噺の話

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 本年の落語初めは、この会になった。

 久しぶりに改装された関内ホールでの小満んの会。
 とはいえ、この会、次の三月の会で、終了してしまうのだ・・・・・・。

 ホールに入ると、ロビーのモニターで金原亭駒六の開口一番が映っていた。
 ネタは、『無精床』。
 コンビニで買ったおにぎりを食べ終えて、駒六の高座の終盤に会場へ。

 綺麗になった264席の客席に、四割ほどのお客さんか。
 なんとも寂しい。

 小満んの三席の感想などを記す。

柳家小満ん『天狗裁き』 (22分、18:45~)
 「初夢や 顔を洗って 忘れけり」「初夢や 文楽志ん生 ほか五人」などの楽しい川柳から、正月二日に見る夢が初夢と説明する短いマクラから本編へ。
 熊さんの女房が、足袋屋の六さんは、初夢で百足(ムカデ)を見て、表通りに「百足屋」という看板を上げてから運が向いたんだから、早く初夢を見なさいとと催促する。縁起ものの宝船の絵も敷いてある、という設定が、サゲにつながるとは思わなかったなぁ。
 この噺は、同じようなセリフ「女房が聞きたがり、隣家の男が聞きたがり、大家が・・・・・・」が繰り返されるので、下手な演者の場合にやや冗長になり聴いていて辛くなることがあるが、小満んは、そのリフレインを一切割愛した。これは、実に良かった。
 また、熊が大家に向かって「見てないものは、大家さんどころか、お奉行様にも話せない」と言うのを大家が引きとって、申し立ててすぐにお白洲の場となり、その奉行に向かって「見てないものは、天狗様にも話せない」と答えたのを奉行が引き取って、すぐ天狗の森に連れて行く、というスピーディな場面展開は、一般的なこの噺の持つ弱点を補っていた。
 熊さん、天狗の羽団扇をだまし取って、扇いで天空に上り、眺めに見とれて羽団扇を扇ぐのを止め、落ちたところが宝船。
 弁天様が「大丈夫ですか?」と聞く声は、実は女房で、「どんな夢、見たんだい?」でサゲ。

 この筋書きは、初めて聴いた。
 とはいえ、宝船に落ちるという設定は、どこかで読んだなぁ、と思ったら、自分のブログだった。
 2012年3月13日の記事で、馬生の音源を聴いた後に、三種類の『天狗裁き』を並べていたが、その中の『羽団扇』が、そういうサゲだった。
 2012年3月13日のブログ
 あの記事では、志ん生・馬生の型、そして上方に米朝が移し、それがまた東京に逆輸入(?)され、現在主流になっている型、そして、『羽団扇』と言う型の三つを紹介した。
 どうも小満んは、『羽団扇』に近い。
 実は、終演後、居残り会の店へ向かう道すがら、Kさんが、『羽団扇』では、とおっしゃったのを否定してしまっていた。大変、失礼しました。『羽団扇』のサゲが、馬生が演じるような、商家の大店に空から落ちて、羽団扇でその娘の病気を治し結婚することになる、という筋と勘違いしていたのだ。

 とはいえ、『羽団扇』とも、この高座は少し違うのである。
 以前の記事で確認する。
 たびたびお世話になる「落語の舞台を歩く」からの引用を含んでいる。
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『羽団扇』 
 二代目の三遊亭円歌や立川談志が演じていたようだが、この噺は、天狗からだまし取った羽団扇を仰いで空に舞い上がった主人公が落ちた場所は、下記のように七福神の宝船。引用は、いつもお世話になっている河合昌次さんの「落語の舞台を歩く」から。
落ちたところが、七福神の宝船の中。「今日は正月だから七福神が集まって吉例の宴会をしている」と大黒。それでは仲間に入れてと頼んだが、「何か、芸が出来れば」と許され、仲間の中に。
 そこには綺麗な弁天が居て、お酌をしてもらいご機嫌で、恵比寿にも勧めたがお酒は駄目でビールだけという(エビスビールのシャレですよ)。肴は恵比寿様が釣った鯛のお刺身、またこれが美味いこと。飲んで食べて、芸をする間もなく寝入ってしまった。弁天様に起こされると・・・

 これ以上の解説は、ぜひ「落語の舞台を歩く」でご確認のほどを。なお、ネタ元は談志の高座。
「落語の舞台を歩く」の『羽団扇』のページ
 ちなみに、この噺は、正月二日の“初夢”という設定で、“旬”の明確な落語となっている。
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 引用した、宝船での宴会を、小満んは割愛している。
 宴会を含むパターンも演じるのかどうかは、調査不足。
 ともかく、くどい部分を省いた、この人ならではの“軽妙洒脱”な高座。今年のマイベスト十席候補とする。

柳家小満ん『ふぐ鍋』 (17分)
 いったん下がってすぐ高座へ。
 九州大分では、毒のある肝も勧めるということや、サバフグのこと、「ふぐ鍋を 食わぬ愚かと 食う愚か」などから本編へ。
 幇間の一八は、お手の物。『つるつる』のような猫にまでヨイショする様子が、実に可笑しい。
 旦那と一八が、ふぐに箸を出しかねていると、そこへ物もらいがやって来る。
 そうだ、乞食に食べさせて、様子を見よう。大丈夫なら、自分たちも食べよう、という作戦。
 一八が見に行くと、乞食が何ごともなく寝ているので、これなら大丈夫と、旦那と一八は箸をつけ、美味い美味いと舌鼓。そこへ、乞食がやって来て、二人の様子を確認し「それじゃあこっちも食べよう」というサゲ。
 終演後の居残り会で、佐平次さんは、この旦那と一八の悪だくみを、現在の政治にたとえていたような気がするが、記憶が定かではない^^
 こちらも、旦那と一八が、最初にこわごわと箸をつける際に、白菜やネギを食べる様子が、絶妙だった。好高座。
 

