噺の話

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落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。

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 雨で日曜恒例のテニスが休みになった。
 そうなれば、行きたかったこの二人会に出向かねばと、志ん輔の会、とされている携帯の番号に当日券の有無を確認のため電話したのだが、留守電になっていた。
 チケットが残っているかどうか携帯に返事が欲しいと伝言を残し、一枚位ないはずがないと、国立演芸場に向かった。

 この二人会は、二年前の4月にも聴いている。
2015年4月30日のブログ
 あの会では、龍志の『花見の仇討ち』の楽しさが格別だったし、志ん輔の『幾代餅』も良かった。

 その時の記事に、詳しいプロフィールを掲載したが、龍志は昭和45年4月に立川談志に入門し昭和51年7月二つ目昇進、志ん輔は昭和47年3月志ん朝に入門し昭和52年3月二ツ目昇進。
 龍志が少し先輩だが、前座、二ツ目を同時期に過ごした仲間といえる。

 さて、半蔵門駅近くで昼食をとったが、まだ携帯に返事はない。
 12時少し過ぎに会場に行くと、テーブルに龍志、志ん輔、それぞれのチケット販売窓口があった。
 どちらからでもチケットが確保できれば良かったのだが、今朝電話をしたこともあり、志ん輔の窓口でチケットを入手。私の好みの、少し後ろ目だが中央近くの席が残っていた。

 会場は、最終的には300席の客席が八割近く埋まっただろうか。

 それぞれ二席で、ネタ出しされている。

 開口一番を含め、出演順に感想などを記す。

橘家かな文『一目上がり』 (15分 *13:00~)
 四月の末広亭『たらちね』よりは良い出来だった。
 しかし、ネタのせいもあるかな。私は小さんのこの噺の音源が大好きだ。また、当代の噺家さんがこのネタを演じると、その出来はともかく、こういう噺を大事にしていることだけで、許してしまおう(?)と思いがちなのだ。
 かな文、師匠文蔵譲りの『道灌』のみならずこういう噺も磨き続けて欲しい。

古今亭志ん輔『三枚起請』 (36分)
 前座修業時代、龍志の奥さんの雑司ヶ谷の家にお邪魔してご馳走になったと思い出を語る。
 前夜は12時過ぎに寝たが夜中3時半頃にトイレに起きてから眠れなく、5時前には起床と、目をこすりながら話していた。
 口説き上手な男が羨ましいなど、全体で12分ほどのマクラの後、「三千世界の烏を殺し、ぬしと朝寝がしてみたい」の高杉晋作がつくったと言われる都々逸から本編へ。
 前半は、それぞれ喜瀬川から起請文をもらった三人をどう演じるかが肝要で、下手に演るとだれる恐れがある。
 志ん輔は、持ち味である軽やかなリズムを刻んで、伊之さん、棟梁、清公それぞれの物語を、過不足なく聴かせてくれた。
 軽い調子の伊之さんが、喜瀬川からもらった起請文での浮かれようが楽しい。起請文を棟梁に見せる際、「手を洗って、口を漱いで、身を清めて」から読んで欲しい、という科白も可笑しかった。
 また、もっとも可哀想な清公の妹を巻き込んでの物語は、涙なくしては聴くことができなかった^^
 後半、榎原へ向かう場面への切り替えは早く、このスピード感がこの人の持ち味。
 終盤は、喜瀬川の気丈夫さがしっかり描かれていた。志ん輔は、顔の表情が豊富なことが持ち味の一つだが、強面の女性もなかなかのものだ。
 「クリープを入れないコーヒー」なんてクスグリは、この日の客席を笑わせる。
 本編20分余りとはとても思えない中身の濃い好高座だった。
 今年のマイベスト十席候補とする。
 
立川龍志『藪入り』 (32分)
 自分が育った鐘ヶ淵や玉の井近辺では下水道ではなく溝(どぶ)で、リボン印の蠅取り紙が活躍した、という話で笑いが多い会場で、私を含め客の年齢層が分かる。鰻のタレのかかったご飯が好きだった、という話にも共感。
 父親の熊は病み上がりで、まだ体が本物ではない、という設定は、この噺では初めて。
 前半は、亀の帰りが待ち遠しい夫婦の会話が中心だが、三年会っていない子供への深い情愛が見事に描かれていた。亀が帰宅してからの騒動も、母親の急変ぶりを含めて楽しく聴かせた。
 サゲは工夫されていたが、私は、通常の「忠のおかげ」で良かったかと思う。
 ここで、仲入り。

立川龍志『酢豆腐』 (33分)
 旬の噺。どうしても文楽や志ん朝の音源を思い出すが、龍志はどうだったのか。
 まず、このネタについて。落語には、その昔の“町内の若い衆”を描いたものがいくつかある。この噺もその一つで、今で言えば、町内の集会場のような場所に泊った連中が、暑気払い、迎え酒で皆で一杯やろう、ということで盛り上がる。
 『羽織の遊び』や『寄合酒』なども同じ部類に入るが、私はこの手の噺は、実に貴重ではないかと思っている。今は失われた世界が、これらの噺にはあると思う。
 次のように、大きく三つの場面がある。
  (1)町内の若い衆たちの酒の肴の算段
  (2)半公への策略
  (3)伊勢屋の若旦那の奮闘
 (1)は、酒はあるが“あて”がない。かと言って宵越しの銭もなく、さて、酒の肴をどう調達するかという算段場面で、龍志はそれぞれ個性的な若者を、楽しく描き分ける。最後に熊ちゃんが、糠味噌桶の底に残った古漬けをきざんで、水で絞ってかくやのこうこにしようじゃないか、という妙案を出したのだ。しかし、誰も糠味噌桶に手を入れたがらない。龍志は、だれるのを避けたのだろう、親の遺言男は登場させなかったが、それも結構。
 そこに通りかかったのが、お馴染みの建具屋の半公ということで、場面は変わる。小間物屋のミィ坊が半公に惚れているという作り話で、のぼせた顔が次第に崩れ、でれでれになっていく半公の姿が、実に可笑しい。結局、金を巻き上げられてしまった上に、酒も飲ませてもらえなかった半公の可哀想なこと。「お前たちは山賊か」で笑った。
 さて、前の晩残った豆腐を、与太郎が釜の中に入れていたから、腐って黄色いカビが生えていた。捨てようとしたものの、そこに通りかかったのが伊勢屋の若旦那。しんちゃん(若旦那は、すんちゃん^^)が一計を案じて、若旦那をおだてて腐った豆腐を食べさせよう、というのが最後の場面。半可通、知ったかぶりを意味するこのネタの題の主役登場だ。昨夜は吉原で「しょかぼのべたぼ」だったとのろける若旦那。懐石料理のようなものは食べ飽きた、近頃はなるべく珍らかなる物を食べるようにしていると若旦那が言うものだから、ついに若い衆たちの格好の餌食となってしまうのだった。
 「その黄色いところが、いいんでげす」と一匙食べさせられた若旦那の苦悶の表情も、大袈裟に過ぎず結構だった。
 上方に移って『ちりとてちん』になったが、それは、知ったかぶりを懲らしめる(3)の場面が強調された噺。『酢豆腐』には(1)や(2)の楽しさもある。それだけ難しいネタとも言えるわけで、なかなか若い人には手におえないだろう。
 龍志の高座、それぞれの場面の楽しさが生き生きと表現され、夏場の江戸の情景がくっきり浮かんだ。迷いなく、今年のマイベスト十席候補とする。
 
古今亭志ん輔『柳田格之進』 (47分 *~16:01)
 マクラなしで本編へ。
 この人のこの噺では、2013年4月、横浜にぎわい座での「志ん輔三昧」での高座が印象深い。
2013年4月12日のブログ
 その年のマイベスト十席にも選んでいる。
 それだけに、私自身の聴き方も、つい厳しい尺度にならざるを得ないのだが、さて、今回はどうだったか。
 三年前の高座は、それまでの師匠の呪縛から解き離れつつある、ある意味歴史的な高座だったような気がするので、比べてはいけないのだろう。
 途中にやや長めの間があったのは、寝不足気味なのが影響していたか。
 地で格之進の人物像を語り、以前より早めに十五夜の場面となったように思う。
 中盤の見せ場は、格之進と娘おきぬの、あの場面。
 格之進が切腹を覚悟し、おきぬに叔母の家に手紙を届け、久し振りだから泊まってきなさい、と言った後、父の覚悟を察して、「父上、お腹を召されてはなりませぬ。その五十両、私が廓に身を売ってつくります。だから、父上は生きて嫌疑を晴らしてください。おきぬは・・・武士の娘です」と言う場面、私は好きだ。
 その後、万屋の暮れの煤掃きでの場面の“動”から、正月に湯島切通しで番頭徳兵衛と格之進が対面する場面の“靜”の場面までは、だれることなく聴かせる。
 しかし、三年前には、湯島に降る雪が見えたのだがなぁ。
 万屋での最後の幕、源兵衛と徳兵衛の命を惜しまぬ主従の真心に打たれた格之進が碁盤を真っ二つにし、「柳田の堪忍袋の一席」でサゲる部分、少し言いよどんだ。
 決して悪い高座ではない。三年前の高座が良すぎたということだろう。やはり、寝不足もあって、二席目の長講はきつかったのかもしれないなぁ。


 一階喫煙室で一服しながら携帯のスイッチを入れると、留守電とショートメールで、今朝の電話に返事ができなかった丁寧なお詫びが入っていた。
 また二階に戻り、志ん輔の奥さんに、無事お聴きすることができたことの伝言をお願いした。

 外に出るともう降りそうな空ではない。
 この二人会に来れたことを、朝の雨に感謝しながら地下鉄の駅へ。
 帰宅後は犬の散歩の後に晩酌。
 あてに、かくやのこうこはなかったが、つい飲み過ぎてブログを書き終えることはできなかったのであった。
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by kogotokoubei | 2017-07-31 12:22 | 落語会 | Comments(4)

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矢野誠一著『落語長屋の商売往来』(文春文庫)

 矢野誠一さんの『落語長屋の商売往来』は2003年文春文庫からの発行されたが、初版は、私が読んでいる白水社から1995年に『落語商売往来』として発行された単行本。
 元は、『小説新潮』に1992年3月号から94年12月号まで連載された「落語国商売往来」である。

