噺の話

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 高田文夫の「誰も書けなかった『笑芸論』」を読んだ縁(?)で読み返している『江戸前で笑いたい』が、今さらながら、実に興味深い内容が詰まっていることを再確認している。
 単行本は1997年1月に筑摩書房で発行され、私が読んでいる中公文庫の発行は2001年9月。

 目次を、あらためてご紹介。
 ご覧のように、第一部と第二部が落語、第三部では他の“笑芸”をテーマにしている。
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第一部 やっぱし落語だ!
    口上・・・・・・高田文夫
  笑いと二人旅(前編)・・・・・・・・・・高田文夫
  現代ライバル論(1) 志ん朝と談志・・・・・・・・・・・・・・山藤章二
  現代ライバル論(2) 志ん生と文楽・・・・・・・・・・・・・・玉置 宏
  現代ライバル論(3) 高田文夫と藤志楼・・・・・・・・・・・・森田芳光
  小朝、志の輔とそれに続く若手たち・・・・・・・・・・・・・吉川 潮
  変貌する落語−今こそ、新作落語に注目!・・・・・・・・・・渡辺敏正
  談志論・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・立川志らく
第二部 中入り
   中入り・・・・・・高田文夫
  志ん生と江戸の笑い・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・鴨下信一/高田文夫
  みんな落語が好き・・・・・・・・・・・・篠山紀信/春風亭昇太/高田文夫
  名人に二代なし?・・・東貴博/三波伸一/柳家花緑(司会・高田文夫)
  浅草芸人寿司屋ばなし・・・・・・・・・・・・・内田榮一(聞き手・高田文夫)

第三部 東京の喜劇人
    口上・・・・・・高田文夫
  東京喜劇人列伝1  三木のり平・・・・・・・・・・・・・・永 六輔
  東京喜劇人列伝2  三木のり平・・・・・・・・・・・・・・小野田勇
  東京喜劇人列伝3  由利 徹・・・・・・・・・・・・・・・高平哲郎
  東京喜劇人列伝4  渥美 清・・・・・・・・・・・・・・・長部日出雄
  東京喜劇人列伝5  渥美 清・・・・・・・・・・・・・・・高田文夫
  東京喜劇人列伝6  クレージーキャッツ・・・・・・・・・・岸野雄一
  東京喜劇人列伝7  萩本欽一・・・・・・・・・・・・・・・ラサール石井
  東京喜劇人列伝8  ビートたけし・・・・・・・・・・・・・井上まさよし
  東京喜劇人列伝9  イッセー尾形・・・・・・・・・・・・・中野 翠
  東京喜劇人列伝10 伊東四朗・・・・・・・・・・・・・・・西条 昇
  気分はいつもハードボイルド・・・・・・・・・・・・・・・・内藤 陳
  東京の若手お笑い人 自分好みの芸人になること・・・・・・・水道橋博士
  映画に見る東京ブラック喜劇(ユーモア)人事典・・・・・・・・・快楽亭ブラック
  江戸前的? コミック・ソング・・・・・・・・・・・・・・・大瀧詠一

  笑いと二人旅(後編)・・・・・・・・・・高田文夫
  東京芸人ギャグ・フレーズ年表・・・・・・・・・・・・・・・西条 昇

  編者あとがき
  文庫版のためのあとがき

  解説  笑芸人
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 第三部、長谷部日出雄さんが書いている東京喜劇人列伝の渥美清の章に、興味深い対談が紹介されている。なお、この文章は『東京人』の1995年7月号が初出。

 対談部分の紹介の少し前の部分を、まず引用。

『男はつらいよ』の第一作を撮る前年に、吉行淳之介さんが「週刊アサヒ芸能」でやっている対談に、ゲストで来られた渥美さんの話を、整理者として横で聞いたことがある。
 独特の話術から、この人の本質は、
 -語る詩人、話す短編小説家。
 なんじゃないかな・・・・・・と、そのときおもった。

 浅草時代、渥美さんは結核で数年の療養生活を余儀なくされた。入院した埼玉県の小さな病院について、こんな風に語る。
 -廃工場の跡だから殺風景でね、ことにこっちは病んでいるから、見るものにすぐ感じるでしょう。風船爆弾つくっていたところだから、天井が高い。そこから機械を回すベルトの切れたやつがぶら下がっていて、風が吹くとそいつがピターン、ピターンと鳴る。その下を患者がゲタはいて歩いているのが、もうなんとも空しくてねえ。いまでも、芝居が済んだあと、風の音を聞くと、すぐその光景につながるんです。・・・・・・
 文章には出ない声質と間合いの変化をふくめて、この話を聞いていおると、ピターン、ピターンという音が本当に耳に響き、そこに漂う虚無感が、肌に迫ってくる気がするのである。

 渥美清については、小林信彦の『おかしな男』について、過去に記事を書いている。
 2015年6月に「車寅次郎と渥美清と田所康雄」と題して三回に分かけ書いたものと、昨年、同書巻末にある小林と小沢昭一さんの対談についての記事もある。
2015年6月9日のブログ
2015年6月14日のブログ
2015年6月21日のブログ
2016年8月6日のブログ

 しかし、この“ピターン、ピターン”という音の思い出のことは、小林の本からは知ることができなかった。

 あの映画を撮る前、風の音を聞いた時の田所康雄の心象風景についての、貴重な記録だ。

 引用を続ける。

 病院ではたくさんの患者が死ぬ。霊柩車がないので、リヤカーに棺桶を載せて運ぶのだが・・・・・・。
渥美 前の道をずっと左へ行くと、煉瓦を積んだ焼き場がある。右へ行くと駅がある。だから新しい患者が入ってくると、看護婦が「あの人は右だよ」とか「左だよ」なんていっていた。
吉行 丁か半か、だね。
渥美 その左の道を、何度も送って行った。そのときは、ほんとうにあたりまえのことだけど、死んじゃあいけないなあとおもいましたね。・・・・・・
 この病院が、どんな最高学府でも教えてくれない人生の深淵を覗かせてくれた、渥美さんの大学だったのだろう。
 数年の療養生活で、渥美さんはこの世の涯まで行き、見るべきほどのことは見てしまった。
 そしていわば、祇園精舎の鐘の声・・・・・・の無常感を体に染み込ませて、娑婆へ還ってきたのに違いない。


 車寅次郎のこと、そして渥美清のことを思う時に、結核病棟の田所康雄の姿に思いが至る人は、ほとんどいないだろう。

 かつて“不治の病”と言われた結核病棟の外、右は駅、左は火葬場という状況で、「俺は、どっちに行くことになるのだろう・・・・・・」と言う思いに毎日さいなまされていた田所康雄の姿を想像すると、とても、その後の寅次郎をイメージすることはできない。

『驟雨』で芥川賞を受賞する前に、肺結核で肺を切除している対談相手の吉行淳之介には、他の人よりも渥美の体験を共感できる要素はあったのかもしれない。

 あるいは、吉行だから、渥美が明かしたのだろうか。

 昨年の命日近く8月3日に放送されたNHK BSプレミアムのアナザーストーリーズ「映画“男はつらいよ”~寅さん誕生 知られざるドラマ~」を観た。

 あの番組では、先にテレビ版を作った当時のフジテレビ制作スタッフの証言なども興味深くはあったが、何と言っても、渥美清こと田所康雄と結核療養所で同じ病室にいた梅村三郎さんのお話が貴重だった。

 記事でも紹介したが、あの時、片肺を切除し絶望と闘いながらも、もし生き残って病院から右の駅に向かって娑婆に戻れたとしても、もう体を張ったドタバタは無理と観念した田所康雄が、懸命に香具師の啖呵売の稽古をしている姿を、梅村さんは目撃している。
2016年8月5日のブログ

 少し、話が暗くなってきたの、この後に続く部分を引用する。
 この対談の翌年の夏に封切られた、記念すべき『男はつらいよ』第一作の批評を、ばくは「キネマ旬報」に、こんな風に書いた。
 この映画でいちばん笑ったのは、つぎのようなギャグだ。京都で、帝釈天の御前様(笠智衆)とお嬢さん(光本幸子)に会った寅次郎(渥美清)は、二人の写真を撮ろうとして、御前様に「笑ってください」と頼む。すると御前様はなぜか「バター」という。「チーズ」というところを、間違って覚えていたのだ。
 この場面は「考えオチ」だから、そんなにおかしくはない。爆笑させられるのは、これが伏線となって、あとにくるシーンー。
 妹さくら(倍賞千恵子)と博(前田吟)の結婚式で、記念写真を撮る段になったとき、こんどは紋服に威儀正した寅次郎が、大きく口を開けて「バター」という。
 山田監督は好んで単純な人物を主人公に取り上げる。単純な人間というのは、固定観念に取り憑かれている存在で、これまでの山田喜劇の主人公であったハナ肇の役とおなじように、渥美が演ずる寅次郎も、おもいこんだら命懸け、いったんこうと決めたら、二度とその考えを変えず、写真を撮られるときは「バター」というもの、と信じて疑わない人物だ。かれが「バター」という一瞬には、そうした寅次郎の全存在が凝縮されていた。・・・・・・
 笑いとよく知る名監督が、計算しぬいた二段構えのギャグで、絶妙のタイミングでそれを演じたのが、千分の一秒まで間合いを測れる天才的な喜劇役者なのだから、堪ったもんじゃない。物の見事に意表を突かれ、同時にハタと腑に落ちて、引っ繰り返って爆笑せずにはいられなかた。
 いまでは伝説となった、この歴史的なギャグの大成功が、『男はつらいよ』をギネス物の長寿シリーズにするのに、決定的な役割を果たしたのに違いないとおもう。

 さくらの結婚式で寅が「バター」とやった時、御前様は不思議な顔をする。
 「元ネタはあんたでしょ」と突っ込みたくなるね^^

 私には、長谷部さんほど、「バター」のギャグへの深い洞察力はない。
 というか、正直なところ、あの「バター」というギャグに長寿シリーズとなる“決定的”な役割を見出すというのは、さて、どうなのか・・・・・・。
 