柳家小満ん『紺屋高尾』 (34分 ~20:16)
 仲入り後、この長講。
 「紺屋のあさって」というのは、初めて聴いた。
 頼んだ染物ができないので、いつできるか、と聞くと「明後日には」と答えるのが、紺屋とのこと。蕎麦屋の出前と似たような、業界の決まりか^^
 この噺では、お玉が池の先生、らんせつ(蘭雪?)が活躍する。
 久蔵が恋煩いと分かり、大名道具と言っても売り物買い物、三年頑張って働き十両できたら、連れて行こう、と言うのも、この先生。主人の吉兵衛ではない。
 久蔵が、花魁道中で三浦屋の高尾を見て一目ぼれ、帰ってから何を見ても高尾に見える。
 染物の刷毛が高尾、甕の中にも高尾、めしを食べてもご飯が高尾、先生の顔も高尾・・・というのは、『崇徳院』を彷彿とさせる。
 三年一所懸命に働いた、久蔵。主人の吉兵衛が一両上乗せしてくれて十両。
 買い物があると久蔵が言うと、吉兵衛が、何を買いたいと聞く。
 「たかおかいたい」と言うと「鷹を、よしなよ鶯にでもしな」は可笑しかった。
 小満んの噺は、このネタでは定番となっているような科白も、くどいと思われるものは、あっさりと割愛する。たとえば、高尾を待つ間の「来年三月」などの科白の繰り返しは、ない。
 また、床入りの場面なども、実にあっさり。上品、なのだ。
 とはいえ、笑わせどころも、しっかりあって、例えば、久蔵の下帯は「おととしの十二月からはきっぱなし」と聞いた吉兵衛、小僧に「地面を三尺掘って埋めろ」なんてところは、なんとも笑える。
 高尾が「次はいつ来てくんなます」と聞かれた久蔵、つい、自分は野田のお大尽などではなく、紺屋の職人で、三年経たなきゃ来れないと答えると、高尾が、「横領罪でゴーンさんみたいに」と時事的なギャグを挟む遊び心もある。
 しかし、真相を知った高尾、「金で源平藤橘四姓の人と枕を交わす卑しい身を、三年も思い詰めてくれるとは、なんと情けのある人か」という科白などは、当代の噺家さんでは、なかなか聞けない科白。
 終盤も、甕のぞき、という言葉は出てくるものの、下品な内容にはならない。藍のあっさり染めで、紺屋高尾は、大繁盛。
 たまに見受けられる言いよどみなどはほとんどない、実に楽しい高座だった。


 終演後は、楽しみだった居残り会。
 佐平次さん、Kさん、I女史、N女史と五人で、会場から徒歩五分ほどのDへ。
 さて、何を食べ、何を話したのか、少し記憶が怪しくなるくらい北海道の男山の燗の徳利が何本空いたものやら。
 しかし、小満んの会は終演が早いので、帰宅は日付変更線を超えることは、なかったのだ。
# by kogotokoubei | 2019-01-22 21:54 | 寄席・落語会 | Comments(0)
 毎日新聞のコラム「余録」が、落語『二人癖』(『のめる』)を題材にしていた。
 引用する。
毎日新聞の該当コラム

余録
「つまらない」。その一言を言わせようと…
毎日新聞2019年1月21日 東京朝刊
.
「つまらない」。その一言を言わせようと、たくあん用大根100本がしょうゆだるに詰まるか聞き、解けない詰め将棋を引っ張り出す。落語「のめる」は、口ぐせを言ったら互いに罰金を払うことにした2人が、ワナをかけ合う。「二人(ににん)ぐせ」とも▲もう一人の口ぐせが「1杯飲める」というのも憎めない。落語に登場するのは英雄豪傑ではなく、たいがいが市井の人々。生活のたわいない一場面を切り取り、笑いに仕立てるところに芸の奥行きがある▲それだけではない。やることなすこと間が抜けている粗忽(そこつ)者や、バクチや酒でしくじる者。いろんな人間が支え合ってコミュニティーが成り立っている。落語には人情の機微や寛容の精神があふれている
 ここまでは、その通り、なのだが、その後、こんな話題につなげていた。

▲そんな効用に目を付けたのか。「落語を楽しみ、学ぶ国会議員の会」(落語議員連盟)が自民党有志により設立された。先月、第1回実演鑑賞会が東京・上野の鈴本演芸場であった。共産党や無所属の議員も顔を見せた▲発起人の呼びかけ文には「ややもすれば人々の日常の政治への思いや率直な感情から遠ざかりがちであることを自戒しなければなりません」とある。客席が何に笑い、何に泣くのか。寄席は社会の縮図ともいえる

 この後、28日に通常国会が召集されるが、国民に「つまらない」とだけは言わせないように、と結んでいる。

 言いたいことは、分かる。

 しかし、「ややもすれば人々の日常の政治への思いや率直な感情から遠ざかりがちであることを自戒しなければなりません」という言葉、もっとも聞かせたいのは、あの人である。

 そう、総理大臣の、あの人。

 彼が、庶民の日常生活に思いをめぐらそうとしない限り、落語議員連盟なる集団の議員が、そう思っていたところで、問題は解決しないでしょう。


 安い外国人の労働力を使いやすくなるようにするのは、誰のため?
 辺野古に土砂を投入するのは、誰のため?
 厚労省の不正によって賃金上昇と嘘をつくのは、誰のため?
   ・
   ・
   ・
 数の暴力でザル法案を通して、詳細は後で詰める、などと言っていても、そりゃあ・・・つまらんでしょう^^


# by kogotokoubei | 2019-01-21 17:47 | メディアでの落語 | Comments(4)

 「いだてん」が、どうも面白くない。

 別に視聴率がどうのこうのという世の中の評判は関係なく、あくまで私見。

 中村勘九郎演じる金栗四三が、どうも表面的にしか描けていない気がする。

 また、周囲の人物を含めて、ステロタイプな役柄となっていて、中途半端なコメディの演技、という印象なのだ。

 また、ビートたけし扮する古今亭志ん生がところどころ登場するのだが、これで流れが切れてしまう。

 また、志ん生と金栗四三が年齢が一つ違いということで、森山未來が扮する若き日の志ん生が、四三の物語に挿入されるのも、このドラマを散漫にしてしまう。

 クドカンの脚本が、あまり知名度が高くない人物を主人公としていることから、たけし、志ん生によって、アクセントを与えようとしているのだろうが、その試み、今のところは、すべりそうな気がしてしょうがない。

 もう少し見るつもりだが、あれもこれもを詰め込もうとするあまり、それぞれが中途半端になりそうなのが、三回目までを見た印象だ。


 比較するべきではないだろうが、BS時代劇「小吉の女房」は、面白く見ている。
 金曜に見て、BSの「いだてん」の後で再放送を見たが、次回が楽しみだ。

 
# by kogotokoubei | 2019-01-20 19:36 | ドラマや時代劇 | Comments(2)
 さて、旧暦十二月十四日が、あと二日後に迫った。

 夜、月を見ると、赤穂浪士が、月明かりも味方につけて討ち入りを成就できたことが、よく分かる。

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「忠臣蔵事件」の真相(佐藤孔亮著・平凡社新書)

