噺の話

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落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。

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 寄席禁断症状のため、午後から休みを取って、少し本屋に立ち寄ってから末広亭の下席楽日に駆けつけた。

 旧暦なら正月三日、まだ休み、と言い聞かせて休んだ次第^^

 三時を少し回った昼の部の仲入り後、クイツキの鯉橋『道灌』の途中で入場。
 鯉橋、少し貫禄がついた印象。
 ゆめ子・京太の漫才は後ろのパイプ椅子で聴いた後、桟敷も結構な入りなので、椅子席の空きをみつけて、残りの昼の部を聴いた。

 順に感想など。

<昼の部>
三遊亭とん馬『他行(出張)』 (15分 *15:25~)
 この人も、このネタを生で聴くのも、初である。とん馬としては三代目、師匠遊三が二代目だったらしい。ちなみに、大師匠の四代目円馬が初代とん馬。
 見た目は、志ん輔に似ていなくもない。
 与太郎が、父親に頼まれ借金取りが来たら、「お父さんは出張でいない」と答えて追い返せ、と口上を書いてもらい、父親は二階で昼寝。
 何人かは目論見通り追い返したものの、風が吹いて口上書きが飛ばされ、やっと見つけて読み上げると、相手から「出張って何か知っているのか」「知ってるよ、二階で昼寝することだ」でサゲ。小咄に近いネタ。
 「他行」では今の時代に通じないから、「出張」なのだろう。
 デジタル大辞泉で調べると、「他行」はこう説明されている。
た‐ぎょう〔‐ギヤウ〕【他行】
[名](スル)よそへ行くこと。外出すること。たこう。
「明日から―するかも知れないが」〈木下尚江・火の柱〉

た‐こう〔‐カウ〕【他行】
[名](スル)「たぎょう(他行)」に同じ。
「此両三日職務上―したり」〈蘆花・不如帰〉
 落語って、勉強になるねぇ。
 あえてマクラで仕込んで「他行」のままでも良いようにも思うが、それだけ時間が長くなるね。難しいところだ。
 珍しいネタを楽しませてくれた後に、かっぽれも披露。
 芸協の寄席だなぁ、と感じさせてくれる好高座。

桂歌春『強情灸』 (16分)
 マクラで、落語家に本当の江戸っ子は少ない、師匠歌丸は横浜とふってから自分はロサンゼルスのビバリーヒルズと言って実際の出身地は言わなかったが、宮崎日向の出だ。
 軽いノリで、いつも朗らかな高座は、安心して聴いていられる。
 この人や、桂伸治などが高座に上がると、なんとなくホッとする。
 客を緊張させたり、身構えさせる噺家さんもいるからね^^

ボンボンブラザース 曲芸 (14分)
 十八番の紙の芸で、下手桟敷まで出張(他行?)し、帽子でも同じ場所のお客さんを巻き込む。このお客さんが、結構マジに帽子を投げるのだが、明後日の方角に行くものだから、客席大爆笑。
 いつもながら、流石の芸で、しっかり膝代わりを務めた。

三遊亭遊三『子は鎹』 (26分 *~16:37)
 最近、いわゆる“マイブーム”のネタ。
 期待して聴いていたのだが、正直なところ、熊さんと別れた女房の口調も同じように感じる一本調子で、噺にメリハリがつかない印象。
 母親が握るのが玄能ではなくカナヅチだったのも、残念。
 つい、耳に残る志ん朝や小三治、そして小満んと比べてしまうからかもしれないが、楽日の高座としては、期待外れと言わざるを得ないなぁ。

 ここで、昼の部がハネた。

 一斉にお客さんが退場。
 好みの下手桟敷に場所を確保し、コンビニで買ったおにぎりで夜の部に備えた。
 昼の部がほぼ満席近かったのに比べ、四割程度の入りにまで減ったのは、少し残念。

<夜の部>
春風亭昇市『つる』 (10分 *16:47~)
 初。昇太の七番弟子とのこと。
 ご隠居の科白が、仲間同士の会話に聞こえる。無駄なクスグリなど入れずに、本来の二人の会話をそれぞれの人物の気持ちになって語る稽古をして欲しいものだ。

橘ノ双葉『一眼国』 (10分)
 初めての女流。こういうネタに挑むのは結構なのだが、やや上すべり気味。
 マクラでは、もう少し仕込みが必要だった。持ち時間がないから焦ったのかなぁ。

マグナム小林 バイオリン漫談 (11分)
 話芸の部分に、もう少し工夫が欲しい。
 また、この芸なので、和服である必然性はないように思うなぁ。
 特に後半の曲弾きとタップダンスは、洋服の方が似合うのではなかろうか。
 ご本人としては、袴に執着する思いがあるのだろうが・・・・・・。

桂小南治『隣の桜(鼻ねじ)』 (13分)
 円満と昼夜交替したようだ。少し早いですが、と言って披露した上方ネタ。
 独特の声、仕草、表情などで、楽しく聴かせてくれた。花見の宴の場面では、ハメモノ入り。一瞬、高座が上方落語の世界に早変わり。
 この噺では、七代目松鶴を継いだ松葉を思い出す。
 九月に師匠小南の名跡を継ぐが、何とか披露目に行きたいものだ。

桂文月『出来心』 (12分)
 初。後で調べたら、十代目文治の七番弟子のようだ。
 なんとも不思議な印象。もう少し弾けると、南なんのような味が出るような気がするが。

宮田 陽・昇 漫才 (13分)
 芸協の若手(中堅?)漫才の筆頭格か。空席の目立つ客席だが、奮闘。

桂米福『てれすこ』 (14分)
 2015年12月に国立演芸場で『時そば』を聴いて以来。
 米丸一門なのだが、二度とも古典。
 サゲは、かみさんが火物(=干物)断ちをしたから、ではなく、魚は勘弁サバかれる、に替えていた。元は上方ネタで、東京では円生がよく演じていたようだが、こういう噺、好きだなぁ。
 噺家さんらしい見た目も含め、印象は悪くない。

三遊亭円馬『ふぐ鍋』 (15分)
 大いに笑った、圧巻の高座。
 家の主人と出入りの幇間が、初めてフグを食べる、という冒険(?)談。
 二人とも、怖くて箸をつけられない時、お余りをもらいに、おこもさん(乞食)が訪ねてきた。主人が、おこもさんを実検台にしようとフグを少し分け与える。しばらくして幇間の繁が、おこもさんをつけて行って、橋の下で息をして寝ているのを確かめてから、ようやく主人と繁は食べる始めるのだが、その場面の可笑しいこと。
 そのおこもさんが本を読んでいて、それがリフォームの本というクスグリも、なんとも可笑しい。
 鍋から湯気が見えたように思えたし、とにかく主人と幇間の繁が、おそるおそる鍋のフグの身を口に入れようかどうしようかと、相手の様子を探りながら苦闘する場面の、顔や口、目の表情が出色。柳家金語楼を彷彿(?)とさせる演技で、会場からは、実際の倍以上お客さんがいるかのような爆笑が起こった。
 ほぼ、二代目小南の型なのかと思う。
 こういう噺を聴くと、芸協の寄席の良さを再認識する。
 短い寄席の高座だが、今年のマイベスト十席候補としたい。

北見伸 奇術 (15分)
 ちょっと一服の時間とさせていただいた。
 最後に教えてくれた手品は、後ろのパイプ椅子で見ていたが、どこかでやってみようか^^

春雨や雷蔵『権助提灯』 (12分)
 酒も女も過ぎてはいけない、どちらも二合(号)まで、というマクラ、ぜひ使わせてもらおう。
 いいなぁ、こういう高座。
 芸協の寄席では欠かせない人ではなかろうか。
 女房とお妾さんの演じ分けも見事だし、主役の権助もなんとも楽しい。
 寄席の逸品賞候補として印をつけておこう。

神田松鯉『扇の的』 (15分)
 仲入りは、この人の講談。
 落語の間に色物だけでなく、講談が入るのは気分転換にもなって好きだ。
 玉虫御前の美しさを形容する長い言葉があったが、メモるの忘れたなぁ。
 この日は、最後まで眼鏡を外さなかった。そういうことも、あるのだねぇ。

春風亭昇乃進『看板のピン』 (15分)
 クイツキはこの人。柳昇に入門し、現在は小柳枝門下。
 元気なのは結構・・・なのだが。
 師匠は、昨年四月に脳梗塞で倒れ、現在は退院もし寄席復帰を目指していると聞く。
 早く、あの渋い高座に再会したい。

Wモアモア 漫才 (14分)
 前半は千代田区長選挙やトランプのイスラム七か国入国禁止令などの時事問題を、結構真剣に語る。
 やや、会場が冷えてきたとみて、いつものネタに入り、場内の笑いの温度も上がった。
 相撲ネタから下手の東城しんが、行司の口調を繰り返すネタは、初めて聴いた。
 しんが家に行司の口調で帰宅を告げ、女房役の東城けんに向かって「飯だ」と言って、けんが冷や飯を出し「何だ、この冷や飯は」への返事は・・・お察しの通り^^

桂南なん『徳ちゃん』 (14分)
 この噺を芸協の噺家さんで聴くのは初めてではなかろうか。
 見た目が、なんとも言えない芸人さんの味がある人なので、こういう噺も実にニンだ。 人によってクスグリをたくさん入れることができるネタ。
 徳ちゃんが通される“離れ”の形容などが、頗る可笑しかった。
 貧乏噺家に向かって妓夫太郎が「この手のひらに愛を乗せて!」なんて一言も笑える。
 サゲも工夫されていて、終始会場を沸かせた。