 とはいうものの、第一作の作品全体に、続編を作らせるに足るだけの要素が充満していたことは、間違いはない。

 そして、何と言っても、第一作のオープニングは、江戸川に桜が咲いている中、車寅次郎が二十年ぶりに帰って来る場面、まさに今これからの季節。

 桜を見て思うことは人それぞれ違うだろうが、概ね、入学や入社などの時機であり、冬から春本番という、気持ちが明るくなるような思い出が浮かぶ人が多いのではなかろうか。

 桜の花びらを風で飛ばすようになっても、それこそ風流とばかり花見をする人もいるだろう。
 しかし、紹介した対談は第一回を撮影する前年に行われた。

 桜に吹く風の音で、寅さんでも渥美清でもない田所康雄の耳には、あの「ピターン、ピターン」という音がこだましていたのかもしれない。

 田所康雄が渥美清としての地位を確固なものとし、車寅次郎になり切って、風が吹く日でも「ピターン、ピターン」という音が響かなくなったのは、シリーズのいつの頃なのだろうか。

 あるいは、全48作を通して、あの音は消え去ることがなかったのだろうか。

 没後二十年を超え、ますます、一人の人間における、車寅次郎、渥美清、そして田所康雄の所在位置のことに思いが至るのだった。

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by kogotokoubei | 2017-03-31 22:25 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(4)

 三月三十日は、二代目露の五郎兵衛の祥月命日。

 昭和7(1932)年3月5日生まれで、八年前の平成21(2009)年3月30日に、満77歳で旅立った。

 このところ“江戸前”の笑いについて書いてきたが、今回は上方の噺家さんについて。
 昨年、笑福亭松枝の本の引用で、露の五郎兵衛一門のことを書いた。
2016年2月21日のブログ

 米朝、松鶴、春団治、文枝などの一門と比べると、東京での知名度は低いように思うが、最近は露の新治が東京での落語会や寄席への出演で評価を高め、昨年は芸術祭優秀賞を受賞するなどにより、その名が浸透しつつあるように思う。

 以前記事で書いたが、新治が演じる『中村仲蔵』は、師匠の五郎兵衛が八代目林家正蔵に稽古してもらったものを継承している。

 そのことからも分かるように、五郎兵衛という噺家さんは、東京との縁が薄からぬ存在で、鈴本や国立演芸場への出演もあったらしい。

 新治の東京での活躍は、そういった師匠が作ってくれた財産が大いに役立っているということだろう。
 
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 露の五郎兵衛の著書『上方落語夜話』(執筆時は、露乃五郎)から、五郎兵衛の落語という芸の捉え方が伝わる文章を紹介したい。

 本書は、朝日カルチャーブックスの一冊として、昭和57(1982)年、大阪書籍より発行された。

 この本からは以前にも『蛸芝居』に関する記事で、初代桂文治について書かれた文章を紹介したことがある。
2014年2月1日のブログ


 朝日カルチャーセンターで二時間づつ五回に渡って話した内容を元に、神戸のタウン誌『センター』に連載した記事、そして神戸新聞や京都民報、『上方芸能』に書いた内容などを補って整理した内容で、上方落語を知る上で非常に有益だ。

 第一章から第四章までは、自分の体験談も交え上方落語の歴史を説明しているが、第五章は趣が変わって「落語の楽しさ」となっている。 その第五章から引用。

 落語はドラマです

 約三百年の間にそれぞれの演者が工夫をこらしながらみがきぬかれ現代に語りつがれてきた落語ですが、今日でも、その工夫はつみ重ねられているわけで、俗に古典落語といわれている落語でも、いたずらに故人の遺産を守っているだけではありません。と、いいますのが、落語はその時代その時代に生きているもので、その時、その場所、そのお客に合った演出で演じなければ、落語自体が死んでしまいます。ですから、落語家は出演者であると同時に演出家でもあるわけで、演出家の目で演者としての自分をみつめ、似合わない役柄の人物は出てくる場面をへらしたり、別の人物に代弁させたり、作品(ネタ)の中の人物を自在にあやつれる演出家としての力がなければなりません。

 最初この文章を読んだ時、「それは、当たり前じゃないか」と一瞬思った。
 しかし、すぐに、その当り前のことがなかなか難しいのだよな、ということも痛く感じた。

 引用を続ける。

その物語の背景になる時代はいつにするか。江戸時代か、明治か、現代か。たとえば、それによって、物のねだん一つでも変わってくるわけです。そうして演出家としてねににねった作品を演者として充分に演じきったときにはじめて、面白い落語が出来るわけで、基礎をきっちり習うことはもちろん大切ですが、それを、そのままくりかえすだけでは何にもなりません。その作品にその演者の息吹きがふきこまれて、だれそれの何、と、言われる落語になるのです。

 基礎ができている上で、演者の息吹きをふき込む、という言葉は重要だ。

 この部分を読んで、露の新治の『中村仲蔵』のことを思った。

 仲蔵が、自分の工夫した斧定九郎の演出に客席から何ら反応がなく、「しくじった」と思い江戸を離れるつもりでいたのだが、街で仲蔵の芝居を褒める声を耳にする、という場面。
 師匠五郎に伝わった正蔵版は、上方へ行く道すがらの魚河岸で、芝居を観てきた河岸の人たちの会話で、自分を褒める言葉を耳にする、という設定だった。
 新治は、上方に行こうと決めて家を出たものの、つい足が中村座の方に向かってしまい、そこで、小屋から出てきた客が仲蔵を褒める言葉を耳にしてしまう、という設定。
 師匠から継承したものかどうか勉強不足で分からないが、この演出の工夫は悪くない。特に、上方で演じる場合は、魚河岸という場面設定は違和感があるかもしれない。
 
 何より正蔵、師匠五郎兵衛から継承している大事なのは、「たった一人」でも褒めてくれる人がいたことを仲蔵が知ること、である。
 そこに、あの噺が、よりドラマチックになることは聴いていて、よく分かった。

 落語とドラマ、については続けてこのように書かれている。

そして、そのすぐれた落語が文字になった時に、文学!! とさえ思われる者が出来上がるわけで、だれのどの落語でも活字になって文学的であるわけではありません。けれども、演出の上手下手はともかく、落語がドラマであることにはまちがいありません。目のつかい方で遠近や感情、仕草の一つ一つが、舞台装置や小道具をおぎなって、扇子と手拭いだけで、時にはパントマイムすれ演じるのです。
 ご覧いただく方の頭の中に、その場面が浮かび上ってこそ、その落語の味わいがわかるのです。高座と客席の知的な遊びの交流がなければ、ドラマとは程遠い、単にギャグでゲラゲラ笑っておしまい、と、いう、つまらないものになってしまいます。
「いや、俺は、その方が好きなんだ」
 と、おっしゃられれば、それまでですが・・・・・・。

 いやいや、ゲラゲラ笑うだけでは、私は嫌だ^^

 こんなことも書かれている。

昔は「はなし二百の節三百」と、申しまして、落語は二百人、節のついた浄瑠りや浪曲は三百人くらいが最適といわれていました。これは、マイクのない時代、声の通りの問題でもありましょうが、演者の目の動きが最後列のお客様からでも見える範囲をいったものといわれています。近ごろは、上方ではホール落語その他、会場が広くなってまいりましたせいと、話芸という概念、マイクが良くなった、まァいろいろいな条件が重なって、どうも、本当の面白さが、演じる方も、見る方も、ちょっとちがってきているような気がしています。

 よく分かるなぁ。

 私は、今では千人を超えるような会場の落語会には行かない。

 「はなし二百」という言葉、覚えておこう。

 ちなみに、私が好きな末広亭は、一階の椅子席が117席。桟敷は上手側、下手側で各38席と、末広亭のサイトには記されている。これは、座布団を目一杯詰めて並べての数字だとは思うが、合計で一階がほぼ二百、「はなし二百」に合致。
 
 鈴本は285席と少し広い上に、昔の佇まいがなくなっているのが、残念。

 池袋は93席。高座から噺家の唾が飛ぶ距離で迫力満点ではあるが、少し狭すぎる。
 浅草演芸ホールは一階239席、二階101席。名前からしてホールなので、寄席の雰囲気は味わえない。

 国立演芸場は、300席だが、結構好きだ。前の方の席なら、十分に噺家さんの表情が見てとれる。

 上方の天満天神繁昌亭は、一階153席、二階63席のようだ。
 ほう、合計で、ほぼ「はなし二百」ではないか。

 小満んの会を楽しんでいる関内ホールの小ホールは264席。あれくらいがちょうどいいね。

 つい、「はなし二百」から、詳細に至ってしまった^^


 昨年2月の記事で紹介した笑福亭松枝の本には、桂枝雀一門と上方落語協会会長になった際の露の五郎兵衛とのぎくしゃくした関係についても、少し書いていた。
 具体的な内容までは松枝は明かさなかったが、どうもネットなでで流れている情報によれば、枝一門総領弟子南光と五郎兵衛との相性の悪さが背景にあったと察せられる。
 その件は、これ以上ほじくり返してもしょうがないだろう。
 
 私も、露の五郎の第一印象は、良くない。
 少年時代にテレビで見た五郎兵衛は下がかって話が好きな好色じじい、という印象で、長らく私にとっては贔屓の噺家ではなかった。

 しかし、新治を知ることからその著作などを読み、印象は一変した。

 早い話が、知らず嫌いだった。

 二代目露の五郎兵衛、もっと評価されてしかるべき人である。

 上方落語に関する著作も貴重だし、もちろん、その芸そのものも半端じゃなかったと思う。

 『大丸屋騒動』の音源を聴き、生の高座ではないにしても、芸の深さを痛感した。
 聴いていて、噺の場面がはっきり目に浮かんだ。
 引用した文にあるように、「その場面が浮かび上ってこそ、その落語の味わいが」わかったのだ。

 
 明日31日、天満天神繁昌亭では、「第八回 露の五郎兵衛追善落語会」が開かれる。
天満天神繁昌亭サイトの該当ページ

 きっと、それぞれの高座に“ドラマ”があるはずだ。

 こういう会のことを知ると、上方の落語ファンの方が羨ましくなる。

 江戸前もいいが、上方もいいのだ。


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by kogotokoubei | 2017-03-30 22:31 | 上方落語 | Comments(0)
 3月26日に、NHK FMの「日曜喫茶室」が終了した。
 録音していた内容を、昨日と今日の通勤時間に聴き、なんとも言えない虚脱感に襲われている。

