噺の話

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 当代江戸家猫八の訃報には、驚いた。
 まだ、66歳。

 昨年9月12日の、むかし家今松独演会が、私が聴くことのできた最後の高座になってしまった。
 今松の会は、前年に続いての出演。
 ご本人も、この会に呼ばれるのを、心底喜んでいたことが、思い出される。

2015年9月14日のブログ
2014年11月9日のブログ

 昨年、私は次のように感想を書いた。
 昨年に続き、膝替りはこの人。
 猫の紋の着物で登場し、座布団に座った。かつて、祖父の初代猫八の時代には、もの真似も落語と同様に座って演じた、息子の小猫が洋服で立って演じているので、私は古風な形で、と説明。
 その表情が、ますます父親に似てきたなぁ、という印象。猫や犬、鳥などの「音をつかむ」コツを演技を挟んで解説。森の五種類の小鳥の鳴き声を交え、その覚え方のコツ(たとえば、三光鳥は「月、日、星、ホイホイホイ」と鳴くなど)を披露しながらの芸は、すでに父親と並んだか、もしかすると越えているかもしれない、と思わせた。
 「お後、今松師匠の大作がございます。準備もできたようですので」と下がった姿が、なんとも粋に感じたのは、私だけではないだろう。

 なぜ、座っての芸だったのか・・・・・・。
 もしかすると、立っての芸が、すでに辛かったのか、とも思わないでもないが、それは邪推か。

 昨年の高座における猫八の姿には、今思うと、与えられた高座を精一杯に努めよう、この時間を大事にしよう、というような思いが伝わってきた。

 いつも、そういう姿勢で臨んでいるのかもしれないが、何か、あの一期一会には、特別なものを感じていた。
  
 早い旅立ちで思い出すのは、父、先代の猫八のことだ。
 三代目猫八は、80歳で亡くなった。
 しかし、他人には見せない、病に苦しんでいた人なのである。
 一昨年の8月6日に、三代目猫八は広島で原爆に遭遇し、原爆症であったことなどを書いた。
2014年8月6日のブログ

 自分の記事だが、一部を引用したい。

-------------2014年8月6日のブログより---------------
 岡田六郎は戦後、原爆症に苦しんだ。そして、原爆投下直後の広島の惨状の記憶が、猫八のトラウマになっていたようだ。
 彼が意を決して戦争のこと原爆体験のことを語り出した(正式には「従軍被曝体験記」)のは昭和五十六(1981)年のことであり、『兵隊ぐらしとピカドン』が上梓されたのは昭和五十八年になってからである。

 四年前2010年8月のNHKの戦争特集の中で放送された「戦場の漫才師たち~わらわし隊の戦争~」を見て記事を書いたことがあるが、あの映像の中で戦争の悲惨さを語っていた森光子さん、玉川スミさん、喜味こいしさんは、みな旅立った。
2010年8月11日のブログ

 先代猫八、かつての岡田六郎兵長も平成十三(2001)年に八十歳の生涯を閉じた。

 広島平和記念資料館のサイトに、以前に開催された企画展の紹介ページが残っており、昭和二十一年頃の猫八が奥さんと一緒に移っている下の写真が掲載されている。このページには、喜味こいしさんの戦争体験も掲載されている。
広島平和記念資料館サイトの該当ページ
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八重子夫人と猫八さん 1946年 (昭和21年) 頃ころ
猫八さんは、この頃、髪の毛が抜ぬけ落ち、
白血球は減へり続けていました。
提供/四代目江戸家猫八氏

*広島平和記念資料館のサイトより

 明治、大正生れの方から戦争体験をお聴きする機会が次第に失われていく。
 先月下旬、広島に原爆を投下したB29爆撃機“エノラ・ゲイ”の12人の搭乗者のうち最後の生存者が亡くなったというニュースを目にした。93歳だったようだから、原爆投下時点で、猫八とほぼ同じ年齢だったことになる。
 二十代前半の若者が、一人は空から原爆を投下する役目を持ち、もう一人は投下後の悲惨な光景を目にすることになったわけだ。
-------------------------引用ここまで-----------------------

 四代目猫八の死因は胃癌のようだが、原爆症だった父からの遺伝に関係があるのかどうかは、私には分からない。

 しかし、自分よりも早くやって来た息子を、父は喜んではいないだろうなぁ。
 
 とはいえ、あちらでは、親子共演で、天国寄席の重要な色物の看板になるに違いない。

 物まねの芸は、しっかり、継承されている。

 家業とも言える貴重な色物芸の継承者としての四代目の功績は、きわめて大きい。

 四代目江戸家猫八の冥福を心より祈る。

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by kogotokoubei | 2016-03-31 21:02 | ある芸人のこと | Comments(10)
 昨日に続き、落語協会ホームページのこと。

 「花形演芸大賞」受賞者のニュースが、昨日掲載された。
落語協会ホームページの該当記事
 内容は次のようなもの。
2016年03月29日
平成27年度 国立演芸場「花形演芸大賞」

平成27年度国立演芸場「花形演芸大賞」受賞者が発表され、当協会員が受賞致しました。
≪大賞≫ 蜃気楼龍玉
≪金賞≫ ロケット団
≪銀賞≫ 古今亭文菊、ホンキートンク

 あくまで、事実の羅列のみ。

 各自のプロフィールは、名前からリンクはできる。

 昨日、「さがみはら若手落語家選手権」で柳家花ん謝が優勝した、という記事で、当初、花ん謝のプロフィールへのリンクがされているのが、分からなかった。
 後で名前からリンクしているのに気付いた次第だ。
 こういう時は、落語芸術協会のように、「xxxxxxxのプロフィール」と別途載せるべきだろう。

 昨日紹介したように、落語芸術協会では、瀧川鯉橋が銀賞を受賞した記事の中で、下記の案内をしている。
*贈呈式を含む花形演芸会スペシャル公演は平成28年6月19日(日)18時より国立演芸場で上演いたします

 落語協会さんは、この晴れの会の案内を、していない。

 とにかく、単に「事実の羅列」という記事に徹すると決めたかのような、「丸太ん棒」落語協会HPには、あきれるばかりだ。

 いまどき、市役所、町役場のホームページだって、もうちょっと“色気”があるよ。

 今回の受賞は、実に目出度いことなのに、落語協会ホームページ関係者は、それを喜んでいるのやら、「また、記事を載せなきゃなんねぇ・・・・・・」とつぶやき、余計な作業が増えたと思っているのやら。

 公務員よりも公務員的な落語協会ホームページ関係者への批判は、今後も続けることになりそうだ。

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by kogotokoubei | 2016-03-30 12:18 | 落語協会 | Comments(6)
 久しぶりに、落語協会のホームページのことについて。

 私が駆けつけることができた、3月13日の「第15回 さがみはら若手落語家選手権」で、柳家花ん謝が優勝したことを、落語協会は3月14日にニュースとして掲載しているので、引用する。
落語協会HPの該当記事
2016年03月14日
第15回さがみはら若手落語家選手権

3月13日に第15回さがみはら若手落語家選手権が行われ、当協会の柳家花ん謝が優勝致しました。

 以上、である。「3月」の「3」と「13日」の「13」のフォントが違うのも、原文通り。

 花ん謝のプロフィールへのリンクは名前からできたものの、同大会の優勝者と準優勝者の特典である「しろやま寄席」(5月22日)への出演予定なども、まったく存在しない。
「もみじホール城山」サイトの該当ページ

 ちょうどよい比較対象の記事が、落語芸術協会のHPにあるのを見つけた。
 瀧川鯉橋が、平成27年度の「花形演芸大賞」銀賞を受賞たというニュースだ。
 ご覧いただこう。

落語芸術協会HPの該当ページ

更新日2016年3月28日
平成27年度「花形演芸大賞」

国立演芸場(独立行政法人日本芸術文化振興会)主催の平成27年度「花形演芸大賞」において下記の通り受賞致しました。

平成27年度花形演芸大賞 銀賞 瀧川鯉橋

*贈呈式を含む花形演芸会スペシャル公演は平成28年6月19日(日)18時より国立演芸場で上演いたします。公演詳細は国立演芸場にお問い合わせください。

瀧川鯉橋プロフィール
瀧川鯉橋ブログ
 この記事には、鯉橋の写真も掲載されている。
 プロフィールへのリンクは、こうやって別途記載すべきなのだ、落語協会さんよ!

 ホームページの記事として、相応しいのはどちらか、見る者にとってサイト構築者の“思い”がこもっているのはどちらか、説明するまでもないだろう。

 落語協会のHPの記事は、すべからく、とりあえず「事実」を報告するだけの、冷え冷えとした記事ばかり。
 落語では、こういうのを、血も涙もない「丸太ん棒」という。

 一方、落語芸術協会の記事からは、協会員、なかでも若手を支援しようという熱意が伝わってくる。
 何より、サイト訪問者の視線に立って、その好奇心に応えようとする姿勢を感じる。

 しかし、それって、今日のサイト構築における基本の基本、もっとも重要なことではないのか。

 両協会のホームページ、つい数年前は、評価が真逆だったのだ。
 落語芸術協会が、末広亭の席亭から寄席の不入りについて小言を言われたのを大きな転換点として、寄席への取り組み方や、若手の育成、そして、その一環としてのホームページの改善に取り組んだ努力が、明らかな成果につながっていると思う。
 かたや、落語協会は、リニューアルという改悪をしてしまったまま、ホームページを放置している。 
 昨年のNHKの本選に、落語協会からは誰も出場できなかったのは、本人たちの責任とは、言いきれないだろう。
 協会の姿勢が、問われる。

 もはや、間違いのない内容を伝えるのは当たり前で、その一歩先、訪問者の期待や知りたいという好奇心にどう応えるかが、サイト運営の重要な要素となっている。

 落語協会のHPには、そういった視点の存在を、まったく感じない。

 昨年、サイトリニューアルという労力のかかる作業をしたのだから、内容の改善には時間もかかるかな、としばらく注視していたが、相変わらずの味も素っ気もない内容に、訪問するたびに腹が立つばかりだ。

 開くと、会長の写真が飛び込んでくるので、すぐにスクロールしたくなる構造も、変化はない。
 企業のサイトで、トップに社長の写真がいきなり登場するなんてとこ、ありますか?
 あるとしたら、そのサイトは訪問者の視点を失っている、ということだ。

 また、そのトップページの下の方で見つかる「最新情報」の並び方が、不自然なのが気になる。
 本日時点では、こう並んでいる。

 2016年01月03日 平成28年 春 真打昇進襲名披露興行
 2016年03月14日 第15回さがみはら若手落語家選手権
 2016年03月14日 平成28年4月 早朝・深夜寄席
 2016年03月10日 平成27年度(第66回)芸術選奨
 2016年03月08日第27回 大演芸まつり

