噺の話

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 28日の金曜日、午後から休みをとり、末広亭へ。
 夜の部の主任、白酒が目当てだったが、落語協会HPで確認すると、この日は代演で歌之介。
 師匠円歌逝去後五日目。
 昼の部には歌奴、歌司、夜の部には歌る多の名もある。
 ちょっとした円歌一門の追善寄席という感じで、それも良しと思い他にもいろいろな会がある中、予定を変えずに新宿三丁目に向かった。

 コンビニでお茶や助六を仕入れて入場した時は、仲入りの権太楼『町内の若い衆』が始まっていた。来るのが、ちょっと遅かった。
 会場は椅子席はほぼ満席。桟敷も七割位は埋まっていた。平日の昼、なのに。
 一番後ろでしばらく立ったまま、権太楼の高座を聴く。
 女房が湯に行くという旦那に向かって「そのまま風呂屋で弔いを出してもらいな!」が可笑しかった。客席から大きな笑いをとった高座が終わり、後ろから移動して好みの桟敷真ん中位に場所を確保。

 その後の高座について、短い感想を含め記録として記す。

<昼の部-仲入り後->

三遊亭歌奴『初天神』 (13分 *14:59~)
 クイツキは、この人。久しぶりに爽やかとでも言える高座に接した。
 天神さまに並ぶ屋台を目にした金坊の、「大人は偉い、汗水して働く大人は偉い、なんとか少しでも売上の協力したい」という科白が可笑しい。
 まだ歌彦の名が頭に残るが、早く新しい歌奴像をつくって欲しいし、もちろんそれが可能な力量を持っている人だ。

ホームラン 漫才 (10分)
 十八番の結婚式ネタを中心に、安心して聴いて、笑える漫才。
 今や、落語協会の漫才の中核と言って良いだろう。

蝶花楼馬楽『時そば』 (17分)
 ずいぶん久しぶりだ。ブログを始める前の末広亭以来だろうから、十年ぶり位かと思う。よく笑ってくれる客席から、蕎麦の食べ方で拍手。寄席に相応しい噺家さんを、一人思い出した、そんな結構な高座。

三遊亭歌司 漫談 (12分)
 冒頭、「八十六になりまして・・・ウェストが」で大爆笑。
 かつての寄席の違いによる客層として、末広亭には大学生が本を持ち込んでいて、ネタをかけると「xxページ」と本を読んでいた学生が仲間に教え、それを読んでいる学生が「間違わず、やっている」とか言ってやりにくく、池袋ではご通家がにこりともせず聴いていて、どこか間違えると、「ふっ」と笑う、と言うのは、その昔の落語風景としてありそうな話。
 漫談でも一つの芸にしていた師匠を思い出しながらの高座、そんな気がした。

鏡味仙三郎社中 太神楽 (13分)
 仙三郎と仙成の二人。傘の芸からバチの取り分けまでを、しっかり。
 仙成が上手くなった気がする。
 寄席の吉右衛門が健在で、何より。

柳亭小燕枝『笠碁』 (33分 *~16:39)
 昼の部の主任は、この人。
 ネタは師匠小さん直伝なのだろうが、筋書きやサゲを少し変えていた。
 「待った」をした方の旦那が雨の日に碁敵の美濃屋が来るのを待っている間の話相手が女房ではなく番頭。そして、その番頭が二人を指して「お互いに一目置いている」でサゲ。いぶし銀とも言える高座は良かったのだが、このサゲは疑問。本来のサゲでこそ“笠碁”だと思う。
 
 ここで昼の部はお開き。歌奴と歌司の円歌門下が光った。

<夜の部>

(開口一番)林家彦星『無学者』 (8分 *16:49~)
 初である。後で調べると、正雀の弟子。大師匠の晩年の彦六から一字もらった、ということか。
 なんとも評しにくい高座。味はあるが、もう少し大きな声でメリハリを、という前座の基本を期待したい。

桂三木男『お化け遊園地』 (12分)
 古今亭志ん八との交互出演で、残念ながら、この日はこの人。
 自分の新作なのかもしれないが、遊園地のメリーゴーランドに侍の幽霊が出るという設定の作品の内容も決して良いとは思えないし、演者としても褒められるものではない。不思議な髪型も含め、今秋に真打昇進し五代目三木助を襲名するのは、どちらも時期尚早と思う。

ニックス 漫才 (11分)
 姉がある元プロレスラーのイベントに行って声を嗄らして出ない。そうじゃなくても妹が圧倒的にしゃべるのだが・・・・・・。
 客に失礼だ。代演を依頼すべきである。

三遊亭彩大『幇間腹』 (12分)
 初である。円丈門下で前名が、ぬう生だった。出身大学にちなんで二年前の真打昇進でこの名にしたようだ。
 針で縫うクスグリで由利徹の真似をしたのは可笑しかった。
 なかなか楽しい高座ではあった。
 しかし、この人、今後は古典と新作のどちらを主軸にするのだろうか。
 親近感があり、基本は結構出来ていると思うので、古典を中途半端なクスグリでいじるだけの噺家にはなって欲しくない。

柳亭左龍『家見舞』 (15分)
 この人から、夜の部が、まさに寄席らしくなったし、締まった。
 兄貴分の新築祝いに瓶を買いに行った古道具屋の主人が、実に良い。
 その瓶がどこから掘り出した物かを解き明かしながら、「ふっふっふっふ・・・だから水瓶には、なりません」の間の良さ。そして、その表情や口ぶり、もちろんこの人の目が実に結構。

三遊亭歌る多『替り目』 (13分)
 この人に寄席で出会うとこの噺が多いが、悪くはない。
 途中で挟んだクスグリも良かった。居酒屋で「ひや」と言うと店の者が「冷酒ですね」と言う、「違う、ひやだ」と言うと「あっ、常温ですね」と言うのに小言を言っていたが、その通りだ。「何が常温だ、北朝鮮じゃねぇやい」とは、結構じゃないか^^
 本来は昼の部の予定が夜になったことが得した気分の好高座。

入船亭扇好『短命』 (14分)
 上手いんだが、何かが欲しい、というのがこの人の高座でいつも感じること。
 噺に遊びが必要、うまく言えないが、そんな気がする。

花島世津子 奇術 (12分)
 ヒモの奇術が、いつ見ても結構。
 大須の志ん朝の音源に、世津子さんの名が出てくる。この方の名を見ると、大須の音源を思い浮かべる。

柳家小袁治『うなぎや』 (15分)
 マクラで鰻屋での披露宴で司会を頼まれたが、その際の来賓で、酒を飲みながらぶつぶつ言っていたので聞いてみたら「鰻屋で披露宴なんかやるもんじゃねぇ・・・裂いて身を焦がす」と言っていた、というのはネタか事実か分からないが、なるほど、と思って聞いていた。

桂南喬『粗忽の釘』 (16分)
 仲入りは、大好きなこの人。
 お客さんの笑いの感度も高かったが、本来のネタの可笑しさで会場を沸かせる技量は本物である。
 なんと、父親を前の長屋に忘れて来て、自分も「我を忘れます」という本来のサゲだった。もしかすると、初めて生で聴くかもしれない。貴重な高座だった。

柳家小せん『黄金の大黒』 (15分)
 クイツキは、龍玉の代演でこの人。少し痩せたかな・・・・・・。
 相変わらず、良い声をしている。
 マクラでこのネタか『長屋の花見』かどっちかと思っていたが、こちら。
 久しぶりだったが、その古風(?)な風貌も含め寄席に似合うなぁ、とあらためて思いながら聴いていた。

ホンキートンク 漫才 (10分)
 客席のウケも良かったし、ネタの切れ味も抜群。今、最ものってる漫才コンビかもしれない。

古今亭菊之丞『元犬』 (14分)
 この噺になったので、この後の馬石の寄席の十八番とも言えるのがこの噺だから、「へぇ~、いじめ!?」と思ったが、そんなことはないわなぁ。
 昼の部のトリの小燕枝と同様、サゲを替えていた。
 途中で、女中の名、お元を出さなかったので、どうするのかと思ったが、男が上総屋に戻って来てからサゲになるのだが、どうも落ち着かない。
 高座は、もちろんこの人なのだ悪うはずがないのだが、本来のサゲでスッキリさせて欲しかったというのが、本音だ。

隅田川馬石『子ほめ』 (10分)
 この人の噺は、やはり“劇”の要素が背景にあると思わせる。
 普通の会話ではない、独特の間が個性なのだろう。
 トリの時間調整としての役割も果たす、好感のもてる高座だった。

