噺の話

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 来週7月27日は、大山の夏山開きだ。

 神奈川県のサイトの観光情報のページから、伊勢原市観光協会のフライヤーをダウンロードできる。
 その中の夏山開きの案内部分をご紹介しよう。
神奈川県サイトの該当ページ

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 「お花講」とは、なんとも可愛い名前だこと。

 落語の『大山詣り』(上方では『百人坊主』)については、ブログを始めて間もなく、記事を書いた。
2008年7月25日のブログ
 
 あらためて『大山詣り』に関して棚の本をめくっていて、あの噺の元ネタについて認識を新たにした。

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中込重明著『落語の種あかし』(岩波書店)

 中込重明さんの著『落語の種あかし』は、岩波書店から2004年6月に発行された。
 しかし、著者の中込さんは、本書の発行を待つことなく、同年4月に三十九歳の若さで旅立っている。
 中込さんには、他にもう一冊、亡くなる直前に書かれた『明治文芸と薔薇』という著作がある。
 どちらも、延広真治さんの支援によるものだ。
 
 他に新書版の入門書的な本、「落語で読み解く『お江戸』の事情」(青春出版社)があって、同書からは拙ブログで何度か引用している。

 田中優子著『江戸っ子はなぜ宵越しの銭を持たないのか?』と比較した記事を書いたこともある。
2010年6月12日のブログ
 杉浦日向子さんの著作も含め、江戸時代にどれくらいご飯を食べていたか、なんて記事も書いた。
2017年9月16日のブログ

 さて、『落語の種あかし』は、中込さんの遺作と言ってよいと思うが、その内容には、落語の原話を探るための、著者の執念のようなものを感じてしまう。

 では、もうじき夏山開きとなる『大山詣り』は、どんなルーツを持っているのか、本書から引用したい。
 さて、落語「大山詣り」の原話だが、他の落語に較べて、これまで諸書に指摘が見られ、広く知られている。その一つ、興津要『日本文学と落語』(1970、桜楓社)の「西鶴と落語」では、典拠を狂言「六人僧」として、これから、井原西鶴の浮世草子『西鶴諸国ばなし』(貞享二年・1685刊)巻一・七「狐四天王」へ、さらに滝亭鯉丈の滑稽本『大山道中膝栗毛』をはさんで、現行の上方落語「百人坊主」・東京落語「大山詣り」へ、という系譜を説明している。他の文献でも一様に、「百人坊主」の出典同様、「大山詣り」の原話を狂言「六人僧」としている。現在考えられるところで最も古い、この種の話柄である「六人僧」から、順に見てゆくことにした。古川久他編『狂言辞典』(東京堂出版)事項編より、その梗概を引用する。
   諸国仏詣を思い立ち、同行二人を誘って旅に出た男(シテ)が、仮にも怒る心など
   持つまいと提案し、互いに誓い合う。途中辻堂で一休みし男が寝入ると、他の二人が
   男の髪の毛を剃り落としてしまう。目をさまし驚くが誓言の手前怒れない男は、このような
   姿では具合が悪いからと一人別れて帰宅し、妻たちを呼び集めると、高野への途中紀ノ川で
   二人が溺れ死んだので、一人残った申し訳なさに僧形になって戻ったと言う。二人の妻は
   夫の菩提を弔おうと尼になるので、男はその髪を高野山へ納めようと再び旅立つ。そして
   高野山で同行の二人に出会うと、三人の仏詣をなじみの女に会いにいったと諫言する者が
   あって、二人は妻のさし違えて死んだと言い、証拠だと髪を見せる。二人は妻のあとを
   弔おうと剃髪する。さて帰郷すると、二組の夫婦は互いの生存を驚き喜び、男に詰め寄る。
   そこへ男の妻も尼になって出てくるので、これも仏の導きであろうと、出家三人・尼三人、
   男女別々に霊場を巡り後世(ごせ)を願おうと、名残りを惜しみ謡留めにする。(三百番)

 ここに引いた文字が示すとおり、ほぼ「大山詣り」の原形が完成されてしまっている。

 狂言に似た話がある、ということは薄々知ってはいたのだが、その内容までは知らなかった。

 中込さんのこの本、一度はざっと読んでいたはずなのだが、狂言の内容までは覚えていなかった。

 中込さんが偉いのは、実に粘り強く、一つの落語ネタのルーツを探ろうとしていること。
 この後、『西鶴諸国ばなし』の「狐四天王」と「お霜月の作り髭」の紹介が続いて、同じく西鶴の浮世草子『懐硯』の「水浴の涙川」の考察もしている。
 しかし、これらの話は、寝ている間に悪戯をする、という点で「六人僧」との類似点はあるものの、仲間の女房までを巻き込んでの復讐ネタとしての趣きはない。

 中込さん、まだまだ負けず(?)、十返舎一九の黄表紙『滑稽しつこなし』(文化二年・1805刊)の挿話に『大山詣り』の原形を見出そうとする。

 この挿話は、神田八丁堀の長屋に住む左次兵衛・太郎兵衛・権兵衛が江の島参詣に行って、という設定だが、ほとんど「六人僧」と同じ筋書き。

 結論として、狂言「六人僧」から着想を得た一九の『滑稽しつこなし』の挿話を母体として、落語「大山詣り」が産声をあげたとする見解を、「大山詣り」成立の主流としたい。
 ところで、一九よりも古い談義本に「六人僧」を生かし、さらに「大山詣り」の趣向にきわめて類似した説話があるので、その粗筋を引いておきたい。滑稽本『俗談唐詩選』(宝暦十三年・1763成立)巻之一「飲中八仙は口頭の交り」がそれである。

 「飲中八仙は口頭の交り」は、江戸橋辺の両替店の主人・知無多屋上戸郎(ちんたやじょうごろう)と酒飲み仲間の他の七人と屋形船に乗って・・・という設定で、上戸郎が髪の毛を剃られた後は、こちらも「六人僧」とほぼ同じ内容。

 『俗談唐詩選』の方が、一九の『滑稽しつこなし』より古いのだが、中込さん、このように書いている。

 これは、『滑稽しつこなし』に先行する、「大山まいり」と同趣向の説話として位置づけられる。ただ、一九と落語との深い関係を考えれば、『俗談唐詩選』から落語への直接的影響について、一九からの影響以上に強く言うわけにはいかないであろう。

 なるほど、十返舎一九と落語との深い関係、か。

 一九のことを、もう少し知りたくなった。

 この後、注記が二頁半続く。
 なにごとも疎かにできない、著者の個性が察せられる。

 「六人僧」から「滑稽しつこない」への飛躍、そして「大山詣り」という傑作落語への発展を知ることは、実に楽しい読書体験だった。

 もちろん、その噺を、多くの名人上手だちが、高座で磨いてきたからこそ、今も、我々が楽しむことができるわけだ。

 音源では、迷うことなく古今亭志ん朝。
 「志ん朝十八番」に、私はこの噺を入れている。
2012年2月3日のブログ

 現役では、多くの噺家さんが演じるが、なかでも春風亭一之輔が出色。

 まさに、この噺の似合う季節になってきたなぁ。

 もう少し、暑さがやわらいだら、寄席か落語会で出会いたいものだ。


 最後に本書の延広真治さんの「あとがき」から、少し引用。

 なお、文中の『会報』は、諸芸懇話会のそれである。

 『会報』二百三十六号(平成十三年十一月刊)に「追悼・古今亭志ん朝」を草して中込君は、悲嘆に打ちひしがれながらも次のように結ぶ。
   やはり、ここで、落語を見捨てるわけにはいかない。だから、精一杯力の限り新しい
   落語家に期待しよう。再び落語の黄金時代の到来が来ることを信じて、その日まで
   生きてゆこう。
 なんと子供たちが、毎朝「寿限無~」を唱える日がやって来たではないか。この寿限無世代が十年たてば木戸銭を持って寄席に通いだす。君の信じたとおり、「黄金時代の到来が来る」(管理人注:“到来が来る”に傍点)のは必至である。どうかその日を中込君、双眼で見定めてくれたまえ。そして傍点部のような表現が本文にも見受けられた場合には、手直ししたことを許してくれたまえ。

