噺の話

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 前回の記事では、小島貞二さんの『こんな落語家(はなしか)がいた』(うなぎ書房)から、初代林家正楽の日記について紹介した。

 その中で、小島さんは次のように書いていた。

 紙切りの初代林家正楽(一柳金次郎)は几帳面な人で、大正六年以来、ズーッと欠かさず日記をつけていた。
 その正楽は浅草永住町で空襲をもろに浴び、命からがら逃げたのはいいが、命から二番目の日記をそっくり焼いてしまった。
 がっかりして日記をやめたというのが常道だが、失望より勇気が上回り、焼けたその日からまた日記をつけ始めた。
 私は前に、『落語百年』(全三巻 昭和41年3月 毎日新聞社刊)をまとめたとき、その日記を借用して、演芸に関するところだけをピックアップさせていただくことにして、「昭和の巻」に紹介した。

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 私は『落語三百年ー昭和の巻ー』の昭和54年発行改訂新版を持っている。
 最初の章「戦争と落語」の中でこの日記は紹介されており、『こんな落語家(はなしか)がいた』には掲載されていない内容や、引用した部分の補足説明に相当する部分があるので、この本からも初代林家正楽の日記を紹介したい。

 前回紹介した日記と重複するが、三月十日付けの内容に小島さんの補足説明があるので、まずご紹介。

「三月十日。浅草、下谷、本所、深川被害甚大にて死者多し。貞山、岩てこ、李彩、扇遊、左喬、丸勝、武蔵太夫ら惨死す」
 六代目一竜斎貞山は、講談組合の頭取で落語協会の会長であった。馬道に住み、言問橋まで逃げて煙にまかれて死んだ。六十八歳。死体は浅草の親分が見つけた。
 太神楽の寿家岩てこは五十歳、中国奇術の吉慶堂李彩は六十八歳、パンとマイクの立花家扇遊は六十歳。左喬は落語家、丸勝は太神楽、武蔵太夫は新内語り。みんな浅草界隈にいて、運命の火の粉をあびたのだ。
 三遊亭円馬は、扇遊と馬生(大阪から来た馬生)と菊屋橋にあった昭南荘というアパートで、となり合わせに住んでいた。そこへ三月九日夜んぽ大空襲となり、扇遊夫婦がまっ先に逃げた。逃げ遅れた円馬は、アパートの住人であるご婦人をリードして、比較的火の色がうすい上野方面に走り、小学校へ避難して助かった。別に逃げた馬生も無事だったが、扇遊だけは隅田川方面を選んだらしく、そのまま夫婦もろとも帰らぬ人となった。

  大阪から来た馬生は、五代目馬生門下で昭和19年に九代目となった人。
 
 立花家扇遊は、奈良のお寺の息子で、唐招提寺で修業をし実家の僧侶となった後に、芸人に転じた人。尺八、へちまおどり、そしてパントマイムのような「蝿取り」なる珍芸で人気を取ったと言われる。
 現在の入船亭扇遊より前の時代、扇遊と言えばこの人のこと。
 円馬は四代目。
 浅草から上野方面に逃げたか、隅田川の方角を目指したかで生死の違い。
 犠牲になった人、逃げ延びた人、まったく紙一重の違いということか。

 すでに紹介した、協会の違う志ん橋(後の三代目三遊亭小円朝)主任の新宿末広の寄席に正楽は四月二十四日に出演しているが、その後、五月の日記。

「五月六日。午前十時より上野鈴本焼けあとへ連中集まり、鈴本主人より罹災連中に見舞金(三十円ずつ)下さる。文楽氏宅へ寄り、人形町末広、新宿末広つとめ六時半帰宅」
 上野鈴本の大旦那(鈴木孝一郎氏、故人)は、自分のとこも焼けながら、なお焼けた芸人に見舞い金を出している。一同の感激も大きかったろう。
 このあと、鈴本経営の映画館(現在の上野鈴本と電車道をへだてた向かい側)の焼け跡に、応急のバラック・・・・・・バラックというより、柱を立てて周囲と天井を葦簀張りにしただけの小屋をつくり、そこで興行したが、寄席壊滅状態のときだけに客は来た。

 鈴本の大旦那から見舞金をもらった“連中”には、落語協会派の人も芸術協会派の人もいたに違いない。
 この大旦那鈴木孝一郎は三代目の席亭で、明治13(1880)年生まれ、昭和36(1961)年没。
 鈴本のサイトで、「寄席主人覚え書」という大旦那の貴重な記録を読むことができる。昭和32(1957)年9月3日から東京新聞 に掲載していた記事で、当時の寄席、落語家、そして落語家と客との関係などが書かれていて、読んでいて飽きない。
鈴本サイトの該当ページ
 ちなみに現席亭は六代目。
 大旦那のようにはなれなくても、そろそろ、芸協とは関係を修復できないものだろうか。
 以前書いたように、芸協と鈴本との別離から、すでに三十年以上が経過している。
2014年3月5日のブログ


 初代正楽の日記の引用を続けよう。

 五月二十五日の空襲で、北沢の正楽家付近も火の海となるが、奇跡的に焼けのこり、電灯もラジオもつかない不安な数日をすごす。
「六月一日。午前十一時より小田急にて新宿へ。駅焼けている。新宿末広焼失。今まで焼け残りたるところ皆焼失。円生、山陽、小文治、柳橋みな立ちのきて逢わず。野村無名庵氏焼死の由」
 野村無名庵氏は本名野村元基。落語研究家として「落語通談」ほか著書も多い。このとき講談落語協会の顧問。芸界にとってはかけがえのない人材であった。
 無名庵氏は武島町(文京区)に住み、付近に爆弾の雨ふりそそぐ中で、警防団の団長として阿修羅の働きをした。自宅にも火が入ったので、ご真影(天皇の写真)を持ち出すべく突入、出て来たところへ焼夷弾の直撃を頭にうけて散ったという。五十七歳。明治の日本人としてはふさわしいかもしれないが、落語を愛した市井人としてはあまりにもむごい。

 野村無名庵が空襲で亡くなったのは、小島さんのご指摘の通り、あまりにも残念だ。

 『落語通談』については、落語のネタのことでの引用を含め、何度か記事を書いている。
2015年3月17日のブログ
2015年11月23日のブログ
2015年12月23日のブログ
2017年2月27日のブログ

 『本朝和人伝』については、Amazonのブックレビューを書いた。
野村無名庵著『本朝和人伝』
 そのレビューでも書いたのだが、日の目を見ることがなく焼失したであろう数多くの貴重な原稿は、あまりにも大きな文化的損害であったと思う。

 戦争の被害は、正楽の家族にも及んでいた。

「六月三日。満太郎戦死の報来る」
 正楽氏にとっては最愛のひとり息子満太郎さんが、華北の最前線で戦死したむねの公報がとび込んで来たのである。昭和二十年三月八日二十三時四十分とあった。浅草の自宅が被災するわずか一日前のことである。正楽氏のその日の日記帳には部隊長よりの手紙が、そっくり記載されてある。
 年月日は違うが桂文楽、三遊亭小円朝もそれぞれ一人息子を戦争にかり出され失っている。人を笑わせる商売だけに、こういう話はよけいにかなしい。

 “人を笑わせる商売だけに、こういう話はよけいにかなしい”という思いは、七年前になるが、NHKの戦争特集番組で「戦場の漫才師たち~わらわし隊の戦争~」を見た時に、強く感じたことだった。

 あの番組については、やはり小島貞二さんの『こんな落語家(はなしか)がいた』の引用を中心に記事を書いた。
2010年8月11日のブログ

 そろそろ、敗戦(終戦、ではなく)記念日近くの特集番組もお開き、という感じだが、年中行事として放送したらしばらく戦争のことは終わり、という思惑がちらつき、なにか腑に落ちない。