 はかま満緒さんが亡くなったとはいえ、40年に渡る豊富なライブラリーから選ばれた過去の放送を楽しんでいたのだ。

 最終回、藤本義一さんが語る川島雄三の思い出や、昨年亡くなった江戸家猫八(出演時は小猫)と三宮麻由子さんの鳥の声に関する対談は、実に結構だった。

 まだまだ、聴いていない貴重な音源の宝庫だろうと思うと、終了が寂しくて・・・・・・。

 また、高田文夫の本を読んでいたので、はかま満緒さんや高田文夫という、「笑芸」に関する“目利き”“語り部”“作者”の存在の大きさにも思いが至った。

 “笑芸”作家として、かたやあの林家三平を、かたやビートたけしを支えてきたことや、ラジオで人気長寿番組を持っていたことも、共通する。


 さて、いつものように、私の読書は芋づる式。

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 高田文夫の「誰も書けなかった『笑芸論』」を読んで、彼が編集した『江戸前で笑いたい』を読み返していた。


 この本については、ブログを初めて間もなくの2008年9月に記事を書いた。
2008年9月6日のブログ

 目次をご紹介。
 ご覧のように、第一部と第二部が落語、第三部では他の“笑芸”をテーマにしている。
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第一部 やっぱし落語だ!
    口上・・・・・・高田文夫
  笑いと二人旅(前編)・・・・・・・・・・高田文夫
  現代ライバル論(1) 志ん朝と談志・・・・・・・・・・・・・・山藤章二
  現代ライバル論(2) 志ん生と文楽・・・・・・・・・・・・・・玉置 宏
  現代ライバル論(3) 高田文夫と藤志楼・・・・・・・・・・・・森田芳光
  小朝、志の輔とそれに続く若手たち・・・・・・・・・・・・・吉川 潮
  変貌する落語−今こそ、新作落語に注目!・・・・・・・・・・渡辺敏正
  談志論・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・立川志らく
第二部 中入り
   中入り・・・・・・高田文夫
  志ん生と江戸の笑い・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・鴨下信一/高田文夫
  みんな落語が好き・・・・・・・・・・・・篠山紀信/春風亭昇太/高田文夫
  名人に二代なし?・・・東貴博/三波伸一/柳家花緑(司会・高田文夫)
  浅草芸人寿司屋ばなし・・・・・・・・・・・・・内田榮一(聞き手・高田文夫)

第三部 東京の喜劇人
    口上・・・・・・高田文夫
  東京喜劇人列伝1  三木のり平・・・・・・・・・・・・・・永 六輔
  東京喜劇人列伝2  三木のり平・・・・・・・・・・・・・・小野田勇
  東京喜劇人列伝3  由利 徹・・・・・・・・・・・・・・・高平哲郎
  東京喜劇人列伝4  渥美 清・・・・・・・・・・・・・・・長部日出雄
  東京喜劇人列伝5  渥美 清・・・・・・・・・・・・・・・高田文夫
  東京喜劇人列伝6  クレージーキャッツ・・・・・・・・・・岸野雄一
  東京喜劇人列伝7  萩本欽一・・・・・・・・・・・・・・・ラサール石井
  東京喜劇人列伝8  ビートたけし・・・・・・・・・・・・・井上まさよし
  東京喜劇人列伝9  イッセー尾形・・・・・・・・・・・・・中野 翠
  東京喜劇人列伝10 伊東四朗・・・・・・・・・・・・・・・西条 昇
  気分はいつもハードボイルド・・・・・・・・・・・・・・・・内藤 陳
  東京の若手お笑い人 自分好みの芸人になること・・・・・・・水道橋博士
  映画に見る東京ブラック喜劇(ユーモア)人事典・・・・・・・・・快楽亭ブラック
  江戸前的? コミック・ソング・・・・・・・・・・・・・・・大瀧詠一

  笑いと二人旅(後編)・・・・・・・・・・高田文夫
  東京芸人ギャグ・フレーズ年表・・・・・・・・・・・・・・・西条 昇

  編者あとがき
  文庫版のためのあとがき

  解説  笑芸人
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 単行本は1997年1月に筑摩書房で発行され、この中公文庫発行は2001年9月。

 書き下ろし、語り下ろしもあるが、『東京人』などに初出の内容の再録が中心の本。

 なかなか、高田文夫の編集のセンスの良さが見受けられる、落語好き、お笑い好きには実に楽しい本だ。

 読み返してみて、落語家や芸人さんへの懐かしさと、最初にこの本を読んだ時の懐かしさの二重のノスタルジーに浸ってしまった。

 「中入り」で高田文夫は、こう書いている。

まずは私が尊敬してやまないTBSの演出家、“芸”の事を話したらこの人の右に出る人は三人も居るという、あの鴨下信一氏です。
 下町育ちの歯切れのよさを堪能してください。 
 東京人の先輩と後輩が共通して愛する人、志ん生とビートたけしについてじっくり語り合いました。
 この日、呑み屋を三軒ハシゴしたのは言うまでもありません。

 さて、その呑み屋のハシゴの成果(?)を少しご紹介。

鴨下 TBSには出口(一雄)さんという人がいて、ひじょうに落語に力を入れていた。高田さんなんかは、林家三平からはいった世代ですか。
高田 そうですね。ぼくは若き日の三平、立川談志を追いかけまわして、次第に円生に近づき、ありがたいことに志ん生と文楽の生前に間に合いました。でも、やっぱりライブの楽しさは三平さんですね。あの魅力は客席で観ていると、もう最高。だから、志ん生、三平のいいとろこが、みんなたけしさんに入ってますよね。
鴨下 たけしさんのギャグというのは意外に古典的なんですよね。
高田 そう、彼は落語が好きで、ヒマさえあればよく落語のテープを聞いてますよ。
鴨下 彼のギャグのネタそのものは新しいけど、言い回しはクラシックですね。それは志ん生にそっくりです。
 ぼくは放送局(TBS)に入った時、客席の中継なんかをずっとやっていたんです。その時、月の家円鏡(現・円蔵)が、やらなきゃいいのに『四段目』をやったんです(笑)。ぼく黒門町から教わったのかと思ったら、円鏡さんのはちょっと違う、いったいどうしたのと聞いたら、志ん生さんから聞いた噺だと言うんです。へえーと思った、落語家というのは割合自由で、師匠からの噺だけをやらなくてもいいんだね。
高田 そうです。出稽古といって、よそに行って、そこで教われば自分のものにしていいんです。勝手に盗んじゃいけませんが。
鴨下 芝居好きの小僧がお仕置きで土蔵に閉じ込められる、腹へった、腹へったと、円鏡さんはそこがとっても上手なんですよ。それは志ん生師匠からの写しで、「他のことはどうでもいい、腹へったことだけやれ」と言われたらしい。
高田 なるほど、テーマだけなんですね。この噺は飢えなんだと。
鴨下 後々いろいろと聞くと、みんなそういう教え方なんですね。例えば『時そば』なら蕎麦の食い方とか細かい仕種なんかどうでもいい、騙しなさいと教える。そっちのテーマさえしっかりしてればいい。
高田 ずばっと本質を摑まえれば、あとはどうでもいいんだと。

 再読して、こんな対談があったんだ、なんて驚いていた。

 その円蔵も旅立った。志ん生仕込みの『四段目』、聴きたかったなぁ。

 鴨下さんは昭和10年生まれでご健在。
 あの「岸辺のアルバム」「ふぞろいの林檎たち」などの名ドラマを演出した人だ。

 「日曜喫茶室」の過去のデータを見ると、何度か出演されているんだよねぇ。
 はかま満緒さんの絶妙な進行で、鴨下さんがどんなことを語っていたか、気になるなぁ。


 本書を再読して印象に残ったものについては、今後書くつもり。

 この本の目次を眺めても分かることだが、かつては、噺家にしても、他の“笑芸”にしても、“キラ星のごとく”人材が豊富だった。

 そして、それぞれの芸人について語っている人の名も、錚々たるものだ。
 芸の良さ、本質が分かる人も、多かった。

 それに比べて・・・と思う。

 
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by kogotokoubei | 2017-03-29 22:36 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(2)

 拙ブログをFC2からExciteに引っ越して、もうじき二年になる。

 転居理由は、引っ越してすぐの記事で書いた通り。
2015年4月26日のブログ

 FC2の関係者に対する裁判に進展があったようなので、朝日から引用する。
朝日新聞の該当記事

FC2実質運営会社社長らに有罪判決 わいせつ動画配信
2017年3月24日19時07分

 動画投稿サイト「FC2」でわいせつな動画などを配信したとして、わいせつ電磁的記録記録媒体陳列と公然わいせつの罪に問われた実質的な運営会社社長ら2人に対する判決が24日、京都地裁であった。中川綾子裁判長はいずれも懲役2年6カ月執行猶予4年、罰金250万円(求刑懲役2年6カ月、罰金250万円)を言い渡した。2人は即日控訴した。

 判決を受けたのはホームページシステム(大阪市)社長の足立真(41)と、創業者の弟で元社長の高橋人文(ともん、40)の両被告。判決によると、2人は2013~14年、FC2上でわいせつな動画を閲覧できる状態にし、アクセスした不特定多数の人に対して閲覧させた。

 公判で、2人はわいせつ動画の投稿・配信に関与せず、投稿者らと共謀もしていないなどと無罪を主張した。判決は、2人がFC2でわいせつ動画が配信されることを認識しており、FC2の仕組みを利用した投稿者との共謀が成立すると判断した。
 “仕組み”について、もう少し詳しく書かれている、時事ドットコムの記事も紹介する。
時事ドットコムの該当記事

FC2創業者弟らに有罪=わいせつ動画公開-京都地裁

 動画投稿サイト「FC2」のわいせつ動画をめぐる事件で、わいせつ電磁的記録媒体陳列罪と公然わいせつ罪に問われたFC2米国法人創業者の実弟高橋人文(40)、関連会社「ホームページシステム」社長の足立真(41)両被告の判決が24日、京都地裁であった。中川綾子裁判長は、2人に懲役2年6月、執行猶予4年、罰金250万円(いずれも求刑懲役2年6月、罰金250万円)を言い渡した。弁護側は即日控訴した。
 弁護側は、わいせつ動画のアップロードに関与しておらず、投稿者との共謀などは成立しないとして、無罪を主張していた。
 これに対し中川裁判長は、「被告らはサイトで相当数のわいせつ動画が配信されることを認識し、利用者を増加させようとしていた」と指摘。投稿者も、閲覧者が増えるとポイントがたまり換金できるサイトの仕組みに動機付けられ、動画をアップロードしていたと認められると判断した。
 判決によると、両被告は米国にあるサーバーからサイトを運営。2013年6月19日に投稿者と共謀し、無修正のわいせつ動画を不特定多数の人が閲覧できる状態にするなどした。(2017/03/24-19:40)