翁家社中 太神楽 (10分)
 小助の土瓶の芸が安定してきた。
 染一、染之助の芸が懐かしいが、あの話芸もなんとか学んで欲しいなぁ。

三遊亭歌之介 (『B型人間』『母ちゃんのアンカ』) (34分 *~21:05)
 冒頭に「なんとか普通の姿になって」と言うようなことを言って、師匠円歌の思い出話が続く。
 途中から『B型人間』になったものの、『母ちゃんのアンカ』に変わり、小学生で父親と離婚して苦労した母親のことを語り出してから目が赤くなってきた。
 十八で入門してから父親代わりだった円歌のことが走馬灯のように脳裏に浮かんできたのだろう。
 九時までにはハネなくてはならないトリだったが、歌之介の熱い思いがつい時間を忘れさせたのだろう。
 こういった高座も、なかなか良いものだし、たまたま故郷薩摩の後輩白酒の代バネであったという巡り合わせ、そして、その客席にいた僥倖なのだと思う。
 今年のマイベスト十席とはならないが、記憶に残すためにを付けておきたい。


 終演後は、同じ空間を共有していた佐平次さん、そして、後で四ツ谷で小満んを喬太郎と扇辰が囲む会に行っていたI女史、日本橋で一之輔と萬橘の二人会だったM女史も合流し、久しぶりの居残り会。
 盛り上がらないはずもなく、案の定、帰宅は日付変更線超えだった。


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# by kogotokoubei | 2017-04-30 22:24 | 落語会 | Comments(4)
 亡くなった円歌の享年がメディアによって違っているので、実際の生年月日がいつだったのかネットで調べてみた。

 一昨年、円蔵が亡くなった際に円歌に取材したスポニチの記事があったので、引用。
スポニチの該当記事

 落語協会のホームページには「1932年1月10日」と表記されているが、以前に取材をした際「終戦のときは国鉄の社員で、東京で駅員をしていた」と語っていた。

 表記の通りなら、圓歌さんは13歳で当時の国鉄に勤めていたことになる。東京は相次ぐ空襲で混乱を極め、成年男性の多くが兵隊にとられていたとはいえ、13歳の少年が国鉄に就職できるのだろうか。

 いぶかしく思い、もう一度、本人に連絡をしてみると「実は1929年なんだよ。戸籍のあった役所が空襲で焼けちゃったんです。それで再度届けたときに家族が間違えちゃって。だから戸籍上は3歳若くなっちゃった」と少し笑いながら答えてくれた。度重なる空襲をかいくぐった生粋の江戸っ子らしいエピソードだった。

 頭を低くして、ただただ恐怖におびえながら戦争末期を生き延びたわけではない。

 「上野の鈴本演芸場には防空帽をかぶってよく通いましたねえ。寄席で笑ってると空襲警報が鳴るんですよ。そしたらみんな、サァーっと引けて防空壕や安全そうな所に向かう。サイレンが鳴り止むとまたみんな寄席に戻ってくる。そんなことばかりしてました」

 圓歌さんの思い出話は実に貴重だ。戦争に日常性を奪われることに抗い、戦争を笑い飛ばしてやろうというたくましい江戸っ子はたくさんいたのだ。

 戦後70年。そしてまた、師匠も芸能生活70年。終戦と同時に鉄道員を辞め、落語家に転身した。当然ながら親は猛反対。ついには勘当される。戦争が終わり、誰もが定職を探している中で、いとも簡単に最も安定していると思われた職を捨てる息子の気持ちは、親に理解できるはずもなかった。しかし、空襲の中でも命がけで笑い続けた寄席での強烈な体験は、思春期の青年の将来像に劇的な影響を与えたのだろう。

 ということで、昭和四年生まれが正解のようだ。
 朝日新聞の訃報も、届け出の間違いのことを踏まえ、昭和四年生まれとしている。
朝日新聞の該当記事

 落語協会のホームページは、前最高顧問の生年月日を間違えたまま。

 これは修正すべきではないか、と思う。
 その内容を含め、相変わらず事務的で愛想のないものだが、ホームページの小言を書き始めたら終わらなくなるので、これ位で。


 さて、円歌の国鉄勤務は、数年のことだ。
 その短い体験から「新大久保~」の名調子が出来たわけで、創作力の高さは凄いと思う。

 『授業中』も『中沢家の人々』も、傑作。

 しかし、円歌は古典もしっかり演じていた。

 今年の旧暦の西行忌の日、『西行』について書いた。
2017年3月13日のブログ


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矢野誠一_落語歳時記

 その記事と重複するが、矢野誠一さんの『落語歳時記』から、このネタについて書かれた部分を引用する。
 旧暦二月二十六日、西行法師の忌日。建久元(1190)年のこの日、河内弘川寺に入寂した。「願わくは花の下にて春死なむその如月の望月のころ」という歌は有名。釈尊入滅の日に死ぬことを願っていたのである。二十三歳出家してより諸国行脚して歌道にその名を知られた。家集『山家集』のほか、その歌を集めた『聞書集』『聞書残集』がある。

    *
 あの西行法師が未だ佐藤兵衛之丞則清といった北面の武士時代のエピソードを綴ったのが、地ばなしによる『西行』で、故柳亭痴楽や三遊亭円歌などがしばしば高座にかける。昔、摂津泉つまりいまの大阪近辺から千人の美女を選び、さらにそのなかの一人選び抜かれたという染園内侍に、佐藤兵衛之丞則清が恋をしたはなすだが、落語では、この恋に破れたため、かざりをおろし、名も西へ行くべき西行と改めることになっている。
 
 『西行』の代表的演者、三遊亭円歌という名前の前にも、「故」がつくことになってしまった・・・・・・。

 北面の武士から出家した西行。
 噺家から出家した円歌には、西行への思い入れがあったのではなかろうか。

 この噺、あらすじやサゲから、現代では演じられにくいネタではあるが、佐藤則清という武士のことや、「阿漕」という言葉の意味などをたどるきっかけにもなる噺。
 
 音源を師匠円歌は残してくれている。
 ぜひ、一門の人に継いで欲しいと思う。

 『授業中』や『中沢家の人々』は、本人限りのネタ。
 しかし、円歌が手掛けた古典は、後世に伝えることが出来る。


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# by kogotokoubei | 2017-04-27 12:41 | 落語家 | Comments(8)
 三代目三遊亭円歌の訃報を、旅の空の下で知った。
 落語協会のHPによれば、今日がお通夜、明日が告別式のようだ。喪主は奥さん。
落語協会HPの訃報

 拙ブログの「三遊亭小円歌が、二代目立花家橘之助を襲名」という記事へのアクセスが急増しているのは、師匠の訃報と無関係ではないだろう。


 実は、日曜から昨日まで、二泊三日で北海道の両親の家に、十三年ぶりに帰っていた。記事の間隔が空いたのは、そのせいなので、ご容赦のほどを。

 九十五歳の父は、昨年転んだ際に古傷の膝の皿を痛め車椅子ではあったが、内臓には悪いところはなく、一緒に酒も飲めた。
 九十歳の母も、歩くと腰が痛いとは言うが、いたって元気。
 その母の喜寿の祝い以来の帰郷だった。

 近くに住む兄二人や、兄の子どもと孫たち(両親にとっては曾孫)も集まっての宴会は、大いに盛り上がった。


 さて、そうそう円歌のこと。

 私が訃報に接してすぐに思い出した彼の言葉がある。

 それは、春風亭一之輔の真打昇進披露興行における口上でも述べられた言葉だ。
 私は、大千秋楽の前日、5年前5月19日に聞いた。
2012年5月19日のブログ

 かつての名人たちは、それぞれ個性的な口上の言葉を持っていた。

 円歌の「手を取って 共に登らん 花の山」は、真打になってからあらためて始まる落語家としての人生は、奥さんとの二人三脚である、ということを言いたかったのだろう。

 きっと、会場の片隅にいた一之輔の奥さんにも聞いてもらいたかったであろうこの言葉は、私の胸に深く沁み込んだ。きっと同じような感慨を抱いたお客さんも多かったと思う。
 真打昇進披露の口上において、あれほど厳粛な一瞬を今まで感じたことはない。


 円歌の傑作『中沢家の人々』は、内容は老人たちの行動や言葉の滑稽さで笑いを取るものだが、親子の愛情が底流に流れている前提があるからこそ、いつ聴いても楽しめる普遍性を持つネタになったのだと思う。


