噺の話

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落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。

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 落語協会ホームページの文左衛門による三代目文蔵襲名披露興行の案内には小言を書いたが、襲名そのものは実に良いことだと思っている。

 これまで、拙ブログの記事の中で、数少ないながらも、二代目文蔵に関することを書いてきている。

 まず、2013年10月24日の記事。
2013年10月24日のブログ

 この記事は、深川で行われた道楽亭さんの出張寄席、扇辰と兼好の二人会について書いたものだった。

 扇辰の二席目『竹の水仙』のことに関し、このネタを十八番にしている喬太郎は、彼の本『落語こてんパン』の中で、二代目橘家文蔵から了解を得て文蔵の高座を袖で聴いてネタにした、と書いていることを紹介した。

 喬太郎が“盗みたい”と思ったほどの文蔵の『竹の水仙』には、逸話があった。
 文蔵が二ツ目の勢蔵時代、東宝名人会の若手勉強会で『竹の水仙』を演じたところ、聴いていた審査員の円生が、『三井の大黒』を教える代わりに文蔵の『竹の水仙』を教えてくれと頼んだというのだ。

 あの円生が、である。
 
 文蔵は正蔵の弟子ながら、円生との関係は悪くなかったようで、他にも二人の間をつなぐネタがあった。

 今年1月の記事で、入船亭扇橋の『団子坂奇談』は、円生から文蔵、そして文蔵から扇橋に伝わったものであることを、矢野誠一さんの本から引用して記事に書いた。
2016年1月7日のブログ

 実に貴重な逸話だったので、あらためて『落語家の居場所』から引用する。
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矢野誠一著『落語家の居場所』

 『落語家の居場所』は1997年に日本経済新聞社から単行本が刊行され、2000年に文春文庫の仲間入りした本。

 「わが愛する藝人たち」という副題がついている。

 この本には、かつて矢野さんが毎日新聞に書いていた「寄席」と題するコラムの一部も収められており、91年7月25日付けのコラムに次のようにあった。
 入船亭扇橋という落語家は、おかしなはなしを知っていて『茄子娘』だの『鼻きき長兵衛』なんて、ほかに誰も演りてのない演目を思いだしたように高座にかけてくれる。十四日の「第31回紀伊国屋寄席」(紀伊国屋ホール)でも、この季節をあてこんだ怪談『団子坂奇談』を出したが、初めてきく客が多かったのではあるまいか。
 このはなし、三遊亭圓生が時どき演っていた『猫怪談』などもはいっている『谷中奇聞』のひとつだそうで、圓生から教わった橘家文蔵が扇橋に伝えたのだという。舞台になっている団子坂や動坂、さらには谷中にかけたあたりは、いまなお東京の面影を残すところだが、そんな土地に対する演者自身の愛着が一入(ひとしお)であることが伝わってくるのが面白い。主人公が、本所の屋敷から団子坂まで花見に出かける行程を、浅草、田原町、稲荷町、上野、不忍池、七軒町、根津と町づくしでいいたてる。浪花節の道中づけや、『曽根崎心中』の「観音廻り」を思わす趣向で、『黄金餅』にも見るようなこうした遊びが、落語にはしばしばある。 
 それにしても、この『団子坂奇談』のサゲだが、他愛なさすぎて、いっそ爽快である。そういえば『茄子娘』にしても、『鼻きき長兵衛』にしても、決して上等のサゲとはいいかねる。そんな拙劣なサゲを、あえて改良しようとはせず、演者自身がてれてみせることで処理できるあたりに、落語がパーソナルな藝である一面をうかがうことができるのだ。

 この『団子坂奇談』、弟子の扇辰の高座を初めて聴いたのは2013年5月、道楽亭さん主催の文左衛門との二人会だった。
 記事には、途中までの筋書きも書いているので、ご興味のある方はご覧のほどを。
2013年5月24日のブログ
 扇辰は、師匠扇橋にこのネタを教えたのが文左衛門の師匠の文蔵であったことは、きっと知っていたのだと思う。
 
 当時、扇辰の師匠扇橋は、病の床にあった。
ある意味で、師匠への感謝に加え、二代目文蔵と弟子文左衛門にお礼を込めての高座だったのかもしれない。

 二代目橘家文蔵は、昭和14(1939)年8月25日生まれで、平成13( 2001)年9月10日に満62歳で亡くなっている。

 昭和14年生まれは、小三治、枝雀と同じ、志ん朝の一つ下。

 八代目正蔵門下。
 柳朝の弟弟子で栄枝の兄弟子にあたる。
 昭和57(1982)年1月に師匠亡き後、桂藤兵衛や正雀を預かっている。

 文蔵の生の高座も音源も聴いたことはないが、同業の噺家の中で評価が高かった人と聞く。
 
 私は三代目文蔵となる文左衛門の『竹の水仙』は聴いたことがある。
 2012年2月の、喬太郎、扇辰との三人会だった。
2012年2月18日のブログ

 その時の記事に、当日の文左衛門の声の調子が今ひとつだったこともあるが、十八番としている喬太郎を意識して演じたのか、などと書いている。
 また、舞台を鳴海宿をしているのは喬太郎と同じだが、五代目小さんは藤沢、果たして誰の型だろう、などといただいたコメントへの返信で書いていた。

 当時、喬太郎のこの噺が文蔵の型であったことを知らなかったのだが、今読むと暑い夏でも、冷汗が出るなぁ^^
 
 二代目文蔵が亡くなって9月10日で丸15年。
 鈴本で披露目が始まるのが9月21日。
 きっと師匠の墓前に報告をしてから披露目をしよう、ということなのだろう。

 
 落語協会のホームページでは、ポスターの各寄席の披露興行日程を確認せよ、とばかりに不親切なのだが、披露目は次のような日程になっている。

  9月21日(水)~30日(金)   鈴本演芸場 夜席
 10月 1日(土)~10日(月・祝) 新宿末広亭 夜席 
 10月11日(火)~20日(木)   浅草演芸ホール 昼席
 10月21日(金)~30日(日)   池袋演芸場 昼席
 11月 1日(火)~10日(木)   国立演芸場 昼席
                    *4日(金)のみ昼夜二回公演

 たった、これだけの内容なのだから、落語協会は案内の記事中に書いて欲しいものだ。


 『竹の水仙』や『三井の大黒』『ねずみ』といった甚五郎ネタは、最初の師匠桂三木助から入船亭扇橋が継承し、弟子の扇遊や扇辰に伝わる一門の噺になりつつある。
 しかし、二代目文蔵も、それらの甚五郎ものを十八番にしていたことを考えると、ぜひ、三代目文蔵にもそれらの甚五郎ネタを得意ネタにして欲しいし、師匠が扇橋に伝授したとされる『団子坂奇談』だって、入船亭ばかりではなく聴きたいものだ。

 それらの噺はすでに文左衛門は演じているのかもしれないが、文蔵を名乗ってから、あらためて聴いてみたい。


 私は、師匠二代目文蔵という噺家のことを、これだけ振り返る機会になっただけでも、この度の襲名は価値があると、思っている。

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by kogotokoubei | 2016-07-30 22:36 | 落語家 | Comments(6)
 30日土曜日が「土用の丑の日」なので、メディアや街のポスターなど、さかんに鰻の話題で騒がしい。

 月刊誌「Wedge」8月号の特集の一つが“「土用の丑の日」はいらない はびこるウナギの密輸入 台湾・香港ルートを追う”だった。

 ウェブマガジンの「Wedge Infinity」では「土用の丑の日はいらない ウナギ密輸の実態を暴く」となっている。
「Wedge-Infinity」サイトの該当記事

 同サイトから引用する。

土用の丑の日はいらない、ウナギ密輸の実態を暴く
2016年07月28日(Thu)  WEDGE編集部 伊藤 悟

「絶対に名は出さないでくれ」

 台湾のシラスウナギ(ウナギの稚魚、以下シラス)輸出業者は我々取材班にそう告げた。なぜ名を出すことを頑(かたく)なに拒むのか──。それは彼に「罪」の自覚があるからである。

