噺の話

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花子とアン、そしてマッサンにも登場した歌、“The Water Is Wide”を紹介したら、アクセス数がとんでもない数になってしまった・・・・・・。

 本来は、落語のブログなので、あまりあちこち手を広げてはいけない、という戒めかと思わないでもない。
 
 あの歌や高倉健が好きだった歌のことを記事にする前に、紹介しようと思っていた落語の本がある。

 ちなみに、紹介したカーラ・ボノフのアルバム“Restless Nights”(ささやく夜)のリリースが、1979年。
 その年にだけつながりのある内容を、その本から紹介しようと思う。

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 林家彦六の『噺家の手帖』(一声社)は、“民族芸能を守る会”の会報「民族芸能」に1966年8月(4号)から1982年1月(189号)まで連載された内容を中心に一冊になった本で、初版は1982年3月。彦六は、その年の1月29日に満86歳で旅立っているので、その直後での発行である。

 ほぼ400頁もある本なので、内容は盛りだくさん。
 その中から、1979年の「民族芸能」に掲載された内容の中から、“トンガリ”と言われた彦六らしい一節をご紹介したい。
 この部分を選らんだのは、選挙が近いということもある。

選挙のこころ

 昔は田舎へ行くと庄屋様というものが存在していて、これに残らずの者がくっついているわけで、背けば村八分とかにされてしまうから、皆がこれに追従していた。こういう因習が残っている土地では、かりに頭立った者へ金が行くと、村全体にそれが行き渡るような組織があった。今も残っていないとは言い切れるわけのものではない。したがって選挙になると、まず金のある奴が勝つとはっきり言える。
 それではどうすればいいか。選挙は選挙民の行使する一票一票が、正しいか正しくないかによって、ことが決まる。だから「清き一票」ということばの重大な意味をよく理解して、正しく行使してもらうよりほかにない。
 政治はめいめいのもので、投票権一つだけが頼みだから、立派な政党に所属している候補者に投票することである。


 あの当時、選挙や政治について何かを語る噺家を、彦六以外に思い浮かばない。
 さて、この後、彦六は特定の政党のことにふれる。
 念のために、私はその政党を含め、どの特定の政党の党員でもなければ、どこかの政党を贔屓にしているようなことはないことをお断りしておきたい。

 ところで共産党は金なんかないから、選挙で金を使える道理はない。本当に正しい選挙民に頼るよりしかたがない。
 自民党のような大政党にまかせておけばいいじゃないかという人もあるが、どっこい、そうはいきません。もしその大政党で不正なことが、多数をたのんでどんどん行われるようなことになると、現在政府が企んでいる増税なんてえものはたやすいことになる。人民はいかに生活のどん底に叩きつけられても、そんなことは意に介さない。つまり政府は痛くも痒くもないんで、多数をたのんで自分の思っていることが遂行できれば、それが合法的なんだから、そこのところをよく考えて、たとえ少数党にしろ正しい政策をもった党派を選ばなければならない。万一阻止する場合に防波堤になって働く議員をふやすこと、これより外に世の中がよくなるべきはずはないんだから・・・・・・。



 35年前の文章なのに、今日の政治情勢に、そのまま当てはまりような気がしてならない^^

 次に、あの議員が行ったような支持者への“オモテナシ”について。

 後援会というものが候補者や応援者の幹部、一般の人も参加して、バスを連ねて温泉地へ行き、飲めや歌えの騒ぎをやった揚句、「わが党の前途は華々しく、それを後援する者もすばらしい存在である。万歳!」てなことを言って終るが、どこの党派もこれをまねをしている傾向が見える。間違いではないか。祭の提灯とちがって、隣家で出したからおれの家も出さないと外聞が悪いというものではないだろう。
 むしろ後援者を集めて、「元来はバス旅行をやるべきだけれども、我々には金もないしするから、煎餅に番茶で一つ政治を論じよう。お互いに身体を丈夫にして、仲良く暮そうじゃないか」といような話合いの方が、共産党らしいと思う。
 いま会費何千円という金は、その人の一日の生活費で、容易ならざる出銭になる。それだけあればゆうに一日食えるっていう人もあるだろう。その人が共産党の真の味方なんだから、その根本を考えて、いい処置をしなくてはいけないんではないかと、私は常に思っている。(1979年9月)



 彦六が、根っからの共産党支持者であったことを割り引いても、彼が35年前に説いた「選挙のこころ」は、十分に考慮するに値すると思うし、政治の実態は、何ら変わっていないとも思う。

 “The Water Is Wide”の歌詞にある恋人同士を一般市民と見立てた場合、どの党派や議員が、市民に海を渡る船を与えてくれるのだろうか。やはり、それは、神頼みでしかないのか・・・・・・。

 少なくとも、今のままでは、その海はますます波が高くなり、嵐の到来を待つばかりのような気がする。
 ぜひ、人々が力を合わせて漕げる船が欲しいと思うし、一緒にその船を漕いでくれる人を、次の選挙で選びたいと思っている。

 それにしても、“トンガリ”彦六の真骨頂とでも言うような文章だなぁ。
 あんな噺家、二度と出ませんな。
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by kogotokoubei | 2014-11-29 15:54 | 落語の本 | Comments(6)
一昨日のNHK朝の連続ドラマ「マッサン」の冒頭で、エリーが生まれ故郷スコットランドの民謡‘The Water Is Wide’を口ずさんでいた。
 「花子とアン」もご覧の方は、懐かしい思いにかられたのではなかろうか。

 「花子とアン」における前半の重要のシーンで登場した歌だ。山梨から東京のお嬢様学校「修和女学校」に編入したはなは、慣れない寄宿舎生活や厳しい英語漬けの毎日に心がくじけそうになり、ホームシックにかかっていた。
 そんなはなは、夜中にこっそりと訪ねて来る父との塀を挟んだ会話に勇気づけられていたが、その父との会話の最中、寄宿舎の二階から聞こえてきたのが、カナダにいる恋人と遠く離れた異国の地にいるスコット先生による、恋人を想うこの歌だった。スコット先生の美声が、はなに英語を真剣に学ばせる一つのきっかけになった。そして、このスコット先生が、その後、はなに「Anne of Green Gables」を渡すことが、アンの物語を翻訳することにつながっていく。

 エリーは、スコット先生が歌っていたあの曲を口ずさんでいたのである。
 スコットランド民謡‘The Water Is Wide’、邦題は「悲しみの水辺」。

 原曲の歌詞と私のつたない和訳を記したい。
 なお、この‘water’は、海と解釈した。
 ‘I’、は男女どちらとも解釈できるよう、私、とした。

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The Water Is Wide

The water is wide, I cannot cross over.
And Neither have I wings to fly.
Give me a boat, that can carry two,
And both shall row, my love and I.

 この海は広過ぎて、私には渡れません
 飛んでいく翼もないのです
 二人を運ぶ船をください
 そうすれば、愛する人と漕いで行けるのに

Now love is gentle and love is kind
The sweetest flower when first it's new
but love grows old and waxes cold and fades away
like morning dew

 恋はやさしく、心をなごませます
 恋が芽生えた時は甘美な花のようです
 だけど時が過ぎるにつれて
 まるで朝露のようにはかなく消えていくのです

There is a ship and she sails the sea
She's loaded deep as deep can be
But not as deep as the love I'm in
I know not how I sink or swim

 彼女は船で海に漕ぎ出します
 出来る限りの積み荷で船は沈んでいます
 でも、私の愛はもっと深いので
 沈んでしまうのか、水面に浮いていられるのか
 わかりません

The water is wide, I can't cross o'er
And neither have I wings to fly
Give me a boat that can carry two
And both shall row, my love and I
And both shall row, my love and I

 この海は広過ぎて、私には渡れません
 飛んでいく翼もないのです
 二人を運ぶ船をください
 そうすれば、愛する人と漕いで行けるのに
 そう、愛する人と漕いで行けるのに
--------------------------------------------

 私がこの歌で思い出すのは、カーラ・ボノフ(Karla Bonoff)だ。
 1951年12月27日生まれ。
 1977年に自分の名前を冠した‘Karla Bonoff’というアルバムでデビュー。
 ‘The Water Is Wide’は、1979年にリリースされた二枚目のアルバム‘Restless Nights’(ささやく夜)に収録されている。
 ソニーミュージックのサイトから、このアルバムについて引用。
 SONYmusicサイトの該当ページ

繊細なシンガー・ソングライター的なデビュー作に比べ、ポップ寄りの楽曲が増えた2ndアルバム。前作と同じリンダ・ロンシュタット~ブリンドル陣営のミュージシャンを中心に、新たにドン・グロルニック(p)、デヴィッド・リンドレー(g)らが参加。オープニングを飾る「Trouble Again(涙に染めて)」は、リンダ・ロンシュタットが歌いたいと申し出たにもかかわらず、自分で歌いたいからと断ったという逸話が残るほどの自信作。本国では大きなヒットにはならなかったが、日本ではラジオを中心に人気を獲得した。トラディショナル・ナンバーに加筆した「The Water Is Wide(悲しみの水辺)」のアコースティック・ギターはジェイムス・テイラー。(1979年作品)


