噺の話

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釈徹宗著『おてらくごー落語の中の浄土真宗ー』(本願寺出版社)

 釈さんのこの本からの最終回は、いわば、“一期一会”のこと。

 「第五章 シンクロする場」から、ご紹介。

 そんなことは不可能ですが、もし、話し手の頭の中、聞き手たちのそれぞれの頭の中のイマジメーションを取り出して並べたら、みんなバラバラのはずです。驚くほど違うかもね。それはそうでしょう。各人の生活史や環境や能力や体験など、千差万別な基盤の上に展開しているんですから。
 すなわち、聞き手の人生経験や人間観察や自己分析が豊かであればあるほど、落語の世界は広がり、堪能できるというわけです。そして、この点も、仏教のお説教と通じる部分でしょう。
 ところが、あるとき、その場にいる人たちのイマジネーションがシンクロし出すことがあるんですよね。それはもう、“宗教の場”と言っても過言ではありません。私は今まで何度か体験しました。うまく説明できませんが、その場にいるとわかります。何か話し手と聞き手、その場にいる人たちみんなの反応がすごく素早くて、なおかつ息が合っている、呼吸が合っている、そんな感じです。ある種の宗教的熱狂に近い雰囲気だと言えるかもしれません。そして、それはやはり「名人」「上手」と呼ばれる噺家さんの高座で起こりやすいですね。もちろん節談説教においても、同じような状態が起こります。

 釈さんの「うまく説明できませんが、その場にいるとわかります」という表現、大いに同感。

 あるのですよ、そういった“一期一会”を体感できる高座が。

 私の経験では、近いところで、2016年3月、都民劇場創立70周年記念「第48回 とみん特選小劇場」の柳家権太楼独演会(紀伊国屋ホール)を思い出す。
2016年3月9日のブログ

 十八番の『代書屋』、そしてトリの『百年目』におけるあの会場こそ、“シンクロする場”であったと思う。

 また、その前の年、2015年1月の、ざま昼席落語会の「鯉昇・喜多八 二人会」の印象も強い。
2015年1月11日のブログ

 鯉昇の『御神酒徳利』も良かったし、喜多八は、正しい立飲みについて詳細を語ったマクラが秀逸だった。
 380名という当時の最多入場者数を記録した客席も、皆、ほぼ同じリズムと呼吸で二人の高座を楽しんでいた。

 もう少し遡ると、2013年9月県民ホール寄席の三百回記念、柳家小三治独演会がある。
2013年9月26日のブログ
 『道灌』も良かったし、第一回でも演じた噺『付き馬』の見事だったこと、そして、客席の一体感を十分に体感した。

 そう考えると、単に人気者を集めて大ホールで開催される木戸銭の高い、商売っ気たっぷりの落語会ではなく、手作り感たっぷりの地域落語会の方が、そういう“一期一会”への遭遇が多いように思う。
 長年通っている固定のお客さんが多い地域落語会は、話し手も聞き手も、呼吸が合いやすい。そういった空間でなければ、なかなか“シンクロ”しないだろう。

 やや、私的な落語体験のことに話が広がったので、釈さんの本から、ふたたび。
 考えてみれば、語りの名手はまだまだ成熟していない聞き手の「聞く能力」を引き出します。洗練された語りと、共振現象が起こるような時空間に、繰り返し出会うことで、私たちは次第に「聞く」ことができるようになりま。かすかな記号や噛めば噛むほど深まる味わいを受けとる心身への育つ。それはきっと、生と死を豊かなものにしてくれることでしょう。また聞く名手は、未熟な語り手の言葉を引き出します。聞き手とのコミュニケーションによってしか語り手は育ちません。聞き手を物語を共有することで、語り手は新しい扉が開くのを実感します。つまり、語り手と聞き手とは相互依存関係なのです。これを“仏教の場”と言わずして、何と言いましょうや。

 まさに、釈さんのおっしゃる通りだ。

 優れた語り手が、聞き手の聞く能力を引き出す、ということは、落語を長年聴いてきて納得である。
 
 また、その逆は、つい最近、落語愛好家仲間との新年会で体感している。
 私とYさんが演じた『二番煎じ』は、優れた聞き手が、未熟な語り手の言葉を引き出してくれたのだと思う。

 時折、高座の噺家に、落語の神様が舞い降りることがあるようだが、神様も客席の様子をしっかり見た上で降りてくるのだろう。

 そんな機会が数多く訪れるように、良き聞き手でありたい、と思う。 

 宗教的な高揚感に浸ることのできる“一期一会”、釈さんの言葉では“シンクロする場”を体験したい、というのが、すべての落語愛好家の願いではなかろうか。

 釈さんのこの本からは、このへんでお開き。

 あぁ、早く良き語り手の今年初高座を聞きに行かねば。
 
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by kogotokoubei | 2018-01-22 12:27 | 落語の本 | Comments(0)
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釈徹宗著『おてらくごー落語の中の浄土真宗ー』(本願寺出版社)

 釈さんのこの本からの三回目は、仏教が深く関連する落語のネタのこと。

 すでに『お文さん』のことは以前書いたので、その他のネタについて。
 この章で登場するのは、『お文さん』の他は、『宗論』『菊江仏壇』『後生うなぎ』などだが、それらは落語愛好家の方もご存じかと思うので、あまり馴染みのない噺をご紹介。
 『亀佐』という噺。本書の紹介、その全文を引用。
『亀佐』

 実はこの落語、私は、桂米朝師匠以外の方から聞いたことがありません。ですから、これもヘタすると消えていくかもしれないネタのひとつですね。
 このお噺は、噺家自身がお説教師の雰囲気で語らねばなりませんから、ごくごく短い噺ではありますが、誰にでもできるというわけではないでしょう。それに、あんまり笑うところがないし・・・・・・。
 「亀佐:というのは「亀屋佐京」の略で、今でも営業されている老舗モグサ屋さんです。かつて、モグサを売るときの売り口上の節回しが独特だったので有名なんだそうです。この「亀佐」の売り口上がこの噺の落としどころなので、ちょっとあらかじめ説明が必要です。この「仕込み」がないと、サゲがさっぱりわかりません。
 途中、「ご同行、南無阿弥陀仏を称えるということはな、これはもう、どなたでもおっしゃることじゃ。しかしただ称えりゃええというもんではないぞ。それはちょっと心得違いじゃ」と、高座でお説教せねばなりません。で、居眠りをするお同行のいびきがうるさくてお説教が続けられない。この男を起こそう、そういう噺です。「講中の皆さん、ちょっと起こしてやってくだされ」なんて、いい感じのセリフがあります。同じ仏道を歩む人を「同行」と呼んだり、同行の集まりを「講」と言うなど、真宗用語がポイントです。
 これが、全文。

 というわけで、上方落語の内容を調べる際に度々お世話になる「世紀末亭」さんのサイトで、『亀佐』を確認することにした。
世紀末亭さんのサイトの該当ページ

 釈さんが指摘していた、モグサ売りの口上を、まず引用。

この「亀屋佐京」が東海道を上り下りする人に宣伝をしはった。面白い節
でこの伊吹モグサを売って歩いたんですなぁ。

 ♪ ご~~しゅ~ いぶきやまのほとり

   ♪ かしわばらほんけ~~ かめや~~さきょ~

      ♪ く~すりもぐさよろ~~~し

 っちゅう、こぉいぅ節でずっと売って歩いた。わたしら、もちろん知りま
せんが南天さんなんて人はこの真似が得意で、よぉ真似したはりました。

 この後、ある老婆と閻魔大王に関する、お説教がある。
 そして。

●かなんなぁこれ、説教のあいだあいだへ鼾(いびき)が入るじゃないかいな。
講中(こぉじゅ~)の皆さん何をしてござる。鼾があっては邪魔になる、説法
の邪魔になるでな、気ぃ付けてもらわんと困るで講中の皆さん。

▲おっすぁんそれがねぇ。鼾かいてるのんあれ、講中の一人でんねや●えぇ、
だ、誰じゃいな?▲亀屋佐兵衛さんが鼾かいてまんねやがな●亀屋佐兵衛さ
んちゅうたら頭はげらかして、もぉえぇ歳やないかいな。そんな人が念仏の
邪魔をしてはいかん。お説教の邪魔になりますで、早よ止めなされ。

▲ちょっと、佐兵衛さん。亀屋佐兵衛さん。念仏の邪魔なる言ぅたはります
がな■グァォ~~ッ▲あんた、講中やろ。頭はげらかして、鼾が邪魔んなる
言ぅてはりまっせ■グァォ~ッ▲難儀やなぁ……

♪ こぉ~~じゅ~~ いびきじゃまのあたり
♪ かしらはげ、あんた本家じゃ、ほんけかめや~~さへぇさん、これッ!
♪ ゆ~すりおこすえ~~~ぇ

▲おっすぁん、まだ起きまへんがなぁ……

【さげ】
●今ので一つ、すえたげなはれ。

 う~ん、なるほど、消えるかもしれない噺、ではあるなぁ。

 でも、米朝一門、誰か継いでいてくれているのか、どうか。

 伊吹堂亀屋佐京商店のサイトには、広重が描いたお店の絵がある。
亀屋佐京商店のサイト
 『百川』は、残念ながらお店はもうないが、噺はしっかりと残っている。

 まだ、亀佐というお店はあることだし、ぜひ、この噺も残して欲しいものだ。
 

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by kogotokoubei | 2018-01-20 21:01 | 落語の本 | Comments(2)

