噺の話

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今年のマイベスト十席


 27日の末広亭を締めとして、今年一年で寄席、落語会に行った回数は24回。
 月に二回平均というのは、想定通り。
 評論家でもない素人の落語愛好家としては、こんなものだろう。

 末広亭での昼夜居続けが三度あるので、昼と夜を分けて数えるなら、27回。

 聴いた高座の合計は156席。

 その中で、マイベスト十席の候補にしたものは次の通り。

平成28年 マイベスト十席候補

(1)柳家小満ん『城木屋』
(2)柳家小満ん『厩火事』
(3)柳家小満ん『御慶』
>柳家小満んの会 関内ホール(小ホール) 1月19日

(4)三笑亭茶楽『三方一両損』
>新宿末広亭 1月下席 夜の部 1月29日

(5)三遊亭兼好『置泥』
(6)桂かい枝『茶屋迎い』
>西のかい枝 東の兼好 横浜にぎわい座 2月8日

(7)笑福亭松枝『三十石 夢の通い路』
(8)柳家小満ん『盃の殿様』
>JAL名人会 内幸町ホール 2月23日

(9)柳家権太楼『代書屋』
(10)柳家権太楼『百年目』
>とみん特選小劇場 柳家権太楼独演会 紀伊国屋ホール 3月8日

(11)柳家小満ん『愛宕山』
>柳家小満んの会 関内ホール(小ホール) 3月22日

(12)柳家小満ん『小言幸兵衛』
>新宿末広亭 4月上席 昼の部 4月8日

(13)柳家小満ん『抜け雀』
>柳家小満んの会 関内ホール(小ホール) 5月19日

(14)桂南喬『短命』
>新宿末広亭 6月下席 夜の部 6月27日
*寄席の逸品賞候補

(15)柳家小満ん『千両みかん』
>柳家小満んの会 関内ホール(小ホール) 7月21日

(16)柳家喬太郎『路地裏の伝説』
>とみん特選寄席 紀伊国屋ホール 8月22日

(17)立川龍志『化け物つかい』
(18)入船亭扇遊『妾馬』
>似たりヨッタリ会(仮)の三人で前夜祭 国利演芸場 9月6日

(19)春風亭正朝『六尺棒』
>新宿末広亭 10月上席 昼の部 10月9日
*寄席の逸品賞候補

(20)橘家文蔵『文七元結』
>新宿末広亭 10月上席 夜の部 三代目橘家文蔵襲名披露興行 10月9日

(21)柳家小満ん『子別れー上・中・下ー』
>柳家小満んの会 関内ホール(小ホール) 11月27日

(22)柳家三三『嶋鵆沖白浪』 十一
(23)柳家三三『嶋鵆沖白浪』 十二
>月例三三独演 イイノホール 12月8日

(24)むかし家今松『ねずみ穴』
>新宿末広亭 12月下席 夜の部 12月27日


 関内ホールの独演会は皆勤だったこともあり、小満んが圧倒的に多い。
 お客さんの入りがもう少しだけ増えればとは思う会だが、今聴いていて、もっとも心が和む落語会だ。
 
 かと言って、自分の評価を甘くしたつもりはなく、それだけ良い高座に出会ったということ。

 一人一高座は自分に課したルールなので、九つから一つに絞ろう。
 
 悩みに悩んで、日曜のテニスを途中で抜け出して行っただけのことがあった、『子別れー上・中・下ー』とする。

 それぞれの場面で、熊さんが生き生きと描かれていたし、無理な演出はなくとも、最後は目頭が熱くなった。
 なかなか出合える高座ではない。

 他に複数候補としたのは、柳家権太楼の『代書屋』と『百年目』。
 同じ3月8日の「とみん特選小劇場」の二席。迷うところだが、長講『百年目』に絞る。

 また、先日の柳家三三『嶋鵆沖白浪』も十一話と十二話の二席ある。

 実に悩ましいが、『勝五郎の仇打ち』などの題にして『嶋鵆沖白浪ー外伝ー』として今後独立した一話となっても不思議のない十一話の方を選ぶ。
 

 時系列順で、さっそくマイベスト十席を発表。

◇平成28年 マイベスト十席

(1)三笑亭茶楽『三方一両損』
>新宿末広亭 1月下席 夜の部 1月29日
師匠八代目可楽譲りの、見事な啖呵に酔った!
2016年2月1日のブログ

(2)桂かい枝『茶屋迎い』
>西のかい枝 東の兼好 横浜にぎわい座 2月8日
都々逸に小唄、ハメモノに合わせて芸者小照を艶っぽく演じた好高座!
2016年2月9日のブログ

(3)笑福亭松枝『三十石 夢の通い路』
>JAL名人会 内幸町ホール 2月23日
初見の松枝、その文章のみならず、噺家としても実に結構!
2016年2月24日のブログ

(4)柳家権太楼『百年目』
>とみん特選小劇場 柳家権太楼独演会 紀伊国屋ホール 3月8日
還暦で初めて演じた大ネタが、十年目の古希に光り輝いた!
2016年3月9日のブログ

(5)柳家喬太郎『路地裏の伝説』
>とみん特選寄席 紀伊国屋ホール 8月22日
高い完成度を誇る新作の好高座と、“寄席”プロデューサー喬太郎に拍手!
2016年8月23日のブログ

(6)立川龍志『化け物つかい』
>似たりヨッタリ会(仮)の三人で前夜祭 国利演芸場 9月6日
正蔵の型で演じた実に結構な高座は、立川流実力者の面目躍如!

(7)入船亭扇遊『妾馬』
>似たりヨッタリ会(仮)の三人で前夜祭 国利演芸場 9月6日
流れるような語り口と心地よさは、他の追随を許さない!
2016年9月7日のブログ

(8)柳家小満ん『子別れー上・中・下ー』
>柳家小満んの会 関内ホール(小ホール) 11月27日
熊五郎の三態を演じ分け、最後は目頭を熱くさせた僥倖の通し口演!
2016年11月28日のブログ

(9)柳家三三『嶋鵆沖白浪』 十一(『勝五郎の仇討ち』仮称)
>月例三三独演 イイノホール 12月8日
強面の『子別れ』を含む劇的な高座は、大団円前の外伝候補の佳作!
2016年12月09日のブログ

(10)むかし家今松『ねずみ穴』
>新宿末広亭 12月下席 夜の部 12月27日
兄弟の愛憎劇を見事に描き出した、今松とネタへの印象を一変させる力演!
2016年12月28日のブログ



 なんとか、選ぶことができた。

 次は、「寄席の逸品賞」。これは迷うことはない。
◇上半期
桂南喬『短命』
>新宿末広亭 6月下席 夜の部 6月27日
このネタを演る若い噺家さんが見習うべき、まさに熟練の高座!
2016年6月28日のブログ

◇下半期
春風亭正朝『六尺棒』
>新宿末広亭 10月上席 昼の部 10月9日
いろいろあったが、そろそろ時効かーやはり、この人は上手い!
2016年10月10日のブログ

 次に、どうしても記憶にとどめておきたい高座がある。

 今年の落語初めだった、横浜にぎわい座での、あの人の高座だ。

◇特別賞
柳家喜多八『やかんなめ』
>睦会 横浜にぎわい座 1月14日
2016年1月15日のブログ

 ブログ記事を、再録したい。
柳家喜多八『やかんなめ』 (25分)
 久しぶりに聞く出囃子「梅の栄」とともに緞帳が上がり、高座に喜多八の姿。
 痩せた・・・・・・。
 まくらで、栄養失調で1月4日まで入院していた、と語る。入院前は40キロそこそこで、それより3キロ体重は戻ったと言っていたが、頬はこけている。髪も、以前は染めていたのかもしれないが、白っぽい。
 しかし、声は、いつもの喜多八なのだ。あるいは、かつて聴いた中でも、大きいくらい。
 以前演じたネタを調べていたら、「これ、やってなかったんだ」と選んだネタは、十八番の一つ。
 侍がお供の可内(べくない)に向かって何度か「笑うな!」と叫ぶ場面で、会場も大いに沸いた。
 本編にかかるマクラで「一病息災」の言葉があったが、それは自分自身に言い聞かせていたのかと思わないでもない。
 上方では『癪の合い薬(あいぐすり)』の題。
 高座は、何ら健康時とは変わらない、いや、それ以上かもしれない。
 しかし、まだ体重は戻っていないし、歩けない状態は、健康とは言えない。
 喜多八にとっての「合い薬」が見つかり、無事快癒することを祈るばかりだ。

 ここ数年、そのやつれ具合に驚愕し、不安を払拭する張りのある声に感心する、という経験をしてきた落語愛好家の方は、私がそうだったように、「蝋燭が消える前の・・・」という思いがよぎったのではなかろうか。

 そうは思っても口に出すのを憚った人が多いはずだ。
 口に出したことが現実になる、それを怖れたのは私だけではないだろう。

 しかし、残念ながら、喜多八の合い薬は、なかったようだ。

 失って、その存在の大きさを痛感した柳家喜多八という得難い噺家さんのご冥福を祈りたい。


 平成28年は、喜多八が旅立った年として忘れることはないだろう。

 でも、嘆いているばかりではいけないのだろう。

 きっと喜多八は、「もうあっしのことは忘れて、生きている噺家さん達を応援してあげてくださいな」と天国で呟いているような気がする。

 来年も、一期一会を楽しみたいものだ。


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by kogotokoubei | 2016-12-29 20:18 | 落語会 | Comments(10)
 昨年は野暮用続きで楽しむことができなかったが、むかし家今松主任の師走下席へ。
 なんとか時間のやりくりがついて、コンビニに寄ってから、開演の五時直前に入場できた。

 仲入り後で、客席は七分から八分の間位の入りだったろうか。

 開口一番の金原亭小駒が『からぬけ』のサゲ近くだった。

 好きな下手の桟敷は、最前列も空いていたので場所を確保。
 この日は、色物でいじられそうな出演者もいないようだったしね。

 久しぶりの古今亭志ん八から、感想などを備忘録代わりに記すことにする。

古今亭志ん八『ざるや』 (6分 *16:59~)
 ほぼ二年前、2014年11月の落語研究会以来。志ん五門下から今は志ん橋の元にいる人だが、すぐ近くで拝見すると、意外に渋い顔つきだったことが分かる。協会のプロフィールを確認すると四十路を越えていた。童顔のイメージがあるが、だんだん噺家らしくなってきたかな^^
 短いながら寄席らしい噺を器用に聴かせた。来秋、真打昇進。一層の飛躍を期待したい。
 
林家楽一 紙切り (9分)
 初、である。こんな人がいたのか、と思ったが、協会HPで確認すると2001年に正楽に入門しているが、協会には昨年入会とのこと。
 ご挨拶代わりの「横綱の土俵入り」の後は、最前列のお客さんが雑誌を渡してのリクエストで「チアリーダー」。なかなかの出来映え。次に、上手の桟敷最前列にいた母親と一緒に小学生らしく女の子からの「ピッチャー」のリクエスト。自分も野球(ソフトボール?)をしているらしい。三人目のお客さんの「水族館」までを無難にこなした。
 語りの面ではまだまだ慣れが必要だろうが、紙切りの技量自体は、悪くない。
 数少ない伝統芸の色物に、こういう若手が登場するのは、大歓迎である。

隅田川馬石『反対俥』 (13分)
 お目当ての一人。昨年4月に池袋でも聴いたネタ。
 マクラは、7月に初めて行った「シブラク」の扇辰との二人会でも聞いた浅草の人力車のことだったが、渋谷ではその後に『野ざらし』だった。
 池袋でもそうだったが、末広亭も桟敷の最前列となると、俥屋と客の息遣いまでよく分かる。噺家さんによっては袴でなければ裾が乱れるネタなのだが、激しく動きなからも、まったく着物に乱れがないことに、もっとも感心した^^
 雲助一門トリオの中で、寄席がもっとも似合う人だと思うし、今後も寄席の顔付けで名前を見るのが楽しみな人だ。

入船亭扇辰『一眼国』 (16分)
 デジャブ、という感じ。馬席との渋谷での二人会で聴いたネタ。
 とはいえ、あの時は、馬石の浅草の人力車のマクラをひきとって長いマクラがあったので、今回は本編のみ。
 扇辰の高座については、極端な表情の変化など、彼の特徴的な演出に対し賛否両論かと思うが、こういう噺には、この人のそういった個性が活きる。
 『団子坂奇談』などもニンな噺で、少し怪談めいたネタが合うのかもしれない。
 「巡錫」のみぎり、なんて言葉、もはや落語でしか出合えないのではなかろうか。

とんぼ・まさみ 漫才 (15分)
 やはり、私はこの人たちの漫才とは、相性が悪い。
 無駄な間も含め、聞いていて少し辛かった。
 昼から時間がとれれば、池袋の昼の部から新宿にはしごを目論んでもいたが、それは出来なかった。池袋、はん治の主任で、笑組も出演だったのだ・・・・・・。
 これも、縁だね。

橘家蔵之助『ぜんざい公社』 (15分)
 この人はそう多くは聴いていないが、このネタは二度目。
 あれ、ぜんざいの代金を支払う場面あったっけ?

