噺の話

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落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。

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 今日で6月も終わる。一年も半分が過ぎた、早い・・・・・・。

 落語協会ホームページ「落語協会の活動」のページに、「謝楽祭 2015」のチラシが掲載された。
落語協会ホームページ

 こういう風に使うつもりだったのか。ちょっと意外だなぁ。
 「落語会情報」にドーンと掲載されるものと思っていたが。

 それはさておき、他にも工事中の項目があったはず・・・と思っていたら、以前トップページにあった、「寄席・落語について」のバナーが消えている・・・・・・。

 これは疑問だなぁ。当初は、旧ホームページの内容を移そうと思っていたと察するが、この内容を作っていては今日6月30日中にリニューアルが完了しないから、「えい、面倒だ!」とばかりに、項目ごと削除したのだろうか(^^)

 これをもって、リニューアル完了、という案内は「最新情報」に出されていないので、復活する可能性もありえるなぁ。

 まったくの‘改悪’だと思うが、なんとか恰好だけはつけた、というところか。

 さて、いつ、落語協会の定席に行こうか、今検討中。


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by kogotokoubei | 2015-06-30 21:55 | 落語協会 | Comments(4)

 先日行った落語会の場所は川崎だったが、その川崎に、落語で反戦を訴えるアマチュアの落語家さんがいらっしゃるのを、東京新聞の記事からご紹介。
東京新聞の該当記事

笑いで反戦 軽妙に訴え アマチュア落語家 寝床家道楽さん
2015年6月28日

 川崎市在住のアマチュア落語家、寝床家道楽(ねどこやどうらく)(本名・中島邦雄)さん(80)が、落語を通じ、平和への思いを訴え続けている。先の戦争で家族を失った寝床家さんは、国会で審議中の安全保障関連法案に関しても「『平和法案』なんてまやかし。起きるかどうか分からない危機で国民を不安にし、軍事予算を増やすだけですよ」と断じ、国の行方に危機感を強めている。 (山本哲正)

 落語の話に入る前に時事的な話題を入れて話す「まくら」のおもしろさが道楽さんの魅力の一つ。最近は「安倍さん(安倍晋三首相)は若だんなです。落語の世界では、ろくな若だんながいません」と話し、若だんなが身代をつぶす「山崎屋」へとつなげる。

     ■

 東京・浅草生まれ。小学四年生だった一九四五年、疎開先の宮城県で、父母と妹、弟二人の家族全員が三月十日の東京大空襲で亡くなったと知らされた。「死に目に会っていないから実感を持てない。『どこかで生きていてくれる』という思いを中学生ぐらいまで引きずっていました」

 都内の高校を卒業。親がいないことで就職に苦労したという。卒業した都内の高校の先生に勧められ裁判所の速記官になったが「悲しみ、苦しみに長く引きずられる人々を生み出す戦争は絶対いけない」との思いを強めた。

 戦後、ラジオから流れてくる落語に、両親との下町暮らしの記憶を重ねた。落語が心の支えとなり、聞き覚えて、速記官時代に寄席に出始めた。キャリアは約四十年。今も落語仲間の会や小学校の落語教室などで月四回ほど落語を披露する。東京大空襲資料展に合わせて三月十日前後に東京・浅草で開かれる寄席にも出演してきた。七月十五日には足立区で開かれる「憲法のつどい」に出演する。

     ■

 二〇〇四年ごろ、改憲に向けた政治の動きが出る一方、九条の会の発足など平和憲法を守る活動も活発化。そのころ落語「生き字引」を作った。八っつぁんが大切にする憲法を「新しいのと取り換えたい」と外国人が訪ねてくる。面白くも、かみ合わないやりとりが続き、見かねた子どもが「九条は世界遺産に登録しちゃえばいい」と言う。この話は時機に合って評判を呼んだ。

 最近、まくらの時事話とともに力を入れているのが禁演落語。戦時中の精神や雰囲気に合わない、酒や浮気話が出てくる落語は当時できなかった。それを禁演落語というが、あの嫌な時代に戻ってはいけないとの思いから、しゃべっている。

 話のタネには困らないようだ。「フグは毒があるから全部食べたら当たるが、肝を外せば食べられる」。横畠裕介内閣法制局長官はこう発言し、他国を武力で守る集団的自衛権をフグに見立て、「限定的」な行使なら合憲との考えを示した。寝床家さんは「次々出てくる迷言から、まくらを練りたい。こんな国にされて悔しいと言うにはまだ早い。自分にできることをしなければ」と意欲的。

 現政権については「国民の生命や幸福追求の権利を守るため集団的自衛権を行使するとおっしゃいますが、いま国民の命や幸福追求を守っているかといえば、全然そうじゃあないね」とチクリ。

 小学生の時に東京大空襲で親兄弟を失ってからの寝床家道楽さんのご苦労は、察するに余りある。
 
 それにしても「山崎屋」など、本職の噺家さんでも、なかなか手ごわいネタだが、凄い。
 私などは、とても出来そうにない。

 道楽さんは、これまでの人生で、深い悲しみを味わってこられただろうが、落語との出会いが癒しになったのであれば、落語愛好家としても非常に嬉しいことだ。

 少し調べてみたら、今年5月に「むさし寄席」という名で横浜にぎわ座の芸能ホールで落語会を開催していらっしゃる。
横浜にぎわい座サイトの該当ページ
 第35回だったとのこと。結構、歴史がある。

 自作のネタにおける、憲法第九条を世界遺産に、という発想は昨今‘九条にノーベル平和賞を’という活動があり、私も署名したが、道楽さんは同じような精神を先取りされていたということだ。

 落語という芸により、笑いに乗せ、ひとひねりした権力批判こそ、言論の自由を見事に行使するものではないかと思う。

 とんでもない発言が飛び出した自民党の勉強会は「文化芸術懇話会」というお題だったようだ。
 だったら、道楽さんを呼んで、ぜひ落語を聴いてもらいたいものだ。
 しかし、馬鹿な若旦那が、「まるで自分たちの親分じゃないか!?」と笑える感性を持った参加者はいそうにもないから、無駄か(^^)


 NHKの「クローズアップ現代」で、4月6日に米朝追悼番組の一環として、“庶民の笑い”を絶やさない ~落語家・桂米朝さんの生涯~が放送された。
 今も、NHKのサイトで、動画を見ることができる。
NHKサイトの該当ページ
 この中で、脚本家の大石静が、こんなことを言っている。
‘笑いというのは、実は知的なもので、なんか笑いによって、ある風刺をする、権力を批判するというのが一番、洗練された方法じゃないですか。
ストレートに意見を言うよりね。
そういう意味でも、反権力なんかもさらりとやってのけるという意味において、洗練されているっていうことじゃないかと思いますけれども’
 同感だ。さすが「ふたりっこ」や「功名が辻」の脚本家。

 もちろん、面白おかしく笑わせてくれるのも、落語の重要な要素だが、‘笑いによって社会を風刺し権力批判をする洗練された芸能’であることも、落語の重要な側面である。


 にぎわい座の会が日曜開催を通例とするなら、私が行きにくい日なのだが、道楽さんの会の情報を調べ、何とかお聴きしたいと思う。



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by kogotokoubei | 2015-06-29 18:10 | 幸兵衛の独り言 | Comments(2)

