噺の話

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 昨夜の「まんまこと」は、期待通りに楽しめた。

 NHKのサイトの「まんまこと」のページで、昨夜のあらすじを確認することができる。
NHKサイトの「まんまこと」のページ

「次回予告」のページには、これまでと次回のあらすじが載っている。
 昨日の第三回は、次の通り、8月6日来週木曜の午後2時から再放送されるので、お見逃しの方は、どうぞ。


第3回「こけ未練」

総合 2015年7月30日(木)午後8時
【再放送】総合 2015年8月6日(木)午後2時5分

麻之助は、又四郎(松田悟志) が会いたがっているとお寿ずから聞き、高値のようかんを買って清十郎とともに見舞いに出かける。麻之助は、途中、迷子の犬と、家出した町娘・おしん(田辺桃子)を拾い、その世話にかまけて、なかなか又四郎の家に行き着かない。そのころ奉行所では、「こりん様」という姫が行方不明になって、探索に大わらわ。早とちりの岡っ引きにこりん様と間違われたおしんは...。


 狆を拾い、家出娘まで面倒をみなけりゃならなくなった麻之助。
 原作は、「こりん様」の正体を文章として隠すことができるが、映像では難しい面もあろうかと思っていたが、原作の味を損なわずに表現していたと思う。
 岡っ引も登場したね。

 今回の放送で、脚色として良かったと思う場面がいくつかあった。

 例えば、回想シーンとして、麻之助が、幼馴染で恋心を抱いていたお由有が、ある男性の子供を身ごもったまま、友人八木清十郎の父、源兵衛と結婚することになったと聞いて、麻之助が、お由有に「なぜ?」と問う。そして、お由有は「だったら、麻之助さんが、この子の父親になってくださる?」と問い返す。
 麻之助、言葉に詰まる。その後、父の宗右衛門と二人で話す場面となり、親子というより男同士の会話に、なかなか深みがあった。
 親子の会話シーンは原作にないが、なかなか結構な脚色の妙だったと思う。

 原作では、麻之助は、もう少し喧嘩が強いのだが、それには、私は若干の違和感を抱いていたので、放送で描く程度の力の弱さがある方に軍配を上げたい。腕っぷしの強さは、同心見習いの吉五郎などに任せれば良いだろう。

 また、この回は、麻之助の許嫁(この時点では、あくまでタテマエであるが)のお寿ずが慕っている病身の又四郎が、どうしても麻之助に会いたがっているということで、一両もする菓子(羊羹)を手土産に又四朗の家に行く道中で事件が発生する。
 その菓子を買う金のない麻之助は、父が出してくれないので友人の清十郎に借りるのだが、その金を清十郎も他人に借りる。清十郎は、桧山うめ吉演じる、原作には登場しない元柳橋の芸者で小唄の師匠に借りたのだった。ありえる無理のない筋書きで、うめ吉を登場させ一節唄わせたのも、好脚色だった。

 今回の重要な登場人物(?)は、狆。
 この狆ちゃんが、なかなかの芸達者だったし、可愛かったねぇ。


 さて、次回は「静心なく」と題されている。

 畠中恵の原作である「まんまこと」シリーズは「オール読物」で連載されていたもので、文春文庫として『まんまこと』『こいしり』『こいわすれ』『ときぐすり』の四冊が発行されている。

 文春の「本の話」Webに「まんまこと」特設ページがあり、すでに第五弾『まったなし』の単行本が6月に刊行されていることも案内されている。
文芸春秋「本の話」Webの「まんまこと」特設ページ
 このページには、各巻の概要も楽しく確認できるので、水先案内としてなかなか結構なサイトだ。
 


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畠中恵著『まんまこと』(文春文庫)

 シリーズ第一作の『まんまこと』は、次の章で構成されている。

 ・まんまこと
 ・柿の実を半分
 ・万年、青いやつ
 ・吾が子か、他の子か、誰の子か
 ・こけ未練
 ・静心なく


 お察しのように、太字が、放送済の三回と、次回放送の作品。

 NHKのサイトに次回あらすじとして、次のようにある。



麻之助(福士誠治)はお寿ず(南沢奈央)から又四郎が亡くなったことを聞く。お寿ずは、約束通り麻之助との縁談をなかったことにするという。そんなとき、お由有(市川由衣)の息子・幸太が誘拐され、衝撃を受けた町名主・源兵衛(石橋蓮司)は卒中で倒れてしまう。身代金50両を要求する手紙が届き、お寿ずはお由有の身代わりになって金を届けることになる。麻之助は源兵衛の過去の裁定に恨みを持つ者の犯行ではないかと推理するが...。

 さて、次回は幸太が誘拐されるのだ。犯人は誰か?
 犯人は・・・もちろん、ネタバレになることは書かないよ。




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畠中恵著『こいしり』(文春文庫)

 再来週からは、文庫第二弾『こいしり』の内容になるだろう。

 次のようなお題の章で構成されている。
 ・こいしり
 ・みけとらふに
 ・百物語の後
 ・清十郎の問い
 ・今日の後
 ・せなかあわせ

 どの内容が放送で選ばれるか、というミステリー(?)を推理するのも、副次的な楽しみ。
 ①「こいしり」は、麻之助の祝言もあるし、八木源兵衛を巡る大事な話、外せないよね。
 ②「みけとらふに」の猫たちも、ぜひ見たい。
 ③「百物語の後」は見せ場は多いだろうが、他作品との関係性の薄さから外れるか。
 ④「清十郎の問い」は、麻之助の大事な二人の女性がからむので、外せないはず。
 ⑤「今日の後」は、おもしろい内容だが、他作品と関係が薄く外れるかなぁ。
 ⑥「せなかあわせ」は、お寿ずからいきなりあの言葉が出る幕開けが印象的。

 すでに文庫第一作から四つ取り上げている。
 全十作の放送なので、あと六つを三冊の文庫作品から選ぶことになる。
 『こいしり』から二つなら、①と④、もし三つ取り上げるなら、①、②、④か、などと思っているが、見事に裏切られるかもしれない。

 町名主、同心、岡っ引、悩み事を相談に来るさまざまな市井の人々、両国の賑いなど、江戸の町と人の姿を楽しく、そして少しミステリアスに描くドラマ、来週も楽しみだ。


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by kogotokoubei | 2015-07-31 12:54 | 歴史ドラマや時代劇 | Comments(0)
 久しぶりに、落語協会のホームページについて。
 
 旧ホームページ委員会の主要メンバーだった柳家小袁治師匠とは、ブログのコメントを通じて連絡を取り合う仲になった。
 落語や寄席の感想を記事に書く私としては、できるだけ噺家さんと個人的にお付き合いをしない主義なのだが、師匠は例外であり、特別な存在だ。

 FC2からエキサイトに引っ越した際は、ずいぶんご心配をおかけしたことを思い出す。

 師匠の昨日のブログによると、協会事務局でホームページに関して有志による打合せがあったらしい。
柳家小袁治師匠「新日刊マックニュース」の該当ページ

 
 該当記事の前の部分には、真室川への旅行(ご親戚の葬儀)のことが書かれている。

 ブログの内容からは、協会のリニューアルされたホームページに、有志の方がどのように関わるのか、あるいは関わらないのかが、近いうちに決まりそうだ。

 現在の落語協会のホームページは、あまりにも問題が多いが、その一つは、「閉じられた空間」であること。
 たとえば、師匠がブログで書かれているように、現在の落語協会のホームページからは、各定席のサイトにリンクが張られていない。
 「定席番組」のページには各寄席のバナーがある。
 このバナーをクリックすると、開催中のプログラムのページに飛ぶ。あくまで、落語協会のページ。寄席へのリンクはない。
 「本日の寄席」を含め、どこからも各寄席のサイトへのリンクが張られていない。
落語協会ホームページの「定席番組」のページ

 かたや、落語芸術協会のホームページには「演芸場紹介」というページがあり、住所・電話番号、そして、味のある地図があって、各寄席へのリンクも張られている。
落語芸術協会ホームページの「演芸場紹介」のページ

 落語協会は、各寄席のロゴを借りてバナーを貼っているのに、そこからは自分たちの番組情報にのみつながっていて、寄席のサイトにリンクされていないのだ。
 ネットの常識からは実に失礼なことであるが、そういう「ネチケット」を、どうも分かっていないようだ。

 他にも、まったく必要のないトップページの会長の大きな写真のアニメや、芸人紹介ページのトップが「真打」になっていて、「二ツ目」さんの噺家さんを続けて調べたいのに、それぞれの噺家さんのページから‘戻る’と「真打」ページになってしまう、など不具合な点はいくらでもあるのだが、書き出すと止まらなくなるので、やめておく。
 
 あえて補足するが、「二ツ目」さんを続けて調べたいなら、「真打」に戻っても「二ツ目」のバナーをもう一度クリックすればよいのだが、この「もう一度クリック」の手間が、ネットでは実に面倒に感じるのだ。

 訪問者の導線を想定し、知りたい情報を、一つでもクリック回数を減らして、いわゆる「ユーザビリティ」を向上させるのがサイト構築の要諦なのだが、リニューアルという名の「改悪」をした関係者には、そういった配慮はなかったようだ。

 基本的なサイト構成のポリシーがないままで、最低限の情報だけ載せました、という「改悪」をしてしまったので、この状態から直すのは、一から作るより厄介かもしれない。

 だから、有志の皆さんの打合せも、実に忸怩たる思いが吐露されたと思う。

 有志で別なサイトを作ろう、という意見があっても、その思いは大いに理解できる。
 しかし、それを手弁当で行うのは、大変なことだ。

 本来なら、今一度、旧ホームページ委員会メンバーも参加した「リ・リニューアル」委員会を組織して欲しいものだ。
 できれば、サイトのお客さんである落語愛好家の方の声も聴いて、必要な情報が過不足なく存在し、それらの情報に少ない手数で辿りつけて、関連するサイトともリンクされたオープンなホームページを目指して作り直した方が良いと思う。
 