桂才賀『カラオケ刑務所』 (15分)
 10月9日、橘家文蔵襲名披露興行の日の昼の部、主任の高座で聴いた爆笑ネタの新作。
 最後には踊りまで披露の、元気一杯の姿を見せてくれたなぁ。
2016年10月10日のブログ
 二年まえの新作台本コンテストの準優秀作品で、柳昇の『カラオケ病院』への“オマージュ”作品。
 サゲの後に「これで、現金20万円ですよ。来年6月まであります。ぜひご応募を!」と応募を勧めていたのは、応募作品が少ないのだろうか。書いてみようかな、と少し思っている^^

柳家紫文 三味線漫談 (13分)
 この人も、私には相性が悪い。長谷川平蔵ネタは、まだ古典化するような域には達していないのだが、いつもあればかり。知っていても笑えるような内容ではないで、聞いていて辛い。
 三味線の技量はあるのだから、もっと芸の幅を広げて欲しいと思うのだが・・・・・・。

金原亭馬生『辰巳の辻占』 (14分)
 師匠の十八番。しかし、この人の丁寧な語り口とは、今一つ合わないネタのように感じた。この男女、もっともっと因業に描くべきではなかろうか。
 このへんは、個性とネタの相性という面で、なかなか難しいところだ。

三遊亭歌之介『お父さんのハンディー』 (13分)
 仲入りは、この人。
 いつもほどは会場の爆笑度合いはなかったように思うが、それはネタのせいもあるか。ゴルフ知らないと笑えないからね。
 この人の『爆笑龍馬伝』などが、知っていても笑える、古典化する新作の名品、ということなのだ。

古今亭菊千代『権助魚』 (15分)
 仲入り後、いわゆる“クイツキ”でこの人とは意外。
 しかし、歌る多とともに東京落語界で女性初の真打になった実力は、伊達じゃない。
 権助も女房も、生き生きと演じ、会場を沸かせた。十分に役割を果たした高座。

ペペ桜井 ギター漫談 (17分)
 ギターの音にやや雑音が混じったが、元気でいていただければ、それだけで結構。

吉原朝馬『六尺棒』 (14分)
 このネタで、倅が人力車で家の近くまで来る場面は、初めて聴いたように思うが、道理だろう。
 どうしても、文蔵襲名披露興行の日の才賀が主任の昼の部、春風亭正朝の名高座と比べてしまう。噺本来の可笑しさで十分に楽しめるはずなのに、なぜ隣が錦織さんの家である必要があるのか、疑問。テニスをクスグリに使ってもいないし。
 自分なりに噺を変えること自体は悪いとは思わないが、それが裏目に出ている印象。

桂南喬『壺算』 (15分)
 寄席に欠かせない人。
 噺の基本をほとんど変えないのに、しっかりと笑いが起こる。
 女房を呼び捨てにして山葵卸しで顔を削られた、で爆笑。
 要するに、聴く側との共感性の問題なのだろう。
 瀬戸物屋の主の困惑が伝わり、可愛そうになってくる、そういう感情を共有できた好高座だ。

アサダ二世 奇術 (9分)
 勝丸の代演。
 最初のスカーフの芸で拍手が起こり、「そんなたいしたことないんです」で、会場から笑いを招く。
 ヒザの役割を短い時間で果たした。

むかし家今松『ねずみ穴』 (38分 *~21:10)
 生で聴くのは、2012年5月、博品館の喜多八以来だ。
2012年5月17日のブログ
 あの時は、絶品の『短命』の印象が強く、この噺はそれほど記憶に残っていないのだが、ご一緒した佐平次さんは、居残り会で褒めていらっしゃったはず。

 では、今松はどうだったのか。
 結論から書く。
 これまでの印象を払拭した、と言うと誤解を招くかもしれないが、実に見事な高座だった。
 淡々と語る独特の高座、という思いが強かったが、顔の表情の変化を含め、こんな劇的な今松の高座は初めて体験。
 もちろん、底に流れる主旋律とでも言うべきものは、今松ならではの重低音なのだが、場面場面での演出は、活き活きとしていた。
 また、こんなに顔の表情が豊かな人だったことを再認識させられた。
 たとえば、夢の中でのことだが、火事で焼け出された竹次郎が娘のお花を連れて無心のために兄を訪ねた場面。
 まず、お花を見た兄のこぼれるような笑顔に、この人が根っからの守銭奴ではない、ということが伝わる。だから、弟に三文しか渡さなかったのは、あれから十年後の酒盛りで兄が語った通り、あくまで弟のためを思ってのことなのだと得心。
 そして、その兄が夢の中では守銭奴そのもので、竹次郎が店を再開するための金は返ってくるアテがないのにで貸せないと言い、挙句の果てに竹次郎が兄に殴られた後、お花に向かって「よく見ておけ、お花。これが鬼の顔だ」という場面の竹次郎の表情を含む、静かな中での壮絶さも、見応えがあった。
 全体の情景描写も、過不足はない。
 三つの蔵に火が入って崩れ落ちる場面も、しっかり目に浮かんだ。

 この噺、以前はそれほど好きではなかった。
 同じ夢の噺にしても、『天狗裁き』や『夢の酒』のような落語的可笑しみはなく、後味が良いとも思わなかった。
 しかし、竹次郎が自前の店を持てと兄に渡された金の入った財布の中身を見る前、「これで江戸の酒でも」と呟く場面に、人間の本質的な弱さを覗き見、また、たった三文と知って落胆し、憤慨した後、思い直して「いや、地べたを掘っても三文出て来るわけはではねぇ」と一念発起する心情の変化には、十分に説得力があったし、竹次郎がんばれ、と思わせてくれた。
 また、今松の高座には、夢ではあっても、人が儲かっている時と奈落の底にある時とで、周囲がどう接するものか、いわば、人間の業を淡々とした中で表現していたようにも思う。
 桟敷最前列という場所の良さもあったのだろうが、表情、仕草、語り口の全体で、実に活き活きと兄と弟の愛憎劇を描き出した。
 元は上方ネタで、三代目円馬が東京に写し、六代目円生が継承したと言われる。
 文楽が十八番としなかったのは、その長さもあると思うが、好きな噺ではなかったのではなかろうか。
 それだけ、難しいし、夢の噺に共通する“損”なネタでもあるのだろう。筋書きを知っていれば、夢だった、ということの客の驚きはなくなるからね。

 田舎言葉の扱いも含め、噺家さんが、躊躇うネタの一つではなかろうか。

 そんな噺を好きにさせてくれそうな今松の高座、今年のマイベスト十席候補とするのを躊躇わない。

 仲入りで、同じ下手の桟敷で、顔見知りの今松ご贔屓の落語愛好家の方にお会いした。
 帰り際にお会いした時の立ち話で、あれほど今松師匠が表情豊かだったとは思わなかったと申し上げると、あの噺ではいつもとそう変わらないとのこと。
 とするならば、それは、結構凄いことだと思うなぁ。
 よくお聴きになる方は、きっと当たり前になっているのかもしれないが、初めて末広亭で聴いてからの私の印象は、大きく変わった。

 久しぶりの今松、なおかつ初のネタを楽しめたのは、僥倖だったことを再認識。

 さて、そろそろ、今年のマイベスト十席を選ぶ時期がきた。
 
 数年前からは行った落語会や寄席は少ないながらも、候補はそれなりにある。
 
 ある噺家さんは複数選んでいるし、選ぶのは簡単ではなさそうだ。。

 毎年暮れの、うれしい悩み、ではある。

 
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by kogotokoubei | 2016-12-28 12:53 | 落語会 | Comments(8)
 「真田丸」に関連して、優れた原作を元にしないドラマへの小言(?)を書いた。
 
 では、これまでの大河がどうだったかを知りたくなった。

 Wikipedia「NHK大河ドラマ」から引用。

 第一回「花の生涯」から再来年の第五十七回「西郷どん」までの、題名、放送年、原作、脚本、時代、の順。
Wikipedia「NHK大河ドラマ」
 
1 花の生涯 1963/4-12 舟橋聖一 北条誠 幕末
2 赤穂浪士 1964 大佛次郎 村上元三 江戸
3 太閤記 1965 吉川英治 茂木草介 戦国 - 安土桃山
4 源義経 1966 村上元三 村上元三 平安 - 源平内乱
5 三姉妹 1967 大佛次郎 鈴木尚之 幕末
6 竜馬がゆく 1968 司馬遼太郎 水木洋子 幕末
7 天と地と 1969 海音寺潮五郎 中井多喜夫・須藤出穂・杉山義法 戦国 - 安土桃山
8 樅ノ木は残った 1970 山本周五郎 茂木草介 江戸
9 春の坂道 1971 山岡荘八 杉山義法 安土桃山 - 江戸
10 新・平家物語 1972 吉川英治 平岩弓枝 平安 - 源平内乱
11 国盗り物語 1973 司馬遼太郎 大野靖子 戦国 - 安土桃山
12 勝海舟 1974 子母澤寛 倉本聡 中沢昭二 幕末
13 元禄太平記 1975 南條範夫 小野田勇・小幡欣治・土橋成男 江戸
14 風と雲と虹と 1976 海音寺潮五郎 福田善之 平安
15 花神 1977 司馬遼太郎 大野靖子 幕末
16 黄金の日日 1978 城山三郎 市川森一 長坂秀佳 戦国 - 安土桃山
17 草燃える 1979 永井路子 中島丈博 源平内乱 - 鎌倉
18 獅子の時代 1980 なし 山田太一 幕末 - 明治
19 おんな太閤記 1981 なし 橋田壽賀子 戦国 - 江戸
20 峠の群像 1982 堺屋太一 冨川元文 江戸
21 徳川家康 1983 山岡荘八 小山内美江子 戦国 - 江戸
22 山河燃ゆ 1984 山崎豊子 市川森一 昭和
23 春の波涛 1985 杉本苑子 中島丈博 明治 - 大正
24 いのち 1986 なし 橋田壽賀子 昭和
25 独眼竜政宗 1987 山岡荘八 ジェームス三木 安土桃山 - 江戸
26 武田信玄 1988 新田次郎 田向正健 戦国
27 春日局 1989 橋田壽賀子 橋田壽賀子 安土桃山 - 江戸
28 翔ぶが如く 1990 司馬遼太郎 小山内美江子 幕末 - 明治
29 太平記 1991 吉川英治 池端俊策・仲倉重郎 鎌倉 - 南北朝
30 信長 KING OF ZIPANGU 1992 田向正健 田向正健 戦国 - 安土桃山
31 琉球の風 DRAGON SPIRIT 1993/1-6 陳舜臣 山田信夫 安土桃山 - 江戸
32 炎立つ 1993/7-1994/3 高橋克彦 中島丈博 平安 - 源平内乱
33 花の乱 1994/4-12 なし 市川森一 室町 - 戦国
34 八代将軍吉宗 1995 なし ジェームス三木 江戸
35 秀吉 1996 堺屋太一 竹山洋 戦国 - 安土桃山
36 毛利元就 1997 永井路子 内館牧子 戦国
37 徳川慶喜 1998 司馬遼太郎 田向正健 幕末
38 元禄繚乱 1999 舟橋聖一 中島丈博 江戸
39 葵 徳川三代 2000 なし ジェームス三木 安土桃山 - 江戸
40 北条時宗 2001 高橋克彦 井上由美子 鎌倉
41 利家とまつ〜加賀百万石物語〜 2002 竹山洋 竹山洋 戦国 - 江戸
42 武蔵 MUSASHI 2003 吉川英治 鎌田敏夫 江戸
43 新選組! 2004 なし 三谷幸喜 幕末
44 義経 2005 宮尾登美子 金子成人 平安 - 源平内乱
45 功名が辻 2006 司馬遼太郎 大石静 戦国 - 江戸
46 風林火山 2007 井上靖 大森寿美男 戦国
47 篤姫 2008 宮尾登美子 田渕久美子 幕末
48 天地人 2009 火坂雅志 小松江里子 安土桃山 - 江戸
49 龍馬伝 2010 なし 福田靖 幕末
50 江 〜姫たちの戦国〜 2011 田渕久美子 田渕久美子 安土桃山 - 江戸
51 平清盛 2012 なし 藤本有紀 平安 - 源平内乱
52 八重の桜 2013 なし 山本むつみ・吉澤智子・三浦有為子 幕末 - 明治
53 軍師官兵衛 2014 なし 前川洋一 戦国 - 江戸
54 花燃ゆ 2015 なし 大島里美・宮村優子・金子ありさ・小松江里子 幕末 - 明治
55 真田丸 2016 なし 三谷幸喜 戦国 - 江戸
56 おんな城主 直虎 2017 なし 森下佳子 戦国
57 西郷どん 2018予定 林真理子 中園ミホ 幕末 - 明治