 その昔の商売のことや、それを題材とするら落語のネタ、そして、その噺を得意にしていた噺家の思い出などが書かれていて、商いを扱う、飽きない本だ。

 「店構え」「小商い・手職人」「飲物・食物」「遊楽・乗物」の四つの章に分かれ合計34の商売について書かれている。

 「飲物・食物」の章の最後に「鰻屋」がある。

 土用の丑の日は、私は鰻を食べない。
 
 なかでも、この時期に大量に消費される中国産の鰻は、成長ホルモンによる危険性が高いが、それについては、別途書くことにして、国産だろうと、土用の丑の日に私が鰻を食べない理由がある

 鰻を楽しむなら、混んだ店で急いで食べてはいけないのだよ。

 矢野さんの本から引用する。 

 よく「鰻屋でせかすのは野暮」というのは、いい鰻屋は客の注文を受けて初めて鰻を割くため出来あがるまでにたっぷり時間がかかるからである。凝った客になると「魚(うお)を見たい」などと調理場にはいりこみ、床板をあげさせ、文字通りの鰻の寝床をのぞきこみ、あれとこれを焼いてくれと注文をつけたものだ。鰻の御指名だ。『素人鰻』にも、そんな客が出てきて、
「あ、職人もいいが魚もいいや、そこの、ちょっとこう頭を持ちあげましたね、そいつをひとつ上げてみておくんなさい」
 などとやっている。昨今では、鰻を割いて串をうつまでの仕込みをすませておいて、注文をきいてから蒸しにかけるなどはまだ叮嚀なほうで、すでに蒸しあがったものをすぐに焼いて客席に出す店が多いから、ゆっくりと、おこうこうなんかでつなぎながら出来てくるのを待つ楽しみを味わうのも、これでなかなかむずかしい。

 まったくご指摘の通りで、今では、野暮なのは客ばかりではなく鰻屋にも当てはまる。

 丑の日など、ひどい店では先に焼いておいた鰻を、注文の後でレンジでチン、で出すのではなかろうかと疑っている。

 “食文化”、という言葉がある。

 文化人類学者の梅棹忠夫は、「文明は腹の足しになるもの、文化とは心の足しになるもの」という名言を遺した。

 食事は、たしかに腹の足しにもなるから、その面では“文明”的である。
 腹の足しも、もちろん大事だ。
 しかし、食事を、心の足しになる“文化”としても楽しみたいではないか。

 おこうこ、あるいは、骨せんべいなどを肴に、銚子の二、三本で気のおけない友人との会話を楽しみながら、焼き上がるのを待つのが、鰻という食のの楽しみ方なのだ。

 ということなど思いながら本書を読んでいて、こんな文章に出会った。

 『素人鰻』に登場する、神田川の金のことにふれた後の部分だ。

 この神田川の金にはモデルがいたそうだが、晩年の桂文楽からゆかりの明神下神田川の座敷で、何度か鰻をご馳走になったものである。あずけてあるスコッチをお茶で割ってのむのが文楽の流儀で、こちらには無論辛口の酒をすすめる。藝談やら懐古談、ときには猥談までとび出した、いまにして思えばあれは至福のひとときであった。そんな席で、
「近頃、耳がめっきり遠くなりまして」
 とぽつりといったあと、こうつづけたのが忘れられない。
「なに、きこえなくなったってかまやしません。この年齢(とし)ンになりますと、たいていのことはきいてしまって、いまさらどうしてもきかなきゃならないようなことは、ほとんどない」
 そうして、こうもいった。
「きこえなくても、きこえたふりをしてしゃべってますとね、どうしても返事をしなきゃならないときがある。そんなときは『近頃はたいていそうだよ』と、いってやるんです。ほとんどこれで用が足ります」
 すごい老人の知恵だと思う。
 年齢をとると耳が遠くなるのは肉体的に機能も老化するためであろうが、そうではなくて、きくべきことをすべてきいてしまった必然の結果だと考えれば、若いひとたちの会話にはいっていくことができずにいらいらすることもあるまい。「近頃はたいていそうだよ」のひと言でかたがついてしまうというのも、なかなかにうがった老人ならではの感性である。
 結構名の通った鰻屋で、思いもかけない早さで鰻が出てきたときなど、ふと耳もとに、
「近頃はたいていそうだよ」 
 とささやく、なつかしい文楽の声を感じたりするのだ。

 こういう逸話は誰にでも書けるものではない。

 私が矢野さんの本が好きなのも、こういう文章の発見があるからだ。

 文楽の、たいていのことはきいてしまった、という言葉は深く、重い。
 なかなか、そんな境地になれないものだと思う。

 そして、きこえない時でも、「近頃はたいていそうだよ」で、ほとんど用が足りる、という老人の知恵にも驚く。

 文楽が「近頃はたいていそうだよ」という答えで話しに齟齬がないということは、「A」のことが話題になっているが、それは「B」でも「C」でも、他にもあてはまるよ、ということだ。

 本書のこの部分は、『小説新潮』の1994年7月号に掲載されているが、もちろん、矢野さんが文楽との至福の時を過ごしていたのは、昭和40年代前半、1960年代半ばのことと察する。

 しかし、今でも、文楽の知恵とも言える言葉、使えそうだなぁ。


 「可哀そうですねぇ、電通社員の過労死は」→「近頃は~」
 「師匠、ひどいですねぇ、文科省は」→「近頃は~」
 「日本の政治家は、昔に比べて品がなくなりましたねぇ、師匠」→「近頃は~」

 なるほど、そのひと言で、用が足りるなぁ。

 文楽の言葉が示唆するのは、周囲で交わされる会話の内容が貧困であるということなのか、あるいは、企業人や政治家、役人が総じて堕落してきたということなのか・・・・・・。

 閉会中審査の内容に呆れ、政治のことをいったん忘れようと、今年は二日ある土用の丑の日に挟まれた日に鰻関係(?)の本をめくっていて、結局は、こんなことを思っているのだった。

 そんなことでいいんでしょうかね、文楽師匠?

 近頃はたいていそうですよ!

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by kogotokoubei | 2017-07-27 21:53 | 落語の本 | Comments(0)

八五郎 いますか?
ご隠居 おや、八っつぁんじゃないか、お上がりよ。
八五郎 言われなくても、上がらせていただきやす、よっと。
ご隠居 どうした、今日も、やけにご立腹じゃないか。
八五郎 そりゃぁそうですよ、ご隠居。見ましたか国会。
ご隠居 あれか。国会閉会中審査、ってやつのことだね。もちろん、見たよ。
八五郎 あっしは分かりました。これから都合が悪いことは、「記憶にございません」
    で済むんですぜ。
ご隠居 経産省の柳瀬唯夫審議官が、七回も言った勘定になるようだ。
八五郎 東大法学部出て役人になった秀才は、そんなに記憶力が悪いんですか。
ご隠居 まさか、本当に記憶にないわけがなかろう。
八五郎 二日目に小池の旦那が言ってましたが、なんでまたカケ蕎麦の旦那が、
    三人もの大臣に、ああも簡単に会えるんでしょうねぇ。
ご隠居 普通は、そうはいかんなぁ。どう考えても、「会ってくれ」と上から
    言われたと思うのが、常識だろうな。
八五郎 そりゃそうですぜ。
    カケ蕎麦の旦那とアベの旦那、何度も食事やゴルフを一緒にしていても、
    獣医学部の一件は、まったく話していないと言ってますが、そんなこと
    誰が信じますかってんですよ。
    そうそう、なんか、唐土(もろこし)の難しい言葉で出てきましたね。
ご隠居 あぁ、「李下に冠を正さず」のことだな。
八五郎 そうそう、その「りか」ですわ。あれはカケ蕎麦旦那んとこの大学の名前の
    理科ですか?
ご隠居 そうじゃないよ、八っつぁん。李下だ。
    李下の李は、すもものこと。李下は、すももの樹の下、という意味だな。
    冠は帽子とでも思いなさい。
    だから、すももの樹の下で、帽子がずれても直すようなことをすると、
    すもも泥棒と間違われるから、そういう紛らわしいことはするな、という戒め
    だなぁ。この言葉の前には、「瓜田に靴を容れず」というのがある。
    こっちは、瓜畑で靴が脱げても履き直すようなことはするな、瓜泥棒と間違
    われるぞ、という教訓だ。
八五郎 へぇ、そうなんですか。だったら、アベの旦那は、カケ蕎麦の旦那と、
    あまりゴルフやったり、飯を一緒に食っちゃいけねぇでしょう。
    唐土には「君子危うきに近づかず」ってぇのもあるじゃねえですか。
ご隠居 いいこと言うじゃないか。その通りだよ、八っつぁん。
八五郎 人の上に立つ者が、自分のダチが儲かるように口入れしていると勘ぐられる
    ようなことは、しちゃいけねぇですよ。
    モロコシの言葉を借りるなら、ダチならこそ「加計の口入れをせず」でさぁ。


 オソマツ・・・・・・。

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by kogotokoubei | 2017-07-26 22:36 | 八五郎とご隠居 | Comments(2)
 小松左京が亡くなったのが、六年前、2011年7月26日。
 あの、3.11から数ヶ月後の旅立ち。
 今年は、七回忌だ。
 昭和6(1931)年1月28日生まれ、満80歳での旅立ちだった。

 行くことはできなかったが、先週22日土曜には、深川江戸資料館で、「小松左京七回忌の集い 11作品一挙上演」という会があった。
「和の輪」サイトの該当ページ

 今年1月22日のNHK FMの「トーキング ウィズ 松尾堂」は、「SFの巨人・小松左京を語る」と題し、長年小松の秘書を務められた乙部順子さんが出演なさっていたが、この深川での企画のことをおっしゃっていたなぁ。

 小松左京という人は、なかなか簡単には説明できない人、かもしれない。

 あまりに器(体も含め)が大きすぎて、単に「SF作家」とだけでは形容できない人ではなかろうか。

 1970年の日本万国博覧会や、1990年の国際花と緑の博覧会でプロデューサーも務めた。
 博識ぶりや、人を惹きつける魅力、包容力・・・・・・。
 やはり、天才だったと思う。

 私自身は、それほど小松作品を読んではいない。
 星新一、筒井康隆と「SF御三家」と呼ばれたが、筒井康隆ファンだった私だが、小松作品は、せいぜい、10冊ほど読んだ程度。
 ちなみに、学生時代に熱中していた筒井康隆の本は、単行本を含めて相当数あったのだが、大学を卒業する際、下宿の家賃の滞納分を支払うために、段ボール四箱分ほどを、泣く泣く古書店に手放した。あの時は、カセットデッキ、アンプなどのオーディオやギターも友人に買ってもらったなぁ・・・・・・。

 思い出話は、これ位で。
 
 先日、書棚を見ていたら、『ゴルディアスの結び目』(角川文庫・昭和55年7月10日の初版)が見つかったので、再読した。
 1月のラジオで、乙部さんが推奨本として名を挙げた作品の一つだったはず。
 ブラックホールがテーマの短編だが、今読んでも、楽しめた。

 そうそう、先週7月20日の夜、NHK BSプレミアムの“コズミック フロント☆NEXT”の「100年の謎 ブラックホールは存在するか?」を見ながら、『ゴルディアスの結び目』を思い出した。

 ちなみに、同番組は、8月2日に再放送されるので、ご興味のある方はご覧のほどを。
NHKサイトの該当ページ
 

 小松左京は米朝と懇意で、二人のアドリブによるラジオ番組もあった。
 もちろん、落語も好きだった。
 落語のネタを元にした短編集『明烏―落語小説傑作集』(集英社文庫) も出している。

 それらのことに関し、小松左京が語っているコラムを発見。
 2006年8月11日付け朝日新聞の「ラクゴロク」というコラムにおける、小松左京へのインタビュー記事だ。
朝日新聞サイトの該当コラム

 タイトルは「落語とSFの意外な関係」。

 映画「日本沈没」のリメイクに関する前半は割愛して、落語に関する部分を中心に引用する。

――落語好きだそうですが、落語を聞き始めたきっかけいうのは何やったんですか?