 円歌は、奥さんと一緒に、手を取り合って花の山に登ることができたのだろう。

 実は、北海道の両親が、周囲の草木やツツジなどの花が眺められるお寺に墓を用意してあると聞いた後で円歌の訃報に接したため、あの言葉がすぐに頭に浮かんだのだった。


 「北の湘南」と言われる地域ではあるが、桜はまだ咲いていなかった。
 
 しかし、庭のツツジが綺麗だった。
 町(市)の花にもなっている。
 私のガラケーでは上手く撮れなかったので市のホームページから拝借。
北海道伊達市のHPの該当ページ

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 老いた両親は、しっかり手を取り合って人生の花の山を登ってきたように思う。

 円歌の言葉をしみじみ思い出す、北への旅だった。

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# by kogotokoubei | 2017-04-26 12:47 | 幸兵衛の独り言 | Comments(4)

 古典落語には、今では演じられなくなったネタが多いが、そういった落語を発掘しようという試みについての嬉しいニュースを目にした。
 関西のニュースサイト「Lmaga」より引用。
Lmagaサイトの該当記事
滅んだ噺を復活、古典ならぬ古墳落語
2017.4.15 7:00

『時うどん』や『饅頭こわい』など長く語り継がれる古典落語。その一方で、時代に埋もれていった多数の噺があるが、そんな一度は滅んだ噺を復活させる試み『桂かい枝・小佐田定雄の「発掘カイシ!」その1・復活古墳落語』が、5月19日に「天満天神繁昌亭」(大阪市北区)で開催。4月13日、「上方落語協会会館」で会見がおこなわれた。

今回の落語会は、関西で多くの新作落語を手がけ、今年40周年を迎える落語作家の小佐田定雄と、昨年『繁昌亭奨励賞』を受賞した実力派・桂かい枝が企画。「古墳落語」とは滅んで埋もれた噺をさして故・桂米朝が言った言葉だ。小佐田は、「何か面白いことをやろう、やるからには後世に残り寄席でできる噺にしよう、と芸能史研究家の前田憲司さんに『誰も知らない題のみ残る噺』をあげてもらった。そのなかから今回は1894年(明治27年)の『桂派落語演題集』という番付に載る『屁臭最中』を選んだ」という。

「まさに『お題噺』。ただ『へくさもなか』なのか、読み方さえわからない。中身は想像できるが、汚い噺にはしないと決めて『へくさのさいちゅう』とし、遊びを入れて復活させた。落語家が増えて新しい噺が求められているなか、古い題でも使えるものは使う。これも一つの落語の作り方」と小佐田は意気込む。大阪・船場を舞台に得意の古典風味に仕立てて、20分程度の寄席仕様になった。

演じるかい枝は「面白い落語になっています。笑いもたくさん入るかわいい恋愛ものの噺。女子高生が聞いても共感できると思う」と自信をのぞかせる。会では大ネタの『帯久』も披露予定。かい枝にとっては二重の挑戦となる。今回の「発掘」で、どう蘇るのか楽しみ。成功すれば違う趣向の発掘噺も考えているという。チケットは前売2500円で、現在発売中。

取材・文・写真/やまだりよこ


 米朝が発掘した「古墳落語」は多い。

 『算段の平兵衛』『風の神送り』『矢橋船』、何より『百年目』に『地獄八景亡者戯』。

 米朝の努力がなければ、これらの噺を今の時代に聴くことができなかったと思うと、ぞっとするじゃないか。

 ぜひ小佐田さん、かい枝というニンなお二人の努力で埋もれた数多くのネタが発掘され、将来多くの噺家に演じられることを期待したい。

 最近、上方の落語愛好家の方が羨ましくなる企画が多いような気がしてならないなぁ。


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# by kogotokoubei | 2017-04-22 09:56 | 上方落語 | Comments(2)

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磯田道史著『徳川がつくった先進国日本』

 著者の磯田道史は、最近ではずいぶん名が通ってきたと思う。

 『武士の家計簿』、『無私の日本人』(映画タイトル「殿、利息でござる」)の二つの著作は映画化された。
 BSプレミアム「英雄たちの選択」のレギュラー出演者。

 出版されてすぐ『武士の家計簿』を読んで、新しいタイプの歴史学者の誕生を喜んだが、まさか、こんなに“売れる”とは思わなかった。

 私が読んだ『殿様の通信簿』や『龍馬史』なども発行されている文春文庫から今年1月に出た『徳川がつくった先進国日本』は、2012年1月にNHK出版から刊行された『NHKさかのぼり日本史⑥江戸 “天下泰平”の礎』の文庫化。Eテレで2011年10月に放送された内容の書籍化だ。
 
 歴史時代の地震津波を研究する「歴史地震研究会」の会員でもある磯田が発案した番組は見逃したが、この本で読むことで、なるほど3.11の後に組まれた好企画だったのだなぁ、と思った次第。

 「第3章 宝永地震 成熟社会への転換 1707年(宝永四年)」から引用したい。

  ターニングポイント③
          1707|宝永の地震・津波
             富士山噴火
          1716|徳川吉宗、将軍となる
          1717|大岡忠相を江戸町奉行に登用
          1722|上米制、新田開発を奨励する
          1742|公事方御定書の完成

 第2章では、天明の大飢饉という未曾有の危機を経験した幕府や諸藩が、それまでの純粋に軍事政権的な性格を変質させて、「民を守る」という政治意識を醸成して、福祉を国家あるいは政府の役割として認識していったことに注目しました。それは「民政」を重んじる政治への転換と言えるでしょう。
 (中 略)
 時代のターニングポイントとして注目したいのは、宝永四年(1707年)に起きた宝永地震と、その地震がもたらした巨大津波です。2011年3月、東日本大地震によって東北・北関東は人類史的な大被害を受けましたが、実はこの宝永地震は、江戸時代最大の地震であり、東日本大震災が起きるまでは、日本史上最大級の大災害でした。地震の揺れだけでなく、沿岸部を襲った津波が甚大な被害をもたらしたということでもこの二つの大地震は共通しています。

 本書では、各地で新田開発が進み、宝永の前十七年間続いた元禄年間に繁栄の時代を迎えていた当時の状況を説明している。

 まさに、バブルの世と似た状況下で、大災害の日に向かっていたのだ。

 さて、大規模な新田開発と背景に右肩上がりの経済成長を続けた江戸時代の社会ですが、この後、国を大きく揺るがす出来事が起こります。
 宝永四年十月四日(新暦では1707年10月28日)に起きた、宝永地震です。この日の午後二時頃、大規模な自信発生帯として知られる南海トラフ(遠州灘沖と紀伊半島から四国沖にかけての浅い海底の溝)を震源地とする巨大地震が発生しました。マグニチュード8.6と推定されていましたが、マグニチュード9とされている東日本大震災との比較研究によって、宝永地震の規模はマグニチュード9.1~9.3の大きさだったとする見解も出されています。
 この巨大地震はまた日本を襲うはずで、その時期やエネルギーを考える場合には、震源地のとくに両端、静岡県と愛媛・宮崎県に残った地震史料が特に重要になります。国民の命のかかっている話ですから、微力ながら、私もライフワークとしてこの地震古文書調査をしていくつもりです。

 マグニチュードの数字からも、宝永地震のとんでもない大きさが察せられる。

 では、どんな被害が実際にあったのか。

 現在の研究では、宝永地震と巨大津波による全国の死者は少なくとも二万人以上にのぼり、地震による倒壊家屋は六万戸、津波による流失家屋は二万戸に達したとされています。有史以来、最悪の規模の震災だったことは間違いありません。
 死者・行方不明者あわせて約二万と推定される東日本大震災で、私たちは地震と津波の恐ろしさを改めて痛感しました。当時の人びともまた、この宝永の地震と津波から計り知れない恐怖を感じたはずです。