 ということで(?)、佐藤孔亮著「『忠臣蔵事件』の真相」(平凡社新書)を元にしたシリーズも、ついに最終回。

 江戸城における元禄十四年三月十四日に起こった、刃傷事件の後、浅野長矩の取調べを行った目付の一人、多門伝八郎が残した覚書には、いくつも不審な点があることを、紹介してきた。

 あらためて並べてみる。

 (1)浅野長矩の辞世の歌の紹介
 (2)介錯の刀に自分の差料を使ってくれと長矩が頼んだ、という逸話
 (3)切腹の場所が庭先であることについて、上司の大目付に抗議したという記述
 (4)幕府の裁定について抗議し、老中上座柳沢吉保の怒りを買ったという記述

 これらのことは、田村家関連の三つの記録を含め、他の史料には、いっさい存在しない。

 なぜ、多門伝八郎は、そんな記録を残したのか・・・・・・。

 本書は、この人自身の人生から、その理由を探ろうとする。

『覚書』は失意の中で書かれたか

 それにしても、どうして多門はこのようなことを書くのだろうか。
 ほかにも奇妙な記述は『多門覚書』にいくらもある。切腹の上意を長矩がうけたまわったとき、「切腹を仰せ付けられありがたき仕合せ」との御請の言葉を言った後で、吉良の様子を尋ねるのである。そこで多門と大久保の両人が口をそろえて言う。
「傷は二箇所あり、浅手だが、老人のことであり、急所を強く突いたこともあり養生のほどはおぼつかない」
 すると長矩は「落涙の体(てい)にてにっこと笑い」切腹の場所に着いた、という。何か芝居の脚本を読んでいるような気がする。
 お城を出て田村邸へ向かうところも大時代的である。
「お城より一統罷り出(いづ)べく候ところもはや三月十四日夕七つ時二分廻りなり・・・・・・」
 小説を読んでいるような気がする。
 『多門覚書』は読めば読むほど作りごとめいて見える。これは多門が見たものを書き記そうとした記録ではなく、何かすでにある事件の中で自分の立場を書き残そうとした記録ではないか。一つは徹底した浅野寄りのスタンスで書いた事件報告である。そしてその中で多門伝八郎はまことかっこいい。

 ということで、著者は、この多門伝八郎の人生を追ってみるのだった。

本名、多門伝八郎重共(しげとも)。万治二年(1659)生まれ。
寛文六年(1666)、十月八日、将軍に拝謁(八歳)。
延宝四年(1676)七月十二日、遺跡を継ぐ(十八歳)。
延宝五年(1677)五月十日、御書院番(十九歳)。
元禄九年(1696)四月二十三日、小十人頭(こじゅうにんがしら)(三十八歳)。
元禄十年(1697)二月十五日、目付。
同年七月二十六日、三百石増で計七百石(三十九歳)。
元禄十六年(1703)十月二十三日、加役(かやく)として火の元改(四十五歳)。
宝永元年(1704)六月二十六日、火の元改を許される。
同年八月二日、小普請(こぶしん)に貶(おと)される(四十六歳)。
享保八年(1723)年六月二十二日、死去(六十五歳)。

 この経歴を眺めていて、どうしても、四十六歳での降格、そして、その後の約二十年間、そのままの無役であったことが、気になる。

 本書の著者も、その点に着目していた。
 
 言うまでもなく「小普請組入り」とは旗本にとって無役ということである。多門伝八郎の身にいったい何があったと言うのか。なんらかの失態を演じた、と想像できる。

 無役の旗本、となると、先日から始まったNHK BS時代劇の勝小吉を思い浮かべる。
 しかし、小吉は、刀の目利きをしたり、町の人々に慕われていたので顔役として小遣いを稼ぎ、なんとか糊口を凌いでいた。

 多門は、いったいどんな苦労をしていたものか。

 無役になった理由としては、この経歴から察するに、火の元改を首になったことに訳がありそうだ。

 実は元禄十六年(1703)十一月、江戸に大火があり、江戸城内にも火が入ったことがあった。そのとき、伝八郎は加役として火の元改の役にあった。加役というのは目付の職はそのままで別の役を兼ねるということである。火の元改としての責任をとらされたのではないか、というのが私の見方である。
 これは伝八郎にとって思ってもない災難だったと思われる。目付として実績を積み、いよいよこれからが出世コースの後半戦に入るときだった。まさか四十六歳で、以後二十年間、役に就けないまま人生を終わるとは思ってもみなかったに違いない。
 元禄十六年の大火は、水戸上屋敷からの出火で別名「水戸様火事」と呼ばれている。
 水戸藩上屋敷の場所は、今の小石川後楽園。
 発生した火事は、本郷、浅草から隅田川を越え本所、深川方面まで類焼し、湯島天神や湯島聖堂なども焼失したと言われる。
 この火事における火の元改としての失態が、降格につながったと言うのは、経歴から察してあり得ることだろう。

 そして、著者は、伝八郎が無役になった不幸こそが、「忠臣蔵」創作につながったのではないかと推理するのである。

 エリート旗本の挫折。私はこの失意の二十年間が多門にこの『覚書』を書かせたのではないかと推測している。小普請に入ってみれば、目付として働いていた頃が一番自分が輝いていた頃なのだ。そしてその時に遭遇したのがあの赤穂事件だった。浅野長矩には取り調べもした。討ち入りの四十七士に入った片岡源五右衛門は田村邸に遺骸を引き取りに来たそうだが、自分は城に帰った後で会っていない。しかし浅野長矩が言付けを託した人物だ。吉良もよく知っている。
 多門伝八郎の頭の中で、あの事件の記憶がゆっくり回りだした。時間はたっぷりある。思い出しながらあの事件を書き残そう。と、考えても不思議ではないのではないか。

 たしかに、時間はたっぷりあっただろう。

 そして、つい、空想も筋書きに紛れ込んだかもしれない。
 あるいは、それが思い込みになった可能性も、なきにしもあらず。

 著者は、『多門覚書』に細かい人名の間違いが多く、たとえば柳沢吉保を松平美濃守と後の名前で書いていることなども指摘。よって、この覚書が、事件からだいぶたった後に書いたものと推測している。