 ようやく野暮用の多かった時期も過ぎ、久し振りの落語会。
 落語芸術協会(芸協)ホームページで見つけた、我が家から遠くない新百合ヶ丘駅近くでの、地域落語会。
 芸協の噺家さん三人、そして落語協会が一人で四人が出演。  
 会場は、何度も行っている麻生市民館からすぐ近くで、駅から十分とかからない場所にあった。
 ざま昼席落語会はよく行くが、第31回を迎える川崎の会は、初めてである。
 いただいたプログラムには、「主催:川崎市アートセンター」「後援:しんゆり・芸術のまちづくり」と記載されている。

 左橋と米多朗が地元川崎在住で、この二人を中心に開催されているるようだ。
 
 全労災さんの団体のお客さんもあったようで、会場の前から同団体の係りの方に誘導されて三階に設置されたそちらのお客様専用受付に行ってしまい、「昨日電話で予約した者です」と言ったが、リストに名前がない。そりゃそうだ。
 会場と同じ二階の一般の受付でチケットをもらい、しばし待って一時半に開場。自由席なので、階段状、約200席のホールの前方中央に席を確保。非常に観やすい会場だ。開演前に見ると、九割ほど席が埋まっていた。
川崎市アートセンター アルテリオ小劇場
 終演後の交流会でお聞きしたら、約160名のご来場で、この会として最多とのこと。

 次のような構成だった。
--------------------------
三遊亭遊松 『寄合酒』
笑福亭和光 『荒茶』
(仲入り)
初音家左橋 『棒鱈』
桂米多朗  『文七元結』
--------------------------

三遊亭遊松『寄合酒』 (16分 *14:00~)
 初の前座さん。4年目らしいが、遊三が75歳でとった最後(だろうな?)の弟子とのこと。遊三一門は、三遊亭小遊三-三遊亭左遊-三遊亭遊吉-三遊亭とん馬-三遊亭遊松の五人になるわけだが、なんと、とん馬と本人の入門時期が、30年空いているとのこと。
 なるほど、遊三が無理をして(?)とっただけのことはある人だ。見た目もスッキリしているし、語り口が良く、リズムも悪くない。市助が市童となって二ツ目になったので、前座さんの中では、極めて上位に位置する人だと思う。
 
笑福亭和光『荒茶』 (26分)
 池袋で一度聴いている。あまり、良い印象ではなかったのだが、今回は地域落語会のアットホームな空気の中で、なかなか楽しい高座だった。
 マクラでは鶴光一門の名前のことや、師匠から教わった小咄、 「これ炭酸か?」「ソーダ」などで、会場を沸かせていた。しきりに汗を手拭いで拭っている姿には、数年前までの白酒を思い出したなぁ。ここで、仲入り。

抽選会 (11分)
 和光と遊松が登場し、開演前に集めた名前札を元にした抽選会。
 ・出演者の色紙
 ・J-COM提供のノベルティ
 ・出演者の手拭い
 が当たった人もいるが、私のように当たらなかった人のほうが多い。当り前か。

初音家左橋『棒鱈』 (29分)
 前回、抽選会用の手拭いを持って来るように出演者に連絡しておいて、自分が忘れたとのこと。7月下旬から8月にかけて出演する芝居(『ゴールデン街青春酔歌』)のことから、二ツ目の小駒時代にいくつか出たテレビ(「御宿かわせみ」や「嫁の座」など)のことが語られたが、この人、結構役者やってるんだね。
 地元のお客さんを相手に、茶飲み話をしているような空気を感じる楽しいマクラから、本編へ。 江戸っ子二人の会話、仲居とのやりとりも程よく会場を笑わせる。  
 薩摩の侍の歌が実に楽しかった。百舌の嘴、十二ヶ月を、この高座ほど、しっかり身振り手振りをつけて聴いたことはないように思う。なるほど役者さんだ、と思った次第(^^)
 酔っ払った江戸っ子が薩摩の侍に毒づいて斬られそうになると、兄貴分の寅さんが助けに入る、という演出も、私は初めてだ思うが、理屈として真っ当だ。
 その芸の深さにおいて、今年のマイベスト十席候補としたい。

桂米多朗『文七元結』 (38分 *~16:13)
 初めて聴く。米助の弟子で、このネタ出しがあったので、それも興味があった。
 お客さんの拍手も、地元の方が多いのだろう、暖かさを感じた。左橋と同じ区に住んでいるらしい。落語家になってから、母親の父、本人のお爺さんが無声映画の弁士(活弁)だったことを親から聞かされた、とのこと。
 米助に入門する前は、東八郎の劇団にいたようだが、そう言われれば、根っからの噺家さんというより、劇団員風の容貌。
 前半を地で説明した短縮版で、長兵衛が佐野槌の女将から五十両を借り吾妻橋にさしかかった場面から。
 文七と長兵衛のやりとりにおいて、文七が橋から飛び込もうとするのを長兵衛が止める場面をきっかけに、二人のカミ・シモを入替える工夫は、空間の広さが出て、良かったと思う。
 翌朝の達磨横町での長兵衛夫婦の喧嘩など、なるほど、劇団員だった人だなぁ、と思わせるメリハリのついたやりとりで、聴かせる。
 師匠米助も、寄席で漫談ではなく噺をするのを最近は聴いている。稽古は他の師匠につけてもらうことも多いだろうが、この人は今後も聴きたい、と思わせる高座だった。

 
 終演後に会費千円で交流会があると聞いていて、参加するかどうか迷っていたが、仲入りで参加することに決めていた。
 一階上で、出演者を含めた交流会は、ビールもあればワインもあり、ボランティアの方の手づくりの肴もたくさん並べられた、落語会と同様、人の暖かさを感じる懇親会だった。
 噺家さんともお話し、この会を支えている方や、先輩の落語愛好家の方々とも楽しくお話をしたが、その内容は、秘密とさせていただく。
 
 ざま昼席落語会は、もうじき200回。こちらは四年前から始まって次で32回。
 同じような、地域落語会であるとはいえ、こちらは、多くの方が手弁当でこの会を守り立てようとしている真っ最中、という熱気を感じた。
 また、地元の左橋、米多朗の両師匠も、この会に対し特別な思いで臨んでいる、そんな熱さを感じた会。行って良かった。

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by kogotokoubei | 2015-06-28 07:45 | 落語会 | Comments(4)
 落語協会のホームページで、昨日付けの「リニューアル状況」が掲載されており、「落語会情報掲載申請」ページが公開された。
落語協会ホームページの該当「リニューアル状況」の情報
【リニューアル状況】 落語会情報について
落語会情報掲載の募集を開始いたしました。
http://rakugo-kyokai.jp/rakugokai/shinsei.php

 「落語会情報掲載申請」ページには、次のように案内されており、必要情報を記入するフォーマットになっている。

下の問い合わせフォームに必要事項をご記入の上、「送信する」ボタンをクリックしてください。
ご担当者氏名と連絡先アドレスは必須項目です。
また、出演者として落語協会の協会員が少なくとも1名入っている必要があります。
あらかじめご了承ください。
※こちらのフォームは、スマートフォン・タブレット端末での入力ができませんので、PCから入力してください。
※現在7月1日以降開催予定の落語会情報を受け付けさせていただいております。

 「芸人情報」の欄には、定席出演予定しかなかったので、他の落語会は掲載しないのかと、がっかりしていたが、ちょっと嬉しい。

 噺家さんご本人もこのフォーマットでたくさん入力することだろうし、地域の落語会主催者にとっても、朗報だろう。

 私も、これを待っていたよ!