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釈徹宗著『おてらくごー落語の中の浄土真宗ー』(本願寺出版社)

 釈さんのこの本からの二回目は、副題ともなっている第四章「落語の中の浄土真宗」よりご紹介。
 章の冒頭には、落語につながった説教・法話と浄土真宗について、まず書かれている。
 浄土真宗では、神秘主義や安易な現世利益(げんぜりやく)を避けてきました。
 よって、浄土真宗は「誠実に言葉を尽くす。物語を紡ぐ」というところに生命線がありまます。だからこそ、説教・法話が発達したのです。浄土真宗が「聞く仏教」と呼ばれる所以です。
 今でも京都・西本願寺の聞法(もんぽう)会館に行けば、一年中いつ行っても法話・説法をお聴聞できます。そういう教団もなかなかないんじゃないでしょうか。
 また、浄土真宗では布教師ではなく、布教使と言います。決して語る側が先生なのではなく、みんな如来さまの弟子です。そして、語る側は如来さまの使いとしてお話しさせていただくのだ、という自覚からこの表現を使います。

 「聞く仏教」ということは、その相手は「語る仏教」ということ。
 その語り手に中には、落語の世界と同様に、名人がいた。

 浄土真宗の第六祖とされる源信(恵心僧都ーえしんそうずー)は「今迦葉」(いまかしょう)と呼ばれた説教の名手だったそうです。
 そして、親鸞聖人の師・法然聖人も「語り」の天才だったと思われます。なにしろ自らの筆による著作はないのです(『選択(せんじゃく)本願念仏集』も、弟子による聞き書き)。その特徴は「法語」がとても多いことです。「法語」とは、説教や法談を記録したものです。そして、“法然法話”がいかに魅力的であるかは、直接読んでみればわかります。
 関山和夫氏は、室の泊での「遊女発心」(ゆうじょはっしん)は、法然聖人の名説教だ、と指摘しています。
 おっと、関山さんの名が出てきた。
 やはり、落語と仏教を語る上では、釈さんにしても、関山さんの著作は必読書ということだろう。
 この「遊女発心」の内容は割愛する。というのは、文章ではその「語り」の名人芸をうかがうのは、難しいのだ。
 では、浄土宗の法然に続き、弟子の親鸞、そして蓮如のこと。

 和讃は、日本語による仏教賛歌です。親鸞聖人は五百四十首余りの和讃を創作しています。
 浄土真宗では、この和讃に節を付けて読誦します。室町時代の蓮如上人は、親鸞聖人の和讃を「節付き」で合誦する形態を確立しました。この一体感はなかなかのものです。
 そして、まさに後の節談説教を生み出すことにつながっていると思われるのです。
 きっと当時から美しい節が付けられて、詠まれたに違いありません。そして、それは民衆の宗教的情緒を揺さ振ったことでしょう。

 このような単独での「語り」のみならず「読誦」、そして「合誦」という形態によって、浄土真宗という仏教は、布教をしていた、ということか。

 とはいえ、もちろん、文章による布教形態がなかったわけではない。しかし、ただその文章を黙読するという形態ではないところが、大事な点である。

 蓮如上人は、文書伝道という手段によって教線を拡大しました。
 特に注目すべきは、この『御文章(お文-おふみ-)』が「節を付けて拝読された」ことです。その読み方には独特の抑揚や語り技法が使われました。そしてその節は、基本的に安居院流の系統上にあると言えます東保流の節だそうです)。
 在世当時からこの手法は実践され、ご自身も「私が書いたものだけど、このように読誦してもらうとありがたいものだなぁ」といった発言があるようです。
 この『御文章(お文)』を特有の節で拝読することは現在も行われているのです。上手な人の『御文章』拝読を聞かせていただくと、本当にすばらしいですよ~。

 出ました、『御文章(お文)』。
 NHK Eテレの「落語でブッダ」で初めて聴いた噺、『お文さん』の大事な素材である。 桂塩鯛の高座のこと、関山和夫さんの『落語風俗帳』からの引用を元に記事を書いたことは、すでに前回ご紹介した通り。
2014年1月15日のブログ

 さて、その「お文」の中の有名な内容については、次回ご紹介したい。

 法然という「語り」の天才、弟子で和讃の親鸞、それを合誦することで教線を拡大し、また『御文章(お文)』を節を付けて読みあげることで庶民の日常生活の中で仏の教えを浸透させることに大きな貢献をした蓮如。
 こういった仏教の歴史の積み重ねは、まさに、「語り」の芸の継承の一つと言ってもよいのだと思う。

 その蓮如の「御文章」には、あの有名なものがある。

 「御文章(お文)」で最も有名なものは、「朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり」というフレーズを耳にしたことがある人もおられるはずの「白骨章」でしょう。
 「白骨章」は、井伏鱒二の「黒い雨」にも出てきます。今村昌平が映画化しましたが、名バイプレーヤー北村和夫が読み上げていました。彼は僧侶でもなんでもないのですが、累々と横たえる遺体を前にして、「白骨章」を読誦せざるを得なかった。
 あるいは、マンガ「はだしのゲン」にも「白骨章」を読誦するシーンがあります。ゲン少年は、たまたま「正信偈(しょうしんげ)」や「白骨章」を覚えていたんですね。それを読誦すれば遺族が喜んでお布施がもらえるので、こりゃいいや、とあちこちで僧侶のマネゴトをしますが、ある場面で心の底から吐き出すように「白骨章」が出てくるところは涙なしには読めません。

 思い出した。『黒い雨』を読んで、「白骨章」のことを知った。
 文庫をめくってみた。
 175頁から引用。亡くなった人を川原で焼く場面だ。

 堤の上から見ると、砂原には幾つとなく穴ぼこを掘ってある。たいていの穴に骨が見え、特に、髑髏(しゃれこうべ)だけは実にはっきり見えた。焼け落ちてから骨を覆っていた灰が、川風に吹きとばされたものであるらしい。髑髏は眼窩で空の一角を見つめているものもあり、歯を食いしばって恨みがましくしているものもある。
「髑髏のことを、昔の人はノザラシと別称した」
 僕は心のなかでそう云った。
 頭と足だけが白骨になっているのもある。真赤な焔が、ちらちらしている穴もある。僕はもう一人の死人を思いだして、「白骨の御文章」を口のうちで唱えながら堤の上の道を帰って来た。ノートを見ないで暗唱することが出来た。

 久しぶりに読んだ『黒い雨』の中に、いかに、かつての日本人の生活にとって、仏教、あるいは信仰が根付いていたかが分かる。

 釈さんの本は、落語と浄土真宗の関係のみならず、浄土真宗を中心に、仏教と日本人との極めて身近な関係についても知り、そして、考えさせてくれる有意義な本である。

 次回は、もう少し落語側に寄って、『お文さん』以外の落語について、紹介したい。

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by kogotokoubei | 2018-01-19 22:54 | 落語の本 | Comments(0)
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釈徹宗著『おてらくごー落語の中の浄土真宗ー』(本願寺出版社)
 
 先日、古書店で発見した本。 
 残念ながら、附属CDはついてなかったが、格安の値段で手に入れることができた。

 著者の釈さんは、浄土真宗本願寺派如来寺住職で、節談説教研究会副会長であり、相愛大学人文学部教授でもある。専門は宗教学、比較宗教思想。この方が落語と仏教との関係を興味深く説いていたNHK Eテレの「落語でブッダ」で見て知っていた人だ。
 あの番組について書いた記事にも、釈さんのプロフィールを載せた。
2013年12月12日のブログ

 他に落語と仏教に関する本に、「落語でブッダ」で取り上げた『お文さん』に関して書いた記事で引用した関山和夫著『落語風俗帳』がある。
2014年1月15日のブログ
 その記事でいただいたコメントで『おてらくご』のことを紹介されていたのだが、四年経って、ようやく読むことができた次第。

 本書は、本願寺出版より2010年9月初版で、私が入手したのは昨年発行の第四版。こういう本が版を重ねていているのは、珍しいことではないだろうか。
 大判の本で読みやすく、釈さんの丁寧な説明で、あらためて落語と仏教(浄土真宗)の深い関係を理解することができる。
 また、仏教との関係を縦糸としているが、横糸には、落語に対する釈さんの深い造詣をが多重に張り巡らされていて、この日本ならではの一人話芸発展の背景を探る意味でも、大いに参考となる書である。