 時系列が正しく並んでいない。
 もし、現在行われている真打昇進披露興行のことを目立たせたいのなら、鈴本が始まる直前か当日3月21日付けで、「真打昇進披露興行始まる」とでも銘打って、情報を発信したらよいのである。

 これは、サイト関係者や落語協会のスタッフなら、当然のこととして行うべき“仕事”だ。

 また比較するが、落語芸術協会のHPでは、3月24日付けで新真打の記者会見のニュースと併せて昇進披露興行の日程を案内している。
落語芸術協会HPの該当記事

 実にタイムリーなニュースだし、ある意味で当然のことだ。

 両協会のサイト構築に関しては、まったく取り組む姿勢が違うのである。
 ここまで、見事に違ってくると、サイトの良い例、悪い例として、両協会HPを比較するのは、実に格好の素材かもしれない。


 これはHPのみならず、協会という組織の問題でもある。
 なぜなら、以前書いたように、我々の税金を元にした国からの助成金を受けて活動している団体なのだから、それに見合う仕事をしてもらいたいものだ。

 昨年5月に書いた記事の一部を引用。
2015年5月29日のブログ

----------------------2015年5月29日の記事から引用------------------------------
 独立行政法人日本芸術文化振興会サイトの該当ページから、平成27年度の文化芸術振興費補助金による助成対象活動の資料をダウンロードすることができる。
日本芸術文化振興会サイトの該当ページ

 下記が、資料9ページの、公益社団法人落語芸術協会(芸協)と一般社団法人落語協会への助成金を含む部分。

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 これを見て、我が目を疑った。

 芸協は、仙台・山形と名古屋(紹介した7月の寄席かな)の企画への助成分を併せて約4400万円。
 一方、落語協会には、なんと約6400万円の助成金が支払われることになっている。

 4月の記事で書いたが、芸協への助成金は、平成26年度に約3000万円、平成25年度が約4400万円、平成24年度が約4500万円だったので、二年前の水準に戻った金額。
 
 落語協会には、平成26年度は約2300万円助成金があったが、平成25年度、平成24年度には、なかった。

 平成27年度の約6400万円は、際立って大きな増額。それも、認可基準が厳しい公益社団法人の芸協よりも2000万円近く多いのは、疑問だ。

 対象は「定席 寄席公演」となっている。
 もし、この増額がホームページのリニューアルに関連しているのなら、理由も分からないでもないが、それにしても、サイトの構築や維持管理は、内容と業者さん次第ではあるが、それほど費用はかからないはず。
 
 過去に支払われていなかったことが考慮されるなんてことも、あるのだろうか。

 元は国民の税金である。
-----------------------------------引用ここまで-----------------------------

 来週にも、平成28年度の助成金の情報が開示されるだろう。
 内容をしっかり確認するつもりだ。

 ただし、助成金の有無、多寡にかかわらず、落語協会のHPは、大幅に見直さなければならない。
 この件、くどいと思われようが、追いかけるつもりである。

 はっきり言うが、落語協会ホームページ関係者は、やるべき仕事をしていない。

 落語という歴史のある古典芸能に従事する噺家さんが最も多く所属する組織として、ホームページのあり方を、あらためて問い直すべきである。
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by kogotokoubei | 2016-03-29 12:41 | 落語協会 | Comments(0)

 本との出会いの中には、拙ブログにいただいたコメントの言葉だが、まさに「本が呼んでいる」とでも喩えるしかないような、縁を感じることがある。

 三月八日の権太楼独演会に行く前に神保町で入手した興津要さんの『落語家-懐かしき人たち』に掲載されている、明治時代の英語の寄席ガイドブックと言える『JAPANESE STORY TELLERS』という本について記事を書く際に、著者Jules Adamのことを調べた。
 検索したところ、Ian Douglas McArthurという人が、「Mediation Modernnity-Henry Black and narrated hybridity in Meiji Japan-」という題でシドニー大学の博士論文を書いているのを発見。
シドニー大学サイトの同論文掲載ページ

 この論文の中で(134ページ)、“Jules Adam,a first secretary of French lagation“と書いてあり、アダムさんが、フランス公使館第一書記だったことが分かった。

 次に、この論文の著者イアン・マッカーサーのことを調べたら、論文(2002年)よりも10年も前に、日本語の本を上梓していることが分かった。

 先日、権太楼の会以来の落語会、小満の独演会の前にも少し時間ができたので、また神保町に立ち寄った。
 もちろん、イアン・マッカーサーの本も目当てではあったが、そんな簡単に見つかるものでもないことは百も承知での、古書店めぐり。
 しかし、一軒目に覗いた小宮山書店の三階で、まだ値付けもされないまま、平積みにされていた中の一番上にあり、私の目に飛び込んできた本が、まさに、イアン・マッカーサーの、この本だったのである。


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イアン・マッカーサー著『快楽亭ブラック―忘れられたニッポン最高の外人タレント』

 まるで、「ここにいるよ!」と、私を呼んでいるように、本書は足元で輝いていた。
 この、運命的な出会いをした本について、複数に分けて書くつもりだ。

 本書は、同じ故郷を持つ著者が、ヘンリー・ブラックという、青い目のハナシカへの好奇心から、異国の地で、異国の言葉を操り、まさに異国の大衆芸能の世界を生きた一人の男の半生を追い求める、実にミステリアスな本である。
 そして、これはイアンが、ブラックの足跡をたどる、いわば“旅の物語”とも言えるかもしれない。

 それは、ブラックの半生を追い求める旅であり、実際にイアンが、横浜はもちろん、築地や伊香保、関西まで出かけた旅でもある。
 
 まず、著者イアン・マッカーサーのことを、本書の裏表紙の袖(折り返しの部分)からご紹介。

著者プロフィール
1950年オーストラリア生まれ。クイーンズランド州立大学と慶応大学で、日本語と日本文学を学ぶ。「ザ・デイリーヨミウリ」に記者として勤務の後、特派員として「メルボルン・サン新聞」などを含む九つのオーストラリアの新聞に寄稿。オーストラリア放送協会(ABC)で日本を紹介するラジオ教育番組の脚本家もつとめる。1990年から、共同通信社国際局海外部の記者。著書に『英語で挑戦!不思議日本語』『英語なんてa piece of cake』がある。
 日本に留学経験のある、オーストラリア人ジャーナリストが、著者イアン・マッカーサーである。
 あのマッカーサーとは、何ら縁戚関係はなさそうだ。

 続いて、目次から章の名をご紹介。
------------------------------------
プロローグ
第一章 幼い日の記憶
第二章 模索の時代
第三章 転機
第四章 生涯最良の日々
第五章 新しい世紀
第六章 失意の歳月
------------------------------------

 では、プロローグから、抜粋。

 横浜山手外人墓地の裏手からの上り坂は、正門にたどり着くまでの距離が実際よりもはるかに遠くに感じられるほど、急である。
 まだ坂にかかるまえから、わたしはもう汗ばんでいた。東京からの電車で石川町駅に着いてから、ほとんど走りづめだったし、むしむしする残暑もきつかった。
 この1985年9月19日という日は、いっぷう変わった話に個人的な興味を抱いたオーストラリア人ジャーナリストにとって、重要な日だった。
 じぶんの道楽といったほうがいいのかもしれない。いま、坂の上で起ころうとしていることは、東京駐在の外国人特派員の書くべき、おかたいニュースのたぐいではなかった。石炭の価格交渉でもなければ、首相や閣僚の訪日でもない。そもそも今日のイヴェントを記事にしたところで、オーストラリアのデスクが認めてくれるかどうかさえ、わからなかった。
 だが、いまは、時間どおりに坂の上までたどり着くことが先決だ。
 (中 略)
 でも、大丈夫だった。坂をのぼりきったところで、遅れてきたのはわたし一人ではないことがわかり、ほっとした。墓に菊花を供える行列は、まだつづいていた。
 わたしは意識して黄色い大輪の花を選ぶと、最終目的地の墓前へとすすんだ。
 特別な集まりだった。オーストラリア大使のニール・カリー卿が、テレビでおなじみの人気落語家、三遊亭円楽と冗談を交わしている。大使館のアリソン・ブロイノフスキー文化アタッシェも出席しているほか、もちろん、今日の式典の立役者である、上智大学の森岡ハインツと津田塾大学の佐々木みよ子両氏の、二人の学者の姿もあった。また、この催しはマスコミの関心も引いていた。NHKのカメラに、ラジオ日本の記者、地元新聞の記者たち、雑誌『フォーカス』のカメラマンがそろっていた。
 参列者たちは、おたがいに初対面のひとが多かったが、ある人物を共通項として集まっていた。
 ヘンリー・ジェームズ・ブラックである。
 真新しい墓碑の側面にはめこまれた九万円の銅札には、こう書かれている。

  『快楽亭ブラック(1858-1923)J・R・ブラックの長男で、オーストラリア
  生まれの落語家。両親に連れられて来日。初舞台は1879年松林伯円の
  下、横浜清竹亭であった。三遊派に参加し、1891年快楽亭ブラックと
  称し、日本に帰化。各地の寄席で新作人情噺や落とし話を口演した。
  三遊亭円朝と競って西洋人情噺の翻案物を刊行した。1903年、落語や
  浪曲をレコードに吹き込み、これが日本最初のレコードとなる。
  1985年9月19日』

 だが、ヘンリー・ブラックほどの波瀾万丈の生涯を、ちっぽけな銘板一枚に凝縮してしまうことができるだろうか。

 1985年9月19日、35歳のオーストラリアの新聞の日本特派員イアン・マッカーサーは、横浜の山手、港が見える公園にある外人墓地にある、ヘンリー・ブラックの墓石の前にいた。

 この追悼の会の由来について調べてみた。
 「横浜文芸懇話会」のサイトに、次のように説明されていた。
「横浜文芸懇話会」サイトの該当ページ


2015年度
快楽忌


イギリス領オーストラリア生まれの、日本最初の青い目の芸人、
初代快楽亭ブラック(Henry James Black)。
明治の横浜を皮切りに日本の寄席で活躍し、
大正12年、64年の生涯を閉じ、
横浜外国人墓地に眠っています。

