噺の話

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 「すばる」9月号の落語特集を読んだ感想の三回目。


 「すばる」のサイトから拝借した、目次特集部分の画像。
「すばる」のサイト

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 今回は、筆者の中で唯一名前を知っていた杉江松恋の「演目ガイド」について。

ずいぶん遠くに来た、カムチャッカぐらい 
杉江松恋(すぎえ・まつこい、作家/文芸評論家、68年生まれ)

 4頁の内容。
 表題にある「カムチャッカ」は、立川談志の『寝床』に由来するのだろう。

 冒頭から引用。
 最初に落語を聴いたのは、かつて上野広小路にあった講談主体の定席、本牧亭だったはずである。
 もう、これだけで、他の書き手とは「違うぞ!」と、読む側も身構えてしまう^^
 この続き。
 畳敷きの桟敷、靴を脱いで上がるところに下足番が待機している、という風情の寄席で、戦前の雰囲気をいささかでも残した演芸場だった。そんな場所に小学校の中・高学年あたりで足を運んだのである。当然のことだが餓鬼の振る舞いで座っていて、おっかない爺さんに「お行儀!」と叱られた。それが原初の寄席の記憶である。
 本牧亭は安政4(1857)年開業し、5年まえ2011年9月まで続いた由緒ある小屋だ。
 かつては、円生が独演会を開いたり、志ん朝が二ツ目の会をしたり、講談のみならず落語家にとっては、大事な寄席だった。
 私は残念ながら行く機会がなかった。
 
 本牧亭が初落語とは、杉江松恋、なかなか侮れないなぁ^^

 その続き。
 もちろんそれ以前にも「落語」という文化には子供ながらも親しんでいた。私が小学校に入ったのは1975年のことだが、当時は「読む落語」がちょっとした興隆期だったのである。講談社文庫のロングセラーとなった興津要編<古典落語>全六巻はすでに刊行されていたが、むしろ私は同じ講談社でも<落語文庫>全十八巻のほうが好きだった。当時はその理由がわからなかったが、<古典落語>が編者によって再構成された記述であるのに対して、<落語文庫>は倶楽部雑誌などに載った速記を基にしていたということが後でわかった(ただし単行本からの最収録であるためか、演者名が削除されている)。文章中に残った演芸場の雰囲気や演者の個性が、小学生の私を魅了したのだろう。
 それ以前に偕成社<少年少女名作落語>という業書もあった。これは1974年に発刊されたもので、十二巻の本格的なものだ。大野桂、加太こうじといった演芸評論家が各巻の編纂と記述を担当しており、池田彌三郎が監修者的な立場で関わっている。明治期に新作されたものを収めた『探偵うどん』の巻があるなど、噺の取捨選択にも主義主張の筋が一本通っていて、これを超える児童向けの落語読み物はまだ出ていない。<落語文庫>がライブ感覚の魅力だったとすれば、<少年少女名作落語>には大人が子供を真剣に落語好きにしようとする態度があった。そこに私は参ったのである。

 筆者は、このシリーズの第一回で紹介したエッセイの中で、広小路尚祈が子供の頃に出会った六代目柳亭燕路の『子ども落語』(原本は『子ども寄席』)は手にしなかったのだろうか。あるいは知っていても、偕成社のシリーズを評価しているのかな。
 それはよいとして、私などに比べると、実に恵まれた落語との出会いだ。
 十二巻の落語の本を買ってもらえる小学生なんて、なかなかいないだろう。
 
 落語との(たぶん)幸運な出会いをした筆者が、いったいどんな噺が好きなのかについて、このような記述がある。
 これまた、人並みではないネタが、真っ先に登場するのだ。
 さて、自分の嗜好を振り返ってみると、そのときどきで贔屓にする噺は、初めストーリーの起伏のあるもの、次いでキャラクターや情景描写などストーリー以外の要素で魅せるもの、そして落語らしいとしか言えない、演技空間そのものを楽しむものへの移り変わっていったような気がする。これは私の場合、「おはなし」から入って「小説」という技巧を楽しむに至った経緯と軌を一にしているのだ。
 ストーリーといっても、一般に演芸場で掛けられているような噺の場合、起承転結の構成がしっかりしているものは少ない。たとえば六代目三遊亭圓生十八番の一つ、「ちきり伊勢屋」は、大家の若旦那が人相見の占いを真に受けて、あとわずかで尽きる寿命ならば、と身代を散財して無一文になるが、行いの功徳によって余命が延び、かつ失った財産も回復する、という起伏に富むネタだ。フランク・キャプラの映画にでもありそうなストーリーで魅力的なのだが、長大すぎるためにホール落語のような催しでもない限りこれを聴く機会はほとんどない。

 “演芸場”は“寄席”と言い換えてよいだろう。
 なんと、最初に出てくるネタが、『ちきり伊勢屋』ですか!
 別題を、登場する易者の名をとって『白井左近』。
 
 私も生で聴いたことはないぞ。

 その大長編ネタはともかくとして、少し小言を。
 “一般に演芸場で掛けられているような噺の場合、起承転結の構成がしっかりしているものは少ない”と言う指摘は、果たして妥当なのだろうか。
 筆者はたぶんに『ちきり伊勢屋』のような長尺ものを意識してそう言っているのだろうが、寄席の15分の噺でも、しっかり起承転結のあるネタは少なくないのではないか。
 もちろん、長い噺の「起」を端折って「承」から始めたり、本来の「結」ではなく「転」でサゲたり、という噺もあるだろう。『替り目』や『野ざらし』などは、どちらも本来のサゲまで寄席で演じられることは少ない。
 しかし、『道灌』にも『子ほめ』にだって起承転結は存在すると、私は思う。
 屁理屈のように思われるかもしれないが、あくまで、寄席で長講が通しで演じられることは、トリ以外では少ない、という言い方が適切のような気がする。

 また、その噺が寄席では長すぎてなかなかかからないということと、自分が好きなネタという内容は別なことだと思う。

 素直に「ストーリー性にある噺としては、起伏に富む『ちきり伊勢屋』が好きだ」と書いてくれれば良かった。
 紹介した部分、二つ話題がごっちゃになって印象なのだ。
 
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 この噺を取り上げることはそう多くないので、十八番にしていた円生の『寄席育ち』からご紹介。弟子の円楽との逸話を含め、以前にも紹介したことのある部分だが引用する。
 芸ってものは、何でもそうですが、かたちばかりそれになっても腹の虫がからッぽだったらだめなもので・・・・・・だから老人(としより)の出る噺は、若いうちは、どうやったって出来ないんですね。うちの弟子の圓楽が『淀五郎』を演りたがって、あたしに内緒で演ったことがあるんです。あたくしがかくれて客席で聞いたんですよ。そしたら、あたくしが来てるって、また、よけいなことを言った者があって、当人へどもどしてましたがね。噺はすっかりよく覚えてますが、ただほかの者は出来ても仲蔵が出来ない。年配で、自分が苦労してきて、世慣れてるから、下の者に対する言葉づかいも、そう威張ってはいない、やさしい言葉で、しかもその中に威厳があって、親切で、情誼がなくちゃいけない。そういう人間は、なかなか若いうちに出せっこないんですよ。あたくしも若い時分に『淀五郎』を演りたくッてね、演って失敗したことがあります。『ちきり伊勢屋』なんかも、二十二、三の時分に演ってみたことがありますが、やっぱり大きな噺だからもちこたえられない。しゃべるだけしゃべったってだめなんです。
 とにかく「大きな噺」なのですよ。

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 そして、原話は、とても「長い噺」なのである。
 榎本滋民さんの『落語小劇場』では、次のように紹介されている。
 二代目・三代目の柳家小さんの演じ方がともに秀逸。なにしろ大長編で、明治中期における二代目小さんの所演速記は雑誌連載五回にわたっている。『おせつ徳三郎』『子別れ』などの長い人情ばなしの二倍から二倍半に相当する。
 八代目林家正蔵は伝次郎が幼友だちの家主の世話で駕籠かきをはじめるところから太鼓もちに返してもらった衣類を質に入れるところまでを一席にまとめているが、これだけでも三十センチのLPレコードで半面になっているのだから、全編の長さは想像つくだろう。
 そのため全編を聞ける機会は少ない。六代目三遊亭円生が二代目小さん流を復活、丁寧に通しで演じたのが貴重だが、それでもだいぶ刈りこんである。丸ごかしだったら時間枠のたっぷりしたホール落語でさえ十夜ぐらいはかかるかもしれない。
 終末だけは陰徳陽報の修身美談で気に入らないが、全体としては奇抜なナンセンスの中に人情ばなしには珍しい鋭い社会性を含んだ、スケールの大きい名作である。死期を知らされたくない恐怖感、自分が死んだら人はどう扱うかを知りたい欲望、そういう人間の根源にも迫る力をもっている劇的構成は、中国の『聊斎志異』あたりの説話を連想させる。


 こういう噺。寄席どころか、ホール落語でもなかなかかからない理由はお分かりだろう。

 音源は、円生の他に、榎本さんが書いている八代目正蔵、そして数年前に発売され陽の目を見た(?)志ん朝(二朝会の高座)、現役さん喬の深川での音源も出ている。
 ちなみに、さん喬は落語研究会において、2006年の師走の会から翌年にかけ、上・中・下と三回に分けて演じている。今年3月31日の鈴本の独演会では、上・下で演じたらしい。
 師匠五代目小さんは演じなかったようだが、柳派の伝統というべき噺を大事にしようとする、心意気のようなものを感じる。
 現役では、大好きな柳家小満んも持っていて昨年の目白の会で演じたようだが、残念ながら聴けなかった。
 むかし家今松も手掛けるようだが、こちらも聴いたことがない。柳派でリレー落語で演じた人もいるようだ。
 師匠の馬生は演じていたのに五街道雲助は、このネタ持っていないのかなぁ。

 それにしても、いきなり登場する噺が『ちきり伊勢屋』とは、驚いた。

 次に登場するネタをご紹介。
 寄席で聴ける可能性があって起承転結の構成になっている数少ない例外の噺といえば「死神」だろう。縁あって死神から他人の寿命を見抜く力をもらった男が、それを利用して医者になる。
 (中 略)
 <悪魔の契約>プロットが綺麗に当てはまる構造で、かつ結部の展開や幕切れも演劇的であり、仮に文字に起こしたとしても戯曲や小説と遜色ないものである。実は当然のことで、この噺は落語の近代化を成し遂げた明治の大名人・初代三遊亭圓朝が、福地桜痴ら外遊経験のある知識人から情報を得た、グリム童話(及びそれを下敷きにした歌劇)を翻案して作ったものと言われている(圓朝にはそうした翻案作品が多い)。

 寄席で『死神』を通しで聴けるとしたら、トリしかありえないだろうが、確かに『ちきり伊勢屋』よりは、ずっと出会える可能性は高いね。
 
 この後に登場するネタは、『らくだ』。
 ここまでが、起承転結しっかりでストーリーに重きを置いた、と筆者が分類する代表的な噺ということ。
 
 では、他にどんな噺が続くのか。
 最後まで聴ける機会が多く、かつトリネタ(寄席の主任が掛けるべき大きいネタ)とされる中でも「花見の仇討」「三軒長屋」「寝床」といった噺を見てみると、起承転結というほどの骨格はなく、序破急程度の継ぎ目の判然としない構成に近いと感じられる。たとえば「花見の仇討」は若い衆が花見で何か茶番をやろうと言って集まる(起)、仇討の芝居がいいということで相談がまとまる(承)、ところがそのうちの一人が不慮の事態で来られなくなり、雲行きがおかしくなる(転)、当然茶番は失敗、ほうほうのていで逃げ出す(結)、といった構成はあるものの、そのすべてを丁寧に演じずとも噺は成立する、たとえば、転に当たる部分をさらっと流し、花見の相談から実施の失敗として軽く演じる手もあるのだ。
 私が、ストーリー絶対の価値観からそれ以外の魅力を噺に見出すようになっていったきっけけは、上記のような落語の柔軟性に気づいたことではないかと思う。それは同時に「読む落語」から「聴く落語・観る落語」への完全移行を意味していた。