 著者は、当時の多門の心理を、次のように推理する。

 刃傷事件当時は浅野には厳しい裁定だったが、討ち入りの後、世間の評判は圧倒的に浅野びいきである。自分なら書ける、自分にしか書けぬこともある。という気持ちもあっただろう。多少フィクションが入っても、当時の目付が書いたものと知られればみんな信用するに相違ない。別にこれで金儲けするわけではないのだ。書こう。

 そして、当時、実際には上司である大目付の庄田に反抗したり、老中上座の柳沢に食ってかかるなどはあり得なかっただろうが、書き出すうちに、どんどん自分がヒーローになっていったのではないか、と推察している。

 本書の「第四章 忠臣蔵を作った男・多門伝八郎」は、次のように締めくくられる。

 エリート旗本の二十年間の失意。それが『多門伝八郎覚書』を生んだに違いない。それは事実であって事実でない。挫折した男の夢が入り混じった話である。
 しかし、それらは「風さそう」の辞世の歌になり、片岡源五の暇乞いとなり、無数の芝居や映画、ドラマの筋の原型となって後世の人に夢を与えた。そのことを思うと、私は多門伝八郎をけっして非難しようとは思わない。

 たしかに、多門伝八郎が、無役の辛い日々の中で昔のことを思い、結果としてもっとも自分が輝いていた時の出来事を書き綴る中で、つい、自分をかっこよく描いたとするなら、それを責めるのは酷かもしれない。


 『仮名手本忠臣蔵』の初演は、多門伝八郎没後、二十五年後の寛延元年(1748)年。
 刃傷事件があった元禄十四年から、四十七年後のことだった。


 このシリーズ、これにてお開き。

 長らくお付き合いいただき、誠にありがとうございました。

# by kogotokoubei | 2019-01-17 21:27 | 江戸関連 | Comments(0)
 一昨日と昨日のアクセスランキングで、ほぼ六年前、2013年2月の記事へのアクセスが急増していた。

 「成田屋のこと」という記事。
2013年2月4日のブログ

 十二代目が亡くなった、次の日の記事。

 海老蔵が来年五月に十三代目団十郎を襲名するというニュースがあったことによる検索が影響しているようだ。

 そうか、二月三日の七回忌を前に、発表したわけだ。

 六年前の記事は、訃報の中で、成田屋がケネディ家と同じような不幸な因縁があり、団十郎が早死にするという内容があったので、それについて反論的な内容を書いた。

 来年五月、十三代目市川団十郎の誕生を、時期尚早と見るか、否か・・・・・・。

 Wikipediaの「市川團十郎」を元に、初代から十二代までの生年、團十郎襲名年、没年を並べてみる。分かりやすいように西暦で記す。
Wikipedia「市川團十郎」
 
 初代 1660年生まれ--->1675年(15歳)で襲名--->1704年没(44歳)
 二代 1688年生まれ--->1704年(16歳)で襲名--->1758年没(70歳)
 三代 1721年生まれ--->1735年(14歳)で襲名--->1742年没(21歳)
 四代 1711年生まれ--->1754年(43歳)で襲名--->1778年没(67歳)
 五代 1741年生まれ--->1770年(29歳)で襲名--->1806年没(65歳)
 六代 1778年生まれ--->1791年(13歳)で襲名--->1799年没(21歳)
 七代 1791年生まれ--->1800年(9歳)で襲名--->1859年没(68歳)
 八代 1823年生まれ--->1832年(9歳)で襲名--->1854年没(21歳)
 九代 1838年生まれ--->1855年(17歳)で襲名--->1903年没(65歳)
 十代 1880年生まれ--------->1956年没(76歳)*死後に追贈
十一代 1909年生まれ--->1962年(53歳)で襲名--->1965年没(56歳)
十二代 1946年生まれ--->1985年(39歳)で襲名--->2013年没(67歳)


 先代が亡くなってすぐ襲名した人もいて、少年期で団十郎となった人も少なくない。

 年代別の襲名者の人数は、このようになっている。

  十歳未満  2人
  十代    5人
  二十代   1人
  三十代   1人
  四十代   1人
  五十代   1人
  死後追贈  1人

 「劇聖」と言われた九代目も、兄の八代目が早世したこともあるが、十代で襲名している。

 十三代は、来年43歳での襲名になるが、過去の事例からは、高齢での襲名のうちに入る。決して、早すぎることはない。

 東京五輪の年に、そのお祭りに先駆けて五月から襲名披露興行が開催されるが、成田屋十八番の「荒事」が中心になるのだろう。どうしても無理をしてしまうのではなかろうか。

 余談だが、JOC会長の会見を見ると、東京五輪というイベント・ビジネスにまつわる疑惑は、まさにこのイベントも「荒事」だなぁ、と思う。

 さて、ほぼ四十歳と同じような年齢で襲名した父も、五十路で継いだ祖父も、そう長生きした方ではない。

 あまり無理をしないで、長くこの大名跡を名乗ってもらい、自分が元気なうちに、十四代目を誕生させて欲しいと思う。

 大名跡が復活するのは、歌舞伎も落語も、良いことだと思う。

 そういう意味では、団十郎の復活に合わせて、成田屋を贔屓にしていた、あの名人の名跡の復活を期待したいものだ。

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関山和夫著『落語名人伝』(白水Uブックス)

 海老蔵の酒の上での“荒事”の後で書いた記事で、関山和夫著『落語名人伝』(白水Uブックス)から次の文章を引用した。
2010年12月10日のブログ

 三遊亭円朝の辞世の句「目を閉じて聞き定めけり露の音」には仏教的な“悟り”が感じられて感銘深いものがあるが、談洲楼燕枝が残した「動くもの終りはありてこぶ柳」には悲痛な感じがただよっている。
 柳亭燕枝があえて談洲楼といったのは、むろん市川団十郎から来ているのだが、それが烏亭焉馬への憧憬の志を含んでいることは見逃せない。落語中興の祖といわれる烏亭焉馬は、五代目団十郎に傾倒して談洲楼焉馬と称したが、燕枝は焉馬を追慕したようである。燕枝は若いころから道具入りの芝居噺を演じたが、声色は河原崎権之助(のちの九代目市川団十郎)の真似が一番うまかったという。よほど成田屋が好きだったのであろう。

