噺の話

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 雨の中を関内へ。
 いつものように、ロビーでおにぎりを急いでかっこみながら、モニターの開口一番を眺める。
 知らない前座さん。
 途中から会場に入ったが、春風亭きいち、とメクリにあった。
 『二人旅』で、『居酒屋』で客が小僧をからかう、いろはに点を打つと音が変わるというクスグリを入れるのは初めて聴くように思う。リズム感のある若々しい高座は好感が持てる。
 後で調べたら、一朝ではなく、一之輔の弟子。そうか、もう弟子をとったか。それも本人の成長のためにも悪いことではないだろう。サゲの後、いつものように五割程度の入りで、空いた席に落ち着く。

 小満んの三席について、感想など。

柳家小満ん『和歌三神』 (16分 *18:53~)
 古今亭志ん生の音源では聴いているが、生では初めてのネタ。
 こういうネタを、実に味わい深く演じてくれるのが小満んの魅力の一つだ。
 まず前半は、俳句や川柳が好きで風流人を自認する主人と使用人の権助との会話が楽しい。主人がどれほど雪が積もったかと権助に聞くと「三寸ほど積もったが、幅は分からねぇ」なんて答えるあたりから、この権助が“ただ者”ではないことが分かる^^
 その権助に鍬で雪かきをするよう主人が言うのだが、権助は「紙屑屋が来て、何も下げるものがないので、シャレで鍬を下げて、(その代金で)一杯飲んだら、シャレで美味かった」という。主人が歌が好きだから、詫びに歌を詠んだと権助が披露するのが「俳諧の家にいりゃこそ鍬(句は)盗む」。権助、なかなかの通人でしょ。
 この部分の“シャレ”という言葉、実にお洒落で効果的だ。
 さてその後、主人と権助は向島へ雪見に出かける。
 道中の短めの言い立ても粋だった。麻生芳伸さんの『落語特選-上-』から引用。

 「主(しゅう)と家来の二人連れ、並ぶ夫婦の石原や、吾妻橋をば左に見、二つ並べし枕橋、連れひき合うも三囲(みめぐり)の、葛西の梅に白髪や、齢を延ぶる長命寺、うしろは堀切関谷の里、木隠れに誘う落合の、月の名所や綾瀬川、向島は名所の多いところでございます」

 この言い立て、うっとりしながら聴いていたなぁ。
 主と家来の二人連れが向島に着き、誰もいない掛け茶屋に腰をかけて、持参した瓢箪の酒を飲もうとしていたら、橋の下で酒盛りをしている三人のお菰(こも)さんを発見。
 主人が「風流じゃないか」と三人に交わり、持って来た酒を瓢箪から注いでそれぞれの名を尋ねると、名とその謂れを答えて作った歌を披露する、というのが後半。
 最初のお菰さんは、名は元は安(やす)と言っていたがここでは秀(ひで)と名乗っていて、綺麗好きなのでお茶屋さんや料理屋さんの前にある犬の糞を片付けてお金をもらっているので、「糞屋の安秀」。その糞屋の安秀が詠んだ歌は、”吹くからに 秋のくさ夜は長けれど 肘を枕に 我は安秀”。
 二人目は、日向で暖ったかな垣根の下で丸くなって寝ているばかりなので、「垣根の元の人丸」。人丸の歌は、”ほのぼのと 明かしかねたる 雪の夜も ちぢみちぢみて 人丸く寝る”。
 三人目は、小満んは、顔がひどいナリと言っていたが、本来は、らい病(ハンセン氏病)のことである“癩ん坊(なりんぼう)”の平吉で癩平(なりひら=業平)。そのお菰の業平さんの歌は、”千早ふる 神や仏に見離され かかる姿にわれは業平”。
 主人が感心して、「おまえさんがたは実に雲の上の和歌三神ですな」と言うのに三人が「いえいえ、菰の上のバカ三人でございます」でサゲ。
 もちろん、三人の名は有名な歌人の名のパロディ。
 一人目の本家は、文屋の康秀。歌は、“吹くからに 秋の草木のしをるれば むべ山風を嵐といふらむ”。
 二人目のモデル(?)柿本人麿呂の元歌は“ほのぼのと 明石の浦の朝霧に 島かくれ行く船をしぞおもふ”。
 業平の元歌は、説明する必要もないだろう。
 この三人目は、たしかに、元ネタの通りでは、当今ではやりにくいかもしれない。
 麻生芳伸さんの注釈には、「現在上演するならば、在平業平に拘らず、山部赤人、衣通姫(そとおりひめ)に変更した形での再演が望ましい」とある。
 たしかに、和歌三神がどの三人かは諸説あるようだし、山部赤人などはパロディにできそうだ。とはいえ、元ネタを大事にし、差別的な表現を際どく避けた小満んの演出も捨てがたい。
 私は子供の頃、家族で下の句だけの板カルタをよくやったので、まだ百人一首への馴染みがあるが、今では、こういった歌も、落語でしか出合わない人は多いかもしれない。
 ぜひ、業平役のお菰さんに関する工夫をした上で、他の噺家さんにも演じて欲しいネタだ。

柳家小満ん『鴬宿梅』 (22分)
 いったん下がって、すぐに登場。
 初めて聴く噺。
 村上天皇と紀内侍の鴬宿梅(おうしゅくばい)の逸話をマクラで仕込んで本編へ。
 こんな内容だった。
 (1)あるご隠居が、とある大店の若旦那の六さんに、先日道で血相を変えた
   姿ですれ違ったが、あれは何かあったのか、と問う。
 (2)この若旦那、小僧からの叩きあげで養子になった堅物。まったく
   遊びを知らなかったので、半玉を半熟を間違えるほど。
   先日、柳橋の茶屋に誘われ、さんざん食べた後の帰り際に女将から、
   すぐにまた来てくれなくては怨みますよ、と言われた。怨まれては
   かなわないと、一人で茶屋に裏を返しに行った。
   ご隠居とすれ違ったのは、その後のことだと言う。
 (3)いったい何があったとご隠居が聞くと、若旦那がその茶屋での出来事を
   振り返った。芸者が『春雨』という端唄を唄い踊ったのだが、唄の終わりの
   ほうで「身まま気ままになられない、養子くさいじゃないかいな」と、
   養子の私を馬鹿にしたので怒って帰った、とのこと。
 (4)それを聞いたご隠居は、それは聞き違いで、“身まま気ままになるならば、
   さぁ鶯宿梅じゃないかいな”っていうのが唄の文句だ、と種明かしをする。
 (5)若旦那が「鶯宿梅ってのは何ですか?」と訊ねる。
   ご隠居、その昔、村上天皇が清涼殿に梅を植えたいので良い梅を探させた。
   紀貫之の娘、紀内侍の家の梅がたいそう綺麗なので、植え替えさせた。
   その梅に、「勅なれば いともかしこし鶯の 宿はと問はばいかがこたえむ」
   という内侍の歌が添えてあった。村上天皇は、大いに反省して、その梅を
   紀内侍に返したが、その逸話から鴬宿梅と名がついた、と故事を説明。
 (6)自分の聞き違いを恥じる若旦那が、詫びを入れにその茶屋へ行った。
   鶯宿梅の故事を話そうとするが、うろ覚えで、頓珍漢な話になる。
   芸者が、「あーら、若旦那、何のことやらちっともわかりませんわ」
  「なに、わからない?私としたことが、これは大しくじりではないかいな」
   でサゲ。

 端唄『春雨』の歌詞を調べたら、ブログ「懸想文」さんで紹介されていた。
 こういう歌だった。
ブログ「懸想文」さんの該当ページ

  060.gif春雨に しっぽり濡るる鶯の
   羽風に匂う 梅が香や
   花に戯れ しおらしや
   小鳥でさえも 一と筋に
   寝ぐら定めぬ 気は一つ
   わたしゃ鶯 主は梅
   やがて身まま気ままになるならば
   サァ 鶯宿梅じゃないかいな
   サァーサ なんでもよいわいな

