噺の話

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桜の花見の時期が来た。しかし、咲いた花を愛でる期間は、なんとも短い。
 だからこそ、桜なのかもしれない。
 三年近く前、藤原正彦さんの『国家の品格』から、散る桜に‘もののあわれ’を感じる日本人、という指摘をご紹介した。
2012年4月10日のブログ

 昨今の花見、かつてのように、会社などで争って場所取りをするほどには盛んに行われなくなったが、日本人にとって花見は、春を体感する重要な行事であることには違いない。

 もちろん、楽しみ方は人それぞれ。仲間と飲むもよし、一人で窓から眺めて楽しむも、よし。

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神崎宣武著『旬の日本文化』(角川ソフィア文庫)
 
 まずは、花見の起源について、節分の際の記事2015年2月3日のブログでも引用した、岡山宇佐八幡神社宮司で民俗学者、神崎宣武著『旬の日本文化』からご紹介したい。

 花見の起源については、諸説ある。
 ひとつは、都の貴人たちの雅遊説。「百敷(ももしき)の大宮人(おおみやびと)は暇あれや桜かざして今日も謳ひつ」とうたわれたように、平安期の貴族たちは花を見て歌を詠み、そぞろに遊びたわむれていた。宮中でも花見の宴があった、と古文献に伝わる。そして、庭園では、曲水の宴が催された、と伝わる
 もうひとつは、武家の夜宴説。たとえば、豊臣秀吉が晩年に催した山城三宝院での花見は、あまりにも有名である。
「花は桜木、人は武士」というがごとくに、武士たちは、ことさらにサクラを尊んだ。散りぎわの潔さ、美しさが武士道にそぐうから、という。
 京都を中心には、寺の庭にサクラの木が植わっていた。これも、花のはかなさと散りぎわの美しさを仏心にもとづく人生に投影してのことであっただろう。
 さて、こうした特権階級の花見が、やがて庶民社会に広まった。とくに、江戸の町で花見が盛んになり、江戸後期には、上野、飛鳥山、向島などが花見の名所となった。たしかに、今日私どもが催すところの花見行楽の源流はここにある、といってよいかもしれない。


 
 上記の内容は、いわば都会の花見の起源とでも言うべきもので、本書では農村での起源についても言及している。
 しかし、花見の歴史的な展開を都や江戸を中心に説くだけではことはすまない。文化は、上位加下達式に伝播するとはかぎらない。
  (中 略)
 農村社会でのそれは、「山遊び」「野辺遊び」といわれた。たとえば、西日本の各地、とくに近畿地方の山地から中国地方の山地にかけては、旧暦の三月三日か四日が花見日であった。その日は、集落ごとに老若男女が連れだって見晴らしのよい山や丘に登り、酒肴を楽しんで遊んだ。東北地方では、四月八日を花見日とした例が多かった。
 山に花が咲く。それは、まさに農作業はじまりを知らせてくれた。花見の「見」は、ただ見るだけではない。月見や日和見と同じように、日立てをいうのである。わかりやすくいうと、桜前線から約一か月半ほど遅れて田植え前線が同様のカーブを描いて北上するのである。
 人びとは、酒肴を携えて山に登り、ある種の神まつりを行なう。山のサクラは、山のカミがそこに依りついたしるしにほかならない。その下で神人が共食し、豊作を約することに本義があったのだ。そのあと、サクラの一枝や柴木の一枝を手折って持ち帰り、家の庭口や一番田(最初に田植えをする田)の水口に立てるという慣行を各地で伝えていた。山のカミを田のカミとして里に降ろす、その伝統なのである。


 八百万の神の国、日本ならではの伝統行事であった、ということか。

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杉浦日向子監修『お江戸でござる』

 新潮文庫の『お江戸でござる』は、平成7(1995)年から平成16(2004)年まで放送された、NHK「コメディーお江戸でござる」を本にしたもので、もちろん杉浦日向子さんの監修。

 こちらでは、江戸の花見が、より動的な場であり、男女の出会いの場でもあったことが紹介されている。
 江戸時代中期から花見が盛んに行われるようになりましたが、私たちに親しみがある染井吉野が開発されたのは幕末から明治にかけてです。この頃はまだ、紅い若葉が先んじて霞のようにほんのりした咲き方の山桜でしたが、人々は春を満喫しました。
 花見は、桜を見に行くというよりは自分たちを見せに行くパフォーマンスの場です。若い人たちがおそろいの着物を着て、歌ったり踊ったり、即興の芝居をしたりします。
お花見の時の茶店には、三味線や小道具の鬘などをレンタルしてくれるところもあります。手ぶらで行っても、にぎやかにすることができるのです。
 女性たちは「花衣」といって、年に一度の花見のために衣装をこしらえたり借りたりして、花よりもあでやかに着飾ります。男性にとっては、それを見るのが何よりも楽しみです。
 花見の席では、お見合いもよく行われます。花見を縁に、山菜取り、潮干狩り、夏の野山に行くなどして縁を深め、秋の頃に祝言というのがおめでたいコースです。
 江戸の花見は三種類あります。最初は「梅見」で、親友と旧交を温める機会です。次に「桜見」で、ちょうど卒業・就職の季節の歓送迎会に当たります。締めが「桃見」で、これは郊外にハイキングして家族の和を楽しむ会です。この三つをクリアして春が成就したと、江戸の人々は感じていました。


 この部分を読んでいて、落語の『長屋の花見』や『花見の仇討ち』、そして『百年目』などにおける、‘酒肴’と‘趣向’の場としての花見の姿が思い浮かんだ。

 本書は、単行本が、まだ番組放送中の平成15(2003)年9月にワニブックスから『お江戸でござる-現代に活かしたい江戸の知恵』の題で発行され、平成18(2006)年7月に図版を入れ替えて新潮文庫から発行された。

 文庫の「はじめに」は、単行本の時と同じ内容で、NHK「コメディーお江戸でござる」スタッフ一同、の名で書かれている。
 一部引用したい。

 この番組は、毎回読みきりの「コメディー」、出演歌手が歌う「オリジナルソング」、文筆家・杉浦日向子さんが解説する「おもしろ江戸ばなし」の三部構成。一流の役者さんたちを迎え、練習に多くの時間をさけないにもかかわらず、アドリブに頼らないきっちりとした芝居をつくるよう努めています。コメディー部分はVTRの編集をせず、収録した通りに放送するため、「この番組は毎回ものすごく緊張する」とおっしゃる出演者も少なくありません。
 杉浦日向子さんには、「江戸の意外性と現代との共通性」をテーマに、いわば江戸世界へのいざない役として、庶民の暮らしぶりを中心に楽しい解説をしていただいています。
 この本は、過去九年間に「おもしろ江戸ばなし」で取り上げた、江戸庶民の生活や風俗のお話を、テーマ別にわかり易くまとめたものです。
 「江戸」は遠い昔の町ではありません、「江戸はゲンダイの隣町」なのです。
 さあ、ちょいと隣町まで足をのばして、豊かな江戸の世界に分け入ってみようではありませんか。


 単行本発行から半年後に放送は終了するのだが、紹介した文章には、NHKスタッフの意気込みが十分に伝わってくる。

 あの番組は、コメディー部分も良かった。

 NHKアーカイブスのサイトにある「名作選 みのがしなつかし」で、同番組のページがあるので、一部引用する。
NHKアーカイブス「NHK名作選 みのがしなつかし」の該当ページ

NHKに公開コメディー復活

1972(昭和47)年から1982(昭和57)年まで放送された『お笑いオンステージ』以来、13年ぶりの「公開コメディー」となった『コメディー お江戸でござる』。その出発点は、江戸時代と現代との不思議な共通性や意外性に着目したことだった。番組では、江戸の面白さをよりリアルに伝えるために“通し収録、ノー編集”で作られる「公開コメディー」の形式を採用することに。しかし、13年のブランクでNHKには公開コメディーの制作ノウハウがなくなる寸前だったため、スタッフは『お笑いオンステージ』にも出演経験があり、コメディー経験も豊富だった伊東四朗に出演をオファー。同時に演出家として『お笑いオンステージ』を手がけていた滝大作に協力を求めた。


 伊東四朗と滝大作、この二人がこの番組成功の鍵を握っていたと思う。

明確な喜劇論を持ち、徹底的にスタッフと討論を重ねて番組を練り上げていった伊東は「『お笑いオンステージ』は三波(伸介)という“上”がいて、私はわき役だったので楽でしたが、今回は座長として番組の中心にいるので苦労していますよ。全体を見渡さなければなりませんから」と番組づくりについて語っていた。


 その後、伊東四朗は座長としてコメディーの舞台を成功させるが、その原点がこの番組ではなかっただろうか。

 役者と脚本家、演出家のプロ同士が、しのぎを削ってつくったコメディーだったのだろう、と今になって思う。

 今日、同じような顔ぶれの芸人ばかりで作られる安易なバラエティーとはまったく次元の違う、笑いながら江戸を知ることのできる高い品質のドラマを提供していた。 
 今どき、VTRの編集版を使わず生のままで放送なんて番組、ニュースやスポーツ以外にどれだけ存在するだろうか。 

 伊東四朗は途中で降板したが、その後も、山田吾一、えなりかずき、魁三太郎、前田吟などの芸達者たちによりドラマの質はしっかり維持されたと思う。
 加えて、由紀さおり、野川由美子、松金よね子、竹下景子、浅茅陽子といった女優陣も充実していた。

 そして、何と言っても杉浦日向子さんのコーナーが楽しみで、よく見たものだ。

 「名作選 みのがしなつかし」では、次のように書かれている。
伊東を中心に展開する「芝居」の“あら探し”をすることもあった「おもしろ江戸ばなし」。番組プロデューサーは「コメディー部分はちゃんと時代考証をして作っていますが、杉浦さんに指摘されて初めて知ることが多いですね」と、研究家の目の鋭さを実感していたよう。その杉浦は数々の名作を残して漫画家を廃業。その後、江戸時代の魅力に取りつかれ、江戸風俗研究家となった異色の経歴の持ち主。その知識の深さはもちろん、粋で優しい語り口に多くの視聴者が引き込まれた。

 その杉浦さんは、この番組の放送が終了した翌平成17(2005)年7月、帰らぬ人となってしまった。
 最終回とその前の回が石川英輔に代わっていたのは、当時すでに杉浦さんの体調が良くなかったからのようだ。