 このように、柳亭焉馬は五代目、初代談洲楼燕枝は九代目の大の贔屓だったのである。
 ちなみに、歌舞伎の世界で「九代目」といえば、この人のこと。

 燕枝の名跡は、三代目が柳亭燕枝を名乗っていたが、昭和30(1955)年に亡くなって以降、空白のままだ。

 私は、三遊派の円朝と競い合った初代燕枝の作『嶋鵆沖白浪』を復活させた柳家三三に、ぜひ談洲楼燕枝の四代目を襲名して欲しいと思っている。

 団十郎とともに談洲楼も復活、なんて、実に楽しいではないか。

 三三なのだ、成田屋を贔屓にして、定紋にちなんだ「三升連」になる縁もある。

# by kogotokoubei | 2019-01-16 12:36 | 襲名 | Comments(4)
 11日(金)から始まり、私が13日に再放送で見たNHK BS時代劇「小吉の女房」について、短い記事を書いた。

 勝小吉という魅力的な人物が登場することに加え、主役も脇役も小劇団で腕を磨いてきた俳優さんなど芸達者なキャスティングで、今後も楽しみだ。

 勝小吉は自伝『夢酔独言』で、自分の失敗もあからさまに書き残し、子孫への「いましめ」にせよ、いわば、反面教師にせよ、と言い残している。

 小吉は、生涯を通してガキ大将として生きたような人で、喧嘩も大好きだった。

 すでに息子の海舟に家督を譲った後に書かれた自伝には、そこまで書くか、という失敗談が多い。

 その内容には、自分を良くみせようなどという虚飾性は、微塵もない。

 そういう意味で、小吉の自伝と、このシリーズで取り上げているある人物の覚書は、好対照と言えるかもしれない。

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「忠臣蔵事件」の真相(佐藤孔亮著・平凡社新書)

 佐藤孔亮著「『忠臣蔵事件』の真相」(平凡社新書)を元に、このシリーズの四回目。

 浅野長矩を刃傷事件の後に取り調べた目付の多門(おかど)伝八郎が残した覚書には、いろいろ疑問が多く、伝八郎の創作と思われることを本書の著者は指摘しているが、中でも自分自身のことを偽って劇的に描いたと思しき点について今回はご紹介。

 長矩の切腹場所が庭先であると大目付の庄田下総守が言うので、上司の庄田に対し自分が抗議したと、伝八郎は『多門覚書』に記している。

 しかし、田村家の記録の一つ『杢助手控』には、この切腹の場所は老中の指示であり、庄田と多門との口論があったことなど、まったく書かれてはいない。

 本書から、引用。

「柳沢吉保に抗議した」話

 多門は検使として田村邸に赴く前に柳沢吉保の勘気を受け、控え部屋に控えていた、ということになっている。だから私は役目のことを直接伺っていないので、大目付の庄田に落ち度がないようお願いし念を押しているのだと言う。
 これも変な話だ。一種の責任逃れにも見える。自分は聞いていない、当地(田村邸)へ行けばやり方がおかしい、責任は大目付の庄田にある。では同役の大久保左衛門はどうか。大久保は控え部屋にいたわけでもなく、きちんと仕事をこなして田村邸に行ったはずだ。ところが『多門覚書』では彼も多門と一緒に庄田に向かって抗議をしていることになっている。これが本当だとしたらこんな無能な目付もいないものだ。

 多門の覚書では、長矩の切腹の場所が庭先であることについて、大目付の庄田がそれが老中の指示であると明確に答えていないため、多門が大名には相応しくない、と抗議したと書かれているが、やはり、これは不自然だ。もちろん、紹介したように、同役の目付が二人して上司に抗議するなども、あり得ないことだと思う。

 本書では、多門の覚書では、庄田も大久保も、長矩を預かった田村も、みなおかしい、と指摘する。

 多門の批判を受けて言い訳も説明もせず、ただ威張っている庄田、終始無言で時々多門と行動を共にする大久保、多門に言われて立腹し、じっくり聞くと感心してしまう田村。多門を主役とするとみんな脇役か悪役である。

 そして何と言っても不思議なのは、多門が柳沢吉保の勘気を受けていた、という点なのだが、その理由が、多門のとんでもない行動によるものだと、本人が記しているのだ。

 『多門覚書』では刃傷事件の後、その裁定をめぐって多門が異議を申し上げ、なんと当時側用人から老中上座に上り、将軍綱吉の信頼を集め、権勢を誇った柳沢吉保の怒りを買って部屋の控えさせられた、と書いているのである。
 多門は刃傷事件の後の浅野長矩を取り調べた。浅野長矩が言うには、「お上に対して恨みはない、吉良には宿意をもって前後を忘れ刃傷に及んだ。打ち損じたことは残念だが、この上はどのよう裁きを受けてもかまわない」ということだった。
 ところが、幕府の裁定は浅野は切腹、吉良はお構いなし、であった。多門は若年寄(目付は若年寄の支配下にあった)に面談を求め、ここで抗議する。「五万石の大名が家名を捨て、場所柄も忘れて刃傷に及ぶほどの恨み」である。吉良に落ち度があるかもしれず、それを吟味しないで切腹を言い渡すとはあまりにお手軽な取り計らいではないか、というのだ。いかにも多門が言いそうな論理である。ただし『覚書』によると多門はじめ目付両人の訴えとなっている。
 これに対し、若年寄は「もっともなことだ。老中に申し上げよう」と言うので、多門たちが控えていたら、若年寄の稲垣対馬守と加藤越中守が、もうすでに柳沢吉保(ここでも『多門覚書』は「松平美濃守」と書いているが、柳沢がこの名前を賜ったのは八ヶ月後の元禄十四年十一月のことである)が決着したことだ、と伝えてきた。
 そこで多門はひとりになって食い下がる。柳沢ご一存(原文は「美濃守殿ご一存」と書かれている)の決着であれば(つまり将軍の裁定に達していないのであれば)もう一度お願いしたい、という。これを伝え聞いた柳沢が立腹した。執政の者に何度も異議を申し立てるとは心得がたい、とのことで多門はついに差し控えの部屋で控えておれ、との仕置きを受けたのである。

 この日の江戸城の様子を察すると、こんなことはとても考えられない。

 勅使への対応で忙しい中に刃傷事件発生。
 その裁定をめぐって目付が若年寄に抗議し、若年寄が実力者の老中上座の柳沢に取り次ぐなんてことが、あり得るだろうか。

 柳沢吉保の短い日記には、「目付両人参る」とだけ書かれており、多門の名も残されていない。
 『徳川実紀』にも、何らこの抗議のことは書かれていない。

 『多門覚書』だけが、本人が裁定に抗議したことを記しているのだ。

 どう考えても、不思議なのだ。

 多門伝八郎の覚書は、終始、浅野贔屓であるとともに、自分が浅野を援護するあまり上司や若年寄にまで抗議する姿が描かれている。

 これまで紹介してきた、多門伝八郎の覚書への疑問は、次のような点。

 (1)浅野長矩の辞世の歌の紹介
 (2)介錯の刀に自分の差料を使ってくれと長矩が頼んだ、という逸話
 (3)切腹の場所が庭先であることについて、上司の大目付に抗議したという記述
 (4)幕府の裁定について抗議し、老中上座柳沢吉保の怒りを買ったという記述

