噺の話

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平岩弓枝著『橋の上の霜』

 この本から三回目。

 松葉屋の三穂崎の客が倒れて医者が呼ばれた、というのが前回最後のお話。

 その客はそのまま亡くなった。

 直次郎は、勤めからの帰り道で同僚の岡島金五郎から、その客が、牛込の自宅からそう遠くない旗本の高木市太郎の父親であったことを知る。

 毎日その大きな家の前を通っている、その家の隠居だったのだ。

 三穂崎、本名おしずは、その出来事から気の病になり、大文字屋の主人、加保茶元成の別宅で療養していた。

 その元成から、直次郎は意外なことを聞くのだった。
 それは、洲崎の料理屋升屋で接待を受け、飲みすぎて一眠りした後のこと。

 主人は心得ていて、客をかえし、直次郎が眼がさめる頃を見はからって、酔いざめの水を持って屋敷へ来た。
「もし、お目ざめになられましたか」
 掛け布団を押しのけて、起き上った直次郎に、
「実は、あちらのお座敷に大文字屋の御主人がみえられて居りますが・・・・・・」
「一人か」
「おつれさまがございましたが、皆様、もうお帰りで、大文字屋さんだけが、先生のことを耳にされて、酔いがさめられるのをお待ちになって居ります」
「それは、すまなかった」
 襟をかいつくろっている中(うち)に、女中が大文字屋主人の加保茶元成を呼んで来た。
「お目ざめでございましたか」
 なにか、よい狂歌はお出来になりましたかと訊かれて、直次郎は破顔した。
「久しぶりに、旨い酒を飲んで大酔したばかり、なんの風雅も湧いて来ないな」
 少し、酒が欲しいと宗助に命じたのは、大文字屋主人と二人だけで話がしたかったからであって。
 で、宗助が去ると、すぐに低声(こごえ)でいった。
「先だっての、三穂崎の客は、高木と申す旗本の隠居ではなかったのか」
「やはり、お耳に入りましたか」
 元成のほうも、その話だったらしい。
「屋敷が近くなのだ。なんの因果か、家内が頼まれて、葬式の手伝いに行った」
 流石に、元成は眼を丸くした。
「そのようなことがございましたか」

 直次郎は、蔦屋からの依頼の作品が書き上がらないので、おしずとは暫く会っていないので、大文字屋に様子を聞くのだが、まだ気が高ぶって落ち着かないとのこと。
 そして、大文字屋から驚く話を聞くのだった。

「先生は御存知でございましょうか。高木様とおっしゃる旗本の御当主様のことでございますが・・・・・・」
 高木市太郎であった。
「顔は知らないが・・・・・・」
 近所に住んでも、身分が違った。
「かように申しましては、なんでございますが、なくなったお方が廓へ通って居られたこと、ひどく、お怒りとか聞いて居ります」
 直次郎は夜の海を眺めた。
「まあ、快くは思わぬだろう」
 隠居の父親がとんでもない場所で死んだばっかりに、随分、世間体の悪い思いをしているに違いなかった。
「金も使ったらしいし、公けにはならなかったが、噂はけっこう広まっている」
「それが、松葉屋へ使をよこしなさいまして三穂崎さんを落籍(ひか)したいといってみえたそうでございます」
 直次郎にとっては、青天の霹靂であった。
「なんで、息子が身請けをするのだ」
 ひょっとして、三穂崎に一目惚れをしたのかと思ったが、事実は、それどころではなかった。
「松葉屋の主人が手前に申しますには、高木様では三穂崎さんを身請けして、尼にして、御隠居様の菩提をとむらわせようとおっしゃるので・・・・・・」
 加保茶元成が顔をしかめ、直次郎はあっけにとられたまま、視線を宙に浮かせた。

 これには、直次郎が驚くのも当然。
 自分が間夫と信じて疑わない三穂崎を訪ねた客がその場で亡くなったことも心中穏やかではないのに、その子供である当主の高木市太郎が、三穂崎を身請けし、尼にして亡くなった父の弔いをさせようというのだから。


 さて、ここで、いわゆる狂歌三大人を確認。

 もちろん、直次郎の四方赤良、そして、すでに登場している朱楽菅江。
 そして、もう一人とは。

 月に数度は狂歌の会がある。
 その月の末の向島での狂歌会には、久しぶりの顔がみえた。
 唐衣橘洲(からころもきっしゅう)という狂歌名をもつ人物で、小身ながら田安家の侍であった。
 本名は小島源之助といい、狂歌では直次郎よりも、むしり先輩格であった。四谷にある彼の屋敷では、しばしば狂歌の会が催され、門弟も多い。
 実をいうと、直次郎とは古くからの友人であった。唐衣橘洲、朱楽菅江に直次郎を加え、狂歌三大人と呼ばれた時期もある。それが数年前から、いささいあ疎遠になっていた。
 きっかけは二つの狂歌集の出版をめぐってであった。
 今から四年前の天明二年に、唐衣橘洲が中心となって『狂歌若葉集』を編纂するにあたって、何故か橘洲が直次郎と朱楽菅公の狂歌を一首も加えなかったものである。
 その理由については、直次郎や朱楽菅江と親しい友人の間で、
「橘洲は自分が狂歌の先輩にもかかわらず、狂歌師としての名声は四方赤良、朱楽菅江に上を越されてしまったので、それをねたんで、若葉集から二人の狂歌を除いたのだ」
 と、もっぱら噂をされた。

 その『狂歌若葉集』と時期を同じくして、 直次郎と菅江の二人で狂歌集『万載(まんざい)狂歌集』を編纂し、これが大当たりで続編も発行された。
 かたや若葉集は、続編の予告をしていたにもかかわらず、それが発行されることはなかった。
 『万載狂歌集』によって、四方赤良の名声はさらに上った。
 それから疎遠になった二人だったが、久しぶりに狂歌会に顔を出した橘洲から、数日して、使が来て、四谷の小料理屋で会いたいとの報せ。

 旧交を温めようということか、と思った直次郎がその小料理屋を訪ねたのだが。

 待ちくたびれた頃に、廊下に足音がして、まず橘洲が座敷へ入って来た。続いて、もう一人、侍であった。
 お納戸色の紋付の着流しで、帯にはさんでいる印籠は玉兎の蒔絵の見事なものだし、手に下げている刀の造りも贅沢であった。
 先に来た直次郎が遠慮して下座にいるのに、なんの会釈もなく、床の間を背にして座布団に端座した。着流しのくせに、おっとりと品がいい。
「お引き合わせ申そう、こちらは高木市太郎様だ」
 橘洲の口調に居丈高なものがあるのに、直次郎は気づいた。
 しかし、それよりも今、自分の前にいる相手が高木市太郎と知った驚きのほうが遥かに大きかった。

 なんと、数年前から疎遠だった唐衣橘洲が、三穂崎を身請けして尼にしようとしている、旗本の高木市太郎を連れて来るとは・・・・・・。

 この後、三人はどんな会話を交わすことになるだろうか。

 それは、次回のお楽しみということで、今回はこれにてお開き。惜しい切れ場だ。

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# by kogotokoubei | 2018-11-19 19:54 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(0)
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平岩弓枝著『橋の上の霜』

 この本から二回目。

 直次郎は狂歌会の後、松葉屋に三穂崎を訪ねてから二日ほどおいて、内藤新宿に、平秩東作(へずつとうさく)を訪ねた。

 もともと、甲州中馬宿渡世をしていた稲毛屋の主人だが、父親の死後、煙草屋に転業し今は手広く商いをしている。直次郎とは、内山賀邸の同門であり、狂歌仲間でもあった。平秩東作は狂歌名で、本名は金右衛門という。直次郎よりも二十三歳も年上であり、大変な子福者で、今は商売を子供達にまかせて、伊豆の天城山で炭を焼かせて、江戸へ運んで商売をしたり、誘う人があると蝦夷地へまで旅に出たり、好き勝手な隠居暮しをしている。

 この平秩東作は、平賀源内との親交があった人としても知られている。源内が獄死した後に遺体の引き取り手がなかったのだが、危険を犯す覚悟の上で東作が引き取った、とされている。