 落語協会のホームページ問題には、いろいろ小言を書いてきたが、少しは、拙ブログの内容も読んでくれたのか・・・そんなことはないだろうなぁ(^^)

 数多くの落語会が案内されることを、期待している。

 私は、落語協会の定席にも来月から行くことに決めた。

 とはいえ、落語芸術協会応援キャンペーン(?)も継続しているり、地域落語会や、神田連雀亭にも行きたいし、上方の噺家さんの会にも行きたいので、いつになるかは未定。

 とにかく、いろいろとやきもきさせたホームページのリニューアルについて、どこかで協会幹部はけじめをつけるためにも詫びて欲しい。

 そして、協会の体制も、より風通しの良い組織に、リニューアルする必要があるように思う。この度のリニューアルをめぐる諸々で、組織体質の閉鎖性を、私は強く感じだぞ。
 たとえば、これまで、手弁当で頑張ってきたホームページ委員会の噺家さん達に、、御礼したって罰は当たらないだろう。
 
 拙ブログで更新の進捗などを、できるだけ早く紹介しているだけ、小言もしっかり言わせてもらうのだよ。

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by kogotokoubei | 2015-06-26 12:30 | 落語協会 | Comments(2)
 昨日の記事、複数の方から、桂吉朝一門弟子のことで誤りをご指摘いただいた。
 
 誠に、申し訳なくお詫びするとともに、ご指摘には、深く感謝。
 ありがとうございます。

 とにかく、日々脳細胞がバッタバッタと消滅しているのを感じる。

 実は、桂しん吉について、‘未見’と思っていたのだが、後で自分のブログをググッた結果、テレビではあるが、2009年のNHK新人演芸大賞で、見ていた。
2009年11月23日のブログ

 『鯉盗人』を演じていた。その際に私自身の採点は良くはないが、将来性を感じたと思われる内容が書かれている。

 記事を書く時に、しっかり調べておけよ、と自分を叱っておいた(^^)

 実は、吉の丞の記憶も結構あやしかった。
 
 「どっかで、聴いているような、いないような・・・・・・」と思いながら、検索したら、やはり、米二の会で発見。
 あの会は、吉坊も生では初だったので、その印象は強く残っていたのだが・・・・・・。


 脳細胞(脳神経細胞)は140億あるが、二十歳過ぎると、毎日十万個づつ減る、と言われる。
 もし、80歳まで生きるとして、どれだけ脳細胞が残るか計算してみる。

 10万X365日X60(80-20)年=21億9000万

 140億-21億9000万=118億1000万

 良かったね、まだこれだけ残っている・・・なんて喜んでいられない。

 残っている脳細胞も、“ある”だけで、役に立っていないのも多いのだ。

 どこかで、記憶にとって大事な「海馬」について、興味深い話を聞いた(見た?)ことがある。

 ある学者の調査で、ロンドンのタクシー運転手が、他の同年齢の人達より脳が重かった、という結果が出て、それは海馬の分が重かったらしい。
 消滅するばかりと思われていた脳神経細胞だが、ロンドンの数多くの交通網を覚えることに努めていた運転手の海馬の脳細胞は、実は増えていた可能性がある、という説。

 その後、この説がどう評価されたかは知らないが、結構、勇気づけられるネタ(?)なのだ。

 私が素人ながら、テニス仲間や学生時代の友人との宴会で落語を披露するのは、落語を覚えることで、もしかすると、海馬の脳細胞が増えないか、と思っているからである・・・というのはウソ!

 演りたいから、演っているのです(^^)


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by kogotokoubei | 2015-06-25 22:23 | 幸兵衛の独り言 | Comments(2)

 「上方落語若手噺家グランプリ」の開催については、以前拙ブログでご紹介した。
2015年2月24日のブログ

 昨日、本選が行われ、桂吉朝の最後の弟子、桂吉の丞が優勝したらしい。朝日から引用。

朝日新聞の該当記事
桂吉の丞さんが優勝 初開催の上方落語若手噺家GP
篠塚健一 2015年6月23日23時57分

 関西の芸術文化活動を支える「アーツサポート関西」の助成で初めて開かれた「上方落語若手噺家(はなしか)グランプリ」の決勝が23日、大阪市北区の天満天神繁昌亭であった。桂吉の丞さん(32)が栄冠に輝いた。

 吉の丞さんは堺市出身で、2002年に故・桂吉朝に入門。上方落語独特の道具である見台(けんだい)やひざ隠しの由来を語るマクラから、「がまの油」で活気のある高座を見せた。「ホントにお客様に乗せられて。お客様のおかげ」と喜んだ。準優勝は、笑福亭鶴瓶門下の笑福亭べ瓶(べ)さん(32)だった。

 上方の有望な若手を発掘するためのコンテスト。決勝は、31人が参加した予選を勝ち抜いた9人で争い、朝日放送、関西テレビ、毎日放送、読売テレビなど在阪放送各局のプロデューサーらが審査員を務めた。

 表彰式で桂文枝・上方落語協会会長は「各局の皆さんに『使えそう』という人を見つけてもらえたんじゃないか。ただ『M―1』などを見ておりますと、優勝者が必ず売れるとは限りません」と笑わせた。「決勝に駒を進めただけでもすばらしい。テレビに出た時は応援してあげてください」と呼びかけた。(篠塚健一)

 吉の丞は、三年前、内幸町ホールで開かれた桂米二の会で聴いている。
2012年9月14日のブログ
 あの時は、吉坊も出演し、吉朝門下から二人が米二の会に登場という、彼らいわく、上方でも滅多にない組合せ、だった。
 吉の丞は、ざこばから稽古をつけてもらった『強情』という珍しいネタを披露してくれた。
 ブログを振り返ると、印象は悪くなかったようだ。

 「上方落語家名鑑」から、この人のプロフィールをご紹介。

上方落語家名鑑の該当ページ

1.芸名/桂吉の丞(かつらきちのじょう)
2.本名/飯村 隆祥
3.生年月日/1982年 (昭和57)年 7月31日
4.出身地/大阪府堺市
5.血液型/B型
6.入門年月日/2002年 (平成14年) 8月13日「桂吉朝」
7.出囃子/
8.紋/結び柏
9.趣味/だんじり
10.ホームページ/http://nazokake.watson.jp/kichinojo/
11.所属/米朝事務所
12.その他/八州学園高等学校卒
平成21年第4回繁昌亭輝き賞受賞
ひとこと/大師匠米朝、師匠吉朝のもとで修業した最後の弟子です。米朝師匠からは「吉の丞はこわい」と言われてますが、笑うと以外にかわいい顔になるんですよ!勢いのある元気な落語家を目指します。とにかくなんでもやります!元鳶職ですから、空からでも飛んでみせます!!

