噺の話

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落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。

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 まず、ある小説から、ある女性に関する文章を引用する。

 こちらに背を向け、茶を点じているそのひとの、つややかな垂れ髪を分けて見える耳朶は、春の陽ざしに濡れた桃の花片のようだった。
「どうぞ・・・・・・」
 そのひとの躰(からだ)からただよってくる香の匂いが近寄り、うすく脂がのった、むっちりと白い二つの手が茶碗をささげ真田伊豆守信幸の前へ置いた。


 さて、これは誰か・・・・・・。

 正解は、小野お通。

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池波正太郎著『真田騒動ー恩田木工ー』(新潮文庫)

 この小説は、池波正太郎の『信濃大名記』(新潮文庫『真田騒動ー恩田木工ー』所収)だ。
 この作品集『真田騒動』には、直木賞受賞作の『錯乱』も収められている。

 代表作『真田太平記』にも、もちろんお通は登場するが、信幸とお通の関係については、この短編の方が、読み応えがある。
 
 池波正太郎は、お通について次のように書いている。
 小野のお通は、その才色を世にうたわれ、宮中にも仕えて女ながら金子二百両、百人扶持を賜わったこともあり、諸礼式、礼法にも通暁しているところから、後には秀吉にも仕え、今は家康の庇護を受けている。先年、千姫が秀頼に嫁したときには、その介添えとして招かれ、大阪城にも暮したことがあったらしい。
 また、お通は、浄瑠璃節の作者でもあり、笹島検校が節付をして名曲と評判の「十二段草紙」は彼女の筆になったものだった。

 時は大阪冬の陣の和議の後。
 引用したのは、お通の家で、信幸と信繁が密会する場面へと続く前段の部分。

 二人が、どんな会話をしたのかは…本書をお読みのほどを。

 さて、池波が、夏の陣を前にして、信幸と信繁の兄弟を引き合わせた家の主、小野お通という女性は、謎の多い人だ。

 引用した「十二段草紙」の作者という説は、浄瑠璃節はもっと以前からあったとされており、彼女の作という説はほぼ否定されているようだが、才色兼備の女性だったことは間違いなさそうだ。

 書の大家として「お通流」という名もあったらしい。

 夏の陣の後に時を進めて、引用を続ける。
 幸村の遺髪が、この手に届くなどとは、思ってもみなかっただけに、沈着な信幸も、
「あ・・・・・・」と、低く叫んだ。
 遺髪は、小野のお通から送られたものだった。
 鈴木右近が、お通の手紙と幸村の遺髪を持ち、単身、沼田へ戻って来たのは、あと数日で元和元年(1615年)も暮れようとする今日の、たった今しがたのことである。
 城内三の丸にある居館の一室には、信幸と右近だけが向い合っていた。
「どうして、手に入れたものであろう・・・・・・?」
「私も、少々驚きました。何度も問うてみましたが、話してはくれませぬ」
「そのほうが、お通殿の館へ受け取りにまいったのか?」
「はい。一人きりで、隠密に来てくれとの知らせがありましたので・・・・・・殿。京で小野のお通と申せば、宮中はもとより諸侯方も一目置くほどの才女。ました大御所様から扶持を頂いているだけに顔も広く、幸村様御討死と聞き、大坂へ手を廻してくれたかとも・・・・・・」
「いや・・・・・・すでに、その前に・・・・・・手を廻してくれていたのかも知れぬ」
 幸村の首は、家康や秀忠の首実検に供えられた後、どこかへ埋められたことは確かだが、その間隙を縫って、お通の手がどこからどうして伸び、一握りの遺髪をつかみ取ってくれたのだろうか。
 お通の手紙には・・・・・・幸村様の御遺髪をお届けする、と簡単に記され、その後に、
「私の父も良人(おっと)も兄も、今川から徳川、豊臣に仕え、度重なる合戦に皆死に果ててしまいました。貴方(あなた)様が幸村様とお会いになされたときのことが、この胸の中から拭うても拭い切れずにおりまする」
 とある。
 あの日、自分へ示してくれた好意は、成程こういうところから出たものかと、信幸は、合戦の傷跡が、女にとって、どれだけ深いものなのかを今更に思い知らされたような気がした。
「再び何時(いつ)、お目にかかれることかも知れず、ひたすらに・・・・・・」
 ひたすらに御自愛をお祈りする、と書かれてある、その一字一句を食い入るように追いながら、あわただしい動乱と心痛に耐えつつ、努めて追い払い掻き消そうとしてきた彼女の面影が、今はどうしようもなく信幸の血を騒がせずにはおかなかった。
(会うとも・・・・・・会わずにはおかないぞ)
 信幸は叫んだ。

 さて、その後、信幸はお通と会うことはできたのかどうか・・・は、本書でお確かめのほどを。


 池波正太郎は、お通と信幸の関係について、実に清々しく、かつ謎めいた描き方をしている。

 だからこそ、読む者は、お通という人物像への空想が膨らみもする。

 戦乱の世に翻弄され、頼るべきは自分自身とばかりに芸を一心に磨いて生き抜いてきた、一人の女性像が浮かぶ。

 さて次は、大河「真田丸」だ。

 27日の日曜日、関内での柳家小満んの会の余韻に浸りながら、「真田丸」第47回の「反撃」を見た。

 冬の陣の後の和睦、そして徳川の策略通りに大阪城の堀の埋め立てが始まり、豊臣方の武士たちが分裂しかかる。
 しかし、後藤又兵衛が率先し、信繁をリーダーとして反撃しよう、と皆の気持ちがまとまったということが骨子なのだろうが、私はある場面で驚いた。

 それは、小野のお通の家で、彼女の膝枕でくつろぐ信幸の元に、正室の小松(お稲)と側室の清音院(おこう)が乗り込んだ場面だった。

 まず、信幸とお通が、そんな関係であること自体、違和感あり。

 そして、正室と側室の行動も、ありえないと思う。

 小野お通の住まいは、京都だ。

 いわば、夫の浮気の現場を押さえるために、沼田から京都に二人は出向いた、ということ。

 そして、二人の追求に対し、お通は、信幸はあくまで客の一人、と言って請求書を信幸に渡す。
 そして、次の客がすでに待っているから早く帰ってくれと言う始末。


 私が池波作品を読んで描いてきたお通像から、あまりにかけ離れていた。

 演じる女優さんのことは置いておく。
 ちなみに、NHKのドラマ「真田太平記」(昭和60年4月~昭和61年3月)では、お通を竹下景子が演じた。
 30年前、である。

 史料に乏しく謎の多い女性だから、お通をどう描くかは、作家、脚本家の腕次第という面もあるだろう。

 しかし、小野お通が、あんな人物であるとは、私には思えない。


 NHKの大河は、数年前から、若い世代の視聴者率アップを意識しているのか、お手軽なホームドラマのような内容になりつつある。

 だから、きりは、現代風の言葉づかいになっているのだろう。
 まるで、電車の中で耳にする若者たちの口調ではないか。

 過日、真田丸の大阪を名ガイドとして一緒に散策していただいた山茶花さんは、きりは枝雀の落語理論における「緊張」と「緩和」の「緩和」でしょう、と見事な指摘をされた。
 
 たしかに、ドラマの中では、そういう役割はあるのだろう。

 しかし、まだ修業の足らない私は、きりの言葉づかいや、今回のようなお通の姿を見ることで、やたら「緊張」を強いられるのである。

 小田原攻めの際、北條に降伏を進言する役を黒田官兵衛ではなく信繁にしたことで、一度は見るのをやめようと思っていながら、なんとかここまできてしまった。

 最後まで付き合うつもりだが、しばらく控えていた小言は、我慢せずに書くことにしよう。


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by kogotokoubei | 2016-11-29 21:36 | 歴史ドラマや時代劇 | Comments(0)
 通常は、一ヶ月おきに平日の夜に開催されるのだが、今回は日曜の昼二時開演。

 ネタ出しされていて、『子別れ(上・中・下)』とあっては、テニスを途中で抜け出してでも、と駆けつけた。

 通算で136回目。

 一時過ぎ、少し早めに関内に着いたので、念のため会場へ。
 ホール前には桂歌丸独演会のポスター。大ホールだ。
 時間的に余裕があったにもかかわらず会場に行ったのは、関内ホールのサイトに、この歌丸独演会の案内はあったものの、小ホールの小満んの会の案内がなかったから。
 事前に電話して27日の2時開催とお聞きはしていたが、ちょっと心配だった。
 催し物を案内する掲示板が見当たらないので事務所へ行って確認する。間違いなく、2時からとのこと。しかし、まだ誰も来られていないと聞いて、少し心配。

 時間つぶしで近くでお茶を飲んでから開演20分ほど前に会場に戻ると、大ホールの開場が始まっており、混雑の中を階段を降りて地下の小ホールへ。

 入口に、いつもの奥さんとお嬢さんの姿がない。
 ボランティアの方がいらしたので年会員証をお見せすると、まだ師匠が到着していない、とのこと。

 ロビーでしばし待っていると、開演10分前に師匠とお嬢さんが到着。持参された、いつもの小さい入場券(栞)を頂戴した。

 会場の中は、いつもよりは多く、七割程度の入りにはなっていたように思う。

 さて、どの位遅れて開演できるのかな、と思って待っていた。

 開演3分ほど前に前座の上がりがかかったが、緞帳は下りたまま。
 なんと、もう一度かかったが、誰も登場せず。
 二時を4分ほどすぎて、出囃子がきこえ緞帳も上がった。
 めくりに「こわめし」と書かれている。「あれ、開口一番は、なしだ」と思っていると、小満ん登場。
 
 その後の感想などを記す。

柳家小満ん『子別れー上・こわめしー』 (33分 *14:04~)
 めくりには「こわめし」とあったが「強飯の女郎買い」が一般的だろう。
 冒頭、“前座にけられまして”と語った。開口一番を頼んだ前座が、いつものように夜の開催だと思っていたらしい。ありえる話だ。私も電話したが、開演時間の問い合わせが多かったと言うのは、しょうがないでしょ。前回は、まだ開演時刻未定とおっしゃっていたし、ホールのサイトにも書いていないのだから。
 なぜ日曜昼開催だったかについて、「最終回のつもりで、昼に公演、夜はパーティーと思っていた」とのこと。ところが、高校の後輩の方を中心とする有志が「それは困る。手伝うから続けて欲しい」と慰留されたので来年も続けます、で会場から大きな拍手。
 奥さんからは、「まだ、やるの」と言われているらしいが、継続となって私も嬉しい。
 そういった、この会そのものの説明に続き、昔の弔いのことへ。葬式では菓子を出すことが多かったと説明し、“いまさか”や“ようかん”を六寸角の菓子折りに入れて持ち帰ってもらった、酒好きの人には般若湯。土瓶に酒を入れ、赤い糸でコヨリをつけてお茶と区別できるようにした、なんてぇマクラを聴くと、開演直前に会場入りしたことなどを、忘れさせる。
 近所のご隠居が九十を過ぎての大往生の葬式で、般若湯を飲み過ぎた熊さんの科白や啖呵が実に結構。
 寝ていたところを起こされた熊さんの「めでたいね、バンザーイ!」も可笑しいし、「しめた」と言う場面での「しめこのうさぎ」なんてぇのは、死語だなぁ。
 熊の「弔いは、ハネたか?」に、近江屋の隠居が「寄席じゃないよ」と返すところも、笑った。
 その近江屋の隠居に向かって「まだ、こっちにいるつもりか」と毒づいたり、吉原に行こうと熊が誘うのに対し、隠居が「子供の着物でも買うか、女房に美味しいものでも食べさせてやれ」と言って「お帰り、お帰り」というと、熊が「おかえり、おかえりだとぅ、犬がついてきたんじゃねぇやい」と返す科白が楽しい。
 しめこのうさぎ、なども含めたその昔の江戸っ子の科白、大事にしたいねぇ。
 紙屑屋の長さんをからかう場面も、楽しい。長さんの懐には三銭のみ。熊さんは親方から前借りした五十五円がある。吉原へ向かう途中、長さんが水たまりがあるから危ない、と熊さんの背中を叩いたため弁松の別あしらえの弁当から汁がこぼれたという場面は、後で吉原の若い衆に対して回想として語った。入れ忘れたのか、元々の筋なのか。今回は、通常の筋書きから割愛している場面もいくつかあるので、あえてそうしたのかもしれない。
 吉原に上がってから豆どん(禿)に弁当をやろうとして「いりまへんわ」と断られ、若い衆にあげるのだが、その若い衆から「しのだ(信田巻)とがんもどきのおつゆが」と言われて「待ってろ、今腹巻から絞ってやるから」でサゲ。褌じゃなく腹巻にするところが、綺麗ごとで結構。
 開演十分前到着、四分遅れで始まったという慌ただしさを感じさせない、科白も含めて楽しい高座だった。

柳家小満ん『子別れー中ー』 (29分)
 一度下がって登場したが、前座がいないので、自分でめくりを替えた。開口一番含め、誰も手伝いがいない、ということか。
 冒頭で「これが独演会というものかもしれません」とは、なんとも言い得て妙。
 酒の上での間違い、ということから本編へ。これは、熊という人物を造形する上でも、重要な点だろう。
 吉原で、かつて品川で贔屓にしていたお勝にバッタリ出会い、結局三日、四日と居続けしてしまった熊さん。五十五円持っていた金もなくなると、遣り手婆さんから体よく追い払うように帰されたが、そのまま家に帰る前に、仲間の家で酒を飲んで勢いをつけた。
 この熊さんは、「酒さえ飲まなければ」良い男で腕のいい職人。また、居続けの後に吉原から真っ直ぐに帰るだけの度胸のない男、という人物造形なのだ。
 女房のお徳さんからは、なぜ帰りが遅くなったかを聞かれ、町内生え抜きの若い衆仲間の六兵衛さんと焼き場で通夜をした、などと嘘をついていたものの、つい、吉原で昔の馴染みに会って逗留したことを白状。お勝から引き留められた自惚れ話に、さすがのお徳さんも、きれた。
 二人の話を聞くでもなく聞いてしまった隣の半治が間に入るが、熊さん「うるせぇ、この野郎」と逆に喧嘩になって、次に吉兵衛さんが仲裁に入るも反省の色なし。
 「本木に勝る末木なし」でサゲ。
 この「中」は、別名「浮名のお勝」とも言うが、通しでなければ滅多には聴けないし、通しでも、地で語られることが多い。しっかりと熊とお徳とのやりとりやその後の騒動を聴けたのは、実に貴重だった。