 四月二十一日 中込君三十九歳の誕生日に

 追記 四月三十日、中込重明君は白玉楼中の人となりました。奇しくも『明治文芸と薔薇』上梓の日でした。
 
 中込さんは昭和四十年の生まれ。延広さんは昭和十四年生まれなので、二回以上も上なのだが、あとがきからは、同じ落語という芸を愛する同士としての熱い思いを感じる。

 残念ながら、中込さんの著作は、多いとは言えない。

 本書の内容は、今後も紹介していくつもりだ。

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# by kogotokoubei | 2018-07-19 21:18 | 落語のネタ | Comments(0)
 なんとも暑い日々が続く。

 体温を越える暑さの地域もある・・・・・・。

 二年後の東京五輪は、この時期に開催される。

 兄弟ブログ「幸兵衛の小言」に、ほぼ一年前に書いた記事と重複するが、この暑さもあって、あえてこの件について。
 
 個々の競技を含む日程は、「2020東京2020」というサイトに詳細が掲載されている。
「2020東京2020」サイトの該当ページ

 7月24日が開会式だが、サッカーは22日から始まる。
 8月9日が閉会式。
 ちなみに陸上のマラソン女子は8月2日で、男子は閉会式の8月9日。

 昭和39年の大会は、ご存じのように、10月10日が開会式。
 旧体育の日。

 なぜ、こんな暑い時期の開催なのか・・・・・・。

 日本のJOCは「最高のパフォーマンスをしてもらうため7月24日~8月9日にした」と言っているようだが、猛暑が想定できる季節に、どうやって「最高のパフォーマンス」など期待できようか。

 実は、IOCのお達しなのだ。
 それには多分に商売の論理が影響している。

 IOCは開催都市に立候補する大前提として、7月15日~8月31日で開催することを求めている。

 それは、欧米のテレビで五輪の放送時間を確保するためなのだ。

 春先はMLBが始まるし、9月に入るとサッカーの欧州チャンピオンズリーグの戦いがあり、米プロフットボールのNFLも開幕する。

 IOCが夏にこだわるのは、これらとの競合を避けるためなのである。

 要するに、魅力的なプログラムのない“夏枯れ”に、オリンピックを開催させるのであって、そこには、開催都市(国?)の意向などは入る余地がない。

 オリンピックという素材をメディアに高く売るための、猛暑での開催なのだ。

 かつては、開催国が開催時期を決めることができた。
 昭和39年の東京五輪10月開催は、過去の天候を入念に調べ、選手が「最高のパフォーマンス」を発揮でき、また、観客にとっても過ごしやすい季節を優先した。

 今日では、選手のことも観客のことも二の次。すべては、商売のためなのである。

 では、前回のリオ五輪はどうだったのか。

 biglobeの「ZenTech」という旅行に関するサイトに、リオデジャネイロと東京の気温などの比較グラフがあったので、お借りする。
ZenTechサイトの該当ページ

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 リオ五輪は、8月5日から21日に渡って開催された。

 ご覧のように、8月の平均最高気温は、リオの方が東京より大幅に低い。

 一年中で、温暖差が少ないとはいえ、リオは南半球にあるから、季節なら冬なのである。

 安倍首相が、“原発はUnder Control”という嘘までついて招致した五輪だが、果たして、暑さという自然を、どうコントロールしようとしているのか。

 今、体温を越えるかという猛暑の中、「不要不急」の外出を避けるようメディアも伝えている。

 二年後のこの時期も、同じような天候が、十分想定できる。

 人間的な、そして自然と融和した発想に基づくならば、「不要不急」な場合には外に出るな、と言われるような30度を超える猛暑の時期に、五輪など開催するのは愚の骨頂ではないか。

 そもそも、二度目の東京五輪など開催する必要は感じないが、もし、開催するなら、もっと開催する側が主体的に時期なども選べるようにすべきでないか。

 IOCの利益のために五輪が存在すること自体が、問題。

 百歩譲って夏に開催するならば、少なくとも、国民に熱中症などの被害が出ないように最大限の対策を施して欲しい。

 二年後、猛暑の中を東京五輪観戦に出かけることを、政府は「不要不急」と言うわけにはいかないだろう・・・・・・。

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# by kogotokoubei | 2018-07-18 12:36 | 幸兵衛の独り言 | Comments(6)

 NHKの大河「西郷どん」は、西郷と大久保役の俳優がそう悪くないと思い見続けてきたが、そろそろかな、と思っている。

 先週は、沖永良部島から戻った西郷が京に出向く場面だった。

 たしかに、久光は西郷嫌いであるが、あの煙管を噛む場面、多すぎる。

 史実では、あの後、久光は薩摩の京都藩邸の体制改革で西郷を軍賦役に登用している。
 そういったことも、しっかり表現すべきだろう。

 時代考証を担当する人も、史実とは違うことを認めているのだが、それって何か変でしょう。

 SmartFLASHの記事から引用する。
SmartFLASHの該当記事

 明治維新の英雄・西郷隆盛を鈴木亮平(34)が演じるが、「史実との違いを探せばきりがありません」と語るのは、鹿児島・志學館大学の原口泉教授(70)だ。
 『翔ぶが如く』(1990年)、『篤姫』(2008年)などの大河に携わり、『西郷どん』でも時代考証を担当。その原口教授自ら、史実との違いをツッコんでくれた。
 ということで、次のように史実と違う項目(フェイク)をあげている。

【フェイク1】西郷隆盛と主君の出会い
「第1回の放送で藩主・島津斉彬(渡辺謙)がお忍びで薩摩へ帰り、幼少期の西郷隆盛と出会います。しかし、当時斉彬が住む江戸から幕府の許可を得ずに帰るのは、不可能に近い。
 史実ではないので、『天狗』に化けて子供の西郷に会う、というような演出になっています。誤解がないように、番組の最後で、『このとき斉彬が薩摩に来た記録はありません』とナレーションを入れてもらっています」

【フェイク2】西郷は下戸
 主君・斉彬と西郷が飲み明かすシーンもあるが、「西郷は下戸です」。

【フェイク3】西郷家と大久保家の場所
 大河では、西郷家と盟友・大久保利通(瑛太)の家が隣同士という設定だ。
「実際には、150メートルほど離れていました」

【フェイク4】「妙円寺詣り」は夜
 島津義弘の武勇を偲ぶ地元行事、「妙円寺詣り」も描かれている。
「これは本来であれば、夜間におこなわれる行事です。キャストの小学生が夜のロケに出られないので、昼間に撮り終えたと聞いています」

