噺の話

kogotokoub.exblog.jp
ブログトップ
 昨日は途中まで書いて、晩酌の酒がまわってきて断念。
 今日のテニスの後、クラブハウスで缶ビールを飲み、昼食に誘われたが、それ以上飲むと今日も書き終わらないと思い、心を鬼にして断った^^
 
 さて、夜の部。三代目桂小南襲名披露興行だ。

 客席は、椅子席が三割から四割。桟敷にはそれぞれ三~四人。
 仲入り後には、椅子席も桟敷ももう少しお客さんが増えたが、平日雨交じりの夜とはいえ、ちょっと寂しいねぇ。

 出演順に感想など。

開口一番 桂こう治『転失気』ー>『牛ほめ』 (13分 *16:48~)
 初めて聴く、小文治門下の前座さん。
 『転失気』を始めたので、「おいおい、可風とツクよ!」と思っていたら、案の定、楽屋の前座からダメ出し。ネタ帳を見せてもらって、「それでは、『牛ほめ』を演らせていただきます」と仕切り直し。客席から「がんばれ!」の声。優しいお客さんだ。
 しかし、本人はもうアップアップという感じで、噛むやら言いよどみやら、科白を忘れるやら・・・・・・。
 これも、経験。精進してもらいましょう。
 それにしても、秋葉様のお守りではなく、防火宣伝のビラ、というのはいかがなものだろう。師匠譲りなのかもしれないが、通じなくなった言葉を言い換えてばかりいると、落語そのものが壊れてしまうのではなかろうか。やはり、秋葉様だと思うなぁ。

山遊亭くま八『魚根問』 (8分)
 これまた初めて聴く人。
 繰り返されるネタの後に笑いを待つ間が、あまり好きではない。
 これは、後から出る歌春でも感じたことなのだが、笑いを半ば強制するような間が頻繁に続くのは、あえて言えば品のない行為であり、それは芸とは言えない。
 まだ、若く明るい高座には好感が持てるので、今後の成長を期待したい。

新山真理 漫談『巨人軍の納会』 (11分)
 このネタは初めて聴いたこともあり、結構笑った。
 詳しくは書かないが、三十数年前、横浜ファンと西武ファンの若手女性漫才師が、熱海後楽園ホテルの巨人の納会に呼ばれて漫才をした時の逸話。さて、どこまでがフィクションかは分からないが、ネタとしてはよく出来ている。この人の話芸、結構、レベル高いんだよね。

三笑亭夢丸『お菊の皿』 (12分)
 久し振りだが、少し太ったか^^
 この人の持ち味は、そのスピードであり、弱点もその速さかもしれない。
 立て板に水の勢いの良さを感じる時もあれば、次の科白が待てないかのような忙しさが聴く方を落ち着かせてくれないこともある。
 まだ、若いので今後次第に落ち着きが出て来るとは思う。
 この高座では、スピードの良い面が出ていたようだ。
 芸協の将来を担う一人であることは間違いがない。

三笑亭可龍『宗論』 (14分)
 見た目の若さに反して落ち着いた高座。夢丸はこういう先輩に見習うべき点が多いように思うなぁ。
 十八番と言えるだろう。このネタなら、春風亭正朝とこの人の二人が双璧ではなかろうか。小三治は、別格^^
 拙ブログを書き始める前、2008年2月9日のさがみはら若手落語家選手権の予選、一之輔が出場したのだが、この人がこのネタで一位通過。私が一票を投じたものの(?)一之輔(『鈴ケ森』)は僅差の二位だった。ちなみに、一之輔は、予選全体の二位でもっとも惜敗率が高いということで本選会に出ることはできたが、その年の本選会は三遊亭歌彦(現歌奴)が優勝。一之輔もきっと忘れられない予選ではなかったかな。
 短い噺とお祝いの踊りかな、と思っていたが、テッパンとも言えるネタを楽しく聴かせてくれた。寄席の逸品賞候補としたいので、色を付けておく。

松旭斎小天華 奇術 (10分)
 無言での紐とスカーフの奇術。なんとも言えない雰囲気は、この人ならでは。
 “職人”という言葉が当てはまるような、そんな人。嫌いではない。

三遊亭遊之介『真田小僧』 (15分)
 これまで聴いた高座の印象が良いので、少し残念。表情が硬いのだ。
 口上の司会という大役が待っているせいか、あるいは、打ち上げの酒が残っているのか^^

桂歌春 漫談 (15分)
 歌丸の総領弟子なので、私も歌丸の襲名披露をしたいが・・・といった内容を中心の漫談。笑いを待つ間が、気になった。この人も、打ち上げ疲れか。
 とはいえ、口上では、なかなかいいこと言ったなぁ。

桧山うめ吉 俗曲 (13分)
 小唄「水の深さ」から「三階節」、新内の「蘭蝶」、締めに躍りで「茄子と南瓜」。
 まさに、寄席の“彩(いろどり)”だなぁ。

桂南なん『辰巳の辻占』 (12分)
 見た目に騙されてはいけない噺家としては、病弱を装った頃の喜多八とこの人が双璧ではなかろうか。
 高座に上がった時の、なんとも言えない見た目と靜的な印象と、ダイナミックな所作と表情の豊富な高座との落差の大きさは、これまでの経験がなせる技なのだろう。 

三遊亭小遊三『蛙茶番』 (18分)
 仲入りは、この人。
 この噺は、たぶん十八番の一つではなかろうか。
 女性のお客さんも、あの場面(?)で笑うこと、笑うこと^^
 この人が、なぜ会長にならないのか・・・きっと、政治的なことより、自ら演じることが好きなのだろうなぁ。
 そんなことを思わせる高座だった。
 
 
 一息入れて、口上だ。

三代目桂小南真打昇進披露口上 (13分)
 後ろ幕は、落語芸術協会から、岩槻の須賀食品寄贈に替わった。
 下手から、遊之介、遊吉、金太郎、小南、南なん、歌春、小遊三の六人。
 印象に残る内容は、まず、兄弟子の金太郎。師匠は三代目三遊亭金馬を師匠に東京落語を百席以上覚えてからすべて捨て去って上方落語を学び直した人で、「東京でも大阪でもない、場所で言うなら、静岡落語」と称していたが、独自の小南落語と評された。三代目小南は春日部出身、東京との間、自分独自の北千住落語を目指して欲しい、と笑いも意図したネタだったのだろうが、客席はまともに聞いていたなぁ。トースターにまつわる逸話も紹介されたが、その犯人のためにも割愛。
 南なんは、披露目は金がかかり、春日部の畑を売って費用を捻出したが、落語という畑を耕し欲しい、と締めた。
 歌春が、自分の高座よりもずっと良かった^^
 小南治の真打昇進披露に、協会の違う父親の二代目林家正楽が出演したらしい。今回も、協会の枠を超えて、父の芸を継いだ弟の二楽が出るので、ぜひ兄弟の高座を楽しみにして欲しいと、知らない人もいたかもしれない補足情報が良かった。
 締めの小遊三は、先代の小南に聴いた逸話を披露。ある程度、自分の落語に自信を持ってきた頃、師匠の金馬が高座を聴いてから、「お前のは、金が欲しい欲しいという落語だ」と言われ、呆然とした、とのこと。いったいどうすればいいのか分からなかったと二代目小南は述懐していたらしい。
 今、金が欲しい欲しい落語、蔓延しているなぁ。
 お約束の三本締めで口上は、結構真面目な雰囲気のままお開き。
 兄弟子二人の優しさが伝わる、実に結構な口上だった。

ボンボンブラザース 曲芸 (8分)
 十八番の紙の芸、下手桟敷への出張サービスで、私のすぐ後ろまで来ての熱演。
 いいねぇ、いつ見ても、この人たち。

三遊亭遊吉『粗忽の釘』 (14分)
 何度か聴いているが、もっともスピード感のある高座。地味な印象だが、その飄々とした個性は、嫌いではない。

山遊亭金太郎『たらちね』 (13分)
 先に口上を聴いたが、高座は初。
 ロマンスグレーの頭髪。金じゃなくて銀太郎か^^
 無理に笑わせようとはしない、無駄のない高座。兄弟子南なんと弟弟子小南が、個性が強いのとは対照的。
 トリの時間を作るための短縮版だが、一番難しい膝前の役割をしっかり務めた。

林家二楽 紙切り (9分)
 元気に高座へ。挨拶代りの「桃太郎」の後、お客さんの注文で「文治の相合傘」「選挙」の三作で兄につないだ。協会を越えた出演、本人も楽しんでいるのが、伝わった。