 この大地震、大津波による甚大な被害から、江戸の人々はどう立ち直ろうとしたのか。
 3.11を経験した平成の世とは、実に対照的な“震災後”の姿が、そこにあった。

 戦国時代から幕末にかけての新田開発の件数を表した統計があります(木村礎『近世の新田村』吉川弘文館)。これによると、十七世紀はずっと右肩上がりで新田開発が伸びていますが、十八世紀に入ると、宝永地震のころ、明らかに新田開発が下降線をたどることがよくわかります。日本全国の耕地面積は十六世紀末には二百万町歩だったのが、十八世紀の初めに三百万町歩、十九世紀後半には四百万町歩にまで増えていますが、十八世紀には明らかにその増加率は落ち、この時期は耕地拡大が停滞していたことがうかがえます。
 耕地面積の増加が減ったことで、おのずと人口も減っていきます。歴史人口学の鬼頭宏氏の研究によれば、日本全体の人口は、十七世紀初めから十八世紀初めにかけて約二倍の急増を示していますが、十八世紀の前半から末には、逆に4・5パーセントの減少へ転じています(十八世紀末から十九世紀半ばには8・5パーセントの増加)。まさに現在と重なる、低成長時代の訪れといえるのではないでしょうか。それでは、低成長の時代を迎え、人びとの暮らしはどう変化していったのか。
 この時代、北陸の地で村役人・篤農家として活躍した鹿野小四郎という人物がいます。鹿野は加賀国江沼郡吉崎村(加賀市)の貧農の家に生まれましたが、大聖寺藩より大庄屋に抜擢されました。鹿野は晩年の宝永六年(1709年)に、子孫に向けて農書(農業指導書)の『農事遺書』全五巻を著しました。当時の北陸における農業の実態を伝える貴重な史料ですが、そこには「田の耕起は早くしない方がよい。とくに雪解けが遅かった年はまことによくない」といったかたちで、田の耕し方、病害虫の対処法、稲の刈り方など、自らの実験に基づく科学的な農業の心得が記されています。
 たえず年貢の増加を意図する領主に対し、当時の人びとは自らの取り分を確保するために生産量を上げる努力が求められました。鹿野小四郎は、農業には限りがないことを説き、次のように記しています。
「まさに農の益は計り知れない。物にはすべて限りがある、しかし農業は土地から物を生み出すものであり、やり方によって限りがない」(『農業遺書』)。
 十八世紀以降、人びとは農業の効率を高め、全国で多くの農書が普及していきました。さらに農民たちは農書に学ぶだけでなく、農具の改良にも力を注いでいきます。
 まさに、昭和の日本農業の特徴であり、つい最近までは“強み”とされてきた姿が、宝永の地震と津波から復興するための“知恵”と“努力”として具現化したわけだ。

 その努力の結果、単位面積あたりの生産量は増加し、十七世紀には一反あたり一石ほどだった米の収穫高が、十八世紀以降、最大で二石にまでになった。

 同じ耕地から、できるだけ多くの収穫を得ようとするための“学び”の姿勢は、相乗効果を生んでいく。

 農書の普及とともに農村に浸透していったのが「読み書き」の能力です。人びとは農書を読む力をつけるために寺子屋に通い、読み書きを学びました。江戸時代、日本人の庶民の識字率は世界でも突出したものだったことが知られています。教育の普及と識字率の上昇は、人びとの暮らしに変化をもたらしました。各地では、地域のつながりである「講」が相互扶助や自治機能を高めていきます。
 宝暦十二年(1762年)に、出羽国村山郡の村人たちが作成した「念仏契約講年代鑑」という記録帳簿が残されています。そこには、天候、作柄、市場、災害、一揆、政治、対外関係に至るまで、人びとの生活にかかわるあらゆる情報が記録され、村人の間で共有されていたことがわかっています。十八世紀以降、日本各地の農村では、情報が収集・蓄積され、共有化されることで、村の自治力が高まり、人びとの暮らしの質を充実させていく傾向が見られました。

 同じ日本人として、先人の偉大さに大いに感謝すべき歴史の事実ではないだろうか。

 著者は、この時代の江戸社会が「量的な拡大から質的な充実へ」と価値観の大転換を図り、安定して成熟社会へ向かっていった、と説明する。

 そして、今の日本のことを、どうしても思わないではならない。

 現代に置き換えると、右肩上がりの成長を続けた昭和はまさに「元禄」、その後のバブル崩壊後の平成の低成長時代が「宝永」に当たると言えるのではないでしょうか。宝永以後、江戸時代の人びとは与えられた資源のなかで身の丈にあった豊かさを見出していく努力を続けました。そうした思考の転換を図った徳川社会に、昭和元禄をへて平成宝永を生きる現代人が学ぶことはたくさんある、と私は思うのです。

 まったく同感だ。

 バブル崩壊後、低成長時代と言う言葉が氾濫したものの、現代の日本人はその意味することを、江戸時代の人々のように理解しているのだろうか。
 そして、価値観を転換すべき時に、いったい何をしてきたのだろうか。

 転換すべき契機は、もちろん、3.11だ。

 まさに、喉元過ぎれば、という国民性の通りに、平成の日本人はこの六年間を過ごしてきたのではなかろうか。

 今では、NHKのニュースの中のコーナーなども含め、不要不急な製品の紹介が氾濫している。
 アベノミクスなどというまやかしの言葉を担いで、低成長時代は終わった、とばかりのメディアによる情報発信が続いている。

 違うのだ。
 低成長でいいのだ。それは、量から質への転換の契機であり、学ぶ社会への回帰にもなるはずなのだ。

 3.11以後、いったんは取戻すかと思えた宝永後の江戸の人びとのような真摯な姿勢、相互扶助の精神は、どこに行ったのか。

 “身の丈に合った豊かさ” 

 “量的拡大から質的充実へ” 

 こういった言葉を、江戸時代の先人たちから、あらためて学ぶことが大事なのだろう。
 一つ前の記事で、嘉永五年(1853年)の「親父之小言」について書いたが、平成の日本人は、もっともっと、江戸時代、そして歴史に学ぶ必要があると痛感する。

 江戸時代をもろ手を挙げて礼賛しようとは思わない。
 しかし、「歴史は繰り返す」ことを思うと、せっかく先人たちが残してくれた知恵や営みを見逃すことは、実にもったいないことだと思う。

 そういう意味で、学ぶべきものが江戸時代に多い、ということだろう。

 現代の物質文明との対比で江戸時代は自然と共生した社会、と形容されるが、実は、本書でも指摘されているように、この宝永地震以降、自然との共生社会(エコ社会)、学びと助け合いの社会が醸成されていく。


 歴代の復興大臣に失言が多いのは、本人の適性に問題があるのはもちろんだが、政府が復興を真剣に考えていないこと、復興相という役割を軽視していることの証だろう。

 他の無駄な予算をなんとか回してもらってでも、たとえば、自主避難者の方への支援策を考えるべきなのが、復興大臣の仕事ではないのか。

 地震と津波で、もはや耕地の拡大が見込めない状況下、与えられた狭い耕地から、いかに多くの米を収穫し、国には年貢という税金を支払った上で、自分たち家族が飢えないようにするにはどうすべきかを真剣に学び努力した江戸の先人たちの爪の垢を煎じて飲ませたい人が、永田町には大勢いる。

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# by kogotokoubei | 2017-04-19 22:21 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(2)
 ものぐさなせいで、普段持ち歩くバックの中に古い資料などが詰まったままになっており、紙も量が増えると、結構重くなる。

 少し中身を整理した。

 落語会のチラシや自分のメモやら寄席のプログラムやらに交じって、ずいぶん前に、落語愛好家仲間のIさんからいただいた新聞の切り抜きが出てきた。

 それが、これ。
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 「親父の小言」として普及していた内容の元となる資料が発見された、という記事。

 調べてみると、この新聞の記事は、NHKの解説者による情報が元になっていたようだ。
 「視点・論点」でも取り上げたらしいが、NHKサイトの解説者のページに、嘉永版と昭和版との違いなどを含めて載っていた。一部を紹介する。
NHKサイトの該当ページ

 結局、仏教図書館の写本は、江戸末期までに出版された教訓書10点を写して合本したものでした。その一つが「親父之小言」で、本文は嘉永5年板と同じ81カ条です。正確な書写年代は不明ですが、他の教訓書の内容から、江戸末期から明治初年にかけての写本と推定されます。
 したがって、江戸時代の「親父の小言」は、今のところ嘉永5年板の81カ条以外には存在しません。さらに古いものが見つかる可能性は十分ありますが、81カ条と同系統のものと考えられます。いずれにしても今回の発見で、『親父の小言』は昭和3年を約80年遡る嘉永年間には成立していたことが明らかとなったのです。
 この情報をマスコミ数社に伝えたところ、ある新聞社がいちはやく取り上げてくれ、東京版では「親父の小言、起源は江戸」、大阪版では「ガミガミ親父、江戸にいた」の見出しで報道していたのが印象的でした。