 今まさに、国内外の諸事情で戦争の危機が迫っているのではないか。
 あるいは、共謀罪などにより、戦時下にも似た、息苦しい、住みにくい社会になる危険性もある。


 昭和二十年、鈴本の向かいの焼け跡に作られた寄席もどきの小屋に駆けつけた人々のことを思うと、どれほど多くの日本人が笑いを求めていたかが察せられる。
 あまりにも“非日常”の日々が続いていたのだ。

 あの“無意味”な戦争は、多くの芸人の命も奪った。
 そして、国民の生活から“笑い”を奪い取った。

 “日常”生活、“笑い”に溢れた家族の生活を奪い取る権利は誰にもない。

 共謀罪を含め、現在の政府が行おうとしていることは、あの無意味な歴史を何ら反省していないということだ。

 この本からは、また近いうちに戦争の無意味さについて、紹介したいと思う。


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# by kogotokoubei | 2017-08-22 23:07 | 落語の本 | Comments(2)
 新宿末広亭の9月下席の夜の部から、桂小南治の三代目桂小南襲名披露興行が始まる。
 まねき猫との交互出演ではあるが、協会の垣根を超えて、膝替りには弟の二樂も、兄の披露目に出演する予定だ。
新宿末広亭のサイト
-新宿末広亭9月下席・夜の部-(末広亭のサイトより)
落語交互
 桂 鷹治
 山遊亭 くま八
漫談 新山 真理
落語 三笑亭 夢丸
落語 三笑亭 可龍
奇術 北見 伸・スティファニー
落語 三遊亭 遊之介
落語 桂 歌春
俗曲 桧山 うめ吉
落語 桂 南なん
落語 三遊亭 小遊三
-お仲入り-
襲名披露口上
落語 雷門 小助六
曲芸 ボンボンブラザース
落語 三遊亭 遊吉
落語 山遊亭 金太郎
交互出演
 物まね 江戸家 まねき猫
 紙切り 林家 二楽
主任 小南治改メ 桂 小南

 兄弟出演は、実に良い企画だと思う。
 六歳違いの二人の父は、二代目林家正楽。
 初代正樂から紙切りを習った父だが、正楽の下では預り弟子の扱いで、一貫して八代目林家正蔵門下だった人だ。

 初代正樂の弟子には、落語芸術協会の今丸がいる。
 師匠没後、今丸は今輔門下となった。

 いずれにしても、今に残る紙切りという芸を語る上で、初代林家正楽の存在は大きい。

 江戸落語の初代林家正楽は、上方にも同じ名の落語家が代を重ねていたので、本人は八代目と称していた。明治29(1896)年11月18日生れで、昭和51(1966)年4月15日没。長野県の出身で、生前は日本芸術協会(現落語芸術協会)に所属した。

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小島貞二 『こんな落語家がいた-戦中・戦後の演芸視-』
 初代正樂のことについて、ある本から引用したい。
 戦中・戦後のことを落語を中心に芸能分野から振り返った名著、小島貞二さんの『こんな落語家(はなしか)がいた-戦中・戦後の演芸視-』(うなぎ書房)からは、何度か記事にしている。

 7年前、「わらわし隊」にことに関して引用したのが最初だ。
2010年8月11日のブログ
 そのすぐ後に、この本を中心にした記事を書いた。
2010年8月17日のブログ
 戦争が大きな転機となった、昔々亭桃太郎のことを書いた際も、引用した。
2012年11月5日のブログ
 三年前、江戸家猫八の広島での被爆について書いた記事もあった。
2014年8月6日のブログ

 この本は2003年8月発行で、同年6月に84歳で亡くなった小島貞二さんの遺著だ。

 「第三章 戦時下の落語界」から紹介。

 紙切りの初代林家正楽(一柳金次郎)は几帳面な人で、大正六年以来、ズーッと欠かさず日記をつけていた。
 その正楽は浅草永住町で空襲をもろに浴び、命からがら逃げたのはいいが、命から二番目の日記をそっくり焼いてしまった。
 がっかりして日記をやめたというのが常道だが、失望より勇気が上回り、焼けたその日からまた日記をつけ始めた。
 私は前に、『落語百年』(全三巻 昭和41年3月 毎日新聞社刊)をまとめたとき、その日記を借用して、演芸に関するところだけをピックアップさせていただくことにして、「昭和の巻」に紹介した。
 
「昭和二十年三月九日夜より十日にかけての敵機の爆弾のため、浅草永住町114番地にて類焼。家具寝具全部及び数年来書き残しありし自作新作落語原稿百数十編類焼す」
「三月十日。浅草、下谷、本所、深川被害甚大にて死者多し。貞山、岩てこ、李彩、扇遊、左橋、丸勝、武蔵太夫ら惨死す」
「三月二十日。十三日より二十日まで神楽坂演芸場名人会に出演。警戒警報あり二日休む」
「四月六日。帰途桂文楽氏宅に寄る。十日千葉一の宮、右女助(のち小勝)の部隊慰問頼まれたが、名人会がるので行かれず断わる」
「四月十四日。四谷、花園町、荒木町、喜よし亭、四谷駅まで焼野原となり、牛込神楽坂一円焼失、演芸場、小文治、圓(まどか、のち三木助)宅類焼す。小文治氏の立退き先観世宅見舞い、中里柳橋氏付近まで焼け、類焼を助かりしを見舞う。のりもの全部なし、新宿より浅草まで歩き回る」
「四月十五日。十三日の盲爆三月十日に劣らず、四谷、牛込、田端、日暮里、小石川、千住、品川等焼失。前火災に助かりし小文治、圓、円歌、志ん生、柳枝、小南、燕枝、柳朝等みな類焼す。席にては大塚鈴本等」

 日記の中から被害状況がよくわかる。
  
 本当に、この日記は戦災の記録としても貴重だと思う。
 なお、柳朝は四代目で、のちの四代目柳家つばめ。三木助に『芝浜』を教えたといわれる人だ。
 小南は、八代目文楽の最初の師匠の初代桂小南。

 東京大空襲というと、もっとも被害が大きかった三月十日が思い浮かぶが、四月十三日の空襲も小さいものではなかったことが、この日記からも分かる。

 引用を続ける。

 当時の寄席は、空襲警報が鳴ると休みになった。芸人の服装は、高座着のままモンペをはき、上から筒袖の外套を着た。肩には弁当を入れた雑嚢、腰には防空頭巾や水筒を下げ、下は長靴だった。
 三遊亭円歌はある座敷の帰り、紋付袴の出で立ちで市電を待っていると、「この非常時に、そのザマは何だ!」と、ツカツカと寄ってきた男に殴られたという。
 桂小文治(初代・稲田祐次郎)は、戦後も高座着にモンペ・・・・・・モンペを脱げばそのまま高座着になる特製の衣装を愛用していて、桂枝太郎(二代目・池田芳次郎)はこれを「ライスカレー」と呼んでいた。「カレーライスもライスカレーも一番手っ取り早い」というのが命名の由来ときいた。

 「四月十日。新宿末広へ、協会の志ん橋大幹部昇進披露興行スケ。六時帰宅」

 この志ん橋はのちの三遊亭小圓朝(三代目・芳村幸太郎)で、このときは船勇亭志ん橋、「船遊亭」が正しいのに、戦時中というのでわざと「船勇亭」と書いた。こういうことも軍部へのゴマスリがある。
 小圓朝の所属は落語協会派、正楽は芸術協会派で、寄席では合同の公演はないはずなのに、正楽は頼まれて出演している。戦争による芸人不足を物語る。

 空襲のことに限らず寄席の出演のことも含め初代正樂の日記は重要な記録だ。

 三月十日の東京大空襲で焼失した日記にも、戦前の落語界にとっては、実に貴重な情報が満載だったと察する。

 文中の三代目三遊亭小円朝については、その芸を高く評価していた飯島友治さんの『落語聴上手』から引用したことがある。
2016年5月7日のブログ

 昭和二十年の寄席は、人手不足のために協会に拘らない番組が組まれた。

 9月下席の三代目小南襲名披露は、弟が兄の披露目のスケをするという粋な計らいで、協会の垣根を越える顔付がされた。

 実に平和な平成の寄席、と言えるのではなかろうか。

 日記の貴重な記録と紙切りという伝統芸を伝えた初代正樂も、きっと孫弟子の出演を喜んでいるに違いない。

 ぜひ、この披露目には駆けつけたいと思っている。

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# by kogotokoubei | 2017-08-21 12:36 | 落語の本 | Comments(2)