 サゲは地口でそれほど秀逸とは言えないかもしれないが、鴬宿梅の故事、端唄『春雨』を踏まえた、粋な噺で、小満んならでは、という噺だと思う。ここで、仲入り。

柳家小満ん『味噌蔵』 (33分 *~20:23)
 三席目は、楽しみにしていたこの噺。
 「吝嗇(しわい)家は、七十五日 早く死に」という川柳は、吝嗇家は高い金を出して初物を食べるようなことはしないから、とマクラでふった。
 ケチにまつわる小咄を三つ(扇子を長持ちさせる方法、火事の熾火をもらいにいかすケチ、薬代で目を廻すケチな旦那)並べてから本編へ。
 名を吝嗇屋けち兵衛と言う、味噌屋の主人、名の通りのケチで、それも何事にも徹底している。女房をもらうと金がかかるといって独身。しかし、親戚もうるさく言うので、ようやく結婚するが、床を一緒にすると間違って子供が出来て金がかかるからと、女房は二階、自分は階下で別々に寝る。
 しかし、冬の寒い夜、せんべい布団ではあまりに切なくなる。
 なぜ大店の主人がせんべい布団かと言うと、いいふとんをこしらえても、いやな夢をみて手足をつっぱったとたんに、ふとんに爪でもひっかけて破かないとも限らない、と言うのだから、ケチ兵衛さんのケチぶりには、ある種の感動(?)さえ覚える。
 その薄い布団にくるまって小僧時代を思い出し、寒い夜は先輩の布団に入って暖めてもらったが、今になってまさか小僧の布団に入ることもできない、と言うあたりに、このケチ兵衛さん、不人情なだけの男ではないなぁ、と思わせてくれる。
 あまりの寒さに、つい、ふかふかの絹布の布団で寝ている二階の女房の床へあったまりに行った。そんな夜が続くうちに、「あったまりのカタマリ」の子どもが出来た。
 困った困った金がかかる、と番頭に相談すると、里で子どもを産ませて「身二つ」になってから戻せば、出産の費用もかからない、と知恵を授かり、女房を里に帰した。
 「身二つ」なんてぇ言葉も、いいねぇ。
 そして、日が満ちて無事奥さんは実家で出産。先方からお祝いをすると誘われ、定吉を連れて家を出るのだが、定吉には空の重箱を持たせる。お祝いの膳、定吉には汁とお新香は食べていいが後は、重箱に詰め、皆さんが酔っぱらったら、その膳の残りも詰めて来い、という命令なのであった。番頭には、味噌蔵には商売ものの味噌で目塗りをしておけ、と言う。「旦那様にしては、もったいないことで」と番頭が返すと、「そんなことはない、焼けた味噌は香ばしくて美味いから、お前達のおかずになる」に「無駄のないことで」と番頭も感心(?)しきり。
 使用人たちが、重箱を背負い、かかとのない下駄をはいた定吉の後ろ姿を見送る場面、なんとも、せつなく、そして笑えてしまうのだ。
 さあ、鬼の居ぬ間のなんとやら。ここから、番頭以下のどんちゃん騒ぎになる。
 普段、味噌汁は薄くて実も入っていない。久しぶりにタニシが入っていると喜んだが、それは、薄い汁に映った自分の目だった、というあまりにも切ない食生活をしている使用人たち。ケチ兵衛に実なしは縁起が悪いと言っても、三年前から使っているスリコギが減っているから、実が入っていると言う始末。凄いねぇ、ケチ兵衛。
 今夜はケチ兵衛も泊りで帰らないだろうからと、悪い相談はすぐまとまる。番頭が筆先で帳面をドガチャカドガチャカして、美味い物を頼んで宴会をしよう、と相成った。
 刺身、寿司、鯛の塩焼き、牛鍋など、そして、横丁の豆腐屋で売り始めたばかりの木の芽田楽も頼み、店の酒を飲みまくるぞ、と普段の粗食の怨み晴らさでかという勢いのご一同。
 酔った勢いで甚助が『磯節』を歌い出す。
 060.gifちゃちゃらちゃん 磯で名所は大洗さまよー 松が見えますほのぼのと~
 絶好調のご一同だったが、なんと泊ってくるはずのケチ兵衛が帰ってくるのだった。
 帰り道でも定吉の悲哀は続く。
 せっかくご馳走を詰めた重箱を忘れた、提灯の蝋燭にと先方が五本くれようとしたのを二本でいいと断った、新しい下駄を履いたと言うが片ちんばじゃないか、などと叱られている。
 家に近づくと、どこかの家で宴会の騒ぎが聞こえてくる。あんな奉公人がいるのは旦那の心がけが悪いからだ、と定吉に言ってみたものの、なんと自分の店から聞こえるではないか。
 定吉に節穴があると教わり、中を覗くケチ兵衛さん。
 旦那が帰ってきたらどうすると言われた甚助が、なに、この鯛の塩焼きを目の前に突き出してやれば、鰯しか見たことがないから、驚いて目を回してぶったおれるさ、と言うのを聞きつけ、ついに戸を叩いた。
 慌てたご一同、食べ物や器を袂などに隠すものの、床に刺身などが散乱した状態でケチ兵衛さんが入ってきて、一同は固まったまま迎える羽目に。
 「なんです、みんなしてペリカンみたいな格好して」というケチ兵衛さんの科白に大爆笑。
 番頭以下を叱りつけていると、表の戸を叩く音。
 ここからは豆腐屋とケチ兵衛とのサゲにかかる会話。興津要さんの『古典落語-続々-』を参考に再現。
 
  豆腐屋  え、こんばんは、え、こんばんは
  ケチ兵衛 どなたでございますか?お買いものなら明朝に願います
  豆腐屋  ええ、焼けてまいりました。焼けてまいりました
  ケチ兵衛 え、焼けてきた?だから言わないこっちゃない。
       わるい時に焼けてきたもんだ・・・・・・
       どこが焼けておりますか?
  豆腐屋  横丁の豆腐屋から焼けてまいりました
  ケチ兵衛 なんだって、横丁の豆腐屋から、どれ位焼けてきましたか?
  豆腐屋  二三丁焼けてきました
  ケチ兵衛 二、三丁、こりゃあ火足が早いや
      ただいま開けます
 と戸を開けたとたんに田楽の匂いが鼻へプーンとはいったから、
  ケチ兵衛 いけない、味噌蔵に火がはいった

 サゲでは、田楽の味噌の香りが漂った。
  
 なんとも素晴らしい高座に、終始笑い、また感心していた。 
 この噺では鯉昇の高座も得難いものだが、それは、たぶんに食べる場面が秀逸で、ドンチャン騒ぎが際立っているからかと思う。
 どちらが良い悪いではなく、好対照なのが小満んの高座。
 無理にウケようなどと露とも思わないだろうが、噺のツボを外さずに笑いを誘い、それぞれの情景が目に浮かぶ高座も、実に結構。
 この高座を今年のマイベスト十席候補にしないわけにはいかない。
 
 
 さて、小満の高座に酔った後は、佐平次さんとI女史、そしてF女史とのよったりで、関内で開業四十余年といういつものお店での居残り会で酔うのだった。
 生ビールと熱燗で乾杯の後、なんとも珍しいホッケの刺身、北海道出身の私も生涯二度目だ。他にも、宮崎でとれた初カツオ、タラの芽と稚鮎の天ぷら、定番の八丈島のクサヤ、そして牡蠣がふんだんに入ったオムレツなどの絶品の肴で、小満んの高座を振り返っての話に弾みがつく。男山の徳利を次々に空にしながら、実に幸せなひと時が続き、ついお店の看板まで居座ってしまった。それでも、話し足りないよったりは、お隣のバーにはしご!
 少し興奮をクールダウンさせるナイトキャップで締めて、ようやくお開き。
 日付変更線は、帰りの電車の中で超えていたのであった。

 実は、居残り会で盛り上がったネタがある。
「ペリカン」の科白に関する、ちょっとした笑い話。
 居残り会で私は何ら疑問なく「ペンギンには笑いましたね!」と言って、女性陣に「ペリカンでしょ」と修正されてしまった。慌ててメモを見たら、ほんとに、ペリカンだった。
 なぜか、宅配便のはずが、歯磨きに替わっていた次第。(古いか^^)
 ペリカンで多いに笑っていたのに、どうもペンギンに頭の中で化けていたようだ。
 この勘違い、実は佐平次さんも同様に「ペリカン」とメモしていて「ペンギン」と私が言うのに疑問を抱かれなかったようで、それが妙に嬉しかった^^
 

 いつもある程度の言いよどみがあるのは承知しているのだが、この日の小満んはほとんどそういうこともなく、絶好調、という印象。
 前日まで、末広亭で主任小里んの席で仲入りを務めていたことも、好影響を与えたのかもしれない。
 小里んの高座には“品”を感じ、小満んの高座からは“粋”が滲み出てくる、そんな印象。
 どちらも、結構。

 それにしても、今回の三席すべての高座と居残り会は、まさに至福の時間と空間だったなぁ。

 次回は5月23日(火)、ネタは『しびん』『三方一両損』『御神酒徳利』と案内されている。
 さて、『御神酒徳利』は、以前落語研究会で聴いた犯人(?)が番頭の長講か、それとも柳家の「占い八百屋」か。二ヵ月後も、今から楽しみだ。

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# by kogotokoubei | 2017-03-22 21:18 | 落語会 | Comments(4)
 肥田舜太郎の訃報を目にした。
 毎日新聞から引用。
毎日新聞の該当記事

肥田舜太郎さん100歳=広島原爆で被爆の医師
毎日新聞2017年3月20日 20時49分(最終更新 3月20日 22時10分)

 広島原爆で被爆し、医師として被爆者医療に尽力した肥田舜太郎(ひだ・しゅんたろう)さんが20日、肺炎のため亡くなった。100歳。葬儀は26日午前10時半、さいたま市浦和区瀬ケ崎3の16の10のさがみ典礼北浦和葬斎センターで営まれる。喪主は元全日本民医連会長の長男泰(ゆたか)さん。

 軍医として広島陸軍病院在勤中の1945年8月6日に被爆し、直後から被災者救護にあたった。戦後、東京や埼玉で低所得者向けの診療所を開設し被爆者を診察。30年にわたって日本被団協原爆被爆者中央相談所(既に解散)の理事長を務め、全国の被爆者への医療相談に取り組んだ。医師の立場から原爆被害の実態を伝えるため、欧米など海外約30カ国も訪問。各国の反核団体と連携して核兵器廃絶を訴えた。