桂小南『しじみ売り』 (26分 *~20:57)
 自分の羽織と着物をつくり、余った分で二楽の羽織ができた、とマクラで話す。彼らしい、弟への感謝の思いなのだろう。
 本編は、師匠の十八番の一つだった、この噺。もちろん、上方版。だから、しじみ売りの子から、しじみを買ってやるのは、鼠小僧次郎吉ではなく、ある親分。
 匿名で演じる場合もあるが、人によっては、遊びを入れる。五年余り前、テレビ朝日「落語者」で桂まん我のこの噺を聴いた際は、米朝の本名を使っていた。
2012年5月12日のブログ
 実は、いただいたコメントで親分の名前の由来に気が付いた次第。
 三代目小南は、師匠と同じ市村三五郎という名の侠客にしていたが、場所は江戸に替えていた。時期も師匠が十日戎で、三代目は初午。
 親分、しじみ売りの子、そして、子分の留公の三人が、主な登場人物。
 あの独特の声は、親分にはピッタリ^^
 しじみ売りの子どもの可愛さ、家族思いの健気さは、よく伝わった。
 欲を言うなら、バイプレーヤーの留公を、もう少し軽いお調子者に描いて欲しかったが、全体としては、師匠の得意ネタへの取り組みを嬉しく思いながら聴けた好高座。
 サゲは、師匠と同じ「あまり声が大きいので、しじみ(縮み)あがりました」。
 その独特の声、しぐさ、間など、三代目小南の落語の可能性を感じていた。


 中にいる間に降った雨も、嬉しいことに上がっていた。
 なんとか来ることのできた披露目だが、披露目が終わってしばらくしてから、また、小南の高座を聴いてみたいと思う。できれば、南なん、金太郎との三人会などがあれば、駆けつけたいなぁ。地下鉄の駅に向かいながら、そんなことを思っていた。

[PR]
# by kogotokoubei | 2017-10-01 16:46 | 落語会 | Comments(6)
 午後から休みをとって、久し振りの寄席へ。

 夜の部は、三代目桂小南襲名披露だ。

 午前中の雨は上がっていたが、いつ降ってもおかしくない空模様。
 中で高座を楽しんでいる間は、実際に舗道を濡らしていたようだ。

 コンビニでおにぎりやお茶を仕入れてから末広亭到着は、ちょうど昼の部の仲入り。

 客席は、椅子席が七割ほど、桟敷はそれぞれ四~五人ということろ。
 迷うことなく、好みの下手の桟敷を確保。

 後ろ幕は、落語芸術協会。
 客席後方にもいくつか花輪があったが、高座上手の花は京王プラザホテル、下手は東京かわら版。

 クイツキ以降について、感想などを記す。

三笑風可風『転失気』 (12分)
 出囃子「ハイサイおじさん」で登場した昨年真打昇進の人だが、私はまだ可女次の名の印象が強い。
 協会ホームページのプロフィールにあるように、最初は八代目古今亭志ん馬(「意地悪バアサン」の志ん馬)に入門したが、師匠没後、小笠原の父島でウミガメの調査をした後、三笑亭可楽に入門し直したという異色の経歴の持ち主。
落語芸術協会HPの該当ページ
 以前にも聞いているが、マクラが可笑しかった。
 師匠可楽が、「落語家は、売れるか、ゴミになるか、どっちかだ」と言うので、「師匠はどちらですか」と尋ねると、しばらくの沈黙の後、「おれは、これから売れるんだ」と答えた、とのこと。可楽は昭和11年生まれなので、可風が入門した昭和14年時点でも、66歳。師匠の言葉の後に、可風が「ゴミなんかじゃないですよ、私は師匠を、誇りに思っています」でサゲ。
 本編は、クイツキとしては疑問に思わないでもない、前座噺。
 「ロシアの揚げパン」というギャグを途中に挟んで楽しく聴かせてくれたのだが、このネタ選びが、夜の部開口一番の前座に、多大な被害をもたらすことになる^^

東京太・ゆめ子 漫才 (14分)
 高齢化問題をテーマの、十八番ネタ。
 ゆめ子が「100歳以上が六万七千八百二十四人、90歳以上が二百六万人」と数字を挙げた。共通の趣味を持つことで、夫婦の会話ができるというネタが続くが、途中、どうも本当に、ゆめ子がネタを忘れたことを京太がやる込める場面が、一番可笑しかった。
 もし、あれもネタだったとしたら、それは、凄い技術と言えるだろう。でも、きっと、忘れんだろうなぁ。ゆみ子曰く「ボケは、うつる」。
 色物が充実している芸協において、欠かせない存在。

桂伸治『あくび指南』 (16分)
 登場しただけで、客席を明るくさせる噺家さんは、そう多くないが、その一人だ。
 あくびの種類の説明を丁寧に挟んだ。春のあくびは、のどかな春の陽ざしを浴びて、菜の花が一面に咲く中で出るあくび。秋は、長夜、人を待っていて待ちくたびれて出るあくび。冬は炬燵に入っていて、猫のあくびに思わず誘われて出るあくび。加えて、寄席のあくび、そして、究極が臨終のあくび。
 文治という大名跡は弟弟子に譲ったが、結果、その方が良かったのかもしれない。伸治という名前が寄席にあるのも、嬉しいではないか。
 ほっとさせる高座、とでも言えようか。その笑顔で寄席に潤いを与える大事な噺家さんだ。

柳家蝠丸『弥次郎』 (13分)
 なんとも楽しい高座だった。
 北海道の寒さを表す小便がすぐ凍るというネタや、イノシイの大事なところを摑む、というネタも決して下品にはならず、女性のお客さんも大笑い。
 この人は、結構最近になって知ったのだが、芸協では貴重な存在だと思う。
 噺家さんの個性の多様さは、圧倒的に芸協が落語協会より上だろう。夜の部の南なんなども含め、実に「落語家らしい」人材が豊富。
 
翁家喜楽・喜乃 太神楽 (8分)
 膝替わりは、この親娘。
 五階茶碗から組みとり。
 茶碗などを手渡ししながら、娘の芸を見つめる父親の姿が、なんともなくいいのだ。
 最後の組みとりで、輪を落しそうになった後の喜乃ちゃんの照れ笑いが、可愛かった。
 いいねぇ、伝統芸能を父と娘でつないでいく姿。

春風亭柳之助『井戸の茶碗』 (30分 *~16:36)
 夜の部が目当てではあったが、ぜひ、この人の昼のトリも聴きたかった。
 柳昇に入門し、今は小柳枝門下。なかなかの二枚目で古典本格派は、芸協では少数派ではなかろうか。
 千代田卜斎や高木佐久左衛門が、屑屋に「いくつになられる」と聴くクスグリで笑いをとったが、全体的には、真っ正直な高座、と言えるだろう。
 清兵衛が千代田と高木をいったりきたりする場面の短縮の芸も違和感はないし、若々しく実直な高木の役はニンと言える。
 好演、なのだが、やはりもう少し“遊び”というか、余裕が欲しい。
 それは、年齢のせいもあるかもしれないが、昭和41年生まれだ、無理な注文ではないと思う。
 千代田卜斎親娘の住まいが、芝新堀裏という設定は、初めて聞いた。清正公様脇を入った裏長屋ではない型もあるんだ。小柳枝譲りかな。
 協会HPのプロフィールを見て、鹿児島出身に気づく。
落語芸術協会HPの該当ページ
 てっきり関東の出身かと思っていた。年齢は五十路を越えたばかり。現在の師匠の後継者となりうる潜在的な力は感じるので、今後も期待したい。


 さて、これにて昼の部お開き。

 喫煙所から外を見たら、多くのお客さんが柳之助を取り囲んでいる。
 彼の主任の席に、多くの後援者が駆けつけたようだ。笑顔で応対し、一緒にカメラに収まる柳之助の姿に、この人の実直さが見てとれる。
 平日の、やや雨まじりの天候でも、襲名披露という特別興行の夜の部より客の入りは多かった。来てくれたお客さん達の思いを大事に、今後も柳之助には精進してもらいたい。
 昼夜のお客さん入替えで、ずいぶん、客席は寂しくなった。
 平日夜、雨交じりとはいえ、ちょっと残念。