 日本人の好物であるウナギを巡って、台湾、香港、日本を舞台に壮大な「不正」が行われている。今回、取材班はその舞台である台湾、香港へと飛び、関係者らを取材した。

 取材のアポイントメントを入れるのにはかなり骨が折れた。当たり前だが話すメリットなどなく、誰も話したがらないからだ。だが、様々なコネクションを使って、交渉を続けた結果、匿名を条件に複数の人物が取材を受けてくれた。


 この雑誌は、必ずしも私の信条とは合致しない主張も多く、あくまで内容次第で判断しているのだが、この取材記事はなかなか良かったと思う。

 さて、その取材で浮かび上がってきたことを、一部引用する。

 「台湾で採れたシラスは、香港の〝立て場〟に運ばれ、そこから日本へ向けて輸出されます。立て場には日本のウナギ業界でもごく限られた人しか行ったことがありません。詳しい場所も開示されていない知る人ぞ知る施設です。あまり首を突っ込み過ぎると、東京湾に浮かびますよ」

 取材に先立ち、ウナギ業界に詳しい人物からそう忠告を受けた。この人物だけでない。複数の人から同じような話を聞いた。

業界の最高機密施設 香港「立て場」実態

 香港の中心部から車で走ること数十分。舗装もされていない道を進んでいくと、業界の最高機密施設とも呼べる「立て場」が突然目の前に現れた。よく見ると、いたるところに監視カメラが設置されている。門をくぐると番犬が吠えながら近寄ってきた。

 本業は中国本土で賭博の胴元をしているというシラス問屋は「台湾からの密輸入などお安い御用だ。漁船で香港へ水揚げしたことにすればいいし、中国の港まで漁船で運び、(香港と隣接する)深圳(シンセン)から陸路で入ってもほぼノーチェック。航空機を使ったとしても、空港で働く税関の一部の人間と手を握ればよい。何が難しいんだい? この立て場からシラスは日本へ向かっていくんだよ」とお茶を飲みながら淡々と話す(こうした台湾と香港の現地取材の詳細については、Wedge8月号で報じている)。

 詳しいことは、上記のように「Wedge」で確認願いたいが、引用にあるように密輸に関与しているシラス問屋は、中国本土で賭博の胴元をしているということに留意しなくてはならない。

 もう少しだけサイトから引用する。

 多くの日本人にとって、実は「立て場」は無縁の場所ではない。ウナギ好きであれば、立て場に一時保管されたウナギを口にしている可能性は極めて高いからだ。

 「国産のウナギしか食べたことがないから自分には関係ない」と考える方もいらっしゃることだろう。しかし、香港の立て場から日本へ送られたシラスは、養鰻池に入れられて出荷サイズになるまで育てられる。養殖ウナギは主たる養殖地が産地となる。つまり台湾から香港の立て場を経由したシラスはその後「国産ウナギ」として販売され、日本人に「国産だ」とありがたがられながら頬張られているのだ。

 ウナギを生業(なりわい)にしている人であれば誰でも、シラス漁やその取り引きが裏社会と密接なかかわりをもっていることを知っている。昨年のWedge8月号で報じたように、日本国内では暴力団らによるシラスの密漁がはびこっており、輸出が禁じられている台湾からは、香港を経由して国内へ輸入されていることもまた、業界公然の秘密だ。

 私は「土用の丑の日」を、鰻を食べない日と決めている。

 理由はいくつかあるが、紹介したように、この日に多くの日本人がこぞって鰻を食べることが、国際的な犯罪を引き起こす要因ともなっているからだ。

 台湾でいくら規制しても、絶滅に瀕したシラスウナギの違法捕獲から密輸に香港をかませることで法の網をくぐれること、そして、香港の“立て場”から日本に送られたシラスは、堂々と国産として販売されていること、そういったことは、業界では知らない者がいない、ということを、30日の「土用の丑の日」を前に、どうしても書いておきたかったのである。

 歳時記に関するある本によると、土用の丑の日に、「うどん」を食べる習慣のある地域もある。「うーめん」や「ツメリショウ(すべりひゆ)」を食べる風習の残る所もある。油揚げと麺類をこしらえて親類や雇い人たちに振る舞う習わしのある場所もある。

 土用蜆(しじみ)だって、滋養があって旨い。

 何も鰻にばかり執着することはないのである。



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荒井修著『江戸・東京 下町の歳時記』

 少し前になるが、浅草にある舞扇の老舗、荒井文扇堂の四代目社長さん荒井修さんの本『江戸・東京 下町の歳時記』から、土用の暑気払いで、“直し”(柳陰)を飲むことを紹介した。
2011年7月20日のブログ

 この本で、“直し”の焼酎とみりんの割合について、次のように書かれていた。

 直しの場合は、ある説によると、焼酎2に対してみりん1っていうんだけど、この前、実は割り方をいろんな比率で試してみたときに、上方の人間が一人いたんだ。そいつはみりん2に対して焼酎1でいいって言う。だけど東京の人は、「いや、焼酎2でみりん1だとう」って言ったりね。これでかなり度数が違うんですよ。
 ちなみに、あたしは1対1がうまいと思うんだけどね。

 土曜になった「土用の丑の日」(駄洒落か!)は、落語『青菜』を思い浮かべながら、“直し”といこうか。

 さて、割合はどうしよう。

 味見をしながら、つい飲み過ぎそうだなぁ^^


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by kogotokoubei | 2016-07-28 21:27 | 幸兵衛の独り言 | Comments(2)

 記事を書く時間ももったいないと思って書かなかったのだが、やはり、見逃せない。
 7月20日付け最新情報として、三代目橘家文蔵襲名披露興行のことが案内されている。
 見て、あまりの酷さに絶句した。

 落語協会HPの該当ページ

 次の内容とポスターだけで、このページは構成されている。
-------------------------------------------------------------------
2016年07月20日
三代目橘家文蔵襲名披露興行

前売り販売開始:7月21日(木)  ※国立演芸場のみ10月1日(土)より
お問い合わせ:一般社団法人落語協会 03-3833-8565
チケットぴあ:http://t.pia.jp/
Pコード入力または音声認識予約 ( 0570-02-9999 )
ぴあプレミアム会員専用 ( 0570-02-9944 )
・鈴本演芸場Pコード 453-082
・末廣亭Pコード 786-658
・浅草演芸ホールPコード 453-083
・池袋演芸場Pコード 453-084
-------------------------------------------------------------------

 これは、チケットぴあのページか、と錯覚するではないか。

 落語協会としての案内文は存在しない。

 下記の各寄席での日程は文章では掲載されていない。
 ポスターを見てくれということなのだろうが、それ位は書けよ、と言いたくなる。

  9月21日(水)~30日(金)   鈴本演芸場 夜席
 10月 1日(土)~10日(月・祝) 新宿末広亭 夜席 
 10月11日(火)~20日(木)   浅草演芸ホール 昼席
 10月21日(金)~30日(日)   池袋演芸場 昼席
 11月 1日(火)~10日(木)   国立演芸場 昼席
                    *4日(金)のみ昼夜二回公演


 プレイガイドと化したサイト、これを作っている人には血が通っているのか・・・・・・。

 そもそも、昨年4月に、襲名することを告知する内容ですら、これだけである。
落語協会HPの該当ページ

2015年04月21日
平成28年 秋 橘家文蔵襲名決定

平成28年 秋(9月下席より)
橘家文左衛門 改メ
三代目 橘家文蔵
襲名することが決定致しました

 
 他に伝えたいことはないのか、と言いたいではないか。

 文蔵という名跡のこと、文左衛門のこと、師匠文蔵のことも、一切説明していない。
 クリック後の会長写真の画像アップを含め、このサイトは、ひたすらダメサイトの見本を目指しているようだ。