 そういう意味では、映像において、あの番組は杉浦さんの遺作と言えるのではなかろうか。

 花見のことを考えて本を辿っていたら、つい、あの懐かしい番組を思い出してしまった。
 今のNHKでは、とてもあんな番組は出来そうにないだろう。
 
 録画しておいて週末に見ることが多かったが、保存しなかったのが悔やまれる。
 しかし、今見たら、辛くなるかもしれないなぁ・・・・・・。

 そんなことも思わせる、江戸を楽しく学ぶ、良い番組だったと思う。
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by kogotokoubei | 2015-03-30 19:22 | 江戸関連 | Comments(0)
 拙ブログへいただいたコメントや、他の落語愛好家の方のブログ、落語協会ホームページ委員会メンバーの噺家さんのブログなどから、落語協会がホームページの内容を、より簡便化しようとしていることが分かった。
 ホームページ委員会のメンバーだった、柳家小袁治と柳家三之助のブログを、ご参照のほどを。
柳家小袁治のブログ「新日刊マックニュース」
ブログ「柳家三之助の『まめさ』を鍛える場所」

 今月の理事会で、決めたらしい。

 私は、今以上の改善を希望する、という記事を書いたが、それどころではない流れになっている。
 どうも、ホームページに、今後は費用や労力もできるだけかけたくないとみえる。
 落語芸術協会(芸協)のホームページが粛々と改善されているのとは、好対照な動きである。

 4月1日から変わるらしいので、その内容を確認してから、あらためて何か書くことになると思うが、その前に言っておきたいことがある。

 今回のホームページ縮小決定の理由は、いくつか考えられるし、複数の要因が存在するかもしれないが、私見を述べたい。

(1)費用の問題である場合

 もし、問題の根幹に「費用」のことがあるのなら、次のような道筋の中で、この問題を考えられないだろうか。

(a)内容の簡素化でコストセーブ
   インターネット落語会は、なかなか良い企画だったが、費用面もかさみそうだ。
   だから、残念だが中止して費用削減を目指さざるを得ないと思う。
   落語愛好家にとって必須と思われるのは、次のコンテンツである。
  ・代演情報:これはは貴重である。落語協会を芸協は見習ったほどである。
  ・所属落語家のプロフィール
  ・直近落語会情報:せめて向こう三か月くらいの情報は欲しい(連獅子も含めてね!)
  ・真打昇進などの情報
  ・協会の概要
  もし、最低限の内容に絞るなら、ここまででも結構。逆に言えば、これだけは必要だろう。

(b)費用の捻出
 費用の問題が根幹にあるのなら、落語愛好家を含めてホームページ改善のための寄付を募ってはどうか。定席寄席で寄付用の箱でも用意してもらえれば、私は、いくらかでも寄付をするぞ!
 落語協会は、過去の失態(杜撰な会計管理)があって、芸協のような「公益社団法人」ではなく、「一般社団法人」である。
 詳しくは不勉強で知らないのだが、公益社団法人は一般社団法人にはない税制上のメリットがあり、寄付を受けやすいようだ。
 芸協が、ホームページの運営費用を寄付に頼っているのかどうかは、知らない。
 しかし、寄付があれば、費用面で少しでも救われるのは事実だ。
 だから、なんとか公益社団法人化をめざして、達成された暁に、落語を愛する団体や個人から寄付を募ってはどうか。
 上方落語協会に、某引っ越し屋さんが大口の寄付をして、二ツ目の大会が開催できるのも、同団体が公益社団法人だからではないだろうか。
 
 問題は、ホームページを充実させるための、協会の了見を示すことである。
 

(2)ウェブサイトの重要性への認識の問題である場合

 その“了見”が、実は今回は大いに疑わしい。理事会では、そんなにもめたような情報がない・・・・・・。
 問題の根っこが、落語協会の幹部達がホームページの重要性を感じない、その了見にあるのならば、大いに考えをあらためて欲しいkものだ。
 今やネットの時代であり、若い人に限らず落語愛好家は、落語会や落語家、ネタなどの情報の多くをネットで収集している。
 ホームページは、実に重要な情報源であることを、再認識して欲しい。
 会長が協会のホームページを見ないらしいのだが、とんでもないことだ。
 理事の中にも、自身でホームページを開いていたりやブログを行っている噺家さんが複数いるから、その影響の強さを肌で感じているはずだ。会長を説得できないはずがない。


 費用なのか、了見(ウエブサイトへの考え方)なのか、あるいは、その両方なのか分からないが、4月1日以降の姿を確認しよう。

 ちなみに、会長柳亭市馬は、自らのホームページを開設している。CDの宣伝までしている。
柳亭市馬のホームページ
 まさか、ホームページからのCDの注文が少ないので、「ホームページなんか、効かない」とでも思っているのか・・・・・・。

 4月1日に、「ホームページのリニューアルは嘘でした!」というエイプリルフールは、聞きたくないなぁ^^
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by kogotokoubei | 2015-03-28 07:38 | 落語協会 | Comments(2)
東西の大きな落語家の協会は、ご存知のように、東京の落語協会と落語芸術協会、そして上方落語協会である。

 それぞれが、協会のサイトを開設している。
落語協会のサイト
落語芸術協会のサイト
上方落語協会のサイト

 この三つの協会のサイトで、桂米朝の訃報を掲載しているのは・・・実は落語芸術協会のみ。
 落語協会も、そして、上方落語協会も、訃報掲載がないのは、米朝という稀有な落語家、偉大な落語研究者に対し実に失礼ではないかと、私は思う。
 それとは別に、上方落語協会のトップページは、相変わらず会長挨拶なのだが、これがトップである必然性はないだろう。もっと、別な使い方があるように思う。サイトの全体の構成から改善の必要があると思う。
 加えて、以前にも書いたが、私などがよく利用する「上方落語家名鑑」へのリンク切れは未だに改善されていない。
 ちなみに、天満天神繁昌亭からは名鑑にリンクできる。
 
 これまた以前にも書いたのだが、神田連雀亭、そして3月に新に開設した巣鴨獅子座という、出番の少ない二ツ目の貴重な活躍の場への出演情報について、落語芸術協会のサイトでは案内されているが、この二つの寄席の運営に手弁当で奮闘している古今亭志ん輔が所属する落語協会は一切案内をしていない。

 情報の適切な配信、更新と管理というサイトに求められる要件について合格なのは、落語芸術協会のサイトだけのように思う。


 さて、巣鴨の獅子座開設に伴い、「連獅子」というサイトが出来た。「連獅子」のサイト

 サイトから「連獅子」の説明を引用したい。

連獅子とは

この度 『二ツ目』と呼ばれる若手芸人専用の寄席専門館を二箇所立ち上げる運びとなりました。
落語家には『真打ち』『二ツ目』『前座』『前座見習い』という階級がありますが『二ツ目』は『真打ち』の一つ前の階級となります。

『二ツ目』は、寄席の番組で二番目に高座へ上がるので『二ツ目』と呼ばれ、師匠の家や楽屋での雑用がなくなり、紋付袴の着用が許される一人前の落語家です。ただし、毎日楽屋へ来なくてもいい分高座に上る機会は激減します。自ずと自主公演をすることになりますが多くの高座は望めません。

『二ツ目』を約10年勤めると、いよいよ真打ちになりますが、必ずしもすべての『二ツ目』が真打ちになれるわけではありません。落語業界の質を考えた場合、厳しさも必要ではありますが、それを踏まえても『二ツ目』が日々お客様に向かって「真剣勝負」をする場が年々少なくなっていることは、落語業界全体にとっても危惧すべきことと考えました。

そんな中、多くの関係者のご支援、ご協力のもと『神田連雀亭』が2014年10月11日、『巣鴨獅子座』が2015年3月1日より開館いたしました。落語協会、落語芸術協会、講談協会、日本講談協会、立川流、円楽党の総勢80名以上の『二ツ目』が協会の枠組みを超えて賛同し出演しております。

その二ツ目専門館の番組表や落語家紹介をまとめたのがこの「連獅子」というウェブサイトです。
今回の取り組みで、寄席で出番が少ない『二ツ目』の活躍の「場」になると共にお客様と『二ツ目』達とのご縁が繋がり、仕事帰りや昼休みに立ち寄って気軽に楽しんでいただける「場」となれば幸甚です。

落語が皆様にとってより身近に。
それが落語界のさらなる発展と、皆様の幸福になると信じて。

発起人 古今亭 志ん輔
http://www.0874sinsuke.com/


 「連獅子」とは、なかなか良い名づけだと思う。
 志ん輔の熱い思いも伝わってくる。
 連雀亭のサイトよりも、番組の確認がしやすくなった。もちろん、二つの寄席の確認ができる。

 紹介した内容から繰り返しになるが、‘『二ツ目』が日々お客様に向かって「真剣勝負」をする場が年々少なくなっていることは、落語業界全体にとっても危惧すべきこと’であり、せっかく、‘落語協会、落語芸術協会、講談協会、日本講談協会、立川流、円楽党の総勢80名以上の『二ツ目』が協会の枠組みを超えて賛同し出演’しているのである。落語協会は、サイトで神田連雀亭と巣鴨獅子座の案内をして欲しいと思うし、少なくとも「連獅子」サイトへのリンクくらい張っても良いのではなかろうか。

 ちなみに、私は以前に落語協会のサイトの問い合わせコーナーから、「神田連雀亭の案内をして欲しい」という要望を送ったが、何ら返事はもらっていない。

 今や、良くも悪くもネット時代である。
 サイトを開設している以上は、その特性を活かして欲しい。
 若い落語愛好家は、情報をネットで収集する習性が強い。
 何等かのメッセージ、案内などを発信する便利な道具としてサイトを使わなければ、もったいないではないか。

 その点で、落語協会や上方落語協会のサイトに携わる人々の了見を疑わざるを得ない。
 もっと、情報を発信しましょうよ!
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by kogotokoubei | 2015-03-24 06:10 | 幸兵衛の独り言 | Comments(4)
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桂米朝著『落語と私』(ポプラ社)
 米朝の訃報に接して、『落語と私』を読み直したが、あらためてこの本の素晴らしさを感じ、ご紹介する次第。
 本書は、昭和50(1975)年ポプラ社から発行され、その後昭和61(1986)年文春文庫に収録。平成17(2005)年にはポプラ社から新装版が発行されている。上の写真はポプラ社の新装版。ちなみに私は文春文庫版を元に、この記事を書いている。