 2012年2月に「ざま昼席落語会」で聴いた、むかし家今松の通しは、実に結構だったが、「中」は、ほとんど地で語っていたので、「上」「下」の通し、という感じ。
2012年2月12日のブログ
 古くなるが、NHKの日本の話芸で柳家権太楼が「浮名のお勝」として、「中」のみが放送された。東京落語会の高座だろう。それを見たことから、原作者のことなどについて書いた記事があるので、ご興味のある方はご参照のほどを。
2009年4月18日のブログ
 なお、同じ頃に、柳家小三治の本多劇場での通し公演のことについて、京須さんの本の引用を中心に書いた記事もある。
2009年4月21日のブログ

 さて、ここで仲入り。

柳家小満ん『子別れー下・子は鎹ー』 (30分 *~15:49)
 仲入り後、いつものように着替えて登場。どの着物も、さまになる。
 昔の三行半のことを話す中で、ある逸話が「ここだけの話」として紹介された。もちろん、秘密^^
 鎹の説明、玄能の言葉の由来などをしっかりとふってくれた後で、「中」でのいきさつを少し振り返ってから、「手に取るな やはり野におけ 蓮華草」と挟んで、三年後の物語へ。
 お店の番頭が訪ねる場面を割愛し、二人で木場に向かう会話で始まった。女房に会いたいとは思わないが、亀には会いたい、饅頭屋の前を通る度に、饅頭が好きだった亀を思い出し、つい涙が出る、と言ったあたりは、やや「クサいかな」とも思ったが、酒をきっぱり止め、仕事一本の今、熊さんは「あぁ、馬鹿なことをしてしまった・・・・・・」と反省の日々なのだろう。
 亀と熊さんの再会場面、亀は先生から親孝行が大事だと言われた、と言った後で泣き出す。「孝行するから、帰っておくれよ」とせがむ亀を見て、熊さんも涙。やや、こっちも目頭が熱くなったぞ。
 亀が帰った後のお徳さんとのやりとりも、他の噺家さんのように、妙に芝居がかった麺がんなく、自然な母と子のやりとりに思えて良かった。
 亀が熊さんからもらった五十銭を見つけたお徳さん、亀から「お父っあんからもらったんだい」と聞いて、玄能を持っていた手を下げた。
 冒頭の歩きながらの会話から、番頭さんが「お徳さんが見つかれば、私が仲をとるから」と言っていたように、鰻屋に番頭さんがいる。この番頭さんが熊さんとお徳さんの、まさに仲人役として語っている。お徳さんが「熊さんさえ、良かったら」と言うと、番頭さん、「それは大丈夫だよ、ほら、ここでこんない小さくなっている」と言う横に、熊さんが頭を下げている姿が見えた。
 マクラで仕込んでいるので、サゲはもちろん金槌ではなく玄能。
 

 終演時には、受付に奥さんの姿を確認。

 日曜でもテニスを途中で抜けて駆けつけただけはあった、素晴らしい“通し”だった。
 全体として、今年のマイベスト十席候補としたい。
 ほぼ30分づつで演じられたが、「上」では酒の勢いで陽気な熊さん、「中」では、その酒のせいもあってつい居続けし、帰ってからもつい調子にのって、最愛の妻と子を失う熊さん、「下」では、酒を断った、本来の気のいい、腕の立つ職人の熊さんが見事に描かれた。
 単独で「下」を演じるなら番頭さんが熊さんを訪ねる場面から小満んも始めるのかもしれないが、この通しでは、割愛してまったく違和感はなかった。
 
 また、笑いをとろうとする、野暮なクスグリなどもなく、無駄を削いでいることを感じた。
 たとえば、人によっては、熊さんと亀の会話を傍で八百屋が聞いているのを熊さんが怒る、などのクスグリを入れたりするが、私は不要だと思う。

 また、この高座では番頭さんが重要な役割を果たす。これは道理だ。
 鰻屋の二階で番頭さんという仲人をはさんで、うつむいている熊さんとお徳さん、横で笑顔の亀ちゃんという光景は、実に結構だ。それは、この高座全体が、自然にそう思わせたのでもあるだろう。


 小満んの高校の後輩の方を中心とするご贔屓の皆さんの支援もあって、来年もこの会が続くということが、実に嬉しい。

 次回は、1月19日の木曜。平日の夜に戻る。
 ネタは『千早ふる』『姫かたり』『質屋庫』とのこと。
 『姫かたり』は、以前、雲助で聴いたことのある、師走のネタ。
 当日が、旧暦12月22日であることを、十分にわきまえた上でのネタ選びなのだと思う。

 三席とも、実に楽しみだ。
 
 
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by kogotokoubei | 2016-11-28 12:25 | 落語会 | Comments(4)
 小円歌が、なんとあの立花家橘之助の二代目を襲名するとのこと。
 
 落語協会のホームページに、次のような告知が載っていた。
落語協会ホームページの該当ページ

2016年11月22日
平成29年 11月 襲名披露興行決定

平成29年 11月上席より三遊亭小円歌が二代目立花家橘之助を襲名いたします。

 たった、これだけ。相変らずの素っ気のなさ。
 初代の橘之助がどんな人だったのか、とか、まったく関連情報がない・・・・・・。

 サンケイスポーツに、次の記事が載っていた。
サンケイスポーツの該当記事

2016.11.24 00:36
女性三味線漫談の三遊亭小円歌が二代目立花家橘之助を襲名

 落語協会は23日までに、女性三味線漫談の三遊亭小円歌(56)が来年11月、二代目立花家橘之助を襲名すると発表した。

 初代橘之助は明治から昭和初期にかけて活躍した女性音曲師。三味線の名手としても知られ、山田五十鈴さんが主演した舞台「たぬき」のモデルになった。

 「落語協会は23日までに~発表」という表現が、不思議だ。
 明確に「○○日に発表」ではないのは、メディアへの案内が日をまたいで五月雨式に発信されたことがうかがえる。
 要するに、媒体対策が稚拙なのだろう。
 
 もしこういう案内をプレスリリースするなら、次のようなことが本来は原則。
(1)ホームページに、当人小円歌と初代橘之助のプロフィールを掲載。
(2)ホームページ掲載と同期して各媒体に一斉にニュースを配信。
(3)補足する資料を添付し媒体やサイト訪問者の理解度を高める。

 まったく、そういった広報の“いろは”が出来ていないと判断できる。

 税金を使っている法人としては、実にだらしのない組織と言わざるを得ない。

 話題性のある襲名なのに、残念だ。


 この名を継ぐのなら、記者会見をして欲しいくらいだ。

 落語協会に代わって、とは言わないが、ご興味のある方のために、拙ブログの過去の記事から橘之助という凄い芸人について、少し紹介したい。

 2010年の11月3日、三代目三遊亭円馬と八代目桂文楽という師弟の誕生日に、円馬のことを説明する中で橘之助のことにふれた。
2010年11月3日のブログ

 重複するが、今村信雄著『落語の世界』からの引用を含めてご紹介。

 円馬は明治15(1882)年の11月3日に大阪で生まれた。七歳で月亭小勇の名で京都新京極の笑福亭の高座に上がったという。明治41(1908)年に上京し、浮世節の立花家橘之助の弟子になった。橘之助という女性は清元であれ長唄であれ、常磐津だろうが何でも自由に弾きまくる三味線の名手。浮気性で“橘之助の百人斬り”と言われるほど、著名人との浮名を流した人だったらしい。橘之助の元で立花家左近を名乗っていた当時の円馬は、落語のほうは円朝門下の三遊亭円左に師事。この左近時代に、八代目文楽と出会うことになる。その後七代目の朝寝坊むらくを継いで四代目の橘家円蔵に可愛がられるのだが、円蔵と喧嘩して殴ってしまう事件を起こし、大正5(1916)年に大阪に戻ることになる。東京時代は第一次落語研究会の準幹部として活躍していただけに、円蔵をしくじったことを悔やんだに違いない。

 しかし、なぜそんな事件を・・・・・・。
 今村信雄の『落語の世界』ではこのように書かれている。
*ここで「彼女」とあるのは橘之助のことである。
今村信雄 『落語の世界』
 
 しかし彼女はあだ名を女大名といわれたくらい我儘一ぱいだったから、金のある有名な男よりも若い前座などを多く愛した。翌朝彼女は男に向かって「お前気を残すんじゃないよ、これでお湯にでも行ってお出で」と、なにがしかの小遣いを与えたという話だ。
 弟子のむらくとの仲も、同業者の間で相当やかましくいわれていた。むらくと円蔵との喧嘩も鞘当の結果だそうだ。

 当時の記事では、文楽の『芸談 あばらかべっそん』の引用もしているので、ご興味のある方は、ご覧のほどを。

 また、山田五十鈴が亡くなった後で書いた記事では、あの舞台『たぬき』について書く中で、橘之助のことを紹介した。
2012年7月11日のブログ

 同記事では、橘之助という芸人の凄さを物語る逸話も紹介した。

 たとえば、三味線の演奏中三絃のうち二絃が切れても、残りの一絃だけで、三絃ある時と変わらない演奏をして見せたと言われる。この橘之助の役は、山田五十鈴でなければ到底できなかっただろう。そして、今後、誰にも真似ができそうにないように思う。単に三味線が上手いだけでは舞台はつとまらない。

 橘之助は、初代橘ノ円と夫婦となった後に引退し、余生を京都で過ごそうと昭和10(1935)年6月に引っ越しした矢先、北野天満宮そばの紙屋川が氾濫して自宅が流され、夫と共に水死した。慶応2(1866)年生まれ、68歳だった。


 レコードの音源は数多く残している。
 株式会社エーピーピーカンパニー(APP)のサイトには、その演目の解説とともに橘之助のプロフィールも掲載されているのだが、なんと五歳で初高座。
APPサイトの該当ページ

 小円歌が継ぐ橘之助という名は、実に大きい。

 私は、小円歌の、定番の三味線漫談は嫌いではない。
 三味線と歌も結構だし、楽屋のお爺ちゃんたちのネタは何度聴いても笑える。
 しかし、“偉大なるマンネリ”に達する芸とは言えないように思う。

 安心して聴いて見ることのできる、“寄席の色どり”なのだが、漫談ではなくていいではないか、と思っていた。

 三味線も唄も踊りも達者で、美人の範疇に入る(?)と思うので、もっと芸で勝負して欲しい、と思わないでもなかった。

 だから、この襲名には期待する。

 二代目橘之助の浮世節を聴けるのが、今から楽しみだ。


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by kogotokoubei | 2016-11-24 12:36 | 襲名 | Comments(12)
 11月21日は、立川談志の祥月命日。
 2011年のこの日に旅立ったので、丸五年の月日が経った。

 一門では、「生誕80年」ということもあり、よみうりホールで「談志まつり」と題して記念の会があったようだ。
 昨日昼と今日の昼夜のチケットは完売とのこと。

 
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立川談四楼著『談志が死んだ』(新潮文庫)

 
 立川談四楼の「お知らせブログ」では、「談志まつり」昨日20日昼のトリを、談四楼が務めたようだ。
「立川談四楼 お知らせブログ」
 その談四楼の著書『談志が死んだ』から、通算で四つ目の記事。

 この本は、「虚実皮膜」の間を描く、あくまで小説ではあるだろうが、「実」の部分が結構多いように思う。

 特に、談志の晩年の逸話は、実話と思しきこことが多いし、初めて知る内容が印象的だ。

 その、談志晩年の“変調”のことについて。

 談志が亡くなった直後、弟子たちが飲むこと機会が多くなり、その席で、晩年の談志の不思議な言動に接していた一人一人の体験が明かされる。
 こんなのべつに通夜をやる一門はねえなと言いつつ、兄弟弟子は事あるごとに師匠を肴にして酒を飲んだ。談志のネタは山ほどある。あんなこともあった、こんなこともあったとそれぞれのエピソードを出し合い、笑い、みな安心して談志を血祭りに上げるのだった。

 “血祭り”は、あくまでシャレだろうが、弟子が師匠のネタに困らないのは事実だろう。
 そして、その“通夜”では、晩年の談志の不可解な言動が明かされることもあった。
 談四楼の兄弟子、左談次の逸話の部分から引用。

 酒癖と言えば左談次。いやむしろ私は陽気ないい酒だと思っているのだが、談志がそう思ってなかったという話なのだ。
 入門早々、左談次は渋谷にある談志の書斎で小言を食った。帰れと促され、少しムッとしたらしい。私も知っているが、あのマンションのドアは鉄製で重かった。左談次がそれを閉めようというとき突風が襲い、ドアがガッチャーンと凄まじい音を立てて閉まった。左談次が階段を降りかけた時、そのドアから談志が飛び出して来た。
「ごめん山岡クン、言い過ぎた、ヤケになるな」。
 以来、キレると何をするかわからないと談志はインプットされたらしい。何か仕出かす前に帰そう。それには酒癖が悪いという口実がいい。おそらくそんな回路を経て、左談次は酒癖が悪いことになったのだ。新年会など、一門の折々の宴席で談志は言い続けた。「おい、左談次はそろそろ帰せ。あいつは酒癖が悪いんだから」。

 左談次が入門したのが昭和43(1968)年だから、昭和11(1936)年生まれの談志は、32歳。
 「笑点」の初代司会者を昭和41(1966)年5月から昭和44(1969)年11月まで三年半務めている、まさにその時期。
 ちなみに、あの『現代落語論』は昭和40(1965)年上梓している。二十代で書いた本なのだ。
 そんな若くて、仕事にもノリノリの時期、たまたま突風のせいで重たいドアが音を立てて閉まったのを勘違いし、本名で「ごめん山岡クン、言い過ぎた、ヤケになるな」という談志の姿を思い浮かべると、なんとも可笑しい。