 その年上の友人の東作を、直次郎は、松葉屋で会った老人のことを語った。

「左様、その仁が三穂崎さんの客ということは、あり得ないことではございませんな」
 大体、新造を買う客は、老人が多いのだと東作はいう。
「年をとってくると、孫ほどの年の女がよくなると申しましてな。振袖に前帯という新造の出立(いでたち)もさることながら、十七、八の若い娘に色気を出すのが多うございます」
 吉原あたりでも、成熟した華魁は老人には重荷で、むしろ、青くさい新造のほうが具合がいいというむきがある、と笑っている東作も六十歳を過ぎている。六年前に妻をなくして、目下、独りであった。
「手前が知っている話でも、いい年をした隠居が、孫娘のような新造に夢中になって大枚の金を散財したというのがございますよ」
 持部屋のない新造に、部屋を持たせ、見習女郎から一人前の姉女郎に昇格させてやるには、かなりな金が要る。

 その昔のお金持ちの高齢者の遊びとは、そんなものだったのか。
 たしかに、若い子が近くにいるだけで、こちらも若返るということはあるなぁ。
 私も還暦を過ぎていて、なんとなく、そういった傾向は分からないでもない。しかし、とても、悠々自適ともいえないし、遊ぶ余裕も、気持ちもない(ということにしておこう^^)

 この後、直次郎は東作から、あまり三穂崎にのめり込むことのないように、という序言をもらい新宿を後に牛込の家に帰った。
 家には、蔦屋重三郎からの便が届いていた。

「至急、お願いしたいことがございまして、是非、四方先生にお出で頂きたいとの主人の口上でございます」
 蔦屋は、吉原大門口にある書肆だった。主人の重三郎は蔦の唐丸の狂歌名を持つ、直次郎の弟子でもある。

 直次郎にとって、蔦屋は重要な商売仲間でもあった。

 好都合とも思い、蔦屋へ向かった直次郎だが、蔦屋は大文字屋に出かけていて留守。
 しばらく待っていると、蔦屋の番頭と一緒に大文字屋の主人、加保茶元成が一緒にやって来た。

「まずいところへお出でになりました」
 いいにくそうに、
「三穂崎さんのお客が、急に具合が悪くなったようでございまして・・・・・・」
 今、医者が松葉屋へ入ったという。
 大袈裟なことだと、直次郎は思った。
 酔って気分が悪くなったのなら、「袖の梅」という万能薬でも飲ませておけばよい。
 それにしても、三穂崎にもう先客が登楼しているというのが不快だった。
 その客がはやばやと帰れがよいが、具合が悪いから泊るとでもいい出したひには、なんのために吉原まで来たのかわからない。
 蔦屋重三郎も帰って来たが、どうも、仕事の話という雰囲気でもなかった。
「とのかくも、先生、お口汚しに・・・・・・」
 奥の部屋で酒の用意がされ、ちょっとした肴も並んだが、直次郎にしてみれば、到底、腰をすえて飲むどころではない。
「三穂崎の客というのは、何者なのだ」
 厚顔なのを承知で訊くと、
「それが、商家の御隠居とばかり思って居りましたところ、お侍だったそうで・・・・・・」
 というところをみると、馴染客である。直次郎はいよいよ、腹が立って来た。
「隠居というからには、老人か」
「はい、七十をすぎたとみえるお方で、なんでも御旗本とか」
 旗本の隠居ときいて、直次郎は消沈した。
 こっちは御目見以下の七十俵五人扶である。
 (中 略)
「病気はなんなのだ、持病でも出たのか」
 年甲斐もなく、若い女にうつつをぬかすから、そんなことになるのだと、直次郎はいささか痛快であった。
「それが、松葉屋のほうでは、ただ、具合が悪くなったというばかりで、要領を得ませんので・・・・・」
 ありようは、蔦屋重三郎が新しい著作のことで、直次郎に依頼をしたいというので、それなら三穂崎に知らせておかなくては、と松葉屋へ使をやったところ、すでに、客が来ているという。
「なんとも不手際なことで、どうにかならないかと、主人のほうへかけ会って居ります中に、お客が病気と知れましたので・・・・・・」
 加保茶元成は恐縮しているが、その様子はどこか不安そうであった。

 三穂崎の客は旗本の隠居だった。
 その客が倒れた。
 そして、大文字屋の主人、加保茶元成からうかがえる不安とは・・・・・・。

 今回は、ここまで。
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# by kogotokoubei | 2018-11-18 16:27 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(0)
 ここ最近は、以前読んだ本をあらためて読むシリーズ(?)が続いている。

 忘れていることが、どれほど多いことか。

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平岩弓枝著『橋の上の霜』

 いつかこの本のことを書こうと思っていたので、そのためにも再読したのが、平岩弓枝の『橋の上の霜』。初版が昭和59年なので、昭和7年生まれの著者は、五十歳代の作品。

 平岩弓枝は、昭和34(1959)年、二十代にして『鏨師』で直木賞を受賞。
 ベストセラーとなった『御宿かわせみ』は、昭和49(1974)年に発表なので、その十年後の作品ということ。
 テレビドラマ『ありがとう』や『肝っ玉かあさん』、『女と味噌汁』シリーズを書きながらの多忙な時期の作品だ。それほど、書きたかったのが、この大田直次郎、別の名を狂歌師の四方赤良、その後の蜀山人の小説だったのだろう。

 川柳や狂歌は、落語のマクラにもよく登場する。

 狂歌といえば、蜀山人。本名、大田直次郎。号は南畝。
 
 大田直次郎は、田沼時代にどっぷりと漬かった人生を送った人だ。その恩恵もあったし、その反動も受けている人だ。

 決して、平穏な人生とは言えなかったことを、この本で知った。

 まず、どんな家柄だったのか。

 御目見以下の小身だが、御徒頭内藤惣右衛門の組下で七十俵五人扶持を頂く役人のはしくれである。

 物語は直次郎が三十八歳の時から始まる。
 すでに、直次郎は別の名を持っていた。

 七十俵五人扶持の生活は貧しかったが、ここ数年、大田家には余分の収入があった。
 直次郎が余技として書いた狂詩や黄表紙、洒落本が当って、かなりのみいりがあったところへ、狂歌が流行して、狂歌師、四方赤良としての彼の盛名が大いに上った。
 御家人としての大田直次郎を知らない者も、人気作家で狂歌の三大人の一人、四方赤良の名は女子供にも鳴りひびいている。

 狂歌師としての収入が増えたこと、そして、仲間の狂歌師や弟子である吉原の茶屋の主人たちとの交友も増えたことで、直次郎の生活が大きく変わった。
 吉原の松葉家の新造、三穂崎、本名おしづに通い続けて朝帰りが多くなった。
 当然、女房里世には狂歌仲間との寄り合いである、などど嘘をついているが、里世はうすうす気づいており、機嫌が悪く、つい二人の子供にあたったりしている。
 庭いじりをしていた父、吉佐衛門が庭に来た直次郎に、語りかける。

「近頃、だいぶ、夜が遅いな」
 直次郎は苦笑した。
 老人は早寝だが、目ざとくて、夜明け近くに帰ってくる息子の気配を知っている。
「相変らず、狂歌は盛んなようだが・・・・・・」
「狂歌会が多くて駒って居ります。手前は、狂歌と申すものは、いわば、その時、その場の思いつきで、わざわざ、一つ所に集って、ものものしゅう作るものではないと心得て居りますが、世間はそうも行かぬようで・・・・・・」
「つきあいはよい、遊びもよかろうが、あまり度を越すな」
 父親は男盛りの息子を眺めた。
 母親似で、なかなかの男ぶりでもある。背は親よりも高く、幼少から詩文に才能をみせただけあって、風格がある。物腰は柔かく、少々、きざなところも、今は魅力であった。
「先だって、山崎どのに出会うたが、其方は女子(おなご)にもてると申されて居ったぞ」
 直次郎は赤くなった。
「郷助の奴、ろくなことをお耳に入れませんな」
 同じ牛込に住む直次郎の友人であった。御先手与力で山崎郷助という侍だが、彼も亦、朱楽菅江(あけらかんこう)という狂歌名のほうが、世間の通りがいい。
「手前が新吉原へ参るのは、あそこの妓楼の主人たちが狂歌を好み、吉原連と申す仲間を作って居ります。それで、手前も招かれて参りますが、ただ、それだけのつきあいで・・・・・・」
 吉原の大文字屋の主人、村田市兵衛が加保茶元就(かぼちゃのもとなり)の狂歌名を持ち、同じく、扇屋、五明楼の主人、鈴木宇右衛門が棟上高見(むねあげのたかみ)と称し、いずれも、直次郎の門弟を気どっている。
「それはそれでよい」
 老父は照れくそうであった。四十に近い息子に今更、遊びの意見をする心算(つもり)はなさそうである。
「男が外でなにをするもよかろう。が、嫁女は家に居って、さぞ、気が揉めよう。外に気をとられて、内の花を忘れるな。庭の花とて水をやらねば枯れようが・・・・・・時には水をやれ。さすれば、孫を泣かすこともあるまいが」
 息子の顔をみずに、裏口へ去った。
 親父殿も鹿爪らしい顔をして粋なことを仰有(おっしゃ)ると、直次郎は可笑しくなった。