快楽忌は1985年から開催されていましたが、2007年に休止。
その後、没後90年にあわせて2013年に復活、
これを機に、再び毎年開催されるようになりました。

今回も多くの方々がご参加くださいました。
ありがとうございました。

 イアンがプロローグで書いていたのは、第一回の「快楽忌」だったわけである。
 「快楽」と「忌」という言葉の組合わせが、なんとも不思議な印象を与える。

 なお、第一回「快楽忌」の場に居合わせた、イアンいわく、式典の立役者、研究者の森岡ハインツと佐々木みよ子の両氏は、この式典の翌1986年に、共著でブラックの本をPHP研究所から上梓しているようだ。また、探すべき本が、増えた・・・・・・。

 さて、その快楽亭ブラックをたどるイアンの旅が、始まる。

 第一章は、イアンがオーストラリアのアデレードに、友人のダグを伴い、ブラック一家の足跡を探す旅から始まっている。
 しかし、その旅で発見した成果は、決して多いとはいえない。

 この本全体に言えることなのだが、イアンは、自分の体験や自分の祖先のことも元に、ブラックの欠落した歴史のピースを埋めようとする。

 第一章の、「祖父母」から引用する。これはイアンの祖父母のこと。


祖父母
 わたしの祖父母は、第一次大戦の直後、ロンドンから出港した。祖父は第一次大戦で負傷していた。傷が痛むので、医者はもっと温暖な土地へ移るよう勧めていた。祖父自身もゴルフ・インストラクターになりたがっていたのだが、当時のスコットランドでは、ゴルフ関係は世襲的で、祖父には、いい縁故がなかった。そこで祖父は残された、ただひとつの道を選んだ。オーストラリアにいき、一年とたたないうちに、ゴルフ・インストラクターとして独立したのだ。
 ジョン・ブラックがどういう状況でオーストラリアにいこうとしたかは、想像の域をでない。彼はスコットランド、ファイフ洲ダイサートの生まれである。クライスツ・チャーチ、またの名を、制服が丈の長い青いコートに革のベルトだったことから「ブルーコート・スクール」とも言われた学校で教育を受けた。のちにジャーナリストとして身を立てることになるが、人生の第一歩は、イギリス海軍だった。
 彼とエリザベスが、最初にオーストラリアのことを耳にしたのは、教会だったかもしれない。十九世紀の中頃、アデレードは移住先として大いに宣伝されていた。オーストラリアの東海岸の植民地が、囚人や、密造酒の密売をくわだてる腐敗したエリート軍人の問題に直面していたため、もうひとつの移住先として注目されたのだ。
 ちなみにその後、1896年になって、ヘンリーは読売新聞のインタビューに応じ、後半生によく話に尾ひれをつけていた習いで、じぶんの郷は英国の倫敦で、先祖はスコットランドのエディンバラから遠くない、ファイフ洲ダンファームリンの出だ、と語っている。

 このブラックの出身地をめぐる“尾ひれ”をつけた話は、興津さんの『落語家-懐かしき人たち』を元に書いたブラックの記事の前篇で紹介した、彼の談話を元にした自伝(「快楽亭ブラック自伝」、明治三十三年十月、文禄堂刊『当世名家・蓄音機』所収)とも共通する。
2016年03月18日のブログ
 この後、イアンは、ジョン・レディと父、エリザベスを母とするブラック一家の、歴史的な大きな転換点について語っている。
 

帰国
 1862年のいつか、ブラック夫妻がオーストラリアにきてから八年がたち、息子のヘンリーが南半球の夏のある日にトレンス川のほとりでピクニックをしていたと思われるころ、ジョン・レディはオーストラリアを離れ、イギリスにもどる決意をしたようだ。そこにいたるまでの状況は明らかではない。わかっているのは、1863年に彼が横浜に着いたことだけである。横浜到着までには、数ヶ月を要し、インドから上海か香港、そして長崎を経由したことだろう。
 たぶん、イギリスにもどれば、オーストラリアの植民地での知識をいかした仕事にありつけるはずだと計算していただろう。海運会社なんかに口があるかもしれない。少なくとも今の彼には、商売として、イギリスから金鉱掘り向けにどんな品物を送ってやればいいかという目星がついていた。のちの風聞では、どうやら彼はオーストラリアの金鉱地帯の大キャンプファイアやホールで、金鉱掘りをまえにスコットランド民謡を歌って生計を立てたり、収入の足しにしていたらしい。そのホールのなかには、ゴールドラッシュでうるおった金で造られた、非常にりっぱな建物もあった。歌手としての彼の評判はよかったが、独立した実業家としては見るべき成果はあげていない。
 わたしはダグとアデレードへもどる道をたどりながら、エリザベスが同じ道を馬車で揺られていく光景を思い浮かべた。エリザベスは思いきって手袋を投げ捨ててやりたい気持ちだったかもしれない。でも、アンナが向かいあって座っているので、使用人の手前、手本を示さないわけにはいかなかった。イギリスに帰ることになりそうだが、そこはオペラやコンサートの優雅なひとときに、ご婦人方が手袋のしわをなでつけるお国がらである。いっぽう、植民地では規範というものが欠如していた。かるはずみに羽目をはずし、裸足になってトレンス川の冷たい水に足を浸したことがあるとわかれば、ロンドンの友人たちは何と言うだろうか。

 イアンの推測ではあるが、ジョン・レディ・ブラックがイギリスへ戻ろうとした決意とは裏腹に、ジョンは日本の横浜で長居をすることになり、日本で人生を全うするのだった。

 本日は、これにてお開き。

 次回は、父親の日本到着から、家族の来日、そして、快楽亭ブラックの誕生までを、本書からご紹介する予定。

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by kogotokoubei | 2016-03-28 21:26 | 落語の本 | Comments(0)
 久しぶりに、志ん朝の大須のマクラ聞き書き、である。

 今回は、あの「志ん朝七夜」の中で、唯一音源が発売されなかった『首提灯』の、大須でのマクラ。

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『よってたかって古今亭志ん朝』(志ん朝一門、文春文庫)

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 *印が、初CD化のネタである。

 上にある、『よってたかって古今亭志ん朝』の巻末資料を元にした大須の公演日と演目の一覧表で確認できるように、大須三年目、平成4(1992)年の二日目の一席。

 本編も貴重だが、マクラが、また実に良いのだ。
 古い言葉が通じなくなってきたことへの嘆き、分かるなぁ。

 では、さっそく。

 え~、二日目でございまして、一杯のお運びで本当にぃありがたく御礼を申し上げます。うゥ、やっぱりこの皆様方がお出でいただけてるのと、なんか今日は用があってどうも行かれないだなんというような、そういう時とはずいぶんやっぱりこっちのこの張り合いというものが違いましてね。うゥ、昨日(きのう)はまたお子さんがお見えになっていたりなんかして、お子さんが落語を真剣に聞いてて、わーっと受けたりなんかすると、なんか照れくさいというか、そんな気持ちになります。でもゥ、考えるとあの、えー子供の時分から落語なんというものを聴いているというのは、大変にあのいいんですよ。そのお子さんのこの情操教育にね、大変にいいんです。あの今なんか本当になんか物をその何と言うんでしょうか、別に知らなくたっていいんだよそんなこたぁ、自由なんだよ、なんというような、大変におおらかな大人もいますから、そういう人の意見に従っているってえと、うぅな~んにも分からなくなる、というようなことってのがよくあるもんですよ、えー。
 こないだもそうですけど、昨日ですね、ここに来てらっしゃった、ある若い女性と、一緒にこの食事をする機会があって、別にどおってことじゃないんです、ある方にご招待を受けまして、そこへ一緒にそのお見えになった。話をしてましたらね、煮こごりというのが、あんまりご存じないみたいですね、煮こごり、ねぇ。煮こごりって何なんです、なんと言うんでね、そうなるってえと、こっちにいくらか知識がありますから、こういうもんだよ、なんてぇんで教えて、まぁその一つや二つ教えている時にはなんかこうちょっと優越感で気分がいいんですけど、あんまり分かんなくなってくるってぇと腹が立つなんてぇことがある。
 54歳の志ん朝の口調は、実に明るいし、古くからの知り合いの前で語るように、自然体で結構だ。

 知っている人は、言葉の出だしの、あの「うゥ」というなんとも言えない間投詞を思い浮かべて欲しい。
 たしかに、今では、昔のことなど知らなくってもいい、という「おおらかな大人」ばかりになってきたなぁ。
 古いことが大好きな私としては、実に悪しき傾向だ。

 さて、この後、若い子に直接確認した調査(?)に基づき、どんな言葉が死語化しているのか、ということに続いている。

 どっか飲みに行って、近頃、私の娘でも不思議はないなというような若い女の子やなんかが側に来て話し相手になってくれますから、そういう時にいろいろと聞くんです。うゥ、というのは、私たちはどっちかと言うとあんまり新しいことはしゃべれませんから、古いこと専門になってくるってぇと、どうもこの商売上困るんです。これからその若い子たちが育っていって、落語を聞いてくれるかどうか、聞いて分かるか分からないか、なんというようなことになってくるとね、えぇ。ですから、いろんなことを質問しますよ。粗忽なんて言葉も分からないですね。粗忽ってのは、何なんですか、ってね。お若い方の中で、今日お見えになってらっしゃる方で、ご存じない方もいるかもしれません。シーンとしたところを見ると、ご存じないかもしれない。そそっかしい人のことを言うんですよ、粗忽と、粗忽者なんてぇこと言うの聞いたことない、聞いたことありません、なんと言うんでね、はっきり断られっちゃう
 で、こうなるとこっちも面白いなぁと思っていろんなことを聞くんですよ。雪隠って知ってる、とかね、ハバカリってなんだか分かる、とか。そやって聞いてたんですよ。そしたら、やっぱり私たちの噺のほうは昔の住居が出てきますから、行灯って知ってるってたら、知らない人のほうが多いですよ、若い子で、行灯。「行灯知ってる」「知りません」「なんだと思う」「食べ物ですか」・・・よく聞いたらね、天丼だとかカツ丼だとか、そういう類(たぐい)だと思ってるらしいんです。その想像も素晴らしいんです。っていうのは結局、なんかあんかけのなんかどんぶり物じゃないか、とそれがあんどん。はぁ、いいなぁと思ってね、嬉しくなりましたね、えぇ。よく時代劇なんかでもって灯りがつくでしょう、家(うち)ん中で、あれが行灯よ、あぁそうですか。敷居は知ってるったら、敷居は知ってますね、鴨居は、ったら鴨居は分からない。鴨居が分からないから、長押(なげし)はよけい分からない。というようなことになってる、ねぇ。
 これは、急にこういう話になっちゃって、私もこれから先のことでもって、皆さま方にお願いがあるんですが。おうちのお子さんにねぇ、やっぱりたとえ嫌がっても、教えた方がいいですよ、日本のことですから。外国のことじゃないんですから。で、外国のことが分かるかってぇとそうでもないでしょう、中途半端になんちゃうんですよ。

 敷居はOK、鴨居はNG、だから長押は、もちろんNG、という調査結果だったようだ。
 長押(なげし)は、『野ざらし』を聴けば分かるでしょうにね。
 学校で教えないことは、落語に教わるのです!
 