 このあたりで、この内容が「演目ガイド」となっていることに、疑問を感じ始めていた。

 少し違うなぁ。
 内容に即して形容するなら、「私の好きな噺」でいいんじゃないの。
 
 そう思って、読んでいたこの先の引用。
 「聴く落語」時代に好きになったのは八代目三笑亭可楽(先代・故人)だ。この人は口舌が悪いのと、どんな噺も短くやってしまうことで有名だが、その簡潔にまとまった世界に、一度はまると癖になる魅力があった。
 あら、今度は「好きな噺家」になった。
 しかし、私も可楽は大好きなので、この部分はニンマリしながら読んでいた。
「なーべやきーうどん」の売り声で始まる「うどん屋」が私はお気に入りで、高校三年生のころはほぼ毎晩聴いていた。「うどん屋」を聴いていると、受験勉強でどんなに興奮しているときでも眠くなってくるのだ。この体験によって初めて、「いい落語を聴いていると眠くなることもある」ということを知った。退屈で眠くなるのではなく、心地よくて眠くなるのである。

 これまた、共感できる。『うどん屋』は大好きだで、私の携帯音楽プレーヤーで一年中の定番だ。これから聴く機会が増える季節になるなぁ。
 
 そうか、私が仲間内で演じる落語で寝ている人は、心地よいから眠くなるのか^^
 いや、飲み過ぎだろう・・・・・・。

 この後、こう続く。
 そこからの延長で知ったのが落語における描写や言い立て、そして演者独自の口調の魅力だ。たとえば「夢金」の隅田川の上を舟が行き、吹雪によって視界が奪われる場面の描写。言い立てとは歌舞伎由来の語彙だが、長台詞をまくし立てることによって観客を噺の世界に巻き込む技巧で、落語では「黄金餅」の長屋から火葬場までの道中言い立てなどが有名である。これは五代目古今亭志ん生(故人)の音源を聴いて、やはりぽうっとなった。口調では先代の可楽にまず嵌まり、それから八代目桂文楽の愉悦に満ちた語り口が好きになり、三代目春風亭柳好の「野ざらし」がいいと教えられてそれを聴き、鼻歌のように真似をするぐらい気に入った。そうした、演者の肉体を通して噺の世界に行くことの快感を知るあたりが、落語ファンにとってのポイント・オブ・ノー・リターンであるような気がする。

 「夢金」について演者の名が明かされていないが、きっと金馬だろう。
 文楽は名前だけで、ネタが登場しないのは、少し不親切。

 さて、締めの部分。
 しかし、さらにその先があるようにな気がしてもいる。たとえば「酢豆腐」という噺がある。これはストーリーという意味では何もない噺だ。一応最後に題名の由来になっている場面があって、そこに至るストーリーということもできるのだが、噺の大半は何も起きない。これから酒を飲もうという若い衆がうだうだとどうでもいいことを話しているだけなのだもの。我が身に引き比べて言えば、飲み会の後で友人の家に転がりこんでしまい、日が暮れて飲み屋が開くまでの時間つぶしをしながら待っているような、どうでもいい時間のスケッチに近い(実際、前夜飲んだ流れで集まっているという演出をする噺家もいる)。
 または、田河水泡作の「猫と金魚」のような、旦那と番頭の無意味な言葉のやりとりだけで全編が成立している、ナンセンスの塊のような噺にも強く惹かれる。
 (中 略)
 ストーリーを追うことから始めてずいぶん遠いところまで来たものである。しかし、決して無駄な回り道ではなかった。江戸の仇を長崎で討ったというやつかもしれない。

 あら、表題にある「カムチャッカ」はどうしたの?

 立川談志の『寝床』から拝借したと察するが、本編に登場しない。

 この落語特集、どの内容を読んでも、編集者、企画者の問題を強く感じる。
 たぶん、執筆者の中で、もっとも長く落語との付き合いがあると思われる杉江松恋の内容は「演目ガイド」などではない。
 彼は、読者に代表的(と思われる)演目のガイドをしているのではなく、あくまで自分の好きな噺の個人的な変遷や好きな噺家を書いているのだ。

 もし題を付けるなら、「私と落語」、あるいは、「私の好きな噺と噺家」などの方が良いし、彼が付けた題にしても、「起承転結からナンセンスまで」とか、「落語ーその豊饒の海」なんてぇ洒落たお題もありえるかもしれない。
 とにかく、「カムチャッカ」を出したら、本編で触れなきゃね。

 また、ミステリーやSFに造詣の深い杉江が、『首提灯』や『あたま山』、『胴切り』などを取り上げなかったのは、残念。

 本牧亭での落語初体験、という書き出しから期待したのだが、どうも、竜頭蛇尾の印象は拭えない。
 しかし、それは、編集者の助言などによって書き直しができたように思うのだが・・・・・・。

 この特集、読めば読むほど、企画そのものや人選、内容などについて、編集者への小言が募るのだ。

 さぁ、最後に残ったのが、「春風亭一之輔試論」なのだが、これがこれで、大変なのである。
 ここまで来たら、乗りかかった船、なのだが、この船、揺れること夥しい。
 
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by kogotokoubei | 2016-08-31 12:44 | 落語の本 | Comments(2)
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 「すばる」9月号の落語特集を読んだ感想の二回目。

 あらためて、この特集部分の表紙ページに載っていた文章をご紹介。

特集
落語がこんなに面白いとは

幾度目かの“落語ブーム”到来とも言われる今年
聴いてみたい!
でも、難しそう、敷居が高い、どう楽しむの?
そう思いのあなたへー
エッセイ、寄席体験記、演目ガイド、評論をどうぞ
奥深い落語の世界に、一席お付き合いください

 こちらが、「すばる」のサイトから拝借した、目次特集部分の画像。
「すばる」のサイト

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 一回目の記事では、前半のエッセイ四編について書いたのだが、果たして、“高い敷居”を低くできる内容だったのかどうか・・・・・・。
 
 では、後半の三篇について。
 前回の記事で、この三篇をまとめて記事にするつもりと書いたが、それぞれ文章量も多くて無理がありそうなので、一つづつにすることにした。

 今回は、池袋に“昼夜居続け”した「寄席体験記』という記事。

語られる言葉はどこに 滝口悠生(たきぐち・ゆうしょう、82年生まれ)

 6頁にわたり、7月5日(火)に池袋演芸場に昼夜居続けした内容が書かれている。
 当日は落語芸術協会の興行。
 著者は、年に一、二度寄席に行くらしい。新宿末広亭が多いようだが、この日は池袋。会場の様子や客の入りなどについて、少しだけ書かれている。
 12時35分に客席に入った時点で二十三人とのことなので、平日にしては、決して少なくないと思う。

 この日は、筆者以外にも居続けの客がいたようだ。
 場内にはぽつぽつと客が入って来る。また、帰っていく人もいる。そんななかで、いやおうなく場内の全員が意識せざるをえない着物姿の男性客がひとり、最前列の中央右に陣取っていた。黒の着物を着て、頭は短く刈り込んでいる。五十代、あるいは六十代か、まるで噺家のような風情で、斜め後方から見る姿は一瞬、客席に小三治が?と思うほどだった。
 私は、その人に出会ったことはないが、光景が目に浮かぶ。
 この着物の男について、こう続いている・
 高座を見遣る彼の頭の角度や体の傾きはひじょうに粋で、適確な(と思われる)タイミングで、はっきりとわかりやすく叩かれる拍手は教育的ですらあり、客たちは彼の拍手にならう形で手を叩く。
 その過度に率先的て通人らしい振る舞いに他の客たちがやや鼻白むような瞬間もあるのだが、彼が誰より真剣に高座に目を向け、すべての演者と演目に心からの敬意を表していることもよくわかり、客席にはだんだんと自分たちのリーダーとして彼をたてる雰囲気ができあがっていく。
 しかし、この日はじめて「待ってました!」のかけ声が(もちろんこれも彼が発した)かかった桂文治が登場すると、場内の均衡が変わる。その場の主導権は、客席のリーダーたる着物の男から、高座のかつら文治に渡る。
 
 この日の池袋の主役は、客席と高座の両方に存在していたようだ。
 文治のネタは「酢豆腐」だったらしい。

 この文治の高座に関する表現などに、いわば“文学的”な形容が交じってくる。
 そもそも高座に現れてまず枕をふり、それから噺に移る瞬間というのが玄妙というほかない。
 「玄妙」・・・・・・?
 私が持っている「新明解国語辞典」では、「(道理や技芸が)奥深くて、その道に精通した人しか理解出来ない様子」と、なっている。
 ご本人は、そう感じたのかもしれないが、ちょっと違和感があるなぁ。
 この後の文章。
 連続した時空に、一瞬で、それまでとは違った場面や時間が立ち現れる。これはむりやり小説に置き換えれば、行アキもなく、視点や人称の移動を示すこともないまま、文の途中で時間や空間が変わり、しかし読み手がその変化を読み取れるような事態を言えばよいか。この、噺のはじまり、場が立ち上がる瞬間、というのは、私にとっての小説を読んでいる時の最上のよろこびによく似ているし、小説を書いている時にその小説が小説として成立していると感じる手応えにもよく似ている。

 マクラから本編に入る瞬間が好き、ということなのだろう。
 小説なら、私は、その“瞬間”はカットバックによる転換を連想するなぁ。
 筆者が小説において譬えた上記の内容は、私には実に「玄妙」である。
 
 文治の時事問題に関連する自由奔放なマクラのことなどに触れてから、表題に関連する内容が続いている。
 メモのなかの数少ない有意義そうな記述として、「小説の語り手は言い淀まず、また言い直さない」というものがあり、当たり前と言えば当たり前なのだけれども、冗舌とか硬質とかいう言い方をさせることもある小説の語り手やナラティブは、基本的にすでに確定した言葉、確定したテクストである。落語における語り手は当然ライブなので、呂律が乱れたり言い違えたり、言い直したりもする。咳をすることもあるし、もちろん息を継ぐのであり、客は目の前にあるそれらをすべて見て、聞いている。
 落語における「語られる言葉」がまぎれもなく「今・ここ」にあるものである一方、小説の「語られる言葉」はどこにあるのか、というのはずっと考え続けている問題ではあるが、上手な落語を聞くたびにあらためてそのことを考え込んでしまう。
 小説の語りにおける、あるいは会話文における、つっかえとか、言い間違えはどこに消えるのか。小説の言葉はすでにそれらを訂正・修正したものなのかどうなのか(そして吃音症だけはなぜか伝統的に小説内に忠実に反映されがちである)。たとえば「今ではなく、ここではない」というような場所を考えることはできないのか、どうか。
 とそんなことを考えている間に高座は進む。仲入りを経て、昼の部のトリは三笑亭夢太朗「抜け雀」で、昼の部は終了。
 あら、つい、落語を聴いていて、そこから難問が頭に浮かんで離れなかったのか。

 「語られる言葉」のことを考えていたので、文治の高座以降に“語られた”高座の記述は、残念ながら、書かれていない。

 「今ではなく、ここではない」場所のことを考えていたために、「今・ここ」にあった高座の記憶も記録もなかった、ということのか・・・・・・。

 それにしても、他の出し物について、もう少し触れて欲しかった。

 一度外に出てコンビニで買い物をして再入場し、夜の部前座の「狸の札」を聴き、“昼の部の真打ちの高座のあとでは、はっきりと前座の芸の未熟さが看て取れる”と、正直な感想。

 その後に、また「語られる言葉」に関する部分がある。
 ときどきやる自作の朗読については、もう落語のようなものとして、原文にもこだわらず、自らが一層外側の語り手となって読めばいいのではないか、というようなことをかつて考え、一時期本気で落語の稽古をしようかと思ったこともあるぐらいなのだが(ところで弟子入りする以外にどこかで落語の稽古をすることは可能なのだろうか?)。ことはそう単純ではない。
 小説を声に出して読むことでじわじわとにじみ出てくるのは、語り手ではなく書き手の存在である。そこで読まれているのが、たしかに誰かの書いたものである、ということが朗読者という存在によって反射的に気になってくる。小説の語り手と書き手の間にあった分裂が、朗読者と書き手の間に代替される。また、朗読者のなかにおいては自分自身と語り手の引っ張り合いのようなことがおこる。これが自作の朗読の場合、問題はよりはっきりと現われることになる。
 これもやはり小説のテクストが「今・ここ」には存在しえない、ということによるのではないか。この点落語は基本的に口伝であって、作者はいても書き手というのはいない。伝えられ、習われる噺は骨格のようなもので、細部というのは可変的で一定しない。名人が同じ噺をかけると毎回同じ時間で一秒たりとも狂わない、というのを漫画で読んだが、それにしたって落語家の噺が一回性とともにあることに変わりはない。当然、文字はそういった一回性を持たない固定したものであり、小説というのは文字で書かれるわけだが、小説の語り手がその一回性を持ちえないのは(そのように思い込みがちなのは)どうしてか。
 こういういちいち細かいことを気にしてしまうのは、やはりそこに小説の不可能のようなものを認め、けれどもそれをどうにか乗り越えることができないか、という小説家家としての私のまじめな姿勢のあらわれに違いないだけれども、そんなことお構いなしに高座にはギタレレ漫談のぴろきが登場していて、哀愁ただよう自虐ネタとスローでトロピカルなギタレレ(6本弦のウクレレ)によって場内のあらゆる緊張をほぐし、チルアウトさせている。

