噺の話

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 休みをとっての末広亭居続けを敢行。

 途中で昼食をとりコンビニで助六などを買い込んで、12時15分頃に入場。
 一風・千風という、聴いたことのない漫才の途中だった。
 客席は椅子席で六割位、桟敷はパラパラと四割位。漫才が終わってからいつもの下手桟敷に場所を確保。二階席に修学旅行の団体の生徒さん達がいた。どこの学校か知らないが、先生は偉い。
 トリの時点で椅子席は九割近く埋まり、桟敷も七割方はお客さんが入っていたように思う。

 まず、昼の部について、出演順に感想などを記す。

三遊亭歌実 漫談 (12分 *12:20~)
 初。五月に二ツ目になったばかりの、歌之介の二番弟子とのこと。警察官から落語界入りとは珍しい。明るい芸風は好感が持てる。名前の由来は鹿児島の出身高校。警察官時代の逸話や外人のネタなどで客席から笑いをとる。師匠は一度は入門を断るものだが、歌之介は初対面で即入門となったとのこと。薩摩ということでのことかな^^

柳家三語楼『転失気』 (13分)
 いかつい風貌のこの人は、前座名のバンビ、二ツ目の風車から、三年前の真打昇進を機にこの懐かしい名の四代目を襲名したのだが、風車の時に感じた、いわゆるフラがこの高座からは感じなかった。誰でも通る芸の曲がり角かもしれない。今後に期待しよう。

ひびきわたる 漫談 (14分)
 煙管ではなくフルートを持って登場。実家の両親をネタにして、
 「母は、味噌汁薄いが化粧は厚い、父は耳は遠いがトイレは近い」などで笑わせるが、この人自身が昭和17年生まれで、今年75歳。そう考えると、実に若々しい芸と言えるだろう。

古今亭志ん弥『無精床』 (14分)
 愛犬家の私としては、この噺はサゲ近くで犬の話がやや残酷で好きになれないのだが、そういう点を差っ引いても、楽しい高座と言える。
 床屋の主の「おい、小僧、生きた頭につかまりな」などの科白がなんとも言えず良い。焙烙(ほうろく)のケツで小僧(奴)が稽古、なんて言葉も、焙烙という道具、言葉が失われつつあるだけに、歴史や文化を残すためにも落語が大事であると思わせる。
 寄席で重要な役割を担う噺家さんの一人と言えるだろう。円菊一門は、人材が豊富だ。

五街道雲助『粗忽の釘』 (14分)
 久しぶりの雲助。間違ってお向かいに行った後、「落ち着いて」隣を訪ね、女房とのなれ初めを独演する場面が、やはり頗る可笑しい。八五郎が彼女の八ツ口から手を入れてくすぐる場面は、何度聴いても笑えるし、最後に「そこは脇の下じゃないわよ・・・てな具合で一緒になりました」が、いいんだよ。
 二階席の修学旅行生には、少し刺激が強すぎたかな^^

のだゆき 音楽パフォーマンス (13分)
 三年ぶりだが、自分のスタイルを確立しつつあるようだ。
 コンビニのチャイムや救急車のサイレンの真似などの後で頭で演奏するピアニカ(本人いわく、神-髪-業)、二本同時に吹くリコーダーなどの芸の技量も高いし、なんとも言えないゆる~い語りも、板についてきた、という感じ。
 メールで届く案内で、結構、いろんな噺家さんの落語会の助演として名前を目にすることが増えてきたような気がする。認められてきた、ということだろう。
 夫婦楽団ジキジキも好きだが、ピンのこの人も貴重な」存在になりそうだ。
 
吉原朝馬『源平盛衰記』 (14分)
 地噺でいろいろと自分なりのクスグリを入れることができる噺だが、今一つ遊びの少ない大人しい高座だった。
 途中で「いいくにつくろう鎌倉幕府」や「ふじさんろっくにおーむなく」、元素記号の覚え方などを挟み、「こんなもん覚えても、なんの役に立たない」が、この日二階の修学旅行の団体さんに一番受けていたかもしれない。

松旭斎美智・美登 奇術 (14分)
 この日は、和の衣装。
 キャンディのマジックで二個もいただいた。おもちゃのバドミントンのラケットでは二階は難しいか。

柳家小満ん『金魚の芸者』 (16分)
 仲入りはこの人。昼の部から駆けつけた理由の一つでもある。
 冒頭で「水中に牡丹崩るる金魚かな」(筏井竹の門作)をふってくれるあたりが、小満ん落語の楽しさ。
 初代円遊作の噺を小満んが復活したことは知っていたが、ようやく聴くことができた。
 狸の恩返しの金魚版、とでも言おうか。
 狸は札になったりサイコロになって恩返しするが、金魚は柳橋の芸者になる。
 置屋の面接では、小唄「並木駒形」を聴かせてくれる。
 ♪並木駒形花川戸 山谷堀からチョイトあがる~
 いいなぁ、こういう噺。

 -仲入り-
 
 一服し、席に戻ると、私が来る前から隣にお一人で座っていらっしゃった高齢(私より)の女性から、話しかけられた。よく寄席にいらっしゃる方で、昨日は鈴本だったらしい。「夜もお聴きになるのですか?」と訊ねたら、お帰りになるとのこと。なかなか、居続けする人(馬鹿?)はいないよねぇ^^
 鈴本でもらったプログラムを見せてくれたが、小ゑんが主任の昼の部だったようだ。川柳の名があったので「出てましたか?」と聞くと「えっ、お元気でした」との答えに安心。会場が暗くなり始まりそうなので、それ以上の会話はなかったが、またどこかでお会いしたものだ。

 さて、仲入り後。

桂文雀『虎の子』 (10分)
 クイツキのこの人は、随分久しぶりだ。ほぼ八年前、同じ末広亭で、真打ち昇進を翌年に控えた笑生時代に『八問答』という珍しい噺を聴いた。
2009年6月6日のブログ
 この日も、また珍しいネタを披露。
 後で調べると、上方の『真田山』を元にした噺らしい。
 毎夜お婆さんの幽霊が出て、上野すり鉢山の祠の下に、「虎の子の金」があるから掘り出して欲しい、と言う。気味が悪くなり仲間に話すと、「彰義隊の埋蔵金が埋まっていて、息子の代りに母親が頼みに来てるに違いない」と、上野へ。
 しかし、その場所を掘り返して出てきたのは、何かの骨。
 そこに幽霊登場。それは幽霊の寅さんの子の兼(かね)の骨、「虎の子の金」ではなく、「寅の子の兼」だった、という次第。
 『真田山』は、真田幸村が埋めた軍用金と間違うという筋。
 ネタ選びを含め、実に不思議な魅力のある人だ。

ペペ桜井 ギター漫談 (12分)
 声は若干かすれているが、十八番ネタをしっかり。
 昭和10年10月生まれ、今年82歳の得難い色物の芸人さんだ。まだまだ、高座で見て聴きたい人。

三遊亭歌る多『金明竹』 (15分)
 円歌一門は、とにかく皆、冗舌だ。この高座では、不思議な関西弁を話す人物が、道具屋の女将さんに、あの言い立てをもう一回と言われ、「わてはいいんですが、会場のお客さんが可哀想」とか「本当は四回やるんですが」などと挟む。
 自分なりの工夫とも言えるが、これは好みが分かれるだろう。
 私は、せっかく気持ち良く噺の世界に入っている流れが途切れるような気がして、いきなり素になってのクスグリは、あまり好きではない。

柳家はん治『妻の旅行』 (12分)
 後でメモを読んで、「えっ、あれ12分!?」と驚いた。
 三月の中席で初めて聴いたが、また笑った。
 大変なんだよ、妻と良好な関係をつくるのは^^

翁家社中 太神楽 (12分)
 小楽と和助。和助の土瓶の芸は、仙三郎に迫りつつあるのではなかろうか。
 だから、「寄席のxxxxxです」の役者の名を考えることだ^^

三遊亭歌奴『子は鎹』 (28分 *~16:32)
 四月にもこの場で『初天神』を聴いている。
 この人の清潔感は、ある意味で落語家として不似合かもしれないが、爽やかな高座は好感が持てる。
 いろんな型や工夫などもあって、筋書きは一門や人によって微妙に違うが、歌奴は、こうだった。
 ・八五郎が亀に出会うのは、番頭の仕掛け
 ・地主の倅に駒をぶつけられたと八に話した後、亀は泣く
 ・二人の側で聴いている八百屋は、出てこない
 ・亀と別れた後、八は番頭に礼を言う。こんな感じの会話
  八五郎 もう木場には行かなくていいんですね
  番 頭 さっしがいいなぁ、ばれちまったかい
  八五郎 おかげさまで、いい木口を見せていただきました
 ・かと言って、鰻屋の場面に、番頭は登場しない