 昼の部の仲入り以降は、実に充実していた。
 可風は、マクラで楽しませてくれた。
 伸治、蝠丸というベテランの高座は、期待通り。
 喜楽・喜乃の父娘は、太神楽という芸能が継承される現場を見た思いで嬉しかった。
 柳之助は、基礎は十分できている。今後は伸治や蝠丸などの高座に見られる、懐の深い芸を盗んでもらいた。

 夜の部は、別途書くことにしよう。

[PR]
# by kogotokoubei | 2017-09-29 12:45 | 落語会 | Comments(2)

 このシリーズ三回目。

 NHKが“フィクション”と謳って、事実との違いについて批判されることから逃げて(?)いる、と前の記事で書いた。

 NHKサイトの「わろてんか」のページの「ドラマについて」にある注(*)をご紹介。
NHKサイトの「わろてんか」のページ
※ドラマは実在の人物群をモチーフにしていますが、その物語は一人の女性が愛と笑いと勇気をもって懸命に生きる一代記として大胆に再構成し、フィクションとしてお届けします。

 書いてましたね、小さな文字で^^
 “大胆に再構成”した“フィクション”なのだ。

 だから、実際の“モチーフ”(“モデル”ではない^^)となった人物のこととは違うかもしれないよ、ということ。

 しかし、視聴者の中には、“大胆に再構成”する前の、よりノンフィクションに近いドラマを期待する人だって少なくない、と私は思うなぁ。

 また、こうやって注意書きをしていようと、その“モチーフ”となった人が、ドラマのような人生を送ったのだろうと誤解することは、十分にありえる。

 制作者側は、そういう誤解は、あくまで視聴者側の責任と考えるのだろうが、ドラマというモノづくりをする側には、責任はないのだろうか・・・・・・。

 なんてことを思いながら、だったら、どこまでモチーフの人間の人生と、このドラマが違うことを「わろうたる」か、チェックポイントを探ることにしよう。


e0337777_12133659.jpg

矢野誠一著『女興行師 吉本せい』(ちくま文庫)

 吉本吉兵衛とせい夫婦が第二文藝館を手に入れて寄席経営を始めた頃の、大阪の落語界の勢力関係について、矢野さんの本からご紹介。

 当時の大阪寄席演藝界は、両立する落語の桂派・三友派に対して、上本町富貴席の太夫元岡田政太郎の浪花反対派が、その勢力を競うというよりのばしつつあるといった状況にあった。
 吉本せいと吉兵衛夫妻の手になる第二文藝館は、この浪花反対派との提携で出発したのだが、このときの顔ぶれを、『大阪百年史』は、
<落語には桂輔六・桂金之助・桂花団治・立花家円好、色物に物真似の友浦庵三尺坊・女講談の青柳華嬢、音曲の久の家登美嬢、剣舞の有村謹吾、曲芸の春本助次(ママ)郎、琵琶の旭花月、怪力の明治金時、新内の鶴賀呂光・若呂光・富士松高蝶・小高、軽口の鶴屋団七・団鶴、義太夫の竹本巴麻吉・巴津昇、女道楽の桐家友吉・福助らであった>
 と記している。
 無論、開場興行にこれらの藝人全員が顔をそろえたというわけではなく、岡田政太郎の浪花反対派との提携によって、これだけの顔ぶれが用意されたという意味であろう。のちに、ひとつ毬の名人といわれ、むしろ東京で活躍した春本助治郎の名を見出したりするものの、一流とはいいかねる顔ぶれである。

 桂派と三友派については、ほぼ六年ほど前に初代春団治のことを書く中でふれた。
2011年10月6日のブログ

 桂派は、初代桂文枝の一門中心の一派。
 その初代桂文枝の弟子が二代目文枝襲名を競う中で、文三に敗れた文都(のちの月亭文都)が桂派を抜けて出来たのが、三友派である。

 以前の記事と重複するが、関山和夫著『落語名人伝』から、桂派を抜けた文都と三友派設立の件を紹介したい。
関山和夫著『落語名人伝』(白水Uブックス)
 二代目文枝襲名に敗れた月亭文都のファイトは、すさまじものであった。どうしても桂派に対抗して、一旗あげたかったのである。明治25年は、二代目文枝、月亭文都ともに49歳で、人生の峠を登りつめたころである。文都は明治25年4月に三代目笑福亭松鶴と手を握った。三代目松鶴は、二代目文枝の社中に入った恰好で、数年前から文枝の根城である金沢亭で真打ちをつとめていたのだが、文都と通じているということで文枝からにらまれていたようである。かくして松鶴は文枝と訣別した。さらに文都はこの年の10月になって二代目桂文団治とも手を握ることができた。桂文枝にとっては、次から次へといやらしい事件がおこったのである。続いて文都は笑福亭福松というすばらしい噺家を味方にする。
 「浪花三友派」という名が起こったのは、明治26年のことで、明治27年正月興行には大阪南地法善寺内の紅梅亭と松屋町神明社内の吉福亭などに「浪花三友派」の看板があがった。浪花三友派の三巨頭といわれるのは、月亭文都、笑福亭福松、二代目桂文団治の三人だが、三代目笑福亭松鶴、五代目笑福亭吾竹、桂文我も加入していた。
 初代文枝の偉大さ、そして、文枝という名跡の大きさをあらためて感じるねぇ。

 三友派ができて二十年近く後に、吉本せいと吉兵衛夫妻は第二文藝館を手に入れたことになる。
 さすがに、両派にも勢いが落ちてきたからこそ、浪花反対派という新勢力が対抗することになったのだろう。

 吉本せいと吉兵衛が、浪花反対派を頼らざるを得なかったのは、第二文藝館の“格”の低さも大きな理由だった。

 矢野さんの本に戻る。
 だいたい、第二文藝館なるものが、天満天神裏という当時の大阪きっての繁華街に位置しながら、寄席の格からいえば最下級の、いわゆる端席であった。いきおい木戸銭のほうも、そう高くはとれず、ふつうの寄席が十五銭の時代に、五銭で出発せざるを得なかった。「五銭ばなし」とよばれるこうした端席に、一流の落語家などはめったに顔を出さない。木戸銭は五銭でも、さらに一銭が下足代に消えるので、実質六銭で落語をきかせるわけである。客のほうは、六銭で落語がきけるとありがたがっても、落語家のほうには、「俺の落語が五銭か」という頭がある。それに、こうした端席ばかり歩いて「端席の藝人」としての評価が下されてしまうことを、腕のある藝人は喜ばなかった。

 第二文藝館は、とても、桂派や三友派の人気者を呼べるような寄席ではなかった、ということ。

 そういう状況において、反対派との提携は、吉本せいと吉兵衛夫婦にとって、飛躍の大きな要因となった。

 第二文藝館の家賃は百円だったというのだが、木戸銭五銭の端席のそれとしては決して安くはない。それでも一晩に七円、旗日といわれる祭日や、天神祭の当日などは三十五円のあがりがあったという。
 この小屋の収容人員が、どのくらいのものであったのか定かではないのだが、わずか五千の木戸銭で三十五円のあがりというのが、尋常な数字でないことはよくわかる。もちろん、当時の寄席にはこんにち見られるような指定席の制度はないし、いうところの入替なしの出入り自由といった畳敷のつめ込み方式で、定員をはるかに上まわる延人員が入場したことは想像に難くない。それにしても、三十五円という金額は、単純計算で五銭の木戸銭を支払った客七百人分のあがり高である。どうつめこんでも、七百人はいらない小屋に、七百人の客をつめこむ方策を生み出したのが、吉本せいの才覚で、後年これがいわゆる吉本商法の基本になったといわれるのだが、果たしてこれもせい個人の考え出した商法であるのか、疑問がないわけではない。この世界のからくりや裏表に精通していたのは、むしろ夫の吉兵衛であったはずで、吉兵衛による入れ知恵のようなものが、まったくなかったとは、ちょっと信じ難い気がするのである。

 本書で著者の矢野さんは、後年、吉本せい自らが、夫の吉兵衛が吉本興行の仕事はそっちのけで、せいが孤軍奮闘していたようなニュアンスで語っているが、実態は違うのではないか、吉兵衛の存在も大きかったのではないか、と度々疑問を呈している。

 吉兵衛については、また今後ふれることとして、「わろてんか」を見る上での三つ目のチェックポイント。

「わろてんか」のチェックポイント(3)
岡田政太郎の浪花反対派は、どう描かれるか


 吉本せいと吉兵衛夫妻にとって、端席の第二文藝館を運営していく上で大きな助けとなった反対派との提携。

 これを、ドラマでは、どう扱うのか。

 あるいは“大胆な再構成”の結果、扱わないのか。

 ドラマを見る上で、これは実に重要なポイントだと思う。

 もし、岡田政太郎を“モチーフ”にした人物が登場せず、よって反対派のような存在も登場しないとしたら、いくらフィクションだと言っても、「それはないよ^^」と、わろてやろうと思っている。