 小学校の頃によく読んでた昔の漫画、幼年倶楽部、少年倶楽部とかに短い笑い話が載っててね、「この帽子ドイツんだ? オランダ」いうようなね。そういうのが好きでよく覚えてたな。それと親父が歌舞伎や寄席が好きでね、面白い親父やった。宴会なんかがあって遅く帰ってくると、その宴会で歌ってた唄なんかを教えてくれた。例えば中抜きの童謡とかね。「もしもし亀さんよ。世界にお前ほど。歩みのものはない。どうして遅いのか」。こんな風に中だけ抜いてあんねん。それから、浦島太郎の替え歌で、「むかしむかしへその下。助けた亀のへその下。竜宮城のへその下。絵にも描けないへその下。乙姫様のへその下?」……とかね。小学校の時よくこんなん覚えて歌ってな、先生や教育ママやった母親からよう叱られた。

 こんな変わった子供やったし、兄貴が落語好きやったから落語聞くのも早かったな。で、小学校2年ぐらいの頃、JOBK(NHKラジオの大阪放送局)で金語楼(きんごろう)さんの落語を初めて聞いた。これは金語楼がほんまに兵隊さんにとられた時のことを落語にした"兵隊落語"っちゅう国策落語やったな。当時は夜の9時以降にしか落語は流れてへんかったから親に隠れて聞いてた。それから「寿限無(じゅげむ)」聞いて一生懸命それを覚えたりもしたな。

 ――今までに落語をモチーフにした作品いうのはありますか?

 「たちぎれ線香」を素材にした「天神山縁糸苧環(てんじんやまえにしのおだまき)」とか、「反魂香(はんごんこう)」を素材にした「反魂鏡(はんごんきょう)」。それから「たぬき」「明烏(あけがらす)」みたいに題名をそのまま使ってるやつもあるな。処女長編作が「日本アパッチ族」いうてね。この話の中に、鉄を食って鋼鉄人間になっていくいうところがあるんやけど、これなんか「蛇含草(じゃがんそう)」にちょっと似てるかな。

 ――落語とSFいうのは似てると思わはります?

 似てると思うな。落語にも奇抜な発想の話が多いし。僕は「地獄八景亡者戯(じごくばっけいもうじゃのたわむれ)」が大好きなんやけど、あれなんかこの世でない"地獄"を描いたSFやし、「月宮殿星の都(げっきゅうでんほしのみやこ)」なんてちょっとした宇宙旅行みたいなもんやな。あと「鷺とり(さぎとり)」。鷺をいっぱい捕まえて帯にくくり付けといたら、一斉に羽ばたかれて空を飛んでしもたなんてアホな話やけど、これもSFかも知れへんな。でも世界中どこに行ってもSFはあるけど、落語みたいな1人がしゃべる滑稽話いうのはね、世界中探してもちょっとあれへんのちゃうかな。欧米なんかでコメディアンがちょっと軽口話やるみたいなんはあるんやけどな。「地獄八景亡者戯」なんて全部やったら1時間以上もかかる。こんな長い話を1人でやる芸は世界中どこにもあれへんと思うな。

 そういうたら星新一も落語が好きやったな。おもろい人でな。1963年にSF作家クラブいうのを星さん達とこさえたんや。創立メンバーは僕ら以外に、半村良とか光瀬龍、あと手塚治虫、それに筒井康隆とかね。それでこれから会員が増えるやろうと思てな、SF作家クラブの入会資格を決めよういうことになったんや。そしたら星新一がね、「宇宙人はダメ。死んだ人はダメ。これは競馬に夢中な奴が中におったからやけど、馬はダメ。4番目が星新一より背の高い人はダメ。筒井康隆よりハンサムな人はダメ。ほんで小松左京より重い人はダメ」言いよんねん。それでな、一回星さんより5センチほど背の高い人が入ってきたんや。その時星さんがどない言うたと思う? 「足をツメろ!」やて。ひどい話やろ。

 ――米朝師匠やその一門の方の落語会の時はよう楽屋にいてはりますなぁ。

 僕が落語聞き始めた頃は、JOBKしか落語をやってなくて、流れてたんは東京の落語ばっかりやった。だから最初は志ん生(しんしょう)さんのファンやったんや。その後、昭和30(1955)年頃、NHKより先に民放が上方落語を流すようになってね、それ以来、上方落語も聞くようになった。東京の落語と違って上方落語はお囃子が入るからにぎやかやし、やっぱり関西人の僕には大阪弁が合うてたんかも知れんな。「上方落語もおもろいな」と思て、米朝(べいちょう)さんとか好きになった。忘れられへんのが昭和46(71)年に、米朝さんがサンケイホールで独演会開くいうのを聞いて見に行った時のことや。その当時、落語やるいうたら普通は寄席やった。200人入ったら満席っていうような寄席でやっとったんやね。それを1000人以上客入れて、効果使って、マイク使って……「そんなん無理やろ」と正直思ってた。ところがこれがものすごかった。1000人以上の客が一体になって笑たり泣いたりしててな、芝居や映画の比やなかった。あまりにも良かったんで賞賛より先に危機感を感じたんや。「こらえらいこっちゃ。頑張らんとSFが上方落語に負ける!」とね。

 ――確か米朝師匠とラジオ番組やってはりましたよね。

 昭和34(59)年からラジオ大阪で「いとし・こいしの新聞展望」の台本書きをやってたんで、米朝さんと初めてあったのは、産経会館やったと思う。追っかけで楽屋にちょくちょくおじゃまするようになって、一緒に飲みに行ったりもするようにもなってきてな、いろんな話で盛り上がってたんや。そしたらそこにおったラジオ大阪のスタッフが、2人の話が面白いと言うんで番組作ろうって話になった。でもなかなかタイトルが決まらんかったんでな、それは番組が始まってから公募して決めようってことになったんや。それで当時「題名のない音楽会」って番組があったんで、それをちょっと拝借して「題名のない番組」ってタイトルでとりあえずスタートした。そしたら3回ぐらいやった頃かな、スポンサーに「もういいかげん題名決めてくれ」と言われた。でもそれほどええタイトルも送られて来んかったし、「もうこのままでええか」ということで正式に「題名のない番組」に決まった。昭和39(64)年から4年半ほどやったかな。

 ――反響はどないでしたか?

 リスナーから葉書もらってフリートークする、いわゆるディスクジョッキーみたいなんがまだおらへん時代にそんな番組始めたんや。それと当時はまだ深夜放送なんてなかったから、夜の11時から放送して聞いてくれる人なんかおんのかなと思ってた。けど、ふたを開けてみたらぎょうさん葉書が送られて来た。関西はもちろん、あの頃、ラジオ大阪が1380キロサイクルでね、短波に近いもんやから電波がよう飛んでね、東京とか九州とか日本のあちこちから葉書が来よんねや。今度は学生のリスナーが増えすぎて心配になった。しかも、大阪の北野高校とか天王寺高校とか東京の進学校とかの生徒がこんな時間帯にね、一番受験勉強やらないかん時にね、この放送聞いてたら日本の未来を危うくするんじゃないかと思てね、当時米朝さんと心配してた。

 ところがそれから20年くらいたったある時ね、SFについて話してくれと大蔵省から呼ばれたことがあったんや。で、東京に行ったら大蔵省やからね、いかにもキャリアらしい人が車で迎えに来てくれた。車に乗ったらその中の1人が「僕、『題なし』のファンやったんです。葉書も2回採用されたんですよ」て言いよった。そしたらその横に乗ってた彼の先輩がね、「お前はたかが2回じゃないか。俺は3回採用されたんだぞ」って自慢しとった。僕らのラジオを聞いてた奴が、大蔵省のエリートになっとったんや。しかも、「投書が採用されたことを誇りに思ってる」言うてた。これはうれしかったな。

 ――米朝師匠以外に仲良かった落語家さんいうたらどなたですか?