 複数の原作が採用されている作家と作品数は、次の通り。

 司馬遼太郎 6、吉川英治 3、山岡荘八 3、海音寺潮五郎 2、舟橋聖一 2、永井路子 2、宮尾登美子 2、高橋克彦 2

 以上、八名。


 そして、原作「なし」は、これまで通算で14作ある。

 なんと、「江」の翌年「平清盛」以降、来年の「おんな城主 直虎」まで、連続で六作続く。
 しかし、「江」の「原作者」は脚本家の田渕久美子。小説家の原作とは言い難いので、あの作品も原作「なし」と考えると、その前年の「龍馬伝」から数え八年続いて「原作なし」の大河と言えるかもしれない。

 再来年は、原作を元にした「西郷どん」だが、その原作者は海音寺潮五郎などではなく、林真理子。
 読んではいないが、読む気には、今のところなれない・・・・・・。

 今ではその指標としての価値に疑問がないでもないが、平均の視聴率をビデオリサーチのサイトから引用する。
「ビデオリサーチ」サイトの該当ページ

 を付けたのが、「原作なし」のドラマである。

NHK大河ドラマ(NHK総合 日曜20:00~) 【関東地区】

期間平均(%) (初回~最終回)

2016年度 真田丸 16.6
2015年度 花燃ゆ 12.0
2014年度 軍師官兵衛 15.8
2013年度 八重の桜 14.6
2012年度 平清盛 12.0

2011年度 江・姫たちの戦国 17.7
2010年度 龍馬伝 18.7
2009年度 天地人 21.2
2008年度 篤姫 24.5
2007年度 風林火山 18.7
2006年度 功名が辻 20.9
2005年度 義経 19.5
2004年度 新選組! 17.4
2003年度 武蔵 MUSASHI 16.7
2002年度 利家とまつ・加賀百万石物語 22.1
2001年度 北条時宗 18.5
2000年度 葵徳川三代 18.5
1999年度 元禄繚乱 20.2
1998年度 徳川慶喜 21.1
1997年度 毛利元就 23.4
1996年度 秀吉 30.5
1995年度 八代将軍吉宗 26.4
1994年度 花の乱(94年4~12月) 14.1

1993年度 琉球の風(93年1~6月) 17.3
1993年度 炎立つ(93年7月~94年3月) 17.7
1992年度 信長 24.6
1991年度 太平記 26.0
1990年度 翔ぶが如く 23.2
1989年度 春日局 32.4
1988年度 武田信玄 39.2
1987年度 独眼竜政宗 39.7
1986年度 いのち 29.3
1985年度 春の波涛 18.2
1984年度 山河燃ゆ 21.1
1983年度 徳川家康 31.2
1982年度 峠の群像 23.7
1981年度 おんな太閤記 31.8
1980年度 獅子の時代 21.0
1979年度 草燃える 26.3
1978年度 黄金の日日 25.9
1977年度 花神 19.0
1976年度 風と雲と虹と 24.0
1975年度 元禄太平記 24.7
1974年度 勝 海舟 24.2
1973年度 国盗り物語 22.4
1972年度 新・平家物語 21.4
1971年度 春の坂道 21.7
1970年度 樅の木は残った 21.0
1969年度 天と地と 25.0
1968年度 竜馬がゆく 14.5
1967年度 三姉妹 19.1
1966年度 源 義経 23.5
1965年度 太閤記 31.2
1964年度 赤穂浪士 31.9
1963年度 花の生涯 20.2


 これらをながめて思うことは、大きく二つ。

(1)歴史好き視聴者の離反原因は「原作」不在にもある
  地上波の視聴率をどうこう言って騒ぐのは、BSもあるし録画して観る私のような視聴者もいるので無意味になってきたと思う。
  しかし、大河の総合テレビでの視聴率の推移は、なかでも昨今の低迷が、歴史好き、時代小説好き、歴史ドラマ好きの、これまでの大河の中核となっていた視聴者が離れていったことを示す指標かもしれない、と思う。
  その原因の一つは、優れた原作を元にした作品が、昨今製作されていない、ということもあるのではなかろうか。

(2)現役作家の歴史小説を取り上げるべきではないか
  司馬遼太郎など、過去の歴史小説家の作品以外にも、現役の作家の作品で、十分に大河の素材になるものはあるはず。何度か名前を挙げている葉室麟しかり。
  数ある現役の小説家の誰かの作品を選ぶことに、何かとためらう気持も分からないではないが、優れた原作があり、そのドラマがどう描かれるかを楽しみにしているコアなファンの存在を忘れてはならないと思う。


 原作のない大河がこうまで続いてきたことを、あらためて認識した。

 その理由はいろいろあるのだろう。
 経済的な面もあるかもしれないし、脚本家を含む制作陣が原作者やその関係者との面倒な折衝などを避け自由に制作したい、ということも背景にあるのではなかろうか。

 しかし、歴史を語るには、その道に通じた“語り部”の力を借りるべきではなかろうか。

 もちろん、その小説をどう映像化するかは、脚本家や制作スタッフの腕の見せどころだ。

 ぜひ、今日の歴史小説ファンが期待する原作を取り上げ、映像として新たな生命を吹き込んで欲しいものだ。

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by kogotokoubei | 2016-12-25 21:18 | 歴史ドラマや時代劇 | Comments(2)

八五郎 いますか?
ご隠居 おや、八っつぁんじゃないか、お上がりよ。
八五郎 言われなくても、上がらせていただきやす、よっと。
ご隠居 どうした、今日は元気がないようだね。風邪でもひいたかい。
八五郎 いや、馬鹿は風邪ひかねぇなんて言いますからね、今日は荷物積んで
    車引きましたがね。
ご隠居 なんだい、そりゃ。
八五郎 売れねぇ女郎はお茶をひきます。
ご隠居 分かった分かった。
    それにしても浮かない顔してるが、何かあったのかい。
八五郎 それなんですがねぇ、どうもよく分からねェ話がありましてね。
    あの西宮の市長さんのことなんですよ。
ご隠居 あぁ、中学生や高校生の前で自分が学生時代に煙草を吸っていた
    と言ったってやつかい。
    議員さん達が言ったことを撤回させると決めたらしいが、市長は
    撤回しないと言っているようだね。
八五郎 そりゃ、そうでしょう、一度口から出ていったもんを、どうやって
    戻すんですか。それに、何も悪いことを言ったわけじゃねぇでしょう。
    若ぇ連中と、腹を割って話そうとしただけじゃねぇんですか。
    なんでも相手は二十人足らずの中高生の前で、自分の昔の、ちょっとした
    悪戯を話しただけじゃねぇですか。
    そういう、秘密をバラすってのを、流行の言葉でなんとか言ってましたね、
    そうそう、カミサンがアウトだとかって。
ご隠居 惜しい! それを言うなら、カミングアウト。
    でも、良く知ってるね、そんな言葉を。
八五郎 やたらと目にしますからねぇ、そういうカタカナの言葉。
    後は、あれですよ、パラパラとかセクパラ
ご隠居 もしかして、パワハラにセクハラかい
八五郎 それそれ。ハラハラしちまった。
ご隠居 まぜっかえすんじゃないよ。
八五郎 それにしても、なんで議員さん達は怒ってるんですかね。
ご隠居 まぁ、議員さん達は、喫煙や不良を擁護しているように思ったん
    だろうねぇ。
八五郎 そんなこたぁねえでしょう。
    だいたい、その会に交じってたっていう議員が、ことを大きくしただけ
    じゃねぇんですか。
ご隠居 批判した女性の議員さんのことを、ブログで悪口書いたらしいねぇ。
八五郎 そっちは、つい筆が滑ったんでしょうから、謝ったほうがいいやね。
    そういや、あの市長さんのブログ見たら修正して、謝っていましたよ。
    実は、あっしはこの中の「後日談」ってぇのが、なかなか気に入りました。
今村西宮市長のブログの12月19日の記事

ご隠居 おや、なんと会話の途中でブログへのリンクまでさせたのかい。

    (リンク先を読む、ご隠居)

    ほうほう、会での話のことなどもずいぶん詳しく書いているし、
    なるほど、結構、真っ当なことを言っているようにも思えるね。
八五郎 そうでしょ。だいたい、実際にその場で聞いていた生徒たちがどう
    思っているかは新聞とかネットに出てこねぇで、反論する議員やら、
    上っつらだけ知ったタレントたちが文句言ってるだけじゃねぇんですか。
    ま、この方、議員時代や市長になってからも、いろいろぶっ飛んだ
    ことを言ったりやったりする人らしいですが、それ位の元気な市長さんが
    一人や二人いてもいいんじゃねぇんですか。
ご隠居 たしかに、個性的では、あるね、この人。
八五郎 議員になった初っ端に髪の色染めて会議に出たそうですね。
    目だってたんでしょうね、この人。市長にもなって、若い者にも人気が
    あるようですから、やっかむ奴もいたんでしょう。
    そのうちやっつけてやろう、なんて思っていた連中が、寄ってたかって
    ここぞとばかり騒いでいる、そんな気がしますがね。
    あっしが心配なのはですね、こんな騒ぎになると、議員さんや市長さんは、
    思ったことを何も言えなくなるんじゃねぇかってことですよ。
    何を突っ込まれるか分からねェから、いつも綺麗ごと、作りごとで、
    誰でも同じようなつまらねぇことしかしゃべれねぇようになるんじゃ
    ねぇですか。
ご隠居 たしかに、そういう心配はあるだろうね。極端な言い方をすると、
    言葉狩りになるかもしれないね。
八五郎 そうそう、それですよ。何かそういう言葉を言っちまうと、差別している
    とか言われるでしょ。
    自分が若ぇ時に煙草吸ってた、って言うのと、煙草を薦めているてぇのは
    別だてんですよ。
ご隠居 でも、注意は必要だね。いわゆる差別用語と思われる言葉を使うだけで、
    差別していると誤解される危険性はある。言葉もそうだが、ブログなんかも
    気を付けないといけないね。
八五郎 そうか、こんなブログでも、誰かが読んで粗探しして、刺されるかもしれ
    ねぇな。落語やら江戸やら、とにかく古いこと書いてますからねぇ。
    テレビじゃ、商売人のことも、できるだけ後ろに「屋」ってぇのを付けねぇ
    ようにしてるらしいじゃねぇですか。
    八百屋は青果店、魚屋や鮮魚店、床屋は理髪店なんてね。
    名古屋は、どう言やいいんですか
ご隠居 名古屋は地名だから、いいんだよ、そのままで。
    八百屋や魚屋、床屋なんかは、後ろに「さん」をつければいいらしいね。
八五郎 なんか、美空ひばりの歌みてぇですね。
ご隠居 古いねぇ。
八五郎 「ちょいとお待ちよ、魚屋さん」なら、いいんですね。
    仕事の名前だって、お手伝いさんはダメで家政婦、看護婦はダメで男でも
    女でも看護師ってんでしょう。
    なにより病気の名前はあぶねぇ。つんぼ、びっこはもちろんダメで、
    耳の不自由な人、足の不自由な人ってんでしょ。
    マクラで「馬鹿で与太郎」なんて言っちゃいけねぇんですかね。そうなると
    「頭の不自由な人で与太郎」か。
    落語のネタにも、あぶねぇのがあるなぁ。
    三人旅の『びっこ馬』とか、『唖の釣り』だとか。
    『足の不自由な馬』だとか『会話が不自由な人の釣り』なんてふうに
    言い換えるんでしょうかね。
ご隠居 それじゃ、噺のイメージが浮かばないね。
八五郎 話は西宮のことに戻りやすが、市長さんも、たしかに大人気ないところも
    ありましたね。
    もう一回り、いや、市の長になるには、あと二回りばかりは人間的に成長
    してもらいてぇもんです。
ご隠居 なんだい、あと二回りって数に、何か理由でもあるのかい。
八五郎 そりゃぁ、そうです、名前が、今、「村」だってんですから。

    ・
    ・
    ・
   オソマツ

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by kogotokoubei | 2016-12-21 22:47 | 八五郎とご隠居 | Comments(2)
 「真田丸」が終わるにあたって、史実と小説やドラマのことについて記事を書いたが、その「真田丸」の脚本家三谷幸喜が、俳優近藤正臣、そして彼が演じた本多正信に関して、興味深いことを語っていた。
 スポニチの記事から引用する。
スポニチアネックスの該当記事

三谷幸喜氏「真田丸」秘話明かす 近藤正臣だから生まれたラスト

 戦国時代最後の名将・真田幸村の生涯を描き、ブームとなったNHK大河ドラマ「真田丸」(日曜後8・00)が18日、最終回(第50話)を迎え、完結した。脚本を担当した三谷幸喜氏(55)は全50回にわたる放送を振り返り、本多正信役の近藤正臣(74)のセリフを書くことが「楽しくて仕方がなかった」と告白。筆を進める中で「『真田丸』は本多正信で終わるのかもしれない」と感じたことが、真田信之(大泉洋)とのラストシーンにつながったことを明かした。

 劇中、最も成長した登場人物の1人として、徳川家康(内野聖陽)の側近として知略を発揮し続けた本多正信の名を挙げた三谷氏。「僕はいろいろな軍師の中でも本多正信が一番好きなのですが、近藤さんが演じられることで、すごく人間味に深みが出てきました。セリフを書くのが楽しくて仕方なかったです」と語る。