 やはり、円歌一門は、冗舌だなぁ、とも思ったが、人物の演じ分け、丁寧な仕草、目と顔だけでの表情の巧みさ、など、歌彦時代からもずいぶん上手くなったと思う見事な高座だった。母親が玄能を持ったまま振り上げないのも結構。
 今年のマイベスト十席候補、とまではいかないが、今後もこの人の高座を聴きたくさせる好高座。


 さて、ようやく昼の部がはねた。

 志ん弥、雲助、小満ん、はん治など、芸達者の寄席ならではの高座が印象に残る。
 歌奴は、もう少し色気のようなものを醸し出せるようになると、凄い噺家になる潜在力があるように思う。

 夜の部は、次の記事までお待ちのほどを。

 やはり、いいね寄席は。


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# by kogotokoubei | 2017-06-08 15:18 | 落語会 | Comments(6)
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立川談四楼著『シャレのち曇り』

 さて、後半。
 立川談四楼著『シャレのち曇り』の「第一章 屈折十三年」から、昭和五十八年五月に行われた落語協会の真打昇進試験で、立川小談志と談四楼が落された後のお話。

 談志は二軒の家を持っている。一軒は新宿柏木のマンションで、そこに家族を住まわせ、もう一軒は練馬の一戸建、来客用、書斎として使っている。談四楼が小談志とともに午前十一時、その練馬の方の家へ行くと、居間には四人の知った顔の女がいた。ブレーンとも言うべきか取り巻きと言うべきか、正確にはそこにいたのは三人で、一人はなぜかトイレで寝ていた。三遊亭楽太郎の女房であった。前夜、宴会があったのは明らかで、男達は皆帰ったと言う。
「師匠は」ときくと、中の一人が、
「二階で寝(やす)んでる。二時には出かけると言ってたから、十二時に起こすことになってんの」と、張れぼったい顔をこちらへ向けた。
 昼少し前、「どしたい」と談志が顔を出した。思ったよりさっぱりした顔付きだった。
 談四楼と小談志は逆に、女友達と同じような顔をしていたはずで、重度の宿酔のように青白く、しかも強張っていた。
「師匠、申し訳ございません。揃って試験に落ちました」
 思わず目をつむった。案の定、
「何ィ、もういっぺん言ってみろ」
 殴られた記憶はないが、この時ばかりは覚悟した。談志は、声の調子を落とした。
「そんな筈はねえだろうよ。それが証拠にゆンべ、三平さんとこの源平が受かりましたと報告に来て、パーティに出てくれとかなんとか、大はしゃぎして帰ったぞ。じゃあなにか、てめえ達の方が源平よりマズイってことか、俺の弟子が三平の弟子よりマズイのか、そんなバカなことがあってたまるか」
 談志は興奮してきた様子で、急に声を張り上げると受話器に飛びついた。
「俺だ、渡辺を出せ」

 前回も登場した“渡辺”とは、落語協会の事務局長を務めた人。
 2001年の9月に亡くなっている。志ん朝が旅立つ少し前。

 さて、その後どうなったのか。

 電話をかけた先は落語協会事務所で、談志だ、と名乗らずともそれが誰かを察したようだった。渡辺は留守だった。談志は受話器を叩きつけた。ポケットベルでも使用しているのか、電話はすぐにかかってきた。
「いいかよくきけ、二度とは言わねえぞ。小さんに電話させろ、他の理事でも誰でもいい、うちの弟子が落ちた理由を明確に述べろ。もしそれが納得できなかったら、俺にも考えがあるぞ」
 談志は、ドスの効いた声で捲し立てた。
 更に数人の理事の名前を出し、即刻理事をやめさせろと続けた。
 話を終えた談志の顔には、皮肉な笑いが浮かんでいた。
「ナベが俺に何と言ったと思う」
 両名怪訝な顔をすると、
「そのまま小さん師匠にお伝えしてもよろしいんでございましょうかだとよ。呆れ返(けえ)った大馬鹿野郎だ」
 実際、この渡辺という男、血も涙もない丸太ン棒である。
 試験が済んだその目白(小さん)宅で、結果はいつ発表になるのか、どういう方法で発表するのかという二ツ目の問いに、
「存じません、あたくしは何も知らされておりません」の、一点張り。何も知らない筈の男がその晩、受かった四人にオメデトウと電話を入れ、落ちた六人には知らせなかったのだ。

 談志の怒りの凄さが分かる。
 さて、この後、事態はどうなっていったのか。

 後日の話になるが、二日目も三日目も梨の礫だった。五日ほど経ってようやく一通の茶封筒が届いた。中身は事務用の横書きの便箋が一枚で、
『先日の審査会の結果、下記の四名の方が、合格致しました。なお、本年秋に審査会を催します。日程等につきましては、あらためてご連絡致します。社団法人落語協会』
 とあった。その下に合格者四人の名が連ねてあり、「以上」としてあった。おつかれさまでしたでもなければ、ごくろうさまでもない、ただそれっきりの紙っぺらだった。せめて、『サクラチル』ぐらいはあってもよい。ま、ほんとにあったら喧嘩になること必定であるが。
「なお、本年秋に審査会を催します」というのは追試験のことである。誰が受けるかそんなもン、この大馬鹿野郎。
 試験の結果について、ある事情通はこう言い切った。
「会長の弟子小里ん、副会長の弟子花蝶、三平門下三人のうちの総領弟子源平、それに抜擢の正雀、以上四人ゴウカーク」
 鋭い見方をすると思ったが、それはいかにも協会幹部の考えそうなことだった。

 この“茶封筒”“事務用便箋”の“紙っぺら”と、その内容には、何らそれを受け取る相手への気遣いが感じられない。
 どこか、改悪された今の落語協会ホームページの味気なさにも似たものがあるように思う。事務方が“丸太ん棒”である、ということだ。
 ともかく、正式に(?)不合格が伝えられたのだ。
 文中の“ある事情通”が誰かは分からないが、たしかに、政治的な力が働いているとしか思えない結果である。
 この後、談志の協会への電話の後のことに、話は戻るが、印象的な談志の長科白がある。

 渡辺との電話を切り、そこで女達のいれたお茶をひと口啜った談志は、とうとう、
「よくやった、でかした」とまで言い出した。
 ぶん殴るられるかと思っていただけに、その展開は意外だった。
 オレ達のせいで談志の名を汚した。二人の背中に押された、ヘタクソ印の大きなスタンプ。「弟子も満足に育てられないのか」という談志に対する世間の集中砲火。次から次に押し寄せる悪い連想。
 談四楼と小談志は、物事を悪い方にとるという小心な体質を有していた。申し訳なさで、その胸は張り裂けんばかりであったのだ。
「よオしこいこい、面白くなってきゃあった。やりゃあったねあいつら、いつかこういうことになんのはわかってた。よし、俺は協会を出るぞ。どうする、ついてくるか。ま、俺が出ても彼奴(きゃつ)らにはまだわからんだろうがな。しかし、危機感を持っている者には何らかのインパクトは与えるだろう。落語界を活性化させる為にも、出なきゃしゃねえだろ。喜ぶ奴がいやぁんだろうな、うるせい奴がいなくなったてんで、目に浮かぶねまったく。
 俺がいなくなっても、協会はしばらくは保(も)つだろう。だが、いずれ滅びる、これは言える。俺の改革案ひとつも取り上げねえんだ、そらまあ見事なもんだ。
 こないだ言ってやったんだ師匠に、このまんまじゃ保たねえと。したら小さん何てったと思う。後のことなんぞ俺は知らねえってんだ。わかるかこの意味。つまり俺が死ぬまで保ちゃいいってんだ。無責任と片づけるのは楽だが、小さんにしてもそういう状態に追いこまれてんだ。仮に後のことはおまえに任せると、とりあえず俺が言われたとしようか。断わるね、まっぴらだね、束ねていく自信がねえもん。現状はお手上げだ。言っとくが円歌や金馬じゃもたねえぞ。志ん朝でも無理だろう。な、そんなとこにいる理由がねえだろ。だから出ると、こういうこった。
 小さんは俺の師匠だ。誰が何と言ってもそうだ。だがな、今、俺と小さんの間にあるのは、師弟、すなわち親子という血の繋がりだけなんだ。芸、つまり落語に関する接点は最早ない。心配するな、そこは俺が何とかする。快楽の代償は高いというわけだ。おまえ達二人の為に出るんじゃねえぞ、勘違いするな。いいキッカケなんだおもえ達の一件は、いいか、試験に落とされたからってペコペコ卑屈になるんじゃねえぞ、胸張って堂々と歩け、落された、陰謀で落されたって大騒ぎしろ、方々行って喋りまくれ。こんなもん、受かった方がみっともないってぐらいのもんだ。よし、ビールでも抜けや」
 談志は、出かけるのをやめて、両名に檄をとばした。
「これは面白い、是非出るべきよ」
「あたしもそう思う、賛成だわ」
「ねえ、それ脱退ということでしょ。カッコイイー」
 女達は、自分のことではないので気軽に言いたいことを言ったが、悪い気はしなかった。