 新国立競技場よりは、難易度は低いし、コストもかからないだろう(^^)

 今後、どう展開するか分からないが、有志の皆さんの「志」がなんとか生かされることを期待している。

 
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by kogotokoubei | 2015-07-30 18:24 | 落語協会 | Comments(8)
 昨日は、野暮用があって午後から休みをとっていたので、夕方から日比谷野外音楽堂での集会と国会前のデモに初参加した。

 まず、東京新聞の記事より、引用。
 私の予想よりは少ない人数ではあったようだが、1万5000人のうちの一人が、私である。
 東京新聞の該当記事

「戦争法案を廃案に」 日比谷で1万5000人が反安保デモ
2015年7月29日 朝刊

 安全保障関連法案に反対する集会が28日夜、東京の日比谷野外音楽堂で開かれ、参加者約1万5000人(主催者発表)が「違憲の戦争法案を廃案に」と訴えた。夜に入っても気温が30度を超える暑さの中、参加者は「安倍政権の暴走を止めよう」と声を上げ、国会へデモ行進した。

 「戦争させない・9条壊すな!総がかり行動実行委員会」が主催。民主、共産、社民、生活など各党国会議員が壇上に立ったほか、文化人や市民の代表がマイクを握った。

 作家の落合恵子さんは「私たちは被害者にも加害者にもならない。70年前の誓いをもう一度胸に刻もう」と強調。「安保関連法案に反対するママの会」のメンバーは「命懸けで産んだわが子を絶対に戦争に取られたくない。ママは戦争しないと決めた。みんなで戦争しないと決めた。誰の子どもも殺させない」と声を震わせた。講談師の神田香織さんや脚本家の小山内美江子さん、弁護士、医師らも熱弁をふるった。

 集会に初めて参加した千葉県松戸市の高田耕作さん(60)は「法案は憲法九条に違反している。政権は、こうした声にちゃんと耳を傾けてほしい」と話した。


 5時30分頃に日比谷公園に着いた。
 すでに多くのデモ参加の方が、音楽堂の周囲を取り囲んでいた。
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 所属団体のない私は、「神奈川自治労」の幟を発見して、住んでいる場所のご縁でご一緒させていただきたいとお願いすると、ご快諾いただいた。。
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しかし、下のチラシのように、音楽堂の集会が6時30分から7時30分を予定しており、その後にデモと案内されているのだが、こちらのデモ部隊は6時45分に出発するとのこと。

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 音楽堂に入りきれないので、集会と並行して先発する各団体のデモ部隊があるようだ。

 しばし悩むが、やはりせっかく来たのだからと思い、音楽堂の集会に参加すべく移動。
 神奈川自治労の皆さん、誠に申し訳ありませんでした。

 音楽堂に行くと、すでに熱気ムンムンである。

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 BGMは忌野清志郎で「イマジン」「500マイル」などが流れる。
 昨年9月に参加した、亀戸での反原発集会における「エセタイマーズ」の演奏を思い出した。
2014年9月24日のブログ

 ステージで係の人が、前の方の席はまだ空いている、と案内していたので、前の空いた席を探した。
 歩いて席を探していると、「どうぞ」と声をかけていただいたのが、女性がたくさんお座りになっていた一画。

 後で知ったのだが、「婦人民主クラブ」の皆さんの席だった。
 お隣の方が、歴史のある会なんですよ、とおっしゃっていた。
 同クラブのサイトから「私たちのあゆみ」をご紹介。
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(「婦人民主クラブ」サイトのヘッダー)
「婦人民主クラブ」のサイト

私たちのあゆみ

創立のころ
 「日本中が、森閑として声をのんでいる間に、
 歴史はその巨大な頁を音なくめくったのであった」(『播州平野』より)

 作家の宮本百合子は、1945年8月15日正午の昭和天皇のラジオ放送によって
日本の無条件降伏を知らされたときの様子をこう書いています。
婦人民主クラブは、この年の秋から準備され、翌1946年3月16日に創立されました。
設立呼びかけ人は、宮本百合子をはじめ25人の各分野で活躍する女性たちでした。

 1946年4月、日本の女性は初めて選挙権を行使して政治に参加しました。
11月には日本国憲法が公布されました。
憲法の諸条項は、
平和とくらしを守り、子どもの幸せと女性の地位向上をめざす婦人民主クラブ
を励ますものでした。
何よりも「戦争放棄」の条項は大きな喜びでした。

 敗戦直後の、食べ物も着る物もない中での活動は、
食料配給の確保、内職の斡旋、洋裁講習、避妊指導などでした。

平和と暮らしを守る
 1950年1月、マッカーサー連合国軍最高司令官は
「日本国憲法は自衛の権利を否定しない」と声明。日本の再軍備への道を開きました。
トルーマン米国大統領は水爆製造の命令を出しました。
緊迫する東西対立の中で、平和擁護世界大会委員会は、 原子兵器禁止と国際管理を求める
ストックホルム・アピールを発表。賛同署名を世界に呼びかけました。
占領下の弾圧も予想される中、婦民はこの署名に取り組み、
アメリカが朝鮮戦争で原爆を使用することを許しませんでした。

 1954年3月のアメリカによる太平洋ビキニ環礁での水爆実験に、婦民はいち早く
「原子戦争から子どもを守ろう」を合言葉に原水爆禁止を求める署名運動を開始。
翌1955年6月の日本母親大会、8月の原水禁世界大会の開催には、
成功のために献身的に働きました。

 新聞代などの物価値上げ反対や保育所づくり、民主教育を守る運動、
小児マヒ撲滅のための生ワクチン緊急輸入運動などのほか、
さまざまな文化的要求に応えて、講演会、映画会、音楽会、子ども会などを行いました。

分裂策動を超えて
 占領状態を終わらせるために、サンフランシスコ平和条約が結ばれました(1951年)。
同時に締結された日米安全保障条約をさらに改悪し、
日本に再軍備を進めようとする動きが強まりました。
そのなかで1959年から60年にかけて
安保条約改定に反対する歴史的な国民大運動が起きました。
婦民も連日、国会包囲のデモに参加しました。
しかし、この60年安保闘争をめぐって、全国的な統一行動を評価する意見と、
条約批准を阻止できず敗北したとする意見が婦民の中にも生まれました。

 後者の幹部らは、過激派暴力集団を支援し、
ついに1970年6月、第24回全国大会に過激派女子学生らを集めてバリケードを築かせ、
意見の異なる代議員の入場を妨害、力づくで組織を分裂させました。

 「婦人民主クラブ」の名称を奪われ、本部建物も機関紙「婦人民主新聞」も奪われて
不当に除名、支部解散させられた22の支部は、
「私たちこそ婦民の本流。」と直ちに「婦人民主クラブ再建連絡会」をたちあげ、
機関紙「婦民新聞」を発刊しました。

平和を手離さず
 再建連絡会は活動を続け全国で会員を増やし、共同行動にも積極的に参加して
連帯を強め、組織を固めて1986年10月、再建達成全国大会を開催しました。
連絡会体制を解いて、全国単一組織として「婦人民主クラブ(再建)」と名称をかえました。
さらに2006年11月、婦民創立60周年を期して
「婦人民主クラブ」と正式名称を回復しました。

 分裂策動に狂奔した側は、1984年に再分裂し、
それぞれ「ふぇみん婦人民主クラブ」「婦人民主クラブ全国協議会」と名乗っています。

 私たちは「婦人民主クラブ」創立の初心を失わず、趣意書、綱領を原点にすえて
「私たちは平和を手離さない」を合言葉に
平和やくらし、子どもや女性の権利を守る活動を続けています。
いくつかの専門部を設けて学習を深め行動を起こしています。
また全国の支部でも
会員の要求に根ざした学習講座やコンサート、文化活動などを行っています。

 なるほど、歴史と伝統のある会だ。

 デモもご一行とご一緒したが、シュプレヒコールも大声で皆さんなさっているし、足元もしっかり。こういう女性たちは、本当に頼もしく思える。

 さて、座らせていただいた席は結構前の方なので、ステージは、こう見える。
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 定刻6時半、集会が始まった。
 発表順に発表者をご紹介。
①高田健(許すな!憲法改悪・市民連絡会事務局次長、九条の会事務局員)
②枝野幸男(民主党)
③小池晃(共産党)
④吉田忠智(社民党)
⑤主濱了(生活の党と山本太郎となかまたち)
⑥神田香織(講談師)
⑦鎌田慧
⑧伊藤真美(安全保障関連法案に反対する医療・介護・福祉関係者の会)
⑨雨宮 処凛
⑩佐高信
⑪池田亮子(安保関連法案に反対するママの会)
⑫山岸良太(日弁連)
⑬小山内美江子
⑭古今亭菊千代
⑮落合恵子

 印象に残った内容を記したい。

 神田香織という講談師は、初めて知った。
 「はだしのゲン」も演目に入っているらしい。「講釈師、見てきたような嘘をつき」をもじり、どういう嘘をつくべきか、安倍晋三は私の講談を聴きに来い、と威勢のいい啖呵が、大いに結構。
「講談協会」公式サイトの神田香織プロフィールのページ

 伊藤真美さんが、医者、看護師、介護士などの医療関連従事者による組織に二週間で4,000名の署名が集まったが、医者は30万人、看護師は140万人、まだまだこれから、と力強い発言。期待しよう。
「安保保障関連法案に反対す医療・介護・福祉関係者の会療」のサイト