 ちなみに、リンダ・ロンシュタットは、1989年の大ヒットアルバム‘Cry Like A Rainstorm, Howl Like The Wind’に、‘Trouble Again’を収録した。このアルバムの中の‘All My Life’もカーラの曲。リンダは、カーラの曲に惚れ込んでいたようだ。

 さて、‘The Water Is Wide’を含むアルバム‘Restless Nights’は私のお気に入り。携帯音楽プレーヤーの定番だ。
 収録曲と作者は次のようになっている。

"Restless Nights"
1. Trouble Again(Karla Bonoff, Kenny Edwards)
2. Restless Nights(Karla Bonoff)
3. The Letter(Karla Bonoff)
4. When You Walk in the Room(Jackie DeShannon)
5. Only a Fool(Karla Bonoff)
6. Baby Don't Go(Karla Bonoff, Kenny Edwards)
7. Never Stop Her Heart(Karla Bonoff)
8. Loving You(Karla Bonoff)
9. The Water Is Wide(Traditional)

 Youtubeの下記の画像が、このアルバムのジャケット。
 
 カーラ・ボノフの‘The Water Is Wide’、お聴きのほどを。心が癒されませんか。


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by kogotokoubei | 2014-11-27 06:09 | 今週の一曲、あるいは二曲。 | Comments(6)
落語愛好家の先輩であるI女史が、ご都合が合わないとのことで、代わりに2012年10月31日の第532回以来、ほぼ二年ぶりの落語研究会へ。
2012年11月1日のブログ
 小満ん、権太楼のみならず、なかなかの顔ぶれで、期待していた。
 国立演芸場の脇を通って、喫煙室で一服。他に誰もいなかった。

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 喫茶室の壁に、プログラムと予定時間が貼り出されていた。ピントが合っていないので申し訳ないが、トリの小満んは8時35分~9時15分の40分予定とのこと。『御神酒徳利』、さて、収まるか・・・・・・。

 一服後、国立劇場・小劇場へ。それにしても、喫煙室が遠すぎるだろう。仲入りでも結構急いで歩いたのだった。

 会場は、最終的に八割位の入りだったろうか。結構あちこちに空席があったなぁ。

 次のような構成だった。
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古今亭志ん八  『粗忽の釘』
春風亭百栄   『やかん泥』
柳家権太楼   『錦の袈裟』
(仲入り)
古今亭菊之丞 『お見立て』
柳家小満ん  『御神酒徳利』
-----------------------------

古今亭志ん八『粗忽の釘』 (20分 *18:31~)
 志ん五門下だったが、今は志ん橋の元にいる。ブログを書く前に寄席で一度だけ聴いたことがあるが、ずいぶん久しぶりだ。
 見た目は、丁稚定吉、というイメージなのだが、入門が遅かったので、来年には四十になる人。高座には、それ相応の経験も生かされていたように思う。落ち着いた語り口でいて、笑いのツボをはずさない。女房の「馬鹿が突き当りまで行っちゃったよ」などという科白も、実に自然である。一見、遊雀に似た部分もあるが、そういう弾けた高座も見せるのだろうか。
 ホームページを見ると、結構あちこちの落語会に出演しているし、白酒の会などにも呼ばれている。見る人は見てる、ということだろう。そのホームページでは、放送用にドーランも塗ってもらったとのこと。十分に放映するに値する高座だったと思う。今後を大いに期待したい。天国の最初の師匠志ん五も応援しているはずだ。
 

春風亭百栄『やかん泥』 (24分)
 髪型が変わった。さすがに、いまどきマッシュルームカットでもない、と思ったか^^
 持ち時間が25分だが、ネタはいくら延ばしても10分位、と寄席で許される‘さんぼう’のことから、泥棒の小咄を数多く並べた。たしかに、マクラ16分の後で本編となり、25分未満。文楽が十八番とした軽いネタだが、珍しさはあったとは言え、百栄がこの噺をする必要があったのかどうか。
 マクラで、ネタ出ししているネタをやらなかったら生命の危険もありうる、などと言っていたのは、決して喜んでこの噺に取り組んだのではない、本音の発露だったようにも思えたなぁ。でも、ドジな泥棒の弾け方などに、百栄らしさは、ある程度表現できたように思う。きっと、新作でも泥棒ネタで個性を発揮する百栄に、文楽十八番ながら最近聴くことの少ない噺を演じさせたかったのかと察する。

柳家権太楼『錦の袈裟』 (31分)
 プログラムに長井好弘が池袋の喫茶店で権太楼と話したことを書いている。権太楼にとってこのネタは、ネタおろしに近いらしい。南喬と持ちネタの交換をした際に教わった、とのこと。しかし、客の前で演じた記憶はないようだ。
 権太楼は、「とにかく研究会の『袈裟』は見ものですよ。しくじったら、二度とやらないから。お客さんは‘幻のネタ’を見たことになるしね」と、語っていたらしい。
 さて、‘幻’となるか、新たな十八番ができたのか・・・・・・。
 私の印象では、‘幻’にはならずに済んだ、と思う。しかし、十八番の一つになったかどうかは、分からない。
 マクラでは、高倉健もかっこよかったが、私にとってかっこよかったと言えば、志ん朝師匠、とふって、志ん朝とのゴルフの思い出話へ。ラウンドしてスコアに不満な志ん朝が、同じゴルフ場で再度コンペを組んで欲しいと権太楼に言うと、一緒に回った金馬が、「もうハーフ回ればいいじゃない」と言った。しかし、志ん朝は、帰ってから稽古して夜の落語研究会に備える、と金馬の申し出を断った。金馬がそのネタが『明烏』と聴いて、「朝さんなら稽古なんかしなくても大丈夫でしょう」と言うと、「私の『明烏』は兄さんの『明烏』とは、違うんです!」とキッパリ。そのやりとりを聞いていた権ちゃん、かっこいいなぁ、と感心したらしい。権太楼は、この後にスマホ批判のネタに入るので、「こう言うと、すぐ調べる人がいるでしょうが、それは帰ってからやってください」と制した。そりゃそうだ^^
 この後は十月の大手町落語会とほぼ同じ、スマホに関するネタだった。二度目だが、また笑える。
 ちなみに、『よってたかって古今亭志ん朝』の巻末資料によれば、落語研究会で志ん朝が『明烏』を演じたのは昭和47年3月30日である。
 さて、仲入り前の、権太楼の高座。与太郎の弾け具合は楽しいのだが、与太郎ものとして唯一女房が登場するネタなので、どう描くかと思っていた。やはり権太楼は、典型的な長屋の強い女房として表現。これは、想定はできたのだが、私としては、もう少しやさしい女性を与太郎の妻として設定したい。
 『火焔太鼓』や『青菜』と同じような威勢のよい女房なら、与太郎とは所帯を持たないのではなかろうか。あれだけの知恵のある女房なのである。イメージとして近いのは『鮑のし』の甚兵衛さんの女房だろうか。
 ただし、これは噺家さんそれぞれの考えなので、ここまでとする。
 吉原でのどんちゃん騒ぎの後、袈裟の輪がついた錦のふんどしをまとった与太郎が一番偉いと勘違いされ、他の長屋ご一行は、みな与太郎の家来とみなされてしまった。花魁に「家来」「足軽」などと言われ、たけなどは「門番」とまで見下される始末。このあたりの描写は南喬から教わった通りなのか、権太楼の工夫なのか分からないが、大いに笑った。
 権太楼節は健在。しかし、私はやさしい与太郎の女房が好きだぞ。(少しくどいね^^)

古今亭菊之丞『お見立て』 (26分)
 仲入り後、久しぶりのこの人。マクラでは再び志ん朝の逸話。吉原大門近くの寿司屋に渥美清と志ん朝がよく通った、とのこと。結構、志ん朝も遊んだらしいことは、いろんな本などにも書かれているが、それもきっと芸の修業であったに違いない^^
 喜瀬川と杢兵衛大尽との間で苦労する若い衆の喜助が、喜瀬川のつく嘘を杢兵衛に伝える前に、「花魁、お銚子一本ですよ」とか「お銚子三本ね」と駄賃をせがむ演出は初めて聴いたが、なるほど、それくらいの労賃は当然の仕事(?)かもしれない。
 この人らしい丁寧な演出で、山谷の寺に喜助が杢兵衛を案内する道中で、「喜瀬川さんの代わりに、別な花魁をお見立てなさいよ」と、サゲにつながる伏線を張った。
 全体には、決して悪い高座ではないのだが、この噺は志ん輔の名演、特に杢兵衛、の印象が強く、それには及ばないと思うが、比べてはいけないのだろう。ちなみに、この人の『幇間腹』は現役でトップと思っている。得意な(と私が思っている)幇間や若旦那が出るネタではないが、そつなくこなす力はたいしたものと言える。