 談志の長科白は文字にして約800字、原稿用紙二枚分。

 談四楼の記憶と若干の創作によるものだろうが、あの試験結果への談志の思い、そして落語協会脱退、立川流創設の理由や背景は、この800字にほぼ込められていると思う。

 それにしても、あの場にいた女性陣、楽太郎の奥さん以外は、どんな顔ぶれだったのか・・・・・・。
 ま、それはいいか^^

 昭和五十八年の真打昇進試験についての記事ということでは、これにてお開き。
 とはいえ、本書『シャレのち曇り』からは、今後もご紹介する機会があるだろう。

 さて、今日は休みととったので、これから落語協会の寄席に行くつもりだ。

 あの時、談志が「このまんまじゃ保たねえと」と言った状況から、30年余り経った。

 志ん朝も談志当人も、今はいない。

 しかし、なんとか保ってきたその現場を見に行くことにしよう。
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# by kogotokoubei | 2017-06-07 09:32 | 落語の本 | Comments(2)
 ここしばらくの間、落語家でニュースを賑わわせるのは、歌丸と小朝の二人かもしれない。

 先週三日の土曜日、小朝との二人会で相模大野駅近くにある相模女子大グリーンホールに顔を出すはずだった歌丸が、残念ながら何度目かの入院で出演できなかったとのこと。

 また、小朝は、元妻による“訴えてやる”という会見で、注目を浴びている。

 真相は知らないし知りたくもないが、小朝は高座でこの件を語るはずもないだろう。

 落語に疎い若い人は、小朝という人を、泰葉が言うところの“金髪○野郎”の落語家、というイメージしかないかもしれないなぁ。

 私と同年齢のあの人、凄い時もあったのですよ。

 その小朝が、三十六人抜きで真打昇進した頃のお話。

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立川談四楼著『シャレのち曇り』

 立川談四楼の『シャレのち曇り』は、処女作『屈折十三年』を含む、彼の半生記とも言える本だが、初版が1990年発行の文芸春秋の単行本、その後私が読んだ講談社ランダムハウス文庫での発行が2008年、そして昨年、PHP学芸文庫の仲間入りをした。

 小説として“虚実皮膜”の部分もあるが、なかなか興味深い内容が詰まっている。

 立川流の創立につながる談四楼と兄弟子小談志の真打昇進試験落第のいきさつについて、本書の「第一章 屈折十三年」からご紹介。

 まず、談四楼が受ける前の真打昇進試験のことから。

 結果として、小朝のことにもふれることになる。

 昭和五十五年は五月に春風亭小朝が真打になり、『小朝旋風』が吹き荒れた年である。第一回目の真打昇進試験は、その風のいよいよ強い十一月に行われた。
 古いということが基準の受験資格者二十名のうち、「試験なんて野暮のキワミでございます」と四人が辞退し、残り十六名から五人が落されるという結果になった。
『何と、あの落語界に試験制度!』と、スポーツ紙の芸能欄ばかりでなく、一般紙も社会面で驚いたという真打昇進試験。
 小朝は三十六人抜きであるから、対象となった二十人は当然その中に入り、抜かれた挙句に落とされるという者が出たのである。抜かれることは仕方がないと納得はしても、
「オデキの上を針で突っつきやがった」
「首くくりの足を引っぱるような真似をしやがって」という、五人の落とされ組の捨て科白は、あえて軽い口調で発せられたものの、後に続く二ツ目達には、他人事ではなく響いたのである。
「どうだ、オレ達が仕掛け、世に送り出した小朝の売れ方を見ろ。しかも我々はそれに浮かれることなく、有史以来の試み、真打昇進試験をこれだけ厳しい形で実施したんだ。どうだ、どうだ、落語協会ってなァちゃんとしたところだろう」
 落語協会は、スタア小朝の後押しを、見識、定見という形で世に示し、記者団に囲まれ相好を崩した。記者会見の席上に連なる幹部達のなんと手柄顔であることか。
 あとは、ちゃんとしていることの何よりの証明、試験で真打を誕生させていること、だけが世間に伝わればよい。故に第二回目の試験は昭和五十七年に実施され、十人が受験し全員合格となったのである。つまり試験は、ここでハッキリ形式だけということになった。
 各寄席における披露目も、十日興業のうちの一日だけ務めればよく、客席は上野鈴本演芸場、新宿末広亭、浅草演芸ホール、池袋演芸場、と都内に四軒であるから合計高座は四日間だけ。
 金銭面での負担は、単独でなった真打のそれより遥かに軽く、十人の人柄も手伝って楽屋には、御馳走になろうという後輩たちが大挙して押しかけ、あふれた。
 小朝の評価は、とにかく高かった。
 三十六人抜きは、偶然にも志ん朝と同じ。

 昭和五十三年のNHK新人落語コンクール、小朝は『稽古屋』、さん光時代の権太楼は『反対俥』で臨んだ。
 以前、当時の模様を権太楼の著作から紹介したことがある。
2014年11月5日のブログ

 権太楼は、こう書いている。
 現場では「俺のほうが・・・・・・」と思ってましたよ。これはねえ、偽らざる心境。「ここでもって、俺がとらなかったら、おかしいだろう。こいつら相手にして」というぐらいに思ってたんですよ。
 ところが、その録画が放送されたときに、すーっと見るわけじゃないですか全員のを、たしか江ノ島で見たんですよ、仕事で行ってて。「きょう放送があるから見たいな」つって。
 で、見たら「あ、俺が審査員でも、小朝です」って思ったの。あとで冷静に見たら「この人、うまいわ。また、ちゃんといい構成を持ってきてる」ってね。
 私もテレビで観て、そう思ったことを思い出す。

 小朝の絶頂期は、平成二年に、博品館で一ヶ月の独演会を開催した頃ではなかろうか。

 小朝の抜擢昇進した年、昭和五十五年の第一回試験については、以前に雲助の本から紹介した。
2014年7月21日のブログ

 雲助は、その頃に届いた受験案内を“赤紙”と呼んでいたと明かしている。

 さて、談四楼にも赤紙が届いたものの、“形式だけ”とタカをくくっていた第三回目の真打昇進試験のこと。時は昭和五十八年の五月。

 第三回真打昇進試験の当日、五月十日午前十一時三十分、二ツ目は目白駅近くの柳家小さん宅に集合した。
 前日、年功順で林家源平、柳家小里ん、林家種平、林家上蔵、蝶花楼馬楽の五人が受験し、今日は今回唯一の 抜擢、十三人を飛び越えて受験資格を得た林家正雀を含む、立川小談志、真田家六の輔、林家らぶ平、それに談四楼の五人である。

 ここで、補足しておくが、談四楼と一緒に受験した中の一人、真田家六の輔は、実際の名を替えている。
 
 談四楼の『談志が死んだ』では、還暦記念落語会に入門同期を呼ぶ話があって、実際の名跡で登場している。

 単行本を平成二年に発行する時点では、著者がその本当の名跡を明かすことが憚れた、ということだろうか。

 私も、六の輔のままにしておくが、落語愛好家の皆さんなら察することはできるはず。

 引用を続ける。

 小さんの道場では、抜擢の正雀を除いて、それぞれが非常に良い感触を得た。
 審査員は、小さん、馬楽、円歌、さん助、円菊、小三治、扇橋、円窓の八人で、志ん朝、談志、六朝、円蔵などの人気幹部は欠席だった。さん助は、これから審査の集計という段になって、寄席(しごと)があるからと帰ってしまった。誰かに意見を託したという様子もなく、不思議な人だ。
 談四楼は『岸柳島』を演じて、上手い、達者だ、描写力に優れている、情景が目に浮かぶ、人間も描けている、末が楽しみだ、と賞められた。
 理事達は胡坐をかき、煙草をくゆらせながらそれを言う。そして二ツ目は、正座のまま、汗を拭き拭き礼を述べる。
 らぶ平などは賞めちぎられた挙句、イイ男だ、とまで言われた。あまり賞められるので舞い上がり、高座から審査員に「それほどでもないでしょ」と言ってしまったほどである。