 その左談次の言葉から引用を続ける。
「オレたち近過ぎてわからねえんだよ。数年ぶりに会った人が、師匠おかしいと気がつくんだ」
 左談次はそんな前フリから話を始めたのだが、晩年、旅のお供をしたらしい。“ひとり会”と銘打ったのに声が出ないから二席はきつく、サポート役として真打が一人同道した。その打ち上げの席だったという。
「師匠は打ち上げの席は好きだからさ、ウーロン茶を飲んでた。声も出ねえし、こっちはそれが務めだと思うから、飲みながらパアパア言ってたよ。ふと家元の視線に気づいたんだ。オレの手元のグラスを見てんだよ。で言ったんだ、左談次、おまえ酒飲めるのかって。いや、イスから転げ落ちるかと思った。驚いたねえ。じゃ今までの酒癖が悪いから帰れってのは何だったんだよってなもんさ」
 私は左談次に同情したが、左談次は私への同情をより強めたようだ。
「オレは怒鳴られなかっただけマシさ。おまえは大変だったよなあ」
 二人の話に安心したのか、あの、いいですかと談笑が入ってきた。

 この時の談志の言葉、どう考えたらいいのだろう。

 あの、入門当初のドア閉めの音の勘違いから、
 “あいつは危ない”→“酒でも飲ませると何をするかわからない”→“酒癖が悪いことにして酒席では早く帰そう”の発想の背後に「あいつが酒を飲めても飲まなくても」という思いがあって、それが、「酒は飲めない」という勘違いになっていた、ということだろうか。

 そんなことではなく、すでに、談志の記憶は、相当な“斑(まだら)”状態になっていた、と言ってもよいのかもしれない。

 なお、左談次のブログ「ほろ酔い日記」では、現在、彼が癌と戦っている様子が綴られている。
立川左談次のブログ「ほろ酔い日記」

 今日の落語会の昼のトリは、左談次の予定になっていたが、果たして、無事高座を務めることができたのやら。

 さて、談笑が左談次と談四楼の会話に入って、次のような逸話が披露された。
 真打昇進披露パーティー、披露興行と、談志は談笑に付き添った。側から見ても、談笑に期待しているのがよくわかった。一方の談笑も大いに恩義を感じた。だから地方公演への同道を請われた時、喜んで馳せ参じた。
「やはり打ち上げの席でした。師匠がマジマジと私の顔を見るんですよ。なにかと思ったら、おめえもいそろそろ真打になったらどうだって」
「えっ?」
 左談次と私はほぼ同時に声を上げた。
「またまた師匠ぉ、シャレがキツいですよって思わず言いそうになりました。だけど目がマジなんです。しようがないですよね、はあ、よろしくお願いしますと・・・・・・」
「それ言われたの、一回だけ?」
「一回だけでした。すぐに興味が薄れたようで、目がすうっと逸れていきました。こっちは真打にしてもらったお礼奉公のつもりで来たんですがねえ。あのとき初めて、容易ならざる状態だと思いました」

 これまた、理屈では考えられない談志の発言である。
 
 晩年の談志の“変調”について、さらに引用する。
 そうか、そうしてみんな変調に気づいていったのか。ではこのケースはどうだろう。当人が直接言われたわけではないのだが、いっとき評判になったので耳に入っていることを前提に話を進めよう。
 主人公は談幸だ。東京での落語会でのことである。楽屋には談志、前座、慎ちゃん、主催者、それに談志を訪ねた客が三人ばかりいたという。そこへ談幸が入ってきた。出番はないが、いわゆる顔出しである。談幸がニコニコ向かってくるそのとき談志が前座に言ったのだ。「気をつけろ、変なのが入ってきたぞ。財布は大丈夫か、下足隠せ」。何のことはない、談幸は楽屋泥棒の扱いを受けたのだ。
 談吉と言った前座時代、談志と談幸の蜜月は有名だった。一門唯一の内弟子で、談吉は練馬の家を守った。時には談吉の夜席の務めが遅くなると、先に帰った談志が料理を作って待っていることもあり、一門は、あの形態は内弟子ではなく同棲だと囁いた。
 談吉なくしては夜も日も明けぬ談志だった。談吉は完璧な付き人であり前座だった。客があってちょっとした宴会になる。料理を出し、酒を作り、興が乗ると唄、それも懐メロが始まるのだが、談吉はいそいそとカセットデッキを設置し、いいタイミングでスイッチをオンにする。
 驚くべきはそのカセットテープで、談吉は談志の好みを熟知し、曲の順番に凝り、談志が唸るほどの編集の冴えを見せた。小回りと気が利き、一歩先を読んで動く。まさにパーフェクトな前座だった。だから談吉が二ツ目になった時、談志は喜ぶよりむしろ落胆の表情を浮かべたのだ。
 その談吉の談幸が、病状を気遣い、楽屋に顔を見せた。しかるに談志はこれを泥棒扱いしたわけだが、居合わせた前座が大声で「おはようございます、談幸師匠」と発したから、おおそうか、談幸かとなったのは幸いだったが、面と向かっておまえは誰だと言われれば、談幸のショックは計り知れないものがあっただろう。
 談幸師匠と大声を出した前座、彼こそが現二ツ目、当時前座の談吉で、以降一門内では、談吉ってのは代々気が利くんだということになっている。

 談吉という名で、“同棲”とまで称されたパーフェクトな内弟子の前座だった談幸は、この時、二代目談吉に救われたとは言え、家元の異変に気付いたに違いない。

 それは、実に悲しい事実だったことだろう。

 その後、一人立川流から落語芸術協会入りした談幸にとっては、談志のいない立川流に魅力など感じなかったのも道理だろう。

 文中の慎ちゃんとは、談志の長男慎太郎のこと。
 その“慎ちゃん”に関連し、本書では、志らくが仙台に住む長年の談志ファンの方と一緒に病院を見舞いに行った際の逸話も紹介されている。
 この二人の来訪を談志が喜ばないはずがない。よく来た、そこへ座れ、何を飲む、何か食うかという接待である。衰えゆく体にムチ打ち、喋る喋る。二人はふと気がついた。話題となっているのは慎ちゃん、談志の長男にして談志役場を仕切る松岡慎太郎氏のこと。
 がしかし、名前が違うのだ。目と目で慎ちゃんの話題であると確認し合う二人、にも関わらず、談志の口から何度か発せられるのは、聞いたことのない赤の他人の名前なのだった。
しばしして、お大事にと表へ出て、二人同時に「慎ちゃんのことだよね」と言い、再確認したのは当然のことで、志らくはその時点で、Xデーが遠くないことを予感したのではなかったか。

 まだ声帯を取る前のこととされているが、病気は喉だけではない状態だったのだろう。
 あえて、晩年の談志の“変調”の姿をいくつか紹介した。
 命日に相応しくない、というご指摘もあるかもしれない。
 しかし、決して往生とは言えなかった晩年の談志を知ることも、供養の一つではないか、などと、勝手に思っている。

 その晩年との対比で、若き日の談志の姿が、より光り輝く、ということだってあるのではないか。

 著者の談四楼など古参の弟子たちは、そういう談志の若い頃のまぶしい姿に憧れて入門してきたのだ。

 古くからの弟子であればあるほど、過去の談志の芸や人柄を懐かしむ気持ちが強いに違いない。
 そういった過去への郷愁が、本書でも明かされている。
 亡くなってからちょうど一ヶ月後の12月21日、ホテルニューオータニ鶴の間で「お別れ会」が催された。
 一部が、談志と縁のあった方が中心で会費一万円、二部がファンなど一般向けで無料だったようだ。
 一部では、会場のスクリーンに、2007年よみうりホールでの、伝説と称される『芝浜』、二部では、同じ会場で前年2010年に、無理を押して演じられた同じ『芝浜』が、編集されて部分的に上映された。

 その二部の上映に関して、会場で談四楼が感じたことは何だったのか。引用する。

 伝説の07年版同様、大晦日の夫婦の会話のみに編集されているが、弟子としては目をつむり、耳を塞ぎたいビデオである。しかし客の姿も残り少なくなった今、弟子はこれと敢えて向き合った。鬼気迫る、とは褒め言葉だろうか。談志は気力だけで『芝浜』と格闘していた。
 疑問が湧いた。なぜこれを二部で上映したのだろう。アルコールの入った喧噪の中とも言える一部であれば、多少はごまかしが効いたのではないか。そしてあの伝説の『芝浜』のほうをこの二部で上映するのだ。二部の客は手渡されたカーネーションを献花台に置いて合掌してしまうと、無料であるから飲食は供されず、余興もなく、スクリーンを見上げる以外はすることがない。後はもう少しとどまりたい風情を見せつつ帰るしかないのだ。
 (中 略)
「よそう、また夢になると不可(いけ)ねえ」
 スクリーンの中でものすごい拍手が沸き、鳴りやまなかった。わかる、読売ホールにいた客の気持ちは。誰の目にも不可能と映ることを、談志はやり遂げたのだ。だが同時に薄々感じたはずだ。来年の暮は、もう談志の『芝浜』は聴けないかもしれないと。
 映像と音が消え、スクリーンが地の白に戻った時、しみじみと龍志が言った。「昔の師匠は上手かったなあ」。まったくだと、他の三人が声を揃えたのはなぜだろう。山藤顧問の挨拶が甦った。談志をピカソに譬え、ピカソにも談志にもまず写実の時代があったと言った。まさしく我ら四人は写実の時代の談志に魅入られ、その門を叩いたのだ。

 龍志の言葉に同時に声を揃えたのは、談四楼、左談次、ぜん馬の三人。

 私は、このお別れ会には、行っていない。
 しかし、一部と二部とで上映する内容は逆だろう、という談四楼の思いには共感できる。
 もっと言えば、ビデオ上映など必要があったのだろうか・・・と思う。

 いずれにしても、晩年の高座であり、絶頂期のものではない。

 そのビデオの高座について、談四楼は次のように語る。

 2007年と10年の『芝浜』を聴き、昔の師匠は上手かったと龍志が言ったのは、立川流以前の弟子の共通した思いだった。2010年の『芝浜』はもちろん、07年の伝説の『芝浜』も、技術的にはいい出来ではなく、下手である。セリフを噛む。上下は間違え、妙な間さえ空く。これを落語家は下手と呼ぶのだ。
 しかるに会場の感動はどうだ。居合わせた客の誰もが、07年の『芝浜』はよかった、感動した、神が降りたと称え、体力が落ち、ほとんど聞き取れない10年の『芝浜』さえ、涙まじりに、スゴかった、あの人は紛れもなく神だと言い募る。
 ここかと思えばまたあちらと、談志は変貌を遂げた。その速さにとり残された客と弟子がいた一方、変わらず愛し続ける客がいたということか。ああ、半端だなと自分の存在を思う。一門の下と上を、以前と以後と行きつ戻りつしたつもりだったが、それぞれを深く知っちゃいなかったのだ。それでいて両者の橋渡し役のつもりでいたわけで、ま、グレーゾーンもよしとするか。

 “グレーゾーン”とは、言い得て妙でもあるが、談四楼の謙虚さも滲み出る言葉だ。

 本書では、立川流以前の弟子たちが“ら族”として扱われたことも書かれている。
 要するに、没後の新聞やwebのニュースで「志の輔、談春、志らく(、談笑)“ら”を育てた」などと書かれ、古参の弟子が“ら”の一言で括られたので、自虐的に“ら族”と称していたのである。

 しかし、談志一門にとって、実は“ら族”こそが、そのDNAを継いでいる人たちではないか、と私などは思う。

 最後の引用は、その“ら族”の談四楼が振り返る、弟弟子との会話。

 それは、談志が存命中の日暮里寄席か上野広小路亭の後と記憶する打ち上げでのことらしい。
 私がトリだったのは確かだが、それを言った二ツ目が談修だったか錦魚だったか。私はほぼ出来上がり、そろそろオヒラキという頃だった。
「談四楼師匠はけっこう家元のことを悪く言いますよね」
「ああ言うよ、高座でも普段でも。だけでネタにはなってるだろ」
「それはそうですが、私なんか、よく言えるなあと思って・・・・・・」
「キャリアの違いだな。十年二十年の弟子はまだ関係が師弟なんだ。ところが四十年からになると、これが親子になっちまうんだな」
「はあ、師弟の会を親子会と銘打つことはありますけど・・・・・・」
「あんた、尊敬する人はと聞かれたら、師匠って言えるだろ」
「もちろんです」
「だからそこが若いってんだよ。いい年をしたオッさんが尊敬してる人は師匠だなんて言えるかい。ましてや父ですなんてバカらしいや。だけどうちの家元(おやじ)、若えんだよなあ。ま、そこは早婚で出来たセガレだと考えりゃいいんだが、このオヤジ、総領を始めとするセガレたちの不甲斐なさに腹を立ててる。セガレたちも面目ねえとは思ってるんだよ。だから黙ってりゃいいのにこのオヤジ、弁が立つし親子だから遠慮がねえ、ガガッとくるよ。セガレだってヘイヘイ精進いたしますなんて言わねえ。んなことはわかってらあってなもんさ。親子ってそういうもんだろ。だけどこっちはシラフで面と向かって毒づいたりしねえよ。その代わり、いねえとこでネタにして喋る、とまあそんなカラクリ。どう、親子の話、わかった?」
「・・・・・・」
 これが古弟子(せがれ)の、家元に死なれた今も変わらぬ本音なんだがなあ・・・・・・。

 師匠と弟子が、師弟から親子に熟成(?)するには、長い年数のみならず、その関係の密度も濃くなければならないだろう。
 時には「この野郎!」と弟子が思った、理不尽な叱責を幾度も経験しているに違いない。

 その師弟の関係は、立川流以前と以後では、大きく違うはずだ。
 それは、良し悪しの問題ではなかろう。

 談志が絶頂期を迎え「四天王」ともてはやされていた頃の、一人の噺家として、そして師匠としての弟子への接し方と、立川流家元となってからの違い、もあるだろう。もちろん、若い時と年齢を重ねてからでは、自ずと弟子への対応も変わるはずだ。
 落語協会という“置屋”に属し、小さんという師匠に甘えることのできた時期と、甘える相手がいなくなってからの心情の変化、などなど。

