噺の話

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落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。

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 大西信行の訃報に接してから、関連する本を読みなおしている。

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正岡容『東京恋慕帖』(ちくま学芸文庫)

 正岡容の『東京恋慕帖』は、昭和23年に好江書房から初版が発行され、平成16年に、ちくま学芸文庫で再刊された。

 佳き時代の東京のことを、著者ならではの筆致で描く内容なのだが、川柳や俳句がほどよく挟まれていて、飽きることがない。

 「口上」が桂米朝、「序歌」を吉井勇、という豪華な顔ぶれ。

 その「序歌」の一つを紹介。

団子坂に観潮楼のありし頃いまも恋ふなりこの書(ふみ)を読み

 ちなみに、Amazonを確認したら、『落語無頼語録』と同様、唯一のレビューはブログを始める前に私が書いたものだった。

 この文庫の巻末に桂米朝、小沢昭一さん(この方には“さん”を付けるのだ)、そして大西信行という三人の正岡門下生の鼎談がある。
 
 この本は、この鼎談だけでも価値がある、と思っているくらいだ。

 ブックレビューを書いた頃は、お三方とも、ご健在だったのだなぁ・・・・・・。

 鼎談から、大西、そして小沢さんが正岡と初めて会った時に関する会話を引用したい。

米朝 だいたい気の弱い人でしたからね。大きな声をはりあげるっていう人は気が弱い。
小沢 僕らも初めて行ったときは、とってもやさしく迎え入れてくれましたネ。あれは、どうだったんでしたかね、僕はもうウロ覚えなんだけど。
大西 戦争が終わって、新宿の末広亭が友の会式の会員組織を作ろうと思ったんです。
小沢 そうそう。末広会って会でしたネ。そいで三十一日に特別な会を開いてね。
大西 いや、三十日会ってのをやったんです。
米朝 ミソカ会ってやつネ。
大西 だけどその前にだね。末広会ってのを作って、会員になると優待券が出ますよなんかいって客を集めた。真山恵介さんが当時末広亭の支配人で。そこへ落語の好きな僕だの昭ちゃんが入り込んだわけですヨ。ある年の正月に、今でも憶えてるけれど七十円の会費で末広亭の新年会をやった。
小沢 あのねー、末広亭のはす前のなんとかっていう店・・・・・・。
大西 仙力とかいう。
小沢 そう、その仙力の二階。
大西 二階ってあそこは平屋だったんだよ。トントン葺きの、奥の座敷で。
小沢 アー、二階なんかまだ建てられない時代だったかね。
大西 七十円の会費というのは高かった。
米朝 その時分はねエ。
大西 ヤミの酒が出て、ヤミの料理が食えるっていうんですけどね、とても中学生の小づかいで払える会費じゃないんだが、当時うちでヤミの商売したりしていて、それをぼくも手伝っていたから、ドサクサまぎれに札をポケットへねじ込んだり出来た。中学生はもちろん、大学生探したって、ぼくのほかにやアいませんよ。貴重なヤミ酒が一人一人についているけど、子供だから、飲めない。
米朝 いまかてあんた飲めん人や。
大西 どうぞぼくの分、あがってくださいってやると、大人は喜ぶわけですヨ。じつにどうも感心な学生さんだって(笑)。
小沢 文楽さんが、僕等にね、今のお若い学生さんで落語が好きとは、これは見上げたお志って、ね。
大西 そう。文楽さんが正岡に“こちらはいずれ先生のとこへ行く方ですよ”と例の口調ですよ。
小沢 そうそう例の口調で。
大西 いってくれた。そしたら、ウフッなんていって、正岡が、“拙宅へもチトお遊びにいらっしゃい”と名刺をくれた。正岡が好きでよく著書の目次なんかに使っていた宋朝体の活字で正岡容と刷ってある、すっきりしたいい名刺でね。

 その後、あの文楽に「見上げたお志し」と持ち上げられた二人は、市川にあった正岡の自宅を訪問することになる。

 市川市のサイトによると、下記に引用したように、正岡が市川に住んでいたのは、昭和二十年から二十八年の頃らしい。
市川市サイトの該当ページ

正岡 容 まさおか・いるる 小説家・演芸評論家
1904(明治37)~1958(昭和33)
〔1945(昭和20)~1953(昭和28) 市川市真間在住〕

 戦前から、和田芳恵(わだよしえ)(1906~1977)、歌人・吉井勇(よしいいさむ)(1886~1960)らと交流のあった正岡容が、市川に越してきたのは、1945年(昭和20)11月、川柳作家・阪井久良伎 (さかいくらき)(1869~1945)の世話によるものでした。
 19歳で発表した「江戸再来記」(1922)が芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)に認められる一方、寄席(よせ)芸能、落語、浪曲などの創作・研究活動を多く行いました。
 『随筆百花園』(1946・昭和21)、『荷風前後』(1948・昭和23)には、転居した市川での生活模様や、永井荷風をはじめとする交友関係が、感慨深く描かれています。
 また、弟子の中から、演芸評論家・小島貞二(1919~2003)らが、活躍しました。

 文中の阪井久良伎は、『東京恋慕帖』の中にも掲載されているが、三代目金馬『居酒屋』のマクラで有名(?)な、「居酒屋も ひと刷毛塗って バーとなり」の作者。
 
 この記事にあるように、『びんぼう自慢』の小島貞二さんも正岡門下生。
 昭和22年から55年間市川に住み、名誉市民でもあった。
 だから、正岡門下となるには、地の利もあったのだろう。

 大西と小沢さんが市川を訪ねた後、麻布中学の友人である加藤武も仲間入りする。

 二人の中学生が、ヤミ酒が売り物で決して安くない会費の新年会に参加したことで、文楽が「例の調子」で正岡容への橋渡しをしてくれたのが、正岡門下生となるきっかけだったなんて、なんとませた中学生であり、なんとまぁ贅沢な出会いであったことか。

 大西信行も小沢さんも、正岡門下になっていなくても、あれだけの業績を残すことは出来たのだろう。

 しかし、中学時代、あの敗戦後間もない末広亭の新年会での文楽や正岡との出会いは、その後の正岡門下生としての交流につながり、間違いなく、お二人の人生をより豊かなものにしたに違いない。

 テレビ番組のお題じゃないが、「その時、歴史は動いた」のだ。

 それにしても、この鼎談、肉声が聞こえてきそうな気がする。
 会話の“間”なども、なんとなく分かるように思え、楽しい。
 末広亭の新年会の場所に関し、小沢さんが「仙力の“二階”」とおっしゃったら、大西が「平屋」と否定する件では、『転宅』のまぬけな泥棒と煙草屋のおやじとの会話を連想してしまった(^^)

 先日紹介した、『落語無頼語録』の著者プロフィールの一部を、ふたたび引用する。
1932年 麻布中学に入学して、小沢昭一、加藤武、堺正俊(フランキー)たちふしぎな級友おおぜいを得た。

 なんともすごい顔ぶれが、同級生にいたことだろう。

 今頃は、天国で同級会の最中か。
 
 この顔ぶれでは、ネタは尽きそうにないなぁ。

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by kogotokoubei | 2016-01-27 20:33 | 落語の本 | Comments(4)
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大西信行著『落語無頼語録』

 先日、大西信行の訃報に接し、彼の著書『落語無頼語録』の「あとがき」を引用した。
 それは、彼にとって落語とはどういう存在なのかが実に赤裸々に書かれていたからだ。
 その中で、この本を“怒り”をもって書くという、執筆の姿勢のような表現があった。

 昭和48年から49年にかけて『話の特集』に連載された内容が中心となる本書は、読んでみると、決して彼が「あとがき」で書いているような“怒り”より、落語と落語家への愛情で満ちているように思う。

 “怒り”は、あくまで永六輔の言葉、「大西さんがなにかに対して怒っている時が好きだな」という言葉への返答として出てきたものなのだろう。

 もちろん、批判的な内容もあるし、どんな大御所、名人にも歯に衣着せず思ったことを書く姿勢は明白で、それをもって“怒り”と表現しているのかもしれない。

 この本の得難さは、その批評精神もそうだが、落語家から生で聴いたこと、じかに体験したことを元に大西が記している内容の貴重性や、会話の臨場感にもあるように思う。

 たとえば、本書の『志ん朝有情』に次のような部分がある。

 外交官になる筈の美濃部強次は、やはり落語家になって、さすがにうまいという評判を耳にするようになった。立川談志が柳家小ゑんの頃で、安藤鶴夫が小ゑんはうまいとなにかに書いて、そのために、
「小ゑんのやつ、気が違っちまいやがった」
 と楽屋で連中が苦笑まじりに噂をしていた時分のことだ。
 芸人たちの気が違ったという表現は、自惚れて頭に血がのぼって、俗に天狗と称ばれる状態のもう一段病的に嵩じた症状である。
「若いものを、だからむやみと褒めちゃいけません」
 いつになく文楽が苦い顔で言っていた。
 そうしたことへの反省もあったのだろう、金原亭馬の助が志ん朝ってそんなにうまいのとぼくがきいたら、
「年の割にしたらね・・・・・・」
 と、うなずいて、そのあとすぐ、
「でも、あの年にしたらって、チャンと書いてくれないからね、批評家は。それで物が間違っちゃうんです」
 それこそ年の割にしたら、ひどく分別くさい表情で馬の助が言ったものだった。
 談志が小ゑんを名乗っていたのが昭和29(1954)年から昭和38(1963)年。
 志ん朝が入門し真打に昇進するまでは昭和32(1957)年から昭和37(1962)年。
 金原亭馬の助は昭和3(1928)年生まれなので、この大西への発言があったのは昭和32~33年だろうから、たしかに三十歳前後。
 「ひどく分別くさい」という指摘は、なるほど妥当だろうが、その馬の助が指摘する内容も、これまた妥当だろう。
 