三笑亭夢太朗『浮世床』 (13分)
 師匠夢楽が神田の生まれと言っていたが、調べてみると岐阜の地名だった、とのこと。
 主任の茶楽の時間を作るためだろう、あっさり目でサゲた。

翁家 喜楽・喜乃 太神楽 (10分)
 喜乃さんの芸、以前より落ち着いてきた印象。
 その笑顔が、なんとも良い彩りとなる。

三笑亭茶楽『芝浜』 (26分 *~21:00)
 旧暦では、この席の間に年を越した勘定になるから、このネタは旬のうち。
 三木助版を基本としているのだろう、芝の浜で財布を拾う場面も挟んでこの時間なのだから、よくぞ縮めたものだ。
 冒頭場面で登場するキーワード(?)、「盤台の糸底」や「ばにゅう」も、しっかり押さえる。
 今では、こういう言葉も落語でしか聞けないねぇ。
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『古典落語 正蔵・三木助集』(飯島友治編・ちくま文庫)

『古典落語 正蔵・三木助集』の注を引用しておこう。
盤台の糸底 棒手振が天秤でになう盤台は、普通、小判型盥状の木桶である。長く使わないでいると、木が乾燥して水が漏るので、裏返して、糸底、つまり底板を嵌め込んだところへ水を満たして木を膨張させてから使う。
ばにゅう 盤台の上に重ねて載せる木製の容器。棒手振の魚屋は、これに包丁その他道具類を入れる。
 茶楽の高座、サゲ前の福茶なども含め、こういった季節や職人さんたちに関わる言葉を大事にしているんだろうなぁ、と思わせた。
 やや短縮版にした分だけ駆け足の感は拭えないが、予想もしなかったネタに満足。
 

 今年の初寄席、いろんな高座があったが、何より円馬が特筆ものだったし、雷蔵や南なんも寄席らしい好高座。とん馬との出会いもあった。
 そして、楽日に、今松のように『芝浜』で締めた茶楽も良かった。

 夜の部の客の入りは、昼に比べて激減したが、決して芸協の寄席は悪くない。
 果たして落語研究会のプロデューサーは、芸協の寄席に通ったことがあるのだろうか、などと思いながら地下鉄で帰路についた。

 本格的な古典落語を演じる実力者が落語協会に多いのは、百も承知。
 しかし、現在の第五次落語研究会が始まった頃、四代目三遊亭円遊がレギュラー的な扱いだった時期がある。発案者の川戸貞吉さんには、円遊のような味わいのある噺家を評価する鑑識眼もあった、ということだろう。
 来月主任の鯉昇はよく声がかかるようだが、他にも芸協ならではの味のある噺家さんはいるのだ。
 茶楽や円馬などは、ぜひ知って欲しいなぁ。蝙丸、雷蔵、伸治、柳好などもいる。
 そうだ、寿輔だって、半分の客が席を立とうが、いいじゃないか^^
 せめて、割合にして五人に一人は芸協から出演者を選んでも不思議はない、などと思いながらビールを飲んでいたら、物足らなくなって日本酒も少々。
 肴は、末広亭の売店で買った豆菓子の残り。
 残念ながら、ふぐ鍋は、なかった。
 

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by kogotokoubei | 2017-01-31 22:06 | 落語会 | Comments(4)
 前回の記事で、八代目林家正蔵が、最後の師匠であった三代目柳家小さんについて語った内容を、暉峻康隆さんの聞き書き『落語藝談』から紹介した。

 名だたる三遊派の顔ぶれが並ぶ中で、小さんのみが柳派を代表して第一次落語研究会の「発起人」として出演したわけだが、その頃の落語界のことを少し振り返りたい。

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暉峻康隆著『落語の年輪』

 同じ暉峻康隆さんの『落語の年輪』から引用。

明治三十八年(1905)三月、三遊亭円左が石橋思案、岡鬼太郎、今村次郎の応援を得て、円喬、円右、小円朝、円蔵の仲間と、柳派からは三代目小さん一人を誘って、“落語研究会”を結成し、日本橋の常磐木倶楽部で第一回の発表会を催したのは、同月二十一日のことであった。

 この三月二十一日という日、落語界にとっては、結構重要な日。

 「二十一日」→「廿一日」→「昔」ばなし、という洒落で、烏亭焉馬が「咄の会」をこの日に開催してきたことは、昨年三月二十一日に書いた通り。
2016年3月21日のブログ

 落語協会の真打昇進披露興行は、鈴本で三月のこの日(下席の初日)から始まる。

 第一回落語研究会の開催日も、そういった歴史、縁を大事にしたのだろう。

 そもそも、三遊亭円左が開催の提案者だから、なるほど三遊派が中心となるのも、むべなるかな。
 だが、他に柳派にめぼしい噺家はいなかったのだろうか、という疑問が残る。

 それは、当時の東京落語界の歴史を振り返ることで、明らかになる。

 三十三年に三遊・柳の両巨頭をはじめ、二月に柳派の二代目頭取に推されたばかりの四代目麗々亭柳橋や、三代目春風亭柳枝などの、明治落語を支えていた重鎮を一括して失っただけでも、東京落語界にとっては大打撃であったのに、その後の三遊派を後見していた四代目三遊亭円生が、三十七年一月に五十九歳で没した。

 円朝と初代談洲楼燕枝は、明治33(1900)年に、相次いで旅立った。
 それだけでも、東京の落語界の虚脱感は小さくなかったろうと察するが、紹介したように、柳派、三遊派のそれぞれの重要人物が相次いで去っていったことが、円左の危機感の背景にあった、ということだろう。

 引用を続ける。
 その翌二月、日露戦争が勃発したために、当時百十軒あった東京市内の寄席はひどく不景気であった。五、六月ごろには三遊派の大看板の三遊亭円遊は、立花家橘之助、朝寝坊むらく(六代目)などとともに地方巡業に出かけ、席亭はその穴埋めに、名古屋芸者や壮士芝居あがりの桜木武夫などをかき集めて、改良日露戦争談などを高座にかけるという体たらくであった。

 今年三遊亭小円歌が二代目を襲名する橘之助の名前が登場。
 
 それにしても、明治末期でも、東京には寄席が百軒以上あったんだねえ。
 本書では、この後に、寄席が廃れていった大きな原因は、戦争や大看板を失ってことばかりではなく、席亭たちの営業姿勢にあったと、明治四十年の「万朝報」の「掛持主義」という記事を引用している。

 要するに彼等は私欲にかられ、人気をとらんとて、無暗に座組の人員を増加し、限りある時間に於て多数の芸人を高座にのぼらせたるは、其一大原因なり。演芸時間に限りある故に、一人の高座時間は十分か十五分、甚しきは都々逸の二つ三つも唸って下りる落語家も出来るなり。かくして得る所はただ聞き手は感興をそがれ、芸人の芸はすさみ、つひに其社会の衰微を来たらすの外、何等の効もあらざるなり。

 今の東京の寄席・・・高座時間は、明治末期に衰退を招いた時期と、変わらないではないか。
 初席などは、まさに都々逸の二つ三つで高座を下りる落語家もいる。

 円左の呼びかけで実現した、明治三十八年、三月二十一日の高座について。

当日はあいにく吹雪であったが、あちゃらか物やこま切れ落語に愛想をつかしていたファンで超満員となった。
 咄家も威儀を正して、羽織袴でつとめた。初席は円左の「子別れ」、次席は小円朝の「文違い」、続いて円右の「妾馬」、円喬の「茶金」、円蔵の「田の久」、承知の上で欠席した円遊に代わって、円左が「富久」を再演、最後に小さんの「小言幸兵衛」で、いずれもそれまでのように端折らず、サゲまで演じて聴衆を堪能せしめた(「万朝報」)。これを第一回として、大正十二年(1923)九月の関東大震災で中絶するまで毎月開催し、東京落語の声価を高めた功績は大きい。
 この努力によって、地味な円朝ゆずりの江戸前芸のゆえに、いささか世間が忘れかけていた円喬・円左・円右・小円朝らも再評価され、大正落語を担う新進の柳家つばめ(二代目)、三遊亭金馬(二代目)、蝶花楼馬楽(五大目)、柳家小せん(初代)、金原亭馬生(九代目)、三遊亭円窓(五代目円生)、林屋正蔵(七代目)なども、この研究会によって腕を上げたのであった。

 第一回落語研究会における三代目小さんの演目が「小言幸兵衛」であるのは、拙ブログ管理人としては、少し嬉しい^^

 円左は、地味な噺家さんだったようだが、あの三代目円馬が師事したことで、その実力を推し量ることができる。

 
 さて、寄席衰退への危機感から円左の発案で始まった落語研究会は、今では第五次の段階にある。
 
 ◇第一次 明治38(1905)年~大正12(1923)年:18年
 ◇第二次 昭和3(1928)年~昭和19(1944)年:16年
 ◇第三次 昭和21(1946)年2月~8月
    *第三次は落語会の開催を目指したものではないらしい。
 ◇第四次 昭和23(1948)年~昭和33(1958)年:10年