 さて、この後はどうなっているか、というと。
 あのゥ、娯楽がねぇそうなんですねぇ、昨日(きのう)お子さんお見えになってて、ご兄弟、たしかご兄弟です、こちらの方にお見えになってましてね、お父さんとお母さん、ねぇ、大変よく噺を聴いてくれて、受けてくれて、私ありがたいなと思ってたんですけど。あのゥ、私達子どもの時分にはですね、テレビというものは小さい時はなかったですから、そうすると娯楽はまず、おもてへ出かけない時には、うちではラジオです。そのラジオに晩飯ん時に流れてくる歌謡曲であるとか、ねぇ、それからまた演芸もんで浪曲であるとか講談だ落語だなんというのを、まず大人が権利があったんですよ、昔は、大人が、ねぇ。それに子どもが従って、一緒に付き合って聞いてたんです。だから、歌謡曲を覚えちゃう、ねぇ。えぇ。なに、子どものくせに、そんな歌、唄って、なんてんでね。なんにも分かんないで、恋だとか愛だとか、そんなこと言ってたんですから。そういうものを覚える。それと同時に、こんだぁ落語やなんかを聞いて、なんかこう、女郎買いってのは、ああ、だいたいこんなものかな、というような。想像がつくんですね。それから、いろんな細かい言葉遣いだとか、道具の、いわゆる名前とか、そういうものやなんか、自然にこう覚えてくる。別になに学校で教わらなくったって、そういうことやなんか、結構知ってたんです。今は、教わらないと、知らないから、だから「知ってる」っていうと、「知りません。学校で習わないから」、ぴしっと言葉返されちゃう、ぴしーっと、「知りませんよ、そんなことは」、なーんてね。「聞いたあなたが悪いんだ」てな顔をして、怒られことずいぶんあるんです。でー、このぅ、今はどちらかと言うと、お子さんが主導権を握って、それに、情けないことに大人が付き合って見ているから、大人の程度がまた下がっちゃって、テレビの、しょっちゅう出ているタレントさんしか、分からなくなる、というような、そういう現象になっちゃった。こりゃぁ、いけませんよ。ねぇ。いわゆる、お仕着せ文化ですから。向こうがお仕着せ、出してくれる物、そうですかって、全部、すべていいんですから。これしか知らないんですよ、自分がもの選ばないんですから、えぇ。子どもと一緒になって、「おもしろい、なんちゃん、そう、この人が、へぇ~」なんつって、ぽーっとしちゃう。大人の方、気をつけてくださいよ。ねぇ、だんだんそうなってくるんですから。えぇ。まぁ、これね自分のうちの話ですよ。やっぱり、そのぅ、ああこういうふうになっちゃったのかなと思うのは、子どもの番組というか、ヤングの番組、そういうものを見ていると、たとえば、他の番組がありますね、そっちは一切見ない。目を向けない、耳を貸さない、というあれですから、私なんかわりに小うるさいから、子どもがいると、私が見ている、たとえば時代劇やなんかをこう見ていると、一所懸命説明するんですよ。これは、こうだ、あぁだ、なんて言うとね、「フーン、フーン」なんて言ってね、今、その子どもが二十歳になりました。

 この後に、某ビール会社のCM撮影の時の撮影スタッフとの会話の思い出で、昔の映画が話題になり、ドク・ホリディのことを志ん朝が語り、日本なら平手造酒と言ったが、そのS社の麦芽100%のビールMのCM撮影スタッフで平手造酒を知っていたのは、たった一人だったのこと。
 志ん朝、ご子息にも、平手造酒を知っているか、と聞いてみたようだが、そりゃあ、無理だよね。似た名前の女性歌手(ヒラヤマミキ、か)と勘違い。
 
  「大利根月夜」(田端義夫)、いい歌だよねぇ。


 マクラの中の言葉、“やっぱりたとえ嫌がっても、教えた方がいいですよ、日本のことですから”、で、ここしばらく馴染み深くなった初代快楽亭ブラックのことを思いだした。
 
 そのうち、浅草にいる旅行者のガイジンさんから、日本の若者は、日本の歴史や伝統を教わるようになりはしないか・・・・・・。


 志ん朝、このマクラでは、メディアへの批判もやんわりと交えて、日本の伝統を大事にして欲しい、といった持論を伸び伸びと語っていて、聴く方も、つい「その通り!」と相槌をを打ってしまうのだった。
 
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by kogotokoubei | 2016-03-26 20:33 | 志ん朝 大須の「まくら」 | Comments(6)
 午後からは休みをとって、都内で野暮用。
 小満んの会まで少し時間があったので、神保町での古書店めぐりができた。
 特に、初代快楽亭ブラックについて興津要さんの『落語家-懐かしき人たち』を中心に記事を書く過程で、検索などをしているうちに、いくつか気になる本があった。

 しかし、そんなに簡単に見つかるとは思わず、最初に入った店は、小宮山書店。
 小宮山ビルは、地下一階に神田伯刺西爾(ブラジル)という、なかなか雰囲気のいい喫茶店がある。
 数年前に改装するまでは、落語関係の本も多かったが、今では、本来のアート関係などを中心にビル各階はレイアウトされている。
 しかし、蔵書が多く、たまに貴重な文庫や新書などを発見する時もあり、神保町で時間がある時は、立ち寄る店の一軒だ。
 まず、文庫、新書などが並ぶ三階に行った。

 私は、目を疑った。
 まったくの、僥倖だった。まだ、入荷して間もないのだろう、いわゆる平積み状態で、値付けもされていない一冊の本が、私の目に飛び込んできた。
 それは、今思い出しても、まさしく“目に飛び込んできた”という表現しかできない瞬間だった。
 
 すでにブラックの記事で書いたことだが、私が、興津さんの本にある、明治時代の英語による寄席ガイドブック、『JAPANESE STORY TELLERS』の著者Jules Adamが当時フランス公使館第一書記官であることを知ったのは、ネットの検索で見つけたIan Douglas McArthurという人のシドニー大学の博士論文、「Mediation Modernnity-Henry Black and narrated hybridity in Meiji Japan-」だった。
シドニー大学サイトの同論文掲載ページ

  この論文は、シドニー大学のサイトでは2002年、となっている。

 その後、同じ名前、イアン・マッカーサーという人による初代快楽亭ブラックに関する本が、1992年に講談社から発行されているのを知り、この本が気になってしょうがなかった。
イアン・マッカーサー著『快楽亭ブラック―忘れられたニッポン最高の外人タレント』

 小宮山書店で私の目に飛び込んできた映像こそが、この本だったのである。

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 初版、状態も実に良い。新古書と言えるかもしれない。
 さっそく店員の方に、「おいくらですか?」とお聞きした。
 値段は、想定以下。迷わず入手した。

 すぐに読みたくてしょうがない。

 他の書店には立ち寄らず、小満んの会がある関内へ向かった。
 電車の中で開いたこの本を、“貪り”読む。
 関内に着いてから、某喫茶店に入り、また読む。
 本にちなんで、コーヒーは“ブラック”。

 これが、本とコーヒーカップをガラケーで撮った、ピントの合っていない写真。



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 小満んの会が始まる15分ほど前まで、この本に釘づけになっていた。

 その内容は、後日書くので、お待ちのほどを。

 では、小満んの会。
 通算132回目とのこと。
 264席の会場の入りは、半分、くらいかなぁ。
 もう少し入っても良いだろうと、毎回思う。

 次のような構成だった。開口一番から聴くのは、初めてかもしれない。
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開口一番 柳家小はぜ『たらちね』
柳家小満ん 『おすわどん』
柳家小満ん 『花見酒』
(仲入り)
柳家小満ん 『愛宕山』
-------------------------------------------

柳家小はぜ『たらちね』 (16分 *18:30~)
 初である。落語協会のホームページで確認すると、はん治の弟子とのこと。
 見た目は、頭髪も短く刈り上げており、実にこざっぱりして好印象。語り口も妙な癖がなく聴きよい。長屋の隣の婆さんの出演を割愛した短縮版だが、ご飯を食べる稽古の「チンチロリンのサークサクのポーリポリ」「ガンガラガンのザークザクのバーリバリ」も楽しく演じた。
 こういう落語家らしい古風な風貌の人、私の好みである。期待しよう。

柳家小満ん『おすわどん』 (25分) 
 お客さんが「満月がきれいですよ」と言われたとのこと。この日が旧暦二月十四日ということを小満んは、もちろん知っている。ブログのデザインをこの時期は満月に替えている私も、嬉しい限り(^^)
 いつものように川柳を少し披露し、昔の男女は、今のようにくっついて歩かなかった、男が日本橋なら、まだ女は万世橋、などのマクラの後に、幽霊とは神経が見せるもののようで、と本編へ。
 現役では歌丸がよく演じているようで、たびたびお世話になる「落語の舞台を歩く」でも、歌丸の高座を元に解説されている。
「落語の舞台を歩く」の該当ページ
 小満んの二人目の師匠五代目小さんにも公演記録があるので、小さんゆずりと察する。
 しかし、滅多には高座でかけないのだろう、ちょっとしたハプニングがあった。
 この噺は、下谷の呉服商である上州屋の妻が亡くなり、主人が後妻に女中の「おすわ」を娶るのだが、夜中になると外で「おすわど~ん、おすわど~ん」と呼ぶ声がする。先妻がおすわを恨んでいるのではないかと気味が悪くなり、おすわが寝込んでしまうという筋書きから、地口のサゲにつながっていく。
 だから、ネタの題でもある「おすわ」の名は、重要。
 しかし、小満ん、親戚一同が上州屋に「奥の女中を後添えにどうだ」と薦める場面で、「おすわ」の名が、なかなか出てこない。
 これは、ほぼ間違いなく失念しているなぁ、と思った私は、一瞬、最初の師匠文楽が最後の高座で『大仏餅』の神谷幸右衛門の名を失念したことを思い出した。
 (まさか、勉強し直してまいります、なんて言わないよねぇ・・・・・・)と心の中で呟いていた(^^)
 小満ん、途中で、下手の方にある“めくり”を覗いて「こういう名です」と、おすわの名を確認した。
 これも、一つの技術、か。
 しかし、その後もリズムはやや乱れ気味だったなぁ。
 楽しい場面も、もちろんあった。上州屋の主人が、「おすわど~ん」の声の正体を暴けと番頭に言うが、なんともだらしなく「幽霊が怖い」と逃げる場面や、サゲ前、番頭に替わって幽霊の正体を暴くことになった荒木又ずれと蕎麦屋のやりとりなどは、結構可笑しかったので、少し残念。
 さて、幽霊の正体は・・・実は、蕎麦屋が「ぉそば~うどん~」と言っていたのが「おすわ~どん」に聞こえたことが判明。
 しかし、成り行き上、お前の首を討つという荒木又ずれに対して蕎麦屋が「私の身代わりにこれを」と蕎麦粉を出す。なんだこれは、と言う又ずれに「蕎麦の粉、蕎麦の子です」と蕎麦屋。荒木「これをどうしろと言う」蕎麦屋「手打ちになさいまし」。
 しかし、こういうことも、あるんだねぇ。ある意味で、印象に残る高座、とも言える。