 さて、嘉永5年板『親父の小ごと』は、思いつくままに81カ条を列挙したようで、関連する箇条が前後に分散しがちです。また、嘉永板と昭和版とでは箇条数が大幅に異なるため、各箇条を分類・整理してみました。
 すると、両者の小言の構成比は大差ないことが分かりました。

 この分類では、①の対人関係の心得が最も多く全体の2割を占めます。その三分の一は、老人、病人、困窮者、身寄りのない人など弱者に対するものです。この点は「小言」の大きな特徴です。
 ②の家業・家政の心得が多いのは当時の教訓書の通例です。また、③の危機管理も家業・家政と関連しますが、特に、火事や天災に対する心構えは「小言」の強調点の一つです。
 その一方で、⑥の修己・修身や、⑦の家族・家庭の心得が極端に少ない点が目立ちます。当時の教訓書では、むしろ⑥や⑦に関する事柄に比重を置くのが一般的です。
 このように、「親父の小言」は、対人関係の箇条が際立っています。そこには、世間の人を「人様」と呼ぶ精神が息づいているように思います。「小言」を読むと、私はいつも評論家の草柳大蔵さんの逸話を思い出します。
 石屋に生まれ育った大蔵少年が中学三年のある夏の日。これから銭湯へ行こうというのに、わざわざ父親が井戸端で行水をして、体を奇麗に拭いていました。それを見た大蔵少年は、「銭湯へ行くのに、どうして体を拭くの。それは不合理じゃないの」と言いました。すると、父親は「銭湯で着物を脱いで汗臭かったら、人様の迷惑だろうが!」と叱ったそうです。
 私もそうですが、現代人の多くの人が、大蔵少年と同じ発想になるのではないのでしょうか。
 そう言えば、最近は「人様」という言葉もあまり聞かなくなりました。ややもすると、「人様」より「俺様」の時代かもしれません。江戸時代に庶民道徳を説いた「石門心学」の教えも、「俺が俺がが増長すると、一生おかしな人間になる」と戒めています。

 嘉永板を公開後、多くの方々から感想を頂きました。160年前の『小ごと』は今や懐かしい「頑固親父」の象徴であり、そこから、多くの人が日本人の心を感じ取っているようです。特に、対人関係を重視する『小ごと』は、江戸の「もてなし」や「ふるまい」の心を現代に伝えるメッセージと言ってもよいでしょう。
 本来、無名の「小言」を国民的な格言に引き上げたのは、紛れもなく大聖寺の45カ条であり、暁仙和尚の尽力によるものです。そして、今回の嘉永板の発見は、江戸時代の文化や歴史の痕跡が意外と身近な所に残っている事を示す一つの証であり、江戸文化の奥行きを感じさせるものでしょう。
 45カ条にしろ、81カ条にしろ、「親父の小言」が時空を超えて語り継がれ、近い将来、その文言が「ことわざ辞典」に採録されることを密かに願う次第です。

 小言という言葉を名前に持つ身としては、実に貴重な資料の発見と、あらためて感じ入っている次第。
 Iさん、遅ればせながら、切り抜き記事ありがとうございます。

 嘉永版を入手された小泉吉永さんは、『江戸に学ぶ人育て人づくり』(角川SSC新書)や『江戸の子育て十カ条』(柏書房)など、往来物を元にした著作を多数書かれている。
 「往来物倶楽部」というサイトも運営されており、嘉永版の古書の写真や、「八十一カ条」の内容も、同サイトで紹介されている。希望者には冊子も送ってくれる。
 
「往来物倶楽部」の該当ページ

 NHKで取り上げたことや、毎日や他のメディアでの掲載についても、このサイトで紹介されている。
 実は、Iさんからいただいた新聞の切り抜きは、ところどころ破けてしまっていたので、小泉さんのサイトに掲載されていた新聞画像を拝借して掲載した次第。

 一つ一つの小言は、あくまで「庶民」の立場での処世訓であり、「俺様」という発想を排し、目上の人や相手を敬う「人様」という姿勢が根底に貫かれている。


 昭和版の普及に貢献した大聖寺は、あの福島県浪江町にある。
 
 その浪江町では、20ミリシーベルトというとんでもない基準を基に、3月末をもって多くの地域で避難指示が解除されるという状況になっている。

 こちらも、毎日から引用。

毎日新聞の該当記事

浪江町
避難指示解除へ 町長「苦渋の決断」 危機感も

毎日新聞2017年2月28日 09時59分(最終更新 2月28日 10時08分)

 東京電力福島第1原発事故で福島県浪江町に出ている帰還困難区域を除く避難指示について、馬場有町長は27日、3月31日に解除する政府案を受け入れた。町民説明会などでは町内の除染の効果や生活インフラへの不安から解除を疑問視する声が目立つものの、町長は、町に帰りたい住民の思いを尊重した「苦渋の決断」であることを説明。住民帰還を進めて人口を確保しないと、将来的に町が存続できなくなるという危機感もうかがえた。【土江洋範】

 同県二本松市の仮役場であった町議会全員協議会の冒頭、馬場町長は町議の意見を聞いた上で自らの考えを述べると説明。一部町議は「解除は時期尚早」と訴えた。

 「空間放射線量が比較的低い場所だけを解除すべきだ」、「避難指示が解除されると、避難者への支援策が打ち切られる不安を拭えない」、「第1原発の廃炉作業は安全が確保されているのか」--。町長は腕を組んでうつむき、時々顔を上げた。

 町議から賛否両論の意見が出た後、町長は立ち上がり、政府案の容認を表明。声を詰まらせながら「町を残すためには、今この時期に解除することが必要だ。この6年間、町民の塗炭の苦しみを振り返ると、悲しみ、悔しさ、無念の思いがあふれ、言葉にすることもできない。その中で誰もが強く願ってきたのは、浪江をなくしてはいけないということだ」と語った。意思表明は約12分にわたった。

 復興庁などが昨年9月に実施した世帯アンケートでは「戻りたい」17.5%▽「判断がつかない」28.2%▽「戻らない」52.6%--との結果になり、前年より帰還意欲が下がった。

 全員協議会後、町長は報道陣に対し、「これまで『町長。早く戻してくれ』という町民の声が頭にこびりついている。その言葉があったので苦渋の決断をした。これ以上(避難指示の期間を)長くすると帰りたいという方の心が折れてしまう」と述べた。解除のタイミングの限界を「今回が最終ステージ」と表現した。一方で、住まいや買い物などの生活環境は最低限との認識を示し、住民帰還を促進するために環境整備を急ぐ考えを説明した。

 町は27日、町長名で「避難指示解除に関する町民の皆さまへのメッセージ」をホームページに公開した。


 兄弟ブログ「幸兵衛の小言」に、20ミリシーベルト基準の問題などを書いた。
「幸兵衛の小言」2017年3月8日の記事

 国が「大丈夫」と言ったって、まだ放射線量は危険値を上回っている。
 チェルノブイリの基準と比べてみれば、20ミリシーベルトという基準がどれほど問題かは明白だ。

 なぜ、日本政府がチェルノブイリに学ぶことができないのか、不思議でならない。

 それは、「人様」という考え方が欠落しているからではないのか。

 浪江町の人々にとっては、戻りたくても戻れない故郷なのだ。

 その浪江町のことを忘れないためにも、「親父の小言」の内容を噛みしめたい。

 教育勅語を復活させようとする「俺様」たちがいるが、「人様」への気配りを最優先にする「親父の小言」の方が、はるかに「教育」的だと思う。


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# by kogotokoubei | 2017-04-17 12:54 | 幸兵衛の独り言 | Comments(0)
 こんなニュースを目にした。CINRA.NETというサイトの記事。
CINRA.NETの該当記事

ピエール瀧らが春風亭一之輔の落語にアテブリ NHK『落語 THE MOVIE』特番
2017/04/14 21:06

落語番組『超入門!落語 THE MOVIE スペシャル(仮)』が5月2日にNHK総合で放送される。

同番組は、昨年10月からレギュラー番組として放送された『超入門!落語 THE MOVIE』の特別版。『超入門!落語 THE MOVIE』では落語を映像化し、噺家の語りにあわせて役者の口が動く「アテブリ芝居」によって、落語を初心者にも親しみやすい作品に仕立て上げる。

特番では親子の情愛を描いた演目『藪入り』を放送。噺家として春風亭一之輔が出演し、リップシンクを駆使した「アテブリ芝居」にはピエール瀧、鈴木保奈美、鈴木福が登場する。
 NHKの番組サイトでは、まだ案内されていないように思う。