 さて、第五次は昭和43(1968)年から始まったので、来年で50年になる。
 もちろん、これまでの歴史で、最長寿となる。
 それには、理由がある。
 第四次までと第五次との大きな違いは、発起人という名前で落語家が運営に関わっていないこと。
 「TBS 落語研究会」という名前の通りで、TBSというスポンサーがついているからこその長寿なのだろう。
 だから、出演者はTBSが選ぶのは、当たり前のこと。
 
 しかし、この会の始まりにおいて、円左が、当時は三遊派が圧倒していた中、柳派の小さんにも声をかけたような、会派を超えて落語を盛り立てようという了見は、生かされているのか、否や。

 ということで、三遊派と柳派という区分ではなく、二つの協会などで、どのような出演状況になっているか確認したくなった。

 こういう時は、喜多八の落語研究会でのネタを調べる際にもお世話になった「手垢のついたものですが」さんのサイトの「落語はろー」にあるデータに頼るのが一番。
 同サイトから、昨年一年間の落語研究会の出演者を調べてみた。
「手垢のついたものですが」さんのサイト
 
 左から、通算回数・開催日・ネタ・噺家。

571 2016.01.20 強情灸 柳家わさび                
571 2016.01.20 孝行糖 三遊亭萬橘 
571 2016.01.20 化物使い 橘家文蔵(3) (*当時は文左衛門)              
571 2016.01.20 蛸坊主 林家正蔵(9)                
571 2016.01.20 百年目 柳家さん喬                
572 2016.02.26 鈴ヶ森 柳家さん若                
572 2016.02.26 三方一両損 金原亭馬玉                
572 2016.02.26 明烏 柳家喜多八  
572 2016.02.26 位牌屋 桂文治(11)                
572 2016.02.26 二番煎じ 柳家権太楼
573 2016.03.29 代り目 柳家ろべえ                
573 2016.03.29 岸柳島 柳家燕弥                
573 2016.03.29 小言幸兵衛 柳家喬太郎                
573 2016.03.29 三人兄弟 柳家小里ん                
573 2016.03.29 時そば 柳家小三治                
574 2016.04.27 夢八 鈴々舎馬るこ                
574 2016.04.27 将棋の殿様 入船亭扇蔵(4)                
574 2016.04.27 菊江の仏壇 五街道雲助                
574 2016.04.27 無精床 三遊亭歌武蔵                
574 2016.04.27 花見の仇討 柳亭市馬                
575 2016.05.25 真田小僧 柳亭小痴楽         
575 2016.05.25 阿弥陀池 柳家さん助                
575 2016.05.25 髪結新三(上) 柳家小満ん                
575 2016.05.25 厩火事 古今亭志ん輔                
575 2016.05.25 紺屋高尾 柳家花緑                
576 2016.06.30 権助提灯 柳家花ん謝                
576 2016.06.30 甲府い 古今亭文菊                
576 2016.06.30 船徳 桃月庵白酒                
576 2016.06.30 日和違い 瀧川鯉昇
576 2016.06.30 髪結新三(下) 柳家小満ん                
577 2016.07.13 家見舞 立川吉幸
577 2016.07.13 馬の田楽 台所おさん                
577 2016.07.13 雉子政談 柳家喬太郎                
577 2016.07.13 粗忽の釘 春風亭一之輔                
577 2016.07.13 藁人形 入船亭扇辰                
578 2016.08.04 だくだく 桂三木男                
578 2016.08.04 袈裟御前 林家たけ平                
578 2016.08.04 心眼 柳家権太楼                
578 2016.08.04 よかちょろ 柳家さん喬                
578 2016.08.04 怪談牡丹燈籠(お札はがし) 入船亭扇遊                
579 2016.09.30 臆病源兵衛 古今亭志ん八                
579 2016.09.30 高砂や 柳家三三                
579 2016.09.30 茶の湯 立川生志                
579 2016.09.30 目黒の秋刀魚 春風亭一朝                
579 2016.09.30 山崎屋 柳家さん喬                
580 2016.10.28 のめる 入船亭小辰                
580 2016.10.28 附子 三笑亭夢丸(2)
580 2016.10.28 おかめ団子 橘家円太郎                
580 2016.10.28 風呂敷 三遊亭兼好                
580 2016.10.28 お化け長屋 柳家小三治                
581 2016.11.21 まぬけの釣(唖の釣) 春風亭朝也                
581 2016.11.21 法事の茶 古今亭菊之丞                
581 2016.11.21 品川心中(通し) 五街道雲助                
581 2016.11.21 茶代 柳家喬太郎                
581 2016.11.21 子は鎹 橘家文蔵(3)                
582 2016.12.26 たらちね 柳家小はぜ                
582 2016.12.26 四段目 隅田川馬石                
582 2016.12.26 鰍沢 林家正蔵(9)                
582 2016.12.26 だるま 三遊亭歌武蔵                
582 2016.12.26 睨み返し 柳家権太楼

 立川流からは一人、円楽一門から二人。

 ピンクの色をつけたのは、落語芸術協会の噺家さんだが、たった五人とは、私も驚いた。

 相応しい噺家さんが、少ない?

 そんなことはない!

 これでは、「落語(協会)研究会」、ではないか。

 正蔵の命日->師匠三代目小さんの思い出->第一次落語研究会、というつながりから、あらためて現在の落語研究会のことに思いが至ってしまった。

 それにしても偏っているでしょ、これじゃ。
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by kogotokoubei | 2017-01-29 21:18 | 落語会 | Comments(6)
 いわゆる“爆買い”も落ち着いてきて、明日の春節がそれほど話題にならないが、今日が旧暦の大晦日、明日が元旦だ。

 ようやく、春らしくなるかな。

 前の記事で当代の正蔵のことを書いたつながりというわけでもないが、1月29日の祥月命日を前に、八代目林家正蔵について書いてみたい。

 彦六の正蔵は、昭和57(1982)年の1月29日に旅立っているので、丸35年経ったことになる。

 24日には、彦六追悼の落語会も開催されたようだが、残念ながら行けなかった。

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暉峻康隆『落語藝談』(小学館ライブラリー)

 これまでも何度か暉峻康隆『落語藝談』からは引用している。

 正蔵に関しては、彼から露の五郎兵衛を経て露の新治に伝わっている『中村仲蔵』に関し、この本を元に以前書いたことがある。
2014年7月8日のブログ

 暉峻さんの聞き書きによる本書は、初版が昭和51(1976)年三省堂から単行本、その後二十年余りの時を経て、平成10(1998)年に小学館ライブラリーで再刊。

 命日を前に読み返してみて、印象的な部分があった。

 正蔵が五代目小さんを襲名し損なった(?)のはよく知られたことだが、名人と言われる師匠だった三代目小さんについて、興味深いことを語っている。

暉峻 最後のお師匠さんは、三代目小さんですよね。
正蔵 ええ、そうですね。
暉峻 この人の芸風はどうでしょう。
正蔵 この方の芸風はねえ、あたくしはこれは正岡容さんにそう言いましたらねー(カメラマンに)こんど目がねを取りますからね、目がねかけた顔は、あまりふだんの顔とちがうから。ちょっと待ってください。いま拭いて、つや出しますから(笑)。(ハンカチを出して顔を拭く)-正岡容さんにそう言いましたら、三代目小さんは、三遊派の人情咄を落語のなかにそっくり取り入れたんだから、あくまで人物描写だと。これは当時の柳派としては得がたい演出なんですよ。
 柳派の人のその時分の芸風というか、お家風というのは、膝を着くとすぐしゃべるのが柳派の演り方ですよ。三遊派のほうは懐から紙入れを出したり、いろいろ段取りがあって、お湯をひと口飲んでからおもむろにやるというのが三遊の・・・・・・だから片方が端唄なら、片方は義太夫の型でいったわけです。ところが、三遊派の型を三代目が咄のなかに取り入れたんです。あの方の落語というものは、二人の人物はピタッと描写するんです。あとはぼかすんですよ。そこが小さん芸術のよさですね。
暉峻 そうですか。いちばん中心になる二人の対話はカチッとやって・・・・・・。
正蔵 ええ、与太郎と大家さんとか。そのほかのおばさんやおじさんなんかはぼかしちゃって。
暉峻 そうすると、焦点がはっきりするわけですね。
正蔵 これが小さん芸術ですよ。ですから、そのものはといえばね、やっぱり三遊派の人情咄に、当人はここだなってメドをつけたわけですよ。 
 明治三十八年三月に「落語研究会」ができたときに、柳派からただ一人ではいってきたんですからね。三遊派のほうは円喬・円右・小円朝・円蔵と多士済々で、五本の指以上に人数がそろってるところへ、柳派からただ一人。あの自信力てえものは、自分の芸ができているという・・・・・・もうそうなると創作ですからね。ほかの者がべらべらしゃべったって、とても三遊派の者にはかなわない。だが自分はこれでやれると、そういう決意ではいってきたんですからね。
 小さん師匠の咄は三遊派の手法を学んでいる。これが人情咄でなくて、落語だからびっくりするわけですね。

 片方が端唄、もう片方が義太夫、という喩えがいいねぇ。

 なるほど、三代目小さんは、当時隆盛を誇った三遊派に対応するため、柳派と統領として敵(?)三遊派の芸をとことん研究し、自分の芸を磨き上げたということか。
 加えて、多くの上方落語を東京に移したことで知られているが、もちろん、上方の芸から吸収したものもあるだろう。