 このシリーズ、ドラマが始まる前に突っ走ってもしょうがないので、今回はここまで。

 始まってから、チェックポイントの最初の三つについて“復習”をし、次のチェックポイントも書くつもり。

 さて、「わろてんか」は、その大胆な再構成で、笑わせてくれるかな^^


[PR]
# by kogotokoubei | 2017-09-28 00:27 | 歴史ドラマや時代劇 | Comments(0)
e0337777_12133659.jpg

矢野誠一著『女興行師 吉本せい』(ちくま文庫)


 さて、このシリーズ(?)の第二弾。

 今回は、まず、吉本せいの生家について。

 著者の矢野誠一さんは、明石生まれという説もある吉本せいのことを調べるため、明石や大阪の役所に出向いている。
 調べてはみたものの、せいの生まれた土地や、生年月日については、結構、謎が多いのだった。

 吉本せいの父親林豊次郎が明石から大阪に出て、天神橋五丁目で米穀商を営んだことはよく知られていて、せいはこの大阪時代に生まれたのだというひともいる。ものごころついた頃のせいは、すでにこの天神橋に住んでいたといわれているので、林豊次郎が大阪に出たのは、明石から転籍した明治三十二年(1899)よりも早い時期であることは確かなようだ。明石市役所にあった戸籍に記されている、明治三十一年一月五日生まれの五女はなの死亡届が、明治三十一年一月十一日付で「大阪府大阪市北区西成川崎」から出ていることでもそれがわかる。
 吉本せいを明石生まれと伝えるのは、父親が明石出身で、せい自身も幼少の頃病を得た際に明石で療養したことがあるからにすぎないというむきもある。事実、一代で巨額の産を成した吉本せいは、いろいろなところに多額の寄附を好んでしたが、明石に関した施設や団体にそうしたことをした形跡がない。もし本当に明石生まれだとしたら、故郷に対して多少ともいい顔をしたがったはずだというのである。いずれにしても、明治二十二年(1889)十二月五日というせいの出生当時は、戸籍に出生地の記載がないから、正確なところはよくわからない。


 当時は、他人の戸籍を調べることができたのだ。
 今思うと、ぞっとするねぇ。
 矢野さんは調査を元に、吉本せいは、どうも父親が明石から大阪に出た後に生まれたのだろうと推察している。

 NHKの「わろてんか」のサイトを見ると、主人公は、京都の老舗薬種問屋「藤岡屋」の長女、という設定。
NHKサイトの「わろてんか」のページ
 明石はともかく、少なくとも、大阪にして欲しかった。

 まぁ、このあたりから小言を書いているときりがない^^

 次に、せいの家族構成について。

 せいの父、林豊次郎は文久元年(1861)十二月十日生まれ、母ちよは、元治元年(1864)三月十二日生まれとある。父二十七歳、母二十五歳のときの子になるせいは三女で、せいが生まれたとき、すでに明治十六年(1883)生まれの長男信之助、二十年(1887)生まれの次姉きくがいた。むかしのひとの例にもれず、豊次郎とちよの夫婦には子供が多かった。せいの生まれたあとも、千之助、正之助、勝、治雄という四人の弟と、ふみ、はな、ヨネ、富子のこれまた四人の妹ができている。死亡した長女をふくめ、十二人のきょうだいである。
 この十二人のきょうだいのなかで、明治三十二年(1899)年一月二十三日に生まれた三男の正之助と、明治四十年(1907)二月一日生まれの四男勝のふたりの弟が、後年のせいの仕事に大きな役割を果たすことになる。四男の勝は、昭和十四年に、その名を正式にそれまで通称として用いていた弘高と変更している。 
 米穀商としての林家は、決して富裕とはいえなかったが、世間的にかなりの信用を得ていた。その時分の大会社天満合同紡績などにも精米を納めていた。ただ、なにぶんにも十二人きょうだいとあって、幼い頃のせいは、弟や妹の子守りで明け暮れたのも当然であろう。勉強が好きで、またよく出来たから上の学校へ進みたい希望を持っていたのだが、当時の義務教育たる尋常科四年で、その先を断念しなければならなかった事情も、そのあたりにあった。

 十二人きょうだい。

 たしかに、昔は子どもが多かった。
 ちなみに、私の父は十一人、母は十三人きょうだい。

 「わろてんか」では、まさか、名前は替えるとしても、三男の正之助、四男の勝(その後の弘高)は登場すると思うのだが、他の兄弟、姉妹は、結構割愛される可能性がある。

 よって、二つ目のチェックポイント。

「わろてんか」のチェックポイント(2)
せいのきょうだいは、どう描かれるか


 このテーマは、弟、妹が多く子守りに明け暮れていたことが描かれるかどうか、ということも含むテーマ設定。

 すでに、生家の商売は実際の米穀商から薬種問屋に、その場所も大阪から京都に替えている。

 さて、どこまで、家族構成を脚色(?)くれるだろうか。

 どれほど変えてくれても、今回は、笑って見ているつもりだ。

 

[PR]
# by kogotokoubei | 2017-09-27 08:49 | 歴史ドラマや時代劇 | Comments(0)
 来週からNHKの朝のドラマは「わろてんか」になる。

 「ひよっこ」については、トランジスタ・ガールのことについて、一度だけ記事を書いた。
2017年5月6日のブログ

 後半は、どうも馴染めないままだった。
 
 主人公の父親の記憶喪失という設定に違和感があったし、登場人物に、ほとんど感情移入ができない。
 全体的に、軽い、のだ。

 やはり、モデルのいないドラマは、当たり前とはいえ、リアリティに欠ける。
 

 では、モデルがいる場合は、どうか。

 これまた、ドラマでの脚色が許容範囲を超えるように感じると、がっかりする。

 また、主人公のネガティブな面が割愛されることは、これまでも拙ブログで書いている通り。
 「花燃ゆ」のように、重要な人物の存在が無視されたこともある。
 ご興味のある方は、拙ブログの「歴史ドラマや時代劇」のカテゴリーをご覧のほどを。
「歴史ドラマや時代劇」のカテゴリー

 さて、来週から始まるNHKの連続ドラマ「わろてんか」は、どうなることやら。

 NHKの同番組のサイトを見ると、原作の名は見当たらず、脚本家の名だけがある。
NHKサイトの「わろてんか」のページ

 これは、昨今の流行(?)のようで、いわゆる「実在の人物を“モデル”とする、フィクション」であるということを言いたいのだろう。

 だから、モデルは存在するのに、事実と相違していると批判されても、「フィクションですから」と、逃げられると考えているのだろう。しかし、それって、誤魔化しだよね^^

 とはいえ、また、ドラマを見ながら「違う!」と小言を書くのも飽きてきたので(拙ブログの読者のほうが飽きたかな^^)、少し、考え方を変えようと思う。

 「実在の人物を“モデル”とする、フィクション」という設定なら、こっちも事実とのギャップに怒るより、「ほう、そう変えましたか^^」と、わろうてやろうじゃないか。
 お題が「わろてんか」だしね。

 そこで、ある本を元に、いくつかチェックポイントを提示したいと思う。

 偉そうに言えば、「わろてんか」の、一つの見方を示すことになればいいのだが、というシリーズ。


 さて、「わろてんか」のモデルは、吉本せい。

 なぜ、この時期に彼女を取り上げるのかは、どうもNHKの吉本への“忖度”があるような気がするのは、私だけだろうか。
 
 まぁ、それは置いといて(?)、吉本せいとは、どんな人なのか。

 吉本興業のコーポレートサイトに、「吉本興業ヒストリー」という沿革紹介がある。
吉本興業のコーポレートサイト

 創業年、明治45(大正元)年の内容は、次のようになっている。

4月1日 吉本吉兵衛(通称・泰三)・せい夫婦が、天満天神近くの寄席「第二文芸館」で、寄席経営の第一歩を踏み出す

 そう、明治の最後の年、7月30日から始まる大正の最初の年から、吉本吉兵衛とせい夫妻の寄席経営が始まったのである。
e0337777_12133659.jpg

矢野誠一著『女興行師 吉本せい』(ちくま文庫)