 なお、文蔵という名跡などについては書くつもりだったが、少し先にしよう。
 
 血の通わない落語協会HPの内容に、執筆意欲が水を差された。

 どうして、あんな味気ない内容で平気なのか、その了見を疑うばかりだ。

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by kogotokoubei | 2016-07-26 21:09 | 落語協会 | Comments(0)
 小満の会で披露された三席の中の『天災』の演出への疑問から、昨日記事を書いた。

 いただいたコメントでもご指摘があったが、噺家さんによっては省略する導入部は、『二十四孝』と類似性がある。


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麻生芳伸編『落語百選-秋-』(ちくま文庫)

 麻生芳伸さんが編集した『落語百選-秋-』のこの噺の«解説»に次のようにある。
 導入部は鯵の干ものを猫に盗まれたことから主人公が腹を立て、女房、母親に乱暴し、家主に離縁状を二本書いてくれと断じこむ・・・・・・そのまま家主が、例の「天の感ずることろ」を説くのが「二十四孝」であり、家主の手紙を預かって心学者、紅羅坊名丸のところへ来るのが本篇である。さてはこの八五郎、家主の手に負えないだけ乱暴の度合いがはげしいとの解釈もできる。定本(テキスト)は三代目柳家小さん直伝の八代目林家正蔵のもの、<トンガリ>と綽名(ニックネーム)のあった演者の一本気な片鱗がうかがえる。

 本書の本篇は、定本に従って、八五郎が紅羅坊名丸を訪ねる場面から始まる。
 私が持っている総領弟子柳朝の音源でも、ほぼ師匠通りに演じている。

 しかし、麻生さんは、引用したように、『二十四孝』と同じ、鯵を猫に盗まれたという喧嘩の原因が語る導入部があると説明する。

 昨日、榎本滋民さんの本から、二代目古今亭今輔の速記(『百花園』)には鯵と猫の件があるが、三代目柳家小さんに、その導入部がないことを紹介した。

 三代目小さんが演じる前は、たぶん、導入部があるのが一般的だったのではなかろうか。

 きっと、三代目小さんが、この噺の要諦が名丸と八五郎の会話、そして、八五郎の鸚鵡返しでの可笑しみにあると考え、導入部を割愛したのだろう。
 
 その後の代々柳派は、鯵と猫が登場しない型になったと察する。

 もちろん、その脚色は悪くない。

 実は、私が仲間内の宴会で披露したこの噺も、八五郎が名丸を訪ねる場面から演じた。時間を出来るだけ短くしたい、という目論見もあった。

 私は榎本さんが紹介した六代目春風亭柳橋の音源を持っているが、しっかり魚(鯵ではなく、魚-さかな-と言っている)と猫の導入部がある。紅羅坊名丸と八五郎との会話にも、さまざまな“道”の話や、“気が楽だ”つなぎでの訓話なども挟んでいて、決して“立て板に水”という口調ではないが、全体で26分にまとまっている。なるほど、長らく落語芸術協会の会長を務めた方の高座、なかなかに味があるのだ。

 また、三代目春風亭柳好の『二十四孝』の“鯵”と猫の導入部は、(八五郎ではなく)熊のリズミカルな啖呵が、実に楽しい。

 しかし、『二十四孝』という噺を滅多に聴くことがなくなった。
 同じように教育的(?)な噺なのだが、なぜか廃れることのない『天災』というネタにおいて、鯵と猫の部分を演じる噺家さんもいて欲しい、と私は思う。

 
 もちろん、好みの問題もある。

 さて、『天災』という落語の味わいについて、麻生さんの解説の後半もご紹介したい。
 今日から見れば、心学の論理(ロジック)は幼稚で、ご都合主義的で明らかに説得力に欠けるが、それに敢然と反駁する八五郎の生(いき)は面目躍如として生きている。こうした、いわゆる付け焼刃の鸚鵡返し・・・・・・「落語」の典型的な形式(パターン)について、加藤秀俊氏は『落語の思想』と題して、次のように論評している。
「ありがたそうなハナシをきくと、わけもわからず感激し、そのハナシを丸暗記しさえすれば自分にネウチがあるという錯覚は、たしかに八っつぁん熊さんのなかにある。床屋政談というのはおおむねそうしたもので、八っつぁん熊さん、しきりと国事を憂うるのであるが、もとのお手本は新聞記事で、それを得々として暗記してしゃべっているにすぎないことが、しばしばである。そして、暗記法によって自分がエラくなったという錯覚におちいったがさいご、かれは、半可通の若旦那と同一の人物になり下がるのだ。わたしは、落語、『相変らず』の人物たちをますます滑稽にえがき出すことによって、日本にける俗物根性を容赦なく突き、われわれ自身の弱い部分をもっともっと締上げてくれることを希望する。キレイごとの世界、知ったかぶりの世界、深刻主義、そういった一連の悪霊をおとすためのおハライとして、落語は有効な哲学と倫理学の方法を示唆する」
 さすがワカッテらっしゃる、「落語」にとって耳のイタイ話である。しかし、「落語」を種に「有効な哲学と倫理学の方法」を立てようとすること自体、そもそも「落語的」なのではないか。つまり「落語」とは、最初から「俗物根性」を有し、「相変らず」「なり下がって」いて、けっしてその範囲から逸脱することはない。「喜劇性」と「悲劇性」を表裏一体、合わせ持っているものなのではないだろうか。人間が、この噺の八五郎同様、おっちょこちょいで、いつもどうどう巡りをしているかぎり(これも紅羅坊名丸ではないが、「天災」と言いたくなる)「落語」はどこまでも「落語」なのではないか、と思う。

 加藤秀俊さんの指摘も、麻生さんのその後の話も、よく分かる。

 「おハライとしての落語」という加藤さんの言葉、この噺のクスグリではないが、“耳ではなく腹”に伝わるような説得力があるように思う。

 最近寄席や落語会に行くのは、浮世に漂う悪霊をおとすためのような心持がしてならないのだ。
 
 八五郎が紅羅坊名丸の話を聞いて良い心持になったような経験を、最近は落語とその後の居残り会でしか味わえない。

 メディアの記事、たまたまつけていたテレビから流れる雑音など、とにかく心持を良くすることはない。たまたま見たり聞いたことを「天災」と思って諦めるしかない。

 しかし、半可通ばかりでキレイごとの政治や、自分の損得しか考えない政治家ばかりが蔓延るのは、とても「天災」と思って我慢ばかりはできないなぁ。

 喧嘩っぱやい八五郎だって、算盤を弾いて喧嘩はしないのだ。

 ドーピング問題なども含め、世界中が算盤を弾く人ばかり・・・やはり、おハライとして落語を聴くしかないか。


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by kogotokoubei | 2016-07-25 21:39 | 落語のネタ | Comments(2)

 小満んの『天災』を聴いて、その演出が時間を意識した短縮版なのか、それとも本来の型なのどうか気になったので調べてみた。


 八五郎がご隠居に離縁状を書いてくれと頼みに来る、その女房との喧嘩の原因を語るかどうか、噺家さんによって人それぞれ。
 小満は、魚と猫を巡る逸話がなかったのだが、私は、残り時間を意識した短縮版なのかと思った。

 しかし、もしかすると、あれがいつもの型なのかもしれない。

 この謎(?)が気になっていた。


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 なんとか、この謎を解く答えを、榎本滋民さんの『落語小劇場』の下巻で発見した。
 