 今につながる柳派の隆盛は、三代目小さんの存在を抜きに語れないことを再認識した、正蔵の芸評である。

 第一次落語研究会は、速記者の今村次郎、歌舞伎演出家で作家の岡鬼太郎が顧問。
 「レギュラー出演者」に相当する「発起人」の顔ぶれは、正蔵が語るように次の通り。
------------------------------------
初代三遊亭円左
四代目橘家円喬
三代目柳家小さん
四代目橘家円蔵
初代三遊亭円右(幻の二代目円朝)
二代目三遊亭小円朝
------------------------------------

 なるほど、三遊派の錚々たる顔ぶれに囲まれ柳派からは三代目小さんが一人。

 ちなみに、来週正蔵の命日の翌日30日に、第五次落語研究会の第583回目が開催される。
 BS-TBSのサイトから、出演者と演目を引用。
BS-TBSサイトの該当ページ
「動物園の虎」 柳家喬の字
「鼓ヶ滝」   三遊亭歌奴
「雪とん」   入船亭扇辰
「羽織の遊び」 柳亭左龍
「三軒長屋」  柳亭市馬

 扇辰も大師匠が五代目小さんだったことを考えると、柳派四人に三遊派が一人という、まったく逆の状況。

 これが、たまたま、とは言えないほど、柳派が三遊派を圧倒しているのが今日の東京の落語界と言えるだろう。

 また、今では、三遊派と柳派の芸における違いが、そう明白ではなくなってきたように思う。
 たしかに、柳派には滑稽噺が多いし、私も好きだが、人情噺だって柳の噺家さんは積極的に手がけるし、円朝作品は三遊も柳も関係なく演じられる。

 あらためて正蔵が語る三代目が築いた“小さん芸術”というものが、現在までの落語の歴史における大きな転換点のように思える。

 中心人物に焦点を当てて、他はぼかす・・・なるほど。
 今度自分が余興で演じる時の参考にしよう。
 でも、全員がぼけたりしてね^^


 よく引き合いに出されることだが、夏目漱石は『三四郎』の登場人物に、「彼(三代目小さん)と時を同じうして生きている我々は大変な仕合せである」と語らせた。

 果たして、今、同じ空間と時間を共有する幸せを感じることのできる噺家さんは、どれほどいるだろうか。

 正蔵の命日を前に、そんなことも思ってしまった。

 来週は、何とか寄席に行くつもりであるが、“小さん芸術”を彷彿とさせるような高座に、果たして出会えるかな。


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by kogotokoubei | 2017-01-27 19:54 | 落語家 | Comments(4)

 落語協会のホームページの最新情報で、次の案内があった。
落語協会ホームページの該当記事

第17回ビートたけしのエンターテインメント賞

第17回ビートたけしのエンターテインメント賞の発表が行われ、当協会所属の林家正蔵が日本芸能特別賞を受賞いたしました。

 実は、この賞のことをよく知らない。

 東京スポーツが主催らしい。
 サイトを確認したら、こんな記事が載っていた。たけしのコメントである。
東スポの該当記事
「日本芸能特別賞」ってのを林家正蔵にやりたいと思う。あいつ、ゴルフは一切やめて、古典ばっかしやってる。完全に正蔵になろうとしてる。正蔵になりたてのときは古典は5つぐらいしかできなかったんじゃないか。それがいまや新ネタじゃなく、古典をじゃんじゃんやってる。コロッと生活変えたんじゃない。すごい努力してる。だいぶ、落ち着いてうまくなってる。

 こういう受賞理由らしい。
 
 これって、落語協会がホームページで案内するようなニュース、なのだろうか・・・・・・。
 ちなみに、各賞受賞者は、次の通り。

 ◇男気賞 黒田博樹
 ◇特別賞 稀勢の里
 ◇話題賞 ピコ太郎、RADIO FISH、平野ノラ
 ◇激励賞 柴田英嗣、狩野英孝
 ◇努力賞 三遊亭円楽
 ◇カムバック&激励賞 ベッキー
 ◇日本芸能大賞 桂文珍
 ◇日本芸能特別賞 林家正蔵
 ◇日本芸能賞 ハリウッドザコシショウ、ライス、銀シャリ

 この賞や受賞者を見れば分かるように、この賞は、たけしのシャレなのだ。

 正蔵が古典を稽古するのは、噺家なら当たり前のこと。
 なおかつ、彼は協会の副会長だよ。

 たけしが個人的に知る「ビフォー・アフター」の違いに強い印象を受けての授賞なのだろうが、「落語協会」が、この受賞をニュースとして報告する賞とは言えまい。

 もし、本人がHP掲載を知ったら、「冗談はよしこさん!」と、やめさせるべきだろう^^

 このニュースを掲載したのがサイトの一担当者なら、そもそも、どんな賞か分かっていたのかどうか・・・・・・。

 この受賞を「最新情報」として掲載する状況こそ、“しょーもない”と言うのだ。

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by kogotokoubei | 2017-01-25 12:47 | 落語協会 | Comments(4)

 明日一月二十五日は、初天神。
 初天神には「うそ替え」が行われる。

 落語の『初天神』や、うそ替えについては、八年前の今日、記事を書いた。
2009年1月24日のブログ

 今では、湯島にしろ亀戸、本家(?)の北野にしても、学問の神様として、受験シーズンということから多くの参拝者が絵馬を奉納することで有名か。

 柳家小満んの『質屋庫』のサゲに、その天神さまで祭られている菅原道真が登場する。

 天神さまは、他の神社とは違って、菅原道真という実在の人物を祭っている。
 今では、学問の神様、として何ら疑問もなく認識されているが、道真が祭られるようになった背景を、初天神を前に確認しておこうと、ある本を開いた。

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『日本の神々と仏』(岩井宏實監修、プレイブックス)

 『日本の神々と仏』(岩井宏實監修、青春出版社プレイブックス)は、神社やお寺について、日本人の信仰の歴史を含めて分かりやすく解説してくれる本。
 副題が「信仰の起源と系譜をたどる宗教民俗学」となっている。

 監修を担当した岩井宏實さんは昨年亡くなられたが、民俗学者で、国立歴史民俗博物館や帝塚山大学の名誉教授、大分県立歴史博物館顧問などであった方。

 あらためて、この本の「天神さま」の部分を引用。

天神さま

ー通りゃんせ、通りゃんせ、ここはどこの細道じゃ。天神さまの細道じゃ・・・・・・
 童謡「通りゃんせ」は天神さまへ子どもの七歳のお参りに行く様子が歌われている。
 しかし、この歌はよく聞くと怖い。「行きはよいよい、帰りは怖い」といって、子どもを捕まえてしまうのである。


 冒頭にある童謡「通りゃんせ」のことについては、この歌詞の解釈だけでも一つの記事になりそうなので、それは後日に譲り、あくまで、天神さまと道真について、あらためて引用。

 天神さまといえば、学問の神として名高い。しかし、神なのに天神さまには怖いイメージがついてくる。
 なぜなのか。
 じつは天神さまは、ほかの神とは性格と生い立ちがちがう。多くの神社は自然や神話に出てくる神や天皇を祭っている。ところが、天神さまはそのどれにも当てはまらないのである。
 天神さまはもとは天皇の臣下で、名を菅原道真といった。平安時代の秀才で、認められて右大臣まで出世したエリートである。書にもすぐれ、弘法大師空海、小野道風らと日本の三筆に数えられる。天神さまの「学問や書道の神さま」という性格づけは、生前の道真の資質に由来している。
 道真は恵まれた人生を送るはずだった。だが朝廷の政争に巻き込まれ、落とし穴にはまる。左大臣・藤原時平の讒言によって九州の大宰府に左遷され、あげく失意のうちに亡くなった。かれの死は、都の人々にとって後味の悪いものだった。その後、都に疫病が流行り、落雷や火災が相次ぎ、示し合わせたように道真を陥れた政敵が次々と不慮の死を遂げると、道真の怨霊の仕業にちがいないと人々は考え、その祟りにおののいた。
 当時は御霊信仰が盛んだった。不遇の死を遂げた者が怨霊となって人々に祟り、疫病を流行らせ、厄難を招くとい信じられていた。そのため、霊を神さまとして祭って怒りを鎮めようしたのだった。
 道真の家があった京都の桑原の地だけが落雷の被害に遭わなかったこともあって、かれを火雷天神とする御霊信仰が起こった。雷が鳴ると、身を守るために「桑原、桑原」と唱えるのは、このことに由来している。のちに道真の祟りを恐れた人々は、霊をなぐさめるために京都北野にあった天神社のかたわらに霊を祭る社(やしろ)を建てたのだが、これが北野天満宮(北野天神社)の始まりである。
 ここで、おやっと思われるかもしれない。道真の霊を祭るまえから、天神さまがすでにあったからである。じつは、天神さまはもとはあまつかみ、すなわち天の神として祭られていたのだ。時が経つにつれて、天神社と道真を火雷天神とする御霊信仰がひとつになった。ややこしい話だが、このように長い時を溶炉のなかで、いろいろな信仰がひとつに溶け合ってゆくのは珍しいことではない。
 今では学問の神さまとして高名な菅原道真も、「天神さま」として祭られた当時は、何をしでかすかわからない怨霊として恐れられていたのである。