 すでに14000名の署名を集めたという「安保関連法案に反対するママの会」は、先週、渋谷でのデモがメディアを賑わせた。池田亮子さんの「ママは戦争しないことに決めた」の言葉は、実に深く会場に響いたように思う。
「安保関連法案に反対するママの会」のページ

 昭和5年生れなので今年85歳の脚本家、小山内美江子さんは、椅子に座ったままでの発言だったが、「私は、嘘つきは泥棒の始まりと教わりました。安倍首相は、泥棒です」で会場から大拍手と歓声。女性は、強い。

 古今亭菊千代は、昨年の亀戸でも発言していた。「平和な社会で、落語で笑える日が来て欲しい」と、しっかり落語界を代表(?)して訴えていた。

 トリは落合恵子。とても「レモンちゃん」なんていうキャッチフレーズがあったとは思えない、闘士の姿が頼もしい。

 総じて、女性の発言の方が印象的だった。
 政党からの発言者には、実に生ぬるいものもあったなぁ。

 落合恵子までで7時40分。

 係の方から、参加総数は1万5000人と発表があった。
 その後、シュプレヒコールの練習をしてデモへの誘導、移動してからデモが動き始めたのは8時を回っていた。

 私は「婦人民主クラブ」の幟を頼りにデモに参加。

 多くの方は、集会会場で配布されたプラカードを持っていたが、私は澤地久枝さんの発案で金子兜太書による「アベ政治を許さない」を持参し掲げた。

 ガラケーでは、照明不足で写真は多く撮らなかったが、こんな感じ。

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 国会議事堂をぐるっと回って、流れ解散になったのが、九時少し前だったろうか。

 ご縁のあった「婦人民主クラブ」の皆さんや、集会で発言した人を含め、女性の強さを感じたなぁ。
 SEALDsの若者、そして、歴史ある会や、最近できたばかりの若い母親の組織などの女性、そして、この日も多かった高齢の方の参加者。私も、還暦は過ぎているけど、もっと年輩と思しき方が、たくさん参加されている。

 これは、本物だ。

 アベ政治を許さない幅広い国民一人一人の力の結集、結束を実感した集会とデモだった。

 帰りがけ、一人居残りで飲んだビールが、何と旨かったことか。


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by kogotokoubei | 2015-07-29 12:26 | ある日の行動記録 | Comments(4)
 NHK木曜時代劇「まんまこと」に関連して、名主を含む民間治安組織について、以前も書いた。
2015年7月20日のブログ
 先日は、今野信雄著「『江戸』を楽しむ」(朝日文庫)から引用したが、もう少しこの件について読んだ他の本からご紹介。
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 桃源選書で昭和42年に刊行された川崎房五郎著『江戸八百八町-史実にみる政治と社会』は、江戸の侍と庶民による治安組織の内容をはじめ、江戸を知るために、なかなか参考になる本だった。
 著者は都政史料館に在籍されていた方のようで、数多く江戸関連の本を出している。

 さえ、「まんまこと」の主人公高橋麻之助は、神田で八つの町を支配する古町名主高橋家の跡取り。
 麻之助の飄々とした姿からは、あまり名主の権威が伝わらないので、本書「名主の生活と利殖」より、名主の倅にしても結構権威があったことから、まずご紹介。

名主世襲
 江戸の名主は世襲だから、あとをつぐ倅は生れながらにして名主になる運命にある。こうした制度がどんなに「名主」というものを権威づけていたか、今では到底想像できない程である。正宝事録という本をみると、延享五年(1748)二月、銀座の畳町の名主岡本吉兵衛の倅吉左衛門が、町奉行所に出頭した時、天徳寺門前の仙石屋治兵衛という者が吉左衛門に酔って悪口をついた。酔っていたとはいえ、かりにも名主の倅に悪口をはくなど、町民として場所がらもわきまえず不届至極というので召捕りになり、江戸十里四方追放を命ぜられたとある。名主の倅に悪口をはいてもこの通りである。どんなに「名主」というものが町奉行の方からも重くみられたいたかがわかろう。

 名主の倅といえども、悪口をつくだけで追放の罪になった、というのだ。

 名主の給料については、「『江戸』を楽しむ」とほぼ同じような金額の説明があるが、具体例もあるので、引用したい。

 名主の生活の基礎は地主としてもっている土地を貸しての収入もあろうが、それは別として、多くは何町かの町を支配する、支配の役料、つまり地主階級の町人達が何かと名主さんに迷惑をかけ世話になっているからというので、町として金をあつめ、町人用の一部として名主役料というものを名主に差し出す。いわば固定した給料的な収入である。この役料が生計費の第一だが、名主によって十何町を支配する名主もあり、二、三町しか支配の町をもってない名主もある。だから年に五両か十両程度しか入らない名主もあり、五、六十両はいる名主から百両二百両に及ぶのもあって、その差はいろいろである。
 寛政年中の名主の給料の総額は二百五十人で一万三千二百余両、安政では三千五百両も増加して一万六千七百七十五両といった数字を示している。時代の下るほど人数は減少していったが、かりに二百六十人ほどでこれを割れば六十四両ほどになる。実際にはピンからキリまでといった差があった訳である。最も役料の多かったのは大伝馬町の草創名主馬込勘解由(まごめかげゆ)で三百一両と銀十二匁という記録がある。しかしこんなのは例外で、五十両から七、八十両というところが相当いたようである。
 名主の収入は正式にはこの外、増役料とか沽券書替の奥印料など何やかやと金の入る道はあったが不定期のこと、あてにはならない収入で、由緒ある用達町人として幕府の特権をもつものは別として、名主勤役中は商工業をいとなむことは禁ぜられていた。しかし十両盗めば首が飛ぶという世の中である。五十料も収入があればまあ生活は悪くない部類である。

 前回説明したように、名主は、古い順に草創(くさわけ)名主、古町名主、平名主、門前名主とわかれていた。もっとも権威があるのが草創名主で、家康の入府以前から住んでいた者と、町年寄同様、三河から家康について江戸入りしたという歴史がある名主たち。
 麻之助のような古町名主というのは、将軍家光の寛永年間までにできた三百余の町を支配していた名主である。

 たしかに、五十~八十両の年収で、悪い暮らしではなかっただろうが、先日も紹介したように、家守(大家)の方が、収入は良かったようだ。

 「まんまこと」には麻之助の友人が二人登場する。一人は同じ名主の倅、八木清十郎。もう一人は同心の家に養子に入った相馬吉五郎だ。

 では、同心とはどんな存在だったのか。これは、与力を含めて説明する必要がある。
 「与力同心」からの引用。まずは、与力の人数や収入から。

与力同心
 町奉行所の与力同心は幕府直属の武士である。しかし直属でも一万石以上は譜代大名で一万石以下が旗本御家人である。旗本と御家人のちがいは将軍にお目見えしたかしないかできまる。二男三男は養子にでもゆかぬ限り将軍御目見えということはないから御家人で終る可能性が多い。旗本御家人といってもピンからキリまである。上は九千石なんて大身の旗本だってある。こんなのは大名の一万石よりはいい位である。しかし槍一筋馬一匹の家柄などといっても、キリの方は二百石の禄米取りである。つまり知行の土地をもたず、幕府の米倉から年二回にわけて米で給料をもらい、食べる分以外の米を売って、その費用で生活を賄う身分である。
 与力は二百石の知行で、つまりキリの方に当る。しかし旗本ではない。旗本の資格ではあるが個人個人の知行所というものをもっていない。まとめて何人分という土地の貰い方をしている。与力は二十五騎ずつときまっていた。三町奉行所の時代は別として、南北町奉行所になってからは南北合計五十人である。この五十人が、上総と下総(今の千葉県)でまとめて五十人分の知行所を貰っている。ここの年貢米で彼等の生活を賄っていたのである。
 南と北の町奉行所に各二十五名の与力。年に二百石の知行は、五十人が集団(?)として持つ上総と下総の知行地から配分されていたというわけだ。

 そして、旗本と違って出世することはなく、与力は一生涯与力で特別な職業意識があったと書かれている。

 さて、次に吉五郎や、あの「必殺仕事人」中村主水の仕事であった同心について。
 俸給は三十俵二人扶持で、文字通りの薄給である。ただし、物書き同心になると三俵の加俵があり、年寄り同心になるまでつとめると五俵の増加がある。常に蔵米渡しを貰う身分で、与力のように纏めて領地を支配するといった事もない。ただし出世して「与力」になることができるが、それも容易なことではなかった。
 同心ははじめは南北奉行所五十人ずつと限られていたが、次第に仕事が増加してゆくと共に人員がふえ幕末には百二十人ずつ、南北合わせて二百四十人になった。幕末混乱の時期には特別に百四十人ずつ、計二百八十人になったともいわれている。十八人ずつの増加で二百七十六人という説もある。
 こうしたわずか与力同心合わせて三百四、五十人の人数で、百二十万の人口、世界第一といわれた都市江戸の治安を維持してゆこうとするのだから、容易なことではなかった。
 
 この少ない人数では、大都市江戸の管理が行き届かないので、そこに岡っ引の出番となるのである。
 「まんまこと」の回が進めば、吉五郎が使う岡っ引の登場も増えることだろう。
 何と言っても、時代劇では、半七、銭形平次というスター(?)が岡っ引だ。
 まず、「岡っ引」とは、どんな存在なのか。