 狂歌仲間や弟子たちの名も登場した。

 この日、直次郎は、狂歌会に出向いた後、皆が村田市兵衛の大文字屋での宴会に行く中、一人松葉屋で待つ三穂崎に会いに行くのだった。

 帰りがけ、直次郎はある高齢な男とすれ違う。
 直次郎は、胸騒ぎがした。
 その男とは・・・・・・。それは次回のお楽しみ。

 さて、大田直次郎、別の名は四方赤良、どんな人生を送ることになるのか。

 初回は、これにてお開き。


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# by kogotokoubei | 2018-11-17 14:36 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(0)
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 少し間が空いたが、和田誠さんの『落語横車』から三回目。

 和田さんは映画についてのエッセイで有名。

 「落語と映画・芝居など」の章から、私の大好きな「幕末太陽伝」に関する部分をご紹介。この本、初版は昭和55年。

 数人の若手落語家と「幕末太陽伝」の話をしたことがある。みんな観ていたし、それぞれに感心したらしい。中には「あの映画を観て、落語が好きになったんです」と言った人もいた。ただし、別の機会に立川談志さんに、「『幕末太陽伝』よかったね」と言ったら、「へえ?そうかい」と言われてしまった。その日はすぐ別の話になったので、へえ、そうかいの意味をきくヒマがなかった。別の話というのはアメリカのミュージカル談義で、談志という人物は、こと「芸」に関してなら落語に限らず、日本の芸能に限らず、フレッド・アステアのタップからドナルド・オコーナーのとんぼ返りに至るまで、とにかく好きで、好きというより惚れ込んでいて、夢中になって語るのだ。
 いずれチャンスがあったら「幕末太陽伝」の話の続きをしたいと思うが、今、ぼくはぼくなりに談志さんの言ったことを勝手に解釈してみよう。

 いったん、休憩。
 川島雄三生誕百年ということで、さまざまなイベントがある中で「幕末太陽伝」に縁のある噺の落語会があることを、6月に拙ブログでお知らせした。

 11月4日までの開催だったが、結果として、私は行かなかった。

 プレゼント付きとはいえ、4,800円と木戸銭が高いと思ったことと、川島雄三が空の上で喜ぶのかどうか疑問を感じたこと、加えて、スケジュールが合わせにくなかったということもある。

 さて本書に戻る。
 和田さんは同じ昭和11年生まれの談志の思いを、どう解釈したのか。

 つまり、彼は落語が好きだ。落語に惚れ込んでいる。たった今、落語に限らず「芸」なら何でも好きだと書いたばかりだけれど、中でもとりわけ落語には心底惚れ込んでいると断じていい。すると、「幕末太陽伝」がどんなによく出来ていようと、例えば三遊亭円生が「居残り佐平次」をやり、古今亭志ん生が「三枚起請」をやり、三笑亭可楽が「品川心中」をやり、それが一度に聴ける高座があったとしたら、それは映画を観るより余程いいじゃねえか、と言うのじゃないかしら。もしそう言われたら、いや、やっぱり映画がいいぜとぼくには反論できないのである。そう言っちゃミもフタもないとおっしゃる人もいるかも知れないが、やはり落語はそれほど大きなものだろう。

 和田さんの推測は、たぶん半分当っているように思う。
 私が思う、もう半分の理由は、談志が川島雄三という映画監督にあまり良い印象を抱いていなかったのではないか、ということ。

 正岡容に代表されるが、川島雄三を、落語界から桂小金治さんを奪い去った憎い男、と思っている人は少なくなかっただろう。

 そんな思いも、「へえ?そうかい」という言葉の背景にあったのではなかろうか。
 円生も志ん生も可楽もいない平成の落語界だが、この度の企画では、誰がどんな噺を演じたのか。
 「お江戸@マーク」のサイトを見ると、噺家さんの演じたネタは、次の通りだったらしい。
「お江戸@マーク」のサイト

 
柳家喬太郎 「品川心中」「文七元結」
春風亭一之輔 「五人廻し」「付き馬」「お見立て」「居残り佐平次」
桃月庵白酒「文違い」「付き馬」「明烏」
立川志らく「品川心中」
立川志らら「お見立て」
橘家文蔵「文七元結」
柳家わさび「亀田鵬斎」
神田松之丞 天保水滸伝より「潮来の遊び」「青龍刀権次」

 
 この映画については、ずいぶん前、二谷英明の訃報をきっかけに記事を書いた。
2012年1月9日のブログ
 
 その際に、私が記した、あの映画に登場するネタは次の通り。

(1)居残り佐平次
(2)船徳*相模屋の倅の名が徳三郎、ということで。
(3)明烏
(4)品川心中
(5)三枚起請
(6)文七元結
(7)五人廻し
(8)お茶汲み*こはるが客を騙す“うそ泣き”をする
(9)付き馬
(10)お見立て
(11)たちきり*相模屋の若旦那徳が座敷牢に入れられる

 あら、「文違い」が入っていない。
 う~ん、どこにあの噺を連想する場面があったっけ。
 佐平次が花魁たちの手紙の代書をするというのも、居残り、と言えるだろうし。

 もしかすると、廓噺ということでの選択かもしれないが、「文違い」の舞台は、品川ではなく新宿だなぁ。

 また、今回の企画では、「文七元結」「品川心中」「お見立て」「付き馬」が重複しているのだが、「お茶汲み」と「たちきり」はともかく、「三枚起請」がない。
 これは、残念だ。

 また、松之丞の天保水滸伝が、どうこの映画につながるのだろうか。
 
 江戸の元号でつながっているが、藤本義一さんの『生きいそぎの記』に関する記事で、川島とフランキーが、写楽を主人公として「寛政太陽傳」を作る約束をしていながら叶わず、川島の遺志をフランキーが継いだことを紹介した。
 あくまで、写楽の映画。

 そういった構成への疑問も、俳優座に足を運ぼうとしなかった理由の一つかな。

 行かなかったくせに、小言を書いていることは、平にご容赦のほどを。

 さて、和田さんの本に戻る。
 落語と音楽のことから。

 音楽の世界では、「たらちね」がオペラになっているそうだが、ぼくは聴いていない。デュークエイセスが「寿限無」「長屋の花見」などを歌にして歌っている。出来のいいのは「長屋の花見」で、リーダーが大家、ほかの三人が店子に扮し、いくらかセリフも混えながら、もちろん主としてはコーラスによって組曲ふうに綴って行く。コーラス・グループが落語に取り組んだ実験精神を大いに買いたい。しかし、やはり落語のような笑いは取れないのがちょっとつらいところ。

 デュークエイセス、懐かしい。
 結成は、私が生まれた昭和30年。昨年、惜しまれながら解散。一昨年にはダークダックスも解散しているので、残るは、ボニージャックスのみ。
 
 引用を続ける。

 ミュージカルでは「死神」があった。これは「今村昌平台本のオペラによる」というサブタイトルが付されていたと思う。オペラの方が上演されたかどうか、ぼくは知らない。こちらはいずみ・たく作曲によるミュージカルで、西村晃、今陽子などの出演。歌の中で記憶に残るいい曲が一つあったけれど、長丁場の舞台にするにはいろいろなエピソードをつけ加えなければならず、落語が本来持つ引き締まった面白さが、どうしても水増しされる結果になった。それに、全体に暗いムードのい舞台になってしまった。落語の「死神」はブラック・ユーモアだが、ユーモアが欠落してブラックだけが残ったという印象。「死」を相手にしても底抜けに明るい、というのが落語の持っている良さの筈だと思うのだが。落語を素材にしながら暗い部分が強調されるのは真面目さのなせるわざだろう。演劇人(映画もテレビも含めて)に共通な感覚として、大作に取り組む時はたいてい、素材を深刻な方にとり込んでしまうようだ。
 そう考えて思い返すと、「幕末太陽伝」の主人公にも死の匂いがつきまとっていた。「居残り佐平次」には確かに「俺はこのあいだからどうも身体の具合が悪い」というセリフがあり、それで療養のつもりで海辺の品川遊郭に泊り込むわけだが、落語では、そのことについてはそれ以上は出てこない。映画の佐平次は完全に労咳という設定で、死と直面しているために居直った人物という解釈があったような気がする。
 あら、また「幕末太陽伝」に戻ってしまった。
 
 少し検索してみたら、今村昌平作のオペラ「死神」は、あちこちで上演されているようだ。
 オペラのみならず、ミュージカル「死神」もあったんだねぇ。
 暗~い、ミュージカルって、あまり観たいとは思わない^^

 しかし、NHKの「昭和元禄落語心中」で、菊比古(ハ代目八雲)の「死神」を知った若い落語愛好家も多いかもしれないから、今なら、ミュージカル「死神」当たるかも!