 この方がどこにお住まいか知らないが、「落語指南所」は探せば見つかるのではないかな。
 「あくび指南所」は・・・落語の世界にしかないけどね^^

 小説の朗読と落語・・・という着眼点は作家らしいとは思うのだが、ご本人が書かれるように、小説の不可能(限界?)について、この人は“まじめ”過ぎる、のかもしれない。

 私は、小説の朗読にしても、語り手による“一回性”は存在すると思うのだが、それは作家の考え方と比べると、甘いのだろうか・・・・・・。

 さて夜の部、桂歌助のトリネタ「青菜」の感想から締めの部分。
 「青菜」は庭師を座敷に招いた隠居が酒を振る舞うところかだ始まる。品よく演じられる隠居のい様子が快く、肴に用意した鯉の洗いや冷えた酒を庭師がおいしそうに涼しそうに食べる。この前日までは暑い日が続いていたがこの日はしばらくぶりに気温が低く小雨も降っていた。暑い日に聞けばなおよかったろうが、今こうして思い返すと(これを書いているのは七月十日。ひじょうに暑い)、縁側から庭まで見通す座敷で庭師が気持ちよく冷えた酒と肴をやっているのが思い出され、すっと涼しくなる。
 終わったのは八時半頃。副都心線のホームで電車を待っていると、着物姿の御仁が。トリを務めた歌助師匠であった。お洒落な柄の入った緑色の足袋を穿き、同じく濃緑の着物姿。同じ電車に乗るようだったが、私は別の車両に乗ることにした。
 「青菜」の感想や、(四万六千日)七月十日の暑い日に、高座を思い返しての清涼感、という件は、なかなか結構だと思う。

 しかし、言葉を商売にする作家なら、“冷えた酒”にとどめず、高座で耳にしたはずの、“なおし”とか“柳影”という言葉を、思い出して欲しかったなぁ。

 また、最後の“着物姿の御仁”で、私は一瞬、“客席のリーダー”を連想してしまった。
 しかし、すぐ後にトリの歌助師匠という解答があって、「あっ、そうだったのか・・・・・・」と、妙にがっかりしていた^^

 また、“お洒落な柄”って、どんな柄?、という疑問も感じた。
 あえて別の車両にしたことにも、少し、なぜそうしたのか、そうなったのか、その時の心情など説明が欲しい気がする。

 着物の客から始まり、着物の師匠でお開きの一日、ということか。

 全体として、対象となった高座や芸についての感想が的外れではないし、共感できないことはない。
 しかし、昼夜居続けの「体験記」として記すなら、他の高座についても、もう少しふれて欲しかった。
 ぴろきの芸についての形容などは、なかなか味があったので、残念。
 また、池袋の地下にある独特の寄席空間についても、言及して欲しい気がしたなぁ。

 着物のお客さん以外の客の様子については、やや言葉足らずな印象。
 池袋には、作家の興味をそそった対象が、きっと何名かはいらっしゃたように察するが、その日は違ったのか。

 体験記として読んで行く途中に、文学的といえるのか、「玄妙」な文章が挟まれることで、せっかく寄席のお気楽な高座の楽しさが続いているのが削がれるような思いがしていた。

 ちなみに、この方は「POPEYE」9月号の特集「ジャズと落語」で、好きな噺家に柳家三三を挙げている。そちらの文章は、短い分量だったからかもしれないが、簡潔で分かりやすかった。

 年に一、二度寄席に行く三十代の若者にしては、落語や色物の理解度は浅いことはないと思う。
 6ページというスペースは、もし昼夜の出演者すべてに触れるにしても、書き方にもよるが、それだけで埋まる容量かもしれない。そこに、小説と落語、という要素で何か書こうとしたら、どうしてもいくつかの演者のことは割愛せざるを得ないかもしれない。

 加えて、「語られる言葉」に関する拘泥が、高座を聴いていても拭えなかったのだ。

 筆者にとっての「寄席体験記」は、落語を聞きながら、「語られる言葉」のことに思いが至った体験記、と受け取るなら、それもありなのかな。

 読後、もし、この人が見開き2ページのエッセイの方を書いていたら、もっと共感できる内容だったかもしれない、などと思っていた。
 82年生まれということは、まだ、三十代前半。「渋谷らくご」ではなく、池袋昼夜居続けの「寄席体験記」を筆者に依頼した編集者にとっては、期待通りの内容だったのか、なんてことも考えてしまう。
 

 次回は、唯一名前を知っていた杉江松恋の記事について書くつもりだ。

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by kogotokoubei | 2016-08-29 21:36 | 落語の本 | Comments(6)

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 いただいたコメントで、集英社の月刊誌「すばる」の9月号が落語を特集していることを知った。

 「すばる」は、「新潮」、「文學界」「群像」「文藝」と並んで「五大文芸誌」と呼ばれ、これらの雑誌に掲載された作品が芥川賞の候補になることが多いらしい。
 
 集英社としては『小説すばる』が大衆小説、『すばる』が純文学、ということのようだ。

 この雑誌は読んだことがないのだが、こういう機会でもなければ読むこともなかろうと思い、先日落語会で行った紀伊國屋書店で購入し、落語特集の部分は読み終わった。

 いわゆる“純文学”というものに、ほとんど縁がない。
 私が読む日本の小説は、もっぱら歴史小説が中心。
 歴史もの以外で、ほぼ全作品読んでいると思うのが夏目漱石。
 学生時代は筒井康隆も、当時発行されていた全作品を読破していたはず。

 ミステリーも海外ものは好きだが、日本の作家の作品は、ほとんど読まない。

 読書は、まず落語関係、そして歴史もの、続いてエッセイなどで、とにかく“純文学”なるものは、目にすることがない。
 だから、落語特集をきっかけにした、初「すばる」というわけだ。


 特集部分の表紙ページには、こんな文章が載っていた。

特集
落語がこんなに面白いとは

幾度目かの“落語ブーム”到来とも言われる今年
聴いてみたい!
でも、難しそう、敷居が高い、どう楽しむの?
そう思いのあなたへー
エッセイ、寄席体験記、演目ガイド、評論をどうぞ
奥深い落語の世界に、一席お付き合いください

 集英社の「すばる」のサイトから、目次特集部分の画像をコピーしてご紹介。
「すばる」のサイト

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 知っている名は、杉江松恋のみ。
 文芸評論家というより、ミステリー小説評論家として知っている。
 CS「ミステリチャンネル」の「闘うベストテン」は、かつて良く見ていた。

 他の人たちは、名前を知らなかった位なので、作品を読んだこともない。

 巻末に筆者の簡単なプロフィールが載っている。
 杉江松恋のみ1960年代の1968年生まれで、他の人はもっと若い。
 滝口悠生が1982年生まれで、他の五人は1970年代の生まれだ。

 掲載順に引用を含め感想などを記すが、複数に分けて書くつもりだ。
 まず、見開き二頁のエッセイ四作品について。

 初めて知る名前であり、作品も未読だが、きっと作家ならではの視点や切り口で、落語について書いているのだろう、と期待していたのだが・・・・・・。

 掲載順に、概要と感想を記す。
 なお、名前の後の( )内は、巻末のプロフィールから引用した。

楽しみ捨てたい 長嶋有(ながしま・ゆう、作家、72年生まれ)

 こんな書き出しだ。
 落語は好きだが、落語の「褒められ方」がときに苦手だ。
 さて、どんな「褒められ方」について苦手なのか。
 落語は、というか落語を褒める人は、「すごい」「至芸」「宝」といった類の語彙を用いた褒め方で、いつまでも下からみあげながら褒め続けている気がする。すごいものをすごいといってしまう。いわば「楽しみ捨てていく」感じが薄い。楽しんでもらって捨てられるだけではもちろん、どんなジャンルの表現も芸事も哀しいのだが、さりとて「捨てやすい空気」だってどこかにほしい。
 このへんを読んでいて、「いったい誰が、誰について褒めていることを指しているの?」という、疑問が募ってきた。
 しかし、その答えは、短い見開き二頁の中に、見当たらない。
 落語愛好家や落語評論家の評って、そんな手放しで褒め上げるものばかりではないだろうに。

 彼が目にしたり聞いたりした気になる褒め方は、誰かの小三治への評価か、それとも、志の輔ファンの言葉だろうか・・・・・・。

 それほど多くの噺家が、「すごい」とか「至芸」、そして「宝」などとは評されないだろう。

 中盤の表現。
 とにかく、着物のかもす粋ムードのせいも相まってか、落語を褒める人の褒め言葉は「すごい」噺家の「すごい」演目に震撼したものばかりに、やはりみえる。

 う~ん、どうしても、この人が経験した“例外的”な褒め方を、一般的な落語評とまで解釈してしまっているような気がしてしょうがないなぁ。
 私に限らないと思うが、「すごい」演目に震撼するなんてこと、そうは多くない。

 後半は、「渋谷らくご」で、立川志ら乃の『そばーん』という、ドローンのような「そばーん」が空から落ちてくるのを主人公が受け取る、という新作の感想。

 「よかった」らしい。
 蕎麦すすり的な様式とドローン(とはいう変な物)双方への批評性がある。大笑いしたし、くだらないから褒めすぎなくてもすむところもまた、よさだった。

 へ~ぇ、「くだらないから褒めすぎなくてすむところ」も、「よさ」なの?!
 
 最初に引用した部分の後は、次のように続いている。
 歌舞伎とかにも、歌舞伎を褒める人の言葉にも、しばしば同じことを思う。もちろん、文学もそうだ。いずれも、ゆくゆくは勲章とかもらう「まったき褒められ」の道筋がある。
 そのこと自体は悪いことではないのだが、でもそのことに気恥ずかしさや照れを感じている「動き」のようなものも、そのジャンルの中に発見したい。
 要するに、手放しで褒め上げることを「恥」と思うような、そんな「空気」が欲しい、ということなのか。その指摘は分からないでもない。

 とはいえ、この短い文章を読みながら、疑問符はずっと消えなかった。
 この人が言いたいことが、ある特定の落語評について、匿名性を保ったまま批判したいということなら、まだ分かりやすいのだが、「落語評」一般についての見解とするなら、それはちょっと違うのではないか、と思いながら読んでいた。

 結局、「誰の誰への落語評?」という疑問が、終始残ったままだった。
 読み手への気配りが不足していると思ったエッセイで、もちろん「すごい」文章とは思わない。

 次に進む。
 
私と落語とラジオと 原田ひ香(はらだ・ひか、作家、70年生まれ)

 こちらも、冒頭部分を、まずご紹介。
 私はすばる文学賞受賞の一年ほど前にラジオドラマの賞をいただいている。今から十年ほど前のことだ。受賞作はすぐにドラマ化された。その収録に私も立ち会ったのだが、その時、ものすごくショックなことが起きた。
 収録も大詰め、ラストシーンにさしかかった時に、主役の俳優さんが喉を痛めて咳き込んだのだ。私はそれまで、ラジオドラマだけでなく、映像のシナリオについてもたいした知識がなかった。小説ばかり読んでいたのでラジオドラマの脚本にもかかわらず、セリフや効果音で表現できなくて、小説で言えば地の文を、すべて膨大なモノローグにして主役の俳優さんに読ませていたのである。
 俳優さんが咳き込むことによってそれに気が付いた私は、もっとラジオドラマを、ラジオを学ばなければ、と強く思った。NHKのラジオドラマのアーカイブでドラマのCDを貸してもらったり、過去のシナリオをいただいて読んだりしつつ、(ドラマ以外の)ラジオと落語を聴くようになって、落語に親しむようになった。
 それから一年後、小説の世界の方に来て、ラジオドラマからは離れてしまったけど、あの時、落語やドラマを聴けたのは本当によい経験だったと思う。
 創作落語と古典落語、どちらが好きか、と問われれば、古典と答える方がなんだか渋くてかっこいいような気がするが、やっぱり、ラジオドラマの参考になったのは創作落語の方だ。