 枝雀(しじゃく)と吉朝(きっちょう)やな。どっちも早うに亡くなってしまったんやけど、ほんまに残念な話や。吉朝とは米朝さんが関西テレビでやってた「ハイ土曜日です」って番組でワンコーナー持ってた時に一緒に仕事をしてたんや。べかこ(現南光)と吉朝の2人で、「東の旅」とか「西の旅」に出てくるところや、落語や芝居の舞台になっているところを実際に歩いたりする「上方芸能散歩」ってコーナーやったかな。枝雀の方はよく落語会にも行ったし、ABCの「枝雀寄席」にゲストととして出演もしたな。いつも僕は彼のことを「枝雀ちゃん」って呼んでてね。これは後で聞いた話なんやけど、本人はそれを嫌がってたらしいな。理由は僕が早口やから、「枝雀ちゃん」が「しわくちゃ」に聞こえるらしくてね。「僕はしわくちゃやない!」って怒っとったらしいわ。ゴメンな枝雀ちゃん。

 落語とSFとの類似性、まったく同感。

 星新一の言葉、笑えるねぇ。
 落語が好きだったことが、こういう一言からもうかがえる。
 筒井康隆も、大の落語好き。昨年2月、米朝との対談による『対談 笑いの世界』の引用を含む記事を書いたが、あの本を読めばよく分かる。
2016年2月18日のブログ

 放送当時は聴いたことがないのだが、ある方のご厚意で、「題名のない番組」(通称「題なし」)の最終回の音源を聴くことができた。
 なんとも楽しい内容で、アシスタントの女性は、米朝と小松左京の知的漫才とも言える掛け合いに終始笑いっぱなし。もちろん、聴き手の私もなのだが。
 また、聴取者からのハガキの内容が、知的レベルが高く、かつエスプリの効いたものであることに、驚く。そのハガキを題材に、縦横無尽の二人の会話が続くのだ。

 なるほど、大蔵省でかつての番組のファンと出会うのも頷ける。

 霞が関の役人には、高校時代にそういう“良質な”番組を聴いていた、“真っ当な”人がいたのである。
 それに比べて・・・・・・。

 
 小松左京が、「枝雀ちゃん」が「しわくちゃ」に聞こえて怒っていた枝雀への詫びを直接言えなかったようなのは残念だが、最上級と言える表現で枝雀追悼の言葉を残している。

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 それは、東芝EMI(現ユニバーサル・ミュージック・ジャパン)の「枝雀落語大全」第十六集(『蛇含草』『質屋蔵』)に収められている、小松左京のメッセージだ。

 全文、引用する。

「二十一世紀の落語に革命をおこそうとしていた『すっとび』天才を悼む」
                                  小松左京

 桂枝雀さんの師匠の桂米朝さんとはずいぶんと古いお付き合いになります。昭和三十九年の秋からラジオ大阪で『題名のない番組』が始まって、米朝さんと泥沼のような付き合い(笑)になる以前から既によく知っていました。お弟子さんである枝雀さんは、入門当時、桂小米という芸名だったと思うな。「小米ちゃんは変った子だな」とすごく印象に残っています。米朝さんの落語をたくさんきいているうちに『地獄八景亡者戯』に出会い、私は一種の挑戦状をうけたように愕然といたしました。これは私たちのはるか昔の先輩が作りあげたSFの世界にほかなりませんでした。「SFなんて落語みたいなもんじゃないのか」という意見に、「そうや、そやから現代SFは、百年以上前にできた古典落語の“雄大さ”に負けてられん」といった私ですが、正直、SFは、古典落語、特に上方古典落語に負けている、がんばらねばと思っていました。小米時代の枝雀さんにラジオ大阪のサテライト番組に呼ばれました。そこで、「先生、SRというのをやりたいんです」と彼はいいます。「なんや、それは」といったら、「SF落語」のことですねん、というのです。彼星新一さんのショート・ショートにかなり感動していて、それで、私の『蜘蛛の糸』など、二、三本のショート・ショートを「小咄」とはまたちがった味の「SR」にして、高座にかけてくれました。SRの中で『犬』という作品がありますが、これを聞いた時には、「こらエライこっちゃ。ひょっとしたら彼は天才ではないか」と思い出した。星さんのショート・ショートは小咄の味ですが、それから小米さんがSRを作ったのはショックでした。枝雀さんは師匠の米朝さんからきっちりと上方古典落語を継承していましたが、だんだんと「彼は米朝さんとは違う、上方落語をとんでもないところへ飛躍させる一種の天才かも知れない」と感じられはじめました。米朝さんにも、「彼は化けまんな」と話した。「そうですねん」と米朝さんもうれしそうにいう。“化ける”というのは、忠実な古典落語の継承者が突然、弾けるように芸の花を咲かせるということです。古典落語でも彼が演じると他とは感じが違う。『こぶ弁慶』あたりでも、米朝さんとはまた違う面白さ。弁慶のこぶが口をききだす。それが一種のヤタケタなキャラクターとして目の前へ浮かんでくる。枝雀さんやなしに、もうこぶが話しているみたい。『蛇含草』でも彼が演じると不思議な味になる。『寝床』の小僧でも、「そこがわいの寝床でんねん」という丁稚がホンマに可哀そうで、おかしいけど、もらい泣きしそうになる。晩年の枝雀さんの自作の『いたりきたり』を聞いた時も、原稿の締切りがあるにもかかわらず、家へ帰って仕事に手がつかず、「枝雀ちゃん、エライもんつくりよったなァ」と思った。枝雀落語には超自然的というか、一種の狂気というものがあった。初代の桂春團治や松竹新喜劇の藤山寛美同様にとんでもないやつが出てきたという感じであった。宇宙人が出てくる新作物語を書くという彼との約束が果たせなかったのが残念です。(作家)


 枝雀落語大全の第十集に『地獄八景亡者戯』の前篇・後篇と一緒に、二分にも満たない『SR』が収められてて、『犬』も入っている。

 私も最初に聴いた時は、結構衝撃を受けたなぁ。

 そして、私のような巷の落語愛好家のみならず、SF界の天才といえる小松左京が、桂枝雀に対して、これだけの思いを抱いていたのだ。

 私は、天才とは、努力とは無縁ではないと思う。
 その常人を上回る才能が、これまた人並みはずれた努力を土台にして開花した人なのだと思う。

 その意味で、小松左京も、桂枝雀も、天才なのだろう。

 天才は天才を知る、ということか。

 小松左京の命日を前にして、この天才作家のこととともに、桂枝雀という天才落語家のことにも、思いが至るのだった。
 

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by kogotokoubei | 2017-07-24 21:20 | 落語好きの人々 | Comments(2)
 いろんな“記念日”があるものだが、今日7月21日が、古今亭志ん生のある記念日であることを、文春オンラインで知ることになった。

 近藤正高さんという若手のライターの方が、結城昌治の『志ん生一代』から拾った逸話を元にして書いた記事を引用したい。
文春オンラインの該当記事

 いまから70年前のきょう、1947(昭和22)年7月21日、戦時中に満州(現在の中国東北部)に渡っていた落語家の古今亭志ん生(5代目)が、東京・日本橋の寄席・人形町末広に帰国後初めて出演した。

 結城昌治『志ん生一代』によれば、大の酒好きだった志ん生は、この日も朝から飲んでおり、昼席のあと贔屓に呼ばれてまた飲み、夜席のトリに上がるときにはそうとう酔っていたという。それでもこのときの演目「ずっこけ」は酔っ払いの噺とあって、無事に務めた。彼が伝説に残る“失態”をしでかしたのは、このあとの大喜利での席だった。

 大喜利では、客席から帽子やマッチなどを借り、落語家たちがそれらの品をシャレに織り込んで噺をつなげ、最後の演者がサゲをつけるというお題噺が披露された。ところが、志ん生まで番が回ってきたところで、噺が止まってしまう。下を向いたきり顔を上げないので、最初はどうしゃべるか考えているのだろうと皆は思ったが、そのうち軽いいびきが聞こえてきた。何と、志ん生は酔っぱらって、坐ったまま眠ってしまったのだ。客にもやがて気づかれ、笑い声が起こる。共演していた桂文楽(8代目)があわてて「志ん生は満州の疲れがとれておりません。なにとぞご勘弁のほどを――」と頭を下げると、客は文句も言わず、「ゆっくり寝かしてやれよ」という声がいくつもかかったという(結城昌治『志ん生一代(下)』小学館)。

 戦時中、旧満州へ慰問のため三遊亭圓生(6代目)とともに渡った志ん生は、その後、ソ連軍の侵攻で九死に一生を得る。終戦から1年以上経った46年末にようやく引き揚げ船に乗りこみ、この年1月に帰国した(圓生は3月に帰国)。戦前からの貧乏暮らしで働かねば食っていけず、帰国後6日目にして、体がまだふらついたまま新宿末広亭に出演。3月31日には上野鈴本で独演会を開き、昼も夜も大入の客を集めた。帰国後の志ん生は「芸が大きくなった」と言われ、人気も高まっていく。「大きいやかんは沸きが遅い」と大器晩成を自認した志ん生は、57歳にして大輪の花を咲かせたのである。


 志ん生が高座で寝てしまって、前座が起こそうとすると、客席から「寝かせてやれ」と声がかかったという逸話は、少なくない。
 しかし、大喜利の途中と言うのは、他にはないのではなかろうか。

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 この部分、この記事の補足として、『志ん生一代』から、引用する。

 その晩のお題ばなしは志ん生が真ん中で、左右に文楽、馬楽、円太郎、それと志ん朝からもとの芸名むかし家今松に改名した清が坐っていた。即席で落語をつくるといっても、およその定石さえ心得ていればそう難しいことはなかった。
 ところが、円太郎から馬楽まではいつもの通りで快調に運んだが、志ん生のところではなしが止まってしまった。下を向いたきり顔をあげないのである。
 初めは、誰しも出題の品をどう工夫して喋るか考えているのだろうと思っていた。
 そのうち軽い鼾が聞こえてきた。酔っていたので眠くなり、坐ったままで眠ってしまったのだ。
 びっくりしたのは隣にいた清だった。文楽や馬楽も驚いたにちがいない。
 間もなく満員の客にも眠っていることが分かって、あちこちで笑い声がした。
 おそらく満州で苦労した疲れがどっと出たのである。
「志ん生は満州の疲れがとれておりません。なにとぞご勘弁のほどを・・・・・・」
 文楽があわてて頭をさげた。
 それに対して、客は文句を言わなかった。
「ゆっくり寝かしてやれよ」
 という声がいくつも掛かった。
 清は父を抱きかかえて楽屋へ下り、それからお題ばなしのあとをつづけた。


 「満州の疲れがとれておりません」と頭を下げた文楽の言葉は、決して、その場の洒落ではなく、本音の部分があったと思う。

 満州の疲れは、生半可なものではなかったはずであり、文楽はそれを十分に感じていたに違いない。

 『志ん生一代』については、拙ブログを初めて間もない、2008年10月13日に書いた。
2008年10月13日のブログ
 また、2012年には、祥月命日の翌日に、「替わり目」という章を中心に記事を書いた。
2012年9月22日のブログ

 しかし、この記事を読むまで、戦後、人形町末広復帰初日の大喜利での失敗談は、忘れていた。

 それにしても、この記事の写真が、実にいいね。

 りん夫人を中央に、左に志ん生、志ん朝、右に馬生・・・みんなが笑っている。
 馬生の隣は馬生夫人で、膝の上にちょこんと座っているのは、池波志乃に違いない。
 右端は、長女の美津子さんだろう。

 しかし、昭和22年の志ん生の姿に近いのは、2012年の祥月命日の記事で紹介した、昭和24年公開の「銀座カンカン娘」で『替り目』を披露している、もっと痩せた姿に近いと思う。
2012年9月21日のブログ

 志ん生の一般的なイメージは、文春オンラインに掲載されているような、晩年の丸みを帯びた好々爺然とした姿だろう。
 私は、「銀座カンカン娘」で、満州から帰国後二年経っての表情を最初に見て、少なからず衝撃を受けた。

