噺の話

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落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。

 三遊亭小円歌が継ぐ立花家橘之助のことについて、もう少し。

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 橘流初代家元橘右近の『落語裏ばなし』からは、初代立花家橘之助の浮世節の看板の変遷について、記事を書いた。
2017年1月7日のブログ

 右近の友人で橘之助に可愛がられた“横浜の志ん馬”(四代目)が亡くなった後、志ん馬の奥さんから志ん馬に預けられていた浮世節の看板が右近に譲られた。右近はその看板を、後に二代目三亀松を継ぐ初代の弟子亀松に託した、というところまでを前回は紹介した。

 その後に書かれている、初代橘之助の晩年のことや、右近の腕が生かされたことなどについて引用。
 引退興行に、たぬきの色紙を配って高座からおりた師匠は、晩年に結婚した橘ノ円師匠と名古屋の花園町で和やかに暮らしておりました。
 それが、どんな理由か京都に移転して、じきにあの大水害にぶつかったのです。昭和十年六月二十九日、北野神社裏の紙屋川氾濫で崖崩れ、これで両師匠とも亡くなってしまいました。
 お二人の墓石に、立花家橘之助、本名石田美代、行年六十九歳、橘ノ円、本名五十嵐銀次郎、行年六十八歳と書かせてもらいながら、私は志ん馬さんからゆずられた短冊の文をおもいうかべておりました。
   家越した方が今年の恵方かな
 転居祝とした筆は、大師匠円朝。かつて、橘之助師匠が引っ越をしたときに、大師匠が祝って贈ったものでございます。
 その頃は、師匠は朝寝坊むらく師匠(後の三代目円馬)と暮していたはず。へい『當世楽屋雀』によれば大の女房孝行、否その尻に敷かれていると書かれている夫。むらくは、
「姐さん」
 こう、女房をよんでの暮しでございました。いくら女房が稼ぎ人であるとはいえ、さんの字付けは恐れ入る。されば楽屋仲間はむらく師匠を、
「むらくは米国産です」と。
 稼ぎも、人気もありすぎる女芸人のさびしさ辛さも十分知った師匠の一生でございました。お墓は、牛込神楽坂・清隆寺でさァ(巻頭の口絵参照)。

 巻頭の口絵には、その墓の写真が掲載されている。

 紙屋川は、現在では天神川と呼ばれているようだ。 
Wikipedia「天神川」

 三条大橋までが流出した昭和10年の大水害については、京都市消防局のサイトに写真も含め説明されている。
 164人という犠牲者の中に、橘之助夫婦が含まれていたのだ。
京都市消防局サイトの該当ページ

 このたびの九州での大水害のことにも思いが至る。

 自然の脅威には、橘之助も勝つことができなかった。

 なぜ、名古屋から京都に引っ越ししたのか、勉強不足で分からない。

 橘之助にとって、残念ながら、京都は恵方とは言えなかったようだ。
 

 六月二十九日の初代橘之助の祥月命日、小円歌も神楽坂清隆寺で、橘右近が書いた墓石の文字を見つめていたのではなかろうか。

 残念ながら、師匠円歌は、この世で弟子の二代目橘之助襲名を見届けることはできなかったが、きっと初代と一緒に、遠い空の上から見守っているのではなかろうか。


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# by kogotokoubei | 2017-07-08 13:26 | 落語の本 | Comments(0)
 落語協会のホームページに、二代立花家橘之助襲名披露興行の案内が掲載された。

落語協会ホームページの該当ページ

 まるでチケットぴあのページのような内容だが、引用する。

2017年07月05日
平成29年 秋 二代立花家橘之助襲名披露興行

平成29年11月上席より

三遊亭小円歌 改メ 二代 立花家橘之助
前売り販売開始:9月1日(金)  ※国立演芸場のみ11月1日(水)より
お問い合わせ:一般社団法人落語協会 03-3833-8565
チケットぴあ:http://t.pia.jp/
Pコード入力または音声認識予約 ( 057 0-02-9999 )
ぴあプレミアム会員専用 ( 0570-02-9944 )

 初代のことの紹介も含め、何ら関連情報のない、相変わらずの内容。
 しかも、日程と会場については、「ポスターを掲載したから見ろ」、と言わんばかりで、文字情報なし。

 これって、ホームページの体をなしていない。

 日程・会場はポスターをダウンロードして参照しろ、ということなのだろうから、そうなりゃ、こっちも(?)、そのポスターを掲載してやろうじゃないか^^

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 なんと、11月1日から12月20日まで、ノンストップの50日間興行だ。