 次のような構成。
 第一章 仏教と芸能
 第二章 説教と落語
 第三章 落語の宗教性
 第四章 落語の中の浄土真宗
 第五章 シンクロする場

 まず紹介したいのは、第二章の中の“なぜ「落語」は世界唯一の話芸なのか?”である。
 落語の起源に関する、おさらい、とも言える部分。
 私たちの日常生活の中にはさまざまな形で仏教が息づいています。生活様式から、思考傾向、死生観、衣・食・住にいたるまで、肌感覚にように仏教が脈々と息づいています。伝統的な芸能においても、仏教を基盤として成立しているものや、仏教の影響を強く受け手展開しているものが大部分なのです。そして、落語もその中のひとつです。
 落語はお説教の形態を色濃く残しているとても特別な芸能です。わざわざ本書を書いたもの、ここに動機があります。
 話者側にはメークアップや衣装の演出もなく、背景や舞台装置もない。ただ、座布団一枚だけであり、その上に和装で正座し、たった一人で語ります。持ち物は扇子と手ぬぐい(符丁ではカゼとマンダラ)のみです。制限された動きの中で、さまざまな人物を表現し、あらゆる場面を創出します。このような話芸の形態は、世界で「落語」だけだそうです。なぜ日本にだけこんな芸能が生まれたのか、それは日本仏教のお説教を起源としているから、というわけです。
 この後に、安楽庵策伝が浄土宗の説教師であり、露の五郎兵衛が元・日蓮宗の僧であったと書き加えられている。
 その後の部分に、なぜ日本に落語という話芸が発展したのかについて、あの枝雀によるユニークな視点をきっかけとして、日本独自の話芸、落語成立のナゾが明かされていく。

 では、落語の特性について考えてみましょう。
 桂枝雀氏は、「なぜ落語というスタイルが日本だけに生まれたのか」というナゾについて、「それは日本に“正座”があったからじゃないか」と答えています。正座して語ることによって、よりイマジネーションできる範囲が大きくなる、という理論を語っていました。確かに、正座は日本礼法の特徴です。中国は椅子に座りますし、韓国ではあぐらや立て膝ですもんね。日本でも、昔のお坊さんを描いた絵巻や肖像画をみると、衣を着てあぐらをかいています。貴族や武士もあぐらで座っていたようです。
 ところで、仏教には江戸時代以前から正座する作法がありました。茶道では、これをうけて成立当初から正座を取り入れていたようです。落語もこの流れにあるということですね。それにしても、“正座”という制限多い状況が、かえって豊かな「見立て」を生み出すんですから、文化というのは、ほんと、不合理なこのなんですねぇ。
 つまり、落語は「見立て」を活用する、ということなのです。

 この部分を読んで、落語愛好家の多くは、ネタの『お見立て』を連想するだろうが、ここで言う「見立て」は、もちろん、女郎の見立てではない。
 
 「見立て」は日本文化における特徴のひとつだと言われています。例えば、枯山水とか、借景とかね。いわば「記号」を使ったイマジネーションを楽しむという文化です。記号を得意とするのは、日本人の脳の特性と関係があるという人もいます。
 落語は記号を使って情報を圧縮できます。カゼ(扇子)を箸に見立てたり、マンダラ(日本手ぬぐい)を財布に見立てたりするのは、みなさんご存じでしょう。お約束ですよね。枝雀さんは、落語を“いくつかの決まり事と想像力”による芸能だと表現しています。これ、マンガも同じなんですね。マンガは多様で洗練された記号を駆使した表現方法です。そのことを世界で最も早く喝破したのは手塚治虫という人でした。日本だけにマンガがこれほど発達したのはゆえなきことではありません。
 だから世界の仏教の中で、日本のお説教だけが独特の展開をして、さらにそこから落語が誕生したということかもしれません。

 このように、仏教のみならず、記号論から落語とマンガの共通性にまで話は展開するのが、釈さんの引出しの多さなのである。

 “いくつかの決まり事と想像力”による芸能、という枝雀の言葉、落語という芸を簡潔かつ過不足なく表現した名言だと思う。

 枝雀の音源のマクラで、想像力という言葉はよく使われているねぇ。
 
 この文章で手塚治虫の名を発見し、ある新聞記事を思い出した。

 それは、三代目春団治が亡くなった後、その遺品から、父親である二代目の依頼で手塚治虫が学生時代に書いた落語に関する絵が発見された、というものだった。
 その記事には、手塚が落語を練習した、という逸話も紹介されている。
毎日新聞の該当記事
 毎日新聞のその記事から、引用する。

手塚治虫
学生時代の肉筆画見つかる 春団治さん遺品から

毎日新聞2016年12月19日 16時02分(最終更新 12月19日 17時33分)

 漫画家の手塚治虫(1928~89年)が、大正から戦後にかけ活躍した落語家の二代目桂春団治(1894~1953年)の依頼で描いた肉筆画9枚(各縦14センチ、横20センチ)が見つかった。学生時代の手塚が、春団治の興行ポスター用に落語や芝居の場面を描いた墨絵。竹内オサム同志社大教授(マンガ史)は「珍しいタッチ。子ども向けと大人向けの両方を使い分け、模索していた時期の画風が見て取れる」と指摘する。

 肉筆画は、二代目春団治の実子で今年1月に亡くなった三代目春団治さんの遺品から見つかった。ポスター制作後に改めて描いたもので、春団治の似顔絵以外の9カット。戦後間もない45~46年、春団治が地方興行で演じていた芝居「明烏(あけがらす)夢の泡雪」の場面などが描かれている。

 手塚は自伝「ぼくはマンガ家」の中で「大阪落語の重鎮」二代目春団治のポスターを描いたこと、春団治に声をほめられ、落語家の道に誘われたことをきっかけに、こっそり落語の練習をしたことなどを記している。

 描いたのは手塚が46年1月、現在の毎日小学生新聞の連載でデビューする前後とみられる。春団治の妻、河本寿栄(かわもと・ひさえ)さん(90)によると、手塚とは大阪市内の写真館の紹介で知り合い、謝礼を支払った際、手塚は「絵を描いてお金を頂くのは、これが初めてです」と話したという。手塚プロダクションの松谷孝征社長は「すばらしい原稿が出てきた。春団治師匠がずっと大事にしてくださっていたのはありがたい」と話している。肉筆画は来年4月22、23日の「いけだ春団治まつり」(大阪府池田市民文化会館)などで公開される。【山田夢留】

 なんと、手塚治虫が、初めて原稿料をもらったのが、この落語の絵だったのか。

 手塚治虫は、田河水泡の影響を強く受け、その田河が『猫と金魚』などの落語作家でもあったことから、落語も好きだったとのこと。

 この本を読んで、この記事を思い出すことができた。

 仏教との関係のみならず、落語を取り巻くさまざまな世界への“想像力”をめぐらせてくれるのが、この本と言える。

 次回は、本書の副題、落語の中の浄土真宗、の章から紹介したい。

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by kogotokoubei | 2018-01-17 18:27 | 落語の本 | Comments(2)
 現在、『子別れ』と言えば、「下」に当たる「子は鎹」を指すと言える。

 寄席では、トリでもなければ、通しはできないし、「子は鎹」なら、それだけで一つの噺として通用するからね。

 筋書きは、ざっとこんな感じ。
(1)吉原の女郎が出て行った後、酒をやめ仕事に精進する熊五郎の元に、
   茶室を普請中のお店(たな)の番頭が訪ねてくる。
(2)番頭によれば、茶室は左官仕事の途中なのだが、主人がせっかちで木口を
   選んで来いと言われ、熊に木場まで付き合ってくれ、とのこと。
(3)お隣に留守をする旨を告げて、番頭と一緒に出かけた熊。
   道すがらの会話となり、番頭が熊に、最初の女房は、いい女性(ひと)だった、
   どうして別れた、などと言うが、熊は自分の非を認めるしかない。
   別れた女房に会いたいか聞かれた熊、女房より、倅の亀のことを思うと、
   つい泣けてくる、と話す。
(4)ちょうどその時、番頭が、亀に似た子が向うから歩いて来る、と熊に告げる。
   熊が「そんなことはない」と注視すると、本当に亀だった。
   番頭は、亀に会って話しておやり、と熊をおいて一人で木場へ向かう。
(5)三年ぶりの親子の対面。
   亀によると、女房は再婚せず、針仕事や洗い物の手伝いなどをして生計を
   立てているとのこと。
   時折、熊の話になり、「お父っつァんは悪い人じゃない、悪いのは、お酒だ」
   と言っていると聞く。
   熊は、女郎は追い出して、それからは酒もやめて仕事に精進している、と告げる。
   亀が近所のお金持ちの子にいじめられて額に疵をつくっていることから、熊の
   胸には、申し訳ない思いが募る。
   熊は小遣を渡し、鰻屋で明日の今頃また会って、うなぎを食べようと約束し、
   亀は喜んで帰る。
(6)亀が帰ると、ちょうど糸が届いたから、糸巻を手伝ってくれ、と母に言われ、
   熊からもらった五十銭を握りしめたままで腕を差し出した亀だが、ついその手
   の中から五十銭が転げ落ちた。
   そのお金はどうした、と聞く母親に、「知らないおじさんから、もらった」
   と熊と約束した科白を繰り返す亀。母は、亀が家を出る時に持ち出した熊の
   大工道具の玄能を持ち出し、「本当のことを言わないと、この玄能でぶつよ。
   これは、お父っつァがぶつのと同じだよ」と涙ながらに言うと、亀もつい、
   熊にもらったことを白状。
(7)翌日、鰻屋に行く亀を送り出した母親は、落ち着かず、自分も鰻屋へ。
   亀が、「お母っつァんもおいでよ」と二人を引き合わせる。亀に、また
   三人で暮らそうよとせがまれた熊、女房に頭を下げて、よりを戻してくれ、
   と頼み、女房も受諾。
   その女房が「子はかすがいって言うけど、本当だねぇ」の言葉に亀が、
   「鎹、あっ、それでお母っつァんが玄能でぶつって言ったんだ」で、サゲ。