 こういう状態であったから、談四楼たち五人は上機嫌で、蕎麦屋(あの「翁」)で打ち上げをした。
 正雀だけが、沈んでいた。
 その後、思わぬ展開が待ち受けていた。

 翌日談四楼は、らぶ平からの電話で目を醒ました。午前九時だった。
「シャレんならねえよ、落っこちだよ、落っこち」
 らぶ平の声は普段の陽気さはどこへやら、沈みきったものだった。
「確かな話か、誰かから連絡があったのか」
 追及すると、協会事務局長といってよい渡辺が、らぶ平の兄弟子林家こん平に情報を漏らし、彼からきいたものだと言う。
「ほぼ間違いないと思うよ。現に受かった人のところへは連絡がいってんだから」
「誰から」
「渡辺から」
 なぜオレ達には連絡がないのか、それは事務局として当然の仕事ではないのか、基本ではないのか、ええっ、違うからぶ平。
「知らないよ、そんなこと」 
 らぶ平の情報は正確だった。十人中、受かったのは源平、小里ん、花蝶、正雀の四人で、種平、上蔵、小談志、六の輔、らぶ平、談四楼と、何と六人が落された。そう、落されたのだ。
 青天の霹靂と言ってよい。根拠がない。その基準がまるでわからない。明らかに首を傾げたくなる結果、人選であった。

 さて、この後、最終的には談志一門が落語協会を脱退することになるまでのお話は、次回ということで、前半はここでお開き。

 惜しい、切れ場だ^^

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# by kogotokoubei | 2017-06-06 08:48 | 落語の本 | Comments(2)
 今日は、「寄席の日」。

 その由来などは別として、定席寄席で木戸銭の値引きや記念品の配布などがある日だ。

 落語協会ホームページから「寄席の日」の案内記事を紹介する。
落語協会HPの該当ページ

今年の寄席の日は6月5日(月)です

毎年6月第一月曜日は「寄席の日」、今年は6月5日(月)です。

各寄席では下記のような入場料となります。

・鈴本演芸場 入場料半額 ¥1,400(学生も一律)
・末広亭 入場料半額 ¥1,500(学生・シニアとも一律)
・浅草演芸ホール(芸術協会の興行です) 入場料半額 ¥1,400(学生も一律)
・池袋演芸場 入場料半額 ¥1,200(学生・シニア・着物とも一律)
・国立演芸場 入場料 ¥1,470円(前売チケットには適用されません)

 私は行くことができないが、落語愛好家の中には、この記念の日に寄席に駆けつける方もいるだろう。

 ところが、その日に、落語芸術協会のホームページは、夕方までサーバーメンテナンスを行なっており、サイトを見ることができない。
落語芸術協会のホームページ
 トップページにこう案内されている。

サーバーメンテナンスのお知らせ

日頃より、当会ホームページをご覧いただき、誠にありがとうございます。
只今、サーバーメンテナンスを実施しております。

期間:2017年6月5日(月) 9:00~16:00
※作業状況により期間が前後する場合がございます。

上記時間中は、本サイトの閲覧が出来ません。
ご不便をおかけいたしますが、何卒ご理解いただきます様よろしくお願い申し上げます。

本日の定席スケジュールは以下のPDFファイルにてご覧いただけます。

 主催する寄席の番組をPDFで見ることはできるようにしているが、この平日の日中でのサーバーメンテナンスは、ちょっといただけない。

 日頃、落語協会のホームページへの小言を書くのに比べ、数年前から落語芸術協会のホームページが充実してきたことを高く評価してきた私としては、実に残念なメンテナンスの日程選択である。

 通常サーバーメンテナンスは、担当者にとっては大変な作業となるかもしれないが、あくまでお客様であるサイト来訪者の便宜を優先して、深夜などに行うことが多い。
 あるいは、メンテナンス中は別なサーバーに間借りすることもある。

 どういう理由があるのか知らないが、平日真昼間、それも「寄席の日」にサーバーメンテナンスでサイトが見れないというのは、落語愛好家にととっては、実によろしくないことで、今後、ぜひ改めてもらいたい。


p.s.
16時過ぎには、通常に戻ってたが、今後の改善を期待し、この記事の公開は継続する。
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# by kogotokoubei | 2017-06-05 12:29 | 幸兵衛の独り言 | Comments(0)
 安倍昭恵という人は、いろいろとお忙しいらしい。

 半月ほど前の朝日新聞の記事よりご紹介。
朝日新聞の該当記事

昭恵氏、加計学園でも「名誉園長」 職員連れて催し参加
2017年5月17日22時41分

 獣医学部の新設計画に関し、文部科学省が内閣府から「総理のご意向だと聞いている」などと言われたとする文書が明らかになった加計学園については、加計孝太郎理事長と安倍晋三首相が懇意にしているほか、妻の昭恵氏も関わりがある。

 学園によると、昭恵氏は15年6月から、学園が神戸市で運営する認可外保育施設「御影インターナショナルこども園」の名誉園長を務めている。これまでの国会の質疑で、15年9月には政府職員2人を連れて施設のイベントに参加していたことも明らかになっている。

 国有地売却の経緯が問題視されている学校法人「森友学園」でも、昭恵氏は開設予定だった小学校の名誉校長に就任していた。財務省や国交省が、そうした事情を踏まえて、売却交渉などを学園側に有利になるように運んだのではないかと野党が追及している。


 夫婦揃って、お友達へは実に義理堅いのだ。

 「友達ファースト」が、ご夫婦共通の信条。

 神田で「uzu(うず)」という居酒屋を経営しているのは有名。

 旦那は、早く店を閉めて欲しいらしいが、アッキーはそんな夫の言うことを聞くような、お姐ぇさんとは、お姐ぇさんの出来が違う。

 「昔の名前で出ています」を借りてみた。

 169.png大阪にいるときゃ 名誉校長と呼ばれたの
   神戸じゃ 名誉園長と名乗ったの
   神田のお店で お酒を飲みながら
   あなたがさがして くれるの待つわ
   いろいろ名前が 出ています


 オソマツ。


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# by kogotokoubei | 2017-06-02 12:58 | 幸兵衛の独り言 | Comments(0)
 五月の記事別アクセスランキングのベストテンには、ずいぶん古い記事が並んだ。

1 NHK「超入門!落語THE MOVIE」、高座のみの放送を望む!(2017.1/5)
2 新宿末広亭 四月下席 昼の部(仲入り以降)&夜の部 4月28日 (2017.4/30)
3 歌丸の後継者に関する記事で思うこと。(2017.5/14)
4 春彼岸に相応しい『菜刀息子(『弱法師)』は、上方の『火事息子』だと思う。
(2014.3/19)
5 桂りょうば誕生ー桂枝雀の長男前田一知が、桂ざこばに入門。(2015.9/1)
6 ありがたい、小三治の助言ー『落語の愉しみ』(岩波書店「落語の世界」第一巻)より。 (2017.5/15)
7 松鶴に土下座させた、笑福亭小松という落語家のこと。(2014.8/6)
8 柳家三三の「たびちどり」、今月から各地で始まる。(2017.5/10)
9 落語芸術協会、鈴本との離別から三十年・・・・・・。(2014.3/13)
10三遊亭小円歌が、二代目立花家橘之助を襲名(2016.11/24)

 1位のアクセスはほぼ500。それだけ、高座の動画放送への希望が多いということだろうか。

 2位と3位は400ほどで僅差だった。

 2位は、4月下旬の1.5席の末広亭居続けの記事。夜の部主任、歌之介の涙まじりの高座は、忘れることはないだろう。

 3位の歌丸後継者に関する記事は、こんなにアクセスがあるとは思わなかった。検索の結果か。

 4位の三年余り前の『菜刀息子(弱法師)』の記事について、先月中ば頃、急にアクセスが増えたのが不思議でならない。
 5位に二年前の桂りょうばの記事が入ったことを考えると、どこかで、りょうばがこのネタを演じたのか、などと思っている。

 6位は、テニス合宿前に、余興で演じる落語への大きなアドバイスとなった小三治の言葉について書いたもの。
 前座さんは二ツ目に限らず、中堅真打でも、客席に向かって話している人は少なくない。あくまで、登場人物に向かって話す、ということの大切さが身に染みて分かった。

 7位は、コンスタントにアクセスがある。これまた、不思議。

 8位の三三の「たびちどり」の記事には、大須公演にいらっしゃった方から、ご丁寧なコメントを頂戴した。名古屋、大阪、博多、それぞれチケットの売れ行きも良さそうだ。六回通しではなくても十分楽しめる『嶋鵆沖白浪』を、いろんな地域の落語愛好家の皆さんが味わえる好企画だと思う。

 9位も古い記事。芸協の噺家さんを鈴本で聴きたい落語愛好家は、結構いると思う。

 10位は、そろそろその日が近くなったためのアクセス増だろう。

 当月の記事は、三つだけ。

 今年の記事にしても、半分。

 2014年の記事、三つ。2015年と2016年が一つ。

 古いやつだとお思いでしょうが(^^)、今後も拙ブログをよろしくお願いします。


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# by kogotokoubei | 2017-06-01 12:27 | アクセスランキング | Comments(2)
 日曜日の立川流落語会で、当代の小談志の高座(『お菊の皿』)を聴いた。