 ご本人が落語に親しむようになったきっかけとなった逸話の存在は分かった。
 とはいえ、ラジオドラマを学ぶための教材として、なぜ落語も含まれていたか、この文章だけからは今一つピンとこないのも正直な感想。

 そして、この後、次のような、ラジオで聴いて気に入った落語の演目が続く。
 立川志の輔師匠の「歓喜の歌」は映画にもなっているから有名だけど、最初に聴いた時は笑いすぎ、その構成が見事すぎ、鳥肌が立ったほどだった。でも、私が一番好きなのは「七福神」。一人暮らしの男性の部屋に七福神がぞろりと訪ねてくる。日本の神様としてもう少し主張したい、と言いながら・・・・・・もう、このまま、ラジオドラマにしたい演目だ。師匠の地元、富山の薬売りを題材にした「先用後利」は最初、古典かと思って聴いていたら後に創作とわかってびっくりした。それから、桂文枝師匠の「涙をこらえてカラオケを」もすばらしい。
 
 この後、著者がシンガポールに住んでいた時に、現地の日本人会や富山県人会主催の志の輔の落語会も聴いたことが記されている。
 志の輔が経験したシンガポール空港での逸話をマクラで聴いて、この方は「一気に距離が狭まった感」があったようだ。
 
 締めの部分を、少し長めに引用する。
 ラジオと落語と、のラジオの方であるが、私はラジオを聴き始めた時に、伊集院光さんの深夜放送に夢中になった。これはとても幸運なことで、伊集院さんは十代の時に三遊亭円楽(当時は楽太郎)に弟子入りし修業している。時折、伊集院さんの口からこぼれる弟子時代の話は、ちょうど聴き始めたばかりの落語というものに奥行きを与えてくれた。
 この四月からTBSラジオで伊集院さんの午前中のラジオ番組が始まった。そのラジオ番組「伊集院光とらじおと」の二週目に円楽師匠がいらっしゃった。その時、師匠が、「何か物事に迷ったら、『と』の字を入れてみるといいよ」という趣旨のことをおっしゃった。「伊集院光とらじおと」「私とゲートボールと」というように。そうすると物事がはっきり見えてきて、自分に何ができるかわかるよ、と。
 すばらしいお言葉で、僭越ながら、私もこの原稿の題名を「私と落語とラジオと」にさせていただいた。円楽師匠はその後、ちょっとややこしいものを「と」されたようで、派手に報道されていらっしゃったけど、それはそれとして、この話はいかにも師匠らしいお言葉で、私も人生の指針にしたい。

 あまり、まぜっかえしたくはないのだが、「と」を付けることを、「人生の指針」・・・・・・。

 ラジオと落語、という表題から、生の高座でもテレビの落語でもなく、聴く落語ということを主体とする内容なのか、と表題からは想像していたが、違った。

 せっかく、ラジオドラマ→落語、という流れを作ったのだから、ラジオドラマと落語に関して、作家の視点で堀り下げることもできたのではなかろうか。
 たとえば、ラジオドラマと落語の「間」について、など。
 
 この内容、私が編集者なら、書き直してもらうなぁ。

祖父と落語 広小路尚祈(ひろこうじ・なおき、作家、72生まれ)

 エッセイの中では、この内容が、もっとも私には相性が合った。
 祖父が、ご本人いわく東京の呉服屋のお坊っちゃんだったにもかかわらず、旧制中学を辞めて大衆演劇の役者になった人。
 祖父の所へ遊びに行くたび、祖母に「好きなだけ本を買ってやれ」と言ってくれた。

 祖父母というスポンサーを得、読書を趣味とするようになった私は、児童向けの推理小説や冒険小説などを夢中で読んでいたのだが、あるとき書店の棚で『子ども落語』(六代目柳亭燕路著)という本をみつけた。
 落語については、テレビなどで見たことがあった。当時は即席みそ汁のCMに五代目柳家小さん、焼き肉のたれのCMに八代目橘家円蔵といった名人が出ていたこともあって、なんとなく「落語家って、面白そうな人たちだな」と思っていた。だから『子ども落語』についても、自然と興味が湧いたのだろう。
 『子ども落語』は確か、五巻か六巻まで集めた。何度も読むうちに噺を覚え、祖母に扇子と手拭いを用意してもらって。ベッドに寝ている祖父に向かって「寿限無」、「元犬」、「まんじゅうこわい」などを披露すると、祖父は「おまえ、落語家になったらどうだ?」と言って、目玉の底から笑ってくれた。私もウケるのがうれしくなって次々に新しい噺を覚えた。中でも好んで演じたのは、「堀之内」、「粗忽長屋」など、粗忽の噺だ。私は子どもの頃からのおっちょこちょいである。だから、ぴったりくるような気がしたのだ。

 六代目の柳亭燕路は、五代目小さん門下で、落語研究家としても著名な噺家さんで『落語家の歴史』などの著書もある人。『子ども落語』も貴重な彼の著作だ。

 この文章を読んで、エッセイ三本目にして、ようやく、一緒に落語を語りたいと思わせる人の文章に接したような気がした。
 人前で落語を演じたことのある人、という共通点もある。
 やはり、エッセイというものは、共感性が高いかどうかで、伝わるものが違ってくるなぁ。

 寄席についての次の文章にも、実に共感できた。
 寄席で落語を聴いていると、時々祖父のことを思い出す。三笑亭笑三師匠の高座を聴いた時などは特にそうだ。祖父は病床にあっても、グレーの髪を綺麗になでつけ、いつも格好よかった。食事をするときの箸の使い方は、笑三師匠の枕でおなじみ、「コシヒカリにありつける」のしぐさにそっくりだった。何気ない会話に時々はさみこまれる、ユーモアや皮肉。目玉の底から笑っているような、しわしわの笑顔。祖父の面影をそこに感じているからかもしれないけれど、笑三師匠はとても格好いいと思う。

 私も、大正生まれの笑三師匠の高座、格好いいと思う。
 池袋で聴いた『悋気の火の玉』の高座は、いまだに目に焼き付いている。
 この文章で、この人のおじいさんのイメージも膨らんできた。

 締め少し前からを引用。
 子どもの頃は落語家になりたいと思っていたが、私は結局音楽に青春を費やして、人生を棒に振ってしまい、現在は小説家などという野暮な商売をしている。自分の人生をやり直したいとは思わないが、心の底には今でも、落語家に憧れているような気がする。
 子どもの頃に抱いていた素敵な大人の姿、という感じがするからだろうか。軽妙洒脱でありながら、世の哀しさや喜びをすべて肌で知っているような、落語家独特のあの雰囲気。どうやら私は、つまらない大人になってしまったようだ。
 落語の世界は、愚か者にも優しく、温かい。落語の中では、粗忽者も与太郎もしわいやも泥棒も、排除されることがない。もしかしたら私は落語に、理想を見ているのかもしれない。現実逃避、でなければよいのだが。
  
 この人の落語と落語家への愛は、深い。
 しかし、“軽妙洒脱でありながら、世の哀しさや喜びをすべて肌で知っているような”独特の雰囲気を醸し出す落語家さんは、今ではずいぶん少なくなったなぁ。

 共感性だけでなく、自分の落語体験を、単に事実を羅列するだけではなく、自分の人生と重ね合わせた文章には訴えるものがある。

 この落語特集を読んだ、最大の収穫は、このエッセイかもしれない。
 広小路尚祈という人の小説を読んでみたくなった。

 さて、エッセイのトリ。

落語とわたしの不思議なご縁 トミヤマユキコ(ライター、79年生まれ)
 
 冒頭部分を、まず引用。
 わたしがはじめて生で見た落語家は、柳家喜多八&柳家喬太郎のおふたりである。当時わたしは大学一年生。落語は日曜の夕方に「笑点」をぼにゃり眺める程度だったのだけれど、大学の落研が主催する無料落語会がたまたま授業のない時間帯にあるというので、ひょいっと参加してみたのだった。

 初めての生の落語にしては、実に豪華ではないか。
 それも、この二人会を、無料で聴けたとは、羨ましい。

 その感想。
 「タダだし、ヒマだし」ぐらいのノリで見た落語だったが、たいへん面白かった。そしてすごく驚いた。なぜって、座布団の上に着物を着たおじさんが座り、身ぶり手ぶりを交えて喋っているだけなのに、脳内にはめくるめくストーリーがスムーズに上映されたからである。(初めて聴く内容なのに!)。視覚としてはおじさんを捉えているのに、若い男女が恋愛していたり、むさくるしい江戸の男衆がドタバタ劇をやったりしている様子が、はっきりとイメージできる。

 実に幸運な落語との出会い。
 そして、この方は落語との相性が合っていた、ということだろう。

 ちなみに、私は連れ合いを何度か落語会に引っ張り出したが・・・何が面白いか分からない、どうして笑っているのか、共感できない・・・ということで、彼女は落語と相性が合わないと、諦めた。

 さて、この方は、幸運な初落語体験の後、「その日を境にめちゃくちゃ落語にハマったというわけではなかったけれど、ときどき寄席へ行くようになった」とのこと。

 また、この方は、落語好きな人脈にも恵まれているようだ。
 音楽サークルで同期だった親友が、某テレビの落語関連番組の作家だったり、初めての落語を企画していた大学の落研の学生だった人は、今では落語会を主催していて、その会のトークゲストになったり。

 締めの部分。
 繰り返すが、わたしは落語マニアではない。細く長く落語ファンでいようと思っているだけの人間であある。けれども落語がわたしを摑んで離さない。思いもよらない形で人生に寄り添い、影響を与えてくる。これはもう、落語の神様に愛されていると言っていいのではないか。そうとしか思えない。この愛に応えることが、腹をくくって落語マニアになることなのか、引き続き浅いファンでい続けることなのか。ちょっと考えあぐねているところだ。真剣に落語を追っかけてもいいが、追われる逃げたくなっちゃうタイプの神様だと困るしな・・・・・・。

 まだ三十代の方だ。あまり決めつけることはないでしょう。 
 都合と財布と、その時の気持ちに従って、一時はさかんに落語にふれてみてもいいだろうし、浅く長く落語と付き合うのもよいだろう。

 少し残念なのは、初落語で聴いた喜多八については、冒頭部分以外に、何ら書いていない・・・・・・。

 幸運な若い落語愛好家の存在は分かった。でも、それ以上でもそれ以下でもない、という印象。


 これら四編のエッセイは、先日の紀伊國屋ホールでの落語会が始まる前に、紀伊國屋ビル内の某飲食店で腹ごしらえをしている間に、読み終わっていた。

 広小路尚祈の内容以外は、私の琴線に触れることはなく、どちらかと言うと、さまざまな疑問を抱かせた。

 若い作家による落語に関するエッセイ、ということで、どんな視点で書かれるのだろうか、と期待もしたが、こっちの思い入れが強すぎたようだ。

 その後、他の内容も読み終えてから、この特集全体への疑問が募った。
 
 「これで、特集・・・なのか」ということ。
 「いろんな人の文章を、並べただけだよね」という思いが強い。

 いわば「企画」としての工夫というか、編集者の存在を感じないのだ。

 たとえば、以前紹介した『週刊ダイヤモンド』の落語特集は、若い社会人を主な対象とした落語入門的な内容と言えるもので、私にとって新しい情報はほぼなかったし、全体が立川流贔屓なのには閉口したが、ビジュアル面での分かりやすさなどは結構だし、入門特集としては情報量も多く、まあまあ良く出来ていたと思う。

 また、今、「POPEYE」9月号の特集「ジャズと落語」を、楽しく読んでいる最中。
 これは、対象が私の趣味に合致していることもあるが、編集者の企画意図や熱意のようなものが、明確に伝わってくる。

 だから、「すばる」の特集を読んで感じるのは、「文芸誌が特集すると、こうなるのか・・・・・・」という割り切りもないではないが、「それにしても、もう少しどうにかなったのではないか?」という思いは拭えない。
 
 編集者が企画を試行錯誤していたり、届いた原稿を真剣に推敲する姿が、想像できないのだ。

 その思いは、この後に続く「寄席体験記」(6頁)、「演目ガイド」(4頁)、「春風亭一之輔試論」(23ページ)を読んで、なおさら深まるのだが、それらについては、日を空けて書くつもり。