 明日16日(金)は、その「昭和元禄落語心中」が一つのヤマを迎える。

 これまで、原作の漫画も読んでいず、昨年放送されたアニメも観ていない私だが、今回のドラマは都合よく毎週観ている。

 NHK大河と比べることに無理があるとは思うが、あちらも実在の人物をモチーフにしたフィクションドラマとするなら、ドラマとしての魅力は、格段と「昭和元禄落語心中」が上である。
 
 そのうち、あのドラマについて何か書こうと思っている。

 ちょっと話があっちこっちに発散してしまったなぁ。

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# by kogotokoubei | 2018-11-15 12:47 | 落語の本 | Comments(4)
 落語愛好家は先刻ご承知と思うが、歌之介が来春、四代目圓歌襲名する。
落語協会HPの該当ページ
 三月二十一日の鈴本下席から披露目だ。

 相変わらず落語協会HPは、ポスター画像の掲示のみで日程を文字で組んでいないので、代りに(?)紹介しよう。

 鈴本演芸場  3月21日~30日 夜席
 新宿末広亭  4月1日~10日  夜席
 浅草演芸ホール  4月11日~20日 昼席
 池袋演芸場  4月21日~30日 昼席
 国立演芸場  5月11日~20日 昼席(17日のみ昼夜)

 初代圓歌は、初代圓右門下だったようだ。
 二代目圓歌はその初代の弟子、三代目圓歌は二代目の弟子。
 直系での四代目誕生と言える。

 ただし、直系ということでは兄弟子に歌司と小歌がいる。

 では、なぜ歌之介に・・・・・・。

 師匠の遺言だったようだ。

 スポーツ報知から引用する。
スポーツ報知の該当記事

三遊亭歌之介が4代目・円歌を襲名 2019年3月から “遺言”守り2年ぶり名跡復活
2018年4月22日17時0分 スポーツ報知

 落語家・三遊亭歌之介(59)が来年3月に4代目・三遊亭円歌を襲名することが22日、明らかになった。同日、東京・半蔵門の国立演芸場で行われた「三代目 三遊亭圓歌 一周忌追善落語会」で発表された。歌之介の師匠でもある3代目は昨年4月23日に亡くなっており、2年ぶりの名跡復活となる。

 3代目・円歌さんは早くから売れて、初代・林家三平とともに、二ツ目で寄席のトリを務めたこともあり、「授業中」「中沢家の人々」など新作落語で爆笑王として昭和、平成を通じて第一線で走り続けてきた。その円歌さんの名跡を、師匠の芸風を色濃く受け継いでいる弟子が襲名する。歌之介も新作落語で爆笑を誘う寄席にはなくてはならない存在だ。

 “遺言”でもあった。亡くなる前年の2016年末の落語協会の納会で、円歌さんは柳亭市馬会長(56)に「のすけ(歌之介)に後を継がせるんで頼むな」と話していたという。意をくんだ市馬会長が、昨年末の理事会で襲名を提案、無事承認された。円歌さんは、数年前から一門でも歌之介に名前を譲ることを公言し、弟子たちに協力を願っていた。歌之介は「『そんなこと言わずに師匠、長生きしてください』と言っていたんですが…」と話した。

 昨年、師匠が4月23日に亡くなって五日後、4月28日の新宿末広亭の夜席、白酒の代バネで歌之介の高座に出会い、彼の熱い師匠への思いが伝わった。
2017年4月30日のブログ

 昨年末のマイベスト十席で特別賞(「泣けたで賞」)にしたが、その時の私の思いをあらためて引用したい。
 冒頭に「なんとか普通の姿になって」と言うようなことを言って、師匠円歌の思い出話が続く。
 途中から『B型人間』になったものの、『母ちゃんのアンカ』に変わり、小学生で父親と離婚して苦労した母親のことを語り出してから目が赤くなってきた。
 十八で入門してから父親代わりだった円歌のことが走馬灯のように脳裏に浮かんできたのだろう。
 九時までにはハネなくてはならないトリだったが、歌之介の熱い思いがつい時間を忘れさせたのだろう。
 こういった高座も、なかなか良いものだし、たまたま故郷薩摩の後輩白酒の代バネであったという巡り合わせ、そして、その客席にいた僥倖なのだと思う。
 兄弟子の、歌司、小歌も、歌之介に今後長く圓歌を名乗り続けて欲しいと思っているのではなかろうか。

 なんとか、来春の披露目には駆けつけたいものだ。
 披露目の間に、師匠の三回忌がある。池袋の三日目だ。

 さて、歌之介の圓歌襲名披露興行も関係しているのだろう、来年の落語協会の真打昇進披露興行は、今年と同じ九月下席から。
落語協会HPの該当記事

 昇進するのは、柳家わさび(柳家さん生門下)、柳家喬の字(柳家さん喬門下)、初音家左吉(初音家左橋門下)、柳家ほたる(柳家権太楼門下)の四名。


 今年2月の記事で、二ツ目の香盤と私の予想(?)を、次のように書いた。
2018年2月22日のブログ

柳家わさび  2003(平成15)年11月入門、2008(平成20)年3月二ツ目昇進
柳家喬の字  2004(平成16)年入門、2008(平成20)年3月二ツ目昇進
初音家左吉  2004(平成16)年6月入門、2008(平成20)年3月二ツ目昇進
柳家ほたる  2004(平成16)年6月入門、2008(平成20)年3月二ツ目昇進
三遊亭たん丈 2004(平成16)年入門、2008(平成20)年11月二ツ目昇進
柳家一左   2004(平成16)年11月入門、2008(平成20)年11月二ツ目昇進
三遊亭歌太郎 2004(平成16)年8月入門、2008(平成20)年11月二ツ目昇進
柳亭市楽   2005(平成17)年3月入門、2008(平成20)年11月二ツ目昇進
三遊亭歌扇  2005(平成17)年8月入門、2009(平成21)年6月二ツ目昇進

 結構悩ましい。
 入門時期と、前座で楽屋入りする時期が、どんどん間隔が空いている。
 白酒が、「待機児童」と表現していた。
 よって、二ツ目昇進時期を基準に考えるならば、2008年3月が四人、同年11月も四人なのだ。
 なんとなく、来年春に、わさび、喬の字、左吉の三人、秋に、ほたる、たん丈、一左、歌太郎、市楽までの五人かなぁ、などと思っている。

 予想は、外れた。
 見事に二ツ目昇進時期に合わせて、秋のみ四人。

 四人で国立を含む50日間、どう主任の日を割り振るのだろうか。

 今年は、残念ながら行けなかったが、昇進者は五名で、各定席の十日興行で二日づつ主任を務めていた。
 四人となると、国立を除く四つの定席の合計四十日は、一人合計十日の主任で割り切れるが、そうした場合、国立の十日間をどうするのだろう・・・・・・。
 今年同様に11月上席が披露目とするなら、1日の金曜、2日の土曜、あるいは3日の日曜や4日の振り替え休日に昼夜興行を二日設定し、12回の興行にでもするのかな。

 あるいはジャンケンでもして主任を決めるのか。

 そんなことも、少し興味深い。

 四人とも生で聴いているが、私は、「落語物語」に出演した、わさびが気になる。

 こちらも、一年後のことだが、なんとか行きたいものだ。

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# by kogotokoubei | 2018-11-14 20:54 | 襲名 | Comments(8)
 昨日の記事別アクセスで、以前書いた明治の改暦の記事のアクセス数が急激に増えてトップになっていた。