 まず、目次からご紹介。
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はじめに
プロローグ
第一章 話芸としての落語
      落語・漫才・活弁
      しゃべり方でこんなに違う
      説明なしですべてわかる話術
      しぐさと視線
      立体感のつくり方
      女の落語家はなぜいない
第二章 作品としての落語
     名作・駄作も演者しだい
     はたして落語は文学か
     サゲの効きめはどんでん返し
     「死骸が腐ります」-落ちのいろいろ
     古典落語と新作落語
     落語は一種の社会学
     落語から学んだもの
     人情噺について
第三章 寄席のながれ
     落語はいつはじまったのか
     上方落語は野天から
     ちょっと気どった江戸落語
     寄席、登場!
     端唄、どどいつ、笛、太鼓
     余裕がうみだすユーモア
     寄席経営の内幕
     一人前の落語家とは
     高座の高さとマイクロホン
     客席とのほのぼのとした交流
第四章 落語史上の人びと
   江戸から東京へ
     立川円鳶馬(烏亭鳶馬)と三笑亭可楽
     三遊亭円生-芝居噺の名人
     三遊亭円朝-17歳の真打
     柳家小さん
     柳家金語楼
     文楽と志ん生
   上方の人びと
     初代桂文治
     桂文枝
     十代目桂文治
     桂春団治
     五世笑福亭松鶴
   落語家の現状
     前座→二ツ目→真打
     三つの落語協会
エピローグ 言いたりないままに
     キモノ文化から洋服文化へ
     だから落語はやめられない
     末路哀れは覚悟の前やで
 解説 矢野誠一  
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*ポプラ社新装版では、矢野さんではなく、小沢昭一さんが「新装版に寄せて」を書いている。

 目次の内容を読むだけで、興味津々だ。

 先日、加太こうじさんの「落語は文学だ」と主張する本『落語-大衆芸術への招待-』について書いた。
2015年3月14日のブログ


 米朝のこの本にも、「はたして落語は文学か」という章があるので、ご紹介したい。

はたして落語は文学か

 活字で読む戯曲と、舞台で上演されたお芝居と、これにも同種のことが言えると思います。義太夫をよむのと、それに節をつけて語られた浄瑠璃をきくのと、さらに文楽の人形芝居として劇場で見た場合と・・・・・・。これはまた大きくちがうでしょう。
 しかし、戯曲はりっぱな文学作品としてあつかわれていますし、近松門左衛門や竹田出雲の浄瑠璃も文学とされています。しかし上演された場合は演劇として、文学とはべつなジャンルであつかわれます。一方落語は・・・・・・。上演された場合はこれは演芸としての「落語」でしかありませんが、はたして活字になった時に、これは文学なのでしょうか。


 加太こうじさんの本は、「大衆芸術」という分野における‘語り物’を中心に書かれているからだろう、能、狂言、そして戯曲などにはついては言及されていなかった。しかし、米朝は少し対象範囲を広げて語っている。

 さて、その続き。

 謡曲や浄瑠璃は、演者が変わっても、その詞章は一字一句ほとんど変わることはありませんが、落語は演者によって大きく変わります。いや、おなじ演者であってもやるたびに一字一句変わらないなどというものではありません。それどころか、その時にその場合の時間に合わせて入れ事をしてのばしたり、カットしてちぢめたり・・・・・・そして不自然さを感じさせない・・・・・・それができなければ一人前の真打とは言えないとされています。
 落語の定本・・・・・・などと言ってもかなりあいまいなものです。そんなものが文学と言えるかどうか。
 「名作の落語はそれなりで立派な文学です」と言った方はたくさんありました。それはその中に人間のさまざまな哀歌が描かれ、季節感の見事な描写があり、長い年月の間に、何人も何人ものはなし家の人生体験が裏打ちされた蓄積があるからです。


 “何人も何人ものはなし家の人生体験が裏打ちされた蓄積”の中に、桂米朝も大きな存在として素晴らしい財産を残してくれた。
 さて、それでは、“落語は文学なのか”について。

 けれども「名作の落語は・・・・・・」というただし書きがついていることは、つまらないものがたくさんあるということでもあります。しかし、駄作と思われる落語でも、前に述べたように名手の演出によれば、みごとな落語になることもあるのです。
 いまおこなわれている数百題の落語を、すべて活字にして、これことごとく文学なりと言うつもりなど、少しもわたしにはありません。いや、落語ははたして文学かなと思ったり、もし文学であるとすれば、いかなる範疇に属するかと考えたりしています。むしろ、文学の範囲にいれてもらわない方がよいとも思うのです。ちょっとちがうものなんだ・・・・・・と言いたいのかもしれません。こうなると、いったい、文学とは何ぞやというとんでもない大きな問題になってきそうですから、もういいかげんにしておきますが、おしゃべりによって伝えられてきたもの、民話や伝説、社寺の諸縁起なども、芸とか文学とかいう以前の問題です。おそらく人間の住むところにはどこにもでもあったはずですが、それらを記録して活字にされた場合、たいてい文学の一ジャンルにいれられているようです。
 落語でも江戸初期の「醒睡笑」なんかは、つまり小噺集と言えるでしょうが、これはもう立派に文学の部類にはいっています。
 けれども前に言ったようにちょっとちがうということ、それはサゲがあるからです。落ち、とも言いますが、これでそのはなしがしめくくられているからです。
 しかも、このサゲこそ落語の落語たるところであって、もともと、これがなかったら落語ではありません。前記の「人間のさまざまな哀歓が描かれ、季節感の見事な描写があり、何人ものはなし家が人生体験の裏打ち・・・・・・」などと言っても、これらはあとから加わったものですから・・・・・・。


 「文学」という言葉には、“高尚”なイメージがあり、文字になった、あえて言えば“静的”なものであり、そこにはあまり動的な“笑い”の匂いはしない。

 そう思うと、加太こうじさんの「落語は文学だ」という言葉は、‘高尚’な文学にも落語は負けない、という思いが言わせているように思う。昭和30年代という時代背景も重要だろう。敗戦からの復興期において、落語によってもたらされる笑いは大事な潤滑油であったと思う。加太さんの本からは、落語愛好家が落語を愛するあまりに、「(決して高尚な)文学にも負けないものだ」という強いメッセージが伝わる。

 比べて米朝は、落語家であり、落語の研究家でもある達人が、あくまで落語はサゲのあるお笑いの世界の芸能で、加えて、演者次第で変わる、動的な“生きた”ものなので、文学とは‘ちょっとちがう’という見解のようだ。あくまで演じることに意味があり、文章として書かれた落語を、生の高座と独立した‘高尚’なものとして祭り上げることに、やや納得できかねる、といった噺家としての心情も読み取れる。だからこそ、埋もれた上方落語を自ら演じることで復活させたのだろう。

 落語と文学についての二人の見解は、どちらが正しい、というものではないだろう。高座にいる側と客席というそれぞれの立場や、見方によって変わっていいのだと思う。
 ただし、どちらも、「たかが落語、されど落語」という心情が背景にあるのではなかろうか。

 さて、本書は、このあとサゲについて書かれた章に進む。他にも文庫にして200頁余りの中に、実にためになる内容が盛りだくさん。ご関心のある方は、ぜひ実際にお読みのほどを。

 落語に関する優れた解説本としてお奨めしたい本書も、米朝が残してくれた数多くの遺産の一つである。

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by kogotokoubei | 2015-03-22 07:38 | 落語の本 | Comments(2)
メディアに、桂米朝の訃報があふれている。
 それだけ偉大な噺家であり、上方落語界への貢献が計り知れないほど大きかった、という証だろう。
 人間国宝や文化勲章は、その至芸と功績へのご褒美だった。

 落語家はじめ多くの方のコメントが寄せられているが、神戸新聞の記事から、あるお二人のコメントを引用したい。神戸新聞の該当記事

 雑誌「上方芸能」(大阪市)発行人の木津川計さんは「戦後、どん底だった上方落語界を復権させた最大の功労者。桂枝雀さんや桂吉朝さんらを育て、60人以上の米朝一門を率いて盛り上げてきた。長く患っていらっしゃったが、生きてさえいてくだされば皆が安心できる存在だった。とうとうその日が来たかという感じだ。まさに巨星落つ、という言葉がふさわしい」と惜しんだ。

 70年代から米朝一門にネタを提供している落語作家小佐田定雄さん(63)=大阪市=は「演芸の名人であり、学者であり、教育者であり、肩書を全部外したら『世話やき』やった」と振り返る。

 「理性では『いつかは』という思いはあった。ただ、感情では『あの人は死なん』と思っていた」。高座に出なくなっても、入院したと聞いても、どこかで自分のネタを聞いていて、アドバイスをくれる、そんな安心感があったという。

 「同じ空の下におってくれるだけでよかった。これから、どこに向かって球を投げたらええんか」。小佐田さんが声を落とした。


 木津川さんの言葉には、偉大な功績が端的に表現されていると思う。
 小佐田さんの「同じ空の下におってくれるだけでよかった」という言葉が、印象的だ。

 残念ながら、同じ正岡容門下だった小沢昭一さんには、米朝が訃報へのコメントを寄せる側だった。 

 今頃、天国では師の正岡容と一緒に一杯やっている小沢さんが、「遅かったねぇ!」とでも、声をかけているような気がする。

 このブログでは、文化勲章を受章した2009年、二回に渡って米朝について書いた。
2009年11月17日のブログ
2009年12月7日のブログ

 また、その年の12月に、新百合ヶ丘駅近くの麻生市民館で開催された「桂枝雀生誕70年記念落語会」で、最初で最後の生の桂米朝を拝見でき、その記事を書いた。
2009年12月4日のブログ



 以前の記事と重複するが、名著『落語と私』から、師匠米團治の言葉を紹介する部分を引用したい。
 『落語と私』は、昭和50(1975)年ポプラ社から発行され、その後昭和61(1986)年文春文庫に収録。平成17(2005)年にはポプラ社から新装版が発行されている。
 最終章「末路哀れは覚悟の前やで」から。桂米朝『落語と私』

 落語は、古典芸能のはしくれに入れてもらいましても、権威のある芸術性ゆたかな数々の伝統芸能と肩を並べるのは本当はいけないのだと思います。「わたくしどもはそんな御大層なものではございません。ごくつまらないものなんです」という・・・・・・。ちょっとキザな気どりに思われるかもしれませんが、本来はそういう芸なのです。
 前にも、「落語は正面きって述べたてるものではない」と書きましたが、汗を流して大熱演する芸ではないのです。・・・・・・実際は、汗を流して大熱演していても、根底の、そもそもが、「これは嘘ですよ、おどけばなしなんです。だまされたでしょう。アッハッハッハ」という姿勢のものなのです。
 芸人はどんなにえらくなっても、つまりは遊民(何の仕事もしないで暮らしている人)なのです。世の中の余裕------おあまりで生きているものです。ことに、落語というものは、「人を馬鹿にした芸」なのですから、洒落が生命(いのち)なのです。
 わたしがむかし、師匠米団治から言われた言葉を最後に記します。
 『芸人は、米一粒、釘一本もよう作らんくせに、酒が良(え)えの悪いのと言うて、好きな芸をやって
 一生を送るもんやさかい、むさぼってはいかん。ねうちは世間がきめてくれる。ただ一生懸命に芸をみ
 がく以外に、世間へお返しの途(みち)はない。また、芸人になった以上、末路哀れは覚悟の前やで』


 師匠米團治が米朝に送った言葉の意味することを、きっと折に触れ弟子達に諭してきたのだと思う。
 だから、人間国宝や文化勲章をもらって一番驚いたのは、ご本人ではなかっただろうか。

