噺の話

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 加川良の訃報に接した。

 デイリースポーツから引用する。
デイリースポーツの該当記事
加川良さん 急性骨髄性白血病で死去 判明から4カ月、前夜容体急変
デイリースポーツ 4/6(木) 5:59配信

「教訓1」などで知られ、日本フォーク界の先駆け的存在だったフォーク歌手・加川良(かがわ・りょう)=本名小斎喜弘=さんが5日午前9時39分、急性骨髄性白血病のため都内の病院で死去した。69歳。滋賀県出身。所属事務所によると、昨年12月9日の検査入院で急性白血病が判明。今月4日夜にに容体が急変し、妻・富士子さんに見守られて息を引き取った。葬儀・告別式は親族のみで行い、後日、追悼ライブを開く予定。

 訃報は一人息子でミュージシャンのgnkosai=本名小斎元希=が自身のフェイスブックで伝えた。

 加川さんは昨年12月14日、公式サイトで「12月9日 山梨県下の病院に検査入院、少々つかれ気味でした。本日6日目、今しばらくの入院生活となりそうです」と、恒例の直筆メッセージで報告していた。メッセージは「また お会いします」と結ばれていたが、約束は果たされることなく、これが最後のメッセージとなった。

 所属事務所の阪本正義社長によると、加川さんはそれまで普通にライブを行っていたが、検査入院で急性白血病が判明。1月に入って都内の病院に移り、闘病生活を送っていた。病状は「穏やかな日もあり、ムラのある日々だった」が、4日夜に容体が急変。静かに息を引き取った。

 加川さんは昨年6月、ニューアルバム「みらい」を発表。10月には米シカゴでライブを行った。その後も12月4日の福岡までライブを行ったが、同17日の大阪、18日の岡山を入院のため延期した。

 今年は古希を迎えることもあって、いろいろなイベントが予定されており、ライブの予定も多く入っていたという。阪本氏は「本人も夢にも思っていなかったと思います」と、加川さんの無念を思いやった。

 加川さんはセミプロのグループサウンズのボーカルを経て、高石ともや、岡林信康や故高田渡さんが所属していた日本のインディーズレーベルの先駆け「URCレコード」の出版会社「アート音楽出版」に就職した。

 1970年、伝説の第2回中津川フォークジャンボリーに飛び入りして「教訓1」を歌いデビュー。小室等、友部正人、大塚まさじらと共に日本のフォークの先駆けとして活躍した。吉田拓郎が72年に発表したアルバム「元気です」には「加川良の手紙」という楽曲が収録されている。


 残念だ。

 もっと歌って欲しかった。

 しかし、彼の歌は、生きている。

 今の時代、まさに必要とされる歌が、「教訓Ⅰ」だ。

 二十代で越後にいた時、あるお店で加川良のライブがあり、彼の歌を聴くことができた。

 ジャズのライブなども開くそのお店のご主人と懇意にしていたので、打ち上げにも参加させてもらった。
 実に腰が低く、その場にいたお客さんたちに酒を注いで回っていた加川良の姿を。今でも思い出す。

 たぶん、昭和57年か58年だったと思う。

 生で聴いた「教訓Ⅰ」は、素晴らしかった。

 今、まさにこの歌が求められているのではなかろうか。

 歌詞を紹介し、加川良のご冥福を祈りたい。


「教訓Ⅰ」

作詞:加川良
作曲:加川良
唄 加川良

 命はひとつ 人生は1回
 だから 命をすてないようにネ
 あわてると つい フラフラと
 御国のためなのと 言われるとネ
 青くなって しりごみなさい
 にげなさい かくれなさい

 御国は俺達 死んだとて
 ずっと後まで 残りますヨネ
 失礼しましたで 終るだけ
 命の スペアは ありませんヨ
 青くなって しりごみなさい
 にげなさい かくれなさい

 命をすてて 男になれと
 言われた時には ふるえましょうヨネ
 そうよ 私しゃ 私しゃ 女で結構
 女のくさったので かまいませんよ
 青くなって しりごみなさい
 にげなさい かくれなさい

 死んで神様と 言われるよりも
 生きてバカだと いわれましょうヨネ
 きれいごと ならべられた時も
 この命を すてないようにネ
 青くなって しりごみなさい
 にげなさい かくれなさい

 青くなって しりごみなさい
 にげなさい かくれなさい

 青くなって しりごみなさい
 にげなさい かくれなさい

 国のために命を捨てよ、などという言葉には、震えよう。
 教育勅語などには、青くなってしりごみしよう。

 そして、戦争からは、徹底的に逃げようじゃないか。

 合掌
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# by kogotokoubei | 2017-04-06 12:51 | 幸兵衛の独り言 | Comments(2)
 今日の毎日新聞「記者の目」で、東京学芸部の濱田元子という記者による、“落語ブーム?”という記事を掲載している。

 まず、冒頭から少し引用。

毎日新聞の該当記事

記者の目
落語ブーム?=濱田元子(東京学芸部)
毎日新聞2017年4月5日 東京朝刊
.
波が来た今が正念場

 落語の話題がさまざまなメディアをにぎわせている。この3月には落語協会(柳亭市馬会長)から5人、5月には落語芸術協会(桂歌丸会長)から2人が二つ目から真打ちに昇進。落語協会の真打ちは200人となった。東西合わせて落語家は約800人に上る。観客動員も好調だ。大ヒットミュージカル映画「ラ・ラ・ランド」になぞらえ、「ら・ら・らくご」なんて声も聞こえてきたりする。

 こうした隆盛ぶりは演芸担当記者、そして落語を楽しむ一人として、うれしい限りである。一度に何千人も動員する芸ではないが、観客が多彩な個性を楽しめる環境もできてきた。400年続く古くて新しい芸をより広く浸透させるチャンスであり、この機に寄席や落語会に足を運ぶ人がもっと増えてほしい。

 一方で「ブーム」と呼ばれることに一抹の不安がないわけではない。いずれ熱は冷めてしまうのではないか、と。 江戸時代中期、落語家の祖といわれる露の五郎兵衛、米沢彦八、鹿野武左衛門が京都、大坂、江戸の3都にほぼ同時に現れ、小屋掛けやお座敷など興行のスタイルこそ違え人気を集めて以来、落語は浮沈を繰り返してきた。

 直近で“ブーム”と呼ばれたのは約10年前、2005年前後。落語家を主人公にした宮藤官九郎さん脚本のテレビドラマ「タイガー&ドラゴン」(05年)や、上方落語を舞台にしたNHK連続テレビ小説「ちりとてちん」(07~08年)で、落語が一気にお茶の間に浸透した。

 今回、火が付くきっかけになったのは、人気と実力を兼ね備えた立川談春さんが師匠談志の下での修業時代をつづったエッセー「赤めだか」の2時間ドラマ(15年)、そして漫画原作のテレビアニメ「昭和元禄落語心中」(16~17年)だといわれる。

 2015年12月28日に放送されたドラマ「赤めだか」についての私の感想は、以前書いた通り。
2015年12月30日のブログ

 あまり良い印象はないのだが、とはいえ、落語を知らない人を落語に振り向かせたという意味で、ジャニーズ系の人気者が落語家に扮したドラマの効果は否定しない。

 さすがに、談春が役者をするよりは、役者が談春に扮した方が上手い^^

 そして、漫画とテレビアニメ「昭和元禄落語心中」が、その物語の魅力によって、若者に落語という芸の世界や個々のネタを知らしめた効果は大きいだろう。

 あのアニメ、初心者のみならず、長年の落語愛好家の中にもファンはいるからね。
 私は二度ほど観ただけだが、なるほど、巧いこと漫画にしたものだ、とは思う。

 記事の引用を続ける。

若い観客層が二つ目を支持

 前回と同じくドラマにけん引されてはいるが、目を引くのが二つ目と呼ぶ若手落語家の人気、そして若い観客層の支持である。寄席の一つ、末広亭(東京都新宿区)の真山由光席亭は「ブームというのは大げさだが、たしかに若い人が増えている。二つ目あたりがお客さんをつかんでいる」。落語協会も「右肩上がりです」と手応えを話す。

 受け皿となる落語会も飛躍的に増えた。首都圏だけで月1000件が開催され、寄席やホール以外にも小さなカフェなど落語を聴ける場所が多様化。間口も確実に広がっている。

 ぴあ総研の調べでも、寄席・演芸の動員数は、東日本大震災があった11年に前年比減となり、12年には129万人に落ち込んだが、13年に156万人、15年には151万人と堅調に推移している。

 そんな活況を象徴的に示したのが今年1月31日、落語協会が都内の寄席3軒に呼びかけて実現した「昭和元禄落語心中寄席」だ。アニメに絡めた落語を特集し、チケットは発売から10日で完売した。「普段の寄席とはまったく違う(若い)お客様がきた。どういう入り口であれ、寄席にお客さんを呼びたい。そのうち10%でも残ってくれればいい」と協会は期待をかける。

 寄席も動いている。昼間はどうしても年配層が中心になるが、末広亭では若い層を取り込もうと、数年前から夜の部で、午後7時以降入場料を半額の1500円にした。トリの演者によっては、半額狙いで行列ができる。

 ブームかどうかはさておき、波が来ているのは確かだろう。落語に注目が集まっているからこそ、落語家にとってもここが正念場だ。多数の中から頭一つ抜け出すためには目先の笑いを取ることに走るだけでなく、波に左右されない芸の積み重ねが必要だ。

