噺の話

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 日曜日の立川流落語会で、当代の小談志の高座(『お菊の皿』)を聴いた。

 この名では、どうしても先代の小談志を思い出してしまう。

 談四楼と一緒に真打昇進試験に不合格となり、昭和58年の立川流創設につながったのが、先代の小談志。

 立川流を辞めて、落語協会で喜久亭寿楽と名を替え、亡くなった。

 落語協会のホームページの物故者の欄に、プロフィールがある。
落語協会ホームページ「芸人紹介」の該当ページ
 
1969(昭和44)年 入門
1972(昭和47)年 前座となる
1975(昭和50)年 二ツ目昇進
1984(昭和59)年 真打昇進
1992(平成 4)年 談志門下より馬風門下へ
2008(平成20)年8月17日 肝硬変の為、死去

 昭和59年の「真打昇進」は、あくまで立川流の真打だが、そう書かれていないのが、落語協会らしさ^^

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立川談四楼著『談志が死んだ』(新潮文庫)
 
 談四楼の『談志が死んだ』から、先代の小談志に関わる逸話を、ご紹介したい。

 談志が亡くなった後の談四楼たち弟子数名が集まっての会話。
 談志のお嬢さん(弓ちゃん)が入院したことがあり、談志は「見舞いにゃ及ばん」と言っていたのに、抜け駆けした者がいて、結局、談志は、他の弟子に「なぜ見舞いに来ない」と激怒。「今日来ていないヤツは倍付けの罰金だ」と言い出した騒動のことから、快楽亭ブラックの話題になり、一堂大笑いになった後の場面。

 その笑いが収まった時、談幸がボソリと言った。
「あの後ですよね、小談志兄さんが辞めたのは」
 一瞬、尻が浮いた。そう、その名が出てこないのでヘソを曲げていたのだが、まさかこんな形で出るなんて。何だって談幸、あの弓ちゃん事件の後に小談志兄さんが辞めたって?それは本当か。
「ええ、よく覚えてます。だいぶヘコんでましたからねえ」
 まさか、小談志は罰金くらいでヘコむ男じゃない。家はあるし、扶養するのはおっかさん一人だし、兄貴だっているんだ。違う。弓ちゃんの件はあくまできっかけであって、カネを取られたから辞めたんじゃない。
「あいつの手が治った時はホッとしたよな」
 おお、左談次の助け船だ、ありがたい。そう、あれは一門の喜びだった。手の皮膚炎のことで談志からやいのやいの言われることはなくなったのだから。あれはまだ真打になる前、二ツ目の頃だった。
「確か草津で治したんだよな」
 左談次の問いを私が引き取った。
「そうです。あるお客さんが見かねて、上州は草津の温泉旅館を紹介したんです。昼は湯治で夜は宴会の余興、それを繰り返すこと一ヶ月、手をすっかり治し、おまけにギャラまでもらって帰ってきたんです」
「効いたわけだな、草津の湯が」
「効きますとも。『草津よいとこ薬の温泉(いでゆ)』ってくらいのもん」
「また始まりゃがったな、『上毛かるた』が」
「まだありますよ。『伊香保温泉日本の名湯』『世のちり洗う四万温泉』・・・・・・」
「うるせいよ、群馬ヤロー」
「ずいぶんネチネチやられてましたもんね」
 と再び談幸。
「何の話?」
「小談志兄さんです。あの試験の後、師匠は小さん師匠に電話したらしいんです。で、小さん師匠が、談四楼はともかく小談志はヒドいって」
「待てよ、ヒドいのは他にもっといたぜ。悪く見てもあの兄さんは中の上だよ」
「でも師匠はそれを信じたんです。脱退は決意したものの、まだあの時は小さんとは師弟でしたから」

 これで、小談志という噺家の輪郭が、ぼんやりではあるが、浮かんでくるのではなかろうか。

 そして、このやりとりで、談四楼は、ある光景を思い出す。
 ふいに有楽町は芸術座での光景が脳裏に浮かんだ。
「芸術座で小談志兄さんと披露目をやったんだけど・・・・・・」
「ああ、あそこな。建て替えで東宝名人会がなくなって、確か芸術座で月イチかなんかの興行を打ったんだよな。オレも披露目やったからよく覚えてるよ。目茶苦茶キップ売らされてギャラは雀の涙、あの疲れ方だけはよく覚えてる」
 そうだ、それは兄弟子である左談次も通った道なのだ。芸術座のシステムは立川流となっても変わらず、数十万円のチケットを売り歩き、支払い、差額の一万数千円をもらったのだ。小談志と二人、打ち上げの店の支払いを済ませると、その出費総額のあまりの多さに呆然としたっけ。
 いや、唐突に思い出したのはその光景ではない。芸術座の袖だ。下手だ。色川武大先生がそこにいた。私が一席やって仲入り、そのあと口上があって、トリの小談志が高座にいた。色川先生の隣りにシルエット、あ、あれは談志だ。色川先生と談志は口上に並び、色川先生からは身に余る言葉をいただいた。先生と談志は着換えを済ませ、舞台の袖から小談志の高座に目を向けていた。
 私もまた着換えを済ませ、小談志の高座を見届けるべく、下手の袖へと近づいてゆく。色川先生は立って腕を組み、聞き入っていた。談志が話しかけ、色川先生が目を見開いた。ああ、なぜ私はこの肝心なシーンを封印していたのだろう。談志は言った。
「先生、聞かなくていいですよ、こいつの高座。これは私の失敗作ですから」
 立川流の顧問になって、まだ間もない色川先生だった。
 (中 略)
 いつもは眼半眼の体の先生の目が、この時ばかりはカッと見開かれた。そして言ったのだ。
「談志クン、お弟子さんのことをそんな風に言うもんじゃないよ。いいお弟子さんじゃないか。楽屋で見ていてもわかる。キミへの敬意があふれてるよ。いや、それは確かに少し大間かもしれない。時流とのテンポが合わないのもわかる。でも昔はもっと大間の人がたくさんいたんだよ。それはキミも知ってるはずじゃないか」。
 談志は黙って聞いていた。私は気配を消して固唾を飲んで二人を見つめていた。


 以前紹介した高田文夫の「誰も書けなかった『笑芸論』」の立川談志の章に、次のようなことが書かれていた。
 
 残したお言葉数あれど、最高なのが、
「馬鹿は火事より恐い」
 他にも、
「銭湯は裏切らない」
「人生、成り行き」
「親切だけが人を納得させる」
 尊敬する人は「手塚治虫」「森繁久弥」「色川武大」。

 尊敬した色川武大の言葉を、談志はどう腹に収めたのだろうか。
 
 談志と小談志の間には、談四楼が知らなかったどんな事件や会話があったのか、二人ともいない今では、知る術はない。

 

 談四楼の本には、喜久亭寿楽として亡くなった先代小談志の横浜で行われた通夜のことが書かれている。
 少し早く着いたようだ。次第に落語家の数が増え、立川流の兄弟子や弟弟子もやってきた。
「急だな。脳溢血か?」
「心臓って聞いたけど」
「そうか、いくつだった?」
「五十を出たばかりじゃねえか」
「若ェな」
「うん、若過ぎる」
 落語協会の者同士がそんなことを言っている。出鱈目ばかりだ。心臓じゃない、肝臓だ。五十を出たばかりときた。五十六だ、よく覚えとけ。こいつら、関心もないのか。兄さんよ、なんでこんなヤツらのいる協会なんかに・・・・・・。
 ライオンズ協会の法被を着ている人が異様に多い。そうか、兄さんはクラブ活動と称し、ライオンズクラブにけっこう打ち込んでいたんだっけ。それにしても、受付、案内役と彼らの活躍ぶりは目ざましく、所属する横浜のみならず、神奈川、いや全国からやってきているのだ。かつての私の兄弟子のために。
 読経の中、焼香がすむと、法被の人が通夜振る舞いの席に案内してくれた。相当数の落語家の出席が見込まれ、一般客とは別に専用の部屋が設けられたらしい。漫才など色物の芸人もいる。
 兄弟子の左談次と二人、落語協会会長の鈴々舎馬風夫婦に挨拶する。
「この度はどうも・・・・・・」
「おう、よく来てくれたな。これからという時に残念だよ」
 この人に引き取られ、喜久亭寿楽という名で死んだのだ、立川小談志は。

 残念ながら、立川小談志、そして、喜久亭寿楽の高座を聴く機会はなかった。

 その小談志という名を継いだ当代の高座にはご縁があった。

 また、ぜん馬、談四楼なども初めて聴くことができた。

 いろいろ野暮用もあり、数年前に比べて寄席や落語会に行く回数は減ったが、できるだけまだ聴いていない人の高座に出会いたい、と思っている。

 日曜の立川流落語会に初めて行って、どうしても、先代の小談志のことを書きたくなった次第。


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by kogotokoubei | 2017-05-31 21:36 | 落語の本 | Comments(2)
 金曜の池袋まで、いろいろ野暮用で落語に行けなかった。
 その間、ネットで調べていて、この落語会を発見していた。