岡っ引 
 「岡っ引」というのは「岡」つまり「傍らにいて手引きする」といった意味で、同心の手足になって働くことをいう。世間でいう「目明し」であるが、江戸では中期以降「目明し」という言葉が禁ぜられて、「岡っ引」とよんでいる。岡っ引は別に町奉行所の役人ではない。同心が目をかけている者のうち顔のきいたのが「親分」になって、何人かの居候みたいな若い者をおいて、それらをまた下の働き使いにして活躍させて、いろいろ探偵の役を果すのである。だから岡っ引というのは同心に全く個人的につながる特殊な人々でこれが活躍しないと同心もどうにもならない。片腕とたのむのはこの岡っ引の親分連である。その代り、町奉行所の定員にない人々で、町奉行も同心が何人位の「岡っ引」をつかっているのか、手当の方もどうしているのかは知らない。(知らないことになっていたのだ。)
 ただ同心は自分個人の抱えのようにして年一分(一両の四分の一)位は出していたようである。しかし、ここに問題がある。探偵として活躍するには相当の金がいる筈である。神田三河町の半七親分とか、あるいは銭形の平次親分などと「捕物帳」によくでてくるこれらの「岡っ引」の親分連が、どうして生活していたのかは、多くの作者達も書いてない。まして「ガラッ八」などという居候をいずれもが抱えていて、それらにたまには酒をのませたりする。どうしたらそのような金が出るのだろうか、こうした疑問が起るのは当然である。
 もっとも、何々親分などとよばれる岡っ引は、町の中でも顔役である。ちょっとした事件などで町方の人々から頼まれることもある。「親分のお顔を」などといわれて出て行けば、いずれお礼の金が入ってくる。地主や家持連中からのふだんのつけとどけもある。しかしとてもそんなものだけで暮してゆけたとは思われない。

 たしかに、半七や銭平の様子を見ると、もっと確かな収入源があるはず、と思う。
 その疑問を、本書では次のように解いている。
岡っ引の手当金
 しかし、この謎をとく鍵はある。それは明治になって、東京府が、それまで旧幕府時代からのしきたりとして吉原や深川の遊郭花街からおさめられてきた「捕亡方用人」名義の上納金を免除したことである。従来からの上納金というのは、天保の改革の時、隠売女(かくしばいじょ)の取締りを厳にし、私娼の絶滅をはかり、吉原や深川などの遊所を保護する政策をとるかわり、市中取締りのための南北両町奉行所所見廻り方手先の者を雇う給料分として、毎月百七十両余ずつ、そのほか人数を増すごとに次第にふえ、幕末では年に二千五百六十両という大金を南北両町奉行所に献金していたことをさすのである。「十両盗めば首が飛ぶ」といった世の中に、こんな大金が吉原と深川の遊所から献納されていたのである。
 この金が天保改革までは全くおさめられてなかったかというと、どうも、そうではなさそうで、金額はもっと少なかったろうが、かなり前から町奉行所に「上納」という形でおさめられていて、それが、つまり南北奉行所の取締りの上で、同心連中が個人的に使っている「何町の親分さん」といわれた「岡っ引」の手にひそかにわたり、岡っ引はこの金を利用して、生活費から乾分の八五郎なんて連中を養って、家にゴロゴロさせておき、いざという時には江戸中を走り廻らせるといったことを行なう費用にあてていたのである。


 「捕亡」(ほぼう」とは、逃げる者や罪人を捕らえることだ。
 そうか、吉原や深川の遊郭の治安維持のために支払われた上納金があったか。
 これで、半七や銭平親分たちの収入の謎が解けた。

 考えてみれば、我々が払う税金も、国に対する「上納金」のようなもので、その用途の一つは「捕亡」のためでもあるだろう。
 しかし、あくまで、それは悪い奴を捕まえるためであり、戦争をしようとする悪い奴に渡すためではないぞ。
 また、江戸から東京に渡り守られてきた残り少ない自然を破壊するための道路や競技場を作るための上納金でもない。
 新国立競技場は、ぎりぎりのところでリセットされたが、相当無駄に税金が費やされることには違いない。
 その責任を、誰も取ろうとしていない。
 
 江戸の町奉行、与力、同心などの幕府直属の少人数の組織や、民間の年寄、名主、家守などのよる組織で、よくもあの大都市江戸の治安が維持されてきたものだと思う。
 そこには、庶民同士の相互扶助の精神が働いたことも大きな理由だろう。薄壁一枚で仕切られた長屋暮らしは、長屋全体が一つの大家族として機能していたとも言える。
 落語は、それらをデフォルメしている面もあるが、根底には、あの世界があったのだと思う。

 また、南北の町奉行所は、今日の警察署と裁判所の役割を兼ねていたといえるが、当時としては正当性があったのだろう。
 しかし、権力が集中することによる弊害を解消するために、今日では、役割は分担され、「捕亡」と「裁き」の役割は分かれている。
 それは、「独裁」を防ぐためだ。

 国の仕組みも、本来は三権分立であり、司法・行政・立法のそれぞれの府が、お互いの立場を全うすることで、お互いが牽制し合うことで、健全化が図られるはずなのだ。

 しかし、現在の日本はどうか・・・・・・。

 とても、八五郎や熊五郎、横町のご隠居が平和に馬鹿話をしている時代とは違い過ぎている。

 「まんまこと」に登場する人々のことを調べるにつれて、どうしても、現在のこの国のあり方にまで思いが至るのだ。

 今や、国民一人一人が「岡っ引」のつもりで、逃げる罪人を「捕亡」しなければならないのかもしれない。
 戦争反対と叫んで、悪人に税金の「銭」を飛ばさなければならないのだろう。
 
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by kogotokoubei | 2015-07-28 12:30 | 江戸関連 | Comments(2)


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「東京かわら版」サイトの該当ページ

 関内での柳家小満んの会で購入した本から、もう少し。

 本書のための書き下ろしが最終章の「私の母校、堀口大學、運命の縁、吉井勇。」である。

 まず冒頭のみご紹介。

 堀口大學は私にとって、運命であり、母校である。

 そう、「母校」ってのは堀口「大學」のことであり、シャレなのである。
 この後を続ける。

 私の名前に込められた、吉井勇。その吉井勇の影響を受けた堀口大學は、永遠の憧れだし、日本の詩は、堀口大学だけあれば良いとさえ思えるほど焦がれて好き。
 ここまで言い切る堀口大學に密着取材してまとめた関容子の『日本の鶯』(岩波現代文庫)を小満んは、次のように紹介する。

 椿の活け方に一花三葉という教えがあるが、聞き書きの妙とは、正にその辺であるかもしれない。
 大學先生に「人に」という詩がある。

 「人に」
 花はいろ そして匂い
 あなたはこころ
 そして やさしさ


 語り手は花である。“花はいろ そして匂い”
 聞き手書き手の関さんには、“あなたはこころ そして やさしさ”があるのである。
 聞き書きはこうでなくちゃ。

 「日本の鶯」は、女流画家マリー・ローランサンが、若き日の堀口大學にそっと手渡したという詩で、当時の大學を謳ったものに違いない。

 「日本の鶯」
 この鶯 餌はお米です
 歌好きは生まれつきです
 でもやはり小鳥です
 わがままな気紛れから
 わざとさびしく歌います

 私は、この「日本の鶯」を、関さんの他の著作の既著紹介欄から発見し、自称堀口大學ファンの私としては、その著を知らぬうかつを恥じた次第。手間をかけて入手し、浮かれるような気分で読み終えたのち、私も講座で堀口大學先生を語ってみようと思い立ち、演題には「日本の鶯」を拝借した。仲間の噺家連中からは、「速記本にでもあった噺かい・・・・・・」などと訊かれたが、確かに「日本の鶯」とくると、落語にもありそうな題名である。
 関容子さんも来場したその高座がどのようなものだったかは、本書でお確かめのほどを。

 小満んは、堀口大學について、「根が明るい。底抜けに明るい。快楽はひたすら肯定。美酒美食にもバンザイ。人生を謳歌するために、どこまでも前向き。」と賞賛する。
 勉強不足の私は、今から大學に通おう、と思う次第である(^^)

 次は、吉井勇。

 吉井勇に関しては、小満んは、とにかく「固まる」のだ。

 小満んが、文楽に入門して付けてもらった名前の小勇が、吉井勇に由来していることは有名。
 そのあたりのことからご紹介。

 私の名前に、吉井勇先生の名前から一文字付いた件、また吉井先生に関わるエピソードをかいつまんで津綴る。
 黒門町の師匠に入門してから、しばらく名前が付かなかった。普通だったらすぐ付く。名前がないと、呼びつけるにも不便だから、名前がもらえなかったのは、不安だった。自分じゃだめかなって。
 だから最初は“横浜の”って、馬方みたいに呼ばれていた(笑)。これで若造の青春のプライドはきれいさっぱりズタズタ。実に良いものだ。私が入門させてもらった時期が、ちょうど吉井勇先生が逝かれて一年くらい経った頃で、何かのはずみで小勇とつけられた。

 『あばらかべっそん』を読んで名前とその邂逅は知っていたが、作品にふれたことは無かった。いつぞや師匠が吉井先生の京都に電話した際には、電話口から奥さんに挨拶をしたけれど、当時は何も話せやしない。

 受話器を持ったまま固まっている姿が目に浮かぶ。
 固まる経験は、その後にもあったようだ.