【フェイク5】糸子は幼馴染みではない
 西郷は3人の妻を娶っている。3番めの妻が糸子(黒木華)だ。
「2人が幼馴染みという設定も史実に反します。脚本の中園ミホさんが『2人は子供のときに会わせたい』との希望でしたので、『まあ、いいでしょう』と」

【フェイク6】月照と西郷の関係
 林真理子氏の原作で、話題を呼んだのは僧・月照と西郷の関係だ。主君の斉彬を亡くし、絶望のあまり切腹を図る西郷を、月照が夜具に誘って慰める。尾上菊之助が演じる月照とのシーンは、どう描かれるのか……。
「2人の関係を、林さんは『ボーイズラブ』とおっしゃっていますが、私は月照と西郷は『一心同体』だったと思います。斉彬の君命を受けた西郷と、孝明天皇の勅命を受けた月照は、まさに志をひとつにしていた。男と男、男と女の愛など超えていたのです」

【フェイク7】糸子の奄美大島訪問
 物語の中盤で、妻・糸子が奄美大島に渡り、西郷の2番めの妻・愛加那(二階堂ふみ)とその息子・菊次郎と会う場面がある。
「時代考証の立場からは史実と違うと言いました。ですが、林さんはドラマ上、糸子と愛加那に、女同士で話をさせたかったと。これは歴史小説やドキュメンタリーではなく、新しいジャンルの物語だと思っています。あくまで西郷という人間を描いているのです」

 物語のプロット作りから参加した原口教授は、『西郷どん』で新しい西郷像を描こうと試みた。

 なんと、時代考証家が史実との違いを指摘してはいても、作家の意向で、ありえない出会いを捏造することを許しているということか。

 “新しいジャンルの物語”って、いったい何・・・・・・。

 朝の連続ドラマは、“特定の人物をモチーフとしたフィクション”と、嘘であると宣言している。まぁ、我慢しよう。

 しかし、大河は違うんじゃないの、と思っていたのだが。

 この時代考証家は、こう言っている。

「ぜひ、そういう番組を観ている若い人に観てもらって、新しい国づくりに役立ててほしいですね」

 嘘の歴史を押し付けておいて、何が“新しい国づくり”だろうか?

 そろそろ、このドラマからは撤退かな、と思っている。

 史実との明らかな違いが多いし、西郷隆盛を描くにあたっては不可欠な人物が登場しないなど、納得できないことが多すぎる。

 磯田道史も時代考証に名を連ねているのに、なぜそうなっているのか。
 彼もNHKの番組への出演が多いから、最近は人気タレントとして、了見が変ってきたのかもしれない。

 前半で一番ひっかかったのは、藤田東湖が登場しなかったこと。
 
 西郷にとって、斉彬を別とした恩師を二人あげるなら、橋本左内と、藤田東湖と言われる。

 ちなみに、「翔ぶが如く」では、元新国劇の大山克巳(旧芸名は大山勝巳)が藤田東湖を演じた。

 そして、「西郷どん」で配役でもがっかりしたのは、岩倉具視役。
 鶴瓶では、ちがうんだよねぇ、イメージが。第一に、私は彼を役者とは思っていない。
 ちなみに「翔ぶが如く」では、小林稔侍。

 15日の第二十六回「西郷、京へ」は、岩倉以外にも、いろいろと気になったなぁ。
 慶喜と久光の場面も、ああではないだろうと思う。

 そして、慶喜の側室が、あの女性とは・・・・・・。

 どうしても、女性を中心とするドラマにしようとする無理がある。

 特別番組に「翔ぶが如く」で西郷を演じ、「西郷どん」でナレーションをしている西田敏行が出演していた。鈴木亮平が映像で語っていたが、彼は「翔ぶが如く」の映像を見て、西郷役西田に政治的な長科白が多く、それをしっかり薩摩弁でこなしていたのことに驚いた、というようなことを言っていた。

 ということは、「西郷どん」には、政治的な科白が、ないということか。

 あの時期、登場人物に政治的な話がないはずはないが、それをあまり語らせていない、ということは間違いなかろう。

 妙に、間が多いのも気になる。

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海音寺潮五郎著『西郷隆盛』

 海音寺潮五郎の『西郷隆盛』を、読み返している。

 京に上った西郷と大久保の会話について。

「わしにも茶を下され。酒はあまり好きではなかのに、宴席となると、つい過ごしてしまう」
 と、西郷が言うと、大久保はみずから急須の茶を新たにして、ものなれた手で、淹れてくれた。
「ああ、うまい。もう一ぱい」
 重ねて所望してのんだ。
「京は茶もようごわすが、水がようごわすので、一しお茶がようごわすな」
 と、大久保もまたのんだ。
「菓子もうもうごわすな」
 むしゃむしゃと饅頭を、忽ち二つも食った。大久保は微笑してそれを見ていたが、西郷が三つ目に手を出したところで言う。
「食べながらでようごわす。用談にかかりもす」
「ああ、言うて下され」
 饅頭を食いながら、聞いている。
 大久保は極度に低い声になっている。それは久光のことであった。大久保の言うところによれば、薩摩の癌は久光である、頑迷で、まことにこまる、しかしながら、我々が多年の希望を達成するためには、藩の力を利用することは絶対に必要であるから、久光の機嫌を損なわないようにするしかない、それを考えたから、こうして特別に会うことにした云々・・・・・・。
「なるほど、わしがまたご機嫌を損ずるようなことをしはせんかと思われたわけでごわすな」
 と、西郷は笑った。
 (中 略)
「オマンサアは直情怪行、いつも信じるところを堂々と押して行くお人でごわすが、こんどはそれではいかんのでごわす。こまかな芸当が必要なのでごわす」
 西郷は瞑目して考えこんだ。しかし、これはやらなければならないことだ。この三、四年の間に幕府を倒し、日本の姿勢を立て直さなければ、日本は外国の餌食になってしまうことは確実なのだ。
「よろしい。やりもそ!」
 と、大きくうなずいた。

 
 この会話には、西郷と大久保の個性が、なかなか見事に描かれているように思う。

 「西郷どん」の中では、西郷も大久保も、あまりに表面的な人物としか描かれていないように思う。
 西郷には二枚腰、三枚腰のしぶとさがあることや、大久保は策士として西郷に大きな影響力があったことなど、もっともっと彼らを描くのなら、やり方があると思うなぁ。

 さて、大久保の助言を胸に西郷は久光との対面を終え、久光は在京の幹部を集めて、京都藩邸の組織を改造した。藩主名代は三男の薩摩図書、家老は小松帯刀、軍賦役を西郷が担うことになった。
 西郷の任ぜられた「軍賦役」の「賦」は「くばる」という意味だ。すなわち、軍事司令官の役目である。西郷ははじめて、天下第一の精兵をもって自任する薩摩藩兵の京都における総司令官になったのである。

 西郷に天が活躍する場を与えた京都で、これから内戦が始まる。

 さて、次週、禁門の変までは見ようか・・・・・・。

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# by kogotokoubei | 2018-07-17 12:54 | 歴史ドラマや時代劇 | Comments(2)
 今日7月14日は、里見弴が百三十年前、明治二十一(1888)年に生まれた日だ。

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矢野誠一著『文人たちの寄席』(文春文庫)

 先日、宇野信夫のことで引用した矢野誠一さんの『文人たちの寄席』には、里見弴の章もある。
 なお、本書の初版は、平成9(1997)年4月に白水社から発行され、私が持っている文春文庫版の発行は、平成16(2004)年10月。

