噺の話

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落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。

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 私は、てっきり小遊三に会長を譲るだろうと思っていたのだが、昨日の総会で歌丸続投が決まったとのこと。
 スポーツ報知から引用。
スポーツ報知の該当記事
桂歌丸、落語芸術協会の会長続投「代わってもらいたいんですが…」
2017年6月27日12時25分 スポーツ報知

 落語芸術協会は27日、都内で総会を開き、桂歌丸会長(80)の再任を承認した。任期は2019年6月まで。

 歌丸は2004年2月に会長に就任。任期2年で、今年は役員改選期になっていたが5日に開かれた役員会で理事は全員留任、歌丸の会長続投が決まっていた。

 総会に出席した歌丸は、会長続投について聞かれ「体調ですか。良くなったり、悪くなったりです」と笑いを取ると、「代わってもらいたいんですが、訳あって伸び伸びになっているんです」と冗談交じりに話した。9月中席には桂小南治(55)の3代目・桂小南襲名披露も予定されており、会長として協会を牽引していく。


 鼻にチューブを入れた八十歳が、「代わってもらいたいんですが、訳あって伸び伸びになっているんです」という、その訳とは、いったい何か?
*「伸び伸び」は「延び延び」の誤りだろう^^

 落語芸術協会のホームページの「協会員プロフィール」に役員の名が載っているので、引用する。
落語芸術協会ホームページの該当ページ

会長 桂 歌丸
副会長 三遊亭 小遊三
理事 三遊亭 遊三
理事 三笑亭 茶楽
理事 春風亭 小柳枝
理事 三笑亭 夢太朗
理事 桂 米助
理事 古今亭 寿輔
理事 桂 歌春
理事 柳亭 楽輔
理事 柳家 蝠丸
理事 瀧川 鯉昇
理事 春風亭 昇太
理事 桂 竹丸
理事 春風亭 柳橋
理事 桂 文治
監事 山遊亭 金太郎
監事 三遊亭 遊吉
参与 鏡味 健二郎
参与 東 京太
参与 神田 松鯉
最高顧問 桂 米丸
相談役 三笑亭 笑三

 序列で言うなら、小遊三が会長を継ぐのが、筋だろう。
 しかし、彼は嫌がっているかもしれない。

 では、歌丸の言う「訳」とは、小遊三を説得する時間をかせぐということか。
 それとも、今、小遊三には、会長を継げない体調面などの問題があるのか。

 あるいは、若返りを果たすため、同じ「笑点」仲間で人気が全国区の昇太を次期会長にするために、時間が必要なのだろうか。

 私は、芸と頭の良さ、歴史的にも大きな名跡である三笑亭可楽門下だった、茶楽が相応しいと思っている。


 もし、選ぶのが難しい状況なら、良い後継者の決め方がある。
 それは、『片棒』の手を使うことだ。

 候補者三人に、歌丸が、もし・・・・・・。

 落語愛好家の方は、もう語らずとも分かるはず^^


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by kogotokoubei | 2017-06-28 22:02 | 落語芸術協会 | Comments(8)

 今年は、旧暦で閏月がある年で、先週土曜二十四日からが閏五月。

 梅雨の雨のことが「五月雨」であって、旧暦の六月は雨が降らないから「水無月」。

 では閏五月ということは、今年は長梅雨になる・・・かどうかは、分からない。
 
 旧暦の四月、五月、六月が夏だから、今年は夏が四か月ある、ということだ。
 そんな暑い季節の年中行事について。

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荒井修著『江戸・東京 下町の歳時記』(集英社新書)

 荒井修さんのこの本からは、何度か引用している。
 2010年12月に集英社新書から発行された本。

 著者荒井修さんは、私より少し年長の“団塊の世代”で、浅草にある舞扇の老舗、荒井文扇堂の四代目社長さん、だった。過去形になるのが、実に残念。
 いただいたコメントで初めて荒井さんが昨年亡くなったことを知ったのだが、三月に“しのぶ会”があったことを含めて記事を書いた。
2017年3月24日のブログ

 六月晦日近くの行事などについて、本書から引用したい。

家の中の景色が変わる

 このころになると、「枇杷葉湯売り」なんていうのが来る。枇杷の葉を、甘草(かんぞう)なんかといっしょに煎じたやつを売りに来るんだけど、肌にもいいらしい。それから六月の末には「夏越(なごし)の祓(はらえ)」というのがあるでしょう。ここで上半期が終わりですというね。難をよけたり、けがれを祓うために、茅(ち)の輪をくぐったりもする。
 そのときに「水無月」というお菓子を食べるんです。このお菓子は、三角形のくずの上に大納言、小豆がのかっているんだ。この三角というのは氷をあらわすみたいだね。涼しげなこのお菓子を食べると、夏に入っていく。