 落語家の真打昇進披露でさえ、3月31日や5月31日は休みだったり、国立演芸場の前に一週間空いたりする。

 この休みなしの興行は、実に凄いハードワークになるだろう。

 初代のことや、浮世節の看板のことなどは、以前書いているので繰り返さない。

 ご興味があれば、昨年11月、襲名のことが判明した際に書いた記事や、今年1月に、橘右近さんの本を元に書いた記事をご参照のほどを。
2016年11月24日のブログ
2017年1月7日のブログ

 また、山田五十鈴さんが亡くなった時に書いた記事にも、舞台「たぬき」のモデルであった初代のことにふれている。
2012年7月11日のブログ
 
 榎本滋民さんの作、橘之助の弟子の若い噺家役(モデルは七代目朝寝坊むらく、後の三代目三遊亭円馬)として古今亭志ん朝も出演した舞台で、山田さんは見事な「たぬき」を演奏したらしい。
 残念ながら、NHKは過去に放送したライブラリーがあるのに、舞台の映像を再放送してくれないなぁ。

 さて、この興行、小円歌自身の希望による五十日間休みなしの日程なら、そこに彼女の襲名への意気込み、了見が反映されている、ということだろう。
 
 ぜひ、一日でも披露目に出向いて、二代橘之助の「たぬき」を聴きたいと思っている。

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# by kogotokoubei | 2017-07-06 12:36 | 襲名 | Comments(2)
 富士山の山開きの日に『富士詣り』について記事を書いた。
 私が寄席で聴いたことがないので、“消えかかっている”噺、と形容したのだが、多くの方からコメントをいただき、今でもベテランや若手によって演じられているとご指摘いただいた。

 勉強不足を恥じ入るばかりだ。

 その山詣でについて、少し考えた。
 なぜ、落語のネタになるほど、日本人は山詣でをしてきたのか。

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神崎宣武著『旬の日本文化』(角川ソフィア文庫)
 
 何度か紹介している本に目が留まった。
 岡山宇佐八幡神社宮司で民俗学者、神崎宣武著「『旬』の日本文化」から、引用したい。

 山開き

 現在、山開きといえば、夏山登山の開始日とする印象が強い。その登山は、スポーツであり行楽である。
 しかし、歴史的にみると、それは明治以降のことであり、たかだか100年ほどの流行現象にほかならない。
 「山開き」という言葉は、さらに古い歴史をもつ。旧暦での六月一日に行なう例が一般的であったが、五月の末日に行なう例も少なくなかった。そして、そこでの登山は、信仰行事であった。
 登山などとはいわない。山詣で、あるいは登拝。個別には、富士詣でや大山詣で、白山詣でや熊野詣でなど。山開きから約一か月のあいだ、各地で善男善女が霊山霊峰に登拝する。右に示したような名高い山では、その登拝を斡旋する先達たちもいて、山腹には宿坊も発達した。

 落語愛好家の方は、こういったことは、先刻ご承知。
 『富士詣り』でも『大山詣り』でも、先達さんが存在する。
 
 それでは、なぜ山詣でをするのか、について。
 なぜ、各地で山詣でが盛んであったか。それは、日本が山国であったからである。現在でも国土の六十数パーセントが森林である。島国というよりも「山島」というのがふさわしい地形である。
 ほとんどの土地で、山を眺めながら暮らす。その山なみのなかで、とくに山容のすぐれた高峰をカミの山とみるのは、当然といえば当然のことだ。そこには、もろもろの精霊が棲む、とする。死霊も棲む、とする。仏教や神道が成立する以前からの、日本人の信仰観の原型が、そこにあった。

 いわゆる、八百万の神の一つの象徴が、山詣で、ということだろう。
 
 その山の“カミ”は、山にとどまってはいない。
 山に棲むのは、さまざまなカミであり、もろもろの精霊である。が、総じていえば、「山のカミ」。あるいは、象徴的な存在として山のカミ。その山のカミは、正月には歳神(歳徳神-トシトクジン-)となって里に降り、家々をめぐる、とさえた。また、節分(二月三日)を過ぎて八朔(八月一日)のあたりまでは田のカミとして稲作を守護する、とされた。たとえば、「正月くれば歳神さん、田植えのときは田のカミさん、八朔過ぎれば山のカミ」という中国山地に伝わる俚諺(りげん)があるが、山のカミの性格をよくあらわしている。山のカミは、いうなれば原始日本の万能神だったのである。