 あんなに、痩せていたんだぁ・・・・・・・。

 志ん生と円生の満州行脚は、志ん生への聞き書き本や『志ん生一代』でも書かれているし、井上ひさしの『円生と志ん生』は舞台にもなっていて、今年も9月にサザンシアターで予定されている。
 私はテレビでではあるが、この舞台を見ている。

 しかし、本や舞台にはならなかった事実や、志ん生と円生が語らなかった、あるいは、語れなかった面も多いに違いない。
 
 人形町末広での大喜利での失態は、もちろん酒を飲んでから高座に上がったことが直接的な原因ではあろうが、文楽が庇った「満州の疲れ」の深さも影響していたと思う。

 五十半ばで、満州で死をも覚悟するような体験をしてきたのだ。

 いろんな逸話、そして記念日を遺した志ん生だが、今後、7月21日は、大喜利で居眠りをした記念日、として覚えておこう。
 それは、「満州の疲れ」という文楽の科白とともに、戦争の記録、記憶と切り離すことができない記念日だと、私は思う。


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by kogotokoubei | 2017-07-21 21:36 | 今日は何の日 | Comments(2)
 今日は休みをとっていて、池袋演芸場の昼の部(柳家小のぶが主任)楽日に出かけようと思っていたのだが、ここしばらく続いた暴飲暴食などのせいで、体調が今一つ。
 実は、居残り会以外にも飲み会が続いていたのであった。自業自得だ。

 よって、静養日(?)として、遠出はせずに、家で本を読んだりしていた。

 先日の柳家小満んの会における『王子の幇間』について書いた内容の中で、ほぼ同じ筋立てで上方落語に『茶目八』や『顔の火事』という噺があることを、矢野誠一さんの本から紹介した。

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『米朝ばなし』(講談社文庫)

 『米朝ばなし』をめくってみると、「新清水」の章で、『茶目八』が紹介されていた。

 まず、冒頭部分を引用したい。
 昔の大阪のおもかげ

 大阪にも清水さんがある、と言うと、びっくりする人が多いのですが、天王寺さんと生国魂さんの間、安居の天神さんの裏手あたりに清水寺があります。
 いま大阪で、昔のおもかげが残っているのは、天王寺から一心寺、安居の天神、生国魂さんから高津へかけての一帯、いわゆる上町台地のこの一角でしょう。

 読んでいて、なんとも懐かしくなった。

 昨年11月に、「ブラ幸兵衛」と称して、拙ブログへのコメントをきっかけにメル友(?)になった山茶花さんの名ガイドで散策した上町台地一帯を思い出したのだ。

 そうそう、清水坂も歩いたなぁ。
2016年11月14日のブログ
2016年11月15日のブログ

 大阪の印象は、あの散策で一変した。
 坂の町であり、寺の町なのである。

 思い出に浸るのはこれ位で、『米朝ばなし』に戻る。
 京都の清水寺に対して「新清水」と呼ばれるここには、やはり小さいながら舞台があり、滝もあります。滝の下の方には今はないが、江戸時代から「浮瀬(うかわせ)」という名代の料理屋があり、これは「双蝶々」などの芝居にも出てきます。「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」という清水の舞台から飛ぶということにちなんで、しゃれてつけた名でしょう。
 この新清水は、落語には関係がないと思っていましたら、ちょっとだけですが、ここが登場する話があったので、ご紹介します。『茶目八』です。

 なんとも、興味深い導入部。
 さて、どんな噺なのだろうか。
 茶目八という幇間(たいこもち)、ロクなヤツではないんですが、とにかく口から出まかせにぺらぺらしゃべるのがおもしろいので、割にごひいきの客が多い。
 あるだんなの二号さんの家へ行って、だんなのことを歯の浮くようなベンチャラを言うてほめそやす。そのおてかけはん「ワテ、うちのだんさん、イヤになってるねん」「なんででんねん。あんなええ男やし、お金は持ってはるし、よう気がつくし」「あの人、あっちこっち浮気ばっかりしてるしな。それにな、ちょっと油断のならんところがあると、あんた、思わんか」
 こういうふうに持ちかけられると、この茶目八、すぐ乗って、「そういうとな。わたし、こないだ、だんなに殺されかけましたんや。わてがまだ寝てる時に、七時ごろだっせ。わてをたたき起こしに来はって“散歩に行かへんか”“へえ、おおきに”と飛び出したけども、朝めしも何も食べてえしまへんやろ。そやのに、どんどん、どんどん歩きはりまんねん。“わてお腹が減ってまんねん”言うたら“お、そんならどこぞ夜明かしの店が今時分までやってるやろ、そこで食べたらええ”ちゅうので、そこまで行ったら、店を閉めたところでんねん。そうすると“ついでやさかい高津さんから生国魂さんへ散歩しよう。運動になる”とこうおっしゃる」
「運動ちゅうのはね、お腹が大きいさかい、あれ、運動しまんねんで。ペコペコで運動したら、わたい、しまいに目がもうてきた。ほんなら“広田家のお定(き)まり食べよう”“あ、結構でんな”ち一心寺さんのとこをずーっといたら“本日休業”と書いたある。だんさん、知っててわたいをここへ連れて来はったんや。ほんで“清水さんへお参りしょう。お滝に打たれるねん。おまえも一緒に打たれえ”“もうかんにんしとおくなはれ”と言うのに裸にして飛び込まされた。さ、今やさかいそう寒いことはないけども、唇の色が紫色になってきて、目が回ってドタッと倒れた。だんさんは着物をぬごうともせんと、清水の滝へ手をのばしてしずくを受けて、ほいで頭の上へピシャピシャとしずくを乗せて“これでもおんなじこっちゃ”ーこんなこと言いまんねん」


 去年の“ブラ幸兵衛”では、清水坂を歩いたが、清水寺には立ち寄らなかったなぁ。
 次の機会には、茶目八が災難にあった(とされる?)滝を見に行かなきゃ^^

 せっかくなので、引用を続けよう。

「さあ、そういうところのある人やさかい、わたしが別れるちゅう気持ち、わかるやろ。わたしと一緒になって、連れて逃げてえな」「逃げまひょ」
 茶目八は、金と銀の延べ棒が入っているというえらい重たい箱を風呂敷包みにして背負わされ、値打ちもんの掛け軸や、骨董品の入った包み、鏡台まで背負う。そのうえ、おかあはんの形見やという宣徳の火鉢を手に、おとっつあんの形見の柱時計を首からぶらさげ、「子供同様にかわいがってる」という猫をふところに入れます。
「歩けますか」「へえ、どうぞこぞ歩けます」「まあ、おもしろい格好やこと・・・・・・。だんさん、ちょっと出てきて見てみなはれ」
「茶目八!ええ格好やな」「ワァー、だんな、居てはったんかいな」「なんやおまえ、まるで火事場の焼け出されやないか」「へえ、火事にもあいまひょかい。今、顔から火が出ました」

 『王子の幇間』とは、幇間を騙すのが旦那と女房ではなく、旦那とおてかけはん(二号)という違いがあるが、基本的な筋立ては、なるほど同じだなぁ。

 ようやく、小満んのサゲがこの上方落語を元にしていたことが、確認できた。

 『王子の幇間』の作者初代三遊亭円遊は、嘉永3年5月28日(1850年7月7日)生まれで明治40(1907)年11月26日に歿した。

 『茶目八』の作者と言われる二代目林家染丸は、円遊より17歳若く、幕末の慶応3年1月8日(1867年2月12日)生まれで、昭和27(1952)年11月11日に、85歳で亡くなった。
 
 昭和前半の上方落語界を語る上では欠かせない人物であり、奥さんの林家トミは、下座三味線の名手で人間国宝(無形文化財)だった方だ。

 その二代目染丸の墓は、天王寺の一心寺にある。

 去年の“ブラ幸兵衛”で立ち寄った一心寺では、「真田の抜け穴」を見たなぁ。見事な現代風の仁王像には圧倒された。

 染丸の墓があると知っていたら、手を合わせたものを。

 
 果たして、当代の上方の噺家さんで『茶目八』、あるいは『顔の火事』を演じる人がいるのだろうか。

 ぜひ、そのうち聴きたいものである。

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by kogotokoubei | 2017-07-20 15:17 | 落語のネタ | Comments(6)
 五月の会は、野暮用で来れなかったので、三月から四か月ぶり。

 通算140回目とのこと。

 日中の豪雨は上がり、蒸し暑い中を関内へ。
 いつものように、コンビニで買ったおにぎりを食べながら、モニターで柳亭市坊の『転失気』を聴く。
 市坊のサゲ少し前に会場に入って後ろで待って、市坊が下がってからほぼ中央の空席へ。
 五割ほどの入りか。いつもながら、なんとも残念な客席だ。

 ネタ出しされていた三席について、順に感想などを記したい。

柳家小満ん『王子の幇間』 (22分 *18:45~)
 一席目は、最初の師匠文楽の十八番。初代円遊作と言われるが、文楽は三代目の円遊から稽古してもらったとのこと。
 お店では、その口の悪さで嫌われている、神田の幇間、平助。
 「平助入るべからず」という魔除けの札を門口に張ったが、「この札、十枚集めたら、何かいただけますか」という調子者。
 その平助の、とどまることのないヨイショの体裁をした毒舌の語りが、絶妙。
 最初の標的となった女中おなべどんには、白粉(おしろい)が厚いから話をすると白粉が落ちる、「おひろい、おひろい」やら、「その帯、雑巾をうまくつなぎましたね」とか「その皺だらけの顔・・・あなた、薩摩の生れでしょう・・・かおしま県」などと言って泣かせてしまう。足のアカギレの間から青い物が芽を出していて、それが田舎で踏んでいた粟だという設定が頗る可笑しいが、それを見て「かかとに田地を持っているのは、あなた一人だ。かかとを抵当に借金ができる」と平助絶好調。
 鳶の頭がやって来て、これまた平助の標的に。
 吉原の茶屋の二階で三味線を弾いて歌っていたことを大きな声で暴露したものだから、頭から殴られるが、なかなかへこまない、実に骨太の幇間^^
 実は、旦那と女房が示し合わせて、旦那な留守ということにして悪口を言わせ、出入り止めにしようという策略があった。
 ついその芝居に乗せられた平助、旦那が吉原の花魁を見請けしているから女将さんは追い出されますよと、出まかせを言う。
 女将さんが「それじゃ、私と一緒に所帯を持とう」と言って、つづらに金の延べ棒が六十三本入っているからと言って背負わせ、ついでにからくり時計に鉄びん、猫のミーまで平助に持たせたところで、隠れていた旦那が登場。
 つづらには、石臼に漬物石が二つ三つ入っていると明かされる。これは、重いはずだ^^
 旦那「平助、いったいなんてぇザマだ」に、平助が「御近火のお手伝いにまいりました」と答える。
 後からYoutubeで聴いた文楽版は、ここでサゲとしているが、小満んは、旦那が「火事などどこにもない」と返し、平助が「私の顔から、火が出ています」でサゲた。 