 この名では、どうしても先代の小談志を思い出してしまう。

 談四楼と一緒に真打昇進試験に不合格となり、昭和58年の立川流創設につながったのが、先代の小談志。

 立川流を辞めて、落語協会で喜久亭寿楽と名を替え、亡くなった。

 落語協会のホームページの物故者の欄に、プロフィールがある。
落語協会ホームページ「芸人紹介」の該当ページ
 
1969(昭和44)年 入門
1972(昭和47)年 前座となる
1975(昭和50)年 二ツ目昇進
1984(昭和59)年 真打昇進
1992(平成 4)年 談志門下より馬風門下へ
2008(平成20)年8月17日 肝硬変の為、死去

 昭和59年の「真打昇進」は、あくまで立川流の真打だが、そう書かれていないのが、落語協会らしさ^^

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立川談四楼著『談志が死んだ』(新潮文庫)
 
 談四楼の『談志が死んだ』から、先代の小談志に関わる逸話を、ご紹介したい。

 談志が亡くなった後の談四楼たち弟子数名が集まっての会話。
 談志のお嬢さん(弓ちゃん)が入院したことがあり、談志は「見舞いにゃ及ばん」と言っていたのに、抜け駆けした者がいて、結局、談志は、他の弟子に「なぜ見舞いに来ない」と激怒。「今日来ていないヤツは倍付けの罰金だ」と言い出した騒動のことから、快楽亭ブラックの話題になり、一堂大笑いになった後の場面。

 その笑いが収まった時、談幸がボソリと言った。
「あの後ですよね、小談志兄さんが辞めたのは」
 一瞬、尻が浮いた。そう、その名が出てこないのでヘソを曲げていたのだが、まさかこんな形で出るなんて。何だって談幸、あの弓ちゃん事件の後に小談志兄さんが辞めたって?それは本当か。
「ええ、よく覚えてます。だいぶヘコんでましたからねえ」
 まさか、小談志は罰金くらいでヘコむ男じゃない。家はあるし、扶養するのはおっかさん一人だし、兄貴だっているんだ。違う。弓ちゃんの件はあくまできっかけであって、カネを取られたから辞めたんじゃない。
「あいつの手が治った時はホッとしたよな」
 おお、左談次の助け船だ、ありがたい。そう、あれは一門の喜びだった。手の皮膚炎のことで談志からやいのやいの言われることはなくなったのだから。あれはまだ真打になる前、二ツ目の頃だった。
「確か草津で治したんだよな」
 左談次の問いを私が引き取った。
「そうです。あるお客さんが見かねて、上州は草津の温泉旅館を紹介したんです。昼は湯治で夜は宴会の余興、それを繰り返すこと一ヶ月、手をすっかり治し、おまけにギャラまでもらって帰ってきたんです」
「効いたわけだな、草津の湯が」
「効きますとも。『草津よいとこ薬の温泉(いでゆ)』ってくらいのもん」
「また始まりゃがったな、『上毛かるた』が」
「まだありますよ。『伊香保温泉日本の名湯』『世のちり洗う四万温泉』・・・・・・」
「うるせいよ、群馬ヤロー」
「ずいぶんネチネチやられてましたもんね」
 と再び談幸。
「何の話?」
「小談志兄さんです。あの試験の後、師匠は小さん師匠に電話したらしいんです。で、小さん師匠が、談四楼はともかく小談志はヒドいって」
「待てよ、ヒドいのは他にもっといたぜ。悪く見てもあの兄さんは中の上だよ」
「でも師匠はそれを信じたんです。脱退は決意したものの、まだあの時は小さんとは師弟でしたから」

 これで、小談志という噺家の輪郭が、ぼんやりではあるが、浮かんでくるのではなかろうか。

 そして、このやりとりで、談四楼は、ある光景を思い出す。
 ふいに有楽町は芸術座での光景が脳裏に浮かんだ。
「芸術座で小談志兄さんと披露目をやったんだけど・・・・・・」
「ああ、あそこな。建て替えで東宝名人会がなくなって、確か芸術座で月イチかなんかの興行を打ったんだよな。オレも披露目やったからよく覚えてるよ。目茶苦茶キップ売らされてギャラは雀の涙、あの疲れ方だけはよく覚えてる」
 そうだ、それは兄弟子である左談次も通った道なのだ。芸術座のシステムは立川流となっても変わらず、数十万円のチケットを売り歩き、支払い、差額の一万数千円をもらったのだ。小談志と二人、打ち上げの店の支払いを済ませると、その出費総額のあまりの多さに呆然としたっけ。
 いや、唐突に思い出したのはその光景ではない。芸術座の袖だ。下手だ。色川武大先生がそこにいた。私が一席やって仲入り、そのあと口上があって、トリの小談志が高座にいた。色川先生の隣りにシルエット、あ、あれは談志だ。色川先生と談志は口上に並び、色川先生からは身に余る言葉をいただいた。先生と談志は着換えを済ませ、舞台の袖から小談志の高座に目を向けていた。
 私もまた着換えを済ませ、小談志の高座を見届けるべく、下手の袖へと近づいてゆく。色川先生は立って腕を組み、聞き入っていた。談志が話しかけ、色川先生が目を見開いた。ああ、なぜ私はこの肝心なシーンを封印していたのだろう。談志は言った。
「先生、聞かなくていいですよ、こいつの高座。これは私の失敗作ですから」
 立川流の顧問になって、まだ間もない色川先生だった。
 (中 略)
 いつもは眼半眼の体の先生の目が、この時ばかりはカッと見開かれた。そして言ったのだ。
「談志クン、お弟子さんのことをそんな風に言うもんじゃないよ。いいお弟子さんじゃないか。楽屋で見ていてもわかる。キミへの敬意があふれてるよ。いや、それは確かに少し大間かもしれない。時流とのテンポが合わないのもわかる。でも昔はもっと大間の人がたくさんいたんだよ。それはキミも知ってるはずじゃないか」。
 談志は黙って聞いていた。私は気配を消して固唾を飲んで二人を見つめていた。


 以前紹介した高田文夫の「誰も書けなかった『笑芸論』」の立川談志の章に、次のようなことが書かれていた。
 
 残したお言葉数あれど、最高なのが、
「馬鹿は火事より恐い」
 他にも、
「銭湯は裏切らない」
「人生、成り行き」
「親切だけが人を納得させる」
 尊敬する人は「手塚治虫」「森繁久弥」「色川武大」。

 尊敬した色川武大の言葉を、談志はどう腹に収めたのだろうか。
 
 談志と小談志の間には、談四楼が知らなかったどんな事件や会話があったのか、二人ともいない今では、知る術はない。

 

 談四楼の本には、喜久亭寿楽として亡くなった先代小談志の横浜で行われた通夜のことが書かれている。
 少し早く着いたようだ。次第に落語家の数が増え、立川流の兄弟子や弟弟子もやってきた。
「急だな。脳溢血か?」
「心臓って聞いたけど」
「そうか、いくつだった?」
「五十を出たばかりじゃねえか」
「若ェな」
「うん、若過ぎる」
 落語協会の者同士がそんなことを言っている。出鱈目ばかりだ。心臓じゃない、肝臓だ。五十を出たばかりときた。五十六だ、よく覚えとけ。こいつら、関心もないのか。兄さんよ、なんでこんなヤツらのいる協会なんかに・・・・・・。
 ライオンズ協会の法被を着ている人が異様に多い。そうか、兄さんはクラブ活動と称し、ライオンズクラブにけっこう打ち込んでいたんだっけ。それにしても、受付、案内役と彼らの活躍ぶりは目ざましく、所属する横浜のみならず、神奈川、いや全国からやってきているのだ。かつての私の兄弟子のために。
 読経の中、焼香がすむと、法被の人が通夜振る舞いの席に案内してくれた。相当数の落語家の出席が見込まれ、一般客とは別に専用の部屋が設けられたらしい。漫才など色物の芸人もいる。
 兄弟子の左談次と二人、落語協会会長の鈴々舎馬風夫婦に挨拶する。
「この度はどうも・・・・・・」
「おう、よく来てくれたな。これからという時に残念だよ」
 この人に引き取られ、喜久亭寿楽という名で死んだのだ、立川小談志は。

 残念ながら、立川小談志、そして、喜久亭寿楽の高座を聴く機会はなかった。

 その小談志という名を継いだ当代の高座にはご縁があった。

 また、ぜん馬、談四楼なども初めて聴くことができた。

 いろいろ野暮用もあり、数年前に比べて寄席や落語会に行く回数は減ったが、できるだけまだ聴いていない人の高座に出会いたい、と思っている。

 日曜の立川流落語会に初めて行って、どうしても、先代の小談志のことを書きたくなった次第。


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# by kogotokoubei | 2017-05-31 21:36 | 落語の本 | Comments(2)
 金曜の池袋まで、いろいろ野暮用で落語に行けなかった。
 その間、ネットで調べていて、この落語会を発見していた。