柳家小満ん『花見酒』 (29分)
 すぐに高座に再登場。少し先取りではあるが、旬のネタ。
 「いざさらば 花見にのめる 所まで」は、芭蕉の「いざさらば 雪見でころぶ 所まで」のパロディ川柳だろうが、自作かなぁ。
 「寄る年や 桜の咲くも 小うるさき」(一茶)も登場。
 こういった、ネタに相応しいマクラが、小満ん落語の醍醐味。
 無精な男が、花見に誘われても火鉢にあたって家にこもり、炭だって“桜炭”、「パチンパチンとはねるのを見ると退屈しない」と言う。
 あまりに弾けるので、「何だってはじける、山にいた頃を忘れたか」と桜炭に怒る、なんてぇ話をマクラでふる人は、他にいないだろうなぁ。
 兄ぃと辰の二人、花見客で賑わう向島でも、言問橋から白髭橋を過ぎたあたりには茶店が出ていない、酒を売りに行けば儲かると妙案が浮かんだ。
 馴染みの酒屋三河屋から三升の酒を前借りして一斗樽に入れ、釣り銭用の十銭まで借りて、向島に酒を売りに行く。
 しかし、酒好きの二人は、酒が揺れる音や、その匂いがたまらなくなる。
 後棒の兄ぃ、「風が樽ん中撫でてよぉ、俺の鼻先に寄って来る」と、たまらず「俺に売ってくれ」と借りた十銭を辰に差し出す。
 「金を払うんなら客だ」と辰は、酒屋の「利き猪口」にあふれんばかりについで兄ぃへ渡す。
 猪口の底にある模様を見て、「蛇の目だ、清正公様も喜びそうだ」の科白は、加藤清正の紋が「蛇の目」だからだが、これ、お客さんで分かった人、どれ位いるかなぁ。
 次は俺だ、と辰が十銭を兄ぃに渡して、なみなみと注いで旨そうに飲み干す。
 鰻屋が出ていれば、その匂いを肴で、また一杯。天麩羅屋があれば、店先でまた一杯、ってな調子で、三升を飲み干した二人は、へべのれけ。
 客が来たにもかかわらず、樽にはこれっぽっちも残っちゃいない。
 三升も売れたのに、売り上げは、元の十銭だけ。
 「考えてみれば当たり前だ・・・・・・十銭の銭が行ったり来たりしているうちに、三升の酒をみんな二人でのんじまったんだあ」
 「あ、そうか。そりゃムダがねえや」でサゲ。
 無駄がない、とはいえ、商売にはならない。
 これ、GDP(国内総生産」)では、実は十銭にならないから、「ムダがねぇ」とも言える。
 十銭が二人を行ったり来たりしようが、お客から一杯づつ二人に支払われようが、“生産”活動はあったと計算されるはず。
 よって、一杯を一合とすると三升で三十合だから、十銭x30=300銭
 一両=四分=十六朱=銭四千文、とすると、一朱は250文だから、一朱と50文だけ“GDP”に貢献(?)したことになる。
 まぁ、少なくとも兄ぃと辰は、灘の生一本を一人一升五合ほど飲むことができたのである。
 もちろん、三河屋への借金は残る。
 やはり、この噺からは笠信太郎の『花見酒の経済』を連想するねぇ。
 国の経済における“見せかけ”GDPのことや、国債という名の三河屋の借金、である。
 まぁ、庶民はそんなことを忘れて酔いたいから、気象庁が「咲いた」と言ったら我先にと、花見酒を楽しみに走るのだなぁ。これは、居残り会に参加した私とて、同様なのである。

 仲入りで、4月12日の国立演芸場の独演会のチケットを売っていた。心は動くが、その日は、都合がつかない可能性が高い。小満んの奥方からも強く勧められたが、断念。
 
柳家小満ん『愛宕山』 (24分 *~20:18)
 仲入り後は、最初の師匠の代表作。
 「たいこもち あげての末の たいこもち」を含む短いマクラから本編へ。
 幇間ネタを師匠は得意にしていたが、文楽が描いた幇間は、単に旦那にお追従を言うだけの軟(やわ)な存在ではない。
 また、旦那の金魚のウンコでしかない、主体性のない幇間ならば、最後にあの危機脱出の逆転劇を生み出すことはできないだろう、とも思う。
 小満んが描く一八は、そういった強さも秘めているが、実に上品に見えた。
 それも、師匠譲りとも言えようが、小満んならではの一八なのだと思う。
 前半の見せ場は、辛い山登りなどから逃げて宿に帰ろうとする一八の行動を見透かした旦那が、繁八を見張りにつけたので、一八、やむなく登る腹を決め、『コチャエ節』を唸りながら、登る場面だ。
   ♪ お前待ち待ち蚊帳の外 蚊に喰われ 七つの鐘の鳴るまでも
     コチャ七つの鐘の鳴るまでも コチャエ コチャエ

 までは、何とか息も切れずに登っているが、

   ♪ お前は浜のお庄屋様 潮風に吹かれてお色が真黒け
     コチャ吹かれてお色が真黒け コチャエ コチャエ

 の途中からは、声も切れ切れ、登りながら汗を拭き拭き、という状態となる。
 この、歌いながら、一八の疲れ具合を、時間経過とともに表現するのは、そう生易しいものではない。下手な素人落語を飲み会で演じるから、その難しさが、よ~く分かるのだ。

 私は、こういう場面で拍手をしないので、心の中で手を合わせていた。師匠譲りの名演。

 一八、なんとか旦那に追いついて、茶屋の近くで酔っ払いの喧嘩を見て、一句ひねる。
 「早蕨(さわらび)の握り拳を振り上げて 山の横面春(張る)風ぞ吹く」
 実際は、旦那の家の掛け軸にあった文句(蜀山人作と言われる)だが、自作のように演技した一八。しかし、旦那が「早蕨ってのはどんな形している」の問いに正しく答えられず、盗作が露見。
 その後、京都の町を眺めて「あれは、桂川ですか・・・そう言われてみれば、か・つ・らと見えなくもない」と一八に言わせたのは、小満んの工夫か、と思っていたが、後で文楽の音源を確認してみると、しっかり入っている。
 また、旦那が、「来月のかわらけ投げの会で、(軽い)塩煎餅を投げる人がいるが、その逆で」と小判を投げるのだが、昨夜は塩煎餅のことも小満んの工夫かと錯覚していた。確認すると、師匠文楽の音源にしっかり含んでいた。今回は、やや予習不足だったなぁ。
 しかし、小満んならではの工夫も、もちろんあった。
 愛宕山から「本能寺」を探す場面で、愛宕百韻の光秀の句、「時は今 天が下知る 五月かな」を挟んだのは、小満んの工夫だろう。
 入場の際いただいた、いつもの小さく可愛い栞は「愛宕山」が主題なのだが、「コチャエ節」などではなく、光秀の句を中心に川柳などが載っている。
 明智光秀の子孫、明智憲三郎の著『本能寺の変 431年目の真実』では、「下しる」ではなく「下なる」と伝わる写本が存在し「下なる」として解釈すると、土岐(時)氏によって、苦境から脱し、百年も続く戦乱の世を終わらせよう、という光秀の祈願が込められていることが分かる、としている。
 小満んの栞には、愛宕百韻の同席者である連歌師の里村紹巴の名を含む「本能寺 紹巴横手をはたと打ち」が載っている。小満んも、きっと「下なる」という句の存在を知っているのだと察する。
 後半の見せ場は、何と言っても、小判を我が物にしようと崖に飛び降りた一八が、嵯峨竹のしなりを利用して戻ってくる場面。
 旦那に「オオカミに食われてしまぇ」と言われた後、羽織、着物、長襦袢、帯の絹物を裂いて縄を綯う場面、竹を力をこめてしならせる場面は力演である。
 この所要時間が短縮版か、というとそうでもなさそうだ。文楽の音源、ほぼ20分。
 師匠も小満も、聴き終えた後で、「そんなもんだった?!」と思わせるほど、実時間よりも長く感じるのは、芸のなせる技と言えるだろう。
 旬の噺であり、師匠の十八番を自分のネタとして演じてくれた高座、今年のマイベスト十席候補とする。

 終演後は、我らがリーダー佐平次さんと、熱海でのゴルフの後に駆けつけたI女史の三人で、居残り会だ。
 関内で四十年という老舗のお店。
 店の外の黒板に、「虫だしの雷 天に響き 心待ちする花見酒」とあった。
 まるで、小満んのネタを知っていたかのようじゃないか。幸先良し!
 そして、出された料理も、まさに旬。「鯛の子」や「のれそれ」、「ふきのとうの天ぷら」「白魚」などなど。お店のご主人と女将さん夫婦が食べようと思っていたというシシャモまでいただいてしまった(^^)
 会話も、春の食材も、どちらも良い肴。徳利が何本空いたかは、兄ぃと辰にでも聞いてくれ、という状態に(^^)
 しかし、帰宅は日付変更線を越えることはなかった。
 小満んの会は、遅くとも八時半にはハネるので、居残り会にも実に優しい会なのであった。

 次回は5月19日(木)、ネタは『がまの油』『馬の田楽』『抜け雀』と案内されている。これまた、楽しみだ。

 それにしても、落語会に行く前の神保町で、ここしばらく良い本に巡り合う僥倖が続いている。
 さて、次は、どんな噺、どんな本に巡り合えるかな。


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by kogotokoubei | 2016-03-23 21:27 | 落語会 | Comments(6)

 今日から、落語協会の新真打披露興行が鈴本で始まる。
 三月二十一日という日が初日になることは、落語の歴史から考えても実に良いことだと、私は勝手に思っている。
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桂文我著「落語『通』入門」(集英社新書)
 