 思うに、今のネット時代は、馬の助が言うような「物が間違う」ことはもっと多いだろう。
 評論家や芸能人と言われる人たちは、何かあるとコメントを求められたり、つぶやきさえ勝手に引用されたりする。
 実際に語った内容を聞き手が省略し肝腎な一片がかけてしまうこともあるだろうし、本人が言葉足らずに“呟く”ことだってあろう。
 
 引用した小ゑん時代の談志のように誤解して有頂天になるならまだましで、ネットでは批判的内容の方がすぐに蔓延するから、その真意を分からず気落ちしたり、果ては心の病気にかかる人もいるかもしれない。

 さて、話をこの本に戻す。
 本書には、あの小金治さんについて書かれた章もある。

 昭和27年に映画界に入った小金治さんが、十年以上も後に落語会を開いたことを、私はこの本で知った。
 『小金治はむかし・・・・・・』から引用。

 39年4月、桂小金治は新宿の安田生命ホールで落語の会を開いた。ぼくらはそれを落語界へ戻りたい小金治のリサイタルだと思ったものだが、その会で小金治はこれはもう落語はやりませんと言う会なのだと言った。
「落語は人気のつながりに乗っかってやれるもんじゃありませんから・・・・・・」
 と、小金治は、もう一度落語界へ戻る気はないのかとたずねたぼくに答えて言った。
 一年か二年、みっちりと稽古をしなおせば、君にだったら出来るだろうと言いかけて、それは言わずに、久しぶりで逢った小金治に別れを告げた。
 いっぺんに十人もの真打をつくらねばならないまでにふくれ上がった落語界が、小金治を決して悦び迎えようとはしないだろうと思ったからだ。いまさら小金治が帰って来たって・・・・・・そんな思い上がりが、充満しているいまの落語界なのである。

 私は、小金治さんの最後の高座に接する僥倖に恵まれた。
2011年9月30日のブログ
 あの時、小金治さんが『渋酒』を最後に落語をやめる、と泣きながらおっしゃった後で、この昭和39年の会のことも脳裏をよぎったのかもしれない。

 引用した「いっぺんに十人もの真打」というのは、昭和48年9月に、落語協会の集団真打昇進の第一弾があったことを指す。
 この時、円生は大量昇進に抗議し、昇進した好生など弟子に真打昇進披露などの公式行事への参加を欠席させた。

 昭和53年の騒動の火種は、この頃からあったのだ。

 大西の文章からは、彼の心情は円生に近いものがあったように察せられる。
 大量真打には、反対だったのだろう。

 しかし、それに抗議した円生が、その五年後に落語協会を脱退する騒ぎになるとは、彼は予想だにしなかったに違いない。
 あの騒動や、落語協会に残った師匠そっくりと評された三遊亭好生が、その後に春風亭一柳と名を替え、円生が没した二年後に自ら生命を断ったことなどについて、大西は何か書き残しているのだろうか。
 
 さて、引用の三つ目は、著者の落語や芸能に関する批判精神が如実に表現されている章、『はばかり乍ら三遊亭円朝』から。

 三遊亭円朝の『牡丹燈籠』を文学座が上演する。脚本はぼくが書いた。
 新劇で円朝の作品をとり上げるのは、はじめてのことである。しかし・・・・・・ 文学座が『牡丹燈籠』を上演企画のひとつに拾い上げたのは、円朝の作品だからではない。
『おさい権三』など近松の作品を上演して来たその流れの上に、すでに他の新劇団が手をつけてしまっている南北のではない著名な怪談をという狙いが交叉して、『牡丹燈籠』をやろうということになったものである。
 近松や南北の作品がひそかに持っている新劇人好みのドラマを、円朝の『牡丹燈籠』も内蔵していると考えるのは、だから、少しく危険だろう。
 第一、三遊亭円朝の作品が、過去はともかくも、今日それほど広く読まれているとは思えない。
 それほど深く読んでもいない人たちが、一部の研究者、信奉者の論をそのまま借用して、三遊亭円朝に対する評価を定着させてしまっているのではないかと、思えるふしがある。
 そうしたことが行なわれるというのは、つまり、三遊亭円朝ならびに落語あるいは人情ばなしなどというものは、まだあくまで特殊な、ごく狭い限られた世界でだけしか研究論議されていにものだということだろう。
 しかし-
 三遊亭円朝だけではなしに、そのほかいろいろな分野で、おなじような評価のされ方が、日本ではありがちなのだともいえよう。
 たとえば、あの役者はうまいとだれかがいうと、いつの間にかみんながその役者をうまいというようになり、いったんうまいといわれた役者のやったことだと全部が全部名舞台名演出だと、だれもが疑いをはさむこともなく信じこまれてしまう。そんなバカバカしい現象が、日本という風土には生じやすいもののようだ。
 そのことをひどく不愉快だとも、恥ずかしいことだとも、たまらなくいやだとも、ぼくは思っている。
 あの文楽にだって出来の悪い高座はあった。名優菊五郎も舞台を投げた日があった。
 いや、その日その日の出来のよし悪し以前に、主題の把握の誤りや、役づくりの失敗も、どんな名優名人にもなかっとはいえない筈だ。
 それを正しく判断する目を耳を、みんながみんな失くしてしまっていては困る。
 三遊亭円朝にしても・・・・・・

 ここでは、大西は、“怒”っているように思えないでもない。
 しかし、それは、まさに彼の批評精神が表出されたものだろう。
 とはいえ、その感情は、あくまで落語や芸能への深い愛情の裏返しだと思う。
 
 そして、一部の人の評価を疑うこともなく真に受けて、名人名優の高座や舞台がすべて良い、と思いがちな人々への貴重な警鐘となっている。

 この文章を再読して連想したことがある。

 立川志の輔や立川談春についての世間の評価について、私は疑問を抱いている。

 両者とも、今もっともチケットが取りにくい噺家と言われ、その高座がすべからく素晴らしい、とでも言うような世評が蔓延しているように思う。

 一部の「信奉者」の論を受け売りする風潮があるようで、私には気に入らない。
 “褒め殺し”という言葉があるが、無批判に褒めているだけでは、その芸人さんのためにならない。
 それは最初に引用した文章の中の文楽の言葉にも、相通じるものがある。

 この二人、かつては、取りにくいチケットを入手し、独演会などにも行ったことはある。
 ただし、志の輔はブログを書き始める前年と前々年に数多く行っており、記録が残っていないのが残念。

 良い高座もあった。流石、と唸ったこともある。
 しかし、もちろん不満を感じたこともある。

 談春については、3.11直前の成城での会を思い出す。
 その記事は、ずいぶん後になって公開した。
2011年4月20日のブログ

 拙ブログで志の輔に関しては、高座のことより、パルコの会のことへの小言を何度か書いた。
 実際に聴いたことはないが、テレビで観たことはある。
 古い記事で恐縮だが、2010年にテレビで観た感想を含めて記事を書いたので、ご興味のある方はご参照のほどを。
2010年3月23日のブログ

 同じ三席を二十日間も演じるあの会そのものについては、高い木戸銭のことも含め、何度か批判的に書いてきた。

 パルコに関するメディアの礼賛記事は多いが、私はあの会を批判的に書いた記事にお目にかかったことがない。

 会場の改装を機にパルコの会はいったん終了するらしいが、私は終わって良かったと思っている。

 しばらくしたら、ぜひ、違う形で志の輔の挑戦を期待したい。
 一日三席、十日間違うネタの「志の輔三十席」なんてぇのも、いいじゃないか。

 立川の二人については、これ位にして、本書のこと。

 この本を再読し、あたためて大西信行という人は、落語と芸能の鋭い目利きであったのだなぁと思う。

 この本の内容については、今後も書くつもりだ。

 その文章からは、世の風潮や他人の論などには惑わされない批評精神が横溢しているし、何より彼が落語を心底愛し、落語家が好きでたまらないことが伝わる。

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by kogotokoubei | 2016-01-26 12:54 | 落語の本 | Comments(2)
 昨日は大寒。