 2000年代の原爆症認定集団訴訟では証人として出廷し、長年の臨床経験と海外の文献研究を基に証言。原爆投下後に広島・長崎に入った「入市被爆者」が、飛散した放射性物質を呼吸や飲食で体内に摂取し、「内部被ばく」を起こしてがんなどの原因になったと訴えた。国の認定手法の問題点を突き、原告勝訴の判決を引き出す力になった。

 09年に医療の第一線から退いた後も、各地で精力的に講演活動を展開。毎日新聞が06年から続けている記録報道「ヒバクシャ」でも反核や平和への思いを語っていた。

 百歳での大往生。

 その長寿を天が肥田さんに与えたのは、原爆の悲惨さ、内部被曝の実態を世に知らしめるという仕事をしてもらうためではなかっただろうか。

 肥田さんは、まさに、「被爆」と「被曝」の恐怖を伝えてきた“語り部”と言えるだろう。

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肥田舜太郎・鎌仲ひとみ著『内部被曝の脅威-原爆から劣化ウラン弾まで』

 肥田舜太郎さんと鎌仲ひとみさんの共著『内部被曝の脅威-原爆から劣化ウラン弾まで』から引用したい。

 本書は2005年に刊行されたものだが、私は3.11の後で読み、何度か拙ブログ(現在は兄弟ブログ「幸兵衛の小言」)で紹介している。

 肥田さんが執筆担当の「第2章 爆心地からもういちど考える」より。

 ここでは被曝から60年後の時点での状況が書かれているが、さて、どれほど事態は改善されているのか、大いに疑問だ。

 引用文の最期の部分で、肥田さんは、国の対応を「差別」と糾弾する。
2000年代の被ばく者 
 中級の建設会社の社長で根っからの酒好き、じっとしていることが嫌いでいつも忙しく何か活動しているという友人がいる。定年で会社を退いてから町内会の役員を引き受けて、祭りの準備から消毒の世話まで目まぐるしく動きまわっているうちに、健康診断で血小板減少を指摘された。
 気になることがあって無理やり精密検査をすすめたところ、骨髄異型性症候群という厄介な病気のあることが分かった。専門学校時代、原爆投下の広島に何日かたって入市したと聞いたことを思い出し、確かめたところ1945年の8月9日に五人の級友と海軍のトラックで広島に入市し、海田市からは徒歩で千田町の県立広島工業学校まで行き、誰もいない崩れた校舎に入って散乱している機械器具を片付けたり防水布を掛けたり、三時間くらい作業をした。近辺は学校ばかりが集まっている地域で人は一人も見かけず、日が暮れたので呉へ帰ったという。
 彼らは1944年秋から呉の海軍施設に勤労動員で派遣されていたのである。明らかに入市被ばく者なので、早速、被ばく者健康手帳交付の申請を勧めたが、億劫なのか、なかなか手続きをしないでいるうち、今度は大腸癌が見つかって入院手術となり、観念して手帳を申請、証人の依頼に手間取って、数カ月かかってやっと広島の被ばく者と認められた。
 現在、血色素の一定数を目安に輸血を繰り返しているが治癒の見込みはなかなかむずかしい。厚生大臣の認める認定患者認定を申請したが四月末、永眠した。

被ばく者の六十年 
 2005年の今年、生き残っている約二十七万人の被ばく者の多くは二つ、三つの病気を持ちながら、様々な不安や悩みを抱えて生き続けている。
 彼らの多くは被ばくの前は病気を知らず、健康優良児として表彰までされたのが、被ばく後はからだがすっかり変わり、病気がちで思うように働けず、少し動くとからだがだるくて根気が続かずに仕事を休みがちになった。医師に相談していろいろ検査を受けても、どこも異常がないと診断され、当時、よく使われたぶらぶら病の状態が続き、仲間や家族からは怠け者というレッテルを貼られたつらい記憶を持つものが少なくない。事実、「からだがこんなになったのは原爆のせい」とひそかに思いながら被ばく事実を隠し続け、誰からも理解されずに社会の底辺で不本意な人生を歩いた被ばく者を私は何人も診ている。

占領米軍による被ばく者の敵視と差別 
 被ばく者は敗戦直後から米占領軍総司令官の命令で広島・長崎で見、聞き、体験した被ばくの実相を語ること、書くことの一切を禁止された。違反者を取り締まるため、日本の警察に言動を監視された経験のある被ばく者は少なくない。また、1956年に日本核団協(各都道府県にある被ばく者の団体の協議会)が結成された前後は、被ばく者は反米活動の危険があるとして警戒され、各地で監視体制が強められた。1957年、埼玉県で被ばく者の会を結成した小笹寿会長の回顧録のなかに、当時の執拗な埼玉県警の干渉があったことを書き残している。私自身も1950年から数年間、東京の杉並区でひそかに広島の被ばく体験を語り歩いたとき、米軍憲兵のしつこい監視と威嚇を受けた覚えがある。

日本政府による差別 
 敗戦後、辛うじて死を免れた被ばく者は家族、住居、財産、仕事の全てを失った絶望的な状態のなかから廃墟に掘っ立て小屋を建てて生き延びる努力をはじめた。故郷のある者は故郷に、ない者は遠縁や知人を頼って全国へ散って行った。被ばく地に残った者にも、去った者にも餓死寸前の過酷な日々が続いた。政府は1957年に医療法を制定し、被ばく者健康手帳を交付するまでの十二年間、被ばく者に何の援護もせず、地獄のなかに放置した。
 なお、被ばく者手帳を発行して被ばく者を登録したとき、政府は被ばく者を①爆心地近くの直下で被ばくした者、②爆発後二週間以内に入市した者および所定の区域外の遠距離で被ばくした者、③多数の被ばく者を治療・介護した者、④当時、上記の被ばく者の胎内にあった者に区分して被ばく者のなかに差別を持ち込んだ。

 肥田さんの指摘するごとく、これは「差別」である。

 戦後70年経っても、被爆者の苦しみは終わっていない。
 
 永田町や霞が関は、「新たな被爆者」を増やそうとはしないし、内部被曝の脅威を正しく評価しようとしない。

 年間20ミリシーベルトなどという基準を変えようとせず、自主避難する人々への支援を放棄しようとしていることに、肥田さんはどんな思いを抱いていたのだろうか。


 貴重な著作や記録、記憶を残してくれた肥田さんのご冥福を心よりお祈りする。

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# by kogotokoubei | 2017-03-21 17:47 | 幸兵衛の独り言 | Comments(2)
 末広亭で柳家小里んの『山崎屋』を聴いた後で、ある本をめくってみた。

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 山田洋次の落語作品集『真二つ』は、単行本で大和書房から昭和51年に発行され、平成6年発行の新潮文庫版には、落語の他に著者と小さんとの対談なども収録されているが、その中の一篇が「あっぱれな親不孝『山崎屋』」である。

 昨日の記事にも少し引用したが、このエッセイには、映画「男はつらいよ」に、いかに落語に描かれる人間像が反映されているかが明かされている。

 「山崎屋」における「ああ、イヤだイヤだ」の内容は、もちろん、倅に対する嫌悪感の表現ではあるのだが、それと同時に、そのような愚かな倅を持っている自分自身への嫌悪感、愚かしさを承知しつつその倅を愛している自分の否定、すなわち、倅が嫌なだけでなく、自分も嫌なのだ、という表現であり、それゆえに、その気持がよく伝わるがゆえに、観客である私たちは思わず笑ってしまうのである。
 私の作品「男はつらいよ」の中で、寅さんの叔父貴を演じた今は亡き名優森川信さんが、寅の愚行を眺めながら思わずつぶやく、
「馬鹿だねぇ」
 という独り言のおかしさもまたそれと共通している。

 落語好き、そして寅さん好きの人は、この文を読んで森川信さんが「馬鹿だねぇ」と呟く姿が、目に浮かぶことだろう。

 引用を続ける。
 字句どおりに受け取れば、それは単なる寅への侮蔑の言葉でしかないのだが、森川信さんの表現には、もっと深い内容、この愚かしき甥を愛してしまっている自分への侮蔑、ないし嘲笑、つまり自己否定の要素が加わっていた。したがって彼の「馬鹿だねぇ」は寅への侮蔑ではなく、逆に愛情の表現であったのであり、そこに共感して観客はつい噴き出してしまったのである。