 今や、そのカミは家にいる・・・という冗談はさておき、日本のカミはどこにでもいる。
 
 山詣での噺を聴くと、それが長屋の仲間とのリクリエーションの一環であろうと、日本人の心情の奥底にある自然への信仰心の強さ、日本人の遺伝子、というものに思いが至る。

 山に詣でる前には水垢離をして体を清めるのも、大事な準備。

 『富士詣り』では、急な天候の崩れは、登山する中に五戒(ごかい)を破りながら懺悔の足らない者がいるからだと先達さんに言われ、湯屋で下駄泥棒したことなどや、人妻と深い仲になったことを白状する者が出てくる。

 先達さんが語る、五戒とは次の通り。
 ◇妄語戒(もうごかい):嘘を付いたり人を騙したりすること。
 ◇偸盗戒(ちゅうとうかい):人の物を盗んだり取ったりすること。
 ◇殺生戒(せっしょうかい):殺生して山に登ってはいけない。
 ◇飲酒戒(おんじゅかい):酒を飲んで山に登ってはいけない。
 ◇邪淫戒(じゃいんかい):女を騙したり泣かしたこと。連れ合い以外と交渉を持つこと。

 湯屋の下駄泥棒は偸盗戒、人妻野郎は邪淫戒の罪。

 そうそう、永田町には、妄語戒の罪人であふれている。

 反面教師が、あそこにはたくさんいるなぁ。

 日本は、八百万の神の国だ。
 どこにでも、その行いを凝視しているカミがいる、ということを忘れてはならないだろう。
 もちろん、家にいるカミも、忘れてはならない^^


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# by kogotokoubei | 2017-07-04 12:39 | 年中行事 | Comments(2)
 6月の記事別アクセスランキングトップ10は、次の通り。
 今回は、アクセス数も記す。

1 成田屋のこと。(2013.2/4) *アクセス数 1,272
2 新宿末広亭 六月上席 夜の部 6月7日 (2017.6/9) *439
3 円楽の落語芸術協会加入について。(2017.6/26) *333
4 新宿末広亭 六月上席 昼の部 6月7日(2017.6/8) *331
5 『抜け雀』のサゲ-『米朝らくごの舞台裏』『落語鑑賞201』などより。
 (2015.5/20) *270
5 二つの協会による、真打昇進披露興行の案内(2017.6/19) *270
7 朝日名人会は、ソニーの音源収録のために存在するのか?(2017.6/12) *264
8 昭和五十八年の真打昇進試験のこと(1)ー立川談四楼著『シャレのち曇り』より。
 (2017.6/1) *256
9 いただけない、落語芸術協会HPの「寄席の.日」のサーバーメンテナンス。
 (2017.6/5) *250
10 健さんが愛した歌、「ミスター・ボージャン.グル」について補足。
 (2014.11/25) *243


 一位になった四年余り前の記事へのアクセス数が、文字通り“ケタ違い”だった。
 この記事は十二代目団十郎が亡くなって、あるメディアに次のような記事があったことがきっかけで書いたものだった。
成田屋には代々を遡ると、米国のケネディ家のような悲しき因縁がある。

 この文章を読んで、「ほんまかいな?!」と思った。
 だから、初代から生存期間を辿ってみた。
 その結果、決して“因縁”などという表現が当てはまらないということを、書いたつもりだ。
 お読みになった方が、どんな感想をお持ちになったかは分からないが、海老蔵の奥さんは、残念ながら病に倒れたのであって、因縁などとは関わりないと、私は思っている。

 2位と4位に、居続けした末広亭の記事が入った。
 夜の部のアクセス数は、通常の月なら1位になっても不思議のない数だった。
 早いものだ、あれからもう一ヶ月。

 3位の記事には、いただいた落語愛好家の方のコメントが少なくなかったが、同じような思いの方がいらっしゃることを確認できて嬉しかった。
 歌丸と円楽の二人会が近々あるようだが、酸素吸入用のチューブを鼻に入れてまで高座を務める歌丸に、私は素直に拍手を送ることができない。八十歳の人間にとって、それは虐待(ハラスメント?!)ではないのか・・・・・・。