 右大臣藤原時平が「しへい」という通称だったので、という小咄を『質屋庫』のマクラで柳家小満んが披露したことを思い出す。

 あの噺、最後に幽霊として掛け軸の道真が登場する場面、昔の人の受け取り方は、現代をは大きく違っていただろう。間違いなく、怨霊としての怖いイメージが強かったはず。

 天神さまにその霊を祭ったのは、道真の怨霊を鎮めるためなのだ。学問の神様、という存在になったのは、ずいぶん後のこと。

 ちなみに、今も京都市中京区に「桑原」という地名が残っている。
 しかし、この場所、道路部分の一角で、住居はない。
 なぜ、そんなところに地名を残したのか・・・・・・。
 それも、道真の霊を鎮めるためなのか。

 過去に何かったのか・・・など探るのはよそう。

 くわばら、くわばら。


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by kogotokoubei | 2017-01-24 21:18 | 幸兵衛の独り言 | Comments(2)

 昨日1月22日が、実は「ジャズの日」だったということを、今日になって知った。

 Wikipedia「ジャズの日」から引用する。
Wikipedia「ジャズの日」

ジャズの日

ジャズの日(じゃずのひ)は、日本で JAZZ DAY実行委員会が制定した記念日である。毎年1月22日。

概要
東京都内の老舗ジャズクラブ「バードランド」「サテンドール」「オールオブミークラブ」のオーナーらによる「JAZZ DAY実行委員会」が2001年から実施。

JAZZの"JA"が"January"(1月)の先頭2文字であり、"ZZ"が"22"に似ていることから。

 以前は、あちらこちらで記念のコンサートが行われたようだが、果たして、昨日はどうだったのだろう・・・・・。


 そういえば、それほど気合いを入れて(?)は見ていなかったNHK朝の連続小説「べっぴんさん」で、主人公すみれの娘さくらが、ジャズ喫茶やナイトクラブのライブで聴く曲が、Sonny Clarkのアルバム「Cool Struttin'」のタイトル曲と“Blue Minor”だったのは、少し嬉しかった。

 「ブルーノート 1500番台」の名盤中の名盤と言われる「1588」番。
 
 もっともジャケットが有名なアルバムかもしれない。

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 ちなみに、柳家小ゑんは、自分のCDのジャケットをジャズ・アルバムのパロディでデザインすることで有名(?)だが、もちろん、このアルバムも対象となっている。
「落語くらぶ」サイトの該当ページ


 次の四曲のうち、1と2がソニー・クラークの自作。

1."Cool Struttin'" – 9:23
2."Blue Minor" – 10:19
3."Sippin' at Bells" (Miles Davis) – 8:18
4."Deep Night" (Charles Henderson, Rudy Vallée) – 9:34

パーソネルは、次の通り。

Sonny Clark – piano
Jackie McLean – alto saxophone
Art Farmer – trumpet
Paul Chambers – bass
Philly Joe Jones – drums

 昭和33(1958)年1月5日収録の同アルバムは、当時の日本で、本国を上回るほどに流行ったと言われ、特にタイトル曲は有名だ。
 しかし、私は、(レコードでは)裏面の“Deep Night”が好きだったなぁ。


 ちなみに、ソニー・クラークがヘロイン過剰摂取で31年の短い命を終えたのは、1963年の1月13日。


 ビル・エバンスは、ソニーへの鎮魂歌“NYC's No Lark” (ニューヨーク・シティーズ・ノー・ラーク)を作った。
 ニューヨークの街に雲雀(ひばり)が居なくなった、と言う意味で、巧妙なアナグラムになっている。

 つまり、「N・Y・C・S・N・O・L・A・R・K」の十文字を並べ替えると、「S・O・N・N・Y・C・L・A・R・K」になるのだ。

 遅ればせながら、私が大好きなジャズ・ピアニストを偲びたい。

 ソニー・クラークは亡くなった後も日本で人気があって、1986年の第1回マウント・フジ・ジャズ・フェスティバルでトリビュートバンドが『クール・ストラッティン』を演奏した時は、ジャッキー・マクリーン(アルトサックス)が驚くほどに、会場は盛り上がったらしい。

 一日遅れで「ジャズの日」を祝い、「べっぴんさん」で演奏された“Blue Minor”をお聴きのほどを。





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by kogotokoubei | 2017-01-23 21:45 | 幸兵衛の独り言 | Comments(6)
 いろいろと年明けから野暮用続きで、今年最初の落語会が、この小満んの会となった。

 今回は、終演後の居残り新年会も楽しみに、関内へ。
 地下の小ホールへ降りたが、いつものように小満んの奥さんやお嬢さんの姿はなく、有志の方が数名お迎えだった。
 ロビーのモニターで開口一番を見ながら近くのコンビニで買ったおにぎりを、ほうばる。
 少し腹に入れとかないと、居残りまでもたないのだ^^

 モニターでは『饅頭怖い』の後半にかかっていた。知らない前座だ。
 サゲ少し前に会場に入りメクリを見ると、柳家寿伴、と実に個性的な字で書かれている。
 このメクリ、いつもの柔らかな字ではなく、角張った書き初めの失敗作のようだったなぁ^^

 寿伴は、後で調べたら柳家三寿の弟子のようだが、その小さん門下の師匠も聴いたことがない。まだ、知らない噺家さんがたくさんいるねぇ。

 その前座さんがサゲたところでほぼ真ん中あたりの席に落ち着く。
 いつものように、六割程度の入りかな。

 小満んの三席、順に感想など。

柳家小満ん『千早ふる』 (26分 *18:46~)
 マクラでは“いろはカルタ”のいくつか(「月夜に釜を抜く」など)と、知ったかぶりの道案内の小咄などをふって本編へ。
 ご隠居を訪ねるのは、柳家だから金さんだ。
 歌の意味をと問われたご隠居が、最初に業平の歌を切れ切れで詠む部分、後半の「からくれないに」が出てこなかったので、成り行きを少し心配したのであった。
 いろいろと噺家さんによって独自の、今風のクスグリを入れたくなる噺だと思うが、そこは小満んであるから、ネタそのものの楽しさを味わわせてくれる。
 花魁道中の千早を見て、いい女を見たので竜田川が三日三晩震えが止まらなかったと言うご隠居に、金さんが「マラリアで?」と混ぜっ返す師匠小さん譲りのであろう古風なクスグリも、なんとも可笑しい。
 歌の後半部分は、竜田川と千早の物語をなぞるうちに思い出したようで、サゲでは復活。聴いているこっちが、ホッとした。
 こういうスリルを味わえるのも、この会ならではか^^
 この噺の改作といえば、瀧川鯉昇が代表かと思う。竜田川がモンゴル出身であるなど飛び抜けて可笑しいのだが、それはそれ。本来の型を崩さなくても十分に楽しいことを小満んの高座が示している。
 ちなみに、毎回受付でいただく小さな可愛い栞、今回は「百人一首」がお題。
 川柳が二つ並んでいて、短いコメントがついていた。
○ふり袖を うごがすたびに 歌がへり
○歌がるた 下女はまたぐらへ 取りためる
えらい違いである。
 これには、笑った^^

柳家小満ん『姫かたり』 (20分)
 一度下がってから再登場。
 この日は旧暦十二月二十二日。噺の舞台は「歳の市」の浅草。師走の十七、十八日の行事だから、まさに旬のネタなのだ。
 初めてこの噺を聴いたのは、二年余り前の「雲助五十三次」で、その時の記事には、佐藤光房著『合本 東京落語地図』を参考にして、あらすじも紹介した。
2014年12月2日のブログ
 侍と姫を中心とする詐欺軍団に騙られる(たかられる、ではない)医者の名、本では吉田玄竜とあり雲助は吉田玄端(げんずい)としていたが、小満んは高橋玄庵だった。
 その藪でありながら高い薬代を請求し、貯めた金で高利貸しをする悪徳医者、いわば算術の玄庵と対照的な仁術の医者として、小満んは浅田宗伯の名をあげた。
 浅田は有名な漢方医であり儒学者。徳川将軍家のご典医をつとめ、幕末に天璋院が書いた徳川慶喜の助命を求める書状を西郷隆盛に届けた人として伝わるが、そういう説明は、小満ん割愛。まぁ、本筋ではないからね。
 この噺のサゲは、最初に歳の市の呼び声「市ぁ負けた、注連(しめ)か飾りか橙(だいだい)か」を仕込んでおいて、サゲで玄庵には「医者ぁ負けた、姫かかたりか大胆な」と聞こえるところに地口の可笑しみがあるのだが、この売り声の部分で少し言いよどみもあって、本来の可笑しさんを描き切れなかったのは残念。
 とはいえ、姫に扮した詐欺軍団の女が美人であることを描写する場面で、小野小町を引き合いにして、「雪にカンナをかけて、トクサで磨いたように白い」とか、「梅香口唇」なんて言葉が登場するあたりが、この人ならでは。そうそう、雲助は、「い~~~ぃ、女」と、やけに長く引っ張っていたっけ^^
 もし、そんな女性が、しなだれかかってきたら、玄庵でなくても・・・・・・。残念ながら(幸いにも?)、そんな女性には巡り合ったことがない。
 駕籠について、塗り物が施された上等のものは「御乗り物」と言われ、駕籠かきは棒の長さから“六尺”と言われた、などの薀蓄も勉強になる。褌ばかりではないのだねぇ。
 悪党軍団が玄庵から口止め料と言って騙った金、雲助は二百両としていたが、小満んでは値が上がった。最初玄庵が三百両を提案(?)したものの、お供の者に一人十両づつを加えて足すこと百両、計四百両と要求し妥結。腰元役や六尺、共の者も含め、結構な人数の騙り集団だ。
 売り声とサゲとの関係については、もう少し伏線を張って欲しかったとも思うが、旬のネタを楽しく聴かせてくれた。