 あら、日曜の昼だ・・・・・・。
 恒例のテニスの日。

 しかし、どうしても三日間開催の千秋楽、トリの談四楼の高座を聴きたくて、演芸場に電話したところ、チケットが二席残っているとのこと。
 これはご縁があるということと、テニスを休んで隼町へ。

立川流落語会と言っても、人気者は、初日に談笑、二日目に志らくが出るが、志の輔と談春は出演しない。
国立演芸場サイトの該当公演のページ

 これが三日目の顔ぶれ。

28日(日)
落語  立川三四楼
落語  立川小談志
落語  立川志ら乃
落語  立川雲水
  -仲入り-
落語  立川談慶
落語  立川ぜん馬
字漫噺 立川文志
落語  立川談四楼 

 相当前に志ら乃を聴いているが、他の人は初めて聴くことになる。
 いただくコメントで評価の高い古参ぜん馬は、体調が悪いと伝え聞くので、気になっていた。

 名前の売れている四人の誰も出ない三日目、トリが談四楼となれば、私の天秤ばかりでは、テニスより“ら族”の立川流が重くなった^^

 “ら族”については、昨年、談四楼の著書『談志が死んだ』について何度か書いた中で、談志の祥月命日の記事でふれた。
2016年11月21日のブログ

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立川談四楼著『談志が死んだ』(新潮文庫)
 昨年の記事では引用しなかった文章を、『談志が死んだ』より紹介する。
 談志が死んだ際、様々な活字が新聞や雑誌に躍った。中にその後進育成に触れた記事があり、それは概ねこうだった。「・・・・・・談志は名伯楽でもあり、志の輔、談春、志らくらを育てた」。
 その場合は三羽烏などという言葉が添えてあり、そこに談笑を加えて四天王とするメディアもあって、いずれにしても志らくら、談笑らであり、ら族とは志らく、談笑のらなのである。
 談笑が入るんなら生志を入れてやらないとヘソを曲げるぞ等の一門における意見はあったが、その三人もしくは四人が談志によって育てられた代表的な弟子であると、マスコミは報じていた。つまり直弟子二十一人中、十七人がその他大勢の扱いを受けたわけで、先述のように、いいツラの皮であった。

 命日の記事にも書いたように、私は、実は“ら族”こそが、談志のDNAを継いでいる人たちではないかと思っている。

 演芸場の窓口でチケットを受け取り近くの中華料理店で昼食をとってから、会場へ。

 客席は九割ほど埋まっている。
 しかし、客層は志の輔や談春の会とは違う雰囲気。寄席に近い空間とでも言って良いかもしれない。

 出演順に、ネタと感想などを記す。

(開口一番)立川だん子『転失気』 (12分 *12:46~)
 登場して、会場に静かなざわめき。女流で、若い・・・とは言えない。
 談四楼の弟子とのこと。後で調べたら三年前の入門。誕生日は分かったが、生年は不明^^
 高座の方は、前座としてなら決して悪くない。医者と珍念との会話で、「玉子は御所車」など寺の隠語を挟むあたりの工夫も楽しかった。
 それにしても、どういう経緯で落語界に入ったのかなど、少し気になる方ではある。
 なお、だん子と次に登場した三四楼については、談四楼の「だいしろう商店」というサイトの弟子紹介ページでプロフィールを確認できる。
「だんしろう商店」サイトの弟子紹介ページ

立川三四楼『天狗のお願い』 (14分)
 紹介したサイトにあるように、快楽亭ブラック門下から移った談四楼の筆頭弟子らしいが、なんとも不思議な人だ。
 高座で立ち上がって大声でなにやら自己紹介。
 本編は新作。主人公の男の部屋に天狗がやって来て、翌日のTPP(天狗プロフェッショナル会議)参加のために、鼻をカタに一万円を貸してくれと言ったことから始まる噺。鼻用の小道具や天狗のお面なども使うネタに、会場もやや引き気味だったように思う。

立川小談志『お菊の皿』 (17分)
 前座がまとめて破門になった時の被害者(?)の一人。今は龍志の預かりらしい。
 二ツ目で泉水亭錦魚を名乗っていて、その名だけは記憶に残っていた。
 ようやく本来の古典落語を聴けた、という印象。
 なかなか気持ちの良いリズムの語り口。
 「幽霊と貧乏人、どちらも、オアシがない」なんて地口も含め、江戸の風を感じさせる。
 龍志という新師匠の選択は間違っていないようだ。 
 
立川志ら乃『子ほめ』 (18分)
 唯一、聴いたことのある人が登場。
 ブログを始める前にも聴いているが、横浜にぎわい座での2008年9月の「志らく百席」以来なので、9年ぶりになる。
2008年9月4日のブログ
 最初の「志らく百席」には数回行っている。結構、意識的に聴きに行った時期だった。
 志ら乃は、こしらと共にすでに真打昇進が決まっていたので、談志の一周忌での記念落語会に出演しているようだが、家元の孫弟子としては、もっともそのDNAを感じさせる。
 高座での素振りも、意識しているのかどうか分からないが、どことなく、「う~」という言葉や間を含め、家元に似てきた。これは、結構後から悩みの種になるかもしれない。
 マクラでは表参道で教会が実施したホームレス(150人!)への「炊き出し」の余興として落語を披露したという逸話。その時と同じネタを、とこの噺。
 八五郎が「赤ん坊はどこだ~」と言う、なまはげ的な演出などもあったが、基本は大きく変えていない。
 ギャラは炊き出しのカレーライスです、と言ったら会場が不満を訴える雰囲気になり、翌日神父からお礼のメールの中で、ある一人の男が千円札を神父に私、志ら乃に渡してくれとのことだった、というのはもしかするとネタか^^
 先日、菊丸の一席目でもこの噺を聴いたが、違う味わいとはいえ、前座噺を真打がしっかり演じれば楽しいという実例を連続して聴いた印象。家元の孫弟子の筆頭と言えるだろう。

立川雲水『阿弥陀池』 (22分)
 仲入りは、神戸出身で、文都亡き今、立川流で唯一上方落語を演じる人。
 談四楼の著作では、談志が亡くなる前後で、一門メンバーに精力的に連絡役を果たしたらしい。
 現在、立川流の公演情報は、この人のブログで案内されている。
立川雲水のブログ
 なかなか楽しい高座だった。
 たとえば、男が聞いたばかりの作り話、米屋のおっさんが泥棒に刺された一件を友人に語る件の一回目に、心臓と言う場面で「しんねこ」->「しんおおありくい」から「しんぞう」になるあたりも可笑しい。
 しかし、町内を調べつくすことについて、「町内の落合信彦」は、ちょっと古くてマイナーで、客席の大半のお客さんには難しすぎるだろう^^

 なるほど、こういう人もいたんだ、と発見した気分。
 それにしても、東にいて上方落語を演じるにあたっては、稽古するにしても苦労は多いだろうなぁ、と思う。
 
立川談慶『紙入れ』 (17分)
 後半は、かつて立川ワコールを名乗っていたこの人。
 ネタに入る際の羽織の脱ぎ方が粗っぽく座布団の脇に置きっぱなしで、それが最後まで気になった。
 落語をあまりお聴きではないお客さんも多かったようで、会場からこの日もっとも多くの笑いを引き出していたように思うが、一つ一つの所作も大事なのだ。
 雰囲気や芸風は林家種平に似ているような印象。
 笑いのツボは押さえているように思うが、落語家としてのツボもしっかり押さえて欲しい。

立川ぜん馬『唖の釣り』 (22分)
 ようやく聴くことが出来た。昭和56年、二ツ目の朝寝坊のらく時代にNHKで優勝している実力者だ。
 マクラで、二年前に急に声が出なくなり病院に行くと、食道癌のステージ4と言われたと明かす。その後の放射線と抗がん剤の治療で快復しつつあり、なんとか高座に上がることができた、と笑顔で語る。
 声はかすれているが、落語を演じることのできる喜びを全身で表現するような高座だった。
 マクラで釣り好きの小咄をふっていたので、「もしかして、『野ざらし』か?」と思っていたらこの噺。
 生の落語でなければ味わえない楽しさに溢れていた。
 今年のマイベスト十席とはいかないが、何か賞を贈呈したいので、を付けておく。

立川文志 字漫噺 (15分)
 立川流では貴重な色物。
 寄席文字に似た文志流の江戸文字を書く人。
 その内容などは、ご本人のサイトに詳しい。
 立川文志のサイト
 奥さんをネタにした造語を江戸文字にした内容が多かった。
 「一住一妻」などは褒める内容だが、結構恐妻家か、と思わせる内容で笑いをとっていた。