 へぇ、元鳶職か!
 きっと、元気な『がまの油』を演じたのだろう。

 吉朝一門は、優秀な弟子が揃っている。
 総領弟子のあさ吉は未見。
 二番弟子の吉弥は、テレビの露出も多い人気者だし、その力量も安定している中堅の大事な存在になっている。
 以前、テレビ朝日の「落語者」の『蛇含草』には、きつい小言を書いたが、実力は私も認めているのだよ。
 よね吉は、2007年のNHK新人演芸大賞を受賞した時に、目頭を熱くして「師匠にご報告したい」と言った言葉が、今でも忘れられない。この人を、私は一番の師匠の芸の後継者ではないかと思っている。
 吉坊については、私が言うまでもなく、定評のある若手だ。著作もある達者な人。
 米朝落語を、米二より若い世代で継承してくれることを期待する人で、珍しいネタにも挑戦する。先月、国立演芸場で『冬の遊び』を演じるのを楽しみしていたのだが、野暮用で行けなかったのが、残念無念。

 もちろん、他にも一門の人はいるが、未見。

 しかし、なんとなく、吉朝門下の芸、ある程度想像はつく。
 きっちりした落語を、皆さん演じてくれるのだろう。何と言っても、あの師匠の弟子なんだから。

 米朝にとっては、枝雀、そして吉朝は、後継者として期待していた愛弟子だったが、相次いで師匠より早く旅立った。
 その大師匠亡き上方落語界で、ぜひ今回のような企画もきっかけとして、将来性のある若手に頑張って欲しい。

 彼らには、米朝、松鶴、文枝といった亡き師匠たちが、戦後の苦しい時代に耐えてきた上方落語の伝統をしっかり繋いで欲しいと思う。そう言えば、「上方四天王」のお一人、三代目(春團治)のニュースを聞かなくなって久しい。お元気なのだろうか・・・・・・。

 
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by kogotokoubei | 2015-06-24 19:05 | 上方落語 | Comments(8)

 ようやく、落語協会の‘新’ホームページで、「定席番組」の内容が掲載され、「本日の寄席」が図の貼り付けからHTML版に替わった。
落語協会ホームページの該当「最新情報」
2015年06月22日
【リニューアル状況】 「定席番組」 「本日の寄席」 について
「定席番組」http://rakugo-kyokai.jp/broadcast/
「本日の寄席」http://rakugo-kyokai.jp/program/
 を公開いたしました。

 この最新情報のURL、リンクされていない(^^)
 それぞれのリンク先は、こちら。
落語協会ホームページ「本日の寄席」
落語協会ホームページ「定席番組」

 「定席番組」の中で、「黒門亭」は、まだ図(PDF)の貼り付け。

 トップページのバナーにある目次からは、工事中で残るのは「落語協会の活動」と「寄席・落語について」の二つ。
落語協会ホームページ

 その二つの内容は、旧ホームページの「協会概要」にある内容のコピーだろうから、そんなに時間はかからないはずなのだが。
 私としては、「落語協会の活動」の中で、先日(5月29日)紹介したが、本年度の助成金6400万円の用途についても、説明して欲しいと思うが、ノーコメントだろうなぁ。
2015年5月29日のブログ

 旧ホームページは、すでにリンクが切れている。
 落語協会「旧」ホームページ
 クリックしていただければ分かるが、次のように表示される。

落語協会のホームページは、一時的にhttp://www.rakugo-kyokai.jp/に変更されています。
 ということは、リニューアルが終了したら、こちらのURLに戻す、ということだろう。
 また、ブックマークし直しだが、それくらいはしょうがないか。

 なお、各芸人さんのプロフィールのページには定席寄席への出演予定は掲載されているが、他の落語会などは、どうも加わりそうになさそうだ・・・・・・。
落語協会ホームページ「芸人紹介」
 このへんは、落語芸術協会とは、大きな違いである。

 速報性という意味では、「本日の寄席」が重要。その次に「定席番組」かな。
 噺家さんを知るためには、「芸人紹介」が、必須。
 それらは、なんとか整ったと言えるのだろう。

 今月末までに、残るコンテンツが掲載され、リニューアル終了となったら、7月から落語協会の定席に私も復帰しようと思う。

 それにしても、このリニューアル騒動は、落語協会の幹部に対する不信を募らせた。

 何らかのかたちで、法人としての説明責任を果たす必要があると思うぞ。
 
 それにしても、トップページの会長の大きな写真、やめて欲しいものだ。


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by kogotokoubei | 2015-06-23 20:53 | 落語協会 | Comments(2)
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 日本近代史研究家、西山松之助の対談集『江戸っ子と江戸文化』(小学館創造選書)は、昭和57(1982)年に発行された本。
 第一章の「江戸っ子談義」以外は、雑誌などに掲載されたもののアンソロジー。

 第一章、この本のために新たに設定された対談からご紹介。
 相手は、あの池田弥三郎である。
 明治45(1912)年6月生まれの西山とは、二つ年下になる。ちなみに、1912年は7月30日から大正元年になる。
 
 小林信彦の『おかしな男 渥美清』について三回に分けて書いたが、江戸っ子について語られるこの対談に、寅さんの舞台である葛飾のことも言及されているので、紹介したくなった次第。早い話が、相変わらずの芋づる式なのである(^^)

西山 ぼくは今日江戸っ子話ということで、江戸っ子のこういう本持ってきたんですがね。いちばん初めが三田村先生ですよね。その次が石母田俊。これは石母田正というすぐれた歴史家のお兄さんなんです。もう亡くなられたんですけど、ぼくは非常に親しくしておりましてね、それが『江戸っ子』をお書きになって、そのときぼくはだいぶお手伝いしました。そのあとで加太こうじさんが『江戸っ子』というー。それでぼくの『江戸っ子』と、いま『江戸っ子』の本が四冊あるんです。
池田 そうですね。もうぼくの出番はないわ(笑)。
 この三田村というのは、もちろん三田村鳶魚(えんぎょ)である。
 西山は、三田村の著作から、「江戸っ子」という言葉の初出が寛政7(1795)年であることが世間に流布されたと説明しているが、これもあくまで一つの説。

 三田村の本については、池田がおもしろいことを言っている。また、昔の人の「江戸」のイメージについて、興味深い回想が披瀝される。
池田 昔、三田村さんの全集が中央公論社で出ましたけどね。三田村さんの本なんかは全集で読むべきものじゃないね。やっぱり単行本で出たものを、ひっくりかえって読んでるのがいちばんいい。勉強してノートなんか取りながら読むもんじゃないですね。
 話が違うけど、昭和57年1月初めに出た『サンデー毎日』に、ぼくの先輩の、慶応義塾の塾長やった高村象平さんというのが、質問に答えてるんですよ。これがまたべらんめい口調でね、とってもおもしろいわ。東京の言葉としても。
 高村先生は小梅の人です。本所です。だから「池田君なんかに会うとあたしゃ江戸っ子とはいわないよ。あたしゃいどっ子だよ」(笑)、少し落ちるんだって。いまはもう葛飾のほうまで下町になっちゃって、みんな江戸っ子っていってるから、驚いちゃうんだけど。うっかりしたことはいえないし。