 これらのことは、田村家関連の三つの記録を含め、他の史料には、いっさい存在しない。


 なぜ、多門伝八郎は、そんな記録を残したのか・・・・・・。

 その謎についての本書の推理は、最終回のお楽しみ。

 旧暦十二月十四日まで、あと四日だ。


# by kogotokoubei | 2019-01-15 12:27 | 江戸関連 | Comments(0)
 昨夜、NHKのBSで「いだてん」の後、新たに始まった時代劇「小吉の女房」を再放送で見た。

 だからなおさら比較しやすいのだが、ドラマとしては、「小吉の女房」が数倍、面白い。

NHKサイトの該当ページ

 まず、勝小吉役の古田新太が、落語用語(?)で言えば、ニンである。
 女房役の、沢口靖子も、久しぶりにテレビで見たのだが、いいねぇ。
 連続ドラマとしては遺作となる、江波杏子さんの味のある演技も楽しみ。

 勝海舟の父、勝小吉を描いた本は、何冊かある。

 何と言っても、本人の『夢酔独言』が、失敗談も含めたなんともあけすけな本で楽しい。記事にしたいと思いながら、まだ書いていない。

 子母澤寛の『父子鷹』も有名だが、まだ読んでいない。

 小松重男の『喧嘩侍 勝小吉』は読んだ。
 『夢酔独言』を小説としてコンパクトに読みやすくまとめてくれた本、と言えるかもしれない。
 この人は、『蚤とり侍』の作者だが、他にも『川柳侍』や『ずっこけ侍』なんて面白い本を書いている。


 「小吉の女房」、キャストも良く、大河では今年味わえない歴史ドラマとして、今後も楽しみにしたい。


# by kogotokoubei | 2019-01-14 09:33 | ドラマや時代劇 | Comments(2)
 昨日のアクセスランキングで、『談志楽屋噺』を元に書いた“キザな小円遊”に関する記事(2013年10月)へのアクセスが急増していた。

 この記事は安定的にアクセスがあり、「笑点」関連のニュースがある際には増えるのだが、昨日のアクセス数は約150もあった。

 きっと、BS笑点ドラマスペシャルの影響かとは思うが、昨夜午後七時からの五代目圓楽を主人公としたドラマは、野暮用のため見ることができなかった。

 歌丸さんのドラマが予想外に良かったので、なんとか見たかったが残念。録画もしなかった。まぁ、こういうことも、よくある。

 ということで、そのドラマのことではなく、このシリーズの続編。

 旧暦十二月十四日は、1月19日。あと、六日だ。

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「忠臣蔵事件」の真相(佐藤孔亮著・平凡社新書)

 佐藤孔亮著「『忠臣蔵事件』の真相」(平凡社新書)を元に、このシリーズの三回目。

 一回目は、浅野長矩作とされる辞世、「風さそう花よりもなお我はまた春の名残をいかにとかせん」は、浅野長矩の取調べをした目付、多門(おかど)伝八郎の覚書にしか存在しないものであること、二回目は、長矩が介錯に使う刀として自分の差料を望んだことも、同じように伝八郎のみが伝えていることを紹介した。

 三回目は、その後創作された「忠臣蔵」で重要な場面の元となったとされる、あの話について。

 「多門伝八郎覚書」より。

 ちなみに、この逸話の前には、多門が上司である大目付の庄田下総守と、切腹の場所について衝突していたことが紹介されている。

「片岡源五右衛門の暇乞い」というフィクション

 もう一つ、重要なことがある。田村邸で浅野長矩が切腹をしたときに、片岡源五右衛門が田村邸を訪れ、主君に一目逢いたいと言って暇乞いが許された、という話である。これは映画やドラマにもなっている有名な場面である。しかしこれまた、首をひねらざるを得ないことなのである。さきほど庭先の切腹をめぐる正使(大目付)庄田下総守と副使(目付)多門伝八郎との衝突について考えたが、『多門覚書』によるとその騒ぎが終わる頃である。田村右京太夫が伝えるところによると、「ただ今、浅野内匠頭家来片岡源五右衛門と申す者が来て、主人がお宅で切腹を仰せ付けられていると聞いて主従の暇乞いに一目主人に逢わせてもらいたい、と言っている。断ったところ、一度検使の方にお願いしたいと、顔色を変えて言っているが、どうしたものか」というのである。
 庄田下総守は「それしきのこと、大検使に言うまでもないことだ」と言って、いいとも悪いとも言わない。多門は「差し支えないではないか、長矩切腹の場所に出て、間を隔てて無刀にして、警護をすれば、家来は大勢いるし、主人を助けようと飛びかかってきても取り押さえられるだろう。一目くらいは慈悲である」と認める考えである。これを聞いて庄田は「思うようにされたらいい」と認めた。
 田村右京太夫が多門伝八郎の一存で許された旨を片岡へ伝えると、ことのほか喜んだという。そして小書院次の間に無刀で控えさせて、大勢の家来で警護させる、と多門に伝えた。こうして「片岡源五右衛門、主君への暇乞い」が叶ったというわけだ。
 「仮名手本忠臣蔵」での主従の最後の対面など、この片岡源五右衛門の暇乞いがネタ元となっているわけだが、本当にこんな場面があったのかどうか・・・・・・。

 片岡源五右衛門は、九歳にして片岡家百石の家督を相続し、小姓として浅野長矩に仕えた。長矩とは同い年で、信任が厚かったと言われている。

 この片岡暇乞いについて、田村家の三つの史料には何ら記述はない。
 いろいろ疑わしい点が、ある。
 多門覚書には、翌日十五日、片岡が多門に家を訪れて主人との対面の礼を述べたとも記されている。
 また、その年の十一月にも片岡が再び訪ねてきたとされている。
 本書での見解。