 この文章からは、「愛憎半ば」という」言葉」を思い浮かべる。

 憎らしいけど、愛(いと)しい・・・そんな思いこそが、ある意味、もっとも人間らしい心情なのかもしれない。

 「馬鹿だねぇ」の呟きは、決して侮蔑する思いだけが言わせるのではない。

 このあと、その一部を小里んの高座の感想で引用した、次のような文が続く。

 考えてみれば、落語の主人公にあまり親孝行な人物などは登場しない。忠義で勤勉で夫婦相和し、友人を信じ、兄弟仲良く、隣人とは平和にといった類の、教育勅語の手本のような人物は全く落語とは無縁である。
 だからといって、落語は民衆の封建道徳に対する抵抗の精神から生まれたと断定することには、いささか問題がある。道徳はもともと民衆が生み出した生きていくための知恵である。
 親には孝行しなければいけない、夫婦は仲良くしなければならないというきまりごとは、本来民衆が持っている健康な道徳意識である。それでいながら、時としてその道徳からひたすらはみ出して生きたいという願望を同時に民衆はかかえているのである。
 だからこそ山崎屋の若旦那の反道徳ぶりを楽しみ、怪しからぬ夢をはてしなく展開しつつ、ふと我に返って思わず「ああ、イヤだイヤだ」と溜息をついたり、「馬鹿だねぇ」と思わず自嘲の言葉を吐いたりするにである。
 つまり、山崎屋の若旦那とその父親は、両方とも民衆の心の中に矛盾しながら生きていると言っても良い。人間の意識をそのようにとらえて物語にして見せるところに、落語というリアリズム芸術の近代性があるのだ、と私は考えている。

 山田洋次が、どれほど落語を愛しているかが、伝わってくる。

 また、落語の登場人物の言葉や仕草などに、その心情を推し量る鋭い感受性があることもよく分かる。

 山崎屋の父親の「ああ、イヤだイヤだ」の言葉に潜む、回りまわって自分に返ってくる嫌悪感を読みとれなければ、映画監督などは出来ない、ということなのだろう。

 落語には、その舞台が江戸時代であろうが明治、大正であろうが、変わることののない人間の姿があるということを、このエッセイからも再認識させられた。

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# by kogotokoubei | 2017-03-18 11:58 | 落語好きの人々 | Comments(2)
 午前中は、毎年この時期恒例(?)の人間ドックを予約していたので、一日休みをとって、午後から小里んが主演の末広亭の昼の部へ。

 今回は、居続けはできない。
 
 入場した際は、夢葉の手品の途中。
 なんと、平日とはいえ椅子席は九割ほど埋まっていた。
 仲入り時点では、椅子席はほぼ埋まった。

 壁に貼ってあった出演一覧を見ると、開口一番の後の二ツ目以外は代演がない。
 実に珍しいのではなかろうか。

 夢葉の後に、まだ、数名しかいない好みの下手の桟敷、前寄りに落ち着くことができた。

 登場順に感想などを記したい。

柳家海舟『金明竹』 (11分 *12:25~)
 初めて聴く。二年前に真打昇進した主任の小里んのお弟子さんだが、なんと、私よりたった二歳下で今年還暦。入門が四十二歳だからねぇ。
 年齢よりは若く見えるが、語り口は相応に渋い^^
 松公の地で状況を簡単に説明し、奇妙な関西弁を話す男が登場。
 サゲにつながるキーワードを印象付けようということなのかもしれないが、「木ィが違うとります」を繰り返すのは、いただけない。
 これが師匠の型とは思えない。短い時間で演じるための工夫かもしれないが、初めて聴く人にもサゲを悟られるような演出は良くないなぁ。
 自分の年齢を武器にできるだけの古風な良い雰囲気を持っている人なので、本来噺が持つ味わい、可笑しみで演じて欲しい。

柳家喬之助『つる』 (15分)
 マクラからの丁寧さはいつもの通りなのだが、そろそろ若手から中堅の域にかかる時期、噺にもう少し深さというか、重さのようなものが欲しい。
 明るく元気な高座は好感が持てるが、師匠さん喬、兄弟子喬太郎から、もっと盗めるものがあるはずではなかろうか。

ホンキートンク 漫才 (8分)
 何度聞いても、ことわざの現代風言い換えが可笑しい。
 「海老で鯛を釣る」→「エビはタイから輸入する」は、今度使わせていただこう^^

宝井琴調 講談『赤垣源蔵 徳利の別れ』 (17分)
 初である。落語協会に三名しかいない講談の一人。
 見た目も、髪をオールバックにし、さも講談師然としている。
 討ち入りを前にし別れに寄った兄の家。留守の兄の代わりに羽織を相手に酒を酌み交わす源蔵が、討ち入り後に、下男の市助に見せた爽快さ、そして気配りが(日本人なら)泣けてくるのだ。まさに、「講釈師、見てきたような嘘」が結構だった。
 源蔵のモデルである赤埴重賢(あかばね しげかた)は、実は下戸であったらしい。また、兄はなく、討ち入りの前に妹の嫁ぎ先に行って、妹の舅から仇討ちをしないことで罵られた、と言われている。
 あくまで、歌舞伎も講談も、「忠臣蔵」は“お芝居”であり創作であるが、そこに聴く者の胸を打つものがあれば、それが芸というものだろう。
 
三遊亭吉窓『狸の札』 (13分)
 どうも、この人とは相性が悪い。この高座も、駆け出しの真打クラス、という印象。

柳家小菊 粋曲 (11分)
 「お酒ひと樽 千両しようとままよ 主の寝酒は絶やさせぬ」なんて、我が家の同居人に聞かせたいぞ。
 都々逸の新内のアンコ入りや、さのさも挟んで、この時間。
 「水攻め火攻めは厭わねど 油攻めとはーあぁ~情けなや」と豆腐が嘆くのは初めて聞いたような気がするが、忘れただけかもしれない。「親たちゃ在所で豆でいる」とは、目出度い目出度い。
 両協会を含め、三味線の技術、歌、見た目を含む総合力でトップであることを再認識。

柳家はん治『妻の旅行』 (16分)
 当代文枝作シリーズの一つだが、初めて聴いた。
 定年を迎え、女房が沖縄旅行に出かけ、犬と一緒に留守番の亭主が、息子に向かって嘆く女房と二人暮らしの悲哀(?)が、なんとも説得力があることか。
 オリジナルのサゲまではいかなかったが、小さなテレビで野球を楽しんでいる時に、三時間のサスペンスドラマを観ている女房から「こっちを見て」と声がかけられ、「この人が犯人よ」とか、橋から何者かに突き落とされた人物の姿に「あれ、人形よ」と話す女房に辟易する様子が、実に可笑しい。
 やはり、文枝の作品は、この人が演じる方が、ずっと面白い。

林家種平『ぼやき酒屋』 (14分)
 あら、はん治の十八番を、この人も演るんだ。
 同じ寄席の席で文枝の新作を二つも聴くのは初めてだなぁ。
 独自のオヤジギャグ風クスグリ満載。
 「モズク酢 レーニン主義」「漬け物 名を名乗れ」など。
 この人では以前に『お忘れ物承り所』を二度聴いているだけなので、古典はまだ一度も出合っていないことになる。
 前座時代に、立川談四楼、らぶ平、柳家権太楼(当時ほたる)の四人で「少女ふれんど」というバンドを結成しレコード(CDじゃない^^)を出している。
 芸風からは、こういう噺の方が合っているのだどろうが、古典滑稽噺も聴いてみたいものだ。結構、悪くないと思うのだがなぁ。

林家正楽 紙切り (13分)
 ご挨拶代わりの「相合傘」の後、お客さんの注文に応じたが、「雪の穴に落ちたシロクマ」というお題を出したお客さんは、本当は、ただの紙一枚を希望したのだろうか^^

柳家小満ん『素人鰻』 (16分)
 仲入りはこの人。神田川の金が酔って飛び出すところまでの短縮版で下がったが、もう少し聴きたかったなぁ。
 幕末のことに関するマクラで、ペリー艦隊を脅かそうと、台場に寺から集めた釣鐘を大砲の代わりに並べたという逸話で「唐人に釣鐘・・・本当は提灯に釣鐘ですが」と元ネタを説明しなければならないもどかしさが表情からうかがえた。来週関内で開催される独演会(小満んの会)などでは、説明のいらないクスグリだろうが、寄席のお客さんの反応を見ての種明かしだったのだろう。
 「提灯に釣鐘」は、つり合いがとれないという意味だが、ホンキートンクなら、どう現代風に言い換えるかな、なんて思いながら聴いていた。

林家木久蔵『やかんなめ』 (14分)
 クイツキは、この人。マクラでこの名前を襲名して十年、と言っていたが、そうか、早いものだ。ということは、この九月で真打昇進からも十年、ということだ。
 高座は、それだけのキャリアなら、まぁ、当たり前という印象。親の七光りを隠すこともなく、天然キャラで売ってきたが、今後の十年が、本当の勝負だろう。

ロケット団 漫才 (12分)
 上手側、ツッコミ役の倉本剛が入院していたことを知っているお客さんから「治ったのぉ?」と声がかかり「治ったよう!」と返した。
 胃に三つ穴が開いて、先月五日間ほど入院していたらしい。
 ボケ役の三浦は去年膝の手術で入院したようだ。 
 ともかく、二人元気になり、メデタシ。
 テレビではできない危ないネタで会場を沸かすこのコンビ、好きだなぁ。
 「大麻・コカイン・タンジェント」なんてぇギャグも秀逸。
 最後は、三浦が出身地山形弁を使った十八番ネタで会場を沸かした。
 なお、倉本のブログ「ギョロ日記」は、結構マメに更新されていて、入院のことや、退院後の様子なども、細かく書かれている。入院中や節制中の相棒や同じ事務所のサンドウィッチマンからのイジメ(?)が結構楽しく、ついつい読んでしまった。
ロケット団倉本剛のブログ「ギョロ日記」