 以前、師匠と、橘ノ圓都さんの米寿記念の落語会(1970年5月、於・宮川町歌舞練場)で、師匠のお供で京都に行った際、“吉井先生のお宅にいくから、お前のつれていく”と、師匠のお供でご挨拶に伺ったことがある。

 石段を二、三段あがった所に玄関がある屋敷。師匠は到着前から“玄関で失礼するから”と言っていた。
 奥様に“これが小勇でございます”とご紹介を頂いたけど、こっちはただ固まっているだけ・・・・・・。

 そんな吉井勇について、次のような文章があった。

 吉井勇をいま、著作で案内するのは難しい。全集、歌集はある。気違い馬楽、盲の小せんとか、そういう風狂な噺家の生き様を小説『句楽の手紙』『師走空』『蝶花楼物語』等に描いている。私はその世界にぞっこんほれこんでいた。噺家の血が騒いだのか、破滅していった風流人と同じことをやりたくて仕方がなかった。
 
 小満んが、そんな気持ちでいたのか・・・と意外な思いもしたが、よ~く考えると、時折江戸っ子の啖呵ですごんでみせる高座には、そういった噺家の血が小満んに流れているのだなぁ、と分かるような気がする。


 堀口大學、吉井勇については、まだまだ興味深いことが書かれている。

 もちろん、全体として、「酒・肴・人・噺」に関する“ご馳走”がてんこ盛り。

 この本、そのご馳走の味が実に深いし、後味が良い。

 あらためて、落語愛好家の方のみならず、お奨めします。


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by kogotokoubei | 2015-07-25 16:55 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(0)
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「東京かわら版」サイトの該当ページ

 関内での柳家小満んの会の出張販売で購入した本。編集人の田村さん自ら販売されていた。
 
 東京かわら版が、今年五月に同時二冊刊行した新書は、一冊は長井好弘著のもので、もう一冊がこの本。

 まだ、Amazonには載っていなかったので、上記のリンク先は東京かわら版のサイトである。

 「東京人」や東京有名百味会の「百味」など、さまざまな雑誌や会報などに掲載されてきた内容を編集したもの。

 東京かわら版のサイトにある宣伝文を引用。
多くの雑誌に発表された原稿を再構成し、書きおろしも加えました。とても美味しそうな食べ物の描写、様々な食(酒・肴)の蘊蓄に加え、小満んが出逢った、人、アートへの思いも綴られました。堀口大學、吉井勇への思いも披露されています。収録された48篇のエッセイは、博識の小満んならではの、気品ある世界観を堪能出来る非常に貴重な内容。ゆったりとした読み心地が、なんとも気分の良い一冊です。小満んの素敵な俳句、イラストも掲載しています。

 このように書かれているように、必ずしも「食」のみに関する内容ではなく、幅広いテーマについて書かれたエッセイ集と思った方がよいだろう。
 副題の「酒・肴・人・噺」とあるのが、読みながら頷ける。

 当初「落語の本」のカテゴリーにしようと思っていたが、読了後は、「今週の一冊、あるいは二冊」が相応しいと思った。

 なぜか・・・・・・。

 私は、この本で初めて香月泰男という画家を知った。

 沼津の文化を語る会が発行している「沼声」に掲載された内容をご紹介。
 香月は山口出身なのだが、それも良し、としよう。


 命の豆の木

 香月泰男の画境はシベリア抑留の日々が魂となって昇華したものに違いない。
 山口県大津郡三隅町にある町立「香月美術館」へはすでに数回立ち寄っており、軽いタッチの明るい作品や、戦前の各種入選作にも親しみを覚えるのだが、やはり、あの重厚な黒基調としたシベリア・シリーズの作品には、切々たる命の叫びを感じて、背筋を正さずにはいられない。
 シベリアでの抑留生活の過酷さ、悲惨さは想像を絶したようだが、香月泰男を画家とし知ったロシア兵は、絵具のないまま収容所の壁にスターリンの肖像画を画けと命じ、そこから生まれたのが煙や廃油で作った黒の絵具で、復員後、数多の非難を押し切って、独自の黒絵具を使って画き続けたシベリア・シリーズは、かつて類のない美の世界を創り上げたのだった。
 シベリアから持ち帰った命の糧であった豆の何粒から“サン・ジュアン”の木となって、美術館の庭にも植えられている。

 シベリア・シリーズ57点は、遺族により45点を山口県へ寄贈、残り8点が山口県に寄託され、1979年開館の山口県立美術館に展示されているようだ。

 小満んが数回訪れたという香月泰男美術館は、三隅町が現在は長門市になったので、長門市の管理である。
 サイトによると、現在「香月泰男 海・山 展」が開催されているようだ。
香月泰男美術館のサイト
 同サイトには、次のような奥さんの言葉が紹介されている。

  主人は口下手でしたから
  シベリヤでの体験は絵で語るしか
  なかったのでしょう。


 山口県立美術館のサイトからプロフィールをご紹介。
山口県立美術館サイトの該当ページ


三隅町(現:長門市三隅)出身。東京美術学校卒業。国画会を中心に数多くの展覧会に出品。最初期は梅原龍三郎の影響を受けた作風であったが、徐々に透明な色調の独自の作風を確立。1943年に応召、シベリア抑留を経て47年帰国。戦後、シベリア抑留体験テーマに<シベリア・シリーズ>を発表し、1950年代末から炭と方解末を使った材質感あるモノクロームの画面と、深い人間性の洞察をふまえた制作で著名になる。1974年3月8日死去。62歳

 昨年、没後40年記念展が開かれたようだ。美術館のサイトのページの「原画から探る、シベリア・シリーズ」が、実に興味深い。
「山口県立美術館」サイトの該当ページ

 山口県のサイトに「北へ西へ」が掲載してあったので、お借りした。
山口県サイトの該当ページ

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 ソ連兵から「帰国する」と言われながら,祖国とは違う方向(北、西)へ向かう列車に乗せられた、日本軍捕虜たちの不安感や絶望感の高まりを描いたものだ。

 この本には、数多くの食、酒、肴のご馳走のことが、小満んならではの文章と自作、他作を含む多くの俳句、川柳などを交えて書かれているが、私は香月泰男について書かれたこの短い文章を、まっさきに紹介したいと思った。

 もちろん、絵画なので、‘見る’ご馳走ということで本書に加わったのだろう。
 しかし、ご馳走として味わえるかどうかは、その人の味覚次第でもある。
 この人類にとって貴重なご馳走を、同じ山口出身のあの男は味わうことができるだろうか。

 そもそも、安倍晋三は、香月泰男と彼が描いたシベリアを、さて、知っているのだろうか。

 昨今、噺家さんによっては、マクラで時事的な風刺をふって本編に入る方も少なくない。
 その舌鋒が似合うのは、やはり、それ相応の年齢、見識がある噺家さんだ。

 小満んは、ほとんど、時事的な要素をマクラでは含まず、あくまで、噺の内容に沿った俳句や川柳などをふって、江戸の香りを漂わせて本編に誘い込む。
 きっと、江戸の噺をするのに、平成の世の雑音は野暮、と思っているような気がする。

 しかし、このエッセイ集の小品を読むだけでも、小満んの戦争に関する思いは、しっかり伝わってくる。

 過去から現在にかけて、多くの学者、作家、芸術家、一般庶民が、それぞれの経験や考えから反戦を訴えてきた。
 敗戦から70年。もう70年、あるいは、まだ、70年。
 江戸から明治維新、日清、日露の戦争、そして太平洋戦争という歴史の中で記された貴重な反戦へのメッセージを、埋没させてはならないと思う。
 もちろん、香月泰男という画家も、その中に入るだろう。
 私のような者を含め、一人でも多くの方が知ることは大事だと思う。
 小満んと編集の田村さん、東京かわら版に感謝したい。
 
 本書には、もちろん、楽しく読める食べ物のネタなども豊富だ。「寄席がハネたら行きたい店」など、涎が出てきた。
 しかし、ところどころに、こういった食とは違う‘ご馳走’が挟まれているのが、程よいアクセントになっている。

 小満んと料理人や陶芸作家、漆芸家などとの交流や、同好の士との舟遊びや旅行記なども楽しい。
 この本のための書き下ろし、「私の母校、堀口大学。宿命の縁、吉井勇。」も貴重だ。

 そのどれもが、小満んの別な著作のお題を借りるなら、「べけんや」なのだ。
 
 こういう本こそ、売れて欲しいと思う。

 
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by kogotokoubei | 2015-07-24 21:26 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(2)
 今、もっとも楽しみにしている独演会が、この会である。

 この独演会ほど、手作り感たっぷりで、人の温もりが伝わる会はないように思う。
 この日も受け付けには師匠の奥さんとお嬢さん。そして、この日は、その向い側のテーブルで、東京かわら版で発行された師匠の新刊本を販売していた。

 コンビニで買ったおにぎりをロビーで食べながら、モニターを見たら、開口一番は林家つる子が『やかん』を演じている。
 あら、古今亭始がやって来た。受け付けで小満ん師匠の奥さんに挨拶し、私の目の前を通って、楽屋につながると思しきドアを入って行った。これは、小満ん師匠の噺の勉強かな・・・・・・。
 おにぎりを食べ、トイレに行ってロビーに戻った。
 『小満んのご馳走』という本を販売していたのは編集者の田村直規さん。田村さんと少し話していたら、師匠の奥さんから、「前座さんも聴いてあげなさいよ」とのお言葉。
 「私は前座でも、高座の途中からは会場に入らないので・・・・・・」と逃げた(^^)
 田村さんに本の見本を見せてもらっているうちに、もうじき開口一番もサゲになりそうなので、仲入りであらためて拝見しようと会場へ。
 