柳家小満ん『御神酒徳利』 (56分 *~21:30)
 私が疑問に思っていたことをマクラで話てくれた。柳家の場合は三島までの『占い八百屋』なのだが、今回の注文は大阪まで行く‘長い方’とのこと。
 ‘長い方’は、五代目馬生から六代目円生が教わり、ほぼ今の型にしたと言われている。易については、野村無名庵に直されたと円生は語っている。いろんな人が、今に残る名作に関わっているんだね。ちなみに、三代目三木助も円生版で音源を遺していて、私の携帯音楽プレーヤーの定番になっている。
 さて、小満んの高座。二番番頭の善六が、自分が御神酒徳利を水瓶に沈めたことを家に帰ってから思い出し、さあどうしよう、と女房と相談する会話の中で、女房の父親が占い師で、柳原で「熊谷先生」と呼ばれている、というくすぐりが入る。
 柳原といえば、『三方一両損』で大工の吉五郎が財布を落とした場所でもあるが、そこで、客を扇で誘って占いをするので熊谷先生、というくすぐりは円生版からだろうが、この洒落はどれほどの方が分かったのだろうか。元ネタは、熊谷直実(なおざね)が、「一の谷嫩軍記」という芝居で、平敦盛を扇で招いて戦いを挑み、見事に討ち取る、という話。私には客席の反応が少なく、少し小満んが肩すかしを食ったような気がした。
 善六が、‘熊谷先生’の娘である女房の入れ知恵のおかげで、秘伝の算盤占いで御神酒徳利を見つけた、ということになり、師走十三日煤払い恒例の宴会が開催されるまでが、約二十分。
 その後、鴻池善右衛門の支配人と大阪へ向かう途中の神奈川宿の新羽屋で、薩摩島津家の侍が紛失した密書入りの財布(巾着)を、盗んだ女中が自首(?)するという幸運に恵まれて当てるまでで、すでに21:20になっていた。
 大阪では新羽屋の稲荷の助けで鴻池家の娘の病が癒え、多くの褒美をもらい、京、大阪見物もして江戸に帰ってサゲだ時には、ちょうど九時半だった。大阪からの帰りの道中言い立てなども、実に結構なのだが、やはり長いなぁ。せっかく、菊之丞が持ち時間を余して時間をつくってくれたのだがなぁ。
 ちなみに、円生の有名な御前口演が約45分。2009年に県民ホール寄席の鯉昇独演会で聴いた際も、ほぼ同じ長さ。やはり、それ位がちょうどよい、ということかと思う。
 かと言って、どこを削ればよいかは、結構難しいのである。何より、その内容を、私は楽しんでいた。

 小満んの、各場面ごとの概算所要時間は次のようだった。
 (1)刈豆屋の徳利発見まで→20分
 (2)新羽屋の財布発見まで→25分
 (3)大阪で難問解決から江戸でのサゲまで→10分
 これを見ると、(1)と(2)をそれぞれ五分位づつ縮める、ということになるのだろう。
 次回聴く機会があれば、この日と同じような充実感を味わいながら、実は45分に短縮されていた、なんて高座を期待したい。


 終演後、我らがリーダー佐平次さんと、佐平次さんの地元の居酒屋さんで居残り。
 暖簾をくぐると、「お帰りなさい」と迎えてくれる店、今の私には存在しないなぁ。
 この時期には珍しい菜の花のおひたしや鰊の煮つけ、女将さん手作りのカブのかくてきなどを美味しくいただき、佐平次さんと落語のことをはじめ、さまざまな話で時を忘れる。志ん八、百栄には、二人とも好意的な評価。しかし、全体として、どうも今一つしっくりこない、という思いは二人に共通していたように思う。
 最近お互いに飲み会が増えてきた、など話はさまざまに広がり、もちろん(?)、帰宅は日付変更線を越えたのであった。


 あらためて、「落語研究会」のことだが、私はかつて、出演者とネタのついては京須さんが決めていると思っていた。
 実際に、京須さんと女性アナウンサーがいるのでは、とまで思っていたくらいだ^^
 実は、違っていた。
 産経で「落語会 陰の演出者たち」というシリーズ記事があるが、昨年2月の記事から紹介したい。
MSN産経ニュースの該当記事

 今、落語研究会の顔付け、ネタ選び、運営、放送とすべてのプロデューサーをつとめるのが、イーストの今野徹さん(52)だ。入社して3年目にアシスタントディレクターとして、TBSの名物プロデューサーの白井良幹さん(故人)のもとで落語研究会に携わったのがはじまり。

 「そのときに、落語を生で初めて見た」という。平成12年4月には、白井さんの跡を継いで、今野さんが顔付けを始め、今では落語界になくてはならない人になった。

 「よりによって」と、最初は不安がいっぱいのなかでのはじまりだった。落語研究会はネタ出しといわれる演目を事前に出すやり方だ。

 「この落語家で、この噺を聴きたいというものをお願いする。時にむちゃなお願いもすることにもなる」

 すべてを今野さんがひとりで決める。それだけにプレッシャーも大きい。

 「ネタはひらめきです。この落語家でこの噺を聴きたいという」

 柳家権太楼に「百年目」を頼んだときもそうだったと振り返る。「ああいうのはぼくにはできないよ」と、最初は権太楼に断られたが、2度目に頼んだときにはOKされた。権太楼の落語研究会での高座は良い出来だった。「あれは武器になるものになった」と今野さんは話す。

今野さんは「午後6時以降は会議は入れないでほしい」と、許す限り落語会に出掛ける。常に変わり続ける落語家を見続けるためだ。

 落語研究会は客席のお客の厳しい目でも有名だ。出演者も「この会は特別だ」と意識しているようだ。


 名プロデューサーと言われた白井良幹亡き後、それを継ぐ人がいたとは思わなかった。だから、演者とネタは京須氏が選んでいるのだろう、「落語研究会も朝日名人会も」、と思って、これまでに何度か、やや小言めいたことも書いてきた。京須さんには謝らなければならない。ごめんなさい。
 
 さて、それでは今回、今野氏が選んだ出演者とネタについて。

 全体的に、どうもしっくりこないものを感じたのは、結果として、権太楼『錦の袈裟』と、小満ん『御神酒徳利』と、目玉となるものを二つつくってしまったことが原因ではなかろうか。
 もちろん、二人とも、いや出演者全員がテレビ放送を意識しないわけがなく、熱演になる。なかでも、この二人は普段かけないネタという緊張感を含め、気合いが入らないはずがない。
 強い光を放つ光源が二つあったがために、いわば、ハレーションを起こした。そんなイメージなのである。
 主役は、トリの一人にして、そこまでは、いわば‘つなぎ役’としての高座でよいように思う。また、トリ以外でも、好高座は生まれ得る。そういう意味で、志ん八、百栄、そして菊之丞は持分を十分にわきまえていたように感じた。

 昨夜の居残り会で私が思いつきで言ったことなのだが、もし権太楼ではなくて喜多八だったら、全体的な構成のまとまりも良かったのではなかろうか、などと思う。

 贅沢なことを言っているのは承知で、そんな印象を持った会だった。
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by kogotokoubei | 2014-11-26 07:56 | 落語会 | Comments(6)
 NHKの「プロフェッショナル」を見て、高倉健が好きだった歌、「ミスター・ボージャングル」のニーナ・シモンのYoutubeを掲載した。

 この歌について、もう少し書いてみたい。

 この歌は、作者Jerry Jeff Walkerの体験に基づいている。
 彼は、二十代の若き日、ちょっとしたいさかいで、ブタ箱に入ることになった。
 この歌では、そこにいた男が、「ボージャングル」と名乗った、とされている。
 しかし、この男が、本当にこの名であったかのか・・・・・・それについては後で書くことにしよう。
 まず、歌詞をご紹介。
 (和訳は、ネットで見つけたいくつかの訳を参考にし、管理人なりに作ったものです)

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Mr.Bojangles

I knew a man Bojangles and he'd dance for you
In worn out shoes
With silver hair, a ragged shirt, and baggy pants
The old soft shoe
He jumped so high, jumped so high
Then he lightly touched down

 僕は、ボージャングルという男を知っている
 彼は、擦り切れた靴を履いて、みんなにダンスを踊ってくれたんだ
 白髪頭で、よれよれのシャツにだぶだぶズボン、古いタップ用のシューズ
 彼は、とても高く跳んだ、とても高くね。そして、軽やかに着地したんだ

I met him in a cell in New Orleans I was
down and out
He looked to me to be the eyes of age
as he spoke right out
He talked of life, talked of life, he laughed
clicked his heels and stepped

 僕が彼に会ったのは、僕がどん底の頃の
 ニューオーリンズのぶた箱さ
 彼は、年月を感じさせる目で僕を見つめ
 語り出した
 彼は人生を語りだした
 笑いながら、時に膝を叩いてステップを踏んでね

He said his name "Bojangles" and he danced a lick
across the cell
He grabbed his pants and spread his stance,
Oh he jumped so high and then he clicked his heels
He let go a laugh, let go a laugh
and shook back his clothes all around

 彼はボージャングルと名乗った
 そして、監房の中を踊って横切った
 ズボンをつかんで足幅を広げ、彼は高く跳びあがった
 そして、踵を鳴らした
 彼は笑った
 そして、服の乱れを直した

Mr. Bojangles, Mr. Bojangles
Mr. Bojangles, dance

 ボージャングルさん、ボージャングルさん、
 ボージャングルさん、踊っておくれよ
 
He danced for those at minstrel shows and county fairs
throughout the south
He spoke through tears of 15 years how his dog and him
traveled about
The dog up and died, he up and died
And after 20 years he still grieves

 彼はミンストレル・ショーや南部中のダンス大会で踊ったらいい
 愛犬を連れて旅回りをした15年の歳月を涙ながらに語ってくれた
 彼の愛犬は命を全うしたらしい
 それから20年、彼はずっと愛犬の死を悲しんでいる

He said I dance now at every chance in honky tonks
for drinks and tips
But most the time I spend behind these county bars
'cause I drinks a bit
He shook his head, and as he shook his head
I heard someone ask him please

Mr. Bojangles, Mr. Bojangles
Mr. Bojangles, dance..