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 聞かせどころは、やはり熊と亀の三年ぶりの対面シーンだろう。

 榎本滋民さんは、『落語小劇場』で、次のように書いている。

 熊五郎の最初に発した質問が、あとからできたお父っつァんはかわいがってくれるかということであるのは、いかにも人情ばなしらしい人間描写の妙味で、この男の昨今の心境が端的に表われているが、一笑に付される。
「子どもが先にできて親があとからできるなんてことがあるかい」
 昔の寄席はちゃんとした性教育の場だった。
 お住はこの先の荒物屋と豆腐屋のあいだを入った路地の奥で、賃縫いの針仕事をしながら亀吉を養っているという。なるほど、亀の絣の着物は洗いざらしながら見すぼらしくはない。
 しかも、近所の人の再縁のすすめには、亭主はあの飲んだくれでこりごりだと女やもめに花を咲かせず、亀吉に対しては、屋敷奉公をしていたころ出入り大工の熊五郎が半襟や前掛けを買ってくれた馴れそめを語って聞かせ、酒で魔がさしたけれどもほんとはいい人なのだといっているらしいのである。
「へへ、おっ母さん、だいぶお父っつァんに未練があらあ」 
 こまっちゃくれた口のききようのおかしさで親子対面のぎこちない緊張をほぐしてから、演者は子どもの額の傷の一件で急にしんみりとさせる。

 亀の年齢は、演者それぞれで違う。
 小三治の音源では、九歳。
 榎本さんも、八つか九つぐらいがいい、と書かれている。
 さん喬は、年齢を明確にしていないが、学校へ通う年になった、としている。
 ちなみに、大須の志ん朝の音源では、七つだ。
 
 さて、額の傷のことについて、引用を続ける。
 榎本さんの、この噺に関する、熱い思いの伝わる文章が最後に登場する。

 傷は独楽回しの勝負判定で対立した大家(たいけ)の坊ちゃんに独楽の芯でぶたれたもので、泣いて帰ったときは、いくら男親のない子だってこんなことされて黙っていられないとお住は大いに怒ったが、相手の名前をいったら急に勢いをなくして、あそこからはよくお仕事も坊ちゃんの古着もいただいているから、遊びのけんかぐらいで気まずくなっては親子二人路頭に迷うから、痛くても我慢しろとさとした。
 ぼくはこのくだりでいつもじいんとくる。親子ドラマのお涙頂戴は大きらいだが、貧乏の悲しさ、くやしさがこたえるのである。こうした体験によって、昔の貧乏人の子は世間のむごたらしい仕組みを覚え、それにつぶされずに生きる力を鍛えて行った。長編『子別れ』を名作たらしめている眼目はこの社会性にある。ここがなければ、ただの笑いと涙の封建道徳教科書に堕してしまうとまで、ぼくは極言したい。
 たしかに、分かっていても、この場面を芸達者な演者に語られると、私の涙腺もゆるくなるなぁ。
 榎本さんが説く、落語の社会性、という言葉は結構重要だと思う。
 その時代背景や、その社会に生きた庶民の生活を反映しているということ、そして、その人間の心情や営みの本質のところは時代を超えても変わらないものがあるからこそ、落語は長く生き残っているのであって、そうじゃなければ、とうに博物館入りだったことだろう。

 そして、この『子別れ』は、「上」では大いに笑わせ、「中」では女房に感情移入して怒らせ、「下」では聴く者を泣かせる、という見事な舞台転換が計られている。
 「下」には、もう一つ大きな、泣き、の場面がある。
 亀が帰宅してから、お父っつァんに貰った五十銭の小遣を、母親が盗んだものと勘違いしてからの場面だ。
 榎本さんの文章が、見事に母親のその時の心のあり様を言い表している。

 両の手首に糸束をかけさせて糸を巻きとっているうちに、拳に握りっぱなしの銭を見とがめて尋ねると、子どもは言を左右にする。お住は表をしめさせて引きすえ、
「なぜそんな情ない了見を出すんだ。おっ母さんは三度のものを一度しかたべなくったって、お前に不自由をさせたことがあるか」
 と涙声を出す。ここもあわれに悲しい。とうとう盗みまでするようになってしまったのかという憤激、女手一つでは所詮まっすぐに育てられないのかという絶望、誠実勤勉の生き方はこうももろく踏みにじられるほど無力なものでしかないのかという恐怖ー。お住のまだ十分に若い乳房は衝撃に鳥肌立った。
 噺家が、この場面を、母親になり切って演じることができるのかどうか、が聴く者に「あわれで悲し」くさせるか、あるいは、安直な泣かせの演技と映るのかの分かれ目だ。
 どうしても、五十銭くれた相手を白状しない亀に、熊が使っていた玄能(あるいは、金槌)を取り出してぶつ仕草をして、亀はついにこう叫ぶ。

 「盗んだんじゃねえやい。お父っつァんにもらったんだい」
 「お父っつァんに・・・・・・逢ったのかい?」
 息をつめて、
 「なんだい、お父っつァんてったら乗り出しゃァがって」
 この場面転換も、重要だ。
 泣かせどころばかりではない、というのも落語の味わい深いところ。
 
 翌日の鰻屋の場面は、まさか逢うとは思っていない元女房と再会し、熊が動揺して、つい、同じ科白を何度も繰り返す場面が可笑しい。

 人によっては、この再会場面にお店の番頭を登場させる。
 冒頭での熊と亀の再開から番頭が作ったシナリオ、という設定の場合もある。

 そのあたりは、それぞれの噺家さんの工夫として悪いことではなく、噺全体に無理がなければ、それで構わないと思う。
 ちなみに、さん喬は、サゲ直前の鰻屋に番頭を登場させる。
 好みではあるが、私は、熊と亀の再会は偶然であって、番頭の作為という設定はいかがなものか、と思う。

 また、小三治もそうしているが、熊と亀の再会場面に、近くで盗み聞きしている八百屋を登場させる場合がある。これも、噺の流のアクセントとして不自然でなければ、悪い演出とはいえないだろう。

 以前の記事で書いた通り、この噺は初代春風亭柳枝の作と伝えられ、三代目の柳橋(後の初代春錦亭柳桜)が現在に近い型に改作し、あの名人三代目小さんらに受け継がれた、柳派の十八番。
2009年4月18日のブログ
 
 しかし、あの円朝が柳派に対抗して、「下」を改作したことがある。
 榎本さんの本から。

 三遊亭円朝が柳派の向うを張って下の部分を改作した『女の子別れ』というのがあり、『円朝全集』にものっている。
 女房が一人で出て行き、以前のつてでお屋敷に奉公しているうちに子ども(金太)に道で出会う設定で、子どもは父親と同居していて父親に小づかいをとがめられるわけだから、金槌のおどしも自然だという一種の合理化なのだが、さすがの大円朝の才能をもってしても、これは初代柳枝以来の柳派演出には遠く及ばない。

 残念ながら、まだ三遊亭の『女の子別れ』は、聴いたことがない。

 榎本さんは、この噺について、次のように締めている。

 亭主は女郎を引っぱりこんだ上で後悔して立ちなおり、女房は頼り少ない母子家庭を支えながら一時の軽率を反省している。ここにこそ試行錯誤の連続の人生というもののいじらしさもあるのではないか。
  かくばかりいつわり多き世の中に
    子のかわいさはまことなりけり
 よく引用されるこの道歌がぼくは大きらいだし、親心なるものの完璧な純粋さなども信じていない。純粋と思いこんでいる人たちの実態に目をこらすと、子どもが自分のヴィジョンどおりにあるいはイメージから大きくはずれない程度に育ってくれることを前提に愛情を注いでいる、そうした身勝手な欺瞞が見えすく。決して無償の行為ではないので、期待が裏切られれば断絶だなどとうろたえるのである。
 だから、『子別れ』の題名に幻惑されて、この人情ばなしを“子ゆえの春”式に親心美談として語ってもらいたくないと思う。親子の愛情を無条件の絶対正義と認めて疑わないほど、古典落語のエスプリは薄手なものではないはずだし、そんな体制的な民衆教化に奉仕させられるくらいなら滅び去った方がいい。
 これは“夫婦別れ”。つまり男女という横の関係のドラマとしてとらえられるべきだろう。そこではじめて二人をつなぐかすがいの亀坊と夫婦双方との縦の関係もとらえなおさえ、長編が豊かな奥行きをもつのである。
 「そのもと儀、われら勝手につき」の理由だけで慰謝料なんか払わずに女房をたたき出すことのできた時代も、思えば遠くなったがー。
 なんとも、榎本さんらしい、表現ではないか。
 「試行錯誤の連続の人生」なんて言葉、胸に“どん”と突き当たる。
 また、「古典落語のエスプリは薄手なものではないはず」という表現や、「そんな体制的な民衆教化に奉仕させられるくらいなら滅び去った方がいい」という言葉に、落語というものに真摯に向き合ってきた人の深い洞察力を見る。