 前の記事で、吉村昭の『東京の戦争』について書いたが、つい、前日に見たNHKスペシャル「戦慄の記録 インパール」のことにも、ふれてしまった。

 あの作戦について、ずいぶん前に読んだ本をあらためて読み直した。

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『失敗の本質』

 その本は、『失敗の本質』。
 私が本棚から引っ張り出したのは、昭和59(1984)年に発行されたダイヤモンド社の単行本。単行本もよく売れたようだが、平成3(1991)年に中公文庫で再刊されてからも、ベストセラーになっている。

 執筆者は次の六名。( )内は、生年と単行本発行当時昭和59年の職務。

 戸部 良一(昭和23年、防衛大学校助教授)
 寺本 義也(昭和17年、明治学院大学教授)
 鎌田 伸一(昭和22年、防衛大学校助教授)
 杉之尾孝生(昭和11年、防衛大学校助教授)
 村井 友秀(昭和25年、防衛大学校講師)
 野中郁次郎(昭和11年、一橋大学教授)


 購入当時、野中郁次郎の名だけは、知っていた。
 その野中も、本書執筆に至る研究会が発足した昭和55年当時には防大に籍を置老いていたので、防衛大学の四十歳前後の先生たちが中心になって出来上がった本と言えるだろう。

 牟田口第十五軍司令官の無謀なインド侵攻作戦が、なぜ組織の中で止めることができなかったのか。

 当時の牟田口の上下の組織は次のようになっている。

・大本営参謀本部 参謀本部総長 杉山  元元帥(陸軍士官学校12期)
・南方軍総司令官        寺内 寿一元帥(陸軍士官学校11期)
・ビルマ方面軍司令官      河辺 正三中将(陸軍士官学校19期)
・第十五軍司令官        牟田口廉也中将(陸軍士官学校22期)

 まず、直属の上司がどうであったか、本書から引用したい。
 部下の反論に耳をかさない牟田口の積極論を現地で制止しうるのは、河辺方面軍司令官のみであった。しかも河辺は蘆溝橋事件当時、連隊長牟田口の直属の上司たる旅団長であり、それ以来両者はとくに親しい間柄であった。しかし牟田口がインパール攻略論を唱えたとき、河辺は「何とかして牟田口の意見を通してやりたい」と語り、方面軍高級参謀片倉衷少将の言葉を借りれば、軍司令官は私情に動かされて牟田口の行動を抑制しようとしなかった。

 では、河辺の上司、寺内はどうだったのか。ほとんど、寺内は黙認に近い状況であった。
 そして、大本営の判断はどうなったのか。
 文中の綾部は南方軍司令部総参謀副長の綾部中将のことであり、「ウ号作戦」はインパール作戦のこと。

 大本営の中枢、参謀本部作戦部長真田穣一郎少将は、ビルマ防衛は戦略的持久作戦によるべきであり、危険なインパール作戦のような賭に出るべきではないとみなしていた。したがって昭和十九年一月初旬、綾部が上京して「ウ号作戦」決行の許可を求めたときにも、真田は、補給および制空権の不利と南部ビルマの憂慮すべき事態を指摘して作戦発動不可を唱えた。綾部は、この作戦は戦局全般の不利を打開するために光明を求めたものであり、寺内南方軍司令官自身の強い要望によるものである、と大本営の許可を懇請したが、真田はそれに答えて、戦局全般の指導は南方軍ではなく大本営の考慮すべき任務であると反論した。ちょうどそのとき、杉山元参謀総長は、寺内のたっての希望であるならば南方軍のできる範囲で作戦を決行させてもよいではないか、と真田の翻意を促し、ついに真田も杉山の「人情論」に屈してしまう。


 この後、東条首相から補給問題などいくつか質問を受けても、すでに決行を決めた大本営は、問題なし、として無謀な作戦が実施された。

 インパール作戦の失敗については牟田口一人にばかり矛先が向かうように思うが、その上司たちや、ブレーンであるべき参謀の責任者たちにも、次のような犠牲に対して責任がある。

 戦死または行方不明2万 2100人,戦病死 8400人,戦傷者約3万人。
 まったくの、無駄死にだ。

 『失敗の本質』では、組織が「人情」に流されてしまった、という指摘をしている。
 それも大きな原因だろうが、私は、理性的に考えれば不合理である部下の判断を、人情に流されて許してしまった、その誤った判断の背景も考えるべきだと思う。

 それこそが、戦争が人間を狂わせる、ということであり、私が反戦を訴える、もっとも根底にあることだ。

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# by kogotokoubei | 2017-08-19 10:35 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(2)
 昨夜は、NHKスペシャルの「戦慄の記録 インパール」を見た。
NHKサイトの同番組のページ

 詳細は記さないが、戦争というものが、人の心を変貌させることが、その戦争の首謀者や戦地の指揮官を中心に描かれていた。

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吉村昭著『東京の戦争』(ちくま文庫)
 
 2001年に筑摩書房で発行され2005年に文庫化された『東京の戦争』で、昭和2年生まれの吉村昭は、執筆の動機を次のように書いている。

 数年前から、しきりに思うことがある。それは、東京というこの都会で「大東亜戦争」と称されたあの戦争に一個の人間として直接経験したことが珍しい経験なのかも知れぬ、と思うようになったのである。

 この“経験”の中には、戦争が戦地のみならず、市井の人々の心をも大きく変貌させることが語られている。

 「歪んだ生活」から引用。

 戦争が末期に近づくにつれて、人の心はすさんできた。
 手近なところでは、商人の変貌に驚きというより薄気味悪さを感じた。
 長年親しくしていた八百屋があった。私の家は大家族で、毎日のように店主が大きな笊に野菜を入れて持って来て、時には私も母に命じられて自転車でその店に買いに行った。店主もかれの妻も、いつも笑みを絶やさず、まことに愛想がよかった。
 それが、野菜類が不足しはじめると、態度が一変した。店主が家に運んでくることなどなくなり、店に買いに行くと、全く面変りした夫婦の顔があった。
 店頭に並ぶ野菜を買おうとすると、
「あんたの家に売る物はないよ」
 と、店主が追い払うように手を振る。
 野菜を買える客は、なにか眼にできなくなった生活必需品を店主に渡していて、その上で金を払って買っている。私の家ではそのようなことはせず、長年のなじみ客であるかは無関係で私に荒々しい声を浴びせるのである。
 それを帰って母に告げると、母はうなずき黙っていた。
 八百屋だけではなく、食料品を扱う店は大同小異で食料品が全く枯渇すると、売る物がないためそれらの店は戸をとざした。

 吉村の話を聞いた母親が、ただうなずき黙っていたのは、八百屋を責めることができないと思っていたからだろうが、とはいえ、長年のお付き合いがある八百屋の態度からは、実に空虚感が漂ったにちがいない。

 八百屋が悪い、とはいえない。もちろん、何か特別な生活必需品を代金に上乗せして野菜を買う客も、責めることはできない。
 戦争が、悪いのだ。

 著者は、この後、次のような思い出も綴っている。

 集団化した人たちの中には、権力を手にしたと思うらしく、威丈高になる人もいた。
 隣組の防空訓練に病弱のため参加しなかった主婦を、組長がその家に行って非国民とののしった。五十年輩のその男の顔には、独裁者のような傲慢な表情が浮んでいた。