 ここで、仲入り。

柳家小満ん『質屋庫』 (36分 *~20:21)
 仲入り後は、上方ネタ(読み方は、「ひちやぐら」)のこの噺。
 私が東京の噺家さんで聴くのは、権太楼、鯉昇についで三人目。
 権太楼はブログを始める前に朝日名人会で聴いている。
 鯉昇は、座間と日本橋で遭遇。
 さて、小満んの高座はどうだったのか。
 まず、マクラは湯島天神のことから入り、宮司さんのことで結構笑えるネタがあったが・・・秘密にしよう。
 サゲにつながる菅原道真の「東風吹かば 匂ひをこせよ梅の花 主なしとて春な忘れそ」をしっかりとふって、右大臣だった道真が左大臣の藤原時平の諫言で大宰府に流されたが、時平は「しへい」と呼ばれていた、と説明し小噺につなぐ。
 天神様の賽銭に五百円玉二枚を投じた男に、どうして千円札にしない、と聞くと、天神様は“紙幣”がお嫌いだから、というサゲ。いいねぇ、こういうの。
 それらの短いマクラから長講に入った。
 小満んらしいとは言えるが、この噺としては、やや大人しい高座という印象。
 どうしても比較してしまうのが枝雀の音源、そして随分前のことになるが、鯉昇の日本橋での高座。
2011年9月2日のブログ

 とはいえ、小満んは小満ん。枝雀や枝雀を意識していると思しき(枝雀派?)権太楼、鯉昇のような派手さはないが、この難しい噺を楽しく聴かせてくれた。
 そう、この噺、次のように場面転換が多く、聴かせどころが盛りだくさんなだけに、結構難しいネタなのだ。

(1)質屋の旦那が、三番蔵に出るという噂の幽霊について、質草に
   なっている繻子の“帯”にまつわる、ある夫婦の物語を空想して
   長科白で語る場面。
(2)番頭がお化け(と塩辛、と小満んは加えた)が怖いから一人では
   蔵の番ができないと言うので、旦那に言われて熊さんを呼びに
   行った定吉と熊とのすがらの会話。
   この場面では、定吉が立ち聞きした旦那の話を中途半端につない
   で熊さんから芋羊羹(上方のオリジナルや鯉昇は栗)を奢らせる。
(3)定吉から旦那が怒っていると早とちりした熊が、酒・たくわん
  (小満ん、下駄を割愛したのは時間調整か?)を出来心で樽のまま
   いただいたという過去の悪事を、つい白状してしまう場面。
(4)旦那に「熊さんは強いだってね」とおだてられて強がっていた
   熊が、相手が“幽霊”と聞いた途端に威勢が衰えていく。
(5)熊と番頭とが幽霊の正体を暴くために離れで寝ずの番をしている
   時の、二人の滑稽なやりとり。
(6)丑三つ時になり、三番蔵に質草の幽霊が出てからサゲまで。

 これだけの場面転換がある噺なのだ。
 小満ん、最初の場面の旦那の長科白は、結構立て板に水だった。十分位はあっただろう。この部分だけでも、聴きごたえがあった。
 定吉と熊の掛け合いも可笑しかった。芋羊羹を三個せしめた定吉、そのうち一本は世話になっている向かいの小僧にやると言うと、熊が「人のゼニで義理を果たすな」の科白なども楽しい。
 熊が旦那の家に着いてからの早とちりで、つい“樽泥棒”の前科を白状する場面は、枝雀派のような大袈裟な演出ではないものの、例えば熊が繰り返す「悪気があったわけでは・・・」の科白は、聴いていて普通に可笑しい。
 寝ずの番での熊と番頭の二人の場面、正直なところ、枝雀派的な爆笑ネタにならないことへの物足らなさを感じてはいたが、これもこの人の味なのだろうと思い直した。
 爆笑させるだけが落語ではない、という見本か。

 やはり、最初の帯の逸話の作り話が、印象に残るなぁ。
 私は、中盤から後半の動きのある場面も楽しいのだが、あの旦那の質草に関わる空想物語の部分が、実はこの噺の要ではないかと思っている。
 
 爆笑派の頭取、枝雀も、そう思っていたふしがある。
 
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『桂枝雀のらくご案内』(ちくま文庫)

 文庫タイトル『桂枝雀のらくご案内ー枝雀と61人の仲間』は、昭和59(1984)年に徳間書店で『桂枝雀と61人の仲間』として単行本が発行され、平成8(1996)年にちくま文庫で再刊された。

 『質屋庫』の章に、こんなことが書いてある。

しかしよくできた噺ですね。ことに前半の旦那のひとりしゃべり。空想の世界の中の嫁はんの心の動き、そして工面のしかた。「竹の筒」なんていう小道具のうまさ、「不縁になって戻って来た妹」なんていう心にくいまでの人物設定のリアリティ。あれだけでひとつの世界ができてますからね。これから生まれてくる人があの世界を「ええなァ」と感じてくれるかどうか心配なんですが、なんとか伝えたいものです。また、旦那のしゃべりを説明として淡々とはこぶか、噺中劇として気を入れてやるかなのですが、今のところは劇として処理してます。将来はどちらに落ちつくようになるでしょうか・・・・・・。
 小満んは、淡々とはこんだ、と言えるのだろう。とはいえ、あの“嫁はんの心の動き”は、十分に伝わった。あれだけでひとつの世界が、できていたのだ。

 もし、枝雀が古希を迎えていたら・・・きっと小満んのような語り口になったかもしれない、などと思ったりするが・・・・・・。
 

 さて、帰り際に受付を見たら、依然として奥さんとお嬢さんの姿がなかったのは、やや残念ではあった。
 そこで、あっ、そうか、と前回の会での小満んの発言を思い出した。
 昨年11月の会、本当はこれでおしまいのつもりで、奥さんからもそろそろ終わったらと言われていたが、高校の後輩を中心とする有志が手伝うからと継続することになった、と言っていたなぁ。
2016年11月28日のブログ

 ということは、もう奥さんやお嬢さんはお手伝いにいらっしゃらない、ということか。
 実態は分からない。
 私は、ご都合が良い時だけでもいいので、お二人のご尊顔を拝したいぞ。
 

 さぁ、終演後は、お楽しみの居残り新年会。
 顔ぶれは、佐平次さんに久しぶりのYさんと私という居残り会発足メンバー三人に、ほぼ居残り会常連と言えるI女史とM女史という強力(?)な女性陣、そして今回はそのお二人よりも先輩という、さん喬がご贔屓と後で知ったNさんが加わっての六人が、関内で開業四十年を超える、いつものあのお店Dへ。

 いつものカウンターではなく、初の座敷(小上がり)。

 事前にお願いしていたご主人お任せのお通しが並んでいる。
 菜の花のお浸しにホッキ貝の酢の物、湯葉の後には、大好きなクサヤも出てきた。
 どの肴も実に結構。初参加のNさんが喜んでいただけたのが、幹事役としては嬉しかった。
 落語の話題はもちろん、よもやま話に花が咲く。
 NさんはIさんMさん、佐平次さんと落語研究会や暮れの末広亭「さん喬・権太楼二人会」の常連さん。かつて、研究会のチケット獲得のために泊まり込みした決死隊(?)のメンバーのお一人。
 実は、佐平次さんは、役割分担や時間割りなどのシナリオを作るなど奮闘されていたのに、当日は風邪でダウンだったのだ^^
 会話が弾む中、貝づくしの刺身が大皿で登場した後に、立派なのどぐろの塩焼き、最後は、特大牡蠣のオムレツまで。
 素材良し、料理良し、話良しで楽しい宴が続いた四畳半の座敷は、その後、なんと高座に早変わりするのだった。
 相撲好きで“プチたにまち”のYさんが、友人たちの前で『阿武松』を演じたことを彼のブログで知っていたので、さわりだけでも演ってよ、と言うと、澱みなくほぼサゲまでを語って拍手喝采。扇辰版を元にしたようだが、なかなかしっかりとネタが入っていて、感心した。好きなことを扱っているから、覚えも早いのだろうなぁ。
 その後で、私も、とのご注文。私がYさんに無茶ぶりしたのだから、これは受けないわけにはいかない。
 一瞬ネタをどうするか迷ったが、テニス仲間との合宿の宴会で披露した『子別れ』の下(『子は鎹』)に決めた。時間を考え、途中を端折った短縮版でご披露。あの時のように、登場人物が勝手にしゃべり出すという感覚は、残念ながらなかったし、志ん朝版と小三治版、さん喬版がごっちゃになったような感じで、自分としては今一つ。そう何度も落語の神様は助けてくれないのだ。
 こんなことなら、もっと、稽古しておくんだった^^

 そんなこんなで、千福の熱燗徳利が、さてさて、何本空いたのやら。
 最後はご当地の瓶ビールを、ビアソムリエ(?)佐平次さんに注いでいただき、お店のご夫婦も交えて乾杯。
 あっと言う間のほぼ二時間半、楽しかったなぁ。