 ‘いどっ子’という高村の表現に、銀座の天ぷら屋「天金」の息子として生まれた池田に対し、本所生まれが抱いていた感情が推し量られて、なかなか楽しい。

 ‘いまはもう葛飾のほうまで下町になっちゃって’と言わせているのは、「男はつらいよ」の影響の強さだろう。

 前の記事で紹介したように、小林信彦は『おかしな男 渥美清』で、あの作品の特色として、<柴又>を選んだ‘巧み’さと、<架空のふるさと>による‘眩惑’を指摘していた。そういう巧みさを発揮させ、眩惑を可能としたのは、本来、‘お城下町’の意味で、江戸城の周囲を下町と言っていたのだが、昭和50年代には、日本橋や神田、とりわけ銀座などは、すでに下町というイメージを遠く離れ、‘心の下町’に、葛飾がぴったりと適合したからだと思う。

 寅さんを見て、‘きっと昔の日本、そして(下町の)人情はこうであったろう’という思いが、あの映画のロングランにつながったことは間違いないように思う。
 大正三年に銀座で生まれた池田弥三郎が、何ら疑問なく銀座を下町と称していた時代は、はるか遠くに去っていたのだ。
 ‘銀座’は、日本一地価の高い場所であり、お洒落な街であり、間違いなく都会を象徴する場所、という認識が今では一般的だろう。

 『おかしな男 渥美清』の著者小林信彦は、日本橋の和菓子店の長男に生まれた。もちろん、生っ粋の下町っ子。
 では、浅草は、ということで本書からもう少しご紹介。
西山 昔は、浅草の人でも「江戸へ行ってくる」といったんですよ。
池田 そうです、そうです。浅草は江戸じゃないんですから。 
西田 大正の初めでもそうだった。
池田 本所から深川にかけて、とくに深川には私のとこの墓がありましてね。深川なんかでも、永代橋越すのを「江戸へ行ってくる」というんですよ。ぼくらが聞いてるんだから、大正になってからもまだ江戸なんです。ほんのわずかなとこだんたんでしょう、江戸というのはね。
西山 民謡の竹内勉さんがやっぱり浅草か深川のあたりで、「 私たち子供の頃は、銀座のあたりに行くときは、江戸へ行くといって、私たちのところは江戸じゃなかったんですよ」と、しきりに何度もそういってた。

 深川や浅草は、江戸ではなかったんだ。もちろん、江戸には「山の手」も「下町」も含むのだから、下町ですらなかった。

 江戸の範囲については、なかなか定義が難しい。
 この本でもふれられているが、「本郷も かねやすまでは 江戸のうち」という川柳がある。
 大岡忠相が活躍した享保年間の大火事の後の復興に関係しているのだが、川柳が流布されているほど、この定義の信頼性は高くない。

 「山の手」と「下町」を含む、「江戸の範囲」について、少し調べてみた。

 総務省のサイトの中に間借りして「東京都公文書館」というページがある。
 「江戸の範囲」について説明があって、歴史的な変遷なども記されているが、早い話が、定義がまちまちだったのである。

 何を基準にするかで、範囲は違ってくる。文政年間に出された統一見解を含め、引用。
東京都公文書館サイトの該当ページ
お江戸の範囲、解釈いろいろ…

 拡大する江戸の町。では、一体どこからどこまでが江戸とされたのでしょう?

 江戸といっても、町地は町奉行支配、寺社地は寺社奉行支配、武家地は大目付・目付支配…というように、複雑な支配系統がありました。

 これらのうち、町奉行支配に属する町地の外縁をつなぐと、一定の区域が区画されます。この区画内が通常呼ばれる町奉行支配場であり、通常これが江戸の市域と考えられていました。ただ、それは同じ区画内であっても武家地や寺社地には町奉行の支配が及ばないという点で、「町奉行支配場すなわち江戸の範囲」と言い切れるわけではありませんでした。

 実際のところ江戸の範囲と言っても解釈はまちまちで、決まった境界があるわけではなかったようです。町奉行支配場・寺社勧化場・江戸払御構場所・札懸場など、異なる行政系統により独自に設定解釈されていました。
 1.町奉行が支配の対象とする江戸
  ◦江戸の町人地に限定。
  ◦町人地の発展とともに、外延へ拡大。
 2.寺社勧化場として許可された江戸
  ◦勧化場…寺社建立等のため寄付を募ることを許可された地域。
  ◦1より広い範囲。
 3.江戸払の御構場所とされる江戸
  ◦御構場所…追放刑者が立ち入ってはいけない地域。
  ◦四宿(千住・板橋・品川・内藤新宿)以内と本所・深川。
 4.札懸場(芝口)が対象範囲とする江戸
  ◦札懸場…その対象範囲における変死者や迷子の年齢・衣服の
   特徴等を高札によって掲示した場所。
  ◦1より広い範囲。
 5.旗本・御家人が外出を届ける際の江戸
  ◦江戸御曲輪内から四里以内。

お江戸の境界、これにて落着。

 江戸の範囲について解釈がまちまちであったところ、幕府は統一的見解を示すよう求められました。

 文政元年(1818)8月に、目付牧助右衛門から「御府内外境筋之儀」についての伺いが出されました。その内容を要約すると、以下のとおりです。

「御府内とはどこからどこまでか」との問い合わせに回答するのに、目付の方には書留等がない。前例等を取り調べても、解釈がまちまちで「ここまでが江戸」という御定も見当たらないので回答しかねている。

 この伺いを契機に、評定所で入念な評議が行われました。このときの答申にもとづき、同年12月に老中阿部正精から「書面伺之趣、別紙絵図朱引ノ内ヲ御府内ト相心得候様」と、幕府の正式見解が示されたのです。

 その朱引で示された御府内の範囲とは、およそ次のようになります。

 ◦東…中川限り
 ◦西…神田上水限り
 ◦南…南品川町を含む目黒川辺
 ◦北…荒川・石神井川下流限り

 これは、寺社勧化場(2)と札懸場(4)の対象となる江戸の範囲にほぼ一致します。

現在の行政区画でいえば、次のようになります。

千代田区・中央区・港区・新宿区・文京区・台東区・墨田区・江東区・品川区の一部・目黒区の一部・渋谷区・豊島区・北区の一部・板橋区の一部・荒川区

 この朱引図には、朱線と同時に黒線(墨引)が引かれており、この墨引で示された範囲が、町奉行所支配の範囲を表しています。朱引と墨引を見比べると、例外的に目黒付近で墨引が朱引の外側に突出していることを除けば、ほぼ朱引の範囲内に墨引が含まれる形になっていることが見てとれます。

以来、江戸の範囲といえば、この朱引の範囲と解釈されるようになったのです。

 「朱引図」は、同サイトでご確認のほどを。

 なんとか、文政になって「統一見解」が出たようだが、いずれにしても、葛飾区は入らない。
 だからと言って、「男はつらいよ」の評価が下がるわけでは、毛頭ないのだよ。
 当たり前か。
 
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by kogotokoubei | 2015-06-23 12:20 | 江戸関連 | Comments(2)