 吉村に限らず、このような“集団化した人たち”の行動の恐ろしさは、戦争を経験した多くの人が伝えてきたはずだ。

 しかし、今まさに、日本の政治状況はそういった独裁者の顔を持つ“集団化した人たち”が権力を握っている。

 前防衛大臣は、何ら反省の色も見せず、昨日、靖国神社に参拝した。

 靖国神社は、元々、戊辰戦争による官軍の戦没者のためにつくられた、
 しかし、明治維新の立役者の西郷隆盛は、その後の西南戦争で政府に敵対することになったので、靖国にいない。
 近頃、その西郷を靖国に、という動きがあるらしい。
 西郷は、そんなことは、まったく望んでいないだろうに。

 靖国神社については、兄弟ブログ「幸兵衛の小言」に、二年余り前に二度記事を書いたことがある。ご興味のある方は、ご覧のほどを。

2015年4月21日のブログ
2015年4月22日のブログ


 「戦慄の記録 インパール」の最後、実に貴重な記録を遺した齋藤博圀元少尉が、車椅子で登場した時は、少し驚いた。
 ご生存だったのだ。
 96歳の齋藤さんが、途切れ途切れに語った言葉。

「自分たちが計画した戦が成功した・・・・・・」
「日本の軍隊の上層部が・・・・・・」
「悔しいけれど兵隊に対する考えはそんなものです」
「知っちゃったら辛いです」

 齋藤さんは、泣いていた。

 三万人の犠牲者のほとんどは、戦闘ではなく、餓死や病死。

 戦地では、「大和魂」の名で狂気の沙汰が繰り広げられ、国内では、物資不足の中、人々の心が荒んでいく。

 それもこれも、戦争がもたらしたものである。
 どちらにも、“日常”はない。
 まさに、歪んでいる。

 平和な“日常”を暮らすことのできる幸福を、この時期につくづく感じる。

 しかし、その平和を乱そうとする、権力をもっていると錯覚している“集団化した”人たちの存在を、忘れてはならないだろう。

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# by kogotokoubei | 2017-08-16 11:05 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(0)
 積ん読状態で、最近になって読んだ本について。

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吉村昭著『東京の戦争』(ちくま文庫)
 
 吉村昭の『東京の戦争』は、2001年に筑摩書房で発行され、2005年に文庫化された。

 昭和2年生まれの吉村は、執筆の動機を次のように書いている。

 数年前から、しきりに思うことがある。それは、東京というこの都会で「大東亜戦争」と称されたあの戦争に一個の人間として直接経験したことが珍しい経験なのかも知れぬ、と思うようになったのである。

 この本で有名(?)なのは、ノースアメリカンB25による東京への初空襲の思い出かもしれない。
 
 しかし、私はどうしても、落語や寄席に関わる部分が印象に残る。

 吉村昭の落語好きは有名で、学習院時代の昭和26年10月に 所属した文芸部の部費を稼ぐために大学寄席を企画し、志ん生・柳好二人会を開いたほどだ。
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 本書には、あの戦争の最中でも、落語好きな吉村の姿を偲ばせる思い出が語られている。

 「ひそかな楽しみ」の章から引用。
 戦争が激化するにつれて食料品をはじめ生活用品が欠乏し、まさに暗黒時代であったのに、旧制中学生であった私は、私なりのひそかな楽しみを見出していた。思い返してみると、不思議なことに妙に明るい気分で日を過していたような気さえする。
 四年前、中学生時代の思い出を集めた同級生たちの文集が、有志によって編まれたが、友人たちの文章を読むと、私のように映画館、寄席、劇場に足しげく通っていた生徒は稀であったのを知った。東大出身の安村正雄先生という恩師をかこんだ同級生の座談会も収録されていて、戦時下の辛かった思い出が語られているが、
「君たちがそんな辛い思いをしていた頃、吉村はせっせと寄席通いをしていたんだな」
 と、先生が笑いながら話したことも活字にされていた。
 私は、教師に知られぬように細心の注意をはらって寄席通いをしていたつもりであったが、先生はそれに気づいていたらしい。思い返してみると、悠揚とした感じがしながら何事も見ぬいているような、一瞬鋭い眼をする先生であった。

 吉村少年の寄席通いを知っていたにも関わらず、それを明らかにすることも、本人を叱ることもなかった恩師の安村先生の姿に、戦時下ならではの先生の配慮や、人間としての度量の大きさを感じる。

 生徒たちの身も明日どうなるか分からないだろう戦時下で、寄席好きな吉村少年の楽しみ奪ってはかわいそう、と先生は思われたのかもしれない。
 
 “悠揚とした感じがしながら何事も見ぬいているような、一瞬鋭い眼をする”先生という言葉からは、私の昭和30年代から40年代における小学校や中学校時代においても、一人か二人の先生の顔を思い出す。

 かつて、教師は尊敬されていたし、威厳があった。

 さて、教師論が主題ではないので、本書の引用を続ける。

 帰宅して制服、制帽をぬいで映画館にむかい、よく学校からの帰途、足をむけた上野の寄席「鈴本」へ行く時も、上野駅の一時預り所に制服、制帽、布製の肩からさげる鞄をあずけ、「鈴本」の木戸をくぐった。
 当然のことだが私が入るのは昼席で、客の入りはさすがに少く、それも老人ばかりであった。
 寄席は畳敷きで、木製の箱枕が所々に置かれていて、それに頭をのせて横になっている人もいる。噺に興味がないわけでなく、横になったままくすりと笑ったりしている。さすがに噺のうまい落語家が高座にあがると、体を起して聴いていた。
 文楽、金馬、柳好、文治、柳橋や林家三平のお父さんの正蔵などが出ていた。正蔵は派手な着物を着ていて噺も華やかで、私はその個性が好きであった。志ん生、円生は見たことがなく、どこか他の地に行っていたのだろうか。

 きっと志ん生と円生が満州に言っている時期なのだろう。
 
 私は、都内の寄席四席の中で、昔の佇まいを残している新宿末広亭がもっとも好きだ。次に、池袋の、高座と一体感のある空間が好みであり、鈴本は三番目。
 残念ながら、今の鈴本には吉村昭の思い出の中にある、古き良き寄席の空気がない。
 それは、時代の流れとして当然のことかもしれないが・・・・・・。

 さて、そのかつての鈴本での思い出について引用を続ける。

 若い落語家が噺を終った後、両手をついて、
「召集令状を頂戴いたしまして、明日出征ということになりました。拙い芸で長い間御贔屓にあずかり、心より御礼申し上げます」
 と、頭を深くさげた。
 寄席の老人たちが、
「体に気をつけてな」
「また、ここに戻ってこいよ」
 と、声をかける。
 落語家は何度も頭をさげ、腰をかがめて高座をおりていった。

 吉村は、この落語家の名も、戦後の安否などにもふれていないので、詳しいことは分からない。

 しかし、この高座のことが目に焼き付いているからこそ、書き残すことになったのだろう。

 私もこの文章から、その情景が目に浮かぶ。
 若手の高座では箱枕に頭を乗せて横になっていたはずの鈴本の落語通の老人たちが、この出征の挨拶の時には、きっと起き上がって声をかけたであろうことが察せられるのだ。
 
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# by kogotokoubei | 2017-08-13 20:22 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(4)
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柳家権太楼著『江戸が息づく古典落語50席』(PHP文庫)

 『へっつい幽霊』のサゲの調査(?)のために久しぶりにめくった本に、なかなかいい文章があったので、ご紹介。

 柳家権太楼の『江戸が息づく古典落語50席』は、2005年にPHP文庫のために書き下ろしたもの。
 
 「まえがき」から引用したい。

 若い女性たちを中心に、いま落語がちょっとしたブームになっているようです。若手が独演会を開くと、若い女の子がどっと押し寄せるといいます。現代を諷刺した創作落語うぃ聞かせたり、古典落語に新しい味付けをして、若い人たちの心をつかんでいる。