 この「水無月」というお菓子の由来については、昨年七月の「小満んの会」で『千両みかん』で小満んのマクラに関連して書いたことがある。
2016年7月22日のブログ

 また、夏越の祓が、季節の変わり目の行事の一つであることは、岡山宇佐八幡神社宮司で民俗学者の神崎宣武の著書『旬の日本文化』から引用して記事にした。
2015年2月3日のブログ

 荒井さんの本の引用を続ける。

 だんだん夏の準備が始まって、徐々に家の空気が変わってくる。まず、ふすまが外されて、すだれがかけられる。部屋の仕切りがすだれになるのね。そうすると、部屋がちょっと広くなった感じになるわけ。それから、茶だんすの中の景色が変わります。たとえば、木製の茶卓が籐の茶卓になったりね。
 これはあたしの時代の話ですよ。江戸時代にはそんなものはないかもしれないけれども、籐の茶卓になると、湯呑み茶碗よりも切子のコップなんかが茶だんすの中に増えてくるんです。で、麦湯がいつも冷まして置いてある。みんな麦茶っていうけど、あれはお茶じゃないですからね。いくら飲んでもカフェインがないから、子供たちでもどんどん飲んでいいわけ。この麦湯に砂糖の入ったやつがいいんだ。友人の橘右之吉さんは「それはぜいたくもんだよ」とか言ってたけどね。たしかに、なかなか砂糖は入れてくれない。親戚のところなんかに行くと出てきたりするけどね。
 それから、風鈴がつられます。江戸風鈴ってガラスだけど、最近のやつは下の切り口のところが、さわっても全然ざらざらしない。つるっとしてる。あれはね、大量生産のものが多いらしいんだけど、昔の風鈴っていうのは、切り口がざらざらしてるんです。そうじゃないと、あの音は出ないらしいですね。
 あたしが好きなのはどちらかというと、おやじかなんかが岩手の方に行ったときに買ってきた南部鉄の風鈴。これはまたちょいとぜいたくなものでね。実にさわりがいいじゃない。ちん、といった後に響くんですよ。これがつってあると、涼しげでいいですな。
 そして、蚊帳をつる金具が部屋の四方に取りつけられて、いつでも蚊帳がつれる状態になる。


 生まれ育った北海道は夏が短く、夏越の祓という風習そのものがなかったので、水無月を食べた記憶はない

 しかし、子供の頃には南部鉄器の風鈴があったことを思い出す。
 家族で一緒に寝る部屋に、蚊帳もつった頃があった。
 蚊帳で思い出すのは、志ん生が貧乏時代に、行商の蚊帳売りから安いのでつい騙されて、破れたボロボロの蚊帳を買った逸話^^


 “夏の風物詩”という言葉がある。
 
 すだれ、水無月、籐、麦湯、風鈴、蚊帳・・・・・・。

 そういったものが、次第に我々の生活から姿を消していく。

 3.11以後、いったんは節電ムードになったが、今では誰も電力消費量などを気にすることもなく、暑ければエアコンをつけっぱなし。

 我が家は、よほど暑くても、できるだけ扇風機だ。

 さて、新暦とはいえ六月師走だ。麦湯と水無月で夏越の祓をしようかな。

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by kogotokoubei | 2017-06-27 12:44 | 年中行事 | Comments(2)
 円楽が単独で落語芸術協会(芸協)に入るらしい。
 日刊スポーツから引用する。
日刊スポーツの該当記事
三遊亭円楽、落語芸術協会に客分加入 席亭が後押し
[2017年6月24日9時41分 紙面から]

 5代目円楽一門会に所属する落語家三遊亭円楽(67)が落語芸術協会(桂歌丸会長)に客分として加入することが23日、分かった。

 円楽は5代目円楽一門会に所属。過去一門会全体の合流を打診したが拒否されていた。今回は席亭の後押しもあり、円楽は一門会に属しながら単独での加入を申請。27日に開催される同協会総会で正式承認される。

 “客分”・・・まるで、ヤクザの世界^^

 後押しした席亭は・・・末広亭かと察する。

 なぜかと言うと、芸協の芝居で客の入りが悪く、他流派からの出演などでテコ入れするように注文したのが末広亭の席亭だったかからだ。

 五年前に、新聞記事の紹介などで、芸協と他流派をめぐる一連の動きについて記事を書いた。
2012年1月27日のブログ
2012年2月7日のブログ
2012年4月16日のブログ

 芸協による定席寄席(芝居)は、その後若手育成などの成果も出て、客の入りは改善されていると思う。

 五代目円楽一門が丸ごと加入することで、鈴本以外に三つ、国立演芸場を含めても、たった四つしかない寄席への出演機会が減ることには、会員の多くの抵抗があったため、まとめて加入する案は実現しなかったのだろう。