 私は思うが、“共謀”したか否かに関わらず、上記のような仕組みを作っている以上、そういった動画が掲載されることは想定できたはずだ。

 もし、利用者が勝手にやったことだ、と嘯くようなら、FC2という会社の経営管理者の了見がなってないと思う。

 言ってみれば、長屋の大家が、ある部屋でエロ映画の上映会をするのを黙認し、その木戸銭からショバ代を取っているようなものではないのか。

 そんな長屋には、同じ店子として住む気がしなかったのだ。


 控訴したようなので、まだ長引くだろうが、あらためて、FC2長屋からエキサイト横丁に引っ越して良かったと思っている。

 FC2でブログを開設されている方も、この裁判の行方は気がかりだろう。

 引っ越しご案内の記事にも書いたが、今からFC2からの引っ越しを検討されている方は、エキサイトなら、ほぼ以前のレイアウトをそのまま生かして移管可能だし、コメントも移管できるので、お奨めする。

 もちろん、人それぞれであり、FC2に留まる選択もあるだろう。

 まだ時間の猶予がある、高裁あるいは最高裁まで裁判を眺めながら考えたい、という方もいらっしゃるかもしれない。

 しかし、破綻した旅行会社の例ではないが、万が一の時には、大事な自分の記録などが消えてなくなる恐れもなきにしもあらず。

 私は、そのリスクを少し早めに解消したかったのである。
 これは自慢でもなんでもない。そうしなければ、どうにも気持ちがすっきりしなかったからであって、私より堪忍袋が大きな方は、どっしり構えていれば良いだろう。

 それにしても、日本の裁判、時間がかかり過ぎるなぁ。


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by kogotokoubei | 2017-03-28 20:47 | 幸兵衛の独り言 | Comments(2)

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高田文夫著「誰も書けなかった『笑芸論』」(講談社文庫)

 先に、古今亭志ん朝の部分をつい記事にしたが、この本、初版は2015年の講談社からの単行本。
 私は加筆・修正されて3月15日初版の文庫で、初めて読んだ次第。

 目次を、あらためてご紹介。
----------------------------------------------------
 開口一番
第一章 体験的「笑芸」六十年史
 はじめに
森繁久彌
三木のり平
青島幸男
渥美 清
林家三平
永 六輔
古今亭志ん朝
森田芳光
立川談志
三波伸介
景山民夫
大瀧詠一
坂本 九

番外編 
 脱線トリオ
 ハナ肇とクレージーキャッツ
 コント55号
 ザ・ドリフターズ

第二章 ビートたけし誕生

第三章 自伝的「東京笑芸論」

 秘蔵フォトアルバム
 はみ出しフォトアルバム
 文庫版の為のあとがき
 解説ー高田文夫になれなかった 宮藤官九郎
----------------------------------------------------


 「第三章 自伝的『東京笑芸論』について、「開口一番」で次のように説明されている。

 一冊の本にするには「小説現代」の連載分だけでは物足らず、この度、この“第三章”はなんと2015年の正月休みに一気に書く下ろしました。私の書き下ろしは珍しいです。

 この描き下ろしの第三章、年齢も違えば生まれ育ちも違う私なのだが、妙に同じような少年時代の体験をしていていることが分かり、共感できる部分が多い。

 たとえば、“一日幼稚園体験”。
 ちなみに高田は渋谷で生まれ、五歳で千歳船橋に引っ越している。

 幼稚園へは一日だけ行ったが、いじめられて泣いて帰ってきた姿を見て、母親が、「そんな嫌な奴が居る処へか行く事ァない。幼稚園なんか行かなくたって人生大丈夫だよ」
 そのひと言で呑気に過ごした。我々の世代、幼稚園行ってない人も多かったような気がする。

 実は私も、幼稚園は一日しか行かなかった。
 隣町の幼稚園で、その近くに住むお金持ちの家の子どもが偉そうにして、たとえば、砂場で遊ぼうとしたら、「そこは、俺の場所だ」とかなんとか言って、遊ばせてくれなかった。
 隣町なので、いつも泥だらけで一緒に遊んでいた仲間もいなかった。
 そして、幼稚園には私の時代も、誰もが通っていたわけでもない。
 その日、高田のように泣いて帰ったわけではないが、翌日いったん行く素振りを見せて家を出たものの途中で引き返してきて「行きたくない」と言ったら、「そんなに嫌なら行かなくていい」と母親が許してくれた。
 それ以来、仲の良い近所の友達(悪ガキ?)達ともっぱら遊んだ。
 缶蹴りにタカタカ鬼、S陣取り、チャンバラごっこ、などなど。

 小学校は、そういった顔見知りの友達も周りにいて、行くのが楽しくてしょうがなかったなぁ。

 私にとっても懐かしいテレビ番組の名を発見。
 私の家の前では、いつも「少年ジェット」のロケをやっていて、お昼の休憩に入ると少年ジェットと敵役のブラックデビルが仲良く弁当を食べ、キャッチボールをしているのを見てショックを受けたりもした。
「本当は仲がいいんだ・・・・・・」と小さくつぶやいた。
 ♪行こうぜ シェーンよ
   とりこになっても負けないぞ
 と元気ハツラツな主題歌。オープニングで愛犬シェーンが買物カゴをくわえ買物に行く酒屋は、我が家がひいきにしていた“石井酒店”。

 「少年ジェット」は、よく覚えている。
 近所の仲間と「少年ジェットごっこ」でも遊んだ。
 黄色いマフラーしたジェットが何人もいて、ブラックデビル役がいない。芝居噺の落語のマクラ、勘平ばかり三十六人、のようなものだ。

 テレビの前に釘づけになって観たものだ。

 引用部分を含め、主題歌のこうだった。

 ♪ 勇気だ力だ 誰にも負けないこの意気だ (ヤー)
  黄色いマフラーは 正義のしるし
  その名はジェット 少年ジェット
  進めジェット 少年ジェット (J! E! T!)
  
  行こうぜシェーンよ とりこになっても負けないぞ
  正しく強いこの快男児
  その名はジェット 少年ジェット
  行こうジェット 少年ジェット (J! E! T!)

 懐かしい^^

 そして、野球体験。
 東映フライヤーズに憧れた悪ガキ達は、少年野球チームを作る。
 私も、小学校入学前は、近所の空き地で三角ベース。小学校に入ってからは、二年生でその仲間たちと野球チームをつくって、憎っくき隣町のチームと試合をしたものだ。
 高田少年達のチームには、すごいコーチ(?)がいた。
時々“花形のお兄ちゃん”がバットを持って現れ、我々「少年シャークス」にノックの嵐を浴びせてくれた。
 このお兄ちゃんこそ誰あろう渋谷の安藤組親分・安藤昇の右腕とも呼ばれた花形敬である。

 へぇ、あの花形敬だよ。
 本田靖春さんが『疵』で書いた、花形だ。
 私は隣町の小学校と試合を重ねたが、高田さんの相手は、あのチームだった。

 花形ノックを受けた小学校の高学年、我々は渋谷は松濤の少年野球チーム“ジャニーズ”と対戦。たしか二戦して二敗している。もうあの頃から何をやってもジャニーズには負けていたのである。
 少年野球で対戦した一、二年後、テレビをつけると彼らは歌っていた。
 そう、あおい輝彦やら飯野おさみでおなじみの四人組、元祖ジャニーズである。

 そうなのだ。ジャニーズは、元々少年野球チームの名前。
 
 さて、高田少年は、野球だけではなく、幅広く活躍していた。

 小学校も三年生くらいになると各学期末に学芸会というか、お楽しみ会の様なものが催された。私は気の合う五人程を集め、口立てで演出をし、一週間位前から毎回毎回稽古にはげんだ。私がリーダーでスリッパの様なものを持ち、これでひっぱたくつっ込みである、一座にアクト講座をするのである。多分、テレビで見たばかりの三木のり平&八波むと志、そして脱線トリオの影響をモロにうけたいたと思う。
 一学期の学芸会、二学期の学芸会、三学期の学芸会と私の作・演出・座長のコント劇団はもの凄い人気となっていき、四年になっても五年になってもこの一座が名物となっていった。

 なるほど、すでに放送作家としての片鱗が小学生であった、ということか。

 私も、学芸会やお楽しみ会で「笑芸」を披露したが、さすがにコント一座までを主宰するには至らず、漫才(てんや・わんや、Wけんじなどの真似)か、一人でべニア板をウクレレに見立て牧伸二の真似をするにとどまっていた。

 とはいえ、中学で卒業生を送る予餞会では、作・演出・座長を務めたので、高田少年の“笑芸”自伝には、他人とは思えない近さを感じてならない。

 “山の手”育ちの高田の寄席初体験は、小学四年生の時、寄席通の友人が、三平を見せてやる、と連れて行ってくれた、新宿末広亭。
 
 第一章の林家三平のページで明かされていることなのだが、第三章でも、こう書いている。
 
 馬の助(早逝)や小さんも出演していた。“山の手小僧”にとって寄席とは上野鈴本でも、浅草演芸ホールでもなく、新宿末広亭なのである。あの建物自体が昔の大人のにおいがして、なんとも魅力的であった。“悪所”の感じもたまらなかった。近所のパチオンコ屋からは守屋浩の「僕は泣いちっち」やら、村田英雄の「人生劇場」が流れていた。

 この感覚も、十分に共有できる。

 池袋の狭い空間も嫌いではないが、私にとって“寄席”としてしっくりくるのは、都内四席の中で、間違いなく末広亭である。

 読んでいるうちに、なぜ私も放送作家にならなかったのか、なんて不思議な思いにかられていた。

 お笑いが好きだった高田文雄(本名)少年時代と、いくつか自分の少年時代が重なり、何度も「そうそう!」なんて相槌を打ちながら読んでいた。

 読了し、なかなか心地よい読後感を味わっている。

 第一章、第二章での個々の芸人さんの高田文夫の思い出や懐かしい写真を含め、私にとっては楽しい書だった。

 もちろん、落語を含む「笑芸」がお好きな方には、お奨めの本と言えるだろう。

 この本からは今後も何度か紹介しようと思っている。

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by kogotokoubei | 2017-03-27 21:18 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(0)

 冷たい雨で、恒例のテニスが休み。

 最近買った本を読んでいた。

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高田文夫著「誰も書けなかった『笑芸論』」(講談社文庫)
 