 五代目古今亭志ん生、六代目三遊亭円生ら「昭和の名人」はとうになく、その次の世代である、東京の古今亭志ん朝、立川談志ら、大阪の笑福亭松鶴、桂米朝ら、それぞれ東西の「四天王」と呼ばれた絶対的な規範も失った。

 今回の値上げがどう影響しているかは確認していないが、末広亭の深夜寄席にも、若い人たちの長い行列ができる。
 
 “しぶらく”に触れてないのは、何か理由があるのか・・・・・・。

 加えて、どうも、この記事は落語協会寄りに思えるが落語芸術協会には取材したのだろうか。

 記事内容について小言を言うが、東西の四天王も、名前を出すなら全員の名を載せて欲しいものだ。
 これでは、柳朝(あるいは円鏡)、円楽、そして春団治、小文枝(文枝)は、立川談四楼の本を記事にした際に紹介した、「ら族」ではないか^^

 さて、ここまできたら、記事を最後まで紹介しよう。
言葉の復権の鍵を握るかも

 その一方で、東京では柳家小三治さんや、立川志の輔さんらベテランから、柳家喬太郎さんや桃月庵白酒さん、春風亭一之輔さんといった中堅・若手まで、人気、実力ともに充実した層の厚さがある。二つ目人気も、その裏打ちがあってのことだ。

 生のコミュニケーションが希薄な時代。「ご隠居さん、こんちはあ」「おや、八つぁんかい。まあまあ、お上がり」という会話で始まる落語は、緊密な人間関係をベースに、喜怒哀楽、庶民の心のひだに優しく寄り添う。若い客層に響く魅力の一つではないだろうか。落語復権は、言葉を根幹にしたコミュニケーション復権の鍵を握っているのかもしれない。

 舞台装置もなにもないところに、演者の言葉だけで、観客が想像力で噺(はなし)の世界を描く。いたってシンプルな芸、だが奥は深い。今ちょうど、東京都内の寄席では50日間にわたる落語協会の真打ち昇進披露興行の真っ最中。普段とはまた違う華やいだお祝いムードに包まれているから、これを機に寄席デビューも悪くない。ブームとやらであろうが、あるまいが、息長く見守っていきたい。

 う~ん、小三治と志の輔を同じ“ベテラン”で括るな、と言いたくなるなぁ。

 この記者は、ご自身が落語が好きで、若いファンが増えることを喜んでいるのは分かるのだが、良くも悪くも若さが記事に露呈しているように思う。

 とはいえ、“言葉の復権”という指摘は悪くない。

 できれば、そこから一歩進んで、江戸時代の季節や自然と調和した生活を知ることができる、そして、士農工商と言われたタテマエとは別の、落語の世界の住人の“たくましさ”や“生きる知恵”の発見などにも、落語を知ることによる効能を膨らませて欲しいものだ。

 小言が多いのは管理人の名前からしてそうなので、許して。

 真打昇進披露興行を機に寄席デビューも悪くはないだろう。

 口上はなかなか観ることができないし、ハレの雰囲気が会場全体に溢れている時間と空間を共有するのは、悪いことではない。

 そこで知った新真打と、長い付き合いが始まるかもしれない。
 

 たしかに、ブームとは言えなくても“波”は来ているのだろう。

 今来ている“波”は、いったい何を運び、何を“上げ潮のごみ”として残していくのだろうか。

 私は、“波”や“ブーム”という現象によって、優れた噺家が一人でも多くなることを期待している。
 そのためには、定席や大小の落語会を開く場という、環境も重要。
 しかし、場が増えたところで、一人でいくら稽古していても、成長は限られている。
 それぞれの一門で師匠や他の師匠たちの稽古で芸を磨くことも大事だが、もっと重要なことは、いわば“他流試合”を多くこなすことだと思う。

 流行を表す“boom(ブーム)”には、“とどろく”とか“景気づく”という意味がある。
 ドラマ「タイガー&ドラゴン」は、2004年から2008年まで開催された「大銀座落語祭」と時期が重なる。

 大いに、落語は“景気づいた”のだった。

 大銀座落語祭りは、春風亭小朝、笑福亭鶴瓶、林家正蔵、立川志の輔、春風亭昇太、柳家花緑の六人の会が主催で、小朝というプロデューサーの力によって、東西と東京の両協会を越えた落語家たちの結託が背景にあった。

 今、博多などでも、大同連合的な落語会は開催されていて、それはそれで結構だと思うが、大銀座ほど“ブーム”を牽引する力はないだろう。

 私は、また大銀座をやれば良い、と思っているのではない。

 新たな落語界の胎動があっても良いと思っていて、それがなければ“ブーム”とは言えないだろうと思っている。

 そういう意味で、私が期待しているのは、以前、横浜にぎわい座・のげシャーレで聴いた「東西交流落語会」のような、若手の活動だ。
2015年11月26日のブログ

 博多での出会いをきっかけとしたこの六人は、横浜にぎわい座や天満天神繁昌亭で交流落語会を開いている。

 六人のメンバー(春風亭昇也、桂二乗、三遊亭橘也、桂佐ん吉、笑福亭鉄瓶、そして柳亭小痴楽)は、東京の三人のうち落語芸術協会が二人、円楽一門が一人。上方は米朝(米二&吉朝)一門が二人、松鶴(鶴瓶)一門が一人。

 佐ん吉が一昨年のNHKで優勝するなど、なかなかの実力者揃い。

 こういった威勢の良い若手が、一門や東西の隙間を越えて交流することで、何かが生まれるような気がするし、期待している。

 中堅どころが一門や東西の壁を乗り越えて、というのはなかなか難しいし、今さら、という感もあるだろう。

 どんな芸能やスポーツもそうだが、有望な若手に落語の将来はかかっている。
 
 かつては、ある一門にいても、その師匠の裁量で一門以外の他の師匠のところへも稽古に出すことはあったし、東京と大阪の交流も今日より日常的なものではなかっただろうか。

 良い意味で、そして潜在能力の高い若手が、良い意味で「危機感」を持って壁を越えた交流をすることで、自分の芸を磨くための師匠の数も広がっていくはずだ。

 あえて具体的なネタの例を挙げるが、昨今、上方の噺家さんが東京版の『時そば』を演じることがある。
 私の好みは、上方版は、やはりあの二人連れのからみだろう、と思うのだが、試みとしてはいいと思う。
 ならば、東京の噺家さんが、旬のネタ『長屋の花見』を、上方版の『貧乏花見』で演じるなどの試みなども面白いだろう。

 そういったことに挑戦せきるのも、若いうちではなかろうか。

 小痴楽が、佐ん吉や二乗から米朝の源をたどれる『貧乏花見』を上野に置き換えて演じる、なんて高座は、ぜひ聴きたいものだ。

 そんなことも、この季節にこの新聞記事を読んで、考えてしまうのだった。


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# by kogotokoubei | 2017-04-05 21:27 | 幸兵衛の独り言 | Comments(6)
 上方落語協会が設立60周年を迎え、今月の天満天神繁昌亭の昼席は特別公演が開催されている。
 毎日新聞から引用。
毎日新聞の該当記事

上方落語協会
60周年で公演

毎日新聞2017年4月2日 大阪朝刊

 落語の定席、天満天神繁昌亭(大阪市北区)で、上方落語協会の設立60周年を記念した特別公演が始まった。毎日午後1時開演の昼席に、200人以上の落語家が日替わりで出演する初の企画。初日の1日は開演前に鏡開きが行われ、桂春之輔副会長が「我々一同、芸道に励みますので、ますますのご愛顧をお願いします」とあいさつした。


 上方落語協会は1957年4月、18人で発足。現在は256人が所属する。特別公演は今月30日まで連日開催。いつもは週替わりの出演者が日替わりになるほか、その日の出演者による口上も毎日行われる。

 繁昌亭サイトには、次のように案内されている。
天満天神繁昌亭サイトの該当ページ

天満天神繁昌亭昼席 上方落語協会創立60周年記念月間の開催について

おかげさまで、上方落語協会は今年4月1日、創立60周年を迎えます。

これを記念して、4月昼席公演を“記念月間”として特別公演を開催致します。
255名の協会員が日替わりで総出演して、4月の一カ月間を賑やかに祝う記念公演です。

 昼席の今月の番組表には、なんとも賑やかな顔ぶれが並んでいる。
天満天神繁昌亭サイトの該当ページ

 60年前の協会発足当時を、その前夜から振り返りたい。

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 先日の命日でも引用した露の五郎兵衛(発行時は露乃五郎)の著書『上方落語夜話』(昭和57年8月10日初版、大阪書籍)からご紹介。

 昭和20年代の末、上方の若手落語家は、夷橋松竹(夷松)と宝塚の大きく二つの派に分かれて勉強会、落語会を行っていた。当時のことをまず振り返りたい。

 昭和30年に入ると若手は若手なりに活発に動き始めました。桂米朝が南街ミュージカルで茶川一郎らと、コメディーを演じはじめたのもこのころで、三越落語新人会は、新人を卒業して三越落語会となり、落語家たちは落語以外のいろいろなラジオ番組にも顔を出すようになりました。
 夷松と宝塚に分かれて勉強を続ける若手たち以外、まだまだ古老連も幾人かは健在でした。これらを何とかまとめようとする動きは、あって当然、また当人たちにもその気はあったのですが、その音頭取りが問題で、これがなかなかむつかしかったのですが、やがて時の氏神が現れました。朝日放送の「上方落語をきく会」がそれで、昭和30年12月1日上方落語とはなじみの深い三越劇場で開催され、メンバーは、桂文団治、笑福亭枝鶴、桂福団治、林家染丸、桂春坊、桂米朝、橘ノ円都の七人でした。まだテレビのない時分で、PRが十分に出来なかったので、果たしてお客さんが来てくれるかどうか、この点が一番心配でした。しかし、我々の予想を完全に裏切って、開幕前にはほとんど満員の盛況で本当にうれし涙が出そうになりました。そして、この会は、今日まで続いているのです。