 雨で恒例のテニスは休み。
 今ほど、録画していた昨夜のBSジャパンの寅さん、第23作、昭和54(1979)年夏公開の「翔んでる寅次郎」を観たところだ。マドンナは桃井かおり。
 昭和26年生まれの桃井かおりは、当時、二十八歳。前年制作された二つ前の作品「寅次郎わが道をゆく」に武田鉄也が登場したが、二人は昭和52年に松竹の「幸せの黄色いハンカチ」に出演した仲間(?)なので、ご褒美的な抜擢の意味もあるだろうが、十分にマドンナの資格はあったと思う。
 映画「卒業」のように、邦男(布施明)との結婚披露宴(会場はホテル・ニューオータニでっせ)からひとみ(桃井かおり)が逃亡し、ウェディングドレス姿のままで柴又のとらやに登場するのは、やや奇抜ではあるが(^^)

 この作品は、どちらかと言うと、48作のうちでは、評価は低いほうだろう。しかし、私はこの作品への思い入れが強い。
 まず、私の故郷である北海道がロケ地になっていること。それも、満男の作文をきっかけにとらやを飛び出した寅さんが向かったのは、なんと、虎杖浜。私の故郷から遠くない。虎杖浜神社での啖呵バイのあと、支笏湖畔で一人湖を眺めている寅さんに声をかけるのが、マリッジブルーで一人旅中のひとみだ。
 もう一つ、私個人としてこの作品が印象深いのが、車。ひとみを旅館の若旦那役の湯原昌幸がナンパする時の車が、私が独身時代に乗っていた、いすゞの117クーペなのだ。私の場合は、モデルも違うし中古でみすぼらしかったのだが、あの車は好きだったなぁ。
 寅さんとさくらが仲人を務めた川千屋でのひとみと邦男の結婚式、ひとみのスピーチで、私は泣けてしまった。

 さて、この作品のことは、ここまで。

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小林信彦著『おかしな男 渥美清』(新潮文庫)

 この本から、最終の第三回目。
 
 以前紹介したように、テレビ版「男はつらいよ」の放送が終了し、寅さんがハブに噛まれて死んだことへの反響が大きかったこともあるが、大船のスタジオに“とらや”のセットが残っていたため、松竹では映画化を計画する。

 しかし、メディアの反応は決して良くはなかった。

 さて、「男はつらいよ」のクランク・インの初日。取材したのは日刊スポーツの記者一人と伝えられるが、渥美清は次のように語った。
 -おかげさんで、また寅をやれることになりました。こんな役は私の生涯で二度とないですから。
  <渥美は元気だったが、山田洋次監督の表情は厳しかった>
 
と記者は書き残している。
  <・・・・・・四面楚歌(の中で)のスタートだったことはハッキリ言っておきたい。>
 山田監督はいつも<厳し>い表情の人のように思われるが、この時は一段と複雑な想いだったにちがいない。
 1971年(というのは二年後であるが)に、品田雄吉の質問に答えて、山田洋次は次のように語っている。
  <脚本(ほん)というのは、テレビでこういうのをやる場合は、小林(俊一)さんなんかと一緒に出て、ワイワイいいながらつくるのが通常ですよね。そういうものがなければ、テレビの仕事というのは楽しくならないし、それが取り柄なんじゃないですか。(中略)しょせん一時間のものを二日で撮り上げるみたいなことで、完璧なものができるわけがない。>
映画化について-
  <渥美ちゃんで一本という話は前々から会社でもありまして、この辺でそれをやらないかという話が来て、いろいろ考えたけれども、テレビのラストで(寅が)死んだときの抗議の殺到のしかたを見ると、かなりいい線いっているのではないかと。
 (中 略)
最初はずいぶん反対されたし、題名についてもいろいろ反対されましたけれども、ばくはいけるんじゃないかと。特に深夜興行が松竹はだめでしたから、この作品なら、テレビの観客も、場末のあんちゃんたち、あるいはレストランのコックさんとか、バーのバーテンが大きなファンだったから、土曜の夜中なんかにドッとお客さんが来てくれることをかなり期待して、わりに強引に押しきってつくったんです。>(キネマ旬報社「世界の映画作家14 加藤泰・山田洋次」)

 このように、主演の渥美清の嬉しそうな言葉とは対照的に、山田洋次が、決して周囲に歓迎される中で船出をしたわけではなかったことがうかがえる。
 また、実に具体的に客層を狙っていたのが、興味深い。

 さて、映画化の結果だが、以前紹介したように、四作まで作られたが、観客動員は、決して良くなかった。三作目と四作目は、山田洋次は監督ではなかった。山田は、“良い悪いではなく、寅さんのにおいがしない”という思いがあったため、完結篇を作るつもりで、第5作「望郷篇」のメガホンを取る。

 そして、想定外のヒット、そしてシリーズの継続となったのだが、小林信彦は、渥美清の他の作品との比較を含め、ヒットの要因を次のように書いている。

 久しぶりにビデオで「男はつらいよ」を観て、こんなに上出来の喜劇だったのか、と興奮した。なにしろ映画館で観たのは1969年、約三十年前である。
 三十年前の映画でありながら、少しもずれていない。寅次郎が<BG>という言葉を口にする以外、ずれは感じられない。(注:BGは今のOLの意味。)
 (中 略)
 渥美清が主演した他の喜劇がなぜ失敗したかというこもわかった。プログラム・ピクチャアのルーティーンである<主人公が善人でなぜか女性にもてる>というパターンが、彼の場合、いかにも無理なのである。あの顔がアップになった時、ある種の違和感が生じることはすでに述べた。
「男はつらいよ」はこの三点を逆転させている。
  1 寅は中折れ帽子、チェックの上着とネクタイ、白黒のコンビネー
    ションの靴で江戸川に面した土手に登場する。この<扮装>は、
    例えばチャップリンの放浪者の衣裳のように、渥美清の素顔
    (=本質)をカヴァーしてしまう。
    アップになったとしても、それは人嫌いのコメディアンの顔では
    なく、奇妙なテキ屋の顔として認識される。
  2 彼は決して<善人>ではない。ハナ肇が演じてきたような
    (はた迷惑な善人)と違い、職業柄か、どこか悪そうな感じも
    ある。
  3 女性にはモテない。
 この三つは、それまでの渥美喜劇を百八十度回転させたもので、テレビに続く役柄とはいえ、山田・渥美コンビの独創である。

 さすがに、ネクタイはその後締めなくなったが、渥美清の“本質”をカヴァーする衣裳は定番となった。しかし、<善人>ではなく、どこか悪そうな感じは、次第に薄められていった。
 完結篇のつもりの第五作<望郷篇>(マドンナは長山藍子)のヒットに続き、昭和46(1971)年には第六作<純情篇>(マドンナは若尾文子)、第七作<奮闘篇>(マドンアは榊原るみ)、第八作<寅次郎恋歌>(マドンナは池内淳子)が公開された。
 第七作までを観た時点で、小林信彦が雑誌に書いた文章が紹介されている。
 これが、私にとっては、「あ、そうだ!」と膝を打つ内容なのだ。

 主として松竹の喜劇に触れているが、始まったばかりの「男はつらいよ」について、次の二点を指摘している。
 <1>は、葛飾柴又を舞台に選んだことの<巧み>さで、ぼくのような東京の下町生れの人間でも<葛飾>といわれると、はるか遠い、幻想の世界のように考える。以下引用-。