 榎本さんは、落語をこよなく愛しており、古典落語は上から授かるののではなく、あくまで庶民の側にあるからこそ、三百年の間生き続けてきた、ということをおっしゃりたいのだろう。


 さて、ついつい、この噺のことを書いていたら、やはり、次の自分の高座のことを考えないわけにはいかなくなった。

 とはいえ、素人がリレーで演じるのだから、聴く方の負担(?)を考えると、せいぜい通しでも25分位が上限だろう。

 まず覚えることが先で、次に、どこをどう割愛するかを考える必要がある。

 ある程度の輪郭が出来たところで、相棒のYさんと、前後半のどっちを担当するか、相談しなけりゃ。

 生で聴いた“通し”の一つは、練馬から座間まで遠征(?)してくれたYさんと一緒に聴いた、むかし家今松による2012年2月「ざま昼席落語会」の名高座。
2012年2月12日のブログ
 そして、珍しく日曜の昼開催で、テニスを途中で抜け出して駆けつけた、2016年11月関内ホール(小ホール)での柳家小満ん。
2016年11月28日のブログ

 それぞれ、その年のマイベスト十席に選んでいる。

 珍しかったのは、立川龍志が、志ん輔との二人会で、「上」と「中」を演じた高座。
2015年4月30日のブログ

 「下」を聴いたことのある落語愛好家は多かろうから、という思いでの選択だったと思うが、なかなか得難いものだった。所要時間は、43分。
 
 今松は、「中」を端折ってはいたものの、休みなしで一時間の長講。

 小満んは、「上」「中」「下」を、しっかり分けた三高座。
 ブログの記録では、それぞれが、33分、29分、30分とほぼ均等の配分だった。

 持っている音源では、小三治は、「上」42分8秒、「中」40分26秒、「下」38分53秒と、それぞれが・・・長い。

 権太楼・さん喬のリレーは、「上」「中」で38分40秒、「下」が41分15秒。

 志ん朝の大須は「中」を地で説明した通しで、57分38秒。基本的な構成も含め、今松は、ほぼ志ん朝に近い。
 
 できるものなら、「中」もなんとか少しでも盛り込んでみたいと思っている。
 小三治の「中」は、聴けば聴くほど、いいんだよねぇ。
 というか、全体に小三治の下北沢の高座は、素晴らしいのだ。

 思い出した。昨年11月に成瀬の東雲寺寄席で、さん喬が酔っぱらった熊の帰宅から始まる、短縮版の「中」から始まる「子は鎹」を演じた。しかし、やや違和感があったなぁ。
 家に帰る熊は、そんなに酔っていてはいけないと思う。逡巡もあって、小さくなって帰るところから始めなければ、熊のその時の姿には近づかないだろう。
 さん喬が、『子別れ』の題の元となる「中」の喧嘩別れから始めたかった気持ちは、よく分かる。しかし、彼のような芸達者でも、無理な短縮を行うと、本来の噺の骨格が崩れてしまうのである。

 『子は鎹』として独立した「下」は、そうなるだけの内容として多くの噺家が練りに練ってきた結果なのだろう。
 通しでこそ生きるのが「上」や「中」。「下」なしでは存在しにくいのだが、そういう意味で、龍志の試みは得難い。


 笑いの多い「上」の後に、あの暗い別れの場面があり、最後の「下」による出会いでほっとさせる、という優れた構成がこの噺の基本なのだなぁ、とあらためて思う。

 とはいえ、素人の、“なんちゃって落語”なのだ。
 各パートの肝腎な部分を中心に、他は地で説明し、なんとか25分から20分にできないかなぁ、なんてことを考えている。

 聴きたい、とか、期待する、とおっしゃる方は気楽かもしれませんがねぇ、そんな簡単なもんじゃないんですよ145.png

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by kogotokoubei | 2018-01-16 12:45 | 落語のネタ | Comments(4)
 さて、次は、単独で演じられることは滅多にない、『子別れ』の「中」。

 吉原に居続け、四日ぶりに帰宅した熊さんと女房の会話が中心。

 女房に詰問された挙句、熊さんが吉原で品川にいた時分に馴染みだった女郎と出会って、つい長逗留になったと白状。
 そこで、謝ればまだ良かったものを、つい、のろけ話になってしまい、出来た女房の堪忍袋の緒が切れ、売り言葉に買い言葉、熊さんが「出て行け」の一言を発してしまう。

 最後は別れ話になることや、父に「謝っちまいなよ」と懇願しながらも母親と一緒に家を出て行くことになる亀ちゃんの寂しそうな姿もあって、笑いが少なく、また、救いのない筋書きでもある。
 
 前の記事でリンクした記事で紹介したように、柳家権太楼が、東京落語会で「中」だけを演じた高座が「日本の話芸」で放送されたのを見た。馴染みの女郎の名をお勝としていて、題は「浮名のお勝」。
 やはりこれだけを演じるのは、全体があって初めて噺としての骨格が出来上がるので、演る方も聴く方も、どこか物足りなさを感じるように思う。
 なお、権太楼も通しで演じたことはあって、三田落語会の前身、ビクター落語会の高座がDVDで発売されているが、私は持っていない。

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 榎本滋民さんの『落語小劇場』で、「中」の内容を確認。

 熊さんの女房が、「ふだん亭主の帰りがどんなに遅くても起きていて、路地の木戸をたたく音に『熊さんかい?』と開けに行く早さは、とんとんまでたたかせない、とん熊さんというぐらいのよくできた女」と説明しておいて、こう続けている。

 だから、ひと晩泊まりの朝帰りならお目こぼしもあろうに、三日四日と居続けのあとでは神田竪大工町のわが家の敷居は高く、のぞいてみれば女房はふて寝もせずにせっせと針仕事の最中とあっては、
「ええ、少々うかがいます。大工の熊五郎さんのお住まいはこちらでござんしょうか」
 ふざけてみせでもしなければ、うしろめたくてとても入れない。

 小三治も、熊さんを、この科白で帰宅させているが、その前に、
  朝帰り だんだん家が 近くなり
 の川柳を挟む。
 そして、「おかみさんがいる方でないと、その怖さは伝わってこないかもしれませんね」と付け加えている。実体験に基づいているのかどうかは、不明^^

 女房から、「どこへ行ってたんだい」と聞かれて熊さん、小さな消え入るような声で、「とむらい・・・・・・」と答える。「お店(たな)の旦那の弔いに行ったのは知ってるよ。弔いってのは、三日も四日もかかるのかい」と突っ込まれるが、なかなか本当のことを明かすことができない。
 小三治の音源では、焼き場にまで付き合ったものの、96で亡くなった伊勢六の旦那の亡きがらが、ほとんど油っ気がない。旦那の遺言で、よ~く焼いてくれとあったので、薪をさんざん燃やして、三日目の朝にようやく焼け落ちた、などと嘘をつく。
 しかし、女房が紙屑屋の長さんから熊と一緒に吉原に行ったことを聞いたことを知り、熊も観念し、吉原での成り行きを白状するのだが・・・・・・。

 のろけから、女房の堪忍袋の緒が切れる場面について、榎本さんの本より。榎本さんは、女房の名を、お住としている。

 敵娼(あいかた)にきまった女郎のひどさにやけのがぶ飲みから便所へ行っての帰り、廊下でいきなり胸ぐらをとられて、
「男なんて薄情なもんだねえ。わちきの顔をよくごらん」
 涙ぐんだ女は、もと品川でなじんだお松。
 ひところは、やらずの雨に降りこめられて仕事を休んでしまい、たのしみ鍋の差し向かいで飲んだ朝もあるほどの仲で、わちきがいくらのぼせてもお前(ま)はんにはかわいいおかみさんや子どもがあるんだからどうせ末のとげられる見こみはないと泣くのを、合わせものは離れもの、かかあなんぞたたき出してみせると喜ばせたこともある。
 もとより出まかせの口約束、一人息子の亀坊が回らない舌で、
「とっちゃん、お仕事(ちごと)かい。とんとんかい」
 とかなんとかいうようになったかわいさにとりまぎれ、いつかすっかり忘れていたのを、お松の方では真(ま)に受けて、熊に会いたさに方々鞍替えしながら尋ねていたとのこと。
「あんな気休めをどの口でおいいなんだよ」
 と責められて、
「ほかにもち合わせはござんせんから、多分この口でござんしょう」
 顔を突き出したら思いっきりつねり上げられたー。
 こうべらべらいってのけた上に、
「どうかなってやしねえか?こう、見つくて。よ、おっかあ」
 ほっぺたを向ける色男ぶり、たまりかねたお住はいきなり平手打ちを食わせて離縁を望む。
 やらずの雨、鍋の差し向かい、という表現で、『唐茄子屋政談』の徳の回想場面を思い出す落語愛好家の方も多いだろう。