 三年前の大寒の日、大鵬の訃報に接し、次の虚子の句を含む記事を書いた。
2013年1月20日のブログ

大寒の埃の如く人死ぬる

 「大寒の埃」とは、寒く乾燥したこの時期に、人が少し動いただけでも埃がたち、ガラス窓から刺す陽に、無数の埃がキラキラと舞っている様子を表す、とどこかで読んだ気がする。

 それだけ、多くの人の訃報に、この時期の虚子は接していたのだろうか。

 この句は、昭和15年、高浜虚子が六十六歳の時の作。
 太平洋戦争開戦の前年、盧溝橋事件以降の日中戦争が泥沼になっていた時期だ。虚子の知り合いの死を想ってなのか、戦争の犠牲者を想定したのかは分からない。あるいは、一年でもっとも寒い季節ということが背景にあるのだろうか。

 
 そんな寒い季節、今年も残念な報に接してしまった。

 正岡容門下生で、東京やなぎ句会の一員でもあった大西信行が、今月十日に旅立っていたらしい。
 時事通信の記事を引用する。
時事ドットコムの該当記事

脚本家・劇作家の大西信行氏死去

 大西 信行氏(おおにし・のぶゆき=脚本家、劇作家)10日、膵臓(すいぞう)がんのため静岡県長泉町の病院で死去、86歳。東京都出身。葬儀は近親者のみで済ませた。
 文学座の「怪談牡丹灯籠(ぼたんどうろう)」など多数の劇作を執筆、「御宿かわせみ」(NHK)、「大岡越前」「水戸黄門」(TBS)など人気テレビ番組の脚本も手掛けた。昨年の歌舞伎「怪談 牡丹灯籠」の脚本が最後の仕事となった。(2016/01/21-22:56)

 先週の三代目に続く訃報だが、亡くなった日は、一日違いだ。

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大西信行著『落語無頼語録』

 大西信行のプロフィールは、著書『落語無頼語録』(芸術生活社、昭和49年初版発行)の内容が、もっとも相応しいと思うので、引用したい。間違いなく、自分で書いたのだろう。
 ちなみに、Amazon唯一のレビューは、ブログを始める前に私が書いたもの・・・・・・。
 二年後の昭和51年に角川で文庫化もされているが、古書店でさえめったに見かけない。
 この本、ぜひ再刊して欲しいものだ。

大西信行

 1929年 東京神楽坂で生まれた。
 1932年 麻布中学に入学して、小沢昭一、加藤武、堺正俊
     (フランキー)たちふしぎな級友おおぜいを得た。
 1946年 正岡容のもとへ出入りするようになる。
 1949年 早稲田大学文学部国文科に入学。今村昌平、北村和夫たち
      いい友だちがふえた。・・・・・・だのに大学はやめた。
 1954年~65年 NHK芸能局勤務。
     以後、劇作、演出、シナリオライターを業とする。
 著書 「中学生日記」(NHK出版)
     劇作集「牡丹燈籠」(三一書房)

 なんとなく、あったか~い、内容。
 本の著者略歴として、こういう内容は結構稀有だと思う。

 『落語無頼語録』は、昭和48年から『話の特集』に連載された内容が中心。

 この本を書く背景について、「その人たち-あとがきに代えて」から引用したい。
「落語のことを、このへんでまとめてみなさいよ」 
 と、小沢昭一が言った。
 昭ちゃんにすればぼくが中学以来とっぷりと落語に溺れこんでいながら、落語についての発言もいろいろとしていながら、なんらそれについてのまとまったものを残せずにいることを、焦立たしくきっと思っていてくれたのだろう。「ぜひこれを機会に、ねえ、そうするようになさいよ」と、かさねて言ってくれた。
 だがぼくにとっての落語は、それをまとめるといった筋合いのものではないと、ぼくは考えている。大袈裟に気どって言えばバック・ボーン、ふるさと、基盤、なんでもいいや、つまりそうしたものなのであって、それをまとめるよりはそれを土台に据えてその上へぼくなりの仕事を花咲かせ実らせもしたい場である。
 第一器用にまとめるのは苦手だし、悪くまとめるにはなんにつけても嫌いな性質だから、
「まとまらないと思うけど、では落語と落語家のことを毎月書かしてもらいます」
 と、ぼくは言った。
 たしか第一回の「六輔その世界」というバラエティ・ショーを新宿の厚生年金ホールで開催した、その慰労パーティ、朝鮮料理屋の入口に近いテーブルで-だったと記憶している。
 永六輔さんと昭ちゃんが雑誌『話の特集』の矢崎泰久編集長をぼくに紹介してくれて、矢崎氏が『話の特集』にぼくの書いたものを連載してあげましょうということになり、なにを書くかの相談を四人でしていたのである。
「ぼくは・・・・・・」
 と、永さんが、落語と落語家のことを書くとぼくが言ったあとすぐ、
「大西さんがなにかに対して怒っている時が好きだな」
 と、そう言ってくれた。連載するに当ってのぼくの姿勢をそういう言い方で示唆をしてくれたものと承知をして、わかりましたとうなずいてから、
「精いっぱい怒りながら書くことにします。落語にも落語家にも怒りたいことはたくさんありますから-」 と、ぼくは答えた。

 このあとがきから、大西信行にとって落語がどういう存在であったかが、深く伝わる。
 本書、ご本人がこう書いているほど「怒り」は見受けられない。

 麻布、そして早稲田の級友であった小沢昭一さんが、本書の仕掛け人だった、ということだ。
 
 今思うと、私が小言幸兵衛などという名を使って、やや批判的精神で落語や落語会のことを書こう、などと偉そうにブログを始めた時、この大西信行の「怒り」ながら書くという言葉を、少し意識していたのかもしれない。

 ある大ホールでの落語会への小言から、このブログは始めている。

 寿命が長くなった今でも、八十六歳なら往生と言ってもよいのだろう。

 昨年10月5日に、加藤武の文学座劇団葬があった際、最初にお別れの言葉を述べたのが大西だった。
 産経のサイトにある「終活WEB ソナエ」に、その時のことが掲載されている。
 最後の言葉のみ、引用。
産経新聞サイト内「終活WEB ソナエ」の該当ページ
 加藤さん、私もすぐそっちへ行きます。そうしたら、早稲田にいたあの時と同じように、みんなを今いるところへ連れて行ってくださいね。それを楽しみに、逝(ゆ)く日が来るのを待っていますからね。加藤さん、タケちゃん、本当に長い友情をありがとうございました。さようなら。

 天国では、加藤武を含め麻布の級友、早稲田の仲間たち、そして落語家など多くの人々が、「遅かったじゃないか」とばかりに待ち受けているのだろう。

 第二回が放送されたNHK BSプレミアのBS時代劇「大岡越前 3」でも脚本を担当されていた。
NHKサイトの該当ページ
 先ほどまで観ていたが、「うそつき女と若様」は、客演が浅野温子と贅沢。
 冒頭タイトル表示の後のクレジットロール最初に、「脚本 大西信行」と出ていたのを見て、なんとも言えない気持ちになった。

 それにしても、新聞などのメディアでの大西信行の訃報の扱いは、私が思うに、実に小さい。

 「芸能」担当記者は、あの五人組のことやら不倫タレントのことで忙しいのかもしれないが、「芸能」とは無縁の、まったく些末なことでしかない。

 「芸能」ニュースは「タレント(芸能人)のゴシップ」、ではない。
 
 芸能とは何かを勘違いしている今日の芸能記者たちは、彼を語るだけの経験や知識など持っていないのだろう。

 芸能を語れる人があまりにも少なくなってきた今日だから、なおさら大西信行の存在は大きかった、と私には思える。

合掌

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by kogotokoubei | 2016-01-22 21:36 | 幸兵衛の独り言 | Comments(6)
 一昨日は、柳家小満んの三席を堪能した。

 なかでもトリネタの『御慶』の楽しさは格別だった。

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『古典落語 小さん集』(ちくま文庫)

 ちくま文庫の『古典落語 小さん集』は、筑摩書房が昭和43(1968)年から昭和49(1974)年にかけて発行した「古典落語」の第一期と第二期の計10巻から再編集して平成2(1990)年に文庫で発行されたもので、飯島友治の編集。

 この本には十八のネタが収録されており、各演目の前に編者の解説や用語の説明が掲載されている。

 その一席目が、『御慶』だ。

 この本では、小さん、八五郎が裃を買いに行った市ヶ谷の古着屋、甘酒屋でのやりとりも、刀屋での会話も含んでいる。

 たまたま私の持っている音源で本人が割愛したのか、編集でカットしたということなのだろう。

 これだから、落語を本で読むことも重要なのだよなぁ。

 しかし、本書では甘酒屋に、紋の例として「菱形とか、いろいろございます」と小さんは言わせている。
 小満んは、「霰(あられ)や鮫」と言っていた。
 小さんも、時にはこういう紋の名を語っていたのかもしれないし、小満んの工夫なのかもしれない。