 演出の違いについて、このように書かれていた。

 三代目柳家小さん(昭和五年没)の速記では省略されているが、二代目古今亭今輔(明治三十一年没)によるとこんな事件があったそうだ。
 魚屋が生きのいい鯵をもってきたんで、湯上りの一杯をたのしみにひとっ風呂浴びてくると、裏のうちの猫にとられたから、女房をいきなり張り倒したところ、お袋が止めに入ったという。
 六代目春風亭柳橋の演出はもっとこうふくらましてあった。
 向こうの屋根で泥棒猫が、あぐらをかいてうまそうに食ってる腹立たしさ、出刃包丁を結びつけた竹竿で突いたが、裏のうちへ逃げこまれたから、
 「手前んとこァ貧乏で飯の菜を買うことができねえもんだから、猫を使って
 方々のおかずを盗ませてやがるんだろ。そんな猫にいられちゃァ長屋じゅう
 枕を高くして飯を食うことができねえ。さ、こうなりゃァ飼い主が相手だ!
 出てきやがれ!」
 どなったが、考えてみたら留守だった-。
 それをたしなめた女房をなぐると、母親が止めることになる。とにかく、
 「嫁をぶつならあたしをぶて?ほほう!世の中に嫁を憎む姑は多いのに、
 いや、恐れ入ったな。感心なお人だ。お前、まさかぶちゃしまいな?」
 「ぶつもんけえ」
 「うん。まだ脈はあるらしい」
 「げんこがふさがってたから蹴っ飛ばした」
 「おいおい!」
 「だっていゃに肩をもちゃァがるんだ。ことによったらかかあと婆ァは
 怪しいんじゃねえかと・・・・・・」
 これじゃァとてもでこぼこ隠居の手にはおえない。専門家に道徳教育を依頼するに限る。かねてから傾倒している心学の紅羅坊名丸先生を訪ねさせることにする。

 引用部分の冒頭に出てくる二代目今輔は、二代目志ん生の弟子で、三代目と四代目の志ん生の師匠だった人。
 明治22(1889)年発行の『百花園』に、この人のこの噺の速記が残っているらしい。

 どうも、五代目小さんには、三代目から四代目の師匠を経た、鯵と猫を割愛した型が伝わったようだ。
 八代目正蔵のこの噺は、三代目小さんから直接習っているので、これまた鯵と猫がない。
 だから、弟子の柳朝、その弟子の一朝も、鯵と猫が登場しない。
 私が持っている柳朝の音源などは、ご隠居との会話すら省いて、いきなり紅羅坊名丸を八五郎が訪ねる場面から始まる。

 たしかに、この噺の勘所は、紅羅坊名丸と八五郎との会話と、その後長屋に戻った八っあんの鸚鵡返しによる失敗にあるので、噺の要諦は押さえている。

 しかし、小さんの型ばかりでは、これまた寂しいとも思うのだ。

 鯵と猫の入る型を演じる噺家さんには、持ち時間が少なくても、ぜひ頑張って(?)、鯵も猫も残しておいて欲しい。

  本書のコラム的な「まくあい」には、次のようにある。

 若旦那・たいこもち・玄人女などの派手っ気を強みとした三遊派に対して、隠居・医者・家主などの味わいに長じていた柳派の特色が、よく発揮されたはなしで、三代目・四代目小さんの所演が歓迎された。五代目小勝・六代目柳橋もおもしろく、現在では夢楽が仁に合っていて貴重である。
 紅羅坊名丸を高潔な人格者、八五郎を暗愚な無頼漢ときめてかかるのは、軽薄な描きかただろう。歴史的に見て、落語が心学道話と深い関係にあったことは、まちがいないが、その中から俗流心学への痛烈な批判精神を身につけたのも、また落語であったのだから。

 この本、私が持っているのは昭和58年発行の三樹書房版だが、初版は昭和40年代に寿満書店新社からだったようだ。
 三笑亭夢楽は大正14(1925)年生まれなので、榎本さんが高く評価している高座は、四十台のもっとも元気だった頃のものだろう。

 夢楽かぁ。
 その弟子、孫弟子たちでこの噺を聴いたことがないと思う。
 当代の夢丸のこの噺など、興味がある。

 ぜひ、柳派以外の型でも聴いてみたいものだ。

 それにしても、今の落語界は圧倒的に柳派が主流。
 円生一門の落語協会脱退以降に存在感が薄くなっている三遊派の伝統は、今後どうなるのだろう。

   堪忍の袋をつねに首にかけ
         破れたら縫え破れたら縫え

 歴史に「もし」は禁物だが、円生が、この道歌の通りに、あの時「天災」の精神で我慢できていたら・・・・・・。
 しかし、そんな優しさは、名人といわれる噺家にとっては邪魔なものだったのかもしれない。

 この噺のことから、そんなことにも思いが至るのだった。


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by kogotokoubei | 2016-07-24 16:12 | 落語のネタ | Comments(2)
 そぼふる雨の中、 第134回目となる関内での小満んの会に駆けつけた。

 いつものように、奥さんとお嬢さんが受付をされていた。

 いつものように会場近くのコンビニで買ったおにぎりを、モニターの開口一番の様子を観ながら食べる。

 小はぜの『転失気』は、なかなか結構。
 居残り会でも話題になったが、佐平次さんがスマホで調べ、はん治の弟子と分かる。

 初めてではないよなぁ、と思っていたら、3月のこの会で『たらちね』を聴いて、褒めていた。
2016年3月23日のブログ
 思い出した。
 神保町で偶然にも『初代快楽亭ブラック』を見つけた日の会だ。

 小はぜは、落語協会HPで確認すると、前座の香盤で一番なので、二ツ目が近い。
落語協会HPの該当ページ
 
 将来楽しみな若手の高座のサゲを、会場最後尾で立って聴き終えて、椅子席へ。

 空席が目立つなぁ。今回も、260余の客席の入りは、半分ほどか。

 小満んの三席、順に感想などを記したい。

柳家小満ん『千両みかん』 (35分 *18:48~)
 「水無月の みかん見せたり 氷室守」という句をふって、江戸時代に六月(水無月)朔日に将軍家に氷が献上されていたことを説明。
 これは加賀藩が献上したものか、富士山麓の氷室から運んだものか説明していなかったような気がするが、聞き逃したのかもしれない。

 余談だが、このマクラで、よくコメントを頂戴する方とのメールでのやりとりを思い出した。
 その関西にお住まいのメル友(?)さんと、六月晦日に「夏越祓(なごしのはらえ)」で、その名も「水無月」というお菓子を食べる風習のことが話題になった。
 この風習は、室町時代、六月朔日に衣笠山の氷室から「氷の節句」として宮中で氷を取り寄せたことに由来する。その後に、一年のちょうど半分が終わる六月晦日に時期が替わり、貴重な氷に替わって、庶民が氷に似せたお菓子「水無月」を食べる風習として根付いた。メル友さんが、「(新暦)六月晦日に、夏越祓で水無月を食べるのを忘れてしまった」とお書きになっていたのだ。私は、「元は六月朔日の行事なので、七月四日(旧暦六月朔日)に食べてはいかがですか」、とお伝えしたのだが、もうお菓子屋さんには置いていなかったとのこと。ちなみに今年の旧暦六月三十日は8月2日だが、もちろんお菓子屋さんに水無月は置いてないだろうなぁ。世の中、すべからく新暦ですなぁ。

 小満の高座に戻る。
 献上氷のことから、垂仁天皇(第十一代)の命によって不老長寿の薬として橘を探してきた田道間守(たじまもり)のことに進む。小学生唱歌で「たじまもりの歌」があった、という述懐があったが、さすがに私は知らない。
 田道間守が命がけで探してきた橘の実が「紀州みかん」である、と説明があり、本編への関係が判明。
 この後に、11月8日(小満は6日と言ってしまったが、いただいた可愛いリーフレットにもあるように8日が正しい)が「鞴(ふいご)祭り」で子どもに蜜柑を配った、と江戸の年中行事を、しっかり挟む。
 そのリーフレットから引用するが、「この日鍛冶屋では家業を休み、稲荷祭を行い必ず蜜柑を投げて、子供達に拾わせる習いがあった」のだ。
 紀州みかんを命知らずの船乗りたちと一緒に江戸に運んだ紀伊國屋文左衛門のことにも話がおよび、初代が築いた財産を二代目が食い潰し、残ったのは「かっぽれ」の中だけ、というのは楽しかった。
 引き出しの多さをまざまざと魅せてくれた約十分のマクラから本編へ。