 それにしても、熊の話、いくら出来た女房でも、怒るのは道理。
 
 そうなると、熊も居直る。
「あとがつけえてらあ。裏のどぶじゃねえがな、かかあだのぼうふらなんてものァ棒を突っこんでかき回しゃァいくらだって出てくるんだ。気に入らなけりゃとっとと出て行け!」
 名調子である。さすがに女性上位時代のマイホーム亭主なんかとはオクタン価がちがう。くやしかったら今夜にでも早速やってみるがいい。こっちのいうせりふなんてどなられて、うなだれるのが落ちだろう。

 榎本さんも、なかなかの名調子^^
 この後に、当時の夫婦のことについて、三行半を含め解説されている。
 江戸時代の夫婦関係を律する法的観念は夫権絶対だった。どれほど夫が横暴でも、妻の側から離婚を宣言することはできない。
 そのために、縁切り榎に願をかけるせつねい俗信も行なわれたし、鎌倉松ケ岡の東慶寺へ駈けこんで三年間(実際には二十四カ月すなわり足かけ三年)の有髪(うはつ)の尼僧生活を送れば認められる救済便法も存在したのだが、この場合ですら最終的には亭主が離縁状を発行しなければ離縁は成立せず、里で逃げ帰ったところで再縁もできないので、
「出て行くから、仲人にどういうわけで出てきたと聞かれたとき証拠になるように、去り状を一本書いとくれ、たった今、目の前で、さあ」
 という請求がせめてもの主張なのである。去り状・退(の)き状・離縁状などともいう縁切り証文は、こんな文言を三行半に書く。
   そのもと儀、われら勝手につき離縁
   いたし候上は、何方(いずかた)へ縁づき候とも
   われら方にては一切差し構え御座な
   く候。仍(よっ)て件(くだん)の如し。
 三下り半の俗称はこれによる。

 江戸時代の男尊女卑が離縁状の背景にあったのかもしれないが、当時は、女性人口が少なかったことも、一つの仕組みとして、三行半につながったように思う。
 簡単には、離縁させない。もし、離縁されても、女性がすぐ再婚できやすい仕組み、ということではなかろうか。

 なお、小三治は、かな文字しか書けない熊なので、四下り半になった、と笑わせる。
 隣りに住んでいる住人が仲裁に入るが、熊も一度上げた拳を下げることができない。

 ついに離縁か、という時の亀の言葉は、なんともせつない。
 榎本さんの本から、ご紹介。
「お父っつァん、お前(めい)が悪いんだ。あやまっちゃいなよ。おいらだのおっかあだのがいなくなると、お酒を買いに行く者ァなくなっちゃうぜ。今あやまるんなら、おいらもともに口をそえるからさ」
 これをたしなめてお住は、男の子は男親につくのが法だろうけれど、お前さんのところへ残して行くのは心配でたまらないからとむせび泣いて、
「さあ、亀坊。ながなか御厄介になりましたってお父っつァんに御挨拶をおし」
「いやだなぁ。するよ。ながなが・・・・・・ながなが亭主にわずらわれ・・・・・・」
 と青っぱなをこする亀坊の手を引き、小さい風呂敷包み一つもって、世帯やつれした薄い肩を路地口に消した。
 この場面は、亀の言葉にどんなクスグリを入れても、そうは笑えない。
 やはり、切ない、暗い話なのだ。

 その後、熊は吉原通いを続け、年季が空けた馴染み女郎をうちへ引っぱりこんだのだが・・・・・・。
 ここでお決まりの句が挟まれる。
 「手に取るな やはり野に置け 蓮華草」
 この句、調べてみると、遊女を身うけしようとした人をいさめて、播磨の瓢水(ひようすい)という人が作ったといわれている。
 「れんげ草のような野の花は、やはり野原に咲いているのが似つかわしい。ものには、本来それにふさわしい場所というものがある。取らずともやはり野に置け蓮華草」という意。
 手に取ってしまった蓮華草が、いったいどんなものだったか。

 朝寝をして昼寝をした上に宵寝までするネゴイストで、せめて飯でも炊かせようと思えば、
「おまんまが炊けるくらいなら、お前(ま)はんとこへきやしないよ。吉ちゃんとこへ行きたかったんだけども、お前はんがおまんまなんぞおれが炊くってえからきたんじゃないの」
 はじめて目がさめたら、追い出すまでもなく女は出て行った。ここまでが中、『子別れ』の題名のよってきたるくだりである。

 中、やはり暗い噺なのだ。

 もちろん、暗いなりに聴かせどころはある。
 熊と女房の会話、亀のなんとも切ない言葉などに、演者の技量が問われる。

 さて、上とつなぐべきか、それとも、下の前に短めに演じるべきか。

 書きながら、次の口演(?)への悩みが増してきたではないか^^

 次回は、お馴染み「下」の「子は鎹」。

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by kogotokoubei | 2018-01-15 12:33 | 落語のネタ | Comments(4)
 次の「居残り会座付き芸人」のネタは、『子別れ』とのご注文。
 前の記事に続き、この噺のことについて、

 別に今から稽古しよう、ということではない^^
 何かの機会に、落語家や落語のネタについて少し考えてみるのは、こ拙ブログの常。

 前の記事では、柳家小三治が、ネタおろしで「通し」をするために山籠りまでしたことを以前の記事から紹介したが、その少し前に、権太楼の『子別れー中(浮名のお勝)ー』をテレビで観たことから、この噺の作者、初代春風亭柳枝のことなどについて、記事を書いた。
2009年4月18日のブログ

 柳家の御本家とも言える初代柳枝の作品であるから、もちろん、柳家の噺家にとっては大事なネタだ。

 とはいえ、今日では、「上(強飯の女郎買い)」「中(浮名のお勝)」「下(子は鎹)」のうち、「下」を演じることが中心で、なかなか通しで聴くことはできない。

 私が、生の高座で聴けたのは、むかし家今松と柳家小満んの二人。
 持っている音源は、あの小三治の高座と、鈴本での権太楼(上と中)・さん喬(下)のリレー。
 ちなみに権太楼・さん喬のリレーは、2006年8月、恒例の二人が交互にトリを取る「鈴本夏祭り」で、8月19日が、上と中を権太楼、下、さん喬、翌20日はその逆で演じられたものの収録。よって、私が所有しているのは、19日のもの。
 ちなみに、古今亭志ん朝の大須の「上」「下」を持っているが、ほとんど「中」は割愛といった内容なので、今回は、本家の柳家の音源二つを元に辿りたい。

 さて、生でも音源でも、通しとなると珍しいが、落語関連の本でも、あるようでないのが、通しについて詳しく書かれた本。

 本棚を探して、見つけた。

 榎本滋民著『落語小劇場』(上)だ。
 私の持っているのは、上と下の二巻になっている、三樹書房発行の昭和58年版。
 ご覧のように、目次にしっかり入っていた。

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 さっそく、冒頭からご紹介。

 ■子別れ
 
 告別式会場へちょっと行くだけですむ今の安直システムとつがって、昔の会葬は丁寧なものだったから、新仏(にいぼとけ)の菩提寺が遠いと半日一日つぶれてしまう。職人や零細商人には大恐慌で、
  弔いが麻布と聞いて人頼み
 香莫を託して御免こうむる。ところが、
  弔いが山谷と聞いて親父行き
 今はもう「山谷」は堀と橋ぐらいに名残りをとどめるあわれな末路だが、以前はずいぶん広い地域を指していた。吉原通いのことを山谷通いともいったほどで、あの歓楽街を連想しない男はいない。
  こりゃ事だ寺は山谷で七つ(四時)過ぎ
 大勢ならなお行きやすいから、「弱ったね」などとにやにやする。
  吉原へ回らぬ者は施主ばかり
 このとっかかりのところを読んで、はた、と思った。

 私が持っている通しの音源で引っかかった部分があるのだ。

 「弔いを山谷と聞いて親父行き」の川柳は、小三治も権太楼も使っているが、二人とも、若い者を行かせて間違いがあってはいけないから、という解釈を語っている。

 えっ?親父自身が行きたいからなんじゃないの?