 明治時代のフランス公使館書記官Jules Adamの著『JAPANESE STORY TELLERS』のことでも、いただいたコメントのおかげで引用することができた本だが、桂文我の「落語『通』入門」(集英社新書)は、数多くの文献を元に、噺家の元祖から寄席の成り立ち、そして明治から大正、昭和初期の落語界のことを丁寧に振り返った好著だと思う。
 ただし、私がAmazonのレビューでも書いたことだが、本の題はもう少し検討の余地があったと思うなぁ

 さて、本書の中で、江戸落語の中興の祖と言われる烏亭焉馬と彼が開催した会について、次のように書いている。

 安永末年(1780~81)頃から。大坂の会咄(かいばなし)に刺激を受けて江戸でも会咄が始まりました。
 活動を軌道に乗せたのは江戸落語中興の祖・初代烏亭焉馬で、寛保三年(1743)、江戸・本所相生町の大工棟梁の家に生まれ、本名を中村英祝、通称を和泉屋和助。狂歌の号は「鑿釿言墨曲尺(のみちょうなごんすみかね)」と言いました。
 天明三年(1783)に柳橋・河内屋で行われた狂歌師の集まり「宝合わせの会(滑稽な題材や、いかがわしい物を見立てた茶番、地口の会)で短い噺を二、三席披露して好評を得ました。
「上手いじゃねえか」
「見事なもんだぜ、まったく」
 と、人々が誉めたことに気を良くし、三年後の天明六年(1786)四月十二日、向島の料亭・武蔵屋権三(権三郎)で、自らが主催する第一回目を開催しました。
 この会は木戸銭を取らず、同好の士が集まって発表し合うのが目的で、上方の会咄のように一般からの公募は行いませんでしたが、当日は狂歌師が百人近く集まるという盛況で、参加者が作った小噺は約三百にもなったと言います。
 会場設定にも凝ったようで、座敷に毛氈を敷いて、正面には机を置いた口演席を設け、床の間に桃太郎の掛け軸、その前にはキビ団子を供えるという設(しつら)えが評判を呼び、それ以降もこの形式に従いました。
 その後も「咄の会」は不定期ながら催され、寛政四年(1792)以後は毎年正月二十一日を「咄初め」と称して、料亭で開催されるのが恒例となりました。
 咄初めを二十一日としたのは、廿一日の字を「昔」に見立てた洒落で、「昔ばなし」の意味を含んでいると言います。
 また、毎月二十一日にも、焉馬の自宅などで「定会(じょうかい)」という月例会が開かれました。
 このように、21日は、「二十一日」→「廿一日」→「昔」ばなし、という焉馬の洒落に基づく、実に落語と縁の深い日。

 「6月5日」を「ろくご」→「らくご」の洒落で、「落語の日」という案よりは、ずっと歴史的な根拠がある。
 また、初代三笑亭可楽が、最初の江戸での定席寄席を始めたのが六月ということから、6月1日を「寄席の日」とするイベントもあるが、これも、根拠的にはやや弱い。

 私は、一月二十一日こそ、「落語の日」に相応しいと思っている。

 落語協会の真打昇進披露興行の初日である春分の日に、文我の本を読みながら、そんなことを思っていた。
 

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by kogotokoubei | 2016-03-21 11:45 | 幸兵衛の独り言 | Comments(0)
 興津要さんの『落語家-懐かしき人たち』に掲載されている『JAPANESE STORY TELLERS』を中心に、明治中期に<青い眼のハナシカ>として活躍したイギリス出身の初代快楽亭ブラックのことを二回に分けて書いた。しかし、まだお開きにできなかった。

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暉峻康隆著『落語の年輪』

 明治の落語界のことを書くのであれば、暉峻康隆さんの『落語の年輪-江戸・明治篇-』も確認しないわけにはいかない。

 暉峻さん、やはり「三章 明治の東京落語-名人円朝の登場」の中で、短いながらも「落語界のアプレ・ゲール」として、ブラックのことにふれている。
 すでに紹介した内容と一部重複するが、興津さんの本にはなかった情報もあるので引用したい。
 諸方の演説会に出演しているうちに、演説会の余興に出演していた講釈師の松林伯円と懇意になった。その世話で明治十二年の一月に横浜馬車道の清竹へ出演し、演説の余興に「チャールス一世」の伝記や「ジャンヌ・ダーク伝」をやって好評を博したのが、ブラックが芸界に身を投ずる第一歩となった。そこで、石井という家の養子籍となって日本に帰化し、ほうぼうの端席に出演しているうちに、かねて懇意の五代目土橋亭りう馬(明治二十六年<1893>没)に頼まれて、三遊連の大寄(おおよせ)をやっていた両国の立花家と木原店に出演して好評を博したのがきっかけとなって、明治二十六年七月の三遊社の客員となり、本郷の若竹と神田の立花亭で、快楽亭ブラックの看板をあげることになった(「文芸倶楽部」・明治三十八年十月)。
 はじめのうちは外国種の伝記物をしゃべっていたのだが、後の今村信雄作の「試し酒」の原作となった、英国の笑話を落語に仕立てた「ビール競争」を「百花園」(明治二十四年三月五日)に発表したり明治三十八年十月号の「文芸倶楽部」には、「煙草好き」を発表するなど、青い目でバタくさい舶来落語を演じて、それなりの人気を博していた。
 すでに紹介した談話を元にした自伝で、円朝の後を継ぐ落語家についての危惧が強かったことが分かるが、三遊派との関係が密接だったからこその心配だったのだろう。

 この「ビール競争」は、興津さんの本では「英国の落語(おとしばなし)」として紹介されている。今村信雄の父、今村次郎の速記。子息の今村信雄が「試し酒」をつくったというのも、縁ということかもしれない。ただし、同じような話は、英国のみならず、中国にもあるようだ。

 暉峻さんは、「ビール競争」の冒頭を少しだけ紹介した後、他にも、青い目の落語家がいたことを、次のように記している。
 さてこのブラックは、大正期に入ると大崎に引退し、それにかわって長崎生まれのジョンベール、英国軒ハレー、ジョンデーという三人の英国人の咄家が東京の寄席に出演している(「都新聞」・大正六年<1917>)二月付)。しかし咄家らしい咄家は快楽亭ブラックのみで、大正期の三人は泡沫的存在であった。

 ブラックの後継たらんと思いながらも思いを果たせなかった複数の青い目のハナシカがいたことは、それだけブラックの存在の大きさを裏付けているように思う。

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 次に、昔の落語家のことを調べる際に欠かすことができない本『古今東西落語家事典』。
 この本では、囲みのコラム的にブラックのことを取り上げている。

 異色の外国人落語家-快楽亭ブラック
 
 安政五年(1858)十二月二十二日、オーストラリア北アデレイド市の生まれ。本名は、ヘンリー・ジェイムズ・ブラック。父は、ジョン・レディ・ブラックという。文久元年(1861)ごろ、開国間もない日本へフラリとこの父親はやって来た。そしてその数年後、母親に連れられてこのヘンリーも来日した。

 あらっ、生まれはイギリスではなく、オーストラリアとなっている。
 父親が「フラリ」と日本にやって来た、という表現が、妙に可笑しい。
 
 この後、ヘンリーが手品師の一座に入り、その後に演説会に出演し、三遊派との縁が出来て寄席の出るようになり、人気者になったことは、すでに紹介したことなので省く。
 人気を失ってから、最後までの部分を、ご紹介。
だんだんと飽きられて人気を失い、活動写真の説明や、催眠術などをやってもみたが、ついに地方廻りとなり、旅先で自殺未遂まで行なう悲惨な結果となる。最後は東京へ帰って来たものの、再び過去の人気を取り戻すことなく、関東大震災の大正十二年九月十九日、目黒区中丸の自宅において六十五年の波乱に満ちた生涯を淋しく閉じた。
 しかしこのブラック、明治三十六年英国グラモホンが、日本における初の平円盤式レコード出張録音の際、技師フレッド・ガイスバーグとは同国人のよしみから、その仲介の労をとった。こうして、日本初のレコード録音を実現させてくれたことは、同時に吹込まれた彼自身の声とともに、我が国の音の歴史にとっても、非常に貴重なる功績を残したことになる。

 この日本初の録音、興津さんの本によると、築地明石町のメトロポール・ホテルの教室(?)を借りて行われた、と書かれている。

 こうなると、ブラックの音源を聴きたくなるねぇ。

 どうも、父母は英国人で、父の仕事の都合などでオーストラリアにいた際に生を受けた、ということかと察する。
 しかし、『古今東西落語家事典』のブラック生誕の地の記事、原典が書かれていないので、この件は、まだ調べる必要がありそうだ。


 それにしても、青い目で、江戸っ子のべらんめい調で落語を語って、一時期にせよ人気を博したブラック、そして、公使館員としてブラックの高座に興味津々だったフランス人のJules Adam、加えて、博士論文としてブラックを取り上げたオーストラリア人のイアン・マッカーサーなどの存在を考えると、一気に落語を取り巻く舞台が国際化を帯び、落語が、日本人として世界に誇れる話芸である、という思いを強くする。
 
 快楽亭ブラックに関しては、ひとまず、これにてお開き。

 とはいえ、いくつか、宿題が残っているので、そう遠くないうちに、何か書くことになりそうだ。

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by kogotokoubei | 2016-03-20 18:44 | 落語家 | Comments(0)
 さて、昨日の続き。

 初代快楽亭ブラックについて、Jules Adamが書いた『JAPANESE STORY TELLERS』(興津さんの日本語の題は『日本のハナシカ』)から紹介したい。

 どちらを元にするか迷ったが、興津さんの『落語家-懐かしき人たち』を引用する。
 文我の「落語『通』入門」が、やや直訳に近いのに比べ、興津さんの本の方に味があるような気がするし、「です、ます調」で丁寧で、訳にも誤りはなさそうだ。
 では、さっそく。
 間もなく、このハナシカについての短い研究も終りますが、その前に、ひとつおもしろい話をつけくわえておきたいと思います。
 この芸術家の協会には、その一員として-おそらく耳を疑われるかたもいらっしゃいましょうが-イギリス人のB氏(注、快楽亭ブラック)という人物がくわわっています。
 どのようにして、氏が日本に来たかは定かではありません。
 アダムさんは、ブラックの父やブラック本人と来日の背景などを知らなかったようだ。
 あくまで<青い眼のハナシカ>という謎(?)の人物、それも大変人気者であブラックを好奇心たっぷりに見つめていたのであろう。