 だから、思うのだ。
 いわゆる「立川流四天王」などという言葉をメディアが今も使うことがあるが、それはまったく近視眼な見方だ。

 談志は、立川流を作る前にも存在したし、その頃に入門した弟子もいる。

 そして、没後五年。
 立川流は、いまや名前だけが残っているに過ぎないのではないか。

 楽屋泥棒と間違われた談幸は、弟子を引き連れて落語芸術協会に入会した。
 かつて、上野広小路亭の立川流の寄席は、その談幸が顔づけなどを行っていた。
 
 もはや、一門と言うよりも、個々に、かつては談志の弟子だった噺家が存在しているに過ぎないのだろう。

 ならば、四天王もカンカンノウもない。

 私は、一時、志の輔、談春、志らくを、それぞれに集中して聴こうとした時期がある。
 中には印象に残った好高座もあれば、期待が大きすぎたこともあって、がっかりしたこともある。

 今は、彼等の落語会に、チケット争奪戦(?)に参加してまで行く気にはなれない。
 そもそも、大ホールでの落語会には行くつもりがないのだが、そういう場所での開催が多いことも、彼等と距離が出来た理由だろう。

 しかし、もっとも大きな理由は、寄席を経験していない彼等の高座に、私が好きな噺家の姿を見出せないことなのだと思う。

 それは、彼らの責任ではないが、寄席体験の欠如は、噺家という芸人にとって、小さくはない。

 落語会、寄席には多い年に50~60回出向いたこともある。
 今思うと、仕事をしながら、落語評論家でも席亭でもないのに、異常な回数だったなぁ、と思う。
 今は、せいぜい月に二~三回でいいかな、と思っている。
 できれば寄席を中心に、これまで聴いたことのない噺家さんや、年会員になっている柳家小満んの会などだけでいいかな、という心境だ。
 いろいろと自分や周辺の環境が変化していることも理由だが、一時期集中して行っていた反動もあるかもしれない。
 中堅の実力者の高座でご無沙汰な人も多いが、そういう噺家さんにしても、どうしても聴きたくなってからで良いか、と思う。

 また、ある程度は、現役の若手中堅の噺家さんのことは分かる程度に、これまでの蓄積があるようにも思っている。

 だから、数少ない落語会や寄席では、できるだけこれまで聴く機会のなかった人を中心に選びたいのだ。
 そういう意味で、“ら族”と言われた立川流の古参の噺家さんの高座には、興味がある。
 昨年、龍志を聴いて感心したこともある。
 談志のビデオを眺め、「昔の師匠は上手かった」と言う龍志には、共感できる。

 また、本書の著者である談四楼の生の高座はまだ聴いたことがないので、来年の大きなテーマであり、楽しみだ


 師弟ではなく、親子の関係性を感じ、時には悪口も公言してきた談四楼などの古参弟子に、若き日の談志のDNAの継承を期待している。

 実は、没後、BSで放送されたその“伝説”の『芝浜』の高座を、私は直視することができなかった。
 「どこが、伝説なんだ。昔の談志はもっと上手かったぞ」と思っていた私は、本書を読んで、実に共感することが多かった。
 私にとって生の高座はたったの一度だが、音源や映像で、輝いていた頃の高座を知っている。
 ちなみに、仲間うちの宴会で披露した『道灌』の手本は、談志の音源だ。
 『ねずみ穴』や『源平』など、時おり無性に聴きたくなる音源もある。

 だから、本書を読んで、“伝説”の『芝浜』を「下手」とはっきり言える弟子こそ、談志の芸を継承するに値するのでないだろうか、などとも思うのだった。


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by kogotokoubei | 2016-11-21 21:36 | 落語の本 | Comments(8)

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 今月二度目の落語会は、久しぶりに聴く古今亭志ん輔の独演会。

 日記風ブログ「日々是凡日」で、ネタ出しされている三席の熱心な稽古ぶりが伝わってきたので、楽しみにしていた会。

 実は会場に到着する少し前に、詳しくは書かないが不注意で失態を犯し、自業自得とは言え、少し落ち込んでいた。
 
 気を取り直して聴いた会は、こんな構成だった。
----------------------------------------------
(開口一番 橘家かな文 『たらちね』)
三遊亭わん丈 『國隠し』
古今亭志ん輔 『饅頭こわい』-初演-
カンジヤマ・マイム パントマイム
古今亭志ん輔 『木乃伊とり』-初演-
(仲入り)
古今亭志ん輔 『抜け雀』
----------------------------------------------

 初演の二席は、師匠も滅多に演じなかったはずだし、音源もないのではなかろうか。
 『KAWADE夢ムック 文藝別冊 永久保存版 古今亭志ん朝』の巻末にある志ん朝の演目一覧によると、『饅頭こわい』は「昭和40年に放送記録あり」、『ミイラ取り』は「昭和38年11月11日 第32回若手落語会」、とのみ記されている。

 さて、志ん輔の挑戦的なネタ選びの会、どんな高座になるか楽しみだった。

 会場は、仲入り頃には八割がた埋まっていたと思う。

 それそれの高座について、感想などを記す。

橘家かな文『たらちね』(9分 *18:27~)
 開演時間前に登場。昨年4月、同じ会場での志ん輔と立川龍志二人会以来。
2015年4月30日のブログ
 少し、髪の毛が伸びているのが気になる。もうちょっと、スッキリいきたいねぇ。
 大幅な短縮版なので、評価するのが難しいのだが、初めて聴いた時の方が良かったなぁ。師匠の文蔵襲名披露興行関係で、やや疲労気味か、という印象。
 
三遊亭わん丈『國隠し』 (16分)
 あら、長髪つながり。五月に二ツ目になった。
 滋賀の大津出身で、東京落語界では自分だけというマクラに限らず、出身地をネタにした新作。夫が自分の出身を「京都の東」と言うが、妻から「滋賀の西でしょ」となじられ、夫は、妻が「東京の北」と言うのを「埼玉の南」と反撃するといったような内容で会場は結構湧いていたが、私は古典が聴きたかったなぁ。
 最初聴いた際に、その語りの上手さに驚いた人。長らくバンド活動やDJなども経験した上での落語界入りのようで、話術そのものは、基礎が出来ていると思う。
 この人、私には親近感がある。関西出身で学生時代は九州、その後上京しで落語家、というアチコチ行っている経歴が、私の、北海道生まれで学生時代を関西で過ごし、社会人になってから新潟経由で関東、という根なし草(?)的な経歴と似た印象なのだ。
 そうそう思い出した。古い話になるが、2013年6月に中野での喜多八・三三の二人会で、三三は「円丈一門にも、ああいう人がいるんですねぇ。柳家に入れたいくらい」と言っていた。
2013年6月6日のブログ
 
古今亭志ん輔『饅頭こわい』(『お金こわい』か?) (26分)
 久ぶりにホッピーや王子の居酒屋のマクラが楽しい。はん治、小池屋さんという日記風ブログ「日々是凡日」でお馴染みの名が出て来たが、明治天皇と菊正宗の話は始めて聞いたなぁ。そういった7分ほどのマクラの後の本編には、実に驚かされた。
 「こわい」(≒「嫌いな」)ものは、すべからく志ん輔の身近な物や身近な人物の嫌いな物に置き換わっているのだ。
 志ん輔には申し訳ないが、あまりに可笑しかったので、ネタバレ覚悟で書く。
 ・(ホンキートンクの弾がこわい)撚れたドライヤーのコード→加熱して発火する!
 ・自動販売機の取り口→手が抜けない!
 ・働かないのに「お疲れ様」という小中学生→仕事してないだろ!
 ・畳のヘリ→つまづいて転ぶ!
 など。
 ちなみに、弾には了解をとっているらしい^^
 最後に尋ねられるのは久さん。ことごとく、他の者があげた内容に反論したあげく、この人の「こわい」物は・・・なんと「お金」。
 そこで、日ごろ久さんを良く思っていない連中が用意するのが、金の延べ棒やら金貨やら、石油100万バーレルやら。
 なぜかと言うと、場所は日本ではなく、UAEなのだ!
 後半からサゲの内容は内緒にしておくが、そのスケールの大きな(?)馬鹿馬鹿しさに笑った。
 師匠はほとんど演じなたったと思うが、大師匠志ん生は音源の残しているので、蛇やトカゲや蟻やらが登場するものと思っていたが、まさかまさかの改作。
 現代が舞台なのに、久さんが煙管で一服するなども、妙に可笑しい。
 二席目のマクラで、「会場の反応は予想通り」、と言っていた。
 師匠没後15年の「気の迷い」と表現していたが、こういう遊びも悪くないではないと思う。
 『お金こわい』の次は『女こわい』なども出来そうだ。一人一人がこわいものは、今後、どんどん改作されるに違いない。
 古典オリジナルでも漫談でもないが、自分なりのネタを持れれば、それは貴重だろう。
 師匠にだってあったじゃないの、そういうテッパンのネタ。
 「日々是凡日」の11月16日の内容では、稽古で25分だったようだが、ほぼ同じ所要時間。
「志ん輔日々是凡日」の該当ページ
 と言うことは、マクラを含めて稽古しているんだ。
 宴会の余興のための稽古はネタだけの私とは、当たり前だが、大違い^^

カンジヤマ・マイム パントマイム (19分)
 初めて、二人いることを知った。以前に、「B」一人の芸を末広亭で見ているが、あまり印象が良くなかった。
 「A」が中心なんだねぇ。
 ホームページで、米国留学、教育演劇学博士・・・などを知った。
「カンジヤマ・マイム」ホームページ
 なるほど、「A」さんの方が、舞台慣れしているし、まるで学校の先生のようである。
 結構、楽しく見ることができた。
 寄席にも二人でぜひ出演して欲しいものだ。

古今亭志ん輔『木乃伊とり』 (36分)
 一席目のことについて少し話してから、二ツ目時代の端唄の師匠のことや、お座敷での落語のことなど約12分のマクラから本編だったので、噺そのものは25分足らずか。
 終演後の居残り会で佐平次さんは、母親が清蔵に金をもたせた親心の有難さを、清蔵が涙を浮かべて若旦那に説く場面は、少し芝居がかり過ぎか、とおっしゃっていた。
 なるほど、そう言えないことはない。
 しかし、私は、その後で清蔵の無粋なふるまいを若旦那が声高で𠮟りつけ、今度は清蔵が平身低頭するという流れの中での「落差」が、結構気に入っていた。
 ほろっとさせる場面、十三歳の禿に清蔵が「親を怨んじゃいけねえ・・・なんかあったらオラんとこへ来い」も、くどくなく良かったと思う。
 田舎者の清蔵が、自分についた花魁の“かしく”に酌をしてもらう場面、吉原で初めての体験に表情を崩す清蔵の姿も、下品になる一歩手前の加減で、噺にほどよい艶を与えていたような気がする。
 評価は分かれるかもしれないが、私は、この高座に将来の発展性を感じた。
 円生、談志で有名な噺であり、現役では、何と言っても白酒のこの噺が、爆笑ネタとしてズバ抜けているように思う。志ん輔もそういった比較対象があるのを承知で初演なのだろう。
 彼なりの顔や身ぶり手ぶりを交えた巧みな表現力や独特の間を生かし、少し人情噺の風情を持つネタに仕上げようとしているように感じた。この初演の高座だけで評価するのは拙速だろう。まだまだ、今後の変化や熟成を楽しめそうな予感がした。

古今亭志ん輔『抜け雀』 (36分 *~21:07)
 仲入り後は、古今亭の十八番であり、この人の十八番の一つ。
 全体としては、安心して聴ける高座だとも言えるのだが、私はあまり落ち着いて聴くことができなかった。
 龍志との二人会は昼だったが、終演の四時を超えると超過料金がかかると話していた。今回は、夜九時を過ぎると超過料金かな、と思っていたので、やや終わりの時刻を私は気にしていたが、それは演者志ん輔も同じだったのではなかろうか。
 少し駆け足気味の高座。とはいえ、マクラなしということではなく、タクシーの運転手のことで、「人の良い、道を知らない運転手」と「道を知っている、人の悪い運転手」のどっちが良いか、ということを、自分の体験談をまじえて。
 事故で山手線が止まっていたが、急いでいたので渋谷から乗ったタクシーの運転手に、「一万円しかないけど、お釣り大丈夫」と言ったら請け負って、信号で止まった際に釣り札を数えて見せた運転手。しかし、釣りを受け取ったら五千足りなく、すでにタクシーは去ってしまい、領収書に電話番号も書いていない、という話。やられたわけだ。
 本人のブログによると前日の稽古で42分、とあるから、それより6分縮めている。それでも九時を少し回った。
 小田原宿の相模屋の夫婦の描写などは実に結構なのだが、一文無しの父親が屏風に籠を描く場面なども、本来の所作を演じなかったように感じた。
 志ん輔のホームページでの案内では、仲入りでこの噺、トリが『木乃伊とり』の予定だった。順番を入れ替えたのは、たぶん、こっちのほうがネタとしてこなれているので時間を計算できる、という目論見だったとは察するのだが・・・・・・。


 こういう会は、開口一番は必要かなぁ。悩ましいところだ。
 目をかけている前座の出番はつくってあげたい、という思いもあるだろうからね。
 

 終演後は、佐平次さんと居残り。
 「軽く」とは言いながら、聴いたばかりの志ん輔の高座のことや、私の先週末の旅行の話、ブログや人と人の縁のこと、そして、佐平次さんの落語に歌舞伎に能に旅行など今後の忙しいスケジュールのことなどを話しているうちに、あっと言う間に時間が経ち、帰宅は日付変更線を少し越えたのだった。
 私の失態を慰めていただいた人生の先輩に感謝の居残りだった。
 佐平次さんありがとうございます。

 一夜明けて志ん輔のブログ11月18日付けの記事に、『饅頭こわい』について、“初演と初試みが重なって上手く出来なかった。でもそれで見えて来たこともある。対処の仕方がまだ分からないけどやってみよう”と書かれていた。
「志ん輔日々是凡日」の該当ページ

 真面目なんだよね、この人は。
 良かったじゃないの、「見えて来たことがある」ってぇのは。

 きっと本人にとっては「初演がこわい」という会だったのだろうが、私はどちらの初演の高座も、良かったと思う。

 師匠没後15年の「気の迷い」は、「心機一転」の機会となったのではなかろうか。そんな気がする。


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by kogotokoubei | 2016-11-18 22:27 | 落語会 | Comments(6)
 さて、後編。