 エッセイ以外の三つは文章量がそれぞれ多いのだが、二回目にまとめて載せるつもりだ。

 いわゆる“文学的表現”なのだろうが、読んで理解できにくい部分も多々あったし、内容への疑問が途切れることもなかった。
 正直なところ、もう一度読み直すのが、ちょっと辛い。


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by kogotokoubei | 2016-08-26 21:36 | 落語の本 | Comments(4)

 落語協会は、来年春の五人のみならず、秋にも三人が真打に昇進するらしい。

 ホームページの案内を引用する。
落語協会ホームページの該当記事

2016年08月21日
平成29年 秋 真打昇進決定

平成29年 秋(9月下席より)

桂三木男(馬生門下)、柳亭こみち(燕路門下)、古今亭志ん八(志ん橋門下)

以上、3名が真打に昇進することが決定致しました

 実に、無駄を省いた内容(もちろん、皮肉^^)。
 昇進者のプロフィールページへのリンクもない。
 
 訪問者の便宜などはまったく考慮しないダメなサイトの見本である状況は、変わらない。

 5月の記事で紹介したが、あらためて来年“春”の五人は次の通り。
2016年5月9日のブログ

------------平成29年春の真打昇進者-------------------------
林家ひろ木
 2002(平成14)年林家木久扇に入門、2005(平成17)年11月二ツ目昇進
春風亭朝也 
 2002(平成14)年05月春風亭一朝に入門、2005(平成17)年11月二ツ目昇進
柳家ろべえ 
 2003(平成15)年02月柳家喜多八に入門、2006(平成18)年05月二ツ目昇進 
三遊亭時松
 2003(平成15)年04月三遊亭金時に入門、2006(平成18)年05月二ツ目昇進
鈴々舎馬るこ 
 2003(平成15)年05月鈴々舎馬風に入門、2006(平成18)年05月二ツ目昇進
--------------------------------------------------------------
  
 来年“秋”の昇進者三人は、見事に香盤順で、次のような履歴になっている。
---------------------------------------------------------------
桂三木男 
 2003(平成15)年金原亭馬生に入門、2006(平成18)年11月二ツ目昇進
柳亭こみち
 2003(平成15)年柳亭燕路に入門、2006(平成18)年11月二ツ目昇進
古今亭志ん八
 2003(平成15)年古今亭志ん五に入門、2006(平成18)年11月二ツ目昇進
 *志ん五没後、志ん橋門下
----------------------------------------------------------------

 春の昇進者のうちの三人(ろべい、時松、馬るこ)とは二ツ目昇進と同じ半年遅れでの真打昇進ということになる。

 ちなみに、この後に、こういう人たちが続く。

古今亭駒次
 2003(平成15)年3月古今亭志ん駒に入門、2007(平成19)年2月二ツ目昇進
柳家さん若
 2003(平成15)年柳家さん喬に入門、2007(平成19)年2月二ツ目昇進
柳家花ん謝
 2003(平成15)年柳家花緑に入門、2007(平成19)年2月二ツ目昇進
林家たこ平
 2003(平成15)年11月林家こぶ平に入門、2007(平成19)年5月二ツ目昇進
古今亭ちよりん
 2003(平成15)年古今亭菊千代に入門、2007(平成19))年5月二ツ目昇進

 ここまでが、平成19年の二ツ目昇進者。

 5月の記事で、来年春が十人ではなく五人になったのは、二ツ目昇進時期でキリが悪いからか、と書いた。
 そういう面もあったと思う。五人に続く同時期の二ツ目昇進者が三人で、その後の駒次、さん若、花ん謝の、これまた三人が同時二ツ目昇進者。
 その三人とたこ平、ちよりんとは二ツ目昇進時期が三ヵ月しか違わない。

 再来年は、結構昇進者の決定は難しいだろう、などど思っていた。
 まさか、来年秋に、2006年11月の二ツ目昇進者の三人を先に真打昇進させるとは、予測しなかったなぁ。
 甘かった^^

 三人昇進は、たぶんに最近の落語芸術協会を模倣したように思う。

 各定席十日間の披露目に三人全員が出演し、トリのみ順番で務めるという芸協の方式は、なかなか結構な趣向だ。
 落語協会の三人昇進も、同じような興行になるなら、駆けつけようとする動機づけにもなる。

 これで、再来年の昇進者も見えてきた。

 平成30(2018)年の春は、駒次、さん若、花ん謝、たこ平、ちよりんの5人で決まりなのだろう。
 香盤順では彼等の後に続く四人は、二ツ目昇進時期に一年近い差があるのだ。

柳家わざび
 2003(平成15)年11月柳家さん生に入門、2008(平成20)年3月二ツ目昇進
柳家喬の字
 2004(平成16)年柳亭さん喬に入門、2008(平成20)年3月二ツ目昇進
初音家左吉
 2004(平成16)年6月柳亭初音家左橋に入門、2008(平成20)年3月二ツ目昇進
柳家ほたる
 2004(平成16)年6月柳家権太楼に入門、2008(平成20)年3月二ツ目昇進

 この後には同じ2008年の11月に二ツ目になった、三遊亭たん丈、春風亭一左、三遊亭歌太郎、柳亭市楽の四人が続く。

 だから、平成31(2019)年の昇進者が、どうなるか・・・・・・。

 四人や八人での昇進は、披露目の番組が組みにくい。

 あっ、そうか!
 また、春と秋で、五人と三人での昇進にするのか。

 でも、どこで5:3、あるいは3:5に分けるんだろう・・・・・・。

 ともかく、三年後の昇進方式への伏線ともなりそうな、来秋の昇進情報である。
 もちろん、そんな先のことは、どうなるか分からないけどね。


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by kogotokoubei | 2016-08-24 12:45 | 真打 | Comments(4)
 昨日は、台風9号が通り過ぎる中で、久しぶりの落語会。

 居残り会メンバーM女史が企画・運営に携わっていらっしゃる、都民劇場の落語会にメンバー集合の予定だったが、Yさんは自宅近辺が大雨の影響で土砂災害地域となって危険なため、断念された。
 残念だが、大黒柱としては、家族を守ることを優先するのは、当然。

 私は、自宅が危険ということもなく、田園都市線と地下鉄が動いているので、なんとか駆けつけることができた。
 
 都民劇場の創立70周年を記念する「都民特選小劇場」として、柳家喬太郎が“寄席”のような会をプロデュースした昼夜二回公演の夜の部。
都民劇場サイトの該当ページ

 新宿三丁目に着いた時には雨は小降りになっており、次第に上がりそうな雲行きで、ほっとした。
 紀伊國屋ビルの一階でM女史に遭遇し、少し立ち話。
 昼の部は、開催の有無に関する問い合わせも多かったし、空席も目立ったようだ。
 そうだろう。昼の部なら、私も二の足を踏んだかもしれないなぁ。

 ほぼ都内での降雨の心配もなくなった夜の部は、お客さんの入りも悪くない。

 佐平次さん、I女史と三人並んだ席で、「柳家喬太郎が、個性豊かな面々を集めておくる 寄席の楽しさをぎっしり詰めたプログラム!!」を楽しむことができた。
 
 そのプログラムは、次のような構成だった。
-----------------------------------------------
(開口一番 入船亭辰のこ『十徳』)
柳家わさび『亀田鵬斎』 
柳家小せん『野ざらし』
寒空はだか 漫談 
入船亭扇辰『目黒のさんま』
(仲入り)
三遊亭白鳥『ギンギラ・ボーイ』
林家二楽 紙切り
柳家喬太郎『路地裏のい伝説』
-----------------------------------------------

入船亭辰のこ『十徳』 (10分 *18:20~)
 昨年12月の三田落語会以来。
 いわゆる、今流行り(?)の若手イケメン噺家の一人に入るのかもしれないが、師匠扇辰は、そういったチャラチャラしたイメージを嫌うかな^^
 最初の印象と同様、声は悪くないし、語り口もしっかりしている。小辰にも良い刺激になりそうだ。

柳家わさび『亀田鵬斎』 (15分)
 「2チャンネルで、落研以下と書かれている」、と自虐的なマクラをふった。
 ネタではなく、本当に気にしているようだ。つぶやきに近い言葉の暴力など、相手にしないことだ。あるいは、書かれているということは、それだけ注目されている位に思わなきゃ、芸人なんてやっていけないぞ!
 さて、本編は初めて聴くネタ。後で調べると、師匠さん生の十八番のようだ。
 下谷金杉に住む一人の老人。貧しい暮らしをしているのが、実は著名な書家の亀田鵬斎だった。鵬斎の孫を助けた縁で、吉原田圃の脇で屋台のおでん屋をしている平治は、小障子に「おでん、燗酒 平治殿 鵬斎」と一筆書いてもらった。
 その障子の書を見た者が次々と高く買い付けていく・・・という、『抜け雀』や甚五郎ネタに似た名人もの。
 亀田鵬斎、どこかで聞いたなぁ、と思っていた。
 思い出した。似た名前が私が好きな音源の一つ、三遊亭金馬の『一目上がり』に登場していた。
 八五郎がご隠居の家の次に大家を訪ねる場面。ご隠居につけてもらった知恵で、大家宅の掛け軸を「結構な三(賛)ですね」と八五郎が誉めるのだが、その「近江の鷺は見がたく、遠樹の烏見易し」について、大家が「これは根岸にいらっした亀田望斎先生の詩(四)だ」と答える。きっと、この亀田望斎のモデルが鵬斎なのだろう、と思う。
 私は、わさびの醸し出す雰囲気は、嫌いではない。
 しかし、終演後の居残り会でも、少し話題になったのだが、数年前から、ほとんど変わらないという印象はあるなぁ。平成15(2003)年入門、平成20(2008)年3月に二ツ目昇進しているから、順当に行けば三年後には真打昇進の可能性が高い。I女史のお話では、BS NHKの「our sports」という番組に出演しているらしい。短時間の番組らしいが、そういう経験や、『落語物語』で見せた役者としての素養を、ぜひ高座に生かし成長して欲しいと思う。

柳家小せん『野ざらし』 (18分)
 マクラで「不要不急の用は取りやめ外出しないように、と言われている状況において、ようこそお越しくださいました」、と想定していた科白。
 たしかに、台風が通過したとはいえ、ほぼ満席かと思う客席を見たら、そう思うよねぇ。
 仕事は不要不急ではなくて、落語は不要不急なのか、なんてことが居残り会でも、少し話題になった。
 大自然の行いには逆らえないが、そういう環境の中で暮らしていかなければならないのも、事実だ。
 話は外れるが、北海道で生まれ育った私は、小学校や中学校の時、真冬の地吹雪の中で顔が前を向けないような時でも、歯を食いしばって通学していたことを思い出す。冬の体育で雪上サッカーの後、凍りそうな足を引きずりながらの帰り道も思い出す。
 今思うと、学校は「不要不急」ではなかった、ということだよねぇ。

 さて、小せんの高座。
 これまた居残り会で話題になったが、見た目は、直前のわさびにもやや似ていないこともないが、扇辰の高座姿に、実によく似ている。そして、奇声(?)を発しない普通の扇辰と、声も似ていないことはない。
 声と言えば、現役の噺家さんの中で、声の良さで、この人は五本の指に入ると思う。志の輔などは、羨ましいのではなかろうか^^
 途中でサゲたが、寄席の雰囲気をしっかり醸し出した好高座。

寒空はだか 漫談 (13分)
 五年まえの国立演芸場での一之輔の会以来。
2011年8月3日のブログ

 あの時は、相性の悪さを感じたのだが、まったく印象が変わった。
 たまたま、めくりがなかったことを受けて「いいんです、あってもなくてもいい時間です」という自虐も、決して暗くなく笑いをとった。
 埼玉県人の方には申し訳ないが、東京圏と大阪圏の地理的な状況は奈良に似ているが、「奈良から、伝統・文化・鹿を抜いたら埼玉」という喩えで、会場も私も爆笑。あの可笑しさは、あの場にいないと分からないだろうなぁ。
 流行歌に関するネタも、今回は笑えた。
 なぜだろう・・・・・・。
 聴く側の体調を含む違いもあろうが、独演会の助演ではなく“寄席の色物”という雰囲気が、演者にも客席にも良い空気を作り出したような気がする。
 結構、この人を好きになりそうだ。