 あら、日曜の昼だ・・・・・・。
 恒例のテニスの日。

 しかし、どうしても三日間開催の千秋楽、トリの談四楼の高座を聴きたくて、演芸場に電話したところ、チケットが二席残っているとのこと。
 これはご縁があるということと、テニスを休んで隼町へ。

立川流落語会と言っても、人気者は、初日に談笑、二日目に志らくが出るが、志の輔と談春は出演しない。
国立演芸場サイトの該当公演のページ

 これが三日目の顔ぶれ。

28日(日)
落語  立川三四楼
落語  立川小談志
落語  立川志ら乃
落語  立川雲水
  -仲入り-
落語  立川談慶
落語  立川ぜん馬
字漫噺 立川文志
落語  立川談四楼 

 相当前に志ら乃を聴いているが、他の人は初めて聴くことになる。
 いただくコメントで評価の高い古参ぜん馬は、体調が悪いと伝え聞くので、気になっていた。

 名前の売れている四人の誰も出ない三日目、トリが談四楼となれば、私の天秤ばかりでは、テニスより“ら族”の立川流が重くなった^^

 “ら族”については、昨年、談四楼の著書『談志が死んだ』について何度か書いた中で、談志の祥月命日の記事でふれた。
2016年11月21日のブログ

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立川談四楼著『談志が死んだ』(新潮文庫)
 昨年の記事では引用しなかった文章を、『談志が死んだ』より紹介する。
 談志が死んだ際、様々な活字が新聞や雑誌に躍った。中にその後進育成に触れた記事があり、それは概ねこうだった。「・・・・・・談志は名伯楽でもあり、志の輔、談春、志らくらを育てた」。
 その場合は三羽烏などという言葉が添えてあり、そこに談笑を加えて四天王とするメディアもあって、いずれにしても志らくら、談笑らであり、ら族とは志らく、談笑のらなのである。
 談笑が入るんなら生志を入れてやらないとヘソを曲げるぞ等の一門における意見はあったが、その三人もしくは四人が談志によって育てられた代表的な弟子であると、マスコミは報じていた。つまり直弟子二十一人中、十七人がその他大勢の扱いを受けたわけで、先述のように、いいツラの皮であった。

 命日の記事にも書いたように、私は、実は“ら族”こそが、談志のDNAを継いでいる人たちではないかと思っている。

 演芸場の窓口でチケットを受け取り近くの中華料理店で昼食をとってから、会場へ。

 客席は九割ほど埋まっている。
 しかし、客層は志の輔や談春の会とは違う雰囲気。寄席に近い空間とでも言って良いかもしれない。

 出演順に、ネタと感想などを記す。

(開口一番)立川だん子『転失気』 (12分 *12:46~)
 登場して、会場に静かなざわめき。女流で、若い・・・とは言えない。
 談四楼の弟子とのこと。後で調べたら三年前の入門。誕生日は分かったが、生年は不明^^
 高座の方は、前座としてなら決して悪くない。医者と珍念との会話で、「玉子は御所車」など寺の隠語を挟むあたりの工夫も楽しかった。
 それにしても、どういう経緯で落語界に入ったのかなど、少し気になる方ではある。
 なお、だん子と次に登場した三四楼については、談四楼の「だいしろう商店」というサイトの弟子紹介ページでプロフィールを確認できる。
「だんしろう商店」サイトの弟子紹介ページ

立川三四楼『天狗のお願い』 (14分)
 紹介したサイトにあるように、快楽亭ブラック門下から移った談四楼の筆頭弟子らしいが、なんとも不思議な人だ。
 高座で立ち上がって大声でなにやら自己紹介。
 本編は新作。主人公の男の部屋に天狗がやって来て、翌日のTPP(天狗プロフェッショナル会議)参加のために、鼻をカタに一万円を貸してくれと言ったことから始まる噺。鼻用の小道具や天狗のお面なども使うネタに、会場もやや引き気味だったように思う。

立川小談志『お菊の皿』 (17分)
 前座がまとめて破門になった時の被害者(?)の一人。今は龍志の預かりらしい。
 二ツ目で泉水亭錦魚を名乗っていて、その名だけは記憶に残っていた。
 ようやく本来の古典落語を聴けた、という印象。
 なかなか気持ちの良いリズムの語り口。
 「幽霊と貧乏人、どちらも、オアシがない」なんて地口も含め、江戸の風を感じさせる。
 龍志という新師匠の選択は間違っていないようだ。 
 
立川志ら乃『子ほめ』 (18分)
 唯一、聴いたことのある人が登場。
 ブログを始める前にも聴いているが、横浜にぎわい座での2008年9月の「志らく百席」以来なので、9年ぶりになる。
2008年9月4日のブログ
 最初の「志らく百席」には数回行っている。結構、意識的に聴きに行った時期だった。
 志ら乃は、こしらと共にすでに真打昇進が決まっていたので、談志の一周忌での記念落語会に出演しているようだが、家元の孫弟子としては、もっともそのDNAを感じさせる。
 高座での素振りも、意識しているのかどうか分からないが、どことなく、「う~」という言葉や間を含め、家元に似てきた。これは、結構後から悩みの種になるかもしれない。
 マクラでは表参道で教会が実施したホームレス(150人!)への「炊き出し」の余興として落語を披露したという逸話。その時と同じネタを、とこの噺。
 八五郎が「赤ん坊はどこだ~」と言う、なまはげ的な演出などもあったが、基本は大きく変えていない。
 ギャラは炊き出しのカレーライスです、と言ったら会場が不満を訴える雰囲気になり、翌日神父からお礼のメールの中で、ある一人の男が千円札を神父に私、志ら乃に渡してくれとのことだった、というのはもしかするとネタか^^
 先日、菊丸の一席目でもこの噺を聴いたが、違う味わいとはいえ、前座噺を真打がしっかり演じれば楽しいという実例を連続して聴いた印象。家元の孫弟子の筆頭と言えるだろう。

立川雲水『阿弥陀池』 (22分)
 仲入りは、神戸出身で、文都亡き今、立川流で唯一上方落語を演じる人。
 談四楼の著作では、談志が亡くなる前後で、一門メンバーに精力的に連絡役を果たしたらしい。
 現在、立川流の公演情報は、この人のブログで案内されている。
立川雲水のブログ
 なかなか楽しい高座だった。
 たとえば、男が聞いたばかりの作り話、米屋のおっさんが泥棒に刺された一件を友人に語る件の一回目に、心臓と言う場面で「しんねこ」->「しんおおありくい」から「しんぞう」になるあたりも可笑しい。
 しかし、町内を調べつくすことについて、「町内の落合信彦」は、ちょっと古くてマイナーで、客席の大半のお客さんには難しすぎるだろう^^

 なるほど、こういう人もいたんだ、と発見した気分。
 それにしても、東にいて上方落語を演じるにあたっては、稽古するにしても苦労は多いだろうなぁ、と思う。
 
立川談慶『紙入れ』 (17分)
 後半は、かつて立川ワコールを名乗っていたこの人。
 ネタに入る際の羽織の脱ぎ方が粗っぽく座布団の脇に置きっぱなしで、それが最後まで気になった。
 落語をあまりお聴きではないお客さんも多かったようで、会場からこの日もっとも多くの笑いを引き出していたように思うが、一つ一つの所作も大事なのだ。
 雰囲気や芸風は林家種平に似ているような印象。
 笑いのツボは押さえているように思うが、落語家としてのツボもしっかり押さえて欲しい。

立川ぜん馬『唖の釣り』 (22分)
 ようやく聴くことが出来た。昭和56年、二ツ目の朝寝坊のらく時代にNHKで優勝している実力者だ。
 マクラで、二年前に急に声が出なくなり病院に行くと、食道癌のステージ4と言われたと明かす。その後の放射線と抗がん剤の治療で快復しつつあり、なんとか高座に上がることができた、と笑顔で語る。
 声はかすれているが、落語を演じることのできる喜びを全身で表現するような高座だった。
 マクラで釣り好きの小咄をふっていたので、「もしかして、『野ざらし』か?」と思っていたらこの噺。
 生の落語でなければ味わえない楽しさに溢れていた。
 今年のマイベスト十席とはいかないが、何か賞を贈呈したいので、を付けておく。

立川文志 字漫噺 (15分)
 立川流では貴重な色物。
 寄席文字に似た文志流の江戸文字を書く人。
 その内容などは、ご本人のサイトに詳しい。
 立川文志のサイト
 奥さんをネタにした造語を江戸文字にした内容が多かった。
 「一住一妻」などは褒める内容だが、結構恐妻家か、と思わせる内容で笑いをとっていた。

