噺の話

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 落語芸術協会が、仙台に寄席を開場するらしい。

 毎日新聞から引用。
毎日新聞の該当記事

「とにかく笑って…」仙台に常設寄席「花座」開場へ
毎日新聞2017年8月28日 10時28分(最終更新 8月28日 22時33分)

桂歌丸さんが名誉館長 月10日間の興行

 演芸にもっと広く親しんでもらおうと、仙台市青葉区の中心街に来年4月、常設の寄席「花座」が開場することが決まった。東京の落語芸術協会(芸協)が月10日間の興行を主催し、桂歌丸会長(81)が名誉館長に就任する予定。東日本大震災から6年余り。芸協仙台事務所長、白津守康さん(55)は「皆さんにとにかく笑っていただきたい」と思いを込める。

仙台には、明治から大正にかけて「笑福亭」など複数の寄席があり、にぎわっていたという記録が残る。

 花座の予定地は、百貨店「仙台三越」のすぐ近く、飲食店などがひしめく国分町と一番町四丁目買物公園の間にある繁華街の一角。白津さんの会社が所有する建物を改築する。客席は40ほどで、情緒ある和風の外観にするという。

 イベント会社を経営する白津さんは、震災前の2010年6月から芸協主催で「魅知国(みちのく)仙台寄席」をスタート。映画館を借り月1回の興行を、震災時も休まず続けてきた。来月で92回を数えるが、「月1回では見たくても見られない人がいる。文化を根付かせたい」との思いから自前の演芸場開設を模索してきた。

 花座では毎月1~5日と21~25日の計10日間、落語や色物の公演を開催。芸協所属の真打ち落語家のほか、東北弁落語の六華亭遊花さん、漫才コンビのストロングスタイルら地元で活躍する芸人も出演する。寄席以外の日は貸し小屋として運用する予定。

 10月から、大阪の寄席「天満天神繁昌亭」の例にならい、小屋の外観を飾るちょうちんの名入れで改築費用を募るという。白津さんは「東北人は今も懸命に頑張っている。幸せだから笑うのではなく、笑うから幸せなんです」と期待をかける。【濱田元子】

 実に結構なことだ。

 「笑うから幸せなんです」という言葉、なかなか味がある。

 
 独立行政法人の日本芸術文化振興会のサイトに、本年度の「文化芸術振興費補助金」による助成対象活動のリストが掲載されている。
日本芸術文化振興会サイトの該当ページ

 東京の落語の二団体への補助金は、次のようになっている。

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 これまでもそうだが、落語芸術協会は、この助成金を都内の定席のみならず、北海道、東北、名古屋の落語会のために活用している。

 そういった活動の延長線上に、今回の寄席開場があったのではなかろうか。

 このリストを見て疑問なのは、公益社団法人であり、都内定席のみならず地域の落語会も開催している落語芸術協会への補助金が44,551,000円で、一般社団法人で都内の定席のみを補助金対象としている落語協会に、2000万円以上多い65,000,000円が補助されていることだ。

 この数字を見ると、いつも多くの「?」が浮ぶ。

 所属落語家の数が落語協会の方が多いからか・・・・・・。
 そもそも、この補助金は、どう使われているのか・・・・・・。
 「年間活動支援」と「公共事業支援」の違いは・・・・・・。

 この問題は何度か書いているので、これ位にするが、どうしても腑に落ちないなぁ。


 ともかく、落語芸術協会による仙台「花座」開場で、ここ数年笑いを忘れた人々が、笑って幸せになることを期待したい。

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by kogotokoubei | 2017-08-31 12:36 | 寄席 | Comments(4)
 寄席や落語会でのマクラで、人にもよるが、鋭い権力批判が、落語家らしい装飾もされて披露されるのを聴くのも楽しみの一つだ。
 
 もちろん、ほとんどが「テレビじゃ、無理だろうなぁ」と思われる内容で、そういうことも、生の寄席、落語会での一期一会の魅力なのだと思う。

 しかし、ふと、思うこともある。

 以前は、テレビでだってそういう批判精神に富んだ発言を、もっと聴くことができたのではないか、ということ。

 そんなことを考えていたら、興味深い記事を発見した。

 テレビに出るお笑い芸人たち、そして、メディアにおける権力批判の日米の違いに関し「LITERA」に載っていたのだ。
LITERAの該当記事
 主に町山智浩の指摘が中心。

 冒頭から、まず引用。

トランプ問題で鋭い論評連発の町山智浩がアメリカと比較し「日本のお笑い芸人が権力批判できない理由」を喝破
2017年8月27日

 シャーロッツビル事件をめぐる「どっちも悪い」発言で、アメリカではトランプ大統領への批判がかつてないくらい高まっているが、日本のメディアではむしろ、トランプ的な「どっちもどっち」論が幅を利かせている印象がある。

 ネットでは事件の発端となったリー将軍像の撤去をめぐって、ネトウヨや「中立厨」を中心にリー将軍擁護論が盛り上がり、テレビでも「白人至上主義も忌まわしいが、リベラル至上主義も問題」などというトンデモ発言をした有本香はじめ、複数のコメンテーター、番組がどっもどっち的な解説を垂れ流していた。

 そんななか、こうしたトランプ擁護論を徹底論破していたのが、現在アメリカ在住の映画評論家・町山智浩氏だ。町山氏はツイッターで、リー将軍像が白人至上主義という差別思想と不可分であること、南北戦争で「南部が自治権を守ろうとしただけ」などというのは戦争終結後の南部のプロパガンダであることを指摘。こんな鋭い分析まで披露していた。

〈南部の正当化の仕組みは日本における戦争の正当化のそれと非常によく似ていると思います。南部帝国を擁護する日本人には、意識的か無意識か、大日本帝国を投影している人が多いのではないでしょうか。〉

 まさに博覧強記の町山氏らしい鮮やかな切り返しだが、その町山氏が今度は、トランプを徹底批判するアメリカのニュースショーと比較する形で、権力批判ができない日本のメディア状況やお笑い芸人の問題に踏み込む発言をして、話題になっている。

 発言があったのは、8月22日放送の町山氏のレギュラー番組『たまむすび』(TBSラジオ)でのこと。町山氏はこの日、シャーロッツビル事件以後も予定されている右翼の大集会やトランプ大統領の動向について解説したあと、「いまアメリカのレイトショー、夜のトークショーの人たちは、もうずーっと、この事件があってからもそうなんですけども、トランプギャグでものすごく面白いことになっているんですよ」と切り出した。

アメリカでは毎晩、コメディアンたちがトランプをネタに

 そして、ABCテレビ『ジミー・キンメル・ライブ!』司会者のジミー・キンメルやCBS『ザ・レイト・ショー・ウィズ・スティーヴン・コルベア』で大人気を博しているスティーヴン・コルベアが毎日のように、トランプに対して苛烈なジョークやツッコミを浴びせていることを紹介した。

 たとえば、キンメルが「ドナルド・トランプをアメリカの王様にして、政治から手を引かせよう」という皮肉たっぷりの提案をしたことや、トランプが「両方とも悪い」と言ったことに対して、コルベアが「それは違うだろ、だって、あっちはナチだよ、こっち側はそのナチのカウンターだよ、ナチと戦う人たちだよ」「アメリカはナチと戦ったんじゃないの?」と厳しく突っ込んだことなど。

 しかも、町山氏が強調したのが、これらトランプ批判の多くがアメリカの「お笑いトークショー」を舞台に、コメディアンの口から発せられていることだった。

「アメリカのすごいところは、とにかくいちばん視聴率を取っていていちばん人気のあるコメディアンは政治ネタをやるっていうことなんですよ」
 芸人やメディアにおける「言論の自由」や「表現の自由」について、何とも日米の差は大きい、と感じさせる。

 アメリカ在住の映画評論家である町山智浩に関しては、昨年7月に、ギャンブル依存症に関する記事を含め“コメンテーター”なるものについて書いた記事で、彼の言葉を引用したことがある。
2016年7月1日のブログ
 また、2014年7月には、アメリカ大統領選の背景に見えるアメリカに関し、彼の著書を引用した。
 あの時紹介したウォールストリートジャーナルの共和党予定候補に関する記事には、トランプの名は、出てこなかったなぁ。
2014年7月17日のブログ

 LITERAの記事はこの後、茂木健一郎が「空気を読んでいるお笑いばかりで権力に対して批評の目を向けたお笑いがない」」とツィートしたら“炎上”し、爆笑問題の太田や松本人志の反論にも遭って、結局茂木が松本に謝罪した、という話を紹介した後で、次のように続く。

 どうやら町山氏もこの本質が隠されしまった展開に違和感を抱いていたらしい。茂木氏に対して、「“日本のお笑いはだからダメだ”じゃなくて“なぜ、こういう政治的なお笑いをやる人がテレビに出ないのかな?”っていう話にすればよかった」と苦言を呈する一方、博多大吉の発言を引用するかたちで、日本のお笑い芸人が権力批判できない理由について、改めて言及したのだ。

「その時に(茂木氏に)反論した中で博多大吉さんが一番正直に言ったんだと思うんですね。博多さんが」
「それは『安倍総理を批判したらリスクが大きい』って言ったんですね。彼は(笑)。それが一番正直だなと思ったんですけど(笑)。だって、そのザ・ニュースペーパーっていうグループは森友事件を茶化すコントをテレビのために収録したら放送されなかったんですからね」
「だから『リスクが大きい』っていうのはやっぱりかなりストレートなものなのと、あとやっぱりスポンサーとかでコマーシャルに出れなくなっちゃうんですよね」