 久しぶりの落語と居残り会だもの、もちりん、帰宅は日付変更線を越えたのであった。
 なお、次回は3月21日(火)、ネタは『和歌三神』『鶯宿梅』『味噌蔵』と告げられている。初めて聴くネタもあり、これまた楽しみだなぁ。


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by kogotokoubei | 2017-01-20 21:18 | 落語会 | Comments(4)

八五郎 いますか?
ご隠居 おや、八っつぁんじゃないか、お上がりよ。
八五郎 言われなくても、上がらせていただきやす、よっと。
ご隠居 どうした、今日はいやに悩ましい顔してるじゃないか。
八五郎 そりゃぁそうですよ、ご隠居。
ご隠居 いったいどうしたんだい。
八五郎 豊洲ですよ、豊洲。
ご隠居 ほう、例の調査結果のことか。
八五郎 そうですよ、出ましたね、便所コオロギ!
ご隠居 分かった、分かった、ベンゼンだな。
八五郎 それそれ。前にご隠居が、この検査の結果を待って、あの
    あまっこの知事は幕引きをしようという筋書きだって言って
    ましたが、これじゃとても幕なんか引けねぇでしょう。
ご隠居 こんな結果とは、小池さんも思っていなかっただろうね。
八五郎 ベンゼンとやらが基準の七十九倍ですよ。
ご隠居 ほう、よく知ってるじゃないか。
八五郎 そりゃ、ニュースでさんざ言ってましたからね。
    ベンゼンだけじゃねえ、ヒ素も出るわ、出ちゃいけねぇシアン
    とやらも出てきて、小池の姐さん、思案にくれてるでしょう。
ご隠居 分かった、分かった、駄洒落は結構。
八五郎 面目ねェ。それにしても、不思議じゃねぇですか。
ご隠居 なにがだね。
八五郎 今度の調べが九回目で、前の八回目よりとんでもなく数が
    上がったらしいですが、その前の七回目までは、全部、基準
    より下だったっていうじゃねぇですか。調べる職人を替えた
    らしいですが、そんなに変わるもんですかね。
    おりゃあ、前の七回までの数が、怪しいとにらんでるんでさあ。
ご隠居 なるほど、たしかに、以前の調査結果が改竄されているという
    疑いも出てきたね。しかし、今回の調査を疑う声もある。
    もう少し、様子を見なきゃならないだろうね。
八五郎 豊洲に行くってんで、あっしの仲間だった勝なんか仕事をなく
    しちまいましたし、行くつもりだった仲卸の人だって、これじゃ
    行くに行けねぇや。どうなるんですか、これから。
ご隠居 そうだねぇ、小池さんが石原さんや舛添さんを引っ張りだして
    犯人捜しをしても、解決にはならんだろうねぇ。
八五郎 そりゃ小池の姉御は、てめえのせいじゃねぇ、と言いたいんで
    やしょう。
    とにかく、豊洲はもう無理じゃねぇんですか。
    築地は古くて狭えんでしょうから、早く引っ越し先をはっきり
    しねぇことには、築地の人も尻がムズムズしっぱなしでしょうが。
ご隠居 その通りだね。
八五郎 豊洲がだめんなりゃ、いったいどうなるんですか。
ご隠居 よく言われている引っ越し先の代替案が晴海。また、築地の
    再整備という意見もある。
    他にもある中央卸市場への統合も、ありえるだろうなぁ。
    そうだ、東京中央卸売市場の十一ある市場が、何を扱って
    いるか、また、その広さはどうかを、ホームページから確認
    してみよう。
「東京都中央卸売市場」サイトの該当ページ

    これが、そうなんだ。

   築地
   ・取扱品目 水産物・青果物
   ・取扱数量(金額)
    水産:1,676t(1,611百万円)
    青果:1,095t(323百万円)
     ※(平成26年1日当り、以下各市場も同様)
   ・敷地面積 230,836平方メートル 
   ・建物面積 285,476平方メートル

   食肉(芝浦)
   ・取扱品目 食肉
   ・取扱数量(金額)
    食肉:353t(495百万円)
   ・敷地面積 64,108平方メートル 
   ・建物面積 94,398平方メートル

   大田
   ・取扱品目 水産物・青果物・花き
   ・取扱数量(金額)
    水産:33t(38百万円)
    青果:3,623t(997百万円)
    花き:288万本(161百万円)
   ・敷地面積 386,426平方メートル 
   ・建物面積 298,313平方メートル

   豊島
   ・取扱品目 青果物
   ・取扱数量(金額)
    青果:360t(78百万円)
   ・敷地面積 23,334平方メートル 
   ・建物面積 20,281平方メートル

   淀橋
   ・取扱品目 青果物
   ・取扱数量(金額)
    青果:881t(210百万円)
   ・敷地面積 23,583平方メートル 
   ・建物面積 40,067平方メートル

   足立
   ・取扱品目 水産物
   ・取扱数量(金額)
    水産:67t(63百万円)
   ・敷地面積 42,675平方メートル 
   ・建物面積 26,354平方メートル

   板橋
   ・取扱品目 青果物・花き
   ・取扱数量(金額)
    青果:480t(106百万円)
    花き:56万本(28百万円)
   ・敷地面積 61,232平方メートル 
   ・建物面積 51,378平方メートル

   世田谷
   ・取扱品目 青果物・花き
   ・取扱数量(金額)
    青果:163t(36百万円)
    花き:81万本(41百万円)
   ・敷地面積 41,482平方メートル 
   ・建物面積 65,302平方メートル

   北足立
   ・取扱品目 青果物・花き
   ・取扱数量(金額)
    青果:596t(145百万円)
    花き:57万本(26百万円)
   ・敷地面積 61,076平方メートル 
   ・建物面積 77,823平方メートル

   多摩ニュータウン
   ・取扱品目 青果物
   ・取扱数量(金額)
    青果:86t(19百万円)
   ・敷地面積 57,153平方メートル 
   ・建物面積 19,895平方メートル

   葛西
   ・取扱品目 青果物・花き
   ・取扱数量(金額)
    青果:496t(111百万円)
    花き:68万本(27百万円)
   ・敷地面積 74,515平方メートル 
   ・建物面積 59,396平方メートル

八五郎 ほう、こんなに市場がありやしたか。
    こんなかで、一番広いのが・・・大田ですね。
ご隠居 そうなんだよ。敷地が約40万平米、築地が23万だから、
    倍近いね。水産物も扱っているが、築地の一日約1700トンに
    比べ、たった33トン。
    青果物が3600トンと、これは日本一の扱い量だ。   
八五郎 他は扱いも広さも、ケタ一つ小せぇんですね。
    あら、築地は地べたの広さより、うわものの方が広いや。
    もういっぱいいっぱい、てぇことですね。
    大田は、地べたがまだ余ってそうですね。
    どうなんです、築地は大田に引っ越せねぇんですか。
ご隠居 実は、築地の大田への引っ越しという案は、1981年にも
    持ち上がったんだが、水産業者さんなどの反対が多くて取り
    やめになったことがある。築地が来なくなって、大田は、青果の
    旧神田市場・荏原市場、水産の大森市場を統合して出来たんだ。
八五郎 そうなんですか。
    素人考えですが、青物の扱いを他に回せば、魚をもっと扱うこと
    もできるんじゃねぇですか。
ご隠居 たしかに、簡単ではないが、可能性はあるだろうね。
    豊洲には、すでに6000億円ほど投入されているから、なかなか
    変更するのは難しいだろうが、不安を抱えたままの移転は、でき
    ないだろう。直接その地下水を飲んだり、魚を洗ったりしないとは
    いえ、働く人も、買い物に来る人も、ベンゼンやらヒ素やシアンが
    出ると聞いちゃ、腰が引けるね。
    大田の青果物の扱いを他の市場に譲って、築地の引っ越し先
    にするというのは、結構ありそうな話だと、わたしは思うね。
    近くには東京港野鳥公園もあるし、羽田空港からも近いから、
    海外からのお客さんが日本に着いて最初に訪ねてくれるかも
    しれないね。
八五郎 大田には、どうやって行けばいいんですか。
ご隠居 JRの品川か大森からバスで30分ほど、東京モノレールなら
    流通センター駅から歩いて15分というとこかな。
八五郎 築地にくらべりゃ便は悪いが、それもしょうがねぇですね。
ご隠居 今は場外がないと言ってよいので、移転するなら場外市場も
    新設することになるだろうね。
    築地を再整備するにしても、晴海に引っ越し先をこれから作る
    にしても、膨大な金がかかるだろう。
    すでにある大田市場に受け皿をつくるほうが安くあがると、
    素人考えだが、わたしはそう思うがね。築地の業者さんにとって
    は、いろいろ複雑な思いがあるだろうが、まずは先の見通しを
    持つことが大事なんじゃないかな。
八五郎 その通りですね、ご隠居。
    今のままじゃ、全然(ベンゼン)見通しがたたねえから、
    悲壮(ヒ素)感ばかりで、思案(シアン)にくれますやね。
ご隠居 ・・・・・・。



 オソマツ様でした。

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by kogotokoubei | 2017-01-18 12:45 | 八五郎とご隠居 | Comments(4)

 前回の記事で、桂米朝が春団治に送った『親子茶屋』の台本が三代目の遺品から発見され、姫路にある兵庫県立歴史博物館の特別展「人間国宝・桂米朝とその時代」で一般公開されることを紹介した。