立川談四楼『人情八百屋』 (25分 *~15:54)
 春の国立演芸場でのこの会も、開催からすでに七・八年経ち定着してきたとマクラで語る。また、もう七回忌と言っていたが、そうか、六年経ったか。
 春日清鶴の浪曲を元に談志が創作した噺を、とこのネタへ。
 しかし、浪曲の前に講談があったようなので、講釈->浪曲->落語、という沿革の中で磨かれてきた噺と言って良いのだろう。
 亡くなって約三ヵ月後のBSジャパンの追悼番組で、縁ある人が、家元のネタで何が一番好きか、という問いに、吉川潮がこの噺を挙げていたことを記事に書いた。
2021年2月9日のブログ
 聴いたことがなかったので、嬉しいネタの選択。

 『唐茄子屋政談』で徳が誓願寺長屋(せいがんじだな)の貧しい母子の家を訪れた後から始まるような、こんな内容。

(1)棒手振りの八百屋を営む平助が女房に訊ねる。十日ほど前、霊岸島で貧しい母子に出会った。聞くと、亭主は患って寝たきりとのこと。残った茄子と持っていた三百文を渡してきたのだが、あれっぽっちの銭じゃ、失礼だったか。できた女房に、そりゃ失礼だ、家の有り金全部持ってお行きと言われ再訪。

(2)その親子の住む長屋に着くが、貸家になっている。不審に思い近所の人に聞くと、平助が訪ねた後、因業大家の伊勢勘がやって来て恵んだ銭を店賃の一部だと持って帰ったとのこと。平助に申し訳ないのと、哀しみのあまり夫婦は二人の子どもを残して死んでしまったとのこと。

(3)その話を聞かせてくれた女性の旦那が鳶の頭(かしら)で、その夫婦が、その子供たちを預かっているとのこと。今、夫は出かけているが、八百屋さんに会いたがっているから、線香をあげて、帰りを待っておくれ、と言われた平助。

(4)平助が仏壇に向かって悔やみをつぶやいているところに、頭が子どもとたちと一緒に帰ってきた。この頭、夫婦が自殺したのを知り大家の家に乗り込んだ。伊勢勘はどこかへ引っ越したようだったが、日頃の怨みが募る長屋の連中と一緒に、その家を取り壊したらしい。

(5)町方同心も伊勢勘には厳しくあたり、長屋連中には憐み深いお沙汰になったとのこと。頭から、ぜひ義兄弟になって欲しいと言われた平助。弟文になった頭は、残った子供たちが心配だだ、いつ火消で命を失うかわからない鳶があずかるわけにもいかないから、平助夫婦に預かって欲しいと頼む。

(6)子供に恵まれなかった平助は、喜んで二人を預かると請け合う。あらためて迎えに来ると言って頭の家を去りかけた平助が振り向いて頭に言う。子供を育てたことのない身で、果たして躾ができますでしょうか」

(7)頭の「大丈夫だよ。火消の俺が、とても火付けはできねぇ」でサゲ。

 談四楼の高座で光ったのは、まず、平助夫婦の会話。中でも、女房の優しさと内に秘めた強さがしっかり伝わった。
 そして、群馬生まれの談四楼による鳶の頭の江戸弁も悪くない。
 機会があれば、『大工調べ』など聴きたくなった。
 平助に世話になることになった時、健気に挨拶をする姉のタミ、無邪気ながら平助を慕う弟のゲンの姿も、聴く者の目頭を熱くさせる。
 なかでも印象に残ったのは、頭が最初、二人のうちどちらかを預かってくれ、と言うのだが、平助は「いえ、二人とも預かります。二人いれば、哀しみは半分になり、喜びは倍になると言いますから」の言葉だ。この場面、良かったなぁ。
 初の談四楼で、この人の力量の高さを十分に感じた高座、今年のマイベスト十席候補とする。


 終演後、喫煙室で一服しながら、余韻に浸っていた。
 談四楼、そして、ぜん馬を聴くことができただけでも、来た甲斐があった。

 談志の七回忌記念の秋の落語会は、大きなホールで開催するようなので、行くつもりはない。
 次は談四楼の独演会にでも足を運びたいと思っている。

 “ら族”どころではなく、雲水、ぜん馬、もちろん談四楼も含め、それぞれ一枚看板である。

 私は談四楼のツィッターのファンでもある。
 時事ネタを交えながらも、ユーモアたっぷり。
 さすが、小説も書ける噺家。

 23日の小満んの会には行けなかったが、なんとか、今月も月末に二度、落語会に行くことができた。
 偶然にも菊丸と談四楼の二人は、昭和二十六年生まれ、私の四つ年上で六十六歳。
 団塊の世代の少し下で、私とほぼ同じような時代を生きてきた人たちだ。
 こういう人たちの元気な高座を聴くのは、自分への励ましにもなるような気がする。
 そんな思いのした、金曜と日曜の落語会だった。
 
 
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# by kogotokoubei | 2017-05-29 12:27 | 落語会 | Comments(4)
 都内で用を足して、池袋へ。
 予定が決まった当初は末広亭に行くつもりでいたのだが、池袋でこの二人会があることを知り変更。菊丸の名に惹かれたのだった。

 それにしても、この二人、年齢は少し離れているはずなのに、どんな縁があったのだろう、と落語協会のホームページを見て得心。
落語協会ホームページの「芸人紹介」のページ

古今亭菊丸
1975(昭和50)年11月 古今亭圓菊に入門 前座名「菊助」
1976(昭和51)年3月 広島修道大学卒業
1980(昭和55)年6月 二ツ目昇進 「菊之助」と改名
1990(平成2)年3月 真打昇進 「菊丸」と改名

柳家福治
1980(昭和55)年3月 広島修道大学卒業
1981(昭和56)年3月 柳家小三治に入門
1982(昭和57)年2月 前座となる 前座名「つむ治」
1986(昭和61)年9月 二ツ目昇進 「福治」と改名
1996(平成8)年3月 真打昇進


 なるほど、大学の先輩と後輩だった。

 念のため開演30分ほど前に入ると、すでに客席が八割ほど埋まっている。
 開演前には九割がたの入りの大盛況。
 週末とは言え、平日夜の池袋とは思えなかった。

 後で二人のマクラで知るのだが、年に一回15年、今回の15回目で最終回とのこと。

 なるほど、仲入りの際に顔見知りと思しきお客さんの会話で大学の名も聞こえたので、二人を知る人たちが大勢駆けつけたということか。

 長らく開催されているある落語会を、池袋で最初で最後に経験するというのは、二年前の「たまごの会」でもそうだった。
2015年10月24日のブログ

 なんとか縁があって、最後の会に立ち会えたのは僥倖と言えるのだろう。

 福治は初めて聴く。
 菊丸は、五年余り前の横浜にぎわい座で『火事息子』を聴いて以来になる。
2012年12月1日のブログ


 こんな構成だった。
-------------------------------------
(開口一番)林家彦星『真田小僧』
古今亭菊丸 『子ほめ』
柳家福治  『だくだく』
(仲入り)
柳家福治  『目薬』
古今亭菊丸 『中村仲蔵』
-------------------------------------

林家彦星『真田小僧』 (14分 *18:31~)
 四月の末広亭夜の部の開口一番で初めて聴いて以来。やはり、語り口がはっきりしていない。二列目の席でよく見え、よく聞こえる場所でさえ、会話の切り返しで科白を飲むのが気になる。昨年正雀に入門したばかりなのだから、まずは、大きな声ではっきりと、という基本を大事にして欲しい。
 正直なところ、私の方がうまいぞ^^

古今亭菊丸『子ほめ』 (15分)
 15年目、15回の最終回と聞き、初めて来た身としては、少し驚く。
 昭和26年4月生まれなので、私の四歳上で66歳だが、若々しいなぁ。
 彦星にあえて聴かせたかったのかと思わせる、お手本のような寄席の前座噺だが、芸達者が演じるとこれだけ面白い、ということだ。
 雲助もこの噺が好きで、寄席でまだこのネタがかかっていなかれば好んで演じるとのことだが、この人もこの噺が好きなのだろうなぁ、と思わせる好演。

柳家福治『だくだく』 (28分)
 ちょうど還暦、だから私の二歳下になる。しかし、見た目は菊丸より上に見えないこともない。
 小三治の弟子は、入門順に次のようになっている。