 くどいようだが、この本は2005年2月発行。
 まえがきの日付は平成十六年(2004年)師走、となっている。

 もちろん、今の“成り金”たちのことではない。

 果たして、当時の若手って、いったい誰だったのかな。
 
 ちなみに、白酒の真打昇進が2005年、三三、左龍、甚語楼が2006年、馬石、菊志んが2007年、だなぁ。2007年には秋に木久蔵もいるけど・・・・・・。

 もしかすると、権ちゃん(と呼ばせていただく!)の言う若手の年齢の幅は広いのかもしれない。

 2000年真打昇進の喬太郎、たい平、2001年の白鳥、三太楼(遊雀)、2002年には扇辰、彦いち、2003年には一人昇進の菊之丞、あたりも含んで“若手”と言っているような気がする。
 ちなみに、本書執筆時点、まだ三太楼は弟子である。

 引用に戻る。

 落語の世界に身を置く者として、実に有り難い。実に有り難いですが、せっかく落語に関心を持ったなら、ちょっとその領域を広げて、古典落語そのものもじっくり味わって欲しいなあと思います。古典というと、何か古色蒼然とした芸能と思うかもしれませんが、古典落語はそんなもんじゃありません。

 まったく道灌、いや同感!
 言葉ではできないギャグはスルーしていただき、引用を続ける。

 江戸、明治、大正のころにできた噺を、何十人、何百人という落語家が工夫を凝らし、師匠から弟子へと受け継がれ、練りに練り上げた噺が、いまも何百と残っている。そんな「生命力」が古典落語には漲(みなぎ)っています。その生命力を是非味わって欲しいと思い、本を出すことにしました。

 ね、権ちゃんの心意気のようなものが伝わるでしょう。

 落語家が監修者として名を出している本ではなく、書き下ろしですからね。
 私の琴線にもっとも触れた部分を含め、ご紹介。

 数ある噺のなかから二百を百席に、百を五十席に絞り込む過程で、一つの発見がありました。それは、やっぱり古典落語は古くない、ということでした。何故かといえば、古典落語は人間の本質(われわれの世界の言葉を遣えば「了見」です)が見事に集約されている。時代が移り変わっても、夫婦や親子の愛情、お金や物への執着など、そう簡単に人間の了見なんて変わるもんじゃありません。NHKの教養番組じゃありませんが、古典落語は人間の本質を笑いのオブラートでくるんで見せる「人間講座」のようなもんです。「人間とは何か、人生とは何かを知りたければ古典落語を聞け」と言いたいくらいです。

 いいでしょ、この権ちゃんの「了見」!

 古くなるが、この本は2009年5月に書いた『青菜』の記事でも引用している。
2009年5月21日のブログ


 こういう文章を読むと、権ちゃんの高座(講座?)、聴きたくなる!
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# by kogotokoubei | 2017-08-11 15:02 | 落語の本 | Comments(2)
 どうしても、小のぶの『へっつい幽霊』のことが頭に残っている。

 あらためて、古今亭志ん生、志ん朝親子の音源を聴いた。

 主人公の相棒として若旦那は、登場しない。
 主人公が久しぶりに博打で勝ってからの行動、という設定は小さんとも同様。

 しかし、サゲは、やはり「足は出しません」である。

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柳家権太楼著『江戸が息づく古典落語50席』(PHP文庫)

 またか、とお思いでしょうが、『へっつい幽霊』のサゲに関する続報(?)です。

 柳家権太楼の『江戸が息づく古典落語50席』(PHP文庫への書き下ろし、2005年2月初版発行)から引用したい。

 「梗概」が説明され、サゲが「親方、あっしも幽霊です。決して足はだしません」と紹介された後の「権太楼のご案内」から。

 この噺にはサゲが二種類あります。梗概で紹介した「決して足はだしません」という型と、「寺だけでも造ってください」と、幽霊でお寺と博打の「テラ銭」と洒落てサゲるやり方です。五代目古今亭志ん生師匠や三代目桂三木助師匠は、前の形。小さんは後の形でやっていました。

 あら、しっかり二つの形の説明があるではないか。

 とはいえ、私が持っている小さんの音源は「足は出しません」だったなぁ。
 小さんも、分かりやすい形に変えたのか、あるいは、親友三木助に倣って変えたのか。
 しかし、この「寺を造る」も、小のぶは「寺を建てる」という表現を使っていたので、微妙に違う。でも、ほぼ同じ意味合いだな。

 引用を続ける。
 この噺は、三代目桂三木助師匠の十八番。明治から大正の頃の設定にして、へっついの売り値は三円、へっついから出てくるお金は三百円で演っていました。落語ファンの多くは「『芝浜』の三木助」を支持する方が多いようですが、私は「『へっつい幽霊』こそ三木助落語だ」と思っています。いや、三木助師匠の『芝浜』が悪いというのではありません。『へっつい幽霊』は上方のほうが味がある。一時大阪で落語をやってた三木助師匠がやると、その味が伝わってくる感じがあるからです。逆に『青菜』は上方より東京のほうが味がある。同じ噺を人で聞き比べるのも面白いですが、上方バージョンと東京バージョンを聞き比べるのも面白いと思います。

 この権ちゃんの意見、まったく道灌、いや同感!

 へっついを戻しに来た人物が関西弁を話し、「なぁ、道具屋」を繰り返す三木助版は、何度聴いても可笑しい。

 なお、小のぶの高座で、「寺」に因んだサゲを初めて聴いた、と書いたのだが、実は、二年前のむかし家今松独演会でも聴いていたのを、忘れていた。
2015年9月14日のブログ

 あの会は、長講の業平文治が印象深く、もう一席の高座を忘れていたが、しっかり「テラをお願いに参じました」でサゲていたのだった。

 勘当された若旦那は登場する。
 幽霊は翌日、再登場する。
 上方のオリジナルを尊重した、今松ならではの型、ということか。

 小のぶの高座の後には、今松のこの噺、まったく忘れていたなぁ。

 こういうことも(頻繁に)あるから、ブログを備忘録代りに始めたわけでもあるが。


 小のぶは、今日が楽日の国立演芸場上席にも出演していた。

 ということは、国立期間中に、納涼四景(四日)にも出て、独演会(八日)もあった、ということか。

 “幻の噺家”という形容は、もはや相応しくないかもしれない。


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# by kogotokoubei | 2017-08-10 21:49 | 落語のネタ | Comments(2)
 先日の柳家小のぶの『へっつい幽霊』は、後で師匠小さんの音源を確認すると、主人公が博打の儲けで竃を買おうとすることや、仲間に勘当された若旦那が登場しないなどは、師匠譲りだった。
 ところが、小さんのサゲは、「幽霊ですから、アシは出しません」となっていた。
 小のぶのように翌日酒盛りの席に再び登場し、「寺を建てて欲しい」でサゲるのは、果たして彼自身の工夫なのかどうか・・・・・・。

 小のぶ、マクラで、賭場を開帳することを「寺を建てる」と言った、と丁寧に仕込んであったなぁ。

 『看板のピン』などのマクラでもよく聞くが、博打の言葉は寺の言葉が多く使われる。

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関山和夫著『落語風俗帳』(白水Uブックス)

 小のぶのサゲについての疑問からめくった本がこれ。

 落語と仏教や説教との関係に詳しい、関山和夫著『落語風俗帳』から、この噺の部分を引用したい。
 小のぶの高座の謎が解けたわけではないが、なかなかためになることが書いてあった。

 上方落語の『へっつい幽霊』のサゲに、
「まだ金に未練があるのか」
「せめてテラがほしい」
 というのがある。いうまでもなく、テラは寺とテラ銭の掛詞(かけことば)である。こちらの方が私には興味がある。寺の開帳や縁日には、よく博打場が開かれた。博打のことを開帳という。そして博打の場所代を寺銭と呼んだ。
 寺は、もと中国では外国の使臣を接待する役所の名だあった。漢語で「寺」というのは役所の意である。後漢の明帝の治世に、インドの僧・迦葉摩騰(かしょうまとう)、竺法蘭(じくほうんらん)の二人が中国に仏教を伝えるためにやって来たとき、はじめ鴻臚寺に置き、翌年白馬寺を建立して住まわせたといわれる。このときから仏教の道場を寺と呼ぶようになった。そして僧の住所(*住居か)をすべて寺というようになった。寺院を坊ともいうが、「坊」というのは区画、区院という意味で多くの僧坊がある区域をいった。日本では後世に坊と房の意味が混同されてしまった。坊主というのは住職の意味であったが、転じて一般に僧侶を意味するようになり、ついに男の子をさしていうようになった。真宗で住職の妻を坊守と呼ぶのも興味深い。寺男・寺子屋・寺侍などの寺をつけた呼称がたくさんあるのも仏教の庶民生活への浸透ぶりを示す。