 と聞いていて思ったのだが、榎本さんの文章は、私の見解の正しさを裏付けてくれているような気がして、少し嬉しかった^^

 山谷の近くに、あの原っぱがあるから、親父が行きたいということだろう。
 
 もちろん、どちらともとれるのではある。

 また、この章、榎本さんは、あえて『子別れー通しー』とはせず、単に『子別れ』としている。
 本来は、上・中・下と全部で一つの噺、ということなのだろう。

 あらためて、その「上」「中」「下」のそれぞれの噺の山場と思しき部分を、榎本さんの本で確認したい。

 まず、「上」。別名「強飯の女郎買い」。
 大往生した大店の大旦那の葬式に参列した熊五郎が、しこたま般若湯を飲んで酔っ払う。
 冒頭は、この熊の酔っ払いぶりが聴かせどころ。

 榎本さんの本から。

 酔えばまるで分別を失う飲んだくれなのを心配した年寄りが、無駄遣いする金があるのなら、かみさんにうまいもんでも食わせるか子どもに着るもんの一枚でも着せるかしておやりとたしなめれば、
「きいたふうなことをいうねえ。かかあを屋根へ上げて風を食わせとこうと、餓鬼を叺(かます)へ入れてぶらさげようと、手前の世話になんぞなるか。この赤茄子」
 という勢いである。
 叺なんてのも、落語でしか聞かない言葉になってきたなぁ。
 亡くなった大旦那の年齢は、小三治が96歳、権太楼では94歳。
 どちらにしても、あの時代では、大往生だ。

 さて、酔った勢いで外に出た熊は、出会った紙屑屋の長さんと一緒に、吉原へ。
 葬式で出た弁松の弁当を、たんまりと持ち帰っていることが、笑いを呼び込む道具立てである。

 気前がよかった仏の遺言で弁松に別あしらえした強飯の上弁当が出た。強飯すなわちおこわで、不祝儀のときは黒豆が入る。たっぷり汁を含んだがんもどきもそえてある特製が寺の庫裡に残っていたのを、背中に七つ、左右の袂に五つ、懐中に三つ、七五三の形で失敬している。
 落語に登場する江戸時代のお店の中で、弁松は、今でも営業している貴重な存在。
 ホームページには、しっかりと「赤飯弁当」が載っているので、ご確認のほどを。
弁松総本店のサイト

 この弁当、小三治は、榎本さんの本と同様に、背中に七つ、袂に五つ、懐中に三つ持って帰っており、「七五三の、担ぎ分け」と言って笑わせる。
 ちなみに、権太楼は、背中に七つのみ。

 紙屑屋の長さんは、途中で買い物をしたので、三銭しか持ち合わせがない。
 対して熊は、仕事の前受け金の五十円が懐にあるので、気が大きい。奢ってやるからと、この二人が吉原へ行く道すがらの会話が、なんとも可笑しい。

 熊は、何度も「紙屑屋!」と長さんを呼んで、からかいっぱなし。
 榎本さんの本では、こういう科白が紹介されている。
 「お前が紙屑屋だから紙屑屋ってんだ。不思議はねえだろ。それとも気に入らねえのか、紙屑屋。大きに悪かったな、紙屑屋。じゃァ紙屑屋といわねえから行け、紙屑屋」
 さて、たどり着いた吉原。
 
 そこで出会た、客引きをしていた妓夫(牛)太郎。
 
 抹香くさい寺帰りだと断っても、
「手前どもは果(はか、墓)行きがいいお客さまだと喜びますぐらいで、へへ、どうぞお上がりを願います。宵見世のお徳用で御愉快をいかがさま。棟梁。色男。おいらん殺し。よっ」
 なんてんで離すもんじゃない。
 弁松の弁当を妓夫に祝儀に渡して、店に上るまでが、「強飯の女郎買い」。

 切れ場は、小三治では、こんな感じ。
 店に上がると花魁見習いの豆どん(禿)がいて、居眠りして花魁につねられた痣があるのを見た熊が、弁松の弁当をあげようとすると、豆どんが断る。怒った熊が大きな声を出すと、さっきの妓夫が出てきて、彼女たちは客からもらい物をしてはいけないと躾られていると詫び、代りに私がもらいましょう、と言う。「おめぇさっき二つやったじゃねえか」「ご馳走さまで。へい、美味しく頂戴しました。ただ、がんもどきの汁が少なかったような・・・」「そうだろう、さっきこいつ(紙屑屋)に背中を押されて汁が褌に染み込んだんだ。こっちへ持って来い」「取り替えていただけるんで」「いや、褌、絞ってやる」「冗談言っちゃいけない」で、サゲ。

 実際に、小三治は、ここでいったん高座を後にする。

 権太楼は、「上」と「中」を続けているので、この後に、居続けした熊が、遣り手婆さんに体よく追い返されたと地で説明して「中」につなげている。

 「上」「中」「下」のうち、しっかり演じることができれば、もっとも笑いが多いのが、この「上」だろう。

 では、「中」は、どんな噺なのか・・・は次回。

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by kogotokoubei | 2018-01-14 18:18 | 落語のネタ | Comments(10)
 11日の落語愛好家仲間との新年会で、リクエストに応え(?)、『二番煎じ』をYさんとリレーで演じた。
 元は、忘年会で、つい『井戸の茶碗』をご披露したところ、望外に好評で、次は冬に相応しい噺を、となってしまった次第。

 前半の火の廻りを私、番小屋に帰ってからの後半をYさんが担当。

 二人とも、志ん朝の大須の音源を聴いて練習した結果、皆さんからの評価も悪くなかった。

 ひと安心して熱燗を飲み、美味い焼き鳥をいただいていたら、なんと、次回は『子別れ』の通しをリレーで、とリクエスト。

 いつになるかはともかく、結構、大変なネタをふられたものだ。

 これまで、通しで聴いたのは、むかし家今松(ざま昼席落語会)、柳家小満ん(独演会、関内ホール)かな。

 この噺の通しでは柳家小三治が有名だが、なんと口演に至るには、壮絶なドラマがあったことを以前紹介している。

2009年4月21日のブログ
 以前の記事と重複するが、『子別れー通しー』というネタの重さ、難しさを知るに相応しい逸話を、再確認したい。

 1982年に下北沢に本多劇場がオープンし、「本多寄席」と銘打った落語会が開催されるようになった。第一回として、その年の12月13日に「古今亭志ん朝独演会」が開催された。『寝床』と『文七元結』の二席が演じられ、ソニーのプロデューサーであった京須偕充さんは、出色の出来だった『文七元結』のレコード(CD)の収録に成功した。そして明けて1983年。京須さんは、長年に渡って慎重に交渉を進めてきた柳家小三治の本多寄席での独演会と録音の約束をとりつけた。小三治師匠、44歳の上げ潮といえる頃である。しかし、どのネタにするかは、まだ小三治も迷っていた、そんな時の状況を、『落語名人会 夢の勢揃い』京須偕充著(文春新書)より引用する。

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京須偕充著『落語名人会 夢の勢揃い』


 小三治という人は誰よりも個性的だが、奇を衒うことを好まない。個性たしかだから奇を衒う必要がない。それをしかと自覚している。他のジャンルとのセッションなどという、誰にでも考えられて、しばしば線香花火に終わる企画をもちかけても、おいそれと乗る人ではない。
 とにかく九月一日の独演会とその録音については合意している。会って、相談をして、その演目構成に何か一工夫をしよう。初夏の宵、かつて新宿副都心にいちばん早くオープンしたホテルで待ち合わせた。83年の副都心はまだ意外に空が大きく見えると思うくらい、高層ビルはそれほど林立していなかった。柳家小三治はオートバイで姿を現した。

 京須さんと小三治の立場の違いなどから、二人の会話はスムーズに進まなかったようだ。

 ついに柳家小三治が独演会をやるのなら、待ちに待った録音をスタートするのなら、そして誰よりも個性派の小三治なのだから、せめて演目構成で落語ファンをあっと言わせる企画を実現したい。それが制作者である私の考えだ。しかし小三治本人は、演目を決めることさえ渋るのである。独演会に応じていながら何をいまさらと言えなくもないが、まずは年来の主張を前提に掲げ続ける小三治だった。

 京須さんの粘りに負けてほぼ観念し始めた小三治に、ついに京須さんは提案する。
 雑談にも疲れたところで、ふっとひらめくものがあった。蹴られるかもしれないが、とにかく口に出す。
 『子別れ』どうです。一晩で上・中・下の通し口演ってのは。
 柳家小三治は一瞬、息を呑むようにした。目がギロリと動く。
 「ああ・・・・・・。それなら、ねえ。・・・・・・うん」これ、やっていそうであまりやられていない、と私は付け加えた。ラジオで、五代目古今亭志ん生が至極かいつまんで簡略にやったことはあったが、独演会でじっくり通し口演したのは六代目三遊亭圓生しかいない。これは実質があって、しかも話題になる企画ではないか、とさらに添えた。言いながら、私にもだんだん確信のようなものが生まれてきた。
 「うん、じゃ、それで行きましょう」
 柳家小三治はきっぱり言った。
 
 京須さんの読み通り、この企画はマスコミにも注目された。そして、「山篭り」である。
 いくつかの新聞が柳家小三治にインタビューし、予告記事を書いた。インタビューでは、さァどうなることか自分でもわかりませんと他人事のように言っていた小三治の目の色が変わってきたのは八月のなかば近くになってからだ。やがて小三治山篭りの噂が立った。
『子別れ』に関する、ありとあらゆる資料、録音テープや先輩の速記本を抱えて旅立ったというのだ。帰京予定日は九月一日、独演会の当日という。
 九月一日の独演会当日になった。夕方、早目に楽屋入りした弟子に聞くと師匠小三治は帰京したが、髭が伸び放題だったという。剃る間も惜しんで構成と稽古に没頭していたらしい。やがて楽屋入りした本人にもう髭はなかったが、いつも以上に目がくぼみ、少し青白かった。
 どうしていいかわからない、えらいことを引き受けたと後悔したけど、もうどうにもならない、としきりに悲観的な見通しを述べた。
 どんよりと空気が淀んだ、薄日の蒸し暑い日だった。いっそ天変地異でも起こらないかなァと小三治は穏やかならぬことを言う。それで独演会が中止になれば命拾いをするという、テストを逃れたい少年のような考えだ。その日九月一日はちょうど六十年前の1923(大正12)年に関東大震災が起きた日付けではある。