 冒頭、日本橋の大家の若旦那の気の病の理由を、主人に頼まれて番頭の佐兵衛が聞き出そうとする場面、若旦那が前年の十月に紀州めぐりをした時の蜜柑を忘れられない、という設定は、初めて聴いた。
 なるほど、これまでは、単に夏に大好きな蜜柑を食べたがる我儘な若旦那だと思っていたので、こういう旅の思い出が背景にあったのなら、理屈は通るなぁ。
 若旦那に、部屋中を蜜柑で一杯にしてあげます、と安請け合いした佐兵衛が、主人から、「おまえ、いくつになる?」と聞かれ、「三十九です」と答えるのだが、この後の番頭の蜜柑探しのドタバタで、この「いくつになる?」が繰り返されのが、実に可笑しい。
 番頭が三軒目に訪ねた鳥屋の主人が蜜柑探しの訳を聞き、子供の頃に見た磔の刑の怖さを聞かせる場面は、元々の上方版で枝雀が演じるのとは控えめなのは当たり前なのだが、それでも、「あばら骨の三本目あたりを、ぶスッと」で佐兵衛が大声で叫ぶ場面では、場内大爆笑。
 神田の多町(たちょう)の水菓子問屋でようやく蔵に保管していた中から、一個だけ腐っていない蜜柑が見つかる。値段が千両と聞いて驚き腰が抜けた番頭だが、店に帰って主人に告げると、主人は「そうだろうね、息子の命が助かるなら安い」とのことで、千両箱と一緒に大八車に乗って神田に戻る。
 千両の蜜柑と聞いて、若旦那も、それ位はするだろうね、と言って旨そうに食べる。
 その横で、一房食べるごとに、「あ~、食べた、百両」「うわぁ、五百両」などと実況中継風の番頭が楽しい。
 そして、番頭の金銭感覚は、この時にすでに狂い始めていたのだ。
 炎天下で歩き回った疲れに加え、この親子の価値観の違いも彼を錯覚に陥らせる効果があったのだろう、父と母、そしてお婆ちゃんにと若旦那から預かった三房をじっと眺めて「これで、三百両・・・・・・」と放逐するのであった。
 マクラを含め、旬のネタを実に味わい深く聴かせてくれた高座、迷わず今年のマイベスト十席候補とする。
 この噺は、元が上方で、興津要さんも『古典落語-続-』で上方のネタとして掲載している。お店は船場、青物市場は天満だ。
 なお、ずいぶん前にこの噺のことを書いている。
2008年7月17日のブログ
 その記事で紹介しているように、先代馬生は、テレビで翌週放送されるこのネタのことを聞かれ「面白い噺じゃない」と答えて番組プロデューサーをずっこけさせている。
 居残り会では、佐平次さんから、志ん生が「損な噺」と言っているとご指摘があった。それ位、難しい噺だとは思わせないのが、小満んの凄いところだ。

 
柳家小満ん『那智の滝』 (34分)
 いったん下がって、ふたたび登場。
「滝落ちて 群青世界 とどろけり 」の秋桜子の句の後、白糸の滝、養老乃瀧のことにふれてから、那智の滝につないで本編へ。
 のちに文覚(もんがく)上人となる平安時代の北面の武士、遠藤盛遠(えんどうもりとう)をめぐる地噺で、これは、小満んの創作なのかと察する。
 数年前に池袋で笑福亭鶴光の『袈裟御前』を聴いているが、袈裟御前に惚れた遠藤盛遠が、御前の夫の源渡と思って袈裟御前を殺してしまうという話の部分は、共通している。後から調べたら、袈裟御前との物語は、『源平盛衰記』にある逸話が元のようだ。
 小満んのこの噺は、袈裟御前を弔うために仏門に入ってからの盛遠の修業が中心となる。
 長谷寺、そして、吉野大峰山、那智と修業の場を転々とし、十一面観音や不動明王の従者たちに命を救われながら、仏の道を究めんとする姿が描かれるのだが、鶴光の『袈裟御前』のようなクスグリ満載ではなく、やや起伏にかけた印象。
 途中の言いよどみなどもあって、地噺という特性の違いもあるのだが、他の二席とは対照的な高座だった。

柳家小満ん『天災』 (24分 *~20:36)
 仲入り後の三席目は、持ち味の江戸っ子の啖呵が弾んだ好高座。
 とはいえ、前の二席はいつになく長講になったので、短縮版になったと察する。
 岩田のご隠居に離縁状を書いてくれと頼みに来た八五郎が、夫婦げんかの理由である鯵が猫に盗まれた一件を割愛したことや、紅羅坊名丸による最初のたとえ話に対し、水を撒いていて着物の裾にかけてしまって小僧の店にねじ込むのだが、「洗い髪代をふんだくる」の科白が抜けたのも、また、二里四方の原っぱでの大雨の中で、おつな年増が登場しなかったも、時間を短くするためだったのだろう。
 それでも、紅羅坊が引用した仙厓和尚の「気にいらぬ風もあろうに柳かな」などを覚えようとする場面で、「おまえさんみてえな不思議な声はでねえ」なども含め、流れるような語りの中で、二人目の師匠の十八番の一つを楽しく聴かせてくれた。

 
 終演後は、我らがリーダー佐平次さん、I女史と三人で、居残り会。
 いつもの、関内で四十余年という歴史を夫婦で刻んできたお店だ。
 生ビール→男山(北海道)の熱燗→締めの瓶ビール、と進む酒と、三陸・赤崎の岩牡蠣(特大)、新島のトビウオのクサヤ、東京湾のアナゴの白焼き、そして、お店のご主人と女将さん二人で食べるつもりだった身のぶ厚い鰈の焼き物までも堪能しながら、落語をはじめとして色んな話題に花が咲く。

 帰宅は、日付変更線超えギリギリ手前だった。風呂に入って熟睡。
 
 やはり、小満んは、いいねぇ。
 『千両みかん』を聴いて、蜜柑を食べたくなったけど、やはり、食べ物は旬を大事にしたい。

 蜜柑の旬に行われていた「鞴祭り」については、昨日受付でいただいたリーフレットにも説明があるのだが、宮田登著『江戸歳時記』から紹介したい。

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宮田登著『江戸歳時記』(吉川弘文館)

 本書は吉川弘文館から発行された「<江戸>選書」の一冊で、初版は昭和56年発行。私は神保町で買った初版を読んでいるが、2007年に復刊されている。

 このように書かれている。

鞴祭り
 江戸で鍛冶・鋳物師たちの、鞴(吹革)を使う職人たちが、十一月八日に鞴祭りを行ない、稲荷を祀ったことが有名だった。「吹革祭、鍛冶・鋳物師・飾白・金細工、すべて吹革をつかふ職人、此日稲荷の神を祀る。俗にほたけと云此様、子共あまた鍛冶の軒にあつまり、ほたけほたけとはやせり、柿・蜜柑をなげて子どもにあたふ」(『新江戸妙子』)という記述のように、鍛冶の家に子供たちが集まる楽し気な行事だった。(中略)ここで「ほたけ」とはやしたという意味は、「火焚き(ひたき)」からきた言葉であり、鞴の火の神を祀る意があったのだろう。
「今の世におゐて、金銀銅鉄の工匠の徒は、吹革を専用する者也。毎歳今日吹革祭、又稲荷火焼と称して、吹革に神供を調へ、酒販魚魚を料理して宗族是を祝ふ」(『滑稽雑談』)とあるように、鍛冶など金属工業者たちの祝いとなっていたのである。江戸の町中では、火をやたらに焚くことは許されない。「ほたけ」の語はあっても、特別な火祭りという状況ではない。火伏せと称して、蜜柑が投げられ、子供たちがそれを拾って歩くという内容なのである。
 つまり火に携わっている職人たちが、火防を祈るというのが原則なのであった。「当日は皆家業を休み、前日より家内の繕ひ、畳を敷き替へ、掃除奇麗に客を招く。稲荷神の宝前供物うづ高く、燈明かがやき、近隣へか蜜柑、膳部の配物丁寧になす。この日未明に蜜柑まきの催しあるまま、この業の家ある近辺は、児童等早天に起きて蜜柑を拾ひに趣く。『まけまけ拾へ、鍛冶やの貧ぼ』と大声にどなりて馳せ廻る」(『江戸府内絵本風俗往来』)というのである。