 ある本、とはこの本である。

 矢野誠一さんの『女興行師 吉本せい』は、1987年に中央公論社から刊行され、1992年に中公文庫、2005年にちくま文庫で再刊された。そして、朝ドラ放送に合わせてということだろう、9月10日付けで、ちくま文庫の新版が発行された。

 私は、ずいぶん前に中公文庫で最初に読んでいるが、あらためてこの新版で再読。

 NHKのドラマの脚本家は、この本を読んでいないはずはないのだが、さて、いったいどれだけの脚色を施すのやら。

 本書から、上述の第二文藝館に関わる部分を引用したい。

 この第二文藝館のあったという、天満天神の裏門付近を、初めて訪れたのはもう何年前のことになるか。
 京阪電車に、天満橋という駅があるから、そこでおりればすぐわかると判断したのが、東京者の大阪知らずで、ことはさほど簡単ではなかった。造営された天暦三年(949)の頃は天神の森なる鬱蒼とした地であったのだろうが、なにしろ当節のこと、高速道路は頭上を走り、小さなビルは乱立し、とても学問の神様の住む風情などない。それでも、そんな雑然たる街なみを、右に左にしているうちに、ほんとに忽然と眼前に権現づくりの本殿がとびこんでくるあたり、なんだか狐につままれたような気がしないでもないが、ここは正しく天満の天神様で、お稲荷さんではないのである。
 学問の神様には申し訳ないが、学業成就のお詣りはごく安直にすませて、かつて第二文藝館が位置したという裏側に出てみるとこれがなかなかいい。しっとりとしたたたずまいの、薬屋だの、寿司屋だのが目につくだけで、べつにこれといった特徴もない、ごくごくふつうの靜かな文字どおりの裏道なのだが、いかにもむかしさかえた門前町らしい雰囲気が残っていて、ほかにもいろいろな寄席が軒をならべた繁華街であった面影をわずかながら残してくれているのだ。
 この文章は、第一章の「第二文藝館」からの引用だが、矢野さんが天満を取材のため訪れたのは、当時持ち歩いていたとされる富士正晴著『桂春団治』に挟まれていたメモから、1974(昭和49)年頃と察することができる。

 引用を続ける。

 『百年の大阪2』(浪速社)という本に、この地の古老たちが復元してくれたという、明治三十年(1897)から四十年(1907)頃にかけての「新門通り界わい」なる地図が載っているのだが、それによると鰻屋やカレーライス屋、すき焼屋、寿司屋、梅鉢まんじゅうの店などにはさまれて、有名な浪花節の国光席のほか、第二文藝館、万歳の吉川館、芝居の天満座、色物の朝日席、杉の木亭、女義太夫の南歌久、講釈の八重山席などが軒をならべていた。第二文藝館は、浪花節の国光館と、すき焼の千成のあいだの小さな席であった。

 さて、ここで、チェックポイントが思い浮かぶ。

「わろてんか」のチェックポイント(1)
最初の寄席、第二文藝館界隈の様子はどう描かれるか


 吉本吉兵衛&せい夫妻の創業の地をドラマが描かないはずがないので、名前は替えるだろうが、この第二文藝館のあった天満界隈の様子がどう描かれるか、ドラマを見る上で需要なチェックポイントとなるように思う。

 脚本家が見逃しても、時代考証担当が、『百年の大阪2』を調べていないはずはあるまい。しかし、分からないのだよ、最近の時代考証は。考証じゃなく“哄笑”の場合が少なくない。

 せっかく、その昔に古老たちが遺してくれた明治末期の大阪の姿、ぜひ大事に扱って欲しい。

 どんな街並が描かれるのかなぁ。

 今回は、ご挨拶代わり(?)に、ここまで。

 次回は、吉本せいの生家について、矢野さんの本から紹介するつもり。


[PR]
# by kogotokoubei | 2017-09-25 21:45 | 歴史ドラマや時代劇 | Comments(0)

桂文字助のこと。

 桂文字助のことが、ニュースになっていた。

 スポニチから引用。

スポニチの該当記事
「笑点」初代・座布団運びを務めた落語家の現在…酒に溺れ、生活保護に

 国民的人気番組「笑点」の初代座布団運びを務めた桂文字助(もじのすけ、71)が22日放送の「爆報!THEフライデーSP」(金曜後7・00)に出演。笑点から降板した後に、落語界から“追放”された理由を告白した。

 46年生まれの文字助は18歳で落語の道へと進み、20歳のときに師匠・立川談志さんと運命的な出会いを果たす。気配り屋の文字助はある日、打ち合わせ中の師匠のもとへお茶を運ぶと「こいつを座布団運びにどうだい?」と談志さんの声が。このときの打ち合わせが、笑点の番組構成会議だった。異例の抜てきに喜び、芸に精進する文字助だったが1年半後、師匠に突然呼ばれて「毒蝮三太夫にやってもらうことになったから」と降板の宣告を受けることに。

 降板に納得がいかない文字助は酒に逃げ、借金は気づけば数百万円に。愛想を尽かした妻も出ていき、どん底の日々を過ごすようになる。酒量は増えて感情のコントロールができなくなる“異常酩酊”になり、些細な事でケンカをしては警察に連行された。悪評は広がり営業の数は激減。ついには談志さんにも喧嘩を売ってしまう。落語界で師匠に逆らうことはご法度。居場所がなくなり、落語から離れていった。

 現在の生活について尋ねると、自宅に番組スタッフを招待。家賃5万6千円というが「俺は払っていない。生活保護を受けているんだよ」と明かした。月に12、13万円の支給で、家賃や光熱費が引かれて手元に残る6万円で生活。5年前から近所の公園で毎朝掃除をし、近隣の人々から食料品や生活品をもらっているという。

 だが、酒量は今も減らず1日1升。飲酒中には“異常酩酊”になり、撮影する番組スタッフに突っかかることも。すると、文字助の話を聞いた2代目座布団運びの毒蝮が、番組にサプライズ出演。後輩にあたる文字助と久々の対面を果たした。思い出話に盛り上がるも、酒を飲もうとする文字助を見た毒蝮は「生活保護受けてんだろ!」「文句がくるぞ。生活保護を受けてるのになんで酒を飲んでいるんだと」と説教。“兄弟子”の言葉が効いたのか、文字助は神妙な表情を見せた。

 その後、毒蝮との再会に刺激を受けたのか、5年ぶりに高座へ。長年、談志さんに鍛えられた落語は錆びついておらず、客の笑いを誘って場を盛り上げていた。
[ 2017年9月22日 21:26 ]

 残念ながら、このテレビ放送は見逃した。

 しかし、文字助の日常は、立川談四楼のツィッターで適宜(?)報告されており、よく目にする。
 公園の清掃のことや、近所の人々との交流なども書かれていて、談四楼のツイッターの重要な登場人物^^

 結構、近所では人気者になっているようだ。家財道具は、ほとんど拾った物か、もらい物。
 たまに電話に出ないので談四楼が心配し、共通の友人が様子を見に行く、なども少なくない。

 「だんしろう商店」から「談四楼の日々のつぶやき」にリンクされている。
立川談四楼オフィシャルサイト「だんしろう商店」

 あら、ツイッター見たら、しっかりこのテレビのこと案内されていたなぁ。
 読み忘れていて録画もしていない。まぁ、しょうがない。

 談四楼の著作にも、たまに文字助は登場するが、正直なところ、あまり良いことは書かれたいない。とにかく、酒が好きで、飲むと喧嘩を売るのである。
 
 『古今東西落語家事典』から引用。
【桂文字助】
 松田治彦。昭和21年2月13日生まれ。昭和39年4月六代目三升家小勝に入門して勝松。43年5月同名で二ツ目。46年の師匠没後、立川談志門に移り談平と改名。55年9月四代目桂文字助を襲名して真打。