 引用する。

 里見弴が熱心に寄席通いしたのは明治の末から大正改元頃の四、五年間、年齢で言うと二十歳前後のことだという。あの娘義太夫こそその全盛期をすぎてはいたが、色物席とよばれただけあってその時分の寄席には落語ばかりでなく、常磐津の岸沢式多津(西川たつ)、新内の三代目柳家紫朝、浮世節の立花家橘之助、講釈の神田松鯉(初代)、中国手品の吉慶堂李彩などなど絢爛たる藝人だちが名人上手ぶりを高座に競っていた。

 立花橘之助の名も出た。
 色物が、今よりもなんとバラエティに富んでいることか。
 もちろん落語家も華々しい名が並んでいた時代だ。

 落語のほうでは、橘家圓喬、初代三遊亭圓右、四代目の橘家圓蔵といった三遊派の大看板が顔をそろえたいた時代で、里見弴も圓喬の十八番中の十八番だった『鰍沢』をきいている。

 このように、三遊派全盛の時代なのだが、里見弴は、こんなことをしていた。

 里見弴の家では年に一度氏神祭を催していたのだが、ある年父親に言いつかってその余興をつとめたことがある。脳脊髄梅毒症に白内障を患って失明した廓噺の名手初代柳家小せんを招いて好評だったのだが、当日来ていた親戚の医者に「ありゃあ梅毒のひどいやつだ、あんなものを座敷に連れてきて」と、さんざ油をしぼられたという。

 当時活躍していた名のある三遊派の噺家ではなく、小せんを選ぶあたり、里見弴は並の落語愛好家ではないと感じるねぇ。

 そうそう、里見弴と言えば、有島武郎、生馬の弟だが、有島家には落語と縁がある。

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永井啓夫著『新版 三遊亭円朝』(青蛙房)

 以前、圓朝の翻案作品について書いた記事で、永井啓夫の『三遊亭円朝』から、『名人長二』について次の内容を紹介した。
2013年8月11日のブログ

 明治二十五年、大阪より帰京後、怪我をした円朝が湯河原で湯治中創作にとりかかった作品である。
 題材は、有島武夫人幸子から教えられたフランスの小説家モーパッサンの小説『親殺し』(Un parricide、1884年作)を翻案、作話したといわれている。
 有島武(1840-1914、有島武郎、生馬、里見弴の父)が横浜で税関長をしていた頃、部下にフランス文学の研究者があり、その人から聞いた話を有島夫人幸子が書きとめて円朝に送ったのである。これに対する円朝の礼状が、有島家に所蔵されている。
 モーパッサンの作品がわが国で始めて翻訳紹介されたのは、明治三十三年「帝国文学」に掲載された「ゐろり火」である。翻案にしても、円朝がその八年前にモーパッサン作品を手がけていることは注目すべき事であろう。

 
 里見弴の母親が、圓朝の『名人長二』誕生に、貢献していたのである。
 その母親の実家は山内という名だが、里見弴の本名は山内英夫。生後すぐに母の実家の養子となったためだが、育ったのは有島家である。なぜそうなったかは、分からない。

 学習院から東大英文科に進んだが、中退して「白樺」の同人になった。
 先輩志賀直哉の影響を受けたが、一度、絶交状態になった。

 志賀直哉との絶交状態はその後解消したが、矢野さんは『大佛次郎敗戦日記』からの引用を含め、次のように書いている。

    里見氏の作風に対し志賀氏は小せん(落語)にならねばよいがと云った由。
 という記述がある。
 戦時風景の記録はさておき、里見弴の作風が柳家小せんにならねばとの志賀直哉のいだいた危惧の念とは、どういうことなのだろう。

 実は、矢野さんの本、この里見弴の章の後「仲入り」の章があり、矢野さんは阿川弘之の『志賀直哉』を読んで、志賀直哉の言葉の謎が解けたことを記してくれていた。
 昨年の春、結局四百五十枚ばかしになったその評伝の一応の完結を見て、ほっとした気分で楽しみにしていた封印切りをしたとたんにぶつかったくだりというのが、
    里見弴についても、自分の柄にあるものは中々上手だから、「若し盲目になって、
    脚が立たなくなれば、小説家の小せんになれる」と、芸人見立てで揶揄した。
 なる一節なのである。
 孫引きのかたちになった鍵括弧内の志賀直哉の言の出典は、雑誌「人間」に寄せた「『人間』の合評家に」なのだが、志賀直哉というひとの他人の仕事に対するきびしい物言いに、あらためて感心させられる。

 実家の宴会の余興に初代小せんを呼んだ里見弴。
 そして、先輩志賀直哉からは、その小せんの名で評されたというのは、落語好きな里見弴らしい、とも言えるかもしれない。

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# by kogotokoubei | 2018-07-14 19:58 | 小説家と落語 | Comments(0)
 今日7月11日は、旧暦で5月28日。

 隅田川花火大会は、享保18(1733)年の5月28日に始まった。

 花火大会公式サイトから、引用する。
隅田川花火大会の公式サイト

川開きと花火その由来

歴史的記録の残るものは両国の花火が最古となっています。江戸時代の享保17年(1732)の大飢餓で多くの餓死者が出て、更に疫病が流行し国勢に多大な被害と影響を与えました。
幕府(8代将軍吉宗)は、翌18年(1733)5月28日(旧暦)犠牲となった人々の慰霊と悪病退散を祈り、隅田川で水神祭を行いました。この時に、両国橋周辺の料理屋が公許(許可)により花火を上げたことが「両国の川開き」の由来とされています。

※江戸時代、隅田川は別名「大川」とも呼ばれていました。古典落語の中では大川と表現されていることがあります。
※両国橋の名称の由来、貞享3年(1686)武蔵国と下総国の国境に掛かっていたので両方の国をつなぐ橋として両国橋の名がついたそうです。

 落語のことを含む注釈も含め、なかなか結構な説明だ。

 両国の花火、となれば落語『たがや』だが、あの噺については、ずいぶん前に書いた。
2009年6月3日のブログ

 あの記事では、由来や画像を「NPO法人 すみだ学習ガーデン」さんのサイトからお借りしたのだが、同法人は今年三月末で解散になったらしい。
「すみだ学習ガーデン」のサイト
 花火のことを知るのに大いに参考になったのだが、残念。

 さて、その『たがや』で思い出すことがある。

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 この噺となると、まずは三代目桂三木助、そして、三遊亭金馬を思い浮かべるが、志ん生ももちろん手がけており、立風書房「志ん生文庫」の「志ん生長屋ばなし」に収められている。

 この本、解説は推理作家、SF作家、そして翻訳家としても活躍した都筑道夫。

 昭和四年生まれの都筑道夫、まずは、落語との出会いから。

 古今亭志ん生を最初に聞いたのは、レコードによってで、演目は「替り目」だった。わが家にはそれまでにも、柳家金語楼の「兵隊」や、三遊亭金馬の「居酒屋」のレコードがあったが、三歳上の兄が買ってきた志ん生の「替り目」は、たちまち私の気に入って、口まねするくらい、なんども聞くようになった。