 一之輔は、「プロフェッショナル 仕事の流儀」について記事を書いたが。年間350日、900席という高座をこなしながら、この番組への出演も少なくない。
 いわば、凖レギュラー的存在。とにかく、仕事を断らないのだろう。

 ピエール瀧は、私は林家しん平監督の「落語物語」で初めて知った役者さんだが、あの噺家の今戸家小六役は悪くなかった。
 テレビで観た感想は以前記事にしている。
2012年4月30日のブログ

 『藪入り』という噺は、二年前の大学の同期会での宴会の余興で演じて、ややすべった経験がある。
 素人が宴席で酔った客の前で披露するには、マクラを含めて少し長すぎた。

 奉公先から久しぶりに帰って来る我が子と両親との物語だが、今ではなくなった奉公という風習やネズミ退治のことなどをマクラで仕込む必要がある。

 前夜眠れず我が子を待ちわびる両親の様子や、子供が帰ってからの勘違いによる一騒動など、意外に難しいネタだと思う。

 一之輔のこの噺は初めて聴く。
 ちなみに、真打昇進披露興行では、二度(鈴本三日目、国立六日目)演じている。

       (一之輔の真打昇進披露興行におけるネタ一覧)
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 一之輔が、この番組用に、どんな端折り方をするのかは、興味深い。

 また、ピエール瀧、鈴木保奈美、鈴木福といった出演者のアテブリ演技も、楽しみ。

 子供の日を直前に控えた、好企画ではないだろうか。

p.s.
他のネットメディア(ORICON NEWS)などによると、放送は、5月2日(火)午後10:00~10:25とのこと。
ORICON NEWSの該当記事

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# by kogotokoubei | 2017-04-16 17:25 | テレビの落語 | Comments(2)
 林家染丸が、師匠三代目染丸の「50回忌追善落語会」を開くことについて、記者会見をした。
 スポニチから引用する。
スポニチの該当記事

林家染丸 師匠の50回忌追善落語会発表会見 「誇れることは弟子が増えたこと」

 落語家の林家染丸(67)が12日、大阪市内で、師匠である3代目林家染丸さんの50回忌追善落語会(6月17日、天満天神繁昌亭)の発表会見を開いた。

 先代は生前、一門を大きくしたいというのが口癖で、現在は13人を数えるまでに。「師匠に誇れることは弟子が増えたこと。自慢できます」と胸を張った。上方落語協会の初代会長でもある先代は、噺が終わるまで公演では誰も席を立たず、終了後にトイレに長蛇の列ができたといわれる伝説の噺家。今回、一門と縁の深い笑福亭仁鶴(80)に出演を染丸自らお願いし、当日は思い出話に花を咲かせる予定。[ 2017年4月12日 17:33 ]

 三代目染丸が初代会長を務めた上方落語協会創立当時のことは、先日、露の五郎兵衛の本から紹介した。
2017年4月3日のブログ

 当代染丸の体調については気になっていた。
 四年半ほど前に脳梗塞になりリハビリ中と聞いていたが、師匠の追善興行が出来るところまで快復してきたようで、なにより。

 その師匠三代目林家染丸は、明治39(1906)年3月25日生まれで、 昭和43(1968)年6月15日に旅だった。
 本名は、 大橋駒次郎。綽名が「おんびき」(ヒキガエルのこと)だったとのこと。

 関西で人気者だった「ザ・パンダ」のメンバーだった小染が四代目染丸を継ぐだろうと思われていたが、小染の事故死により総領になったのが、当代の染丸。
 三味線も弾けることもあり、寄席囃子の保存、普及に力を入れているが、実に貴重な活動だと思う。
 


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 先日の記事で引用した露の五郎兵衛の『上方落語夜話』に、三代目染丸に関することとして、昭和36年のことが書かれいた。紹介したい。

東西若手交流

 昭和三十六年の上方落語界は東西交流によって幕をあけました。朝日放送と東京放送がキモいりで、東西の落語家が交流。それぞれの寄席へ出演して勉強する話がもち上がり、受け入れ先としては、大阪が角座、東京は東宝名人会を定席にもう一ヵ所上野鈴本または新宿末広亭のいずれかが予定されたのです。が、東京からは二つ目、いわゆる中堅クラスが来阪したのに対して、大阪方は全勢力を投入しても、二十数名、それこそジャコもモロコも入れてですから、その第一弾として、あいさつもかねて、大阪からは落語協会会長の林家染丸みずから東上するのに、東京あkらは柳家小ゑん(現立川談志)が・・・・・・と、いうありさま。この層の厚さの違いが、やがてこの交流の中止につながるのですが、それにしても、上方落語協会はここにおいて、はじめて他流試合の経験をもつことになったのです。それまで、二、三、個人的に東上、寄席出演をしたものはありましたが、大多数は初上京。かなり気負いたっていました。
 二月第一陣の染丸は帰阪後、二十四日付「日日新聞」紙上で、「わたしの口からいうのはおこがましおますけど、評判は上々、なにしろ大阪弁の肩身が年々ひろうなりまして、言葉に気を使いまへん。ただ東西共通の欠点はテレビと落語が水と油みたい。これをなんとか考えなかったら・・・・・・」と、語っています。
 ともあれ、この交流のおかげで、東西の若手が友達になり、上京下版の折にはその自宅へ一夜の宿を借りたりしたもので、そうこうするうちに協会の交流とは別に自主的に東上来阪するものも出てきはじめ、若手間のつきあいは目に見えて活発になり、この年の十二月、「やろうよ」「やりまひょう」ということになって東京人形町の末広で、東西若手中堅落語合同競演会ときう、イヤに長たらしい名前の会が開かれました。東京は三遊亭吉生(現円窓)、林家照蔵(現柳朝)、三遊亭全生(現円楽)、柳家小ゑん(現談志)、一応大阪ということで桂小南、客分格で三遊亭百生、大阪から東上は、小春団治(現五郎)、文紅、補導に桂文楽という顔ぶれです。
 そしてそれの大阪版が、翌昭和37年二月二十一日、東西若手落語会として三越劇場で実現しました。
 東上下版の交流出演者はそれぞれ東京放送と朝日放送を中心に最低二本以上のラジオ出演を取ってもらって、そのギャラが滞在の経費にあてられていたのです。
 三越における東西若手落語会の顔ぶれは、桂小米(現枝雀)、笑福亭花丸(廃業)、桂我太呂(現文我)、一(かず)の一(はじめ)(後染語楼となり物故)、柳家小ゑん(現談志)、桂文紅、三遊亭全生(現円楽)、桂小春団治(現五郎)、補導出演、林家染丸(故人)でありました。

 小春団治(五郎)にとって、この交流で出来た人脈は、その後大きな財産となる。

 先日、毎日新聞の“落語ブーム”に関する記事について書いたが、その中で、現在横浜や大阪で開かれている二ツ目相当東西若手六人による会のことに触れた。

 私は、さん喬と新治など、個人の噺家さん達の東西交流がいろいろあるのは認識しているが、東西の協会同士が交流のために積極的に活動しているという話を、耳にしない。

 もちろん、いろいろ難しいこともあるだろうが、ブームとは言えなくとも、少なくとも落語という芸に訪れた“波”を活かして、個と個の点と線だけではなく、面として、そして、より立体的なスケールの大きな落語界の活動があってよいと思っている。

 なぜなら、まったくの“なぎ”の状態において、上方落語への“波”を率先して起こそうとしていた昭和三十年代の重鎮、三代目染丸の苦労がいかばかりかと思うからだ。
 
 引用した内容には、なんとも懐かしい当時の若手の名前の中に、染丸の名が混じっている。
 協会創立間もない頃に、初代会長として奮闘していたことが、察せられるではないか。

 リハビリ中だった染丸が、師匠の50回忌にかける思いは深くて熱いものだろう。

 その50回忌追善落語会が、一門とその愛好家たちのための興行になるだけでなく、初代上方落語協会会長染丸が率先して奔走していた東西交流について議論されるきっかけになって欲しいと思う。

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# by kogotokoubei | 2017-04-13 21:54 | 上方落語 | Comments(2)
 昨夜、NHKの「プロフェッショナル 仕事の流儀」は、なんと春風亭一之輔。
NHKサイトの該当ページ

 これまでこのシリーズで取り上げた“プロフェッショナル”の中では、39歳というのは、最年少かどうかは、よく調べていないので分からないが、間違いなく、若い方に入るだろう。

