曜でもあるから駆けつけてくれたのだろう。
 一猿もこの人も、この日のことを、忘れず、精進してもらいましょう。

台所おさん『猫と金魚』 (14分)
 主任の勧之助の兄弟子で、この二人が花緑門下の真打。二ツ目も大勢いるが、花緑は祖父と同様、弟子を多くとる方針なのかもしれない。
 しかし、弟子の主任の席に師匠がスケで出ないのは、ちと寂しい。
 さて、この人の高座、なんとも楽しかった。
 使用人の峰吉が、金魚を飲む芸があるというのは、オリジナルかな。
 番頭の天然ぶりで大爆笑。
 主人「猫にとって、屋根は庭のようなもの」
 番頭「・・・屋根は、屋根ではないでしょうか。もし、飲みに行って女の子の
    膝に手を置いて『やーねー!』というのは屋根じゃないですが」
 なんてクスグリも、妙に可笑しい。
 見た目、語り口、ともかく個性的な噺家さんで、勧之助とこの人、好対照な兄弟弟子である。

ニックス 漫才 (14分)
 15日の国立とこの日、今月行けた寄席で、二度とも出演。
 コンビを組んで21年、同期にサンドウィッチマン、森三中、というのは定番だが、姉の年齢を暴露するのは珍しいかもしれない。
 聴き始めた頃は、抵抗感のあった不思議な「間」が、妹の「そうでしたかぁ」の科白で埋めることで、リズムが悪くなるのを改善している。だんだん、面白くなってきた。

柳亭小燕枝『長短』 (15分)
 15日の国立では、『家見舞』が前に出ているのに『禁酒番屋』を演じ、この人らしくないネタ選びに苦言を呈したが、この高座は、本領発揮だ。
 師匠小さんの十八番目の弟子と語る。へぇ、この人でさえ、そんな順番か、と驚く。
 その師匠が短気でよく殴られた、たまに剣道の竹刀も飛んできた。一方、大の親友の三代目三木助は気の長い人で、と本編へふさわしいマクラ。
 長さんが短七さんからもらった菓子が不味く、それは長さんの奥さん(お母さん?)からもらったものだった、というのは初めて聴いたと思う。
 長さんが、短七に煙草の火のことを話す前に、「端切れはあるかい?」と聞くが、最近ではこの一言を入れない人も多い。必要だよねぇ。
 こういう高座に出会うと、やはり、この人はいいなぇ、と思う。
 寄席の逸品賞候補として、色を付けておく。

三遊亭円丈『強情灸』 (20分) 
 仲入りはこの人。
 釈台はあったが、途中で「邪魔だ!」と外す^^
 まさか、この人で古典を聴くとは思わなかった。
 マクラでは、寄席の中でも池袋が一番好きで、この空間が落語家と育てると語る。改装前の総ベニヤづくりの真っ黄色のテケツが、なんとも言えなかったで客席大爆笑。
 この人だから、もちろん独自のクスグリはあって、もぐさの周りに海苔を巻いて、「もぐさの軍艦巻きだ」とか、八百屋お七は八百屋のセブンちゃんだったりするが、基本は崩していない。石川五右衛門の辞世「浜の真砂は尽きぬとも」の後半を忘れたのはご愛嬌。なかなか得がたい高座だったと思う。

 
 なんと、池袋の喫煙所が、個室(?)になっていた。
 あの、楽屋前のソファーに座っての一服が好きだったのだが、これも時代の趨勢か。
 寿伴が来場してくれたご贔屓の皆さんに挨拶していた。その笑顔には、二ツ目昇進披露が無事終了した安堵感が溢れていた。

 さて、後半。

柳家小平太『壷算』 (15分)
 昨秋、勧之助と同時に真打に昇進し、さん若から改名した人だが、実は初。
 2003年入門者は多く、彼や勧之助、文菊たちは十人でTENというユニットを作っていたが、その頃、聞き逃していたなぁ。
 同期の勧之助が主任に抜擢されたことについて「二割は嬉しいが、八割は口惜しい」という言葉は、本音だろう。その口惜しさが、大事なのだよ。
 本編は、なかなかのもので、明るくリズムが良い。勧之助とは持ち味が違うが、今後も聴きたくさせる好高座。