 講談社文庫で発行されたばかりの高田文夫の本。

 高田文夫の「笑芸」に関する本ということでは、ずいぶん前に、彼が編集した「江戸前で笑いたい」について記事を書いたことがある。
2008年9月6日のブログ

 また、先代の文治について、高田文夫が日刊スポーツに書いていたコラムをまとめた「毎日が大衆芸能」から紹介したことがある。
2013年1月30日のブログ

 この「誰も書けなかった『笑芸論』」は、2012年4月に、不整脈で八時間の心肺停止から奇跡的に助かった後で、リハビリがてら2013年から「小説現代」に連載したコラムと、書き下ろし(第三章)による本。

 真っ先にめくったのが。古今亭志ん朝のページ。

 志ん朝の弟子だった右朝と高田が日大芸術学部の落研で同級だったことは有名な話。
 なんとこのいページの写真は、右朝の葬儀で弔辞を読む志ん朝の姿・・・・・・。
 同じ年の10月1日に、志ん朝も旅立った。

 その志ん朝の葬儀について、新発見。
 
 2001年10月6日、文京区の護国寺での告別式。木遣に先導された棺は江戸前そのものだった。
「名人!」「矢来町!」「朝サマ!」。
 それぞれが心の中で叫んでいた。
 そして静かに、薄く聴き慣れたメロディが流れてきた。なんとサザンオールスターズの曲に送られての出棺だった。あまりにその芸風と生き方にドンピシャで、涙があふれて止まらなかった。
 惣領弟子の志ん五が私に教えてくれた。
「うちのジャリ(娘)が選曲したの。師匠にカラオケ連れてってもらうと、必ずサザン歌うからだって」
 意外だった。言われてみればサザンと志ん朝、おしゃれな青春のにおいがする。

 私にも、この選曲は意外だった。
 好きなジャズなら、さもありなん、だったが。

 ほぼ同世代のサザンは嫌いじゃないが、昭和13年生まれの志ん朝がカラオケでサザンのファンだとは、思わなかった。
 

 以前書いたが、私はしばらく落語を聴くことのない時期があったが、2001年10月1日、その偉大な噺家の旅立ちを契機に、音源を中心に落語をまた聴き、その数年後、かつての赴任地越後ではかなわなかった寄席や落語会に通い始めた。

 だから、護国寺の告別式には行っていない。
 
 行かれた落語ファンの皆さんにとってはご周知のことなのだろうが、本書で初めて志ん朝葬送のBGMを知った次第だ。

 なぜ護国寺だったのか。

 護国寺を選んだのはこの数年前、芝居の師とあおぐ三木のり平先生の葬儀がここでとり行なわれ、とても良かったので自分の時もここでやって欲しいと言い残していたから。

 想い出した。のり平先生のお通夜の清めの席。数ヵ所にビデオが置いてあり、モニターからのり平芝居の名作が次々と流れていた。「らくだの馬さん」やら「文七元結」やら。
 それを観ながら私と高平哲郎が呑んでいるのをみつけた志ん朝師が、「あン、実に弱ったもんで」と例によって鼻を広げながらやって来て、一緒に一杯やりながら、「子の芝居はこうで、この時はこうで」と嬉しそうに教えてくれた。
 志ん朝師は、のり平とジャズが人一倍好きだった。

 この後、高田文夫が学生時代に聴いた「二朝会」の思い出が語られる。
 そして、放送作家となってからの志ん朝との関係などの思い出を語った後、次の言葉で締められている。

 志ん朝がいてくれた豊かな時代、それは我々東京っ子の“若い季節”だったのかおしれない。
 昭和23年生まれの高田文夫は、志ん朝のちょうど十歳年下になる。
 まったくの偶然だが、一昨日の記事で紹介した荒井修さんと同じ年生まれの団塊の世代だ。

 八時間の心肺停止から命を取り戻したのは、天がこの本の内容のように、得難い「笑芸」の記録、記憶を残すことだったのか、などとも思いながら、半分くらいを読み進んだところ。


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by kogotokoubei | 2017-03-26 16:26 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(6)
 かつて存在し、今は消えつつある下町の季節感あふれる生活の記録として、荒井修さんの『江戸・東京 下町の歳時記』は実に貴重な本だ。
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荒井修著『江戸・東京 下町の歳時記』

 本書は、2010年12月に集英社新書から発行されたが、著者荒井修さんは、私より少し年長の“団塊の世代”で、浅草にある舞扇の老舗、荒井文扇堂の四代目社長さん、だった。
 実は、拙ブログの記事にいただいたコメントで教えていただくまで、荒井さんが昨年二月に亡くなっていたことを知らなかった。

 勘三郎と懇意で、一緒に平成中村座の実現に貢献した荒井さんを、天国から勘三郎が呼んだのか、どうか。

 一周忌にあたっての「しのぶ会」について、東京新聞から紹介したい。
東京新聞の該当記事

浅草の発展に貢献 文扇堂・荒井修さんしのぶ会
2017年3月1日

◆歌舞伎界や地域の300人集まる

 台東区・浅草仲見世の老舗舞扇店「荒井文扇堂」四代目店主、荒井修さんの一周忌を機に二十八日、しのぶ会が近くのホテルで行われた。浅草での歌舞伎公演「平成中村座」を故・十八代中村勘三郎さんとともに実現させるなど、浅草の発展に貢献した荒井さんを慕った歌舞伎界や地域の三百人が集まった。

 発起人代表の浅草観光連盟会長、冨士滋美さん(68)は「長く浅草のことを語り合った仲。あいつは死んでいません。二百年前から生きているようなことを言うやつだったから」と話し、浅草寺が二〇二八年に本尊示現千四百年の節目を迎えることに言及。「そのころには俺たち八十歳だな、とよく話した」としのんだ。

 荒井さんの長男で荒井文扇堂五代目店主の良太さん(37)は「半纏(はんてん)も、基礎ができているから粋な着方ができる、とよく言われた。そんな言葉を常にいえる粋な職人になれるよう精進します」とあいさつした。

 このほか、寛永寺長臈(ちょうろう)の浦井正明さん、作家いとうせいこうさんらがあいさつ。会場には荒井さんが制作した扇子が展示された。

 荒井修さんは昨年二月二十二日、六十七歳で死去した。 (榎本哲也)
 昭和23年生まれ、まさに団塊の世代。
 まだまだ、「二百年前から生きているような」お話を聞かせていただき、読ませていただきたかった人だ。

 先日の小満んの会、絶品の『味噌蔵』のマクラで、「吝嗇家(しわいや)は 七十五日 早く死に」の川柳を小満んがふったが、終演後の居残り会で我々よったりは、なんとか七十五日長生きせんと、初物の初鰹をいただいた。

 その初鰹について、荒井さんの本から引用したい。

 このころは、初鰹の季節でもあります。「初ものを食べると七十五日長生きできる」なんてことを言いますけど、江戸時代に鰹一本買うのにどのぐらいかかるか。
 芝居の好きな人はおわかりでしょう。髪結新三は、「鰹を三分で買う」なんてことを言う。三分ってどのぐらいかっていうと、今のお金で、たぶん四万円ぐらいするだろう。いちばん高いときで、六万四千円だという話もある。初茄子というのも非常に高いんですけどね。
 当時の鰹というのは、陸から江戸へ向かってくるか、海から八挺櫓なんていう八人で漕ぐ舟でもって大急ぎで運んでくるか。早い者勝ちですからね。たとえば1812年(文化九年)は、三月の二十五日に魚河岸に入荷した鰹は全部で七十五本だった。そのうち六本が将軍家へ献上されて、三本は有名な料亭の八百膳が競り落とした。で、残りの八本が魚屋に出るんですけども、そのうちの一本を、三代目・中村歌右衛門が三両で買って、大部屋の役者たちに振る舞った。これは有名な話で、たいへんな評判になったらしいですよ。
「加賀屋っていうのは鰹を買って、弟子にみんな食わせたらしいぞ」って。まあ、この時季は貝はとれるし、うまいものだらけじゃないですか。たまんないよね。
 食べ物でいうと、ほかには千住のねぎや茄子、田端の白瓜、本所の瓜、品川のかぶや目黒のたけのこ、内藤新宿のかぼちゃ、早稲田のみょうがに谷中のしょうが、駒込の茄子に亀戸の大根。とにかく、おいしいものがいっぱいあるわけ。
 それから小松菜。これもね、江戸の人間って早いもの好きじゃない。やっぱり早摘みをつくるんだけど、早摘みだから高いんです。で、やりすぎて、お上が早摘み禁止令を出した。季節感がおかしくなるので、ちゃんと売りなさいっていうことだね。幕府も困ったんでしょう。

 一両が現在の貨幣価値でいくらかというのは時代にもよるし、なかなか簡単ではないのだが、私は一両十二万円で換算しているので、三分は九万円になる。

 とにかく、江戸時代の初鰹は、安いとはいえない。
 しかし、女房を質に入れてでも、という心意気だけは学びたい、なんてぇことは、連れ合いには聞かせたくない^^

 荒井さんが挙げた江戸各地の名物、今でも残っているのは谷中のしょうがくらいかなぁ。
 江戸っ子は、鰹に限らず、美味いものをいち早く食べる、ということに粋を感じていたのだろう。

 チャキチャキの江戸っ子だった荒井さんは、『味噌蔵』の吝嗇家ケチ兵衛のように初鰹や初茄子に金を惜しむような人ではなかっただろう。

 もちろん、勘三郎も三代目歌右衛門のように、中村座の役者たちには気も遣えば、金も使ったことと思う。

 その「七十五日」の積み重ねは決して小さくはなかったはずなのだが・・・・・・。

 しかし、寿命は人智を超えたところで定められるものなのだろう。

 今頃、お二人は高いところから下界を見下ろしながら、どんな初物を肴に一杯やっているのだろうか。

 荒井さんには、もっともっと、江戸の粋を伝えて欲しかったと思う。
 
 本書の「おわりに」で、荒井さんはこう書いている。
 江戸の匂いのする歳時記といっても、役者さんが書いたものや、新吉原に生まれ育った松葉屋の女将さんである福田利子さんが書いた『吉原はこんあ所でございました』(社会思想社刊)などは、個性豊かな世界なので、そのような歳時記に倣って生活してみることはなかなかできません。けれども、あたしの歳時記は現代の人たちにもやってみてもらえるような気がして、「どうです、この季節にはこんなことをやってみませんか」と提案したかったのです。
 史実と違うじゃないか、と思われる方もいらしゃるかもしれませんが、あくまでもあたしが先輩たちから聞いた話ですので、ご容赦いただければ幸いです。