 お題は「遠くを見ない、目の前を生きる」だった。

 NHKの番組サイトから引用する。
今の自分を写す 

江戸時代以来と言われる平成“落語ブーム”をけん引する、春風亭一之輔(39)。
人間国宝・柳家小三治が「久々の本物」だと称賛し、21人抜きで真打ちに大抜てきした。
その真骨頂は、古典落語を守りながらも、現代的なギャグをいれるなど自分の言葉で大胆にアレンジすること。さらに高座に上がる度にセリフを練り直し、絶えず進化させていく。
卓越した話芸を支えるのは、「今の自分を落語に写す」という一之輔の流儀。
たとえば十八番の噺(はなし)のひとつ「初天神」に出てくる子ども・金坊は、自らの次男がモデル。目つき、言い方、しぐさ、日常で垣間見せるさまざまな所作を投影している。またそのために、家族、学校の先生、テレビでみる芸能人、駅ですれ違う人など、あらゆる人を常に観察しているという。そこで感じたことを自分の中に取り込み古典落語としてはき出した時、現代的な表現となり今の時代にあった落語となっていく。

目の前だけを、見る

一之輔は、年間350日、およそ900席もの高座に立ち、落語界一多いとされる。
一席でも多くの高座にあがることが一之輔のこだわりだ。
大胆な落語で客を沸かせる一之輔だが、その素顔は正反対。客に受けないことを何より恐れ、楽屋では人知れずぼやき、迷い、不安と闘い続けている。
身ひとつで高座にあがり、自らの話芸のみが頼りの「噺家(はなしか)」。芸を追求する道に終わりはない。場数を踏みどれだけ人気がでようと、一之輔は歩みをとめない。時に受けなければ、その場でもう一席別の古典落語をはなすこともある。
噺(はなし)をよりおもしろくするために、どんなに忙しくても時間を見つけては、歩きながらでも稽古する。根はひねくれ者だが、落語にだけはどこまでも真摯(しんし)に、貪欲に向き合い続ける。

「目の前ですね、一席一席だな。常連さんや初めて来るお客さんに笑ってもらう、その責任を果たすだけです。」
遠い将来よりも、目の前の一席に力の全てを注ぐと決め、今日も高座にあがる。

 350日、900席・・・凄い!
 ほとんど寄席は休んでいない勘定。

 番組前半は、本人の語りも含む、これまでの半生について。
 そして、家庭での三人の子どもの父親の姿もカメラは追いかけていた。

 四年半ほど前に、彼の著作『一之輔、高座に粗忽の釘を打つ』について記事を書いた。
2012年10月8日のブログ
 あの記事では、彼の一人での真打昇進披露興行を中心に紹介したが、同書には、彼の半生についても語られている。

 もちろん、同じ人間のことなので、あの本で知った内容と重なるが、テレビの時間的な都合もあるので、やや食い足らないのはしょうがないか。
 高校時代のラグビー部での葛藤や、たまたま電車を降りた浅草での寄席との出会い、一朝を師匠としようと思った理由などは本の方がずっと詳しいので、興味のある方はご一読のほどを。

 後半は、自作の『手習い権助』というネタが中心になっていた。

 ある落語会のために作った新作を、いかに寄席でもかけられる内容に磨き上げていくか、というような内容。
 その落語会とは、2月2日に開かれた「らくご@座・高円寺」の天どんとの二人会で、同落語会のサイトに、内容が載っている。
「らくご@座」サイトの該当ページ

 一昨日、末広亭で彼の『権助芝居』を聴いた。
 たった8分で会場をひっくり返した力量には、あらためで感心したが、聴きながら、権助という人物が、実に馴染んでいるように感じたのは、『手習い権助』をずっと磨いていたせいか、などと見ながら勝手に合点していた。

 番組で少し小言を言うなら、彼の「寄席」への執着について、もっと描いて欲しかった。
 年間350日、900席ということは、どれだけ寄席を大事にしているか、という証なのである。

 真打昇進後、今後はチケットがますます取りにくくなるなぁ、とは思っていたが、予想以上の人気上昇である。
 そして、彼はその人気に我を忘れたり、自惚れることはなさそうだ、と思っていたが、こちらは予想通り。

 元々、寄席が大好きであり、その寄席のお客さんを楽しませるために、古典のどこをどう自分なりの噺として磨いていくかを、常に考えている姿をこの番組で確認できて、安心した。

 この番組で初めて一之輔を知った方も多いはず。
 ますますチケット争奪戦が激しくなるのは覚悟しよう。
 だから、寄席で聴くのが一番だな、などとも思う。
 
 この番組の収録の裏話(?)を、週刊朝日の彼のコラムで取り上げたようで、「dot」のサイトに載っていた。
「dot」サイトの該当記事

 一部を紹介する。

 去年から密着されている。一つはNHKのドキュメンタリー番組「プロフェッショナル 仕事の流儀」。いろいろ取材を受けてきたが、とうとう親分みたいなのが来ちゃったよ。NHK、ネタギレだろうか? 「流儀」も何もないヤツを取り上げて大丈夫か? 番組成り立つのか?

 暮れにオファーが来て、年明けから3月頭までほぼ毎日密着。ディレクターさんが若い。30代前半、イケメンだ。NHKのディレクターってみんな和田勉みたいな個性的な生き物系おじさんだと思ってたので意外である。

 積極的にヤラセ演出に協力しようと思ってたのに、「いつも通りにしてください」と肩透かしをくらう。捨て猫を拾ってミルクあげたり、お婆さんをおぶって横断歩道渡ったりするつもりでいたのに残念だ。

 お婆さんをおぶって、を読んで「お前は、笹川良一か!?」と心の中で突っ込んでいたが、一之輔、あのCM見てた世代か・・・・・・。

 もう一つの“密着”は、ある本の取材だったようだ。


 今後の東京の落語界を背負って立つ一人であることは間違いない男。
 もうじき四十路を迎える。

 いつかは壁にもぶつかるだろう。
 しかし、あくまで目の前の“寄席”の高座に集中する姿勢を忘れないことで、その壁を超えることが、この人には出来ると思う。

 そして、噺をどう彼なりに、そして今なりに変えるかを常に考え、世の中を、人を、家族を観察しているから、その新しいクスグリが活きている。

 たまには変えてすべるクスグリもあるだろうが、聴く度にどう変わるを楽しめる希少な噺家、一之輔に今後も期待する。

 最後に「プロフェッショナルとは」というお決まりのサゲの質問への答え、サイトには二つ目の答えが載っていないが、私にはそっちの答えこそ“プロフェッショナル”の証だと思ったなぁ。

 昨日見逃した方は、再放送(4月14日午前2時15分~午前3時04分-木曜深夜-総合)をご覧のほどを。

 
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# by kogotokoubei | 2017-04-11 12:52 | テレビの落語 | Comments(8)
 雨でテニスが中止。
 こうなれば、行きたかった末広亭へ駆けつけるしかない。
 昼が小満んの主任で、顔付けも悪くない。
 諸般の事情で、夜の真打昇進披露興行までは居続けできないが、それもやむなし。

 熊本復興支援(?)で桂花ラーメンで昼食をとってコンビニでお茶などを仕入れて、小雨降る中を少し並んでから入場。

 椅子席は八割ほどすぐ埋まったが、好みの下手桟敷に場所を確保。
 仲入り時点では、すでに一階は椅子席も桟敷もほぼ満席で、二階席も開いていた。

 出演順に感想などを記す。

橘家かな文(10分 *11:52~) 
 昨年11月、国立の志ん輔独演会以来。ネタも同じ。
 あの時にも気になったのだが、どうも長髪が馴染めない。
 後から出て来る小辰や一之輔ほどにはしないにしても、もっと爽やかさが欲しい。
 高座も、二年前に聞いた『やかん』の出来の方が良かったように思う。
 文蔵は、頭髪のことなどはあまり注意しないのだろうか。

入船亭小辰『狸の札』 (12分)
 かな文とは対照的な剃ったような頭が清々しい。
 久しぶりだが、ずいぶん上手くなった。声のメリハリが効いていて、少しだけ師匠を彷彿とさせる。
 独演会なども積極的に開いているようなので、何とか行きたいものだ。

林家楽一 紙切り (8分)
 ご挨拶代わりの「土俵入り」の後、上手桟敷の女の子のリクエストで「バレリーナ」、下手桟敷、私のすぐ近くに母親と一緒に来ていた男の子のリクエストで「バッタ」を切ったが、どちらもなかなかの出来栄え。語りも以前よりは落ち着いてきた。
 紙切りという伝統芸に継承者がいることは、実に嬉しい。