柳家小さん『親子酒』 (13分)
 ほぼ一年ぶり。同じ池袋で『二人旅』を聴いている。
 “三語楼”と思えば、なかなか味わいのある高座、と言えるのだ。

ストレート松浦 ジャグリング (13分)
 お手玉、中国独楽、傘、そして皿回しでおめでたく勧之助につなぐ。
 もはや、名人芸と言ってよいでしょう。

柳家勧之助『中村仲蔵』 (35分 *~17:10) 
 同期の小平太が十日間違うネタで勝負していると言っていたので、何を演るか楽しみではあったが、まさここの噺とは。
 マクラで、歌舞伎役者の身分を語りだした時、椅子に深く座っていた私が、姿勢を正したくらいである。
 下立役を稲荷町と言ったのは、連中の部屋がお稲荷様の下にあったからとか、芝居の座にいたなりだからとも言われる、なども含くマクラは、師匠譲りなのだろうが、その下敷きになっているのは、間違いなく八代目正蔵の型だろう。
 驚いたのは、若いわりに、四代目団十郎、仲蔵の師匠の伝九郎を、しっかり演じ分けていたこと。本来の声はやや高めなのだが、年齢とその役柄相応の語り口、仕草で魅せてくれる。
 女房のおきしも、良い。三代目仲蔵の名随筆『手前味噌』では、初代が五段目の定九郎一役でも断らず役作りに励んだのは本人の意思、ということになっているが、勧之助、正蔵と同様に、女房の助言と励ましが仲蔵を奮起させた、としていた。
 この部分、「女は強い」「女房は、偉い」と声高に叫ぶあたりは、なにか私生活を思い出したか^^
 仲蔵、きっと自分に期待しての定九郎一役、とは思ったものの、なかなか良い工夫ができず、妙見様へ願掛け。その満願の日、雨やどりに入った蕎麦屋で仲蔵が出会う旗本が、三村伸次郎と名乗るのも、正蔵と同じ。
 せっかくの工夫も、弁当幕の客から反応がなく、皆「うー」と唸ったままなので、「こりゃ、演り損なった」と思いながらも、これが最後の舞台と思い、最後まで演じきる場面は、時間のせいもあろう、やや割愛気味だったが、この噺の持ち味は充分に伝わる。
 そして、上方へ旅立とうとする途中の日本橋の魚河岸で、思わぬ会話を耳にする。
 「五段目の仲蔵、良かったねぇ。家老の倅があんなナリで山賊になってるのぁおかしいと思ったが、仲蔵、ものの見事に絵解きをしてくれたよ」と、五段目だけで帰って来たという。
「ああ、ありがたい・・・・・・広い世間にたった一人、おいらの定九郎を買ってくれたお客さまがいる。このことを女房の置き土産にして、上方へ」と思っているところに、おきしがやって来た。師匠伝九郎が呼んでいるとのことで、そのまま仲蔵、師匠の元へ。
 この場面は、本来は家に帰ると師匠の使いが来ていたという設定の時間短縮だったのかもしれない。
 サゲは、師匠譲りなのだろう、円生の型でも正蔵の型でもなく、「弁当幕」を生かしたもの。
 主任の楽日、抜擢に恥じない見事な高座。
 拍手はしばらく鳴り止まなかった。
 その丁寧な語り口、登場人物の演じ分け。笑いをとる場面と聴かせる場面の緩急。間の良さ。決して、中堅真打にひけをとらないものだった。
 この高座、今年のマイベスト十席候補とする。


 ハズレはほとんどなかったし、勧之助という、とんでもない発見をしたような高揚した気分で、外に出ると、小ぶりの雨。
 
 この雨に、感謝だなぁ。

 帰宅して、2016年の「さがみはら若手落語家選手権・本選会」の記事を読み返してみた。
2016年3月14日のブログ
 当時の花ん謝の高座について、こう書いていた。
柳家花ん謝『妾馬』 (25分)
 初、である。拙ブログにいただいたコメントで高く評価をされていた方がいて、楽しみにしていた人だ。
 「ここからは、古典落語をお楽しみください」と言って、マクラも短く本編へ。
 たしかに、前半三人は古典にしても改作が施されていて、三作とも新作の趣きだったので、この後の二人の高座は楽しみだった。
 ほとんど無駄なクスグリもなく、本来の噺をしっかり演じた、という印象。
 しかし、お客さんは本来の噺の筋でもしっかり笑ってくれていた。会場の雰囲気にも助けられたように思うが、無理に笑わせようとせずに笑いをとっていた技量は高いものがある。
 八五郎が、自分の孫なのに抱くこともできない、と母親の言葉を妹つるに伝える場面で、三太夫がもらい泣きするという演出を挟んだが、それもわざとらしさがなく好印象。
 この後、八五郎が殿様に召し抱えられたことを地で語ってサゲ。
 好印象で、私の採点は、8。

 私は、志ん吉の『片棒』に投票したのだが、結果は、花ん謝が優勝。
 さがみはらのお客さん、目が肥えている^^
 今後、古典をしっかり演じてくれる若手の有望格と言って良いだろう。

 昨夜は、一杯やりながら「いだてん」に笑いころげていたら、とても記事を書き終えることはできなかったのであった。

# by kogotokoubei | 2019-07-01 12:58 | 寄席・落語会 | Comments(6)

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by 小言幸兵衛