 矢野誠一さんの『落語手帖』によれば、上方落語の二代目染丸作『茶目八』を、三代目染丸が『顔の火事』で演じていたが、全体の筋立ては『王子の幇間』とほぼ同じとのこと。
 小満んは、師匠文楽版に、上方のサゲをブレンドしたのかもしれない。
 いやぁ、この平助、なかなか憎めない^^
 もちろん、今年のマイベスト十席候補だ。

柳家小満ん『大名房五郎』 (37分)
 いったん下がって再登場。
 マクラで説明しなかったが、この噺は宇野信夫が三遊亭円生のために作ったもの。
 宇野信夫による落語、となると、2015年5月のこの会で、『江戸の夢』をかけている。
2015年5月19日のブログ

 また、雲助は師匠馬生のために宇野が作った『初霜』を、浅草見番で演っていた。
2014年1月26日のブログ

 宇野信夫が若い頃から多くの落語家と交流があったことを著作から紹介したこともある。
2015年5月24日のブログ

 マクラで、なぜ「大名」なのか仕込みがなかったのは、残念。

 いつもお世話になる「吟醸の館」サイトの「落語の舞台を歩く」に、この噺が紹介されているので、引用する。
「落語の舞台を歩く」の該当ページ

房五郎と言うのは、下谷車坂に住む大工の棟梁。茶席を作らせると、この人の右に出る者が無いと言う。仕事も上手いが、今で言う、設計も優れておりまして、頭がいい。歳は二十九で、九代目の市村羽左衛門に生き写しと言う、誠にいい男です。まだ、女房を持ちませんで、お大名や旗本のいいお得意はあるので、かなりの収入はあったが、年中火(し)の車と言う。それは、居候を置きまして「ま、い~やな、俺ンとこへ来ていろ」と、年がら年中貧乏すると言う誠に変わった人でございます。
 余技に書画骨董の目が利いておりまして、見ると「こりゃこう言うもんでございます」とはっきり断定した。目利きの天才でございました。「あれはどうも普通の人間じゃァないね、大名の落とし子かじゃないか」なんてぇ事を言う。そこで「大名房五郎」と言う渾名(あだな)が付きました。

 昨夜の居残り会で、私は大名のように施しをするから「大名」と、お仲間の皆さまにとんでもない嘘をついてしまった^^
 そもそも、大名が、施しをするか!

 佐平次さん、Iさん、Fさん、実はこういうことですので、お詫びして訂正します。

 ということで、筋書きなどは吟醸さんのサイトでご確認のほどを。

 それほど楽しめるネタではなかったのだ、正直なところ。
 房五郎の設定は、ちょっとだけ『名人長二』を思わせ、ケチな質屋をやり込めるという内容は『五貫裁き(一文惜しみ)』に似ていなくもないが、どうも中途半端な作品という印象。
 これは、小満んのせいではない、あくまで、このネタの問題。

 ここで仲入り。

柳家小満ん『湯屋番』 (28分 *~20:29)
 設定が、浜町の梅の湯で、前半にも妄想場面があるから、元は円生版と思われる。
 若旦那は、すでに梅の湯に行っており、二十二~三の美人の女房と、青白い顔をして痩せた(“ハイガラ”)亭主がいることを下調べ済み。
 初回は、のぼせて醜態を見せて湯屋の女房に介抱してもらい、その後に菓子折を持って礼に行った、という設定だから、居候先から紹介状をもらう必要はない。
 それにしても、風呂で一足三十の都々逸にとどまらず、清元二段、常磐津二段、端唄、小唄に、八木節まで唸っていれば、のぼせもするだろう^^
 亭主が死ねば、あの女房と湯屋は自分のものと、前半の若旦那の妄想が楽しい。
 世話好きの吉兵衛さんが湯屋の裏に呼び出して、かんな屑の上で内緒話。
 「まるで、猫のお産だね」で笑った。
 隘路を「英語でネック」なんてぇのも、この人らしい。
 立花町の頭が入ってくれて、話はついている。勇躍、梅の湯に乗り込む、若旦那。
 そこからの妄想は、通常のこの噺とほぼ同じだが、演じ手が違うとこうも変わるかという、なんとも言えない味わいと、楽しさが横溢した高座。男湯の「七ケツ」の中で太った男のそれは燃料になるだろうから、役所に脂肪届をしたらいい、なんてのも実に可笑しい。
 彫りものをした御爺さんの背中の獅子と牡丹は、もちろん、ブルドックとキャベツでブルキャベ。
 清元の師匠との艶っぽい妄想の世界も、若手の落語家とは、一味もふた味も違うのだ。
 若旦那が体をくねらせる様子を女中お清が「まるで、印旛沼の鰻みたい」なんてぇ科白は、なかなか決まるものではない。
 艶っぽい妄想の世界から、男湯の客に現実に戻された若旦那。
 サゲは、下駄の後送りで、「最後の人に、下駄をあずけます」と綺麗に収めた。
 こちらも、今年のマイベスト十席候補にしないわけにはいかないね。

 
 なんとも、楽しい高座の後は、その余韻を楽しむ、居残り会。
 佐平次さん、I女史l、F女史とのよったりで、関内ではお決まりのあのお店。
 定番のくさやはもちろん、岩牡蠣、めごちの天ぷら、ほや・・・などなどを肴に、佐平次さんの初恋談義まで飛び出せば、男山の徳利がどんどん空く。

 看板まで居座っていれば、帰宅はもちろん(?)日付変更線越であった。

 『王子の幇間』といい、『湯屋番』といいい、小満ん落語の真髄とも言える二席、今でも平助や若旦那の名調子が耳に残っている。

 次回は9月19日(火)、『渡しの犬』『酢豆腐』『九州吹き戻し』とネタ出しされている。
 何かと野暮用の多い時期だが、なんとか駆けつけたいものだ。
 ちなみに、会場はまだ関内ホール。


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by kogotokoubei | 2017-07-19 12:12 | 落語会 | Comments(0)
 すでに昨日のことになってしまったが、7月16日は、トニー谷の祥月命日だった。

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矢野誠一著『酒と博打と喝采の日日』

 矢野誠一さんの『酒と博打と喝采の日日』(文春文庫)は、「オール讀物」に連載された内容が平成7(1995)年に文藝春秋から単行本で、二年後には文庫で発行。
 似た経緯で書籍化された『さらば、愛しき藝人たち』の続編といえる。

 私と同世代から上の方に、「トニー谷を知っていますか?」と聞けば、ほぼ全員が、知っている、と答えるに違いない。

 もちろん私も、「アベック歌合戦」で算盤を見事な楽器として、「あなたのお名前なんてえの」とやっていたトニー谷の姿は、脳裏に焼き付いている。

 しかし、あのトニー谷の晩年のことは、この本で初めて知った。

 矢野さんの本から引用する。

 永六輔が、新橋の地下鉄の階段をあがっていると、途中にひとりの老人が腰をかけていて、すれちがいざま、
「永ちゃん」
 と声をかけた。はて、誰だったかと、その顔をのぞきこむと、老人は言った。
「俺だよ、俺、トニー・・・・・・」
「なあんだ、久し振り。何してンの?」
「うん、ちょっと休んでんの」
 1986年の夏も終わりかけた頃である。

 トニー谷、本名大谷正太郎は、大正6(1917)年の生まれなので、1986年、満69歳の時のことになる。

 引用を続ける。

 それから永六輔との交際が復活して、「ボードビリアン、トニー谷の本領を、いまの若い連中に見せてほしい」との願いが実現し、渋谷のジャンジャンの小さな舞台で、満員の客を二時間抱腹絶倒させた。
 その年の暮、町おこし運動の一環として、永六輔が前座をつとめる『トニー谷ショー』が各地で行なわれたのだが、執念の舞台だった。ながいあいだの蓄積のすべてをはき出しているようだった。
「銀座の若旦那が戦争に敗けて、GIの姿になって、江戸っ子のやることじゃねえなと思ったときから、ねじれるだけねじれちまって、これからは村の爺さん婆さん相手に、江戸前の藝を楽しんでもらうからね」
 と言って、見事な三味線を披露したという。トニー谷の三味線・・・・・・一度聴いておきたかった。それにしても占領下のアメリカ文化の功罪の、軽薄さという「罪」のほうだけ背負って売り出したトニー谷が、晩年になって江戸前の藝に傾斜したという、その傾斜のしかたがひたむきだっただけに、どこか哀しくうつるのだ。
「お金のことはなんにもいわない」
 とも言って、事実ギャラのことはひと言も口にしなかったばかりか、あの売物でさえあった傲岸無礼な態度もまったく影をひそめ、ただただ藝に生きる老人の姿があるだけだった。

 銀座のど真ん中、その後玩具屋のキンタロウになった場所で生まれた大谷正太郎。その生家はランプ屋だったらしい。江戸っ子の生き残りと言える祖父が、電気が普及してからも電気屋に転業せず、ランプ屋を続けたらしい。
 その店も人手にわたり、父親の死もあって、幼い頃日本橋に引っ越す。
 矢野さんは、次のように書いている。

トニー谷が終生持ちつづけた反骨精神は、このランプ屋に固執した祖父の血を受けついだものかもしれない。

 さて、永さんとの縁から、人前で藝を披露する機会を得たトニー谷だったが、その後のこと。

 年があけて、入院した。肝臓癌で、たか子夫人は無論かくしていたのだが、当人はうすうす感ずいていたふしがあり、見舞に来た永六輔に、
「癌だと思うよ」
 と涙ぐんだ。
 いままでの台本、テープ、フィルム、スクラップブック、それにトレードマークだった算盤も大小とりまぜ五個ばかり、「新しい仕事の資料」として永六輔のところに届けられた。新しい仕事もなにも・・・・・・身辺整理であることは明らかだった。こんどは、永六輔が涙ぐんだ。
 1987年七月十六日午前零時十四分、肝臓癌で死去、六十九歳と訃報にある。
 十月の誕生日を前にしていたので、満六十九歳。

 子どもの誘拐事件は、私が生まれた昭和30年の事なので、ほとんど記憶になかった。
 
 トニー谷と言えば、とにかく、あの算盤と「あんたのお名前なんてえの」なのだった。

 そして、矢野さんのこの本を読んで知った、亡くなる直前、地下鉄の階段での永六輔との出会いが、蝋燭が最後の炎を輝かせるための天からの巡り合わせ、と言えば、あまりに作りすぎだろうか。