春風亭一之輔『権助芝居』 (8分)
 この日、客席からもっとも大きな反響と笑いをとったのは、マクラを含むこの人の高座と、仲入り後の白酒。
 どちらも客席の反応は、良い勝負だったなぁ。
 あれがたった8分だったとは・・・後からメモを見て驚かされる。
 寄席が好きでしょうがない、という噺家は高座を自分も楽しんでいるようだし、もちろん客席もその楽しい時間と空間を共有している、そんな感じなのだ。
 今夜楽しみにしているNHK「プロフェッショナル 仕事の流儀」で特集するだけのことはある。

古今亭志ん陽『代書屋』 (12分)
 天どんの代演。
 履歴書を代書屋に頼みに来る男の名が、太田道灌。
 代書屋が、「おおの字は大きいなの、太いなの」と聞くと「あっしのは、太くて大きい」と返したが、小学生が客席にいるのも構わぬクスグリ^^
 道灌の字は、かんの字が難しい。前座が良く間違えて叱られるんだ、には笑った。
 久しぶりだが、この人、こういう噺も悪くない。

東京ガールズ 邦楽バラエティ (13分)
 ♪裏路地の~
 のネタ、結構客席を沸かしていたし、クスグリの後のなんとも言えない二人の表情が可笑しい。このネタは初めて聴くが、なかなか楽しいね。

古今亭志ん弥『替り目』 (15分)
 志ん輔の代演。この日は、代演が多かった。
 女房が、都腰巻一枚で、アブラムシの背中のような顔色、という描写が、なんとも結構。
 酔っぱらった男の「つまみ出しな」に、女房の「お前さんをかい」で客席も私も大笑い。“間”が良いのだ。
 おでん屋に行く前に鏡台の前に向かった女房に「消し忘れた黒板みたいになっちまって」も笑える。
 この人は古今亭の伝統を伝える本格派だとつくづく感じた。これまでの印象以上に巧さを感じた高座。こういう高座に接し、無理に笑わせようなんて思わず、落語本来の持つ楽しさを引き出すことが大事なのだと、若手には伝わって欲しいものだ。

金原亭馬の助 漫談&百面相 (14分)
 落語界と相撲界の身分制度(?)などについて語った後で、十八番の百面相で客席を沸かす。
 相撲界で、幕下になって初めて角帯、角そで(外套)が許される、三代目でようやく雪駄が履ける、などは初めて知った。
 こういう漫談なら、実に結構ではなかろうか。

ニックス 漫才 (14分)
 ロケット団の代演。
 この人たちはこれまで苦手だったのだが、初めて笑わせてもらった。
 日本語と英語の掛け合いは、結構良いネタではなかろうか。
 妹「虎?」
 姉「タイガー」
 妹「虎のおしっこ」
 姉「?」
 妹「タイガージャー」
 など、私の仲間内での落語のマクラでいただくつもり^^

林家種平『お忘れ物承り所』 (16分)
 正蔵の代演。
 以前も聴いたことがあるが、新作とはいえ、時代性の面できついネタ。
 笑わせどころはあるのだが、若干無理がある。
 
金原亭伯楽『長屋の花見』 (14分)
 まさに旬のネタ。
 それぞれの語りを、実に丁寧に進め、本来のネタの可笑しさで、しっかり客席を楽しませる高座。これぞ、寄席の逸品だ。忘れないように、を付けておく。
 居残り会仲間の佐平次さんが四日目にいらっしゃって、このネタを始めたところ、二階席の酔っぱらった客がわめき出して、途中で漫談に替えざるを得なかったとのこと。
 この日は、実際の酔っ払いは客席にはいず、噺に客が酔っていた。

松旭斉美智・美登 奇術 (15分)
 近くにあの男の子がいたせいか、プレゼント・マジックでキャンデーをゲット。美味しくいただきました。
 
桂文楽『看板のピン』 (14分)
 仲入りは、この人。
 羽織の脱ぎ方が、こんなに綺麗だったっけ、と新たな発見をした気分。
 東五西二南三北四なんていうサイコロの説明なども渋さが漂う。
 ソース焼き蕎麦CMの方も、年齢相応に貫禄が増してきたなぁ。

柳家一九『湯屋番』 (15分)
 クイツキは、トリの小満んの二人の弟子の一人。
 マクラは以前も聞いているネタだが、青森で路上のリンゴの直売に「地方発送、承ります」と書いてあり、「主にどこに送ることが多いの」と農家のお婆さんに聞くと、「ほとんど、東京だ」との答え。この、お婆さんに、拍手^^
 東京は、大いなる田舎だからね。
 一九は、『そば清』なども実に味があるが、こういう噺も、しっかり楽しませてくれる。お妾さんに惚れられる妄想による一人芝居は結構だったし、弁天小僧の口上を立て板に水で聞かせてからの「煙突小僧煤之助」も、決まった。

笑組 漫才 (11分)
 ずいぶん久しぶりだ。
 師匠だった内海好江の思い出話から、好江→志ん朝→志ん五、と弟子になった師匠が次々に・・・という、ちょっとだけブラックな自虐ネタ。
 誰かが、「うちの師匠の弟子になってくれ」と言ったとのことだが、誰かは、内緒。
 かずおの持っている“オーラ”が“幕内オーラ”で、幕を越えて客席に届かないというのは、初めて聴いたかなぁ。
 かずおが、「白内障」を「水晶米」と間違えた、というのはネタか、それもと事実か・・・・・・。
 主任の持ち時間を作るのも、この時間の色物さんの大事な仕事。キリンとゾウのネタでサゲたが、やはり、この人たちの漫才は、いいねぇ。

桃月庵白酒『つる』 (12分)
 この人は、寄席の十八番をたくさん持っている。その、一つ。
 ご隠居が八五郎に、首長鳥がなぜつると呼ばれるようになったか、という謎解きをした後の、言葉にならない言葉(?)が、とにかく可笑しい。
 一之輔と同様、実力者は10分もあれば客席をひっくり返すことができる、という証のような高座。

柳家小団治『ぜんざい公社』 (16分)
 初めてだ。協会のプロフィールによれば、小さんに入門した後に、大学を卒業しているらしい。剣道七段、はあの一門だから驚かない。
 マクラで、なかなか理知的なギャグを披露。
 オリンピックの話題から、必ずしも金メダルでなくてもいい、銀は金の右の字に点を付ければ金より良いになるし、銅は金に同じ、という話はごもっとも。
 金を失ってサビるなんてことはなく、酸化(酸化)するのことに意義がある、とのこと。
 それらのマクラがほぼ七分あったので、本編は九分ほど。どちらかと言うと、マクラの方が楽しかったかな。

翁家勝丸 太神楽 (10分)
 膝はこの人。
 珍しく、毬の芸で、何度か失敗。ご本人も苦笑い。こういう日もある。

柳家小満ん『盃の殿様』 (24分 *~16:28)
 ある国の殿様が江戸で気の病。茶坊主が見せた豊国描く錦絵の花魁があまりに綺麗で、実物もそうだと聞くや、吉原に“素見物”、いわゆる“ぞめき”に行きたいと言い出して、ダダをこねる。見るだけなら、と三百人を超える大行列で押しかける。お気に入りの花魁、花扇の言葉に負けて、毎晩のように吉原に通った殿様。国に帰ってからも、花扇が忘れらない。七合入りの大杯を、三百里の道を十日で駆ける早見東作に吉原まで持って行かせて、花扇と盃を交わす、という何ともスケールの大きな噺。
 さて、夜の部は披露興行があるから、さて、どこで収めるかと思いながら聴いていたが花扇が「ちょいと」と声をかけた時には、早見東作はすでに海老名のインターにいた、というところでサゲた。
 九日目で、やや声にかすれを感じないこともなかったが・・・いつもの小満んか。
 寄席用の短縮版ではあったが、聴きながら、この噺のもう一人の名手だった喜多八のことも思い出させる好高座だった。
 なお、小満んのこの噺では、昨年2月のJAL名人会が印象に残る。筋書きも書いているので、ご興味のある方はご覧のほどを。
2016年2月24日のブログ

 
 夜の披露目の花が並ぶ脇を通って外に出ると、雨は上がっていた。

 やらずの雨、ではなく、私にとっては、寄席にやる雨、の恩恵に感謝。


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# by kogotokoubei | 2017-04-10 21:25 | 落語会 | Comments(13)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