噺の話

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落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。

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 加川良の訃報に接した。

 デイリースポーツから引用する。
デイリースポーツの該当記事
加川良さん 急性骨髄性白血病で死去 判明から4カ月、前夜容体急変
デイリースポーツ 4/6(木) 5:59配信

「教訓1」などで知られ、日本フォーク界の先駆け的存在だったフォーク歌手・加川良(かがわ・りょう)=本名小斎喜弘=さんが5日午前9時39分、急性骨髄性白血病のため都内の病院で死去した。69歳。滋賀県出身。所属事務所によると、昨年12月9日の検査入院で急性白血病が判明。今月4日夜にに容体が急変し、妻・富士子さんに見守られて息を引き取った。葬儀・告別式は親族のみで行い、後日、追悼ライブを開く予定。

 訃報は一人息子でミュージシャンのgnkosai=本名小斎元希=が自身のフェイスブックで伝えた。

 加川さんは昨年12月14日、公式サイトで「12月9日 山梨県下の病院に検査入院、少々つかれ気味でした。本日6日目、今しばらくの入院生活となりそうです」と、恒例の直筆メッセージで報告していた。メッセージは「また お会いします」と結ばれていたが、約束は果たされることなく、これが最後のメッセージとなった。

 所属事務所の阪本正義社長によると、加川さんはそれまで普通にライブを行っていたが、検査入院で急性白血病が判明。1月に入って都内の病院に移り、闘病生活を送っていた。病状は「穏やかな日もあり、ムラのある日々だった」が、4日夜に容体が急変。静かに息を引き取った。

 加川さんは昨年6月、ニューアルバム「みらい」を発表。10月には米シカゴでライブを行った。その後も12月4日の福岡までライブを行ったが、同17日の大阪、18日の岡山を入院のため延期した。

 今年は古希を迎えることもあって、いろいろなイベントが予定されており、ライブの予定も多く入っていたという。阪本氏は「本人も夢にも思っていなかったと思います」と、加川さんの無念を思いやった。

 加川さんはセミプロのグループサウンズのボーカルを経て、高石ともや、岡林信康や故高田渡さんが所属していた日本のインディーズレーベルの先駆け「URCレコード」の出版会社「アート音楽出版」に就職した。

 1970年、伝説の第2回中津川フォークジャンボリーに飛び入りして「教訓1」を歌いデビュー。小室等、友部正人、大塚まさじらと共に日本のフォークの先駆けとして活躍した。吉田拓郎が72年に発表したアルバム「元気です」には「加川良の手紙」という楽曲が収録されている。


 残念だ。

 もっと歌って欲しかった。

 しかし、彼の歌は、生きている。

 今の時代、まさに必要とされる歌が、「教訓Ⅰ」だ。

 二十代で越後にいた時、あるお店で加川良のライブがあり、彼の歌を聴くことができた。

 ジャズのライブなども開くそのお店のご主人と懇意にしていたので、打ち上げにも参加させてもらった。
 実に腰が低く、その場にいたお客さんたちに酒を注いで回っていた加川良の姿を。今でも思い出す。

 たぶん、昭和57年か58年だったと思う。

 生で聴いた「教訓Ⅰ」は、素晴らしかった。

 今、まさにこの歌が求められているのではなかろうか。

 歌詞を紹介し、加川良のご冥福を祈りたい。


「教訓Ⅰ」

作詞:加川良
作曲:加川良
唄 加川良

 命はひとつ 人生は1回
 だから 命をすてないようにネ
 あわてると つい フラフラと
 御国のためなのと 言われるとネ
 青くなって しりごみなさい
 にげなさい かくれなさい

 御国は俺達 死んだとて
 ずっと後まで 残りますヨネ
 失礼しましたで 終るだけ
 命の スペアは ありませんヨ
 青くなって しりごみなさい
 にげなさい かくれなさい

 命をすてて 男になれと
 言われた時には ふるえましょうヨネ
 そうよ 私しゃ 私しゃ 女で結構
 女のくさったので かまいませんよ
 青くなって しりごみなさい
 にげなさい かくれなさい

 死んで神様と 言われるよりも
 生きてバカだと いわれましょうヨネ
 きれいごと ならべられた時も
 この命を すてないようにネ
 青くなって しりごみなさい
 にげなさい かくれなさい