 そう、町山氏は日本のお笑いが権力批判できないのは、太田光の言うような「政治ネタをやってるヤツはいるけど、笑えない、浅い」とかそういうことではなく、芸人がつぶされるリスクを感じているからだ、と指摘したのである。

 爆笑問題の太田などは、あるタブー視されているキーワードを持ち出すが、その問題に本質的な批判を加えているわけではない。
 彼が、権力批判をしていると目されているなら、NHKを含めレギュラー番組を持つことはできないだろう。

 リスクは、確かにあるだろう。
 「あいつは、何を言い出すか分からない。はずそう」というメディア側の自主規制は、間違いなく存在するに違いない。
 
 さて、私が好きなザ・ニュースペーパーの、放送されなかった芸とは。
 政治風刺を入れ込んだコントを得意とするザ・ニュースペーパーのリーダーである渡部又兵衛は、2017年5月14日付しんぶん赤旗日曜版に掲載されたインタビューでこんな裏事情を暴露している。

「僕は最近コントで「カゴイケ前理事長」を演じています。そう、森友学園問題の。こんなコントもしました。
 アベシンゾウ首相(舞台袖から登場し)「どうも、カゴイケさん。お久しぶりです」
 カゴイケ「あ、首相。ごぶさたです。…『お久しぶり』って、やっぱり僕ら、知り合いですよね?」
 それから二人は「お互い、奥さんには苦労しますね」と嘆きあうといった内容です。
 見たテレビ局の人が「面白い!」といってコントを放送することになりました。収録までしたのに放送当日、「すみません。放送は見送りです」と電話がきました」

 これ以上の詳細な裏事情は詳らかにされていないが、おそらく、現場スタッフのなかで「是非放送したい」とされた内容が、放送前の上層部チェックで「自主規制」および「忖度」の対象となったのだろう。
 このネタ、ぜひ見たいじゃないか^^
 寄席でなんとか遭遇したいものだ。

 結局、テレビに出る(出たい?)お笑い芸人が自主規制(忖度?)するのは、次の鴻上尚史が指摘するように、メディア側の問題だ。

 劇作家の鴻上尚史氏は「SPA!」(扶桑社)17年6月20日号掲載の連載エッセイ「ドン・キホーテのピアス」のなかでこのように書いている。

〈地上波では、現在、まったく政治ネタの笑いがありません。かつてはありました。昭和のずいぶん前、テレビがまだいい加減さを持っていた頃、毎日、時事ネタを笑いにしていました。
 でも、今はありません。それは、お笑い芸人さんの責任ではありません。テレビが許さない。それだけの理由です〉

 この後、ウーマンラッシュアワーの村本大輔が、例外的に権力批判をしていると紹介されている。
 どこまで彼の批判精神が本物なのかは、しばらく様子を見る必要があるだろう。
 本当に、体を張っているのか、どうか。
 
 アメリカだって、かつては、なかなか芸人が権力批判ができにくい時代もあった。
 アンダーグラウンドでの芸だって、あのレニー・ブルースは、何度も逮捕されている。
 
 彼が舞台でこう言ったのは有名だ。

 “I'm not a comedian. I'm lenny bruce!”

 たしかに、仕事を失うリスクを考えると、なかなか、権力批判を口にすることはできないかもしれない。
 しかし、権力への不満を抱きながらも飲み込んでしまう芸人や、逆に権力へのヨイショを続ける芸人は、レニーの言葉を踏まえると、「自分自身が、存在しない」ということになりはしないだろうか。
 アメリカのメディアの「自由」を尊ぶ姿勢と、コメディアンの権力批判で笑いたい聴き手の存在は、単純に国民性の違い、と片付けられないような気がしてならない。

 自由に発言できにくい社会は、やはり、おかしいだろう。


 とはいえ、今、切れ味鋭く、洒落の聴いた警句は、寄席や落語会で楽しむしかないのだろうなぁ。

 むかし家今松、桂文我などの高座は、そういったマクラも大きな魅力なのである。

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by kogotokoubei | 2017-08-28 23:21 | お笑い・演芸 | Comments(2)
 「約束の地。メンフィス~テイク・ミー・トゥー・ザ・リバー~」の余韻から、まだ醒めない。

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 本棚から、昔買った「ジャズ批評」の一冊を取り出した。

 第44号(昭和58年2月20日発行)「特集黒人雑学事典」だ。
 約600頁と分厚い。

 この本から、“伝説(レジェンド)”達のことや、彼らにとっての“伝説”のことを拾ってみた。

 この本の「ビッグO(Otis Redding)のデヴューから20年 メンフィス/サザン・ソウル その後」(塩月俊明)から引用。

 60年代の黒人音楽の表面的な動きを追ってみれば、トゥイスト・ブーム、タムラ=モータウン・レーベルによるポピュラー化したソウルの大躍進が目に付く。しかし本質的な部分に目を向けてみれば、やはりメンフィスを中心としたサザン・ソウルの台頭だろう。

 そうそう、私もそれを言いたい^^

 タムラ=モータウン系のソウルが'50年代のブルース/R&Bをより洗練させ、白人にもアピールして全国的な規模で成功を収め、70年代へと脱皮していったのに対し、メンフィス/サザン・ソウルが同じ意味で成功した時期は短かった。
 '62年、ウィルアム・ベルの「ユー・ドント・ミス・ユア・ウォーター」のヒットで幕を開けたメンフィス・ソウル界は同じ年にはオーティス・レディングの登場。'65年にはアトランティック所属のウィルソン・ピケットのスタックス録音「イン・ザ・ミッドナイト・アワー」のヒット、'66年にはスタックス入りしたサム&デイブの「ホールド・オン・アイム・カミン」と続くが、'67年には早くも雲行きが怪しくなる。それはいうまでもなく、ナンバーワン・スター、オーティスの死である。

 ほら、ウィリアム・ベルだ、などと読みながらあの映画を思い出す。
 
 あの飛行機事故は、大きな転機だったなぁ。

 1967年12月10日、自家用機で移動中のオーティスとバッグバンド、バーケーズのメンバーは、事故に遭遇した。
 たまたま安全ベルトをしていず湖に放り投げられたトランぺッターのベン・コーリーと、別の便に乗ったジェイムス・アレキサンダーが助かったが、ベンもジェイムスも「約束の地。メンフィス」に登場していたなぁ。
 映画では収録されていなかったが、サウンドトラックのボーナストラックとして、再結成されたバーケーズの一員としてジェイムスはベースを担当している。

 残念ながら二年前、ベン・コーリーは旅立った。

 たしかに、あの事故は、メンフィス・ソウル、とりわけスタックス・レコードにとって大きな分岐点となった。
 一時は所属のソウル・アーチストのほとんどを南部に送り込み録音させていたアトランティックも、'69年には見切りをつけ、スタックスの配給も打ち切っている。

 これより少し前のメンフィスのことについて、「シカゴ・ブルースの成立とそのR&B化」(川副正大)からも紹介したい。

 ハウリン・ウルフについて書かれた部分。

 彼はこの時代ずっとメンフィスに住んでいたわけだが、'49年、ようやく地元のラジオ番組に登場するチャンスが訪れた。タフマン、ウルフがこれを逃すはずはなかった。彼の人気はウナギ登りに上がって、クラブ出演の仕事もたくさん得られるようになっていったのだ。それから彼は自分自身のブルースに対して、サポートするバック・バンドの必要性をしっかり認識していたので、クラブ出演の時には、必ずバンドがついた。しかも、人気者の彼の回りには、秀れたメンフィスのミュージシャンが集まってきたのだ。たとえば、マット・マーフィー、ヒューバート・サムリン、バット・ヘア、ジェームス・コットン、ジュニア・パーカー、ウィリー・ジョンソン、ウィリー・ラブといった連中だったわけだ。
 (中 略)
 '54年頃まで彼のバンドの中心は、レコーディングでもライブの時でも、メンフィス時代の古顔で構成されていたため、マディのデルタ・ブルースサウンドとは一寸違ったシカゴ・ブルースサウンドが生まれたのだが、この事は実に興味深い。彼らのほとんどは、おそらくデルタ地方出身だったのであろうが、戦後メンフィス体験(40年代後半)によって、そのサウンドに独特のムードを出している。

 ヒューバート・サムリンも、「約束の地。メンフィス」でその生前の姿を見ることができたなぁ。

 あの映画の興奮から、つい、本棚から引っ張り出したこの本を読んでいた。
 ジャズに比べて、それほどR&Bやソウル、ブルースに詳しいわけではないが、好きではある。

 この本を読みだしたら止まらなくなった。

 BGMはもちろん、あの映画のサウンドトラック。

 映画では登場しなかったボーナス・トラックも、悪くないのだ。


 ホワイト・ハウスでウィリアム・ベルが「You Don's Miss Your Water」を熱唱している映像があったので、ご紹介。
 オルガンは、もちろん、ブッカー・T.ジョーンズだ!