 では、円楽一人なら、いいのか・・・・・・。
 私は、まったく合点しない。

 これは「笑点」で全国レベルの知名度のある円楽を利用した観客動員のための措置であるとしか思えず、会長歌丸との強い関係が背景にあるのは間違いなかろう。

 立川談幸が弟子二人を連れて芸協に加入したのとは、まったく違う。

 ブログを始める前に生の円楽(当時は楽太郎)の高座を聴いている。
 テレビで「今どき落語 特別編」の高座を見たこともある。
2013年1月3日のブログ
 その放送で、高座の後のインタビューを見た感想を次のように書いていた。
「誰かが談志、志ん朝を継いでもらい、三人会をしたい」などと言う発言を聞いても、この人がとんでもない勘違いをしていることが分かる。噺家として肝腎な時期に寄席に出ることが出来なかったという外的要因もあるが、それ以上に、自分が上手いと思っている驕りが見える。

 テレビでの人気に胡座をかいた傲慢さが、高座から漂ってくるのだ。

 それだけの技量があるか・・・・・・。

 芸協の同程度のキャリアのある噺家さんと比べて、彼らを上回る技量があるとは、まったく思えない。

 彼が寄席に出るということは、誰かが出番を失う、ということである。

 観客動員は増えるかもしれない。
 しかし、経済的要因だけでは測れないものを、芸協は失うように思う。

 円楽が提唱した博多の落語会などを含め、芸協の噺家さんと交流は深くなっていて、会長、副会長以外にも、彼の入会に賛成するベテランもいるかもしれない。

 しかし、快く思わない協会員も少なくないだろう。

 もちろん、好みの問題も、ある。
 少なくとも私は、彼が出る芸協の芝居には、行くつもりはない。

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by kogotokoubei | 2017-06-26 12:54 | 落語芸術協会 | Comments(10)
 昨日のアクセスレポートの数字に驚いた。
 全体のアクセス数が1000を超え、ダントツで一位の記事が四年ほど前に書いた、「成田屋のこと。」だった。
2013年2月4日のブログ

 この記事へのアクセスがほぼ200。
 異例だ。
 海老蔵の奥さんのことでのアクセス増であることは、間違いないだろう。

 この記事は、十二代目の団十郎の訃報に関し、成田屋は短命が多いとか、ケネディ家にたとえて、呪われているというニュアンスの記事が多かったので、本当にそうなのか、と思って調べたことから書いた記事。

 私の調べの結果は、若くして団十郎を襲名した場合は夭折した人はいるが、決して呪われているわけでも、際立って短命であるとも言えない、ということ。

 それはそうとして、当代海老蔵の亡妻については、そのブログの読者(アクセス数?固定ファン?)が200万人を超えていた、とのことでブロガーとして、驚くばかりだ。

 彼女が出演していたテレビは、まったくと言ってよいほど見ていないし、あまり関心もなかったので、特に何か感想などを書くつもりも、その資格もない私だが、同じブロガーとして凄い管理人だったなぁ、とは思う。

 拙ブログは落語を中心としているものの、いろんなことを書きなぐっている。

 果たして、病で旅立つ直前まで書き続けることができようか・・・・・・。
 まず、無理だろうと思う。
 気力も体力もなくなるだろう。

 不謹慎なことかもしれないが、今思うことは、ブログとブロガーの寿命。
 ブログの生命は、もちろん管理人のそれに準じる。
 読者のアクセスも、また然り。
 このブログも、書き始めて丸九年が経った。

 以前頻繁にコメントをいただいていた方からの音信がなくなり、寂しく思うこともある。

 コメントが途絶えた理由としては、いろんな事情があるだろう。

 私と同様に還暦過ぎ、あるいはそれ以上高齢の方も読者として数多くいらしゃると察する。

 介護やご本人の体調なども、関係してくる年齢だ。

 そういった読者の方がこの記事をご覧になっていて、お元気ならば、管理人だけ閲覧モードでもいいので、ご一報いただければ、大変嬉しい。
 実に勝手な願いを綴ってしまったが、今回のことで思っている素直な心境である。

 一人の素晴らしいブロガーが旅立った。

 ご冥福をお祈りする。
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by kogotokoubei | 2017-06-24 14:47 | 幸兵衛の独り言 | Comments(4)
 前の記事で、円生の本から、「噺が箱にはいる」ということや、「未完成の完成」という記述について紹介した。

 いただいたコメントから、弟子が師匠の真似から脱することの難しさということに思いが至った。

 しかし、師匠から継承すべきもの、自分自身の芸として発展させるもの、という問題は、なかなか深い問題を孕んでいると思う。

 そんなことを考え、書棚にある何冊かの本に目を通してみた。

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榎本滋民著『古典落語の力』(ちくまライブラリー)