 小のぶのサゲとは違うが、テラにちなんだサゲがあることは分かった。

 それにしても、落語のサゲを調べようとして、「寺」の歴史を学ぶことになった。
 へぇ、寺は外国の客の接待の場所だったんだ。

 迦葉摩騰、竺法蘭なんて難しい名前も初めて知ったなぁ。
 後漢時代のインドの僧らしいので、西暦で50年頃から70年頃の時代。
 
 そろそろ、お寺が一年中でもっとも忙しい日が近づいてきた。

 宗教法人ならお布施は非課税。

 お坊さんが羨ましくなる季節とも言える。

 こんなことを書くと、バチが当たるか^^
 

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# by kogotokoubei | 2017-08-08 20:51 | 落語のネタ | Comments(4)
 池袋の先月中席で、昼の部の主任が小のぶだったのだが、都合がつかず行けなかった。
 その小のぶの名をオフィスエムズさんの企画で発見し、休みをとって久しぶりの見番へ。2014年7月の雲助蔵出し以来なので、ほぼ三年ぶりだ。
 この会、他の三人も小満ん、一朝、そしてまだ聴いたことのない春輔である。こんな渋い(?)顔付けはそうあるものではない。

 神保町で途中下車して古書店を少し回ってから、神保町駅の近くのジャズ喫茶Bigboyで涼もうと思ったら、なんと居残り会仲間のYさんに遭遇。彼にこの店を教えたのは私。
 最近、よく立ち寄るらしい。マスターとも馴染みになったようだ。
 彼は夜は中学・高校の同窓との会があるらしい。30分ほどの懐かしい会話の後、先に辞した。
 落語好きでジャズ好きの良き友と会えて嬉しかった。

 さて、神保町散策の後、浅草へ。
 途中、携帯メールに、I女史から都合が悪くなり欠席の連絡。仕方がないよね。
 ということで、佐平次さんとF女史と三人での居残り会になりそうだ。
 
 仲見世の脇を歩いて、見番に行く前に、居残り会の場所候補として考えていた、酒場放浪記で見たことのある店の場所を確認。
 6時にご主人が暖簾を出したので、事情を説明すると、午後八時以降の予約はとらないので、電話をして欲しい、とのこと。ちらっと中を見ると、なるほどそう広い店ではなさそうだ。了解して、見番へ。

 好みの場所の座布団に荷物を置いて席を確保。すると、すぐ斜め前の席にF女史がいらっしゃった。佐平次さんとすれ違ったら、予想通り後部に用意された椅子を確保されたとのこと。

 外で一服し、あらためて会場の桟敷へ。限定100席の会場は、ほぼ八分近く入っていたのではなかろうか。

 出演順に感想などを記す。

(開口一番)柳家小はぜ『富士詣り』 (16分 *18:45~)
 7月1日の山開きの日に、『富士詣り』について記事を書いた。
2017年7月1日のブログ
 あの記事には多くの方からコメントをいただき、当代で演じる噺家さんの情報を頂戴した。
 小はぜが演じることも教えていただいたが、生で聴けて、結構嬉しかったなぁ。
 急な天候の崩れは、登山する中に五戒(ごかい)を破りながら懺悔の足らない者がいるからだと先達さんに言われ、湯屋で下駄泥棒した男、人妻と深い仲になったことを白状する者が出てくる。実はその人妻が先達さんの女房、でサゲた。
 なかなか楽しい高座だったのだが、「五戒」で言い間違いがあったことと、四つまでしか言えなかったのが、残念。
 先達さんが語る、五戒とは次の通り。
 ◇妄語戒(もうごかい):嘘を付いたり人を騙したりすること。
 ◇偸盗戒(ちゅうとうかい):人の物を盗んだり取ったりすること。
 ◇殺生戒(せっしょうかい):殺生して山に登ってはいけない。
 ◇飲酒戒(おんじゅかい):酒を飲んで山に登ってはいけない。
 ◇邪淫戒(じゃいんかい):女を騙したり泣かしたこと。連れ合い以外と交渉を持つこと。
 さぁ、自分はどこまで懺悔しけけりゃならないかなぁ・・・・・・。
 また、この高座の途中、楽屋と思しき場所での会話の声が大きく、実に小はぜには可哀想な状況だった。なんと、廊下を隔てた楽屋部屋に注意に行ったのは、佐平次さんだった^^

八光亭春輔『九段目』 (25分)
 初めて聴くのを楽しみにしていた人。八代目正蔵の弟子。
 この噺も、初めて生で聴く。初ものづくしの日だ。
 マクラでサゲにつながる煙草のことをふって本編へ。
 この段の主役とも言える加古川本蔵役を予定していた者が急病(だったはず)でできなくなり、田舎(三河)訛りたっぷりの医者太田良庵が演るハメになってのドタバタだから、設定は『権助芝居(一分茶番)』に似ている。
 マクラで、大量の科白を覚えなければならない割りに受けない苦労の多い噺と言っていたように、番頭が良庵に口移しで教える科白の、なんと多いこと。
 この番頭が教える場面での、少ないながら良庵の言葉も可笑しい。
 「三方をこわします」「もってぇねぇこった」などで笑わせる。
 本番での良庵先生、絶好調。客席から「よおよお、太田先生」と声がかかると「どなたでしたかねぇ~」と受け答え、患者の様子を訊ねる始末。
 終盤、力弥がまだ刀を突き刺さないのに勝手に脇腹を血だらけにして、持っていた煙草を血止めにし、客席から「血止めのタバコとは、細っかいねェ」 「いやあ。手前切り(自分で刻んだ煙草)だで」 で、サゲ。
 私は活字でしか知らない九段目だが、歌舞伎通の方には、さぞ楽しい高座だったろうと思う。当代で演じる噺家さんは、そういないのではなかろうか。
 芸風は、いたって大人しいように思うが、ネタ選びなどを含めなかなか侮れない噺家さん、という印象を受けた。

柳家小のぶ『へっつい幽霊』 (31分)
 さぁ、お目当ての小のぶだ。
 序盤は、声をあえて小さくしているのか、実際に出ないのか^^
 この人は2013年6月下席で『長短』を聴いて以来。
2013年6月29日のブログ
 その後に、堀井さんの本からは“幻の落語家”の由来、江國さんの『落語美学』からは、ある逸話を紹介する記事も書いた。
2013年7月11日のブログ
 マクラで「納涼ということで、その昔は怪談噺で涼んだものでして」とふったが、納涼という会のお題に相応しいネタは、この一席だけだったのではなかろうか。
 流行らない居酒屋に訪れた客が幽霊の絵を描いて掲げて繁盛したことや、へっついは竈とも言い家の中でも大事なもので、竈を譲るなどの言葉もある、といった今では滅多に聞くことのできないマクラ、私は好きだ。小さい頃、父母は竈を譲るとか分けるなどという言葉を日常的に使っていたことを思い出す。
 筋書きは、今よく演じられるものと違う。
 熊(と思しき)男が、博打で儲かったと喜んでいる場面から始まる。
 竃が壊れているので、新しい竃を買いに行ったら、いわくつきの竃なので、とタダでもらえることになった。そして、夜、八つを過ぎた頃に、青い焔が出て、幽霊登場。
 とにかく、この左官の半次の幽霊が楽しい。手を陰に下げて、ぶらぶら振る様子が、今でも目に焼き付いている。
 科白もなかなか効いている。
 熊「うらめしー、なんてぇことはねぇじゃねえか」、半次「これは、幽霊の枕詞でして」とか、熊の「なかなかいい度胸してるじゃねぇか、惜しい奴を殺しちまった」なども可笑しかった。
 半次が自分で塗り込んだ竃の中の百両を取り戻したいのは、その金で有難いお経をあげてもらうなど、あらためて弔ってもらい浮かばれるため、というのも初めて聴いた。
 場面場面の勘所では、声はしっかり出ていたので、序盤の声の調子は、やはり芸ということか。
 マクラで丁寧に仕込んでいた「寺を建てる」でのサゲも初めて聴くが、悪くない。
 無理に笑わせようなどという姿は微塵も感じないのに、半次の所作、二人の会話で楽しませてくれた高座、今年のマイベスト十席候補とする。