 補足すると、枝鶴は、その後の松鶴、春坊は著者の五郎である。

 引用を続ける。
 一方、宝塚若手落語会は、その年9月から立体落語と称して、落語劇とに二〇加(にわか)のアイノコのようなものを上演しはじめ、これが、たまたま小林一三翁の目にとまり、そのお声がかりで北野劇場のステージショーに進出するといったハプニングすら生まれたのでした。そして小林一三翁のお声がかりで、モダン寄席を開場する企画が出はじめ、昭和25年ごろ初期の新芸座結成に関係しその後、病気療養のため休職していた漫画家でもありアイディアマンでもあった平井房人氏が、復職に際して宝塚若手落語会の担当となって、第二劇場における立体落語等の企画に参加する事になりました。
 ここにおいて宝塚若手落語会はそれまでの自主的公演から、いわゆるひもつき公演の色がかかりはじめ、平井氏からは、「この際、小林一三翁のポケットマネーから研究費が出るので、宝塚の専属にならぬか」と、いうような話が出はじめたのです。

 新芸座とは、五郎兵衛が一時在籍していた宝塚の軽演劇の一座のこと。
 さて、宝塚専属への誘いに、五郎兵衛たちはどう返事をしたのか。
 
 根っからの自由人の集まりである落語家たちは、しばられるのをきらって、言葉をにごしました。が、春坊と小染のみは、かつて夷橋松竹支配人と真っ向から対立した当事者だけに、宝塚に対して色よい返事をせぬわけにもいかず、ともあれ若手たちの間にこのましくないムードが流れはじめながら、落語会は続けられ、やがて、5月、宝塚動物園が博覧会を開催するに際して、第二劇場もその会場に使用されるため、若手落語会は休演。これを機に専属云々の話をはっきりさせようという事になって、とど、小染、春坊、枝之助、小文吾が、宝塚の専属となり、他は自由にということで宝塚若手落語会にピリオドがうたれました。
 折も折、小林一三翁の他界、新芸座の秋田実氏以下漫才陣の大挙脱退という悪条件がかさなり、モダン寄席の話は立ちぎえとなって雲散霧消、前記四人の落語家はどうすることも出来ずに、新芸座へ参加という運命に追いこまれてしまいました。

 夷松と春坊、小染との関係悪化について補足。
 昭和29年3月に、若手の日曜勉強会の開催を提案していた夷松が、若手落語家を集め、宝塚若手落語会をやめて夷松一本に絞って欲しい、と依頼した。春坊にしてみれば、その当時、日本芸能博で休演しているものの、宝塚は若手落語会を復活すると約束しているし、夷松への出演も許可しているため、「是非双方へ出演させてください」と夷松の支配人に返答したのだが、聞き入れてもらえないので、「宝塚をとります」と発言したことによる。
 その会合に、東宝映画「女殺油地獄」に出演のため欠席していた米朝が、後になって「わしがいたら、そんな事にさせなかったものを・・・・・・」と悔やんだ、騒動だった。
 さて、ようやく上方落語協会の設立の段。

 上方落語協会発足

 若手落語家の大同団結が急務とさけばれ、当人たちも自覚していながら、なかなかその機を得なかった上方落語会界でしたが、宝塚落語会の終結後、夷橋松竹日曜会に結集することになり、めでたく昭和31年は暮れていったのですが、好事魔多く、翌年明けて早々の1月末、夷橋松竹が閉館、歌舞伎座の地下へ、歌舞伎地下演芸場として移転することになり、戎松日曜会も幕をとじざるを得なかったのです。
 ここにおいて、かえって落語家たちの団結はかたまり、昭和32年4月上方落語協会が結成され、翌5月4日道頓堀文楽座別館4階において、旗揚げ公演ともいうべき、第一回土曜寄席が開かれました。
 上方落語協会の役員は、会長、林家染丸。幹事、笑福亭枝鶴、桂米朝、旭堂小南陵、桂福団治で、会員数16名。
 この上方落語協会主催の土曜寄席につづいて、6月12日午後7時、神戸新聞7階ホール、ラジオ神戸の主催で神戸寄席が開かれることになりました。
 つづいて9月にはじまった、京都市民寄席。
 (中 略)
 とにもかくにも、上方落語に太陽があたりはじめたのです。このころ、東宝宝塚映画で森繁久弥扮する初代桂春団治が映画化され、世間の上方落語に対する注目もひとしおましてきたこともいなめません。
 そして翌33年2月、当時春坊の筆者は、宝塚新芸座梅田コマ第一回公演に参加して、16日、セリから落ちて右足骨折、日赤へ入院約1年病床に呻吟する身となり、また3月16日には四代目桂文枝が68歳で亡くなりました。

 上方落語協会の初代会長となった林家染丸は三代目。四代目染丸や、将来を期待されながら若くして亡くなった四代目小染(「ザ・パンダ」メンバー)などの師匠。

 なお、歴代の会長と在任期間は次のようになっている。
1 三代目林家染丸   1957年 - 1968年
2 六代目笑福亭松鶴  1968年 - 1977年
3 三代目桂春団治    1977年 - 1984年
4 三代目桂小文枝   1984年 - 1994年
5 二代目露の五郎   1994年 - 2003年
6 六代目桂文枝    2003年 -


 上方落語協会の初代幹事に、当時の桂春坊の名はない。
 そして、協会発足を機に“陽”があたり始めた頃、春坊は、病院で呻吟していたわけだ。
 ちなみに、春坊が落語界に復帰し、協会に加盟するのは昭和34年。
 
 協会の六代目会長である六代目(本人は松鶴に遠慮して“六代”と言いたいらしいが、六代目には違いない)文枝の在任期間が長いのでずいぶん昔のように思えてならないが、その前の会長が、春坊の露の五郎兵衛。
 就任の際に、なぜ米朝ではないのか、など一部反対派が協会を離れるという騒動もあったのは、知る人ぞ知ることだ。

 そろそろ、二十年以上も前のことは、良い意味で忘れましょう。
 設立して還暦なのだから。

 だいたい、組織内でのゴタゴタは、ほんのちょっとした行き違いなどが原因。
 話せば分かり合えることも、一度こじれると、その話し合いにならないため、溝が深くなる。
 そして、こじれた関係も、時間が一番の薬なのではなかろうか。
 
 実際に、今では、一門を越えた落語会の開催なども目立ち、かつての溝は相当埋まっているように思う。

 もしかすると、東京の落語界の方が、二つの協会、協会を離れた一門などの間に、見えない溝があるような気がするなぁ。
 それどころか、落語協会は、同じ協会内でも足並みが揃っていないように感じる。
 たとえば、現在のホームページを良しとする人たちと、そう思っていない人たちなど。


 話を上方に戻す。
 戦前、戦中、戦後、多くの上方落語の先駆者たちが苦労して、今や二百人を超え三百人にもなろうかという上方落語協会の会員数には、天国座にいる人々も驚き、そして喜んでいるのではなかろうか。

 繁昌亭の番組表を見ると、自分が関西に住んでいないことが残念でならない四月だ。
 
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# by kogotokoubei | 2017-04-03 21:16 | 上方落語 | Comments(2)
 3月の記事別アクセスランキングは、次のようになった。

1 新宿末広亭 三月中席 昼の部 3月16日(2017年3月17日)
2 ある落語会のことや、木戸銭のこと。(2017年3月8日)
3 NHK「超入門!落語THE MOVIE」、高座のみの放送を望む! (2017年1月5日)
4 神戸新開地に、定席開設! (2016年5月18日)
5 落語協会の来春の真打昇進者は、5名。再来年は、どうなる? (2016年5月9日)
6 松鶴に土下座させた、笑福亭小松という落語家のこと。 (2014年8月4日)
7 落語協会、平成29年秋にも三名が真打昇進。(2016年8月24日)
8 桂りょうば誕生-桂枝雀の長男前田一知が、桂ざこばに入門。(2015年9月1日)
9 魅せる!はなしか三人衆 横浜にぎわい座(のげシャーレ)2月26日(2017年2月27日)
10 落語で反戦-アマチュア落語家、寝床家道楽さんのこと。(2015年6月29日)

 柳家小里んが主任だった末広亭の記事には数多くのアクセスをいただいた。
 あの品格のある『山崎屋』は、今でも思い出す。

 ゴールデンウィークに開催される立川志の輔の「忠臣蔵」をテーマとする落語会の記事が、2票(?)という僅差で二位。

 3位のNHKの「超入門! 落語THE MOVIE」の動画放送希望の記事も、2位の記事とは2票差。
 明後日3日から、Eテレで趣向を少し変えて再開されるのが楽しみだ。
 NHKサイトの該当ページ