 5位は同数で二つ。
 『抜け雀』に関する記事がトップ10に入ったのは、NHK「日本の話芸」で桂南光の『抜け雀』が放送されたのが理由だろう。南光のサゲは、小佐田定雄さんの作。
 もう一つの記事は、落語協会と芸協のホームページに関するものだが、落語協会HPの“丸太ん棒”状態は、相変わらずである。
 
 7位は、久しぶりに朝日名人会に関して書いた記事。音源収録のために、以前と同じ噺家とネタをまた演じさせるのは、顧客軽視ではなかろうか、という思いで書いたものだ。

 8位は、立川談四楼の著書から、昭和58年の立川流創設につながった真打昇進試験について書かれた内容を二度に分けて書いた記事の前半部分。

 9位は、珍しく落語芸術協会HPへの小言。

 10位は、高倉健が好きだった曲に関する記事の補足として書いた古い記事だが、なぜアクセスが多かったのかは、不明。
 とはいえ、月間で200余りなので、際立って多かったというわけでもない。

 とにかく、成田屋の記事が一本かぶり、という月だった。
 あらためて、多くの読者の共感を得た小林麻央というブロガーのご冥福をお祈りする。
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# by kogotokoubei | 2017-07-03 18:47 | アクセスランキング | Comments(0)
 今日七月一日は、富士山の山開き。
 昨日から登り始め、ご来光を拝もうとした山好きの方も少なくないだろうが、残念ながら天候が悪かったらしい。

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矢野誠一_落語歳時記

 『富士詣り』という噺がある。
 矢野誠一さんの『落語歳時記』から引用。

富士詣り

 七月一日の富士山の山開きに、登山して頂上の富士権現に参詣することをいう。登山者は、白衣をつけて金剛杖をたずさえる。富士講と称し、団体をくんで登る人も多い。
  *
 「お富士様へ参りますに、近頃は山の登り口がたいそう変わりまして、昔江戸の道者はみな甲州へ行って、北口から登山いたしました」
 というのが、落語『富士詣り』のマクラだ。このはなし、富士詣りの途中で、山が無事にすむようにと、みんなが犯した罪をざんげする。湯屋で新しい下駄をはいてきたとか、色事のざんげなどがあって出かけると、一人が青くなった。
「この人は初山で酔ったな」
「酔ったかもしれねえ、ちょうど五合目だ」
 別題を『五合目』というゆえんだ。


 今日、どこかの寄席で、『富士詣り』を演る噺家がいるだろうか。

 『大山詣り』は、今の時代にも残りよく聴くことがあるが、『富士詣り』はまだ寄席で聴いたことがない。

 ネットで調べたら、Youtubeに柳家権太楼の音源があった。



 本来のサゲではないが、なかなかに楽しい。

 本編はちょうど寄席の尺。

 同じ矢野さんの『落語手帖』によると、かつて、七代目三笑亭可楽が得意とし、三遊亭小円朝に可楽から伝わったらしい。
 小円朝は、本来は柳派の噺、と言っている。
 権太楼は、小さんから習ってのだろうか。

 小円朝の弟子の朝之助から当時の若手にも伝わり、よく演じられたとのことだ。

 朝之助は、若くして亡くなった人で、談志との縁も深かった。
 酒さえ飲まなければ、次代を担う名手だったはず。

 朝之助がもう少し生きていてくれれば、この噺も今のように消えかかることはなかったかもしれない。

 富士山の山開きの日、今やなかなか聴くことのできない『富士詣り』という噺と、そのネタを得意としていた噺家のことを思っていた。
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# by kogotokoubei | 2017-07-01 12:31 | 落語のネタ | Comments(12)
 私は、てっきり小遊三に会長を譲るだろうと思っていたのだが、昨日の総会で歌丸続投が決まったとのこと。
 スポーツ報知から引用。
スポーツ報知の該当記事
桂歌丸、落語芸術協会の会長続投「代わってもらいたいんですが…」
2017年6月27日12時25分 スポーツ報知

 落語芸術協会は27日、都内で総会を開き、桂歌丸会長(80)の再任を承認した。任期は2019年6月まで。

 歌丸は2004年2月に会長に就任。任期2年で、今年は役員改選期になっていたが5日に開かれた役員会で理事は全員留任、歌丸の会長続投が決まっていた。

 総会に出席した歌丸は、会長続投について聞かれ「体調ですか。良くなったり、悪くなったりです」と笑いを取ると、「代わってもらいたいんですが、訳あって伸び伸びになっているんです」と冗談交じりに話した。9月中席には桂小南治(55)の3代目・桂小南襲名披露も予定されており、会長として協会を牽引していく。