 最終回のラストシーン。信之を大坂から自らの領地・玉縄(相模国)へ連れてきた正信は「戦と同じ。人の心を読むのが肝要で。領民には無理をさせず、というて、楽もさせず、年貢だけはきっちりと取る。その上で、領主たるものは決して贅沢をしてはならん。これでござりまするよ」と“統治論”を説く。領民たちが正信を慕う様子を見た信之は「国づくりの根本を教わりました」と感服。そこへ大坂城落城の知らせが届く。

 なぜ、このシーンで物語を締めくくったのか。三谷氏はその理由を次のように明かす。
「(近藤扮する正信の)イメージがどんどん膨らんで『もしかしたら“真田丸”は本多正信で終わるんじゃないか』と、ふと思ったんです。正信は何となく悪い人のイメージがありますが、地元では逆のイメージを持たれていることもあると思い、調べてみると『百姓は生かさず殺さず』という有名な言葉に行き着きました。その言葉も悪いイメージで捉えることもできますが、逆の意味で考えると、すごく領民のことを考えていて、領主としての見本のような人だったのではないかなと感じたんです。それが信之に影響を与え、その後の(真田家の)礎を築いていくということにつながるのではないかと思い、そのあたりから、だんだん最終回のラストシーンが見えてきましたね。正信が信之と一緒に大坂から帰ってくるという設定にうまく結びつけることができました」

「それもこれも全部、近藤さんが正信を演じられたからこそです」と断言。「そうじゃなかったら、僕はこの結末にしなかったと思います。ラストも、近藤さんがすごくいい表情をされたんです。大坂城が落城したという知らせを聞いて、何も言わずに大泉さんと目線で何かを交わす、というすごくいいお芝居でした。もともと近藤さんが大好きで『国盗り物語』(同局大河ドラマ、1973年)の明智光秀と『黄金の日日』(同、78年)の石田三成は僕の中の“ベスト”。近藤さんに最終的な形を締めてもらえて本当にうれしかったです」と稀代の名優に感謝した。[ 2016年12月19日 16:00 ]

 この内容を読んでまず思うことは、なんとドラマにおける俳優の存在は大きいものであるなぁ、ということ。

 これまでも、出番は少ないにしても、このドラマにおいて近藤正臣演じる正信の存在感は大きかった。

 あえて言うなら、本来はもっと存在感があって然るべき加藤清正や福島正則が目立たなかったのは、残念ながら扮する俳優にも依存した。
 もちろん脚本家や演出家が、彼等をどう描こうとしたか、という意図に影響されただろうが、その意図はキャスティング段階から反映されているのではなかろうか。

 関ケ原の合戦がすぐに終わったように、このドラマの主題は真田であり、なかでも大坂の陣における大坂城と徳川方の人物に焦点が当たっていたのだ。

 今回出演した数多くの俳優さんの中で、近藤正臣が際立っていたことは認めるし、その演技も高く評価できるだろう。役者として、個人的に嫌いではない。

 しかし、役者の評価と、演じた歴史上の人物の評価は、別である。

 彼が演じた本多正信という人物は、果たしてどんな人だったのか。

 私は三谷のように、軍師として本多正信を評価しない。
 というか、彼を“軍師”とは思えない。せいぜい、“策士”であろう。

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古川薫著『影武者』(光文社文庫)

 1996年に単行本が『奇謀の島』として新人物往来社から刊行され、2002年に光文社から『影武者』と改題されて文庫化された古川薫の短編集に、『謀臣亡ぶ』という作品が収められている。

 『謀臣亡ぶ』は、後に大久保彦左衛門として名高い大久保忠教(ただのり)が、過去を回顧するという形式の作品で、その中で彦左の槍玉に上がっているのが、本多正信と正純の親子である。
 だから、「謀臣」とは、本多親子を指している。
 
 故郷の長州関係の小説が多い古川薫の作品としては、対象も形式も異例な本と言えるだろう。
 ボヤキを含め、彦左翁の述懐が実に楽しいのである。

 冒頭から、まず引用。
 嘆かわしい世の中になったものだ。
 関ケ原役後のしばらくは、大御所家康公に、わしからいろいろと直言することも多かった。それを小うるさく思われはじめたのか、このごろでは目通りを願い出てもなかなか会っていただけなくなった。本多正信めの妨害もあるのだが、大御所も家臣の意見に耳をかたむける謙虚なお心を失われたようだ。落胆この上もない。
 徳川もむかしの徳川家ではない。幕府などという大きな官僚の仕組みが出来上がってしまうと、高々二千石の旗本などは小者にすぎぬ。捨て扶持をもらって、おとなしくしておれというのだろう。かつては戦場で大暴れした旗本共も、いまでは借りてきた猫のようになり、洒落た着物など身にまとい、泰平の世を楽しんでいる。だから本多正信・正純ばらがのさばるのだ。

 彦左の落胆の大きさが偲ばれる。
 なぜ、彦左は、本多親子を毛嫌いするのか。

 もう少し、彦左の嘆き節にお付き合いいただく。
 そもそもこんにちの徳川家があるのは、だれのおかげだと思っておるのだ。われわれ譜代の二心抱かぬ忠誠と勇猛なはたらきがあったればこそではないか。
 かく言う大久保忠教は天正三年(1575)、十六歳にして浜松在城時代の家康公に出仕、兄忠世に従って、高天神城の攻撃など数々の武功を立てた。合戦後の戦士の軍功の優劣を決めるにも、大御所様はわしの証言を重んじられたものだ。
 大坂の陣では御槍奉行から御旗奉行となる。戦いがおさまってからは、甥大久保忠隣(ただちか)の所領のうち武蔵国埼玉郡で二千石を知行した。わしとしては、それで満足した。気取って申せば、誇り高く生きるのが旗本の心意気である。だから言いたいことも言えたのだよ。
 それを武功を鼻にかけた独りよがりの振る舞いだと白い目で見るやつが、たとえば本多佐渡守正信・上野介正純親子のごとき、戦場でのさしたる手柄もなく口先だけで立ち回ってきた連中だから余計に腹が立つ。家康公にしても、三河いらいの武功集団とでも申そうか、この大久保一族が、目障りで仕方なくなったのであろう。大久保石見守長安の事件を奇貨として、われら一族を一掃してしまわれたのである。


 この大久保石見守長安の事件(岡本大八事件、と言ったほうがよいか)は、結構複雑なのだが、順を追って説明しよう。

・岡本大八という男(詐欺師?)が本多正純の配下にいた
・家康からチャンバー(かつて今のベトナムにあった王国)で
 伽羅香木を手に入れるよう命じられた長崎奉行長谷川藤広が、
 肥前日野江の城主の有馬晴信と相談して船を仕立て、帰化人
 久兵衛を航海長としてチャンバーに向かわせた
・マカオで順風を待っていた船の乗組員が、ポルトガル商館の
 使用人といさかいを起こし、その数名を殺害してしまった
・ポルトガル船の乗組員七、八十人が久兵衛らの旅館に押し寄せ、
 従者をことごとく殺し、銀子など一切のものを略奪した
・久兵衛は命からがら長崎に帰り、顛末を報告した
・有馬晴信は久兵衛を伴って、駿府におもむき本多正純に顛末を
 説明し正純を通じて家康に上申したところ、家康大いに怒り、
 ポルトガル船の長崎来港を待ち、報復せよと命じた
・ポルトガル船が長崎にやってきたが、晴信は長谷川に自分だけ
 で報復をさせて欲しいといって助けを断り、手の者三十人ほどを
 ひきいて長崎に向かった
・しかし、晴信の謀略をキリシタンを通じて知ったポルトガル船の
 船長は船から鉄砲を撃ち放って晴信たちを近づけず、出港して
 しまった
・それでも晴信配下の者たちが船を襲い、異人の多くを斬り殺し、
 船に火をかけた
・火は火薬庫に移り、大爆発を起こして沈没した

 結果として有馬晴信の手柄とも言えるが、元は彼の不手際から生じたことだ。

 ここで、岡本大八が登場。

・岡本大八が、有馬晴信を訪ね、ポルトガル船に報復したことで、
 大御所から恩賞が出るようにするからと言い、斡旋のために必要 
 として、六千両を晴信から出させた
・一向に恩賞が出ないことに業を煮やした晴信が、本多正純を問い
 質したが、「まったく心得ぬことだ」と、正純は大八に尋ねた。
 大八も「私も存じつかまついませぬ」と答えた
・ようやく騙されたことに気づいた晴信だった
・正純は、いずれ家康の耳に入ると思い、自ら家康に部下の不始末
 として報告
・家康は、「晴信と大八を対決させよ」と命じた

 ここから再び本書から引用する。
 晴信・大八対決の経緯のみならず、大久保彦左衛門が、本多親子についてどう語っているか、ご確認のほどを。
 その対決の場所というのが、ほかでもない老中大久保長安の屋敷であった。この男大久保姓を名乗っておるが、われら一族と血のつながりはない。もともとは甲斐武田氏に猿楽師大蔵太夫の次男に生まれ、のち蔵前衆に取り立てられたが、武田氏滅亡後は家康公の家臣となり、わしの甥である忠隣から大久保姓を授けられただけの話だ。大久保一族に災厄をもたらしたといえば、この男もそうだな。そのことは後で語ることになるので、今はまず晴信と大八の対決に話をもどす。
 このとき大御所は姿を見せられなかったが、本多正信・正純親子、大久保忠隣、長安ら老中立ち合いのもとに、晴信と大八は向き合った。
 晴信は怒りを満面にあらわして、銀六千貫を渡すまでの経緯をまくしたて、
「大八、いかに」
 と、詰め寄る。ここの至って、大八は抗弁もできずに、黙っているだけだ。黒白はたちまちはっきりした。ただちに大八を禁獄して沙汰を待てということになった。
「いやはや驚き入った醜態であるな。彼の所業に気づかなかったと上野介殿は申されるが、知らぬだけで事は済むまい」
 と、正純に非難の矢を放ったのは、大久保相模守忠隣だ。正純にも言葉がない。父親の正信も苦虫を噛みつぶしたような顔で黙り込んでしまうというものだ。
「いずれ大御所のご裁決がでるまで、上野介殿も慎んでおられるがよかろう」
 一本取ってやったと、忠隣は意気揚々と引き揚げたが、相手は名にしおう策士だ。後で足をすくわれようとは夢にも思わなかったのが忠隣の油断であり、迂闊であったな。
 この忠隣と正信・正純父子は知る人も知る犬猿の仲だ。いうなれば武断派と文臣の対立だ。こういうことは石田三成と秀吉時代に武功を立てた諸将の間にあり、黒田長政をはじめ秀吉恩顧の武将たちが一斉に徳川の陣営に走った。関ケ原合戦の大勝は豊臣方の不和もあずかって力があったことを家康公も承知しておられる。忠隣と正信・正純父子の対立を、ひそかに気に病んでおられたのだよ。
 何しろ大久保といえば、徳川氏創業いらいの譜代家臣だ。わしの兄忠世は五カ国時代、旗本の武将として活躍し遠江二俣城主だった。その子忠隣は十一歳のとき家康公の近習となってより、三方ヶ原の戦いをはじめとして諸戦に軍功をあらわしただけでなく、奉行職をつとめて徳川氏分国の政務にも功績を立てた。父の遺領を継いで六万五千石、小田原城主となって関東入国後は幕閣に列し、二代将軍秀忠付きの重臣となった。
 これにくらべれば、本多正信などは、三河いらいの譜代の名門本多とは縁もゆかりもない鷹匠あがりの身分いやしき男だ。
 才覚を認められて家康公につかえたが、永禄六年(1563)に起こった三河の一向一揆のときは、徳川家を裏切り、一揆に加わっておる。諸国を流浪したのち、堺で家康公と再会し、うまく取り入って許された帰り新参である。節操のない男よ。家康公としては、彼の行政手腕というよりも謀略の才覚を珍重なされたのだな。実に腹黒く小才のきく男だ。

 武断派と文臣派との対立は、豊臣家のみならず、徳川家にもあったということだ。

 彦左の甥である兄忠世の子忠隣と本多正信との対立には、真田家も関係している。
 忠隣と正信の不和は、慶長五年、関ケ原の直前、信州路における戦いからである。八月五日、中納言様(秀忠)は宇都宮を発って攻めのぼられた。このとき従う者、大久保忠隣・本多正信・榊原康政の軍勢だった。上田城に真田勢がたてこもっておるが、打って出ることはあるまいから、無視して通り過ぎようと正信は言った。忠隣らも賛成したのだが、食糧調達に出かけた忠隣の家来たちが、伊勢崎の要害を守っていた真田兵とはしなくも小競り合いとなり、ついに城を攻め落してしまった。
「下知なくして戦さするとは何事、城を攻めたる者、軍法によって誅戮すべし」
 と、中納言様に強く進言したのは正信である。多くの者が自決、処刑された。武将の器でもない正信が、軍法を楯に忠隣の兵を誅罰せよとは、大久保勢の手柄を帳消しにしようとたくれんでのことであろう。忠隣の御家人たちはひとしく正信を怨んだが、忠隣にしても心穏やかではなかった。これが事のはじまりである。