 この日も、入りは六分から七分程度だったろうか。
 
 ネタ出しされていた三席について順に感想などを記す。

柳家小満ん『あくび指南』 (25分 *18:46~)
 あくび以外の「喧嘩指南所」「釣り指南所」をマクラでふる。喧嘩っぱやい江戸っ子の啖呵が鮮やかだし、釣りの師匠が「あいなめ」「かわはぎ」「河童」の釣糸の引き具合を教える所作も楽しい。
 男が近所に出来た「あくび指南所」に行こうと仲間を誘うが、過去のことがあるので、おいそれとは話に乗らない。清元(「喜撰」)では、筋が悪くさっぱり進まなかったこと、踊り(端唄「夕暮れ」)では、舞台から落っこちて客席のお婆さんに倒れ込み、仲間が家までお婆さんをおぶって行った、など。具体的な演目を挟むあたりが、小満んならではだなぁと思う。
 強引に仲間を連れて行った指南所には、たしかに期待した粋な女性がいたのだが、それは師匠の女房。
 師匠登場。この師匠、日常の欠伸は‘駄’欠伸と切り捨て、「下地」のない初心者は‘四季の欠伸’から始めるのが良いだろうと、それぞれの季節の欠伸の概要を丁寧に説明する。
 春の欠伸は、ひねもすのたり、うららかな湯山旅での欠伸、秋の欠伸は、虫の音を聞き一本つけながら友を待っているのだが、待ち人来らず、月が傾きかけた時に出る欠伸。冬の欠伸は、草双紙でも読んでいたら、猫が伸びをして欠伸をしているところを見て、つられて出る欠伸。時節柄、今回は夏の欠伸にしましょう、となった。
 夏の欠伸での師匠と男のやりとりも、実に楽しい。小三治なら、吉原での花魁との会話をもっと盛り上げるが、そのへんは小満んならではの品格を落とすことはない。
 師匠の「夜は吉原(なか)にでも行って、粋な遊びをしましょうか」に、男が「粋な遊びってぇのが難しいいんだ」と答える場面も、この人が言うから、説得力がある。
 二人のやりとりを見ていた連れの男が、「なにが粋な遊びでぇ、いつも馬引っ張ってくる野郎が」とか、「八百膳の玄関がどっち向いているかも分からねェ野郎が、なに船遊びだ。渡し船にさえ乗ったことがねぇのに」と、ぶつぶつ言うあたりも、実に可笑しい。
 この噺は、客が見て聴いているうちに、大川に浮かぶ船や首尾の松の情景、のどかな初夏(猛暑ではないだろう)の温度を感じ、つい、自分も欠伸しそうになれば、好高座だと思うが、まさにそういった空気を会場全体で感じることができたように思う。
 今年のマイベスト十席候補としたい。ぜひ、余興としてでもいいのだが、秋や冬の欠伸を題材にした高座も聴いてみたい。一杯やりながら月見をして友を待つ風情や、猫につられる出る欠伸なんてぇのも楽しそうだ。

柳家小満ん『盆々唄』 (26分)
 すぐに再登場。「あくび指南は○○○師匠に習ったのですが」という声が、拍手の後半部分と重なって聞こえなかった。仲入りで本を販売していた田村さんから「小円朝師匠です」と教えていただいた。
 三代目三遊亭小円朝だ。明治二十五年生まれなので、文楽と同年。東大落研の顧問として有名だが、多くの若手落語家を育てた噺家さんとして知られる。『あくび指南』も十八番の一つに数えられているから、なるほど、である。
 さて、二席目のネタは、志ん生の十八番として知る人ぞ知る(?)噺。
 八丁堀玉子屋新道に住む背負いの小間物屋、源兵衛とおみつの夫婦には、子どもがいない。浅草の観音様に三七、二十一日の願掛けをし、五回り目の満願の日の十月十四日。源兵衛がお参りからの帰り道、天王橋にさしかかると人だかり。女の子の迷子だった。三つくらい女の子が泣いているが、源兵衛が声をかけると泣き止んだ。これは、満願の日に観音様が授けてくれた、と思った源兵衛、「里親を知っている」と周囲の人に嘘をついて、女の子を家に連れて帰った。
 拾った子なので、おひろと名づけ可愛いがる。時は流れて翌年のお盆。当時は、盆踊りの衣装が派手になり過ぎ、倹約のため禁止令が出されており、許されていたのは佃の念仏踊りだけ、と説明。このへんの話が、小満んならでは。
 それでも夜になると女の子たちが通りを歩きながら「盆々唄」を歌う風習があった。
 志ん生版を元にすると、次のような歌詞。
 ♪ぼん、ぼん、盆の十三日。
  江戸一番は八丁堀。
 (*志ん生は、十三日ではなく十六日、「江戸一番の踊りは~」としていた)
 八丁堀の近所の子供、はなちゃん、ゆきちゃんは、こう歌うのだが、おひろは、八丁堀ではなく、江戸一番は「相生町」と歌った。
 源兵衛さんが、「はっ」とする場面。「きっと、相生町に親の家があるんだ」と察する。
 可愛いおひろを手放すのは辛いが、おひろの実の親の辛さを思うと・・・やはり、おひろを返すべきだと決心。
 まず神田の相生町を探すが、それらしい家はない。そこで、本所の相生町へ。髪結床へ行って迷子の事を客に尋ねる。ここで、へぼ将棋をうっている連中のやりとりに『浮世床』のような楽しさを挟む。
 ようやく材木問屋伏見屋(志ん生では越前屋)で、去年十月に迷子騒ぎがあったと分かった。
 伏見屋の主人(祖父)が、おひろにそっくりなので、間違いないと思った源兵衛さん、いきさつを話すと伏見屋も大喜び。おひろの本名はおたまだった。ここまで慣れ親しんだ源兵衛夫婦と離れるのはおたまが可哀想と伏見屋の離れに夫婦を住まわせた。その後、斜交いの家が空いたのでそこで源兵衛夫婦に小間物屋を開かせた、メデタシメデタシというお噺。
 小満んは、志ん生と同様に床屋での滑稽なやりとりを挟んでいたのだが、この場面を入れるべきかどうかは、結構悩ましい。人情噺として通すなら、ここはあっさり、という演出もあり得る。
 立川談四楼のこの噺が評価が高いようだが、未見。一度聴いてみたいものだ。
 
 ここで仲入り。外で一服してからロビーへ戻ると、佐平次さんとI女史が立ち話中。I女史、『小満んのご馳走』購入されたとのこと。私が「あくび指南は誰に教わったんでしたっけ?」と二人にお聞きするとお二人も聞き取れなかったらしい。小満ん師匠の奥さんに佐平次さんが尋ねると、田村さんが「小円朝師匠です」とのこと。モニターがすぐ近くなので、はっきり聞こえたのか、あるいは、事前にご存知だったのか。その答えが嬉しくて、私も本を買ったのであった。
 その後、会場へ戻り、三席目だ。

柳家小満ん『三十石』 (38分 *~20:28)
 昔の旅の大変さを少しまくらでふって、すぐ本編へ。
 初代文枝が、それまでの前座噺を大ネタに仕立て直したと言われる上方を代表する噺。文枝が再構成した東の旅シリーズの締めくくりとなる噺で、『三十石夢の通い路』とも言う。
 先日、夢丸の国立演芸場の真打昇進披露の会で、小南治が短縮版をかけたが、彼は小南の弟子なので不思議はないが、東京の噺家さんで演じる人は限られている。
 小満んは、いったい誰に稽古してもらったのかな。東京へは名人と言われた四代目橘家圓喬が伝えたらしい。圓喬の高座を聴いたことのある圓生は、より磨き上げるために、五代目松鶴に稽古をしてもらったと言われる。その圓生に小満はは稽古をつけてもらったのだろうか、などと思いながら聴いていた。
 東京版なので、江戸からの二人組が伏見から三十石に乗る、という設定。
 伏見から大阪に下る船は、到着時間が早すぎないように調整するので、一番船、二番船、三番船も、ほぼ同じような時間に着いたと説明。そうなんだ。
 人形屋での店員とのやりとりは割愛し、「子どもの疱瘡に効くという‘寝牛’が三百文、そんな‘ねうし’はねぇ」というお決まりの洒落を、回想として語らせた。
 二人は船宿寺田屋の浜へ。あの坂本龍馬がよく利用した、寺田屋である。
 主人が喋りまくる場面が、楽しかった。
 帳面を付ける番頭に、客が偽名を語る件の後、宿の高等戦術(?)で、まだ蒸れていない飯と熱々の汁を食事に出し「舟が出るぞー」の声。これ、慌てて食事をとらずに船に乗った客が、なかなか船が出ないと、今の時代なら訴訟ネタになるんじゃなかろうか(^^)
 船上での‘なぞかけ’が一つのヤマ場。
 ・数の一をかけて→感心な寺の小坊主→辛抱(芯の棒)すれば住持(十の字)になる
 ・いろはの「い」とかけて→茶の湯のお釜→「炉(ろ)」の上にある
 ・「いろはにほへと」とかけて→花盛り→散にぬる前
 なんてやりとりで会場も大いに沸いた。
 枚方・鍵屋浦の「くらわんか船」とのやりとりなども結構だったのだが、そういった船の上での情景の合間に挟まれた「舟唄」が頗る良かった。

 小満んが渋い声で披露した節は、次の四つだった(はず)。

♪やれ~ お月さんでもな~ 博打をな~さるよ~ 
  雲の間(あい)から長寺て~ら~と~よぉ~ィ やれさよいよいよ~い
♪やれ~ ここはどこじゃとな 船頭衆に問ぉ~えばよ
  ここは枚方な 鍵屋浦よ やれさよいよいよ~い
♪やれ~ 鍵屋浦には 碇はいらぬ 
  三味や太鼓で 船止める やれさよいよいよ~い
♪やれ~ 奈良の大仏さんをよ~ 横抱きに抱ぁ~いてよォ~ィ
  お乳飲ませた乳母さんはどんな大きな乳母さんか
  一度対面がしてみ~たい~よ~ぃ