 いまや「鞴」という言葉も死語化しつつあるなぁ。

 亡くなった喜多八が得意にしていた『鋳掛屋』で、往時を偲ぶこともできるし、小満んのような芸達者は、蜜柑のネタから、鞴祭りのことまで教えてくれる。
 落語は、その噺だけではなく、その時代の人々の生活や仕事などを知ることも含めて楽しめるし、その楽しさは、マクラも含め演じる噺家の力量によっても大きく替わる。

 私の備忘録は、本編ばかりではなく、マクラもできるだけ肝腎な部分を書いているつもりだが、小満んほど、書きごたえのある人を知らない。

 だから、記事の公開も遅くなる・・・というのは言い訳^^

 そうそう、昨夜の居残り会で、志ん朝の『千両みかん』の音源はないはず、と佐平次さんとI女史に申し上げた。
 なんと、主な落語会でただ一度だけ、昭和59(1984)年7月30日の東横落語会で演じており、その音源がセットの中に入っていた。
 この場をお借りして(?)お二人にお詫びし訂正します。

 さて、次回は9月27日(火)。
 ネタ出しの三席は『名人昆寛』・『男の花道』・『鉄拐』と、珍しい演目が並んでいる。
 これまた、楽しみでならない。


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by kogotokoubei | 2016-07-22 21:18 | 落語会 | Comments(2)

 都知事選は、なんとも低レベルの戦いになった。

 私は東京都民ではないのだが、江戸っ子の八五郎とご隠居は、無関心ではいられない。


八五郎 いますか?
ご隠居 おや、八っあんじゃないか、お上がりよ。
八五郎 言われなくても、上がらせていただきやす、よっと。
ご隠居 どうした、今日はいやにご立腹じゃないか。
八五郎 そりゃあ、そうでさぁ。
ご隠居 何か、気に入らないことでもあったかい。
八五郎 大あり名古屋のコンコンチキ、都知事選ですよ。
ご隠居 ほう、都知事選の、何が八っあんを怒らせたのかな。
八五郎 いやね、あっしは、宇都宮さんを贔屓にしてましたからね。
    なんか庶民の味方って気がするじゃねぇですか、あの人。
    今度こそ、宇都宮さんで、敵を“討つのみや”、と喜んでいたんでさぁ。
ご隠居 洒落か、そりゃあ!
八五郎 そう(^^)、前から考えていた!
    ところが、引っ込んだでしょう、俊太郎なんてぇのが出たから。
ご隠居 そうだねぇ、いわゆる、後出しジャンケンってぇやつだったねぇ。
八五郎 まったく「旬」じゃない、俊太郎で、シュンとしちまいやしたよ。
ご隠居 おや、またまた飛び出した^^
    あの文春でスキャンダルが出たようだが、そもそも、政治家向きの
    人とは思えないねぇ。
八五郎 巣鴨じゃ、応援の森進一を紹介しただけで、ほとんど話さなかった
    らしいじゃねぇですか。あそこの婆さん達を怒らせちゃあいけねぇ。
ご隠居 メディア側にいた人にしては、テレビ出演の姿を見ても、感情むき出しで
    いただけないねぇ。
    小池の「病み上がり」発言への対応には、閉口したよ。
    本来、ジャーナリストならば、「熱い心」と「冷徹な頭脳」を併せ
    持って欲しいのだが・・・・・・。
八五郎 どうも、化けの皮がはがれてきた感じですねぇ、俊太郎。
    そう言えば、民進党の候補、最初は、「一番じゃなきゃダメですか」の
    ネエチャンが出るってぇ話もありましたよね。
ご隠居 そうそう、蓮舫だね。
    都知事選、彼女が出ていれば、ほぼ決まりだったと思うんだけどね。
八五郎 なんでまた、やめたんですか。
ご隠居 まぁ、ご本人が近い将来の民進党代表を考えたからかもしれないが、
    私は、党の右の連中の画策だろうと思うなぁ。
八五郎 あぁ、あの憲法変えるのに賛成な右の連中ですねぇ。
    どっちかってぇと自民党に近ぇんじゃねぇですか。
ご隠居 そうそう。民進党は、あの右の連中がいるから、共産党と一緒に
    宇都宮さんを推すこともできない。
    今のままじゃ、とても野党のリーダーとして自民党と戦えるような
    存在じゃないねぇ。
八五郎 やっぱり、宇都宮さんだったなぁ、前の時だって結構票が入ったじゃ
    ねぇですか。
ご隠居 二年前は、舛添要一が2,112,979票、宇都宮健児982,594.767票、
    そして、細川護煕が956,063票だった。
    反舛添票が宇都宮さんと細川さんに割れた。結果として二人合わせても、
    数字としては勝てなかった。
    しかし、今度は増田と小池に保守票が割れるから、もし野党がまとまって
    蓮舫を推せば、十分勝てるチャンスがあったんだがねぇ。
    参院選では、見事に東京都“一番”の1,123,145票だった。
八五郎 よく細っけぇ数字を、覚えてますね、ご隠居は。
ご隠居 いや、コピペだ。
八五郎 なんだ、そうだろうと思いましたよ。ご隠居は、今朝食ったったものだってぇ
    覚えてやしねぇでしょう。
ご隠居 今朝・・・そういえば、何を食べたかなぁ。
八五郎 ほら、そうでしょ。
ご隠居 いや、思い出したぞ、まだ食べてないんだよ。
    これから、という時に、八っあんが来たんだから。
八五郎 そうでしたか、それじゃ、あっしもご相伴を。
ご隠居 そうかい、八っあんもまだだったのかい。
八五郎 腹が立って、朝メシどころじゃなかったもんで。
ご隠居 おーい、何がある・・・そうかい。
    奥に聞いたらね、おかずは、
    肉なら、かしわ(鳥)、魚ならマスだ(増田)、野菜なら百合根だが、
    何がいい。
八五郎 う~ん、どいつも、食えねえ。

 オソマツ。
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by kogotokoubei | 2016-07-21 12:54 | 八五郎とご隠居 | Comments(6)

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永六輔著『芸人』(岩波新書)

 ふたたび『芸人』(岩波新書、1997年)から。

 前回の記事にいただいコメントへの返信でも紹介したが、本書「口上」にある、芸人語録ベストテンの一つとして、永さんは岡本文弥の次の言葉を紹介している。

「むかし、新内を聴いて、悲しくなって自殺した遊女がいた。わたしも自分の唄で、一人くらいは殺したい」

 「芸人」を考える上で、実に示唆的な言葉だと思う。

 前回の記事で次の文章を紹介した。
 かつて「河原者」と呼ばれた「ヤクザ」「女郎」「芸人」。
 「ヤクザ」は男を売り、「女郎」は身体を売り、そして「芸人」は芸を売るというかたちで、生産手段を持てない人たち。

 同じ「河原者」同志、という認識が、岡本文弥の言葉の背景にはあるように思う。
 「売り物」は違っても、同じように「生産手段」を持たない者同志、という感覚が、間違いなくあっただろう。