 鼻にチューブを入れた八十歳が、「代わってもらいたいんですが、訳あって伸び伸びになっているんです」という、その訳とは、いったい何か?
*「伸び伸び」は「延び延び」の誤りだろう^^

 落語芸術協会のホームページの「協会員プロフィール」に役員の名が載っているので、引用する。
落語芸術協会ホームページの該当ページ

会長 桂 歌丸
副会長 三遊亭 小遊三
理事 三遊亭 遊三
理事 三笑亭 茶楽
理事 春風亭 小柳枝
理事 三笑亭 夢太朗
理事 桂 米助
理事 古今亭 寿輔
理事 桂 歌春
理事 柳亭 楽輔
理事 柳家 蝠丸
理事 瀧川 鯉昇
理事 春風亭 昇太
理事 桂 竹丸
理事 春風亭 柳橋
理事 桂 文治
監事 山遊亭 金太郎
監事 三遊亭 遊吉
参与 鏡味 健二郎
参与 東 京太
参与 神田 松鯉
最高顧問 桂 米丸
相談役 三笑亭 笑三

 序列で言うなら、小遊三が会長を継ぐのが、筋だろう。
 しかし、彼は嫌がっているかもしれない。

 では、歌丸の言う「訳」とは、小遊三を説得する時間をかせぐということか。
 それとも、今、小遊三には、会長を継げない体調面などの問題があるのか。

 あるいは、若返りを果たすため、同じ「笑点」仲間で人気が全国区の昇太を次期会長にするために、時間が必要なのだろうか。

 私は、芸と頭の良さ、歴史的にも大きな名跡である三笑亭可楽門下だった、茶楽が相応しいと思っている。


 もし、選ぶのが難しい状況なら、良い後継者の決め方がある。
 それは、『片棒』の手を使うことだ。

 候補者三人に、歌丸が、もし・・・・・・。

 落語愛好家の方は、もう語らずとも分かるはず^^


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# by kogotokoubei | 2017-06-28 22:02 | 落語芸術協会 | Comments(8)

 今年は、旧暦で閏月がある年で、先週土曜二十四日からが閏五月。

 梅雨の雨のことが「五月雨」であって、旧暦の六月は雨が降らないから「水無月」。

 では閏五月ということは、今年は長梅雨になる・・・かどうかは、分からない。
 
 旧暦の四月、五月、六月が夏だから、今年は夏が四か月ある、ということだ。
 そんな暑い季節の年中行事について。

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荒井修著『江戸・東京 下町の歳時記』(集英社新書)

 荒井修さんのこの本からは、何度か引用している。
 2010年12月に集英社新書から発行された本。

 著者荒井修さんは、私より少し年長の“団塊の世代”で、浅草にある舞扇の老舗、荒井文扇堂の四代目社長さん、だった。過去形になるのが、実に残念。
 いただいたコメントで初めて荒井さんが昨年亡くなったことを知ったのだが、三月に“しのぶ会”があったことを含めて記事を書いた。
2017年3月24日のブログ

 六月晦日近くの行事などについて、本書から引用したい。

家の中の景色が変わる

 このころになると、「枇杷葉湯売り」なんていうのが来る。枇杷の葉を、甘草(かんぞう)なんかといっしょに煎じたやつを売りに来るんだけど、肌にもいいらしい。それから六月の末には「夏越(なごし)の祓(はらえ)」というのがあるでしょう。ここで上半期が終わりですというね。難をよけたり、けがれを祓うために、茅(ち)の輪をくぐったりもする。
 そのときに「水無月」というお菓子を食べるんです。このお菓子は、三角形のくずの上に大納言、小豆がのかっているんだ。この三角というのは氷をあらわすみたいだね。涼しげなこのお菓子を食べると、夏に入っていく。


 この「水無月」というお菓子の由来については、昨年七月の「小満んの会」で『千両みかん』で小満んのマクラに関連して書いたことがある。
2016年7月22日のブログ

 また、夏越の祓が、季節の変わり目の行事の一つであることは、岡山宇佐八幡神社宮司で民俗学者の神崎宣武の著書『旬の日本文化』から引用して記事にした。
2015年2月3日のブログ