 まずは、「坂」である。
 そして、その坂を形成する元(?)は、「上町台地」だ。
 Wikipedia「上町台地」から、引用する。
Wikipedia「上町台地」

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上町台地(うえまちだいち)とは、大阪平野を南北に伸びる丘陵地・台地である。北部は中央区の大阪城付近・天満橋の辺りで、そこから緩やかに小山を形成し、天王寺区・阿倍野区周辺を経て、南部の住吉区・住吉大社付近に至り、その辺りでほぼ平地になり清水丘を以て終わり、長さ12kmに及ぶ。大阪(大坂)の歴史の発祥地であり、要所である。

 この台地の西側にそって、多くのお寺があり、あちこちに坂があるというわけだ。

 しかし、坂の前に、昨日の忘れ物について。

 天王寺区のサイトから、某ホテルのページにリンクして「上町台地周遊マップ」をダウンロードできる。
天王寺区サイトの該当ページ

 そのマップを少しトリミングしたのが、これ。

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 この地図を見て、思い出した。

 空堀商店街のある谷町六丁目周辺から南に下り、谷町九丁目駅近くに、あの神社があった。
 前篇の最後にご紹介した「赤穂義士の寺 吉祥寺」を訪ねる前に、実は山茶花さんと生國魂神社に寄っていたのだ。

 正確には「いくくにたまじんじゃ」、略称「いくたまじんじゃ」。
 いや、地元の人は「いくたまさん」か。
 大阪の人は、神社には親しみをこめて、戎神社は「えべっさん」、住吉大社は「すみよっさん」だからね。

 Wikipedia「生國魂神社」から、写真と概要説明を引用。
Wikipedia「生國魂神社」

 なお、私も山茶花さんも、自分の目で見て足で歩くことを優先しているので、写真はほとんど撮っていない。
 よって、補足のために、こういった公開されている情報の助けをお借りするのだ。
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概要

大阪市中心部、難波宮跡や大坂城(大阪城)から南西方の生玉町に鎮座する。かつては現在の大坂城の地に鎮座し、中世にはその社地に近接して石山本願寺も建立され繁栄したが、石山合戦後の豊臣秀吉による大坂城築城の際に現在地に遷座されている。

この生國魂神社が祭神とする生島神(いくしまのかみ)・足島神(たるしまのかみ)は、国土の神霊とされる。両神は平安時代に宮中でも常時奉斎されたほか、新天皇の即位儀礼の1つである難波での八十島祭(やそしままつり)の際にも主神に祀られた重要な神々で、生國魂神社自体もそれら宮中祭祀と深い関わりを持つとされる。また、同様に大坂城地から遷座されたという久太郎町の坐摩神社とともに、難波宮との関わりも推測されている。その後中世・近世を通じても崇敬を受け、戦前の近代社格制度においては最高位の官幣大社に位置づけられた、大阪の代表的な古社の1つである。

古くからの社殿・神宝は幾多の火災・戦災によって失われたが、現本殿には「生國魂造(いくたまづくり)」と称する桃山時代の独特の建築様式が継承されている。また、7月11日・12日の夏祭など古くからの祭りが現在まで続けられている。

 元は大阪城の場所にあったんだね。

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 この鳥居の前に大型バスが止まり、「あら、ここも観光ツアーで外人さんの団体か」と山茶花さんと話していたら、バスからは、結婚式に参加する方々が、ぞろぞろ降りてきた。
 
 境内に入ると、昔ながらの姿で花婿さんと花嫁さんが歩く姿を拝見。
 今ではホテル内の神前結婚場が圧倒的に多いだろうが(私もそうだった^^)、なかなか由緒正しい結婚式だねぇ。

 ここは、落語愛好家にも馴染みの神社。

 そう、あの米沢彦八の碑があり、上方落語協会が「彦八まつり」を開催する神社である。

 彦八が、境内の小屋に「当世仕方物真似(しかたものまね)」の看板を出して落語を演じた頃は、生玉神社。
 近松門左衛門の『曽根崎心中』にも彦八と神社は登場する。お初を生玉に連れ出した田舎者が一人で見に行くのも彼の物真似だった。

 私は、彦八の碑の横にある喫煙所で、山茶花さんに断って、まだやめられない煙草を一服したのだった。

 さて、この後に、「赤穂義士の寺 吉祥寺」を経て、「天王寺七坂」めぐり。

 ふたたび、「上町台地周遊マップ」から。

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 吉祥寺の通りの反対側に「坂」の表記がたくさんあるのを確認できる。

 北から順に「真言坂(しんごんざか)」、「源聖寺坂(げんしょうじざか)」、「口縄坂(くちなわざか)」、「愛染坂(あいぜんざか)」、「清水坂(きよみずざか)」、天神坂(てんじんざか)」、「逢坂(おうさか)」の七つ。


 坂の一部を散策しながら、天王寺方面に向かったのであった。

 なお、「上六 うえいくネット」というサイトに「天王寺七坂めぐり」について詳しい情報があるので、ご興味のある方はご参照のほどを。
「上六 うえいくネット」の該当ページ

 
 時間の関係もあるので、七坂すべて散策、というわけにはいかなかったが、まず、「愛染坂」を下って、大阪で最初に夏祭りがあると山茶花さんが説明してくれた、「愛染堂勝鬘院」へ。

 天王寺区のサイトに、天王寺七坂の説明ページがある。
天王寺区サイトの該当ページ

 愛染坂の説明文をお借りする。
愛染坂(あいぜんざか)
[2013年4月9日]

その名のとおり、坂の下り口ある愛染堂勝鬘院から名付けられた。愛染さんの夏祭り(六月三十日)は大阪夏祭りの先駆けとして知られ、境内の多宝塔は市内最古(文禄三年)の建造物で、重要文化財と指定されている。
大江神社には「夕陽岡」の碑があり、このあたりからの夕焼けは今も美しい。

 サイト内の三枚目の写真の左側(南側)の建物は星光学院。
 山茶花さんと私は、ここから下って行った。

 Wikipedia「天王寺七坂」から、愛染坂の写真を拝借。
Wikipedia「天王寺七坂」

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 空堀商店街の坂から始まり、この天王寺七坂を歩き始めて、私は山茶花さんが力説する、「大阪の地元でも知らない人が多いですが、大阪は坂の街ですよ」に、十分、心と体で納得していた。

 愛染堂勝鬘院を訪ねた。
「愛染堂勝鬘院」のホームページ
 愛染かつらがあった。山茶花さんが「ご夫婦円満のために拝まれたら」と笑っておっしゃったが、今さら、と見ただけであった^^

 哲学の椅子、があった。愛染堂勝鬘院のホームページには、こう説明されている。

哲学の椅子

そもそも、仏教とは、宗教であると同時に、正しい心で生きていくための哲学であるともいわれています。

心を穏やかに保ち、落ち着かせることによって、恨みや憎しみが消えたり、平穏で真っ直ぐな考え方が生まれるのです。

この哲学の椅子に坐り、観察・思索を普段から思考をめぐらせて新たな発明や発見をしてください。

 どうも気が進まず、座らなかった^^

 次は、清水坂。
 天王寺区のサイトから引用。
清水坂(きよみずざか)
[2013年4月9日]

新清水清水院に登る坂道をいう。高台にある新清水寺境内からの眺望は格別で、さらに境内南側のがけから流れ出る玉出の滝は、大阪唯一の滝として知られている。
また、この付近一帯は昔から名泉どころとして知られ、増井・逢坂・玉手・安井・土佐(有栖)・金龍・亀井の清水は七名泉と呼ばれている。

 あっ、ということは「スーパー玉出」は、玉出の滝が由来か。
 見た目も含め、てっきりパチンコの玉が出る、をかけているのかと思ったが。
 さて、どちらが正解かは、不勉強で分からない。

 Wikipediaから、清水坂の写真を拝借。

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 「七坂」すべてを歩いていると、真田幸村ゆかりの地をめぐる時間がなくなるので、坂の散策は二つまで。

 歩かなかったが、Wikipedia「上町台地」から源聖寺坂の写真を借用。

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 上町台地についても、引用する。

空堀跡以南の変化において屋敷地・町人地の破却に増して大きかったものは、四天王寺にかけて寺町群が形成されたことである。大坂市中に点在していた寺院のうち浄土真宗以外の寺院が上町台地上に移転され、東成郡小橋村・東高津村・天王寺村・西成郡西高津村領内に、小橋寺町(12ヶ寺)・八丁目東寺町(11ヶ寺)・八丁目中寺町(15ヶ寺)・八丁目寺町(13ヶ寺)・谷町八丁目筋寺町(16ヶ寺)・生玉筋中寺町(24ヶ寺)・生玉中寺町(12ヶ寺)・生玉寺町(14ヶ寺)・天王寺寺町(14ヶ寺)・下寺町(25ヶ寺)が形成された。

以後今日に至るまで寺院の木々の緑が上町台地を彩っている。歴史のある寺や神社、「天王寺七坂」と呼ばれる台地西端の崖地を降りる坂道、空襲から焼け残った空堀や谷町六丁目付近の長屋の家並みや商店街、上六の繁華街、昭和町・田辺・帝塚山などの戦前の郊外にあたる屋敷町、天王寺公園など、上町台地には緑の少ないと言われている大阪の都心でありながら、風情や緑のあるところが数多く残されている。

 というわけで、空堀から天王寺七坂は、まさに大阪の都心でありながら、緑も多く、風情があったのだよ。

 なにより、山茶花さんの名ガイドで、大阪が坂の街であることを、しっかり歩きながら体感した。
 埋立地の梅田や難波しか知らない大阪の人は、大阪がこんなに坂のある街とは思わないだろう。
 さて、坂めぐりをしながら、山茶花さんと私は、落語『天王寺詣り』や『鷺とり』の舞台、四天王寺へやって来た。

 昼食をとった「惣」で、山茶花さんから大阪市交通局作成のチラシ「幸村が駆け抜けた大阪-真田幸村(信繁)決戦の地マップ-」をいただいていた。

 このチラシは同局のサイトからもダウンロードできる。
大阪市交通局サイトの該当ページ

これが、中央の地図部分。
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 この中の右上の「天王寺エリア」が、今回の「真田の大阪」散策のお目当て。

 まずは、四天王寺に立ち寄る。

 大坂交通局のマップには、こんな説明があった。

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 Wikipedia「四天王寺」から、文章と写真を拝借。
Wikipedia「四天王寺」

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四天王寺(してんのうじ)は、大阪市天王寺区四天王寺にある寺院。聖徳太子建立七大寺の一つとされている。山号は荒陵山(あらはかさん)、本尊は救世観音菩薩(くせかんのんぼさつ)である。「金光明四天王大護国寺」(こんこうみょうしてんのうだいごこくのてら)ともいう。

『日本書紀』によれば推古天皇元年(593年)に造立が開始されたという。当寺周辺の区名、駅名などに使われている「天王寺」は四天王寺の略称である。また、荒陵寺(あらはかでら)・難波大寺(なにわだいじ)・御津寺(みとでら)・堀江寺(ほりえでら)などの別称が伝えられている。

宗派は天台宗に属していた時期もあったが、元来は特定宗派に偏しない八宗兼学の寺であった。日本仏教の祖とされる「聖徳太子建立の寺」であり、既存の仏教の諸宗派にはこだわらない全仏教的な立場から、1946年に「和宗」の総本山として独立している。
 何と言っても、聖徳太子だからね。
 歴史について、もう少し引用。

四天王寺の草創については『日本書紀』に次のように記されている。

用明天皇2年(587年)、かねてより対立していた崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏の間に武力闘争が発生した。蘇我軍は物部氏の本拠地であった河内国渋河(大阪府東大阪市布施)へ攻め込んだが、敵の物部守屋は稲城(いなき、稲を積んだ砦)を築き、自らは朴(えのき)の上から矢を放って防戦するので、蘇我軍は三たび退却した。聖徳太子こと厩戸皇子(当時14歳)は蘇我氏の軍の後方にいたが、この戦況を見て、白膠木(ぬるで)という木を伐って、四天王の形を作り、「もしこの戦に勝利したなら、必ずや四天王を安置する寺塔(てら)を建てる」という誓願をした。その甲斐あって、味方の矢が敵の物部守屋に命中し、彼は「えのき」の木から落ち、戦いは崇仏派の蘇我氏の勝利に終わった。その6年後、推古天皇元年(593年)、聖徳太子は摂津難波の荒陵(あらはか)で四天王寺の建立に取りかかった。寺の基盤を支えるためには、物部氏から没収した奴婢と土地が用いられたという(なお、蘇我馬子の法興寺は上記の戦いの翌年から造営が始まっており、四天王寺の造営開始はそれから数年後であった)。

 蘇我氏、物部氏と聞くと、落語『お血脈』を思い浮かべてしまうのだ。

 この地域は、聖徳太子にゆかりの地名などがあって、たとえば、夕陽ケ丘は地名にも駅名にもなっているが、それは、聖徳太子がその場所で夕陽を眺めたとされているから、と名ガイドの山茶花さんにお聞きした。

 また、飛び出し注意の標識まで、聖徳太子^^


 その「てんのうじさん」に入る。
 広い境内。
 さすがに、落語に登場するような覗きカラクリはなかったなぁ。

 日本三大鳥居の一つの大鳥居には、しっかりとチリトリがついていた^^

 Wikipediaから、亀の池の写真を借用。

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 山茶花さんによると、ミドリガメを捨てる人が多いらしい。
 カメだって、大事なペット。しっかり飼って欲しいものだ。