 安定的にアクセスのある記事ではあるが、その数が“半端ない”^^

 どうも、すでに見なくなったNHKの大河「西郷どん」に関係がありそうだ。

 昨日は、大久保や岩倉が海外視察で留守の間の出来事などが放送されたらしく、なるほど、その間に改暦を挙行しているからね。

 
 アクセスが急増したのは2013年1月14日の記事。その翌日も関連することを書いた。
2013年1月14日のブログ
2013年1月15日のブログ

 「西郷どん」が、どれほど改暦のことを説明できたのかは知らないが、あらためて、2013年1月15日の記事と重複するが、ある本からその内容を紹介したい。

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『旧暦と暮らす-スローライフの知恵ごよみ-』松村賢治著(文春文庫)

 その本とは、松村賢治さんの『旧暦と暮らす-スローライフの知恵ごよみ-』。

 松村賢治さんは、社団法人大阪南太平洋協会の理事長で、同協会では「旧暦カレンダー」を発行している。
(社)大阪南太平洋協会

 本書は2002年にビジネス社から単行本として発行され、2010年文春文庫に加わった。この後に「庵を結び炭をおこす−続・旧暦と暮らす」「続々と、旧暦と暮らす」が発行されているので、三部作の第一作と言える。

 本書から、「明治の改暦」に関する裏話や、その改暦によって引き起こされたと思われる問題の指摘などを、「第六章 なぜ旧暦が使われなくなってしまったのか」の「改暦の怪」から、あらためて引用。

 ペリーの浦賀来航以来、ロシアやヨーロッパ列強から開国を迫られ、さまざまな条約を締結してきた新政府は、彼我の暦の違いに、大いに不満を感じていました。
 また、今後ますます、欧米の先進文化を導入していくに際し、西暦への改暦は、必要不可欠となっていました。同じ「旧暦」での改暦ですら、我が国では千二百年間に数えるほどのこと。ましてや、「太陽暦」への改暦で、紆余曲折のないはずがありません。事実この時も、世の中は大混乱となりました。
 岩倉具視、大久保利通といった政府首脳の多くが、遣欧米使節団として不在の間に、大隈重信は福沢諭吉と共にこの大改革を断行したのです。福沢は、改暦推進用のパンフレット「改暦弁」で、「日本国中の人民、この改暦を怪しむ人は必ず無学文盲の馬鹿者なり」と、激しく旧暦害悪論を展開しています。そして、当時の知識人の多くが、「農暦」としての効用を分かっていながら、この急激な大改暦を支持せざるを得ず、旧暦害悪論の大合唱に追随してしまったのです。
「閏により気候の早晩が起こり、旧暦は農業に不都合。迷信が多く、知識進歩の妨げとなる」という「改暦の詔勅」が、公式見解として百三十年も尾を引いているとは・・・・・・。

「改暦は、脱亜入欧、富国強兵、文明開化促進の要」という大義名分は、まったく正当なものに違いありません。しかし、実際のところは、明治政府の懐具合が、改暦の大きな要因だったようです。廃藩置県を断行して、中央地方共々、お役人のサラリーは月給制になっていました。その上、政府は外国人のアダバイザーや教育指導者をたくさん雇い、目白押しの大改革に、更なる大出費を迫られていました。
 明治六年は、「旧暦」のままだと閏六月があり、給料日が十三回ある年でした。
「もし、明治五年十二月三日が、明治六年のお正月になり、翌年が「太陽暦」で、閏がなくなったら・・・・・・」
「難なく、十二月と六月、二ヶ月分の給料がカットできる!!」
 どうもこれが、大急ぎの改暦の第一の理由だったようです。

 さて、他のアジア諸国の改暦事情は、どうだったのでしょう。韓国は、明治二十九(1896)年、中国が辛亥革命の翌年、明治四十五(1912)年です。日本は明治六(1873)年ですから、確かに、アジアでの西欧化の先頭に立ったわけです。
 アジアの中の日本という連帯感を、旧暦害悪論が少なからず打ち壊し、他のアジア諸国の不興を買ってしまったことは、否めない事実のようです。
 国際交流の面から捉えてみても、アジアの風土に根ざした生活規範を全面否定して、ヨーロッパの仲間入りを目指した日本を、周辺アジア諸国の人々がどのように感じていたのか、そういった面での思いやりに欠けた行動が、後にアジアの人々よの間に、大きなわだかまりを作る原因となったのかも知れません。
 今の我が国のひずみは、季節感や古き良きものへの愛着心の喪失も含めて、自然に則した社会運営の歯車が、急激な改暦で狂っていった結果かもしれません。
 Wikipediaを元に前日に書いていた記事を、翌日この本の引用で補足したのだが、よくまとまっていると思うし、その問題意識も共感できる。

 欧米との対等な付き合いをするために、彼らと同じ暦を導入する、という理由は分からないでもない。
 しかし、裏の(本心の?)狙いは、給料を二ヶ月分払わなくて済むようになる、コストカットだったとはね。
 なおかつ、当時は近隣のアジアの国々との関係は、まったく認識の外だったに違いない。

 初版が十六年前の本だが、本書で懸念しているアジア諸国との関係は、さらに悪化していると言えるだろう。
 その理由のすべてが改暦にあるとはもちろん言わない。しかし、中国や韓国は改暦後も祭事など生活のリズムと切り離せないものは旧暦を土台としている。
 対照的に、日本が新暦にどっぷり依存していることと、隣人達との関係悪化は無縁ではないように思う。

 ちなみに、今日11月12日は、旧暦の十月五日。まだ、神無月に入ったばかりなのだ。

 さて、大河だが、私は笑福亭鶴瓶が岩倉具視を演じた姿を見てから、見なくなった。
 何と言うミスキャストだろうか・・・・・・。
 私は、そう思う。

 他にもあのドラマには史実を捻じ曲げている部分が、多すぎる。

 あの番組の時代考証担当者が、史実との違いを認めるいることを、以前紹介したので、ご興味のある方はご覧のほどを。
2018年7月17日のブログ
 
 昨日の放送、改暦のことも、大隈や福沢はあくまで脇役だから、それほど詳しくはふれられていないに違いない。
 でも、観ていないので、間違っていたら、ごめんなさい。

 NHKのサイトによると、海外視察からいち早く戻った大久保と西郷との葛藤が後半のメインの筋書きと察するが、果たして、どんな内容だったものか。もう、気にはならないけどね。


 NHK大河、ここ数年、朝のドラマと同様に、“ある歴史上の人物をモチーフにしたフィクション”とでも言える内容に劣化していると思う。

 来年は、クドカンの脚本だから、最初は観ようと思うが、あまり高望みはしないようにしよう。
 
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# by kogotokoubei | 2018-11-12 12:36 | 旧暦 | Comments(2)
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 和田誠さんの『落語横車』から二回目。

 初版は講談社から昭和55年発行で、私が読んだのは昭和59年の講談社文庫。

 前回と同じ「落語とジャズ」の章。

 今回は、家元がジャズ好きになった背景に、和田さんの存在があったという話から。
 談志さんがディキシー・キングスと知り合ったいきさつについては、ほんのちょっぴりだがぼくにも関りがある。1960年頃、草月会館ホールでは毎月「草月ミュージック・イン」というジャズの会が開かれていた。ぼくはこの会のポスターをデザインしていた。学校を卒業して間もない頃の話である。ぼくはジャズが好きだったので、ポスターを作るだけでなく、企画そのものに少々口出しをしたこともあった。「ブルースの継承」という題のジャズの歴史に関する催しが好評で、この企画が労音に買われて関西でも上演された。草月ホールではごく地味にやったのだが、大劇場の乗るのだから少し規模も大きくしよう、それに構成台本が必要だ、ということになった。プロデューサーとの打合せで、ぼくはポスターを作る以外に、舞台で映されるスライドの絵を描くことになったのだが、構成者を誰にしようかという話になり、ぼくは谷川俊太郎さんを推薦した。その案が通って谷川さんに話を持って行くと、谷川さんは、自分はジャズは詳しくないから引き受けないけれど、代りに推薦する人がいる、と言って都筑道夫さんを指名した。都筑さんはすでに作家として知られていたけれど、ぼくたちにとっては「EQミステリ・マガジン」の名編集長としての印象の方が強かった頃である。台本は都筑さんが書くことになった。
 都筑さんの台本では司会者が必要で、その司会者は落語調でしゃべることになっていて、できれば本物の落語家がいいという。
 ぼくは当時は落語とジャズの結びつきを考えたこともなかったから、たいそう意外に思えたものだった。都筑さんは、ジャズについて語るのだから落語家でも若手がいい。今優秀な若手が二人いて、一人は古今亭朝太、一人は柳家小ゑん、どちらかに頼もう、と言った。詳しいんだなぁ、とぼくは思った。しばらくしてわかったことだが、都筑さんのお兄さんは、若くして亡くなった鶯春亭梅橋という落語家だったのだ。
 言うまでもなく、朝太は後の志ん朝、小ゑんは後の談志である。