 ああ、オバマのアメリカが懐かしく思える、今日この頃。

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by kogotokoubei | 2017-08-26 10:23 | 幸兵衛の独り言 | Comments(0)

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オリジナルサウンドトラック「約束の地。メンフィス~テイク・ミー・トゥ・ザ・リバー~」

 居残り会リーダー、ブログ「梟通信」管理人、佐平次さんのお奨めの映画を、ようやく関内の横浜シネマリンで観ることができた。
「梟通信」の該当記事

 久しぶりの映画館。
 なんと、五年余り前の「聯合艦隊司令長官 山本五十六」以来。
 あの時は、結構辛口の感想を書いた。
2012年2月5日のブログ

 今回は、下記の公式サイトの謳い文句通り、感動した。
「約束の地 メンフィス」公式サイト

テネシー州メンフィス。ここでは多種多様な音楽が生まれ融合し、また、数々の“生ける伝説”と呼ばれる世界的ミュージシャンたちを輩出してきた。彼らを今一度この故郷に呼び戻し、名門ロイヤル・スタジオ等にて、ジャンルや人種、世代を超えた新たなレコーディングを行い、メンフィスの音楽と精神を現代の世界に再び送り出そう――この破天荒なプロジェクトの過程を追ったドキュメンタリーである本作。

ブッカーT.ジョーンズやメイヴィス・ステイプルズ、惜しくも収録後にこの世を去ったボビー・ブランドやスキップ・ピッツといった巨匠たちが次世代を担う若者に音楽を継承する貴重なセッションの数々を、かのスタックス・レコードの盛衰に象徴される黒人差別の歴史と絡めつつ綴っていく。偉大なる先人たちがプレイの秘訣を惜しげもなく伝授してゆくシーンが印象深く、過去から現代へ粛々と受け継がれるこの地の“ソウル”がスクリーンから溢れ出す。音楽の本質を垣間見せてくれる感動作。

 オリジナルサウンドトラックCDの越谷政義さんのライナーノーツからも引用。
 映画「約束の地、メンフィス~テイク・ミー・トゥー・ザ・リバー~」の監督マーティン・ショアは、キース・リチャードと懇意にしていた故ジム・ディキンソンのゼブラ・ランチのスタジオで友人であるジムの二人の息子のうちの一人のコーディ(兄のルーサーとノース・ミシシッピ・オールスターズで活動)と一緒にいる時こう閃いた。メンフィス音楽を生み出していった伝説のアーティストに集まってもらい、その素晴らしさをもう一度世界に発信しよう。でもノスタルジーに浸るだけでなく、足跡をドキュメントするだけでなく、大ベテランたちをリスペクトしその歴史を受け継ぎながらも斬新なムーブメントの中で活躍している“若いミュージシャン”と“伝説”との“競演”をひとつの“世界”に作り上げよう。それがCDとなり、映画となって完成した。

 このマーティン・ショアの思いは、見事に素晴らしい作品となって結実した。
 
 最初に佐平次さんからメールをいただき公式サイトを見て、ブッカー・T.ジョーンズ(Booker T. Jones)の名があったことに興奮した。

 私は、中学生の頃からクリーデンス・クリアウォーター・リバイバル(CCR)が好きで、NHKの「ヤング・ミュージック・ショー」で最初にCCRを取り上げた時は、興奮しながら観ていた。
 Wikipediaで確認すると、1971年10月24日の放送だ。
Wikipedia「ヤング・ミュージック・ショー」

 ブッカー・T&ザ・MG'sは、その時に知った。

 CCRメンバーとのセッションも印象的だったし、彼らのビッグヒット「Green Onions」は、今でも耳に残っている。

 そのブッカー・T.ジョーンズも登場するなら、観ないわけにはいかない^^

 ブッカー・T&ザ・MG'sは、メンフィスのスタックス(STAX)・レコード専属のスタジオ・バンドだった。
 オルガンのブッカー・T.ジョーンズを中心に、ギターは、あのスティーヴ・クロッパー、ベースがルイス・スタインバーグ、ドラムのアル・ジャクソン。ベースは、その後、あのドナルド・ダック・ダンの代わっている。
 “あの”への私の思い入れが分かる人は、この映画是非見て欲しい。
 スティーブ・クロッパーは「ブルース・ブラザース」で知った方も多いと思うが、あの「The Dock of the Bay」の作曲者。

 スタックス・レコードは、アメリカのR&B、ソウルミュージックを語る上で欠かせないレーベル。
 この映画は、そのスタックス・レコードの歴史、数多くの伝説的なミュージシャンの歴史とともに、人種差別を背景として銀行の融資を止められて倒産してしまった歴史も、しっかりと伝えている。

 もちろん、音楽もとびきり素晴らしい。
 収録されたセッションは、次の9つ。
 短い私の補足や感想(*)を添えてみた。

Session1
「サポーズド・トゥ・ビー(Supposed to Be)」
ブッカー・T.ジョーンズ with ノース・ミシシッピ・オールスターズ featuring アル・カポネ
 *アル・カポネは、ラッパーの芸名なので、お間違いなく^^
  ブッカー・Tはこれだけだったのは、少し残念。
  しかし、ところどころにMG'sの曲がBGMとして流れていた!

Session2
「愛なき世界で(Trying to Live My Life Without You)」
オーティス・クレイ featuring リル・ピーナッツ
 *ジャクソン・ファイブ時代のマイケルを思わせるようなリル・ピーナッツ
  の、なんとも可愛いこと!
 残念ながら、オーティスは2016年1月18日、日本公演を前に旅だった。
 リル・ピーナッツには一生の思い出になったことだろう。

Session3
「プッシュ・アンド・プル(Push and Pull)」
ボビー・ラッシュ featuring フレイザー・ボーイ
 *ボビー・ラッシュは、今でも現役。まだまだ、頑張って欲しい。
 サウンドトラックCDには、もう一曲'Hen Pecked'が収録されている。

Session4
「イフ・アイ・シュド・ハブ・バッド・ラック
(If I Should Have Bad Luck)」
チャーリー・マッセルホワイト with ザ・シティ・チャンプス
 *チャーリーの鞄の中には、とんでもない数のブルース・ハープが詰まっていた!
  サウンドトラックでは、この人の声、実に味わい深く聴くことができる。
 
Session5
「シッティング・オン・トップ・オブ・ザ・ワールド
(Sitting on Top of the World)」
ヒューバート・サムリン featuring エリック・ゲイルズ & イアン・シーゲル
 *ヒューバート・サムリンはハウリン・ウルフのバンドで活躍した人。
  2011年12月4日没。だから、この映像も貴重な記録だ。

Session6
「ウォーク・アウェイ(Walk Away)」
テレンス・ハワード with ハイ・リズム・セクション
 *映画「陽のあたる教室(Mr.Holland's Opus)」に出ていたテレンス・ハワードが、
  こんな素晴らしいミュージシャンでもあったとは知らなかったなぁ。

Session7
「消えゆく太陽(Ain't No Sunshine)」
ボビー“ブルー”ブランド featuring ヨー・ガッティ 
 *ボビー・ブランドは、エリック・クラプトンが尊敬し、ボビーの
  「Farther On Up The Road」をレパートリーにしていて、The Bandの
  ファイナルコンサート「The Last Waltz」で披露していたなぁ。
  車椅子で登場していたボビーは、惜しくも2013年6月23日に旅立った。

Session8
「アイ・フォーガット・トゥ・ビー・ユア・ラヴァー
(I Forgot to Be Your Lover)」
ウィリアム・ベル with スタックス・ミュージック・アカデミー学生
featuring スヌープ・ドッグ
 *このセッションには、しびれたなぁ。別途、書きます。

Session9
「ウィッシュ・アイ・ハド・アンサード
(Wish I Had Answered)」
メイヴィス・ステイプルズ with ノース・ミシシッピ・オールスターズ(NMA)
 *ザ・ステイプル・シンガーズのメイヴィスと、ルーサーとコーディの
  ディキンソン兄弟を中心とするNMAの楽しいセッション。
  曲が決まり、ネットから懸命に音を拾うコーディとルーサーが、
  メイヴィスを深く尊敬していることが、映像から伝わる。


 それぞれ素晴らしいセッションだが、中でも「I Forgot To Be Your Lover」が収録されていく様子には、見ていて鳥肌が立った。

 この映画で、その優しさが滲み出るギターリストのCharles “Skip” Pittsが、スタックス・ミュージック・アカデミーで学ぶ少年にギターを教えている間に、彼らが滞在できる時間内に一曲一緒にやろうと提案。あと30分ほどしか時間がない。急いでWilliam Bellと相談して、彼が作り、ブッカー・T.ジョーンズのプロデュースでスタックスからリリースしたヒット曲に決まる。メンフィスゆかりのスタックスやハイといったレコード会社の曲を聴いて育ったラッパーのSnoop Doggが急いで自分のパートの詞を作る。

 そして、アカデミーの少年達との素晴らしいセッションが収録されていく。

 観終わってから迷いなく買ったサウンドトラックCDには、残念ながら日本語の歌詞しか載っていない。

 オリジナルの歌詞と、CDの和訳に少しだけ手を加えてご紹介。

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I Forgot To Be Your Lover

Have I told you lately that I love you?
Well, if I didn't, darlin', I'm sorry!
Did I reach out and hold you in my loving arms
Oh, when you needed me?