 この話はどうだろうか。まず、田村邸での切腹の場に現れてきたということ。一度来て断られて、再度来たときは検使にもお願いする、ということで多門の出番となった。
 ふつう切腹の場は非公開である。その場にいるのは検使のほかは当家の主人と世子、他は介錯人などの役人にすぎない。そこへ切腹する当人の家来が「一目だけでも」と暇乞いをお願いするというのは、講談・浪曲の世界であって、いくら警護を大勢つけたといって、にわかには信じがたい。
 なにしろ少し前まで主君の死には殉死が一般的だった時代である。殉死は前代将軍の家綱時代に禁じられていたが、それにしても何が起きるかわからない。切腹する当人は大名とはいえ殿中で刃傷に及んだ者である。もし暇乞いのような願いが出されたとしても、断固としてはねつけるのが検使の役目であろう。もしこれが事実ならば、それこそ検使としてこれが落ち度にならなかったことが不思議である。
 田村右京太夫もおかしい。『多門覚書』では田村が片岡と多門の取次ぎをしているのある。片岡は感謝しております、などということを三万石の大名が、検使の目付にわざわざ報告に来るだろうか。相手は罪人の家来である。
 翌日の話もおかしい。片岡はお礼に多門の屋敷を訪れたという。しかし片岡は同日の十四日、主人内匠頭長矩の遺骸を泉岳寺に葬り、墓前で磯貝十郎左衛門、田中貞四郎、中村清右衛門と四人で主君に殉じて落髪している。そんな状態の者がいくらお礼が言いたいといって、目付の屋敷へ出かかていくだろうか。はなはだ疑問である。

 ということで、劇的な主従の別れのの対面も、多門伝八郎の創作と考えられるのだ。
 では、最後に長矩と家来との何らかのコミュニケーションはなかったのか、というと、田村家の記録の一つ『長岡記録』には、長矩が切腹する前に、家来への伝言があったことが記述されている。
 最初、手紙を遣わしたいと長矩が言ったら、番人が伺いを立てなければならないと答えたので、それでは口上にて伝えたいと言って残した言葉がある。

 宛て先は「田中源五左衛門」と「磯田七郎左衛門」となっているが、おそらく片岡源五右衛門と磯貝十郎左衛門のことではないかと思われる。

   此の段兼ねて知らせ申すべく候えども、今日やむを得ざること候ゆえ
   知らせ申さず候、不審に存ずべく候由」という内容。

 このことはかねてから知らせておくべきだったが、今日となってはもはや知らせることはできなくなった、さぞ不審に思うことだろう、ということだが、さっぱり要領を得ない文章だ。あえていえば、吉良との確執とか、胸にしまっておいた思いがあるのだろうが、とうという言えずに終わってしまった、らしいことがわかる。
 私はこの言付けは信用できると思う。これは番人が「伺いを立てなければならない」と言っていることから、検使の役人には聞こえない範囲で言ったことだろう。本当に最後に言った言葉というのはこんなものかもしれない。長矩は従容としてその場についた、と思われる。
 
 なんとも劇的ではない、長矩最後の言葉、と言えるなぁ。

 本書の著者は、この最後の言葉の宛先が片岡源五右衛門であると想定し、実際に遺骸を引き取りに彼が来たことから、暇乞いというフィクションを創作したと推理している。
 では、なぜ、多門伝八郎は、そんな作り話を後世に残したのか・・・・・・。

 謎は深まる。

 次回は、他にもある多門覚書の不思議について。

# by kogotokoubei | 2019-01-13 17:27 | 江戸関連 | Comments(2)
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「忠臣蔵事件」の真相(佐藤孔亮著・平凡社新書)

 佐藤孔亮著「『忠臣蔵事件』の真相」(平凡社新書)を元に、このシリーズの二回目。

 前回は、浅野長矩の有名な辞世は、刃傷事件の後に長矩を取り調べた目付の一人、多門(おかど)伝八郎が残した覚書にしか書かれていないことを紹介した。

 長矩が預けられ切腹の場となった田村家の関係者が残した三つの記録には、辞世についての記載がまったくない。よって、地元赤穂市の記録においても、あの辞世が長矩が実際に詠んだものかは疑わしいと指摘しているのだ。

 どうも、多門の創作ではないかという説が、現在では有力となってきている。

 また、多門は、他にも創作している可能性がある。

介錯の刀をめぐる重大な疑問

 辞世の歌の他にも多門の『覚書』には首をひねらざるを得ない箇所がいくつもある。
 第二点は介錯の刀である。先にも紹介した多門の『覚書』には辞世の歌の直前にこのような場面がある。
 六つ過ぎ、長矩が切腹の座に着くと、御検使衆に一つ願いがある、と言って「拙者の差料をお預けしたはずだが、その刀で介錯してもらいたい。その刀は後で介錯人にお渡しいたしたい」というのである。大検使の庄田下総守は副使である目付二人、つまり大久保権左衛門、多門伝八郎と相談した上、願いのとおり預かりの刀を取り寄せることにした。そして長矩が辞世の歌を詠んでいる間にそれが届いた。
 はたして切腹する当人が、自分の刀で介錯して欲しい、と願い出ることは実際にあることだろうか。疑問である。しかもその刀を介錯人に与える、という。何のために、という疑問がわく。

 介錯に、自分の刀を使って欲しい・・・と願う感覚、なんともつかみ難い。

 この件についても、切腹の場、田村家の記録が多門への反証となる。

 介錯の刀に関しては『杢助手控』に詳しい。大名切腹の介錯の刀ということから、殿様の御腰の物から下げ渡しを戴きたいと、小姓頭が吟味した上、「美濃千寿院の刀」が一枚五両の札が付いているのをどうか、と伺ったところ、殿様の田村右京太夫は「この刀はそのようなことに使うものではない。誰がそのようなことを言ったのか」と叱ったという。そのため加賀清光(長さ二尺一寸)を下され、袋箱がなかったので相応なる袋箱を用意する、というバタバタぶりである。
 一方、三方に載せ、長矩が切腹で用いる小脇差は長光の小脇差を使った。由緒あるもので、使用後に研ぎなおし、鞘なども作り変えて納め置いたという。
 これによると、あれこれ吟味した上、殿様の意向もあって、介錯の刀は加賀清光、小脇差は長光に決まったというのである。五万石の大名を急に預かり、その切腹にあたって短時間での田村家の準備がいかに大変だったのか、よくわかる話である。