立川談四楼『人情八百屋』 (25分 *~15:54)
 春の国立演芸場でのこの会も、開催からすでに七・八年経ち定着してきたとマクラで語る。また、もう七回忌と言っていたが、そうか、六年経ったか。
 春日清鶴の浪曲を元に談志が創作した噺を、とこのネタへ。
 しかし、浪曲の前に講談があったようなので、講釈->浪曲->落語、という沿革の中で磨かれてきた噺と言って良いのだろう。
 亡くなって約三ヵ月後のBSジャパンの追悼番組で、縁ある人が、家元のネタで何が一番好きか、という問いに、吉川潮がこの噺を挙げていたことを記事に書いた。
2021年2月9日のブログ
 聴いたことがなかったので、嬉しいネタの選択。

 『唐茄子屋政談』で徳が誓願寺長屋(せいがんじだな)の貧しい母子の家を訪れた後から始まるような、こんな内容。

(1)棒手振りの八百屋を営む平助が女房に訊ねる。十日ほど前、霊岸島で貧しい母子に出会った。聞くと、亭主は患って寝たきりとのこと。残った茄子と持っていた三百文を渡してきたのだが、あれっぽっちの銭じゃ、失礼だったか。できた女房に、そりゃ失礼だ、家の有り金全部持ってお行きと言われ再訪。

(2)その親子の住む長屋に着くが、貸家になっている。不審に思い近所の人に聞くと、平助が訪ねた後、因業大家の伊勢勘がやって来て恵んだ銭を店賃の一部だと持って帰ったとのこと。平助に申し訳ないのと、哀しみのあまり夫婦は二人の子どもを残して死んでしまったとのこと。

(3)その話を聞かせてくれた女性の旦那が鳶の頭(かしら)で、その夫婦が、その子供たちを預かっているとのこと。今、夫は出かけているが、八百屋さんに会いたがっているから、線香をあげて、帰りを待っておくれ、と言われた平助。

(4)平助が仏壇に向かって悔やみをつぶやいているところに、頭が子どもとたちと一緒に帰ってきた。この頭、夫婦が自殺したのを知り大家の家に乗り込んだ。伊勢勘はどこかへ引っ越したようだったが、日頃の怨みが募る長屋の連中と一緒に、その家を取り壊したらしい。

(5)町方同心も伊勢勘には厳しくあたり、長屋連中には憐み深いお沙汰になったとのこと。頭から、ぜひ義兄弟になって欲しいと言われた平助。弟分になった頭は、残った子供たちが心配だだ、いつ火消で命を失うかわからない鳶があずかるわけにもいかないから、平助夫婦に預かって欲しいと頼む。

(6)子供に恵まれなかった平助は、喜んで二人を預かると請け合う。あらためて迎えに来ると言って頭の家を去りかけた平助が振り向いて頭に言う。子供を育てたことのない身で、果たして躾ができますでしょうか」

(7)頭の「大丈夫だよ。火消の俺が、とても火付けはできねぇ」でサゲ。

 談四楼の高座で光ったのは、まず、平助夫婦の会話。中でも、女房の優しさと内に秘めた強さがしっかり伝わった。
 そして、群馬生まれの談四楼による鳶の頭の江戸弁も悪くない。
 機会があれば、『大工調べ』など聴きたくなった。
 平助に世話になることになった時、健気に挨拶をする姉のタミ、無邪気ながら平助を慕う弟のゲンの姿も、聴く者の目頭を熱くさせる。
 なかでも印象に残ったのは、頭が最初、二人のうちどちらかを預かってくれ、と言うのだが、平助は「いえ、二人とも預かります。二人いれば、哀しみは半分になり、喜びは倍になると言いますから」の言葉だ。この場面、良かったなぁ。
 初の談四楼で、この人の力量の高さを十分に感じた高座、今年のマイベスト十席候補とする。


 終演後、喫煙室で一服しながら、余韻に浸っていた。
 談四楼、そして、ぜん馬を聴くことができただけでも、来た甲斐があった。

 談志の七回忌記念の秋の落語会は、大きなホールで開催するようなので、行くつもりはない。
 次は談四楼の独演会にでも足を運びたいと思っている。

 “ら族”どころではなく、雲水、ぜん馬、もちろん談四楼も含め、それぞれ一枚看板である。

 私は談四楼のツィッターのファンでもある。
 時事ネタを交えながらも、ユーモアたっぷり。
 さすが、小説も書ける噺家。

 23日の小満んの会には行けなかったが、なんとか、今月も月末に二度、落語会に行くことができた。
 偶然にも菊丸と談四楼の二人は、昭和二十六年生まれ、私の四つ年上で六十六歳。
 団塊の世代の少し下で、私とほぼ同じような時代を生きてきた人たちだ。
 こういう人たちの元気な高座を聴くのは、自分への励ましにもなるような気がする。
 そんな思いのした、金曜と日曜の落語会だった。
 
 
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by kogotokoubei | 2017-05-29 12:27 | 落語会 | Comments(4)
 都内で用を足して、池袋へ。
 予定が決まった当初は末広亭に行くつもりでいたのだが、池袋でこの二人会があることを知り変更。菊丸の名に惹かれたのだった。

 それにしても、この二人、年齢は少し離れているはずなのに、どんな縁があったのだろう、と落語協会のホームページを見て得心。
落語協会ホームページの「芸人紹介」のページ

古今亭菊丸
1975(昭和50)年11月 古今亭圓菊に入門 前座名「菊助」
1976(昭和51)年3月 広島修道大学卒業
1980(昭和55)年6月 二ツ目昇進 「菊之助」と改名
1990(平成2)年3月 真打昇進 「菊丸」と改名

柳家福治
1980(昭和55)年3月 広島修道大学卒業
1981(昭和56)年3月 柳家小三治に入門
1982(昭和57)年2月 前座となる 前座名「つむ治」
1986(昭和61)年9月 二ツ目昇進 「福治」と改名
1996(平成8)年3月 真打昇進


 なるほど、大学の先輩と後輩だった。

 念のため開演30分ほど前に入ると、すでに客席が八割ほど埋まっている。
 開演前には九割がたの入りの大盛況。
 週末とは言え、平日夜の池袋とは思えなかった。

 後で二人のマクラで知るのだが、年に一回15年、今回の15回目で最終回とのこと。

 なるほど、仲入りの際に顔見知りと思しきお客さんの会話で大学の名も聞こえたので、二人を知る人たちが大勢駆けつけたということか。

 長らく開催されているある落語会を、池袋で最初で最後に経験するというのは、二年前の「たまごの会」でもそうだった。
2015年10月24日のブログ

 なんとか縁があって、最後の会に立ち会えたのは僥倖と言えるのだろう。

 福治は初めて聴く。
 菊丸は、五年余り前の横浜にぎわい座で『火事息子』を聴いて以来になる。
2012年12月1日のブログ


 こんな構成だった。
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(開口一番)林家彦星『真田小僧』
古今亭菊丸 『子ほめ』
柳家福治  『だくだく』
(仲入り)
柳家福治  『目薬』
古今亭菊丸 『中村仲蔵』
-------------------------------------

林家彦星『真田小僧』 (14分 *18:31~)
 四月の末広亭夜の部の開口一番で初めて聴いて以来。やはり、語り口がはっきりしていない。二列目の席でよく見え、よく聞こえる場所でさえ、会話の切り返しで科白を飲むのが気になる。昨年正雀に入門したばかりなのだから、まずは、大きな声ではっきりと、という基本を大事にして欲しい。
 正直なところ、私の方がうまいぞ^^

古今亭菊丸『子ほめ』 (15分)
 15年目、15回の最終回と聞き、初めて来た身としては、少し驚く。
 昭和26年4月生まれなので、私の四歳上で66歳だが、若々しいなぁ。
 彦星にあえて聴かせたかったのかと思わせる、お手本のような寄席の前座噺だが、芸達者が演じるとこれだけ面白い、ということだ。
 雲助もこの噺が好きで、寄席でまだこのネタがかかっていなかれば好んで演じるとのことだが、この人もこの噺が好きなのだろうなぁ、と思わせる好演。

柳家福治『だくだく』 (28分)
 ちょうど還暦、だから私の二歳下になる。しかし、見た目は菊丸より上に見えないこともない。
 小三治の弟子は、入門順に次のようになっている。

 柳家〆治・柳家喜多八・柳家はん治・柳家福治・柳亭燕路・柳家禽太夫・柳家小多け (1985年入門、1987年破門)・柳家一琴・柳家さんぽ(破門の後に三遊亭圓橘門下となった四代目三遊亭小圓朝)・柳家三三・柳家三之助・柳家小八(喜多八門下より)
 他の一門の噺家さんより寄席への出演などが少ないのが不思議だ。親しみのある雰囲気が私は嫌いじゃないし、この高座も悪くなかった。
 天才的な先生の絵が目に浮かんできた。