 青くなって しりごみなさい
 にげなさい かくれなさい

 青くなって しりごみなさい
 にげなさい かくれなさい

 国のために命を捨てよ、などという言葉には、震えよう。
 教育勅語などには、青くなってしりごみしよう。

 そして、戦争からは、徹底的に逃げようじゃないか。

 合掌
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by kogotokoubei | 2017-04-06 12:51 | 幸兵衛の独り言 | Comments(2)
 今日の毎日新聞「記者の目」で、東京学芸部の濱田元子という記者による、“落語ブーム?”という記事を掲載している。

 まず、冒頭から少し引用。

毎日新聞の該当記事

記者の目
落語ブーム?=濱田元子(東京学芸部)
毎日新聞2017年4月5日 東京朝刊
.
波が来た今が正念場

 落語の話題がさまざまなメディアをにぎわせている。この3月には落語協会(柳亭市馬会長)から5人、5月には落語芸術協会(桂歌丸会長)から2人が二つ目から真打ちに昇進。落語協会の真打ちは200人となった。東西合わせて落語家は約800人に上る。観客動員も好調だ。大ヒットミュージカル映画「ラ・ラ・ランド」になぞらえ、「ら・ら・らくご」なんて声も聞こえてきたりする。

 こうした隆盛ぶりは演芸担当記者、そして落語を楽しむ一人として、うれしい限りである。一度に何千人も動員する芸ではないが、観客が多彩な個性を楽しめる環境もできてきた。400年続く古くて新しい芸をより広く浸透させるチャンスであり、この機に寄席や落語会に足を運ぶ人がもっと増えてほしい。

 一方で「ブーム」と呼ばれることに一抹の不安がないわけではない。いずれ熱は冷めてしまうのではないか、と。 江戸時代中期、落語家の祖といわれる露の五郎兵衛、米沢彦八、鹿野武左衛門が京都、大坂、江戸の3都にほぼ同時に現れ、小屋掛けやお座敷など興行のスタイルこそ違え人気を集めて以来、落語は浮沈を繰り返してきた。

 直近で“ブーム”と呼ばれたのは約10年前、2005年前後。落語家を主人公にした宮藤官九郎さん脚本のテレビドラマ「タイガー&ドラゴン」(05年)や、上方落語を舞台にしたNHK連続テレビ小説「ちりとてちん」(07~08年)で、落語が一気にお茶の間に浸透した。

 今回、火が付くきっかけになったのは、人気と実力を兼ね備えた立川談春さんが師匠談志の下での修業時代をつづったエッセー「赤めだか」の2時間ドラマ(15年)、そして漫画原作のテレビアニメ「昭和元禄落語心中」(16~17年)だといわれる。

 2015年12月28日に放送されたドラマ「赤めだか」についての私の感想は、以前書いた通り。
2015年12月30日のブログ

 あまり良い印象はないのだが、とはいえ、落語を知らない人を落語に振り向かせたという意味で、ジャニーズ系の人気者が落語家に扮したドラマの効果は否定しない。

 さすがに、談春が役者をするよりは、役者が談春に扮した方が上手い^^

 そして、漫画とテレビアニメ「昭和元禄落語心中」が、その物語の魅力によって、若者に落語という芸の世界や個々のネタを知らしめた効果は大きいだろう。

 あのアニメ、初心者のみならず、長年の落語愛好家の中にもファンはいるからね。
 私は二度ほど観ただけだが、なるほど、巧いこと漫画にしたものだ、とは思う。

 記事の引用を続ける。

若い観客層が二つ目を支持

 前回と同じくドラマにけん引されてはいるが、目を引くのが二つ目と呼ぶ若手落語家の人気、そして若い観客層の支持である。寄席の一つ、末広亭(東京都新宿区)の真山由光席亭は「ブームというのは大げさだが、たしかに若い人が増えている。二つ目あたりがお客さんをつかんでいる」。落語協会も「右肩上がりです」と手応えを話す。

 受け皿となる落語会も飛躍的に増えた。首都圏だけで月1000件が開催され、寄席やホール以外にも小さなカフェなど落語を聴ける場所が多様化。間口も確実に広がっている。

 ぴあ総研の調べでも、寄席・演芸の動員数は、東日本大震災があった11年に前年比減となり、12年には129万人に落ち込んだが、13年に156万人、15年には151万人と堅調に推移している。