 志ん生「替り目」との出会いは、小学校の時。

 兄の影響もあってレコードの落語が好きになった都筑道夫は、寄席にも出向くようになる。
 神田の神保町にあった花月、上野の鈴本、人形町の末広、四谷駅から四谷三丁目のほうへ少し行った左がわの裏通りにあった喜よし、たしか現在地とは反対側にあった新宿の末広、あちらこちらに出かけたが、山の手線の大塚駅前、天祖神社のわきの道を入ったところに、大塚鈴本という寄席が出来ると、そこへいちばん頻繁に行くようになった。私たちの家が小石川の江戸川橋にあって、ほかの寄席よりも、この大塚鈴本が近かったからだ。
 短篇小説「円太郎馬車」や長篇小説「寄席」、寄席芸能に関する随筆で、注目はじめていた正岡容が、そのこと大塚の三業地のなかに住んでいて、隔月だったか、毎月だったか、「寄席文化向上会」という会を、大塚鈴本で主催していた。現在の目で見ると、なんとも嫌味な名前の会だけれども、戦争ちゅうだから、しかたがない。
 正岡容については、今さら説明するまでもないだろう。

 都筑道夫の兄は、落語好きが高じてその後、噺家になった。

 たしか昭和十八年ごろだったが、兄は正岡容のところへ出入りしていたので、その口ききで古今亭志ん生の弟子になった。兄を通じて、志ん生の芸談を聞くのが、私の楽しみになった。

 このお兄さん、志ん生門下では、古今亭志ん治を名乗った。

 昭和二十一年には、志ん生が大陸から戻って来ないこともあり、正岡容のすすめで五代目古今亭今輔門下となり、桃源亭花輔を名乗る。その三年後には、鶯春亭梅橋で真打昇進している。
 そうそう、桂歌丸が五代目今輔に入門したのが昭和二十六年なので、当時、一門の真打として梅橋が同門だったということになる。

 私は原稿を書いて生活するようになっていて、なるべく兄の内面には立入らないことにしていたから、くわしい事情はわからない。なにしろ、私はまだ十九、二十、独立して生活をはじめるのに、精一杯だった。けれど、兄が悩んでいることはわかった。その言葉のはしばしから、しだいに私は落語家がきらいになっていった。
 いまでも、私は落語は好きだが、落語家は好きではない。ふたたび、ホールの落語会なぞへ通うようになったのは、兄の鶯春亭梅橋が二十九歳で、若死にしてからである。寄席はすっかり変っていた。志ん生の芸は円熟して、「火焔太鼓」の底ぬけのおかしさ、「今戸の狐」の深い味わい、「黄金餅」の陰惨さが笑いに突きぬけているところ、悟りの境地のような笑いの世界に、私は堪能した。

 小学校で知ったレコードの志ん生から始まる、長い年季の入った志ん生ファンが、都筑道夫ということだ。

 しかし、その志ん生に、異変が起きた。

 その志ん生が倒れ、桂文楽の調子がおかしくなったときには、私はもう落語は聞くまいと思った。志ん生が再起して、ホールの落語会に出たり、独演会をひらくようになると、私はできるかぎり逃さずに出かけていった。
 しかし、人形町の末広で独演会を開いたときには、あまりのいたましさに涙が出た。小泉信三が好きだったという大津絵の「冬の夜」をうたったのだが、私はごく前のほうにすわっていたのに、声がかすれ、言葉はもつれ、まったき、聞きとれない。おまけに最後の演目の「たがや」では、武士の首のかわりに、たがやの首を飛ばしてしまったのである。
 それだけなら、名人も病いには勝てない。そうなってまで、独演会をひらきたがる志ん生に、拍手を送るだけですんだのだが、翌週、ある週刊誌にその独演会の記事がのった。筆者は安藤鶴夫で、まるでなにごともなく、好調な独演会であったかのように、しかも大津絵「冬の夜」をうたったあと、小泉信三をしのんで、志ん生が泣いている姿をえがいて、きわめて感動的な記事にしていたのだ。
 嘘をつきやがれ、と私は思った。あれは、めちゃめちゃな独演会だった。感動的なものがあったとすれば、それに黙ってつきあっていた客たちの、志ん生に対する愛情だけだ。私は落語家と落語評論家が、またあらためて嫌いになって、それからはもっぱらレコードで、志ん生を聞くようになった。

 『たがや』で、武士の首ではなく、たがやの首を飛ばすという筋がないわけではない。元々は、そういう筋だったとも言われる。

 しかし、この「志ん生長屋ばなし」収録のこのネタでも、飛ぶのは武士(殿さま)の首となっているから、わざと志ん生が筋を変えたわけではない。

 都筑道夫と安藤鶴夫が、同じ高座を聴いて、なぜ、こんなことが起ったのか。

 アンツルさんだって、その日の高座や大津絵を高く評価していたとは思えない。
 楽屋での志ん生の姿が、もっとも印象深かったのだろうし、病後の志ん生の高座を批判することを憚る気持ちが、新聞の記事につながったのだろう。

 かたや、小学生の頃からの筋金入りの志ん生ファン都筑道夫としては、「あれは、私の好きな志ん生ではない」という思いが強かったのだろうし、あくまで高座を客観的に見る姿勢が強かったのではないだろうか。

 また、「嘘をつきやがれ」という言葉からは、兄のみならず正岡容と懇意にしていた都筑道夫だから、正岡のライバル(?)アンツル、という強い対抗意識も感じる。

 隅田川花火大会が始まった旧暦5月28日、『たがや』に始まり、同じ志ん生の独演会の時間と空間を共有していた二人のことまで、思いは発展していったのである。

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# by kogotokoubei | 2018-07-11 19:54 | 小説家と落語 | Comments(2)
 私のブログは、芋づる式なことが、多い。

 歌丸の記事からのつながりで、最初の師匠五代目古今亭今輔のことを宇野信夫の本を元に書いた。

 しかし、宇野信夫という劇作家のことを知らない人も多いかもしれない。
 私も、落語を通じて知るようになった人で、そう詳しくはない。

 歌舞伎作品を元にしたものが多いが、落語をいくつか創作している。
 柳家小満んの『大名房五郎』と『江戸の夢』を聴いているが、元は円生のためにつくった噺。円生のために作った作品は、他に『小判一両』という噺もある。
 雲助では『初霜』を聴いている。元は師匠馬生のための創作。
 前の記事では、『霜夜狸』を五代目古今亭今輔が真っ先に演じてくれたことを紹介した。

 正直なところ、劇作家としての宇野信夫については、よく知らない。

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矢野誠一著『文人たちの寄席』(文春文庫)

 ということで、矢野誠一さんの『文人たちの寄席』を引っ張り出した。
 本書の初版は、平成9(1997)年4月に白水社から発行され、文春文庫化は、平成16(2004)年。

 ずいぶん前のことだが、夏目漱石について書いた記事で、本書から引用している。
2009年2月9日のブログ
 また、正岡子規のことを書いた記事では、子規作のなんとも楽しい地口を引用したことがある。
2009年12月22日のブログ

 さて、本書の宇野信夫の章。
 冒頭から、まず引用。

 「昭和の黙阿彌」というのが、劇作家宇野信夫につけられた称号のようなものだが、嬉しくなかったわけはない。市井のひとたちの哀しい営み、世態、人情を描かせてこれだけの芝居書きはそう出るものじゃない。劇作家とよぶよりも、狂言作者がふさわしい最後のひとだった。