 神戸新開地の新定席開設の記事は、いろいろ話題になっているのだろう。最近アクセスが増えている。

 5位に、今まさに披露興行中の落語協会の春の真打昇進のこと、7位に秋の真打昇進の記事が入った。
 春五人、秋三人というのは、久しくなかった人数ではなかろうか。

 6位の笑福亭松枝の本から紹介した小松の逸話には、安定的にアクセスがあるなぁ。

 桂りょうばが活躍を始めているのだろうか、意外なアクセス数になっている。
 早いうちにその高座にお目にかかりたいものだ。

 9位は、2月末の落語会のこと。先月上旬に多かったアクセス数の貯金でランキング入り。

 10位の、寝床家道楽さんのことを書いた記事へのアクセス数の多さには、少し驚いた。
 どこかで話題になったのだろう。反戦を唱えるアマチュア落語家さんの今後の一層の活躍を期待したい。

 今日は冷たい雨が降り、桜も咲くのを遠慮している。
 来週後半が見ごろなのだろう。
 
 しかし、桜が咲いても、人の心に春がやって来る、ということではない。

 さまざまな場所、ひと、なにより戦争や核の暗い冬の影が漂っているこの国に、いつ春はやって来るのだろうか。

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# by kogotokoubei | 2017-04-01 14:31 | アクセスランキング | Comments(0)
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 高田文夫の「誰も書けなかった『笑芸論』」を読んだ縁(?)で読み返している『江戸前で笑いたい』が、今さらながら、実に興味深い内容が詰まっていることを再確認している。
 単行本は1997年1月に筑摩書房で発行され、私が読んでいる中公文庫の発行は2001年9月。

 目次を、あらためてご紹介。
 ご覧のように、第一部と第二部が落語、第三部では他の“笑芸”をテーマにしている。
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第一部 やっぱし落語だ!
    口上・・・・・・高田文夫
  笑いと二人旅(前編)・・・・・・・・・・高田文夫
  現代ライバル論(1) 志ん朝と談志・・・・・・・・・・・・・・山藤章二
  現代ライバル論(2) 志ん生と文楽・・・・・・・・・・・・・・玉置 宏
  現代ライバル論(3) 高田文夫と藤志楼・・・・・・・・・・・・森田芳光
  小朝、志の輔とそれに続く若手たち・・・・・・・・・・・・・吉川 潮
  変貌する落語−今こそ、新作落語に注目!・・・・・・・・・・渡辺敏正
  談志論・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・立川志らく
第二部 中入り
   中入り・・・・・・高田文夫
  志ん生と江戸の笑い・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・鴨下信一/高田文夫
  みんな落語が好き・・・・・・・・・・・・篠山紀信/春風亭昇太/高田文夫
  名人に二代なし?・・・東貴博/三波伸一/柳家花緑(司会・高田文夫)
  浅草芸人寿司屋ばなし・・・・・・・・・・・・・内田榮一(聞き手・高田文夫)

第三部 東京の喜劇人
    口上・・・・・・高田文夫
  東京喜劇人列伝1  三木のり平・・・・・・・・・・・・・・永 六輔
  東京喜劇人列伝2  三木のり平・・・・・・・・・・・・・・小野田勇
  東京喜劇人列伝3  由利 徹・・・・・・・・・・・・・・・高平哲郎
  東京喜劇人列伝4  渥美 清・・・・・・・・・・・・・・・長部日出雄
  東京喜劇人列伝5  渥美 清・・・・・・・・・・・・・・・高田文夫
  東京喜劇人列伝6  クレージーキャッツ・・・・・・・・・・岸野雄一
  東京喜劇人列伝7  萩本欽一・・・・・・・・・・・・・・・ラサール石井
  東京喜劇人列伝8  ビートたけし・・・・・・・・・・・・・井上まさよし
  東京喜劇人列伝9  イッセー尾形・・・・・・・・・・・・・中野 翠
  東京喜劇人列伝10 伊東四朗・・・・・・・・・・・・・・・西条 昇
  気分はいつもハードボイルド・・・・・・・・・・・・・・・・内藤 陳
  東京の若手お笑い人 自分好みの芸人になること・・・・・・・水道橋博士
  映画に見る東京ブラック喜劇(ユーモア)人事典・・・・・・・・・快楽亭ブラック
  江戸前的? コミック・ソング・・・・・・・・・・・・・・・大瀧詠一

  笑いと二人旅(後編)・・・・・・・・・・高田文夫
  東京芸人ギャグ・フレーズ年表・・・・・・・・・・・・・・・西条 昇

  編者あとがき
  文庫版のためのあとがき

  解説  笑芸人
-----------------------------------------------------------------------

 第三部、長谷部日出雄さんが書いている東京喜劇人列伝の渥美清の章に、興味深い対談が紹介されている。なお、この文章は『東京人』の1995年7月号が初出。

 対談部分の紹介の少し前の部分を、まず引用。

『男はつらいよ』の第一作を撮る前年に、吉行淳之介さんが「週刊アサヒ芸能」でやっている対談に、ゲストで来られた渥美さんの話を、整理者として横で聞いたことがある。
 独特の話術から、この人の本質は、
 -語る詩人、話す短編小説家。
 なんじゃないかな・・・・・・と、そのときおもった。

 浅草時代、渥美さんは結核で数年の療養生活を余儀なくされた。入院した埼玉県の小さな病院について、こんな風に語る。
 -廃工場の跡だから殺風景でね、ことにこっちは病んでいるから、見るものにすぐ感じるでしょう。風船爆弾つくっていたところだから、天井が高い。そこから機械を回すベルトの切れたやつがぶら下がっていて、風が吹くとそいつがピターン、ピターンと鳴る。その下を患者がゲタはいて歩いているのが、もうなんとも空しくてねえ。いまでも、芝居が済んだあと、風の音を聞くと、すぐその光景につながるんです。・・・・・・
 文章には出ない声質と間合いの変化をふくめて、この話を聞いていおると、ピターン、ピターンという音が本当に耳に響き、そこに漂う虚無感が、肌に迫ってくる気がするのである。

 渥美清については、小林信彦の『おかしな男』について、過去に記事を書いている。
 2015年6月に「車寅次郎と渥美清と田所康雄」と題して三回に分かけ書いたものと、昨年、同書巻末にある小林と小沢昭一さんの対談についての記事もある。
2015年6月9日のブログ
2015年6月14日のブログ
2015年6月21日のブログ
2016年8月6日のブログ

 しかし、この“ピターン、ピターン”という音の思い出のことは、小林の本からは知ることができなかった。

 あの映画を撮る前、風の音を聞いた時の田所康雄の心象風景についての、貴重な記録だ。

 引用を続ける。

 病院ではたくさんの患者が死ぬ。霊柩車がないので、リヤカーに棺桶を載せて運ぶのだが・・・・・・。
渥美 前の道をずっと左へ行くと、煉瓦を積んだ焼き場がある。右へ行くと駅がある。だから新しい患者が入ってくると、看護婦が「あの人は右だよ」とか「左だよ」なんていっていた。
吉行 丁か半か、だね。
渥美 その左の道を、何度も送って行った。そのときは、ほんとうにあたりまえのことだけど、死んじゃあいけないなあとおもいましたね。・・・・・・
 この病院が、どんな最高学府でも教えてくれない人生の深淵を覗かせてくれた、渥美さんの大学だったのだろう。
 数年の療養生活で、渥美さんはこの世の涯まで行き、見るべきほどのことは見てしまった。
 そしていわば、祇園精舎の鐘の声・・・・・・の無常感を体に染み込ませて、娑婆へ還ってきたのに違いない。


 車寅次郎のこと、そして渥美清のことを思う時に、結核病棟の田所康雄の姿に思いが至る人は、ほとんどいないだろう。

 かつて“不治の病”と言われた結核病棟の外、右は駅、左は火葬場という状況で、「俺は、どっちに行くことになるのだろう・・・・・・」と言う思いに毎日さいなまされていた田所康雄の姿を想像すると、とても、その後の寅次郎をイメージすることはできない。

『驟雨』で芥川賞を受賞する前に、肺結核で肺を切除している対談相手の吉行淳之介には、他の人よりも渥美の体験を共感できる要素はあったのかもしれない。

 あるいは、吉行だから、渥美が明かしたのだろうか。

 昨年の命日近く8月3日に放送されたNHK BSプレミアムのアナザーストーリーズ「映画“男はつらいよ”~寅さん誕生 知られざるドラマ~」を観た。

 あの番組では、先にテレビ版を作った当時のフジテレビ制作スタッフの証言なども興味深くはあったが、何と言っても、渥美清こと田所康雄と結核療養所で同じ病室にいた梅村三郎さんのお話が貴重だった。

 記事でも紹介したが、あの時、片肺を切除し絶望と闘いながらも、もし生き残って病院から右の駅に向かって娑婆に戻れたとしても、もう体を張ったドタバタは無理と観念した田所康雄が、懸命に香具師の啖呵売の稽古をしている姿を、梅村さんは目撃している。
2016年8月5日のブログ