 そんな活況を象徴的に示したのが今年1月31日、落語協会が都内の寄席3軒に呼びかけて実現した「昭和元禄落語心中寄席」だ。アニメに絡めた落語を特集し、チケットは発売から10日で完売した。「普段の寄席とはまったく違う(若い)お客様がきた。どういう入り口であれ、寄席にお客さんを呼びたい。そのうち10%でも残ってくれればいい」と協会は期待をかける。

 寄席も動いている。昼間はどうしても年配層が中心になるが、末広亭では若い層を取り込もうと、数年前から夜の部で、午後7時以降入場料を半額の1500円にした。トリの演者によっては、半額狙いで行列ができる。

 ブームかどうかはさておき、波が来ているのは確かだろう。落語に注目が集まっているからこそ、落語家にとってもここが正念場だ。多数の中から頭一つ抜け出すためには目先の笑いを取ることに走るだけでなく、波に左右されない芸の積み重ねが必要だ。

 五代目古今亭志ん生、六代目三遊亭円生ら「昭和の名人」はとうになく、その次の世代である、東京の古今亭志ん朝、立川談志ら、大阪の笑福亭松鶴、桂米朝ら、それぞれ東西の「四天王」と呼ばれた絶対的な規範も失った。

 今回の値上げがどう影響しているかは確認していないが、末広亭の深夜寄席にも、若い人たちの長い行列ができる。
 
 “しぶらく”に触れてないのは、何か理由があるのか・・・・・・。

 加えて、どうも、この記事は落語協会寄りに思えるが落語芸術協会には取材したのだろうか。

 記事内容について小言を言うが、東西の四天王も、名前を出すなら全員の名を載せて欲しいものだ。
 これでは、柳朝(あるいは円鏡)、円楽、そして春団治、小文枝(文枝)は、立川談四楼の本を記事にした際に紹介した、「ら族」ではないか^^

 さて、ここまできたら、記事を最後まで紹介しよう。
言葉の復権の鍵を握るかも

 その一方で、東京では柳家小三治さんや、立川志の輔さんらベテランから、柳家喬太郎さんや桃月庵白酒さん、春風亭一之輔さんといった中堅・若手まで、人気、実力ともに充実した層の厚さがある。二つ目人気も、その裏打ちがあってのことだ。

 生のコミュニケーションが希薄な時代。「ご隠居さん、こんちはあ」「おや、八つぁんかい。まあまあ、お上がり」という会話で始まる落語は、緊密な人間関係をベースに、喜怒哀楽、庶民の心のひだに優しく寄り添う。若い客層に響く魅力の一つではないだろうか。落語復権は、言葉を根幹にしたコミュニケーション復権の鍵を握っているのかもしれない。

 舞台装置もなにもないところに、演者の言葉だけで、観客が想像力で噺(はなし)の世界を描く。いたってシンプルな芸、だが奥は深い。今ちょうど、東京都内の寄席では50日間にわたる落語協会の真打ち昇進披露興行の真っ最中。普段とはまた違う華やいだお祝いムードに包まれているから、これを機に寄席デビューも悪くない。ブームとやらであろうが、あるまいが、息長く見守っていきたい。

 う~ん、小三治と志の輔を同じ“ベテラン”で括るな、と言いたくなるなぁ。

 この記者は、ご自身が落語が好きで、若いファンが増えることを喜んでいるのは分かるのだが、良くも悪くも若さが記事に露呈しているように思う。

 とはいえ、“言葉の復権”という指摘は悪くない。

 できれば、そこから一歩進んで、江戸時代の季節や自然と調和した生活を知ることができる、そして、士農工商と言われたタテマエとは別の、落語の世界の住人の“たくましさ”や“生きる知恵”の発見などにも、落語を知ることによる効能を膨らませて欲しいものだ。