 少し休憩をとって、次は一心寺。

 交通局のマップの説明は、次のように説明されている。

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 抜け穴の井戸の跡を見た。
 う~ん・・・という感じ。

 しかし、一心寺では、その見事な現代風の仁王像に圧倒された。
 Wikipediaから借用する。
Wikipedia「一心寺」
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 なぜ、こんな現代彫刻の仁王なのかということや、「骨仏の寺」と言われる理由などについて、Wikipediaから引用する。
小堀遠州好みの数奇屋「八窓の茶室」や、大坂城の三の丸玉造門を移設した「黒門」と呼ばれた大きな山門も有名であったが、大阪大空襲ですべて焼失した。戦後伽藍の再建と10年毎の骨仏作りが徐々に進んだが、特に建築家でもある現長老(高口恭行)の作った鉄とコンクリートの斬新な山門(1997年(平成9年)完成。彫刻家・神戸峰男による阿形像・吽形像や、日本画家・秋野不矩による天女像がある)や、庫裏・信徒会館である日想殿(1977年(昭和52年)完成)など現代建築による施設も見所の一つである。

骨仏

盆の間だけの施餓鬼法要が年中無休でできる寺として知られ、また宗旨に関係なく参詣や納骨を受け入れる寺でもあったため、全国から多くの納骨が集まった。1851年(嘉永4年)に遺骨数万体を集めて最初の大きな骨仏(阿弥陀仏)を作り、1887年(明治20年)以後10年ごとに集まった納骨で骨仏を作っている。

太平洋戦争期の大空襲で戦前の分は焼失したが、戦後1947年(昭和22年)から骨仏作りを再開(この際、空襲で焼失した戦前分の骨仏の残骸をかきあつめて第七期骨仏として完成)、現在も年中無休で年2万ほどの法要と納骨を受け入れ、10年分をあわせて骨仏が作られている。現在は第七期から第十三期(2007年(平成19年)開眼。1997年(平成9年)から2006年(平成18年)末まで)の骨仏が安置されている。

宇野浩二の小説にもしばしば骨仏が描かれている(『思ひ草』など参照)。

 山茶花さんからも、長老が一級建築士であると説明があったなぁ。

 一心寺は、空襲の被害に遭っているんだねぇ。
 そう考えると、空堀周辺の街並は、実に貴重だなぁ。

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 さて、一心寺は、上の交通局のマップで分かるように、茶臼山のすぐ麓。

 しかし、そろそろ足腰に疲れの出てきた幸兵衛は、茶臼山ではなく、幸村終焉の地、安居神社を、今回の散策のトリと選んだのだった。

 よって、茶臼山は、以前に山茶花さんが訪ねて撮った写真をお借りすることにしよう。

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 一心寺から、多くの他の観光客の方にまじって、道をへだてた安居神社へ。

 まず、この神社のことを、Wikipediaから引用。
Wikipedia「安居神社」

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安井神社(やすいじんじゃ)とは大阪府大阪市天王寺区にある神社。安居天満宮ともいう。安居天神、安居神社とも。

創建年は不詳であるが、当社は少彦名神が祭られており、天慶5年(942年)から菅原道真が祭られるようになったと伝えられている。菅原道真が大宰府に流されるときに、風待ちのために休息をとった為にその名がついたという伝承がある。

明治に書かれた『大阪けんぶつ』では、当社は菅原道真ではなく少彦名神を祀る神社であり、道真が休んだから「安居」となり、近くに天王寺三名水の井戸があることから「安井」となったと伝えられるが、考証がないため信じられない、としている。境内には桜や萩などがあり、茶店もあって見晴らしよく、遊客も多かったという。摂津名所図会、浪速名所図絵でも花見の名所として選ばれている。

大丸の創業者の下村彦右衛門正啓がよく信仰していたので大丸天神と称されることがある。

また、大坂夏の陣で真田信繁(幸村)が当神社境内で戦死したと伝えられ、境内に戦死跡之碑が、他に古来、名水特に七名水として名を馳せた安居の清水(別名:かんしずめの井)の址などがある。

上方落語の「天神山」の噺の舞台としても登場する。同じく登場する一心寺とは国道25号線を挟んで向かい合わせにある。

 しっかり、落語『天神山』のことも書かれている。
 かつて、小高い場所にある安居神社のあたり一帯を天神山と言っていたのが、落語のお題になったのだ。

 枝雀のこの噺を思い出すねぇ。この日は、狐は見かけなかった^^

 こちらが、幸村戦死跡之碑。

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 歴史に「もし」はタブーとはいえ、夏の陣で、幸村と後藤又兵衛の戦略が一致していたら、大勢には影響はなかったかもしれないが、幸村の死に場所は違っていただろう。


 さてさて、今回のブラ幸兵衛は、幸村終焉の地、安居神社でお開き。
 
 この後、山茶花さんと私は、地下鉄御堂筋線に乗る前に通天閣近くでお茶を飲んだ。
 散策を振り返ったり、落語や幸村のこと、大河のことなどで、ふたたび話に花が咲く。

 NHK大河「真田丸」を見ていると、どうしても「?」と思うことが多いのだが、山茶花さん曰く、「史実を元にしたフィクション」とNHKも言っているらしいので、目くじらを立てて見るのは大人気ないかな・・・・・・。

 でも・・・私の場合は、気になるのですよ^^

 これまた山茶花さんによると、あの番組は時代考証の担当が大筋をつくって、三谷幸喜はそれに科白などをつけているだけのようで、もし史実と違っているなら、それは三谷の責任ではないのでしょう、とのこと。

 そうか。
 時代考証の人が、たとえば、大野治長を悪者にしたくないのか^^
 私は、秀頼は大野と茶々の子だと思っている。


 とにかく、大いに有意義な大阪めぐりだった。

 拙ブログを介したご縁は、これまでにも「居残り会」のお仲間などにつながっているのだが、範囲は関東地区どまりだった。

 まさか、ブログのご縁で上方にお友達ができ、一緒に大阪を散策できるとは思わなかったなぁ。

 山茶花さん、本当にありがとうございます。


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by kogotokoubei | 2016-11-15 22:08 | 小さな旅 | Comments(2)

 なぜ、このような題なのかは、おいおいと。

 先週の土曜日は、京都で大学の同期会。

 宿泊するホテルに集合した後で、京都開催で恒例となった、同期で若くして亡くなった仲間のお墓詣り。
 十年ぶりに彼女のご長男にお寺でお会いすることもできた。元気そうで何より。

 その後は幹事が予約してくれた祇園の洒落たお店で懐石料理。
 同期の男性七名と女性五名に、一年先輩が飛び入り参加で十三名。

 懐かしい話や最近の諸々の話題で、食事も酒も進む。

 二次会は、昨年好評だった同じお店。
 生バンドでオールディーズの演奏があり、踊れるのだ。
 懐かしい曲で、つい飲んで踊って大騒ぎ。

 歌って踊って喉が乾くこともあり、還暦過ぎの面々が、飲み放題でもあり、まぁ飲むこと飲むこと^^

 その後、ホテルに戻り一番広い部屋で缶ビールを飲みながら雑談の後、私の余興の落語。

 ネタは『夜の慣用句』と『二人癖(のめる)』にした。 
 前者は六月のテニス仲間との合宿で好評だったのだが、今回は、やや酒のせいもあり途中を抜かしたり・・・すべったなぁ。
 『二人癖』で、少しは挽回できたように思うが、とにかく結構飲んでいるので、演じ手も聴き手も、よく憶えてはいないだろう^^

 翌日13日の日曜は、ホテルで朝食の後、幹事部屋に集合して来年の場所と時期の相談。
 昨夜はいろいろ話が発散したが、一気にまとまった。幹事になってしまった。
 その後、チェックアウト。
 京都タワーの割引券があるので全員でタワーに昇った。
 なるほど、タワーからの眺望が、タワーが見えないから京都で一番良い眺めということか。

 その後、ご一行は紅葉を散策ということなのだが、私は皆と別れて、大阪へ。

 実は、拙ブログに4年ほど前からコメントをいただいている方、山茶花さんと「真田丸」の大阪を散策する約束だったのだ。
 山茶花さんは落語のみならず演劇や音楽など幅広い趣味を持ち、今春年季が空けた桂りょうば(前田一知)を、中島らもが主宰していたリリパットアーミーで俳優としても観てきた人。「あさが来た」で番頭役を演じた山内圭哉も、リリパットで観ている。また、同劇団での桂吉朝の名演(?)の数々にも接してこられた方だ。佐々木蔵之介は、軽演劇で“犬”の役を演じた頃から知っている、とのこと。

 山茶花さんとは、当代文枝襲名への小言の記事にいただいたコメントが最初だった。

 メールでご紹介いただいた、山茶花さんお奨めの「真田丸」名残りの大阪、そして、「坂」の大阪、大阪人も知らない大阪、を散策するのを楽しみにしていたのだった。

 おりしも、NHK「ブラタモリ」は、二回続けて大阪特集だった。

 あやかって(?)、「ブラ幸兵衛」とした次第。

 最初は空襲からのがれた街並が残る「空堀商店街」ということで、午後一時に谷町六丁目でお会いする予定だったのだが、少し早めに行けそうだったので、私の勝手で早めてしまったのは申し訳なかったなぁ。

 谷町六丁目駅近くで山茶花さんとお会いしたら、とても初対面のような気がしなかった。
 ブログのコメントをきっかけに、最近ではメールで頻繁に落語のことや真田丸のこと、またラジオ番組のことなどをやりとりしているのだった。
 
 挨拶もほどほどに、さっそく、空堀商店街へ。
 そうそう、ここは、映画「プリンセス・トヨトミ」の舞台でもあった。

 Wikipdia「空堀商店街」から冒頭の文と写真を拝借。
Wikipedia「空堀商店街」

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 この入口から先が、ずっと坂が下っているのだ。

空堀商店街(からほりしょうてんがい)は、大阪市中央区南東部にある商店街。

 大坂冬の陣後に埋め立てられた大坂城南惣構(みなみそうがまえ)堀の遺構である空堀通の西半分、松屋町筋から上町筋に至る中央区側の東西約800mのアーケード商店街。2009年(平成21年)3月には「新・がんばる商店街77選」に選ばれた。

 「がんばる商店街」に選ばれたとのことだが、日曜日はがんばらない、お休みのお店が多かった。
 よって、それほど人通りも多くない。

 あくまで、地元の方たちの商店街なのだなぁ。

 「それにしても、大阪商人なら、真田丸人気に便乗して観光客目当てでお店開けそうなもんやけど・・・それが、空堀ならではかもしれませんね」と山茶花さん。
 その通りだと思う。
 日曜が休みなら、休もう。
 あくまで、地元の方に愛され、地元の方のための商店街であって、儲けのため、などと媚びることはないのである。
 とはいえ、大阪では有名らしい「激安スーパー玉出」はしっかり開いていた^^
 
 空堀商店街の近くには、昔の長屋を再生して複合ショップにしている場所があり、それぞれ「惣(そう)」「練(れん)」、「萌(ほう)」と名づけられている。
 あら、「ほうれんそう」じゃないか。

 先駆けとなった「惣」のホームページから引用。
「惣」のホームページ
惣について

惣は平成14年7月にオープンしました。

取り壊される寸前の大正時代の長屋。その古き良きたたずまいを時代の流れのままい失ってしまうのは勿体ない。
2連の長屋が複合ショップとして再生されました。

空堀一帯は中央区の中でも空襲の被害が比較的少なかった地域。惣のような古い建物が数多く残っているのです。老朽化も激しく取り壊される宿命の古い家屋たち。懐かしい景色が残るとホッとします。

平成15年には惣から歩いて5分の場所に旧宮家のお屋敷を改装した複合ショップ練がオープンしました。

惣は空堀の長屋再生計画のさきがけとなる建物であり改装当初より地域の皆様やお近くの会社勤めの皆様まで幅広い年齢層の方から変わらぬご愛顧を頂戴しております。

平成18年には惣の南側に新複合ショップ惣南長屋がオープンしました。
より賑やかになった惣。 皆様のお越しを心よりお待ち申し上げております。

 写真も、拝借。
 どうです、この草ぶき屋根の、なんとも言えない、あったか~い雰囲気。

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 お目当ての一つであった「惣」が開いていて良かった。

 一階の「CRYDDERI CAFE (クーデリーカフェ )」で、日替わりカレーとお茶のセットで、山茶花さんと昼食。

 料理を待つ間に山茶花さんから、たくさんのお土産をいただき、恐縮しっぱなしの幸兵衛だった。

 美味しいカレーをいただきながら、話は落語や幸村のことで盛りあがる。

 店の外で、カフェのお隣の「モワティエ」のケーキを食べていた、アジアからの観光客と思しき女性二人連れがいた。どちらから来られたのか聞いたところ韓国の方だった。
 どうして「からほり」を知ったのか尋ねたらネットで見つけた、とのこと。
 へぇ、ネットで、からほりを・・・・・・。
 彼女たちにしてみれば、大阪観光の穴場として来たのだろうか。
 もしかすると、お目当てにしていたお好み焼き屋さんなどが休みで、少しがっかりだったかもしれないが、お好み焼き屋さんはいくらでもあるからね。

 さて、空堀の後は、次第に南へ下がって行く。

 まず、寺町街を歩く。
 山茶花さんがおっしゃるには、京都よりもお寺の数は大阪の方が多いらしい。

 後で調べたら、一位は愛知、その次が大阪で、京都は兵庫、滋賀に続く五番目だった。

 なるほど、上町台地の西側で南北を縦断する道、松屋町筋(まつやまちすじ→地元の方は「まっちゃまちすじ」。落語にもたびたび登場する)に沿って、お寺がずいぶんたくさんあるのだよ。

 気づかず通り過ぎるような、高層ビルの一階がお寺、というのもたくさんあった。

 多くのお寺の中で、「赤穂義士の寺 吉祥寺」が目を引いた。
 山茶花さん、「あるんですよ、義士のお墓が」とのことで、迷わず立ち寄る。

 同寺のサイトによると、足軽ということで切腹を免れた寺阪吉右衛門が、四十六士の遺髪、遺爪、鎖帷子等に銀十両を添えて江戸では幕府に遠慮して墓の出来なかった義士たちの冥福のための建碑を依頼したとのこと。
「義士の寺 吉祥寺」サイト

 あの『最後の忠臣蔵』(『四十七人目の浪士』)の寺阪吉右衛門由来の寺ではないか。

 この寺には、なんと、四十七士討ち入り姿の石像がある。

 こちらが、山茶花さん撮影の写真。

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 この後も、天王寺下寺町のお寺を眺めながら、真田幸村ゆかりの場所と、坂の街大阪の名所をめぐるのだが、その内容は後編、ということで。