春風亭一朝『紙屑屋』 (20分)
 仲入り後は、この人。
 この噺こそ、この人の自家薬籠中というものだろう。
 紙屑屋で屑の選り分けをすることになって最初に、歌舞伎舞台「紙屑の場」が演じられる。
 若旦那が紙屑屋で発見するしろものは、野菜づくしの手紙、都々逸集、新内の本などだから、一朝の芸の見本オンパレード、という高座。
 ♪箸は右だと教えた親に 左団扇を持たせたい
 なんて都々逸を聞かされると、この会の客席からは拍手が起こるのである。
 ♪夢に見るよじゃ惚れよが薄い しんから惚れたら 眠れない~
 なんてぇのもいいねぇ。
 先輩たちに囲まれ、十八番の小品で埋めた時間、ということだろうが、やはりこの人はいい。

柳家小満ん『中村仲蔵』 (41分 *~21:11)
 この噺と分かった時は驚いた。
 たぶん九時には終演だろうと思っていたことと、春輔の『九段目』があったからだ。
 う~ん、いろいろこの人らしい薀蓄などもあったのだが、場内の蒸し暑さもあって、楽しめない高座だった。
 同じ忠臣蔵のネタになった理由は、いったいなんだったのだろう。
 関内の独演会と比べると、残念な高座と言わざるを得ない。
 別途、この噺を聴き直した時に、その味わいを書けることを期待し、詳細は割愛。


 終演後、例の店に電話すると入れるとのこと。
 三人で居残り会だ。
 最初は気難しそうな顔をしていたご主人も次第に柔和な感じになり、ホヤやハラミとじゃが芋のグリルなど肴も美味しく、お二人との会話も盛り上がる。ご主人のお任せにしたぬる燗の酒も結構、となると、もちろん(?)帰宅は日付変更線を越えたのであった。
 
 今でも、小のぶの半次の幽霊の手つきが、目に浮かぶ。
 実に絵になる噺家さんだと、私は思う。
 

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# by kogotokoubei | 2017-08-05 13:49 | 落語会 | Comments(6)
 一昨日、NHKのBSプレミアムで、長岡花火大会の生放送を見た。
 
 最初の三尺玉が、ナイアガラと一緒に三発とは、豪勢。
 三つとも無事に上がって、良かった。

 フェニックスも良かったし、米百俵にちなむ百連発も凄いねぇ。

 BSとはいえNHKでの生放送、長岡花火も、ついに全国区になったものだ^^

 その長岡には、二十代の後半、六年住んだことがある。

 花火は、最初の年だけ、知り合いと河川敷で見たものの、翌年以降は居酒屋で飲みながら、音だけを聞いていた。
 サイレンが聞こえると「三尺玉だねぇ」と耳を澄まし、殿町で飲んでいても腹に響く音を楽しんだ(?)ものだ。

 年によっては、三尺玉が不発だったり、地上すれすれで開いたりしたこともあったなぁ。見てはいなくても、音で分かった。


 NHKの番組でも触れていたが、戦後の長岡花火は、長岡市戦災復興祭という意味合いで開催された長岡まつりのメインイベントとして位置づけられている。

 「長岡まつり」のサイトから、引用する。
「長岡まつり」サイトの該当ページ

まず、長岡まつり、について。
毎年華やかに繰り広げられる「長岡まつり」
その起源は、長岡の歴史に刻み込まれた、
最も痛ましい、あの夏の日に発しています。

今から72年前の昭和20年8月1日。
その夜、闇の空におびただしい数の黒い影
―B29大型爆撃機が来襲し、午後10時30分から1時間40分もの間にわたって市街地を爆撃。
旧市街地の8割が焼け野原と変貌し、
燃え盛る炎の中に1,486名の尊い命が失われました。

見渡す限りが悪夢のような惨状。
言い尽くしがたい悲しみと憤りに打ち震える人々。
そんな折、空襲から1年後の21年8月1日に開催されたのが、
長岡まつりの前身である「長岡復興祭」です。
この祭によって長岡市民は心を慰められ、
励まされ、固く手を取り合いながら、
不撓不屈の精神でまちの復興に臨んだのでした。

 次に、長岡花火について。
昭和20年8月1日の長岡空襲の翌年、長岡市民が復興に立ち上がり、8月1日に「長岡復興祭」を開催、昭和22年に花火大会が復活して今年で70年を迎えました。
「長岡花火」の歴史を振り返ると、先人たちがつないできた、「慰霊」、「復興」、「平和への祈り」の想いが息づいています。
長岡花火に込められた強い想いは、70年を経てもなお変わることなく、今を生きる私たちの中にもしっかりと受け継がれています。


 まつりと花火は、このように戦争の大きな傷を癒すためでもあった。
 では、昭和20年8月1日から2日にかけての長岡空襲を体験した人による文章を紹介したい。

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半藤末利子著『夏目家の糠みそ』(PHP文庫)

 夏目漱石の孫娘、半藤末利子さんの『夏目家の糠みそ』は、PHPより2000年に単行本、2003年に文庫で発行された。

 単行本発行の五年前から、小冊子「味覚春秋」に毎月掲載された内容が元である。

 半藤末利子さんは、長岡出身で漱石門下の松岡譲を父とし、夏目家の長女の筆子を母として昭和10年に生まれた。ご主人は、半藤一利。

 末利子さんは、父の実家の長岡鷺巣町(当時は古志郡石坂村)に疎開していて、長岡空襲に遭遇した。
 
 「長岡についての三話」から、引用する。

 まず、子供の頃に二度、あくまで旅行として長岡に行ったことのある末利子さんの、三度目の訪問について。

 私も体験した、越後の冬の描写がある。

 三度目は昭和十九年十一月である。旅行者としてではなく住人になるためであった。一家を挙げて疎開者として移り住んだのだが、まさかそれから十年余りも住みつき、長岡が私の第二の故郷になろうとはそのときは思いもしなかった。
 みぞれまじりの冷たい雨が降り続き、来る日も来る日も太陽を拝めない、一年中で一番嫌な季節であった。十二月の半ばに降った雪はそのまま根雪となり、翌二十年にかけては記録に残る豪雪となった。四メートルを超す積雪は、私達が借りていた二階家をすっぽり埋めてしまった。村のお年寄りが「何か悪いことが起る前兆だ」と言ったが、なるほど二十年八月一日には長岡市は空襲を受けて全焼し、十五日に日本は敗戦国となった。


 私が住んでいた六年間でも、大豪雪の年があった。
 年によっては十一月下旬に雪が降り始め、それが根雪となる。
 感覚的には、十一月から三月位までは、太陽を拝める日がほとんどないというのが、越後長岡周辺の冬なのである。

 テレビで見る冬の天気予報は、東京など東日本に晴れマーク、越後は曇りか雪が毎日のように続く。
 「裏日本」という言葉の意味するものを、私は体感を踏まえて納得した。

 では越後の冬は、暗~い毎日が続くのか。
 引用した部分の少し後に、楽しい、美味しい越後のことも書かれているのでご紹介。

 今でも東京での雪のない正月を身に染みてありがたいと思う。たまに訪れる長岡を決して魅力的な街とは思わない。にもかかわらじ、ノッペ(里芋など様々な根菜を煮て葛でとろみをつけた煮物又は汁)などを突つきながら、
「酒は辛口に限る」
 と、「越の寒梅」や「八海山」や「久保田」や「吉乃川」で一杯やる時、具沢山の雑煮で祝う正月を迎える時、そして越後以外の土地で越後訛りの人に出遭って言い知れぬ懐かしさを覚える時、私は沁み沁み思うのである。
 私の故郷は越後なのかしらと・・・・・・。