 その後、この催しの背景には、米朝のご子息との不思議な縁があることを知った。

 日刊スポーツの記事から引用する。
日刊スポーツの該当記事

 同展を開催する歴史博物館の担当学芸員は、米朝さんの三男で、米団治の実弟・中川渉さん(56)。兵庫県職員の渉さんは、一昨年3月19日、米朝さんの故郷である姫路市の同館への異動を伝えられ、その5分後に父の危篤を知らせる電話を受け、同日に米朝さんは亡くなった。

 「本当に偶然、たまたまでした。姫路か…昔、よく行ったな~なんて考えながら、周囲にいた同僚に転勤の話をしていたところに、危篤の電話でした。そこからこの2年、怒濤(どとう)のようでした」と話していた。

 亡くなった3月19日に内示、それも異動先が姫路・・・・・・。

 これは、やはり“縁”なのだろう。

 米朝は大連生まれだが、実家は姫路の九所御霊天神社の神職。祖父の死去により父親が実家を継ぐために、米朝五歳の時に一家で大陸から姫路に帰郷している。米朝自身も神職の資格を取得しており、実家の神社の禰宜を務めたこともあったという。
 旧制姫路中学(現在の姫路西高等学校)の卒業。

 その姫路に、結果として父親の命日に異動を伝えられた三男の渉さんとしては、この特別展の開催に向けた思いは相当深いものがあるだろう。

 兵庫県立歴史博物館のネット・ミュージアム「ひょうご歴史ステーション」の学芸員紹介ページに、渉さんのプロフィールが掲載されている。
「ひょうご歴史ステーション」の該当ページ
 先日の記事で動画も掲載したが、長男の米団治の横で、父親そっくりな方が、渉さん。

 考古学が専門で、埋蔵文化財の調査、つまり古代の遺跡の発掘調査にかかわってこられ、以前は県立考古博物館での学芸員として展示を担当されていたらしい。
 担当された展示会の名が数多く掲載されている。

 「埋蔵文化」か・・・・・・。

 まさに、この度の『親子茶屋』や『一文笛』の手書き原稿は、重要無形文化財保護者によって遺された埋蔵文化に違いなかろう。
 
 上方落語については、まだまだ“埋蔵”されたままの文化遺産があるように思う。

 ぜひ、発掘調査の熟練者である中川文芸員の手で、それらの文化遺産が今後も世に出ることを期待したい。


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by kogotokoubei | 2017-01-16 12:39 | 落語家 | Comments(0)
 米朝が三代目春団治に宛てた『親子茶屋』の自筆原稿が、三代目の遺品から見つかったとのこと。
 共同通信の配信が、各紙で取り上げられていた。
47NEWSの該当記事
米朝さんの落語自筆原稿発見
春団治さんにネタ伝える
2017/1/11 16:46

 人間国宝の落語家、故桂米朝さんが、「上方落語四天王」と並び称された故桂春団治さんにネタを伝えるために書き起こした古典落語「親子茶屋」の自筆原稿が見つかり、米朝事務所などが11日、報道陣に公開した。

 戦後、上方落語の復興に尽力した四天王の交流を物語る資料で、米朝さんの長男で弟子の桂米団治さん(58)は「4人はライバルで、仲も良かった。父も春団治師匠には一目置いていた」と話している。

 米朝さんが春団治さんに宛てた原稿用紙は計8枚。春団治さんの遺品から見つかった。
 動画も配信されていて、他に『一文笛』の原稿も見つかったらしい。


 『親子茶屋』の原稿に、「御身 御大切に」と書かれているのが、印象的だ。

 1月28日から兵庫県立歴史博物館で開催される特別展「人間国宝・桂米朝とその時代」で公開されるらしい。
兵庫県サイトの該当ページ
 

 この『親子茶屋』が米朝から三代目に伝わることになった背景には、ある逸話があった。

e0337777_16000002.png

小佐田定雄著『米朝らくごの舞台裏』(ちくま新書)

 小佐田定雄さんの『米朝らくごの舞台裏』は、全270頁のうちの250頁が「第一章 米朝精選40席」である。

 昭和41(1966)年から京都東山区の安井金毘羅宮の境内にある安井金毘羅会館で始まった「米朝落語研究会」の座談会や反省会の内容、毎日放送の「特選!!米朝落語全集」の「こぼれ話」で知り得た逸話、雑誌「落語」のインタービューの内容などを交え、米朝落語のネタ40席ごとに、得難い情報が提供されている。

 その「精選40席」を、並べてみる。
足上がり/愛宕山/池田の猪買い/一文笛/稲荷俥/馬の田楽/親子茶屋/怪談市川堤/景清/かわり目/胆つぶし/くしゃみ講釈/けんげしゃ茶屋/高津の富/小倉船/仔猫/こぶ弁慶/堺飛脚/算段の平兵衛/鹿政談/地獄八景亡者戯/しまつの極意/除夜の雪/疝気の虫/代書/たちぎれ線香/茶漬間男/つる/天狗さし/天狗裁き/動物園/ぬけ雀/猫の忠信/はてなの茶碗/百年目/坊主茶屋/本能寺/まめだ/らくだ/禍は下

 『親子茶屋』はしっかり入っている。
 
 さて、このネタを含めていくつかの噺が米朝から春団治に伝わったのだが、そのいきさつについて本書から引用する。

 春團治師が前名の福團治から春團治を襲名したのは1959年3月。まだ二十九歳であった。襲名直前のこと、いっしょに酒を飲む機会のあった米朝師は、酔った勢いもあって福團治時代の春團治師に、
「福さん。あんた、今のネタ数で春團治を継いでええと思うてんのか」と意見したのだそうだ。福團治は、その場は黙って聞いていた。その翌朝、米朝師が自宅で目を覚ますと枕元に誰かが座っているので、驚いて飛び起きると福團治師が座っていたそうだ。
「なんや。来てたんやったら、起こしてくれたらええのに」
「いや、寝てるのん起こしたら悪い思うてな」
「なんやねん?」
 ゆうべネタ数が少ないということを言われてむかついたけど、よう考えてみたら言うてもろうたとおりやと思う」
「わし、そんなこと言うたか?」
「おぼえてへんのか!今日来たというのは、ネタを付けてもらおと思うてお願いに来たんや」と一升瓶を差し出したのだそうである。
 その心意気に打たれた米朝師は、この『代書』と『親子茶屋』、『皿屋敷』、『しまつの極意』などを教えたという。この中で『代書』、『親子茶屋』、『皿屋敷』は春團治師の十八番として完成品となった。そして、春團治師が演じるようになると同時に、米朝師はこれらのネタをあまり高座にかけなくなった。『皿屋敷』と『親子茶屋』はたまに演じることもあったが、私が米朝師の『代書』に出会うには1973年10月13日に大阪の朝日生命ホールで開かれた独演会の高座まで待たなくてはいけなかった。

 昭和34(1959)年、米朝は三十代前半、春団治は三十路手前という若い時分の逸話である。

 『親子茶屋』は、後半の茶屋遊びの場面が楽しいのだが、演じ手には「狐釣り」などを含め、実に難しい内容。
 実際に茶屋で遊んだ経験などがないとなかなか味わいが出ない噺だと思う。
 以前、桂かい枝が横浜にぎわい座で演じた際に少し小言を書いたら、ご本人からコメントをいただき恐縮したものだ。

 米朝や春団治、文枝、松鶴の四天王は、そういった茶屋遊びの経験を噺に生かすことのできた最後の世代ではなかろうか。

 そして、遊びの附き合いのみならず、戦後の上方落語低迷期に一緒に切磋琢磨してきた仲間同士だからこそ、米朝も酒の勢いを借りて、思ったままのことを言ったのだろうし、その場ではムッとしたであろう春団治も、きっと父親から大きな名跡を継ぐにあたって米朝が指摘するようにネタ数が少なすぎることを感じていて、きっと眠られないまま、米朝の家に向かったのだろう。

 自筆原稿が見つかったことで、上方落語の歴史や、あらためて四天王のことなどが話題になることは大いに結構。

 そういえば、昨年11月に、毎日放送(MBS)の「茶屋町劇場」で、“芸術祭参加”と謳った「上方落語四天王 さえずり噺〜ああ、青春の上方落語〜」が放送された。

 録音したものを後から聴いたが、なかなか楽しい内容だった。
 台本は小佐田定雄さん。四天王の役は、それぞれの弟子筋の方が演じた。
 結構、よく似ている人もいたし、そうでもない人もいた^^

 残念ながら芸術祭受賞は逃したらしい。

 桂かい枝のブログに、収録時の写真などが紹介されている。
桂かい枝のブログの該当記事


 今や「天国寄席」は、大盛況だろう。

 東京の四天王も上方の四天王も、そして昭和の名人たちも楽屋に控えている。

 昨今、落語ブームと言われており、東西の噺家の人数は史上最多かと思う。
 しかし、その量は質を伴っているのだろうか・・・・・・。

 もし、先人たちが苦労して蓄えた財産を食いつぶすだけならば、空の上から、「なにしてんのう!」と小言を言われるかもしれない。

 最後は、つまらない地口でのサゲになってしまった^^



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by kogotokoubei | 2017-01-13 12:18 | 上方落語 | Comments(8)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