 永さんに渡されたトニー谷も遺品は、今どこにあるのだろうか・・・・・・。

 トニー谷が旅立った翌日の7月17日に亡くなった石原裕次郎と、同じ没後30年。

 裕次郎の記念番組はあちらこちらで放送されているが、トニー谷没後30年記念という声は、一切聞く事がなかった。


 私も、トニー谷の三味線、聴きたかったなぁ。

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by kogotokoubei | 2017-07-17 09:51 | ある芸人のこと | Comments(8)
 この会は、なんとも久しぶり。
 調べてみたら、2014年12月の会以来だ。
2014年12月2日のブログ
 いろいろ野暮用もあったし、一時、浅草見番の会を含め、集中的に雲助を聴いたこともあり、しばらく時間を空けようという思いもあった。
 また、できるだけまだ聴いたことのない人の高座に出会いたいということと、寄席を優先した、ということもある。
 
 しかし、たまに寄席以外で、長講を聴きたくなる人である。

 今回は、行こうと決めてから、久しくお会いしていない方を含め、落語愛好家のお仲間にずうずうしくもお声をかけて、居残り会も幹事的に段取りしていた。

 落語会とアフターと、どっちが主役か^^

 会場は七分程度の入りか。
 当初この会には半分位しか埋まらなかったことを考えると、ある程度固定客がついたのだろう。

 こんな構成だった。
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(開口一番 桃月庵はまぐり『子ほめ』)
五街道雲助『千両みかん』
(仲入り)
五街道雲助『菊江の仏壇』*ネタ出し
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桃月庵はまぐり『子ほめ』 (14分 *18:58~)
 何度か聴いているが、これまでではもっとも残念な高座。
 気になるのは、主人公(八五郎?)の口調が乱暴すぎること。
 あえてそういう人物造形をしているのかもしれないし、自分のネタとして発展途上なのでもあろうが、世辞を言って一杯ゴチになろうというのに、あんな伝法な口をきいちゃいけねぇや^^

五街道雲助『千両みかん』 (30分)
 暑くてエアコンをかけっぱなしで、少し喉をやられた、と言っていたが、聴く側としては、あまりそれを感じなかった。
 しかし、体調は十分ではなかったのかもしれない。それは、これまでこの会で経験したことのない、二席のみでの早いお開きにつながったと察する。
 マクラの、お天道様とお月様、雷様が一緒に旅行に行った、というネタは、以前も聞いていると思うが、今度自分が余興で落語をする時に使わせてもらおう。
 今では、氷イチゴなんてぇのはなくなって、氷フラッペ、氷の上に果物の切れっぱしなんかが乗っている、とふって本編へ。
 達者な芸であり、ツボを押さえた高座であるのは間違いないのだが、この人にしては軽い、あっさりとした高座と感じた。
 二席とことわっていたので、トリのネタを考えると、九時までなら、この噺も膨らませて45分位で演じるのではないか、と勝手に思っていた。
 しかし、番頭が若旦那から臥せている理由を聞き出す場面にしても、短く淡泊。
 番頭に笑わないでくれと言って、悩みの元を明かす場面。
 若旦那「ふっくらとした」
 番 頭「ふっくらとした?」(怪訝そうな顔)
 若旦那「丸みのある」
 番 頭「丸み・・・のある!」(察した様子)
 若旦那「艶のある」
 番 頭「艶のある」(頷きながら)

 の会話も、鸚鵡返しすることなく、すぐこの後に

 若旦那「おつゆのたくさんありそうな」
 番 頭「おつゆ・・・・・・・?」
 若旦那「蜜柑が、食べたい」
 
 で謎が解ける。

 好みもあるし、くどすぎるのも問題ではあるが、なんともあっさりとした種明かしは、私には拍子抜けだった。
 三戸前ある蔵の中に、一個だけ腐っていない蜜柑があったのは、神田多町の「万惣」ならぬ「千惣」。
 番頭から蜜柑一個が千両と聞いた若旦那が、あっさり「そう」と答える場面の可笑しさなどは、この人ならではの味があったが、全体としては大人しい高座と言えるだろう。
 近所の八百屋が磔の描写をするのを、番頭が泣きそうになりながら聞く場面は楽しかったが、番頭はもっと感情の起伏があって良かったのではなかろうか。
 久しぶりの会に期待しすぎたのかもしれないが、雲助落語はあんなものではない、と思う。
 ネタのせいもあるかなぁ。
 矢野誠一さんが『落語歳時記』(文春文庫)の中で、金原亭馬生が、あるテレビ番組で翌週放送される本人演じるこの噺について、「あんまり面白い話じゃないン」と語り、聞いていた番組プロデューサーが思わず椅子からころがり落ちた、というエピソードを紹介している。労多くして、なかなか報われないネタであることを、再確認したような思い。
 二席目に期待、と仲入りの一服。

五街道雲助『菊江の仏壇』 (35分 *~20:30)
 仲入り後は、ネタ出しされていたこの噺。
 元は上方。初代円右が東京に移したとされるが、かつては小文治が十八番とした後は演者がなかなかいなかったのだが、雲助の師匠馬生が久しぶりに手がけ、昨今では、さん喬が『白ざつま』の題で演じている。
 馬生の音源は、残念ながら持っていない。

 この噺で思い出すのは、かれこれ六年半ほど前の桂文我の高座だ。
 ゲストの小金治さんに、八代目三笑亭可楽譲りの『三方一両損』で、見事な江戸っ子の啖呵を聴かせていただいた日だった。
2010年12月6日のブログ
 その時の内容と重複するが、このネタにはいろんな噺の要素が入っていると思う。
 次のような場面で他のネタを彷彿とさせる。
・大旦那が若旦那を諌めるシーンは、『船徳』『唐茄子屋政談』他同様の“バカ旦那”シリーズ
・若旦那が番頭の弱みを追及し味方につけるところは、『山崎屋』
・大旦那と定吉が出先から、どんちゃん騒ぎの我が店に戻ってくる件は、『味噌蔵』

 これまた矢野誠一さんの本『落語讀本』(文春文庫)になるが、このネタの「こぼれ話」から引用。
矢野誠一 『落語讀本』(文春文庫)
色川武大さんは、桂小文治の『菊江の仏壇』をきいたことがあるそうだ。敗戦直後の神田立花で、<茶屋遊びの気分、商家の感じ、そうして独特の色気、はじめて小文治を、ただものではない落語家だと思った>と書いているのだが、この感じが私には、とてもよくわかる。
 
 さて、雲助の高座に、“茶屋遊びの気分、商家の感じ、そうして独特の色気”はあったのか。
 若旦那が、番頭佐兵衛が清元の師匠を囲っていることを、じわじわと暴露していく場面は、『山崎屋』でも聴いているが、実に巧みな芸と言える。
 「そのまま、算盤弾いて」と言われたって、佐兵衛も心おだやかなはずがない^^
 若旦那のよく出来た女房お花と柳橋の芸者菊江が、そっくり、というのは師匠馬生譲りなのだろうか。
 番頭に、なぜ病のため里で療養している女房のお花を見舞いに行かないのか、と問い質される若旦那。
 お花は、なんでもよく気が付き、算盤だって番頭並み、若旦那は「なんでも見透かされているようで」気づまりで、顔は似ているが菊江のほうは、一緒にいると心が休まる、と言う。
 こういう若旦那の心理描写も、師匠譲りなのかどうか勉強不足で分からないのだが、男という生き物の心理を言い得ているようだ。出来過ぎた女房は息が詰まる、少しはいい加減なほうが、こっちも楽、ということで、この場面は、実に説得力があった、などと書くと、世の女性から顰蹙か^^
 残念なのは、題にもなっている菊江の姿が、あまり表現されていなかったこと。
 菊江の姿、艶、色気が、今一つ私には映像として浮かんでこなかったのだ。
 髪を洗っている途中に呼び出され、白薩摩の単衣のまま駕籠に乗せられてやって来るわけだが、駕籠を降りて番頭と若旦那の前に姿を現した時に、菊江の科白がなかったのも、影響しているかな。
 帰ってこないはずの大旦那が帰ってきてから二言、三言科白があったものの、菊江像を描くには不十分な印象。
 大旦那が若旦那にお花の最後の様子を聞かせる場面は、サゲの可笑しみを倍加させ、この噺の奥の深さのようなものを感じさせたし、もちろん、人並み以上の好演ではあったのだが、私が期待した雲助ならではの高座とは言い難い印象。

 桂小南もこの噺を十八番としていたようだ。ぜひ、秋に誕生する三代目小南のこのネタを聴きたいものだ。

 さて、私が知るこの会は、三席で九時終演だったが、二席で八時半にお開き。

 雲助の体調のせいなのかは分からないが、短いネタがもう一つ加わっても良かっただろうと思いながら、席を立った。
 

 しかし、落語会の物足りなさは、居残り会が早く始められる喜びに変わったのであった^^

 久しぶりにお会いするOさん、そして、I女史、F女史とのよったりは、四年前にこの会の後に寄って、靴をなくしたあのお店へ。
2013年8月3日のブログ

 若女将に「落語会が早く終わったけど、大丈夫?」と聞くと、「どうぞお二階へ」とのこと。
 良かった、二階なら靴を脱ぐことはない^^

 いろいろと話は盛り上がったなぁ。

 印象深いのは、かつては、見知らぬ人を家に泊めてあげることが多かったという話題。
 I女史が若き日、“ユースホステルの女王”として北海道で顔を売った(?)という話から発展したのだが、私の北海道の実家でも、何度もバイクや自転車でやって来た若い旅行者を泊めたことがある。そして、F女史も若かりし日、その広い実家ではいろんな方をお泊めしたとのことで、帰宅すると知らない人に「お帰りなさい」と挨拶されることもしばしばだったらしい。
 今では、とても考えられない、何ら疑うことなく人を信じることができた時代の思い出だ。
 もちろん、落語や講談、浪曲などにも話題は広がった。子供の頃から寄席体験を積み重ねているOさんは、今ではお嬢さんを浪曲にも連れて行くなど、立派な教育(?)をなさっている。落語の科白もよく覚えていらっしゃるので、「お嬢さんに落語を演って聞かせてあげたら」、と私がふったら、数多の名人の高座を聴いていると、とても人前ではできない、とのこと。
 私が、酒の勢いにまかせて友人に落語を聴かせていることが、どれほどの暴挙なのか、と反省しきり^^
 そんなこんなの楽しい会話が弾み、“ねのひ”の徳利が、さて何本空いたのやら。
 そうそう、I女史が、次の日はゴルフで早起きしなければならないので、「軽くね」ということで始めたのだったが・・・大丈夫だったかな。