  <柴又は、ここにおいて殆ど象徴的なものと化する。東京の中の
  田舎-しかも、ひょっとしたら粋というような感情の動きが残っている
  かも知れない、と錯覚させる土地である。いや、それどころか、ブルドー
  ザーと大気汚染によって、日本人の大半が喪失してしまった、あの
  <ふるさと>というものが残っていそうな幻想を抱かせる-ここに、
  「男はつらいよ」が大衆に迎えられた秘密があった。>
 <2>は、これがやくざ映画のパロディであるのを指摘して、こう結んでいる。
  <そういうぼくが-「男はつらいよ」を観に行くのは、架空のふるさとに
  眩惑されたためではなく、嘘と知りながら、そこでくりひろげられる
  鮮やかな芸に身を浸らせたいためである。そこに、ぼくを含めた、
  時代の不幸があると思われるが、ここまでくると、すでに喜劇の
  枠をふみこえてしまうようだ。

 第六作が出たあたりで、すでに、プロットがマンネリズムだという批評が出ていたと思う。これも当然の話で、ぼくは第八作を観た時に、これはもう、無限のくりかえしになるな、と思った。渥美清も新鮮さを失ってくる。
<時代の不幸>と、ぼくが書いているのは、三十代終りごろのぼくにとって、日本の喜劇がこうも保守的になっては困る、ということであった。保守的な「男はつらいよ」の反対側に鋭い喜劇(極端な例は「幕末太陽伝」だが、そういう名作はめったに出ない)があって、初めてバランスがとれる。しかし、そういう喜劇がないから、高度成長に疲れた大衆は「男はつらいよ」に吸い込まれてゆく。それは、不幸なことではないか、と言っているのだ。

<柴又><架空のふるさと>という指摘は、実にこの映画のファンの心理の背景を巧みに捉えているように思う。

 「幕末太陽伝」は昭和32年の作品で、小林が言うように、めったに出ない名作。
 いぜん記事を書いたことがあるので、ご興味のある方はご覧のほどを。
2012年1月9日のブログ

 たしかに、「男はつらいよ」は、日本人向け究極の保守的・マンネリズム映画かも知れない。
 とは言うものの、作品によっては特筆すべき場面があることや、その作品の舞台裏などについて、小林は興味深いことをいくつか書いている。
 私も好きで、マイベスト十作をつくるなら、確実に入る第32作「口笛を吹く寅次郎」について。
 1983年(昭和58年)晩秋、岡山県備中高梁にロケしていた。作品は三十二作目の「口笛を吹く寅次郎」。渥美清が最後のコメディアンぶりを見せたことで知られる。
 寺でのロケが終っての帰り道、和尚の衣裳のままの渥美は突然、車を止めさせた。そのまま、法雲堂という仏具店に入ってゆく。店の人は渥美清と関敬六を見て、びっくりしたにちがいない。渥美はいきなり位牌を作りたいと言った。
 以下、関敬六の文章。
<「水子の供養かなにかですか?」
「そうじゃなくて、自分のを。それと、こいつのも作りたいんだ」
 渥美やんが俺のほうを振り返って指を差したので、俺はあわてて「要らない要らない」と手を振った。ところが、渥美やんは、
「おまえ、『俺たちはどっちが早く死ぬか分からないよ』って、いつもそう言ってるじゃないか。だから、今のうちに作っておこう。それにこういうのは験(げん)のもので、生きてるうちに作っとくと、逆に長生きするって言うぞ」
 と例のごとく渥美やんに説得される形になった。俺はずいぶん妙なことをするなと思ったのだが、渥美やんが、
「俺が作ってやる。おまえが先に死んだら、俺がこれを作っといてやったんだっていう証拠になるからな」
 などと言うので、結局、押し切られてしまった。
 位牌はその場ではなく、四~五日後にでき上がったのだが、届いたふたつの位牌には「田所康雄之霊」「関敬六之霊」と」表書きされていた。
 それぞれの位牌の裏には「昭和五十八年十一月二日 岡山県総社市 関敬六と之を作る」「朋友 渥美清と之を作る」と刻まれていた。
 その時は気づかなかったのだが、渥美やんはなぜ、自分の位牌だけに本名を記したのだろうか。俺は関谷敬二(本名)ではなく、なぜ、関敬六だったのか・・・・・・。>

 
 関敬六の文章は、『さらば友よ』(ザ・マサダ出版)からの引用。

 あの作品は、竹下景子がマドンナで、松村達雄が扮する住職の代わりに法事を務める寅さんの演技は絶品だった。納所(なっしょ)なんていう死語に近い言葉も出てくる。
 竹下恵子のマドンナ役は、個人的にベスト3に入る。この作品は、実に楽しくもあるし、せつなくもある、傑作だと思う。

 ロケの途中で、渥美清が、関敬六を誘ってまで自分の位牌を作ったのには、もちろん、そうさせる背景がある。この作品を制作する前年のことだ。

 重大な変化は1982年(昭和57年)にきた。
 この年の八月に封切られた第二十九作「寅次郎あじさいの恋」について、山田監督は、
「大きなターニング・ポイントです」
 と語っている。
 渥美清、五十四歳。肝臓に異変が生じていたとのことである。
<「本格的に病院に通いだしたのに気がついているんですよ。どの辺からとははっきり言えないけれども、私も彼が治療を開始しているのは知っていました」
 「第二十九作はつらかった。渥美さんは元気がなくって、芝居がはずまないんです。まいったな、と思った。二十九作がどこかに暗い話になっているのは、渥美さんの体調と関係あるかもしれませんよ。確実に、このころから病気が始まってるんです」>
 この件はNHKのドキュメンタリー番組(1999年2月)でも、山田洋次自身によって語られていた。「男はつらいよ」は二十六年間の真ん中で変貌せざるを得なかった、と。

 第二十九作「あじさいの恋」は、マドンナが、かがり役のいしだあゆみ。
 ラスト近くの重要な場面は、ちょうど今のような季節、鎌倉のあじさい寺が舞台。
 かがりから呼び出された寅は、一人では出かけにくく、満男を連れて行ったのだったなぁ。
 たしかに、あの作品は全体に暗いトーンがあったと思うが、その背景には、こんな事情があったのだ。

 それから二作品を挟んで「口笛を吹く寅次郎」のロケにおいて、渥美清は「まだ、できる!」と自信を取り戻したかもしれない。しかし、すぐに「いつどうなるかわからない・・・・・・」という思いが去来したのではなかろうか。

 そういった心情が、ロケからの帰り道、「田所康雄」の位牌を作らせることになったような気がする。

 この作品あたりから、田所康雄は、車寅次郎の渥美清だけは、なんとか頑張ろう、と心を決めたように思う。
 昭和58(1983)年の第三十二作のあとに、渥美清が「男はつらいよ」以外の映画に名を連ねたのは、次の四作品のみ。
 「キネマの天地」(昭和61年、喜八役)、「二十四の瞳」(昭和62年、ナレーター)、「ダウンタウン・ヒーローズ」(昭和63年、春之助役)、「学校」(平成5年、八百屋のオヤジ役)、だけである。 ちなみに、テレビはNHKの「花へんろ」のナレーターのみ。