 逆説的だが、「末路哀れは覚悟」という了見があってこそ、明かりが消えかかった上方落語界の再興に尽力し、埋もれた上方落語の発掘にも励むことができたのだろうと思う。

 使い古された言葉づかいになるが、「たかが落語、されど落語」ということを、その存在で示してきたのが、米朝ではなかったか。

 昨日は、旧暦一月の晦日、今日から二月、如月だ。
 「きさらぎ」の語源については、(陽)気が発達する季節「気更来(きさらき)」、あるいは、草木の芽が張り出す月「草木張月(くさきはりづき)」とする説がある。
 また、漢字で「如月」と書くが、これは、紀元前二世紀頃の中国の辞書『爾雅(じが)』の中に「二月を如と為す」という記載があり、古く中国で二月のことを「如」と表していたことに由来しているらしい。
 「如」は本来「従う」という意味で、「ひとつが動き出すと次々に従って動き出す。その動き出す状態」。つまり、自然や草木、動物など、全てが春に向かって動き出す月、ということで「如」をあてたとされる。
 睦月の晦日に旅立ち、翌日から「(私の教えに従って)新たな春に向って動き出すのは、弟子のお前たちやで」とでも言っているような、暦に律儀な旅立ち方だったように思えてならない。

 生まれが大正14(1925)年なので、年齢は、昭和と同じ数を刻む。11月には満90歳になるはずだった。

 私が期待した米寿落語会の開催は叶わなかったが、ぜひ、「桂米朝生誕90年落語会」を一門で開催して欲しい。
 もし、枝雀生誕70年記念で『つる』を流したように、遺された映像を映してくれるのなら、さて、いったいどのネタが良いだろう・・・・・・。
 あまりにも傑作が多すぎて、大いに悩む。
 
 枝雀、吉朝は、師匠より先に逝った。
 残った一門の人々に、ぜひ米朝が遺したものを繋ぎ続けて欲しい。

 合掌。
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by kogotokoubei | 2015-03-20 06:08 | 落語家 | Comments(0)
昨年11月以来の、関内での小満んの会。
 ホールの改装のため1月の会がなかったため、今年最初の開催となった。改装により、一席目のマクラで小満んも話題にしていたが、椅子が新しく、少し大きくなったようにも思う。すわり心地は悪くない。
 ロビーのモニターで、林家扇兵衛の開口一番『牛ほめ』を眺めながら、コンビニで買ったおにぎりを食べ終わったところで、I女史がいらっしゃってご挨拶。開口一番が終ってから、一緒に会場へ。お客さんの入りは、五分から六分ほどか。自由席なので、どこでも座れるのはありがたいが、もう少し入ってもいいように思うなぁ。

 さて、ネタ出しされていた三席、順に感想などを記したい。

柳家小満ん 『樊會』 (27分 *18:47~)
 別名を『支那の野ざらし』。小満んの十八番の一つとは聞き及んでいたが、初めて聴く。また、先日記事を書いた野村無名庵『落語通談』の「落語名題総覧」496席にあるネタのうち、聴いたことのない噺の一つでもあったので、嬉しい限り。
 とにかく、地口が満載で楽しい噺。
 今日一般的に演じられる『野ざらし』は、原話を元に禅僧出身の二代目林家正蔵が改作したものを、‘鼻の円遊’と言われた初代三遊亭円遊が爆笑噺としたもの。この噺の原話は中国・明代の笑話本『笑府』にあって、最初の骨が楊貴妃。しかし、二つ目の骨が原話で張飛なのだが、この噺では樊會になる。原話のサゲは、やや下品な地口。上方の『骨つり』では、石川五右衛門が登場して原話に近いサゲが残っている。
 小満んは、項羽と劉邦が争っていた時代、劉邦の部下だった樊會が鴻門の会で主人劉邦を救った逸話を紹介。 
 受付で頂戴した可愛いプログラム(?)にある説明の一部を引用。

 樊會は漢初の武将で高祖劉邦に仕えて戦功を立て、鴻門の会では劉邦の危急を救い、劉邦が漢王に成るに及び舞陽侯に封ぜられた。
 劉邦が項羽との会談を敵地の鴻門の会で行った時、樊會は表に待たされていたにだが危機を察して中へ乗り込んで行ったのである。
  (中 略)
 ○鴻門の会食い逃げを高祖する
 樊會が大酒を飲んで項羽の度肝を抜いている間に、劉邦は厠へ立ちそのまま鴻門を脱した。
 ○鴻門が来ぬと鞘へは納まらず
 ○鴻門の帰り樊會くだを巻き
 安宅の関の弁慶さながらの働きをした樊會は、帰路でさぞ劉邦に管を捲いた事だろう。


 こういう資料や、マクラでの説明が、この会の手作り感と気配りを表している。
 マクラでは、サゲにつながる言葉「我が骸骨を乞う」についても説明。これは、辞職の言葉で、「身をささげて仕えた身だが、老いさらばえた骨だけは返して欲しい」、という意。それらの噺に必要なマクラ8分ほどで、本編へ。
 中国のお箪笥長屋の引出し横丁に住む二人が中心人物。通常の『野ざらし』でたとえると、尾形清十郎が聘珍樓、八五郎が崎陽軒。この名前からして、すでにシャレなのである。それも、地元横浜にちなんだ名づけが憎い^^
 釣り好きの聘珍樓が、太公望で有名な渭水で釣りをしたが坊主で、帰ろうとして馬嵬(ばかい)の浜で骸骨を見つけ、ふくべの紹興酒をかけて回向した、という筋書き。夜になって楊貴妃が聘珍樓を訪ねてきたのを隣の崎陽軒が壁に穴をあけて覗き見し、翌朝、「夕べの女はなんだ?」と尋ねる。我もと思う崎陽軒が馬嵬の浜へ。大きな骸骨を見つけて、ふくべから茅台酒(マオタイシュ)をかけ弔った。さて、夜、ピータンとザーサイで一杯やりながら待っていた崎陽軒を訪れたのは、なんと七尺あまりの大男、樊會。
 さすがに小満ん、中国の原話や、上方の『骨つり』などの下品なサゲではなく、「我れ骸骨を乞う」の言葉を使ってサゲた。やや下品な地口のサゲを替えたのは、品や粋を大事にすると思われるこの人ならではだろう。
 とにかく、演じている小満ん自身が楽しそうなのが良い。楊貴妃が聘珍樓の肩を叩く「トントコトントコトントントン」などの擬音も可笑しい。朝になるのを、「一番鳥が東天紅」や、「早朝もまな板も中華鍋もないよ」といった科白も実に楽しい。
 また、この噺は川柳や歴史の知識など、豊富な引き出しを持つ小満んの持ち味が存分に発揮された噺だった。渭水について太公望のことを引き合いにし、「覆水盆に返らず」ということわざが登場したりするのもこの人ならでは。
 小品ではあるが、原話に近づけながらも、独自の演出で楽しませてくれた高座、今年のマイベスト十席候補とする。

柳家小満ん 『花見小僧』 (31分)
 一度下がってから、再登場。『おせつ徳三郎』の上。仲入りを挟んでの通しになる。
 実は、小満んのこの噺の通しは、2012年3月、国立演芸場の独演会でも聴いている。
 その前年には、上を小満ん、下をさん喬による通しを、人形町らくだ亭で聴いていた。
2012年3月28日のブログ
2011年6月9日のブログ

 三年前の国立の会のブログを見ると、ほぼ同じような感想を今回も抱いているのが、当り前のようだが不思議でもある。
 マクラで披露される俳句や川柳が、この人の高座を聴く大きな楽しみ。
 「おそろしや 石垣壊す 猫の恋」(子規)や「ご破算に 願いましては またの恋」などで、恋の噺へ導く。
 まず、小網町の大店の主人と番頭との会話。見合い話を悉く断る娘おせつのことを愚痴る主人に、番頭が、店の徳三郎とおせつが「いい仲」ではないかとご注進。主人は、「徳三郎は十一の時から奉公しており、おせつとも仲がいいのは当たり前」と答え、番頭が呆れてしまう。「仲のいい」と「いい仲」の区別のつかない、ちょっととぼけた感じの主の姿が可笑しい。
 番頭の入れ知恵で、脅かして丁稚の定吉から去年の春の花見のことを聞き出そうということになり、主人が番頭に「仏壇を閉めておくれ。こんなところを御祖師様にお見せするわけにはいかない」の言葉で、『刀屋』のサゲにつながる仕込みをするあたりが、心憎い。
 そして、この噺の中心は主人と定吉との会話。二人目の師匠五代目小さん仕込みなのだろうが、師匠同様に、この場面が実に楽しい。長命寺の桜餅の由来を語り始める主人に、何度も「それから?」と後の話をうながす定吉の科白で、会場から笑いが起こる。この場面は、演じる小満んも楽しそうだ。
 『橋場の雪』にも登場する向島の料亭「植半」で、厠に行った後で手に水を汲んでくれる徳三郎に対しておせつが、「お嬢さんじゃなく、おせつと呼んでおくれ」と言い、徳が、「いえ、お嬢さんです」と返してから、「おせつだよ」「おじょうさんですよ」の掛け合いになる場面も、子供じみたじゃれ合いを演じる定吉の姿に、つい笑ってしまう。しかし、これを聞いて笑えないのが主人で、怒り心頭、定吉に約束していたはずの月に一度の宿りも小遣いもない、と言って部屋から追い出し、番頭が登場。番頭の知恵で徳三郎に暇を出すことに。その後の『刀屋』につながるあらすじを少し加えて、仲入りとなった。
 単独でも今年のマイベスト十席候補に値するが、『刀屋』を含む噺全体として一席と考えたい。
 この噺、あらためて考えると、この番頭がずいぶん悪い奴に思えてくる。若い二人の仲を取り持とうとする婆やと、何らかの対立関係にでもあるのだろうか^^