入船亭扇辰『目黒のさんま』 (23分)
 仲入りは、喬太郎の盟友(?)、この人。
 扇辰は、普通に演じていても、その表情や語り口の個性が光るのだが、つい、オーバーアクションになる場合がある。
 まさに、この噺が、そうだった。
 これまた、居残り会の話題になったが、殿様を、やや狂気を帯びた人として造形していて、家来との会話や表情が、大袈裟に過ぎる。
 小咄の桜鯛など殿様に関するマクラは、私が好きな三遊亭金馬を髣髴させ期待したのだが、本編は、あまり感心しなかった。クスグリのいくつかも、無用に思えたなぁ。たとえば、殿様が野駆けの後で空腹となって弁当を要求した際、重役の金也が「弁当を持参した者はいるか?」と、田中・中曽根・安倍など歴代の総理の名を並べたり、赤トンボの羽根をとったら唐辛子の歌を挟んだり、はこの人には不要ではなかろうか。
 安倍に「福島はコントロールされています」と言わせたが、クスグリ過剰で、せっかくの科白が活きなかったように思えて、残念。
 扇辰には、無理に笑いを求める演出は不要だと思う。これは、居残り会で三人一致した見解だ。
 
三遊亭白鳥『ギンギラ・ボーイ』 (19分)
 久しぶりだ。
 過去の記事を確認したら、なんと2010年2月の「第一回 大手町落語会」で『はじめてのフライト』を聴いて以来。
 2010年2月27日のブログ
 その後、この人が作った噺は、他の噺家でいくつか聴いている。
 マクラの出だしから、『マキシム・ド・呑兵衛』か?、と思ったら違った。
 しかし、基本的な部分で共通点はある。
 まず、マキシムは、流行らない居酒屋のテコ入れ話で、こっちは、薬局のそれ。
 閑古鳥が鳴く薬局の老夫婦が、二人の出会いを思い出しながら惚れ薬(メンソレなど在庫品を混ぜただけ)を作る。
 それを、来店した若い男が買い求め、好きな彼女を前にして飲んだところ・・・というお話。
 薬局の老夫婦の出会いが、B29の「編隊飛行」による「絨毯爆撃」の中だったことが、サゲにつながってくるのだが、クスリのネタなので、クスグリはお手の物。
 この会で、一番笑ったのは、この高座だった。
 噺の完成度はマキシムが上だろうし、マキシムからの派生ネタのような気がしたが、白鳥ワールドを久しぶりに楽しんだ。

林家二楽 紙切り (16分)
 膝代わりの色物は、この人。
 リクエストの前に「桃太郎」、リクエストで「台風(9号)」、「駄菓子屋」、「怪獣ブースカ」。
 高座から客席に少し距離があり、リクエストの作品を前座に届けてもらおうとしたが、代わりに小せんが私服で出てきてお手伝い。
 トリの喬太郎がマクラで、楽屋で白鳥が、怪獣ブースカを「全然似てねェじゃないか」と本人に言っていたが、本人もそう思っていると言うと、二楽が出てきて指を口に当てる。お約束かな^^
 
柳家喬太郎『路地裏の伝説』 (22分 *~20:59)
 昼夜公演の大トリ。
 マクラでは上述したように、二楽の「怪獣ブースカ」をいじったが、その前に「白鳥を呼んでしまい、申し訳ありません」というお詫びから始まった。
 もちろん、ネタだろうが、その後の二楽のブースカへの発言につなげて会場は爆笑。
 気の置けない仲間ばかりなので、楽屋で馬鹿話ばかり、とのこと。
 たしかに、先輩たちがいない楽屋は、自由気ままな雰囲気なのだろう。
 後で確認すると昼の部が『紙入れ』だったようで、夜の部は新作になったのだろう。
 ずいぶん前になるが、2009年に神保町の日本教育会館・一ツ橋ホールで開かれた「らくだ亭 第20回記念特別公演」以来だ。
2009年5月16日のブログ
 主人公がお盆に里帰り(ちなみに、大宮)し、父親の三回忌のために集まってくれた友人たちと会う、という設定なので、“旬”なネタと言えるだろう。
 思い出話に花が咲き、当時の都市伝説に話が及ぶ。ネッシー、ヒバゴン、つちのこ、なんちゃっておじさん、口裂け女、などの話で盛り上がり、自分たちが経験した、「風邪ひくなおじさん」が話題になった。
 夜、抜け道のない路地裏に、塾帰りの小学生かと思しき人物がいて、すれ違いざまに大人の低い声で「風邪ひくなよ」とつぶやく。振り返ると、その人物は消えている、という伝説だ。
 しかし、実際に出会った友人がいた。彼がコーラを飲んでいて遭遇した時には、「そんなもの飲んでいると、腹をこわすぞ」と言って消えたらしい。彼は、それがトラウマになってコーラが飲めない。
 発泡酒の酒盛りが進み、つい、父親の遺物がしまってある棚を開けてみると、「平凡パンチ」「週刊プレイボーイ」の創刊号や「GORO」などと一緒に、古い日記帳が出てきた。その父の日記帳を読んだところ・・・・・・ここまでにしておこう。
 よく出来た噺だ。適宜笑いをとりながら、怪談噺としてのサスペンスを保っている。「発泡酒」「チーズ鱈」「さくら水産」などの小道具(?)が、効いている。
 「平凡パンチ」創刊は、東京オリンピックの昭和39(1964)年、「週刊プレイボーイ」はその二年後なので、主人公の父親は、ちょうど団塊の世代、というところか。喬太郎が主人公に語らせたように、たしかに、この両誌の創刊号なら神保町でも高そうだ^^
 「GORO」は昭和49(1974)年の創刊なので、昭和38(1963)年生まれの喬太郎は、篠山紀信による美女たちの写真を楽しみにしていたかもしれない。
 客席にはベテラン落語愛好家から、落語経験の浅い方まで、そして、結構幅広い年齢層のお客さんがいたように思うが、喬太郎はこの噺のストライクゾーンを巧みに広げているので、笑いの渦もそれだけ広がる。
 あらためて、喬太郎の新作の完成度の高さを再認識。
 古典ではなかったが、旬な噺でもあり実に結構だった。この高座そのものの良さ、そして、昼夜、寄席の空気を紀伊國屋ホールに創り出そうとしたプロデューサーとしての努力も加点(?)し、今年のマイベスト十席候補としたい。


 終演後は、雨も上がり、我らがリーダー佐平次さんとI女史の三人で、最近新宿ではお決まりのお店での居残り会だ。
 佐平次さんが、珍しく焼酎だったので、生ビール、ハイボールの後は私も焼酎のロック。
 そしてこの日の高座のことや、佐平次さんの大学卒業旅行での逸話などで盛り上がり、あっと言う間に時間が過ぎる。もちろん、帰宅は日付変更線を越えた。
 最寄駅から徒歩での道すがら、路地裏に「風邪ひくなおじさん」がいないか探したが、この日はすでにマンホールの中で眠っていたようである^^


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by kogotokoubei | 2016-08-23 20:52 | 落語会 | Comments(8)

 むのたけじさんが、21日に101歳の天寿を全うされた。

 以前に黒岩比佐子さんの聞き書きによる本『戦争絶滅へ 人間復活へ』から、むのさんが五代目柳家小さんについて語られた内容を紹介した。
2013年10月20日のブログ


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むのたけじ『99歳一日一言』(岩波新書)

 2013年11月に、同じ岩波新書で発行された『99歳一日一言』という本の成り立ちについて、巻末にご子息の武野大策さんが、次のように書かれている。

この本作りにつながって

 この本を作る直接のきかっけは、父、むのたけじが眼底出血を患い、その治療を終えて、横手の実家に送っていった2008年8月31日に、長いいわれを付けて渡された100枚近い色紙にあります。その力強い字体に驚いて、その中の36枚を取り出して、これをこのまま複写して本にできるのではないかと提案しました。私は、10歳くらいですでに父親とは別の道を行くと決めていたこともあり、それまで父親の著作を読むこともほとんどなかったから、父親はそうした提案に驚いたかもしれません。その話はすぐに実現されることはありませんでしたが、こうすれば息子に自分の考えを伝えられると思ってか、折に触れて父は色紙を私に渡すようになりました。その様子の典型的なものを紹介します。
 私は、日ごろの運動不足を解消させるために、隣町にある川越の喜多院というお寺に月に1~2回くらい自転車で行っていました。そのようなサイクリングをしたある日の夕方に、この本で一月一日に紹介した「拝むなら自分を拝め。賽銭出すなら自分に渡せ・・・・・・」という色紙が何枚かのものと合わせて渡されたのです。私のお参りは人並みで特に信心が深いから行くのではないとわかっていながらこのような色紙を渡すかと、それを見た瞬間は反発を覚えましたが、それでもていねいにそれを袋に入れて保存しました。
 こうしたことで保存がしっかりしていると思ったのか、その後渡されるものが増え、「語録」と書かれた大判のノートも加わりました。色紙も増え、渡されるようになって5年近く経過した2013年2月には確実に1100枚を超えましたが、ただこのまま保存しておくのでは埋没させるだけのような気がしました。
 (中 略)
 私はいままで、生物が行っている一つか二つの生理現象を科学的に説明する研究に従事してきました。それは、人間をはじめとする生物の内部で行われていることを明らかにすることで、とりわけ20世紀になって飛躍的に躍進し、細部にわたってまで解明されました。ただ、いまだに「いのち」とは何かは解明されているわけではありません。こうした知識で、人間生活の便利さを増やすことはあっても、本質的な生き方を問うことはほとんどありませんでした。この本作りにかかわって、私はこうした科学研究で得られた知識が人間の生き方そのものを考えさせることに結びつく必要性を痛切に感じたことを話しました。それに対して、父が私に言ったことは、「生命科学のその『いのち』とは何かを問え」です。
 私の子ども時代には家庭生活を顧みることもなく社会活動だと言って外に出ていた父・むのたけじと、この本作りにつながって、そのことの親父の年を超えてから親子の会話・交流が出来たように思います。いずれにしろ、先の世代が後の世代にその経験をキチンとした情報として残すことができるのは、あらゆる生き物でおそらく人間だけが持っている能力です。だから、この能力を存分に利用することが大切です。この本がそうしたものとして受けとめてもらえることを願っています。

 私と年齢の近い大策さんは、次の埼玉新聞の記事にあるように、お父上の最後を看取られた方。
埼玉新聞の該当記事

 色紙や大学ノートでご子息に渡された言葉は、大策さんのおかげで、広く日本国民にとって有益な、硬骨のジャーナリストむのたけじさんの遺言集という財産となった。

 大策さんは、残された数多くの言葉から感じる季節感に従って、365の珠玉の言葉を並べてくれた。
 それらは、「人間がどのような生き方をすればよいか、問うているように思いました」と大策さんは記している。


 本書から、命日となった8月21日の「一日一言」を紹介したい。

八月二十一日

 戦時中、軍の輸送船でボルネオ海を渡ったとき、ひどい嵐にぶつかった。泳げない私は死ぬしかないと腹を決めたら、不思議と心は落ち着いていた。けれど最後に残った残念・無念は、この私が、いつ、どこで、何ゆえ、どんな有り様で死んでいくか。それを妻と子らに知らせる術がないことだった。戦場で死んだ多くの人たちは同じ思いでなかったろうか。

 幸運にも、むのたけじさんはボルネオ海に沈むことなはく、天寿を全うされ、ご家族に見守られて天国へ旅立たれた。
 そのおかげで、残された著作や珠玉の言葉を、大切にしたいと思う。

 合掌
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by kogotokoubei | 2016-08-22 12:47 | 幸兵衛の独り言 | Comments(2)
 昨夜はバドミントンの女子ダブルス決勝を見た。

 セットカウントが1:1で、外に出てこっちも休憩。
 雲間から、旧暦7月16日の満月が顔を見せた。
 さて、この月は、どちらのペアに力を与えるものやら、などと思ったが、リオは真昼だったなぁ^^

 ファイナルセットの16:19で、日本ペアの二人は、ともに目も表情も実にしっかりしていた。
 直観として、「これは、そう簡単には負けないな」と思った。
 そして19:19の同点で、四人の表情を見て、「高橋・松友組が勝つ」と確信した。

 そして、今朝はもう少し寝ていようと思っていたが、犬の声で起こされてしまった^^

 先ほど、NHKの朝のドラマを見てから、つい民放にチャンネルをひねって、つまらない番組を見てしまった。

 今は消したが、いわゆる朝のワイドショーで、コメンテーターなる元プロ野球選手が、スポーツの競技人口のことを話題にした。
 高橋・松友の金メダルで、バドミントン愛好家が増えるのではないか、という発言。