 位牌が田所康雄と、“関谷敬二”ではなく、関敬六であったのが、関敬六という役者は辞めても、関谷敬二という男は長生きしてくれ、という思いが込められていたのかどうかは、今となっては、誰も分からない。

 しかし、大事なことは、田所康雄という一人の男、そして渥美清という役者は亡くなったが、車寅次郎は、いまだに元気に生きた姿を見せて、我々を楽しませてくれているということである。

 このシリーズ、これにてお開きとします。
 長々のお付き合い、誠にありがとうございます。
 
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by kogotokoubei | 2015-06-21 11:07 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(6)

 政治がらみのことは、兄弟ブログ「幸兵衛の小言」として分けたのだが、今の状況において、どうしても紹介したい本なので、ご容赦をいただきたい。

 昨日の国会前デモに、瀬戸内寂聴さんが駆けつけてくれた姿は、私を含め多くの人の心に深く伝わるものがあったように思う。

 瀬戸内さんは大正11(1922)年生まれ。私の父と同じ、犬年生まれだ。

 瀬戸内さんより、ほぼ一回り上の明治42(1909)年生まれの作家、大岡昇平の本から紹介したい。

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大岡昇平『証言その時々』(講談社学術文庫)

 『証言その時々』は、昭和62(1987)年に筑摩書房から単行本が発行され、昨年、講談社学術文庫から再刊された。
 さまざまな本、雑誌などに掲載された大岡昇平の文章を集めたもの。

 その中から、昭和40(1965)年の『潮』8月号に掲載された文章を引用する。



二十年後                          
                               『潮』1965年8月号

 二十年前の八月十五日夜、私はレイテ島の俘虜収容所にいた。仲間といっしょに私は少しばかり泣いたが、祖国の将来について絶望していなかった。一度失われた艦隊は再建出来ない。日本はもう一等国とか、極東の覇者とかになることはあるまい。同時に明治初年以来の、極東を侵略する富国強兵政策は捨てなければなるまい。
 われわれはとても小さくなるだろうが、そのために罪悪感から免がれることが出来るだろう。文化的にも小さくなるだろうが、片隅の幸福を享受することが出来るだろう、というようなことを考えた。
 再建にかかる時間はまず十年だろう、というようなことを、俘虜の友人と話し合った。
 十年経った。アメリカとの単独講和を結んだが、アメリカの軍隊はまだ日本領土にいて、日本の主権は三分の二ぐらいしか返っていない感じだった。トランジスターラジオと造船によって、祖国は繁栄の道を歩み、朝鮮、ベトナムで、アメリカが生み出している戦争状態に協力していた。週刊誌は性的に無軌道な若い世代を謳歌していた。
 二十年経った。政府はアメリカと軍事同盟を結び、ベトナムにおける同盟国の拡大戦争の冒険に加わろうとしている。これは道義的不正であるだけでなく、祖国を核攻撃を受けるリスクにさらす危険な政策である。
 昭和二十年、私は歩兵一等兵続いて俘虜であった。それまではフランス文学の翻訳家にすぎなかった。戦後私は作家になった。そしてジャーナリズムの習慣により、こんな政治的な文章を書いている。
 しかし私は一人の日本人として、日本の将来について心配している、私自身と家族の安全と幸福を願っている。アメリカと手を切れば、真空状態が生じ、共産主義に侵される、とアメリカを礼賛する者はいう。しかしそれは不確な将来に属することにすぎない。戦後アメリカの支配を脱したという理由によって、悲惨に陥った国の例はない。
 ところが現にアメリカの従属国に甘んじることにより、重大な危険が生じているのである。従って少なくともアメリカがアジアで起した戦争に参加しないと宣言することは、さし迫った不孝を避ける唯一の道ではないか。
 私は二十年前、一兵卒として南方に送られ、戦争の惨禍を多少経験した。その経験を語ったこともある。現在作家として、アメリカに追随することによって生じた一時的繁栄の恩恵を受けている。しかし現に私と同じ国に生れ、同じ皮膚と眼の色を持った若い同胞が、同じ恩恵を受けることにより危険な戦場送られるのを見ていられない。
 二十年前、私は祖国がこういう事態に追い込まれようとは思いも及ばなかった。痛憤極りないといえば大袈裟であるが、幸い意見を述べる機会があるから、黙っていないのである。

 読んでいて、とても、五十年前に書かれた文章とは思えないのだ。

 昭和40(1965)年には、次のようなことが起った年だ。
 
  2月 7日 アメリカ軍による北ベトナム爆撃(北爆)開始
  2月21日 アメリカの黒人運動指導者マルコムXが暗殺される
  4月24日 小田実らが「北ベトナムに平和を市民・文化団体連合」(ベ平連)
       を結成

 たしかに、歴史的に大きな節目の年であったが、では、平成27年はどうなのか。

 ‘アメリカの従属国に甘んじることにより、重大な危険が生じているのである。従って少なくともアメリカがアジアで起した戦争に参加しないと宣言することは、さし迫った不孝を避ける唯一の道ではないか’ という主張は、北爆のことを非難しているのだが、50年前のこの主張は、今でも通用する。
 
 戦争法案が通ってしまえば、‘アメリカがアジアで起した戦争’に参加する危険性が増えることいは言うまでももない。
 いや、戦争法案の成立は、起きなくてもよいアジアの戦争を引き起こしかねない。

 大岡昇平は、終戦を俘虜収容所で迎えた時、‘われわれはとても小さくなるだろうが、そのために罪悪感から免がれることが出来るだろう。文化的にも小さくなるだろうが、片隅の幸福を享受することが出来るだろう’と考えた。
 残念ながら、‘小さい’ながらも、罪悪感のない、片隅の幸福を享受する道を、日本は選ばなかった。
 戦後の日本の歴史を大雑把に言うなら、武力ではなく経済の大国となることを、アメリカを教師として突っ走ってきた70年、と言えるかもしれない。
 そして、現在、今後の十年、二十年につながる岐路に立っている。
 今度は、ふたたび、武力で大国を目指す、完全な‘逆コース’が選択肢となっている。

 アメリカは、もはや教師ではなく、‘反面教師’なのだ。
 もう、大きくなることも、アメリカに追従することも、きっぱりやめる時だ。

 今が、正念場であることを、多くの方が認識している。
 行動する若者も現れている。
 まだまだ、捨てたもんじゃないよ、この国は。

 デモなどの直接行動には、なかなか参加できないが、ちっぽけなブログでも、できることを模索したい。

 戦争体験者によって語られてきたさまざまな言葉を掘り起こすことも、その一つではなかろうか。

 戦争に巻き込まれては、とても落語どころではなくなる。

 落語などを含め芸能は、平和な生活があるからこそ、楽しめるのではなかろうか。

 マクラで政治ネタをする噺家さんも、昨今は増えてきた。それは、本来、落語が庶民の側、長屋の側にある芸能であるので、決して不思議ではない。
 
 落語に登場する言葉を使うなら、テレビのニュースに映る安部首相を含む閣僚の面々、まさに‘丸太ん棒’に見えてしょうがない。
 戦争をできる国にしようとしている人々であり、若者を戦場に送り込むことを厭わない野蛮人には、血も涙も流れちゃいない。


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by kogotokoubei | 2015-06-19 22:38 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(0)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