 少し長くなったが、和田さん、若くしてポスターのみならず、ジャズ・イベントの企画にまで関わっていたんだなぁ。

 草月ホールで思い出すのは、ずいぶん前だが、ぴあの主催する「マクラ王」なる落語会に行ったことがある。
2011年7月16日のブログ
 「rakugo オルタナティブ」という企画の一つで、次のような構成だった。
-----------------------------------------
(開口一番 立川こしら マクラ&『王子の狐』)
三遊亭兼好 マクラ&『蛇含草』
三遊亭歌之介 マクラ&『お父さんのハンディ』
(仲入り)
桃月庵白酒  マクラ&『松曳き』
座談会
-----------------------------------------
 主催ぴあ、制作は立川企画だったが、とにかく不思議な会だった。

 さて、都筑道夫さんといえば、今年7月に、『志ん生長屋ばなし』(立風書房)の都筑さんの解説を紹介したことがある。二十九歳で亡くなったお兄さんのことも書かれていた。
2018年7月11日のブログ


 さて、その都筑さんが推薦した二人について、その後、どうなったのか。

 プロデューサーはたまたま朝太より先に小ゑんに会った。ぼくはどういうわけか、都筑さんに依頼に行く時も、小ゑんに会った時も、プロデューサーを同席していた。小ゑんはジャズが好きだからと言って乗ってきたのですぐ話が決まった。その時点で言えば、小ゑんが本当にジャズが好きだったかどうか、よくはわからない。彼はジャズに限らず落語以外のジャンルに仕事を拡げようという欲を持っていたのではないか。しかしいずれにしろ、その仕事以来、彼はジャズが好きになっている。その催しにはいろいろなジャズメンが登場したが、小ゑんが意気投合したのはディキシー・キングスだった。と、こういういきさつである。

 ということで、もし、朝太に先に話を持って行ったら、家元とディキシー・キングスとの出会いはなかった、かもしれないなぁ。

 さぁ、次は、私が大好きな、駄洒落のお話。

 ジャズメンには駄洒落の上手な人が多い。駄洒落というよりも聞こえをよくすれば、「言葉遊び」ですね。ぼくは彼らから、ずいぶん言葉遊びの楽しさを教わった。噺家も特有の符牒を使うが、ジャズメンも符牒が好きだ。ジャズに限らずクラシックの人たちもそうだが、数字に音階表わす記号と当てる。「一万五千円」を「ツェー・ゲー」というように。それから言葉をひっくり返して使う、つまり「彼女」を「ジョノカ」と言ったりする。これは芸能人一般に見られることだが、特にジャズの人たちにこの傾向が強いようだ。
 ジャズメンの言葉遊びの例。
 レイ・ブラウンが運転していた車がエンコした。彼は同乗者に言った。「押すか?ピーターソン」
 デイヴ・ブルーベック・トリオが来日して、旅館に泊った。夜、マッサージ師がきて、「頼んだのはどなたでしょう」ときいた。一人が言った。「ポールデス。モンドくれ」
 MJQが住んでいたアパートに、人が訪ねてきた。ドアをノックして、「ジョージ、ルイス(留守)かい?」中から声あり「こっちコニー・ケイ(こないかい)」。「何だ、見ルトジャクソンかと思ったら、やっパシ・ヒースじゃないか」
 ジャズに詳しくないと何のことやらわからなず面白くないけれど、これらはジャズ仲間で可笑しがっていた地口である。この手はもっとたくさんあるらしいが、ぼくは部外者なのでそれほど多くは知らない。

 このジャズに関する駄洒落ネタ、好きだなぁ。

 私は、社会人一年目に新潟市のあるジャズ喫茶に入り浸りになり、一年でバーボンのボトルを50本キープするほどだった。マスター、ママとも懇意になり、他のジャズ好きな仲間も交え閉店後に店でマージャンをすることが、しばしばあった。

 ジャズメンの地口が、ポンポン飛び出すマージャンだった。

 リーチする時は、「マックス・リーチ(ローチ)!」
 他の打ち手は、「トミー・フラナガン!」
 相手にふってしまった時は、「マイルス・デイビス」
 なんてね^^

 そのお店もなくなったし、その後に長岡に転勤になり行きつけだったジャズ喫茶も、とうに姿を消した。

 懐かしい、思い出である。

 さて、拙ブログでも「落語とジャズ」というカテゴリーでいくつか書いている。
 ご興味のある方は、ご覧のほどを。
拙ブログ「落語とジャズ」

 この本からは、まだ紹介したい内容があるが、いったんお休みしようと思う。

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# by kogotokoubei | 2018-11-10 09:18 | 落語の本 | Comments(6)

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 本棚で、先日紹介した長部日出雄さんの『笑いの狩人-江戸落語家伝-』の隣にあったこの本を、読み返していた。

 初版は講談社から昭和55年発行で、私が読んだのは昭和59年の講談社文庫。


 著者の和田誠さんは、昭和11年生まれ。
 和田誠さんと言うと、今では奥さんの平野レミさんの方が有名かもしれないが、広告デザインの世界では、伝説的とも言える方で、日本を代表するイラストレーターであるし、幅広くクリエイターとして活躍されてきた方ある。

 Wikipediaから、少し引用。
 Wikipedia「和田誠」

1959年(昭和34年)に広告制作プロダクションライトパブリシティにデザイナーとして入社し、同年、日本専売公社が発売予定の新商品の紙巻きたばこ「ハイライト」のパッケージデザインコンペに参加し採用される。ちなみに、同製品のデザインは、1964年開業の東海道新幹線の車体の色を決めるときに配色の参考にされたといわれている。他にも自社のライトパブリシティ及び、社会党のロゴマークを手掛け、キヤノンや東レといった国内有数の企業の広告デザインを長らく担当した後、1968年(昭和43年)退社。

退社後はフリーランスとなり、「週刊文春」の表紙、星新一著作の挿絵などを手掛けたり、他にも、星新一・丸谷才一の一連の作品や村上春樹の『アフターダーク』、三谷幸喜、阿川佐和子作品を始め、数多くの装丁を担当する。通常、書籍のバーコードは裏表紙のカバーに直接印刷されるが、これを嫌い、ISBNの数字のみが表示されたデザインを採り入れている。結果、バーコードは帯に印刷されることが多い。

映画にも造詣が深く、1984年(昭和59年)に「角川映画」として初監督作品である真田広之主演『麻雀放浪記』を手掛けた後は、小泉今日子主演の『快盗ルビイ』など数作品でメガホンをとった。ちなみに、他分野出身の監督が第一、二作連続でキネマ旬報ベストテン入りを果たしたのは、後にも先にも和田一人である。監督業以外にも『お楽しみはこれからだ』等、映画がテーマのエッセイ集を出している。

 なんと、多彩な方であることか。

 本書は、映画をテーマにしたエッセイではなく、落語をテーマにしたエッセイ。

 この本、久しぶりに読んで、私が落語と負けない位好きなある音楽と落語について書かれた章があるのに気がついた。忘れていたなぁ。
 
 落語とジャズ

 ぼくがよくジャズを聴きに行く六本木のライブハウスのオーナー、Tさんは、こよなく落語が好きだ。ジャズが好きだからジャズの店を経営しているのだが、どうやらジャズと同じくらい落語が好きであるらしい。話をしているうちに相手も落語が好きだとわかると、ジャズメンについて語るよりさらに熱をこめて噺家を語る、前座時代から小朝を買っていて、彼が真打になったのを、わがことのように喜んでいる。

 この本の初版は、前述のように昭和55年。まさに小朝が三十六人抜きで真打に昇進した年。
 引用を続ける。

 新宿のジャズバーのオーナー、Nさんも落語ファンだ。彼とその店で落語の話をしたことがある。その日はほとんど夜を明かしてしまった。Nさんはぼくと同じ年だが、典型的な古典派で、往年の名人について語らせたら尽きることがない。

 和田さんもジャズと落語が大好きなのなことが、伝わる。
 このあと、ジャズメンで代表的な落語好きとして北村英治さん佐藤允彦さんのことが書かれている。
 また、同じ業界の方も登場する。