 これらの舟唄が叙情に溢れている。
 そして、明け方、舟が大阪に近づくにつれ、朝もやの中から百姓家の屋根が見え始める中を船が通り過ぎる、その情景が目に浮かぶ。
 乗船客が白河夜船なので、悪い奴が盗みを働く。その男が陸に上がったが、船頭の機転で進路を逆にして「上り船」のように偽って、再びこの男を船に乗せて盗んだ金を取り戻すところでサゲ。
 サゲがやや唐突な印象がないでもないが、舟唄を挟み、三十石の旅の風情を見事に描く、東京の噺家さんではなかなか味わえない高座、今年のマイベスト十席候補としたい。

 ちなみに、かつてのサゲを興津要著『古典落語(続)』から、引用する。上り船と偽って盗人を乗せる場面から。
「おい、ひとり乗せてんか?」
「おう、上りじゃ」
 と、うまく乗せまして、首尾よく賊をつかまえました。
 聞いてみますと、盗まれたのは、京都の大仏前、こんにゃく屋の権兵衛と申します男で、五十両の金をとりもどし、
「これも船頭はんのとんちのおかげや」
 と、お礼として五両を船頭におくりました。
 盗人は苦労して三文にもならず、船頭が五両もうけましたので、権兵衛ごんにゃく船頭が利。
 巻末の解説で、次のように補足があった。
大正時代ごろまでもちいられた「権兵衛ごんにゃくしんどがり」ということわざの地口で、このことわざは、骨折り損のくたびれもうけの意味だった。
 ネットで調べたところ、京の蒟蒻屋の権兵衛が、他より大きい蒟蒻を作って、同じ値段で売ったところ大いに売れたけど、利益はまったくなく骨折り損に終わったという話に由来しているようだ。
 たしかに、今では、この地口の可笑しさが分からないよねぇ。
 私が持っている上方の噺家さんの音源では、五代目文枝も枝雀も、このサゲは使っていない。
 文枝版は、三条から始まる喜六と清八二人の会話が実に楽しい。船頭の強面ぶりが印象的だ。舟歌も、渋い声で聴かせる。
 そして、枝雀。マクラでリニアモーターカーの話で盛り上がるとはいえ、50分を越える長講。伏見から始まるが、冒頭の人形屋と二人のやりとりや、番頭の帳面づけでの偽名シリーズもめちゃ可笑しい。「もう一人、お女中さんを乗せてくれ」という船頭の要求で、かってに若い女だと妄想する男が、なんとも可笑しい。舟唄も、なかなか良いのだ。
 私の持っている音源では、文枝も枝雀も、舟歌を聞かせて、枚方でサゲている。
 盗人は登場しないし、だから権兵衛ごんにゃくも登場しないのだ。
 そういう意味では、圓喬から圓生が継いできた東京版の噺が、本来のサゲに接近している、ともいえなくはない。
 しかし、文枝や枝雀の上方版は、はめものも入るし、枝雀の場合は、舟歌の合いの手もある。本来は、上方噺だなぁ、とは思う。だからこそ、小満ん、はめものもない状況で、東京版としての通しでの高座、価値があるのだと思う。


 さて、終演後は佐平次さん、I女史と、いつものお店で居残り会。
 ‘こち’や‘だるま烏賊’の刺身良し、くさやも絶品、そしてステーキまで、すべて良し。もちろん、落語を含む話題も美味しい肴となって徳利がどんどん空くが、小満の会は、お開きの時間が早いので、帰宅は日付変更線を越えることはなかったのであった。


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by kogotokoubei | 2015-07-22 21:33 | 落語会 | Comments(10)

 NHKの新しい木曜時代劇「まんまこと」の主人公の高橋麻之助は、神田の古町名主の跡取り息子。
 
 この物語は、町奉行が担当するほどのことではない庶民のさまざまな問題を、町名主が替わって裁いたり調停したりする、ということが筋書きの基本となっている。


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今野信雄著「『江戸』を楽しむ」(朝日文庫)

 では、町名主などを含む庶民の自治組織がどのようになっていたかを、今野信雄著「『江戸』を楽しむ」から、ご紹介。

 江戸の町奉行などの公的な警察組織は、人数が実に少なかったことを説明した後の章である。
   町年寄・名主・家主・自身番・辻番

 こうした少人数による治安組織のためには民間の協力が必要になる。そこで一般庶民側の治安組織を見てみましょう。
 まず、江戸には三人の「町年寄」がいたのです。家康が三河からわざわざ呼びよせた名門の家柄で、奈良屋、樽屋、喜多村の三家。後に奈良屋は館、樽屋は樽という苗字に変わりましたが、幕末まで代々町奉行を助けて民政に力をつくしました。
 たとえば、町奉行から町触れがでる。それを江戸中の名主に伝達するのも彼らの役目です。この町触れの中には、毎年季節ごとにきまりきったものもあり、そうしたものはいちいち町奉行の手をわずらわせず、町年寄が自主的に発行しておりました。
 また江戸城の埋め立てが進んで新しい土地ができると、これを区画整理しなければならない。この区画整理と受け渡しも町年寄の役目。ほかにも町奉行の諮問に対する調査や答申、民事関係の訴訟の調停、商人や職人を統制する業務と、実に繁多です。
 いわば町奉行が都知事なら、町年寄は副知事クラス、それだけ武士と同等の権威を認められておりました。この町年寄の収入は、拝領屋敷のほかに、市中に二千坪ほどの拝領地があったため、その地代が約六百両ぐらいあったそうです。

 このように、町奉行に代わる民間治安組織のトップに、町年寄がいた。
 その町年寄の下に、名主たちが存在したのだ。

 この町年寄の下にいたのが「名主」です。そして、同じ名主でも、古い順に草創(くさわけ)名主、古町名主、平名主、門前名主とわかれており、もっとも権威があるのが草創名主。なにしろ家康の入府以前から住んでいた者と、町年寄同様、三河から家康について江戸入りしたという歴史がある名主たちです。
 また、古町名主というのは、将軍家光の寛永年間までにできた三百余の町を支配していた名主で、一人あたり平均すると六、七町を支配しておりました。人数は、大岡越前守がこの名主を十七組にわけた時は二百六十四人いたそうです。この番組は幕末には二十三組にふえたけれども、名主の総数は逆に減っていたということです。

 麻之助の高橋家、清十郎の八木家は古町名主なので、三代将軍家光時代までにできた町を支配していた、二百数十家の中の名主、ということになる。高橋家は八つの町を支配していた、とのことなので、古町名主の中でも、大きい方だったかもしれない。

 彼ら古町名主たちは、何をしていたのか。

 では、彼ら名主はなにをしたかというと、町年寄の補助機関ですから、町触れの完全伝達と人別改め、火の元取り締まりと火消し人足の手配など、ほかにも住民統治のすべてといっていいでしょう。
 この名主は、別名を「玄関」というのです。というのは、一般庶民に許されない大玄関が屋敷にあったからで、もちろん権威の象徴として黙認されていたものですが、町内の紛争はおおからこの玄関で解決されたそうです。
 そうした彼らの収入は、明治維新より約七十年前の寛政年間に、二百五十人で一人平均五十二両から六十六両、月額にすると、四両一分から五両二分。約三十万円ほどですから、生活はけっしてラクではない。そこで不動産売買とか、奉行所に提出する書類作成に、手数料をとって稼いでいました。また高利貸しをしたり、債権者の肩代わりをして、弱い者を泣かせる悪徳名主もいたということです。

 著者は一両を約六万円として換算している。だから時代によっては現在の貨幣価値でもっと高い収入であったと思うが、それにしても名主という権威に比べて、報酬が良かったとは言えないようだ。
 たしかに、『まんまこと』を読んでも、古町名主とはいえ高橋家が、決してラクな家計ではなかったように見受ける。麻之助が調査などの必要経費などを父宗右衛門に無心をしても、簡単には、父親は首を縦に振らない。
 三回目以降になるだろうが、先が長くはないと思われる病人が食べたがっていた江戸城御用達菓子屋の一両もするという羊羹を土産に買おうとするが、父は金を出してくれないので、清十郎に借りたくらいである。それにしても、なぜ清十郎が、あんなに金を持っていて、吉原にも入り浸っているのかは、ちょっと不思議。父の八木源兵衛が、甘すぎるように思えてならないなぁ。
  「玄関」でいろんなことを解決、と言っても、麻之助の高橋家の例では、玄関の奥に八畳間があるので、決して、玄関に立たせて裁定を行うわけではない。言うまでもないか(^^)

 この町名主の下に、落語でお馴染みの「大家」がいる。
 さて、江戸の末端行政を担当しているのが「家主」。上方ではこれを「家守(やもり)」と呼んでいます。落語などに頻々と登場する「大家」がこれで、現代では持ち家を貸す人を大家といいますが、江戸時代の家主というのは、地主の建てた貸家の管理人で、つまり地主の雇い人になるのです。
 ただし、家の管理だけではなく、名主の下部組織ですから、町年寄から名主を通じて出される公儀の町触れは、大家が必ずもれなく借家人に伝達しなければならない。また町内の変事にはすべて立ち合う義務があり、変死人の検屍やら道路の修理、火の番・夜まわりの監督、帳簿の書き付け、はては夫婦げんかの仲裁から別れ話まで、借家人のプライバシーはすべて知っておく義務があるのです。
 そのためには、新しい借家人からは名前と年齢、出身地、職業、檀那寺などを聞いて、それを名主に届けて人別帳に書き入れてもらう。つまり、住民登録をするわけで、名主がこれを町年寄を通じて奉行所に報告するわけです。
 結構、大家も大変なのだねぇ。
 地主の代わりに店子から家賃を取り立てるのも重要な仕事だが、ご存知のように、店子のなかには、「店賃?そんなもン生れてこのかた、もらったことがねぇ」という剛の者がいる。
 しかし、江戸の大家には、年間四十両にもなろうかという共同便所の糞尿代という大きな収入源があった。
 この家主になるには、株が必要。最低でも三十両、高いものでは二百両もしたという。
 それでも、地主からの給料が約二十両、糞尿代が四十両、新しい借家人の挨拶料や祝儀、盆・暮れの付け届けなどの雑益が十両ほどあり、年収が七十両ほどはあったようだと、本書に説明されている。名主よりも見入りの良い大家もいたということだ。