 小言が多いのは管理人の名前からしてそうなので、許して。

 真打昇進披露興行を機に寄席デビューも悪くはないだろう。

 口上はなかなか観ることができないし、ハレの雰囲気が会場全体に溢れている時間と空間を共有するのは、悪いことではない。

 そこで知った新真打と、長い付き合いが始まるかもしれない。
 

 たしかに、ブームとは言えなくても“波”は来ているのだろう。

 今来ている“波”は、いったい何を運び、何を“上げ潮のごみ”として残していくのだろうか。

 私は、“波”や“ブーム”という現象によって、優れた噺家が一人でも多くなることを期待している。
 そのためには、定席や大小の落語会を開く場という、環境も重要。
 しかし、場が増えたところで、一人でいくら稽古していても、成長は限られている。
 それぞれの一門で師匠や他の師匠たちの稽古で芸を磨くことも大事だが、もっと重要なことは、いわば“他流試合”を多くこなすことだと思う。

 流行を表す“boom(ブーム)”には、“とどろく”とか“景気づく”という意味がある。
 ドラマ「タイガー&ドラゴン」は、2004年から2008年まで開催された「大銀座落語祭」と時期が重なる。

 大いに、落語は“景気づいた”のだった。

 大銀座落語祭りは、春風亭小朝、笑福亭鶴瓶、林家正蔵、立川志の輔、春風亭昇太、柳家花緑の六人の会が主催で、小朝というプロデューサーの力によって、東西と東京の両協会を越えた落語家たちの結託が背景にあった。

 今、博多などでも、大同連合的な落語会は開催されていて、それはそれで結構だと思うが、大銀座ほど“ブーム”を牽引する力はないだろう。

 私は、また大銀座をやれば良い、と思っているのではない。

 新たな落語界の胎動があっても良いと思っていて、それがなければ“ブーム”とは言えないだろうと思っている。

 そういう意味で、私が期待しているのは、以前、横浜にぎわい座・のげシャーレで聴いた「東西交流落語会」のような、若手の活動だ。
2015年11月26日のブログ

 博多での出会いをきっかけとしたこの六人は、横浜にぎわい座や天満天神繁昌亭で交流落語会を開いている。

 六人のメンバー(春風亭昇也、桂二乗、三遊亭橘也、桂佐ん吉、笑福亭鉄瓶、そして柳亭小痴楽)は、東京の三人のうち落語芸術協会が二人、円楽一門が一人。上方は米朝(米二&吉朝)一門が二人、松鶴(鶴瓶)一門が一人。

 佐ん吉が一昨年のNHKで優勝するなど、なかなかの実力者揃い。

 こういった威勢の良い若手が、一門や東西の隙間を越えて交流することで、何かが生まれるような気がするし、期待している。

 中堅どころが一門や東西の壁を乗り越えて、というのはなかなか難しいし、今さら、という感もあるだろう。

 どんな芸能やスポーツもそうだが、有望な若手に落語の将来はかかっている。
 
 かつては、ある一門にいても、その師匠の裁量で一門以外の他の師匠のところへも稽古に出すことはあったし、東京と大阪の交流も今日より日常的なものではなかっただろうか。

 良い意味で、そして潜在能力の高い若手が、良い意味で「危機感」を持って壁を越えた交流をすることで、自分の芸を磨くための師匠の数も広がっていくはずだ。

 あえて具体的なネタの例を挙げるが、昨今、上方の噺家さんが東京版の『時そば』を演じることがある。
 私の好みは、上方版は、やはりあの二人連れのからみだろう、と思うのだが、試みとしてはいいと思う。
 ならば、東京の噺家さんが、旬のネタ『長屋の花見』を、上方版の『貧乏花見』で演じるなどの試みなども面白いだろう。

 そういったことに挑戦せきるのも、若いうちではなかろうか。

 小痴楽が、佐ん吉や二乗から米朝の源をたどれる『貧乏花見』を上野に置き換えて演じる、なんて高座は、ぜひ聴きたいものだ。

 そんなことも、この季節にこの新聞記事を読んで、考えてしまうのだった。


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by kogotokoubei | 2017-04-05 21:27 | 幸兵衛の独り言 | Comments(6)
 上方落語協会が設立60周年を迎え、今月の天満天神繁昌亭の昼席は特別公演が開催されている。
 毎日新聞から引用。
毎日新聞の該当記事

上方落語協会
60周年で公演

毎日新聞2017年4月2日 大阪朝刊

 落語の定席、天満天神繁昌亭(大阪市北区)で、上方落語協会の設立60周年を記念した特別公演が始まった。毎日午後1時開演の昼席に、200人以上の落語家が日替わりで出演する初の企画。初日の1日は開演前に鏡開きが行われ、桂春之輔副会長が「我々一同、芸道に励みますので、ますますのご愛顧をお願いします」とあいさつした。