 私が持っているのは平成元(1989)年4月7日発行の初版第一刷。

 もちろん、生活保護を受けている現在の生活は、この事典には書かれていない。

 
 今の文字助が幸せなのかどうか・・・・・・。
 大好きな菊正宗で一杯やっている時は、間違いなく、幸せなのなのだろう。

 文字助が相撲噺の名手なので、談志が相撲噺を演らなくなった、と言われる。

 残念ながら、生の高座に出会っていない。

 談四楼の4月の独演会に助演したようだ。
 また出演の予定があれば、なんとか駆けつけたいものだ。
 
 今では、ほとんど見当たらない、貴重な(?)無頼派芸人の姿、それが文字助と言える。

 テレビに出たことで、生活保護が停止されるようなことがないことを祈る。
 保護の必要のない人を選ぶより、彼こそ、無形文化財の候補ではないか、などど思っている。

[PR]
# by kogotokoubei | 2017-09-23 10:43 | 落語家 | Comments(6)
 いよいよ、明日21日の新宿末広亭下席から、桂小南治の三代目桂小南襲名披露興行が始まる。
 小南治の父である二代目林家正楽の師匠、初代正楽のことを書いた記事でも紹介したが、この披露目には、協会の枠を超えて実弟の二楽も出演する。
2017年8月21日のブログ
 末広亭のサイトより、披露目の出演者をご紹介。
新宿末広亭のサイト
-新宿末広亭9月下席・夜の部-(末広亭のサイトより)
落語交互
 桂 鷹治
 山遊亭 くま八
漫談 新山 真理
落語 三笑亭 夢丸
落語 三笑亭 可龍
奇術 北見 伸・スティファニー
落語 三遊亭 遊之介
落語 桂 歌春
俗曲 桧山 うめ吉
落語 桂 南なん
落語 三遊亭 小遊三
-お仲入り-
襲名披露口上
落語 雷門 小助六
曲芸 ボンボンブラザース
落語 三遊亭 遊吉
落語 山遊亭 金太郎
交互出演
 物まね 江戸家 まねき猫
 紙切り 林家 二楽
主任 小南治改メ 桂 小南

 末広亭の後は、次のような日程。

 浅草演芸ホール 10月上席(昼の部)
 池袋演芸場 10月中席(夜の部)
 お江戸日本橋亭 10月25日(水)
 横浜にぎわい座 10月30日(月)
 上野広小路亭 11月5日(日)
 国立演芸場  11月中席

 せっかくなので(?)、ポスターの日程の画像も掲載。

e0337777_16591570.jpg



 落語芸術協会のメールマガジンに掲載中だった「小南への道」は、下席の案内をもって最終回だった。

 これが、なかなかいいのだ。

 全文引用したい。芸協さんも、怒らないだろう^^

【小南への道】 ~桂 小南治~
---------------------------------------------------------------------------

私は本当に良い方々に恵まれました。

師匠の小南、、、。
カバン持ちで寝過ごしたり、また時間に遅れた事もありました。よくクビにせず側に置いてくれたと
思っています。入門当時、落語の難しさにしおれていた私を勇気付けてくれました。二つ目昇進の
際、私の気持ちを見抜いて噺家にと勧めてくれました。
本当に良い師匠に恵まれました。

そして、おカミさんです。

「自分を信じ勇気を持って踏み出しなさい。」

小南襲名を勧めてくれました。
師匠をしくじっても、おカミさんの助け舟に随分と救われました。
本当に良いおカミさんに恵まれました。

最後に、南なん兄さんと金太郎兄さんです。
楽屋のしきたりを教えて貰い、小南一門の色に染めてくれました。
「小南治が継ぐと言うなら異論はないよ。全面的に協力するよ。」
本当に良い兄弟子に恵まれました。

私の真打ち昇進の時、大喜びだった親父の正楽、、、。
きっと今回も手放しで喜んでいる事でしょう。

「今度から兄ちゃんが楽屋で「小南師匠!」って呼ばれるんだぁ~。時代が変わったねぇ~。」

やはり憎まれ口をききながら、、、。

そして、正楽とは対称的に
「これがゴールじゃ無いよ、、、、これからだよ、これからが肝心じゃ。」
「ワシらは死ぬまで勉強じゃよ。」

おそらく、師匠の小南はこう言うと思います。
何時ものメガネ越しに見るあの上目使いで。

小南への道、長い間の御付き合い、誠にありがとうございます。
そして、これからも三代目桂小南を宜しくお願い致します!
---------------------------------------------------------------------------

 ねぇ、泣けるでしょう!

 芸協のメールマガジンは、寄席や落語会、そして、こういった連載もあって、実に有益。
 芸協ホームページのメルマガ募集ページから登録できる。ただし、PCアドレス専用。
落語芸術協会ホームページのメルマガ募集ページ

 ホームページの改悪を機に(?)にメルマガを止めてしまった、もう一つの協会とは大違いなのである。

 二代目桂小南には、上方ネタを含め多くの十八番があった。

 だから、『鋳掛屋』や『ぜんざい公社』などとともに、『帯久』、『菊江の仏壇』、『三十石』、『七度狐』、『胴乱の幸助』、『土橋萬歳』、『菜刀息子』なども、三代目ならではの味わいで聴かせてもらいたい。

 三代目小南の披露目、なんとか駆けつけるつもりだ。

[PR]
# by kogotokoubei | 2017-09-20 18:54 | 襲名 | Comments(4)

江戸庶民と、ご飯。

 明日は、旧暦の八月一日、八朔。

 六年前の新暦の8月1日に、八朔については記事を書いた。
2011年8月1日のブログ

 江戸では、家康が江戸城入りした日という記念日。
 吉原では紋日であることなども紹介したので、興味のある方はご覧のほどを。

 この時期に早稲の穂が実るので、農民の間で初穂を贈る風習があったので、“田の実の節句”ともいう。
 「たのみ」を「頼み」にかけて、武家や公家の間でも、日頃お世話になっている人に、感謝の意味で贈り物をするようになった、と言われる。

 私は“田の実”からご飯を連想してしまうのだが、それは前回の記事で、江戸時代には一日ご飯を五合食べていた、ということを紹介したからかな。

 もうじき、今年の新米も出回るだろう。

 そこで、ご飯シリーズ。

e0337777_16393806.jpg

永山久夫著『大江戸食べもの歳時記』(新潮文庫)

 まず、最初はこの本から。

 食文化の研究者で、江戸時代の食事などに関し多数の著書がある永山久夫さんの『大江戸食べもの歳時記』からは、以前に蕎麦のことで引用したことがある。
2015年12月11日のブログ

  今回は、ご飯のことで、前回の記事の裏付け(?)的に、江戸時代にどれだけご飯を食べていたかについて引用。

現代人の二倍の米を食べていた 
 
 日本人は、昔から一人当り一年間に一石(150キロ)の米を食べてきた。江戸初期のの日本人の人口は3000万人で、米は3000万石生産されていた。
 明治になって、人口が5000万人になったとき、米は5000万石とれていた。大正末期に6000万人となったが、米の生産量は6000万石に達していた。米の生産量が、人口を増やしていたのである。
 一年に一石というと、一日には約410グラムになる。現在の日本人が食べている量は200グラム弱だから、江戸時代の人たちの半分以下。
 日本人が現在と同じように、一日に三回食事をするようになったのは、江戸時代の初期で、大人で一日ざっと五合(750グラム)の米を食べていた。
 三回になる前の時代は、ずっと朝と夕の二回食であり、一食分が二合五勺(約375グラム)。江戸時代には二合五勺の升があったが、二食時代の名残りである。

 ほらね、こっちの本でも、一日五合、でした。

e0337777_14322743.jpg

永山久夫著『江戸めしのスゝメ』(メディアファクトリー新書)


 こちらも永山久夫さんの本、『江戸めしのスゝメ』。
 一日二食から三食に替わったのはいつの頃か、ということについて。

 『おあむ物語』という江戸時代の書物には、それまで永らく一日二食だった人々が三度の習慣を新鮮に受け止めていた様子がわかる、興味深い記述がある。この本は石田三成の家臣として大垣城に仕えていた武士の娘が晩年、子どもたちに語った話を記録したもので、彼女は慶長五(1600)年の関ケ原の戦の後、父に従って土佐に趣き、寛文(1661~73)の頃に80歳前後で亡くなったとされている。
「私の父は知行300石をとっていたが、その頃は戦が多くて何事も不自由だった。朝夕には雑炊を食べていた。(中略)13歳のときに持っていた着物は手作りの帷子(ひとえの着物)が一着だけ。それを十七歳まで着ていたので、すねが出てしまい困り果てた。このように昔は物事が不自由だった。昼めしを食べるなんて夢にも思わなかったし、夜食もなかった。最近の若い者は服が好きだし、お金を使う。いろいろと食べ物の好みもある」 江戸後期の国学者、喜多村信節(のぶよ)はまた、庶民社会の風俗を記した『瓦礫雑考』のなかで「古くより朝餉夕餉といって、昼餉ということは聞かず、中食(昼食)は後世のことなるべし」と記している。
 もっとも、一日二食の習慣が長かったのは上流階級や武士だけで、農民や職人など労役者は古くから間食を自由にとっていた。江戸の庶民たちのあいだにも比較的、早い時期から三食の習慣が定着していたと考えられる。