柳家福治『目薬』 (17分)
 仲入りをはさんで再登場。
 一席目のマクラで、これまでは二席づつ違うネタを演じてきたが、最終回ということで、お客様の様子を見て、以前にかけた噺をしたいと言っていたが、まさかこのネタとは。
 しかし、トリの先輩菊丸への配慮もあると思われるこの軽いネタは楽しかった。
 女房が尻を出している姿に「その包をほどけ」が妙に可笑しかった。
 この人の持ち味で、下品にならない高座。
 前日の客の入りが良い場合は翌日は天麩羅蕎麦をおごると言っていたが、今日の昼はきっと天麩羅蕎麦だろう。

古今亭菊丸『中村仲蔵』 (30分 *~20:30)
 黒紋付きで登場。マクラもふらずに本編へ。
 圧巻の高座と言って良いだろう。
 二列目なので、その顔の表情、身振り手振りがよく分かるが、過度に劇的にならず、落語としての歌舞伎の世界、とでも言うような「五段目」が登場した。
 果たして誰の型なのだろう。
 役者の身分を、下立役-中通り-相中-相中上分-名題下-名題、と丁寧に説明。
 「夢でもいいから持ちたいものは、金の成る木といい女房」を挟む。
 ざわめくばかりの客席に、「しくじった、ワルオチだった」と落胆して上方へ向かう途中、魚河岸で芝居を見た二人の会話を耳にし、「広い世界でたった一人でも、褒めてくれる人がいた」と呟く、などは正蔵の型だが、他の設定が少し違う。
 妙見様で満願の後に雨で飛び込んだ蕎麦屋で出会う浪人が、実は彼が中村仲蔵であると知っていた。しかし、侍本人は名乗らない。
 サゲ前には、団十郎の家に頭取と師匠の伝九郎が揃って待っているとともに、隣の部屋に女房のお吉がいる、という設定。
 サゲは祝いの肴に八百膳の弁当があると若い衆が言うと、団十郎が、「いやいや、もう仲蔵の前で、弁当へ喰えねぇや」。
 師匠円菊のこの噺を知らないのでなんとも言えないが、自分の工夫もあるのかもしれない。
 ちなみに、私の持っている音源では、志ん朝は正蔵版に近く、たとえば蕎麦屋の場面、浪人は名乗る。そして、浪人は仲蔵を役者と察するが堺屋とは知らない。
 志ん生は、どちらの名も明かさない。
 黒羽二重のひもときや茶献上の帯、蝋色の艶消しの大小落とし差し、などの浪人の姿の形容もリズミカルで、聴いていて心地よい。
 それぞれの人物造形も良く、なかでも仲蔵を慕い、そして元気づける女房おきしが実に良かった。
 一門の伝統とも言えるのかもしれないが、この人も女性が上手い。とはいえ、仲蔵の苦悩する姿、師匠や団十郎の貫禄、などそれぞれの登場人物が生き生きと描かれていた。
 最初で最後の会に出会った僥倖は、この見事な高座にも恵まれた。
 今年のマイベスト十席候補としないわけにはいかない。


 久しぶりの落語、池袋、菊丸・・・最初で最後の福治との二人会に行けたのは、まさに僥倖。
 さて、次の落語はいつ、どこでやら。
 結構近いうちかも^^

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by kogotokoubei | 2017-05-27 10:55 | 落語会 | Comments(2)
 福島第一原発事故のために全町が避難している大熊町の人々。
 避難先の会津若松市で、落語を楽しむ企画が実施されたようだ。
 河北新報から引用。
「河北新報」の該当記事

<全町避難>笑いを教育に 小中授業に落語や漫才

 東京電力福島第1原発事故で全町避難する福島県大熊町教委は本年度、小中学校の授業に笑いを取り入れるプロジェクトを始めた。避難生活が長期化する子どもたちの心を癒やし、コミュニケーション力を育てるのが狙いだ。
 会津若松市の大熊中仮校舎で22日、落語教室が開かれた。上方落語家桂雀太さん(40)が全生徒16人を前に授業をした。
 阪神大震災直後に大学を受験した時の様子をネタにした話や古典落語「まんじゅうこわい」を披露。教室は大きな笑いに包まれた。
 3年箭内朱里さん(14)は「想像以上に楽しい。体を使った表現がすごかった」と驚いた様子。3年植村篤史さん(14)は「日本に昔からある文化に触れられ面白かった」と語った。
 桂さんは「子どもたちはいろんな苦労があるだろうが、客観的に見て笑い飛ばせるように心の余裕を持つと、もっと軽やかに人生を進めると思う」と述べた。
 桂さんを交えたパネル討論もあった。「教育と笑いの会」名誉会長で植草学園大(千葉市)の野口芳宏名誉教授、町教委、PTAの関係者が「教育における笑いの効用」をテーマに意見を交わした。
 大熊中は6~7月、福島県に住みながら活動するお笑いコンビ「ぺんぎんナッツ」を講師に招き、生徒が漫才を学ぶ講座を計4回実施する。
2017年5月23日火曜日

 桂雀太は、雀三郎の弟子で、昨年のNHK新人落語大賞受賞者。
 なかなか良いことをするではないか。

 図らずも、避難先で初めて落語に接し笑ったことは、彼ら中学生の一生の思い出になるかもしれない。

 この記事を読んで、ある作家の言葉を思い出した。

 以前、伊集院靜への対談を「宅ファイル便」のサイトから紹介した。
2011年4月26日のブログ
 重複するが、再度対談記事から引用する。

夏目雅子さんが亡くなったのは1985年9月11日です。伊集院さんにとって、そのことを語るには25年もの年月が必要だったわけですね?

「死は哀しいものです。しかしそれは、『二度と会えなくなる』という意味において、それ以上でも以下のものでもありません。そのことに気づくには、それなりの時間がかかったけど、哀しみには終わりが来るんです。
私は、数年前に観た映画のこんなセリフに心を打たれました。チェチェンの老婆がそこで、こんなことを語ったんです。『あなたはまだ若いから知らないでしょうが、哀しみにも終わりがあるのよ』と」

 彼が見たであろう映画『チェチェンへ アレクサンドラの旅』の老婆の言葉、“哀しみにも終わりがあるのよ”には、なんとも深い、そして強いメッセージ性があるように思う。


 震災、原発事故からの復興は、まだ道半ばと言って良いだろう。
 親族を失った方の心中は察するに余りある。
 その喪失感、哀しみの辛さは、余人にはわからないものだろう。

 しかし、残された者は、前に向かって歩き出さなくてはならない。

 哀しみにも終わりがあって欲しい。
 
 その哀しみの終わりに笑いがあったのなら、なお良いだろう。

 河北の記事と伊集院靜の言葉から連想したのが、エレファントカシマシの「悲しみの果て」という歌。

 その歌詞の一部は、こうなっている。

 169.png涙のあとには
   笑いがあるはずさ
   誰かが言ってた
   本当なんだろう
   いつもの俺を
   笑っちまうんだろう

   部屋を飾ろう
   コーヒーを飲もう
   花を飾ってくれよ
   いつもの部屋に

   悲しみの果てに
   何があるかなんて
   悲しみの果ては
   素晴らしい日々を
   送っていこうぜ


 そうなのだ。
 最近、エレカシの歌が好きになって、携帯音楽プレーヤーでもよく聴く。
 実は、先日のテニス合宿の夕食後、カラオケでこの歌を初めて歌った^^
 

 映画や歌にも、人の心を動かすだけの力があると思う。

 そして、落語を聴くことで、重く暗かった心が開いて忘れていた笑いを引き出すことがきるのなら、落語という芸能にも実に大きな力があるということだろう。

 昨年、一週間余りの入院を経験したが、手術前夜や手術後の就寝前には携帯音楽プレーヤーでひたすら落語を聴いた。枝雀のネタなどでは、ベッド上で笑いをこらえるのに苦労した^^

 同じ病で手術を受けた同室の若者よりも回復が早かったのは、偶然ではなく、落語のおかげもあっただろうと実感している。

 大熊町の人々は故郷をほぼ永遠に近く失う可能性が高い。

 住もうにも、生きてはいけない放射能が残っている。

 別の土地で新たな人生を踏み出す時、笑いは大きな後押しをしてくれるように思う。

 大熊町のような「笑い」を取り戻すための企画、ぜひ、他の避難地域でも開催されることを期待したい。

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by kogotokoubei | 2017-05-24 12:49 | 落語関連イベント | Comments(2)
 能村庸一さんの訃報に接した。