 「まんまこと」の高橋家のような名主は、上に町年寄、下に家主という民間治安組織の中で、江戸庶民の生活を守る重要な役割があったわけだ。
 権威はあったものの、中間管理職的な悲哀もあったように思う。その割には、決して経済的に恵まれているとは言えず、年収では名主より上の家主も多かったわけだ。

 それでも、たまには身銭を切ってでも支配する町の問題解決に奔走するには、麻之助のような、のんきさも必要なのか、と思ってしまう。
  
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by kogotokoubei | 2015-07-20 12:03 | 江戸関連 | Comments(2)
  16日から始まったNHK木曜時代劇「まんまこと」の録画を観た。
 
 楽しいシリーズになりそうだ。
 なお、「まんまこと」とは、「真真事」で、「本当のこと」の意味。

 概要をNHKのサイトからご紹介。
NHKサイトの「まんまこと」のページ

町奉行では裁けない町内の民事事件を裁定する町名主。その跡取り息子である高橋麻之助と、隣町の町名主の跡取りで、色事にかんしては凄腕の八木清十郎、同心見習いで腕はたつが、石部金吉の相馬吉五郎は、幼なじみの親友どうし。 
麻之助は16までは真面目で優秀な少年だったが、あるときを境に、お気楽な遊び人になってしまう。普段はとんと頼りにならない麻之助だが、実はその推理力には並外れたものがある。毎回、麻之助のもとに持ち込まれるのは、切った張ったの殺伐とした事件ではなく、江戸庶民のかかえるささいなもめ事。ところが、ひとたびもめ事が持ち込まれると、麻のように乱れて解きほぐしがたい事件を、思いもつかない方法で鮮やかに解決していく...!

スタッフは次の方々。

【スタッフ】
原作:畠中恵「まんまこと」「こいしり」「こいわすれ」「ときぐすり」
脚本:吉田紀子 音楽:大島ミチル 語り:柳家小さん
制作統括:銭谷雅義(NHKエンタープライズ) 原林麻奈(NHK)
演出:黛りんたろう 榎戸崇泰 岡田健(NHKエンタープライズ)

 原作者の畠中恵は『しゃばけ』のシリーズで有名だが、私は読んだことがない。
 脚本の吉田紀子は、フジテレビで木曜劇場として放送していた「Dr.コトー診療所」の脚本家。木曜に縁のある人だ。これまで、時代ものを手がけていないようだが、このシリーズなら問題ないだろう。
 演出の黛りんたろう、制作統括の原林麻奈は、傑作だった「風の峠~銀漢の賦~」も担当した人たち。
 語りは、なんと当代小さん。

 このシリーズが始まることを知り、初めて原作である畠中恵の本を読んだ。

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畠中恵著『まんまこと』(文春文庫)

 肩が凝らない本で、すいすいと読むことができた。
 シリーズ第一作のこの本は、次の章で構成されている。

 ・まんまこと
 ・柿の実を半分
 ・万年、青いやつ
 ・吾が子か、他の子か、誰の子か
 ・こけ未練
 ・静心なく

 16日の第一回放送「恋、一途」は、本書の「まんまこと」である。

 この木曜時代劇、侍のシリアスな物語も結構だが、江戸の庶民の生活を舞台に、ちょっとした謎解きを巡る物語、なかなか楽しかった。

 落語愛好家が楽しめる要素がたっぷりだ。
 もちろん、江戸の暮らしや仕事、名主と住んでいる人々との交流などを知ることもあるが、ナレーターの小さんの他に、原作には登場しない元柳橋の芸者で、両国の小唄の師匠として桧山うめ吉が出演。
 最後近くに、原作にはない「宗匠」が登場し、麻之助が一句披露していた。
 宗匠役は市川左團次。
 もし、入船亭扇橋が元気だったら、もう一人、噺家さんが登場するドラマになっていたのではなかろうか、などと思いながら観ていた。

 作者このシリーズについて、文春の「本の話」Webにも掲載されている。
文春「本の話」Webの「まんまこと」のページ

 少なくとも、このシリーズは読もうと思う。

 次回は、「万年青(おもと)」を巡る物語。
 これも、楽しみ。


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by kogotokoubei | 2015-07-18 23:00 | 歴史ドラマや時代劇 | Comments(4)

 一昨日、亡くなった九代目入船亭扇橋のことを書いた。

 あらためて、リニューアル後の落語協会ホームページにある扇橋の訃報を読んで、その無味乾燥、町の回覧板的な内容に、がっかりする。

 あえて、二つの協会の訃報の違いを指摘したい。

 まず、こちらが扇橋の訃報。
落語協会ホームページの該当ページ

訃報 入船亭扇橋

当協会相談役の入船亭扇橋(本名:橋本光永)が平成27年7月10日(金)午後12時38分呼吸不全のため、逝去しました(享年85)

≪略歴≫
昭和6年5月29日生まれ(東京都青梅市出身)
昭和32年 三代目桂三木助に入門 「木久八」となる
昭和36年 二ツ目昇進 「柳家さん八」と改名
昭和45年 真打昇進 九代目「入船亭扇橋」を襲名

通 夜:7月14日(火) 18時~
告別式:7月15日(水) 10時30分~
式 場:平安祭典 高円寺会館 (東京都杉並区高円寺北2-1-7)
喪 主:橋本圭司(長男)

謹んでご冥福をお祈りいたします。

 掲載まで時間がかかったわりに、これだけか。
 他に伝えたいことは、ないのか・・・・・・。

 比較の対象として、落語芸術協会(芸協)の初代三笑亭夢丸の訃報をご紹介。
落語芸術協会ホームページの該当ページ

訃報 三笑亭夢丸

平成27年3月7日(土)午前5時40分
当協会理事の三笑亭夢丸(本名:坂田宏 さかたひろし)が中咽頭癌のため、
都内の病院にて逝去しました。享年69

≪略歴≫
昭和20年10月4日生まれ (出身地 神奈川県横浜市)
昭和39年 三笑亭夢楽に入門「三笑亭夢八」となる
昭和42年 二ツ目に昇進
昭和53年 真打昇進「三笑亭夢丸」となる

若い頃からマスコミで活躍していましたが(主な出演番組、NHK 連想ゲーム、日本テレビ 笑点/ルックルックこんにちは、讀売テレビ 11PM、TBS 街角パラダイス、フジテレビ 3時のあなた、テレビ朝日 アフタヌーンショー、他)、50代半ば過ぎ、自主的にテレビ出演を控えるようになり、落語家としての活動に精力的に取り組むようになりました。それだけにとどまらず、新しい落語の展開を求め自ら懸賞金を出し、『21世紀夢丸新江戸噺し』の台本を全国から募集、寄席の主任を務める際には受賞作を口演するなど、落語の普及向上に寄与しました。
得意演目は「親子酒」「ねずみ」「辰巳の辻占」、新江戸噺しでは「えんぜる」「小桜」「椿の喧嘩」など。

平成22年に発症した中咽頭癌の治療を終え寛解、平成26年2月下席、浅草演芸ホールの主任を務めるまで回復しましたが、同年3月下席の4日目、のどの不調から以後の出演を取りやめ再度治療を受けることとなり、以来療養中でした。
平成26年3月29日、千葉県長慶寺での高座が最後の高座となりました。演目「看板のピン」
平成16年から当協会の理事を務め、長きにわたり協会の指導役としても活躍しました。

すでに決定している弟子の朝夢(小夢と改名)、夢吉(二代目夢丸を襲名)の真打昇進披露興行が5月上席から行われますが、その愛弟子の晴れの舞台を目前にした逝去でした。

お通夜 平成27年3月13日(金)18:00~
告別式 平成27年3月14日(土)11:00~12:00
式場 町屋斎場 荒川区町屋1-23-4 TEL 03-3892-0311
喪主 坂田八重子(妻)

謹んでご冥福をお祈りいたします。

 芸協の訃報には、元気な頃の写真も掲載されている。

 どちらが、内容に人の‘情’が、そして哀悼の念がこもっているかは明白だ。

 この違いは、‘料簡’の違いなのだと思う。

 故人への感謝の念や、よく知らない人にもその噺家さんのことを伝えたいという熱い思いの有無が、これだけの差になるのだろう。
 

 画竜点睛という言葉を思い出す。

 落語協会は、予定した項目を埋めればリニューアルは終了、とでも思っているのだろうが、その内容にどれほど伝えたい思いを込めるか、という肝腎なことを忘れているように思う。

 いまだに、リニューアルが終ったとも何もアナウンスをしていない。
 工事中の迷惑を詫び、今後のホームページ管理と更新に関する方針や‘思い’を表明すべきだと思うのだが、そんな考えは微塵もないようだ。


 トップページで会長の写真を見るたびに、嫌~な思いを抱くのは、私だけではないだろう。
 
 私は、落語協会のホームページリニューアル問題と新国立競技場問題には共通点があると思っている。
 それは、「変えることに決めたんだから、しょうがない」という言い訳が背後から聞こえることと、「誰のため」「何のため」という視点が欠如していること。
 決定の責任者が、逃げていることも共通しているかもしれない。
 落語協会のホームページにどれほどの費用が発生しているかは知らない。しかし、無駄なコストがかかっていたら、これまた、共通しているように思う。


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by kogotokoubei | 2015-07-15 12:24 | 落語協会 | Comments(2)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