 昔からの歳時記は、一人でも多くの人に体感してもらうことにより生き返るものだと思います。皆さんも、この本の中の一つでも二つでもやってみてください。
 ちょっと江戸人てぇのも、良いと思います。

 福田利子さんの本については、以前記事で紹介した。
2014年6月16日のブログ
 たしかに、良い本なのだが、歳時記とは言えないし、実践できるものだはない。 
 荒井さんはそんなことは百も承知二百も合点で、貴重な本と評価しているのだろう。

 引用して初鰹の前には、潮干狩りのことが、思い出とともに書かれている。
 その最後の部分を紹介したい。

 江戸時代の二月の末から三月ぐらいっていうのは、屋敷勤めの人がお役ご免になったり、戻ってきたりするときなんだね。そうすると、いろいろ奉公していた人が、その奉公先をやめることもあった。そんな季節だから、江戸時代の長屋にも新しい居住者が来る。いなくなったりする人もいるけども、新しく来た人たちと仲良くなるためには、花見だとか潮干狩りって、いちばんいいレクリエーションですよね。そういう、みんなと親しくなる場でもあるんです。これ、いい話だよね。

 そうそう、来週3月30日が旧暦三月三日「上巳(じょうし)の節句」で、この大潮の日、江戸時代では潮干狩りに繰り出し、女の子が白砂を踏んで身を清め、とれたハマグリは栄養分が豊富なので祝いの席に出されたようだ。

 今でも沖縄では旧暦三月三日は「浜下り」(ハマウリ、ハマオリ)と言って、家にこもらず、海に出て干潮を利用して潮干狩りをする。

 旧暦での歳時記、今では沖縄がもっとも江戸時代の風流を残している地と言えないこともない。
 
 また、引用した初鰹の次の部分で、荒井さんは、春彼岸の時季の「六阿弥陀めぐり」のことを説明している。

 そろそろ、散歩には良い陽気になるだろう。
 私も、かつて江戸人たちがそうしたように、じっくりを江戸の名残りをめぐったり、季節にふさわしいものを食べて、自分なりの歳時記を楽しみたいと思っている。

 来週は、ハマグリを食べるぞ、なんて思っている。

 荒井さんが紹介してくれる古き佳き時代の歳時記を、自分なりに実践すること、それが、荒井さんへの供養になるように思うのだ。


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by kogotokoubei | 2017-03-24 21:28 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(2)
 雨の中を関内へ。
 いつものように、ロビーでおにぎりを急いでかっこみながら、モニターの開口一番を眺める。
 知らない前座さん。
 途中から会場に入ったが、春風亭きいち、とメクリにあった。
 『二人旅』で、『居酒屋』で客が小僧をからかう、いろはに点を打つと音が変わるというクスグリを入れるのは初めて聴くように思う。リズム感のある若々しい高座は好感が持てる。
 後で調べたら、一朝ではなく、一之輔の弟子。そうか、もう弟子をとったか。それも本人の成長のためにも悪いことではないだろう。サゲの後、いつものように五割程度の入りで、空いた席に落ち着く。

 小満んの三席について、感想など。

柳家小満ん『和歌三神』 (16分 *18:53~)
 古今亭志ん生の音源では聴いているが、生では初めてのネタ。
 こういうネタを、実に味わい深く演じてくれるのが小満んの魅力の一つだ。
 まず前半は、俳句や川柳が好きで風流人を自認する主人と使用人の権助との会話が楽しい。主人がどれほど雪が積もったかと権助に聞くと「三寸ほど積もったが、幅は分からねぇ」なんて答えるあたりから、この権助が“ただ者”ではないことが分かる^^
 その権助に鍬で雪かきをするよう主人が言うのだが、権助は「紙屑屋が来て、何も下げるものがないので、シャレで鍬を下げて、(その代金で)一杯飲んだら、シャレで美味かった」という。主人が歌が好きだから、詫びに歌を詠んだと権助が披露するのが「俳諧の家にいりゃこそ鍬(句は)盗む」。権助、なかなかの通人でしょ。
 この部分の“シャレ”という言葉、実にお洒落で効果的だ。
 さてその後、主人と権助は向島へ雪見に出かける。
 道中の短めの言い立ても粋だった。麻生芳伸さんの『落語特選-上-』から引用。

 「主(しゅう)と家来の二人連れ、並ぶ夫婦の石原や、吾妻橋をば左に見、二つ並べし枕橋、連れひき合うも三囲(みめぐり)の、葛西の梅に白髪や、齢を延ぶる長命寺、うしろは堀切関谷の里、木隠れに誘う落合の、月の名所や綾瀬川、向島は名所の多いところでございます」

 この言い立て、うっとりしながら聴いていたなぁ。
 主と家来の二人連れが向島に着き、誰もいない掛け茶屋に腰をかけて、持参した瓢箪の酒を飲もうとしていたら、橋の下で酒盛りをしている三人のお菰(こも)さんを発見。
 主人が「風流じゃないか」と三人に交わり、持って来た酒を瓢箪から注いでそれぞれの名を尋ねると、名とその謂れを答えて作った歌を披露する、というのが後半。
 最初のお菰さんは、名は元は安(やす)と言っていたがここでは秀(ひで)と名乗っていて、綺麗好きなのでお茶屋さんや料理屋さんの前にある犬の糞を片付けてお金をもらっているので、「糞屋の安秀」。その糞屋の安秀が詠んだ歌は、”吹くからに 秋のくさ夜は長けれど 肘を枕に 我は安秀”。
 二人目は、日向で暖ったかな垣根の下で丸くなって寝ているばかりなので、「垣根の元の人丸」。人丸の歌は、”ほのぼのと 明かしかねたる 雪の夜も ちぢみちぢみて 人丸く寝る”。
 三人目は、小満んは、顔がひどいナリと言っていたが、本来は、らい病(ハンセン氏病)のことである“癩ん坊(なりんぼう)”の平吉で癩平(なりひら=業平)。そのお菰の業平さんの歌は、”千早ふる 神や仏に見離され かかる姿にわれは業平”。
 主人が感心して、「おまえさんがたは実に雲の上の和歌三神ですな」と言うのに三人が「いえいえ、菰の上のバカ三人でございます」でサゲ。
 もちろん、三人の名は有名な歌人の名のパロディ。
 一人目の本家は、文屋の康秀。歌は、“吹くからに 秋の草木のしをるれば むべ山風を嵐といふらむ”。
 二人目のモデル(?)柿本人麿呂の元歌は“ほのぼのと 明石の浦の朝霧に 島かくれ行く船をしぞおもふ”。
 業平の元歌は、説明する必要もないだろう。
 この三人目は、たしかに、元ネタの通りでは、当今ではやりにくいかもしれない。
 麻生芳伸さんの注釈には、「現在上演するならば、在平業平に拘らず、山部赤人、衣通姫(そとおりひめ)に変更した形での再演が望ましい」とある。
 たしかに、和歌三神がどの三人かは諸説あるようだし、山部赤人などはパロディにできそうだ。とはいえ、元ネタを大事にし、差別的な表現を際どく避けた小満んの演出も捨てがたい。
 私は子供の頃、家族で下の句だけの板カルタをよくやったので、まだ百人一首への馴染みがあるが、今では、こういった歌も、落語でしか出合わない人は多いかもしれない。
 ぜひ、業平役のお菰さんに関する工夫をした上で、他の噺家さんにも演じて欲しいネタだ。

柳家小満ん『鴬宿梅』 (22分)
 いったん下がって、すぐに登場。
 初めて聴く噺。
 村上天皇と紀内侍の鴬宿梅(おうしゅくばい)の逸話をマクラで仕込んで本編へ。
 こんな内容だった。
 (1)あるご隠居が、とある大店の若旦那の六さんに、先日道で血相を変えた
   姿ですれ違ったが、あれは何かあったのか、と問う。
 (2)この若旦那、小僧からの叩きあげで養子になった堅物。まったく
   遊びを知らなかったので、半玉を半熟を間違えるほど。
   先日、柳橋の茶屋に誘われ、さんざん食べた後の帰り際に女将から、
   すぐにまた来てくれなくては怨みますよ、と言われた。怨まれては
   かなわないと、一人で茶屋に裏を返しに行った。
   ご隠居とすれ違ったのは、その後のことだと言う。
 (3)いったい何があったとご隠居が聞くと、若旦那がその茶屋での出来事を
   振り返った。芸者が『春雨』という端唄を唄い踊ったのだが、唄の終わりの
   ほうで「身まま気ままになられない、養子くさいじゃないかいな」と、
   養子の私を馬鹿にしたので怒って帰った、とのこと。
 (4)それを聞いたご隠居は、それは聞き違いで、“身まま気ままになるならば、
   さぁ鶯宿梅じゃないかいな”っていうのが唄の文句だ、と種明かしをする。
 (5)若旦那が「鶯宿梅ってのは何ですか?」と訊ねる。
   ご隠居、その昔、村上天皇が清涼殿に梅を植えたいので良い梅を探させた。
   紀貫之の娘、紀内侍の家の梅がたいそう綺麗なので、植え替えさせた。
   その梅に、「勅なれば いともかしこし鶯の 宿はと問はばいかがこたえむ」
   という内侍の歌が添えてあった。村上天皇は、大いに反省して、その梅を
   紀内侍に返したが、その逸話から鴬宿梅と名がついた、と故事を説明。
 (6)自分の聞き違いを恥じる若旦那が、詫びを入れにその茶屋へ行った。
   鶯宿梅の故事を話そうとするが、うろ覚えで、頓珍漢な話になる。
   芸者が、「あーら、若旦那、何のことやらちっともわかりませんわ」
  「なに、わからない?私としたことが、これは大しくじりではないかいな」
   でサゲ。

 端唄『春雨』の歌詞を調べたら、ブログ「懸想文」さんで紹介されていた。
 こういう歌だった。
ブログ「懸想文」さんの該当ページ

  060.gif春雨に しっぽり濡るる鶯の
   羽風に匂う 梅が香や
   花に戯れ しおらしや
   小鳥でさえも 一と筋に
   寝ぐら定めぬ 気は一つ
   わたしゃ鶯 主は梅
   やがて身まま気ままになるならば
   サァ 鶯宿梅じゃないかいな
   サァーサ なんでもよいわいな