 榎本滋民さんの『古典落語の力』に、実に示唆に富んだ内容を見つけた。
 章の題が、この記事の題でもある。
 引用する。

伝えるものと創るもの

 落語が古典の名に値するには、伝統の継承と個性の創造という、古典の必要条件を、みたさなければならない。
 まず、規矩がなければ、古典ではない。落語は堅苦しい「型」のない、自由無碍な芸能であると、よくいわれるが、これは、はなはだ誤解されやすいいいかたで、絶対不動の定型こそなけれ、流動性をもつ「型」、無形に近い「型」はあるものであり、それが、芸能をして芸術たらしめる、規矩というものなのである。

 我が意を得たり、という内容。
 
 以前紹介した十代目金原亭馬生に関する本の記事では、馬生が弟子に発した「何でもいいんだよ」という印象的な言葉を紹介した。
2014年9月18日のブログ

 しかし、あくまで、規矩を大事にした上で、何でもいいんであって、「型」をないがしろにしては、それこそ、かたなしだ。
 
 榎本さんの本の続きを紹介。
 実は、この中に、円生の『寄席育ち』からの引用がある。
 規矩を余分な障害と思い、不自由さを劣悪な状態と考えることが、そもそもまちがっている。芸術にとっての規矩は、内燃機関や圧力釜における圧力のように、望ましい爆発や燃焼や噴出を得るために加える、不可欠の手段なのであり、不自由であればこそ、豊かな創造がなされるのである。だから、規矩は守られなければならない。
「初心のうちは師匠の教えてくれたとおりを演るべきもんだと思います。ものまねだと言われても結構、教わったとおりにちゃんとまねをするだけでも容易なことではありません。ましてやそれを本当の自分の芸にするまでには、随分年月がかかります。おのれの力を出せるだけの域に達しなければ、むやみに師匠を離れるべきもんじゃアない」(三遊亭円生『寄席育ち』)
 一方、規矩は、とらわれてはいけないものでもある。
「落語は、教わったとおりに演らなくても良い。従来できているそのまま演るのは死芸であって、咄家の手柄が表われない。他人と違うのが良い」(『四代目柳家小さん・遺稿』)
 これは、前説と矛盾しているようでありながら、決してそうではない。三遊派と柳派の落語観や芸能論の特色は出ているものの、一つの本質を両面からとらえた、二つの正論であり、継承と創造に関する、段階論でもあると、受けとるべきだろう。
 先人の芸はなぞってなぞってなぞり抜けという教えと、師匠の影法師や模型になるなという教えは、どちらも正しい。

 読んでいて、なんとも複雑な思いになった。

 前回の記事にいただいたコメントで、円生の“影法師”と言われた三遊亭好生、その後の春風亭一柳のことを思い出した。
 とにかく、師匠円生が大好きで落語家になった人だ。
 円生を“崇拝”していた、とも表現されている。

 しかし、円生は、高座姿から語り口まで、自分にそっくりな好生の芸を嫌ったと言われる。若い時分の下手だった自分の姿を見ているように思ったらしい。
 
 円生は、榎本さんが引用した著書の文章にあるように、芸の発展途上段階では、“ものまねだと言われても結構”と思っていたのではないのか・・・・・・。

 あるいは、円生が、当時の好生は“おのれの力を出せるだけの域”に達していることを、認めていた、ということか・・・・・・。

 最初の集団真打昇進で好生が真打に昇進しても、披露目に師匠が出ることはなかった。
 結果、昭和53年の円生一門落語協会脱退の際、好生と川柳は落語協会に残った。
 好生は円生とは犬猿の仲の八代目正蔵の門に入り、春風亭一柳と名乗った。
 彼のことは、後日また書くことにしよう。

 
 さて、伝えるもの、そして、創るもの・・・・・・。

 落語という芸の深さをあらためて感じた、榎本さんの文章だった。


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by kogotokoubei | 2017-06-23 21:27 | 落語の本 | Comments(2)
 ある落語愛好家の方から、むかし家今松の『お若伊之助』は、円生版を踏まえていると教えていただいた。
 
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三遊亭圓生著『寄席育ち』(青蛙房)

 そんなこともあって、円生の『寄席育ち』をめくっていた。
 「話しぐせ」という章に、「・・・・・そうしてからに」という口癖を先代(義父)に直されたことや、「尻(けつ)が切れる」(言葉尻がふわふわっと消えてなくなる)のを注意されたことが書かれている。