 「昭和の黙阿彌」とは、これまた凄い形容。
 1904(明治37)年埼玉県熊谷に生まれ、浅草は橋場に育った宇野信夫は慶應大学文科在学中から「三田文学」に戯曲を発表。1933年の『ひと夜』が友田恭助の築地座で上演され劇作家デビューを果たしたのだから、本人の言うように「出発点は新劇」だった。出世作となったのは、1935年二代市川左團次による『吹雪当峠』に次いで上演された六代目尾上菊五郎が破戒僧龍達を演じた『巷談宵宮雨(よみやのあめ)』で、以後六代目との提携をふかめ、『小判一両』『春の霜』『柳影沢蛍火』『怪談蚊喰鳥』など次々と歌舞伎に新作を提供する。
 1953年に、中雁治郎・扇雀親子(もちろん先代)のため脚色新演出にあたった近松門左衛門『曽根崎心中』は空前のヒット作となり、森鴎外『高瀬船』『ぢいさんばあさん』、谷崎潤一郎『盲目物語』などの脚色作品もくりかえし上演されている。

 そうだったんだぁ。
 二十代で、劇作家としてデビューしていたんだ。

 引用を続ける。

 1972年に藝術院会員に、85年には文化功労者に選ばれるなど、晩年の宇野信夫は劇界の長老的存在になるのだが、その長老は、日本敗戦まで住んだ浅草橋場界隈の下町的風情をなつかしむことしきりで、自分の作品の根底に息づくそのあたりの気分や、暮しのなかでさり気なく使われている魅力ある言葉のあれこれを、じつにしばしば洒落た随筆に仕立てていたものだ。
 なかでも、この橋場で送った学生時代の、おなじく若いまだ世に出ない落語家たちとの交流ぶりをくり返し描いたものは、このひとの晩年の随筆のなかでも珠玉の輝きを見せている。
 その“珠玉の輝き”を見せている随筆について、さらにこのように矢野さんは書いている。
 そんな若き日の落語家との交流を描いた随筆の極め付けと言っていいのが、1983年4月から85年8月まで二十七回に及び国立劇場演藝場のパンフレットに連載された「いまはむかしのはなしかの話」で、やたら面白くて、毎回が楽しみだったのを思い出す。

「いまはむかしのはなしかの話」は、昭和61(1986)年に河出文庫化(『今はむかしの噺家のはなし』)されていて、前の記事で、歌丸の最初の師匠五代目古今亭今輔のことを紹介した『私の出会った落語家たち』の底本となっている。

 この後、矢野さんは、橋場に集まった当時の売れない若い落語家たちのことを、少し紹介している。
 
 いったいなにがきっかけで、そんな坊っちゃん書生と落語家のつきあいが始まったかについて、宇野信夫にもはっきりした記憶はないらしい。
 と矢野さんは書いているが、実は、文庫版の『私の出会った落語家たち』には、『今はむかしの噺家のはなし』にはなかった「橋場の家」と「路地の痴話」という章が『昭和の名人名優』という著作から収録されており、「橋場の家」に、初めてつき合った噺家が、蝶花楼馬の助であったことが書かれている。
 金馬を知っている友人がいて、新石町の寄席立花亭で金馬がトリをとっていた時、その友人に連れられ楽屋に行った際、馬の助もいた。宇野は馬の助の『鰻の幇間』や『干物箱』が好きだと言うと本人が喜んで、「いずれお宅へうかがいます」と言って、数日後、橋場を訪ねたことがきっかけらしい。本名、小西万之助。その後、八代目金原亭馬生になった人で、志ん生の大の友人。自ずと、橋場には甚語楼時代の志ん生や当時柳楽だった八代目可楽が入り浸ることになった。

 『私の出合った落語家たち』によると、父親が出張所にしていた橋場の家には二軒の貸家、蕎麦屋と道具屋がついていて、その家賃が宇野信夫の生活費となっていたようだ。そして、貧乏落語家がやって来ると、よく隣の蕎麦屋から天麩羅蕎麦をとってご馳走してあげたらしい。

 さて矢野さんの本、宇野信夫の章の締めの部分。

 学校の教室や書物からは得られないざまざまなことを、落語や講談から学んだことに感謝しつづけ、遠慮なくひとをさらってしまう歳月に、やがては自分もさらわれてゆくとしていた宇野信夫が、ほんとうにそうなったのは1991年10月28日のことだった。

 志ん生のマクラ、「こんなこと、学校じゃぁ教えない」の名科白を思い浮かべる。

 若かりし日、売れない落語家たちとの交流によって得た、学校じゃ教えないいろんなことや体験が、「昭和の黙阿彌」を生み出すための大きな財産となったに違いない。

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# by kogotokoubei | 2018-07-09 21:53 | 落語家の支援者 | Comments(0)
 歌丸のことを書いた後、最初の師匠、五代目今輔について書かれた本をめくっていた。
 本名鈴木五郎、明治31(1898)年生まれ、昭和51年(1976)没。
 群馬県佐波郡境町(現、伊勢崎市)の出身で、「お婆さん落語」で売り出し、「お婆さんの今輔」と呼ばれた。曲芸師の鏡味健二郎は実子。

 ちなみに、歌丸は、今輔門下にあって、当時若手の寄席の出番が少ないなどについて、他の若手と一緒に待遇改善を訴えたことから今輔の逆鱗の触れ、一時落語界を離れている。
 二年ほど化粧品のセールスなどをした後、兄弟子米丸の仲介で戻り、米丸の弟子として再出発した経緯がある。
 
 今輔の前名も、米丸。

 
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宇野信夫著『私の出会った落語家たち』

 宇野信夫著『私の出会った落語家たち-昭和名人奇人伝-』は、2007年河出文庫の発行だが、1986年に同じ河出文庫発行『今はむかしの噺家のはなし』を底本にして、一部を割愛、いくつかの章を他の本から追加したもの。

 この本に、米丸時代のことが書かれているので、紹介したい。

 米丸になってからの今輔は少しは売れてきた。昭和十年の一月に「吹雪峠」という私の作が二代目左団次によって東劇に、九月に六代目菊五郎によって「巷談宵宮雨」が歌舞伎座に上演された。この二作とも、米丸は文都(里う馬)柳楽(可楽)馬の助、甚語楼(志ん生)と一緒に見物してくれた。但し私の作だけを、三階の一幕見の立見席で見てくれた。もちろん、普通の入場料を払うほど楽ではなかったからである。しかし、これがほんとうの「惣見」だと言っていた。

 里う馬は、九代目。本名黒柳吉之助で、“吉ッつあんの里う馬”と呼ばれた人。明治25生まれだから、志ん生の二歳下。あの名人四代目橘家円喬に入門したものの半年ほどで師匠が亡くなり、出鼻をくじかれて活弁に転向した。それも半年でやめ、四代目円蔵門下から六代目馬生(四代目小さん)門下となったものの、師匠の妹さんとの不祥事から北海道にドロンした後は、一時幇間になった、というなんとも波乱の半生を送った人。
 馬の助は、亭号は蝶花楼で、明治29年生まれ、後に八代目金原亭馬生になった人。本名小西万之助。志ん生とは若い頃いちばんの友人。
 その二人とは里う馬になった文都も仲が良く、頻繁に橋場の宇野邸を訪ねては、ご馳走になっていた。
 八代目の可楽になった柳楽は、志ん生の口ききであの世界に入った人で、明治31年生まれ。
 そういった兄貴分志ん生を中心にした悪友たちの中に、米丸時代の今輔も加わっていたのは、いささか意外であった。
 橋場の旦那、さすがに多くの噺家に慕われていたということか。