 上方落語協会は1957年4月、18人で発足。現在は256人が所属する。特別公演は今月30日まで連日開催。いつもは週替わりの出演者が日替わりになるほか、その日の出演者による口上も毎日行われる。

 繁昌亭サイトには、次のように案内されている。
天満天神繁昌亭サイトの該当ページ

天満天神繁昌亭昼席 上方落語協会創立60周年記念月間の開催について

おかげさまで、上方落語協会は今年4月1日、創立60周年を迎えます。

これを記念して、4月昼席公演を“記念月間”として特別公演を開催致します。
255名の協会員が日替わりで総出演して、4月の一カ月間を賑やかに祝う記念公演です。

 昼席の今月の番組表には、なんとも賑やかな顔ぶれが並んでいる。
天満天神繁昌亭サイトの該当ページ

 60年前の協会発足当時を、その前夜から振り返りたい。

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 先日の命日でも引用した露の五郎兵衛(発行時は露乃五郎)の著書『上方落語夜話』(昭和57年8月10日初版、大阪書籍)からご紹介。

 昭和20年代の末、上方の若手落語家は、夷橋松竹(夷松)と宝塚の大きく二つの派に分かれて勉強会、落語会を行っていた。当時のことをまず振り返りたい。

 昭和30年に入ると若手は若手なりに活発に動き始めました。桂米朝が南街ミュージカルで茶川一郎らと、コメディーを演じはじめたのもこのころで、三越落語新人会は、新人を卒業して三越落語会となり、落語家たちは落語以外のいろいろなラジオ番組にも顔を出すようになりました。
 夷松と宝塚に分かれて勉強を続ける若手たち以外、まだまだ古老連も幾人かは健在でした。これらを何とかまとめようとする動きは、あって当然、また当人たちにもその気はあったのですが、その音頭取りが問題で、これがなかなかむつかしかったのですが、やがて時の氏神が現れました。朝日放送の「上方落語をきく会」がそれで、昭和30年12月1日上方落語とはなじみの深い三越劇場で開催され、メンバーは、桂文団治、笑福亭枝鶴、桂福団治、林家染丸、桂春坊、桂米朝、橘ノ円都の七人でした。まだテレビのない時分で、PRが十分に出来なかったので、果たしてお客さんが来てくれるかどうか、この点が一番心配でした。しかし、我々の予想を完全に裏切って、開幕前にはほとんど満員の盛況で本当にうれし涙が出そうになりました。そして、この会は、今日まで続いているのです。

 補足すると、枝鶴は、その後の松鶴、春坊は著者の五郎である。

 引用を続ける。
 一方、宝塚若手落語会は、その年9月から立体落語と称して、落語劇とに二〇加(にわか)のアイノコのようなものを上演しはじめ、これが、たまたま小林一三翁の目にとまり、そのお声がかりで北野劇場のステージショーに進出するといったハプニングすら生まれたのでした。そして小林一三翁のお声がかりで、モダン寄席を開場する企画が出はじめ、昭和25年ごろ初期の新芸座結成に関係しその後、病気療養のため休職していた漫画家でもありアイディアマンでもあった平井房人氏が、復職に際して宝塚若手落語会の担当となって、第二劇場における立体落語等の企画に参加する事になりました。
 ここにおいて宝塚若手落語会はそれまでの自主的公演から、いわゆるひもつき公演の色がかかりはじめ、平井氏からは、「この際、小林一三翁のポケットマネーから研究費が出るので、宝塚の専属にならぬか」と、いうような話が出はじめたのです。