 その後に、次のような文章が続いていた。

 それから“噺が箱にはいる”ということを言います。あたくしが若い時分、教わったとおり一生懸命に練習して演る。すると、きちィんと一分一厘まちがいなく、言い違いもなく出来るわけです。そのかわり、ひと言何かここへ入れてみようと思っても入れることが出来ない。一つ一つの言葉がきちッとつながっちゃって、何もはいる余裕がないんですね。これを“箱へはいっちまう”といって、伸びる可能性がやや少なくなった状態です。この時も先代(おやじ)に「噺をこわせ、こわせ」と言われる。しかし、こわせってのは、どういうふうにやったらいいんだろうと考えたが、判らない。とにかく言葉が固まっちゃいけないから、もっと自由にしようと思ってやってみたが、なかなか出来ない・・・・・・あんまりきちんと覚えすぎて、自由さってものが少しもないわけです。約五、六年かかりましたね、噺をこわすのに。かちッと固まったものを今度はほごそうとして、出来ないから、新しいものを覚えて、古い噺は演らなくした。それで五、六年たって、やや忘れた時分に古い噺をまた始める。そうすると先(せん)よりは自由になってくる。これは小円蔵あたりから・・・・・・円好の時代までやっていたかもしれません。固まった噺はよして、新しい噺や、いくらかほごれてきた噺をするようにした。それからは噺が固まらないようにという癖がついて、同じに演ろうと思ってもどうしても出来ません。毎回いくらかずつ違う。そのかわり抜こうと思えば抜けるし、入れようと思えば入れられるし、言い方を変えてみることも出来る。もちろん、それがあたりまえのことで、時間の延び縮みが自由に出来なければ商売人じゃアありません。そのかわりあたくしの噺は、疵がずいぶん多い。言い間違いがあったり、はッとつかえたりすることもある。しかし芸はとにかく固まっちゃいけないと思います。芸は少しでも動いている間は伸びる可能性があります。全然動かなくなって、水でいえば溜り水になるのが一番いけません。少しずつでも流れていれば、いくらかでも先に行けるわけですから。

 なかなか深い話だ。

 “箱にはいった”噺は、考えようによっては、実に演りやすい噺で、“箱”ではなく“十八番(おはこ)”に近いかもしれない。

 しかし、成長途上の時に、得意ネタが固まらないように、あえてしばらく置いておく。
 なかなか出来ることではないだろうが、現代の噺家さん達にとっても、含蓄のある忠告だと思う。

 義父であった五代目円生が、六代目にとって実に得難い師匠であったことが、この本を読むと分かる。

 この文章の後も、ご紹介。

 芸はなにによらず、完成してしまうと面白味がなくなるといいます。もう少しで完成するんだが・・・・・・という、そこに興味がある。“未完成の完成”という、これは伊東深水先生からうかがった言葉ですが、あたくしは生涯未完成でありたいと思います。未完成でしかも完成した芸に、人も自分もまだ先の望みのある芸になりたいと思います。

 本書の初版は昭和四十(1965)年。
 明治三十三(1900)年生まれの円生が六十五歳の時。
 
 その頃に「生涯未完成でありたい」と言っていた円生。

 私は、かつて円生が苦手だった。
 一つは、八代目正蔵が好きだったので、その敵(?)が好きになれなかった、ということもある。
 また、その人柄について、あまり好ましくないことも本などで知ることが多かった。

 しかし、今は、そういった先入観を払拭しつつある。
 音源を聴くと、やはり、巧いと思う。

 たとえば、『包丁』。
 談志が談春のこの噺をべた褒めしたようだ。
 私は新文芸坐で聴いている。たしかに、悪くはない。
 しかし、円生の音源とは、比べようがない。
 当り前だが、小唄一つとっても、まったく芸の深さが違う。
 
 あらためて円生という人を見直す文章を読んで、もっとあの人の音源を聴かなきゃ、と思うのであった。
 
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by kogotokoubei | 2017-06-20 12:51 | 落語の本 | Comments(4)
 落語協会の秋の真打昇進披露興行の案内が、同協会のホームページに先週載った。
 春五人に続き、三人が昇進する。
 案内の内容を、引用する。
落語協会ホームページの該当ページ

2017年06月15日
平成29年 秋 真打昇進披露興行

平成29年9月下席より
・桂三木男 改メ 五代目 桂三木助
・柳亭こみち
・古今亭志ん八 改メ 二代目 古今亭志ん五

前売り販売開始:7月21日(金)  ※国立演芸場のみ10月1日(日)より
お問い合わせ:一般社団法人落語協会 03-3833-8565
チケットぴあ:http://t.pia.jp/
Pコード入力または音声認識予約 ( 057 0-02-9999 )
ぴあプレミアム会員専用 ( 0570-02-9944 )
 相変わらずの、ぶっきらぼうな内容。
 各寄席の日程詳細は、添付されているポスターで確認してくれ、というのが落語協会の考えらしい。実に不親切。

 落語芸術協会は、二人の披露目は明日が池袋の千秋楽。
 その後の国立を含め、次のように案内されている。
落語芸術協会ホームページの該当ページ

更新日2017年6月11日
真打昇進披露興行。6/11より六月中席池袋演芸場です!