 サゲは地口でそれほど秀逸とは言えないかもしれないが、鴬宿梅の故事、端唄『春雨』を踏まえた、粋な噺で、小満んならでは、という噺だと思う。ここで、仲入り。

柳家小満ん『味噌蔵』 (33分 *~20:23)
 三席目は、楽しみにしていたこの噺。
 「吝嗇(しわい)家は、七十五日 早く死に」という川柳は、吝嗇家は高い金を出して初物を食べるようなことはしないから、とマクラでふった。
 ケチにまつわる小咄を三つ(扇子を長持ちさせる方法、火事の熾火をもらいにいかすケチ、薬代で目を廻すケチな旦那)並べてから本編へ。
 名を吝嗇屋けち兵衛と言う、味噌屋の主人、名の通りのケチで、それも何事にも徹底している。女房をもらうと金がかかるといって独身。しかし、親戚もうるさく言うので、ようやく結婚するが、床を一緒にすると間違って子供が出来て金がかかるからと、女房は二階、自分は階下で別々に寝る。
 しかし、冬の寒い夜、せんべい布団ではあまりに切なくなる。
 なぜ大店の主人がせんべい布団かと言うと、いいふとんをこしらえても、いやな夢をみて手足をつっぱったとたんに、ふとんに爪でもひっかけて破かないとも限らない、と言うのだから、ケチ兵衛さんのケチぶりには、ある種の感動(?)さえ覚える。
 その薄い布団にくるまって小僧時代を思い出し、寒い夜は先輩の布団に入って暖めてもらったが、今になってまさか小僧の布団に入ることもできない、と言うあたりに、このケチ兵衛さん、不人情なだけの男ではないなぁ、と思わせてくれる。
 あまりの寒さに、つい、ふかふかの絹布の布団で寝ている二階の女房の床へあったまりに行った。そんな夜が続くうちに、「あったまりのカタマリ」の子どもが出来た。
 困った困った金がかかる、と番頭に相談すると、里で子どもを産ませて「身二つ」になってから戻せば、出産の費用もかからない、と知恵を授かり、女房を里に帰した。
 「身二つ」なんてぇ言葉も、いいねぇ。
 そして、日が満ちて無事奥さんは実家で出産。先方からお祝いをすると誘われ、定吉を連れて家を出るのだが、定吉には空の重箱を持たせる。お祝いの膳、定吉には汁とお新香は食べていいが後は、重箱に詰め、皆さんが酔っぱらったら、その膳の残りも詰めて来い、という命令なのであった。番頭には、味噌蔵には商売ものの味噌で目塗りをしておけ、と言う。「旦那様にしては、もったいないことで」と番頭が返すと、「そんなことはない、焼けた味噌は香ばしくて美味いから、お前達のおかずになる」に「無駄のないことで」と番頭も感心(?)しきり。
 使用人たちが、重箱を背負い、かかとのない下駄をはいた定吉の後ろ姿を見送る場面、なんとも、せつなく、そして笑えてしまうのだ。
 さあ、鬼の居ぬ間のなんとやら。ここから、番頭以下のどんちゃん騒ぎになる。
 普段、味噌汁は薄くて実も入っていない。久しぶりにタニシが入っていると喜んだが、それは、薄い汁に映った自分の目だった、というあまりにも切ない食生活をしている使用人たち。ケチ兵衛に実なしは縁起が悪いと言っても、三年前から使っているスリコギが減っているから、実が入っていると言う始末。凄いねぇ、ケチ兵衛。
 今夜はケチ兵衛も泊りで帰らないだろうからと、悪い相談はすぐまとまる。番頭が筆先で帳面をドガチャカドガチャカして、美味い物を頼んで宴会をしよう、と相成った。
 刺身、寿司、鯛の塩焼き、牛鍋など、そして、横丁の豆腐屋で売り始めたばかりの木の芽田楽も頼み、店の酒を飲みまくるぞ、と普段の粗食の怨み晴らさでかという勢いのご一同。
 酔った勢いで甚助が『磯節』を歌い出す。
 060.gifちゃちゃらちゃん 磯で名所は大洗さまよー 松が見えますほのぼのと~
 絶好調のご一同だったが、なんと泊ってくるはずのケチ兵衛が帰ってくるのだった。
 帰り道でも定吉の悲哀は続く。
 せっかくご馳走を詰めた重箱を忘れた、提灯の蝋燭にと先方が五本くれようとしたのを二本でいいと断った、新しい下駄を履いたと言うが片ちんばじゃないか、などと叱られている。
 家に近づくと、どこかの家で宴会の騒ぎが聞こえてくる。あんな奉公人がいるのは旦那の心がけが悪いからだ、と定吉に言ってみたものの、なんと自分の店から聞こえるではないか。
 定吉に節穴があると教わり、中を覗くケチ兵衛さん。
 旦那が帰ってきたらどうすると言われた甚助が、なに、この鯛の塩焼きを目の前に突き出してやれば、鰯しか見たことがないから、驚いて目を回してぶったおれるさ、と言うのを聞きつけ、ついに戸を叩いた。
 慌てたご一同、食べ物や器を袂などに隠すものの、床に刺身などが散乱した状態でケチ兵衛さんが入ってきて、一同は固まったまま迎える羽目に。
 「なんです、みんなしてペリカンみたいな格好して」というケチ兵衛さんの科白に大爆笑。
 番頭以下を叱りつけていると、表の戸を叩く音。
 ここからは豆腐屋とケチ兵衛とのサゲにかかる会話。興津要さんの『古典落語-続々-』を参考に再現。
 
  豆腐屋  え、こんばんは、え、こんばんは
  ケチ兵衛 どなたでございますか?お買いものなら明朝に願います
  豆腐屋  ええ、焼けてまいりました。焼けてまいりました
  ケチ兵衛 え、焼けてきた?だから言わないこっちゃない。
       わるい時に焼けてきたもんだ・・・・・・
       どこが焼けておりますか?
  豆腐屋  横丁の豆腐屋から焼けてまいりました
  ケチ兵衛 なんだって、横丁の豆腐屋から、どれ位焼けてきましたか?
  豆腐屋  二三丁焼けてきました
  ケチ兵衛 二、三丁、こりゃあ火足が早いや
      ただいま開けます
 と戸を開けたとたんに田楽の匂いが鼻へプーンとはいったから、
  ケチ兵衛 いけない、味噌蔵に火がはいった

 サゲでは、田楽の味噌の香りが漂った。
  
 なんとも素晴らしい高座に、終始笑い、また感心していた。 
 この噺では鯉昇の高座も得難いものだが、それは、たぶんに食べる場面が秀逸で、ドンチャン騒ぎが際立っているからかと思う。
 どちらが良い悪いではなく、好対照なのが小満んの高座。
 無理にウケようなどと露とも思わないだろうが、噺のツボを外さずに笑いを誘い、それぞれの情景が目に浮かぶ高座も、実に結構。
 この高座を今年のマイベスト十席候補にしないわけにはいかない。
 
 
 さて、小満の高座に酔った後は、佐平次さんとI女史、そしてF女史とのよったりで、関内で開業四十余年といういつものお店での居残り会で酔うのだった。
 生ビールと熱燗で乾杯の後、なんとも珍しいホッケの刺身、北海道出身の私も生涯二度目だ。他にも、宮崎でとれた初カツオ、タラの芽と稚鮎の天ぷら、定番の八丈島のクサヤ、そして牡蠣がふんだんに入ったオムレツなどの絶品の肴で、小満んの高座を振り返っての話に弾みがつく。男山の徳利を次々に空にしながら、実に幸せなひと時が続き、ついお店の看板まで居座ってしまった。それでも、話し足りないよったりは、お隣のバーにはしご!
 少し興奮をクールダウンさせるナイトキャップで締めて、ようやくお開き。
 日付変更線は、帰りの電車の中で超えていたのであった。

 実は、居残り会で盛り上がったネタがある。
「ペリカン」の科白に関する、ちょっとした笑い話。
 居残り会で私は何ら疑問なく「ペンギンには笑いましたね!」と言って、女性陣に「ペリカンでしょ」と修正されてしまった。慌ててメモを見たら、ほんとに、ペリカンだった。
 なぜか、宅配便のはずが、歯磨きに替わっていた次第。(古いか^^)
 ペリカンで多いに笑っていたのに、どうもペンギンに頭の中で化けていたようだ。
 この勘違い、実は佐平次さんも同様に「ペリカン」とメモしていて「ペンギン」と私が言うのに疑問を抱かれなかったようで、それが妙に嬉しかった^^
 

 いつもある程度の言いよどみがあるのは承知しているのだが、この日の小満んはほとんどそういうこともなく、絶好調、という印象。
 前日まで、末広亭で主任小里んの席で仲入りを務めていたことも、好影響を与えたのかもしれない。
 小里んの高座には“品”を感じ、小満んの高座からは“粋”が滲み出てくる、そんな印象。
 どちらも、結構。

 それにしても、今回の三席すべての高座と居残り会は、まさに至福の時間と空間だったなぁ。

 次回は5月23日(火)、ネタは『しびん』『三方一両損』『御神酒徳利』と案内されている。
 さて、『御神酒徳利』は、以前落語研究会で聴いた犯人(?)が番頭の長講か、それとも柳家の「占い八百屋」か。二ヵ月後も、今から楽しみだ。

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by kogotokoubei | 2017-03-22 21:18 | 落語会 | Comments(4)
 肥田舜太郎の訃報を目にした。
 毎日新聞から引用。
毎日新聞の該当記事

肥田舜太郎さん100歳=広島原爆で被爆の医師
毎日新聞2017年3月20日 20時49分(最終更新 3月20日 22時10分)

 広島原爆で被爆し、医師として被爆者医療に尽力した肥田舜太郎(ひだ・しゅんたろう)さんが20日、肺炎のため亡くなった。100歳。葬儀は26日午前10時半、さいたま市浦和区瀬ケ崎3の16の10のさがみ典礼北浦和葬斎センターで営まれる。喪主は元全日本民医連会長の長男泰(ゆたか)さん。

 軍医として広島陸軍病院在勤中の1945年8月6日に被爆し、直後から被災者救護にあたった。戦後、東京や埼玉で低所得者向けの診療所を開設し被爆者を診察。30年にわたって日本被団協原爆被爆者中央相談所(既に解散)の理事長を務め、全国の被爆者への医療相談に取り組んだ。医師の立場から原爆被害の実態を伝えるため、欧米など海外約30カ国も訪問。各国の反核団体と連携して核兵器廃絶を訴えた。