 少し、話が暗くなってきたの、この後に続く部分を引用する。
 この対談の翌年の夏に封切られた、記念すべき『男はつらいよ』第一作の批評を、ばくは「キネマ旬報」に、こんな風に書いた。
 この映画でいちばん笑ったのは、つぎのようなギャグだ。京都で、帝釈天の御前様(笠智衆)とお嬢さん(光本幸子)に会った寅次郎(渥美清)は、二人の写真を撮ろうとして、御前様に「笑ってください」と頼む。すると御前様はなぜか「バター」という。「チーズ」というところを、間違って覚えていたのだ。
 この場面は「考えオチ」だから、そんなにおかしくはない。爆笑させられるのは、これが伏線となって、あとにくるシーンー。
 妹さくら(倍賞千恵子)と博(前田吟)の結婚式で、記念写真を撮る段になったとき、こんどは紋服に威儀正した寅次郎が、大きく口を開けて「バター」という。
 山田監督は好んで単純な人物を主人公に取り上げる。単純な人間というのは、固定観念に取り憑かれている存在で、これまでの山田喜劇の主人公であったハナ肇の役とおなじように、渥美が演ずる寅次郎も、おもいこんだら命懸け、いったんこうと決めたら、二度とその考えを変えず、写真を撮られるときは「バター」というもの、と信じて疑わない人物だ。かれが「バター」という一瞬には、そうした寅次郎の全存在が凝縮されていた。・・・・・・
 笑いとよく知る名監督が、計算しぬいた二段構えのギャグで、絶妙のタイミングでそれを演じたのが、千分の一秒まで間合いを測れる天才的な喜劇役者なのだから、堪ったもんじゃない。物の見事に意表を突かれ、同時にハタと腑に落ちて、引っ繰り返って爆笑せずにはいられなかた。
 いまでは伝説となった、この歴史的なギャグの大成功が、『男はつらいよ』をギネス物の長寿シリーズにするのに、決定的な役割を果たしたのに違いないとおもう。

 さくらの結婚式で寅が「バター」とやった時、御前様は不思議な顔をする。
 「元ネタはあんたでしょ」と突っ込みたくなるね^^

 私には、長谷部さんほど、「バター」のギャグへの深い洞察力はない。
 というか、正直なところ、あの「バター」というギャグに長寿シリーズとなる“決定的”な役割を見出すというのは、さて、どうなのか・・・・・・。
 
 とはいうものの、第一作の作品全体に、続編を作らせるに足るだけの要素が充満していたことは、間違いはない。

 そして、何と言っても、第一作のオープニングは、江戸川に桜が咲いている中、車寅次郎が二十年ぶりに帰って来る場面、まさに今これからの季節。

 桜を見て思うことは人それぞれ違うだろうが、概ね、入学や入社などの時機であり、冬から春本番という、気持ちが明るくなるような思い出が浮かぶ人が多いのではなかろうか。

 桜の花びらを風で飛ばすようになっても、それこそ風流とばかり花見をする人もいるだろう。
 しかし、紹介した対談は第一回を撮影する前年に行われた。

 桜に吹く風の音で、寅さんでも渥美清でもない田所康雄の耳には、あの「ピターン、ピターン」という音がこだましていたのかもしれない。

 田所康雄が渥美清としての地位を確固なものとし、車寅次郎になり切って、風が吹く日でも「ピターン、ピターン」という音が響かなくなったのは、シリーズのいつの頃なのだろうか。

 あるいは、全48作を通して、あの音は消え去ることがなかったのだろうか。

 没後二十年を超え、ますます、一人の人間における、車寅次郎、渥美清、そして田所康雄の所在位置のことに思いが至るのだった。

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# by kogotokoubei | 2017-03-31 22:25 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(4)

 三月三十日は、二代目露の五郎兵衛の祥月命日。

 昭和7(1932)年3月5日生まれで、八年前の平成21(2009)年3月30日に、満77歳で旅立った。

 このところ“江戸前”の笑いについて書いてきたが、今回は上方の噺家さんについて。
 昨年、笑福亭松枝の本の引用で、露の五郎兵衛一門のことを書いた。
2016年2月21日のブログ

 米朝、松鶴、春団治、文枝などの一門と比べると、東京での知名度は低いように思うが、最近は露の新治が東京での落語会や寄席への出演で評価を高め、昨年は芸術祭優秀賞を受賞するなどにより、その名が浸透しつつあるように思う。

 以前記事で書いたが、新治が演じる『中村仲蔵』は、師匠の五郎兵衛が八代目林家正蔵に稽古してもらったものを継承している。

 そのことからも分かるように、五郎兵衛という噺家さんは、東京との縁が薄からぬ存在で、鈴本や国立演芸場への出演もあったらしい。

 新治の東京での活躍は、そういった師匠が作ってくれた財産が大いに役立っているということだろう。
 
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 露の五郎兵衛の著書『上方落語夜話』(執筆時は、露乃五郎)から、五郎兵衛の落語という芸の捉え方が伝わる文章を紹介したい。

 本書は、朝日カルチャーブックスの一冊として、昭和57(1982)年、大阪書籍より発行された。

 この本からは以前にも『蛸芝居』に関する記事で、初代桂文治について書かれた文章を紹介したことがある。
2014年2月1日のブログ


 朝日カルチャーセンターで二時間づつ五回に渡って話した内容を元に、神戸のタウン誌『センター』に連載した記事、そして神戸新聞や京都民報、『上方芸能』に書いた内容などを補って整理した内容で、上方落語を知る上で非常に有益だ。

 第一章から第四章までは、自分の体験談も交え上方落語の歴史を説明しているが、第五章は趣が変わって「落語の楽しさ」となっている。 その第五章から引用。

 落語はドラマです

 約三百年の間にそれぞれの演者が工夫をこらしながらみがきぬかれ現代に語りつがれてきた落語ですが、今日でも、その工夫はつみ重ねられているわけで、俗に古典落語といわれている落語でも、いたずらに故人の遺産を守っているだけではありません。と、いいますのが、落語はその時代その時代に生きているもので、その時、その場所、そのお客に合った演出で演じなければ、落語自体が死んでしまいます。ですから、落語家は出演者であると同時に演出家でもあるわけで、演出家の目で演者としての自分をみつめ、似合わない役柄の人物は出てくる場面をへらしたり、別の人物に代弁させたり、作品(ネタ)の中の人物を自在にあやつれる演出家としての力がなければなりません。

 最初この文章を読んだ時、「それは、当たり前じゃないか」と一瞬思った。
 しかし、すぐに、その当り前のことがなかなか難しいのだよな、ということも痛く感じた。

 引用を続ける。

その物語の背景になる時代はいつにするか。江戸時代か、明治か、現代か。たとえば、それによって、物のねだん一つでも変わってくるわけです。そうして演出家としてねににねった作品を演者として充分に演じきったときにはじめて、面白い落語が出来るわけで、基礎をきっちり習うことはもちろん大切ですが、それを、そのままくりかえすだけでは何にもなりません。その作品にその演者の息吹きがふきこまれて、だれそれの何、と、言われる落語になるのです。

 基礎ができている上で、演者の息吹きをふき込む、という言葉は重要だ。

 この部分を読んで、露の新治の『中村仲蔵』のことを思った。

 仲蔵が、自分の工夫した斧定九郎の演出に客席から何ら反応がなく、「しくじった」と思い江戸を離れるつもりでいたのだが、街で仲蔵の芝居を褒める声を耳にする、という場面。
 師匠五郎に伝わった正蔵版は、上方へ行く道すがらの魚河岸で、芝居を観てきた河岸の人たちの会話で、自分を褒める言葉を耳にする、という設定だった。
 新治は、上方に行こうと決めて家を出たものの、つい足が中村座の方に向かってしまい、そこで、小屋から出てきた客が仲蔵を褒める言葉を耳にしてしまう、という設定。
 師匠から継承したものかどうか勉強不足で分からないが、この演出の工夫は悪くない。特に、上方で演じる場合は、魚河岸という場面設定は違和感があるかもしれない。
 
 何より正蔵、師匠五郎兵衛から継承している大事なのは、「たった一人」でも褒めてくれる人がいたことを仲蔵が知ること、である。
 そこに、あの噺が、よりドラマチックになることは聴いていて、よく分かった。

 落語とドラマ、については続けてこのように書かれている。

そして、そのすぐれた落語が文字になった時に、文学!! とさえ思われる者が出来上がるわけで、だれのどの落語でも活字になって文学的であるわけではありません。けれども、演出の上手下手はともかく、落語がドラマであることにはまちがいありません。目のつかい方で遠近や感情、仕草の一つ一つが、舞台装置や小道具をおぎなって、扇子と手拭いだけで、時にはパントマイムすれ演じるのです。
 ご覧いただく方の頭の中に、その場面が浮かび上ってこそ、その落語の味わいがわかるのです。高座と客席の知的な遊びの交流がなければ、ドラマとは程遠い、単にギャグでゲラゲラ笑っておしまい、と、いう、つまらないものになってしまいます。
「いや、俺は、その方が好きなんだ」
 と、おっしゃられれば、それまでですが・・・・・・。

 いやいや、ゲラゲラ笑うだけでは、私は嫌だ^^

 こんなことも書かれている。

昔は「はなし二百の節三百」と、申しまして、落語は二百人、節のついた浄瑠りや浪曲は三百人くらいが最適といわれていました。これは、マイクのない時代、声の通りの問題でもありましょうが、演者の目の動きが最後列のお客様からでも見える範囲をいったものといわれています。近ごろは、上方ではホール落語その他、会場が広くなってまいりましたせいと、話芸という概念、マイクが良くなった、まァいろいろいな条件が重なって、どうも、本当の面白さが、演じる方も、見る方も、ちょっとちがってきているような気がしています。