 そう、噺家には、工夫が必要。

 この噺の解説で、五代目の小さんが、四代目に継承されてきた元の噺から、自分なりの工夫を加えていたことが明かされている。

 興味深い内容なので、引用したい。

 小さん師は二ツ目の小きん時代、師匠である四代目小さんの絶品といわれた『御慶』を聞き覚え、そのままの型で二ツ目時代から演っていたが、その後、諸所に手を加えて現在のものとした。たとえば、八五郎が「御慶」「永日」を大家から習う件は、江戸時代からの演出では〔もちろん四代目小さんの演出でも〕富が当たったその日に、家賃を払いに行って教わるが、小さん師は裃を着て年始に行って教わるほうがおもしろみがあると改めた。また、八百両を貰い、しまい込む場面でも、四代目は股引を脱いで、その中へ入れて帰るように演っていたけれども、小さん師は着物の袖や懐や背中のほうへ入れて、それをかかえるような滑稽な仕草におき替えている。
 
 あら、五代目、見事にネタを磨いていたのだ。
 小満んも、五代目の型で演じた。

 サゲも、元ネタは違っていたのを五代目が今の型にしたようだ。

 サゲは、以前は「御慶ッ」を「何処へ」と聞き違え、「御慶てェのだ」とさらに一つ押し、「初卯の帰りよ」とサゲていた。すっきりとして、初春の噺にふさわしいサゲであったが、「初卯」という言葉が一般になじみがなくなったので、師匠は「恵方詣りに行ったんだ」と変えている。もっとも、「恵方詣り」も今の人には耳遠い言葉になってきているけれども、サゲとしては合理的である。

 繰り返すが、本書の元本「古典落語」は昭和43年発刊。
 文庫化は、平成が始まってすぐのこと。
 
 今や「初卯」も「恵方詣り」も、死語化しつつある。
 「初卯」は、私も知らなかった。ご興味のある方は、亀戸天神ホームページの「年中行事」をご参照のほどを。
亀戸天神HPの該当ページ
 「源氏物語」にも出てくる、歴史ある行事らしい。

 古典落語は、そもそも「お古い」噺。
 元ネタの魅力を踏まえた上で、どう自分なりに磨いていくかがそれぞれの噺家さんの手腕にかかっている。
 「お古い」ものの魅力のままに、聴くものを落語の舞台に連れてってくれれば、それも良し。
 また、本来の可笑しみをより深く掘り下げて、ややデフォルメ気味に爆笑落語に仕立ててくれる高座も結構。
 今では通用しない言葉や風習、文化などをマクラでの適度な仕込みによって疑問が残らぬようにし、その噺の魅力を伝えることだって、生半可なことではない。
 あるいは、そういった「お古い」末節部分を改作した上で、そのネタの味わいを損なわずに聴かせてくれるなら、その工夫も評価されて然るべきだろう。

 聴く側が、「なるほど」と思えるのなら良いが、「それはないんじゃない」と裏目に出ることだったあろう。
 もちろん、そういった試みは一回こっきりじゃないし、客層、場所、時期などの環境にも左右される。

 紹介した五代目小さんの改作は、いずれも「なるほど」、と思わせる。

 「御慶」「永日」を、元旦に裃姿で大家に挨拶に行った際に教わる方が、その姿を聴く者が映像化しやすいだろう。
 三十二もの“切り餅”を股引を脱いでしまい込む姿は、あまり良い絵にならないし、この噺の本筋の可笑しさでもない。少し品を良くした上で、本来の可笑しみを損なうことないようにしている。
 サゲは、その時代にはなかなか伝わらない言葉、行事を言い換えて、より分かりやすい内容にしたわけだが、馴染みのない言葉でのサゲでは、お客さんの“腹”に落ちないから、こちらも吉と出ているだろう。

 ただし、今後この噺を演じる若手が、「恵方詣り」を「初詣で」に替えそうな気がするが、できれば、「恵方詣り」は残して欲しいものだ。

 私は、五代目小さんという人が、ネタにこれほど手を加える人とは思っていなかった。

 小さんが、噺は生き物であることを十分に認識し、古くから継承するネタに独自の工夫を重ねてきたのだと、あらためて認識した。

 本書を読んで、「(古典)落語って、生きているんだなぁ」と、今さらのように思うのだった。

 対照的とは言わないが、この噺の別な演者の内容について。
 それは、志ん朝の音源。
 昭和54(1979)年12月8日の「志ん朝の会」の高座。

 なんと、志ん朝は、大家に御慶を教わる場面を、たまった店賃、ちなみに八つ、を払いに言った際に設定している。
 つまり、四代目の型。
 加えて、八百両の運搬方法。
 八五郎は股引を脱いで、「おあしにおあしを入れる」と洒落を飛ばして、端を結んで首にかけて持ち帰るのだ。
 股引、これまた、四代目の型。
 ちなみに、甘酒屋、刀屋の場面は割愛している。八百両は五十両包みと二十五両の切り餅の混在。

 この音源は、なんともスピード感溢れる素晴らしいもので、あらためてこの人の凄さを再認識させる。

 志ん朝が、五代目小さんの工夫を知らないはずはないだろう。
 あえて四代目の内容に戻して演じたと察する。
 しかし、古臭くもなく、品もある。
 とにかく、楽しい。

 替える工夫もあれば、替えない工夫もある、ということを強く感じた次第。


 そうそう、小満んの会の記事で、「何か忘れたなぁ」と思っていたら、本書を読んで思い出した。

 五代目の型通りに小満んも、そして志ん朝も、大家が八五郎に「御慶」を教える際、芭蕉門下で蕉門十哲の一人、志太野坡(しだのば)の句「長松(ちょうまつ)が 親の名で来る 御慶哉」を挟んだ。
 長松は、丁稚の代表的な名として使われている。
 かつて奉公していた丁稚が、実家の親の名を継いで、かつての奉公先に新年の挨拶に来た、ということ。
 この場面のこの句は、ぜひ今後も残したままにして欲しい。
 私は、基本的に「古い」ものが好きなのだ。

 「正月二十日も過ぎて、何が御慶だ」とお思いの方に、やはり、お古いお話。
 旧暦で今日は12月12日。旧暦元旦(春節)は、2月8日。

 「御慶」の出番は、実は、これからなのである。
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by kogotokoubei | 2016-01-21 20:46 | 落語のネタ | Comments(2)
 今年最初の関内での小満んの会。

 通算で131回目らしい。すごい数だ。

 会場に着いた時にはすでに開口一番の最中。
 11月の会で今年の会員証を頂戴していたが、未納だった年6回分の会費(一万円)を支払った。少し、すっきりした気持ち。
 ロビーでホール近くのコンビニで買った肉まんを食べ、前座さん(三遊亭あおもり?)の『子ほめ』のサゲをモニターで確認してから中に入った。

 六分ほどの入りだったろうか。五割は超えていたと思うが・・・・・・。
 ホールのHPで確認すると264席らしい。やや器が大きいのだから、「池袋なら大入り」と思うことにするか(^^)

 上の大ホールでは、雀々、昇太、一之輔の会が行われていたようだが、さてどの位の入りだったものか。その一部でも、地下に降りてくれればと思わないでもないが、小満んの良さを分からない人には、聴いてもらってもしょうがないか。

 ネタ出しされた三席、順番に感想などを記したい。

柳家小満ん『城木屋』 (25分 *18:46~)
 この噺では、昨年5月の新宿末広亭、落語芸術協会の真打昇進披露興行の昼の部の主任だった歌丸が、インフルエンザの影響で“板付き”で演じた高座を思い出す。
2015年5月6日のブログ
 歌丸は初代三笑亭可楽が、「東海道五十三次」、「伊勢の壺屋の煙草入れ」そして「(江戸一番の)評判の美人」というお客さんからの題を元に作った三題噺と説明して演じていたが、小満んは、三題噺の作者を特定はしなかった。
 この噺と元になる大岡裁きのことなど、この噺の背景については、後で書くことにして、小満んの高座。
 三題噺の一つ目のお題「評判の美女」は、日本橋新材木町の呉服屋の十八になる一人娘のお駒。このお駒に、醜男の代表とも言える番頭の丈八が恋心を抱いた。
 小満んは、お駒の美女ぶり、丈八の醜男ぶりを、細かな形容と楽しいクスグリで描き出す。
 「なで肩」の説明では、「今では、パットを入れた、アメリカンフットボールの選手のような女性ばかり」で、笑いを誘う。
 「あるかないかの柳腰」なんて表現も、実に艶っぽい。
 塩瀬の饅頭に塩小豆を乗せたような、という形容が何を表すかは・・・ご想像にお任せしよう。
 丈八は、お駒に宛てた恋文を母親の常に発見され、婉曲に咎められたため、丁稚などからも「はじかれ番頭」などと馬鹿にされ、店の金百両を盗んで逐電。
 しかし、お駒が婿を取るという話を聞きつけ、「お駒を殺して自分も死んで、心中話にしてやろう」と、城木屋に忍び込む。
 寝床のお駒。友禅の布団にビロウドの襟。黒いビロウドとお駒の白い肌、というコントラストが浮かぶ。
 丈八は匕首を振りかざすが、その時ちょうどお駒が寝返りを打って匕首がはずれ、布団を突き抜けて根田まで突き刺さってしまった。焦った丈八は逃げたのだが彼の持ち物と分かる、お題の二つ目「伊勢の壺屋の煙草入れ」をその場に忘れてきたために御用となる。
 お白洲の場が、この噺の一つの聞かせどころ。
 「お駒とはいつ始まった」と越前に聞かれ、「独楽」まわしの成り立ちを丈八が語って、越前が「それは、松井源水の独楽回しの始まりではないか」と咎められるが、これも大岡越前馴染みの話だ。
 文化文政の頃、芸人たちを統制するために鑑札が出されたのだが、その際、大岡越前が十三種の芸を指定しその元締めと任命したのが、浅草田原町に住んでいた曲独楽師の松井源水。このあたりは、よく出来た噺だと思う。
 越前「お駒とのなれそめだ」と言うと、今度は「豆づくし」。志ん生は、この「豆づくし」を中心に艶笑ネタとしてふくらませたようだが、小満んは、なんとも上品に語るので、このネタをご存じないお客さんは、とてもバレ噺とは思われなかったのではなかろうか。
 そしてお題の最後「東海道五十三次」を地口の道中付けの後、出身の駿府・府中の、これまた地口を越前に言わせてサゲとなる。
 小満ん、それぞれの言い立てを見事に語りきった。
 