 まったく、同感だ。
 
 ノッペは、酒の肴でもあり、立派なご飯のおかずでもある。
 そして、越後(中越?)の雑煮も、ノッペの中に餅を言えたような具沢山。
 畑の収穫をまとめていただこうとするような、あの料理にも、長い冬を過ごすための知恵が隠されているのかもしれない。

 もちろん、お日様が顔を出さない冬は、辛口の酒を楽しむしかやることはない^^


 さて、豪雪が暗示した“悪いこと”、長岡空襲について引用する。
大空襲の夜
 
 その日、父母と私は父の生家、村松の本覚寺を訪れていた。盆参という寺としては一年中で一番大きな行事が催され、本堂やそれに続く座敷からあふれた檀家の人たちが、回廊までも埋め尽くしていた。庫裏も手伝いの人たちでごった返していた。戸は開け放れていたが、容赦なく上る気温と人いきれでむせ返るように暑かった。
 夕方になると人の波が引き、暑さも幾分しのぎやすくなった。夕食後、父は一人で帰宅した。当時中学生だった兄は勤労動員で、その夜、北長岡の軍需工場で働いていた。夜勤明けで帰宅する兄を出迎える者がいなくてはかわいそうだと、一里の道を歩いて父は曲新町の自宅に帰ったのだと思う。
 その夜、私たち三人は早々に眠ってしまった。どこくらいたったころか周囲が騒がしくて目は覚めた。田舎のことだから人家もまばらで、そのうえ、寺の境内は広い。日が沈むとカエルの鳴き声しか耳に入らぬほどに静まり返ってしまうのが常であった。空襲警報のサイレンや飛行機のごう音で目覚めた、という記憶はない。
 窓を開けると、やみ夜を旋回している色とりどりの電光がまず目に入った。色鮮やかな電光は星の数ほど無数に見えた。時々赤い火を噴いて焼夷弾が、自在に飛び交う電光から降ってくるのが見えた。なぜ爆撃機B29が赤青黄緑とさまざまな色の光を放ちながら爆撃していたのか、今もってわからない。私にはB29がお祭り気分で楽しげに焼夷弾をまき散らしているように見えた。地上からはめらめらと燃えたつ巨大な炎の柱が天を射るようにそびえ立ち、やみ夜を真っ赤に染め上げる。街全体が炎に包まれるのを私は初めて見た。あの大空襲で命を落とされた方、命からがら逃げまどっていた方を思えば甚だ不謹慎なことだが、その規模といい、華やかさといい、後にも先にもあれほど壮観な光景を私は見たことがない。息をのむほどに美しい眺めであった。
「きっと新ちゃん(兄のこと)死んじゃったわねえ。あの火の中で」と母がぽつんと呟いたが、だれも悲しいとは思わなかった。肉親の死にも麻痺して何も感じない異常な時代であった。私は別に怖いとも悲しいとも思わなかったが、歯の根が合わず全身が小刻みに震えていつまでも止まらなかったのをおぼえている。
 間もなく階下の勝手に、昼間手伝いに来ていた村人たちが再び集まって、祖母の陣頭指揮のもと長岡への炊き出しが始まった。お供え物として本堂に積まれた米が次々と下ろされ、炊かれ、握り飯の山ができた。
 昭和二十年八月一日のこと、私が十一歳の時であった。

 B29による空爆の光景について、なんとも印象深い記述と言える。

 この文章を読んで、私は湾岸戦争のテレビ映像を連想した。
 夜間にミサイルで攻撃する映像からは、まるで、花火のスターマインのような印象を受けたものだ。

 長岡空襲について、長岡市のサイトから引用する。
長岡市サイトの該当ページ

長岡空襲について
最終更新日 2017年4月1日

 1945(昭和20)年7月20日、左近地内に1発の爆弾が投下されました。長岡に投下された初めての爆弾でした。
 その12日後、8月1日の午後9時6分、長岡の夜空に警戒警報のサイレンが鳴り響きました。続いて午後10時26分、警戒警報は空襲警報に変わり、直後の10時30分にB29による焼夷弾(しょういだん)爆撃(ばくげき)が始まりました。

 B29は一機また一機と焼夷弾を投下しました。夜間低空からの容赦無い無差別爆撃によって、長岡のまちは瞬(またた)く間に炎に包まれていきました。
 猛火の中を、母の名を呼び、子の名を叫んで逃げ惑う人びと。多くの人が炎に飲み込まれていく様子は、地獄絵さながらだったといいます。
 空襲は、8月2日の午前0時10分まで続きました。1時間40分に及ぶ空襲で、市街地の8割が焼け野原となり、1,486人の尊(とうと)い生命が失われました。
 925トンものE46集束(しゅうそく)焼夷弾等が投下され、163,000発余りの焼夷爆弾や子弾(しだん)が豪雨のように降りそそぎ、長岡を焼き払ったのです。当時の市域で、焼夷弾の落ちなかった町内はないといってよいほどすさまじい空襲でした。
 その凄まじさは、半藤末利子さんの“色”の記憶で裏付けされているように思う。

 空襲が始まったのは八月一日で終わったのが二日だったので、毎年、長岡まつりの前夜祭が一日、長岡花火が二日と三日に開催されている。

 その花火大会に関する部分を含め、本書からの引用を続ける。

 パールハーバーを奇襲攻撃した山本五十六の生地だから長岡が爆撃された、ということを後で聞かされ、アメリカ人の執念深さに驚かされた。
 翌朝、父が宮内駅付近まで様子を見に行くと、焼け跡の中からふらふらと兄が帰ってきたという。無事な兄の姿を見て父はどんなにほっとし、うれしかったことであろう。
 今の八月の長岡まつりは、もともと長岡空襲の悲しい日を長岡市復興へのバネにするため、長岡市戦災復興祭として始まったと聞いている。戦争で中断していた長岡の花火も、空襲の翌年にはもう再開されたように思う。それから毎年夜空を飾って、いまはすっかり名物になっている。
 長岡にいたころ、私も何回か夜空に開く華を見た。しかし三尺玉であろうとスターマインであろうと、あの空襲の夜の強烈な華やかさには遠く及ばない。アメリカの怨念と、と貴い命を奪われつつある長岡市民のうめき声とが、たがいにぶつかり合う緊張を、あの異常な時代の異様な美しさに感じ取ったわけではない。しかし、長岡まつりになると、私は花火よりも先に大空襲の夜の悲しい美しさを思い起こしてしまう。戦後四十余年もたったいまも、それが悲惨な戦争を経験した者のつらい性ということなのであろうか。
 
 一昨日、昨日と開催された長岡花火大会を、著者のような思いで眺める人が、年々少なくなっている。

 今では、中越地震からの復興祈念という意味も込められている。

 また、長い冬を耐えて生きる越後の人々の浄化(カタルシス)の宴が、あの祭りや花火ではないかと思う。
 阿波踊りなど、他の地域の祭りにも、浄化的な色彩は強いだろうが、冬に心身ともに膝を曲げ、縮こまっていた越後の人々にとって、夏の最後に一気に精神を解放する宴は、特別の意味があるように思う。


 もちろん、人それぞれ、あの花火を見ながら思うことは違うだろう。
 
 しかし、この時期に長岡まつりが開かれ花火が打ち上げられるのは、紛れもなくあの戦争によるあの空襲からの復興を祈念するものであるということは、振り返られるべきかもしれない。

 結果として、前の記事と“漱石つながり”になったが、生誕150年記念ということで、お許しのほどを。

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# by kogotokoubei | 2017-08-04 12:44 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(2)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