柳家小満ん 『刀屋』 (32分 *~20:39)
 近松の浄瑠璃により江戸で心中が流行ったことがあり、心中を扱った豊後節も一時中止令が出た、とマクラでふって本編へ。
 深川冬木の叔父・叔母の家で居候している徳三郎が、小網町のお店で今夜おせつに婿が来ると聞き、いわばパニック状態に。徳三郎、叔母の夫婦巾着-このへんの小道具もいいねぇ-から金をくすねて、日本橋村松町の刀屋へ。
 この刀屋の主人の造形で、この噺は印象が変わると思う。小満んの演じる刀屋の主人は、実に味のある大人だ。だから、あまり陰気な噺にはならない。
 「とにかく二人切れる刀を」という言葉や徳三郎の挙動から危険な匂いを察した主人が、三年前に道楽者の息子を勘当して寂しい思いをしていることもあり、息子に話すかのように徳三郎と対する。おせつと婿を斬ろうという思いは、この段階で徳の心からは消えていたはず。しかし、外が騒がしくなり、店にやって来た鳶の頭から、おせつが家を飛び出してと聴いて、ふたたび、徳の精神状態は混乱したことだろう。
 刀屋の主人が、人殺しをやめさせるつもりで、「大川に身を投げて、その女が後追いすれば、心中となってあの世で結ばれるじゃないか」、と言うのだが、この後の、「ドカンボコン、オツだろ」の科白が、実に可笑しい。
 二人が川に飛び込む前に、上の『花見小僧』で主人の言葉として仕込んでいた通り、南無阿弥陀仏ではなく法華のお題目を二人で唱えるので、実に元気な心中だ。
 あらためて聴いてみて、この噺は通しでやる場合、同じ噺家さんの方が二人で分担するよりも、噺全体に一本芯が通るような気がする。もちろん、小満んという芸達者が演じたからこそ、そう思えるのでもある。
 実に結構な『おせつ徳三郎』の通しだった。
 上・下を併せて通しの一席と考え、今年のマイベスト十席候補としたい。


 終演後は、我らがリーダー佐平次さん、いつも元気一杯なI女史、そしてブログへのコメントが縁で昨年から懇意にしていただいているKさんご夫婦との五人で、関内で四十年の歴史を誇る老舗で、久しぶりに居残り会。
 話題は、落語はもちろんのこと、最近誰かさんが忘れ物が多いことなど、など。美味しい肴と、楽しい話で盛り上がり、帰宅は、ちょうど日付変更線を越える頃であった。
 帰りの電車の中で、結構たくさんいろいろと食べたが、美味しいものはお腹にもたれないなぁ、そうか、小満んの会も、ほどよい時間と高座の後味の良さで、‘もたれない’のが良いのだなぁ、などど思いながら、ウトウトしていた。

 次回は5月18日(月)、ネタは『大師の杵』『転宅』『江戸の夢』。先のことだが、なんとか行くつもりだ。
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by kogotokoubei | 2015-03-19 06:56 | 落語会 | Comments(6)

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 野村無名庵の『落語通談』は昭和18年に高松書房より単行本が発行され、中公文庫で昭和57年に再刊された本。

 この本には「落語名題総覧」というネタの一覧が掲載されており、そのネタの数は496席におよぶ。

 五十音順ではなく、無作為とも思える順で並んでいるので、これまで暇をみつけてはエクセルで五十音順の一覧を作っていた。
 志ん朝の主要落語会のネタの一覧をつくって以来の‘力仕事’だった.

 最近、ようやく完成したのが次の表だが、これでは読めませんよね^^

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 一覧のご紹介は、もう少し待っていただき、著者野村無名庵について紹介したい。
 中公文庫BIBLIOで再刊された『本朝話人伝』のAmazonのブックレビューに私が書いた内容を引用する。
野村無名庵著『本朝話人伝』

無名庵を知るために、加太こうじさんの『落語-大衆芸術への招待-』から少し長くなるが引用する。「~私は顧問の正岡容にすすめられて落語研究家の野村無名庵について落語の勉強をすることになった。~野村無名庵は私に、落語を勉強するなら、落語を知らなくてはだめだから、まず、寄席できき、かつ、速記本を読めといって、騒人社刊の『落語全集』12巻を貸してくれた。~無名庵はさいそくしなかったが、昭和20年の春に、12冊を風呂敷に包んで小石川の格子造りの家へかえしにいった。~それから二、三日ののち、野村無名庵は空襲のために死んだ。~後年、講談の一竜斎貞丈と無名庵の思い出を語ることができたが、貞丈は『あんな、いい先生が爆撃で死んじまったときいたときは、この世には神も仏もないんだなあって思いましたよ』と、いっていた」私がこの本を読むきっかけは、まさにこの文にあった。そして、この珠玉の落語・演芸評論を読むうちに、空襲で亡くなった本人の無念と、日の目を見ることがなく焼失したであろう数多くの原稿があまりにも大きな文化的損害であったことに心を痛めるのだ。よくぞ改版発行となってくれた、その喜びももちろん大きい。


 実は、先日紹介した、加太こうじさんの『落語-大衆芸術への招待-』で知った人だった。

 明治21(1888)年8月月23日生まれで、 上記の通り、昭和20(1945)年5月25日の東京空襲で亡くなった。
 加太こうじさんの本から、レビューでは書かなかった野村無名庵に関する部分を紹介したい。

小説家谷崎潤一郎とおなじ中学校で、谷崎が一組の級長、無名庵は三組の級長だったと、長谷川伸が随筆に書いている。無名庵の著書には、落語家の名前を借りたものや演芸関係の新聞雑誌の記事を別にして『本朝話人伝』『落語通談』などがある。無名庵は一時、古今亭元輔といって百面相と落語で高座に出たこともあるそうだが、これは、糊口をしのぐために、やったことであろう。元輔という芸名は、その本名が野村元基であることによっている。

 

 あらためて、その代表的な著作『落語通談』の「落語名題総覧」のこと。
 著者野村無名庵は次のように記している。

これは落語家の携帯用として「昔噺百々」と題し、懐中持ちの小さな帳面に印刷、明治42年1月、柳連でこしらえた非売品であります。三十年も以前の事ですし、その後震災もあり、ほとんど見当たりませんので、探していましたところ、先頃幸いにも先輩鶯亭金升氏から、御所蔵品を御恵与下さいましたので、この喜びを御同好の各位にも分かちたくかくは全部を転載した次第であります。もちろんその以後に出来ました新作や、上方から移入された関西の話は入っておりませんが、これだけでも合計四百九十六種、思えば随分あるものと存じます。もっとも時代に合わなかったり、憚る筋があったりして、現在やれないのも夥しく含まれていますので、それ等は次第に忘れられ、今日ではその道の専門家でも、内容の分らぬ話が相当にありましょう。筆者も残念ながらこの中で、全然見当のつかないのが、八十幾つもあったには赤面しました。


 もし、昭和18年に本書を上梓できず、鶯亭金升-おうてい きんしょう、雑誌記者・新聞記者・作家で、『明治のおもかげ』(岩波文庫)などの著作がある-から譲り受けた「昔噺百々」を野村無名庵の家に置いていたなら、空襲で燃えて無くなっていたかもしれない。

 せっかく、無名庵が後世のために遺してくれたものである、落語愛好家の皆さんのためにも、全496席を並べてみたい。
  (字は同書の表記のまま。順番は同書並び順)
------------------------------------------------------------------------------
あ行
あ  朝ばい 明石参り あわもち 明がらす 穴どろ 欠伸指南 麻のれん 
   朝友 あり(無筆の女房) 天に浮橋 有馬のお藤 あかん堂 阿波太郎
い  今戸やき 伊勢参り 勇の遊び 芋食うな 居残り左平治 磯のあわび 
   意地くらべ 芋俵 石がえし 一分茶番 田舎芝居 いいえ いはいや 
   今戸の狐 いつ売る いちこ いもり黒焼 いなり車 市助酒
う  厩火事 牛かけ うちわや 牛の嫁入 魚売人 うなぎや 梅ほめ 
   牛ほめ 浮世ぶろ 植木のお化 浮れ提灯 うかれ三番 魚づくし
   うそつき うらむき 鰻屋幇間 うきよ床 浦しま屋 うそとみ
   植木の気違い うば捨山 氏子中 馬の田楽 牛の丸薬
え  永代橋 えて吉 絵双紙屋
お  おふみ様 お七 おしくら およく おはらい お見立 大男の毛
   小原女 親子茶屋 おせつ 泳ぎの医者 音曲風呂 音曲質 おいだき
   おうむ徳利 おおかみ 王子の狐 おかふい 王子幇間 お釜様
   おすわどん お血脈 おのぼり 鬼娘 近江八景 おもと違い 
   お七の十 お若伊之助
か行
か  かつぎや 合羽 紙くづ屋 勘定板 鏡のない国 紙入 釜どろ 
   代り目 蚊いくさ 蛙茶番 かけまん かし本屋 かい小僧 活々坊
   かべ金 形見わけ 火焔太鼓 岸柳島 から茶屋 看板の一 
   からくりや 加賀の千代 雁風呂 かわ衣 風のかみ 開帳の雪隠
   雁つり 火事息子 鰍沢 がまの油 亀太夫 かたぼうかた袖 景清
き  狂歌家主 きつね きゝゝゝま 菊江仏壇 きめんざん 錦明竹 
   禁酒番屋 気養い帳 杵 胆つぶし ぎぼし 近日息子
く  首ったけ 廓大学 熊坂 熊の皮 くみたて 九だん目 九郎蔵狐 
   楠運平 首屋 黒は弱い 熊の浦 熊野ごふ 黒焼 首つぎ 首提灯
   くわ形
け  稽古所 けさ御前
こ  高野違い 権助提灯 乞食の夢 五人廻し 子わかれ 小いな 五百駕
   五郎えい 五もく こしょう 胡椒の悔み 木の葉狐 黄金餅 駒馬
   後生鰻 小言幸兵衛 甲府い こんにゃく問答 こいがめ 公冶長
   子がえり 御百人一首 子供洋行 こび茶いい 紺屋高尾 甲州茂兵衛
   後家馬士 五人政談
さ行
さ  盃の殿様 秋刀魚殿様 三人片輪 三助の遊 三枚起請 三人無筆 さめ 
   三両残し 真田小僧 さけ売 三人絵かき 三でさい 西行 三百植木
   三年目 三十石 さら屋
し  地口 蜀山人 将棋の殿様 三味線栗毛 しの字嫌い 芝浜 鹿政談
   白木屋 品川心中 素人車 松竹梅 七兵衛 仕かえし しめこみ
   宗かん 士族の車 しるこや 甚兵衛に五俵 神道茶碗 菖蒲かわ
   七だん目 芝居風呂 芝居長屋 尻ちがい 質屋が原 しし物語
   寺号山号 寿限無 心がん 写真の仇討 樟脳玉 十八壇林
   新聞記者 しゃっくり政談 品川 しに神 しぼり紺屋 甚五郎
   品川の豆 質屋の庫 仕込みの箪笥 虱茶屋 
す  すきみ 酢豆腐 脛かじり 菅原 ずっこけ 水中の玉 脛きり奴 
   酢瓶 脛かじり 鈴ふり 住吉かご
せ  せき所 ぜんそく せった せんき 世辞屋 清正公酒屋 千両みかん 
   宗禅寺馬場
そ  蕎麦の殿様 外りょう それがら 蕎麦の羽織 ぞろぞろ
た行
た  大工調べ 高尾 立なみ 高さごや たらちめ 狸の嫁入 だくだく 
   玉きん 代みゃく 館林 団子兵衛 たこ芝居 狸のさい 狸の釜 
   狸の大根 狸の坊主 狸の面 大仏餅 太鼓ばら 竹の子 大王下し 
   魂違い たがや 太平楽 大黒の鼠 俵藤太 棚という字 巽の辻占 
   ためし斬 大福屋 立切
ち  茶釜の喧嘩 茶金 縮み上がり ちょう合 町内若者 張果郎 茶の湯 
   ちきり伊勢屋 茶碗屋敷
つ  佃まつり 搗屋無間 つき馬 つづら つるつる 佃じま
て  天災 てんしき てん宅 出来心 天とく 天人 てっかい
と  道灌 富の八五郎 富の久蔵 土蔵の夢 とろろん とんちき 
   とうなすや 同双紙 道具屋 年ほめ 隣のはな とよ竹屋 とけつ 
   土俵入 徳利亀屋 とう神 遠眼鏡
な行
な  成田小僧 泣き塩 夏どろ 夏の医者 中村仲蔵 鍋ぞうり なす化け 
   なめる 長さき屋 長刀きず
に  二十四考 錦のけさ 二階ぞめき 二分つり にわかどろ にう 
   尿どくり 二番目 人形買 にせきん 人参かたり
ぬ  布引
ね  葱鮪の殿様 ねこ久 ねどこ 猫の忠信 ねこ芝居 年中行事 猫定 
   猫たいじ
の  のめる 野ざらし
は行
は  初音の鼓 鼻利源八 鼻利源兵衛 鼻利長兵衛 羽織 早桶屋 
   花見の仇討 化物長屋 花見 囃子長屋 半分垢 化物使い 鼻がほしい 
   初天神 はんかい 羽うちわ 八門とん甲 八九升 派手彦 はんごん香 
   橋弁慶 灰屋騒動
ひ  ひと目上がり 一つ穴 百人坊主 ひねりや 火とう ひとびょう
   人まね 引越の夢 ひなつば ひや ぴんと落ち 姫かたり 一人酒盛
   百年目 不精代参 びん乏神
ふ  古喜 二ツ三ツ四ツ 富士参り 文違い 船とく 風呂しき 武助馬
   古寺古い 福のかみ 文七元結 不動坊 船べんけい
へ  屁ひねり べっかこう 竃ゆうれい 竃盗人
ほ  ぽんこん 星野屋 ぽかんぽかん 坊さんの遊 本膳 包丁 ぼうだら 
   法華長屋 本堂建立 法事の茶
ま行
ま  松引 三つ巴 万金丹 万ざい まくらや 松田加賀 饅頭嫌い 万病丹
み  水屋の富 みいらとり 宮戸川 目がね屋 味噌ぐら 茗荷屋
む  無筆の手紙 無筆の医者
め  妾馬 妾の手切 妾の角力 目ぐすり
も  元久かつら 百川 もぐら 元犬 もう半分 もうる
や行
や  宿屋 山崎屋 やかん 薬缶どろ 厄ばらい 宿屋の仇討 弥治郎 
   柳の馬場 やしま やっこ吉 弥吾平 薬缶なめ やげん 山岡角兵衛
ゆ  雪てん 夢合 夢の瀬川 夢金 湯屋番 ゆきとん 夢八
よ  夜かご 四人くせ よみうり 吉野 よいよい蕎麦 四段目 
   養老滝 よたかお松
ら行
ら  らくだ
り  悋気の独楽 理はつ床 両国八景 利休の茶