 大久保忠隣とその部下たちの正信への憎悪は、深かっただろうねぇ。
 秀忠軍が関ケ原に遅参したのは、上田城の真田軍という敵が強かったことのみならず、自らの軍に統率が取れていなかったことも窺える。

 さて、晴信と大八の件、いったいその後どうなったのか。

 獄中の岡本大八が妙なことを言いはじめた。
「有馬晴信は、長崎奉行長谷川藤広を闇討ちにしようと計画したことがある。その逐一を存じておる」というのである。
 得たりかしこしと、正純はそのことを家康公に告げる。外様大名の分際で幕府より派遣の奉行を殺害せんとしたる行為は、幕府の権威を冒すものだと、大御所は烈火のごとくお怒りになった。
 大八の言うことは根も葉もないつくりごとだと晴信が否定するので、ふたたび晴信と大八の対決となる。このときも大久保長安の屋敷が使われた。
 前と違って、こんどは大八が晴信の罪状を事濃(こま)やかに申し立てると、晴信は返す言葉もない。これによって晴信は、身柄を長安に預けられ、所領を没収、甲斐に移された。
 ポルトガル船焼き討ちに至るまでの晴信のへたな動きを、長谷川が江戸表に洗いざらい報告したことへの恨みかららしいが、外様大名に対する長谷川の尊大な態度も許せなかったのであろう。晴信はみずから墓穴を掘ったことになる。
 慶長十七年三月二十一日、岡本大八は安倍川のほとりで磔となり、甲斐に送られた晴信は五月六日、斬首の刑に処せられた。
 (中 略)
 だが、どうも腑に落ちぬところもある。大八が晴信からせしめた六千両という大金の行方も有耶無耶になっておる。それに大八ごときが、晴信の長谷川暗殺計画をいかにして嗅ぎつけたかだ。
 これはそうやら正信・正純親子が家康公の意をふくんで、有馬をつぶすために仕組んだ猿芝居のように思えぬこともない。大八というやつ、悪者として磔になったが、一人罪を背負わされたのではあるまいか。ひょっとしたら本多家の忠臣かもしれんな。
 だいたいこのくらいのことは正信・正純ならやりかねんのだよ。福島正則が城の無断修復をとがめられて改易同様の処分を受けたのは、これから六年後の元和四年のことであった。父親に劣らぬ謀略の才にたけた正純が、正則を罠にはめたのである。
 広島城の修復については、事前に何度も正則から正純にところに申し出ておる。
「そのうち将軍の許しが出るように取り計らいましょう」
 正純はそう言いながら、知らぬ顔をして、再度正則からうながされると、「そのことは自分にまかせておけ」と曖昧に答えた。正則も迂闊なことよ。許されたようなものだと思い込み、水害で傷んだ石垣を修復してしまった。それを待っていたかのように罰せられたのだ。

 つい、有馬晴信と岡本大八の事件を長々記すことになったが、中途半端では分からない入り組んだいきさつがあったので、お許しのほどを。

 あの一件は、船の名をとって「ノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号事件」とも言われるし、その後日談を含め「岡本大八事件」とも言われる。

 さて、大久保彦左衛門が推理するように、あの事件が家康の意図に従った本多父子の策略だったのかどうか・・・史実がどうだったのかは、私も分からない。

 しかし、どうも、彦左の(作者の?)読みは当たっていそうな気がする。
 家康にとっては、老い先短いこともあり、できるだけ徳川体制を盤石な状態にしておきたいという思いは強かったろうし、本多親子は、そういう家康の意図を汲んで手足になるにはうってつけだっただろう。

 また、正信による上田城攻めの際の大久保忠隣軍への処罰は、西軍との天下分け目の決戦を前にしていながら、あくまで内輪で自分の保身を優先するような行動としか見えない。
 人は、外の敵より、内の敵の方が目障りであるものだ。

 権謀術数にかけては、たしかに正信は優秀な男だったのだろう。

 大坂の陣においても、戦いの本流に関わったというより、謀略としか言えない側面において存在感があったのではないだろうか。


 あらためで、三谷幸喜の評価について。
 近藤正臣ではなく、本多正信は、三谷幸喜が言うような優れた“軍師”と言えるのだろうか・・・・・・。

 徳川譜代の家臣がいる中で生き延びた才覚は高いのだろうが、それは彼自身の処世術が長けていたということで、戦の戦略や戦術の才能を裏付けるものではない。

 
 特定の俳優を贔屓にするのは、好みの問題でもあり人それぞれで結構だろう。

 しかし、その俳優による、いわば“ハロー効果”によって、歴史上の人物を見る目が曇ってはいけないと思う。

 たとえば、真田昌幸は、草刈正雄が演じようと丹波哲郎だろうと、偉大な武将だったと思う。
 それは、多くの史料や同世代の人たちの残された発言などで裏付けされている。
 
 しかし、本多正信については、同じ徳川家の武将でも肯定的な発言を残している人は、ほんの一握り。ほとんどは、批判的な内容である。

 三谷幸喜が、何を元に評価しているかは知らない。
 
 私には、本多正信は、せいぜい“策士”であって、決して優れた“軍師”とは思えない。

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by kogotokoubei | 2016-12-20 23:27 | 歴史ドラマや時代劇 | Comments(2)

 「真田丸」が、お開きとなった。

 なんとか最後まで見続けてきたが、途中でずいぶん挫けそうになったなぁ。

 午後6時からのBSの放送は我が家のお犬様の散歩タイムとなり、総合8時からはサッカー放送を観たので、サッカーの後に録画を観た次第。

 鹿島アントラーズの素晴らしい戦いに熱くなった後で、しっかり、冷めさせてくれたなぁ・・・・・・。

 茶々と信繁が、ああいう状況になるとは、私には思えない。
 これは、前提の違いが発端でもある。
 秀頼が大野治長と茶々の子であると考える私には、どうしても信繁と茶々の濡れ場が気に入らないのだよね。
 最後まで大野治長を悪者にせず、母親の大蔵卿局をヒールにするのも、解せない。
 大蔵卿局が、あれほど重要な役割を果たすのには、毎度違和感があった。
 
 昨夜は思わぬ鹿島の決勝進出という裏番組への対抗措置(?)でもあったのか、NHKは直前の午後七時のニュースで、「真田丸」最終回を煽るような内容を放送していた。
 NHKサイトから引用する。
NHK NEWS WEBの該当ニュース

真田幸村の最期 新資料で謎に迫る企画展 福井
12月18日 17時59分

 大河ドラマ「真田丸」の主人公、真田幸村こと信繁が大坂夏の陣でどのような最期を迎えたのか、最近、見つかった資料などを基にした企画展が福井市で開かれています。

 福井市の福井県立図書館で開かれている企画展には、越前藩主・松平家に伝わる真田信繁の最期に関する資料7点が展示されています。このうち4年前、県立図書館で見つかった大坂夏の陣について書かれた覚書では、「越前藩士・西尾宗次は、身分の高い敵と遭い、やりで戦って名前も知らないままに討ち取った。のちに討ち取った首が真田信繁のものだとわかった」と記されています。

 さらに、同じく県立図書館でことし見つかった西尾が書いたとされる手紙の写しには、自分が信繁を討ち取り、徳川家康にその首を献上したという内容が記されています。これまで信繁の最期については、戦いで疲れて動けなくなっているところを討ち取られたとする説が一般的でしたが、西尾が直接戦ったとする説を補強するものだと解説されています。

 福井県立図書館の長野栄俊主任は、「謎に包まれた真田の最期について紹介しているので楽しんでほしい」と話していました。この企画展は今月28日まで開かれています。

通説は「無抵抗説」

 大坂夏の陣で真田信繁を討ち取ったのは、福井藩士の西尾久作。のちの仁左衛門、宗次だとされています。信繁は西尾にどう討ち取られたのか。最も知られているのは「戦いで疲れ抵抗できない信繁が、福井の無名の武士に討ち取られた」というものです。信繁が「手柄を取らせよう」とみずから首を差し出し、討ち取らせたとも言われています。

 戦国大名の細川忠興が大坂の陣で耳にしたことを国元の重臣へ書いた書状では、「真田の首は越前の武士が持って行ったが、真田が傷を負ってくたびれているところを討ち取って首をあげたということで、全く手柄ではない」と記され、討ち取ったことが不名誉であるかのように伝えています。

 家康をあと一歩のところまで追い詰めながら目的を果たせなかった信繁が、越前藩士に抵抗できずに討ち取られた「無抵抗説」は、その後、ロングセラーとなっている池波正太郎の小説『真田太平記』や、多くの歴史の本や漫画にもなり、信繁の最期として印象的に伝えられてきました。

 ニュースで、このような内容が、最終回の視聴につなげようとばかり放送された。

 さて、実際の放送での信繁の最後は・・・まだご覧になっていない方のために、詳しくは書かない。
 一つだけ、信繁と佐助の姿に、最後の最後、脚本家三谷の池波正太郎『真田太平記』へのリスペクトを見た気がする。とはいえ、太平記では佐助ではなく佐平次だが。
 夏の陣の終盤、「真田太平記」の方には、滝川三九郎なども登場し、二重三重の物語としての深さがあるのだが・・・・・・。

 番組の終わり方は、悪くはなかったと思う。
 そもそも、番宣で「真田一族の最後」というような表現をしていたのがひっかかり、「何を言っている、何のために信之が残ったんだ!」と思っていたからね。

 しかし、松代のことを語るなら、事前の回やナレーションで、信之の後年のことをもっと語っておかなきゃ。いわゆる“仕込み”が足らない。

 松代というと、池波正太郎が晩年の信之を描いた『獅子』を思い出すなぁ。いろいろあったんだよ、信之は最後まで。

 シリーズを通して俳優のMVP(?)は、草刈正雄の昌幸という私の思いに同意される方は多いのではなかろうか。

 『真田太平記』の信繁役として、昌幸役の丹波哲郎さんを観てきた草刈の体験が十分に生きたのだと思う。


 戦国時代や幕末が好きで、池波正太郎に限らず歴史小説の好きな私には、毎回一つや二つは首をかしげる場面のある大河だった。

 たとえば、小田原攻めで北条氏政に降伏するよう説得に行くのが信繁であったのには、大いに驚いた。あの役が黒田官兵衛であったことは、「黒田家譜」にも記載されていることでもあるし、いわゆる“通説”。

 もちろん、昔の資料の信憑性は疑わしいものもあるが、史料や手紙などを踏まえ、またその時の状況を考えれば、あの場面で信繁が小田原城に入るのは、実に不自然。

 あのドラマの時代考証担当者は、いったいどんな根拠があって、あのような筋書きを認めたのか疑問だった。

 一昨日、あのドラマの時代考証を担当した方の記事が新聞に載っていた。
 朝日から引用する。
朝日新聞の該当記事
真田丸「期待裏切らない終わり方」 時代考証の丸島さん
文・写真 田玉恵美 2016年12月17日07時12分

 ベテラン研究者の起用が多かったNHK大河ドラマの時代考証で白羽の矢が立った。「真田丸」で史実に基づく助言を担当。大役の打診に驚いたが、主人公の名を通称の「幸村」ではなく本名の「信繁」にすると聞き、「史実を大切にしようとする意気込みを感じて」引き受けた。

 話題を呼んだ場面の一つが豊臣秀吉のおい秀次の最期。秀吉の命令で切腹させられた、と描かれることが多かったが「真田丸」の秀次は自ら死を選ぶ。発表直前の論文に新しい学説が載るのを知って提案。脚本の三谷幸喜さんが描く秀次像に合致し、採用されたという。

 ログイン前の続きツイッターでも注目を浴びた。どこまでが史実でどこからがフィクションか、放送後に解説した。「なじみのない学説を使ったので、『でたらめだ』と言われるのを防ぎたくて」。フォロワーは約2万人。新しい大河の楽しみ方を提供した。幼い頃、三国志を読んで歴史好きに。最も好きなのは足利尊氏の弟の直義だ。真田と対照的に「戦には弱かったが、室町幕府の秩序を作った人なんです」。

 慶大で非常勤講師をするかたわら、制作陣からの電話に土日もなく対応し続け、「確定申告もしそびれた」ほどの忙しさだった。最後に受けた問い合わせは、物語を締めくくるナレーションが妥当かどうか。「皆さんの期待を裏切らない終わり方になったと思いますよ」(文・写真 田玉恵美)

 本名の信繁にする、というのは私も賛成。
 幸村という名は、史料にはほとんど登場しない。
 ただし、池波正太郎さんの『真田太平記』では途中から、もちろん史実を理解した上で、一般に馴染みの深い名前の幸村に替えているが、説明をしてからのことであったし、物語そのものが面白くて違和感なし。