 新芸座とは、五郎兵衛が一時在籍していた宝塚の軽演劇の一座のこと。
 さて、宝塚専属への誘いに、五郎兵衛たちはどう返事をしたのか。
 
 根っからの自由人の集まりである落語家たちは、しばられるのをきらって、言葉をにごしました。が、春坊と小染のみは、かつて夷橋松竹支配人と真っ向から対立した当事者だけに、宝塚に対して色よい返事をせぬわけにもいかず、ともあれ若手たちの間にこのましくないムードが流れはじめながら、落語会は続けられ、やがて、5月、宝塚動物園が博覧会を開催するに際して、第二劇場もその会場に使用されるため、若手落語会は休演。これを機に専属云々の話をはっきりさせようという事になって、とど、小染、春坊、枝之助、小文吾が、宝塚の専属となり、他は自由にということで宝塚若手落語会にピリオドがうたれました。
 折も折、小林一三翁の他界、新芸座の秋田実氏以下漫才陣の大挙脱退という悪条件がかさなり、モダン寄席の話は立ちぎえとなって雲散霧消、前記四人の落語家はどうすることも出来ずに、新芸座へ参加という運命に追いこまれてしまいました。

 夷松と春坊、小染との関係悪化について補足。
 昭和29年3月に、若手の日曜勉強会の開催を提案していた夷松が、若手落語家を集め、宝塚若手落語会をやめて夷松一本に絞って欲しい、と依頼した。春坊にしてみれば、その当時、日本芸能博で休演しているものの、宝塚は若手落語会を復活すると約束しているし、夷松への出演も許可しているため、「是非双方へ出演させてください」と夷松の支配人に返答したのだが、聞き入れてもらえないので、「宝塚をとります」と発言したことによる。
 その会合に、東宝映画「女殺油地獄」に出演のため欠席していた米朝が、後になって「わしがいたら、そんな事にさせなかったものを・・・・・・」と悔やんだ、騒動だった。
 さて、ようやく上方落語協会の設立の段。

 上方落語協会発足

 若手落語家の大同団結が急務とさけばれ、当人たちも自覚していながら、なかなかその機を得なかった上方落語会界でしたが、宝塚落語会の終結後、夷橋松竹日曜会に結集することになり、めでたく昭和31年は暮れていったのですが、好事魔多く、翌年明けて早々の1月末、夷橋松竹が閉館、歌舞伎座の地下へ、歌舞伎地下演芸場として移転することになり、戎松日曜会も幕をとじざるを得なかったのです。
 ここにおいて、かえって落語家たちの団結はかたまり、昭和32年4月上方落語協会が結成され、翌5月4日道頓堀文楽座別館4階において、旗揚げ公演ともいうべき、第一回土曜寄席が開かれました。
 上方落語協会の役員は、会長、林家染丸。幹事、笑福亭枝鶴、桂米朝、旭堂小南陵、桂福団治で、会員数16名。
 この上方落語協会主催の土曜寄席につづいて、6月12日午後7時、神戸新聞7階ホール、ラジオ神戸の主催で神戸寄席が開かれることになりました。
 つづいて9月にはじまった、京都市民寄席。
 (中 略)
 とにもかくにも、上方落語に太陽があたりはじめたのです。このころ、東宝宝塚映画で森繁久弥扮する初代桂春団治が映画化され、世間の上方落語に対する注目もひとしおましてきたこともいなめません。
 そして翌33年2月、当時春坊の筆者は、宝塚新芸座梅田コマ第一回公演に参加して、16日、セリから落ちて右足骨折、日赤へ入院約1年病床に呻吟する身となり、また3月16日には四代目桂文枝が68歳で亡くなりました。

 上方落語協会の初代会長となった林家染丸は三代目。四代目染丸や、将来を期待されながら若くして亡くなった四代目小染(「ザ・パンダ」メンバー)などの師匠。

 なお、歴代の会長と在任期間は次のようになっている。
1 三代目林家染丸   1957年 - 1968年
2 六代目笑福亭松鶴  1968年 - 1977年
3 三代目桂春団治    1977年 - 1984年
4 三代目桂小文枝   1984年 - 1994年
5 二代目露の五郎   1994年 - 2003年
6 六代目桂文枝    2003年 -


 上方落語協会の初代幹事に、当時の桂春坊の名はない。
 そして、協会発足を機に“陽”があたり始めた頃、春坊は、病院で呻吟していたわけだ。
 ちなみに、春坊が落語界に復帰し、協会に加盟するのは昭和34年。
 
 協会の六代目会長である六代目(本人は松鶴に遠慮して“六代”と言いたいらしいが、六代目には違いない)文枝の在任期間が長いのでずいぶん昔のように思えてならないが、その前の会長が、春坊の露の五郎兵衛。
 就任の際に、なぜ米朝ではないのか、など一部反対派が協会を離れるという騒動もあったのは、知る人ぞ知ることだ。