 よく分かるなぁ。

 私は、今では千人を超えるような会場の落語会には行かない。

 「はなし二百」という言葉、覚えておこう。

 ちなみに、私が好きな末広亭は、一階の椅子席が117席。桟敷は上手側、下手側で各38席と、末広亭のサイトには記されている。これは、座布団を目一杯詰めて並べての数字だとは思うが、合計で一階がほぼ二百、「はなし二百」に合致。
 
 鈴本は285席と少し広い上に、昔の佇まいがなくなっているのが、残念。

 池袋は93席。高座から噺家の唾が飛ぶ距離で迫力満点ではあるが、少し狭すぎる。
 浅草演芸ホールは一階239席、二階101席。名前からしてホールなので、寄席の雰囲気は味わえない。

 国立演芸場は、300席だが、結構好きだ。前の方の席なら、十分に噺家さんの表情が見てとれる。

 上方の天満天神繁昌亭は、一階153席、二階63席のようだ。
 ほう、合計で、ほぼ「はなし二百」ではないか。

 小満んの会を楽しんでいる関内ホールの小ホールは264席。あれくらいがちょうどいいね。

 つい、「はなし二百」から、詳細に至ってしまった^^


 昨年2月の記事で紹介した笑福亭松枝の本には、桂枝雀一門と上方落語協会会長になった際の露の五郎兵衛とのぎくしゃくした関係についても、少し書いていた。
 具体的な内容までは松枝は明かさなかったが、どうもネットなでで流れている情報によれば、枝一門総領弟子南光と五郎兵衛との相性の悪さが背景にあったと察せられる。
 その件は、これ以上ほじくり返してもしょうがないだろう。
 
 私も、露の五郎の第一印象は、良くない。
 少年時代にテレビで見た五郎兵衛は下がかって話が好きな好色じじい、という印象で、長らく私にとっては贔屓の噺家ではなかった。

 しかし、新治を知ることからその著作などを読み、印象は一変した。

 早い話が、知らず嫌いだった。

 二代目露の五郎兵衛、もっと評価されてしかるべき人である。

 上方落語に関する著作も貴重だし、もちろん、その芸そのものも半端じゃなかったと思う。

 『大丸屋騒動』の音源を聴き、生の高座ではないにしても、芸の深さを痛感した。
 聴いていて、噺の場面がはっきり目に浮かんだ。
 引用した文にあるように、「その場面が浮かび上ってこそ、その落語の味わいが」わかったのだ。

 
 明日31日、天満天神繁昌亭では、「第八回 露の五郎兵衛追善落語会」が開かれる。
天満天神繁昌亭サイトの該当ページ

 きっと、それぞれの高座に“ドラマ”があるはずだ。

 こういう会のことを知ると、上方の落語ファンの方が羨ましくなる。

 江戸前もいいが、上方もいいのだ。


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# by kogotokoubei | 2017-03-30 22:31 | 上方落語 | Comments(0)
 3月26日に、NHK FMの「日曜喫茶室」が終了した。
 録音していた内容を、昨日と今日の通勤時間に聴き、なんとも言えない虚脱感に襲われている。

 はかま満緒さんが亡くなったとはいえ、40年に渡る豊富なライブラリーから選ばれた過去の放送を楽しんでいたのだ。

 最終回、藤本義一さんが語る川島雄三の思い出や、昨年亡くなった江戸家猫八(出演時は小猫)と三宮麻由子さんの鳥の声に関する対談は、実に結構だった。

 まだまだ、聴いていない貴重な音源の宝庫だろうと思うと、終了が寂しくて・・・・・・。

 また、高田文夫の本を読んでいたので、はかま満緒さんや高田文夫という、「笑芸」に関する“目利き”“語り部”“作者”の存在の大きさにも思いが至った。

 “笑芸”作家として、かたやあの林家三平を、かたやビートたけしを支えてきたことや、ラジオで人気長寿番組を持っていたことも、共通する。


 さて、いつものように、私の読書は芋づる式。

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 高田文夫の「誰も書けなかった『笑芸論』」を読んで、彼が編集した『江戸前で笑いたい』を読み返していた。


 この本については、ブログを初めて間もなくの2008年9月に記事を書いた。
2008年9月6日のブログ

 目次をご紹介。
 ご覧のように、第一部と第二部が落語、第三部では他の“笑芸”をテーマにしている。
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第一部 やっぱし落語だ!
    口上・・・・・・高田文夫
  笑いと二人旅(前編)・・・・・・・・・・高田文夫
  現代ライバル論(1) 志ん朝と談志・・・・・・・・・・・・・・山藤章二
  現代ライバル論(2) 志ん生と文楽・・・・・・・・・・・・・・玉置 宏
  現代ライバル論(3) 高田文夫と藤志楼・・・・・・・・・・・・森田芳光
  小朝、志の輔とそれに続く若手たち・・・・・・・・・・・・・吉川 潮
  変貌する落語−今こそ、新作落語に注目!・・・・・・・・・・渡辺敏正
  談志論・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・立川志らく
第二部 中入り
   中入り・・・・・・高田文夫
  志ん生と江戸の笑い・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・鴨下信一/高田文夫
  みんな落語が好き・・・・・・・・・・・・篠山紀信/春風亭昇太/高田文夫
  名人に二代なし?・・・東貴博/三波伸一/柳家花緑(司会・高田文夫)
  浅草芸人寿司屋ばなし・・・・・・・・・・・・・内田榮一(聞き手・高田文夫)

第三部 東京の喜劇人
    口上・・・・・・高田文夫
  東京喜劇人列伝1  三木のり平・・・・・・・・・・・・・・永 六輔
  東京喜劇人列伝2  三木のり平・・・・・・・・・・・・・・小野田勇
  東京喜劇人列伝3  由利 徹・・・・・・・・・・・・・・・高平哲郎
  東京喜劇人列伝4  渥美 清・・・・・・・・・・・・・・・長部日出雄
  東京喜劇人列伝5  渥美 清・・・・・・・・・・・・・・・高田文夫
  東京喜劇人列伝6  クレージーキャッツ・・・・・・・・・・岸野雄一
  東京喜劇人列伝7  萩本欽一・・・・・・・・・・・・・・・ラサール石井
  東京喜劇人列伝8  ビートたけし・・・・・・・・・・・・・井上まさよし
  東京喜劇人列伝9  イッセー尾形・・・・・・・・・・・・・中野 翠
  東京喜劇人列伝10 伊東四朗・・・・・・・・・・・・・・・西条 昇
  気分はいつもハードボイルド・・・・・・・・・・・・・・・・内藤 陳
  東京の若手お笑い人 自分好みの芸人になること・・・・・・・水道橋博士
  映画に見る東京ブラック喜劇(ユーモア)人事典・・・・・・・・・快楽亭ブラック
  江戸前的? コミック・ソング・・・・・・・・・・・・・・・大瀧詠一

  笑いと二人旅(後編)・・・・・・・・・・高田文夫
  東京芸人ギャグ・フレーズ年表・・・・・・・・・・・・・・・西条 昇

  編者あとがき
  文庫版のためのあとがき

  解説  笑芸人
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 単行本は1997年1月に筑摩書房で発行され、この中公文庫発行は2001年9月。

 書き下ろし、語り下ろしもあるが、『東京人』などに初出の内容の再録が中心の本。

 なかなか、高田文夫の編集のセンスの良さが見受けられる、落語好き、お笑い好きには実に楽しい本だ。

 読み返してみて、落語家や芸人さんへの懐かしさと、最初にこの本を読んだ時の懐かしさの二重のノスタルジーに浸ってしまった。

 「中入り」で高田文夫は、こう書いている。

まずは私が尊敬してやまないTBSの演出家、“芸”の事を話したらこの人の右に出る人は三人も居るという、あの鴨下信一氏です。
 下町育ちの歯切れのよさを堪能してください。 
 東京人の先輩と後輩が共通して愛する人、志ん生とビートたけしについてじっくり語り合いました。
 この日、呑み屋を三軒ハシゴしたのは言うまでもありません。

 さて、その呑み屋のハシゴの成果(?)を少しご紹介。

鴨下 TBSには出口(一雄)さんという人がいて、ひじょうに落語に力を入れていた。高田さんなんかは、林家三平からはいった世代ですか。
高田 そうですね。ぼくは若き日の三平、立川談志を追いかけまわして、次第に円生に近づき、ありがたいことに志ん生と文楽の生前に間に合いました。でも、やっぱりライブの楽しさは三平さんですね。あの魅力は客席で観ていると、もう最高。だから、志ん生、三平のいいとろこが、みんなたけしさんに入ってますよね。
鴨下 たけしさんのギャグというのは意外に古典的なんですよね。
高田 そう、彼は落語が好きで、ヒマさえあればよく落語のテープを聞いてますよ。
鴨下 彼のギャグのネタそのものは新しいけど、言い回しはクラシックですね。それは志ん生にそっくりです。
 ぼくは放送局(TBS)に入った時、客席の中継なんかをずっとやっていたんです。その時、月の家円鏡(現・円蔵)が、やらなきゃいいのに『四段目』をやったんです(笑)。ぼく黒門町から教わったのかと思ったら、円鏡さんのはちょっと違う、いったいどうしたのと聞いたら、志ん生さんから聞いた噺だと言うんです。へえーと思った、落語家というのは割合自由で、師匠からの噺だけをやらなくてもいいんだね。
高田 そうです。出稽古といって、よそに行って、そこで教われば自分のものにしていいんです。勝手に盗んじゃいけませんが。
鴨下 芝居好きの小僧がお仕置きで土蔵に閉じ込められる、腹へった、腹へったと、円鏡さんはそこがとっても上手なんですよ。それは志ん生師匠からの写しで、「他のことはどうでもいい、腹へったことだけやれ」と言われたらしい。
高田 なるほど、テーマだけなんですね。この噺は飢えなんだと。
鴨下 後々いろいろと聞くと、みんなそういう教え方なんですね。例えば『時そば』なら蕎麦の食い方とか細かい仕種なんかどうでもいい、騙しなさいと教える。そっちのテーマさえしっかりしてればいい。
高田 ずばっと本質を摑まえれば、あとはどうでもいいんだと。