Now I realize that you need love, too
And I'll spend my life making love to you
Oh, I forgot to be your lover

最近君に愛してると言ったかな
言ってなかったらごめん
手を伸ばし君をこの腕に抱いたかな
ああ 君は俺を求めてた

今さら気づいたんだ 君も愛を求めてたと
これからの人生は君に捧げるよ
ああ 俺は君の恋人らしくなかった
---------------------------------------------------------------

 いい歌だと思うが、なかなか日本人には言えない科白だなぁ^^

 サウンドトラックCDには、スタックス・ミュージック・アカデミーの少年たちの名もクレジットされている。
 Charles “Skip” Pittsは、彼らを褒め、そして笑顔で手を差し伸べた。
 彼は、少年たちにとって、まさに“伝説”である。
 Pittsはアイザック・ヘイズ(Isac Hayes)が頼りにしていたギターリストであった。

 Hayesの大ヒット曲「黒いジャガーのテーマ」は、1972年の第44回アカデミー賞で歌曲賞を受賞。Hayesは、俳優部門以外でアカデミー賞を受賞した初のアフリカ系アメリカ人となった。同じ年の8月20日、スタックス・レコードはロサンゼルス・メモリアル・コロシアムでコンサート「ワッツタックス」を開催し、Hayesはトリで出演し「黒いジャガーのテーマ」を歌ったのだが、その映像も、この映画で挿入されている。Hayesが、若き日のPittsに丁寧にお辞儀をしている姿が、そこにはあった。

 そのPittsも、2012年5月1日に旅立っている。
 
 映画の中では、Sam&Daveの大ヒット曲「Hold On,I'm Comin'」をIsac Hayesと一緒に作った名プロデューサーのDavid Porterが登場し、同曲誕生の逸話を披露していた。結構、あの場面は笑えたなぁ。
 PorterはPittsに向かって、「Hold On(待っていろ)I'm Comin'(俺が行くから)」と笑いながら言っていたが、晩年癌で入院していたPittsの部屋を、Porterは訪れていたに違いない。

 Isac Hayesが獲得したオスカー像は、スタックス・ミュージアムに展示されていることが紹介された。ヘイズが乗っていた車も、そこにあった。
STAX MUSEUMのサイト

 STAXの歴史は、主にAL BELL (Alvertis Isbell) と、WILLA DEAN “DEANIE” PARKERによって語られる。
 この映画のアメリカの公式サイトにある、二人のプロフィールを少しご紹介。
Take Me To The River公式サイト(英語)

 Al Bellについては、次のような説明がある。
Bell was vital to the careers of many of Stax’s stars, including The Staples Singers, Isaac Hayes, The Emotions, and The Dramatics. Bell’s promotional efforts drove the “Memphis Sound” internationally, and made Stax the second-largest African-American owned business in the 1970s. In 2009, the BBC profiled Bell as “one of the icons of soul music.”
 メンフィス・サウンドを国際的なものとした(drove the “Memphis Sound” internationally)、ソウル・ミュージックの象徴的な人物の一人(one of the icons of soul music)。

 Parkerは、元は、いわゆるシンガー・ソングライターだった。
 その後の経歴は次の通り。
After her retirement, Parker became CEO of Soulsville, where she spearheaded a fundraising campaign to raise the $14 million required to build the Stax Museum of American Soul Music and The Stax Music Academy on the original site of Stax Records. Soulsville was also a force behind the South Memphis neighborhood’s redevelopment. In 2009, she executive produced the Emmy-winning documentary, I AM A MAN, about the 1968 sanitation strike that brought Martin Luther King to Memphis, to which she contributed the title song (with Fred Jones), the first song she wrote in 45 year. The film played numerous festivals, and won prizes at the CMJ Film Festival, Indie Memphis, Trimedia, Cape Fear, the Charlotte Film Festival, and Louisville Film Festival.
 募金活動によって、Stax Museum、Stax Music Academyを設立した人であり、キング牧師をメンフィスに招致して行われた公民権ストのドキュメンタリー、エミー賞受賞「I AM A MAN」の制作を行った彼女は、この映画で重要な役割を演じている。
 彼女の存在が、この映画をメンフィス・ミュージックの歴史の記録にとどまらず、アメリカの公民権運動の歴史の一面を描写する優れたジャーナリスティックな映画に高めているように思う。

 メイヴィスがメンバーだったザ・ステイプル・シンガーズが1965年に発表したアルバム『Freedom Highway』は、当時の公民権運動で、キング牧師が先導したアラバマ州モンゴメリーからセルマまでの行進を支持する意図で行われたコンサートを収録したものだ。その有名な行進の映像も挿入されている。
 映画では、Session9の曲を決めようとする際、ルーサー・ディキンソンが「Freedom Highway」がいいとメイヴィスに言って、彼女を驚かせていたなぁ。

 ちなみに、タイトルの「Take Me To The River」は、Al Greenの1974のアルバム'Explores Your Mind'の中に収録されていたヒット曲。Talking Headsのカバーでも有名。
 Al GreennとギターリストMabon “Teenie” Hodgesとの共作で、ロイヤル・スタジオでWiilie Mitchellがプロデュースしているから、まさにこの映画に相応しいということで名付けられたのだろう。
 ただし、Alのスケジュールと映画の撮影日程が合わなかったらしく彼が出演していないのは、残念。

 とはいえ、映画には、Mabonが登場する。
 彼は2014年6月22日に旅立っており、この映画は、やはり貴重なのだ。


 誰かが、酒やドラッグに溺れることがなかったのは音楽のおかげ、と語っていた。
 貧しく、そして人種差別の激しかったアメリカ南部の街で彼らを救った音楽は、厳しい環境に耐えながら音楽を守ってきたレコード会社やスタジオ関係者の多くの人々によって彼らに与えられた素晴らしい贈り物であることを、彼らは分かっている。
 多くの先人への感謝の気持ちがあるから、伝説となった彼らを心底尊敬する後継者たちを見守る目は優しい。
 それぞれのセッションは、歴史を紡ぐ場であり、、そこには“師弟”の交流、それも、一期一会と言うべき交流が見事に描かれている。
 

 この映画に関して書きたいことは、まだまだあるが、この辺でお開き。

 R&Bやソウル、幅広くアメリカの音楽が好きな方には、素直にセッションを楽しんでもらえるし、アメリカの公民権運動に関心のある方にも、十分に見応えのある映画だと思う。

 私は、この映画を見て、嫌いだったラップが好きになりそうだ^^
 ただし、日本語のラップを除くけどね。


 公式サイトにあるように、関東地区や新潟では、まだ上映予定がある。

 東京
 下高井戸シネマ 9月2日(土)〜9月8日(金)
 神奈川
 横浜シネマリン 8月12日(土)~9月1日(金)
 栃木
 宇都宮ヒカリ座 調整中
 新潟
 シネ・ウインド 10月7日(土)~10月13日(金)

 サウンドトラックを聴くと、それぞれのシーンが甦る。


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by kogotokoubei | 2017-08-24 23:36 | 映画など | Comments(2)
 なんとか都合がつき、ご旅行で行くことができなくなったF女史より、四日の浅草見番の会の後にいただいたチケットを活かすことができた。

 本来は喜多八ファンの方によって企画された二人会の予定だったとのこと。
 二月の第一回目も佐平次さんからお誘いがあったのだが、都合が合わず、今回は落語研究会で佐平次さんは来られないのだが、私は僥倖に恵まれた。

 久しぶりの会場は、ほぼ満席に近い盛況。

 こんな構成だった。
 
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開口一番 入船亭遊京 『つづら泥』
入船亭扇遊 『夢の酒』
入船亭扇遊 『青菜』
(仲入り)
入船亭扇遊 『牡丹燈篭ーお札はがしー』
-----------------------------------------------

入船亭遊京『つづら泥』 (20分 *19:00~)
 扇遊の二人目のお弟子さんを初めて聴いた。
 マクラでの80日間中国旅行の逸話が本編よりは楽しかったかな。
 与太郎の女房が登場する噺はこのネタと『錦の袈裟』くらいだろう。
 まだ、それぞれの人物を描くのは難しそうだが、明るい高座には好感が持てた。頑張っていただきましょう。

入船亭扇遊『夢の酒』 (26分)
 熱海の夜という会の名は、扇遊の出身が熱海であること、本来は喜多八との二人会の予定だったこと、などを説明。
 電車ではスマホを見ている人ばかり、あまりウトウトしている人はいない、などとふって本編へ。
 寄席を含めて何度目だろうか、この人のこの噺は。
 間違いなく十八番の一つだと思う。
 ブログを初めて、「落語のネタ」というお題で最初に取り上げたのは、文楽版を元にしたこの噺だった。
2008年6月13日のブログ
 その記事を元に、あらすじをご紹介。

(1)若旦那の夢の説明
 大黒屋の若旦那が昼寝をして夢を見た。女房お花がどうしても聞きたい
 というので、若旦那が嫌々説明をする。向島で夕立に遭い軒先を借りた家
 の女主人が若旦那を知っており座敷にあげる。若旦那は普段飲まない酒を
 飲んで酔い、布団に横になって休んでいるところに女が長襦袢姿で横に
 スッと入ってきたところで、女房に起こされる。
(2)女房お花の怒り
 女房は怒らないと約束して若旦那に夢の話をさせたのだが、話をきくうちに
 嫉妬にもだえ、怒り、しまいに泣き出してしまう。
(3)大旦那登場
 泣き声を聞いた大旦那が驚いて嫁に理由を聞き息子を叱るのだが、夢の話と
 分かりホッとする。しかし嫁は大旦那に、すぐに昼寝をして夢をみて、
 向島の女に意見をしてくれとせがむ。
(4)大旦那の夢
 大旦那、しぶしぶ昼寝をし向島の家を訪ね、女から酒を勧められる。
 下女がいったん落とした火をおこしているがなかなか燗がつかない。
 大旦那は若い時に冷酒(ひや)を飲みすぎてしくじりが多かったことも
 あり今では燗酒しか飲まない。女がつなぎで冷酒をすすめるのだが断る。
 しかし、なかなか燗はつかずいらいらする。
(5)サゲ
 そこで、嫁が親父を起こす。そして、サゲ「ヒヤでも良かった」