 全国紙にも載っているが、「時代劇専門チャンネル」のサイトがもっとも詳しく業績などを紹介しているので、引用したい。

「時代劇専門チャンネル」サイトの該当ページ

お知らせ詳細
2017.05.22

【訃報】★・・時代劇プロデューサーの能村庸一さんがお亡くなりになりました(享年76)・・★

「鬼平犯科帳」を手がけられた時代劇プロデューサーの能村庸一さんが5月13日にお亡くなりになりました。76歳でした。

1941年東京生まれ。'63年フジテレビ入社。アナウンサーとして舞台中継などを担当した後、編成企画部へ。数々の番組に携わるなかとりわけ時代劇の制作に強くひかれ、「鬼平犯科帳」(中村吉右衛門主演)、「剣客商売」(藤田まこと主演)、「御家人斬九郎」(渡辺謙主演)、「八丁堀捕物ばなし」(役所広司主演)、「忠臣蔵」(北大路欣也主演)などレギュラー番組で20本、単発作品では映画も含め100本に及ぶ時代劇を手がけました。いずれもテレビ時代劇史に燦然と輝く名作です。

受賞も多数。
第20回ギャラクシー賞月間賞 「丹下左膳-剣風!百万両の壷-」('82年)
第31回ギャラクシー賞選奨 「八丁堀捕物ばなし」('93年)
第33回ギャラクシー賞奨励賞 「阿部一族」('95年)
など作品に対する受賞のほか、個人としても90年代・フジテレビ時代劇の企画・プロデュースに対して1999年には第36回ギャラクシー賞テレビ部門特別賞を受賞。執筆活動も行い、2000年にはテレビ時代劇の歴史をまとめた著書「実録・テレビ時代劇史」(東京新聞出版局)で第13回尾崎秀樹記念・大衆文学研究賞を受賞しました。

時代劇専門チャンネルには「時代劇ニュース オニワバン!」など情報番組・解説番組への出演から「鬼平外伝」シリーズをはじめとしたオリジナル時代劇の監修に至るまで大変なお力添えを賜りました。

深く感謝するとともに謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

時代劇専門チャンネルでは能村庸一さん最後のプロデュース作品となった「鬼平犯科帳 THE FINAL」を放送します。
〈放送スケジュール〉
7月29日(土)よる8:00「鬼平犯科帳 THE FINAL 前編 五年目の客」  
8月5日(土)よる8:00「鬼平犯科帳 THE FINAL 後編 雲竜剣」


 「時代劇ニュース オニワバン!」の最終回に関するサイト内のページで、能村さんの、あの笑顔を拝むことができる。
「時代劇専門チャンネル」サイトの該当ページ

 「鬼平」「剣客商売」を代表とする能村さんプロデュースの作品は、多くの池波正太郎ファン、そして時代劇ファンにとって、大いなる楽しみであったと思う。

 「時代劇ニュース オニワバン」が昨年終了したのが能村さんの体調に関係したのかどうかは、詳しくは知らない。
 あの番組も、結構好きだった。
 えなりかずきや春風亭三朝(当時は朝也)と能村さんとの楽しいやりとりなども思い出す。

 不定期の放送だったが、「能村庸一がこっそり教える時代劇スターが愛した場所」なども楽しかった。


 自宅近所に高層マンションが建つことにより工事費無料で入会したケーブルテレビのおかげ(?)で、「時代劇専門チャンネル」が、テレビで私がもっとも好きなチャンネルになった。

 「鬼平」は、何度も繰り返し見て飽きない。
 また、池波に限らず、藤沢周平原作のドラマも好きだ。
 仲代の作品がまとめる放送されたりもしている。
 
 
 現在の地上波テレビはスポーツ、ニュースとドキュメンタリー、良質な歴史ドラマや時代劇以外は、滅多に見ない。見るに堪えない、と言った方が良いだろう。
 特に、一山いくらというお笑い芸人が出るバラエティ番組には辟易する。
 また、コメンテーターなどと称して、何ら専門的な知識を持たないタレントが時事問題やら、芸人のスキャンダルに物申すのは、目にするだけで嫌になる。

 要するに、今のテレビの現場には本物のプロがほとんんどいないと思う。
 そして、彼らは、視聴率は気にするが、視聴“質”には無頓着なのだ。

 過去に能村さんがプロデュースしたドラマが今でも鑑賞に耐えるのは、スタッフも俳優も皆がプロフェッショナルの仕事だったからだと思う。
 その現場を離れても、“御意見番”として存在感のあった能村さんだった。

 テレビが、そして時代劇が輝いていた頃のプロフェッショナルが、また一人去った。

 能村庸一さんのご冥福を、心よりお祈りする。

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by kogotokoubei | 2017-05-22 21:17 | 歴史ドラマや時代劇 | Comments(0)
 積んであった本を読み、野暮用で行けなかった落語会を思い出した。


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森まゆみ著『明治東京畸人傳』(新潮文庫)
 その本は森まゆみさんの『明治東京畸人傳』。
 平成八年単行本、平成十一年の文庫化。森さんの住んでいる‘谷根千’近辺に縁のある人々について書かれた本。
 積ん読の中の一冊だった。

 読み始めて思い出した、行けなかった落語会というのは、4月29日に国立演芸場で開催された、むかし家今松独演会。

 森さんの本を、最初に「円朝・谷根千めぐり」の章から読み始めたのだが、こんな文章に遭遇。
 『怪談牡丹燈籠』の舞台について書かれた後の部分。

 新幡随院の向い側に大円寺という日蓮宗の寺があり、ここでは毎年十月十五日菊まつりが開かれている。境内に笠森稲荷があり、永井荷風による笠森お仙の碑、笹川臨風による鈴木春信の碑があることでも知られる。
「藤川庄三郎、彼(か)の大西徳蔵という車屋に供させて、人力でどっとと降(くだ)る中を谷中の笠森稲荷の手前の横町を曲がって、上にも笠森稲荷というのがありますが、下のほうがなにか瘡毒の願いが効くとか申して女郎衆やなにかがよくお参りにまいって、泥でこしらえたる団子を上げます。あの横町をまっすぐに行き右へ登ると七面坂、左が蛍沢、宗林寺という法華寺があります。その狭い横町をずうっと抜けると田んぼに出て、むこうがずっと駒込のほうの山の手に続き、かすかにまだ藪蕎麦の燈火が残っている。田んぼ道で車の輪がはまってなかなか引きません」
 これは明治四、五年まだ開けない時分の話を断わった語りおろし『松と藤芸妓の替紋』の一節だが当時の情景をほうふつさせる。

 ここまで読んで、「ありゃ、今松が独演会でネタ出ししていた、珍しい噺じゃないか!?」と心の中で叫んだのであった。
 居残り会仲間のIさんから、実に良い高座だったとメールを頂戴したことも思い出し、悔しさが込み上げてきた。

 この後には、その悔しさを倍加させる文章が続いている。
 人力車、フランケット、素敵(ステッキ)、ざんぎり頭などが登場するところが新奇だが、戊辰戦争で生き別れになった会津藩士の兄と妹、元旗本ながら車夫に身を落とした兄と横浜でラシャメンになった妹、二組の運命というところも時代である。

 まさに、実に私にとって興味深い時代背景と舞台設定。

 あの落語会は行けないことが事前にはっきりしていたので、円朝の原作を読むこともなかったが、そういう噺でしたか・・・・・・。

 この本を読んで、未練がましく行けなかった会のことを思い出した次第である。

 師走の末広亭で短縮版でいいので演ってくれないかなぁ。
 無理だろうなぁ。

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by kogotokoubei | 2017-05-20 15:20 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(2)
 16日の夜10時から、NHKのEテレで放送された「先人たちの底力 知恵泉」を見た。
 あの遠山の金さんは、実は大変な上司のために苦労した、というお話。
 NHKのサイトから引用。
NHKサイトの該当ページ

先人たちの底力 知恵泉「遠山金四郎 一件落着!苦手な上司対処法」

「この桜吹雪をよ~く見ろぃ!」実は遠山の金さんは上司に悩んでいた?「ワンマン」「ムチャぶり」「職場いじめ」…現代もいる迷惑上司に向きあう、一件落着!の知恵とは?

「お前の所業は、この桜吹雪がすべてお見通しだ!」と、嫌な上司に言えたらいいのに…。実は「遠山の金さん」こと遠山金四郎(景元)は、苦手な上司との関係に悩んでいた。上司は「天保の改革」で有名な老中・水野忠邦。江戸が衰退しかねない強引な改革を進める水野は、「ワンマン」「ムチャぶり」「職場いじめ」と3拍子そろった迷惑上司。庶民の笑顔を守るため金さんが駆使した、人づきあい全般にも使える、みごとな知恵とは?