 再読して、こんな対談があったんだ、なんて驚いていた。

 その円蔵も旅立った。志ん生仕込みの『四段目』、聴きたかったなぁ。

 鴨下さんは昭和10年生まれでご健在。
 あの「岸辺のアルバム」「ふぞろいの林檎たち」などの名ドラマを演出した人だ。

 「日曜喫茶室」の過去のデータを見ると、何度か出演されているんだよねぇ。
 はかま満緒さんの絶妙な進行で、鴨下さんがどんなことを語っていたか、気になるなぁ。


 本書を再読して印象に残ったものについては、今後書くつもり。

 この本の目次を眺めても分かることだが、かつては、噺家にしても、他の“笑芸”にしても、“キラ星のごとく”人材が豊富だった。

 そして、それぞれの芸人について語っている人の名も、錚々たるものだ。
 芸の良さ、本質が分かる人も、多かった。

 それに比べて・・・と思う。

 
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# by kogotokoubei | 2017-03-29 22:36 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(2)

 拙ブログをFC2からExciteに引っ越して、もうじき二年になる。

 転居理由は、引っ越してすぐの記事で書いた通り。
2015年4月26日のブログ

 FC2の関係者に対する裁判に進展があったようなので、朝日から引用する。
朝日新聞の該当記事

FC2実質運営会社社長らに有罪判決 わいせつ動画配信
2017年3月24日19時07分

 動画投稿サイト「FC2」でわいせつな動画などを配信したとして、わいせつ電磁的記録記録媒体陳列と公然わいせつの罪に問われた実質的な運営会社社長ら2人に対する判決が24日、京都地裁であった。中川綾子裁判長はいずれも懲役2年6カ月執行猶予4年、罰金250万円(求刑懲役2年6カ月、罰金250万円)を言い渡した。2人は即日控訴した。

 判決を受けたのはホームページシステム(大阪市)社長の足立真(41)と、創業者の弟で元社長の高橋人文(ともん、40)の両被告。判決によると、2人は2013~14年、FC2上でわいせつな動画を閲覧できる状態にし、アクセスした不特定多数の人に対して閲覧させた。

 公判で、2人はわいせつ動画の投稿・配信に関与せず、投稿者らと共謀もしていないなどと無罪を主張した。判決は、2人がFC2でわいせつ動画が配信されることを認識しており、FC2の仕組みを利用した投稿者との共謀が成立すると判断した。
 “仕組み”について、もう少し詳しく書かれている、時事ドットコムの記事も紹介する。
時事ドットコムの該当記事

FC2創業者弟らに有罪=わいせつ動画公開-京都地裁

 動画投稿サイト「FC2」のわいせつ動画をめぐる事件で、わいせつ電磁的記録媒体陳列罪と公然わいせつ罪に問われたFC2米国法人創業者の実弟高橋人文(40)、関連会社「ホームページシステム」社長の足立真(41)両被告の判決が24日、京都地裁であった。中川綾子裁判長は、2人に懲役2年6月、執行猶予4年、罰金250万円(いずれも求刑懲役2年6月、罰金250万円)を言い渡した。弁護側は即日控訴した。
 弁護側は、わいせつ動画のアップロードに関与しておらず、投稿者との共謀などは成立しないとして、無罪を主張していた。
 これに対し中川裁判長は、「被告らはサイトで相当数のわいせつ動画が配信されることを認識し、利用者を増加させようとしていた」と指摘。投稿者も、閲覧者が増えるとポイントがたまり換金できるサイトの仕組みに動機付けられ、動画をアップロードしていたと認められると判断した。
 判決によると、両被告は米国にあるサーバーからサイトを運営。2013年6月19日に投稿者と共謀し、無修正のわいせつ動画を不特定多数の人が閲覧できる状態にするなどした。(2017/03/24-19:40)

 私は思うが、“共謀”したか否かに関わらず、上記のような仕組みを作っている以上、そういった動画が掲載されることは想定できたはずだ。

 もし、利用者が勝手にやったことだ、と嘯くようなら、FC2という会社の経営管理者の了見がなってないと思う。

 言ってみれば、長屋の大家が、ある部屋でエロ映画の上映会をするのを黙認し、その木戸銭からショバ代を取っているようなものではないのか。

 そんな長屋には、同じ店子として住む気がしなかったのだ。


 控訴したようなので、まだ長引くだろうが、あらためて、FC2長屋からエキサイト横丁に引っ越して良かったと思っている。

 FC2でブログを開設されている方も、この裁判の行方は気がかりだろう。

 引っ越しご案内の記事にも書いたが、今からFC2からの引っ越しを検討されている方は、エキサイトなら、ほぼ以前のレイアウトをそのまま生かして移管可能だし、コメントも移管できるので、お奨めする。

 もちろん、人それぞれであり、FC2に留まる選択もあるだろう。

 まだ時間の猶予がある、高裁あるいは最高裁まで裁判を眺めながら考えたい、という方もいらっしゃるかもしれない。

 しかし、破綻した旅行会社の例ではないが、万が一の時には、大事な自分の記録などが消えてなくなる恐れもなきにしもあらず。

 私は、そのリスクを少し早めに解消したかったのである。
 これは自慢でもなんでもない。そうしなければ、どうにも気持ちがすっきりしなかったからであって、私より堪忍袋が大きな方は、どっしり構えていれば良いだろう。

 それにしても、日本の裁判、時間がかかり過ぎるなぁ。


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# by kogotokoubei | 2017-03-28 20:47 | 幸兵衛の独り言 | Comments(2)

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高田文夫著「誰も書けなかった『笑芸論』」(講談社文庫)

 先に、古今亭志ん朝の部分をつい記事にしたが、この本、初版は2015年の講談社からの単行本。
 私は加筆・修正されて3月15日初版の文庫で、初めて読んだ次第。

 目次を、あらためてご紹介。
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 開口一番
第一章 体験的「笑芸」六十年史
 はじめに
森繁久彌
三木のり平
青島幸男
渥美 清
林家三平
永 六輔
古今亭志ん朝
森田芳光
立川談志
三波伸介
景山民夫
大瀧詠一
坂本 九

番外編 
 脱線トリオ
 ハナ肇とクレージーキャッツ
 コント55号
 ザ・ドリフターズ

第二章 ビートたけし誕生

第三章 自伝的「東京笑芸論」

 秘蔵フォトアルバム
 はみ出しフォトアルバム
 文庫版の為のあとがき
 解説ー高田文夫になれなかった 宮藤官九郎
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 「第三章 自伝的『東京笑芸論』について、「開口一番」で次のように説明されている。

 一冊の本にするには「小説現代」の連載分だけでは物足らず、この度、この“第三章”はなんと2015年の正月休みに一気に書く下ろしました。私の書き下ろしは珍しいです。

 この描き下ろしの第三章、年齢も違えば生まれ育ちも違う私なのだが、妙に同じような少年時代の体験をしていていることが分かり、共感できる部分が多い。

 たとえば、“一日幼稚園体験”。
 ちなみに高田は渋谷で生まれ、五歳で千歳船橋に引っ越している。

 幼稚園へは一日だけ行ったが、いじめられて泣いて帰ってきた姿を見て、母親が、「そんな嫌な奴が居る処へか行く事ァない。幼稚園なんか行かなくたって人生大丈夫だよ」
 そのひと言で呑気に過ごした。我々の世代、幼稚園行ってない人も多かったような気がする。

 実は私も、幼稚園は一日しか行かなかった。
 隣町の幼稚園で、その近くに住むお金持ちの家の子どもが偉そうにして、たとえば、砂場で遊ぼうとしたら、「そこは、俺の場所だ」とかなんとか言って、遊ばせてくれなかった。
 隣町なので、いつも泥だらけで一緒に遊んでいた仲間もいなかった。
 そして、幼稚園には私の時代も、誰もが通っていたわけでもない。
 その日、高田のように泣いて帰ったわけではないが、翌日いったん行く素振りを見せて家を出たものの途中で引き返してきて「行きたくない」と言ったら、「そんなに嫌なら行かなくていい」と母親が許してくれた。
 それ以来、仲の良い近所の友達(悪ガキ?)達ともっぱら遊んだ。
 缶蹴りにタカタカ鬼、S陣取り、チャンバラごっこ、などなど。

 小学校は、そういった顔見知りの友達も周りにいて、行くのが楽しくてしょうがなかったなぁ。

 私にとっても懐かしいテレビ番組の名を発見。
 私の家の前では、いつも「少年ジェット」のロケをやっていて、お昼の休憩に入ると少年ジェットと敵役のブラックデビルが仲良く弁当を食べ、キャッチボールをしているのを見てショックを受けたりもした。
「本当は仲がいいんだ・・・・・・」と小さくつぶやいた。
 ♪行こうぜ シェーンよ
   とりこになっても負けないぞ
 と元気ハツラツな主題歌。オープニングで愛犬シェーンが買物カゴをくわえ買物に行く酒屋は、我が家がひいきにしていた“石井酒店”。

 「少年ジェット」は、よく覚えている。
 近所の仲間と「少年ジェットごっこ」でも遊んだ。
 黄色いマフラーしたジェットが何人もいて、ブラックデビル役がいない。芝居噺の落語のマクラ、勘平ばかり三十六人、のようなものだ。

 テレビの前に釘づけになって観たものだ。

 引用部分を含め、主題歌のこうだった。

 ♪ 勇気だ力だ 誰にも負けないこの意気だ (ヤー)
  黄色いマフラーは 正義のしるし
  その名はジェット 少年ジェット
  進めジェット 少年ジェット (J! E! T!)
  