 この新聞で、「史実を大切にしようとする意気込みを感じて」時代考証を引き受けたという丸島さんに、ぜひ、小田原攻めの一件について、聞いてみたいものだ。

 また、豊臣秀次の最後には、以前から諸説多かった。だから、切腹であっても自死でも、いずれでも構わないと思う。どちらも間違いとは言い切れない。

 それより、生存中の秀次の描き方に疑問があった。
 あんなに、“いい人”であったとは思えないのだ。
 宣教師たちの残した記録なども含む多くの史料を踏まえると、相当に野蛮な面のある人物。あるいは、一度は秀吉の後継者と喜ばせておいての秀頼誕生による秀吉の自分の扱いの変節のため、捨て鉢になっていろいろと惨いことをした人だ。

 と書き出したら、いろいろあるのだが、これまでの高齢者の常連さんではなく、若い方が時代考証を担当されること自体は結構だと思う。

 新たに明らかになった史料なども踏まえ、誤って伝わっている“通説”を覆して欲しいものだ。

 以前、松本順(良順)を主人公とする小説、吉村昭の『暁の旅人』と司馬遼太郎『胡蝶の夢』を引き合いにして、史伝と歴史小説の違い、のようなことを書いた。
2013年3月12日のブログ

 史実ー史料ー史伝ー歴史小説ー歴史ドラマという順に脚色の度合いは深まっていくだろう。

 史料も信憑性の疑わしいものが多いから、複数の史料や聞書きなどで共通する内容が、いわば“通説”となるのだろう。

 史伝は、吉村昭のように数多くの史料にあたり、出来る限りの聞き書きも頼りに、歴史を浮かび上がらせようとする。
 だから、ドラマ性を高めようとする作為的な脚色は施されない。
 比べて歴史小説は、ある特定の人物や出来事のドラマ性を大事にするので、作家の解釈や思い入れによる脚色があって、史実からはどんどん距離ができる可能性も高い。

 そして、歴史ドラマは、原作がある場合は、どの原作を中心とするにせよ、“視聴率”を上げようとし、“おもしろおかしい”内容にするための脚色が施される。
 そして、原作のない脚本から発したドラマの場合は、その脚色の自由度が増すから、史実との乖離が大きくなる可能性が高い。

 典型的な例として、『花燃ゆ』に、吉田松陰の妹で長女の千代が登場しない、なんて馬鹿なことになるのだ。


 史伝、通説、歴史小説などは、長い間に専門家や読者などの目で、いわば“校正”を経て、誤りは途中で訂正されていることもある。
 しかし、原作を元にせず初めて登場するドラマには、脚本家や時代考証家など制作陣がよほど注意しないと、とんでもない誤った歴史観や人物像を提示する恐れがある。
 
 しかし、昨今の歴史ドラマは原作を特定しないものが増えている。

 なぜ、原作がなく、脚本家による創作、いわゆる「歴史を元にしたフィクション」というドラマが増えるかは、いくつか理由が考えられる。

 第一に、その内容に、原作にしばられない自由さが欲しいのだろう。
 二つ目としては、原作者や版権管理人などによるチェックの手間も省きたいという思いもあるに違いない。
 次に、いくら位か知らないが、原作者への費用も発生するから、コスト抑制にもなるはず。

 そういう利点はあるかもしれないが、上述したように、大きな危険性もある。
 
 制作者、脚本家、時代考証家、演出家などが、常に「これで大丈夫か?という姿勢を常に維持しないと、テレビという大きな影響力を持つメディアが、誤った歴史像、人物像を多くの人の脳裏に形成しかねないのだ。

 特に視聴率が伸び悩むと、つい、“おもしろおかしい”見せ場をつくろうとしたり、ありえないキャラクターを登場させがちになる。

 そうなることが、長年の大河ファンや歴史小説ファンは、どんどん離れていくという悪循環になるということを知るべきだろう。

 次の大河、史料にも史伝にも、歴史小説にも乏しい主人公を扱っている。
 緊張感を制作陣が維持してもらいたいものだが、果たしていつまで観ているかどうか。

 ここ数年の歴史ドラマでは、昨年の木曜時代劇『風の峠~銀漢の賦~』が傑出していると思う。

 何度も書くが、ぜひ葉室麟作品を、今の土曜時代劇で取り上げて欲しい。
 
 立花宗茂と妻の誾千代を描いた『無双の花』も良いだろうし、忠臣蔵への独自の解釈を底流とする『いのちなりけり』~『花や散るらん』なども見ごたえがありそうだ。
 読後感が爽やかだった『川あかり』なんかも期待するなぁ。
 葉室作品で映像化を望むものは、他にも、たくさんある。

 私はケーブルテレビに加入しており、時代劇専門チャンネルで、藤沢周平『用心棒日月抄』を元にした『腕におぼえあり』を今は楽しんでいる。

 史実を元にしてはいなくても、良質な時代小説は、その原作の味わいをドラマとしてしっかり映像化することで、十分楽しめる娯楽作品になり得る。そういう作品は、何年経っても視聴に耐える。

 NHKのBSで、1月から八回シリーズで『雲霧仁左衛門3』が放送されるのが楽しみだ。
 しかし、その後は、昔の番組を観る機会が増えそうだなぁ。


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by kogotokoubei | 2016-12-19 12:27 | 歴史ドラマや時代劇 | Comments(0)

 昨日は、12月14日。

 今はなにごとも新暦がまかり通っているので、一応、赤穂浪士討入の日としておこう。

 ちなみに、旧暦では昨日が11月16日であり、旧暦の12月14日は来月11日。

 国立劇場が開場50周年記念ということで、大劇場では歌舞伎の「仮名手本忠臣蔵」を10月から三ヵ月かけて通し公演を開催中で、今月は最終月で八段目以降だ。

 小劇場では、文楽の仮名手本、二部に分けての通し公演中。

 私の落語愛好家のお仲間の皆さまの何名かが、どちらにも行かれている。
 
 私は、もっぱら忠臣蔵は落語。
 ということで、いったい忠臣蔵にちなんだネタがどれ位あるのだろうかと思い、ある本をめくった。

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今村信雄 『落語の世界』

 今村信雄著『落語の世界』(平凡社ライブラリー)に、「忠臣蔵の落語」という短い章があり、六代目円生の話として、次のようなネタが紹介されている。
 円生の話ー落語には忠臣蔵が沢山使われている。大序兜改めは「田舎芝居」に、三段目の喧嘩場は「浮世風呂」や「よいよいそば」に、四段目の判官切腹は「四段目」「淀五郎」「辻八卦」などに、また五段目の山崎街道は「とけつ」に、七段目の茶屋場は「七段目」に、九段目の本蔵も「九段目」に、十段目の討入は「角兵衛の妻」に、そのほか二段目、六段目や八段目も、マクラばなしに用いられている。

 これを読んで、結構「ゲェッ!?」と唸った。
  
 これだけ円生が挙げている中で、まったく聴いたことのない噺、知らない噺が、多いこと。

 「四段目」「七段目」は、もちろん知っている。

 「よいよいそば」は、一昨年、真打昇進前で夢吉時代の夢丸が、一之輔との二人会で演じた高座を聴いた。
2014年9月20日のブログ

 今思うと、実に貴重な噺を聴けたものだ。


 大序の兜改めを素材にした「田舎芝居」は、八代目正蔵が手掛けていたようだ。
 現役の噺家さんでは聴いたことはないのだが、上方の桂文我が演るらしい。

 文我は、今年2月に大阪で「忠臣蔵通し落語会」を開催した後、7月には京都でも実施し、なんと来年1月14日、紀尾井ホールでも開催予定。
 紀尾井ホールの公演情報から引用する。
紀尾井ホールのサイトの該当公演情報
上方落語会 初春! 桂 文我の「忠臣蔵落語」通し口演
2017年1月14日(土) 開演:10時30分
出演者 桂 文我、桂 米平
曲目「田舎芝居(大序)」「芝居風呂(二段目)」「質屋芝居(三段目)」「立体紙芝居」「蔵丁稚(四段目)」「五段目(五段目)」


 「田舎芝居」も、しっかり予定されている。
 興味津々なのだが、私が行けるかどうかは、今の時点ではなんとも言えない。
 いろいろ野暮用があるのだよ。

 東京地区では、歌や鹿芝居を含むバラエティとしての忠臣蔵落語会はあっても、通し口演的な試みは聞いたことがない。

 それとも、誰か演っているのだろうか。

 史実としての赤穂事件と比べると、いろいろ小言も言いたくなるのが「仮名手本忠臣蔵」を筆頭とした物語の忠臣蔵なのだが、芝居は芝居として楽しむものなのだろう。

 また、それを落語の世界で味わうのも、なかなかオツと言えると思う。

 「四段目」「七段目」のみならず、今後は、さまざまな段を素材とした噺を聴いてみたいものだ。


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by kogotokoubei | 2016-12-15 20:54 | 落語のネタ | Comments(4)

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森銑三著『明治人物閑話』(中公文庫)

 さて、本書から初代燕枝についての記事、後編。

 前編は、森さんが明治三十三年二月十三日、初代燕枝が亡くなって二日後の「東京朝日新聞」を踏まえて書かれた内容から紹介したのだが、この東京朝日という新聞を読み調べることで、森さんは“今一つ拾いもの”をしたと書いている。

 いったい、どんな拾いものだったのだろうか。
 明治三十年代の同紙には、弥生山人という人が、飛び飛びに随筆を連載しているが、その弥生山人の何人かは、ついに知るべくもない。ところが、三十四年の九月二十日と二十一日との両日に、「弥生の弟」という別人が、その随筆に割り込んで、円朝、燕枝両人のことを併叙しているので、「弥生の弟」の署名がおかしい。これもまた何人なのか、分かりっこないものとして、それを読んだのであるが、文中に、筆者は円朝とも燕枝とも面識があったので、追善かたがた、その二人のことを、少しばかり書くとしようと断っている。そんなことから、「弥生の弟」というのは、『明治世相百話』の著者山本笑月老ではなかったかという気がして来た。あるいは間違っているかも知れないが、ひょっとしたら笑月さんではなかろうかとだけいわせて貰って、その文の中から、一二条をここに紹介して置きたい。
 森さんが推理した山本笑月は、木場の材木商の長男として明治6(1873)年に生まれ、東京朝日の記者をしていた人のようで、長谷川如是閑や日本画家大野靜方の兄にあたるらしい。

 さて、その笑月さんと思しき「弥生の弟」さんの円朝と燕枝の評とは。
「高座に於ける燕枝が、到底円朝の敵ではないことは、世上既に公論ありだが、其代り酒間茶後、膝組みの話と来ては、また所詮円朝の及ぶところではなかった。要するに円朝は、芸に於て名人と呼ばれただけ、物事に分別があつて、随つて人と対話の際も分別臭く、且つ芸人気質あると免れなかったが、これに反して燕枝といふ男は、真率洒脱、些の俗気なしで、しかも滑稽百出、談論風発といふたちであつた。」
 記者は燕枝の話が、円朝に一籌を輸したことを認めている。しかしこれは、円朝の方が並外れた芸の持主だったからで、円朝一人を除いたら、燕枝が第一位を占めることになる。その一事は、記者も十分に認めていたことと思われる。

 “酒間茶後”とか“膝組み”の話という表現は、要するに、酒や茶などを飲みながら、くつろいで聴く話、という意味なのだろう。
 円朝の高座は、“分別”ある円朝の姿に合わせて客の側も膝を正し、飲食などもってのほか、という空気の中で聴いていたような印象だ。一方、燕枝のそれは、肩の力を抜いて、軽い気持ちで楽しく聴く、ということか。

 芝居好きの燕枝の一面については、「弥生の弟」さん、こう書いている。

「或時彼がいふには、どうかして勧進帳がして見たいが、おいらはトコトンが利かないから、舞になつてからが困ると。すると座に円遊があつて、言下に答ふるやう、いいぢやァげえせんか。舞のところから、あッしが代つて出やせうと。
 これを聴ける燕枝は、世にも苦々しげな顔をしていへるやう、お前達はそれだから困る。さういふチョンキナだから、ほんとの芝居が出来ないといふ。畢って気を吐く、虹の如しであつたといふことだ。なるほど弁慶のステテコもあやまるが、燕枝にまじめで勧進帳をやられても、見物は頗る恐れるであらう。」
 その見物の恐れるに違いない「勧進帳」を、まじめに演じてみたいと思っていたというのだからおかしい。
 円遊は師匠の円朝の歿後、三遊派の第一人者だったのであるが、他派の燕枝から、お前扱いされていたこと、右に記されたるごとくだったのであろう。

 この“トコトンが利かない”とは、“飛び六方”ができない、という意味なのだろうなぁ。
 “チョンキナ”は、調べてみると、狐拳(きつねけん)を打つ際に唱える言葉らしい。「ちょんきなちょんきな、ちょんちょんきなきな、ちょんがなのはで、ちょちょんがほい」と唱え,その終わりを合図に拳を打つ、と説明がある。
 上の文脈では、せいぜい狐拳の合いの手程度だから、ほんとの芝居ができない、の意かと思うが、自信はない。