柳家小ゑん『すて奥』 (14分)
 動かない主婦を自由に扱うリモコンがあれば、五千円位なら買う、という話に、つい頷く。
 足立区の築85年、7.5坪の三角形の家に住む夫婦の会話による本人の新作。
 同世代なので、ふんだんに散りばめられるクスグリも素直に笑える。
 この人の新作は、おでんを擬人化した『ぐつぐつ』が他の噺家さんでも演じられていて有名だが、他にも数多くあるようだ。しかし、生で聴くのは実は二度目で、まだ、聴いたことのない噺ばかり。
 私より少し年上で今年九月で64歳になるとは思えないエネルギッシュな高座。新作でも古典でもいいので、もっと聴きたい人、のリストに加わった。

柳家小はん『馬のす』 (14分)
 三木助から小さん門下、という今年喜寿の噺家さんが、文楽が軽い出番で十八番としていたネタを披露。
 いいなぁ、この人。夫婦の会話の途中で、「隣の婆さんは丈夫だねぇ、死ぬのを忘れたんじゃないかねぇ」なんて科白も、何とも可笑しいのだ。
 馬の毛を抜くと「大変なことになる」という謎をふったまま、酒を二合じっくり飲みながら、枝豆を美味そうに食べる勝ちゃんの姿に、こっちも喉が鳴るのだ。
 池袋では、小のぶが出ているので、どちらへ行こうか迷ったのだが、この人や小のぶは、私のまだまだ聴きたい人リストの筆頭と言える。
 寄席の逸品賞候補として、色を付けておきたい。
 
翁家社中 太神楽 (10分)
 小楽と和助の二人。
 和助の、ハラハラさせる土瓶芸が見応えがあった。
 小花をしばらく見ないが、元気なのだろうか。

柳家小里ん『山崎屋』 (32分 *~16:39)
 吉原の花魁のことなど、この噺に今では不可欠な仕込みのマクラが約五分。
 その後、若旦那に妾を囲っていることがバレた番頭が、若旦那と花魁と一緒になるための狂言を創作し、その芝居をすることに若旦那が合点するまでが、約14分。ほぼ同じ時間で後半が演じられた。
 それぞれの場面をしっかり演じ、聞かせどころ、笑いのツボを外さないながら、実に品のある高座だ。
 かつては円生、そして正蔵が十八番とし、今でも多くの噺家がこのネタを演じるのは秀逸なサゲの魅力のみならず、談志が言う人間の「業」を描いているからだろう。
 初出は「文藝春秋」昭和49年11月号で、その後『真二つ』に収められ、作品社「日本の名随筆」の「落語」の巻の一篇にも選ばれているが、山田洋次は、“あっぱれな親不孝「山崎屋」”と題して、この噺のことを書いている。
 その骨子は、親には孝行しろ、夫婦は仲良くしなさいという健康な道徳意識に、時にはみ出してしまいたい、と思うのが人であって、「つまり、山崎屋の若旦那とその父親は、両方とも民衆の心の中に矛盾しながら生きて」いて、「人間の意識をそのようにとらえて物語にして見せるところに、落語というリアリズム芸術の近代性があるのだ」と山田洋次は言う。なるほど、合点だ。
 この噺では、どうしても五街道雲助の名高座を思い出すのだが、雲助が演じる山崎屋の大旦那は、さもケチであろう、という個性が見た目からも浮かび出ているような気がする。対して、小里んの大旦那は、見た目には気品があり、その吝嗇な性癖が見えにくい。
 だからこそ、その内面が表出する場面が、効果的でもある。
 番頭に言われ、鳶頭(かしら)の家に息子が落した(ということになっている)百両を拾ってくれた礼に山崎屋の大旦那が行くが、番頭の思惑通り、最初は十両の目録を鳶頭が返そうとするのだが、横から女房が「せっかく、大旦那ご本人がわざわざ持ってきてくれたんだから」と、ニンベンの切手と一緒にもらってしまう際の、大旦那の落胆ぶりに、そういった内面が現われていた。また、お茶を出しに来た花魁を見て、その美しさに驚き誰かと問えば、鳶頭の女房の妹とのこと。その際の「おかみさんとは・・・似てないねェ」の呟きにも、この人の本音の部分が窺えて、味がある。
 そういった民衆の代表たる(?)親子の姿を中心として、番頭や鳶頭、そして花魁を配して見事に描いた高座、今年のマイベスト十席候補としたい。


 久しぶりの寄席は、やはりいいねぇ。
 なかでも、小ゑん、小満ん、小はん、そして、小里ん・・・そうか、この席は小さん門下での、小(ショー)タイムだったか。


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# by kogotokoubei | 2017-03-17 12:57 | 落語会 | Comments(8)
 石原慎太郎が、まったく男らしくない会見をしていたが、地元築地には、強い女将さんたちがたくさんいるというニュースを、日刊スポーツから引用。
日刊スポーツの該当記事

築地女将の会「築地を生殺しにしてるのは石原さん」
[2017年3月14日15時53分]

 築地市場で働くおかみ46人で構成される「築地女将の会」は14日、都内で会見を開き、豊洲市場移転計画の中止を求める誓願署名を東京都へ提出したことを発表した。

 553ある水産部・仲卸事業所のうち、393事業所(約71%)の署名が集まったという。「女将の会」会長の山口タイさん(74)は「半分集めるのが目標だった。『(移転には反対だが)きっちとした形でないと署名できない』という方もいたので、今後も増えると思う」と話し、「若者たちを不安な場所に行かせたくない、その一心です」と、あらためて移転反対の意思を示した。

 移転反対の理由は、主に「土壌汚染」が多く、他には「液状化対策の不足」「高額なランニングコスト」などの意見もあった。

 土壌汚染については、築地市場でも敷地内で基準値を上回る有害物質が検出されているが、「築地は300年以上も前に埋め立てられた。護岸のヒ素は自然由来」「一部にクリーニング屋があっただけで、築地は工場跡地ではない」「豊洲は全区域汚染地域に指定されている」と、築地と豊洲では汚染の程度、質が違うことが強調された。

 液状化対策については「豊洲は液状化対策で建築学会の基準を満たしていない。東日本大震災の後は、100カ所以上が液状化した。そんなところで生鮮市場は営業できない」。豊洲市場維持費については「ランニングコストが5~7倍かかる豊洲にはついていけない」などの声が上がった。

 また、川合水産を営む川合ミワ子さんは、今月3日の会見で石原慎太郎元東京都知事が「築地市場の人たちを生殺しにしたのは小池都知事」と発言したことを引き合いに、「築地の人たちを生殺しにしているのは、石原さんなんです」と発言した。

 ほかにも、「豊洲へ行ったら魚を買わないと言われた」「移転の話が出て、廃業した方もいた」など、おかみならではの話が多く飛び交った。

 「女将の会」は、水産仲卸だけでなく青果仲や関連事業者へも署名活動を広げていくといい、今後も東京都への提案を続けていく方針。

 いいねぇ、こういう女将さんたちがいれば、万が一旦那が豊洲移転によろめきそうになっても、その愚行を止めることができるだろう。

 ただし、問題は、豊洲じゃなければ、どうするのか、ということになるだろう。

 たぶん、女将さんたちの希望は、築地改築(改造?)ということだろう。

 もちろん、それも選択肢の一つ。

 しかし、個人的には、以前に八五郎とご隠居の会話で示したように、大田市場がもっとも現実的な移転先ではないかと、今のところ私は思っている。
2017年1月18日のブログ

 しかし、メディアでそういう代替策を提示しているところはないなぁ・・・・・・。

 それが、不思議でならない。

 築地の女将さん達の輪が広がって、築地改築案や移転先の代替案に関する議論が活発になることを期待するなぁ。
 豊洲移転派は、きっと環状二号線問題を持ち出すだろう。それだって、東京五輪の輸送問題について代替案があるはずだ。
 環状線について、感情的になってはだめなのだよ^^

 そもそも、国民や地元の方を無視して東京都や国が密室で決めてきたから、問題がどんどん拡大したのだ。

 公開の場で、地元の人の声を踏まえて考えることで、新たな解を探るべきだろう。
 古希を過ぎた「女将の会」の山口会長やメンバーの皆さんに大いに期待する。
 会長のお名前が「タイ」とは、築地らしいし縁起がいい!