 氏は、絶えず大都市から大都市へと動きまわっております。
 氏は、その名が、もっとも上等な寄席のビラの頭に書かれるほどなのです。
 氏は、地方の一婦人と結婚し、彼女との間に数人の子どもをもうけており、日本式の生活をとりいれるために、ヨーロッパ風の習慣は、まったくやめてしまっています。
 思いますに、氏は、もうほとんど英語を忘れてしまっているのではないでしょうか。そして、数年前に、市民権を取り、日本に帰化しました。

 あらためて『落語家-懐かしき人たち』(旺文社文庫)の裏表紙にある寄席長谷川亭の図で、看板「英国人 ブラック」の名を確認。
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 英語を忘れたかのように日本人の、それも噺家になりきって、大看板となって大都市を動き回っていたブラックに対し、アダムさんは、どんな思いを抱いていたのだろうか。
 長い間、わたしは、こういう非凡な人物、ディレッタント、あるいは宿無し-どのように氏を呼んでよいやらわかりかねますが-と知り合いになりたいと、ひそかにあこがれていたことでした。
 なぜならば、氏に対しては、同情と好奇心とが交錯する奇妙な感嘆の念をいだいていたからなのです。
 わたしは、氏にいろいろなことをたずね、研究したいと思っていました。
 氏は一冊の書物、もしくは文書であり、氏の人生という一冊の本を、一ページずつ繰ってゆきたい、そう思っていたのです。
 しかし、Jules Adamがブラックについて書き記した本は、この『JAPANESE STORY TELLERS』(フランス語原本『AU JAPON』)の他には存在しない。

 アダムさんが直接にヘンリー・ブラックから話を聞く機会は、なかったのである。
 しかし、それは、運命のすれ違いであったことが書かれている。
 まず、伊香保のニアミスのことから。

 宿の従業員に案内されて、わたしは、ひとつの部屋に通されたところ、「ここは、あなたと同じお国のかたが、ちょうどお使いになられていたのですよ(たいていの日本人にとっては、外国人は、みな英国人なのです)。有名なハナシカさんのBさんですよ」と言うのです。
「で、氏は、現在どこにいらっしゃるのでしょうか」
 と、わたしは狂乱してさけんでしまいました。
「昨日、お発ちになられました」
 結局、わたしは。氏がどちらへ向かったのかはたしかめられませんでした。

 そして、その後、神戸の寄席でも運命のすれ違いがあった。

 氏は、その晩、出演することになっているのです。
 刻々と入りぐちの人だかりは多くなり、行きかうひとも、大声で、くちぐちに、その有名な外国人のハナシカについて話していました。
 ついに、わたしは、氏をとらえたのです。
 わたしは、なかにはいってゆきました。そして、氏のハナシをはじめて聞く幸運にめぐり合ったわけです。
 わたしは、おどろきました。
 氏が舞台を去ると、喝采が雷のように鳴りひびき、部屋は揺らいだのでした。
 わたしは、感動し、また、満足もしました。
 というのも、アジア人からのその大喝采は、まるで、その一部が、わたしに向けられたように思えたからなのです。
 わたしも同じヨーロッパ人だったのです。
 急いで、わたしは、その部屋を出て、みずから名のって、その友人に、心から祝福を述べたいと思っていました。
 ところが、もうすでに、氏は、そこを出たあとでした。
 それは、街で待ちかまえる熱狂的な歓迎を避けようとするためだったのです。
 人力車に飛び乗ると、わたしは、氏の宿泊しているホテルへ行きました。
 わたしは、うまいぐあいに、その住所を手にいれていたのです。
 なんというめぐり合わせでしょうか。
 オヘンバッハのカービン氏のように、折りよく着いたときには、鳥は、もう飛び立ってしまった後でした。
 氏は、南の大都市での契約を果たすために、夜汽車で去ってしまっていたのでした。
 伊香保に続き神戸でも 、運命の糸はブラックとアダムをつないではくれなかったようだ。

 しかし、アダムさんの本によって、全盛期と思われる頃のブラックの多忙さ、高座のお客さんの反応などがしっかりと伝わってくる。

 初代快楽亭ブラックについて書かれた本が、何冊か世に出ているようだ。

 私は、Jules Adamさんが当時フランス公使館第一書記官であることを発見したのは、Ian Douglas McArthurという人が、「Mediation Modernnity-Henry Black and narrated hybridity in Meiji Japan-」という題のシドニー大学での博士論文だった。
シドニー大学サイトの同論文掲載ページ

 この論文の中で(134ページ)、“Jules Adam,a first secretary of French lagation“とあったのだ。

 この論文は、シドニー大学のサイトでは2002年、となっている。

 しかし、同じ名前、イアン・マッカーサーという人による初代快楽亭ブラックに関する本が、1992年に講談社から発行されているのを発見した。
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イアン・マッカーサー著『快楽亭ブラック―忘れられたニッポン最高の外人タレント』

Amazonの内容(「BOOK」データベースより)には、次のようにある。
ご存じですか、快楽亭ブラックのことを―。青い目の落語家として、一時は三遊亭円朝と天下の人気を二分しながらも、さびしい晩年を迎えざるをえなかったブラックは、ラフカディオ・ハーンとほぼ同時代に生き、そしてハーン以上に、日本文化に多大な貢献をした人物です。ブラックと同じくオーストラリア生まれの著者が、その足跡をたどりながら、波瀾万丈の生涯を描き出します。

 こうなると、この本、どうしても読みたくなる。

 神保町で探すことにしよう。

 また、マッカーサーさんの論文(英語)も、ぼちぼち、読むつもり。

 初代快楽亭ブラックについて、何か新たな発見をしたらご報告したい。

 まずは、興津要さんの『落語家-懐かしき人たち』に端を発するシリーズ(?)は、これにてお開き!

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by kogotokoubei | 2016-03-19 20:27 | 落語家 | Comments(0)
 本題の前に、少し小言。

 ここしばらくのメディア状況には、怒りを超えて呆れている。

 清原がどこの病院に入院しようが、ショーンKとか言うタレントが経歴詐称で予定していた番組を降板しようが、芸能人が不倫しようが離婚しようが、私はまったく興味がない。

 これでもかと、そういったどうでもいいことばかりでメディアが埋められているのは、大事なことからは目をそらさせておこうとする権力者の陰謀ではないか、とまで思っている。
 また、そういったどうでもいい出来事に、同じような顔ぶれのタレントが視聴者代表然としてコメントしているが、偽善者にしか見えないし、彼ら彼女たちだって、いつ逆の立場になるか分かったもんじゃない。だから、テレビ局の望む役割を演じ、期待するコメントを言うことに精一杯。自らの意見など、彼らには存在しないと思った方がいいだろう。

 しかし、なかには、テレビ局に緊張感を与える、「自分の意見を言う人」も、少ないながら存在する。
 早く消え去って欲しいと思う一山いくらのタレントと違って、そういった、もっと発言して欲しい人たちは、テレビ局の権力者への忖度に左右されている。
 政府に批判的なキャスターやコメンテーターの多くが番組改編を機に姿を消すが、実に嫌ぁ~な気がしている。

 メディアは、放送法を持ち出す政府の暴挙を、それほど恐れているのか。
 そんなに、権力を怖がり、忖度し、剣よりも強いはずのペンを引き出しの奥にしまいっ放しにしていて存在意義などあるのだろうか、と思う。
 
 「ジャーナリズム」という言葉が死語になろうとしていることを、3.11から五年経った今、実感するばかりだ。

 3.11という特異日の前後の特番に注力するだけでなく、復興がまったく進まない問題の本質的な原因や、いまだに避難生活を送っている人々の叫び声、福島第一原発の現状、などを継続的にコツコツと伝え、また意見表明をすべきだと思うのだが、そういう姿勢は大手メディアには皆目見られない。

 なぜ、こんなマクラになったかと言うと、これから書く初代快楽亭ブラックは、日本のジャーナリズム史と縁のある人だからなのである。

 もう少し早くブラックのことを掲載するつもりだったが、興津要さんの『落語家-懐かしき人たち』(旺文社文庫)の中から明治時代に書かれた英語の「寄席ガイドブック」と言える、当時のフランス公使館書記官Jules Adamの著『JAPANESE STORY TELLERS』(興津さんの付けた日本語の題は『日本のハナシカ』)を紹介した後で、拙記事にいただいたコメントから、補足とも言える記事を挟むことになった。

 桂文我の本と興津さんの本の和訳の違いから好奇心をいだき、英語原本を検索した結果、国立国会図書館で発見できたのは僥倖だった。
「国立国会図書館デジタルコレクション」の該当ページ
 
 この原本データの14ページに、ブラックの絵が掲載されている。

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 興津さんの本の裏表紙、寄席長谷川亭の看板にも、「英国人 ブラック」と彼の名があるねぇ。

 初代快楽亭ブラックについて、その興津さんの本から紹介。

 興津さんが、『日本のハナシカ』を紹介する文の中で、次のように書いている。

快楽亭ブラック

 後半部分において、当時における異色の落語家快楽亭ブラックにかなりのページを割いているのは、いかにも外国人の著書らしい。
 ブラック(ヘンリー・ジェームス)という人物は、英国ロンドン生まれというが、アメリカ人とも、オーストラリア生まれとも言われる。
 父親のジョン・レディ・ブラックは、明治維新前に横浜へ来て、「The Japan Herald」という英字新聞の編集に従事した。そこで、ヘンリーは、八歳のときに母親とともに来日した。
 同紙は、文久元年(1861)十一月二十三日創刊の毎土曜夕発行の週刊紙であり、横浜における最初の新聞紙でもあった。
 明治五年三月十六日、ジョン・ブラックは、邦字新聞「日新真事誌」を創刊した。
 同紙は、三日ごとの発行で、官公庁公示事項から日本各地の報道、海外ニュースなどのほか、論説を掲載することも多かった。
 発行者が外国人で、日本の法律に拘束されないという治外法権の特権を利用して、日本の風習、制度から政府の政策などを批評することに特色をしめした。
 こんなところから、明治八年になると、外国人が邦字新聞の持ち主や社主や編集者になることが禁じられるにいたったので、ジョン・ブラックは新聞をやめた。
 一旦、英国に帰ったジョン・ブラックは、ふたたび日本に戻り、明治十二年、横浜で死去した。
 再度来日した息子のヘンリーは、ジャーナリストだった父親とは、まったく別の道に進んだ。

 ほらねぇ、ブラックのお父上は、間違いなくジャーナリストであったのだ。

 あえてことわっておくが、引用した部分は、『日本のハナシカ』の内容を紹介しているのではない。
 あくまで、興津さんが書いていることだ。
 『日本のハナシカ』の内容は、後編でご紹介するつもり。