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by kogotokoubei | 2016-11-14 21:36 | 小さな旅 | Comments(6)
 落語協会のホームページに、来春の真打昇進披露興行の案内が掲載された。
 
 相変わらずの愛想のない内容だが、引用する。
落語協会ホームページの該当ニュース
2016年11月11日
平成29年 春 真打昇進披露興行

平成29年3月下席より

・林家ひろ木
・春風亭朝也 改メ 春風亭三朝
・柳家ろべえ 改メ 柳家小八
・三遊亭時松 改メ 三遊亭ときん
・鈴々舎馬るこ

前売り販売開始:1月21日(土)  ※国立演芸場のみ4月1日(土)より
お問い合わせ:一般社団法人落語協会 03-3833-8565
チケットぴあ:http://t.pia.jp/
Pコード入力または音声認識予約 ( 0570-02-9999 )
ぴあプレミアム会員専用 ( 0570-02-9944 )


 朝也が“三朝”とは知らなかった。
 ろべえはすでにご存じの方も多いと思うが、“小八”を襲名。
 時松が“ときん”・・・意外な感じだ。

 ひろ木、馬るこが改名するように思っていたが、今のままか。

 落語協会HPでは、相変わらず、寄席の日程(主任の名も含む)などは、文字ではなくポスターが載っているのみ。

 「知りたきゃ、ポスターを見ろ」ということだ。

 実に傲慢かつ不親切なサイト。

 そのポスターの日程部分のみをコピペして載せる。

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 来年のことなのだが、もうじき今年も暮れようとしている。

 年が明ければ、三月なんて、あっと言う間。

 今から、どの日をお目当てにするか考えても、鬼は笑わないだろう。

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by kogotokoubei | 2016-11-11 20:45 | 落語協会 | Comments(2)

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立川談四楼著『談志が死んだ』(新潮文庫)

 立川談四楼の『談志が死んだ』から、三度目の記事。

 談春の『赤めだか』を書評で褒めたことで、師匠談志から理不尽と思われる叱責を受けた談四楼は、毎晩深酒をするようになった。

 談四楼は、家の近くのかかりつけの医者を訪ねる。
 いっそ倒れて入院という事態にでもなれば楽になるのにとも思ったが、私は因果と丈夫だった。でもさすがに体が音を上げた。胃がシクシク痛むのだ。午前の診療が終わるギリギリに近くの藤畑医院に出かけた。
「続いてるんでしょうね、酒席が。まあ、ほどほどにと言っても聞く人ではないから」
 何年も前、藤畑先生の指導で行ったピロリ菌の除去に私は失敗していた。確か二週間酒をやめ、規則正しい生活をし、その間に薬を飲み続けるというものであったが、三日ともたずに挫折した。
「例の薬、二週間分ください」
「だから、それを決めるのはこっちの仕事だって」
「いや申し訳ない。あれよく効くもんだから」
 いつもの会話を交わすうち、思いついた。
「先生、このあと『マチス』へ行く?」
「そう、いつも通り。軽く食べて家に帰って昼寝」
「ちょっと談志の病状について聞きたいんだけど」
「ああ聞いてる。喉の変調だったよね」
 子供から年寄りまでの患者を抱え、町医者は信じられないほどの激務だが、それでもこの医師は休みが合うと落語会に来てくれる。寝る前の楽しみは一杯飲(や)りながらの落語のCDで、わけても志ん生の熱狂的なファンだ。
 この部分を読んで、私もピロリ菌の除去をしようかと思ったが、禁酒が長く続くと聞いて尻込みしたので、酒のみ同士(意気地なし同士?)として親近感をおぼえた。
 
 さて、気になるのは、かかりつけの町医者藤畑先生との会話。
 喫茶店に毛が生えた規模の「マチス」は、ランチタイムの客が引いたところだった。私は朝食兼昼食を済ませていたので、コーヒーを頼んだ。そしていつも同じ時刻に注文してあるのであろうランチが出来上がった時、藤畑医師がやってきた。
 (中 略)
「食べながら聞いてよ。勘定はオレが持つからさ」
「じゃ、甘えようかな。断わっておくけど、僕は主治医じゃないから推測の域でしかものは言えないよ。もっとも主治医当人には守秘義務があるけどね」
「わかってる。実は師匠がさ・・・・・・」
 誇張せず、過小でもなく、ここ数年の談志の病状と言動をありのままに話した。もちろん、怒鳴りつけられたことは言わなかった。サラダまできれいに平らげ、コーヒーが届いたところで藤畑医師が口を開いた。
「まずは老人性のうちが考えられるね。それもかなり嵩じてる」
 思い当たることがあり、私は言った。
「六十代半ば頃からかな、オレは老人初心者だ、老いにどう立ち向かっていいかわからないって高座でも言うようになって」
「五十代で老いを意識する人は少なく、七十代はもう加速度的に老いを実感してたいて諦めの境地になるんだけど、難しいのは六十代なんですよね。老いを自覚するんですが、それまでクオリティの高いことをやってきた人ほど認めたがらない傾向があるよね」
 談志はまさしくそのタイプだと実感する。捩じ伏せようと老いと戦い、徐々に劣勢となる。そういことだろうか。
「糖尿の気は?」
「あります。弟子に文都というのがいるんですがこれがかなりの糖尿で、二人が会うと数値の言いっこをしてます。さも自慢気に」
「そうか困ったな。糖尿があるのか。そこへもってきてアルコールと睡眠導入剤だろ。これ問題だな。アルコールは相当飲む方?」
「いや、そんなに強くない。酒場は好きですが、量は大していかないです。浴びるほど飲むのは弟子の方です」
 私をチラと見て、藤畑医師は続けた。
「導入剤は?」
「昔っから。私が入門した昭和四十五年にはすでに飲(や)ってました。当時は、あのほら、でかい錠剤の、そう、ハイミナール。通称ハイちゃんてやつ」
「ほう、ハイミナールとは懐かしい名を聞きましたな。でもあれ、危険なんだよ」
「聞いてます。当時、中毒者から死人や廃人がずいぶん出たって」

 前半の“老い”への心の備えに関する藤畑医師の指摘、他人事ではないなぁ。
 まさに、私がその“難しい六十代”だ。

 それほど“クオリティの高い”ことをやってきたとは言えないが、仕事にしてもスポーツにしても、好調だった時期に比べれば格段に質や量、スピードが劣っていることを感じる。
 当たり前なのだが、「なぜ、(以前できたことが)できないんだ・・・・・・」という忸怩たる思いがあるのも、正直なところだ。

 さて、藤畑医師は、次のようなことも談四楼に言っている。
「栄養失調になりますよ、このままじゃ。いやもうなっているかもしれない」
 栄養失調のせいだとさ、という談志の言葉が甦ったが、私は黙っていた。
「だってビールと眠剤だけの暮らしなんでしょ」
「固形物はまず取りませんね。食欲もなく味もしないとかで」
「体力の低下が著しい状態だから、何としても食わねばなりません。しかしそうして摂取したものが糖尿にどう影響するか。加えて眠剤の肝臓への負担があります。今の眠剤は比較的安全ですが、長期間にわたって摂取してますからね。病態は危険水域です。私だったら早めの入院を勧めます」
「当人が嫌がってるんです。たまの高座では声が出ないなりに頑張って。ま、そこは芸人だから。それを見た客も安心するんだけど、家へ帰ってからの落ち込みが激しいん」
「わかります。あそこまで行った人だから。今の自分をそのまま肯定すればいいのに、十全な頃に基準を置くので苦しみ、落ち込むんです。考えると苦しいから、忘我のためにアルコールと眠剤を摂取する・・・・・・」
 なるほど。藤畑医師話は理路整然といしている。


 この会話の中で談四楼の言葉を補足するためには、少し時間を遡る必要がある。

 『赤めだか』に関して談四楼が書いた月刊誌の書評を読んだ談志の最初の叱責は、出かけようとしていた談四楼が、留守電を再生して聞いたものだった。
「とんでもねえこと書きやがって、てねえなんざクビだ失せろとっとと出てけこの大バカヤロー」
 紛れもなく談志だった。このところ談志は喉に変調をきたし、高座を限定している。その温存しているはずの声の調子が並のテンションではなかった。私は戦慄した。談志が劇怒している。それはわかったが、一体何をさして怒っているのか。私は性急にリダイヤルボタンを押した。
 二度鳴ったことろで談志が出た。
「少し電話から離れてました・・・・・・」
 名を告げ、そう言うと、留守電の声の調子に戻った。
「てめい談春の本を褒めやがっただろ。でたらめばかり書きゃがってよくもオレの名誉を滅茶苦茶にしてくれたな。おまえは要らねえ出てけクビだ破門だとっとと失せろ。詫びに来たって許さねえから早く出てけってんだ」
 一方的に切れた。
 この後、談志が番組収録中のMXテレビに談四楼は向かった。
 収録後の楽屋(控室?)での出来事。
 下っ腹にグイと力を入れ、気をつけの姿勢で声を振り絞る。
「この度は誠に申し訳ございませんでした」
 そしてカクッと直角に腰を折った。声は震えてなかったと思う。談志はゆっくりと振り返り、言った。
「詫びに来てもダメだと言ったろうが。許さない。帰れ」
 思いのほか小さく低い声だったが、本気で怒っていることがダイレクトに伝わってきた。しかし帰るわけにはいかない。ドアのところまで後ずさりし、出入りの邪魔にならないようドアから少しズレて、かつ談志の視界からはずれた。足を開き、手を後ろへ回し、踏ん張った。帰ってなるものか。
「おいしいね。ノンくんは料理が上手いなえ」
 猫撫で声の主は野末陳平氏だった。談志が持参した則子夫人(おかみさん)の手になる弁当をパクついているのだ。
「味がしないし、まるで食欲がねえんだ。遠慮なしに平らげてくれ」

 これが、後から藤畑医師との会話で思い出す、談志の症状の一つ。

 この後、談四楼は、車で帰る談志を見送った。

 次に談志の病状を物語るのは、なんとか許しを請おうとする談四楼が、スッポンのスープを手土産に訪ねた根津のマンションでの出来事。
 
 いきなり、談志は志の輔のことを悪く言い出す。
 談四楼は、新橋演舞場での志の輔との親子会で、談志が高座で自爆したことを思い出した。
「あいつはダメ。ウソだらけだ」
 あの、その後を願いします。ウソで固めた本を私が褒めたのがいけないのでしょうか。あれ、それだけですか。それだけでは何もわかりませんが、どうやら体調は最悪らしい。談志はつっかい棒をはずされたように座りこんだ。私も座った。この二十年ばかり、胡坐を許される関係であったが、詫びに来ているのだ。正座をした。
 談志は何も言わない。モゾモゾしている。体が痒いようだ。セーターと肌着おもろとも脱いだ。一瞬、目を背けた。痩せた。これが私が知っている、あの談志だろうか。手の届く範囲をボリボリ掻くが、何だろう、白い粉のようなものがポロポロ落ちる。
 皮膚だ。皮膚が乾き、粉状になって落ちてくるのだ。談志が私の目に気づいた。
「栄養失調のせいだとさ」
 だとさ? 談志がこの三日間で初めて親しみのある言葉を吐いたぞ。軟化か。許そうというのか。さて何分ほどだったか、談志は腹と言わず、背中と言わず、手の届く範囲を心ゆくまで掻いた。相当の量の粉を落とし、上半身裸のまま言った。
「一門解散だ」
 ははあ、そっちへ展開しますか。で、またなぜ。

 この顛末は・・・・・・。
 
 その後、一門会の後の打ち上げで飲んでいた談四楼は、トイレに立った時、女房から携帯に何度も着信履歴があったことを知った。

 何か緊急の用だろうか。一門会のある日の帰宅は遅くなるとわかっているはずなのだが。八十を超えた父が群馬にいる。もしや高齢の父の身に何か・・・・・・。
 発信ボタンを押すと、呼び出し音が二度鳴ったところで女房が出た。
「何かあったか?」
「家元から電話があった」
「家元から?何だって?」
「オレが間違ってた。忘れろって」
「忘れろ?それだけか」
「そう、それだけ言って、切れた」

 談志らしいと言えばそうかもしれないが、これでは、弟子はたまったものじゃない。

 しかし、やはり、談志は病人だったのだろう。

 『赤めだか』の単行本発行は、2008年4月。
 談志は、この年の5月に、喉にポリープがある疑いで自宅近くの病院に二週間ほど入院している。
 そして、同じ年の10月、喉頭がんであることを公表した。

 私が、“最初で最後”の談志の高座に接したのは、癌を公表するほぼ一年前の2007年10月、小田急新百合ヶ丘駅近くの麻生市民館での会だった。すでに、喉の調子は良いとは言えなかった。しかし、『田能久』の出来に満足できなかった詫びの気持ちだったのだろう、アメリカン・ジョークで笑わせてくれた。
 談志が亡くなった後、その高座を思い返した記事を書いているので、ご興味のある方はご覧のほどを。
2011年11月24日のブログ

 噺家にとって、声は、そして喉は命だろう。
 私が聴いた時、談志は満71歳。
 果たして、“老い”について諦観できていたのだろうか。
 それとも、かつての自分と比べ、絶望感にさいなまされていたのだろうか。

 死因は喉頭がんとされているが、心身ともに病んでいたことは、本書を読んで察することができる。

 ある特定部位のみに問題があったと言うよりも、長年の生活習慣や芸人ならではの心身の消耗が蓄積し、立川談志という稀代の噺家を蝕んでいた、と言ってよいのだろう。

 談四楼が納得できたように、藤畑医師が指摘するそれぞれー老人性うつ・糖尿病・アルコール・睡眠導入剤の長期服用ーが複合的に影響して、また、それらの悪循環によって談志の病状を深刻化していたように思う。

 本書には、晩年の談志の不可解な言動がいくつか紹介されている。
 
 やはり、それは病気がさせるものだったのだろう。

 老人性うつでは、私の大学時代の恩師で仲人をしていただい先生を思い出す。
 まったくそんな病気とは似つかわしくない方だった。しかし、大学を退職され、また、年齢の近いご友人が相次いで亡くなるようなことも影響したのだろう、老人性うつになってしまった。
 