 引用されている「おあむ物語」について、少し調べてみた。
 国立公文書館のサイトに、創立40周年記念貴重資料展「歴史と物語」のページがあり、その中で「おあむ物語」が紹介されていた。国立公文書館ができたのが昭和46(1971)年7月だから、六年前のイベントだ。
「国立公文書館」サイトの該当ページ

 引用する。

36.おあむ物語
おあんものがたり

戦国時代といえども、さすがに女性がいくさの前面に出て戦うということはめったにありません。しかし、血を見るのも怖い、と恐れるようなことは言っていられませんでした。
ここで取り上げた資料は、青春時代を戦国の混乱の中で過ごした女性の思い出話。主人公の「おあむ」は、石田三成の家臣の娘で、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いのおり、石田方の美濃大垣城に入ります。そこで待ちかまえていたのは、味方の獲ってきた敵方武将の首の処理。

みかたへ、とった首を、天守へあつめられて、札をつけて覚えおき、さいさい、くびにおはぐろを付ておじゃる・・・くびもこはいものではあらない。その首どもの血くさき中に、寝たことでおじゃった。

戦後の恩賞のため、少しでも綺麗に見栄え良く化粧することが求められました。しかし、凄まじいのはこれから。「おあむ」は、目の前で実弟が射殺され、冷たくなっていくのを目の当たりにします。また、闇に紛れて城から逃げる際には、身重の母親が急に産気づき、田んぼの水を産湯代わりに妹を出産。すぐに父親が母親を肩にかけて落ち延びていきます。

「おあむ」の語りの言葉に、凄まじいまでの戦国の世の実像が感じとれます。

展示資料は、享保初年(1716)頃までに成立か。天保8年(1837)刊。全1冊。
 戦国の世の実態を物語る、なかなか貴重な記録であることが分かる。

 その貴重な記録、永山さんだから、食に関する部分に焦点を当てるのであって、磯田道史なら、この本をどう紹介してくれるかなぁ、などと思う。

 つい最近、CSで『殿、利息でござる』を観た。
 磯田道史の『無私の日本人』所収の「穀田屋十三郎」が原本。
 タイトルから、内容がお茶らけになっているのを危惧したが、そうではなかった。とはいえ、もう少しシリアスな描き方があったように思うが、それでは観客がついてこないのかもしれないなぁ。難しいところだ。

 『無私の日本人』には、他にも、「こんな人がいたのか!」と驚く日本人が紹介されていて、そのうち記事にしたいと思っている。
 磯田の本は結構読んでいる。読むうちに、彼のように古文書が読めるってぇのが、羨ましく思える。

 さて、永山さんの本にあった『瓦礫雑考』の著者である喜多村信節は、江戸後期の風俗百科事典と言える『嬉遊笑覧』の著者でもあり、喜多村筠庭(きたむら いんてい)という名の方が有名だろう。

 庶民が武士や公家などよりいち早く一日三食になっていたとはいえ、白米を食べるようになったのは、それほど早い時期ではない。

 永山さんの本から、引用。

 食卓への白米の定着を促した要因として真っ先に特筆すべきは、農業機具の発達だろう。たとえば水車が広まったことで玄米を搗くのが容易になり、大量の玄米が精白できるようになった。またこの時期、財政難に悩み始めた徳川幕府が新田開発などで米の増産を後押しする政策に力を入れたことの影響も大きい。
 白米の生産量が伸びた結果、供給量に余剰が生まれ、米の値段が下がっていった。これにより、いままで高価で手が出なかった町人たちでも白米を購入できるようになったのである。しばらくすると「米搗き屋」という精米所が江戸や大坂の都市部に広まり、やがて各地に普及していった。

 「搗き米屋」は、落語の『幾代餅』や『搗屋幸兵衛』に登場するから、落語愛好家にとっては馴染み深いね。
 
 では、いつ頃から白米が庶民の間に普及したのか。

 元禄の少し前の時代まで、白米を日常的に食べることができたのは将軍及び一部の特権階級だけであったが、1800年代に入る頃までに、江戸では下級階層まで日に三度の白米食が当たり前となった。「将軍さまと同じものを食べるんだ」という江戸っ子のプライド、あるいは意地のようなものが、白米の流行と浸透を助長した可能性は小さくない。

 なるほど。たしかに、「将軍さまと同じものを食べる」という意識は、江戸っ子にとっては、実に気持ちのいい感覚だったのだろう。
 そして、できるものなら将軍さまよりも美味く食べてやろう、という思いもあるから、白米を食べる方法にしても、江戸っ子は知恵を働かせるのだ。

 白米に熱中する庶民の様子は、米の炊き方一つとってみてもよくわかる。
 米は前の晩のうちにとぎ、朝まで水に浸けておいた。こうすることで芯まで熱が通り、ふっくらと炊けることを知っていたからだ。栄養学的にいえば、水に浸けておくことによって、能の血行をよくするギャバという成分が増える。
 江戸時代後期の国語辞典『俚言集覧』(太田全斎・著)には、こんな一文がある。
「ドウドウ火ニ チョロチョロ火 三尺サガッテ 猿ネムリ 親が死ストモ 蓋トルナ」
 まるで呪文のようだが、当時の米の炊き方をい教える遊び唄である。
 羽釜(はがま)に入れた米を最初は強火で炊く。それから弱火に変えて、猿が火の前で居眠りするくらいの、ほんのり温かい余熱で蒸らしていく。炊飯中は何が起きようとも絶対に蓋を取ってはいけない。
 沸騰中に米から出るオリゴ糖は水分中に流れ出る性質をもっており、このオリゴ糖が少ないと甘みのないまずい米になってしまう。外に出たオリゴ糖をもう一度米に吸収させるには充分に蒸らす必要がある。江戸の庶民が実践していたのは、とても的を射た炊飯方法だったわけだ。

 ギャバですよ、ギャバ!

 遊び唄は、その後、落語『権助芝居(一分茶番)』で飯炊きの権助が言う、次の歌詞(?)に変わっていったのだろう。

 169.pngはじめちょろちょろ中ぱっぱ ぶつぶついう頃火を引いて ひと握りのわら燃やし 赤子泣いても蓋とるな

 あらためて、思う。

 日本人は、ご飯だよなぁ。

[PR]
# by kogotokoubei | 2017-09-19 18:54 | 江戸関連 | Comments(0)
 食欲の秋、である。
 
 先日の同期会加賀の旅、山中温泉で夕食後の幹事部屋での仲間との会話で、私が春の合宿の朝食で、どんぶり飯を七杯食べたことも、ちょっとしたネタになった。

 そうそう。
 三杯目からは、仲間が食べない漬物などのおかずを集めて食べたものだ。

 それでも、午前中の練習後に、しっかり昼飯を食べることができたからねぇ。
 
 まぁ、四十年以上前のお話。

 今はどうか。
 日頃、私は一日の食事の中で、昼食でもっとも多い量のご飯を食べる。
 平日の外食の場合、おかわりをしたり、大盛りを食べる時も多い。

 最近、外食の際に気になるのが、若い男たちが少食であること。
 「ご飯少な目」なんて注文する人が、なんと多いことか。

 そんな思いがあるので、江戸や落語関連の本から江戸時代の食生活のことを知ると、あまりにも現代と違うことに驚くのだ。

e0337777_11120725.jpg

中込重明著「落語で読み解く『お江戸』の事情」

 まず、何度も引用しているこの本から。
 中込重明さんが若くして旅立ったことは、惜しんで余りある。

 『目黒のさんま』の章を読んでいて、あらためて江戸時代の食生活について再確認した。
 引用したい。

 『目黒のさんま』では、殿様ははじめてさんまを食したことになっている。寛永、宝暦から文化年間(1804~1817)頃までの、世情、売り物などに関する随筆『続飛鳥川』にも、さんまは下の魚だから、下々の者しか食べなかった、寛政の頃から追々食用になったと記されている。
 当時の庶民の食卓には、他にどんなものが上っていたのだろうか。『目黒のさんま』は江戸郊外の農家が舞台になっているが、江戸の長屋住まいの人々を基本に考えてみたい。『守貞謾稿(もりさだまんこう)』によると、庶民の食事は一般に以下の通りということになる。朝、飯を炊き、味噌汁を合わせる。昼と夜は冷や飯。ただし昼食は野菜か魚のおかずを一品添える。夕飯はお茶漬けと漬物を食べる。
 また、『文政年間漫録』に記されている大工の一家の場合、夫婦に子供一人で、年間に米を三石五斗四升食したとある。これを手がかりに算出してみると、江戸では大人一人あたり一日に四合近くの米を食べていたことになる。出職の職人や棒手振などが持っていく手弁当も、握り飯にたくわんか梅干というのが定番だった。
 以上の情報をもとに推測すると、江戸の人々は現代に比べると米中心の食事であったと考えられる。