 番組で「天保の改革」で、水野が寄席全廃を主張したが、遠山が意見書を出して、なんとか十五軒の寄席を残すことができたと紹介されていたが、たしかに、幅広い芸能に関して、あの改革は「改悪」でしかなかった。

 天保の改革においては、水野の方針のために八丁堀の同心たちも、大いに苦労した。

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林美一著『江戸の二十四時間』(河出文庫)

 時代考証家の林美一さんの著書『江戸の二十四時間』には、江戸時代の庶民や旗本、殿様や同心などのある一日の模様を描いていて、実に興味深い。

 本書の「定町廻同心の二十四時間」は、天保十二年(1842)に絵草紙、人情本、好色本等の取締りのために右往左往する定町廻同心、飯尾藤十郎の一日を描いたものだが、その行動の後の実際の裁きの経緯について書かれた部分をご紹介しよう。

 押収品をもとに、改めて版元の洗い直しがなされ、作者や絵師の身元の割出しが急がれたが、人情本はともかく、春画本の作者や絵師は、署名を欠いたり、わざと隠号を使ったりしているので、なかなか摑めず、嬌訓亭腎水・大鼻山人・女好菴主人・好色山人・淫斎白水・百垣千研・桃草山人・好色外史・悪疾兵衛景筆・猿猴坊月成(以上作者)、婦喜用又平・一秒開程芳・艶川好信・淫乱斎(以上絵師)などと多数の人名が挙がったが、結局、作者としては人情本の元祖と自称する「春色梅児誉美」の作者・狂訓亭為永春水が、嬌訓亭腎水なる似通った隠号から春本作者でもあったことが明らかとなり、かつ最も多作でもあるところから代表的人物として槍玉に挙げられ、浮世絵師では、これも婦喜用又平なる隠号で、最も多作、かつ代表的人気浮世絵師であった歌川国貞が、一月下旬に版元ら七人とともに北町奉行所から差紙を立てられて、奉行遠山左衛門尉じきじきの調べを受けることになった。

 遠山の金さんじきじきのお調べとは、大事だ。
 
 ところが、春水は出頭したが、国貞は事前に察したのだろう、門人を連れて伊勢参りに出かけて裁きの日になっても帰って来なかった。
 その代わりに召喚されて被害に遭ったのが、同じ豊国門下の弟弟子で一秒開程芳の名を高めていた国芳だった。
 彼は、二日間牢に入った後、春水と同様に吟味中に手鎖の刑になってしまい、両手が使えないから絵を描けず飯の食い上げ。

 特に国芳は、人一倍向う意気の強い男だが、二日間の入牢はさすがにこたえた。彼は憤懣の余り、判決後、水野の改革を諷刺した錦絵「源頼光公館土蜘作妖怪図」を発表し、江戸っ子たちの喝采を浴びるのだが・・・・・・。

 その後、伊勢に逃げた国貞が捕えられることはなかった。
 
 金さんが水野に進言して春画、枕絵の作者や絵師を裁かないよう仕向けることができず、自らお白洲で春水や国芳を罰したのだから、逃げた国貞も江戸に戻った後で裁くべきだったと思うなぁ。金さん、ちょっと片手落ちでしょう。

 その逃げた国貞について、林一美さんは、こんな譬えをしている。
 何だかロッキード事件で、すぐアメリカへ飛んでしまった容疑者たちと似たような話
 この本の単行本での初版は平成元年(1989年)。

 ロッキード疑惑が明らかになったのは昭和51(1976)年だ。

 十年以上を経ても作者林さんが譬えにしただけの大事件だったということだろう。

 私は学生時代で、結構テレビに釘付けになったものだ。

 結果としては総理の犯罪として田中角栄の退陣につながるのだが、あの事件を巡っては、周囲で不審な関係者の死が続いた。
 まず、ロッキード事件を追っていた日本経済新聞の高松康雄記者が昭和51(1976)年2月14日、児玉誉士夫の元通訳の福田太郎が同年6月9日、さらに田中元首相の運転手である笠原正則が同年8月2日と立て続けに急死している。

 証拠隠滅のため、何者かの手によって抹殺されたのではないかとの疑念を呼んだ。

 この度の加計学園疑惑のことに思いが至る。
 ようやく全国紙やテレビも思い腰を上げたように思う。
 森友とは比較にならない「総理の犯罪」の匂いがプンプンするじゃないか。

 周囲で不自然なことが起こらないことを祈るばかりだ。


 水野忠邦という暴君とも言える上司に知恵と行動で対処した遠山の金さんのような奉行が、今まさに求められているなぁ。

 遠山の金さんや天保の改革のことから、つい、現実に戻ってしまった。

 「改革」という名で「改悪」をしようとする権力者は、いつの世にもいる、ということか。

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by kogotokoubei | 2017-05-18 12:47 | 江戸関連 | Comments(0)
 先週末のテニス合宿、宴会の余興で『鈴ヶ森』と『野ざらし』をご披露したのだが、合宿前に落語愛好家仲間である佐平次さんのブログで目にした小三治の言葉が、実にタイミングの良い助言となった。

 佐平次さんの「梟通信~ホンの戯言」の5月6日の記事で目にした、ある本からの引用だった。
「梟通信~ホンの戯言」の該当記事

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『落語の愉しみ』(岩波書店「落語の世界」第一巻)

 佐平次さんの記事を読んで、引用されていた本『落語の愉しみ』を私は読み返した。
 岩波書店「落語の世界」全三巻の第一巻に掲載されている柳家小三治へのインタビューは、聞き手が大友浩さんで、時期は2003年1月。

 あらためて小三治の言葉を確認しよう。

ー落語は、口調でトントンと運んでいくものではなく、人物をそこに浮き立たせるように演ずるのが本寸法だというお考えをお持ちでしょう。
小三治 そんなことはありません。人物を描くってことは、不可欠です。だけど、ぽんぽんしゃべっていくことが人物を表さないことにはならない。
ーああ、なるほど。
小三治 そういう基本的なことに心をとめて探究しようという姿勢をあまり感じないというか、そういうことに気がついてるんだろうかと・・・・・・。『二ツ目勉強会』へ行っても、わたしはいつも同じことしか言わないんですよ。
 それは、「そこにいる人に向かって話しかけろ」ということですね。ご隠居さんと八っつぁんの会話なら、ご隠居さんは八っつぁんに向かって話しかけろ、ということです。それがどうも、客席全体に向かって話しかけている人が多い。これでは人物は出てこない。
 (中 略)
 人物が出るってことは、年齢や職業ということは当たり前ですけれども、それに加えて、距離感、空気感のようなものが出ないと・・・・・・。
 それは技術ではないんですよ。心にそういうことを思ってしゃべれば、自然と表に出てきて、お客さんにそれが伝わるんです。速くしゃべろうと、遅くしゃべろうと、そういう気持ちがあればお客さんに伝わるんですよ。 
 お客さんに向かってひけらかすのではなくて、自分に向かって表現する。すると、その姿がお客さんに見えてきて、お客さんが舞台を覗き込むようになるんですね。
 まあ、いろんな芸の形があっていいんでしょうけれども、あまりにも客席にぶつけるようにして笑わせるというのは、一人でやってる漫才あるいは漫談と同じようなものになってしまう。わたしだって、マクラをしゃべるときはお客さんの興味を喚起するようにもっていきます。だけど、(登場)人物と人物でドラマをつくっていくときには、舞台の上に世界をつくって、それに対してお客さんが首をぬーっと伸ばしたくなる、というのが理想だと思ってるんです。

 この小三治の言葉で、「ハッ」とした。

 これまで、宴会の余興で、自分の落語は誰に向かって語っていただろうか・・・・・・。
 聴いているお客さん(仲間)に向かっていて、笑いを取ろうとばかり思っていなかっただろうか・・・・・・。