 彼はチャンスさえあれば、酒とチップのために
 今でも安酒場で踊るそうだ
 でもほとんどの時間は、ぶた箱で過ごすんだ
 ちょっと 飲み過ぎるんだ
 そう言って彼は 首を何度も振った
 その時誰かのリクエストが聞こえた
 
 ボージャングルさん、ボージャングルさん
 ボージャングルさん、踊っておくれよ
----------------------------------------------------

この歌は、私が好きなニッティ・グリッティ・ダート・バンド、そして紹介したニーナ・シモンの他にも、たくさんの人が歌っている。
 サミー・デイビスJr.も有名。
 サミーは、タップダンスの名人、ビル・ボージャングル・ロビンソンをイメージして歌っていると言われてる。
 Wikipediaで確認できるように、ビルは、1878年5月25日生まれで 1949年11月25日没。
Wikipedia「ビル・ボージャングル・ロビンソン」
 あら、今日は、ビルの命日だ。
 ビルの誕生日は、「タップダンスの日」となっている。それほど有名な人なんだねぇ。

 作者のJerry Jeff Walkerは1942年生まれで、この曲を作ったのは1968年。
 もちろん、ビルはこの世にいない。
 ウォーカーの体験に基づく歌ではあり、留置場で会った老ボードビリアンをヒントに、彼はこの曲を創作したらしい。
 老いた犯罪者が、本当の名を明かしたくないために「ボージャングル」と名乗り、彼の犬のことを語り、タップダンスを踊った。そのウォーカーの経験が土台となって、この名曲が誕生したようだ。
 
 年老いた酔いどれの売れない芸人の姿が、美しいメロディに乗って、様々な歌手に歌われてきた。
 
 高倉健が、この歌を好きだったのは、その曲の美しさとともに、そんな一人の老いた芸人に対して、彼が深く思い入れする何かを感じたからではなかろうか。
 ぶた箱仲間に、「踊ってよ、ミスター・ボージャングル」と言われて、嬉しそうに飛び上がる老人の姿に、自分自身を重ね合わせたのかもしれない、と言えば言い過ぎだろうか。

 稀代の俳優となった自分も、一つ間違えば、どうなっていたか分からない、という思いもあっただろう。そして、フィクションとはいえ、彼はぶた箱を疑似体験しており、そこを、いろんな人が通り過ぎていったことを知っている。

 たまたま、ビル・ボージャングル・ロビンソンの命日に、もう一人のボージャングルと名乗った酔いどれ芸人を歌った曲と、その曲が好きで、遺作となった映画の撮影最終日の朝も、好きなコーヒーを飲みながら聴いていた高倉健のことにも思いが至るのだ。

 やはり、私の好きな、Nitty Gritty Dirt Bandのライブ版で、ぜひお聴きのほどを。彼らは、Mr.Bojanglesと呼びかけた後、'watch dance'と言っています。

 ライブで、最後のコーラスは、観客も歌ってますね。それだけ、アメリカでは有名な歌、かと思います。


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by kogotokoubei | 2014-11-25 00:36 | 今週の一曲、あるいは二曲。 | Comments(0)
NHKの「プロフェッショナル」再放送を観た。
 遺作となった「あなたへ」の最後のカットを撮影する日の朝、ホテルでコーヒーを飲みながら大好きな歌を聴く、という場面で、ニーナ・シモンの「ミスター・ボージャングル」(Mr.Bojangles)が流れていた。

 私も大好きな歌だ。Jerry Jeff Walkerの作詞作曲。私の携帯音楽プレーヤーにはニッティ・グリッティ・ダート・バンドによるこの曲が欠かせない。

 でも、ニーナ・シモンもいいね。

 「あなたへ」で、妻の死因が悪性リンパ腫であったことが、不思議な偶然を感じさせる。

 お好きだった曲で、健さんを偲びたい。ぜひ、お聴きのほどを。


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by kogotokoubei | 2014-11-24 10:05 | 今週の一曲、あるいは二曲。 | Comments(0)
先日の柳家小満んの会の三席のうち、トリネタは『八五郎出世』と題して演じられた。
 もちろん、『妾馬』である。
 小満んは、珍しく本来のサゲまで演じたので、まさに『妾馬』で良いと思った。
 
 『八五郎出世』という題は、六代目円生が使ってから流行るようになったと察するが、内容を表現しているとは思うが、この題を使うことがどうも腑に落ちない。
 
 同じ落語でも、別な演題を持つ噺がいくつかある。私は、内容に相応しい別題がつけられた理由も分からないではないが、本来の題名を残してほしい、と思っている。

 ずいぶん前になるが、このことについて記事を書いたことがある。今でも同じ思いなので、一部内容が重複することになるが、ご勘弁のほどを。
2009年2月17日のブログ

 『寝床』の別題として『素人義太夫』や『素人浄瑠璃』がある。『妾馬』には、『八五郎出世』という別題がある。
 私は、それぞれ『寝床』、『妾馬』であって欲しいと思う。

 本来は長い噺だが、サゲが現代では分かりにくい、とか内容が今ひとつつまらないなどの理由で、一部分のみが演じられるようになり別題を持つ噺としては、『宮戸川』、『妾馬』、『おせつ徳三郎』などがあげられるだろう。
 
 『宮戸川』は、ほとんど前半しか演じられず、別名『お花半七なれそめ』とも言われる。
 『妾馬』は、題にある馬が登場するサゲまではほとんど演じられず、『八五郎出世』という別名を用いることが多くなった。。
 『おせつ徳三郎』は、前半を『花見小僧』、後半を『刀屋』と言う。どちらも今日では滅多に聞くことはなくなったが、五代目小さんによる前半、志ん生や志ん朝による後半は、なかなか味わいがある。

 この中では、『おせつ徳三郎』だけが異質かもしれない。なぜならば、前半と後半のそれぞれが単独の噺として独立した存在と言えるからである。
 実は、来年3月18日に再開される関内の小満んの会のネタ出しに、『花見小僧』と『刀屋』が書かれていた。『おせつ徳三郎-通し-』ですぜ!

 『宮戸川』と『妾馬』は、通しで演じることはあり得ても、後半のみ独立させて演ずることはないだろう。
 
 確かに、『宮戸川』の前半の舞台に、「宮戸川」は登場しない。
 しかし、このお題が残ることで、その題である理由を知りたいという思いになるはず。また、「通し」で聴きたい、という興味も湧く。今年6月に聴いた五街道雲助の『宮戸川-通し-』は、良かったなぁ。

 また、『妾馬』の前半だけでは、この演題は意味不明である。
 内容に即して言えば『八五郎出世』のほうがふさわしいのかもしれない。

 しかし、私は本来の題のままにして欲しいと思うのだ。

 それは、題目の由来を知ろうとすることで、その噺が成立した社会的背景や庶民の生活、文化などへ好奇心が広がるからである。

 「なぜこの噺で『宮戸川』なんだ?」、「どうして『妾馬』なの?」、という疑問が起こり、その謎(?)を自分で解くことで、噺を聴く時の味わいも増すと思うのだ。

 他のネタでは、『寝床』で別題が使われることがある。
 サゲまで演じない場合に、『素人義太夫』や『素人浄瑠璃』とすることがある。

 十八番にしていた噺家で有名なのは八代目桂文楽だが、途中でサゲるとはいえ志ん生のこの噺も捨て難い。

 この噺の題は、「寝床」という言葉に特定の意味を持たせたほどの力がある。

 「うちの社長のカラオケ好きにも困ったね。無理矢理付き合わされて聞かされる身にもなって欲しい。ありゃぁ寝床だよ。」という表現ができるのだ。
 落語の演題がある現象を見事に言い表すまでになったのである。
 「下手の横好き」=「寝床」、なのである。
 ただし、今日では、「下手の横好き」という言葉でさえ聞かれなくなった。だからこそ、「寝床」という言葉を遺して欲しいと思う。

 志ん生が文楽と違って通しで演じなくても、あくまでも『寝床』でよいと思う。

 正岡容がこの噺を語った文章が、矢野誠一著『落語手帖』で紹介されている

この「寝床」という言葉は最も一般によく浸透されていて、「巧いかいあいつの小唄?」「駄目、寝床だよ」といった具合に旺(さかん)に流用されています。なかでいちばん天晴れだったのは亡くなった四代目小さんで、この『寝床』のマクラでしたが、「あそこの家の奥さんのコロッケは寝床だ」と申しました。コロッケに寝床とは対照の妙を極めていて実に奇抜ではありませんか。