 もう一冊。


e0337777_09372461.jpg

『杉浦日向子の江戸塾』

 七年余り前の記事と重複するが、『杉浦日向子の江戸塾』(PHP文庫)からも、江戸時代の食生活についてご紹介。
2010年7月22日のブログ
 日本橋生まれの杉浦さんと、深川育ちの宮部みゆきとの対談から。

宮部 江戸時代は初期から一日三食だったんですか。
杉浦 中期以降ですね。初期は二食です。
宮部 小説のなかで食事の回数を書くとき、いつも迷うんですよね。
杉浦 その家の風習にもよるんです。江戸の中期以降でも、二食で通して
   いた家もありました。
宮部 決まった時間に食べてはいなかったんですか。
杉浦 腹が減った時が食べる時。日に六度飯の人もいれば、一日一回、
   ドカ食いする人もいる。商家のように大人数を抱えているところ
   では、食べる時間が決まっていましたけどね。
宮部 朝昼晩で、どの食事が一番豪勢だったんでしょう。
杉浦 それはお昼。昼には焼き魚がつきましたから。ご飯は冷や飯
   だけどね。午前中でほぼ仕事が終わってしまう河岸の衆などは、
   酒も付けてまるまる一刻(二時間)かけて食べるんですよ。
宮部 ラテン系の人たちみたい。
杉浦 そう。それで夜はお茶漬けでさらさらっと。
宮部 たりない分は夜食で補う。
杉浦 そうなんです。
宮部 当時の人はたちは、お米をたくさん食べていたんですよね。
杉浦 一日五合が基準。二食のときは一食で二合半です。だからどこの
   家庭にも、二合半の升が必ずあった。一人前の分量ということで。
   それで、一人前じゃない人に対して「この一合野郎」という罵り
   言葉があったほどです。半人前以下ってことですね。
宮部 一合野郎か、今度使ってみよう。

 中込さんの本はある史料から一日約四合と記されていたが、杉浦さんは、一日五合と説明。

 二合半の升、という裏付けからも、一日五合に説得力があるなぁ。

 あっしも一日五合は、食べない。
 八っつぁんや熊さんから、「この一合野郎」と罵倒されるだろう^^
 
 こういう話を知って、すぐこう反応する人は少なくないだろう。
「だから、寿命が短かったんだ」。

 大きな誤解だ。江戸時代の統計として寿命が短かった大きな理由は、乳幼児死亡率が高かったからで、長生きした人はいくらでもいる。

 葛飾北斎などは九十まで生きた。

  炭水化物->血糖値上昇->糖尿病

 というイメージが、あまりにも沁みついていることもあるのだろうが、現代の日本人は、あまりにも米を食べなくなった。

 ご飯をよく噛むことで、栄養にもなり、満腹感も得られる。

 あのタニタの食堂だって、白米や玄米は重要な主食。

 二十代の二割の人が、一ヶ月に一度もご飯を食べていない、という統計もある。
 
 代わりに、お菓子にコーラ、サプリメント・・・・・・。

 日本の将来を考えると、この若者の食生活の問題、結構大きな危険性を孕んでいると思うなぁ。
 米をもっと食べないとねぇ。

 さぁ、これからご飯、米を食べよう!

[PR]
# by kogotokoubei | 2017-09-16 11:30 | 江戸関連 | Comments(2)
 私のブログは、時に“芋づる式”になる。

 加賀への旅から、加賀藩のことになり、今回は、落語のネタ『加賀の千代』。

 前田家、なかでも利常のことを中心に前回のシリーズで書いたが、彼の母親は、朝鮮出兵の前線基地となった肥前名護屋に、利家の洗濯女として出向いた下女の“ちよ”だった。
 そう、利常の母も、“加賀のちよ”ということ^^

 ということで、『加賀の千代』というネタについて。

 三代目桂三木助の十八番だった。
 逸話がある。浪曲師の二代目広沢菊春の得意ネタ「左甚五郎」を、三代目桂三木助が自分の十八番「加賀の千代」と交換した、とのこと。

e0337777_11111650.jpg

『落語の鑑賞201』延広真治編(新書館)

 『落語の鑑賞201』から、ご紹介。

【梗概】
 大晦日を間近にして、どうにも年が越せないで困っている夫婦。女房に加賀の千代の「朝顔に釣瓶とられてもらい水」の句を聞かされ、お前は旦那に、この朝顔のように可愛がられているから何とかなると言い含められて、金の借り方を女房から教わり旦那のところへ行き、まんまと成功。つい男が「やっぱり朝顔だ」とつぶやくと、旦那に訳を訊かれ、朝顔の句を説明する。旦那が、「ああ、加賀の千代の句か」と言うと、「かかの知恵だ」。

 内容は、『鮑のし』に似ているねぇ。

 少し頼りない夫と、しっかり者の女房の組合せは、落語の定番。

 千代のことや、この噺のことは次のように紹介されている。

 千代(元禄十六・1703~安永四・1775)は、江戸中期の俳人で、加賀国松任の人。「起きてみつ寝てみつ蚊帳の広さかな」も千代の句として伝えられるが、実はこれは別人のものである。
 東京では、三代目桂三木助や七代目橘家円蔵が演じた。
 他にも同題の落語があるが、これは亭主が二階の女中部屋に忍んでいくので、焼き餅を焼き、二階に上がるはしごをはずしてしまう女房の噺。

 亭主が二階に忍んでいく、という型は、聴いたことがないなぁ。
 
 当代の噺家さんでは、何と言っても柳家三三の十八番と言えるだろう。
 寄席のみならず、落語会でも聴いている。
 春風亭一之輔も、寄席のネタの一つとしてしている。彼の高座も、なかなか楽しい。

 たびたびお世話になる「落語の舞台を歩く」のサイトでも三代目三木助版を元に解説がある。
「落語の舞台を歩く」サイトの該当ページ
 こちらのサイトからも、千代のことを引用したい。

経師表具師福増屋六兵衛の娘。母は村井屋の娘つる。幼名はつ。号は素園、草風。12歳ごろ同国本吉の北潟屋に奉公に出、主人岸弥左衛門(俳号は半睡、のち大睡)に俳諧を学ぶ。17歳の享保四年(1719)北陸地方巡遊中の芭蕉十傑の一人、各務支考(かがみしこう)に教えをうけ、秀句を詠んで人々を驚かせたという。
 18歳で金沢藩足軽福岡弥八と結婚、一児をもうけ早く夫と子に死別したというが確証はなく、未婚説もある。
 23・4歳のころ京に上り、さらに伊勢に麦林舎乙由(ばくりんしゃ_おつゆう。中川乙由)を訪ね師事する。25歳で実家に戻ったという。とかく伝説が多く、確証のあるのは少いが、美女であった。
 伝説が多く、美女。
 これが、後世に残るための重要な要素。
 
 前田利常の母、ちよが美人だったのかどうか・・・・・・。
 磯田道史著『殿様の通信簿』には、ちよ本人は、とりたてて器量よしではなかったらしいが、その母について、『天下一の美人にてまします』という記録(『三壺記』)が残っていると書かれている。
 
 美人の千代が教えをうけた各務支考といえば、二年余り前の柳家小満んの会、『江戸の夢』で、「宇治に似て 山なつかしき 新茶かな」という各務支考の句をはさんでいたなぁ。
2015年5月19日のブログ

 千代女は生涯に千七百句を残したと言われるが、「落語の舞台を歩く」には、代表的な句も紹介されている。朝顔の句のみ引用。

 「朝顔に つるべ取られて もらい水」(35歳の時に、朝顔や~ と詠み直される)
 「あさ顔や蝶のあゆみも夢うつゝ」
 「朝顔や宵から見ゆる花のかず」
 「あさがほや帯して寝ても起はづれ」
 「朝がほや宵に残りし針仕事」
   
 朝顔が、よほど千代の創作意欲を刺激した、ということか。

 ということで、拙ブログも、朝顔のデザインに替えた、というわけ^^
[PR]
# by kogotokoubei | 2017-09-15 12:45 | 落語のネタ | Comments(0)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