 前回の記事で、永さんは「テレビ以前」と「テレビ以後」の芸人の違いを指摘していたことを紹介した。
 「テレビ以後」の芸人には、「河原者」という意識も、「非生産者」という負い目もないだろう。
 
 今回は、「歌」の章からの引用。

 「芸人」という本を、「芸人」という言葉にこだわりながらまとめている僕自身、自分を芸人だと思っているところがあります。
 「講演芸人」という言葉があって、生涯教育のイベントや、文化講演会で売れているなかの一人です。
 僕のなかには、発言の規制がある放送でたまるストレスを、講演で解消するという意味もあります。
 そして、講演そのものが好きというのではなくて、客席の反応を覚えておいて、そのなかから、放送の話題を選ぶようにしてきました。
 僕の講演は、放送のためのリハーサルでもあるわけです。
 そして、ときには役者もやります。
 最近では、『大往生』の映画化で、呆け老人の役を楽しんできました。
 素人芸ということはできますが、役者だといえば役者、歌手だといえば歌手、自分で名乗るのは勝手だし、その評価は観客が決めてくれるものです。

 永さんの、放送と講演との取り組み方の違いが、分かりやすく説明されている。

 たしかに、ラジオにしろ、放送ではストレスがたまるだろう。
 テレビなら、いっそうストレス充満、なのだと思う。

 そして、今日のテレビは、つい本当のこと、お上に対して都合の悪いことを言いそうな人は、はじめから出演させないようにしているだろうから、永さんの活躍の場がラジオ、そして講演が中心になった理由も分かろうというものだ。

 この後、次のように続いている。

 「テレビ以後」の芸人さん達は、永さんが教えてくれる「芸」にまつわる歴史を、知っておく必要があるように思う。
 というわけで、この章では歌手として、歌について考えながら、「芸人」を語ってみようと思います。
 まず、明治以前の場合、たとえば北海道の民謡は北海道でしか聞くことはできず、九州の民謡、沖縄の民謡も同じように、その地域でしか歌われていませんでした。
 旅をする人たち、たとえば参勤交代とか、瞽女(ごぜ)とか、お伊勢参りのときに、その土地その土地の民謡を聞くことはあったとしても、それはあくまで旅で聞いた民謡で、自分たちがそれを歌うということはありません。
 民謡にかぎって、その展開を書いておきますと・・・・・・
 お伊勢参りが幕末に、爆発的に「ええじゃないか」という大衆行動になります。
 この「ええじゃないか」という大衆行動のなかで、たくさんの人がお伊勢参りと称して伊勢に集中するんです。
 そのお伊勢参りの「ええじゃないか」に逆行して、官軍が江戸、そして会津、箱舘(函館)への向かっていくわけです。
 この「ええじゃないか」は自然発生ではなくて、勤皇の志士の知恵者が煽動したという話もありますが、こうして時代は明治へ。
 そして大きく時代が変わったときに、伊勢に集まった多くの、いわば難民に近い人たちが神戸開港という話を聞いて、神戸に集まります。関東からお伊勢参りに行った人たちがそこに集まります。
 このときの兵庫県知事が若き伊藤博文。
 開港するために労働力が必要になり、多くの人たちを使います。
 当時の関西の相撲取りたちが見張り役になって百人部屋という部屋をつくり、朝早くからたたき起こして働かせ、夜になるとめしを食わせ、酒を飲ませ、音頭取りがあらわれて各地の歌を歌うという状況が生まれます。
 日本の民謡が初めてひとつの場所で歌われるようになるのが百人部屋というものです。
 いまの新神戸から下った新川地区あたりに、この小屋がありました。
 この百人部屋が港湾労働者の仕切り場になり、ここから上方漫才の原型となるものが生まれるという場所でもあります。
 さらにいえば、キリスト教社会運動家として有名な賀川豊彦が活躍する場ともなりました。
 スラムから生まれた芸能といえば、ブラジルのカーニバルが代表的ですし、音楽でいえばボサ・ノバがあります。
 日本の場合は、この百人部屋での音頭であり、のちに漫才となる万歳です。
 そして、漫才の祖といわれる玉子屋円辰は、この音頭取りの名手といわれた人です。
 労働者は歌よりも、笑いを求めるという時代になるわけで、この場面はいつか、ミュージカルにまとめてみたいと思っています。
 こうして夜ごと、日本各地の民謡が歌われたであろう百人部屋の存在は、歌謡史のなかでも、重要な位置を占めます。

 情報が、人づてでしか伝わらなかった時代、いろんな人が集まる場、交流する場は、まさに情報交換の重要な空間となった。

 ネット時代の現在においても、いろんな人が集まる場の重要性は変わないと思う。それは、前回の記事で取り上げた「博多・天神落語まつり」のような場にも言えるに違いない。

 「百人部屋」という、まさにスラムにおける人の交流が、お国自慢の民謡をお互い披露し合うことになり、漫才という芸能を生み出す空間にもなった。

 永さんは、百人部屋のあった地域に関連する部落差別問題について、本書においては記していないが、新川地区はその後名前が変わり差別の対象となる。

 関東に生まれ育った人は、なかなか肌で分からないが、関西におけるさまざまな差別の問題は、根が深い。
 
 そして、現在、人間が皆平等であり、どんな差別もしてはならないとする憲法が、危機を迎えている。

 少し話が拡散しそうなので、戻そう。 

 芸能や芸人の歴史を考える上で、「ええじゃないか」のことや神戸開港と「百人部屋」のことなどは忘れてはいけないだろう。

 そういった大事な歴史の語り部でもあった永六輔さんを失った今、私は残された本を読み直すことで、“ご隠居”を偲ぶばかりだ。

 今日は、永さんの一つ年下の大橋巨泉さんの訃報を目にした。

 奥さんは、ショックが大きかろうと、永さんの訃報を巨泉さんに伝えなかったとのこと。

 巨泉さんには、正直なところ、政治家としての活躍を期待していたのだが・・・・・・。

 永さんは、天国にやって来て永さんの姿を見て驚く巨泉さんに、「先に来て、待ってたよ」と笑いながら迎えてくれたのではなかろうか。


 多くの“八五郎”が慕う“ご隠居”が、一人、二人といなくなり、次第に自分がそういう年齢になりつつあることに、戸惑うばかりである。

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by kogotokoubei | 2016-07-20 22:35 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(0)
 11月に開催される「博多・天神落語まつり」の記者会見の模様が、東スポで報じられている。
 昨日、“プレ”落語会が開催されたことを機に行われたようだ。

 他のメディアでは見当たらないので、東スポに敬意を表して(?)全文引用。
「東スポ」の該当記事


円楽、鶴瓶ら福岡で「落語界統一」異例の訴え
2016年07月18日 18時43分

 三遊亭円楽(66)、上方落語協会副会長の笑福亭鶴瓶(64)ら落語界の重鎮が18日、福岡市民会館で「博多・天神落語まつり」(11月3~6日=福岡、鹿児島)の公開記者会見に出席。異例の落語界統一を訴えた。

 福岡の一大イベントも今年で10周年となり、一門・所属協会の区別なく東西落語5団体から60人強が出演する日本最大の落語会となった。プロデュースする円楽は「60数名のはなし家が福岡に来ます。東西で地元にいるのは必要のないはなし家。東京で残ってるのは(林家)三平くらい」と笑わせた。

 不倫騒動で世間を騒がせたことも記憶に新しい円楽に対して、鶴瓶は「(落語まつりが)一時、ちょっとダメになるかと思ったんですけど」とネタにしてギャフンと言わせるなど、会見は笑いの絶えない雰囲気に。

 そんな空気が変わったのは、鶴瓶が様々な垣根を越えて春朝亭小朝(61)らと結成した「六人の会」の活動休止について触れたときだった。「六人の会がずっと続いたらよかった」と話し始めた鶴瓶は「続けてくれることってすごくうれしいですね。東西(江戸・上方)とかそんなん関係なく。全部統一したらええなと思いますよ。ずっとね、前から円楽のお兄さんもよく言うてはりますけど、落語協会とか(落語)芸術協会とか、三遊亭(=円楽一門会)とか立川(=立川流)とかそんなん関係なくですね。『統一したらどうや』というのをね。言いにくいけど」と続けた。