 引用を続ける。

 米丸の芸風は、前述の通りぶッきら棒でそっけなく、義理にもうまい噺家とはいえなかったが、その人がらが堅実で、しっかりした見識をもっていた。
「私のことを仲間が上州だ、群馬県だ、と言うから、こっちから先に、私は群馬県だからね、私は上州だからね、と何かにつけて先廻りして言ってやると、この頃は私のことを誰も群馬県だ、上州だ、と言わなくなっちまいましたよ」そんなことを私に言ったことがある。

 訛りについて思い出すのは、初代正楽が信州出身、二代目正楽が春日部出身で訛りに苦労して噺家から紙切りに転身したことは有名。
 しかし、米丸は、その出身による言葉のハンデを、新作落語によって克服した。
 戦後、今輔になってから、新作では第一人者になった。今輔は自分の芸風が古典落語ににむかないことをよく知っていた。自分に生きる道は新作にあると、早いうちから悟っていた。私の「霜夜狸」を誰より先に高座にかけたのは、今輔である。
 鈴木通夫という私の友人が、今輔の理解者で、「おばあさん」を主人公とする落語を何篇か書いた。今輔はそれを生かして高座にかけて大いに迎えられ、「今輔のおばあさん」で通るようになった。今輔は鈴木氏にしんから感謝したに違いない。
 鈴木氏がこんなことを私に話したことがある。
「大晦日の晩、今さんがわざわざ鎌倉の私の家をたづねてくれた。誰でもいそがしい大晦日に、なんの用だろうと思っていると、私の原稿料をもってきてくれた。苦労をしたんだから、私の懐を考えてくれたんだろうと思って、ほんとうに有難かった」 
 里う馬の生活を思いやって、まとまった金を出して、
「返すときがあったら返してくれ、返さなくても結構」今輔さんこそ男の中の男だ、里う馬は古風なことを言って、涙をこぼしていた。

 いい話ではないですか。

 このあと、押しもおされもしない人気者になった今輔は、宇野信夫が高齢者を対象に開催していた「敬老会」に、安い謝礼金にも文句を言わず、毎年出演してくれたことが明かされている。

 今輔の人柄の良さ、仲間思いで義理堅い人だったことがうかがえる。

 たぶんにそれは、上州生まれであることを周囲からもからかわれ、自分もその訛りに苦労してきた若い頃の我慢の日々が。土台にあるのだろう。

 だから、弟子だった歌丸(当時は、今児)たちの行動が、我がままな振る舞いとしか思えなかったのかもしれない。

 歌丸のことから、最初の師匠今輔の人となりを思い返すことになった。
 
 晩年、志ん生とは、きっと協会などの縛りなどを越えた交流もあったのではないだろうか。

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# by kogotokoubei | 2018-07-07 11:57 | 落語家 | Comments(2)
 さぁ、W杯サッカーは、今日からベスト8の戦いだ。

 ウルグアイはカバーニが欠場すると、痛いなぁ・・・・・・。

 日本のメディアは、これからの決戦に関するニュースよりも、日本の次期監督に関するさまざまなニュースでもちきりだが、どうも納得がいかない。

 日本サッカー協会は、次の監督のことを考える前に、やるべきことがあるのじゃないか、ということ。

 一次リーグ突破で田嶋会長は「めでたし、めでたし」と思っているかもしれないが、忘れていけないのが、この四年間の監督交代問題だ。

 アギーレ退任、そして直前でのハリルホジッチ更迭については、それぞれ記事を書いた。
2015年6月18日のブログ
2018年4月10日のブログ

 二度の監督交代による、チーム強化の遅れ、そして時間とコストの浪費は、日本サッカー協会幹部に責任がある。

 それこそ、西野と一緒に、今月いっぱいで田嶋は会長の座を降りるべきせはないのか。

 一次リーグ突破とベルギー戦の惜敗によって、もはやサッカー協会は禊ぎは終わった、と思っているのだろうか。

 とんでもない。

 もし、セネガルがコロンビアに追いついて一次リーグで敗退していたら、間違いなく、田嶋会長の責任問題が追及されたはずだ。

 結果、西野ジャパンは綱渡りの賭けに勝ち、ベスト16に進んだが、だからと言って、日本サッカー協会のこの四年間の失態は消えるわけではない。

 たしかに、数多くの監督就任希望者からラブコールが届き、他の国との争奪戦もあるのだろうが、慌てて決める必要はなかろう。

 ブラジル大会終了からロシアでの戦いまでの四年間全体を検証してから、次のカタールまでの四年間に臨むべきだ。

 ハリツホジッチ更迭の理由に、田嶋会長は監督と選手のコミュニケーションの問題を挙げた。
 しかし、より大きな問題は、監督と協会側とのコミュニケーションだったはず。

 そういいい身では、技術委員長としてハリルホジッチを支援する立場にいた西野にだって責任はある。

 西野が監督慰留を固辞した理由には、そういうことへの思いもあると、私は察する。


 日本フェンシング協会では、昨年、三十代の太田雄貴が会長に就任した。
 もちろん、同じには考えられない要素は多いが、組織改革に関して見習うべき点はあるだろう。

 日本サッカ-協会の理事には、フットサル担当で北澤豪の名はあるが、もっと若手の日本代表経験者が理事に加わってもいいのではないか。


 代表メンバーも次回に向けて若手への世代交代が必要だろうし、期待する若手も少なくない。
 協会組織だって、代替わりを図る必要があるのではないか。


 次期監督は日本人か外国人かの論議の前に、それを考える組織体制を一新すべきだ。

 まずは、責任を取りましょうよ、田嶋さん。

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# by kogotokoubei | 2018-07-06 12:33 | 幸兵衛の独り言 | Comments(0)
 昨日、過去の記事へのアクセスが急増している。

 それは、三遊亭小円遊について書いた、2013年10月の記事。

 談志の本を元に、「笑点」でつくられた“キザな男”というレッテルが、あの噺家さんの重荷になった、ということを書いたものだ。
 
 これまでにも、桂歌丸が入院するとか、あの番組を降板するなどで話題になると、この記事のアクセスが急に増えていたが、今回は尋常じゃない。

 やはり、歌丸という噺家さんの影響力は大きいと痛感。

 私が体験した歌丸の高座で印象深いのは、何と言っても一昨年の末広亭5月上席の二日目。

 あれは、副鼻腔炎の手術から退院してから行った、昼夜居続けの日で、昼の主任で『おすわどん』を聴いた。前の年と同様、板付きだった。
 ちなみに、夜の部は真打昇進披露興行。
2016年5月3日のブログ

 あの日が、私が体験した末広亭の最多来場者数日だ。

 ブログの内容を少し振り返ってみる。

 まだ午後1時を少し回ったばかりなのに、「立ち見」とのこと。
 五日までの昼の部の主任が、桂歌丸・・・あの、笑点降板発表効果、ということもあるか。

 どこかでお茶でもしようか、と思わないでもなかったが、覚悟(?)を決めて会場に入る。
 立ち見を含め、とにかく、凄い入りだ。
 昨年も同じ五月上席の真打昇進披露も歌丸が昼の主任で立ち見だったが、それ以上。
 桂竹丸の高座の途中だったが、立ち見のお客さんを含め、彼の漫談で笑いの渦、という状態。
 笑いたい人、あるいは、寄席初体験のお客さんも多そうだ。
 しばらく後ろで聴いていた。