 ぜひ、行政や政治の問題も、女将さん達が扱っている魚のように、見事にさばいてもらいたいものだ。

 
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# by kogotokoubei | 2017-03-14 21:27 | 責任者出て来い! | Comments(2)
 今日三月十三日は、旧暦二月十六日、西行忌だ。

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矢野誠一_落語歳時記

 座右の書、矢野誠一さんの『落語歳時記』から引用する。
 旧暦二月二十六日、西行法師の忌日。建久元(1190)年のこの日、河内弘川寺に入寂した。「願わくは花の下にて春死なむその如月の望月のころ」という歌は有名。釈尊入滅の日に死ぬことを願っていたのである。二十三歳出家してより諸国行脚して歌道にその名を知られた。家集『山家集』のほか、その歌を集めた『聞書集』『聞書残集』がある。

    *
 あの西行法師が未だ佐藤兵衛之丞則清といった北面の武士時代のエピソードを綴ったのが、地ばなしによる『西行』で、故柳亭痴楽や三遊亭円歌などがしばしば高座にかける。昔、摂津泉つまりいまの大阪近辺から千人の美女を選び、さらにそのなかの一人選び抜かれたという染園内侍に、佐藤兵衛之丞則清が恋をしたはなすだが、落語では、この恋に破れたため、かざりをおろし、名も西へ行くべき西行と改めることになっている。
 有名な歌は、如月の望月のころだから、二月十五日頃の花の咲く春の日に死にたいということ。釈尊入滅、つまり釈迦が亡くなった二月十五日に自分も死ぬつもりでいたわけだ。
 ほぼその通りに旅立つとは、描いた通りの人生のクロージングの姿ではないか。

 なお、佐藤則清の「のり」の表記は、以降で引用する本やサイトで「義」や「憲」も使われており、混在したまま引用するのでご容赦のほどを。

 西行が登場する噺として『鼓ケ滝』は何度か聞いているが、『西行』を聴いたことがない。
 
 あの「柳亭痴楽はいい男」の四代目痴楽が十八番とし、二代目円歌、そして当代円歌も持ちネタとしているようだ。

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矢野誠一 『新版 落語手帖』

 同じ矢野さんの本『落語手帖』から、『西行』の「あらすじ」をご紹介。

 北面の武士佐藤兵衛尉憲清は、染殿の内侍に思いをかけていたが、内侍から「この世にては遭わず、あの世にてもあわず、三世過ぎての後、天に花咲き、地に実り、人間絶えし後、西方阿弥陀の浄土にて我を待つべし。あなかしこ」と手紙がくる。則清は、これをいまから四日目、空に星が輝き、草木に露を含む頃、西の阿弥陀堂で待てとのことと解釈した。内侍がなかなか来ないので居眠りをしていると、内侍がやってきて「我ならば鶏鳴くまでも待つべきに思はねばこそまどろみけり」といって帰ろうとした。とび起きた憲清は「宵は待ち夜中はうらみ暁は夢にや見んとしばしまどろむ」と返歌した。内侍は機嫌をなおし、うちとけた。鶏鳴暁を告げる頃、「またの遭うせは」と憲清が聞くと「阿漕であろう」と袖を払われる。「伊勢の海阿漕ヶ浦に曳く網も度重なればあらはれにけり」の古歌を知らぬ則清は、武門を捨て剃髪、名を西行と改めて歌修行の旅に出る。伊勢の国で、馬方が「われのような阿漕なやつは・・・」と馬を叱るので、西行がその意味をたずねると、「あとの宿で豆食っときながら、まだ二宿も稼がねえのに豆を食いたがるだ」「ああ、してみると二度目のことが阿漕かしらん」

 なるほど、内容やサゲを考えると、今日では聴くことができなくなった理由が分かる。

 ネタ調べをする際にたびたびお世話になる「落語の舞台を歩く」には、前段の美女選びのことなども含む円歌の高座の概要が説明されている。

 同サイトから、「染殿の内侍(ないし)」について引用。
「落語の舞台を歩く」の該当ページ
染殿の内侍(そめどののないし);内侍=伊勢神宮に奉仕した皇女。天皇の名代として、天皇の即位ごとに未婚の内親王または女王から選ばれた。記紀伝承では崇神天皇の時代に始まるとされ、後醍醐天皇の時代に廃絶。また、斎宮に関する一切の事務をつかさどった役所の女官。町屋風に言うとお染さんというが改まって染殿と言った。


 次に、サゲにつながる「阿漕」を含む、内侍が謎をかけた古歌について「故事ことわざ辞典」で調べてみた。

「故事ことわざ辞典」サイトの該当ページ

阿漕が浦に引く網
【読み】 あこぎがうらにひくあみ
【意味】 阿漕が浦に引く網とは、人知れず行う隠し事も、たびたび行えば広く人に知れてしまうことのたとえ。
【阿漕が浦に引く網の解説】
【注釈】 「阿漕が浦」は三重県津市東部の海岸一帯で、昔は伊勢神宮に奉納する魚を取るために網を引いた場所。
特別の漁業区域で一般人の漁は許されていなかったが、阿漕の平治という漁師が病気の母親のために、たびたび密漁をしていて、ついには見つかり簀巻きにされたという伝説から。
「あこぎなまねをする」などと用いる、強欲であくどいさまをいう「あこぎ」も、この伝説から出た言葉。

 この伝説を知り、落語の『二十四孝』を思い浮かべてしまった。
 秦の王祥が、母親が寒中に鯉を食べたがったが貧乏で鯉を買う金がなく、氷の張った沼に出かけ、裸になり自分の体温で氷を割って鯉が飛び出した、という噺は美談。
 しかし、阿漕の平治の密漁は罪となり簀巻きか・・・・・・。


 「阿漕」という言葉ができた背景に、こんな伝説があったことを、初めて知った。

 そして、この噺、少しバレがかってもいて、それも現在では演じられにくい理由の一つか。

 しかし、知れば知るほど、この噺は奥が深いと思う。
 染殿の内侍と彼女が謎かけをした阿漕が浦の古歌という内容と、サゲ近くの馬方と西行のやりとりの落差は、実に興味深い。

 たしかに、今では演りにくい噺には違いないが、埋もれてしまうのは惜しい。
 地ばなしとして噺家さんそれぞれの現代風の工夫も活きるだろう。

 誰か、復活してくれないものだろうか。

 西行忌に、今は聴くことのない、味わい深い噺のことに思いが及んだ。

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# by kogotokoubei | 2017-03-13 12:45 | 落語のネタ | Comments(4)
 一昨日、今秋師匠松喬の名を襲名する笑福亭三喬のラジオで聴いた高座について記事を書いた。

 あの一門での襲名ということでは、三喬の大師匠だった、“松鶴”という名にも思いが至る。

 上方で「六代目」と言えば、松鶴のこと。
 そして、七代目松鶴の名は、松葉が亡くなってから追贈されている。
 松葉については以前記事を書いた。
2011年9月22日のブログ

 しかし、もっと以前に、七代目松鶴襲名を周囲から期待されていた男がいる。

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笑福亭松枝著『ためいき坂 くちぶえ坂』(浪速社)

 笑福亭松枝の『ためいき坂 くちぶえ坂』は、拙ブログにいただいかコメントで知った本。1994年に初版が発行され、2011年6月に改訂版発行。

 以前この本に基づき書いたいくつかの記事には、今でもアクセスが少なくない。
 最初の記事は、2012年6月。ご興味のある方はご覧のほどを。
2012年6月18日のブログ
 
 この本は、序章で、松葉を七代目とすることを一門メンバーに仁鶴が告げる場面から始まる。

 副題にある通り「松鶴と弟子たちのドガチャガ」が何とも可笑しかったり、理不尽だったり、そして感動的であったりする。

 目次は次の通り。
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「増刷にあたり」
序章  凍てついた時間
第一章 ためいき坂、くちぶえ坂
第二章 「昭和ブルース」
第三章 粉浜村「虎の穴」
第四章 それぞれの彷徨
終章  溶け始めた時間
あとがき
<付録>松鶴一門の推移・一門系図
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 今回は、“幻の松鶴”と言われる、先代の枝鶴について、本書より紹介したい。
 五代目の枝鶴は、六代目の実子である。
 枝鶴という名跡は、いわば出世名であり、六代目も名乗っていたし、初代が四代目松鶴、二代目が五代目松鶴となっている。

 「第四章 それぞれの彷徨」より引用する。

「ノラやねん」

 「まさか」楽屋で居合わせた全員が、我が目我が耳を疑った。
 「またか」舌打ちしてうなだれた。
 昭和六十二年九月二十二日より二十八日迄、道頓堀・浪花座に於て松鶴の一周忌にちなむ追善興業(ママ)が行われた。米朝、春団治はもとより、東京から小さん、夢楽、志ん朝、談志、円蔵等を招き、香川登志緒、三田純市、新野新他の作家、漫才の大看板等の追想談義、そして昼夜二回都合十四回の興業のトリを、枝鶴、鶴光、福笑、松喬、呂鶴が故松鶴の十八番で括る、それは盛大な物になる筈であった。その初日に枝鶴が姿を現さない。二日目、三日目も。
 此の興業は松鶴の追善が名目ではあるが、実子・枝鶴が立派に筆頭弟子として「らくだ」他を演じ切り、内外に向けて将来に於ける彼の「七代目・松鶴」を認めさせる、大目的があった。
 なかなか豪華な追善興行(こっちの字だと思うんだけどなぁ)・・・になるはずだった。
 この松鶴の実子枝鶴、失踪の前科があったことがこの後の文で分かる。
 「ひょっとして、今度も又・・・・・・」疑い恐れては、
 「まさか、今度はいくら何でも・・・・・・」危惧を打ち消して来たのである。
 失踪劇は格好のマスコミ・ネタになった。程無く、ビートたけし夫人とのスキャンダルも発覚した。
 「“枝鶴”襲名の“資格”無し」
 「“枝鶴”(四角)四面楚歌」
 「“枝鶴”の“視覚”に“死角”有り」
 笑うに苦しむ見出しが、スポーツ紙の裏面を飾った。
 数日後姿を現し、関係者の口を借り「重責に耐えかね、ノイローゼ気味になり・・・・・・」と弁明し、「再度、復帰を」と願い出たが、松竹芸能は首を縦に振らなかった。当然であろう。“重責”の度、舞台を放棄されたのではたまったものでは無い。仏の顔も三度どころでは既に無かった。枝鶴は自ら、「父の後」を追う道を絶ってしまったのである。