 荒井さんの本の引用を続ける。

 だんだん夏の準備が始まって、徐々に家の空気が変わってくる。まず、ふすまが外されて、すだれがかけられる。部屋の仕切りがすだれになるのね。そうすると、部屋がちょっと広くなった感じになるわけ。それから、茶だんすの中の景色が変わります。たとえば、木製の茶卓が籐の茶卓になったりね。
 これはあたしの時代の話ですよ。江戸時代にはそんなものはないかもしれないけれども、籐の茶卓になると、湯呑み茶碗よりも切子のコップなんかが茶だんすの中に増えてくるんです。で、麦湯がいつも冷まして置いてある。みんな麦茶っていうけど、あれはお茶じゃないですからね。いくら飲んでもカフェインがないから、子供たちでもどんどん飲んでいいわけ。この麦湯に砂糖の入ったやつがいいんだ。友人の橘右之吉さんは「それはぜいたくもんだよ」とか言ってたけどね。たしかに、なかなか砂糖は入れてくれない。親戚のところなんかに行くと出てきたりするけどね。
 それから、風鈴がつられます。江戸風鈴ってガラスだけど、最近のやつは下の切り口のところが、さわっても全然ざらざらしない。つるっとしてる。あれはね、大量生産のものが多いらしいんだけど、昔の風鈴っていうのは、切り口がざらざらしてるんです。そうじゃないと、あの音は出ないらしいですね。
 あたしが好きなのはどちらかというと、おやじかなんかが岩手の方に行ったときに買ってきた南部鉄の風鈴。これはまたちょいとぜいたくなものでね。実にさわりがいいじゃない。ちん、といった後に響くんですよ。これがつってあると、涼しげでいいですな。
 そして、蚊帳をつる金具が部屋の四方に取りつけられて、いつでも蚊帳がつれる状態になる。


 生まれ育った北海道は夏が短く、夏越の祓という風習そのものがなかったので、水無月を食べた記憶はない

 しかし、子供の頃には南部鉄器の風鈴があったことを思い出す。
 家族で一緒に寝る部屋に、蚊帳もつった頃があった。
 蚊帳で思い出すのは、志ん生が貧乏時代に、行商の蚊帳売りから安いのでつい騙されて、破れたボロボロの蚊帳を買った逸話^^


 “夏の風物詩”という言葉がある。
 
 すだれ、水無月、籐、麦湯、風鈴、蚊帳・・・・・・。

 そういったものが、次第に我々の生活から姿を消していく。

 3.11以後、いったんは節電ムードになったが、今では誰も電力消費量などを気にすることもなく、暑ければエアコンをつけっぱなし。

 我が家は、よほど暑くても、できるだけ扇風機だ。

 さて、新暦とはいえ六月師走だ。麦湯と水無月で夏越の祓をしようかな。

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# by kogotokoubei | 2017-06-27 12:44 | 年中行事 | Comments(2)
 円楽が単独で落語芸術協会(芸協)に入るらしい。
 日刊スポーツから引用する。
日刊スポーツの該当記事
三遊亭円楽、落語芸術協会に客分加入 席亭が後押し
[2017年6月24日9時41分 紙面から]

 5代目円楽一門会に所属する落語家三遊亭円楽(67)が落語芸術協会(桂歌丸会長)に客分として加入することが23日、分かった。

 円楽は5代目円楽一門会に所属。過去一門会全体の合流を打診したが拒否されていた。今回は席亭の後押しもあり、円楽は一門会に属しながら単独での加入を申請。27日に開催される同協会総会で正式承認される。

 “客分”・・・まるで、ヤクザの世界^^

 後押しした席亭は・・・末広亭かと察する。

 なぜかと言うと、芸協の芝居で客の入りが悪く、他流派からの出演などでテコ入れするように注文したのが末広亭の席亭だったかからだ。

 五年前に、新聞記事の紹介などで、芸協と他流派をめぐる一連の動きについて記事を書いた。
2012年1月27日のブログ
2012年2月7日のブログ
2012年4月16日のブログ

 芸協による定席寄席(芝居)は、その後若手育成などの成果も出て、客の入りは改善されていると思う。

 五代目円楽一門が丸ごと加入することで、鈴本以外に三つ、国立演芸場を含めても、たった四つしかない寄席への出演機会が減ることには、会員の多くの抵抗があったため、まとめて加入する案は実現しなかったのだろう。