 次に、この章の題である“文才”に関わる部分。
 燕枝は円朝と同じく、話の新作をした。それについて、弥生の弟氏は、また次のようにいっている。
「燕枝はこれらの材料に用ひるために、古板の本や、芝居関係の噺書籍類を夥しく所蔵して居つた。其中にも、元禄板の『にぎりこぶし』の如きは、稀世の珍書である。」
 『にぎりこぶし』は、その書名から考えて、話本だったかと思われるが、さような本のあることなどこれまでついぞ耳にしない。燕枝旧蔵のその書が、その後いかが成り行いたかが気にかかる。
 燕枝の蔵書家であったことは、右の記述にみ見えているが、その蔵書印のある古書を、今でも時々みかけて、なつかしい感じに打たれることがある。書巻の気を有した一事においても、燕枝は一層の親しみの持たれる芸人として、私等の眼に映ずる。
 弥生の弟氏は、「気が楽のつらね」に拠って、燕枝の文才を称し、それについで、また次のようにいっている。
「此頃或処で燕枝のしやれ手紙を加藤漣西が見て、燕枝はこんなものを書くと、魯文よりも旨いといつたが、実によく出来たのは、魯文を凌ぐほどである。」
 加藤漣西という人物は、私は知らない。魯文はその本筋の戯作よりも、即興的な引札の文などに面白いものがるのであるが、燕枝も魯文の向うを張るだけの文才の持主だったのである。

 博覧強記の森さんにして『にぎりこぶし』という、弥生の弟さん曰く“稀世の珍書”を知らなかったようで、逆にどんな本なのか興味が募る。また、加藤漣西とは、どんな人物だったのだろう。
 いずれにしても、燕枝の文才は高く評価されていたのは間違いなさそうだ。円朝の作品のほとんどが高座の速記であることを考えると、燕枝の方が才能の幅は広いと言えるのではなかろうか。

 さて、次は、弥生の弟さんが紹介する、燕枝の好事家としての逸話など。
「享保中に八十の高齢で歿した俳諧師岩本乾什といふは、河東の浄瑠璃を多く作つた竹婦人だといふことだが、浅草の奥山に、其辞世の碑が建ててあつた。
『雪解けや八十年の作り物』とあつて、昔は三尺の童子も知つた碑であつたが、どうしたわけでか、久しい跡に石屋の手へ渡つて、すんでのことに磨り潰されて、庭石か何かになるところを、燕枝が発見して大いに慨嘆し、数金を抛つて、本所の自宅の庭へ建てて置いたが、これをば彼れのいまはに、如電老人が所望して、譲り受けたさうだ。此一事を以て、彼れはまた好事家であつたのを見るに足るべしだ。」
 燕枝の好事家であったことの知られるのは、いかにも嬉しい。如電老人も大槻修翁であることは、註記するまでもないだろう。私なども、この如電翁の顔だけは知っている。
 最後に、弥生の弟氏は、その文の結びとして、次のようにいっている。
「要するに円朝は、徹頭徹尾まじめに一生を送った男で、燕枝は人生を遊戯場としたものと思はれる。」

 如電老人、大槻修翁について、私のような凡人には註記が必要だ。
 Wikipediaの「大槻如電」から引用。
Wikipedia「大槻如電」
大槻 如電(おおつき じょでん、弘化2年8月17日(1845年9月18日) - 1931年(昭和6年)1月12日)は、明治時代から昭和時代初期にかけて活躍した学者・著述家。本名は清修。字(あざな)は念卿。通称は修二。如電は号。仙台藩士大槻磐渓の子。

略歴・業績

仙台藩の儒学者大槻磐渓の次男として江戸に生まれる。『言海』の執筆で著名な大槻文彦の兄にあたる。

家学をうけて林家で漢学を学び、仙台藩の藩校養賢堂では国学も学んだ。明治4年(1871年)海軍兵学寮の教官となり、文部省に勤務して仙台藩から文部省に引き継がれた『新撰字書』編集事業にたずさわる。1874年(明治7年)、文部省を退官したのちは在野の学者として著述に専心した。明治8年には家督を弟の文彦に譲っているが、これは自由奔放な生き方の自分よりも、弟に家を任せた方が適切だと考えたことによる。

和漢洋の学や文芸に通じ、『東西年表』や『洋学年表』、『駅路通』などの著作があり、父大槻磐渓の著作『近古史談』の改訂をおこなっている(刪修標注および刊行は弟の大槻文彦)。また、祖父大槻玄沢と親交のあった工藤平助の小伝も著している。

如電は多方面に才能を発する知識人であったが、特に舞踊や雅楽、また平曲から俗曲にいたる日本の伝統音楽には精通しており、『俗曲の由来』や日本の雅楽研究の嚆矢となる『舞楽図説』を発表している。また、博識とともにその奇行で知られた。1931年(昭和6年)、腎炎のため87歳で没した。

 弟の大槻文彦の名は知っていたが、お兄さんは知らなかったなぁ。

 弥生の弟さん、山本笑月と思しき人は、円朝を“徹頭徹尾まじめに一生を送った男”と形容したが、どうもこういう人たちの評が、円朝という人の像を実物よりも一層大きなものとして世に印象づけてきたように思う。
 私は、松井今朝子の『円朝の女』や、小島政二郎さんの『円朝』に描かれるような、一人の出淵次郎吉という男の姿にこそ、親近感もわくのだが・・・おっと、円朝のことではなく燕枝のことだった。

 ちなみに、二年前の円朝の命日に、あえて円朝の“まじめ”ではない面を中心に短い記事を書いたので、ご興味のある方はご覧のほどを。
2014年8月11日のブログ

 さて、森銑三さんは、新聞のみではなく、ある貴重な本も題材としている。
 以上は「東京朝日新聞」に出た二つの記事を主として書いたのであるが、燕枝についての第一資料としては、明治の雑誌『歌舞伎』に連載せられたその自伝『燕之巣立実痴必読』というもののあるのを閑却してはならぬ。ただしそれは、明治十三年に草して人に贈ったもので、その後の二十年間の動静のそれでは知るべくもないことを遺憾としなければならないが、落語家などという稼業は、明治に入ってから、社会的に認められるに至ったので、旧幕時代には小間物業とか、貸本屋だとか、時の物売だとか、曖昧なことを人別帳に記して、お上をごまかしていたのだったという。だから落語家の内にも、話を専一にせず、他にも手を染めた者が多かったのであろうと思われる。
 陸軍医総監の松本順は、よく芸人達を庇護した人だったが、明治十年に自邸で狂言二幕を演ずるようにと、人を通じて円朝に依頼した。しかし円朝は、自重するところがあるものだから、それを断った。すると順は、自ら円朝を本所二葉町のその宅に訪うて、親しく懇願した。それには円朝も恐縮して承諾に及び、燕枝にすべてを一任して、己れも一役を演じて、興を添えた。燕枝の自伝には、そうしたことなども見えている。
 『古今東西落語家事典』にも書かれていた、『燕之巣立実痴必読』、通称『燕枝日記』が登場。

 私にとっては懐かしい松本順の名も出てきた。
 2013年の命日3月12日に、松本順(良順)を主人公とする吉村昭の『暁の旅人』と司馬遼太郎『胡蝶の夢』を比較する記事を書いた。
2013年3月12日のブログ
 
 その松本順が直々に訪問しての依頼を受け、円朝が松本邸で催す狂言を燕枝に一任したというのは、円朝と燕枝との関係を知る有益な事実であろう。

 
 森さんは、『燕枝日記』から二人の親愛の度合いを物語る内容を紹介している。
 両雄並び立たずというが、円朝と燕枝とは、円満な交際を続けていた。年齢では燕枝の方が上だのに、自伝では円朝を「業兄円朝」とも「円朝業兄」ともして重んじて居る。「円朝は一見識ある人ゆゑ」云々ともしている。そんなところにも、燕枝の人物に、対抗意識などというべきもののなかったことの知られるのが快い。

 この部分を読んで、たとえば、円朝一門を中心とする三遊派に“抗する”柳派の頭取燕枝、というような表現は、あくまで芸に関することであり、円朝と燕枝の人間同士の付き合い方には、対抗する、というよりお互いを尊敬し合うような関係を察することができる。
 
 森さんが言うように、たしかに“快い”ところで後篇はお開き、としたい思いもあるのだが、最後にあのお寺のこと。
 燕枝が葬られた源空寺は、幡随院長兵衛のほかに、高橋東岡、伊能忠敬の墓があり、谷文晁一家の墓もあるので、私はこれまで何度か往訪して居るが、燕枝の墓は、さらに記憶に存しない。それで去年もあと三四日につまった日の午前に、わざわざ往訪したところが、燕枝の墓は、大正の震災に痛んで、片附けられてしまったらしく、本堂の前に、新しい「談洲楼燕枝之塚」という自然石の碑が建って居るのに過ぎなかった。しかもその碑は、雅味も何もないものなのに、失望してしまった。

 40年ほど前のことなので、今も源空寺の燕枝の塚が同じ状態なのかは、分からない。
 
 もしそうならば、円朝の全生庵とは、あまりにもの違いだ。

 毎年、円朝の命日近くには、三遊派のみならず、柳派も含む噺家さんが全生庵にお詣りしたり、円朝の作品を奉じたりして、盛大に名人と呼ばれた噺家を偲んでいる。

 しかし、燕枝に関しては、どうだろう。

 柳派の方々は、二月二十一日の命日に源空寺で初代燕枝を偲ぶことのできる、少しは雅味のある石碑でも建ててあげてはどうか、と思う。

 三三の『嶋鵆沖白浪』最終口演から発した初代談洲楼燕枝シリーズ的な記事、これにて、ひとまずお開き。

p.s.
この記事を書いた後で、本書の「文筆家悟道軒円玉」の章に、こんな文章を発見した。
追記 先に書いた「談洲楼燕枝」の中でその所蔵した『にぎりこぶし』という書物を、話本かなどとしたのは大間違いで、それは役者評判記で、『歌舞伎評判記集成』の第二巻中に収められていることを川崎氏から教えられた。
 燕枝の墓は、私の探し様が悪かったので、源空寺に現存している。その外いろいろのことを、柳亭燕路氏から教えられた。柳亭さんは、現に燕枝の研究を熱心に進められて居る。遠からずその詳伝の刊行せられる日が来よう。私の文ははなはだ不確なものだったが、それが縁になって柳亭さんという特別の研究家を知ることを得た。私はそれを大きな喜びとして居る。
 森銑三さんという人の真摯なお人柄が偲ばれる追記と言えるだろう。なお、川崎氏とは川崎市蔵さんのこと。邦楽研究家の方かと思う。柳亭燕路は、『落語家の歴史』や『子ども落語』などの著書があり落語研究家としても著名だった六代目だろう。
 遅ればせながら、拙ブログでも、以上を追記とします。
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by kogotokoubei | 2016-12-14 21:36 | 落語家 | Comments(0)
 またか、との声が聞こえてきそうだが、懲りずに、また初代談洲楼燕枝のこと。

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森銑三著『明治人物閑話』(中公文庫)
 
 初代燕枝のことを語る上で、肝腎な本を見逃していた。

 森銑三著の『明治人物閑話』である。

 この本は三遊亭円朝も取り上げているが、初代燕枝も忘れてはいなかった。

 私が読んでいるのは平成19(2007)年発行の中公文庫の改版。文庫初版は昭和63(1988)年の発行、単行本は昭和57(1982)年に発行されている。

 ちなみに、この改版では内田樹が解説を書いている。

 「談洲楼燕枝の文才」の冒頭部分から引用する。
 明治の落語界は、三遊、柳の二派が対立の形を取ってうた。そして三遊派の円朝に対して、柳派には燕枝があって、よく円朝に拮抗した。ところがその没後七十年余年を経た今日になってみると、円朝一人が云々せられて、燕枝の方は一般からは忘れられ、そんな落語家もあったのかというくらいになってしまっている。

 この文章は、昭和50(1975)年の「歴史と人物」5月号・6月号に「談洲楼燕枝」の題で掲載されたものだが、40年後の今も、円朝に比べて燕枝はほとんど忘れられ、せいぜい“そんな落語家もあったのかというぐらい”であるという状況には変わりがないだろう。
 次に、燕枝の生い立ちなど。
 燕枝は天保九年十月十六日に、小石川表町の伝通院前に酒商を営む長島清助の子として生れた。円朝よりは二歳の兄になる。幼名伝之助、長じて伝二郎といった。落語で立とうと決意したのは十九の歳で、初代春風亭柳枝の弟子となって、初め伝枝といった。通称の伝の一字を取ったのである。数年にして柳亭燕枝と改名し、二十五歳で真打となり、かような若さで真打となったのは珍しいと評判せられたようである。師匠の柳枝も人情噺の名人と呼ばれた人で、燕枝はよい師に就いたわけであるが、柳枝は明治元年に歿したところから、以後は燕枝が柳派の牛耳を執ることとなり、多くの弟子達をも養い、円朝の一門で固めた三遊派と、落語界を二分した形で、芸人の社会に大きな勢力を持った。
 生まれ年は、たぶん、天保8(1837)年の誤りかと思う。
 本書は、著者が過去の新聞を丹念に読むことなどで書かれているのだが、確認した新聞に誤認があったのだろうか。改版の改訂版で修正されているのかどうかは、未確認。