 このインタビュー記事では、もう一つ印象的な小三治の言葉がある。

ー師匠が「そこにいる人に向かって話しかけろ」ということをお考えになったのはいつ頃からですか?例えば前座さんの頃からとか・・・・・・。
小三治 入ったときは、そんなことは考えませんねェ。はっきり覚えてないです。噺の稽古っていうのは、昔から「三遍稽古」といって、初日に師匠にやってもらい、「ありがとうございました」って帰って、二日目にまたやってもらう。三日目に行くときは、教わる者が師匠の前で演じる。それでああだこうだ言われて、その後また師匠がやってくれるというのが原則らしいんです。わたしはいっぺんもそういう稽古はありませんでしたけど、そういうことを頭に入れて「本当はそうなんだよな」と思いながらやっていました。
 入って何カ月ですかねェ、今の(柳家)つば女と、もう一人ほとんど同期の三人がいっぺんに『道灌』を師匠の前でやることになったんです。一人目がやり終えると、師匠が何かいうわけですよ。二人目、何かいう。三人目がわたしだったんです。
 途中までやったらね、「もういいよ、お前。今までやったの聞いてたんだろ」(笑)。
 そのときだったか、あるいは別の機会だったかよく覚えていないんですが、当然、隠居さんは隠居さんらしくやらなきゃいけないということは知っています。隠居さんらしくといても、年をとってなきゃいけないというぐらいしか頭にないんんですよ。おじいさんなんだろうと。そこへ来る八っつぁんは、若い者で威勢がいいと。そのぐらいのつもりで始めたわけです。
 隠居さんと八っつぁんは、その時点でわたしは見事に演じたと思いましたよ。隠居さんは隠居さんらしく、八っつぁんは、職人のべらんめい口調で、威勢よくぽんぽんと。
 そこですごいことを言われたんです。本当に雷に打たれたっていうのは、あのことですね。
「お前の隠居さんと八っつぁんは、仲が良くねェな」。
 これはねェ、大ショックでしたねェ。「うわァ、すごいッ」と思いましたよ。
 年をとってるのと若いのとだけをやれば噺ができるわけじゃない、ってことですよ。二人はどういうつながりで、どういう付き合い方をしてきたのか・・・・・・。そこから後は、自分で考えろ、ですよ。放っとかれますから。徹底的に放っとくんです。怖いでしょう、放っとかれたら。

 凄いね、五代目小さんの言葉。

 小三治の『道灌』では、2013年9月の、県民ホール寄席第300回記念の高座を思い出す。
2013年9月26日のブログ

 あのご隠居と八っつぁんは、実に仲良しだったなぁ^^


 先週土曜の夜、昼のビールに夕食のワインと日本酒が加わって、話せるかどうか実に危ない状況だったが、なんとか「登場人物に向かって話せ」と心に言い聞かせて、せめて一席だけでもと、一之輔のニフティ寄席の音源で稽古した『鈴ヶ森』を話しはじめたら、結構、泥棒の親分とマヌケな子分との楽しい会話になってきた。
 鈴ヶ森に着いて、子分が尻を端折ってしゃがんだら、そこにタケノコが・・・という場面では皆大爆笑。
 人が通りかかり、子分が飛び出したものの逆に凄まれて謝るところでサゲ、これで今日は勘弁という感じで高座(実はベッドの上)から降りようとしたら、「え、一つだけ!?」という抗議(?)の声。
 つい、そのまま八代目春風亭柳枝版を元にした『野ざらし』にとりかかった次第。
 「四方の山々雪溶けて、上げ潮南にどぶーりどぶーり」のあたりで若干口ごもったものの、なんとか尾形清十郎と八五郎の掛け合いをこなし、舞台は向島。八五郎が妄想している最中つい釣竿を振り回して針を顎にひっかけ、その針を抜いて捨てたところで、サゲた。
 
 二席とも、あくまで落語の人物に話しかける、ということを意識して演じたら、噺の中に自分もどっぷり入り込めた気がした。
 
 小三治の助言に大いに感謝。

 今回の二席を含め、これまでテニス仲間と大学同期の仲間の前で演じた噺は、次のようになった。

 『道灌』・『金明竹』・『寿限無』・『牛ほめ』・『替り目』・
 『小言念仏』・『千早ふる』・『代書屋』・『高砂や』・『居酒屋』・
 『うどん屋』・『雑排』・『厩火事』・『買い物ブギ』・『看板のピン』・
 『天災』・『目黒のさんま』・『紙入れ』・『元犬』・『持参金』・
 『三方一両損』・『たらちね』・『そば清』・『親子酒』・『藪入り』・
 『子ほめ』・『夜の慣用句』・『あくび指南』・『転失気』・『二人癖(のめる)』・
 『夜の慣用句』・『子別れ(子は鎹)』・『鈴ヶ森』・『野ざらし』

 合宿や同期会の直前に音源を聴き込んで稽古したからなんとか出来たものばかりで、もちろん、これだけの持ちネタがあるというわけではないので、念のため。


 私のような落語好きが、実際に人前で落語を披露することにより、失敗も含めその難しさを体感し、寄席や落語会でプロの噺家の高座を聴く姿勢、態度が変わる。
 
 今回の、登場人物に向かって話せ、という教訓は、今後の高座を聴く時の重要な視点になるだろう。

 お客に向かって話しているのか、その登場人物に話しているのか・・・これは、実に大きな違いであるが、結構、客席に向かって話している人が多いのである。

 小三治の言葉、若手の噺家さんに、しっかり噛みしめてもらいたい、実に有難味のある助言だと思う。

 小三治が指摘するような、距離感、空気感が漂い、つい首をぬーっと伸ばしたくなる、そんな高座に少しでも多く巡り合いたいものだ。

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by kogotokoubei | 2017-05-15 12:59 | 落語の本 | Comments(2)
 先ほど、テニス仲間との合宿から帰宅したところ。
 昨日はあいにくの雨だったが、そのかわり今日、いつものテニスクラブに戻りテニス。
 恒例の昨夜の宴会での落語は一之輔版を元にした『鈴ヶ森』と春風亭柳枝の音源を元にした『野ざらし』。
 一之輔は、かつてのニフティ寄席の音源。あのポッドキャストは、実に貴重な音源を残してくれたなぁ。
 あくまで登場人物に対して話すようにしたら、それぞれ短縮版ではあったが、結構良くできたように思う。
 雨で出来なかったテニスの代りにアサヒビール神奈川工場を見学し、昼から無料の出来立てビールを三杯飲んだのが効いてはいたが、なんとか高座(?)を務めることが出来た。
 
 帰宅し少しネットをのぞいたら、歌丸の落語芸術協会(芸協)会長の後継者に関する記事が目に入った。
 スポニチから引用。
スポニチの該当記事

落語界に新しい風を吹き込む芸協 桂歌丸の“後釜”は?

 現在も横浜市内の病院に入院中である落語家の桂歌丸(80)。肺炎という高齢者にとっては非常に危険な病気だったが、症状はほぼ治まり、日増しに体力も回復している。一時は35キロまで落ち込んだ体重も、病院食を毎日ペロリと完食していることもあって着実に増加。周囲には「病院で1・5キロも太ったよ」と笑顔を見せている。

 とはいえ、昨年から何度も入退院を繰り返しており、決して万全とはいえない状態。退院しても、定期的に高座を務めることに不安はぬぐえない。さらに、現在は落語芸術協会の会長。月に約10日は行事などの出席が義務づけられる会長職の継続は、相当難しいと思われる。5月下旬に理事による会議では、後任について議論が交わされるのは必至だ。

 問題は後継者の選定。副会長を務める三遊亭小遊三(70)は昨年4月に不整脈の手術を行っており、健康に不安がないとはいえない。そんな中で有力視されていたのが春風亭昇太(57)だった。

 落語家が最も多く在籍している落語協会は、3年前に柳亭市馬(55)が52歳という協会史上最年少で会長職に就いた。副会長には林家正蔵(54)が就任し、幹部の若返りに成功している。そのため、芸協の周囲では昇太待望論もあったが、昨年の「笑点」司会就任とともに人気が沸騰。大河ドラマにまで出演するほどになってしまった。現時点では芸協主導の寄席やイベントへの出演にもスケジュール調整が難しい状態で、会長職を引き受けることは、昇太に相当な負担を強いることになる。

 真打ちの数は約100人で、落語協会は倍の約200人。どうしても人材不足となりがちだ。ただ「二ツ目」と呼ばれる若い落語家には活きのいい落語家が揃っている。柳亭小痴楽(28)、春風亭昇々(32)、講談の神田松之丞(33)らは「渋谷らくご」などお笑いライブ感覚の落語会を開催し、これまであまりアクセスすることのなかった若い女性ファンを取り込んでいる。

 かつては「古典の落語協会、新作の落語芸術協会」と言われたこともあるほど、旺盛な創作意欲で落語界に新しい風を吹き込んでいた芸協。その伝統を若手が体現している今、誰が舵を取るのか注目したい。[ 2017年5月12日 10:45 ]

 この記事でいくつか気になることがある。
 
 まず、落語協会が市馬会長、正蔵副会長という“幹部の若返りに成功”と記しているが、いったい何が成功に値するのだろうか。

 “若さ”の象徴とも言えるはずのネット時代の組織の看板であるホームページは、改悪されたままだ。

 市馬会長体制になってから、果たして、落語協会の活動について、落語愛好家が良い意味での変化を見出せたことがあっただろうか。

 落語協会の役員など幹部は、HPに次のような名が並ぶ。
落語協会HPの該当ページ
当期役員(任期:平成28年6月24日より2年間)
会長 柳亭市馬
副会長 林家正蔵
常任理事 柳家小さん・三遊亭圓丈・柳家さん喬
理事
古今亭志ん輔・入船亭扇遊・金原亭馬生・
三遊亭歌る多・三遊亭吉窓・五明楼玉の輔・
林家たい平・柳家喬太郎・鏡味仙三郎