 では、円楽一人なら、いいのか・・・・・・。
 私は、まったく合点しない。

 これは「笑点」で全国レベルの知名度のある円楽を利用した観客動員のための措置であるとしか思えず、会長歌丸との強い関係が背景にあるのは間違いなかろう。

 立川談幸が弟子二人を連れて芸協に加入したのとは、まったく違う。

 ブログを始める前に生の円楽(当時は楽太郎)の高座を聴いている。
 テレビで「今どき落語 特別編」の高座を見たこともある。
2013年1月3日のブログ
 その放送で、高座の後のインタビューを見た感想を次のように書いていた。
「誰かが談志、志ん朝を継いでもらい、三人会をしたい」などと言う発言を聞いても、この人がとんでもない勘違いをしていることが分かる。噺家として肝腎な時期に寄席に出ることが出来なかったという外的要因もあるが、それ以上に、自分が上手いと思っている驕りが見える。

 テレビでの人気に胡座をかいた傲慢さが、高座から漂ってくるのだ。

 それだけの技量があるか・・・・・・。

 芸協の同程度のキャリアのある噺家さんと比べて、彼らを上回る技量があるとは、まったく思えない。

 彼が寄席に出るということは、誰かが出番を失う、ということである。

 観客動員は増えるかもしれない。
 しかし、経済的要因だけでは測れないものを、芸協は失うように思う。

 円楽が提唱した博多の落語会などを含め、芸協の噺家さんと交流は深くなっていて、会長、副会長以外にも、彼の入会に賛成するベテランもいるかもしれない。

 しかし、快く思わない協会員も少なくないだろう。

 もちろん、好みの問題も、ある。
 少なくとも私は、彼が出る芸協の芝居には、行くつもりはない。

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# by kogotokoubei | 2017-06-26 12:54 | 落語芸術協会 | Comments(10)
 昨日のアクセスレポートの数字に驚いた。
 全体のアクセス数が1000を超え、ダントツで一位の記事が四年ほど前に書いた、「成田屋のこと。」だった。
2013年2月4日のブログ

 この記事へのアクセスがほぼ200。
 異例だ。
 海老蔵の奥さんのことでのアクセス増であることは、間違いないだろう。

 この記事は、十二代目の団十郎の訃報に関し、成田屋は短命が多いとか、ケネディ家にたとえて、呪われているというニュアンスの記事が多かったので、本当にそうなのか、と思って調べたことから書いた記事。

 私の調べの結果は、若くして団十郎を襲名した場合は夭折した人はいるが、決して呪われているわけでも、際立って短命であるとも言えない、ということ。

 それはそうとして、当代海老蔵の亡妻については、そのブログの読者(アクセス数?固定ファン?)が200万人を超えていた、とのことでブロガーとして、驚くばかりだ。

 彼女が出演していたテレビは、まったくと言ってよいほど見ていないし、あまり関心もなかったので、特に何か感想などを書くつもりも、その資格もない私だが、同じブロガーとして凄い管理人だったなぁ、とは思う。

 拙ブログは落語を中心としているものの、いろんなことを書きなぐっている。

 果たして、病で旅立つ直前まで書き続けることができようか・・・・・・。
 まず、無理だろうと思う。
 気力も体力もなくなるだろう。

 不謹慎なことかもしれないが、今思うことは、ブログとブロガーの寿命。
 ブログの生命は、もちろん管理人のそれに準じる。
 読者のアクセスも、また然り。
 このブログも、書き始めて丸九年が経った。

 以前頻繁にコメントをいただいていた方からの音信がなくなり、寂しく思うこともある。

 コメントが途絶えた理由としては、いろんな事情があるだろう。

 私と同様に還暦過ぎ、あるいはそれ以上高齢の方も読者として数多くいらしゃると察する。

 介護やご本人の体調なども、関係してくる年齢だ。

 そういった読者の方がこの記事をご覧になっていて、お元気ならば、管理人だけ閲覧モードでもいいので、ご一報いただければ、大変嬉しい。
 実に勝手な願いを綴ってしまったが、今回のことで思っている素直な心境である。

 一人の素晴らしいブロガーが旅立った。

 ご冥福をお祈りする。
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# by kogotokoubei | 2017-06-24 14:47 | 幸兵衛の独り言 | Comments(4)
 前の記事で、円生の本から、「噺が箱にはいる」ということや、「未完成の完成」という記述について紹介した。