れ  れこさ
ろ  六歌仙 六尺棒 六段目
わ  和歌三神 笑い茸 わしがかか 我わすれ
------------------------------------------------------------------------------
 知らないネタが、なんと多いことか。
 野村無名庵でさえ、八十いくつ知らない噺があったと知って、少し気が楽になる^^

 『楠運平』は『三軒長屋』、『百人坊主』は『大山まいり』であることは察しがつく。『万ざい』は、たぶん『掛取萬歳』だろう。
 『羽織』が『羽織の遊び』のことなのか、他のネタなのかは不明。
 『いいえ』なんてネタは、まったく内容の想像がつかない。「知ってますか?」「いいえ」というくらいのものだ^^
 『れこさ』って、いったい、なにさ?

 ここ数年で、聴くことのできた噺も、いくつかある。
 関内の小満んの会で『有馬のお藤』に出会った。小満んには『ゆきとん』も聴かせてもらっている。
 『おふみ様』は、NHKの「落語でブッダ」で塩鯛のこの噺を聴いた。
 『植木のお化』は人形町らくだ亭で一朝が楽しく演じてくれた。
 喬太郎が掘り起こしてくれた『ぎぼし』は、何度か聴いている。
 『よいよい蕎麦』は昨年三笑亭夢吉が聴かせてくれたなぁ。

 ちなみに、もっとも多かったのは「し」行のネタ。次のように42席ある。

-----------------------「し」行のネタ----------------------------------------
地口 蜀山人 将棋の殿様 三味線栗毛 しの字嫌い 芝浜 鹿政談 白木屋 
品川心中 素人車 松竹梅 七兵衛 仕かえししめこみ 宗かん 士族の車
しるこや 甚兵衛に五俵 神道茶碗 菖蒲かわ七だん目 芝居風呂 芝居長屋 
尻ちがい 質屋が原 しし物語 寺号山号 寿限無 心がん 写真の仇討 樟脳玉 
十八壇林 新聞記者 しゃっくり政談 品川 しに神 しぼり紺屋 甚五郎 
品川の豆 質屋の庫 仕込みの箪笥 虱茶屋
-------------------------------------------------------------------------
 『甚兵衛に五俵』なんて噺、いったいどんな内容なのだろう。

 「る」のネタは皆無。だから、新作で「る」のネタを作れば、結構目立つだろう^^

 興津要さんの『古典落語』全6巻に収録されているネタの数は、197席。
 三一書房『古典落語大系』全8冊が212席。
 麻生芳伸さんの『落語百選』と『落語特選』の6冊で合計140席。
 これらは、ネタそのものが紹介されている本。

 概要についてのガイド本では、矢野誠一さんの『落語手帖』の収録数は、274席。同じく矢野さんの『落語讀本』が303席。二村文人・ 中込重明著、 延広真治編集による『落語の鑑賞201 』は、その題の通り201席。

 だから、あらすじや解説はついてないものの、この496席一覧は、結構貴重だと思う。
 このリストを作りながら、まだまだ、落語のネタはあるのだ、ということを実感した次第。

 意欲のある噺家さんに、一つでも多く、埋もれかかったネタを掘り起こしてもらいたい。
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by kogotokoubei | 2015-03-17 00:10 | 落語のネタ | Comments(2)
 座間の今期最後の会に行った。一月、二月に続き今年は今のところ、皆勤^^

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 ホールの外のガラスに張られたポスター。少しピントが外れているのはご容赦。

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 少し拡大。プログラムにあるプロフィールによると、最多出演の文我は、通算28回目の出演とのこと。福丸は、福團冶門下。初出演らしい。

 通算187回。今年は20年、来年は通算200回と記念の年が続くなぁ。
 先月よりは少ないかと思ったが、最終的には九割がた席は埋まっていた。追加のパイプ椅子は出されなかったが、なかなかの入り。きっと最多出演の文我ファンが多いのだろう。

 次のような構成だった。
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(開口一番 柳亭市助『一目上がり』)
桂福丸 『延陽伯』
桂文我 「3.11と小金治さんの思い出」&『紺田屋』
(仲入り)
桂福丸 『生駒のオーロラ』
桂文我 「この一年のニュース」&『能狂言』
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 文我の長いマクラについては、私が名付けた。どちらも、なかなか結構だった。

柳亭市助 『一目上がり』 (15分 *14:01~)
 この会の前座として安定した開口一番ぶりだ。隠居に知恵をつけられてから訪ねた大家の家で、掛け物を褒めようとした際の「大家さんちに、‘ばけもの’はありますか」「おばあさんかい」などを含め、全体的にしっかり笑いをとっていた。
 ちなみに、大家が見せた掛け軸には根岸の亀田望斎の詩がある。「近江(きんこう)の鷺は見がたく、遠樹(えんじゅ)の烏見易し」。大家は、「近くの雪の中のサギは目立たないが、遠くのカラスは黒いから目立つ」と言い、良いことは目立たないが、悪いことは直ぐ露見する、と説明するのだが、この掛け軸、ぜひ永田町の先生たちの部屋に飾って欲しいものだ。彼らの悪事は、ミエミエである。

桂福丸 『延陽伯』 (23分)
 初である。いまだに上方落語家協会サイトからの落語家名鑑へのリンクはできないが、天満天神繁昌亭からはリンクできるので、福丸のプロフィールを確認した。その中から、彼の人柄を表わしているような部分をご紹介。
上方落語家名鑑の該当ページ

ひとこと/落語が大好きです!演るのも聴くのも!落語には、様々な境遇、場面での人の「心」がつまっているように思います。「心」を伝える伝統芸能にたずさわらせて頂くのは、本当に幸せです。ありがとうございます。お客様と、そして登場人物と、心が一つになれるよう精進してまいります。宜しくお願い致します!


 入門から今年で八年目、三十七歳、らしい。
 二席目もそうだった下手から登場する際の、やや陰気な表情は、きっと演出なのだろう。高座に上がってからは、なかなか明るくしっかり演じる。マクラはケーキをつくる工場でのアルバイト体験、というネタ。ベルトコンベアーを流れてくるケーキに、イチゴや蝋燭を乗せるバイトでのネタで、結構、会場から笑いをとっていたし、語り口も良い。
 本編は東京の『たらちね』。あちらこちらが東西では違っている。物の呼び名も違っていて、たとえば七輪は“かんてき”だ。サゲは顔見知りの棒手振りの八百屋との会話で、“京”都と“今日”をかけた地口にしていた。上方ではこの噺を元に小佐田定雄が改作した『御公家女房』もあるが、『たらちね』に慣れた関東の落語愛好家としては、枝雀くらいの爆笑ネタにしないと、上方らしさが出にくい噺かもしれない。しかし、福丸の高座は、とても入門八年の噺家とは思えない、しっかりしたものだった。