 これに円楽は「落語のためになって落語家のためになることはどんどん仲間からやっていって。我々は落語をやってお客様に喜んでもらえれば、それでいいという根本があればいい」と同調。会見には落語協会会長の柳亭市馬(54)、落語芸術協会理事の瀧川鯉昇(63)ら大物も出席しており、鶴瓶はさらに「統一っていいよな」と話を振る。すると積極的な見解が…。

「しがらみのあるところでいつも(話が)途切れちゃうんです。もうそういうのはないですよね。我々の世代は」(鯉昇)

「そういうの(=しがらみのある人間)はほとんど死んではる」(鶴瓶)

「そういう人は見てわかるんじゃないかな。呼んでないんだもん」(円楽)

 東京、大阪から離れた福岡という地で大胆になったのだろうか。大物たちによる統一の提言に、博多っ子は大喝采と笑いで応えた。

 これだけ力のある者が結束すれば、あり得ない話ではないかも?

 鶴瓶や円楽の発言に突っ込みたくもあるが、洒落だと思って我慢^^

 この会は、私は良い試みだと思っている。

 まず、東京でも大阪でも、名古屋でもない福岡での開催ということ。
 そして、協会の枠を超えてさまざまな噺家さんが集まる、ということ。
 
 正直な気持ち、11月は福岡の落語愛好家の方を、羨ましいと思う。

 「笑点」に関連して書いてもいるが、落語家としての当代円楽を、あまり評価はしていない。
 しかし、この会のプロデューサーとしては、評価したい。

 しかし、「六人の会」の春風亭小朝というプロデューサーがいたからこそ、でもあると思う。

 「六人の会」が中心となって、「大銀座落語祭」(2003年~2008年)が開催され、「東西落語研鑽会」があったことは、鶴瓶にとって得難い思い出になったのだろう。
 春風亭小朝というプロデューサーの存在も大きかった。

 鶴瓶の言葉には、あの頃のように交流を深めよう、という思いが無意識に働いたのかもしれない。

 鶴瓶の「統一」という言葉には、そんなに深い意味があってのことではないように思う。
 まさか、落語協会、落語芸術協会、上方落語協会、円楽一門、立川流のすべてで、「日本落語協会」を設立しよう、ということではあるまい。

 せいぜい、「協会とかの枠を超えて、もっと交流せぇへんか!」位の意味で発言したのではなかろうか。

 いろんな噺家さんが一堂に会するのは、良いことだろう。
 せいぜい、博多で、所属する組織の枠を超えた交流を図って欲しい。

 昨年横浜にぎわい座で小痴楽ら若手による東西交流落語会に行ったが、あの会は一昨年の博多での出会いがきっかけだったと話していた。

 東と西とで、若手もベテランも、同じ落語という芸能を通じて腹を割って話し合うことは、決して悪いことではないだろう。
 
 オフィシャルサイトで出演者の顔ぶれを見ても、たしかに、東京と大阪のこの時期の寄席や落語会開催を危ぶむほどの名が並ぶ。
「博多・天神落語まつり」オフィシャルサイト

 一つだけ小言を言うなら、木戸銭だ。
 これだけの顔ぶれが集まるので分からないではないが、木戸銭がどの会も5,400円となっているのは、もう少しなんとかならないものか、と思う。

 私は行く予定はないので、他人事ながら、やはり気になるお値段だなぁ。

 協賛として開かれているイムズ寄席の3,900円は、私の感覚では、ぎりぎり妥当かもしれない。
 
 来週22日に、第76回の小三治独演会がイムズホールで開催されるが、こちらが4,700円。チケットは完売のようだ。

 安いとはいえないが、5,400円と比べると、割安感があるかもしれない。


 東スポの記事で気になったのは、鶴瓶の投げかけた言葉に対し鯉昇の発言は紹介されているが、市馬がどう発言したのか、あるいは発言しなかったのかが、分からない。

 博多の記事を読んで、大分出身の噺家さんのことにも思いが至った。

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by kogotokoubei | 2016-07-19 21:25 | 落語会 | Comments(2)

 永六輔さんの命日は、7月7日。
 6月6日ではなかったが、なんとも覚えやすい日を選んでくれた。

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永六輔著『芸人』(岩波新書)

 『芸人』は、1997年10月の発行。

 『大往生』(1994年)、『職人』(1996年)など、岩波新書シリーズの中の一冊。

 この本を再読していたら、今日の祝日との縁を感じる文章に出会った。

 第三章の「光と影」から、引用。

 僕は「芸人」という言葉が好きです。
 僕が「芸人」という言葉をつかうときには、憧れ、尊敬の念をこめています。
 ところが、この言葉は、ときには差別の対象としてつかわれることがあり、それが理由で死語となりつつあるようです。

 「芸人」という言葉、20年前に永さんが死語になりつつある、というほどは廃れていないように思う。
 それは、永さんが次に書いているような「芸人」という言葉にまつわる歴史の記憶自体が、廃れてきているからかもしれない。

 なぜ、「芸人」ではいけないのか・・・・・・。
 かつて「河原者」と呼ばれた「ヤクザ」「女郎」「芸人」。
 「ヤクザ」は男を売り、「女郎」は身体を売り、そして「芸人」は芸を売るというかたちで、生産手段を持てない人たち。
 ご存知のように、芸能史のなかの芸人たちは、差別に対して、人気と芸で挑むということのくり返しでした。
 芸人の歴史は、海彦・山彦のむかし、勝者に対しておどけてみせる「俳優(わざおぎ)の民」にはじまりました。古事記に出てくる海彦・山彦の話はご存じでしょう。山彦は海彦から借りた釣針を無くしてしまい、もとの釣針を返せと迫られて困りはてる。そうしたら、海の神さまが山彦に同情して釣針を探し出し、それだけじゃなくて、傲慢な海彦を懲らしめるために、山彦に不思議な力を授けるんですね。それで山彦が勝者になる。
 それ以来、海彦の一族はその負けたときにありさまを、山彦の一族のまえでずっと演技しなければならなくなるのです。
 神話ですが、これが「芸人」のはじまりということになっているんです。
 つまり、日本では、あらゆる芸人そして芸能の歴史は、肩身のせまさを克服するために修業を重ね、その結果の芸を伝えてきた歴史でした。
 芸の修業にすべてを賭けて、人並みの生活に這いあがろうとし、河原乞食から人間国宝と呼ばれるようになったんですね。 テレビ以前とテレビ以後では、芸人の歴史はまったく違うんです。

 今の「芸人」さんは、“テレビ以後”の人たちだ。

 彼らは、海彦と山彦の神話を知らない人がほとんどかもしれない。

 補足すると、古事記においては、邇邇芸命(ニニギノミコト)と木花佐久夜比売(コノハナサクヤヒメ)の間に生まれた長男火照命(ホデリノミコト)が海彦、三男火遠理命(ホオリノミコト)が山彦に相当する。
 詳しい筋書きなどは書かないので、ぜひ、興味のある方はお調べのほどを。

 この山彦は、初代天皇神武天皇の祖父にあたる。
 ある政治家によると、神武天皇は、実在したらしい。

 先日、今日「海の日」という祝日について、記事を書いた。

 その「海の日」に、「海彦・山彦」という神話のことを、永さんの本を読みながら思うことは、決して悪いことではないように思った。

 人ごみや車の渋滞の中にいることを避け、永さんの本を読み直したら、たまたまこの部分に目が留まったのだが、それも、何かの縁なのだろう。
 
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by kogotokoubei | 2016-07-18 10:03 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(8)

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by 小言幸兵衛