 少し長くなるが、この噺の元となる大岡政談などについて書きたい。
 なぜなら、元となる大岡政談が、幅広い作品に発展しているのだ。
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中込重明_落語で読み解く「お江戸」の事情
 中込重明さんの本「落語で読み解く『お江戸』の事情」から、大岡政談に関する部分を引用する。*P198
 奉行のお裁きを題材とした落語を政談噺という。特に、大岡越前守が登場する落語は、大工とその棟梁対大家の対決を描いた『大工調べ』など、他にもいくつかある。ただし、講談などで「大岡政談」として語り継がれてきたもののうち、本当に越前守が判決を下したのは「白子屋騒動」という一件だけで、他はほとんどが中国故事などを原典とした作り話とされる。

 この「白子屋騒動」を元に、落語の『髪結新三』をはじめ、さまざまな古典芸能の作品が作られている。
 たびたびお世話になる、河合昌次さんのサイト「落語の舞台を歩く」の『髪結新三』のページから、この大岡裁きを元に、どのような作品が誕生したか、引用したい。
「落語の舞台を歩く」の該当ページ

 犯人が美人だったので江戸中で評判になった。これを裁いたのが有名な大岡越前であった。彼は名奉行で数々の名裁きをして、大岡政談ものになっていますが、大多数は後から彼の名前を付けて、大岡越前の手柄になっていますが、資料に残っているこの一件だけは正真正銘彼の裁きでした。

 事件から約50年後の安永4年(1775)9月、人形浄瑠璃「恋娘昔八丈」として、白子屋事件とお家騒動をからませた浄瑠璃として上演された。この浄瑠璃が評判になり、翌年3月には、歌舞伎として中村座で演じられた。
 また、宝暦年間(1751~64)に講釈師でルポライターの馬場文耕(ばば ぶんこう)が「白木屋政談」といった人情話を、上記の事件を下敷きに書いた。また、乾坤坊良斉(けんこんぼう りょうさい)は、滑稽噺「城木屋」に仕立てたといわれる。この頃は、戯作者や劇作家は、お上を気にして、実名を使わず、赤穂藩主浅野長矩を塩谷判官としたり、家老の大石内蔵助を大星由良之助などと、仮名を使って書いたように、「白子屋」を「白木屋」や「城木屋」と表記しました。 幕末から明治にかけて、三遊亭圓朝とならぶ、人情噺の名人といわれた、三代目麗々亭柳橋(春錦亭柳桜)は、この「白木屋政談」を「仇娘好八丈」として、速記を残しています。
 このように、数少ない実話としての大岡裁きを元に、浄瑠璃、歌舞伎、落語に作品が残った、という次第。
 ただし、引用したように『今戸の狐』に登場する乾坤坊良斉が『城木屋』の作者であるとする説以外に、良斉を人情噺『白子屋政談』の作者とする説もあるようだ。
 作者はともかくとして、お白洲の場の言い立てやサゲにばかり焦点が当たりがちな噺だが、小満んは、お駒や丈八の巧みな描写などにより、前半の場面も聴かせどころ満載だった。流石。今年のマイベスト十席候補としたい。


柳家小満ん『厩火事』 (20分)
 いったん下がって再登場。
 最初の師匠文楽譲りのネタを楽しみにしていた。
 「ひーふーみーよー」をもじって、「夫婦げんか いつも長屋 小言」という洒落があるなんてぇ話は、初めて聞いた。
 師匠文楽のように、亭主について旦那が「あたしの方から出た男」という表現がなかった。
 しかし、結局は、亭主のことを助けないのだから、「あたしの方から」は不要かもしれないと思わせた。
 無駄を省いて磨き上げた師匠文楽の十八番を、小満んは、さらに磨いているのだろう。
 何と言っても、お崎さんの可愛さが出色だし、その科白に心情が反映される。
 同じ科白でも、他の噺家では伝わらない楽しさを、どう表現した良いのだろう。
 たとえば、仲人の旦那に知恵をつけられて一芝居打とうと帰ったお崎さん、亭主が一緒に夕餉を食べたいので待っていたことを知ると「あらまー、ちょいとお前さん、モロコシだよぉ!」の一言にも、不安が安堵に変わった喜びが、見事に表現されている。
 そして、「怪我はねぇか」と心配する亭主の言葉に、一瞬の間の後に「まぁー、あたしのことを心配してくれるのかい」の、何とも嬉しそうなこと。
 だから、サゲも効果的なのだ。

 この噺、演者によっては、亭主が本当に悪い奴に思えることもある。
 私は、概して、羨ましく思うことが多い(^^)
 小満んの高座からは、「髪結いの亭主」だって気苦労も多かろう、と思わせるし、お崎さんは、この年下の亭主に心底惚れてるんだよね。
 もちろん、亭主は働き者の女房だし、年上とはいえ、実に可愛げのあるお崎に惚れていないはずがない。
 落語では珍しい女性が主役のネタだから、お崎さんの描写こそが肝要なのだが、そこは小満ん、実に“べけんや”な高座だった。
 これまた、今年のマイベスト十席候補にしないわけにはいかない(^^)

 余談。
 毎回受付でいただく小さな可愛いリーフレット、今回は『論語』が主題だった。
 川柳が中心のリーフレットには載っていないが、このネタで紹介される孔子の逸話は、『論語』の「郷党篇」にある。
 「厩焚、子退朝曰、傷人乎、不問馬」
 *厩焚けたり(やけたり)、子、朝(ちょう)より退きて曰く、人を傷(そこ)なえりやと。馬を問わずと

 せちがらい今の時代、上の者が、責任を下になすりつけることの方が多い。
 なかなかこんな上司はいないねぇ。

柳家小満ん『御慶』 (39分 *~20:23)
 仲入りを挟んで、黒紋付きで登場。
 今度は二人目の師匠の十八番で、正月に相応しい噺。
 マクラで富くじのことを説明する中で、いわゆる「陰富」にもふれた。
 競馬のダフ屋のようなもので、非合法に掛け金を集め、当選した富の番号を配布して歩くのだが、闇の賭博だから「富くじの当たり番号」と触れることはできないので、「お話だよ」「お話だよ」と瓦版のように言いながら回った。だから「お話売り」と呼ばれていた、とのこと。
 千両富は一分、今の値段で三万円ほどになるから、長屋の面々も気軽に買えるものではない。結構、「お話売り」も流行ったことだろう。