 この逸話で、私はNHKの朝の連続ドラマ「ちりとてちん」を思い出す。
 渡瀬恒彦扮する三代目の徒然亭草若は、主人公の喜代美と出会う三年前の一門会の日、高座の直前に妻の余命を知って動揺し、天狗座での公演に穴を開けてしまた。そのため、天狗芸能会長の逆鱗に触れ、天狗芸能を追放されたのだった。

 あのドラマは、上方落語界における逸話などを散りばめていたように思うが、草若が一門会に穴を開けるという筋書きは、この枝鶴のことが下敷きになっていたと察する。
 そして、草若が病で定席設立の夢なかばに倒れる設定には、吉朝がモデルかと思わせた。
 また、草若の亡くなった妻の志保(藤吉久美子)は、生前夫の囃子方を務めていた、という設定に、枝雀夫人を連想した。

 さて、枝鶴について著者松枝は、「彼は此の世界に身を置くべきではなかったと断言する」と言い、その理由をこう書いている。

 なぜなら、「誘惑に弱く、美味しい言葉につい酔ってしまう。先を見通し、危険を避ける事が出来ない。「ノイローゼ」とは、最も縁遠い所に居る男である。
 そして、枝鶴本人も自分自身を良く知っていた。
 「俺は、しんどい事、堅苦しい、むつかしい事が面倒やねん。一生懸命、何かをやれる人間や無いねん・・・・・・。ならば松鶴は根本的にその性格を叩き直すか、少なくとも、勤労と報酬の最低限の法則を教えるべきであった。彼は実に安易に此の世界に入り、仕事、地位を得た。それが何に依ってもたらされたものか、分からぬまま失踪・借金・女との不祥事を繰り返し、松鶴に後始末をさせ、しかも復帰をその都度許された。

 そうか、松鶴も、いわゆる親バカだったんだなぁ、と思うが、その背景には少し事情がある。

 松鶴(竹内日出男)は枝鶴(竹内日吉)の幼い頃、彼の許を離れ、夫人(衣笠寿栄)と、その子供達と暮らしはじめた。子・枝鶴が最も必要とする時期に、父・松鶴は自分の為のものではなかった。松鶴は、夫人と子供達の為の松鶴であった。やがて父・松鶴は落語の為の松鶴になり、落語家の為の、その愛好者の為の松鶴でありつづけ、そして最後は本人・竹内日出男の為の松鶴になった。もうすこし、松鶴(日出男)が枝鶴(日吉)の為だけに生きる時期が、長くても良かった・・・・・・、そう思える。
 “父の後”を追わず、他に生きる道を探していれば或いは・・・・・・。とも思う。

 松鶴は三度結婚している。元芸妓の最後の夫人は弟子たちから「あーちゃん」と親しみを込めて呼ばれたが、枝鶴の実の母ではないことは、紹介した文の通り。

 この枝鶴は五代目。昭和20年生まれ。
 いまだに、消息不明、である。
 弟子だった小つるが六代目枝鶴を継いでいる。

 彼のホームページには、「枝鶴はどこに居てるねん?!」と、書かれている。
六代目笑福亭枝鶴のホームページ

 まだどこかで生きているのか、それとも・・・・・・。

 今週土曜日で、あの日から丸六年。
 テレビの特集番組で、あの津波で行方不明になった親族をいまだに探し続けている人の姿などを目にした。
 
 同じ行方不明でも、もちろん、その原因も含めて大きな違いがあるのだが、生きているならすでに古希を過ぎた五代目枝鶴。
 どこかにいるのが発見(?)されたら、どんな姿であろうが、それは上方落語の関係者にとっては、きっと嬉しいことではあるまいか。

 しかし、もし誰かが彼を発見しても、枝鶴は「ノラやねん」と言って、人前に姿を見せることを固辞するのかもしれない。
 
 東西でさまざまな襲名披露がある今年の落語界、“幻の七代目松鶴”が世に復活するには、悪い時機ではないように思うのだが、彼は行方不明者リストの中にとどまったままで時間が過ぎるのかもしれない。
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# by kogotokoubei | 2017-03-09 21:37 | 落語の本 | Comments(0)
 メールで、ほぼ毎日、落語会の案内がくる。

 三ヵ月も四か月も先の案内などもあって、予定を決めることもできず予約はしないが、内容によってはリンク先で詳細を確認することもある。

 木戸銭を確認すると、それなりに名の通った噺家さんが複数出演する会は、四千円を超えるものが増えてきたような気がする。

 また、独演会や二人会でも、噺家さんや会場によって、結構な木戸銭を設定している。

 その中でも驚いたのが、この落語会だ。
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赤坂ACTシアタープロデュース 恒例 志の輔らくご
第一部 大忠臣蔵-仮名手本忠臣蔵のすべて/第二部 落語 中村仲蔵
[出演]立川志の輔
2017年5月4日(木・祝)-2017年5月7日(日)
会場:TBS赤坂ACTシアター (東京都)
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 木戸銭は、5500円。
赤坂ACTシアターサイトの同公演のページ

 赤坂ACTシアターは、一階席が890、二階席434で、合計1324席もある大ホールだ。
 そもそも、落語に相応しい小屋とは言えない。

 渋谷のパルコがなくなってからの目玉づくり、ということか。

 志の輔の企画では、恒例で『牡丹燈篭』のあらすじ説明を含む落語会をしているようだが、ゴールデンウィークは赤坂「大忠臣蔵」を恒例にしようということか。

 すでに「恒例」と謳っている・・・・・・。
 演目についても、“恒例となった「中村仲蔵」”と説明されている。

 『中村仲蔵』は、パルコで一度ならず演じてきたお手の物の十八番。

 パルコ同様、四日間とも同じ内容・・・・・・。

 私は、こういう企画への興味はまったくない。
 がってん、しない。

 もし、忠臣蔵を題材に落語会を開くのなら、私は行けなかったが、桂文我の会のような、忠臣蔵にちなんだ複数の噺で構成するのなら、がってんだ。
 ちなみに、紀尾井小ホールで今年一月十四日(土)に開催された会では、一部と二部合わせて、次のような噺が演じられたようだ。
 「田舎芝居(大序)」「芝居風呂(二段目)」「質屋芝居(三段目)」「蔵丁稚(四段目)」「五段目(五段目)」「片袖(六段目)」「七段目(七段目)」「九段目(九段目)」「天野屋利兵衛(十段目)」「三村次郎左衛門(十一段目)」) / 桂米平「立体紙芝居」

 聴いたことのない噺が並んでいる。
 一月十四日は旧暦で十二月十七日だったので、ネタとして“旬”でもあった。
 こういう企画こそが、忠臣蔵にちなむ落語会に相応しいと思う。
 これで一部、二部のそれぞれの木戸銭は、3000円。
 ちなみに、紀尾井小ホールは250席。
 三三が、最初に『嶋鵆沖白浪』を披露した会場でもある。
 行きたかったが、野暮用で無理だった。来年もあるなら、最優先で予定したいものだ。

 対して志の輔の赤坂でゴールデンウィークの忠臣蔵・・・器が大きすぎることに加え、何ら季節感のない企画。


 もちろん好みの問題である。
 赤坂に志の輔の忠臣蔵の講義と高座を聴きに行きたい方は、どうぞ行ってください。


 江戸時代の寄席の木戸銭について以前に書いたことがある。
2014年4月29日のブログ


 いろんな考えがあるが、一両を120,000円としよう。
 一両が四千貫として一文は30円になる。
 蕎麦の十六文が480円。これでも、少し高いけどね。

 寄席の木戸銭は、安政以前の三十六文で1,080円、安政以降の四十八文で1,440円。それぞれに下足札四文、中入りに引くくじ代十六文の計二十文分の600円を足すことにして、安政以前1,680円、安政以降2,040円になる。
 寄席の木戸銭としては、妥当な気がする。

 大工の月の稼ぎが銀で135匁、銭にして9,000文という試算があるので、月の収入が現在価値で270,000円。週に一度位は寄席に行く余裕もあるだろう。

 現在、都内定席の寄席の木戸銭が、ほぼ3,000円になっているが、これはあれだけの出演者がいて、鈴本以外は入れ替わりがないことを考えると、江戸時代よりは少し割高とはいえ妥当かもしれない。

 独演会や二人会規模の落語会も、せいぜい3,000円が妥当で3,500円が上限ではないか、と私は思っている。

 だから、4,000円超えが当り前になりつつある昨今の木戸銭には、違和感がある。
 また、会場も、落語という芸能に相応しいのは200~300席ではないかと思っている。

 よって、千人を超えるような大ホールでの落語会には、原則として行こうとは思わない。
 実は、以前にそういう会に行った時の小言から、このブログは始まったのである。
 大きなホールで、高い木戸銭の会を目にする度、私には、「野暮」の二文字が脳裏に浮かぶ。