 扇遊は、若旦那と女房のお花との会話で、次第に怒りが募るお花を、絶妙な表情の変化で描く。若旦那が向島でグダグダになる様子も、実に楽しい。
 科白の間も味がある。たとえば、普段は大旦那が酒を飲むと嫌な顔をする若旦那が向島で酒を飲んだと知り、「えっ、こいつが・・・酒を・・・こういう奴なんです」の可笑しさは、譬えようがないなぁ。
 そして、女性の描き方が絶妙だ。
 女房のお花の嫉妬する姿、向島の女の艶やかさは、同じ演者とは思えない巧みさ。
 袖で見ていた遊京には、ずいぶん勉強になったのではなかろうか。
 この噺では当代の噺家で随一だと思う。
 もちろん、今年のマイベスト十席候補だ。

入船亭扇遊『青菜』 (30分)
 座ったままで、二席目へ。
 今年の天気のことなどネタに相応しいマクラ。とはいえ、かつて定番(?)だった半井さんの名前が出なかったのは、ちょっとだけ寂しい^^
 お約束でもあるが、蜀山人の狂歌がいい。
 蜀山人は、涼しさをこう表現した。
 「庭に水 新し畳 伊予簾 透綾縮に色白の髱(たぼ)」
 反対に、暑さは、こうだ。
 「西日さす 九尺二間にふとっちょの 
  背中(せな)で子が泣く 飯(まま)が焦げつく」
 
 こういうマクラを聴くと、小満んを思い出すのだ。
 さて、この噺も、古くなるが拙ブログ「落語のネタ」で取り上げたことがある。
2009年5月21日のブログ
 同記事を元に、扇遊の高座のあらすじを書くと、こうなる。

(1)植木屋が仕事先のお屋敷の主人から接待を受ける
 初夏の夕暮れ時、ひと仕事終えた植木屋が、主人から声をかけられた。
 大阪の友人が送ってくれた柳影、関東で言う「なおし」があるから、
 一杯やってくれとのことでご馳走になる。”鯉のあらい”を肴に、
 冷やした柳影でいい気分の植木屋さん。
(2)奥さんと主人の会話
 主人から「菜のお浸しはお好きか?」と勧められ、「でぇー好き」と
 答える植木屋。主人が奥さんに言いつけるが、奥さんがかしこまって
 言うには「鞍馬山から牛若丸がいでまして、その名を九郎判官」、この
 言葉を聞いた主人が「では義経にしておけ」と答えた。
 植木屋が不審に思うと、これは「菜を食ろうて、なくなった」ということを
 隠し言葉、洒落で答えたのだと主人の説明。
(3)植木屋が長屋に帰宅
 お屋敷の夫婦の会話にいたく感心した植木屋さん。家に帰り、がさつな
 女房に、おまえにはこんなこと言えないだろうとけしかけると、女房が
 「私にだってそれくらい言える」との返答。ちょうどやって来た建具屋の
 半公を相手に芝居をすることにし、女房を押入れに隠す。
(4)植木屋夫婦の芝居~サゲ
 熊さん相手に「冷やした柳影」は「燗冷ましの酒」、「鯉のあらい」は
 「鰯の塩焼き」で代替、菜は嫌いだという半公になんとか頼み込んで、
 ようやく待望の夫婦芝居。
 「奥や、奥!」と声をかけると押入れから汗だくになった女房が出て来て、
 「鞍馬山から牛若丸がいでまして、その名を九郎判官、義経」と言って
 しまう。
 慌てた植木屋、「え、義経、う~ん、じゃあ、弁慶にしておけ」でサゲ。

 この人の噺で、これほど笑ったことはないと思う。
 また、蜀山人の二つの狂歌の落差のように、涼と暑の落差が見事に描かれていたことも、噺の味を引き出していた。
 庭に吹く風、植木屋の見事な水遣り、などの涼の光景が目に浮かぶから、後半の暑さが際立つ。
 鯉の洗いを見た植木屋の、「鯉ってぇのは黒いかと思ってたら、白いんですねぇ・・・よっぽど洗ったんですか」に主人が「あれは鯉の外套だ」と返すと、植木屋「鰻なんざぁ、さしづめズボンですか」などもほど良い笑いを誘う。
 氷を頬張る仕草なども、なんとも可笑しい。
 長屋に帰ってからの夫婦の会話も、楽しく聴かせる。見合いの場所が上野動物園で、長い時間カバを見ていたせいで女房が良く見えたのは、仲人の作戦か、というやりとりでも大いに笑った。
 サゲ前の半公との会話では、植木屋の、いわゆる鸚鵡返しの楽しさが満載。
 半公が「なにか、のりうつったんじゃねぇか」で爆笑。
 この噺の名手は少なくないが、間違いなくこの人もその一人だと感じた高座。
 もちろん、今年のマイベスト十席の候補である。

 仲入りでは、次回、来年三月の会のチケットが販売されていたが、そんな先のことは分からず、買わなかった。しかし、行きたいとは思っている。

入船亭扇遊『牡丹燈篭ーお札はがし』 (50分 *~21:22)
 白い着物に着替えての登場。
 マクラもふらず「根津に~」とこの噺へ。
 発端の本郷の刀屋の件は、割愛。また、お露が柳橋の寮(別荘)に住むようになったいきさつは、途中でお米が語るという構成にしていた。
 根津に住む萩原新三郎が、二月に亀戸の梅見の後、幇間医者の山本志丈に連れられて、柳橋の寮でお露と最初の出会いをしたことからしばらくは、地での語り。
 新三郎は、お露に会いたくてたまらないのだが、一人で行くのは厚かましいと思い、山本志丈が来るのを待つが、なかなか来ない。原作では夢を見る場面があるが、多くの演者同様それも割愛して早や時は過ぎて六月も半ば、ようやく志丈がやって来た。しかし、なんとお露が、新三郎に恋焦がれて死に、看病疲れで女中のお米も後を追ったとのこと。
 悲嘆にくれる新三郎が、お盆七月十三夜の月を見ていると、深夜八つ過ぎに、下駄の音がカランコロンと・・・と怪談話のクライックスにつながっていく。
 やはり、この噺は難しいなぁ、と感じた高座。
 山本志丈が、武士のようみ見えたことから、ちょっと噺に入り込めなくなった。伴蔵とおみねの会話を中心に据えたと思われるが、二人があまり悪い人には思えなかったなぁ。
 ニンではない、とは言わない。そうとう高いレベルの高座だったのだとも思う。
 やはり、前半の二席が良すぎたのだろう。


 お腹いっぱいの三席。
 この会を教えていただいた佐平次さん、チケットを譲っていただいたF女史に感謝しながら、帰途についた次第。

 電車の中で見た受付でいただいたチラシには、扇遊の独演会の案内がいくつか入っていた。
 分かる人には分かるのだ、と心で呟いていた。
 
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by kogotokoubei | 2017-08-23 12:47 | 落語会 | Comments(5)
 前回の記事では、小島貞二さんの『こんな落語家(はなしか)がいた』(うなぎ書房)から、初代林家正楽の日記について紹介した。

 その中で、小島さんは次のように書いていた。

 紙切りの初代林家正楽(一柳金次郎)は几帳面な人で、大正六年以来、ズーッと欠かさず日記をつけていた。
 その正楽は浅草永住町で空襲をもろに浴び、命からがら逃げたのはいいが、命から二番目の日記をそっくり焼いてしまった。
 がっかりして日記をやめたというのが常道だが、失望より勇気が上回り、焼けたその日からまた日記をつけ始めた。
 私は前に、『落語百年』(全三巻 昭和41年3月 毎日新聞社刊)をまとめたとき、その日記を借用して、演芸に関するところだけをピックアップさせていただくことにして、「昭和の巻」に紹介した。

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 私は『落語三百年ー昭和の巻ー』の昭和54年発行改訂新版を持っている。
 最初の章「戦争と落語」の中でこの日記は紹介されており、『こんな落語家(はなしか)がいた』には掲載されていない内容や、引用した部分の補足説明に相当する部分があるので、この本からも初代林家正楽の日記を紹介したい。

 前回紹介した日記と重複するが、三月十日付けの内容に小島さんの補足説明があるので、まずご紹介。

「三月十日。浅草、下谷、本所、深川被害甚大にて死者多し。貞山、岩てこ、李彩、扇遊、左喬、丸勝、武蔵太夫ら惨死す」
 六代目一竜斎貞山は、講談組合の頭取で落語協会の会長であった。馬道に住み、言問橋まで逃げて煙にまかれて死んだ。六十八歳。死体は浅草の親分が見つけた。
 太神楽の寿家岩てこは五十歳、中国奇術の吉慶堂李彩は六十八歳、パンとマイクの立花家扇遊は六十歳。左喬は落語家、丸勝は太神楽、武蔵太夫は新内語り。みんな浅草界隈にいて、運命の火の粉をあびたのだ。
 三遊亭円馬は、扇遊と馬生(大阪から来た馬生)と菊屋橋にあった昭南荘というアパートで、となり合わせに住んでいた。そこへ三月九日夜んぽ大空襲となり、扇遊夫婦がまっ先に逃げた。逃げ遅れた円馬は、アパートの住人であるご婦人をリードして、比較的火の色がうすい上野方面に走り、小学校へ避難して助かった。別に逃げた馬生も無事だったが、扇遊だけは隅田川方面を選んだらしく、そのまま夫婦もろとも帰らぬ人となった。