 しかし、八五郎は、一分をなんとか都合して“分限(ぶげん)者”(金持ち)になろうと、富に入れ込んでいる。「分限」なんてぇ言葉も、死語だねぇ。
 女房の、母親の形見の半纏(形見が半纏、というところに哀感が漂う^^)まで質草にして、きっと質屋を脅したのだろう、なんとか一分を都合し夢のお告げに従った縁起の良い番号を買おうとする。
 鶴が梯子の上で翼を広げている夢だったので、「鶴の千、八百四十五番」。
 しかし、その番号は売り切れ。落胆して帰る道すがら、易者に呼び止められて「梯子は昇るものだから、逆さにして五百四十八番が良い」と勧められ、慌てて富を買いに行く、というのが冒頭場面。
 小満ん、最初に求める籤の番号は「千八百~」なのだが、「千五百」と何度か言いかけて言い直した。
 これ、分かるなぁ。
 私も下手な落語を仲間内で披露するから、よく分かるのだ。
 「ハシゴ」なので「八百四十五」は、口から出やすい。
 しかし、逆さの「五百四十八」は言いにくいので、事前に何度も練習(?)し、「五百~」を強く意識してしまったのだと思う。
 まぁ、これもご愛嬌だ。
 千両富は、即日では手数料などを引かれ八百両。
 「切り餅」一つが一分銀百枚で二十五両。800÷25で、計32個の切り餅を両袖では足らず、背中にまで隠し持って帰宅。
 母親の形見の半纏まで、質にまげられてしまった女房は、離婚を迫る。
 しかし、八五郎が持ち帰った切り餅を見て、「あら、まぁ、お前さん、これどうしたの!?」の、「これどうしたの!?」の声が、ひっくり返って可笑しいこと。
 大家にたまった店賃を払いに行く。私が持っている音源で師匠小さんは「九つ」たまっていたとしているが、小満んは「四つ」。まだ可愛い(^^)
 大家の婆さんに小遣いをやると、大家曰く「ばあさん猫みたいに、喜んでのどをごろごろ鳴らしているよ」も、何気に笑えるなぁ。
 小さんの音源では割愛している、市ヶ谷の古着屋「甘酒屋」で裃を調達する場面、刀屋で太刀(脇差)を買う場面もしっかり挟んだ。
 甘酒屋の店員に「霰(あられ)、鮫などいろいろございます」と裃の紋の種類を語らせるあたりも、渋い。ちなみに、各藩では固有の紋を染めていて、「霰」は広島の浅野藩、「鮫」は島津藩という決まり(?)があったらしい。
 大晦日の夜から八五郎が待ちわびた元旦の夜が明けた。
 「お~ら、おらおら、正月だい」と外に飛び出す姿に、八五郎の嬉しさが満ち満ちている。
 まず、大家のところへ行き、正月の「短くて目出度い」挨拶の「御慶」を習った。上がってくれと言われたら「春の日ながに会おう」と言う意味で「永日」と言えば立派な別れの挨拶と教わる。
 さっそく、寅んべぇの家へ行き留守と聞くが隣家の女房に大声で「御慶」を叫ぶ。
「上がりゃしねぇから」と「上がっていきなよ」を言わせ、「永日、ときやがる」をご披露。往来で会った半公にも、「上がっていきなよ」を無理に言わせる。
 締めは、三人連れで歩いてきた寅んべい達への「御慶」「御慶」「御慶」三連発。
 素っ頓狂な「御慶」は、寅たちに聞き取れない。「何、言ってやがる」に「御慶って言ったんでぇい」と返すが、これが「どこへ行ったんでぇい」と聞こえるから、寅が「恵方参りに行ってきた」でサゲ。
 ほら、恵方巻きなんか食べることはないのだよ。正月に恵方参り、が伝統。

 人によっては、ただ大きな声で「ぎょけい!」と叫ぶ声だけが耳に残り、その昔の江戸の風情を楽しむ味わいに欠けてしまうこともあるが、小満んは違う。

 高座に、江戸の街、長屋の生活、八五郎の満面の笑みが、しっかり浮かび上がった。
 大盤振る舞いと言われようが、良いものは良い。今年のマイベスト十席候補とする。「御慶!」

 三席とも、見事な小満んワールドを堪能した後は、ご一緒した佐平次さん、I女史、落語ブログ仲間のKさんのよったりで、私が数年前になるが行ったことのあるホール近くのお店で、本年最初の居残り会。

 伊豆直送の肴と、落語のことやら何やらの話も肴に、「百寿」の熱燗徳利が、ついつい空いていくのだった。
 志ん朝の晩年のことなどから、喜多八が心配、ということも話題になった。
 もちろん、三代目のことにも。
 それにしても、流石は小満ん、ということには、全員異論なし。
 久しぶりの日付変更線を越えての帰宅。
 寒さに震えながら帰って入る風呂は、最高のご馳走だった。
 
 烏かぁーで夜が明けて、昨日の午前中は通院されていて、「今夜は、ほどほどに」、とおっしゃっていた佐平次さんに少し飲ませすぎたことを、少し反省。

 まだ正月、ということで、お許し願おう。
 「御慶!」
  ちょっと、くどいか・・・・・・。

 次回は、3月22日(火)、『おすわどん』『花見酒』『愛宕山』の三席。
 春に相応しいネタが並ぶ。そして、なんとなんと『愛宕山』だ。
 楽しみである。
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by kogotokoubei | 2016-01-20 21:36 | 落語会 | Comments(14)
 三代目に関する記事が続くが、それだけ大きな存在であったので、ご容赦のほどを。

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岡本和明著『志ん朝と上方』(アスペクト)
 岡本和明著『志ん朝と上方』は、2008年にアスペクトから発行された。

 この本からは、主に六代目松鶴と志ん朝との交流について以前記事を書いた。
2011年9月5日のブログ
2012年6月18日のブログ

 この本は、志ん朝にゆかりのある上方の噺家さんへのインタビューが集められたものだが、その最初が三代目だ。

 聞き書きの内容は、もちろん志ん朝に関わることが多いが、その噺家さん自身のことも結構含まれていて興味深い。

 志ん朝、そして六代目松鶴と同じように、落語の名人を父にもつ三代目への聞き書きを、一部引用したい。

-志ん朝師匠は、志ん生師匠に咄家になるように言われたけれど、最初のうちは咄家になる気がなかったと言いますが、師匠の場合は?
春團治 咄家になるつもりはなかったし、うちは親父も咄家にするつもりがなかった。そやから、高校(浪華商業)を卒業してから一年間、サラリーマンをやってたんです。
-どんな所ですか?
春團治 自動車部品の会社。で、ちょっと上の人間と揉めて、辞めて、家で遊んでた。その頃、大阪には寄席がないからね、親父は一座を組んで地方巡業でまわってました。ある時、
「家でぼやっとしててもしゃあないから、荷物持ちでついてこい」
 と言われまして・・・・・・。
-それが咄家になる第一歩というわけですね。
春團治 でも、修業するつもりはないから、荷物持って向こうに乗り込んだら何もすることはない。そやから、寄席に座って親父の高座を見ててん。親父は『寄合酒』一本やから、そのうちに噺が頭に入ってしもうて・・・・・・。で、九州で前座が倒れて、その穴埋めに出たのが僕の初高座やからね。
「俺がやるわ」
 って言うたら、親父が、
「お前、やれるんか?」
「頭に入ってる」
「ほな、いっぺん、聞いたろうか」
 それで旅館で聞いてもろうて。“小春”で出たんや。
-出し物は何だったんですか?
春團治 『寄合酒』です。覚えてるから。他のネタ、知りまへん(笑)。何も教えてもらってへんから。ところが、一席終わったんだけど、立てなくて・・・・・・。
-原因は?
春團治 足がシビレた(笑)。しゃべるのに精一杯やったからね。で、緞帳をおろしてもろて、這うて袖へ入ってった。そやから、弟子には芸より先に座らすことばかりやらせましたね。
 そやからうちの弟子をずらーっと並んで座らせといて、僕が用事を言いつけると、先を争うて、
「はい、私が行きますっ」
 って、みんな立ちたいから(笑)。自分がそういう失敗をしてますからね、咄家がなんぼ噺ぃやるたって、座れなんだらあかんということで、僕は座る行儀だけは厳しくしましたね。
-初舞台、お客さんの受けはいかがでした?
春團治 わりによう受けてね。だから<これはえらいええ商売やなあ。これでギャラもらえるんやから>って、思うてね。・・・・・・まあ、今からすると安いギャラなんやけど。
 今、やっぱり思うね。初舞台とかネタ卸しとかそういう時のほうが客受けするね。ちょっと落ち着いて、安心してくるとアカンね。気の緩みが出てくるから。

 いわば、“プー太郎”状態だった中での、父の荷物持ちが、噺家となるきっかけとなったわけだ。

 「門前の小僧、習わぬ経を読む」をもじるのなら、「落語家の荷物持ち、習わぬネタを語る」ということか。

 晩年、『寄合酒』を演じたかどうか、勉強不足で知らないのだが、きっと、その噺にこそ、二代目の名残りを感じることができただろう。

 その父、二代目春團治から、果たして三代目は何を稽古してもらったのか。
 自分の稽古のことなども含めて引用。

-師匠の教え方はものすごくていねいだとか。『お玉牛』なんか、牛が寝そべってるのをなぜるところなんか、師匠が寝そべって・・・・・・「なでてみい・・・・・・」。
春團治 (笑)。そうすると牛の大きさがわかるんや。
-みんなになぜさせるんですか?
春團治 それは、その人間によってです。いつまでやってもあかん奴はやりますけど(笑)。稽古に関しては僕の弟子に言うのは、
「その人、売れてるさかいというてその人に習うたってあかんよ。その人が売れてるのは、その人の任に合うた間が受けてるんやから。だから稽古してもらうんやったら、受けてる人やない。売れてなくてもかめへんから、きっちり教えてくれる人に習え。そして、その中のものを自分のものにせぇへんことには語れへん」
 って言うんです。
-師匠は誰に稽古をつけてもらいました?
春團治 僕は親父に稽古してもろうたことないものね。
-それはまた、どうしてですか?
春團治 笑うてしまうから。そやから、文團治師匠(四代目)とか、圓都師匠とか、花橘師匠(二代目)。あとは、米朝君とか友だちの所に教えてもらいに行ってた。