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# by kogotokoubei | 2017-03-08 08:54 | 木戸銭 | Comments(10)
 最近は、録音したラジオ番組を、通勤途上に携帯音楽プレーヤーで聴いている。
 とはいえ、ある落語愛好家のお仲間のご支援があってのことなのだが。

 日曜喫茶室が今月で最終回なのは、しょうがないとは言え、残念。

 上方落語も好きなので、毎週楽しみなのが、毎日放送「茶屋町MBS劇場」だ。

 先週4日の土曜日放送回は、笑福亭三喬の『崇徳院』と米朝の『土橋万歳』だった。
茶屋町MBS劇場のサイト

 私は、2012年のJAL名人会で、六代目松喬の生の高座に、ぎりぎり間に合った。
2012年8月29日のブログ

 その時のネタが、『崇徳院』。

 闘病中と聞いていた松喬の姿は明らかに痩せており、内心「大丈夫か?」と思っていたが、口跡もしっかりしていて、「緋塩瀬(ひしおぜ)の茶帛紗(ちゃぶくさ)」なども言いよどむこともなく、実に素晴らしい高座だった。
 「まだ大丈夫、松喬は復活する!」と期待を込めてブログの記事を書いたものだ。

 しかし、翌2013年7月30日、松喬は帰らぬ人となった。
 まさにその日に開催された「JAL名人会」で、私は三喬を聴いている。
2013年7月30日のブログ
 師匠逝去は、午後四時半とニュースに記されていたので、三喬はこの会開演直前に訃報を伝えられたか、あるいは気を遣って周囲が終演まで連絡しなかったのか・・・・・・。
 いずれにしても、最後を看取ることはできなかっただろう。

 今秋、三喬は七代目松喬を襲名する。

 そんなこともあって、私にとって松喬の思い出のネタ『崇徳院』を、ぜひ三喬で聴きたいものだと思っていた。

 それだけに、この放送は嬉しかった。
 加えて、放送されたのは、松喬が亡くなった2013年の10月20日に阿倍野区民センターで開催された「松喬十六夜 追福興行」の高座。
 同区民センターのサイトに、ポスターがまだ掲載されていた。
阿倍野区民センターサイトの該当ページ
 元気な頃の松喬の写真があるのは、三喬の高座の後、松喬による『網舟』のビデオが上映されたらしい。

 この会、師匠が自分のライフワークとも言える「松喬十六夜」の直前に旅立って、まだ三ヵ月後だ。

 どんな高座なのか興味深々で聴いていた。

 マクラなしで、すぐに本編に入る。
 
 前半、若旦那の衰えぶりと明るい熊さんとの対照の妙。
 若旦那の回想には、高津さんで出会った“水のたれる”お嬢さんの「緋塩瀬(ひしおぜ)の茶帛紗(ちゃぶくさ)」も登場する。
 熊さんと親旦はんとの会話のナンセンスなすれ違いも、可笑しい。
 漁師(料紙)の言葉を引き出すために狩人と言うあたりでも、会場も沸く。
 松喬一門が好きな、い~いお客さんで会場が一杯なのが察せられる。
 熊さんと気丈な女房との会話のリズムの良さ。
 噺の流れに無理がない斬新なクスグリ。
 お嬢さん探しに奔走し、床屋とお湯屋を三十軒以上回って疲労困憊した熊さんが遭遇した僥倖・・・・・・。

 師匠松喬の型を真似るのではなく、あくまでその精神を継承しながら、自分なりの高座に仕立てていた、という印象だ。

 すでに、三喬はこの時点で師匠の名を継ぐに値する噺家になっていた、ということだろう。

 泥棒ネタばかりではない三喬の見事な高座は、亡き師匠も「よし、松喬の名はお前に譲った!」と天国で安心するであろうものだった。

 今朝の通勤電車で聴きながら、少し目が潤んできた。

 三喬の七代目松喬襲名、大いに結構。

 そして、東京地区での披露目には何とか縁があることを期待しよう。

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# by kogotokoubei | 2017-03-07 12:23 | ラジオの落語 | Comments(2)

 今日は、五節句の一つ「上巳の節句」。

 五節句は、次の通り。

 ■人日(じんじつ):正月七日(七草粥の日)
 ■上巳(じょうみ/じょうし):三月三日(ひな祭り)
 ■端午(たんご):五月五日
 ■七夕(しちせき/たなばた):七月七日
 ■重陽(ちょうよう):九月九日

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荒井修著『江戸・東京 下町の歳時記』

 2010年12月に集英社新書から発行された『江戸・東京 下町の歳時記』の著者荒井修さんは、私より少し年長の“団塊の世代”で、浅草にある舞扇の老舗、荒井文扇堂の四代目社長さん。
 
 「はじめに」から、少し引用。
 この本は、あたしの生まれ育った下町と、江戸時代からの歳時記を加えて綴ったものです。もちろん下町とは、江戸城から江戸湾に向かった日本橋あたりから人形町方面をさした言葉で、江戸時代でいうところの浅草は下町エリアではありません。けれども庶民の町で江戸一番の盛り場ですから、下町文化という点では、この地のあれやこれを下町の歳時記とすることには間違いはないと思います。
 それから、歳時記を語る上で難しのは旧暦と新暦。つまり、今と季節が違うときがある。年賀状に「初春」と書くように、昔の暦では一月、二月、三月が「春」で、四月、五月、六月が「夏」、七月、八月、九月が「秋」で、十月、十一月、十二月が「冬」となる。たとえば八月は秋の真ん中ですから、八月の月は中秋の名月となり、いわれてみればごもっとも、となるわけですが、突然「七月は秋」なんて言われたら、面食らったりするでしょう。

 「七夕」は俳句で秋の季語、と書いた拙ブログの記事には、その時期に結構アクセスがある。
2010年7月7日のブログ

 さて、「上巳の節句」について、この本から引用する。

 三月三日は「上巳の節句」。通称「桃の節句」といいます。実は中国の方では、この日に人の形に切った紙、「形代(かたしろ)」っていうんだけど、これで身体を拭うんです。それを川に流して、けがれを祓う。流し雛の原点でもあります。それが日本に伝わって「雛遊び」と結びつき、女の子の節句になるんですね。
 だけど、女の子の節句といっても、室町時代までは普通の町場の人間はやっていないんだね。公家と武家だけ。江戸に入って幕府が推奨して、一般の人もやるようになるんです。
 この日にいちばん繁盛するのは、人形屋に貝屋に、蕎麦屋と酒屋。今でも神田猿楽町に、豊島屋っていう酒屋がありますよ。江戸時代にそこの白酒がいちばんうまいっていわれて、たいへん人気があったんだ。大田蜀山人の『千とせの門』によれば、二月の十八から十九日の朝までに、千四百樽売ったっていうんだね。千四百樽ということは、一升瓶で五万六千本だ。
 これはね、豊島屋の初代十右衛門の夢枕にお雛様が立ったというんです。そのお雛様が、「こうやってつくるとおいしい白酒ができる」って言ったんだって。それでその通りにつくって雛祭り用に販売したら、江戸中の評判になった。江戸中の人がそこに行列して、その日は鳶がガードマンとして手伝っている絵もありますよ。鳶をガードマンとして雇わなきゃならないって、そりゃすごいよね。

 「桃の節句」も、江戸時代に、今につながる文化や風習が醸成された一つの例ということか。
 しかし、新暦三月三日では、まだ桃には早い。
 荒井さんが指摘するように、歳時記は旧暦を元に考えないと、時期のズレがどうしても生じてしまうなぁ。

 ちなみに旧暦三月三日は、今月の三十日。

 白酒で有名な豊島屋は、今も営業している。

 豊島屋本店ブログで、今年も伝統の白酒が出来たことが案内されている。
豊島屋本店ブログの該当記事

 この店、落語『業平文治』にも登場する。
 あの噺について書いた記事に、豊島屋についても少し紹介しているので、ご興味のある方はご覧のほどを。
2015年7月9日のブログ


 引用した文で疑問に思われるかもしれないのが、なぜ貝屋が繁盛するのか、ということだろう。
 実は、こういうこと。
 そのころはちょうど潮干狩りが始まる時季でもありますから、新鮮なハマグリが手に入る。だから、お雛様のところに、ハマグリのお吸い物をあげたりしました。

 これまた、旧暦でなければ、実感できないねぇ。

 なぜ、蕎麦屋が繁盛するか、も疑問だねぇ。
 その答えになる部分も引用しよう。

 それから、お雛様はなるべく早く片づけないといけない。そうじゃないと、縁遠くなるといわれている。片づける前にはお蕎麦をあげて、それから箱におさめて片づけないとだめなんですよ。「お蕎麦をあげてから片づけなきゃ嫁入りが遅くなりますよ」って親が言う。験かつぎみたいなもんだろうね。とにかく、最後はお蕎麦なの。

 昨今、女性が結婚年齢が高くなってきたのは、もしかすると、雛人形を片づけるのが遅かったからか、あるいは、片づける前にお蕎麦をあげなかったからか・・・なんてことはないだろうね。

 この問題を突き詰めていくと、政治がかってくるので、今回はこれ位で。


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# by kogotokoubei | 2017-03-03 12:36 | 年中行事 | Comments(4)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