 いただいたコメントから、弟子が師匠の真似から脱することの難しさということに思いが至った。

 しかし、師匠から継承すべきもの、自分自身の芸として発展させるもの、という問題は、なかなか深い問題を孕んでいると思う。

 そんなことを考え、書棚にある何冊かの本に目を通してみた。

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榎本滋民著『古典落語の力』(ちくまライブラリー)

 榎本滋民さんの『古典落語の力』に、実に示唆に富んだ内容を見つけた。
 章の題が、この記事の題でもある。
 引用する。

伝えるものと創るもの

 落語が古典の名に値するには、伝統の継承と個性の創造という、古典の必要条件を、みたさなければならない。
 まず、規矩がなければ、古典ではない。落語は堅苦しい「型」のない、自由無碍な芸能であると、よくいわれるが、これは、はなはだ誤解されやすいいいかたで、絶対不動の定型こそなけれ、流動性をもつ「型」、無形に近い「型」はあるものであり、それが、芸能をして芸術たらしめる、規矩というものなのである。

 我が意を得たり、という内容。
 
 以前紹介した十代目金原亭馬生に関する本の記事では、馬生が弟子に発した「何でもいいんだよ」という印象的な言葉を紹介した。
2014年9月18日のブログ

 しかし、あくまで、規矩を大事にした上で、何でもいいんであって、「型」をないがしろにしては、それこそ、かたなしだ。
 
 榎本さんの本の続きを紹介。
 実は、この中に、円生の『寄席育ち』からの引用がある。
 規矩を余分な障害と思い、不自由さを劣悪な状態と考えることが、そもそもまちがっている。芸術にとっての規矩は、内燃機関や圧力釜における圧力のように、望ましい爆発や燃焼や噴出を得るために加える、不可欠の手段なのであり、不自由であればこそ、豊かな創造がなされるのである。だから、規矩は守られなければならない。
「初心のうちは師匠の教えてくれたとおりを演るべきもんだと思います。ものまねだと言われても結構、教わったとおりにちゃんとまねをするだけでも容易なことではありません。ましてやそれを本当の自分の芸にするまでには、随分年月がかかります。おのれの力を出せるだけの域に達しなければ、むやみに師匠を離れるべきもんじゃアない」(三遊亭円生『寄席育ち』)
 一方、規矩は、とらわれてはいけないものでもある。
「落語は、教わったとおりに演らなくても良い。従来できているそのまま演るのは死芸であって、咄家の手柄が表われない。他人と違うのが良い」(『四代目柳家小さん・遺稿』)
 これは、前説と矛盾しているようでありながら、決してそうではない。三遊派と柳派の落語観や芸能論の特色は出ているものの、一つの本質を両面からとらえた、二つの正論であり、継承と創造に関する、段階論でもあると、受けとるべきだろう。
 先人の芸はなぞってなぞってなぞり抜けという教えと、師匠の影法師や模型になるなという教えは、どちらも正しい。

 読んでいて、なんとも複雑な思いになった。

 前回の記事にいただいたコメントで、円生の“影法師”と言われた三遊亭好生、その後の春風亭一柳のことを思い出した。
 とにかく、師匠円生が大好きで落語家になった人だ。
 円生を“崇拝”していた、とも表現されている。

 しかし、円生は、高座姿から語り口まで、自分にそっくりな好生の芸を嫌ったと言われる。若い時分の下手だった自分の姿を見ているように思ったらしい。
 
 円生は、榎本さんが引用した著書の文章にあるように、芸の発展途上段階では、“ものまねだと言われても結構”と思っていたのではないのか・・・・・・。

 あるいは、円生が、当時の好生は“おのれの力を出せるだけの域”に達していることを、認めていた、ということか・・・・・・。

 最初の集団真打昇進で好生が真打に昇進しても、披露目に師匠が出ることはなかった。
 結果、昭和53年の円生一門落語協会脱退の際、好生と川柳は落語協会に残った。
 好生は円生とは犬猿の仲の八代目正蔵の門に入り、春風亭一柳と名乗った。
 彼のことは、後日また書くことにしよう。

 
 さて、伝えるもの、そして、創るもの・・・・・・。

 落語という芸の深さをあらためて感じた、榎本さんの文章だった。


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# by kogotokoubei | 2017-06-23 21:27 | 落語の本 | Comments(2)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