 名前の挙がった噺家さんの中で、四代目文團治は、戦後の上方落語復興において、重要な役割を果たした人と言われる。一時引退していたが、戦後の上方落語界のために橘ノ圓都らと共に復帰し、長老として存在感を示した人らしい。上方落語協会の発足時には、顧問を務めた。
 膨大な持ちネタを誇ったと言われ、歴代の桂春團治に『鋳掛屋』を伝えた人であり、三代目に『高尾』を稽古したのもこの人。
 四天王が育った背景には、こういう先輩噺家さん達の存在があったことも、忘れてはならないだろう。

 三代目ご自身の稽古のことで登場するネタ『お玉牛』で思い出すのは、2010年のNHK新人演芸大賞だ。
 桂まん我が、三代目に稽古してもらったこの噺で勝負したのである。
2010年11月6日のブログ
 結果は一之輔が『初天神』で優勝したのだが、私の評価は、両者拮抗していた。

 果たして、まん我は、“三代目の牛”をなでさせてもらったのか、どうか(^^)

 三代目が父から稽古してもらわなかった理由が「笑うてしまうから」というのが、なんとも微笑ましい。

 あまりにも有名な初代、そしてまだ生の高座の印象が鮮明な三代目に比べ、今日の落語愛好家が、二代目春團治のことをイメージするのは結構難しいと思う。
 実は、二代目も上方落語界にとって実に重要な人物であったし、爆笑派として名人と言ってよい噺家さんだったようだが、二代目のことは、別途書くつもり。

 昭和22年、その二代目である父の荷物持ちをしていた巡業先で初高座を経験してから、ほぼ70年に渡り上方落語界を支え続けた三代目桂春團治。

 私にとって、その存在の大きさ、重さが、日を追って増すばかりなのである。

 初高座の『寄合酒』も、『お玉牛』も、生で聴くことができなかったことが、残念でならない。


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by kogotokoubei | 2016-01-18 20:36 | 落語家 | Comments(4)

 三代目桂春団治の訃報は、上方の落語愛好家に限らず、落語をこよなく愛する人々の心に、重く響いたと思う。

 それは、敗戦後の上方落語界の復興に貢献した「四天王」の最後の一人が旅立った、ということもある。
 何より、あの大名席を継いでいながら、豪放磊落な初代や、その持ち味を継承していた二代目の父親ともまったく違う芸風ながら、三代目ならではの、あの優雅な、柔らかな、品格あふれる高座を、もう二度と味わうことができない、喪失感が大きい。

 上方落語の舞台裏を知るための好著から、襲名当時のことを知ることができる。


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 露乃五郎(執筆当時)の『上方落語夜話』は、朝日カルチャーブックスの一冊として、昭和57(1982)年、大阪書籍より発行された本。

 昭和34年の三代目襲名について、次のように書かれている。

 明けて、昭和34年春、時ならぬ、赤い人力車が、大阪の街を、先引き、後おし付きで走りました。「アッ、人力車や!」「今時分何や、しかも真っ赤やがな」「乗ってるのは福団治や」、浪華雀のささやきを後に、赤い人力車は各新聞社を回りました。三月二十日の新聞は一せいにこれを写真入りで記事にしたものです。
 明二十一日から十日間道頓堀角座で開く「春団治襲名披露興行」の宣伝の一コマで、あずき色の紋付はかまの福団治改新春団治は、「人力車て、疲れまんな、ま、乗りおさめだすやろけど・・・・・・ハナシ家の名人になろう思うたら厄介だすわ」といささかてれくさそうでしたが、前景気は上々。襲名披露の番組は、東京から桂文楽、三遊亭百生、大阪はダイマル・ラケット、喜久奴・奴、笑福亭枝鶴、桂米朝、花月亭九里丸、旭堂南陵と角座開場以来のにぎやかな顔がそろいました。
 この時、枝鶴、米朝は千土地興業に属し、お祝い出演の形で参加したのです。

 枝鶴は、その後の六代目松鶴。

 この年、東京でも十月下席に東宝名人会、新宿末広亭、上野鈴本にも襲名披露をかねて三代目は出演している。
 また十一月上席に、角座での名人会に、東京から文楽、柳橋、志ん生を招いて、若い三代目をたすけるような番組が組まれたとのこと。

 実は初代春団治が乗っていたとされる「赤い人力車」は、三代目桂文三が乗っていたことが、春団治のことにすりかわって巷間伝わり、借金で「火の車」だった初代とのつながりで、定着したらしい。

 まぁ、それはともかくとして、昭和34年春の「赤い人力車」による三代目襲名披露の宣伝は、本人にとっても、思い出深いものだっただろう。

 旅立ちを前にした、きっと三代目の脳裏を横切る幾多の思い出のなかに、きっと「赤い人力車」での襲名披露の日も含まれていたのではなかろうか。

 日が経つにつれて、昨年の米朝の時には、「まだ、三代目がいる」という思いがあったのだなぁ、と喪失感の大きさで思い知る。

 上方落語界に、精神的に核となる人が残っているだろうか。

 若手や中堅に将来期待できる噺家さんは、上方に多いと思う。

 しかし、彼らの中から、新たな「四天王」が生まれることは、期待できそうにない。

 四天王の、そして三代目の存在の大きさを、つくづく感じるばかりである。
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by kogotokoubei | 2016-01-16 14:40 | 上方落語 | Comments(2)
 今年の初落語は、この会。第25回、とのこと。

 ネットのニュースで三代目桂春団治の訃報に接し、重~い気持ちで桜木町に向かった。
 
 入院していた喜多八が、いったいどんな姿なのかという思いと、三代目のことが、どうしても交錯してしまう。

 にぎわい座は昨年11月に地下秘密倶楽部(?)のげシャーレに来ているが、この会となると2012年9月以来となる。
2012年9月6日のブログ

 あの時よりはお客さんの入りは良い。八分程度だったろうか。
 入りは程良いのだが、一部、やたら拍手をするお客さんがいたのには、閉口した。

 とにかく、喜多八のことが気がかりだった。

 次のような構成。
------------------------------------
(開口一番 瀧川鯉ん『ん廻し』)
入船亭扇遊 『試し酒』
柳家喜多八 『やかんなめ』
(仲入り)
瀧川鯉昇  『宿屋の富』
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瀧川鯉ん『ん廻し』 (15分 *19:00~)
 2013年8月、新宿での鯉昇・一之輔二人会で聴いて以来。その時の高座、やたら声が大きいことだけは覚えているが、今回も、その大きさには腰が引けた。
 客席の笑いを催促するような“間”も、いただけない。
 よく笑ってくれるお客さんが多くて救われていたように思うが、そろそろ声のボリューム調整も必要ではなかろうか。

入船亭扇遊『試し酒』 (30分)
 まくらで、この後の喜多八が、いわゆる“板つき”で登場するので、いったん緞帳が下りることを説明。まだ、歩けないことが分かった・・・・・・。
 今や古典化しつつある今村信雄による昭和の新作だが、そうなるだけの聴かせどころ、見せ場のある噺を、この人ならではの芸で楽しませてくれた。
 「野を見つくせない」→「飲みつくせない」で「武蔵野」と名付けられた一升入る盃で、近江屋の下男久蔵が五杯飲むそれぞれの場面が圧巻。
 一杯目は、一気。ここで数名のお客さんから間の悪い拍手が起こった。
 二杯目は途中で息継ぎをし、その美味さに驚き、「うちの旦那さま~、こないだ飲んだ酒はひどかった」と毒づく。
 三杯目には、酒を最初に造ったのは中国の儀狄であるという薀蓄を披露し旦那たちを煙に巻いてから、都々逸づくし。
 四杯目は、賭けを仕掛けた旦那が話している間に飲むという演出。
 「ぐい、ぐい、ぐい、ぐい、ぐい、ぐい、ぐい・・・・・・」
 旦那が久蔵の飲みっぷりを見ながらの科白は、あっけにとられてのフェイドアウト。
 さぁ、五杯目。さすがに二度ほど盃から顔をそらせたものの、久蔵ついに五升を飲み干す。
 扇遊は、師匠扇橋譲りのネタも定評があるが、こういった寄席で鍛えた噺も見事で、今まで私が聴いた高座でハズレたことは皆無。流石だ。

 いったん、扇遊が告知したように、緞帳が下りる。
 ここで、席を立った人がいて、この人が、喜多八の高座が始まってから、戻ってきた。そして、無駄な拍手をする、困った人でもあった。こういう人がいると、実に迷惑。