 あの小三治が、「山籠り」までして稽古に没頭したのが、『子別れー通しー』なのである。

 私は、この小三治の音源も持っている。
 この「山籠り」のことを知って聴くと、なおさらその高座の凄かったことを察することができる。
 いわゆる、「ゾーンに入った」高座だったことが、聴いていて伝わるのだ。


 新年会の後のメールのやりとりの中で、I女史によると、Yさんと私は「座付きの芸人」なんだそうな^^

 今後、無茶ぶりの落語披露が恒例となりそうな・・・予感。

 Yさんも私も、さん喬・権太楼のリレーの音源を持っているので、お手本はその音源になりそうだ。

 さて、これから我々は、山に籠もらなけりゃ^^

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by kogotokoubei | 2018-01-13 11:54 | 落語のネタ | Comments(6)

新聞のコラムと、落語。

 新聞のコラムには、時折、落語が素材として登場する。

 コラムの筆者が、落語が好きなんだなぁ、と読んでいて微笑ましくなることもある。

 今日の東京新聞の「筆洗」も、そういう記事。
 引用したい。

東京新聞コラム「筆洗」の該当記事

筆洗
2017年1月11日

「権助魚(ごんすけざかな)」「権助提灯(ごんすけぢょうちん)」に、「悋気(りんき)の独楽(こま)」…。落語には嫉妬を明るく笑う噺(はなし)が少なくないが、そんな噺のまくらによく使われるのが、こんな文句。<焼きもちは遠火に焼けよ 焼く人の胸も焦がさず味わいもよし>▼だが、焼きもちというのは、そう加減よくは焼けないもので、気がつけば我を忘れ真っ黒に焦がしてしまう。恋愛のことならまだかわいげもあろうが、出世やらをめぐっての嫉妬となると陰湿になり、胸の中の暗い炎で自分自身をも焼いてしまう▼今、そういう嫉妬の恐ろしさを、それこそ身を焼くような思いで感じているのは、カヌーの日本代表だった鈴木康大(やすひろ)さん(32)だろう。後輩の後塵(こうじん)を拝することに耐えられなかったのか、その選手がドーピング検査に引っ掛かるように細工をしたという▼何ともやりきれぬ出来事だが、それでも少し救われる思いがするのは、本人が良心の呵責(かしゃく)に耐えかね真相を話し、「実力が無いにもかかわらず、努力することを怠った」と反省、謝罪していることだ▼落語家の立川談志さんは生前、嫉妬について愛弟子に、こう説いたそうだ。「己が努力、行動を起こさずに自分のレベルまで下げる行為、これを嫉妬と云うんです…本来なら相手に並び、抜くための行動、生活を送ればそれで解決するんだ」(立川談春著『赤めだか』)▼懐中に入れておきたい、嫉妬の処方箋である。

 この事件を取り上げるにあたり、必ずしも「権助魚」や「権助提灯」など落語の悋気ネタを持ち出す必然性はないだろう。
 もしかすると、『赤めだか』に登場する談志の言葉を先に思い浮かべて、落語ネタのマクラを持ってきたかな。

 いずれにしても、落語が好きだからこその内容。

 以前も、このコラムと毎日新聞の「余録」が一日違いで落語を素材にしていたことを紹介したことがある。
2016年1月6日のブログ

 そこで、今日の「余録」を見てみた。
毎日新聞コラム「余録」の該当記事

 同じ件を扱っていた。
「勝利は技と努力によって手に入れるべきもので、金や後ろ暗い方法で手に入れてはならない」という、古代オリンピックの競技場近くにあったゼウス像の碑文から始まる内容。
 ちょっと、固い。

 どっちが、読ませるものか、味わいがあるか。
 私は、「筆洗」に軍配を上げる。

 落語が好き、ということもあるが、読後に何が残るかと言うと、ゼウスの碑文より、談志の言葉なのだ。

 「余録」は、やや、直球すぎる。
 今回は、落語好きの筆者ではなかったのかもしれないけどね。

 コラムには、いくつかの顔がある。
 時事的なテーマを扱い、その内容を分かりやすく説明することもある。
 また、社説を補足し、あるテーマに関する社としての見解を示すこともある。
 そして、あるテーマを、そのコラムニストならではの切り口で語ることで、読み物としての味わいを出すこともある。

 いずれの場合も、そのテーマに関する意見や感想を書くにあたり、自分の引出しから関連するもの、あるいは一見関係がなさそうなものを取り出して、読む者の興味をつなぐ技が重要だと思う。

 もちろん、テーマの選定そのものにも、センスが求められよう。

 他の記事や社説とは違うので、直球ではなく変化球のイメージだし、ほっと一息させてくれる内容であって欲しい。

 最近朝日の「天声人語」がつまらなくなったのは、まるで社説のような固い内容で、ほっとさせてくれないからだ。

 コラムニストの引出しに落語があることは、その新聞の懐の深さを示すような気がする。

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by kogotokoubei | 2018-01-11 12:27 | メディアでの落語 | Comments(6)
 前身のビクター落語会を含め何度か通った三田落語会が休会するということを、同会のホームページで知った。

 休会の案内を、引用。
三田落語会のホームページ

■三田落語会 休会のお知らせ■

平素は格別のご高配を賜り、厚く御礼申し上げます。
さて、三田落語会は2009年2月よりビクター落語会の後を受けて、
「本格・本寸法の落語を楽しく演じて、楽しく聴く」をコンセプトに開催されて
参りましたが、この度諸般の事情により2018年2月24日開催を持ちまして
しばらくの間休会させていただく運びとなりました。
当会をご支援ご愛顧いただきましたお客様、またご出演いただきました落語家の皆様、
そして関係者の皆様には厚く御礼申し上げます。
尚、お客様への感謝の気持ちを込めまして、
2018年6月9日(土)に浜離宮朝日ホールにて「感謝祭」を行う予定です。
皆様お誘い合わせの上、ご来場いただきたく存じます。
今後の三田落語会につきましては、当会ホームページにてご案内する予定です。
今迄本当にありがとうございました。

公益財団法人仏教伝道協会

 「しばらくの間休会」の言葉を、信じたい。

 ブログを始める前に、結構集中してビクター落語会には行った。

 三田落語会に替わってからも、何度か聴いている。

 なかでも、普段は行かない土曜の夜席ながら、露の新治を聴きたくて直前の会に行きチケットを確保したことなどを、思い出す。

 ここ数年はなかなか都合が合わず、結局、昨年、一昨年は行くことができなかった。
 土曜は、昼も夜も、いろいろと都合がつかないのが、今の状況だ。

 前回行ったのは、2015年の師走の回まで遡る。居残り忘年会の日だった。
2015年12月21日のブログ

 今年は、なんとか時間をやりくりして行こうと思っていたのだが・・・・・・。

 休会前の二月の会には、なんとか駆けつけたいと思っている。


 もう十年近く前になってしまったが、ビクター落語会が終了した時にも大感謝祭があり、行くことができた。
2008年12月20日のブログ

 6月の大感謝祭は、次のように案内されている。

■ 三田落語会「大感謝祭」〜さらくちからタップリ その弐〜(仮)
■ 2018年6月9日(土)
■ 【会場】浜離宮朝日ホール(小ホール)
■前売り 各¥4,000(全席指定・税込み)/当日 各¥4,500(全席指定・税込み)
■昼席 開場 12:00 /開演12:30
【出演】柳家権太楼/瀧川鯉昇/入船亭扇辰/桃月庵白酒
■夜席 開場 16:30 /開演17:00
【出演】柳家さん喬/春風亭一朝/露の新治/柳家三三

 凄い顔ぶれだ。こちらもなんとか行けるといいのだが。br>


 決して、この会の常連などとは言えないが、ご縁があった会それぞれに、その後にあった居残り会も含め、思い出はある。

 仏教伝道センターの会場には、パイプ椅子がぎっしり並び、さまざまな落語会でお見かけする落語愛好家の方の顔があった。

 「本格・本寸法の落語を楽しく演じて、楽しく聴く」というコンセプト通りの落語会で、選りすぐりの出演者の二人会が中心の、楽しい空間と時間が、そこにあった。

 良質な落語会で、地域落語会の枠を超えていた。
 休会は、あまりにも惜しい。

 終了ではなく、あくまで“休会”であって欲しいと願うばかりだ。


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by kogotokoubei | 2018-01-10 00:30 | 寄席・落語会 | Comments(6)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