 二階に上がる階段にも、座っているお客さんがいたので、その横に腰を掛けていた。
 小南治の高座が始まった。

 そうそう、あの番組の降板を発表したばかりの主任の高座だったなぁ。
 
 その一年前には、やはり板付きで『城木屋』を、二重に取り巻く立ち見の客の一人として聴いた。
2015年5月6日のブログ

 晩年積極的に歌丸が取り組んだ円朝作品については、聞かず嫌いを後悔した高座が、2012年の国立演芸場の『双蝶々 雪の子別れ』だった。
2012年4月14日のブログ
 その時は、次のように書いている。

桂歌丸『双蝶々 雪の子別れ』 (48分)
 どう言えばいいのだろう。なぜ今までこの人を聞かず嫌いでいたのかを、今は反省している。音源なら何と言っても円生になるが、最近は五街道雲助一門が、『長屋』~『定吉殺し』~『権九郎殺し』~『雪の子別れ』の通しで演じるなど、新たな試みもあって決して過去の噺ではなくなったが、歌丸の円朝もの(このネタは円朝作ではないという説もあるが)への取り組みは年季が入っているようだ。
 談志と同じ昭和11年生まれ今年76歳の歌丸の口跡ははっきりしているし、地の部分と登場人物が語る部分も流れるように展開されていく。たしかに、白酒が一門の会の楽屋ネタとして、この噺は病気の老人の噺でつまらない、という会話があったと言っていたが、本来『双蝶々』と言えば、この噺。終盤、雪に見立てた紙吹雪の演出と三味線も程よく効果的。この高座に出会えただけでもこの中席は満足である。もちろん、今年のマイベスト十席候補とする。

 結果としてその年のマイベスト十席には選ばなかったが、歌丸という噺家さんの認識を新たにした高座だった。

 談志との関係や「笑点」のこと、実家のこと、奥さんのことなどは、多くのメディアで取り上げているので私が紹介するまでもない。

 私にとっては、末広亭を階段まで含め超満員にする動員力を持った噺家さんであったことが、何と言っても思い出深い。

 そして、明解な口調が地を中心にした内容との相性の良さもあって、円朝の怪談噺で新境地を開いた噺家さんであったことも記憶されるべきだろう。

 
 世の中には、大喜利が落語だと思っている人が、少なからずいらっしゃる。
 それも、あの番組の影響力の凄さと言えるだろう。
 
 柳家小満んが、関内ホールの小ホールで独演会をする同じ日、大ホールで歌丸独演会があり、多くの方が並んでいたのを思い出す。

 テレビの人気者だったからと言って、桂歌丸の噺家としての実力は表層的なものではない。

 落語芸術協会の会長として、末広亭の席亭から客の入りの少なさに苦言を呈されたこともある。

 今思うと、末広亭に板付きで出演していた時、歌丸の目には二階までぎっしり埋まった客席は、どう映っていたのだろうか。


 小円遊について書いた五年前の記事に、こんなことを書いていた。
2013年10月5日のブログ

 小円遊が亡くなった時、番組では喧嘩相手という役割にあった歌丸が号泣したと言われている。同じ芸術協会の仲間として、きっと小円遊を心配する思いも強かったに違いないし、高座に上がるよう忠告したこともあるだろう。
 そして、何より本人の持ち味に近かったのかもしれないが、“キザな小円遊”というテレビ向けのキャラクターで人気は出たものの、落語を磨く上で、その虚像が大きな障害になっていたことを、歌丸が十分すぎるほど分っていたからこその、涙であったように思う。

 その小円遊と再会し、さてどんな思い出話にふけっているのやら。

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# by kogotokoubei | 2018-07-03 21:28 | 落語家 | Comments(12)
 西野ジャパンに、しばらくの間、夢を見させてもらった。
 よくやった、と言う言葉しかない。
 戦前、居残り会の皆さんには、2対2でPK戦の勝利、と予想をお伝えしていたが、もう一歩・・・・・・。

 先月の記事別アクセスランキングは、次のような結果だった。

1.FIFAの放映権料2000億円のうち、なぜ日本が400億も支払うのか? (2014年6月30日)
2.池袋演芸場 六月上席 夜の部 6月8日(2018年6月10日)
3.池袋演芸場 六月上席 昼の部 6月8日82018年6月10日)
4.国立演芸場 中席 6月19日(2018年6月20日)
5.山手線新駅の名前は「高輪大木戸」で、江戸の町を再現!(2014年6月4日)
6.志ん朝の『茗荷宿』が、聴きたかった!(2018年6月16日)
7.健さんが愛した歌、「ミスター・ボージャングル」についての補足。(2014年11月25日)
8.「万引き家族」を観て、思うこと。(2018年6月25日)
9.川島雄三、生誕百周年記念企画のこと。(2018年6月13日)
10.旧暦五月、夏の噺について。(2018年6月14日)

 1位は、四年前のこの時期の記事。
 ブラジルW杯のFIFAの放映権料2000億円のうち、なんと日本が400億、なかでもNHKが280億も支払っていたらしい、という話。今回のロシア大会でも、同じように日本が巨額の負担をしているようだ。記事は古いが、旬のネタ、ということか。

 2位、3位、4位は、先月行った寄席の記事。
 
 5位は、これも四年前の記事で、山手線新駅の名前について書いたもの。公募は6月30日で終了。「高輪大木戸」になる可能性は低いだろうが、「高輪」はあるかもしれないなぁ。

 6位は、矢野誠一さんの本で、志ん朝が、一時期『茗荷宿』をよく演っていたという扇橋の話を知り、少し驚いた、という記事。私の知る限り、音源は残っていないはず。寄席でしか聴けなかったのだろう。どんなクスグリを挟んだのかなぁ。聴きたかった。

 7位は、安定的(?)にアクセスの多い記事。ちなみに、私は携帯音楽プレーヤーで、各落語家のテーマソングを頭に入れているのだが、古今亭志ん生はニッティ・グリッティ・ダート・バンド(NGDB)の「プー横丁の家」そして、桂文楽は同バンドのこの歌にしている。なんとなく、イメージでそうしている。
 
 8位は、先日久し振りに言った映画の記事。安藤サクラ、いい女優です。

 9位の記事は、川島雄三生誕百周年企画について書いたものだが、10月の落語会、なんとか行きたいものだ。

 10位は、夏の噺のことを書いたもの。
 あの記事で紹介した二冊の本で一致した夏の噺十四席(笠碁・青菜・素人鰻・二十四孝・船徳・お化け長屋・たがや・夏の医者・佃祭・あくび指南・水屋の富・千両みかん・麻のれん・唐茄子屋政談)、先日の末広亭居続けでは、一席もなかった^^
 そうそう、小三治は、初日『青菜』だったと、Iさんからメールをいただいていた。
 昼夜で二十一席の落語を聴いたのだが、トリ以外でも出来そうな『青菜』も『あくび指南』もなかったなぁ。これは、たぶんに、小三治が演るかもしれない、という“忖度”の結果なのだろう^^


 日本が去ったとはいえ、W杯は、これからが佳境。
 しばらく、寝不足の日々が続きそうだ。


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# by kogotokoubei | 2018-07-03 05:39 | アクセスランキング | Comments(2)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