 2000年代の原爆症認定集団訴訟では証人として出廷し、長年の臨床経験と海外の文献研究を基に証言。原爆投下後に広島・長崎に入った「入市被爆者」が、飛散した放射性物質を呼吸や飲食で体内に摂取し、「内部被ばく」を起こしてがんなどの原因になったと訴えた。国の認定手法の問題点を突き、原告勝訴の判決を引き出す力になった。

 09年に医療の第一線から退いた後も、各地で精力的に講演活動を展開。毎日新聞が06年から続けている記録報道「ヒバクシャ」でも反核や平和への思いを語っていた。

 百歳での大往生。

 その長寿を天が肥田さんに与えたのは、原爆の悲惨さ、内部被曝の実態を世に知らしめるという仕事をしてもらうためではなかっただろうか。

 肥田さんは、まさに、「被爆」と「被曝」の恐怖を伝えてきた“語り部”と言えるだろう。

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肥田舜太郎・鎌仲ひとみ著『内部被曝の脅威-原爆から劣化ウラン弾まで』

 肥田舜太郎さんと鎌仲ひとみさんの共著『内部被曝の脅威-原爆から劣化ウラン弾まで』から引用したい。

 本書は2005年に刊行されたものだが、私は3.11の後で読み、何度か拙ブログ(現在は兄弟ブログ「幸兵衛の小言」)で紹介している。

 肥田さんが執筆担当の「第2章 爆心地からもういちど考える」より。

 ここでは被曝から60年後の時点での状況が書かれているが、さて、どれほど事態は改善されているのか、大いに疑問だ。

 引用文の最期の部分で、肥田さんは、国の対応を「差別」と糾弾する。
2000年代の被ばく者 
 中級の建設会社の社長で根っからの酒好き、じっとしていることが嫌いでいつも忙しく何か活動しているという友人がいる。定年で会社を退いてから町内会の役員を引き受けて、祭りの準備から消毒の世話まで目まぐるしく動きまわっているうちに、健康診断で血小板減少を指摘された。
 気になることがあって無理やり精密検査をすすめたところ、骨髄異型性症候群という厄介な病気のあることが分かった。専門学校時代、原爆投下の広島に何日かたって入市したと聞いたことを思い出し、確かめたところ1945年の8月9日に五人の級友と海軍のトラックで広島に入市し、海田市からは徒歩で千田町の県立広島工業学校まで行き、誰もいない崩れた校舎に入って散乱している機械器具を片付けたり防水布を掛けたり、三時間くらい作業をした。近辺は学校ばかりが集まっている地域で人は一人も見かけず、日が暮れたので呉へ帰ったという。
 彼らは1944年秋から呉の海軍施設に勤労動員で派遣されていたのである。明らかに入市被ばく者なので、早速、被ばく者健康手帳交付の申請を勧めたが、億劫なのか、なかなか手続きをしないでいるうち、今度は大腸癌が見つかって入院手術となり、観念して手帳を申請、証人の依頼に手間取って、数カ月かかってやっと広島の被ばく者と認められた。
 現在、血色素の一定数を目安に輸血を繰り返しているが治癒の見込みはなかなかむずかしい。厚生大臣の認める認定患者認定を申請したが四月末、永眠した。

被ばく者の六十年 
 2005年の今年、生き残っている約二十七万人の被ばく者の多くは二つ、三つの病気を持ちながら、様々な不安や悩みを抱えて生き続けている。
 彼らの多くは被ばくの前は病気を知らず、健康優良児として表彰までされたのが、被ばく後はからだがすっかり変わり、病気がちで思うように働けず、少し動くとからだがだるくて根気が続かずに仕事を休みがちになった。医師に相談していろいろ検査を受けても、どこも異常がないと診断され、当時、よく使われたぶらぶら病の状態が続き、仲間や家族からは怠け者というレッテルを貼られたつらい記憶を持つものが少なくない。事実、「からだがこんなになったのは原爆のせい」とひそかに思いながら被ばく事実を隠し続け、誰からも理解されずに社会の底辺で不本意な人生を歩いた被ばく者を私は何人も診ている。

占領米軍による被ばく者の敵視と差別 
 被ばく者は敗戦直後から米占領軍総司令官の命令で広島・長崎で見、聞き、体験した被ばくの実相を語ること、書くことの一切を禁止された。違反者を取り締まるため、日本の警察に言動を監視された経験のある被ばく者は少なくない。また、1956年に日本核団協(各都道府県にある被ばく者の団体の協議会)が結成された前後は、被ばく者は反米活動の危険があるとして警戒され、各地で監視体制が強められた。1957年、埼玉県で被ばく者の会を結成した小笹寿会長の回顧録のなかに、当時の執拗な埼玉県警の干渉があったことを書き残している。私自身も1950年から数年間、東京の杉並区でひそかに広島の被ばく体験を語り歩いたとき、米軍憲兵のしつこい監視と威嚇を受けた覚えがある。

日本政府による差別 
 敗戦後、辛うじて死を免れた被ばく者は家族、住居、財産、仕事の全てを失った絶望的な状態のなかから廃墟に掘っ立て小屋を建てて生き延びる努力をはじめた。故郷のある者は故郷に、ない者は遠縁や知人を頼って全国へ散って行った。被ばく地に残った者にも、去った者にも餓死寸前の過酷な日々が続いた。政府は1957年に医療法を制定し、被ばく者健康手帳を交付するまでの十二年間、被ばく者に何の援護もせず、地獄のなかに放置した。
 なお、被ばく者手帳を発行して被ばく者を登録したとき、政府は被ばく者を①爆心地近くの直下で被ばくした者、②爆発後二週間以内に入市した者および所定の区域外の遠距離で被ばくした者、③多数の被ばく者を治療・介護した者、④当時、上記の被ばく者の胎内にあった者に区分して被ばく者のなかに差別を持ち込んだ。

 肥田さんの指摘するごとく、これは「差別」である。

 戦後70年経っても、被爆者の苦しみは終わっていない。
 
 永田町や霞が関は、「新たな被爆者」を増やそうとはしないし、内部被曝の脅威を正しく評価しようとしない。

 年間20ミリシーベルトなどという基準を変えようとせず、自主避難する人々への支援を放棄しようとしていることに、肥田さんはどんな思いを抱いていたのだろうか。


 貴重な著作や記録、記憶を残してくれた肥田さんのご冥福を心よりお祈りする。

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by kogotokoubei | 2017-03-21 17:47 | 幸兵衛の独り言 | Comments(2)
 末広亭で柳家小里んの『山崎屋』を聴いた後で、ある本をめくってみた。

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 山田洋次の落語作品集『真二つ』は、単行本で大和書房から昭和51年に発行され、平成6年発行の新潮文庫版には、落語の他に著者と小さんとの対談なども収録されているが、その中の一篇が「あっぱれな親不孝『山崎屋』」である。

 昨日の記事にも少し引用したが、このエッセイには、映画「男はつらいよ」に、いかに落語に描かれる人間像が反映されているかが明かされている。

 「山崎屋」における「ああ、イヤだイヤだ」の内容は、もちろん、倅に対する嫌悪感の表現ではあるのだが、それと同時に、そのような愚かな倅を持っている自分自身への嫌悪感、愚かしさを承知しつつその倅を愛している自分の否定、すなわち、倅が嫌なだけでなく、自分も嫌なのだ、という表現であり、それゆえに、その気持がよく伝わるがゆえに、観客である私たちは思わず笑ってしまうのである。
 私の作品「男はつらいよ」の中で、寅さんの叔父貴を演じた今は亡き名優森川信さんが、寅の愚行を眺めながら思わずつぶやく、
「馬鹿だねぇ」
 という独り言のおかしさもまたそれと共通している。

 落語好き、そして寅さん好きの人は、この文を読んで森川信さんが「馬鹿だねぇ」と呟く姿が、目に浮かぶことだろう。

 引用を続ける。
 字句どおりに受け取れば、それは単なる寅への侮蔑の言葉でしかないのだが、森川信さんの表現には、もっと深い内容、この愚かしき甥を愛してしまっている自分への侮蔑、ないし嘲笑、つまり自己否定の要素が加わっていた。したがって彼の「馬鹿だねぇ」は寅への侮蔑ではなく、逆に愛情の表現であったのであり、そこに共感して観客はつい噴き出してしまったのである。

 この文章からは、「愛憎半ば」という」言葉」を思い浮かべる。

 憎らしいけど、愛(いと)しい・・・そんな思いこそが、ある意味、もっとも人間らしい心情なのかもしれない。

 「馬鹿だねぇ」の呟きは、決して侮蔑する思いだけが言わせるのではない。

 このあと、その一部を小里んの高座の感想で引用した、次のような文が続く。

 考えてみれば、落語の主人公にあまり親孝行な人物などは登場しない。忠義で勤勉で夫婦相和し、友人を信じ、兄弟仲良く、隣人とは平和にといった類の、教育勅語の手本のような人物は全く落語とは無縁である。
 だからといって、落語は民衆の封建道徳に対する抵抗の精神から生まれたと断定することには、いささか問題がある。道徳はもともと民衆が生み出した生きていくための知恵である。
 親には孝行しなければいけない、夫婦は仲良くしなければならないというきまりごとは、本来民衆が持っている健康な道徳意識である。それでいながら、時としてその道徳からひたすらはみ出して生きたいという願望を同時に民衆はかかえているのである。
 だからこそ山崎屋の若旦那の反道徳ぶりを楽しみ、怪しからぬ夢をはてしなく展開しつつ、ふと我に返って思わず「ああ、イヤだイヤだ」と溜息をついたり、「馬鹿だねぇ」と思わず自嘲の言葉を吐いたりするにである。
 つまり、山崎屋の若旦那とその父親は、両方とも民衆の心の中に矛盾しながら生きていると言っても良い。人間の意識をそのようにとらえて物語にして見せるところに、落語というリアリズム芸術の近代性があるのだ、と私は考えている。

 山田洋次が、どれほど落語を愛しているかが、伝わってくる。

 また、落語の登場人物の言葉や仕草などに、その心情を推し量る鋭い感受性があることもよく分かる。

 山崎屋の父親の「ああ、イヤだイヤだ」の言葉に潜む、回りまわって自分に返ってくる嫌悪感を読みとれなければ、映画監督などは出来ない、ということなのだろう。

 落語には、その舞台が江戸時代であろうが明治、大正であろうが、変わることののない人間の姿があるということを、このエッセイからも再認識させられた。

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by kogotokoubei | 2017-03-18 11:58 | 落語好きの人々 | Comments(2)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