 よほどこの奥さんは、自分自身ではコロッケづくりが上手いと思っていて来客の度に作るのだろう、と想像できるじゃないですか。出された客も、迷惑だろうなぁ。
 あっ、私自身も友人の前で、たまに酒の勢いで落語を披露したりするが、まさに「寝床」である。被害者の皆さん、ごめんなさい。

 将来、もしほとんど前半しか『寝床』が演じられないようになり、『素人義太夫』という演題が当たり前になった時、「ありゃぁ寝床だね!」という表現自体が失われることになっては寂しいじゃないですか。
(そんなことを思うのが私だけなら、なおさら寂しいのだけど・・・・・・。)
 
 『妾馬』にしても、「妾」という言葉を大事にする(?)意味で、『八五郎出世』には替えないでもらいたいと思う。

 たしかに、「妾」という言葉、日常的な会話として使われることが少なくなった。代わりに「愛人」などという言葉が使われるのだろう。しかし、妾と愛人とは、まったく別なのである。
 そして、落語の世界で「妾」の存在は大きいのだ。
 『悋気の独楽』『悋気の火の玉』『権助提灯』『権助魚』はもちろんだし、7月の小満んの会で初めて聴いた『有馬のおふじ』だって、「落語でブッダ」で紹介され、今年1月に記事でも書いた上方落語の『お文さん』だって、妾が重要を役割を果たしている。
2014年7月18日のブログ
2014年1月15日のブログ

 上方では、お妾さんのことを、「お手かけさん」と言うらしい。なるほど、である。

 かつては、それ相応の旦那が妾を持つことに、本妻は実に寛容だった。妻妾同衾の場合すらあった。
 だから、愛人とは、似て非なる存在なのだ。「妾」という言葉を使うことで、本妻がその存在を許した時代の風俗、あるいは文化を推しはかることができる。
(なぜか、このへん力んでいるのは、自分が妾を囲うだけの力も金もないからか^^)

 そんなに演題に執着しなくても、と思われるかもしれないが、私は結構気になるなぁ。
 滅びつつある‘言葉’への哀愁、ということもある。

 しかし、自分を冷静に見つめると(?)、それは私の助平根性からくる発想なのかもしれないなぁ。
 妾を囲う甲斐性はなくても、今後、落語初心者の若い女性と一緒に落語会に行く機会があり、その後にお茶でも(あるいはお酒でも)飲む場で、「どうして『寝床』なの?」とか、「なぜ『妾馬』っていうの?」などと聞かれた時に、待ってましたとばかり、「それはね・・・」と、知ったかぶりで教えてあげたいだけなのかもしれない。

 それじゃ、まるで「やかん」だ・・・・・・あっ、この言葉も死語になりつつある・・・。
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by kogotokoubei | 2014-11-21 06:52 | 落語のネタ | Comments(4)
九月の会に続き、関内での小満んの会へ行くことができた。
 
 ロビーで、さん坊の開口一番、『松竹梅』をモニターで見ながらコンビニで買ったおにぎりを食べ、その高座の後に会場へ。
 六割ほどの入りか。いつもこの位。もうちょっと入ってもいいと思うけどね。

 ネタ出しされていた小満んの三席について、演じられた順に感想などを記したい。

柳家小満ん『猪買い』 (27分 *18:47~)
 上方落語『池田の猪買い』の東京版、ということだろう、東京の噺家さんでは、たぶん初めて聴いた。
(旧暦)十月の最初の猪の日「玄猪(別名は猪の子)」に、昔は炬燵を出した、という慣習は初めて知った。他にも、「猪(しし)食った報い」という言葉は、猪は体に良くて「薬食い」とも言うので、本来は「猪食った温い」という説もある、などのマクラは、この人ならではのもの。こういうまくらは、好きだなぁ。
 本編は、上方の池田の代わりに、猪は大山で漁師の六太夫(ろくだゆう)が仕留めることになる。時代設定は明治から大正なのだろう、万世から電車に乗って出かけている。
 上方版のように、池田まで行く道中のバタバタで笑いをとる演出はない。大山には電車のおかげもあって、すぐに着く。漁師と男のやりとりの可笑しさが中心となる。ややリズムに乗りきれていないように感じたが、こういうネタを演じてくれるだけでも、嬉しい。

柳家小満ん『忍三重』 (35分)
 いったん下手に下がってから、再登場。めくりにこのネタが出ていたのは、意外だった。きっとトリネタだろう、と思っていたのだ。
 この噺は、二年前の10月に、人形町らくだ亭で初めて聴いた印象が強く残っている。非常ににスケールが大きいし、ドラマチックな噺で、今回も楽しみにしていた。
 この噺の筋書きが好きなので、二年前に書いた記事から、あらすじを短縮して再度紹介したい。
2012年10月23日のブログ
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<越前船の航路と出来事>
・柏崎   銀三郎・おその夫婦が密航。 → 後で発覚。
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・今町(現在の直江津) 善光寺の芸者、お蝶が乗船
|
|     銀三郎・おその夫婦の密航が発覚し、船長から、「海に飛び込め」と脅されるの
|     を見て、お蝶姐さん、「可哀そうじゃないか」と、二人の船賃を払い助けてやる。     
|
・糸魚川  荷を積むために、沖で二泊することになった。
|
|     お蝶と夫婦は互いの身の上を語り合う。お蝶は信州善光寺の色街にいたが、
|     役者の嵐伝三郎に惚れて、芝居を打っている水橋(富山)まで行く途中。
|     放蕩したかつての若旦那の銀三郎と芸者だったおそのは、今じゃ売れない
|     旅役者と 三味線弾き。
|     二人は仕事がなく食べるもの にも事欠き、思い余って密航したという。
|
・水橋  三人は下船。 水橋で芝居を打つ嵐伝三郎と再会を果たすお蝶。喜んだ伝三郎は、
      銀三郎を弟子に抱え、嵐伝助と命名。おそのも下座としてやとわれることとなった。


 ここまでが前半で、所要時間は14分だった。
 さて、約20分の後半は、次のような展開となる。
 
・天保の改革
 おりしも江戸で天保の改革があり、加賀前田藩の支藩である富山前田藩でも、
 芝居は 興行できなくなった。悩んだ伝三郎。「そうだ、江戸では芝居小屋を猿若町
 一ヵ所に集めることになったようだ。この際、江戸に出て役者として勝負してみようか」。
 お蝶も「そうおしな」と後押し。
 
・飛騨高山~日陰村
 江戸に出る旅の途中、飛騨高山を過ぎた日陰村で、お蝶は病に伏せる。
 しかし、お蝶は、伝三郎に「私は大丈夫だから、江戸に行っておくれ」と言う。
 伝助とおその夫婦には、「無事、伝三郎を送り届けてちょうだい」と頼む。
 江戸に向かう伝三郎。しかし、伝助とおそのは命の恩人であるお蝶を置いて
 江戸に行くことはできず高山に戻り、いわゆる「辻芝居」をして投げ銭を稼ぎ、
 日陰村の宿で病に伏せるお蝶の宿賃や薬代に充てるのだが、雨が降った日
 には稼ぎもできず、困り果てたその時、伝助に名案が浮かんだ。

 夫婦の会話。
  伝助  こうなったら、泥棒でもするしかねえな。
  おその 何言ってんだよ、お前さん。
  伝助  本物の泥棒じゃあねえ。こういうことだ。
  と伝助はおそのに自分の計画を打ち明ける。

・魚七
 さて、舞台はは高山の老舗料理家「魚七」。日が暮れ、泥棒装束となった伝助が
 魚七に忍びこむのだが、効果音として、おそのの「忍三重」(別名「ひぐらし三重」)
 の三味の音が響く。その音を聴いた魚七の店の者が騒ぎ出すが、主人は「静かに。
 皆、隠れて見るんだ」と、家の中で様子をうかがう。 この主人が、粋なのだ。
 さて、台所に忍び込んだ伝助。「有識 鎌倉山」の泥棒の場面よろしく、鍋の蓋を
 取ると、鱈の煮つけ。 「ありがてぃ、かっちけねぇ。奪い取ったる鱈の煮つけ」と
 科白を語ると、隠れていた主人から、「大根役者!」の声。主が明かりをつけて
 伝助を見て、「おや、辻芝居をしていた人だね。どうして、こんなことを。何か訳が
 ありそうだ」と親切な言葉がかけられた。伝助は、病で伏せているお蝶のためである
 と打ち明ける。
 魚七の主、「よ~く、分かった。鱈の煮つけの他にも何かこしらえて祝儀も出そうじゃ
 ないか。もう一度、芝居を見せてくれ」とうれしい言葉。店の者を皆集めて、あらためて
 “出前”芝居が始まる。
 伝助とおその夫婦の恩返しの芝居、そして魚七の粋な計らいでお蝶も快復した、という
 「忍三重」というお噺、これにてお開き。
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 この日のあらすじも、もちろんこのような内容なのだが、いつもに増して言い間違い、言いよどみが多くて、リズムに乗れなかったなぁ。伝助を伝七と何度も間違えていて、聴いていて、少し辛かった。
 体調がもっと良い時に、あらためて聴きたい噺。