  大阪から来た馬生は、五代目馬生門下で昭和19年に九代目となった人。
 
 立花家扇遊は、奈良のお寺の息子で、唐招提寺で修業をし実家の僧侶となった後に、芸人に転じた人。尺八、へちまおどり、そしてパントマイムのような「蝿取り」なる珍芸で人気を取ったと言われる。
 現在の入船亭扇遊より前の時代、扇遊と言えばこの人のこと。
 円馬は四代目。
 浅草から上野方面に逃げたか、隅田川の方角を目指したかで生死の違い。
 犠牲になった人、逃げ延びた人、まったく紙一重の違いということか。

 すでに紹介した、協会の違う志ん橋(後の三代目三遊亭小円朝)主任の新宿末広の寄席に正楽は四月二十四日に出演しているが、その後、五月の日記。

「五月六日。午前十時より上野鈴本焼けあとへ連中集まり、鈴本主人より罹災連中に見舞金(三十円ずつ)下さる。文楽氏宅へ寄り、人形町末広、新宿末広つとめ六時半帰宅」
 上野鈴本の大旦那(鈴木孝一郎氏、故人)は、自分のとこも焼けながら、なお焼けた芸人に見舞い金を出している。一同の感激も大きかったろう。
 このあと、鈴本経営の映画館(現在の上野鈴本と電車道をへだてた向かい側)の焼け跡に、応急のバラック・・・・・・バラックというより、柱を立てて周囲と天井を葦簀張りにしただけの小屋をつくり、そこで興行したが、寄席壊滅状態のときだけに客は来た。

 鈴本の大旦那から見舞金をもらった“連中”には、落語協会派の人も芸術協会派の人もいたに違いない。
 この大旦那鈴木孝一郎は三代目の席亭で、明治13(1880)年生まれ、昭和36(1961)年没。
 鈴本のサイトで、「寄席主人覚え書」という大旦那の貴重な記録を読むことができる。昭和32(1957)年9月3日から東京新聞 に掲載していた記事で、当時の寄席、落語家、そして落語家と客との関係などが書かれていて、読んでいて飽きない。
鈴本サイトの該当ページ
 ちなみに現席亭は六代目。
 大旦那のようにはなれなくても、そろそろ、芸協とは関係を修復できないものだろうか。
 以前書いたように、芸協と鈴本との別離から、すでに三十年以上が経過している。
2014年3月5日のブログ


 初代正楽の日記の引用を続けよう。

 五月二十五日の空襲で、北沢の正楽家付近も火の海となるが、奇跡的に焼けのこり、電灯もラジオもつかない不安な数日をすごす。
「六月一日。午前十一時より小田急にて新宿へ。駅焼けている。新宿末広焼失。今まで焼け残りたるところ皆焼失。円生、山陽、小文治、柳橋みな立ちのきて逢わず。野村無名庵氏焼死の由」
 野村無名庵氏は本名野村元基。落語研究家として「落語通談」ほか著書も多い。このとき講談落語協会の顧問。芸界にとってはかけがえのない人材であった。
 無名庵氏は武島町(文京区)に住み、付近に爆弾の雨ふりそそぐ中で、警防団の団長として阿修羅の働きをした。自宅にも火が入ったので、ご真影(天皇の写真)を持ち出すべく突入、出て来たところへ焼夷弾の直撃を頭にうけて散ったという。五十七歳。明治の日本人としてはふさわしいかもしれないが、落語を愛した市井人としてはあまりにもむごい。

 野村無名庵が空襲で亡くなったのは、小島さんのご指摘の通り、あまりにも残念だ。

 『落語通談』については、落語のネタのことでの引用を含め、何度か記事を書いている。
2015年3月17日のブログ
2015年11月23日のブログ
2015年12月23日のブログ
2017年2月27日のブログ

 『本朝和人伝』については、Amazonのブックレビューを書いた。
野村無名庵著『本朝和人伝』
 そのレビューでも書いたのだが、日の目を見ることがなく焼失したであろう数多くの貴重な原稿は、あまりにも大きな文化的損害であったと思う。

 戦争の被害は、正楽の家族にも及んでいた。

「六月三日。満太郎戦死の報来る」
 正楽氏にとっては最愛のひとり息子満太郎さんが、華北の最前線で戦死したむねの公報がとび込んで来たのである。昭和二十年三月八日二十三時四十分とあった。浅草の自宅が被災するわずか一日前のことである。正楽氏のその日の日記帳には部隊長よりの手紙が、そっくり記載されてある。
 年月日は違うが桂文楽、三遊亭小円朝もそれぞれ一人息子を戦争にかり出され失っている。人を笑わせる商売だけに、こういう話はよけいにかなしい。

 “人を笑わせる商売だけに、こういう話はよけいにかなしい”という思いは、七年前になるが、NHKの戦争特集番組で「戦場の漫才師たち~わらわし隊の戦争~」を見た時に、強く感じたことだった。

 あの番組については、やはり小島貞二さんの『こんな落語家(はなしか)がいた』の引用を中心に記事を書いた。
2010年8月11日のブログ

 そろそろ、敗戦(終戦、ではなく)記念日近くの特集番組もお開き、という感じだが、年中行事として放送したらしばらく戦争のことは終わり、という思惑がちらつき、なにか腑に落ちない。

 今まさに、国内外の諸事情で戦争の危機が迫っているのではないか。
 あるいは、共謀罪などにより、戦時下にも似た、息苦しい、住みにくい社会になる危険性もある。


 昭和二十年、鈴本の向かいの焼け跡に作られた寄席もどきの小屋に駆けつけた人々のことを思うと、どれほど多くの日本人が笑いを求めていたかが察せられる。
 あまりにも“非日常”の日々が続いていたのだ。

 あの“無意味”な戦争は、多くの芸人の命も奪った。
 そして、国民の生活から“笑い”を奪い取った。

 “日常”生活、“笑い”に溢れた家族の生活を奪い取る権利は誰にもない。

 共謀罪を含め、現在の政府が行おうとしていることは、あの無意味な歴史を何ら反省していないということだ。

 この本からは、また近いうちに戦争の無意味さについて、紹介したいと思う。


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by kogotokoubei | 2017-08-22 23:07 | 落語の本 | Comments(2)
 新宿末広亭の9月下席の夜の部から、桂小南治の三代目桂小南襲名披露興行が始まる。
 まねき猫との交互出演ではあるが、協会の垣根を超えて、膝替りには弟の二樂も、兄の披露目に出演する予定だ。
新宿末広亭のサイト
-新宿末広亭9月下席・夜の部-(末広亭のサイトより)
落語交互
 桂 鷹治
 山遊亭 くま八
漫談 新山 真理
落語 三笑亭 夢丸
落語 三笑亭 可龍
奇術 北見 伸・スティファニー
落語 三遊亭 遊之介
落語 桂 歌春
俗曲 桧山 うめ吉
落語 桂 南なん
落語 三遊亭 小遊三
-お仲入り-
襲名披露口上
落語 雷門 小助六
曲芸 ボンボンブラザース
落語 三遊亭 遊吉
落語 山遊亭 金太郎
交互出演
 物まね 江戸家 まねき猫
 紙切り 林家 二楽
主任 小南治改メ 桂 小南

 兄弟出演は、実に良い企画だと思う。
 六歳違いの二人の父は、二代目林家正楽。
 初代正樂から紙切りを習った父だが、正楽の下では預り弟子の扱いで、一貫して八代目林家正蔵門下だった人だ。

 初代正樂の弟子には、落語芸術協会の今丸がいる。
 師匠没後、今丸は今輔門下となった。

 いずれにしても、今に残る紙切りという芸を語る上で、初代林家正楽の存在は大きい。

 江戸落語の初代林家正楽は、上方にも同じ名の落語家が代を重ねていたので、本人は八代目と称していた。明治29(1896)年11月18日生れで、昭和51(1966)年4月15日没。長野県の出身で、生前は日本芸術協会(現落語芸術協会)に所属した。

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小島貞二 『こんな落語家がいた-戦中・戦後の演芸視-』
 初代正樂のことについて、ある本から引用したい。
 戦中・戦後のことを落語を中心に芸能分野から振り返った名著、小島貞二さんの『こんな落語家(はなしか)がいた-戦中・戦後の演芸視-』(うなぎ書房)からは、何度か記事にしている。

 7年前、「わらわし隊」にことに関して引用したのが最初だ。
2010年8月11日のブログ
 そのすぐ後に、この本を中心にした記事を書いた。
2010年8月17日のブログ
 戦争が大きな転機となった、昔々亭桃太郎のことを書いた際も、引用した。
2012年11月5日のブログ
 三年前、江戸家猫八の広島での被爆について書いた記事もあった。
2014年8月6日のブログ

 この本は2003年8月発行で、同年6月に84歳で亡くなった小島貞二さんの遺著だ。

 「第三章 戦時下の落語界」から紹介。

 紙切りの初代林家正楽(一柳金次郎)は几帳面な人で、大正六年以来、ズーッと欠かさず日記をつけていた。
 その正楽は浅草永住町で空襲をもろに浴び、命からがら逃げたのはいいが、命から二番目の日記をそっくり焼いてしまった。
 がっかりして日記をやめたというのが常道だが、失望より勇気が上回り、焼けたその日からまた日記をつけ始めた。
 私は前に、『落語百年』(全三巻 昭和41年3月 毎日新聞社刊)をまとめたとき、その日記を借用して、演芸に関するところだけをピックアップさせていただくことにして、「昭和の巻」に紹介した。
 