 師匠の初代柳枝は、文化10(1813)年生まれなので、燕枝とは干支で二回り上になる。
 燕枝の才能は、単に落語に限ったものではないことなどが記されている。
 燕枝自身もまた人情噺、芝居噺をよくしたのであるが、兼ねて文筆の才があり、仮名書垣魯文の門に入って、あら垣痴文の名を貰っていた。それで一二の紀行文などもあることが知らされているが、それらは私はまだ見ていない。
 燕枝は文芸の嗜みのあったところから、多くの文人墨客達の知を得ていたが、さらにまた芝居好きとして知られた。その方面にも顔が売れていて、三升会の取締などをもして、団十郎一門の俳優達からも重んぜられていた。

 以前、代々の団十郎のことについて記事を書いたことがあるが、初代から十二代目までの生存期間は、次のようになっている。
 十二代目が亡くなった後、“成田屋は短命”、とか、ケネディ家のように呪われている、などと書かれた記事に接して疑問に思い書いた記事だった。
2013年2月4日のブログ

 各代の生年と没年、( )内は亡くなった時の満年齢。

初代 1660--1704(44)
二代目   1688-------1758(70)
三代目*    1721-1742(21)
四代目*   1711-------1778(67)
五代目      1741---------1806(65)
六代目        1778-1799(21)
七代目         1791------------1859(68)
八代目            1823--1854(31)
九代目              1838-----------1903(65)
十代目*                  1882-------------1956(74)
十一代目*                   (56)1909--------1965
十二代目                       (67)1946------------2013

「*」は、先代から血のつながりのない養子。

 初代燕枝が贔屓にした団十郎は九代目。年が一つ違い。
 芝居好きの燕枝は、明治14年の暮れ、春木座で、講釈師、落語家連中による年忘れの素人芝居、今でいう“鹿芝居”を行った際に団柳楼の名で団十郎張りの曽我五郎を演じ、「白浪五人男」では日本駄右衛門に扮して評判を取ったようだ。
 つい、嬉しくなった燕枝は、その後も何度も舞台に上がっている。
 とにかく、芝居が好き、そして、団十郎が好きなのである。
燕枝は、歌舞伎役者の内でも、団十郎を最も重んじ、その人に傾倒すること、むしろ崇拝というに近かった。それで江戸時代に烏亭焉馬が市川贔屓で、自らを談洲楼と号したのが羨ましくて、明治十八年に、その号を襲うて、自分も談洲楼と名のり、「暫」のつらねに倣って、「身が楽のつばめ」という戯文の一篇を書いたのを版にして、知人に配った。「つばめ」は燕枝の「燕」で、自分をいうのである。そして江東の中村楼で披露の宴を張った。そうしたことから、なおゆくゆくは、烏亭焉馬の名を襲ぎたいつもりでいたのだったが、そのこをは果たせぬ内に、あの世へ旅立ってしまった。

 烏亭焉馬は、落語愛好家の方ならご存じかと思う。
 彼が贔屓にしていたのは五代目だ。焉馬は、六代目団十郎に先立たれた五代目団十郎の没後は、まだ幼かった七代目団十郎の後見役を引き受けている。

 燕枝が贔屓にした九代目は「劇聖」と言われた人だが、燕枝の団十郎贔屓は、落語中興の祖と言える、烏亭焉馬への追慕の念にもつながっていた。

 次に、燕枝晩年の逸話など。
 明治三十二年九月、燕枝は動脈瘤という、厄介な病に冒された。それでも押してあちこちの席に出ていたところが、三十三年の一月、人形町の末広亭で口演最中に気分を悪くし、急いで本所区南二葉町の自宅に帰ったが、そのまま病床に呻吟する身となった。燕枝自身も覚悟するところがあったのであろう。
  動脈瘤に罹りて
    動くもの終りはありて瘤柳

 と口ずさんだのが、ついに辞世の句となった。「動」「瘤」の二字に「動脈瘤」を現し、「柳亭」の「柳」の字まで取入れている。

 この部分を読んで、「あっ!?」と思った。

 六年前に初代燕枝のことを書いた記事で、関山和夫著『落語名人伝』から、次の円朝と燕枝の辞世の句に関する文章を引用していた。
関山和夫『落語名人伝』
 三遊亭円朝の辞世の句「目を閉じて聞き定めけり露の音」には仏教的な“悟り”が感じられて感銘深いものがあるが、談洲楼燕枝が残した「動くもの終りはありてこぶ柳」には悲痛な感じがただよっている。

 関山さんは、燕枝の辞世の句について、“悲痛な感じ”と評された。
 しかし、森銑三さんが指摘するように、彼の辞世には、自分の病でさえ茶化してしまう遊び心をこそ見い出すべきなのかもしれない。

 引用を続ける。
 そして同年二月十一日の午前三時というに、息を引取った。享年六十三歳、中二日置いた十四日に、浅草清草町の源空寺に葬られた。
 その源氏空寺は、幡随院長兵衛の墓があるので知られている寺であるが、その長兵衛とのことについて一話がある。
 燕枝は歿する前年の明治三十二年に、自ら祭主となって、長兵衛の二百五十年忌の法要を、源空寺に営んだのであるが、知人に寄附を仰ごうと、尾上菊五郎を訪うたら、菊五郎は気乗りしない様子で、長兵衛の法事なら、親玉が一人で背負って立つのが当り前だろう、という。親玉は、いうまでももなく団十郎である。その時燕枝は透かさずにいった。親方、そうはいわせませんよ。お前さんだって、白井権八の時には、長兵衛の家へ転がり込んで、厄介になっていた。その義理もあるじゃありませんか。
 菊五郎思わず噴出した。そういわれちゃ叶わねえ。それじゃ寄附につきあいましょう。そういって、いわれるままに、百円の金を投げ出した。
 燕枝は、さような奇才をはたらかせることのできる人だった。
 楽しい、また、いい話だなぁ。
 この菊五郎は五代目。九代目市川団十郎、初代市川左団次とともに、いわゆる「団菊左」の黄金時代を築いた人だ。

 相手が年下とはいえ、大看板の音羽屋に向かって、「鈴ヶ森」の白井権八を持ち出し幡随院長兵衛の法要の寄附を出させるなんて、芝居が好きで、自分自身でも演じていた燕枝ならでは、と言えるだろう。

 引用を続ける。
 燕枝は晩年には、渋好みとなって、質素な生活をしていたが、若い頃にはそうではなかった。万事に派手で、ことに真打となってからは、仲間の附き合その他に、金を出すことを惜しまなかった。それには円朝も驚いて、よくもあのように金を蒔かれるものだ、といったという。それで燕枝も後には、近頃の芸人のように、己れ一人が勝手なことをして、人の上を顧みないのはみっともないなと、嘆ずるのだったそうである。
 以上の略歴と逸事とは、大体を明治三十三年二月十三日の「東京朝日新聞」の記事に拠ったのであるが、この明治三十三年は、落語界の厄年だったといっていい。燕枝と並び立っていた円朝も、燕枝よりも僅か六箇月後れで、八月十一日に歿している。
 
 明治三十三年、西暦1900年は、たしかに落語界にとって厄年だったかもしれない。
 なお、六代目円生は、その年の九月三日に生まれた。

 著者森銑三は、この後に続く第二章冒頭で“右の記事を得た「東京朝日新聞」からは、私は今一つ拾いものをしている”と記している。

 その“拾いもの”を含めて、本書からもう一度初代燕枝について紹介するとして、今回はこれにてお開き。

 知れば知るほど、円朝の十分の一でもいいから話題になって欲しいと思うのが、初代燕枝だ。

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by kogotokoubei | 2016-12-13 12:50 | 落語家 | Comments(2)
 前回の記事で、三三の『嶋鵆沖白浪』に限らず、初代談洲楼燕枝の作品を現役の柳派の噺家さんに演ってもらいたい、と書いた。
 同記事にいただいたコメントで、柳家さん助が『西海屋騒動』の通しに挑戦しているとの情報をいただいた。

 先日の記事で、この噺のことに触れた。知ったきっかけは、六年前、紀尾井ホールで三三の嶋鵆に最初に出会った後で、初代燕枝のことに関心を抱き記事にした際に読んだ本だった。
2010年11月19日のブログ

 あらためて、暉峻康隆著『落語の年輪-江戸・明治篇-』から引用する。
暉峻康隆『落語の年輪-江戸・明治篇-』
 もともと彼は俳諧をたしなみ、仮名垣魯文に師事して戯号を“あら垣痴文”と称して狂文を作った。かつ芝居好きであったから、その交際の範囲も円朝と異なり、演劇関係が多く、また森田思軒、饗庭篁村、幸田露伴、久保田米僊、幸堂得知、須藤南翠、関根黙庵などという、いわゆる根岸派の文士と親交を結んでいた。
 したがって円朝にはおよばないにしても、演し物に工夫をこらし、佐原の喜三郎や海津長門の活躍する「島千鳥沖津白浪」(明治二十二年六月春木座上演)や、「水滸伝」の花和尚魯智深の件を翻案し、それに曲亭馬琴原作の「西海屋騒動」をとり合わせた「御所車花五郎」など、彼の苦心の作である。あるいはまた円朝の翻案物に対して、彼もまた『レ・ミゼラブル』を脚色した福地桜痴の「あはれ浮世」を人情咄として高座にかけたりしている。

 この書から、『御所車花五郎』の存在を知ったのだ。
 しかし、いただいたコメントでは、さん助の演目は『西海屋騒動』らしい。
 さて、馬琴の本を元にしたのか、それとも燕枝の創作に沿っているのか、疑問を抱いた。

 こういう時に頼りになるのが、円朝作品などでもお世話になる「はなしの名どころ」さんのサイトだ。

 期待通りに、関連した記事が見つかった。
「はなしの名どころ」さんサイトの該当ページ
 同サイトから引用する。
春風亭柳枝(3),唐土模様倭粋子,滑稽堂 (1883, 84)

 3代目春風亭柳枝[嘉永5~1900]は,初代柳亭(談洲楼)燕枝の弟子で,燕枝に代わり,柳派の頭取として一派を率いた.百花園の速記など20席あまりが復刻されており,没後,三芳屋から個人集『柳枝落語会』(1907)が出ている.「七面堂の詐偽」が他と重複しない噺.

 唐土模様倭粋子(からもようやまとすいこ) 速記本文 は,伊東専三編集.前後編の2冊.全34回,通しで73丁.登場人物の口絵1枚,挿絵32枚.伊東専三の序文.「怪談牡丹燈籠」出版よりも古く,速記ではない.談洲楼燕枝(1)の代表作で,『名人名演落語全集』 第1巻に,「西海屋騒動」の題で,導入部の速記とその後のあらすじが載っている.本作の出版よりも後,1897年に毎日新聞に連載したもの.「唐土模様倭粋子」は,その名の通り,「水滸伝」の登場人物名を取り入れている.花五郎改め魯心が花和尚魯智深,九紋龍新吉が九紋龍史進,黒船風理吉が黒旋風李逵,金髪挿のお蓮が潘金蓮,一丈背の小さんが一丈青扈三娘,林屋忠右衛門が林冲など.「西海屋騒動」では,この趣向はなくなっている.

 その『名人名演落語全集』にリンクすると、次のように説明されている。
62. 名人名演落語全集,10巻,立風書房 (1981~82)  ☆☆☆☆

 斎藤忠市郎・保田武宏・山本進・吉田章一編.時代ごとに明治から昭和末期までの範囲の速記を集成したもので,出典・解題が明記されており,表記法がしっかりしている.圓朝の全集未収録作品が載っている.戦後期の人選が,他の時期に比べて甘めではあるが,読者と同時代ということでやむないか.
 初代談洲楼燕枝の代表作「西海屋騒動」の速記は導入部までで,その後のあらすじが載っている.春風亭柳枝(3)が演じた「唐土模様倭粋子」で全部を読むことができる.「続噺柳糸筋」は,毎日与えられた三題噺を連作して新聞連載したもの.彰義隊の戦乱を背景に,御家人の近藤甚三郎が,堺の偽坊主,実は団五郎と組んで悪事を行う.庄屋の山田正作を殺し,息子の直次郎を色仕掛けでたぶらかした上,座敷牢に閉じ込めて殺そうとする.悪計を盗み聞きした忠僕清助が直次郎を救い出す.清助が捨てた子供が今の団五郎だとわかり,善にかえった団五郎と清助,直次郎は,近藤を討つ.

 なるほど、燕枝は『西海屋騒動』の名のままで演じていて、弟子の三代目柳枝が、先祖帰りし水滸伝の型で『唐土模様倭粋子』として演じた、ということか。

 暉峻さんの本にあるように、『御所車花五郎』という主人公の名を演題としたことがあるのかどうかは、もう少し調べてみる必要がある。

 水滸伝、そして馬琴を経由した噺、ますます興味が湧いてきた。
 さん助の高座、なんとか聴きたいものだ。


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by kogotokoubei | 2016-12-11 16:52 | 落語のネタ | Comments(2)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