五月上席新宿末廣亭、五月中席浅草演芸ホールと続いてまいりました真打昇進披露興行、6月11日~池袋演芸場での興行となります。

昔昔亭 桃之助
笑福亭 和光

大盛況で新宿末廣亭、浅草演芸ホールの披露興行を終えて、益々の笑顔で張り切っております新真打の応援に是非寄席へご来場下さい。

真打昇進襲名披露興行

池袋演芸場 夜の部
6月11日~20日
主任予定日(※両名とも全日程出演致します)
桃之助 11.13.15.17.19
和 光 12.14.16.18.20

お江戸日本橋亭
6月22日 桃之助
6月21日 和 光

国立演芸場 昼の部(7日夜の部あり)
7月2日~10日
主任予定日
桃之助 2.4.6.8.10
和 光 3.5.7昼夜.9

お江戸上野広小路亭
7月1日 桃之助
7月2日 和 光

名古屋・大須演芸場
7月15日~17日
主任予定日(※両名とも全日程出演致します)
桃之助 15(1部・2部).16(1部)
和 光 16(2部).17(1部・2部)

 以前も書いたことなので、しつこい、というお叱りを覚悟で書くが、落語協会は文字情報としても日程を掲載すべきである。

 この五人、全員聴いたことがあり、なんとか駆けつけたい人はいるのだが、行けるかなぁ。

 
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by kogotokoubei | 2017-06-19 17:53 | 真打 | Comments(0)
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佐藤光房著『合本 東京落語地図』(朝日文庫)
 前の記事で引用した佐藤光房著『合本 東京落語地図』からは、多くのことを学んでいる。

 今月初めて聴くことのできた立川ぜん馬。
 そのネタ『唖の釣り』の章で、この噺の舞台である不忍池には、埋め立てされる危機があったこと、そして、その危機から救った人たちがいたことを知った。

 引用する。
 戦後間もないころ、先代三遊亭金馬(昭和39年没)が『目黒のさんま』のまくらで「銀座の真ん中でカボチャができましたり、不忍池で稲刈りが始まりました世の中です」といっていた。昭和21年、浅草千束国民学校の戦災者救済会が、都公園緑地課と掛け合って弁天堂の南側六町歩を干拓、三年のあいだ米を作り、上野田んぼといわれた、と当時の新聞にある。

 一町歩は約3000坪だから、六町歩は・・・結構広いと言えるかな。
 引用を続ける。
 上野田んぼの計画には、先例があった。明治三年、池を埋め立てて水田にする計画が許可された。これを知って怒ったのが、池之端に住む亀谷省軒という詩人。悲憤の詩を作って、維新の功臣、五百円札の岩倉具視の執事山本復一に見せた。山本を通じてこのことを知った岩倉は、埋め立て計画を撤回させた。亀谷はのちに岩倉の徳をたたえる詩を作った、と『東京市史稿』にある。
 岩倉具視の五百円札、懐かしい。
 しかし、岩倉については、孝明天皇の暗殺犯人の首謀者と思っているので、あまり良い印象はない。
 とはいえ、市民の声に耳を向け、不忍池を守ったことについては、評価しなくてはいけないだろう。

 国民の声を無視して、やりたい放題のどこかの国の政府に比べれば、まだ、政治家がまっとうな時代の話。

 さて、話はまだ続く。
 昭和二十四年、埋め立て計画が再燃した。後楽園スタヂアムなど四団体が野球場を、一団体が遊園地づくりを計画し、計五つの請願が都に出された。公聴会が開かれたり、都議会建設委で球場建設の請願がいったん許可されるなど、危うく実現するところだった。
 結局は池を残せという世論が勝ったのだが、それにはひとつの面白い裏話があった。球場建設を計画した四団体のうちで最も有力だった「国際球場建設委員会」の代表、中島久万吉は、戦前に商工大臣を務めた財界人、ところがその夫人が、明治の埋め立てを阻んだ岩倉具視の孫だったのだ。「せっかく祖父が残したものを、孫の婿が埋めるのか」と攻撃されては、なんとも具合が悪かった。
 弁天島参道の天竜橋際にある「不忍池由来碑」の裏面には、天海僧正から上野田んぼは、野球場計画までの歴史が刻まれている。

 不忍池は、祖父と孫の岩倉具視一族によって守られてきたということか。

 どこかの政治家は、どうも悪い方向に祖父の血を継承しているが・・・・・・。

 近いうちに、不忍池と根岸に、どうしても行きたくなった。

 落語を素材に、いろんな史跡や歴史を知ることも、私の大きな楽しみの一つである。
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by kogotokoubei | 2017-06-17 10:41 | 落語の本 | Comments(0)
 座間で今松『お若伊之助』を楽しんだ。
 あの噺はあくまでフィクションで、御行の松の根方に「因果塚」などはないだろう、と思っていたら、なんとなんと・・・・・・。

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佐藤光房著『合本 東京落語地図』(朝日文庫)