 つい、看板まで居座った楽しい居残り会だから、帰宅が日付変更線を越えたのも当然であった。

 今、入場の際にいただいたプログラムを開いてみると、日付には「 月 日」とあり、ネタの部分も空白の中央に「お仲入り(休憩)」と記してあるだけ。

 要するに、どの会でも使えるようになっている。

 コスト削減することも大事ではあると思う。
 しかし、かつては、プログラムのみならず、ロビーにネタの補足説明などを書いたものを貼っていたり、とにかく、手作り感たっぷりの会だったことを思い出すと、正直、少し残念だ。

 このブログは、ある大手の興行会社による大ホールでの、何ら主催者の意図を感じない、出演者への気配りのない落語会への小言がきっかけで始まった。
 その会社のアンケート用紙は、何度もコピーにコピーを重ねて文字が薄くなっている、どの会でも使えるものだった。

 その対極にあるのが、雲助五拾三次のような会だと思っていた。

 始まって二回目から聴いている。あの2013年5月の会では、『髪結新三』を堪能した。
2013年5月14日のブログ


 雲助好きで落語好きな愛好家が始めた、手作りの良心的な会、というのが当初の印象だ。

 久しぶりに出向いて、番組の構成やプログラムなどに、この主催者の今後に不安を抱いたことも事実だ。

 人気があり実力も評価されている若手講談師の会も開催しているらしい。

 もちろん、興行を継続するには、利益も相応になければならないだろう。

 しかし、甘いかもしれないが、そして生意気を承知で書くが、この会を始めた当時の純粋な了見を失わずにいて欲しい。

 二年半ぶりに行った会で、そんな思いも抱いたのだった。

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by kogotokoubei | 2017-07-13 12:58 | 落語会 | Comments(4)
 このブログを書き始めてからの年月について、自分で少し勘違いをしていた。

 2008年6月から始めたので、丸九年がすぎ、なんと十年目に入っている。
 てっきり、まだ九年目に入ったところ、と思っていた。

 ちょうど九年前の七月十日に、『船徳』のことを書いていた。
 今まで通算1620の記事の、12本目だった。
2008年7月10日のブログ

 昨日と今日は、今年も浅草寺の「ほおずき市」。
 あらためて、浅草寺のサイトから引用。
浅草寺サイトの該当ページ

平安時代頃より、観世音菩薩の縁日には毎月18日があてられてきたが、室町時代末期(16世紀半ば)頃から、「功徳日」といわれる縁日が設けられるようになった。功徳日とは、その日に参拝すると、100日、1,000日分などの功徳が得られるという特別な日を指す。功徳日は寺社によって異なるが、現在、浅草寺では月に1度、年に12回の功徳日を設けている。このうち7月10日は最大のもので、46,000日分の功徳があるとされることから、特に「四万六千日」と呼ばれる。この数の由来は諸説あり、米の一升が米粒46,000粒にあたり、一升と一生をかけたともいわれるが、定かではない。46,000日はおよそ126年に相当し、人の寿命の限界ともいえるため、「一生分の功徳が得られる縁日」である。 四万六千日の縁日の参拝は江戸時代には定着し、われ先に参拝しようという気持ちから、前日9日から境内は参拝者で賑わうようになった。このため、9日、10日の両日が縁日とされ、現在に至る。 四万六千日にともなうほおずき市の起源は、明和年間(1764〜72)とされる。四万六千日の縁日は浅草寺にならって他の寺社でも行なわれるようになり、芝の愛宕神社では四万六千日の縁日にほおずきの市が立った。「ほおずきの実を水で鵜呑み(丸飲み)すれば、大人は癪(なかなか治らない持病)を切り、子供は虫気(腹の中にいると考えられた虫による腹痛など)を去る」という民間信仰があり、ほおずきを求める人で賑わったそうである。その愛宕神社のほおずき市の影響を受け、四万六千日の大本である浅草寺にもほおずき市が立った。ちょうどお盆の季節でもあり、ほおずきを盆棚飾りに用いる方も多い。 かつては、四万六千日の縁日に赤とうもろこしを売る屋台もあった。これは赤とうもろこしが落雷除けのお守りになる由の民間信仰により、文化年間(1804〜18)頃に境内で売られるようになったという。ところが明治初年(1868)頃、不作によって赤とうもろこしが出回らないことがあった。これに困ったご信徒が浅草寺に雷除けのお守りを求めた縁から、浅草寺では竹串に挟んだ三角形の守護札を授与するようになった。これが今も四万六千日に授与されている雷除札【かみなりよけ】である。 9日・10日の両日、いなせな恰好の売り子たちが声をあげてほおずきを売り、境内は朝から晩まで参拝者で埋まる。観世音菩薩の功徳に感謝して参拝し、ほおずき市を散策して江戸情緒を味わいたい。

 126年分の功徳、ですよ!

 かつての「四万六千日」は、もちろん旧暦の七月十日。
 今年は閏五月があったこともあり、旧暦七月十日は、新暦八月三十一日。

 七夕が秋の季語であるように、季節は秋だ。

 だから、桂文楽の科白で有名な『船徳』の「四万六千日、お暑いさかりでございます」は、新暦の七月十日でなければ当てはまらない。

 同じ功徳日の歳時だが、浅草より先に「ほおづき市」(なぜか、「ず」ではなく「づ」)を開いていた芝の愛宕神社では、今でも6月に「夏越しの祓え」の一環として催されている。
 同神社のサイトから引用。
愛宕神社サイトの該当ページ

【千日詣り ほおづき縁日】6月23日~24日この両日に社殿前にしつらえた茅の輪(ちのわ)をくぐりお参りすれば千日分の御利益(ごりやく)があると昔から信仰され、境内で自生してていたほおづきを飲めば子供の癇・婦人病に効くと言われていた。
現在はお祓い済みのほおづきを受けると特別に社殿の中で本人もお祓いしてくれる。
ほおづき市と言うと浅草が有名だが、もともと愛宕神社から始まったもの。蛇足ながら羽子板市も当社が発祥。
その賑わいは平岩弓枝氏著「犬張り子の謎」にも記されている。

【中祭式】6月24日 11時自分の厄を移した形代(ひとがた)を神社に納め半年間の厄を祓い清める行事。年末の大祓いに対し、夏越し(なごし)の祓えと言う。

 ほおづき市のみならず、羽子板市も愛宕神社が先であると、“蛇足ながら”主張している^^
 
 ほおずき市で思い出すのは、落語を題材とした2007年の映画『しゃべれども しゃべれども』だ。
allcinameサイト「しゃべれども しゃべれども」

 国分太一演じる二つ目の落語家今昔亭三つ葉が、ひょんなことから開くことになる「話し方教室」に通う女性、十河五月(香里菜)との淡い恋の舞台として、ほおずき市が登場する。

 あの映画では、原作では主人公が演じる師匠の十八番ネタが『茶の湯』であるのに、『火焔太鼓』に替えていたなぁ。

 「話し方教室」に通う生徒は他にもいて、元プロ野球選手で野球解説者の湯河原太一(松重豊)と、関西育ちで東京の小学校でいじめられているのが森永悠希演じる村林優少年。
 優は、桂枝雀にぞっこん惚れており枝雀版の『まんじゅうこわい』を演じる。実に上手い。凄い、と言っても良い。
 森永悠希という俳優さんは、この映画の後にテレビや映画に数多く出演して存在感のある役者に成長しているが、私は、十年前のデビュー作村林優役が、もっとも輝いているのではなかろうかと思っている。
 同じ発表会で「まんじゅうこわい」対決をするはずの五月が、ネタを急遽変更して、科白を立て板に水とはいえ、登場人物すべて同じ口調の『火焔太鼓』を演じる。
 その五月の『火焔太鼓』を酷評する三つ葉は、自分自身が師匠小三文十八番のそのネタに挑む。
 今昔丁小三文役の伊東四朗は、とにかく上手い。
 三つ葉の祖母役で八千草薫も、実に良いアクセント。

 ほおずきのことに戻るが、三ツ葉と五月は、実際に浅草寺のほおずき市でほおずきを買うわけではない。
 しかし、ほおずきは大事な小道具として登場する。
 そうだ、大川と船、ということでこの映画と『船徳』は共通点があるなぁ。
 監督は平山秀幸で、同じ2007年に『やじきた道中 てれすこ』も撮っている。
 この映画については以前記事を書いた。
2012年12月8日のブログ

 ほおずき市のことから映画に発散してしまったが、落語に話を戻す。

 『船徳』の時期を七月十日に設定したのは、三代目小さんだと言われている。
 新暦の七月十日、ほんとに今日もお暑いさかりだった。

 この時期の年中行事で思い出したが、先週、近所の幼稚園に七夕飾りがあって、園児のさまざまな願いが短冊に書かれて吊るしてあった。
 しかし、先週七月七日は、旧暦閏五月十四日で、月齢十三の月が明るく輝き、天の川を見ることはできなかった。

 園児に、天の川が見れないことを、旧暦のことなどを含めて説明できる先生は、果たしていただろうか。

 昨夜の閏五月十六日の満月、そして今夜の月齢十六日の月も、実に綺麗だった。

 以前にも書いたが、旧暦七月七日の半月は、満月の約十二分の一の明るさだからこそ、天の川も牽牛と織姫星も、きれいに見えるのである。

 今年は、八月三十一日に、ぜひ天の川を見るのを忘れないようにしなきゃ。


 さて、今年もすでに半分が過ぎ、来週19日から、夏の土用入り。
 今年は土用の丑の日が二日あるので、スーパーもコンビニも中国産ウナギの販売ノルマが増えて、働く方は大変だろうなぁ。

 私の場合は、一年で鰻を食べないと決めているのが、土用の丑の日。

 鰻にまつわる噺はいくつかあるが、同じ原話から、文楽で有名な『素人鰻』と、志ん生が得意にした滑稽噺の『うなぎ屋』がある。
 
 私は、『うなぎ屋』にならって、鰻職人がいない鰻屋を、なんとか見つけたいと思っている^^
 間違っても、神田川の金のような酒乱の職人のいる鰻屋には行きたくない。

 四万六千日のお暑いさかり、落語や映画など、鰻のようにいろんなことに思いがいったりきたり、であった。

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by kogotokoubei | 2017-07-10 20:54 | 幸兵衛の独り言 | Comments(2)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