 前提は、競技人口が少ない、という認識なのだろう。

 こういう番組で、出演者が事前に自分で調べないのは想定できるが、番組スタッフが統計などのデータを準備しないのが不思議でならない。

 あるいは、知っていて数字を明かさない確信犯かもしれない。

 二年前のサッカー・ワールドカップの放映権の問題で記事を書いた。
2014年6月30日のブログ

 あの記事では、ネットで調べた各スポーツの競技人口のことも書いた。また、バドミントンのメディアの扱いに関する小言も書いていた。


 重複するが、日本人がどんなスポーツに親しんでいるかということについて、あらためて。

 総務省が実施している「社会生活基本調査」なるものがあって、同省サイトから資料がダウンロードできる。
総務省サイトの該当ページ

 調査についてはこう書かれている。
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 少し読みにくいので補足すると、昭和51年から5年毎に実施していて、前回は平成23年10月に約8万7千世帯、10歳以上の約20万人に実施した、とのこと。

 その中のスポーツの調査。これが「行動者率」の順位。
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 質問は、該当スポーツについて、次のような区分で設問があり、この回答結果を統計処理して「行動者率」に換算するらしい。

"年に1~4日"
"年に5~9日"
"年に10~19日(月に1日)"
"年に20~39日(月に2~3日)"
"年に40~99日(週に1日)"
"年に100~199日(週に2~3日) "
"年に200日以上 (週に4日以上) "

 総務省のサイトからはエクセルの「統計表」をダウンロードできる。
総務相サイトの該当ページ

 この統計表によると、各スポーツの競技者数は次の数字になるらしい。
 バドミントンと近い、400万人~600万人の競技を太字にした。
----------------------------------------------------
<スポーツ名>        <競技者数>(千人)
野球(キャッチボールを含む)     8,122
ソフトボール              3,538
バレーボール             4,558
バスケットボール           3,950
サッカー(フットサルを含む)     6,375
卓球                   5,121
テニス                  4,750
バドミントン               5,426
ゴルフ(練習場を含む)        9,240
柔道                    603
剣道                    779
ゲートボール               788
ボウリング               14,621
つり                    9,281
水泳                   12,030
スキー・スノーボード          6,043
登山・ハイキング           10,457
サイクリング              10,110
ジョギング・マラソン          10,956
ウォーキング・軽い体操       40,172
器具を使ったトレーニング      11,243
その他                  6,696
----------------------------------------------------
 
 行動者率、競技者数を見ても、球技の中でバドミントンは、サッカー、卓球、テニス、バレーボール、スキーなどと同じような競技人口群のスポーツと言ってよい。
 
 テレビに出るコメンテーターさん達は、普段、市民体育館で多くの老若男女がバドミントンや卓球を楽しんでいることを知らないのだろう。
 そして、野球やサッカーなどに比べて、とんでもなく競技人口が少ないと錯覚しているに違いない。

 もちろん、競技人口が多い競技が少ない競技より価値がある、などとは思っていない。
 実態をあまりにも知らな過ぎるのではないか、ということ。

 歴史も重要な要素。
 たとえば、レスリングは、1896年第一回の近代五輪アテネ大会から存在する競技。
 
 ちなみに同大会での実施競技は次の通り。

 ・陸上競技
 ・競泳競技(会場はプールではなく海)
 ・体操
 ・ウエイトリフティング(体操の種目として)
 ・レスリング(グレコローマンスタイルのみ)
 ・フェンシング
 ・射撃
 ・自転車
 ・テニス

 ご覧のように、五輪競技のテニスって、歴史があるのですよ。


 総務省統計の「その他」には、2020年の東京で採用される空手なども含まれるのだろう。
 野球・ソフトボールにどうしても注目が集まるが、私は空手の「型」の演技に日本的な美を感じるので、良かったと思う。

 それにしても、メダルの数ばかり強調するが、たとえば、難民選手団のリオでの表情や、現在の様子などについて、もっと報道するメディアはないものだろうか。

 ワイドショーといわれる番組は、その対象が、決して広くもなければ深くもないと、あらためて休日のテレビを見た感想である。

 オリンピックと、宿題のせいで記事が途絶えていたが、観てしまったテレビに刺激されて、こんな記事を書いた次第。

 さて、またジャズでもBGMに流しながら、抱えてきた“夏休みの宿題”に取り組まねば・・・・・・。


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by kogotokoubei | 2016-08-19 09:43 | 幸兵衛の独り言 | Comments(6)

 錦織の銅メダルは、実に価値がある。

 準決勝でのマレー戦は完敗だったが、三位決定戦では、ナダルに行きかけた流れを、見事に取り戻した。

 準々決勝のモンフィス戦、タイブレークで相手にマッチポイントを三本握られてからの逆転も、圧巻だった。

 私は、小学校と中学で野球少年だったが、高校と大学では軟式テニスに打ち込み、今は硬式に替わったものの、テニスに長らく親しんできた者として、非常に嬉しいメダルだ。

 一昨年、錦織が全米オープンで準優勝した際、佐藤次郎をはじめ、多くの先人たちの名がメディアに登場した際、記事を書いた。
2014年9月9日のブログ

 96年前にメダルを獲得した熊谷一弥(くまがい いちや)さんのことが、それほどしっかりとは紹介されていないので、二年前の記事と重複するが、あえて、熊谷さんのことについて書きたい。

 二年前、全米オープンでの錦織の躍進の際に熊谷さんのことを、西日本新聞では次のように紹介していた。
 なお、西日本新聞の記事は、すでにリンク切れとなっている。
 宮崎県テニス協会名誉会長の渡邊理さん(83)は、熊谷さんが宮崎にいた旧制中学時代は福岡まで歩いて帰省していたと遺族から聞いた。九州でも熊谷さんのような選手を育てたいと75年に「熊谷杯テニストーナメント」を創設。今年40回目を迎え、毎年九州各地から約400人が参加する宮崎県内最大の大会に育った。

 60年ほど前、デ杯の監督を務めていた熊谷さんを福岡市内のコートで見た九州テニス協会常務理事の西村充生さん(77)は「古武士のような雰囲気が漂っていた。若い人たちはほとんど知らない。九州にもすごい選手がいたと知ることで、錦織選手に続けと励みになるはずだ」と声を弾ませた。

 出身地大牟田の「広報おおむた」のサイトには、地元出身の英雄のことを忘れず、特設のページがある。
 まず、特集ページの冒頭を引用。
「広報おおむた」サイトの該当ページ

特集 日本人初の五輪メダリスト 熊谷一彌
 1920(大正9)年、ベルギーで開催された第7回オリンピック・アントワープ大会。日本人の参加が2度目となるこの大会に、大牟田出身の熊谷一彌(くまがいいちや)は、テニス選手として参加しました。競技の結果は、シングルス、ダブルスともに準優勝、日本人初となるメダル「銀」を2つ手にしました。その後テニスは、第8回大会以後60年の間、オリンピック種目から外れていたこともあって、大牟田市民でも熊谷一彌の名前を知っている人は多くありません。
今回、北京オリンピック開催(8月8日開会)を記念して、テニスプレイヤー・熊谷一彌を特集します。

 なんと、熊谷一弥さんは、五輪における日本人初のメダリストでもあったのだ。
 経歴は、次のように輝かしい。

熊谷一彌 略歴
1890(明治23)年 大牟田町横須村に生まれる
1910(明治43)年 慶應義塾大学入学、庭球部入部
1913(大正2)年 同庭球部が軟式テニスから硬式へ
1914(大正3)年 マニラ選手権大会 単準優勝
1915(大正4)年 東洋選手権大会 単優勝、複準優勝 第2回極東選手権 単、複優勝
1916(大正5)年 大学を卒業し米国へテニス遊学 全米ランキング5位
1917(大正6)年 三菱合資会社銀工部へ入社 第3回極東選手権 単、複優勝 ニューヨーク支店勤務
1918(大正7)年 米国のテニストーナメントに参加
・1918年…全米ランキング7位
・1919年…全米ランキング3位
・1920年…全米ランキング5位
・1921年…全米ランキング7位
1920(大正9)年 アントワープ五輪テニス 単、複銀
1921(大正10)年 デビスカップ準優勝
1922(大正11)年 帰国
1929(昭和4)年 全日本選手権 複優勝、現役引退
1950(昭和25)年 デビスカップ日本チーム監督に
1968(昭和43)年 死去(77歳)



 落語好きの方は、お気づきかと思うが、明治23年生まれは、古今亭志ん生と同じ。
 テニスプレーヤーとしては、熊谷さんは清水善造さんの一歳上だが学年は同じ、佐藤次郎さんよりは18歳年上になる。
 世界への挑戦の歴史を引き続きご紹介。
世界への挑戦
 中学校は伝習館へ1年通ったあと宮崎県へ引越し、宮崎中学校へ転校します。野球部で活動しながらテニスも続けていたようですが、本格的にテニスを始めたのは、1910(明治43)年、慶應義塾大学へ入学し庭球部員となってからです。
同庭球部は世界を目指すために、1913(大正2)年4月に硬式テニスへと転向します。熊谷は、翌1914年1月、初の海外遠征となったマニラ選手権大会でシングルス準優勝を果たします。熊谷の世界への挑戦が始まった年でした。
特に活躍したのは、1917(大正6)年に入社した三菱合資会社銀工部のニューヨーク支店に勤務した5年間です。オリンピックとデビスカップ(男子テニス国別対抗戦)へ出場したのもこの期間内でした。
体格が勝る外国人選手に対して、熊谷の身長は約170センチ。左利きの熊谷は、硬式ラケットを軟式ラケットの標準的な握り方である「ウエスタングリップ」で握り、鋭くドライブ(こすり上げるような回転)のかかった打球を繰り出して、並み居る強豪を倒していきました。軟式テニスの技を、硬式テニスに通用するものに磨いていったのです。
当時アメリカに、テニスの神様といわれたビル・チルデン選手がいました。世界4大大会で10勝をあげた選手で、熊谷とテニスツアーの中で何度か決勝戦などを戦っています。チルデンは著書に「熊谷は、ハード・コートでの試合を得意とする世界で最も偉大な選手の一人。いついかなるときであっても、どんな種類のコートの上であっても、最も危険な対戦相手だ」と残しています。

 中学時代は野球部(主将)、大学で軟式テニスを始め、その後、部そのものが硬式に転向している。
 野球から軟式テニスという経歴が私と一緒なので、とても親近感がある^^

 紹介されているように、熊谷は硬式になっても軟式テニスの標準的なグリップである「ウエスタングリップ」でプレーした。それは、先に紹介した清水善造も同様。

 ウェスタングリップは、俗に「厚い」握りと言うが、地面に置いたラケットを手に持った状態のグリップと思えばほぼ間違いがない。逆に「薄い」グリップと言うイースタンは、ラケットの面を地面に垂直方向にして握る感じ。アマチュアの硬式テニスプレーヤーは、ほぼイースタン気味である。また、熊谷が活躍した当時の他のプロテニスプレーヤーもイースタングリップ中心だったので、熊谷はまったく異色の存在であった。加えてサウスポー。相手はやりくかったらしい。
 現代のプロテニスプレーヤーは、ほとんどがウェスタン気味のグリップになっているから、清水や熊谷のような軟式出身の先人達は、硬式テニスのグリップに関する先駆けと言ってよいだろう。ちなみに、ウェスタンにも、セミ・ウェスタン、ウェスタン、エクストリーム・ウェスタンなどの用語があるように、握り方の違いがある。

 錦織のグリップはナダルやフェレールと同様、地面に置いたラケットを持ってから、また手を右(時計方向)に回したグリップで、エクストリーム・ウェスタンに近く、アマチュアではとても打てないグリップ。彼が子どもの頃から慣れたグリップなのだろう。ボールにスピンがかかりやすい長所はあるが、相手のスライスのボールへの処理が難しいなどの欠点もある。
 
 熊谷一弥さんは、ウェスタン・グリップで左利き、古武士のような雰囲気、となるとナダルをイメージしないでもない。
 そのナダルを破っての錦織の銅メダルというのも、何か因縁めいたものを感じる。

 錦織の活躍のおかげで、清水善造さん、熊谷一弥さん、佐藤次郎さんといった日本テニス界の先人達がもっと回想されて良いと思う。
 12年前にイチローが262本のMLB年間最多安打記録をつくった際、それより84年も前に257本の記録をつくったジョージ・シスラーの名がメディアを賑わわせたではないか。

 さて、これから全米だ。

 イチローが、その後も着実に自分の記録を積み上げているよう、ぜひ、錦織には四大大会での記録にも挑戦し続けてもらいたい。
 そうすることで、また、懐かしい名プレーヤーの名が思い出されるだろうから。


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by kogotokoubei | 2016-08-15 14:58 | 幸兵衛の独り言 | Comments(0)

 明日8月11日は、円朝の祥月命日。
 
 私は行けないのだが、明日、全生庵の座禅堂で行われる「円朝座」で、柳家喬太郎が円朝作品としては珍しい『縁切榎』をトリで口演するらしい。

 全生庵のサイトで、8月20日開催の円楽一門会による「円朝まつり」と隣り同士で案内されている。
全生庵のサイト

 落語協会HPの落語会情報のページでも案内されている。
落語協会HPの該当ページ

 ちなみに、中入りでは馬桜が『牡丹燈篭ーお札はがしー』。

 『縁切榎』は、喬太郎が昨年の扇辰との二人会でネタおろししたようだが、別題を『両手に花』。


 ここからは、あらすじを知らないまま明日お聴きになりたい方はネタバレなので、ご注意のほどを。

 円朝のネタに関して度々お世話になる、図や簡潔な文章で多くの噺を丁寧に紹介してくれるサイト「はなしの名どころ」さんから、文章部分を引用する。
「はなしの名どころ」サイトの該当ページ
-えんきりえのき-

 落とし噺.2人の恋人宅を往復する滑稽は権助提灯と同工.よく考えると,突然の変心のサゲは無理がある.板橋の縁切榎は和宮が降嫁の際に避けたといわれる.