 それにしても、ブラックの父親って、日本のジャーナリズムの歴史に名を残すべき人だよなぁ、と思って検索すると、二年前に岩波から『ジョン・レディ・ブラック-近代日本ジャーナリズムの先駆者』という本が出ていた。
『ジョン・レディ・ブラック-近代日本ジャーナリズムの先駆者』

 学生時代、一度は新聞記者を目指したこともある身として、実に興味のある本。
 お値段、ちと高い。
 そのうち、神保町の古書店で入手できたら、読みたいものである。

 さて、その“近代ジャーナリズムの先駆者”を父に持つヘンリーは、いったい父と違う、どんな道に進んだのか、引用を続ける。

 ヘンリーは、日本において、奇術師柳川一蝶斎の一座にはいり、ハール・ブラックと称して西洋手品師となったがうまくいかず、明治十一年、有楽町の有楽館における政談演説会に出演したことから話芸家としての進路が開けていった。
 当時、自由民権派の荘子たちは、政論に関する文書や演説について弾圧を受けたことから、講談の名目によって政談演説をおこなっていたが、ヘンリーは、その指導に当った講釈師 松林伯円と懇意になった。
 十二年一月になると、ヘンリーは、伯円の世話で、横浜馬車道の清竹亭に出演して注目され、シェークスピアやディケンズに取材した舶来人情咄で人気を高めていった。
 東京でも名の知られるようになった彼は、石井みねの養子になり、帰化して、石井貌刺屈(ブラック)と改めた。
 折りから東京では、<青い眼の話芸家>を歓迎する状況が生まれつつあった。
 江戸時代中期の享保六年(1721)ごろには、江戸の町方人口は約五十万、参勤交代による流動的な武家方の人口が五十余万で、合計が百余万という世界一の大都会であり、農村からの人口移動は禁じられていたので、幕末においても、町方人口は五十九万ぐらいで、たいした変化は見られなかった。
 明治になると、参勤交代がなくなったことから武家方の人口は消滅し、明治六年(1873)における東京の人口は、<江戸っ子>五十九万ぐらいになった。
 これ以後、新生日本の中心地東京には、明治政府の中心勢力である薩摩、長州出身の役人をはじめとして、各地から多種多様の目的で集まって来るひとたちも増加の一途をたどり、人口は、明治十九年に百十二万、二十六年に百二十万を数えた。
 これらのひとたちの大多数は、長い伝統で磨かれて来た洗練された江戸文化に対する理解も趣味も持ち合わせぬひとたちであり、まして、江戸前の いき な人情咄などとは無縁のひとたちだった。
 この種の新しい客層に応じて、三代目円遊のステテコ、万橘のへらへら、四代目談志の郭巨の釜掘り、四代目円太郎のラッパ入り音曲などの珍芸や、円遊の新風俗を ちりばめた 滑稽咄などが人気を集めていたのだから、<青い眼の話芸家>も拍手を浴びる態勢は形成されていた。
 明治二十六年七月、三遊派の客員となったヘンリーは、本郷の若竹と神田の立花亭とで、快楽亭ブラックの看板をあげた。
 舶来人情咄や舶来落し咄を売り物にして、この前後十年ぐらいが、ブラックの全盛期だったようだ。

 父親のこと、そして、彼が日本で話芸にて生計を立てるまで、興津さんの説明で一気に進んだ。

 次に、ブラック自身が、どんなことを語っていたのかを確認したい。
 興津さんの本には、ブラック本人の談話を元にした自伝(「快楽亭ブラック自伝」、明治三十三年十月、文禄堂刊『当世名家・蓄音機』所収)が掲載されている。
 まず、父親のことや、彼自身のことにふれている部分から。

 親父が日本へ参りやしたのは、戊辰より三年前で、はじめて日本へ新聞をこしらえやした。
 こいつは、横浜で、「ヘラルド」といいやして、はじめは組合でしたが、そいが、その中ごろ、折り合いやせんところから、ひとに譲りやして、別にまた、「ガゼット」というをこしらえやした。
 そいから、明治五年、「にっしんしんじし」(注「日新真事誌」)というのを、東京へこしらえやした。
 (中 略)
 そのころ、政府に、左院、正院、元老院という三院がありまして、親父は、この左院御用掛になりやした。
 そいで、その新聞はやめました。
 明治九年でしたか、左院が廃されやしてから、いったん英国に帰りやした。
 そのころ、私は十四、五でしたか、ちょうど英国(くに)におりやして、母といっしょに、ふたたび東京(こっち)へ参りやしたのが明治十一年でした。
 私の郷(さと)は英国のロンドンですが、祖先は、スコットランドのダンフハームリンというところです。 
 いったい親父は軍人でして、先祖は、みな、陸軍に仕えたものですが、商人になったのは、親父がはじめてです。
 親父に連れられて東京(こっち)へ参りやして、しばらく書生同様に遊んでおりやした。
 そのころ、いまは亡くなっておりやせんが、よく演説をする堀竜太というひと、こいが演説が好きで、始終往来(ゆきき)をしておりやすうちに、そいに心やすくなりやして、私にもシコシ(すこし)演説をしたらどうかと言いやすので、一、二度したことがありやした。
 そいから、ほうぼうで、エレンな(いろんな)演説をしやしたが、そのとき、ちょうど伯円(講釈所松林伯円)の全盛のときで、こいも、月二回か三回か、演説しやした。
 なにしろ評判の伯円が演説すると言いやすので、客は、ワイワイ言って騒ぎやす。
 私も伯円といっしょに演説しやしたが、伯円が出やせんと、ちょっとしか客が来やせん。そいで始終、伯円といっしょにしやした。
 こいが、その、芸人と交際しやしたはじめです。
 そいから、明治の十二年の春でしたか、伯円が、横浜の富竹亭でやっておりやすときに、私たずねて行きやした。
 しやすると、伯円は、私に、「オー、ブラック、いいときに来てくれた。さいわい、こいから、ひとやすみするところだから、なにかひとつやってくれないか」と、申しやす。
 私、「なにもかんがえありやせんが、よろしい」と、安請け合いして、まあ滑稽演説をしやした。すると、非常の大喝采で、大当たりに当りでした。
 こいが、その、寄席亭へ出たはじめです。

 この通りの日本語を話していたのなら、ブラックは、言葉遣いの妥当性は疑問もあるが、“まさに青い眼の江戸っ子”でやしたなぁ。

 その後、寄席で演説が出来なくなり、ブラックは講釈師として寄席に出た。
 しかし、周囲の“攻撃”もあって一年ばかりで講釈師をやめ、当時流行ってきた英語を教える学校を芝日吉町に開校した。
 ところが、条約改正が延びたこともあって周囲の英語熱も冷め、あらためて落語家として寄席に出るようになる。
 明治二十四年のことで、「別に、誰に習ったということはありやせん。天然に、まあ覚えたんですね」と語っている。

 当時の落語界に、ブラックは鋭く警句を発している。

 いまの真打ちが亡くなりやしたら、あとを継ぐ者はありやすか。名前は、はばかって申しやせんが、ただいま、先代のあとを継いでる者で、そいに劣らぬようやってる者がありやすか。こいからのちでも同じことです。
 小円遊は、円遊(三遊亭)のあとを継げやすか。りう馬(土橋亭)、金馬(三遊亭)は、まあ真打ちになれても、こいらは中看板で、とても大看板の値打ちはござりやせん。
 そいで、円遊のあとは、誰が継ぎやしょうか。円生(四代目三遊亭)、円喬(橘家)が亡くなったら、そいがあとは、誰がなりやしょうか。
 見渡すところ、ひとりもござりやせん。このぶんでゆくと、落語界のために、まことに気の毒なことでござりやす。

 結構、はばからずに名前を出している(^^)
 
 四代目円生は、弘化8(1846)年の生まれで、19歳で円朝に入門し、明治15(1882)年に四代目円生を襲名した人。円朝亡き後は三遊派の総帥を務めた。
 四代目円喬は、名人の誉れ高い人だが、四代目円生より19歳も若い慶応元年(1865)の生まれ。なんと9歳で円朝に入門し、円喬を襲名したのは明治20(1887)年のことだ。

 ブラックは客としても彼らの高座に触れただろうし、講釈師、落語家として寄席で一緒になったことも多かったに違いない。

 円朝門下の優れた当代の落語家の後を継ぐ者が見当たらないことを、ブラックは深く案じていたようだ。

 そういう落語界の将来への危惧からだろうか、ブラックは、円朝を訪ね、弟子の育て方を尋ねたと語っている。

 私は、一度、円朝のところへ参りやして、落語は、いったいどういうぐあいにして、弟子に教えたかと聞いたことがございやした。
 そいで、この、円朝の話によりやすと、この落語を教えるには、はじめ小噺をきかせて熟練させやした。
 その小噺にも、エレンな(いろんな)種類がござりやして、まず婆(ばばあ)のことを言わせやすにも、こいがその、そこは、婆があらわれて出て来るまで話させやす。
 婆にも、わるいものもあり、おとなしいのもありやすが、わりい婆なら、わりい婆、おとなしいのなら、おとなしい婆と、話してるうちに、そいが、目の前に、別々に活きて出て来るかと思われるよう、十日でも二十日でも、そいがその、十分出来るまで勉強させたそうで。
 そいから、新造、細君、後家、子供衆、武家、職人、町人、そのほか、いろいろの種類の人間を、ひとつに、はっきりと話しわけられるように仕込みやす。
 そいでこの、小噺が、すべて百五十ばかりもありやす。
 こいを十分にのみこませて、はじめて本落語(ほんばなし)にかかったそうですが、この本落語になると、前に小噺のうちに覚えた人物の写し出し方によって、こいはこう、あれはああと、苦もなくかんがえあわしてゆきやすから、そいで、落語が面白うござりやす。また、進歩も早うござりやす。弟子を教えるには、こいでなくてはいけやせん。
 いまの落語家は、この教えるてえことは致しやせん。

 円朝については、数多くの著作があるが、彼の弟子への教授方式に関するブラックの話は、実に貴重ではなかろうか。

 日本の近代ジャーナリズム史において名を残す父親とは、まったく別な道を歩んだ快楽亭ブラック。

 後編は、『日本のハナシカ』より、当時、ブラックを客として見て聴いていたフランスの外交官アダムさんが、彼をどのような存在と思っていたかをご紹介したい。

 アダムさん、結構ブラックの“追っかけ”に近かったようだが、果たしてブラックに会うことができ、話すことはできたのであろうか。
 
 さて・・・本日はお時間がきたようで、これまで。

 続きは次回のお楽しみ。またのお越しをお待ち申し上げます。

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by kogotokoubei | 2016-03-18 21:16 | 落語家 | Comments(4)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