「昭和二十年三月九日夜より十日にかけての敵機の爆弾のため、浅草永住町114番地にて類焼。家具寝具全部及び数年来書き残しありし自作新作落語原稿百数十編類焼す」
「三月十日。浅草、下谷、本所、深川被害甚大にて死者多し。貞山、岩てこ、李彩、扇遊、左橋、丸勝、武蔵太夫ら惨死す」
「三月二十日。十三日より二十日まで神楽坂演芸場名人会に出演。警戒警報あり二日休む」
「四月六日。帰途桂文楽氏宅に寄る。十日千葉一の宮、右女助(のち小勝)の部隊慰問頼まれたが、名人会がるので行かれず断わる」
「四月十四日。四谷、花園町、荒木町、喜よし亭、四谷駅まで焼野原となり、牛込神楽坂一円焼失、演芸場、小文治、圓(まどか、のち三木助)宅類焼す。小文治氏の立退き先観世宅見舞い、中里柳橋氏付近まで焼け、類焼を助かりしを見舞う。のりもの全部なし、新宿より浅草まで歩き回る」
「四月十五日。十三日の盲爆三月十日に劣らず、四谷、牛込、田端、日暮里、小石川、千住、品川等焼失。前火災に助かりし小文治、圓、円歌、志ん生、柳枝、小南、燕枝、柳朝等みな類焼す。席にては大塚鈴本等」

 日記の中から被害状況がよくわかる。
  
 本当に、この日記は戦災の記録としても貴重だと思う。
 なお、柳朝は四代目で、のちの四代目柳家つばめ。三木助に『芝浜』を教えたといわれる人だ。
 小南は、八代目文楽の最初の師匠の初代桂小南。

 東京大空襲というと、もっとも被害が大きかった三月十日が思い浮かぶが、四月十三日の空襲も小さいものではなかったことが、この日記からも分かる。

 引用を続ける。

 当時の寄席は、空襲警報が鳴ると休みになった。芸人の服装は、高座着のままモンペをはき、上から筒袖の外套を着た。肩には弁当を入れた雑嚢、腰には防空頭巾や水筒を下げ、下は長靴だった。
 三遊亭円歌はある座敷の帰り、紋付袴の出で立ちで市電を待っていると、「この非常時に、そのザマは何だ!」と、ツカツカと寄ってきた男に殴られたという。
 桂小文治(初代・稲田祐次郎)は、戦後も高座着にモンペ・・・・・・モンペを脱げばそのまま高座着になる特製の衣装を愛用していて、桂枝太郎(二代目・池田芳次郎)はこれを「ライスカレー」と呼んでいた。「カレーライスもライスカレーも一番手っ取り早い」というのが命名の由来ときいた。

 「四月十日。新宿末広へ、協会の志ん橋大幹部昇進披露興行スケ。六時帰宅」

 この志ん橋はのちの三遊亭小圓朝(三代目・芳村幸太郎)で、このときは船勇亭志ん橋、「船遊亭」が正しいのに、戦時中というのでわざと「船勇亭」と書いた。こういうことも軍部へのゴマスリがある。
 小圓朝の所属は落語協会派、正楽は芸術協会派で、寄席では合同の公演はないはずなのに、正楽は頼まれて出演している。戦争による芸人不足を物語る。

 空襲のことに限らず寄席の出演のことも含め初代正樂の日記は重要な記録だ。

 三月十日の東京大空襲で焼失した日記にも、戦前の落語界にとっては、実に貴重な情報が満載だったと察する。

 文中の三代目三遊亭小円朝については、その芸を高く評価していた飯島友治さんの『落語聴上手』から引用したことがある。
2016年5月7日のブログ

 昭和二十年の寄席は、人手不足のために協会に拘らない番組が組まれた。

 9月下席の三代目小南襲名披露は、弟が兄の披露目のスケをするという粋な計らいで、協会の垣根を越える顔付がされた。

 実に平和な平成の寄席、と言えるのではなかろうか。

 日記の貴重な記録と紙切りという伝統芸を伝えた初代正樂も、きっと孫弟子の出演を喜んでいるに違いない。

 ぜひ、この披露目には駆けつけたいと思っている。

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by kogotokoubei | 2017-08-21 12:36 | 落語の本 | Comments(2)

 前の記事で、吉村昭の『東京の戦争』について書いたが、つい、前日に見たNHKスペシャル「戦慄の記録 インパール」のことにも、ふれてしまった。

 あの作戦について、ずいぶん前に読んだ本をあらためて読み直した。

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『失敗の本質』

 その本は、『失敗の本質』。
 私が本棚から引っ張り出したのは、昭和59(1984)年に発行されたダイヤモンド社の単行本。単行本もよく売れたようだが、平成3(1991)年に中公文庫で再刊されてからも、ベストセラーになっている。

 執筆者は次の六名。( )内は、生年と単行本発行当時昭和59年の職務。

 戸部 良一(昭和23年、防衛大学校助教授)
 寺本 義也(昭和17年、明治学院大学教授)
 鎌田 伸一(昭和22年、防衛大学校助教授)
 杉之尾孝生(昭和11年、防衛大学校助教授)
 村井 友秀(昭和25年、防衛大学校講師)
 野中郁次郎(昭和11年、一橋大学教授)


 購入当時、野中郁次郎の名だけは、知っていた。
 その野中も、本書執筆に至る研究会が発足した昭和55年当時には防大に籍を置老いていたので、防衛大学の四十歳前後の先生たちが中心になって出来上がった本と言えるだろう。

 牟田口第十五軍司令官の無謀なインド侵攻作戦が、なぜ組織の中で止めることができなかったのか。

 当時の牟田口の上下の組織は次のようになっている。

・大本営参謀本部 参謀本部総長 杉山  元元帥(陸軍士官学校12期)
・南方軍総司令官        寺内 寿一元帥(陸軍士官学校11期)
・ビルマ方面軍司令官      河辺 正三中将(陸軍士官学校19期)
・第十五軍司令官        牟田口廉也中将(陸軍士官学校22期)

 まず、直属の上司がどうであったか、本書から引用したい。
 部下の反論に耳をかさない牟田口の積極論を現地で制止しうるのは、河辺方面軍司令官のみであった。しかも河辺は蘆溝橋事件当時、連隊長牟田口の直属の上司たる旅団長であり、それ以来両者はとくに親しい間柄であった。しかし牟田口がインパール攻略論を唱えたとき、河辺は「何とかして牟田口の意見を通してやりたい」と語り、方面軍高級参謀片倉衷少将の言葉を借りれば、軍司令官は私情に動かされて牟田口の行動を抑制しようとしなかった。

 では、河辺の上司、寺内はどうだったのか。ほとんど、寺内は黙認に近い状況であった。
 そして、大本営の判断はどうなったのか。
 文中の綾部は南方軍司令部総参謀副長の綾部中将のことであり、「ウ号作戦」はインパール作戦のこと。

 大本営の中枢、参謀本部作戦部長真田穣一郎少将は、ビルマ防衛は戦略的持久作戦によるべきであり、危険なインパール作戦のような賭に出るべきではないとみなしていた。したがって昭和十九年一月初旬、綾部が上京して「ウ号作戦」決行の許可を求めたときにも、真田は、補給および制空権の不利と南部ビルマの憂慮すべき事態を指摘して作戦発動不可を唱えた。綾部は、この作戦は戦局全般の不利を打開するために光明を求めたものであり、寺内南方軍司令官自身の強い要望によるものである、と大本営の許可を懇請したが、真田はそれに答えて、戦局全般の指導は南方軍ではなく大本営の考慮すべき任務であると反論した。ちょうどそのとき、杉山元参謀総長は、寺内のたっての希望であるならば南方軍のできる範囲で作戦を決行させてもよいではないか、と真田の翻意を促し、ついに真田も杉山の「人情論」に屈してしまう。


 この後、東条首相から補給問題などいくつか質問を受けても、すでに決行を決めた大本営は、問題なし、として無謀な作戦が実施された。

 インパール作戦の失敗については牟田口一人にばかり矛先が向かうように思うが、その上司たちや、ブレーンであるべき参謀の責任者たちにも、次のような犠牲に対して責任がある。

 戦死または行方不明2万 2100人,戦病死 8400人,戦傷者約3万人。
 まったくの、無駄死にだ。

 『失敗の本質』では、組織が「人情」に流されてしまった、という指摘をしている。
 それも大きな原因だろうが、私は、理性的に考えれば不合理である部下の判断を、人情に流されて許してしまった、その誤った判断の背景も考えるべきだと思う。

 それこそが、戦争が人間を狂わせる、ということであり、私が反戦を訴える、もっとも根底にあることだ。

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by kogotokoubei | 2017-08-19 10:35 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(2)
 昨夜は、NHKスペシャルの「戦慄の記録 インパール」を見た。
NHKサイトの同番組のページ

 詳細は記さないが、戦争というものが、人の心を変貌させることが、その戦争の首謀者や戦地の指揮官を中心に描かれていた。

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吉村昭著『東京の戦争』(ちくま文庫)
 
 2001年に筑摩書房で発行され2005年に文庫化された『東京の戦争』で、昭和2年生まれの吉村昭は、執筆の動機を次のように書いている。

 数年前から、しきりに思うことがある。それは、東京というこの都会で「大東亜戦争」と称されたあの戦争に一個の人間として直接経験したことが珍しい経験なのかも知れぬ、と思うようになったのである。