 柳家〆治・柳家喜多八・柳家はん治・柳家福治・柳亭燕路・柳家禽太夫・柳家小多け (1985年入門、1987年破門)・柳家一琴・柳家さんぽ(破門の後に三遊亭圓橘門下となった四代目三遊亭小圓朝)・柳家三三・柳家三之助・柳家小八(喜多八門下より)
 他の一門の噺家さんより寄席への出演などが少ないのが不思議だ。親しみのある雰囲気が私は嫌いじゃないし、この高座も悪くなかった。
 天才的な先生の絵が目に浮かんできた。

柳家福治『目薬』 (17分)
 仲入りをはさんで再登場。
 一席目のマクラで、これまでは二席づつ違うネタを演じてきたが、最終回ということで、お客様の様子を見て、以前にかけた噺をしたいと言っていたが、まさかこのネタとは。
 しかし、トリの先輩菊丸への配慮もあると思われるこの軽いネタは楽しかった。
 女房が尻を出している姿に「その包をほどけ」が妙に可笑しかった。
 この人の持ち味で、下品にならない高座。
 前日の客の入りが良い場合は翌日は天麩羅蕎麦をおごると言っていたが、今日の昼はきっと天麩羅蕎麦だろう。

古今亭菊丸『中村仲蔵』 (30分 *~20:30)
 黒紋付きで登場。マクラもふらずに本編へ。
 圧巻の高座と言って良いだろう。
 二列目なので、その顔の表情、身振り手振りがよく分かるが、過度に劇的にならず、落語としての歌舞伎の世界、とでも言うような「五段目」が登場した。
 果たして誰の型なのだろう。
 役者の身分を、下立役-中通り-相中-相中上分-名題下-名題、と丁寧に説明。
 「夢でもいいから持ちたいものは、金の成る木といい女房」を挟む。
 ざわめくばかりの客席に、「しくじった、ワルオチだった」と落胆して上方へ向かう途中、魚河岸で芝居を見た二人の会話を耳にし、「広い世界でたった一人でも、褒めてくれる人がいた」と呟く、などは正蔵の型だが、他の設定が少し違う。
 妙見様で満願の後に雨で飛び込んだ蕎麦屋で出会う浪人が、実は彼が中村仲蔵であると知っていた。しかし、侍本人は名乗らない。
 サゲ前には、団十郎の家に頭取と師匠の伝九郎が揃って待っているとともに、隣の部屋に女房のお吉がいる、という設定。
 サゲは祝いの肴に八百膳の弁当があると若い衆が言うと、団十郎が、「いやいや、もう仲蔵の前で、弁当へ喰えねぇや」。
 師匠円菊のこの噺を知らないのでなんとも言えないが、自分の工夫もあるのかもしれない。
 ちなみに、私の持っている音源では、志ん朝は正蔵版に近く、たとえば蕎麦屋の場面、浪人は名乗る。そして、浪人は仲蔵を役者と察するが堺屋とは知らない。
 志ん生は、どちらの名も明かさない。
 黒羽二重のひもときや茶献上の帯、蝋色の艶消しの大小落とし差し、などの浪人の姿の形容もリズミカルで、聴いていて心地よい。
 それぞれの人物造形も良く、なかでも仲蔵を慕い、そして元気づける女房おきしが実に良かった。
 一門の伝統とも言えるのかもしれないが、この人も女性が上手い。とはいえ、仲蔵の苦悩する姿、師匠や団十郎の貫禄、などそれぞれの登場人物が生き生きと描かれていた。
 最初で最後の会に出会った僥倖は、この見事な高座にも恵まれた。
 今年のマイベスト十席候補としないわけにはいかない。


 久しぶりの落語、池袋、菊丸・・・最初で最後の福治との二人会に行けたのは、まさに僥倖。
 さて、次の落語はいつ、どこでやら。
 結構近いうちかも^^

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# by kogotokoubei | 2017-05-27 10:55 | 落語会 | Comments(2)
 福島第一原発事故のために全町が避難している大熊町の人々。
 避難先の会津若松市で、落語を楽しむ企画が実施されたようだ。
 河北新報から引用。
「河北新報」の該当記事

<全町避難>笑いを教育に 小中授業に落語や漫才

 東京電力福島第1原発事故で全町避難する福島県大熊町教委は本年度、小中学校の授業に笑いを取り入れるプロジェクトを始めた。避難生活が長期化する子どもたちの心を癒やし、コミュニケーション力を育てるのが狙いだ。
 会津若松市の大熊中仮校舎で22日、落語教室が開かれた。上方落語家桂雀太さん(40)が全生徒16人を前に授業をした。
 阪神大震災直後に大学を受験した時の様子をネタにした話や古典落語「まんじゅうこわい」を披露。教室は大きな笑いに包まれた。
 3年箭内朱里さん(14)は「想像以上に楽しい。体を使った表現がすごかった」と驚いた様子。3年植村篤史さん(14)は「日本に昔からある文化に触れられ面白かった」と語った。
 桂さんは「子どもたちはいろんな苦労があるだろうが、客観的に見て笑い飛ばせるように心の余裕を持つと、もっと軽やかに人生を進めると思う」と述べた。
 桂さんを交えたパネル討論もあった。「教育と笑いの会」名誉会長で植草学園大(千葉市)の野口芳宏名誉教授、町教委、PTAの関係者が「教育における笑いの効用」をテーマに意見を交わした。
 大熊中は6~7月、福島県に住みながら活動するお笑いコンビ「ぺんぎんナッツ」を講師に招き、生徒が漫才を学ぶ講座を計4回実施する。
2017年5月23日火曜日

 桂雀太は、雀三郎の弟子で、昨年のNHK新人落語大賞受賞者。
 なかなか良いことをするではないか。

 図らずも、避難先で初めて落語に接し笑ったことは、彼ら中学生の一生の思い出になるかもしれない。

 この記事を読んで、ある作家の言葉を思い出した。

 以前、伊集院靜への対談を「宅ファイル便」のサイトから紹介した。
2011年4月26日のブログ
 重複するが、再度対談記事から引用する。

夏目雅子さんが亡くなったのは1985年9月11日です。伊集院さんにとって、そのことを語るには25年もの年月が必要だったわけですね?

「死は哀しいものです。しかしそれは、『二度と会えなくなる』という意味において、それ以上でも以下のものでもありません。そのことに気づくには、それなりの時間がかかったけど、哀しみには終わりが来るんです。
私は、数年前に観た映画のこんなセリフに心を打たれました。チェチェンの老婆がそこで、こんなことを語ったんです。『あなたはまだ若いから知らないでしょうが、哀しみにも終わりがあるのよ』と」

 彼が見たであろう映画『チェチェンへ アレクサンドラの旅』の老婆の言葉、“哀しみにも終わりがあるのよ”には、なんとも深い、そして強いメッセージ性があるように思う。


 震災、原発事故からの復興は、まだ道半ばと言って良いだろう。
 親族を失った方の心中は察するに余りある。
 その喪失感、哀しみの辛さは、余人にはわからないものだろう。

 しかし、残された者は、前に向かって歩き出さなくてはならない。

 哀しみにも終わりがあって欲しい。
 
 その哀しみの終わりに笑いがあったのなら、なお良いだろう。

 河北の記事と伊集院靜の言葉から連想したのが、エレファントカシマシの「悲しみの果て」という歌。

 その歌詞の一部は、こうなっている。

 169.png涙のあとには
   笑いがあるはずさ
   誰かが言ってた
   本当なんだろう
   いつもの俺を
   笑っちまうんだろう

   部屋を飾ろう
   コーヒーを飲もう
   花を飾ってくれよ
   いつもの部屋に

   悲しみの果てに
   何があるかなんて
   悲しみの果ては
   素晴らしい日々を
   送っていこうぜ


 そうなのだ。
 最近、エレカシの歌が好きになって、携帯音楽プレーヤーでもよく聴く。
 実は、先日のテニス合宿の夕食後、カラオケでこの歌を初めて歌った^^
 

 映画や歌にも、人の心を動かすだけの力があると思う。

 そして、落語を聴くことで、重く暗かった心が開いて忘れていた笑いを引き出すことがきるのなら、落語という芸能にも実に大きな力があるということだろう。

 昨年、一週間余りの入院を経験したが、手術前夜や手術後の就寝前には携帯音楽プレーヤーでひたすら落語を聴いた。枝雀のネタなどでは、ベッド上で笑いをこらえるのに苦労した^^

 同じ病で手術を受けた同室の若者よりも回復が早かったのは、偶然ではなく、落語のおかげもあっただろうと実感している。

 大熊町の人々は故郷をほぼ永遠に近く失う可能性が高い。

 住もうにも、生きてはいけない放射能が残っている。

 別の土地で新たな人生を踏み出す時、笑いは大きな後押しをしてくれるように思う。

 大熊町のような「笑い」を取り戻すための企画、ぜひ、他の避難地域でも開催されることを期待したい。

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# by kogotokoubei | 2017-05-24 12:49 | 落語関連イベント | Comments(2)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