柳家小満ん『妾馬』 (38分 *~20:40)
 めくりに『八五郎出世』と書かれていたが、これこそ『妾馬』であろう。
 赤井御門守が、八五郎の妹おつるを見初める場面から、八五郎が侍に取り立てられて馬に乗るサゲまで、しっかりと演じてくれた。そのぶん、八五郎が殿様に御馳走される席で演じるやりとりが、少し短くなっている。酔って都都逸をがなることもない。
 しかし、それに代わる楽しい演出は、前半の母親おくら、である。八とおつるの母親が、なんとも元気。
 おくらさん、大家に向かって、「ほんとにいい大家さんだ、家賃の催促もしないし」などと言って大家を煙に巻く。多くの噺家さんが演じる短縮版では、母親を、実の孫なのに顔を見ることもできない、可愛そうな存在として描かれることが多いが、これだけしっかりした母の子供たちだから、世継ぎを生んで‘おつるの方’となり、その妹のあっせんもあって、‘石垣蟹右衛門’として侍になった、とも言えるだろう。
 こちらをトリネタにしたことが、通しで聴いて合点できた。

 終演後は、我らがりーダー佐平次さんと、県民ホールで行われた三三の会に来られていたI女史の三人で、居残り会。
 九月の会の後で、初めて行って大いに満足した、ホール近く、常盤町の料理屋さんDへ。この道四十年のお店。
 日向産のかわはぎの薄造りを肝でいただき、三陸赤崎産のカキのフライに舌鼓を打ちながら、落語談義に花が咲く。
 北の銘酒男山の徳利が、さて何本空いたものやら。もちろん、帰宅は日付変更線を超えたのであった。

 次の会は、関内ホールの改装工事のため、来年三月とのこと。あら、残念。 

 やや言い間違いなどがあったにせよ、あの三席を選んだ小満んは、粋だ。一席目は、上方落語を舞台を移して演じた旬な噺。二席目、自らが創ったスケールの大きなネタ。そして、滅多に通しで聴けない噺。
 だから、しばらく関内はお預けでも、お江戸日本橋亭など、他の会場での小満んの会を楽しみにしようか、などと思っている。
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by kogotokoubei | 2014-11-20 06:08 | 落語会 | Comments(2)
 高倉健の訃報後、テレビや新聞、ネットが、悼む声で溢れている。
 国民栄誉賞の文字まで見え出してきた。

 私個人は、『網走番外地』シリーズの中の一作で、小学生の時に北海道の生まれ故郷がロケ地になり、兄がエキストラとして参加したり、当時住んでいた家の近くのバーも撮影に使われたりしたので、あのシリーズに関しては思い入れが深い。

 学生になってから、名画座で、東映の主演作三本立てを見た記憶もある。
 安保闘争の学生運動の時代は過ぎていたとはいえ、映画館を出る時には、健さんになったつもりで、肩をいからせて歩いたはずだ^^

 訃報に接して、私はまず最初に、日本人と‘任侠’、とでもいうようなことを考えていた。

 映画俳優高倉健の経歴から、『網走番外地』や『昭和残侠伝』『日本侠客伝』を、はずすことはできない。
 それらは、間違いなく、アウトローを主人公とするものであり、番外地以外の2つのシリーズは、‘任侠’の世界、‘やくざ’の世界を舞台としている。

 もちろん、高倉健という稀代の役者だからこそ、多くのファンを獲得したのであろう。

 しかし、私は訃報に続くメディアの内容などを見て思ったのは、日本人は、深層心理として、‘任侠’の世界に対し好意的であるのではないか。もっと言えば、ある意味での憧れのようなものがあるのではないか、ということ。

 映画というフィクションの世界の主人公に、自分が現実(ノンフィクションの世界)では到底できない姿をだぶらせて、一種のカタルシスを得るためには、できるだけ非日常の世界が舞台であるほうが効果的だ。

 それは‘寅さん’であれば、「気ままに、風の向くまま旅をしたい」という思いが、全国を旅する寅次郎の姿への憧れになる。

 では、‘健さん’の場合はどうなのか。実際はできるはずがないが、嫌な奴に、「死んでもらいます」、と健さんのように言いたい気持ちが、やはり間違いなくあるのだろう。だから、男気を通して、強きをくじき弱きを助ける健さんの銀幕での姿に、喝采を贈るのだ。何より、泣き言も言い訳も言わずに、耐えて耐えて、最後に敵を打ちのめす姿が、‘かっこいい’、のである。
 これは、‘男として、こうありたい’という、一つの理想像であり、高倉健は、映画ファンに、その姿を見事に演じてきたのである。

 そして、市民にとって任侠の世界は、非日常の世界であり、男のあり方を象徴的に描くことのできやすい舞台であった。いわば、かっこいい男、という‘夢’を与えることのできる世界だったと思う。

 しかし、幡随員長兵衛に代表される‘任侠’の世界は、その集団が‘やくざ’と呼ばれ、その言葉が‘暴力団’となるにつれて、映画のフィクションの世界で楽しむ気持ちは長続きせず、ノンフィクションの世界に引き戻される。

 俳優高倉健も、実録シリーズでは、とても、観客に夢を与えることはできないと思うから、東映を去ったのだろう。


 この、‘任侠’から‘暴力団’までの間にある深い溝を、普段は考えることはほとんどないし、また、多くの人は考える必要がないだろう。
 しかし、あえてこう書いたら、どう思うだろうか。
 高倉健は、山口組三代目組長の田岡一雄に可愛がられていた。それは、美空ひばりほどではないが、実際に映画で田岡を演じる際に、田岡自身の激励も受けている。田岡が入院している時には、当時の妻、江利チエミと一緒に見舞ってもいる。
 それは、かつての興行の世界において、暴力団の存在は不可欠とも言えたからである。
 やくざと芸能界については、以前書いたことがあるので、ご興味のある方は、ご覧のほどを。
2011年10月10日のブログ
 あの世界の人と触れ合うことで、高倉健は、被差別者としての苦悩を含めて、あの世界の人たちの実像に近づくことができただろう。

 三年前に施行された「暴力団排除条例」に照らすと、高倉健も美空ひばりも、暴力団の「密接交際者」となる。
  
 「暴力団排除条例」に関連しても、記事を書いたことがある。
2011年10月25日のブログ

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 猪野健治著『やくざと日本人』(ちくま文庫)

 その時も、猪野健治著『やくさと日本人』(ちくま文庫)から、いくつか引用した。
 この本は、‘やくざ’に関して非常に得難い本である。他に、これだけ系統だっていて、かつ聞き込みによる生の声も含む実証的な本は、ないだろう。

 ‘やくざ’や‘任侠’ということを、正しく認識する上で、重要だと思うので、以前と同じ部分の引用になるが、ご容赦を願いたい。

 三年前の「暴力団排除条例」に先立つことほぼ20年、平成4年に施行された「暴力団対策法(暴対法)」について、この文庫の「補遺 あとがきにかえて」(平成11年5月10日付)から引用したい。
 やくざの社会特有の任侠思想は、歌舞伎、新派、大衆演劇、映画、文学など日本文化にはかり知れないほどの影響を与えてきた。したがってやくざ問題を抜本的に解決するには、否応なく日本文化や部落差別、民族差別にまで踏み込んだ、時間をかけての構造的な取り組みが必要である。
 ところが、そうした取り組みはまったくなされないまま、警察庁は暴力団対策法(暴力団員による不当な行為の防止等に関する法律)の施行(平成四年三月一日)へ向けて突進した。
 この法律が策定されてから成立までの最大の特徴は、異例のスピードで法文が決定、成立したこと及び、過去において権力がやくざを利用した事実の完全な無視、頬かむりである。そこに権力の意図がはっきり見えるわけで、暴力団対策法によってやくざを「暴力団」と法的に規定し、社会から隔離して、権力悪のツケのすべてを彼らに押しつけ、一挙に帳消しにしようとはかったのである。
 しかし一片の法律で、約五百年の歴史を持つやくざを強引に封じ込めようとすれば、猛烈な副作用が起こるのは当然である。

 三年前の記事では、この後に、その副作用の事例を引用して記載した。

 では、暴対法から約20年後の「暴力団排除条例」は、いったいどんな効果、あるいは副作用があったのか、ということはこの記事の内容から逸れるので、別途考えることにする。
 ただし、参考として、2012年1月に、一部のマスコミ関係者が、この法律に反対する会見を行ったことに関するBLOGOSの記事のURLを紹介するにとどめたい。
BLOGOSの該当記事


 猪野健治の、‘やくざ問題を抜本的に解決するには、否応なく日本文化や部落差別、民族差別にまで踏み込んだ、時間をかけての構造的な取り組みが必要’という言葉は重要だ。

 私は、数多くの任侠映画に出演した高倉健は、田岡一雄との交友なども含め、相当踏み込んだレベルで、あの世界のことを知り、考えてきたと思う。だから、差別に関する問題意識は、相当深かったと察する。

 たとえば、高倉健が自らの強い思いから出演した映画と言われる『ホタル』。特攻隊の生き残りという役であったが、この映画の見どころは、特攻隊として散って行った在日朝鮮人の故郷を訪ねる旅である。被差別者の問題を取り上げる映画への高倉健の思いは、任侠の世界で生きる被差別者への思いと、根っこではつながっているように思えてならない。