 佐藤光房著『合本 東京落語地図』(朝日文庫)から、引用する。

 まずは、御行の松について。

 御行の松は根岸四ノ九ノ五、荒川区との境に近い御行の松不動堂の境内にあった名松。寛永寺の門跡、輪王寺宮が上野山内を巡拝されるとき、必ずこの松の下で休まれたことからこの名がついた。

 この由来については諸説あり、今松は、慈眼法師が若い頃に近くで修業した、と言っていたような気がする。勉強不足で、詳しいことは分からないがご容赦を。

 引用を続けよう。

 大正十九年、天然記念物に指定された当時は、樹齢約三百五十年、周囲4.09メートル、高さ13.63メートルもあり、枝が傘を広げたように垂れ下がっていた。堂のすぐ前を音無川の清流が流れて、まさに「呉竹の根岸の里」風情だったという。
 ところが、この松は昭和三年に枯死してしまった。昭和五年、傍らに「御行松」と彫った大きな石碑を建てるとともに、記念に幹のいちばん太い部分を保存して石の台座の上に置き、しめなわを張って屋根をかけた。が、この幹も戦災で堂もろとも焼けてしまった。
 戦争は、いろんなものを焼いてしまったのだ。
 戦後、今度は土中から根を掘り出し、台座の上に飾った。この根っこは風雨にさらされて年々風化しているが、いまも堂の左手にある。堂の中には、この根の一部で下谷二丁目の桜田幸三郎という七十歳の大工さんが彫った、身の丈およそ40センチの不動尊もまつられている。
 昭和三十一年、二代目の松を移植したが、すぐ枯れた。五十年、三代目を植えた。まだ若木だが、これはすくすく育っている。
 この本の元となった朝日新聞の連載が始まったのが昭和61(1986)年、私が持っている文庫の発行は平成3(1991)年。
 三代目でさえも、植えられてすでに四十二年が経過している。
 
 さて、御行の松の歴史はこれ位で、問題の“塚”のこと。

 ところで、この三代目、石碑、初代の根っこなどの周りをよくよく探してみたのだが、肝心の因果塚らしいものは見当たらない。戦後、無住になっていた不動堂は、近く(根岸三ノ十二ノ三八)の西蔵院の場外仏道になったが、同寺の住職も、因果塚なんて聞いたことはない、という。ま、考えてみれば人間が狸の子を産むわけがない。どうやら根も葉もないつくり話のようだ。
 ところが、である。その因果塚が建立されたのである。
 初代の根っこを掘ったり、三代目を植えたりして不動堂の運営に当たっているのは、地元の不動講の人たちだ。三代目を移植して十年目の昭和六十年、講の集まりに志ん生、円生の『お若伊之助』のテープを持ち込んだ人がいた。その席でテープを聞いて、せっかくこういう噺があるんだから、いっそ因果塚をつくっちまおう、ということに衆議一致した。落語好きの人たちが見にきてくれて、ついでにおさい銭をあげてくれれば堂の運営もいくらか楽になる、というわけだ。
 五年後の平成二年五月二十八日、不動堂の境内に紅白の幕を張りめぐらし、「狸塚再建披露式」が盛大に行われた。「因果塚」はイメージが暗いというので、「狸塚」にした。「再建」と銘打ったのは、江戸時代にあった塚が長い歳月の間に失われ、それを復活させたという思い入れ。落語を実話扱いした遊び心が、下町っ子らしくて粋なところだ。塚は秩父の赤玉という高さ70センチほどの自然石。そばにみかげ石で彫った夫婦の狸を配した。

 実に、い~い話ではないか。
 こういう下町っ子の粋なところ、見習わなくちゃねぇ。

 度々参考にさせていただく、「落語の舞台を歩く」のサイトから、この塚の写真をお借りした。
「落語の舞台を歩く」サイトの該当ページ
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 今度近くに行ったら、ぜひ手を合わせようと思う。
 御賽銭も忘れずに^^

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by kogotokoubei | 2017-06-15 12:36 | 落語のネタ | Comments(2)
 土曜日の「ざま昼席落語会」の今松の名高座二席の余韻がまだ残っている。
 一席目の『お若伊之助』は、かつて苦手なネタだったのだが、今松のおかげで印象が変わった。

 あの狸が伊之助に化けてお若に会いに来る場面の描き方などで、結構印象は変わるものだ。
 初五郎の根津-両国-根津-両国-根津、という行ったり来たりのドタバタが、まったくダレることなく楽しかった。

 この噺は、志ん朝がホール落語会でも少なからず演じていた。
 亡くなる半年前の朝日名人会の音源も残っている。

 そんなこともあり、朝日名人会がらみでネットを少しサーフィンしていて、Sony Music Directの“otonano”というサイトに、朝日名人会プロデューサーである京須偕充さんの「落語 みちの駅」というコラムがあるのを発見。