  行こうぜシェーンよ とりこになっても負けないぞ
  正しく強いこの快男児
  その名はジェット 少年ジェット
  行こうジェット 少年ジェット (J! E! T!)

 懐かしい^^

 そして、野球体験。
 東映フライヤーズに憧れた悪ガキ達は、少年野球チームを作る。
 私も、小学校入学前は、近所の空き地で三角ベース。小学校に入ってからは、二年生でその仲間たちと野球チームをつくって、憎っくき隣町のチームと試合をしたものだ。
 高田少年達のチームには、すごいコーチ(?)がいた。
時々“花形のお兄ちゃん”がバットを持って現れ、我々「少年シャークス」にノックの嵐を浴びせてくれた。
 このお兄ちゃんこそ誰あろう渋谷の安藤組親分・安藤昇の右腕とも呼ばれた花形敬である。

 へぇ、あの花形敬だよ。
 本田靖春さんが『疵』で書いた、花形だ。
 私は隣町の小学校と試合を重ねたが、高田さんの相手は、あのチームだった。

 花形ノックを受けた小学校の高学年、我々は渋谷は松濤の少年野球チーム“ジャニーズ”と対戦。たしか二戦して二敗している。もうあの頃から何をやってもジャニーズには負けていたのである。
 少年野球で対戦した一、二年後、テレビをつけると彼らは歌っていた。
 そう、あおい輝彦やら飯野おさみでおなじみの四人組、元祖ジャニーズである。

 そうなのだ。ジャニーズは、元々少年野球チームの名前。
 
 さて、高田少年は、野球だけではなく、幅広く活躍していた。

 小学校も三年生くらいになると各学期末に学芸会というか、お楽しみ会の様なものが催された。私は気の合う五人程を集め、口立てで演出をし、一週間位前から毎回毎回稽古にはげんだ。私がリーダーでスリッパの様なものを持ち、これでひっぱたくつっ込みである、一座にアクト講座をするのである。多分、テレビで見たばかりの三木のり平&八波むと志、そして脱線トリオの影響をモロにうけたいたと思う。
 一学期の学芸会、二学期の学芸会、三学期の学芸会と私の作・演出・座長のコント劇団はもの凄い人気となっていき、四年になっても五年になってもこの一座が名物となっていった。

 なるほど、すでに放送作家としての片鱗が小学生であった、ということか。

 私も、学芸会やお楽しみ会で「笑芸」を披露したが、さすがにコント一座までを主宰するには至らず、漫才(てんや・わんや、Wけんじなどの真似)か、一人でべニア板をウクレレに見立て牧伸二の真似をするにとどまっていた。

 とはいえ、中学で卒業生を送る予餞会では、作・演出・座長を務めたので、高田少年の“笑芸”自伝には、他人とは思えない近さを感じてならない。

 “山の手”育ちの高田の寄席初体験は、小学四年生の時、寄席通の友人が、三平を見せてやる、と連れて行ってくれた、新宿末広亭。
 
 第一章の林家三平のページで明かされていることなのだが、第三章でも、こう書いている。
 
 馬の助(早逝)や小さんも出演していた。“山の手小僧”にとって寄席とは上野鈴本でも、浅草演芸ホールでもなく、新宿末広亭なのである。あの建物自体が昔の大人のにおいがして、なんとも魅力的であった。“悪所”の感じもたまらなかった。近所のパチオンコ屋からは守屋浩の「僕は泣いちっち」やら、村田英雄の「人生劇場」が流れていた。

 この感覚も、十分に共有できる。

 池袋の狭い空間も嫌いではないが、私にとって“寄席”としてしっくりくるのは、都内四席の中で、間違いなく末広亭である。

 読んでいるうちに、なぜ私も放送作家にならなかったのか、なんて不思議な思いにかられていた。

 お笑いが好きだった高田文雄(本名)少年時代と、いくつか自分の少年時代が重なり、何度も「そうそう!」なんて相槌を打ちながら読んでいた。

 読了し、なかなか心地よい読後感を味わっている。

 第一章、第二章での個々の芸人さんの高田文夫の思い出や懐かしい写真を含め、私にとっては楽しい書だった。

 もちろん、落語を含む「笑芸」がお好きな方には、お奨めの本と言えるだろう。

 この本からは今後も何度か紹介しようと思っている。

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# by kogotokoubei | 2017-03-27 21:18 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(0)

 冷たい雨で、恒例のテニスが休み。

 最近買った本を読んでいた。

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高田文夫著「誰も書けなかった『笑芸論』」(講談社文庫)
 
 講談社文庫で発行されたばかりの高田文夫の本。

 高田文夫の「笑芸」に関する本ということでは、ずいぶん前に、彼が編集した「江戸前で笑いたい」について記事を書いたことがある。
2008年9月6日のブログ

 また、先代の文治について、高田文夫が日刊スポーツに書いていたコラムをまとめた「毎日が大衆芸能」から紹介したことがある。
2013年1月30日のブログ

 この「誰も書けなかった『笑芸論』」は、2012年4月に、不整脈で八時間の心肺停止から奇跡的に助かった後で、リハビリがてら2013年から「小説現代」に連載したコラムと、書き下ろし(第三章)による本。

 真っ先にめくったのが。古今亭志ん朝のページ。

 志ん朝の弟子だった右朝と高田が日大芸術学部の落研で同級だったことは有名な話。
 なんとこのいページの写真は、右朝の葬儀で弔辞を読む志ん朝の姿・・・・・・。
 同じ年の10月1日に、志ん朝も旅立った。

 その志ん朝の葬儀について、新発見。
 
 2001年10月6日、文京区の護国寺での告別式。木遣に先導された棺は江戸前そのものだった。
「名人!」「矢来町!」「朝サマ!」。
 それぞれが心の中で叫んでいた。
 そして静かに、薄く聴き慣れたメロディが流れてきた。なんとサザンオールスターズの曲に送られての出棺だった。あまりにその芸風と生き方にドンピシャで、涙があふれて止まらなかった。
 惣領弟子の志ん五が私に教えてくれた。
「うちのジャリ(娘)が選曲したの。師匠にカラオケ連れてってもらうと、必ずサザン歌うからだって」
 意外だった。言われてみればサザンと志ん朝、おしゃれな青春のにおいがする。

 私にも、この選曲は意外だった。
 好きなジャズなら、さもありなん、だったが。

 ほぼ同世代のサザンは嫌いじゃないが、昭和13年生まれの志ん朝がカラオケでサザンのファンだとは、思わなかった。
 

 以前書いたが、私はしばらく落語を聴くことのない時期があったが、2001年10月1日、その偉大な噺家の旅立ちを契機に、音源を中心に落語をまた聴き、その数年後、かつての赴任地越後ではかなわなかった寄席や落語会に通い始めた。

 だから、護国寺の告別式には行っていない。
 
 行かれた落語ファンの皆さんにとってはご周知のことなのだろうが、本書で初めて志ん朝葬送のBGMを知った次第だ。

 なぜ護国寺だったのか。

 護国寺を選んだのはこの数年前、芝居の師とあおぐ三木のり平先生の葬儀がここでとり行なわれ、とても良かったので自分の時もここでやって欲しいと言い残していたから。

 想い出した。のり平先生のお通夜の清めの席。数ヵ所にビデオが置いてあり、モニターからのり平芝居の名作が次々と流れていた。「らくだの馬さん」やら「文七元結」やら。
 それを観ながら私と高平哲郎が呑んでいるのをみつけた志ん朝師が、「あン、実に弱ったもんで」と例によって鼻を広げながらやって来て、一緒に一杯やりながら、「子の芝居はこうで、この時はこうで」と嬉しそうに教えてくれた。
 志ん朝師は、のり平とジャズが人一倍好きだった。

 この後、高田文夫が学生時代に聴いた「二朝会」の思い出が語られる。
 そして、放送作家となってからの志ん朝との関係などの思い出を語った後、次の言葉で締められている。

 志ん朝がいてくれた豊かな時代、それは我々東京っ子の“若い季節”だったのかおしれない。
 昭和23年生まれの高田文夫は、志ん朝のちょうど十歳年下になる。
 まったくの偶然だが、一昨日の記事で紹介した荒井修さんと同じ年生まれの団塊の世代だ。

 八時間の心肺停止から命を取り戻したのは、天がこの本の内容のように、得難い「笑芸」の記録、記憶を残すことだったのか、などとも思いながら、半分くらいを読み進んだところ。


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# by kogotokoubei | 2017-03-26 16:26 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(6)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