 そして、最後の作品『あなたへ』の台本には、3.11大震災後、気仙沼市でがれきの中を唇をかみしめて水を運ぶ少年の写真が貼られていたらしい。この少年が象徴する大震災の被災者だって、いわば、被差別者なのである。

 この写真は、最後まで持っていたとのことなので、次の作品としてどんな映画を考えていたのかが、非常に興味深い。
 
 任侠映画のスター高倉健のイメージに相違して、小田剛一という人は、酒を飲まなかったらしい。コーヒーを飲みながら、夜を徹して映画のことを語ることもあったと、『昭和残侠伝』以来の付き合いがあり、『ホタル』や『あなたへ』の監督の降旗康男が回想している。

 その降旗康男のコメントによると、次回作は、『あなたへ』のスタッフによる、親子の物語の予定だったとのこと。

 私は勝手に、きっと3.11に関連する作品ではなかったか。それは、俳優高倉健の強い思いをもとに、震災による被差別者に捧げる映画であったに違いない、と思っている。

合掌
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by kogotokoubei | 2014-11-19 00:54 | 幸兵衛の独り言 | Comments(2)
昭和に作られた新作落語で、多くの噺家さんが演じることで古典となりつつあるネタは、いくつかある。

 上方落語で、その代表作の一つは、間違いなく『まめだ』だろう。
 「東京やなぎ句会」のメンバーでもあった三田純市が、桂米朝のために創作した噺だが、その直筆原稿が発見されたらしい。朝日の記事からご紹介。
朝日新聞の該当記事

落語名作「まめだ」の直筆原稿発見 桂米朝さんが初演
篠塚健一
2014年11月15日05時13分

 人間国宝の落語家桂米朝さん(89)が1966年に初演し、昭和生まれの古典落語となった「まめだ」の直筆原稿が見つかった。作家の故三田純市(みたじゅんいち、当時は純一)が同じ年に書いたとされる台本で、長らく行方がわからなかった。高座と比べることで、米朝さんの名演出ぶりも浮かび上がる貴重な資料だ。

 兵庫県尼崎市の米朝さん宅の資料整理を依頼されている小澤紘司さん(69)が9月18日に洋服箱の中にあるのを発見した。表紙に続き、400字詰め原稿用紙12枚にペンで記されている。銀杏(いちょう)の色づく秋の大阪・道頓堀界隈(かいわい)が舞台で、地元出身の三田が伝説に基づいて書いたと言われる。

 筋書きはこうだ。主人公の役者右三郎(うさぶろう)が帰宅中、イタズラをするまめだ(豆狸〈だぬき〉を指す大阪弁)をこらしめると、家の膏薬(こうやく)屋に見慣れぬ子が来ては貝殻に入った膏薬を買っていくようになった。その子が来ると売り上げに銀杏の葉が交じり、1銭足りない。やがて三津寺で体中に貝殻をつけたまめだの死骸が見つかる。右三郎は、まめだが化けていたことや膏薬のはり方がわからず命を落としたことを悟り、悔やむ——。

 高座に基づく「米朝落語全集 増補改訂版」(創元社)の「まめだ」と今回見つかった台本を比べると、米朝さんの施した繊細な工夫が読み取れる。

 物語の序盤、噺(はなし)の格調を高めるこの描写を入れた。

 「雨がしょぼしょぼ降ってきたんで、知り合いの芝居茶屋で傘を借りた。パラパラパラパラ番傘に雨の音。ええもんですなあ。時節はちょうど時雨の時期、秋です。人通りも、今のように賑(にぎ)やかなことはないんですが、太左衛門(たざえもん)橋を渡って、宗右衛門町(そえもんちょう)を通りすぎて、三津寺筋(みってらすじ)を西へとって……。カタカタ、カタカタと高下駄(たかげた)を履いて、雨の中を、借り傘をさして帰ってくる」

 主人公の右三郎が家に帰っていく場面。秋の美しい情景が目に浮かび、ぐっと季節感が深まる。一方、台本の記述は次のように淡々とつづられており、違った印象だ。

 「『降って来よったな。うっとしいな…秋口の雨というのはどうも陰気でいかんな』

 ボヤきながら太左ェ門橋を北へ渡って三津寺すじを西へ曲ります。なじみの芝居茶屋で借りた番傘を肩に心斎橋の手前まで来ますと」(原文のまま)

 三津寺の最後の場面も、巧妙に変えられていた。「サーッと風が吹いて銀杏の葉が一枚ヒラヒラとまめだの頭の所へ散りかかります」。それを見ていた右三郎の母親が「狸仲間から香典が届いた」というのが台本のサゲだ。

 米朝さんは「秋風がさーっと吹いてくる。銀杏の落葉が、はらはら、はらはら、はらはら、はらはらと、狸を埋(うず)めた上へ集まってきます」と幻想的に表現。さらにサゲを右三郎の言葉に変えて「お母はん、見てみ。……狸の仲間から、ぎょうさん香典が届いたがな」。悲しみの中にもより朗らかさを漂わせた。

 戦後、滅びかけた上方の古典に手を入れて再生してきた米朝さん。新作だった「まめだ」もまた、味のある原作に、米朝さん一流の名演出や脚色が加わってこそ、秋を描いたよき落語として今日まで引き継がれることになったのだろう。(篠塚健一)

  ◇

 〈三田純市(1923~94)〉 大阪・道頓堀の芝居茶屋に生まれた作家。著書「昭和上方笑芸史」で芸術選奨文部大臣賞。桂米朝さんや永六輔さんらとともに「東京やなぎ句会」のメンバーでもあった。


 なかなか良い出来事(?)だったと思う。しかし、当の米朝が再演するのは難しいだろうから、一門にぜひ継承していって欲しい。
 この噺、その一門の中で、もっとも米朝落語を正統に継承していると思われる桂米二が、三年前の内幸町ホールでの独演会で披露してくれたのを聴いている。
 
 落語愛好家仲間のYさんに誘われ、初めて米二の東京の会に行った際のネタの一つだった。
 その時の記事でも引用したが、米朝は、著書の中で、数少ない秋の噺としてこのネタを評価している。
2011年9月9日のブログ

 『米朝ばなし』(講談社文庫、昭和59年11月発行)からの引用。桂米朝著『米朝ばなし 上方落語地図』

 三田純市氏の新作で、十年余り前のものですが、道頓堀界隈に伝わる古いはなしをもとに作られたものです。だいたい東西ともに秋の落語が少ないので、三田さんのおかげで、非常にいい秋の落語が出来たことを、喜んでいます。


 そうなのだ。秋の噺は、意外に少ない。
 
 この噺は、三津寺(みってら)さんの銀杏の落ち葉、という季節感たっぷりな小道具が重要な役割を果たす。
 傘が急に重くなったのは、まめだの悪さのせいだろうと思った右三郎が、傘を差したままでトンボを切ったために地面にたたきつけられ傷を負った、まめだ。人間の子供に化けて銀杏の葉を金に変え、右三郎の母のところへ膏薬を買いに行く。膏薬の中身を紙や布に延ばして付けるべきところを、貝殻の容器に入ったまま体にべたべた付けていたため傷は治らず、残念ながら亡くなる。自分のせいで、まめだが亡くなったことに気付いた右三郎が弔ってあげようとしたところ、まめだの死骸の周囲に、三津寺さんの銀杏の落葉がたくさん落ちてきてた。
 それを見た右三郎が母に向かって、「お母はん、見てみ。……狸の仲間から、ぎょうさん香典が届いたがな」でサゲ。

 季節感といい、サゲの出来栄えといい、私は非常に良い噺だと思う。
 
 原稿発見を機に、米朝一門のみならず多くの上方の噺家さんに演じて欲しい旬のネタであり、できれば誰か東京の噺家さんにも東京版に改作して聴かせて欲しいと思う。東京の落語も、『目黒のさんま』のほかに、典型的な秋の噺というのは少ないのだよ。

p.s.
コメントでmyonさんから、露の新治も『まめだ』を演じるとの情報をいただいた。
後になって思い出したが、私が行けなかった9月21日(日)の内幸町ホールの独演会、三席のうちのひとつがこの噺だったのだ・・・・・・。落語愛好家の皆さんのブログを見て、悔しい思いをしたものだった。
そのうち、ぜひ聴きたいものである。
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by kogotokoubei | 2014-11-17 07:04 | 上方落語 | Comments(9)
一昨日、神田連雀亭つながりで池波正太郎の食べ物に関するエッセイについて書いたのだが、これらの本を読み返してみて、三十代で読んだ時とは、また別な楽しさを味わっている。
 言い換えると、味に関する味のある本(^^)は、その味が少しは分かるようになってから読むべきなのかもしれない。

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池波正太郎著『食卓の情景』(新潮文庫)
  『食卓の情景』 は、 「週刊朝日」の連載の書籍化。朝日新聞での発行が昭和48年。文庫初版は昭和55年。
 神田連雀亭に行く際に持参した三冊のうち一つ。
 しかし、この前の記事の中では、他の二冊からは引用をしたが、本書からの引用はしなかった。