 朝日名人会の内容が中心だが、ざっと読んでいて、気になることがあった。

 それは、3月の名人会における柳亭市馬の『御神酒徳利』に関する内容。
Sony Music Direct「otonano」サイトの該当ページ

 引用する。
柳亭市馬さんは「御神酒(おみき)徳利」。数年前にいちどこの会で演じたネタですが、そのとき「東下り」の道中付けに少し乱れがあったので再演してもらいました。三代目柳家小さん以来の「占い八百屋」系「御神酒徳利」が大勢を占める今日、この大坂まで行く版は貴重です。こちらのほうが超現実の部分も含めて噺が格上だと思います。

 柳家の「占い八百屋」が大勢を占めて、それのどこが問題なのか。
 この噺は元が上方の「占い八百屋」で、東京への伝達経路には二つの流れがあると言われる。
 一つは三代目小さんが東京に移植したと言われており、柳家に伝わる「占い八百屋」だ。
 円生の御前口演に代表される番頭が大阪まで行く型は、五代目金原亭馬生が円生に伝え、円生が練り上げたと言われる。
 私はあの型では、円生より三木助の音源の方が好きだ。
 番頭が大阪に行く型は、どうしても時間がかかる。
 「占い八百屋」に比べてあまり演じられないのは、柳家の噺家さんが多いということと、その所要時間も影響しているのではなかろうか。
 柳家でも小満んはどちらの型も演じるし、私は瀧川鯉昇の大阪まで行く三木助版を踏まえたと思しき名演を二度聴いている。
 とはいえ、小満んも、落語研究会からの要望で演じたようだし、朝日名人会では京須さんが柳家の市馬に、柳家ではない型を、あえてリクエストしたわけだ。

 噺の元をたどるなら、番頭&大阪型の噺が「格上」とは言えないだろう。

 古くなるが、私は、第一回大手町落語会で権太楼が「占い八百屋」を演じた会の終演後のロビーで、番頭が犯人の型しか知らないお客さん同士が、「番頭じゃなく、八百屋なんだぁ」」と話していたのを耳にしたことを覚えている。
2010年2月27日のブログ


 それはともかく、気になるのは、“再演”のこと。
 読んでから、これはソニーで音源を発売するための再演なのだなぁ、と察したが、そんなのありか・・・と思う。

 かつて、まだ木戸銭がA席3500円の時代に、よく朝日名人会に行った時期がある。
 小三治の会はすぐにチケットが完売になっていたが、他の顔ぶれでは、それほどチケットが入手できにくいこともなかった。

 今は、木戸銭が高いことと、自分にとってあの会への有難味がなくなって、行く気にはなれない。
 結構“ハレの日”の落語会、という気分の高揚感のようなものが最初はあったが、それも次第に薄れてきた。
 そうそう、仲入りにシャンパンなんぞを飲んでいたことを思い出す^^

 いまだに、年間通し券、半年通し券の案内はもらうが、興味が薄れたことに加え、先の予定などは決められないので、内容に目を通すのみ。

 四月の会の記事では、一朝の初CDがもうじき出ることが書かれている。

 たしかに、志ん朝の音源なども含め、あの会は芸達者たちの音源を数多く出しているが、それが会の目的のようになってはダメなのではないか。

 以前の高座のやり直しで同じ噺家が同じネタ、というのは、決して“お客様ファースト”とは言えないだろう。

 落語研究会は、イーストの今野プロデューサーが人選、ネタ選びをしているようなので、京須さんは、あくまでテレビ用の解説者として関わっているのだろうが、朝日名人会は人選とネタ選びに加えソニーの音源制作にも関わっている。

 これって、結構凄い権力を持っているわけで、危険な面もあるように思う。

 数年前の高座が、残念ながら音源発売に及ばない内容であれば、その噺家のその高座は、残念ながら、二次的な商売と縁がなかったと諦めるべきではなかろうか。

 ソニーの音源発売のための再収録の場に朝日名人会を利用するのは、私は実に野暮なことだと思う。

 他に、その一席の枠を与えるべき噺家もいるだろうに。

 かつて京須さんの落語の本からは多くの示唆も受けたし、勉強にもなった。
 しかし、ここ数年の著作や、新聞などで書かれていることには、疑問を感じることも多い。

 老害とは言いたくないが、権力のある地位に長く居座ることは、政治と同じで、良いことはない。

 あの会についての小言は久しぶりだが、やはり、書かないわけいにはいかないと思う、コラムの内容だった。

 ソニーの音源を作るために朝日名人会が存在しているとするなら、高い木戸銭を払ってその場に足を運ぶお客さんを馬鹿にしていると言えないだろうか。

 生の落語会、寄席は、その一期一会が大事なのであって、その音声や映像は、あくまで二次的なおまけである。

 そのおまけのために、同じホール落語会で同じ噺家とネタが選ばれるというのは、本来の落語会の主旨に反する行為ではないか。

 私は、そう思う。


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by kogotokoubei | 2017-06-12 22:09 | 落語会 | Comments(4)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