 談志は、そういった心の病気と体の病気が、悪い面で相乗してしまったように思う。

 食べなくてはいけないのに、食べる気になれない。そして、酒と睡眠導入剤・・・・・・。

 
 もうじき11月21日の祥月命日だ。亡くなって丸五年。

 本書を読んで、あらためて、晩年の談志本人と弟子たちの姿に思いが至る。

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by kogotokoubei | 2016-11-10 20:51 | 落語の本 | Comments(2)
 三年ぶりに、成瀬(町田市)の東雲寺寄席「柳家さん喬・露の新治二人会」に出かけた。

 通算で八回目になるとのこと。

 新治のホームページから予約を申し込み、メールの返信で予約受付とサイトの管理人の方からご連絡いただいていたのでが、その後、なんと師匠自ら私の携帯にお電話で「お席は間違いなくご用意しています」と丁重なご連絡をいただき、恐縮した。
 つい、予約のメールで、このブログの管理人であると書いてしまったのだった。
 新治師匠からは、関東の落語愛好家ということで、ある質問があったのだが、内容は秘密^^

 ここからは、いつものように、「師匠」の敬称を省いて書かせていただく。

 前回は、さん喬の『天狗裁き』の印象が強い。
 三年前の記事に、このお寺のことや、この会の第一回目に出演予定だった立川文都が残念ながら開催直前に亡くなったことについての新治の言葉なども紹介しているので、ご興味のある方はご参照のほどを。
2013年11月04日のブログ

 三年前は、大学の同期会から帰ってからの参加だったが、今年は同期会が翌週になったことと、何と言っても、毎週日曜日のテニスの場所が二年前から変わり、この東雲寺のすぐ近くになった。
 だからテニスの後でも間に合うのだった。

 東雲寺の概要を、ホームページからご紹介。
東雲寺のホームページ
東雲寺の概要

 曹洞宗東雲寺は、『新編武蔵風土紀稿』(しんぺんむさしふどきこう)によれば「字奈良谷あり。寺領六石三斗の御朱印を賜りしは慶安元年(1648)7月7日なり。(中略)その地を領せしはそれよりも先なることしるべし。
曹洞宗にて小机村(横浜市港北区)雲松院(うんしょういん)末寺なり。
龍谷山 成就院(りゅうこくざん じょうじゅいん)と号す。開祖僧・龍谷(性孫)は天文5年(1536)5月27日に寂せり。
その頃は今の境内の向かいの地にありしが、明眼(明岩)宗珠(みょうがんそうしゅ)、当寺に在住のとき今の地に移りしとなり。よりて宗珠を開山とせり。この僧は寛永8年(1631)正月5日寂す。本堂は八間半に七間、西向なり。本尊は華厳の釈迦、木の坐像にして、長一尺ばかり」とあり、開創年不詳ながら、1500年代の初めには、東雲寺の前身・龍谷山成就院が現在の南成瀬三丁目の城山公園近くにあったようです。
また、現在地には1631年示寂の明岩宗珠さまが住職の折に移転したとのことであり、以来、正伝の仏法・禅の教えを説き弘め、成瀬の人びとをはじめ多くの方々にご支援をいただいて、約四百年にわたり法灯を護ってまいりました。
 結構、歴史のあるお寺なのだよ。
 場所は、JR横浜線の町田と長津田の間の駅、成瀬から徒歩で15分ほど。

 昨日の会の様子は、すでに東雲寺さんのブログに写真付き紹介されているので、ご参照のほどを。
東雲寺のブログ

 テニスの後にクラブハウスで仲間と談笑した後にお寺に向かい、開場時刻の一時を少し回ったところで到着したが、すでに多くの方がいらっしゃっていた。

 私はテニスで走り過ぎたせいか腰がややつらかったので、後方の背もたれのあるパイプ椅子に席を確保。
 ほぼ満席という感じで、二百名は超えていたのではなかろうか。
 年に一度の会を、檀家の方や地元の落語愛好家の人たちが首を長くして待っていた、そんな熱気を感じた。

 一時半開演。テニスに行く時のクセで腕時計をして行かなかったので、それぞれの所要時間は記録できなかった。仲入りと終演時刻のみ、お寺の大きな柱時計で確認した。

 こんな構成だった。
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露の新治  『看板のピン』
柳家さん喬 『そば清』
(仲入り)
露の新治  『源平盛衰記』
岡 大介   カンカラ三線
柳家さん喬 『文七元結』
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 概要、感想などを記す。好高座と印象深かった内容にをつける。
 
露の新治『看板のピン』(13:30~)
 鮮やかな青の着物で登場。
 詳しくは書かないが、マクラの頭髪の話題で会場が盛り上がる。
 私にとっては、他人事ではない^^
 本編は、東京落語を米朝が上方に移した、という珍しい流れを持つ噺。
 東京版では、若い者を「看板のピン」でコケにする親分が、ふらっとやって来るという設定だが、上方では、金を持っていそうなご隠居を若い連中が賭場に誘い込む、となっている。
 「卵の殻をケツにひっつけているようなヒヨコの分際で」と隠居が言う科白、今ではまず聞くことがないなぁ^^
 時計を持っていなかったが、マクラを合せて30分位だったのではなかろうか。

柳家さん喬『そば清』 
 いつもながらの、季節の移り変わりについてのマクラで、「新そば」のことから自然に本編に入った。こういうマクラは、なかなか聞くことがないのが、最近の噺家さんの高座。
 さん喬“寄席の十八番”の一つと言って良いだろう。清さんに賭けでやられっぱなしの連中が、「腹かっさばいたら、富士そばとでも書いているんじゃねぇのか」のクスグリで笑ったが、さん喬の好みかな。私は、ゆで太郎が好きなのだが^^
 お約束の清さんの口癖「どうも~」で、いっぱいのお客さんを沸かせた高座。
 たぶん、約25分だったと推測する。その時間が、二席目は大ネタか、と思わせた。
 
 ここで仲入り。時刻は14:25だった。

露の新治『源平盛衰記』
 仲入り後の二席目は、クスグリたっぷりの講釈もの地噺の高座。
 三年前9月、この会のことをチラシで知った内幸町での独演会以来だ。
2013年09月10日のブログ
 マクラなのか本編なのか分からない、次のような入れごとが楽しかった。
 ・小学生の頃、「アメリカ大陸を発見した人は(     )」という問題に、
  少しひねってやろうと「コロンブスの手下」と回答したら、Xだった。
 ・( )に「偉い」と書いた友達は、なんと半分の2点をもらった。
 ・不満で職員室に先生を訪ねたら、「余計なことを書くな」と怒られた。
 ・コロンブスが発見するより前に、インディアンが住んでいたのだから、
  インディアンがコロンブスたちを発見したのではないですか!?
 ちょっと、ネタをバラしすぎたかな^^
 本来の源平の話では、源義朝の側室だった常盤御前の子は、阿野全成(今若)、義円(乙若)、源義経(牛若)がいて、この子たちは、平清盛に殺されることがなかったが、その理由は美しい常盤御前を清盛が妾に欲しかったから、など、歴史の勉強になったねぇ。
 「牛若の 目が覚めますと 常盤言い」という艶っぽい句も挟まれた。
 牛若のことから、かつての時代劇映画へと話が膨らむ。東千代之介の鞍馬天狗で盛り上がる会場だから、相当平均年齢は高い^^
 後半は、扇子で膝を叩き講釈風に、弁慶と牛若丸の五条大橋から、木曽義仲と平維盛との倶利伽羅(くりから)峠の戦いを経て、那須与一の「扇の的」までをしっかり。
 
 この後、高座の両側のビラにも書かれていたのだが、「奈良人権文化選奨」と「文化庁芸術祭優秀賞」の受賞記念として住職から花束が贈呈され、金一封(ギャラ?)も渡された。
 
岡大介 カンカラ三線
 名前だけは知っていたが、初めてで楽しみにしていた。
 説明があったが、カンカラ三線は、あの戦争の後に米軍統治下におかれた沖縄の歴史を物語る楽器だ。物資がない中で、米軍から支給される粉ミルクや食料の缶を胴体に、米軍のベッドの足などの廃棄物を棹にし、落下傘のヒモを絃にして組み立てたのがカンカラ三線。まさに、沖縄の人々の「心」の拠り所であった唄と踊りをカンカラ三線はつないで来たのだ。また、大好きな「演歌」は、明治時代の「壮士演説」の中での「歌」がルーツで「演歌」とも説明。
 かつては吉田拓郎が大好きで、同じギブソンの“J45”(約30万円)から、製作費3千円のカンカラ三線に持ち替えたという岡は、まさにプロテスト・ソングの担い手と言って良いだろう。
 
 次のような曲をカンカラ三線に乗せて披露してくれた。
 (1)東京節 (2)骨まで愛して (3)十九の春 (4)ラッパ節 
 (5)オッペケペー節 (6)ストトン節 (7)お座敷小唄
 なかでも、「十九の春」の元歌が添田唖蝉坊の「ラッパ節」と説明して披露したのが、印象的だった。
 まだ三十代のようだが、カンカラ三線を抱えて、「ラッパ節」を歌う若者がいることに、ある意味で、日本も捨てたものじゃない、という感慨に浸っていた。
 ご興味のある方は、ホームページやブログをご参照のほどを。
岡大介のホームページ
岡大介のブログ

柳家さん喬『文七元結』 (~16:30)
 仲入りで、お寺から美味しい豚汁をご馳走になり少し眠くなったという話を聞いているこっちも、少し体が暖かくなったような気がした。
 今の若者は「ヤバイ」が誉め言葉になっているなど、若者事情を中心にふりながら、「何をやろうか、こうやって考えているんです」と言っていたが、このネタは事前に決めていなければできないと思うがなぁ。
 つい最近では、10月9日に、末広亭の襲名披露興行で三代目文蔵で聴いている大ネタだ。
 正直な感想として、文蔵の高座が良かったことを、あらためて思い返した。
 さん喬は、その良さでもあり欠点ともなるのが「くどさ」「くささ」と言う指摘がある。私も、そう思う。
 私自身がマイナスに感じた演出は、次のような点。
 ・本編のマクラで、細川の中間は決まった給料が出ないので、博打場として
  金を稼いでいた、という説明は、丁寧とは言えるが、不要だと感じた
 ・長兵衛が、博打で負けて長屋に帰って来る前に、懐手をしてブルっと震え、
  仲間と思しき空いてに「あばよ」と声をかけてから長屋の戸を開けるのだが、
  この場面の必要性は疑問
 ・長兵衛の女房のお兼が継母であると自分で言うのだが、その設定が効果的とは思えない
 時間を気にしていたようにも思え、文七が近江屋に帰ってから、佐野槌やお久の名を主人や番頭とのやりとりで思い出す場面を割愛し、翌日主人が吉原をよく知る手代に「佐野槌というお店はどこか知っているか」と聞く設定にしていたのだが、私としては物足りなさを感じてしまった。
 あの場面、普通なら、ましてやさん喬なら、しっかり文七と主人や番頭との会話で笑いを取ってくれると察するので、きっと、時間短縮版なのだと思うなぁ。
 腕時計をしていかなかったが、マクラを含め45分ほどではなかったかと察する。


 終演の挨拶とともに、新治からは、第一回の“幻の出演者”立川文都の位牌があることが案内され、私も手を合わせた。

 帰り際に思ったことがある。
 さん喬はこの後で深川での独演会だと新治が言っていた。
 だったら、三年前の第五回がそうだったように、仲入り後をさん喬、トリを新治でも良かったのではないか・・・・・・。
 そうすれば、ネタ選びも変わるかもしれないが、時間に追われるようなことはないはず、というのが、正直な感想。
 新治にしても、トリなら源平ではなく、たとえば三年前の内幸町で聴いた見事な『立ち切れ線香』や同じ講釈ネタでも『狼講釈』などを選べたのではないかなぁ、と勝手に思っている。

 とはいえ、木戸銭千円では、こんな小言を言っちゃいけないね。
 岡大介という“演歌歌手”に出会えたし、落語の四席すべて、並みの噺家ならば私も高い評価を書くことが出来るかもしれない。
 それだけ、さん喬や新治への期待が高い、ということなのである。


 あらためて思うのだが、地域の方を招いてのお寺の落語会は、なかなか良いと思う。

 安楽庵策伝からの落語の歴史が物語るように、落語と法話や説教は、実に緊密な関係を持っている。
 昨日の帰り際、檀家さんと思しき多くのお客さんは、実に満足気な顔でお帰りになっていた。
 住職をはじめとするお寺の方々と、お客さん達との言葉や態度に、この会の持つ“人肌の温かさ”を感じたものだ。
 私のような、地元の人間でもない者が、細かなことをどうこう言うのは、落語の本来の楽しみ方ではないのだろうなぁ。

 とは言うものの、元々、落語会や寄席の備忘録として始まったブログなのだから、その場での正直な感想については、今更変えるつもりはない^^
 
 こういう“人肌”の会、ぜひとも長く続けていただきたい。

 テニスコートが近くになったのも、縁だろう。
 私は、できるだけ都合をつけてこの会に伺うつもりだ。


 なお、露の新治ホームページ「まいどおおきに露の新治です」のスケジュール表(追っかけカレンダー)によると、今回の出張(?)では、下記のように、9日昼に茅ヶ崎で講演会の後に、夜は白金台でチャリティ寄席の出演が予定されている。
露の新治ホームページ

11月9日(水)13:30~ 神奈川県茅ヶ崎市
茅ヶ崎市民文化会館 平成28年度 人権啓発講演会
お笑い人権高座「笑顔でくらす、願いにいきる」
【無料】
主催 横浜国際人権センター

11月9日(水)19:00~ 東京都港区
ミーリーコレクションプラチナ通り店
第2回ミーリーコレクションチャリティー寄席
【¥1,000】
二重丸(太神楽曲芸)、
新治(落語2席)
主催 東北笑生会

 夜の都合さえ合えば白金台に駆けつけたいところだが、今回は残念ながら行けそうにない。
 
 ご都合の良い方は、ぜひホームページからご予約されてはいかがだろうか。

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by kogotokoubei | 2016-11-07 19:22 | 落語会 | Comments(4)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