 しかし、この本も大変良いのだ。
 池波正太郎の食べ物や飲食店に関するエッセイは、決して“グルメ”本などではない。
 もちろん、エッセイで紹介された店の中には、その後にフランスのタイヤ屋さんから☆をもらっていたりするが、それは池波正太郎の本意ではないに違いない。
 『食卓の情景』には、好みの店のことに限らず、自分の子供時代の食体験も回想されていて、なかなかに滋味深い文章だと思う。

 「子供のころ」という章から紹介したい。

 現代(いま)の子供たちは、食べるものが多すぎて、高価なショートケーキやカステラなどを眼の前に出されても、 
 「ふり向きもしない」
 そうである。
 親たちは、
 「たくさん食べて、健康に育ってもらいたい」
 という一心で、牛乳やらバターやら、肉やらを、食べなさい食べなさい、と、すすめる。
 ところが、都会の子たちは、はねまわって遊ぶ場所も得られず、さらに勉学の成績に親たちも学校も血眼となっているため、頭脳の中身はいろいろとつめこまれてふくれあがるが、一向に食欲が出ないのだそうな・・・・・・。
 むろん、日本のすべての子供たちが、そうだというわけでもあるまい。

 ところで・・・・・・。
 私のような、東京の下町の貧しい職人の家庭で育った者は、子供のころ、どのようなものを食べていたのだろうか。
 私の場合、七歳の折りに、浅草で飾り職人をしていた祖父母のもとへ引きとられ、やがて、再婚に破れた母が帰って来て、家族六人ほどで、月に三十円から三十五円ほどの生活費であったという。家は祖父のものであったから家賃の必要はなかった。
 先ず朝飯だが、熱い味噌汁に飯、香の物はおきまりとして、かならず焼海苔とか鉄火味噌とか、佃煮とかが膳に出ていたものである。
 私が学校へ持って行く弁当は、焼海苔を飯の間にはさんだ、いわゆる〔ノリベン〕というやつ。またはネギ入りの炒卵、または半ぺんのつけ焼。または焼豆腐を甘辛く煮しめたものであった。
 およそ、牛乳なぞ、口にしたことはない。
 「牛乳というものは、病気のときでなくてはのむものじゃあない」
 と、子供たちも考えていたし、親たちもそうおもっていた。また、のんでみても、すこしもうまくまかった。
 夕飯には、イカのつけ焼、肉の細切れを玉ネギとじゃがいもと共に煮たもの。アサリのお汁などで、たまには、マグロの刺身も出た。こうした惣菜のほかに、白和えとか、朝飯についていたようなものがならぶ。
 すこしおごろうというときは、母がデパートの食品売場で買って来たカツレツで〔カツ丼〕をつくったり、牛肉で白いシチューをつくったりした。
 私も弟も、とうてい上の学校へ行けずに、十三歳のとき世の中へ出て行ったほど貧しかったが、ただの一度も、ひもじいおもいをしたことはない。
 いつも腹いっぱいに食べ、そのころは、東京の町の何処にでもあった草原や空地や材木置場や石置場ではねまわり、喧嘩し合い、叫び、わめき、笑い、精気にみちあふれていたものである。
 これは、やはり母に感謝すべきなのであろうが、そのかわり私も弟も、これまで、ただの一度も病気にかかったことはない。
 老母は、
 「そのことが、なによりの親孝行だったよ」
 と、いまもしみじみという。


 まさに、“食卓の情景”である。
 子供の頃の池波正太郎の“ごちそう”が、どんなものだったか、よく分かる内容だ。 

 池波の食べ物に関する原点は、今ではなんとも珍しくなっているが、その頃は当り前の東京下町の朝夕の食事であり、当時、こづかいを握って駆けつけた屋台の“どんどん焼”である。そして、重要なのは、味のみならず、その“情景”なのだ。
 
 池波正太郎の食べ物の店に関する料簡、あるいは基準について知るのに恰好の逸話も、本書に紹介されている。

 「鮨」の章から、かつてよく通った銀座のある鮨屋に関するお話を引用。

 むかしから銀座にある、それと知られた鮨屋で〔○○鮨〕という店があり、私は以前から、よく通いもしたし、近ごろまで食べに出かけていた。新国劇の芝居を書いていたころには、稽古から初日、二日目と劇場(こや)へ通いつめる行き帰りに必ず寄って、鮨の〔松〕を注文し、白雪を二合のむのが習慣のようになってい、当時の本店は、椅子席のみの小さな構えであったが、数年前に店舗をコンクリート三階建てに拡張した。
 拡張した当時から二年ほどは、まだよかった。
 ところが去年の秋に、久しぶりで立寄って、例の〔松〕を注文したところ、鮨をにぎる若い職人が、前にすわっている若い女客ふたりを相手にしゃべりまくりながら、私の鮨をにぎりはじめた。
 一つ、にぎっては、
 「おねえちゃんたち、お休みの日にはどこへ遊びに行くの?」
 などと話しかけ、雲脂(ふけ)の落ちそうな長髪をかきあげ、また一つにぎる。
 私の鮨ができるまでに、二十分もかかってしまった。
 いま流行の〔まな板〕のかたちをした台の上へ鮨をならべて、手巻きの鉄火をつけたのはよいが、親指ほどのふといまぐろが飯からはみ出し、きたならしいことおびただしい。
 もったいないから半分ほどは食べようとおもったけれども、どうにも食べられなく、私は早そうに金をはらって外へ飛出してしまった。
 私はこれから、二度と、長年通った〔○○鮨〕へは足を運ばぬことだろう。


 こんな店には、私も行きたくないなぁ。しかし、この本が書かれた約40年前から比べ、こういう店は間違いなく増えるばかりだろう。
 このあとに、私が約30年前に読んで、その店に行くことになる京都の松鮨のことが書かれている。

 鮨屋の職人は、髪を短く刈って毎日よく洗い、手入れをし、髭もきれいに剃りあげ、鮨をにぎる手の指の爪をなめてもきたないとはおもえぬほどでなくてはならぬ。
 鮨といっしょににぎる魚や貝がやたらに大きく厚く、飯がすくなくて、まるで刺身でも食べているような鮨が、いま流行であるが、それは好き好きゆえ文句をつけるつもりはない。
 京都・三条小橋の小さな店の〔松鮨〕の鮨が、いまの私にはぴったりとくる。一時は、ここの鮨を食べたくて京へ出かけたこともあった。
 あるじは吉川松次郎。小柄な六十男だが、京都人の中には、〔奇人〕あつかいにする人もいる。
 だが、十余年前、ぶらりと、はじめて入ったときからいままで、私へのあるじのあつかいは少しもかわらぬ。他の客に対しても同様に物やわらかく、親切をきわめている。
 小さな店で、家族だけでやっているし、常客の絶え間がないから、私は午後三時ごろに出かけて行く。
 そして、ゆっくりと酒をのみ、鮨をつまむ。
 こうした頃あいを見はからってあらわれる中年の常客のひとりが、いつか私に、
 「松つぁんは、いのちがけで鮨をにぎっとるからねえ」
 しみじみと、ささやいたことがあった。
 にぎっているときのあるじの両眼は、たしかにするどい。
 全神経を張ってにぎっている感じがするときがある。
 にぎり終えて客の前に出すとき、あるじの顔に、ほっとした微笑が浮ぶ。

 
 松鮨の“情景”を知る池波にとって、銀座の某鮨屋の若い職人の姿は、とても直視に耐えられなかったと察する。
 私がこの本を読んで、越後から松鮨を訪ねた時は、すでに代が替わっていたが、その情景は、想像通りだった。

 あくまで、池波は、その店で味わう“食卓の情景”全体を評価する。
 味はもちろん、主人、女将、店の従業員などの全体が与える情景が大事なのだ。それが、池波の価値観からして、高くない、と思える店に通っていたのだと思う。
 この本には、そういった池波の好きな情景を見せてくれる店が紹介されている。もちろん、今では閉めている店も多いだろうが、グルメ本ではなく、どんな情景を良しとするか、その料簡、あるいは基準を知ることもできる好著なのだ。
 しかし、残っている店の中には、フランスのタイヤ屋の☆をもらった店もある。そういうお店にはそんな☆など断わって欲しいのだが、それは別の問題か。

 私は決して、グルメなどと言われる人間ではない。また、酒が入ると食べるものは少なくてもいいほうなのだが、その“情景”は気になる。

 主人、女将、従業員、そして、常連客などの全体から感じる“情景”の良い店は、やはり好きだ。そして、そういう店は、味も良く、決して法外な勘定書など差し出さない、はずなのである。

 しかし、そういう店を探し出すのは、なかなか骨が折れる。散歩のついでには、簡単に見つからない。だからこそ、池波正太郎のような達人の本のお世話になる。それは、達人が発見した‘情景’を、ぜひ自分でも体験したいからに他ならない。神田連雀町のいくつかの老舗などで、その情景に出会うことが楽しみでならない。
 しかし、池波が銀座の鮨屋で経験したように、その情景の変貌ぶりに落胆することもあるかもしれない。残念ながら、それも覚悟しなければならないのだろうと思う。
 寄席と一緒の感覚で、五人(軒)のうち一人(軒)でも、「聴いて(来て)良かった」と思えれば、上出来なのだと思っている。
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by kogotokoubei | 2014-11-15 10:40 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(2)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