桂文我 「3.11と小金治さんの思い出」&『紺田屋』 (52分)
 3.11から四年、ということで、その時に新宿駅にいた、と振り返る。なぜなら、翌日が、この落語会への出演だったのだ。そして、その会は中止とならず、多くのお客さんの来場により開催されたらしい。地元のお客さん中心だから開催できたのだろう。
 ハーモニーホール座間のサイトに、これまでの出演者の一覧が掲載されている。ざま昼席落語会の記録
 たしかに、平成23(2011)年3月12日、次の顔ぶれで開催したと記録されている。
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 第148回 3月 12日 桂 文我  桂 雀五郎  柳亭 市也
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 文我は、前日に町田のホテルで泊まる予定で、新宿駅であの地震に遭遇した思い出を語る。
 ・地震発生後、駅崩壊の恐れがあるとのことで、ホームから避難し駅で待機
 ・その後なんとか町田に着いたのが夜中1時頃
 ・予約していたホテルのロビーにもたくさんの避難の人々
 ・シングルが一杯なので、最上階のスィートルームに泊まってくれと
 言われ、「ロビーの人たちにスィートを解放してはどうか」と言ったが、
 トラブルの責任がとれないので、どうしても泊まってくれと頼まれた
 ・とても、広いベッドに泊まる気になれず、床で寝た
 など。
 3.11のことに続き、昨年11月3日に亡くなった、桂小金治さんの思い出が語られた。
 私もその場に居た、2011年9月29日、最後の『渋酒』を演じた国立演芸場の出来事が語られた際には、少し目が潤んだ。
2011年9月30日のブログ

 文我の独演会に出演し落語を演じられる時、小金治さんは、開催一週間前くらいからは、「ちゃんと稽古しているから、大丈夫」と毎日伝電話をされたらしい。律儀な方だったのだ。
 『渋酒』を最後に落語を辞められた後も、東京での独演会に小金治さんを招き、出演された映画を上映してから、対談などをしていたらしい。
 昨年春、東京でお会いしようとしていたが、引越しされるとのことで延期になり、夏には入院され、お見舞いにも行ったらしい。しかし、入院のことは、身内と文我などごく一部の人にしか知らされなかったとのこと。
 そして、11月3日、東北で仕事中の文我は一関で訃報を知ることになったとのこと。内密に、とのことで、一緒に東北に来ていた新聞社の方にも言わず、東京で別れて品川のお寺で、棺の中の小金治さんにお会いした、とのこと。
 この後、先代の文我の葬式での師匠枝雀の逸話-これも泣けた-などが語られてから、本編へ。
 26分のマクラは、実に内容の濃いもので、私は「3.11と小金治さんの思い出」と勝手ながら題をつけた。
 この日は、二席とも、過去27回では演じなかった噺を選んだようだが、どとらも初めて聴いた。
 『紺田屋』のあらすじ。
 (1)京都三条室町に紺田屋忠兵衛という旧家で裕福な縮緬問屋があった。
   お花さんという今小町と呼ばれる美人の娘がいたが、原因不明の病に
   なった。
 (2)お花は自分が死んだら奇麗な着物着せて化粧もして、三途の川を
    渡る六文銭ではなく、後で両親が天国に行けるよう閻魔様に渡す
    ため五十両を持たせてくれ、と頼む。
 (3)お花は、四条新町しん粉屋新兵衛のしん粉餅が食べたいと言う。
    おいしいと言って3個目を食べたときに顔色が変わって息を
    引き取ってしまった。
    娘の遺言通り五十両を首から提げさせて棺桶(当時は座棺)に
    納めて、四条寺町の大雲寺に葬った。
 (4)夜中、手代の新七はご通用金を埋めると主人が罪になると思い、
    大雲寺に行って土を掘りお花の棺を開け、五十両を付けた紐を
    引っ張った。すると、紐がお花の首にかかり、顔が上を向き、
    なんとお花が生き返った。実は、お花は餅をのどに詰めた
    だけだったのだ。
 (5)元々新七に思いがあったとお花は打ち明け、二人してその五十両を
    持って江戸へ。
 (6)娘に先立たれた忠兵衛夫婦は商売も手に付かず、店をたたんで
    西国八十八箇所を巡礼した後、お花が亡くなって三年後、
    坂東三十三箇所も巡ることにして、浅草の観音様に参詣した。
 (7)浅草に「紺田屋」という自分の以前の店と同じ名を見つけ、これも
    縁と店先で手を合わせた。それを見たその主人新七が二人に気づき、
    四人は再会を果たす。
    孫もおり、お花は、ぜひ一緒に住んで孫の面倒を見て欲しいと
    両親に頼む、忠兵衛夫婦は大いに喜び、祝いの酒となってサゲへ。
    サゲは、お棺と酒の燗をかけたもの。 

 前半と同じ26分のネタも、実に結構だった。後で調べると、二代目円歌の音源が残っており、上方では六代目松鶴が十八番にしていたようだ。
 長講をまったく飽きさせず、前半の話を自然にネタにつないだ高座、全体として今年のマイベスト十席候補としたい。

桂福丸 『生駒のオーロラ』 (21分)
 仲入り後は、福丸の新作。マクラでは大阪のオバハン達の生態(?)から、オーロラ見学ツアーのことにつなぎ、本編へ。
 妻を亡くして三年の男と一人息子の物語。息子に何が欲しい、と聞くと、「オーロラが見たい」と言う。これまで母を早く亡くすなど、自分は運が悪いと思っていた。先生に聞くと、オーロラを見ると運が良くなるらしいから、とのこと。しかし、息子は、アラスカやアイスランドまで行くとお金がかかるし、必ずしも見れるわけではないから、無理しないでと父に言う。そんな父が目にしたのが、格安で生駒の山でオーロラが見れる、という情報。さて、本当にオーロラを見ることができるか、父親は生駒に「オーロラ屋」を訪ねる、という話。自作なのだろうが、サゲの良さを含め、感心した。オーロラの科学的な説明の言い立てで笑いをとっていたあたりも、この人らしさなのだろう。

桂文我 「この一年のニュース」&『能狂言』 (40分 *~16:46)
 しっかり、羽織も着物も替えて再登場。このへんは、鯉昇、喜多八とは違う^^
 今年は、暗いニュースが多い、と昨年のニュースを振り返った。
 ゴーストラーター騒動→渡辺喜美への8億円献金事件→STAP細胞騒動→号泣議員→団扇騒動→オブチ騒動、などなど。
 この人ほど、明確に政治について語る噺家はいないのではなかろうか。昨年末の選挙、「あれ、やる必要ありますか!?700億円かかっています。そのまま東北に送るべきでしょう」に、会場から大拍手。
 「原発を輸出している場合じゃないでしょう」「政党助成金は企業献金をやめるためだったんでしょう」など、どれも頷ける内容のマクラが18分。落語家は世情のアラで飯を食い、と語り、気持ちよく‘アラ’を斬ったマクラ、「この一年のニュース」と題させていただく。
 本編は、なんとも珍しいネタ。Wikipediaにあったので、引用したい。Wikipedia「能狂言」(落語)

あらすじ
江戸で能狂言を見て気に入った田舎大名が、国元へ帰って家臣に演じて見せるように命じるが、田舎者の家臣達は能狂言を知らないので困惑する。たまたま江戸から旅回りで来ていた二人の噺家に率いられて、出鱈目な能狂言を繰り広げる家臣達の騒動を描いた滑稽話である。

3代目三遊亭圓馬が上方落語から東京の6代目三遊亭圓生へ伝えた。近年では6代目三遊亭圓生しか演じた者はいない。『疝気の虫』と同様に、「演者が実際に舞台から歩き去る」動作で終わるという珍しい型のサゲとなっている。


 さすがに、文我は舞台から去る、という演出ではなかった。若手の家臣三人に、口で太鼓、鼓、笛の役割をさせるなどが、可笑しかった。狂言の場面の演技も、この人が幅広く芸能に接していることを物語っていた。それにしても、この人の持ちネタの豊富さには驚かざるを得ない。


 最多出演の文我が、馴染みのお客さんたちを前に、絶妙のマクラ-決して、漫談ではない-と、なかなか聴けないネタ二席を見事に披露し、若手の福丸は、潜在能力とセンスの良さを感じさせてくれた。大いに満足の会だった。
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by kogotokoubei | 2015-03-15 18:44 | 落語会 | Comments(2)
一日遅れになったが、昨日3月13日は、加太 こうじさんの祥月命日だった。大正7(1918)年1月11日に生まれ、平成10(1998)年3月13日に、満80歳で旅立った。
 評論家であり、大衆文化研究家であり、有名なところで紙芝居作家であった人。
 本名は加太一松(かぶと かずまつ)らしいが、名門加太家の血筋を誇る父に反発して、尋常小学校5年の時から自ら「かた」と名乗るようになった、と言われている。

 私の好きな加太さんの著作に『落語-大衆芸術への招待-』(社会思想社・現代教養文庫)がある。

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 昭和37年1月15日に初版が発行された本。もちろん、現在では古書店ルートでしか手に入らない。
 上の表紙は、本牧亭での林家正蔵の高座風景の写真だ。

 この本が落語愛好家や評論家の間で有名なのは、真正面から「落語は文学だ」と主張していること。

 「まえがき」から引用する。

 まえがき 

 この本は百数十種類の落語の解説を兼ねるとともに、つぎのような意図で書かれている。
 1 落語は文学である。
 文学が文字に書かれたり、それが印刷されるようになったのは、文学が発生してから、ずっとのちのことである。外国においてもそうだが、われわれ日本人はさまざまな書かれない文学を持っていた。語り物では、琵琶、浄ルリ、祭文、浪花節などであり、また、いったん書かれたものが口で演ぜられるようになったものに講談がある。うたわれるもの(謳い物)には、長歌、短歌、今様、あるいは民謡、長唄、端唄、小唄がある。落語はこのような書かれない文学のひとつに数えることができる。今日、口から耳へ伝えられる文学として、もっとも多くの人に影響しているものは、流行歌の歌詞と落語である。語り物の多くはすたれた。明治から大正へかけてさかんであった琵琶も浄ルリもすたれて、一部好事家のものか、歌舞伎と抱き合わせて命脈を保っている。講談も年々おとろえている。浪花節は書かれない叙事的な文学の代表的な存在になった。落語は、叙情的な書かれざる文学流行歌の歌詞と並んで、文学の大道をゆくものである。


 もう一度確認するが、本書の発行は昭和37年。この年の5月に古今亭志ん朝が36人抜きで真打に昇進するが、落語界の中心人物は、落語協会会長であった志ん生や、文楽、円生、正蔵、小さん、落語芸術協会会長の柳橋など、昭和の名人たちが元気に高座を勤めていたころだ。
 本書には、人形町・末広の円生独演会の幟がある写真や、新宿・末広亭の写真には、馬生、文治、貞花などの名が見える。

 まだ当時は、浪花節は命脈をなんとか保っていたが、今では、その浪花節もすたれてしまった。加太さんが言う、書かれない文学として生き残ったものは今や落語だけ、ということか。