大あらすじ
野呂井照雄,芸者と堅気の娘の両手に花.どちらの宅でも縁切りを言い出せない.縁切榎の力を頼ろうと板橋へ行くと,当の娘達と出くわす.どうしても俺を取ろうという性根に感動すると,2人口をそろえてあなたと縁が切りたい

はなしの足あと
主人公の野呂井は,浪花町(中央区)に住む芸者小いよと六間堀(江東区)に住むおとめとの間を行ったり来たりする.縁切榎(板橋区)は石神井川にかかる板橋のそば.

 もう少し詳しく知りたい、という方は、「落語の舞台を歩く」でご確認のほどを。
 春風亭正朝の高座を元に書かれている。
「落語の舞台を歩く」の該当ページ

 冒頭部分のみご紹介。若旦那が野呂井照雄である。
 若旦那が徳さんの所に相談に来た。親がお前の好きな人と結婚しろと言う。
 芳町の芸者小春は器量が良い上に芸が立って頭が良い。もう一人は本所横網町の資産家のお嬢さんお久さんで本所小町と言われた娘さん。どちらも同じくらい大好きで、どちらが良いか迷っているので、アドバイスを求めてやって来た。
 徳さんが言うには「人の心を試すのはいけないが、『店を継ぐには、奉公に出なければいけない。2~3年は掛かるだろうからその間は逢う事ができない。その間に素敵な人が出来たら一緒になっても良い。そのことで苦情は言わないから』と言って、相手の出方をみて選びなさい」。 と、
 他に手だてがないので、試す事にした。

円朝はまくらで「人情ばなしと落語のあいの子でございます」と言っているらしいが、内容的には滑稽噺(落語)に入るだろう。

 若旦那が、二人の女の間で行ったり来たりしながら迷うという状況設定は、少し年齢を上にすれば『権助提灯』や『悋気の火の玉』『悋気の独楽』のような、いわば妻妾ものに近い感じもするし、相手の了見を試してみようという筋書きは、『星野屋』『辰巳の辻占』のような趣きもある。

 この噺、私には円朝自身の体験、心情が下敷きにあるような気がしてならない。

 その偉大性が強調されるが、やはり、円朝も人であり男であり、間違いなくもてたはず。
 彼が同時に複数の女性との関係の中で、ふと「縁切榎」のことを思ったことがあったのではあるまいか。
 
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 矢野誠一著『三遊亭円朝の明治』
 
 矢野誠一さんの『三遊亭円朝の明治』は平成11(1999)年に文春新書で発行され、その後朝日文庫でも発行された。
 本書では、円朝のもてぶりに関する証言が載っている。
*矢野さんの本では“圓”の字を使っているが、この記事では“円”で統一します。
 一昨年の祥月命日に書いた記事と重複する部分があるが、引用したい。
2014年8月11日のブログ
断髪

 三遊亭円朝が自慢の円朝髷をおろして、新時代にふさわしい断髪にした時期については、はっきりとわからない。わからないが、売物にしていた道具をを使った鳴物入りの芝居噺を、弟子円楽の三代目三遊亭円生襲名を機にゆずり渡し、自らは素噺一本に転じた明治五年(1872)には、すでに断髪だったと思われる。
 (中 略)
 こんにち残された三遊亭円朝の写真のいくつかから、いかにも気難むずかしげな晩年の表情をうかがうことができるのだが、それらの写真をこえて、近代肖像画の傑作とされている鏑木清方の「円朝像」くらい、数多くの資料が伝えるこの不世出の藝人の風貌の的確に描かれたものもあるまい。1930年、帝展に出品され、現在東京国立近代美術館におさめられている。湯呑を手にした高座姿は、円朝作品の速記掲載を売物にした「やまと新聞」創刊者でもある篠野採菊を父に持つ清方の幼い頃の瞼の像が描かれたもので、むかしの高座の忠実な記録画ではないのだが、そこには明治という新時代に権威と名誉を求めて対峙したひとりの藝人の全人格が活写されている。もちろん清方の「円朝像」は短髪の黒紋付姿で、着物も大島紬様のもので、衿もとにのぞく半衿も黒と、地味な好みに統一されており、円朝髷姿で赤い襦袢をちらちらさせた時代の面影だにない。

若き日の醜聞

 それだけに岡鬼太郎のいう「緋の襦袢の頃」の軽佻浮薄な衒いに充ちた、円朝の人気者ぶりが気になるところだ。この時代の円朝の尻を、「藝者もあれば、娘も後家さんもといふ風に何十人といふ婦人が」毎晩のように追いまわしたと、「天保老人の談」として「新小説」に記している伊原靑々園は、同じところに、さればこそ「金廻りも好いと云つたやうな訳で、随って其んな縮緬づくめの衣裳なんかも拵へられたといふ勘定」とも記している。このあたりの色模様に関しては、小島政二郎も虚実とりまぜ得意の筆にしているが、当然のことながらこの時代の円朝には婦人をめぐる醜聞のほうも少なからずあったはずである。

 「緋の襦袢」の頃は、円朝もずいぶん、遊んだことが察せられる。

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小島政二郎著『円朝』

 “藝者もあれば、娘も後家さんもといふ風に何十人といふ婦人が”毎晩のように追いまわした時代の円朝について“虚実とりまぜ”て小説にしたものとして矢野さんが名を出している小島政二郎の『円朝』からも紹介したい。
 小島さんの祖父の利八が寛永寺出入りの大工の棟梁で、円朝とは幼友だち、寺子屋が一緒だった。この本は、その祖父から得た貴重な円朝の情報を見事に織り交ぜているように思う。

 その利八と円朝が初めて吉原に行った時のお話。
 円朝の贔屓客は、何も女性に限られたことではない。男性の贔屓客も大勢いた。
 そういう一人に宮野というお金御用の旦那がいた。この人に連れられて、円朝は桐佐という引手茶屋へ遊びに行って、吉原芸者を上げて遊んだことがあった。その一座に、米八という若い芸者がいた。
 その時は、九つ(十二時)ごろまで遊んで駕籠で送られて帰って来た。
 一度でも馴染が出来たので、その後間もなく、
「一度おいらん遊びがして見たい」
 と、ふだんから云っていた利八を語らって、桐佐へ行った。そのころは、二人とも両という金が自由になる身分になっていた。
 桐佐から送られて、二人は彦太楼という大籬へ上がった。芸人は上げないキメになっているので、仕方がなしに円朝は薬種問屋の若旦那ということにして上がった。彼には長尾大夫というおいらんが相方に出、利八には若竹大夫というおいらんが相手になった。
 (中 略)
 二人とも、十分満足するほど持てなされた。桃の花の咲いている夢の国へ遊びに行ったような思いがした。当分二人とも、この夢の国で見た楽しい思い出が忘れられなかった。

 円朝と利八の幼馴染みの初吉原は、たいそう上首尾だったようだ。
 それにしても、薬種問屋の若旦那と偽って登楼とは、まるで『紺屋高尾』や『幾代餅』のようで可笑しい。

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松井今朝子著『円朝の女』(文春文庫)
 
 松井今朝子の『円朝の女』は2008年から翌年にかけて『オール讀物』に連載され、2009年11月に単行本、2012年5月に文庫化された。

 本書では、円朝をめぐる五人の女性が描かれている。

 巻末に春風亭小朝との対談が載っていて、その中の著者松井の言葉から、それらの女性を並べてみる。

(1)気位の高い旗本の娘
(2)円朝の息子を産んでのちに芸者になった人
(3)吉原の花魁
(4)柳橋の名妓から正妻になった人
(5)円朝の最期を看取った娘分

 同じ対談の中で、著者はこう語っている。
松井 円朝に関しては、『三遊亭円朝子の伝』『円朝遣聞』という当時の伝記が残っていて、中にほんの数行、関わった女のエピソードがある。私はそれを思いきり膨らませて書いてみたわけですが、当時の伝記自体はとにかく円朝を「大変な偉人」として書いています。落語家には珍しいくらいの堅気の常識人で、だからこそ貴顕紳士に交われた、という風に書かれているんですけど、私はどう考えても円朝が根っから堅気の人とは思えないわけです(笑)。子供を産ませた人と奥さんは別の女性ですし、亡くなった病気も病気ですし・・・・・・梅毒ですから。そして、人生の最後はかなり逼迫して、経済的に恵まれてはなかったということが、ものすごく印象に残りました。時の権力者と近いところにいた人であるために、持ち上げられてしまったふしもある。それで、その伝記との落差を埋めたい気持ちがありました。

 私も、円朝を過度に偉大な人物として祭り上げることは、出淵次郎吉という等身大の人物を見えにくくさせているように思う。

 きっと、複数の女性との付き合いが並行していた時期があったに違いない。

 そして、できれば、どちらか、あるいはどちらとも関係を清算したい、と「縁切榎」を思い浮かべたことがあったのではなかろうか。

 命日の明日、喬太郎が口演する『縁切榎』というネタから、もてない男の下衆の勘繰りをしていたのであった。

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by kogotokoubei | 2016-08-10 21:38 | 落語のネタ | Comments(4)
 今日8月9日は旧暦7月7日、七夕である。

 新暦の七夕に対して「伝統的七夕」と言うらしい。

 国立天文台のサイトに、今夜9時の東京における星空の図が掲載されている。

 営利目的でなければ利用可能のようなので、サイトから図と文章をお借りした。
国立天文台サイトの該当ページ

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「伝統的七夕」は、太陰太陽暦(いわゆる旧暦)の7月7日にちなんだ、かつての七夕のことです。この日の宵空には、七夕の星々が空高く昇り、上弦前の月が南西の空に輝きます。

現在使われている暦では伝統的七夕の日は毎年変わります。今年の伝統的七夕の日は8月9日です。

織姫星(こと座の1等星ベガ)と彦星(わし座の1等星アルタイル)、そして、夜空の暗い場所でしたら、天の川をさがしてみましょう。

2011年から展開されている「伝統的七夕ライトダウンキャンペーン」では、伝統的七夕の日を中心に、不要な照明を消して星空を見よう、と呼びかけています

 国立天文台などが主催している「伝統的七夕ライトダウンキャンペーン」のことが案内されている推進委員会のサイトはこちら。
「伝統的七夕ライトダウン推進委員会」のサイト

 オリンピック放送でテレビばかり見ていたり、スマホばかりに集中していると、目も神経も疲れる。

 ポケモンGOに熱中している方々も、ちょっと休みましょうよ。

 今夜は、その視線をぜひ空に向けて、織姫と彦星を探しましょう!
  
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by kogotokoubei | 2016-08-09 12:47 | 旧暦 | Comments(0)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