 田村右京太夫、右京太夫は官位、本名は田村建顕(たむらたつあき)で、陸奥岩沼藩第二代藩主にして、のちに田村家一関藩初代藩主となった人。

 前回、田村家の記録が三種類のあると紹介したが、その一つは『一関藩家中(かちゅう)長岡七郎兵衛記録』(以下『長岡記録』)。一関藩、となっているのは、田村家が初代藩主であったからなのだ。
 『杢助手控』も、正式には『一関藩家中北郷(きたざと)杢助手控(もくすけてびかえ)』なのを短縮したもの。もう一つの田村家の記録は、『三月十四日御用留書抜』(以下『御用留書抜』)だが、『杢助手控』以外の二つの記録には、刀について詳しいことは書かれていない。

 では、『多門伝八郎覚書』と『杢助手控』のどちらが、正しいのか。

 筆者も、そして私も、『杢助手控』に軍配を上げる。
 
 その内容が、現場に居た者でしか書けないリアリティがあるのだ。

 反して多門の覚書には、まるで小説のような、創作された痕跡がある。

 また、浅野長矩という大名の振る舞いとしても、多門が残した記録には疑問が消えない。

 筆者の見解を引用。

 私は史料を読み解くことによって、従来言われてきた浅野長矩像を見直していきたいと思っているが、切腹の場における長矩は、従容として潔く最期の場に臨んだのではないか。五万石の大名として、よけいな振る舞いはなかった、と思いたい。
 『多門覚書』は最初から最後まで浅野びいきの立場で書かれている史料である。その意図が何であるのか知らないが、ときにこうしたひいきの引き倒しにも見える記述がある。

 辞世の歌、介錯の刀、そして、他にも『多門覚書』には、他の記録にはない劇的とも言える記述があるが、それは、次回のお楽しみ。
 
# by kogotokoubei | 2019-01-12 10:36 | 江戸関連 | Comments(2)
 「お笑い三人組」の主役の一人、一龍斎貞鳳さんが、二年余り前に亡くなっていたことを、今日のニュースで知った。

 サンスポから引用。
サンスポの該当記事

2019.1.10 12:24
一龍斎貞鳳さんが死去…テレビ草創期のバラエティー番組「お笑い三人組」で人気

 テレビ草創期のNHKのバラエティー番組「お笑い三人組」に出演して人気を博した元講談師で、参院議員も務めた一龍斎貞鳳(いちりゅうさい・ていほう、本名今泉正二=いまいずみ・しょうじ)さんが2016年12月27日、脳梗塞のため東京都内で死去していたことが10日までに分かった。90歳。福島県出身。三回忌を済ませたのを機に遺族が公表した。

 1938年に五代目一龍斎貞丈に入門し、54年に真打ち昇進。「お笑い三人組」では落語家の四代目三遊亭金馬(当時は小金馬)、物まねの故・三代目江戸家猫八さんと共に出演し、茶の間の人気者となった。

 71年には自民党から参院選に出馬して当選。本名を議員名として国立演芸場の設立などに尽力したが、1期で引退。その後は講談界に戻らず、政治評論活動などをしていた。
 
 亡くなったことが、二年以上も、伏せられていたんだ・・・・・・。

 芸能人をめぐるどうでもいいネタの取材のために身辺をストーカーまがいの行動でかぎまわる人間が多い今日、ずっと貞鳳さんの訃報が表面化しなかったということに、なんとも言えない切なさを感じる。

 NHKの「お笑い三人組」は、最初はラジオだったが、昭和31(1956)年からテレビ放送になり、昭和41(1966)年まで約十年間続いた。

 私は、小学校低学年の頃に家族と一緒に見た記憶があり、「アハハ ウフフ 三人元気に顔出して、ニコニコニッコリ笑ったら、心はいつでも青空だ」のテーマソングは、よく覚えている。

 舞台設定の違い、キャスティングの違いなどで、第一期、第二期、第三期と分けられるが、私が覚えているのは、最後の第三期。
 Wikipedia「お笑い三人組」から、キャスティングを引用。
Wikipedia「お笑い三人組」

満腹ホール(ラーメン屋)の金ちゃん(竜助):三遊亭小金馬
ニコニコクレジット社員の正ちゃん(今泉正二):一龍齋貞鳳
クリーニング屋の八ちゃん(八太郎):江戸家猫八
金ちゃんの妹(かおる):音羽美子
正ちゃんの妻(真知子):桜京美
おたまちゃん(珠枝、八ちゃんの恋人):楠トシエ
おたまちゃんの母・おふで:武智豊子
クリーニング屋「峰松」の主人:渡辺篤
金ちゃんの父:木田三千雄
頑太(満腹ホールのアルバイト):矢野目がん


 主役の三人を支える脇役陣に、喜劇役者の名優が並ぶ。

 音羽美子さんは、主役の妻、妹、恋人という女性三人の中では、おとなしい美人という役回り。

 桜京美さんと楠トシエさんが、とにかくパワフル。

 桜京美さんは、「アイ・ラブ・ルーシー」のルーシーの初代声優でもあったなぁ。

 楠トシエさんは、あの頃流行った「トランジスターグラマー」の見本のような人であったように思う。

 猫八さんとの「八ちゃん、おたまちゃん、うー」というギャグが懐かしい。

 そのおたまちゃんの母親おふで婆さんの武智豊子さん、好きだったなぁ。
 あの甲高い声を思い出す。
 「女エノケン」と言われた人だ。
 
 渡辺篤さんは、もちろん、テレビで他人の家を訪問しているあの人ではない^^
 黒澤映画で名脇役だった人。

 あのドラマの凄さは、今日のバラエティと称する愚かしいテレビ番組とは、一線を画している。

 なんと言っても、公開生放送なのだ。

 それで、思い出したのは、三代目江戸家猫八さんのこと。

 広島で被爆し、原爆症の辛さから、あの生放送の日も体調が悪い日もあったことを、晩年に告白されている。

 2014年の原爆投下の日、記事を書いた。
2014年8月6日のブログ

 三人組は、ついに、金馬さんだけになった。

 貞鳳さんが、参議院議員を辞めた後に講談界に戻らなかった理由は、知らない。

 講談師の時代も、司会などですでに売れっ子になっていたことから、講談には未練がなかったのかもしれない。

 今や、松之丞人気もあって、講談があらためて注目を集めていることを考えると、一龍斎貞鳳さんが、人知れず亡くなっていたことが、なんとも言えない寂しさをもたらす。

 今頃、猫八親子と一緒に、昔話に花を咲かせているのかもしれない。

# by kogotokoubei | 2019-01-10 21:27 | 幸兵衛の独り言 | Comments(4)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