 写真家では落語と関係が深いのは篠山紀信である。円生の写真を撮り続けたことは有名だが、中学時代に落語を習っていたことはあまり知られていない。彼の写真家としてのデビュー当初、ぼくと同じデザイン会社に勤めていたことがある。あの頃は会社の忘年会などで、彼は一席演じたものだった。立て板に水の如き「雑俳」をぼくはよく覚えている。

 これは意外。そうだったんだぁ。
 テニス仲間や同期会の旅行での宴会、また、落語好きの居残り会の皆さんとの居残り会などでも一席披露してしまう私は、一気に篠山さんに愛着をおぼえるのだ。

 和田さんは、ジャズと落語について、共通点をこう記している。

 ジャズには、おおむねテーマがありアドリブがある。同じ曲でもこう演奏しなければならないというきまりはない。演奏者の感性が尊重される。さりとて勝手放題どうやってもいいというわけでもなく、おおよそのルール、望ましき枠というものはある。演奏時間はかなり自由である。プレーヤーが乗れば演奏は長くなる。また放送などの関係で演奏時間を指定されればそれに合わせることもできる。
 こういうジャズの特徴は、かなり落語にも当てはまるのだ。落語には演目がある。しかし台本に忠実に演じる必要はない。演者の個性を生かしたアドリブが投入される。同じ噺でも、滑稽味を強く出す人がいてもいいし、人情味を強く出す人がいてもいい。さりとて噺を目茶苦茶に作り変えていいと言うものではない。時間もかなり自由がきく。演者が乗れば噺は長く、そして面白くなる。時間に制限が加えられることもまた可能。

 まったく同感。

 居残り会仲間のYさんは、私と同じように、落語もジャズも大好きで、会うと話が尽きない。
 実は、居残りメンバーとの忘年会を予定していて、昨日メールで、Yさんとある噺をリレーで演じることを決めた。他のメンバーには、まだ内緒^^

 ある音源を元にこれから稽古しなければならないが、その内容をなぞるのが精一杯になりそうで、どこまで個性を盛り込めることやら。
 音源の時間は長い。どこを短縮するか、これからしばらく楽しい悩みが続くなぁ。

 とても篠山さんのようには出来ないだろう・・・・・・。

 この本から、あと何度か紹介するつもり。

 実は、居残り忘年会の前の週が、テニス仲間との合宿旅行。
 こちらの演目も稽古しなくてはならないのだ。しかし、居残り忘年会と同じネタは、所要時間を考えると、難しい。
 以前は、音源を何度か聴いていると、結構自然に覚えることもできたが、最近はなかなか・・・・・・。加齢のせいか。

 本も読み返して忘れていたことに気づくことが、なんと多いことか。
 これも加齢のせいか。

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# by kogotokoubei | 2018-11-09 12:27 | 落語の本 | Comments(2)
 一日時間ができた。

 寄席、落語会をネットで調べてみたら、落語芸術協会のサイトで、立川談吉と春風亭傳枝の二人会で、実に木戸銭が良心的な会があることを知り、昨日電話して予約した次第。
 談吉も傳枝も、過去に一度だけ聴いたことがある。

 家元最後の弟子である談吉は、今年三月「さがみはら若手落語家選手権・本戦」で『野ざらし』を聴いた。
2018年3月12日のブログ

 私の好きな八代目春風亭柳枝を彷彿とさせる部分もあり、好印象だった。

 傳枝は、古くなるが、2012年6月に池袋演芸場で『壷算』を聴いている。
2012年6月17日のブログ

 二人ともまた聴きたいと思っていた。

 
 場所を確認するために「池袋GEKIBA」のサイトを開く。
池袋GEKIBAのサイト

 これが、今回と次回の落語会のチラシ。
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 最近は高い木戸銭の落語会が増えている中、なんと千円。

 少し早めに池袋に着き、会場の場所を確認してから、昼食をとろうとしたら、すぐ近くに、500円ランチのメニューの看板のある、「135酒場」という店を発見。

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 メニューから中華屋さんのようだが、贅沢なランチなどとるつもりもなかったので、入った。
 玉葱と豚肉と玉子炒めの定食を選択。これが、ボリュームもそこそこあって旨かった。

 まだ時間が少しあるのでコーヒーを飲みたいと思っていると、すぐ近くに、「DREAM COFFEE」なるお店がある。

 豆も売っているお店のようで、ブレンドが220円とのこと。迷わず入った。

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 このコーヒーは、なかなかに美味い。

 落語会の木戸銭、昼食、そしてコーヒーまで良心的価格の池袋、いい町だなぁ、などと思いながら、持参した文庫を読みうちに、ちょうど開場の1:30となり、すぐ近くのビルへ。

 ここが、池袋GEKIBAが三階にある、ビル。私のガラケーと雨のせいで(?)ちょっとボケているがご容赦を。

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 こちらが、ビルの正面のテナントの案内板。

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 エレベーターで三階に上がると、広いとはいえない受付が目の前にあり、席亭さんがいらっしゃった。

 前日電話したので、前売り価格の木戸銭千円を払い、中へ。

 お一人お客さんがいらっしゃった。
 パイプ椅子が一列に八席で三列、二十四席。
 高座は、こんな感じ。

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 後で懇親会に参加させていただき分かったのだが、このステージは演劇が主体なのだそうだ。

 連雀亭に似ているが、もっと狭い。

 最終的に、お客さんは六名。

 これで、採算がとれるのか、などど内心思いながら、二時ちょうどに開演。
 二列目に座ったが、高座とは目と鼻の先。
 傳枝ー談吉-傳枝の三席、順番に感想などを記す。

春風亭傳枝『長短』 (23分 *14:00~)
 この会は十人の若手の噺家のうち二人づつで開催していると説明してくれた。談吉との会は、初めてらしい。立川流のことから、今年一月に若くして亡くなった柳家小蝠の話題に。内容は、秘密。
 鯉昇一門のことなども含む13分ほどのマクラからこの噺へ。
 NHK新人落語大賞で、笑福亭呂好が上方では珍しくこのネタで勝負していたことを思い出した。
  長さんが与太郎にならず、短七との掛け合いもリズムがあった聴いていて心地よい。
 呂好の高座で審査員の権太楼は饅頭の食べ方にダメ出ししていたが、栗饅頭の食べ方も、実に美味そう。
 長さんが、夜中にはばかりに行くところから語った雨、というのもこの日の空に相応しいと思っていたら、懇親会で、雨だからこのネタを選んだとのこと。なるほど。そういう感覚、私は大事だと思う。
 師匠のような独自のくすぐりなどは挟まず、噺本来の味で楽しませてくれた。
 この人、古典が好きなんだなぁ、と思わせる高座。
 
立川談吉『野ざらし』 (23分)
 秋の花粉症らしい。薬を飲んでいるが効き目がなくなってご隠居が鼻水をたらしてもご勘弁と、笑わせる。
 この会が月二回あるとはいえ、もう42回目なんですねぇ、と感慨深く語っていた。
 本編は、三月に「さがみはら若手落語家選手権」でも聴いたこの噺だった。
 家元版なのだろうが、三代目柳好と八代目柳枝の良い部分が程よく配合されている印象。柳好で有名な「サイサイ節」、♪鐘がボンとなァりゃさ 上げ潮ォ 南さ、もなかなか良かった。
 NHKで柳亭市弥の高座について、権太楼が「座布団の中を出なさい」と忠告しちたが、この人は、八五郎の動きが十分に座布団から飛び出す躍動感があった。
 時間の関係もあるのか八五郎の仕方噺でサゲ。
 懇親会で、つい「サゲまでやらないの?」と聞いてしまった。あの後つまらなくから、とのことだったが、確かにそういう面もある
 でも、私は、この噺、時間が許すなら、サゲまで聴きたいなぁ。
 そんなことを含め、このネタについてはずいぶん前に書いたことがある。
2014年3月25日のブログ
 初代円遊が今に伝わる賑やかな噺に改作し、三代目柳好、八代目柳枝を経て、家元から談吉に伝わっているネタなのだろう。家元も途中でサゲたのかもしれないが、この日とならサゲまで出来ると思う。
 当代でサゲまで聴いた人には花緑、扇辰、小文治などで聴いていて、どの高座も良い印象を持っている。花緑が稽古してもらった小三治は生では出会ったいないが、音源を楽しんでいる。
 ぜひ、後日、談吉が幇間も引っ張り出してくれることを期待している。