 そろそろ、二十年以上も前のことは、良い意味で忘れましょう。
 設立して還暦なのだから。

 だいたい、組織内でのゴタゴタは、ほんのちょっとした行き違いなどが原因。
 話せば分かり合えることも、一度こじれると、その話し合いにならないため、溝が深くなる。
 そして、こじれた関係も、時間が一番の薬なのではなかろうか。
 
 実際に、今では、一門を越えた落語会の開催なども目立ち、かつての溝は相当埋まっているように思う。

 もしかすると、東京の落語界の方が、二つの協会、協会を離れた一門などの間に、見えない溝があるような気がするなぁ。
 それどころか、落語協会は、同じ協会内でも足並みが揃っていないように感じる。
 たとえば、現在のホームページを良しとする人たちと、そう思っていない人たちなど。


 話を上方に戻す。
 戦前、戦中、戦後、多くの上方落語の先駆者たちが苦労して、今や二百人を超え三百人にもなろうかという上方落語協会の会員数には、天国座にいる人々も驚き、そして喜んでいるのではなかろうか。

 繁昌亭の番組表を見ると、自分が関西に住んでいないことが残念でならない四月だ。
 
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by kogotokoubei | 2017-04-03 21:16 | 上方落語 | Comments(2)
 3月の記事別アクセスランキングは、次のようになった。

1 新宿末広亭 三月中席 昼の部 3月16日(2017年3月17日)
2 ある落語会のことや、木戸銭のこと。(2017年3月8日)
3 NHK「超入門!落語THE MOVIE」、高座のみの放送を望む! (2017年1月5日)
4 神戸新開地に、定席開設! (2016年5月18日)
5 落語協会の来春の真打昇進者は、5名。再来年は、どうなる? (2016年5月9日)
6 松鶴に土下座させた、笑福亭小松という落語家のこと。 (2014年8月4日)
7 落語協会、平成29年秋にも三名が真打昇進。(2016年8月24日)
8 桂りょうば誕生-桂枝雀の長男前田一知が、桂ざこばに入門。(2015年9月1日)
9 魅せる!はなしか三人衆 横浜にぎわい座(のげシャーレ)2月26日(2017年2月27日)
10 落語で反戦-アマチュア落語家、寝床家道楽さんのこと。(2015年6月29日)

 柳家小里んが主任だった末広亭の記事には数多くのアクセスをいただいた。
 あの品格のある『山崎屋』は、今でも思い出す。

 ゴールデンウィークに開催される立川志の輔の「忠臣蔵」をテーマとする落語会の記事が、2票(?)という僅差で二位。

 3位のNHKの「超入門! 落語THE MOVIE」の動画放送希望の記事も、2位の記事とは2票差。
 明後日3日から、Eテレで趣向を少し変えて再開されるのが楽しみだ。
 NHKサイトの該当ページ

 神戸新開地の新定席開設の記事は、いろいろ話題になっているのだろう。最近アクセスが増えている。

 5位に、今まさに披露興行中の落語協会の春の真打昇進のこと、7位に秋の真打昇進の記事が入った。
 春五人、秋三人というのは、久しくなかった人数ではなかろうか。

 6位の笑福亭松枝の本から紹介した小松の逸話には、安定的にアクセスがあるなぁ。

 桂りょうばが活躍を始めているのだろうか、意外なアクセス数になっている。
 早いうちにその高座にお目にかかりたいものだ。

 9位は、2月末の落語会のこと。先月上旬に多かったアクセス数の貯金でランキング入り。

 10位の、寝床家道楽さんのことを書いた記事へのアクセス数の多さには、少し驚いた。
 どこかで話題になったのだろう。反戦を唱えるアマチュア落語家さんの今後の一層の活躍を期待したい。

 今日は冷たい雨が降り、桜も咲くのを遠慮している。
 来週後半が見ごろなのだろう。
 
 しかし、桜が咲いても、人の心に春がやって来る、ということではない。

 さまざまな場所、ひと、なにより戦争や核の暗い冬の影が漂っているこの国に、いつ春はやって来るのだろうか。

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by kogotokoubei | 2017-04-01 14:31 | アクセスランキング | Comments(0)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