柳家喜多八『やかんなめ』 (25分)
 久しぶりに聞く出囃子「梅の栄」とともに緞帳が上がり、高座に喜多八の姿。
 痩せた・・・・・・。
 まくらで、栄養失調で1月4日まで入院していた、と語る。入院前は40キロそこそこで、それより3キロ体重は戻ったと言っていたが、頬はこけている。髪も、以前は染めていたのかもしれないが、白っぽい。
 しかし、声は、いつもの喜多八なのだ。あるいは、かつて聴いた中でも、大きいくらい。
 以前演じたネタを調べていたら、「これ、やってなかったんだ」と選んだネタは、十八番の一つ。
 侍がお供の可内(べくない)に向かって何度か「笑うな!」と叫ぶ場面で、会場も大いに沸いた。
 本編にかかるマクラで「一病息災」の言葉があったが、それは自分自身に言い聞かせていたのかと思わないでもない。
 上方では『癪の合い薬(あいぐすり)』の題。
 高座は、何ら健康時とは変わらない、いや、それ以上かもしれない。
 しかし、まだ体重は戻っていないし、歩けない状態は、健康とは言えない。
 喜多八にとっての「合い薬」が見つかり、無事快癒することを祈るばかりだ。

マジックジェミー 奇術 (18分)
 実は初。芸協の寄席には何度も行っているが、これまで縁がなかった。
 ホームページを拝見すると、イリュージョンなどいろいろなネタがあるようなのだが、この日は、紐が中心。お客さんを参加させての楽しいマジックで、高座に色気を添えてくれた。

瀧川鯉昇『宿屋の富』 (37分 *~21:20) 
 トリはこの人。
 調べてみると、2009年1月の会でも聴いている。2009年1月6日のブログ

 喜多八と違って、この人は過去の演目とかぶることを、気にしていないようだ。
 高座でのいつもの無言の時間に、あの困ったお客さんが拍手したため、鯉昇は、すぐに話し始めた。
 少年時代、東京オリンピックの時の浜松での思い出というネタ(?)など約10分ほどのマクラから本編へ。
 冒頭、一文無しが金持ちだと宿の主人を騙る大嘘(奉公人8000人、女中2800人、庭に富士山も琵琶湖もある)のスケールの大きさも楽しいが、見せ場は、この人ならではの「音なしの芸」。
 文無しが一番富を確認する場面の、「子の千三百六十五番・・・・・・」を呟くシーンの繰り返しは、何度聴いても楽しい。また、二番富が当たると神様が約束したという男が、当たった場合の夫婦の食卓に並ぶ“五百両の膳”の料理を、「うなぎがあって、刺身があって・・・・・・」と繰り返す場面。次第に言葉を飲み込んで、仕草と表情の変化だけで沸かせる芸は、鯉昇落語の真骨頂だ。


 帰り際、会場で偶然遭遇した落語ブログ仲間のKさんと、少し立ち話。近いうちの再会を約して、外の喫煙場所で一服し携帯をオンにすると、居残り会仲間のI女史から、末広亭の小三治のネタのご報告が入っていた。いらっしゃると知っていたので、お願いしていたのだ。
 師匠は弟子の喜多八の病状の実態をどれ位ご存じなのだろうか・・・・・・。
 居残り会仲間からのメールは他にも入っており、三代目のことだった。
 皆さん、私なんかより三代目の高座を聴いていたし、ずっと深く愛していらっしゃったことが伝わる。
 
 今年の初落語、三代目の訃報に接したことと、喜多八の久しぶりの高座への複雑な思いが交錯する日として、今後も思い出すことになりそうだ。

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by kogotokoubei | 2016-01-15 12:55 | 落語会 | Comments(9)
 三代目桂春団治の訃報を目にした。
毎日新聞の該当記事

 ほぼ一年前、米朝が旅立って、
 「上方の四天王はあと三代目だけか・・・・・・。」と思っていたが、とうとう四人とも彼岸の人となった。

 9日のことだったらしい。


 私が生で聴くことができた高座は、二席。

 2009年12月、麻生市民館で開催された「桂枝雀 生誕70年記念落語会」での『祝い熨斗』。
 あの時、米朝と三代目と同じ空間を共有できた、至福の時間だった。
2009年12月4日のブログ

 そして、翌2010年、同じ師走の場所は渋谷、志ん輔との「東へ西へ」で聴いた、『代書屋』。
2010年12月11日のブログ

 日々脳細胞が急激に減少している中で、どちらの高座も、意外に脳裡に残っている。

 無駄なマクラなどふらない、無理に笑わせようとしない、しかし、優雅で品のある絶妙な語り口の見事な高座だった。

 羽織の脱ぎ方も、一つの芸だった。

 巷では、ある五人組が四人になりそうだという、私にはまったく興味のないニュースが、これでもかと溢れている。

 四人で組もうが、一人になろうが、元気で生きてさえいれば、結構じゃないか。

 もう三代目のあの高座を聴くことはできないと思うと、残念で、無念で、悲しくてならない。

 合掌

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by kogotokoubei | 2016-01-14 12:54 | 落語家 | Comments(5)
 初代桂文治が、四日市で亡くなった縁で、四日市で「文治まつり」と題する落語会が開かれているらしい。

 毎日新聞(三重地方版)より、引用。
毎日新聞の該当記事

文治まつり
四日市ゆかりの落語家ら、話芸 来月5日開催 /三重

毎日新聞2016年1月13日 地方版

 落語家「桂一門」の祖、初代桂文治が四日市で没したのにちなみ、四日市市ゆかりの落語家らが話芸を披露する恒例の「文治まつり」が2月5日、同市安島の市文化会館で開かれる。

 江戸時代に大阪で活躍した初代桂文治は大道芸に近かった落語を初めて寄席形式で演じた人といわれる。旅興行の途中、四日市で亡くなり、今も市内にお墓がある。

 文治を顕彰するまつりは今年で12回目。四日市市出身の落語家で関西演芸協会会長の桂福団治さん(75)、林家菊丸さん(41)ら地元と関わりのある4人が落語を演じるほか、上方落語家で故・桂米朝さんの孫弟子、月亭八方さん(67)もゲスト出演し、催しを盛り上げる。

 午後6時半開演。チケットは前売り3000円(当日3500円)。問い合わせは三重テレビ放送事業部(059・223・3380)。【松本宣良】

〔三重版〕

 この落語会があることは、この記事で初めて知った。

 その土地に縁(ゆかり)のある噺家さんの名を冠した地域落語会の開催、私は実に結構だと思う。

 初代文治は、寄席の開祖でもあるが、『蛸芝居』『崇徳院』『龍田川(千早ふる)』など、今日に残る噺の作者としても有名。

 二年ほど前、NHK Eテレ(旧、教育テレビ)の「落語でブッダ」の最終回が桂文我の『蛸芝居』だったので、少し初代文治のことにもふれる記事を書いた。
2014年2月1日のブログ

 今は東京にこの大名跡が渡っていることに、上方落語愛好家の中には、忸怩たる思いを抱く方もいらっしゃるかもしれない。

 この大名跡の経緯は、実に複雑だ。

 三代目と四代目が上方と江戸の両方に存在したくらいである。

 平凡社の『古今東西落語家事典』などを元に、たどってみる。


上方                江戸~東京

初代
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二代目(実子) 幸(長女)---結婚---三代目
 |                 
*文鳩(弟子)           
 |                 
三代目(二代目孫弟子)        
 |                 
四代目(養子)         四代目(三代目養子)
                   |
                  五代目(三代目弟子)
                   |
                  六代目(四代目実子)

七代目(初代文団治弟子)
 |
*二代目小文治(弟子)

                  八代目(六代目養子)
                   |
                  九代目(弟子)

                  十代目(二代目小文治弟子)
                   |
                  十一代目(弟子)



 これ位、複雑なのである。

 ご覧のように、先代と当代の文治は、上方が一時この名跡を取り戻した七代目の系列に属している。
 七代目の師匠初代文団治は初代桂文枝門下で、文枝の弟子“四天王”の一人。
 初代文枝は、上方三代目文治、あるいは四代目文治の弟子と言われる。

 七代目文治は、初代米団治でもあった人。
 東京の六代目から名跡を譲り受けるにあたって、六代目の借金も継承した(?)と言われている。

 いずれにしても、当代文治は純粋な(?)東京文治の系列ではなく、大師匠二代目小文治の師匠である七代目につながっている。

 よって、上方の落語愛好会の方は、「七代目の曾孫弟子か、まぁ、文治の名はしばらく東京に貸しといたろ」くらいの鷹揚な気持ちでいて欲しい。

 そのうち(いつ!?)、上方に戻ることもあるだろう。

 まずは、この大名跡が今も生きていることを喜びたいし、四日市の会のように、初代を偲ぶ会があることは良いことだと思う。

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by kogotokoubei | 2016-01-13 21:18 | 落語家 | Comments(4)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