春風亭傳枝『鮑のし』 (22分 *~15:10)
 短いマクラから、この噺。
 とっかかりの甚兵衛さんが、少し与太郎になっていて心配したが、中盤以降は、人の良い、あの甚兵衛さんになってくれた。しっかり者の女房の造形も悪くない。
 鮑を持って行って大家が怒って追い返された後に甚兵衛さんに知恵をつけるのは、魚屋さん。人によって、長屋の吉兵衛さんだったり、頭(かしら)だったりするが、魚屋さんというのも、アリだな。説得力が増した。
 そして、サゲは、今ではあまり聴くことのない型で、大家が甚兵衛さんに問う「のし」の字、「たすきのし」のみならず、「乃」の「杖つきのし」まで登場。
 二人の問答は、こうなる。
 大家「のし」の字は->甚兵衛さん「鮑のむきかけ」、大家「たすきのし」は->甚兵衛さん「鮑のひも」、大家「杖つきのし」は->甚兵衛さん「・・・あれは、鮑のおじいさん」
 懇親会でお聞きしたら、師匠譲りとのこと。
 この人、やはり古典派だなぁ、とあらためて感じた好高座。

 
 懇親会にお誘いがあった。ブログを書いていることもあり、できるだけそういう会には出ず、噺家さんと距離を置いてきたが、この会の手作りの温かさが心地よく、参加することにした。

 客席にテーブルをこしらえての懇親会。
 なんと、常連のお客さんが料理を持ち寄ってくれている。
 傳枝さんはビールを飲むようなので、壜ビールをお願いする。結果として3本、出演のお二人と私で飲んでいた^^
 二人の入門のいきさつやら、鯉昇一門のこと、立川流のこと、他のレギュラーメンバーのことなどで盛り上がる。内容は・・・内緒^^
 池袋の近くに住む噺家さんと、池袋の近くに住む落語好きの方による会、とのこと。
 普段は小劇場の場で、空いた日に落語会とのことで、儲けは度外視なのだろうが、こういう会は若手の噺家には、大事な研鑽の場だ。


 機会があれば、また寄せてもらおうと思いながら、雨の中を駅に向かった。

 
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# by kogotokoubei | 2018-11-06 21:27 | 寄席・落語会 | Comments(6)

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長部日出雄著『笑いの狩人-江戸落語家伝-』

 長部日出雄さんの『笑いの狩人-江戸落語家伝-』(新潮文庫)の解説を、矢野誠一さんが書いている。

 長部さんに関し興味深い内容だったので、紹介したい。

 文庫発行の昭和五十八年に書かれたもの。

 もうかれこれ二十年にはなる。
「キネマ旬報」あたりが、かなり意識的に使い出した「ショー。ビジネス」という目新しい言葉が、やっと定着しかかっていた。そのショー・ビジネスの世界の一端に身を置いたひとたちがかならず顔を出している酒場が新宿に何軒かあって、そんな酒場のどこかで長部日出雄さんを知った。まだ「週刊読売」の記者だった長部さんは、たいてい同僚の大沼正氏といっしょだった。定年退職するまで読売にいた大沼氏は、その後音楽評論家として独立すると間もなく、あっ気なく逝ってしまった。どちらかというとかまえの姿勢が目立ち、ぼそぼそと達観しているかのごときことを口にする大沼氏と、熱っぽくストレートに、見てきた舞台や映画に対する不満をぶちまけている長部さんの対照は、はたできいているだけでこちらを堪能させてくれたもので、目指す酒場に長部さんの姿が見えないと、なんとなくあてがはずれたような気分を味わうのだった。

 昭和9(1934)年生まれの長部さんは、弘前高等学校を卒業し早稲田大学文学部哲学科に入学したが中退後、昭和32(1957)年に『週刊読売』記者となった。
 矢野さんが新宿の酒場で長部さんに出会ったのは、そんな時期のことになる。

 引用を続ける。

 その時分の新宿松竹の地下に、文化演芸場という小劇場があった。ストリップ劇場の幕間狂言で活躍していたコメディアンたちによる軽演劇が、週がわりでかかっていたが、突如として手織座が室生犀星の『あにいもうと』を大真面目に上演してみたり、いまから考えると妙な劇場であった。この劇場には、南風カオル、財津一郎、石田英二、死んだ戸塚睦夫など、なかなか個性的な役者が出ていたのだが、満員の客を集めたことなどついぞなかった。その少ない客を相手に、いつもエネルギッシュな舞台を展開していたのが石井均の一座で、この石井均のことをいちばん最初に認め活字にしたのが長部日出雄さんであった。長部さんは、活字で石井均の舞台をほめるばかりではなく、しばしば楽屋にトリスの壜を差し入れたり、芝居がはねてから一座の連中をひき連れてのみ歩きながら、さかんに激励していた。つまり批評家と役者の関係を通りこし、いれあげていたのである。つい最近、清水邦夫さんが早稲田の学生時代、この石井均の芝居に通いつめていたときいて、見るべきひとはちゃんと見ていたのだなと、ある感慨を持ったばかりだ。

 長部さんは、石井均に限らず、記者時代に無名の多くの人をいち早く評価していた。
 私がその著作を愛読する筒井康隆や小林信彦も、長部さんという“見るべき人”に見出された人のリストに入る。

 矢野さんは、この本との出合いを次のように書いている。

 さて、『笑いの狩人-江戸落語家伝-』なのだが、1980年9月に実業之日本社から出たこの本を著者から寄贈され、一読したときのおどろきが忘れられない。「江戸落語事始」「落語復興」「幽霊出現」「天保浮かれ節」「円朝登場」の五篇からなるこの小説は、1976年8月から翌年の10月にかけて、あいだを置いて「週刊小説」に掲載されたものなのだが、本を頂戴するまで長部さんがそんな仕事をしていたことを知らないでいた僕は、通読して、ただでさえ複雑な江戸の落語史を、このひとが見事に把握していることに、まず感嘆してしまったのである。

 この思い、よく分かる。
 私も、読後に感嘆した。

 引用を続ける。

 もちろん新宿の酒場のカウンターで肩をならべながら、何度も落語や落語家のはなしに興じたことがあって、長部さんがかなりの落語好きで、この芸に精通していることは知っていた。だが、その話題は、桂文楽の『素人鰻』に出てくる神田川の金なる職人の酒乱ぶりについてであったり、古今亭志ん生の『品川心中』の貸本屋の金蔵と、川島雄三の傑作『幕末太陽伝』で小沢昭一が扮した金蔵との比較であったり、もっぱら当代の落語に限られていた。ブルドックが風邪をひいたようなと、その風貌を形容され、渋い芸が一部から熱狂的な支持を得ていた八代目の三笑亭可楽を、学生時代に都電のなかで見かけたときのことを、
「和服の膝に、きちんと鞄を置いてすわっているのはいいんだけど、その底にマジックインキかなんかで、ケー・エー・アール・エー・ケー・ユーって書いてあるんで、思わずふき出しそうになったな」
 なんてはなしてくれたことはよく覚えているが、江戸における寄席の元祖とされている京屋又三郎の初代三笑亭可楽のことなど、ついぞ話題にならなかったのである。

 酒場で、文楽の『素人鰻』の金の酒乱ぶりを、もしかすると八代目可楽の金と比べていたのかもしれないなぁ。私は、あの噺、可楽の音源が好きだ。

 我が居残り会もそうだが、好きな落語のことを同好の士と一杯やりながら語り合うのは、実に楽しいものだ。

 きっと、新宿の酒場での長部さんや矢野さんたちも、そういった時間と空間を共有していたのだろう。

 この解説は、次のように〆られている。

 かつて、新宿の石井均にいれあげた長部日出雄さんが、遠い江戸の芸人たちに真底いれあげてみせたのが、『笑いの狩人-江戸落語家伝-』なのだと、僕は勝手にそう思いこんでいる。

 その後、矢野さんが長部さんに会って、じかにこの本のことを語り合う機会があったのかどうかは、分からない。
 もし、その機会がなかったとしても、すでに遠くへ旅立った長部さんに会うことも、『笑いの狩人』の続編を読むこともできなくなってしまった。
 得がたい、芸能の目利きとしても、大きな存在を失ったのだと思う。


 果たして、当代の落語家の中で、どれほど、“いれあげる”ことができ、酒場の落語談義の素材となり得る噺家がいるのだろうか・・・・・・。

 矢野さんの解説を読み、昨日のNHK新人落語大賞を見て、やや寂しい思いがするのは、否めないなぁ。


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# by kogotokoubei | 2018-11-05 12:54 | 落語の本 | Comments(2)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