 まえがきの引用を続ける。

2 落語は日本独特の民衆芸術である。
 落語は世界各国の話術による芸術と比して、群をぬいた技術と内容を持っている。落語には、日本中に電車や汽車を走らせ、電燈をともし、法の前にはすべての人間は平等であるというきまりを作った。われわれの先祖の考えが、水に溶けている空気のように、それとはわからぬかたちで溶け込んでいる。
 多くの芸術関係者、とくに、近代主義者や西欧崇拝の度の強い前衛芸術家は(落語は芸能であって芸術ではない)という。そういう人たちが当代の芸術として認めるいわゆる前衛芸術の多くは、中身のからっぽな、人間の生活とかかわりのない、暇人のひとりよがりの産物である。そして民衆が正しく物ごとを判断する邪魔をしている。このような芸術にくらべるなら、落語は民衆の中から生まれ、民衆によって育てられ、民衆の生活とともに今日もなおさかんであるすぐれた芸術である。落語は封建時代の末に発生して、つぎの時代-資本主義社会-を指向している。そして、未来の社会を、どうきずいたらいいかということを示唆している。文学を芸術でないとする者があれば、落語も芸術ではないといえよう。また、あの文学は芸術であり、この文学は芸術でないとする者があれば、それはその人の勝手な判断であって、ことさらにとりあげて論ずるほどのものではない。
 以上のような観点で書いたこの本は、落語家個々の演技について語っていない。だが、落語は演ぜられてはじめて価値を持つ芸術であり、演者の解釈や技術を無視しては語れないものである。この本は、すべて、最上の演技によった落語を予想して書いた。文学としての落語の内容について書いた。また、今日、すたれてしまった大阪落語について、ほとんど触れていない。落語家個々の事と大阪落語については他の本におまかせしよう。
 落語は文学であるということを、くり返して、まえがきを終わる。
                                      加太こうじ


 
 加太こうじさんと言うと、紙芝居の人、という印象が強いが、この本のまえがきを読むだけでも、どれだけ落語に熱い情熱を注いでいたかが分かる。
 加太さんは広範な芸能、芸術の知識を背景に、実に個性的な筆致で落語について語っている。
 これからがまさに旬の噺、『おせつ徳三郎』について、次のように書かれている。

昭和9年に日本で封切られたアメリカ映画に『ある夜の出来事』という喜劇があった。この映画はアメリカの良き一面をえがいた作品として、今日でも高く評価されている。物語の主人公は、多少わがままなところがあるブルジョワ娘と、新聞記者である。ふたりは偶然にも旅の道づれになるが、清らかな仲である。娘には気にいらない結婚話が起きている。その結婚式場から、娘は花嫁衣裳のまま逃げ出してしまう。娘の父が、娘の気持を知って、式場で<逃げろ>と眼顔で知らせるところなど、とくにおもしろい。娘は新聞記者といっしょになる。こういうストーリーだが、それが、ヒューマンな温か味と、軽快なタッチでえがかれていた。この映画は、なんとなく落語の『おせつ徳三郎』に似ていた。もちろん、片ほうは近代的なアメリカのブルジョワ社会が背景だし、落語の方は、封建的な日本の商家が背景なのだが、それにしても、自由な恋愛、結婚、というものを通して、人間解放をよびかけるところ、そして、劇の構成としての、クライマックスの結婚式場から花嫁が、自由をもとめて逃亡するくだりなど、そっくりである。
 アメリカの映画監督フランク・キャプラが『おせつ徳三郎』のまねをするわけはないから、たまたま、似ていたのであるが、考えてみると、落語『おせつ徳三郎』は、封建的な時代において作られたものなのに、自由主義的な社会を指向していたといえる。実は、『おせつ徳三郎』だけではなく、落語における恋愛は、すべて、当人の自由な意志を尊重している。『崇徳院』『山崎屋』『長崎の赤飯』『先の仏』『宮戸川』『つるつる』などがそれである。


 この文章を読んで、私のように映画『卒業』を思い浮かべた人は多いだろう。
 しかし、私は『卒業』を観て、『おせつ徳三郎』を思い浮かべることはなかったなぁ^^

 この本は、加太さんが「落語は芸術である」「落語は文学である」と、やや気合が入りすぎているきらいはあるが、落語を愛する気持ちが十分に伝わる良書である。
 加えて、時代や状況という歴史的な視点を忘れない、優れた評論でもある。
 それは、「無意味な笑いについて」という章の、次のような言葉によっても分かる。

一見、無意味と思われる笑いでも、その笑いが発生する状況においては大きな社会的役割をはたすことがある。たとえば、太平洋戦争時における敗戦直前の、重苦しい状況の中で生じた「あわて者」による笑いは、重苦しい状況に圧迫されている民衆の気持を、一時的ではあるにせよ、明るい方向へ向ける。一億玉砕がさけばれている状況において/弁当かと思って包みをあけたら、かかあの腰巻に包んだ枕であった/という“あわて者”のこっけいさは<生きているということは、よいことだ>と思わせる。
 このような状況においては、無意味な笑いは、老荘の思想における無用の用をはたしていることに気づく。だが、無意味なものに、効用を見出ださなければならぬような時代は、不幸な時代である。


 
 残念ながら私には、今が、無意味な笑いにも救いを求めたい“不幸な時代”に進んでいるような気がしてならない。

 それでも、間違いなく効用はあるだろうが、加太さんが望んだ落語を楽しむ“状況”ではないだろう。

 戦後、紙芝居で子供たちの笑いを取り戻すことに努めた加太さんが望んだのは、間違いなく“平和”で、“普通”の生活に溶け込んで楽しむ落語なのだと思う。

 命日を迎え、加太こうじさんの名著を再読しながら、こんなことを考えていた。
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by kogotokoubei | 2015-03-14 07:29 | 落語の本 | Comments(4)
もう・・・四年、まだ・・・四年、人によっていろいろな感慨のある日だ。

 大震災と原発事故という歴史上の大事件を、決して風化してはいけないだろうし、その歴史を偽造してもいけない。

 そんなことを思っていたら、また、あの大河ドラマのことを思い出した。
 NHKの「花燃ゆ」については何度か書いてきた。
 だから、もう小言を書くこともないだろうと、自分では思っていた。

 しかし、せっかく大河のおかげで観光客が増えるであろう萩市の観光協会のサイトを見て、また書きたくなった。

 萩市観光協会公式サイトの「ぶらり萩あるき」の「文と萩物語」から引用したい。
萩市観光協会公式サイト「ぶらり萩あるき」
「ぶらり萩あるき」の該当ページ

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【第4回】 松陰の愛弟子 久坂玄瑞との結婚と死別
2014年11月14日 文と萩物語 ≫

 文と松陰が暮らす杉家に、安政3年(1856)6月、久坂玄瑞が姿を現します。そして、安政4年12月5日、松陰は愛弟子となった玄瑞と文を結婚させます。このとき文は15歳、玄瑞は18歳という若さでした。

■久坂玄瑞と兄 松陰の出会い
 玄瑞は、天保11年(1840)、藩医 久坂良迪の三男として、平安古(ひやこ)に生まれます。幼少期に吉松淳蔵(じゅんぞう)の私塾に学び、のちに藩校明倫館で学びます。母、兄、父を続けて亡くし、15歳で孤独の身となります。
 17歳で九州に遊学した際、熊本で宮部鼎蔵(ていぞう)から松陰の人となりを聞いたことがきっかけで、帰国後、松陰との三度にわたる手紙での応酬を経て入門。やがて松陰から「防長年少第一流の才気ある男」と絶賛され、塾生の中心人物へと成長します。

■玄瑞と文 若き2人の結婚
 杉家の側にある松下村塾で学んでいた玄瑞と文は、お互いをよく知っていたと思われます。
 玄瑞の才に惚れ込んだ松陰は、塾生の中谷正亮(なかたにしょうすけ)の推薦もあって、玄瑞と文との結婚を画策します。
 玄瑞が文の容姿を気に入らず乗り気ではなかったが、中谷に妻を顔で選ぶのかと諭され、しぶしぶ受け容れたという逸話も伝わっています。



 久坂玄瑞と文との結婚で重要な役割をする中谷正亮は、吉田松陰の二歳年上で、松陰にとって大事な先輩であり、心を通じた友人であった。江戸遊学の際にも一緒だったし、野山獄に幽閉された松陰を度々訪ねたとも言われる。

 また、久坂玄瑞や高杉晋作を松下村塾に誘ったのも中谷だとされている。

 小生獄に坐しても首を刎ねられても天地に恥じ申さねばそれにてよろしく候。

 野山獄から松陰が中谷正亮に送った書簡にある言葉である。
 この二人の親密さは、この書簡からも十分にうかがい知れる。松陰にとって中谷は、小田村伊之助と同じ位、いやそれ以上に親密な仲だったかもしれない。

 その中谷正亮は、NHK「花燃ゆ」に、今のところ登場していない・・・・・・。

 桂太郎の叔父であり、松下村塾の最年長の塾生でもあり、塾の存続には欠かせない人物、なにより杉文と玄瑞の仲をとりもった中田正亮を亡き者(?)としてはいけないだろう^^

 松下村塾に、優秀な塾生が集った功労者は中谷であり、杉文のおにぎりが魅力だったからではない^^

 杉家の長女千代、そして、松陰と松下村塾にとって不可欠な人物である中谷正亮が登場しないドラマを見た人が萩市を訪れて、その存在を初めて知ったら、きっと不思議に思うだろう。「えっ、NHKに出てなかったよね?」と。


 テレビドラマなので、映像作品として相応しい脚色は必要だ。
 しかし、史実をないがしろにしてはならないだろう。
 特に、吉田松陰という人物の光が強すぎて、そのハレーションに隠れてしまうような立ち位置にいる人物を忘れてはならないと思う。
 杉千代や中谷正亮は、吉田松陰や松下村塾に関して、実に重要な人物であるにもかかわらず、NHKが公共の電波を使って、その存在を亡き者にすることは、許されることではない。

 ノンフィクションの仮面をかぶった歴史捏造フィクション・ドラマから、時代劇や歴史ドラマを長らく愛してきた視聴者が去っていくのは、当たり前のことだ。
 
 「花燃ゆ」の関係者は、萩市のこのサイトの内容を読んで、どんな思いをしているのだろうか。
 「過ちては改むるに憚ること勿れ」という論語の言葉は、松下村塾の塾生ももちろん知っていただろう。
 相当収録は進んでいるので、今さら杉千代や中谷正亮を登場させるのは難しいのだろうが、できるものなら、史実に近い内容への改善努力をして欲しい。

 安政五年、久坂玄瑞と中谷正亮は、京都で攘夷派の公家、大原重徳(しげとみ)に会うのだが、その場面は割愛してしまうのか、それとも玄瑞だけで行かせるのだろうか。
 
 文を主役にするために嘘をつくことで、その後の展開で嘘に嘘を重ねるようなドラマにはして欲しくないものだ。たとえ10%の視聴率だって、結構たくさんの人が視ることになるのだから、その影響力は小さくはない。
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by kogotokoubei | 2015-03-11 06:40 | 歴史ドラマや時代劇 | Comments(0)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