監事 柳家さん八・柳家権太楼
外部監事 友原征夫(会計士)
最高顧問 鈴々舎馬風
顧問 三遊亭金馬・柳家小三治
外部顧問 寺脇研(京都造形芸術大学 芸術学部教授)
相談役 三遊亭圓窓・林家こん平・桂文楽・林家木久扇


 たい平や喬太郎が理事になったことで、何かが変わったのか・・・・・・。
 若手を幹部に抜擢して、何か“新しい風”が持ち込まれたのか。

 真打ち昇進にしても、前小三治会長が行ったような抜擢はその後続かず、かつての芸協よりも年功(年々)序列になっている。
 それも、今年は春に五人、秋に三人の真打大バーゲン(?)だ。
 加えて三木助という名跡の安易としか思えない襲名・・・・・・。

 対照的に芸協は今まさに昇進披露興行中の二人だけ。
 このところ、真打ち昇進には芸協の方が厳しい目で見ているような気がしているが、落語協会の大量昇進に比べて、私は芸協の選抜の姿勢を好ましく思っている。

 いわゆる“成金”という言葉が象徴する元気な二ツ目は、たしかに芸協所属の若手が多い。
 彼らが今後の東京の落語界を背負って立つことができるかどうかも左右するだろうから、たしかに、歌丸の後継会長は気になるところだ。

 芸協の幹部は次の通り。
落語芸術協会HPの該当ページ

会長 桂 歌丸
副会長 三遊亭 小遊三
理事 三遊亭 遊三
理事 三笑亭 茶楽
理事 春風亭 小柳枝
理事 三笑亭 夢太朗
理事 桂 米助
理事 古今亭 寿輔
理事 桂 歌春
理事 柳亭 楽輔
理事 柳家 蝠丸
理事 瀧川 鯉昇
理事 春風亭 昇太
理事 桂 竹丸
理事 春風亭 柳橋
理事 桂 文治
監事 山遊亭 金太郎
監事 三遊亭 遊吉
参与 鏡味 健二郎
参与 東 京太
参与 神田 松鯉
最高顧問 桂 米丸
相談役 三笑亭 笑三


 さて、歌丸の後継を決めるなら、誰が相応しいのか。

 私は、昇太にそれを期待していない。いいじゃないか、テレビの人気者で。
 そういう役回りの人も必要なのだから。

 組織が若々しくなるには、物理的な年齢の若さではなく、あくまで精神的な若さと、落語への情熱、組織改革のための構想力に企画力、そして文科省の役員や席亭などとの交渉における政治力が重要なのである。

 
 たとえば、茶楽などが会長になったら、彼ならではの理性的な目で組織を活性化させることができそうな気がしている。
 寿輔だって、悪くない。あの人ほど寄席を大事にしている人もいないではないか。

 スポニチの記事には小痴楽など、最近脚光を浴びている二ツ目の名前が挙がっているが、彼らを売り出すことに歌丸の精神的な後押しが強かったことは、小痴楽のツィッターなどでよく分かる。

 歌丸は、落語協会が一之輔や文菊、志ん陽を抜擢して真打に昇進させた際に取材を受け、かたや年功序列の芸協と言われ、憮然として「うちはうち」と答えた。

 今、逆に年功的要素が強くなった落語協会を横目で見て、歌丸は毅然として「うちはうち」と思っているような気がする。

 そういった精神を受け継ぐことができる人が後継者に相応しいのではなかろうか。

 この記事を読んで、いくつか違和感を覚えるとともに、そんなことを思っていた。

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by kogotokoubei | 2017-05-14 16:25 | 落語芸術協会 | Comments(2)
 山手線の新駅近くに、「新東海道」ができる、という東京新聞の記事をご紹介。
東京新聞の該当記事

「新東海道」江戸の活気再び 山手線新駅・田町-品川間
2017年5月10日 14時27分

 JR山手線と京浜東北線の田町-品川間に二〇二〇年春に開業する新駅(東京都港区)の西側に、国内外の人々が集う広場のような歩行者道「新東海道」がお目見えする。二〇年の東京五輪後に着工し、三〇年代の完成が見込まれている。すぐ近くにかつての東海道にあった江戸の玄関口「高輪(たかなわ)大木戸」の跡があることから、交通の要衝だった往時のにぎわいの再現を目指す。(増井のぞみ)

 新東海道は、新駅前広場の西側に南北にわたって造る想定で、道幅は八メートル以上、長さ四百メートル。道の両側に高層ビルが並び、ビルの低層階に飲食店や商業施設が入る。

 道沿いの建物の一階部分には柱だけの空間や、外に張り出したひさしを設け、建物内と路上を行き来しやすくする。路上などに机やいすを置き、ビル内のオフィスで働く人らが外で仕事をするなど、買い物客、観光客を含めた憩いの場所にする。

 新東海道に近い国道15号沿いにある国史跡の高輪大木戸跡は、旧東海道の関門。江戸時代に道の両側に石垣を築き、門を取り付けた場所で、治安維持のために門を開閉して江戸への人の流入を制限した。近くに茶屋などが並び、旅人らでにぎわった。門は江戸後期に外され、今も石垣の一部が残っている。

 品川駅の地下には二七年にもリニア中央新幹線が開業し、泉岳寺駅は京急線で羽田空港とつながっている。新駅周辺の整備方針を検討した委員会の座長で東京工業大の中井検裕(のりひろ)教授(59)=都市計画=は「新駅周辺は、日本全国や世界各地から訪れるのに便利な場所。東海道の歴史を生かし、人の交流を促して新たなビジネスや文化の創出につなげたい」と話した。

<東海道> 江戸時代に江戸を起点に整備された五街道の一つで「江戸と京、大坂を結ぶ大動脈。幕府が最も重要と位置づけた」(品川区立品川歴史館)。海沿いにあり、景色が良く起伏が少ないため、参勤交代によく使われ、物資を運ぶ人馬、旅人らが行き交った。現在の東京都港区では、国道15号の位置にあったとされる。

<JR山手線・京浜東北線の新駅> 1971年開業の西日暮里駅(荒川区)以来となる山手線30番目の駅。2020年春に、品川-田町間の品川車両基地(約13ヘクタール)の一角で暫定開業の予定。基地跡地では、山手線と京浜東北線の線路を東に最大120メートル移設。JR東と他の地権者の土地を合わせて東京ドーム3個分に当たる約16ヘクタールの開発用地をつくり出す。オフィス向けを中心とした7棟の高層ビル、マンションなどが建てられる。

(東京新聞)


 この「新東海道」ができる背景となる歴史について、肝腎な部分を、もう一度太字で確認。
すぐ近くにかつての東海道にあった江戸の玄関口「高輪(たかなわ)大木戸」の跡があることから、交通の要衝だった往時のにぎわいの再現を目指す


 “道の両側に高層ビルが並び、ビルの低層階に飲食店や商業施設が入る”というのは賛成しないが、高輪大木戸にちなむ新たな「東海道」という“憩いの場”ができることには賛成したい。

 三年ほど前、この新駅の名を「高輪大木戸」にしてはどうか、という記事を書いた。
2014年6月4日のブログ

 その記事で、次のようなことを書いた。
 2020年の東京五輪に向けた“建設という名の破壊”ばかりではなく、良い機会ととらえて過去の名所を蘇らせる試みがあってもよいだろう。

 新駅「高輪大木戸」の命名で、その昔の話題が喚起されることも結構だし、新たな町が江戸時代の庶民の生活を偲ぶことのできる、土や木の香りのする場所がある方が、海外のお客様も喜ぶのではなかろうか。

 もはや、新駅の名は「高輪大木戸」で決まりでしょう^^

 しかし、この「新東海道」、「新」という言葉に甘えた超近代的なつくりにはして欲しくないなぁ。
 すでに概要は決まっているのだろうが、新「東海道」なら、それに相応しい道のあり方があるはず。

 まだ間に合うのなら、良い手本がある。
 東北自動車道の羽生パーキングエリア、“鬼平江戸処”だ。
鬼平江戸処のサイト

 羽生には「栗橋関所」が近くにあった。
 円朝の『怪談牡丹燈籠』の舞台でもあった。

 鬼平江戸処のコンセプトは、「温故知新」。

 同じ商業施設にしても、その土地の歴史に立脚し、まさに、「温故知新」の精神で開発してもらいたいものだ。

 「新東海道」では、“高層”ビルより、“高輪大木戸”にちなむ街づくりという“構想”にこそ力を入れて欲しいと切に願う。

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by kogotokoubei | 2017-05-11 00:36 | 江戸関連 | Comments(2)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