 この“経験”の中には、戦争が戦地のみならず、市井の人々の心をも大きく変貌させることが語られている。

 「歪んだ生活」から引用。

 戦争が末期に近づくにつれて、人の心はすさんできた。
 手近なところでは、商人の変貌に驚きというより薄気味悪さを感じた。
 長年親しくしていた八百屋があった。私の家は大家族で、毎日のように店主が大きな笊に野菜を入れて持って来て、時には私も母に命じられて自転車でその店に買いに行った。店主もかれの妻も、いつも笑みを絶やさず、まことに愛想がよかった。
 それが、野菜類が不足しはじめると、態度が一変した。店主が家に運んでくることなどなくなり、店に買いに行くと、全く面変りした夫婦の顔があった。
 店頭に並ぶ野菜を買おうとすると、
「あんたの家に売る物はないよ」
 と、店主が追い払うように手を振る。
 野菜を買える客は、なにか眼にできなくなった生活必需品を店主に渡していて、その上で金を払って買っている。私の家ではそのようなことはせず、長年のなじみ客であるかは無関係で私に荒々しい声を浴びせるのである。
 それを帰って母に告げると、母はうなずき黙っていた。
 八百屋だけではなく、食料品を扱う店は大同小異で食料品が全く枯渇すると、売る物がないためそれらの店は戸をとざした。

 吉村の話を聞いた母親が、ただうなずき黙っていたのは、八百屋を責めることができないと思っていたからだろうが、とはいえ、長年のお付き合いがある八百屋の態度からは、実に空虚感が漂ったにちがいない。

 八百屋が悪い、とはいえない。もちろん、何か特別な生活必需品を代金に上乗せして野菜を買う客も、責めることはできない。
 戦争が、悪いのだ。

 著者は、この後、次のような思い出も綴っている。

 集団化した人たちの中には、権力を手にしたと思うらしく、威丈高になる人もいた。
 隣組の防空訓練に病弱のため参加しなかった主婦を、組長がその家に行って非国民とののしった。五十年輩のその男の顔には、独裁者のような傲慢な表情が浮んでいた。

 吉村に限らず、このような“集団化した人たち”の行動の恐ろしさは、戦争を経験した多くの人が伝えてきたはずだ。

 しかし、今まさに、日本の政治状況はそういった独裁者の顔を持つ“集団化した人たち”が権力を握っている。

 前防衛大臣は、何ら反省の色も見せず、昨日、靖国神社に参拝した。

 靖国神社は、元々、戊辰戦争による官軍の戦没者のためにつくられた、
 しかし、明治維新の立役者の西郷隆盛は、その後の西南戦争で政府に敵対することになったので、靖国にいない。
 近頃、その西郷を靖国に、という動きがあるらしい。
 西郷は、そんなことは、まったく望んでいないだろうに。

 靖国神社については、兄弟ブログ「幸兵衛の小言」に、二年余り前に二度記事を書いたことがある。ご興味のある方は、ご覧のほどを。

2015年4月21日のブログ
2015年4月22日のブログ


 「戦慄の記録 インパール」の最後、実に貴重な記録を遺した齋藤博圀元少尉が、車椅子で登場した時は、少し驚いた。
 ご生存だったのだ。
 96歳の齋藤さんが、途切れ途切れに語った言葉。

「自分たちが計画した戦が成功した・・・・・・」
「日本の軍隊の上層部が・・・・・・」
「悔しいけれど兵隊に対する考えはそんなものです」
「知っちゃったら辛いです」

 齋藤さんは、泣いていた。

 三万人の犠牲者のほとんどは、戦闘ではなく、餓死や病死。

 戦地では、「大和魂」の名で狂気の沙汰が繰り広げられ、国内では、物資不足の中、人々の心が荒んでいく。

 それもこれも、戦争がもたらしたものである。
 どちらにも、“日常”はない。
 まさに、歪んでいる。

 平和な“日常”を暮らすことのできる幸福を、この時期につくづく感じる。

 しかし、その平和を乱そうとする、権力をもっていると錯覚している“集団化した”人たちの存在を、忘れてはならないだろう。

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by kogotokoubei | 2017-08-16 11:05 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(0)
 積ん読状態で、最近になって読んだ本について。

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吉村昭著『東京の戦争』(ちくま文庫)
 
 吉村昭の『東京の戦争』は、2001年に筑摩書房で発行され、2005年に文庫化された。

 昭和2年生まれの吉村は、執筆の動機を次のように書いている。

 数年前から、しきりに思うことがある。それは、東京というこの都会で「大東亜戦争」と称されたあの戦争に一個の人間として直接経験したことが珍しい経験なのかも知れぬ、と思うようになったのである。

 この本で有名(?)なのは、ノースアメリカンB25による東京への初空襲の思い出かもしれない。
 
 しかし、私はどうしても、落語や寄席に関わる部分が印象に残る。

 吉村昭の落語好きは有名で、学習院時代の昭和26年10月に 所属した文芸部の部費を稼ぐために大学寄席を企画し、志ん生・柳好二人会を開いたほどだ。
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 本書には、あの戦争の最中でも、落語好きな吉村の姿を偲ばせる思い出が語られている。

 「ひそかな楽しみ」の章から引用。
 戦争が激化するにつれて食料品をはじめ生活用品が欠乏し、まさに暗黒時代であったのに、旧制中学生であった私は、私なりのひそかな楽しみを見出していた。思い返してみると、不思議なことに妙に明るい気分で日を過していたような気さえする。
 四年前、中学生時代の思い出を集めた同級生たちの文集が、有志によって編まれたが、友人たちの文章を読むと、私のように映画館、寄席、劇場に足しげく通っていた生徒は稀であったのを知った。東大出身の安村正雄先生という恩師をかこんだ同級生の座談会も収録されていて、戦時下の辛かった思い出が語られているが、
「君たちがそんな辛い思いをしていた頃、吉村はせっせと寄席通いをしていたんだな」
 と、先生が笑いながら話したことも活字にされていた。
 私は、教師に知られぬように細心の注意をはらって寄席通いをしていたつもりであったが、先生はそれに気づいていたらしい。思い返してみると、悠揚とした感じがしながら何事も見ぬいているような、一瞬鋭い眼をする先生であった。

 吉村少年の寄席通いを知っていたにも関わらず、それを明らかにすることも、本人を叱ることもなかった恩師の安村先生の姿に、戦時下ならではの先生の配慮や、人間としての度量の大きさを感じる。

 生徒たちの身も明日どうなるか分からないだろう戦時下で、寄席好きな吉村少年の楽しみ奪ってはかわいそう、と先生は思われたのかもしれない。
 
 “悠揚とした感じがしながら何事も見ぬいているような、一瞬鋭い眼をする”先生という言葉からは、私の昭和30年代から40年代における小学校や中学校時代においても、一人か二人の先生の顔を思い出す。

 かつて、教師は尊敬されていたし、威厳があった。

 さて、教師論が主題ではないので、本書の引用を続ける。

 帰宅して制服、制帽をぬいで映画館にむかい、よく学校からの帰途、足をむけた上野の寄席「鈴本」へ行く時も、上野駅の一時預り所に制服、制帽、布製の肩からさげる鞄をあずけ、「鈴本」の木戸をくぐった。
 当然のことだが私が入るのは昼席で、客の入りはさすがに少く、それも老人ばかりであった。
 寄席は畳敷きで、木製の箱枕が所々に置かれていて、それに頭をのせて横になっている人もいる。噺に興味がないわけでなく、横になったままくすりと笑ったりしている。さすがに噺のうまい落語家が高座にあがると、体を起して聴いていた。
 文楽、金馬、柳好、文治、柳橋や林家三平のお父さんの正蔵などが出ていた。正蔵は派手な着物を着ていて噺も華やかで、私はその個性が好きであった。志ん生、円生は見たことがなく、どこか他の地に行っていたのだろうか。

 きっと志ん生と円生が満州に言っている時期なのだろう。
 
 私は、都内の寄席四席の中で、昔の佇まいを残している新宿末広亭がもっとも好きだ。次に、池袋の、高座と一体感のある空間が好みであり、鈴本は三番目。
 残念ながら、今の鈴本には吉村昭の思い出の中にある、古き良き寄席の空気がない。
 それは、時代の流れとして当然のことかもしれないが・・・・・・。

 さて、そのかつての鈴本での思い出について引用を続ける。

 若い落語家が噺を終った後、両手をついて、
「召集令状を頂戴いたしまして、明日出征ということになりました。拙い芸で長い間御贔屓にあずかり、心より御礼申し上げます」
 と、頭を深くさげた。
 寄席の老人たちが、
「体に気をつけてな」
「また、ここに戻ってこいよ」
 と、声をかける。
 落語家は何度も頭をさげ、腰をかがめて高座をおりていった。

 吉村は、この落語家の名も、戦後の安否などにもふれていないので、詳しいことは分からない。

 しかし、この高座のことが目に焼き付いているからこそ、書き残すことになったのだろう。

 私もこの文章から、その情景が目に浮かぶ。
 若手の高座では箱枕に頭を乗せて横になっていたはずの鈴本の落語通の老人たちが、この出征の挨拶の時には、きっと起き上がって声をかけたであろうことが察せられるのだ。
 
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by kogotokoubei | 2017-08-13 20:22 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(4)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