噺の話

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落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。

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「すき家」の多くの店で、深夜営業が休止になる。
時事ドットコムの該当記事

1167店は深夜営業休止=10月から、「ワンオペ」廃止−すき家

 ゼンショーホールディングス傘下の牛丼チェーン「すき家」は30日、10月から深夜の一人勤務「ワンオペ」を廃止するのに伴い、必要な人員を確保できない1167店で、一時的に深夜の営業を休止すると発表した。24時間営業を行ってきた店舗の6割超で、深夜0時から早朝5時まで店を閉めることになる。
 すき家は過酷な労働が問題となり、人手不足が深刻化。今年に入り休業店が多発していたため、営業体制を見直す。(2014/09/30-13:16)


 ブラック企業と言われることにつながる、深夜の過酷な労働環境が改善されることを、歓迎する。

 深夜と言えば、東京都が猪瀬の案で試行運転していた渋谷~六本木間の深夜バスも、10月末で終了とのこと。
 非常に結構なことだ。
 
 深夜は寝ましょう。

 もちろん、築地市場で働くなど、仕事の関係で昼夜が逆の人はいらっしゃる。

 しかし、圧倒的大多数の人は、朝起きて、昼間活動し、夜は寝るのであり、それが健康にも良い。

 深夜営業やバスの深夜運行は、従業員や運転手に決して良い職場環境をは言えないだろう。

 猪瀬や安倍が「特区」だとか何とか言って、自然に逆らうような施策をしようとすることは、お天道様が許さないのである。
 カジノだって、まったく必要ないだろう。

 コンビニだって24時間営業することで、従業員の過酷な労働と賃金の安さにつながっているのではなかろう。

 警察や病院などの他に、深夜でもどうしても必要なものって、本当にある?

 コンビニもファストフードも、企業が深夜に開けることでメリットを享受しているかもしれないけど、働く人たちには、ほとんど恩恵を被ることなく、健康を害しているだけではないのか・・・・・・。

 もう、「便利」であることを重要視するのはやめて、「安全」「健康」「環境」などを重要な言葉にしてはいかがだろうか。

 原発を稼動させたい政府が睨みをきかせているので、メディアは「節電」や「節約」を言わなくなった。

 暗くなったら、空を仰いで、月や星を愛でる生活を、多くの日本人は忘れてしまった。
 
 昨日の記事で書いたように、10月6日は、十三夜。

 文科省が、道徳教育や英語教育などを押しつけるのはご免だが、もし、家庭の電気を消して、これから満ちようとする月の明りを愛でるような運動でもするのなら、大いに結構。しかし、そんな風雅を理解する役人はいないだろうなぁ。

  葉まばらに柚子あらはるゝ後の月

 子規の句である。
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by kogotokoubei | 2014-09-30 06:29 | 幸兵衛の独り言 | Comments(4)
9月29日は、旧暦の9月6日。安政5年のこの日は歌川広重が旅立った日である。
 Wikipediaから引用。
Wikipedia「歌川広重」

歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)は、浮世絵師。本名安藤鉄蔵。江戸の定火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となった。かつては安藤広重(あんどう ひろしげ)とも呼ばれたが、安藤は本姓、広重は号であり、両者を組み合わせて呼ぶのは不適切で、広重自身もそう名乗ったことはない。また、ゴッホやモネなどの画家に影響を与え、世界的に著名な画家である。


 あくまで、歌川広重であって、安藤広重ではない。
 定火消しの家に生まれたんだぁ。
 正直なところ、広重については勉強不足。今回は、ある特定の作品を中心のお話。

 ゴッホが模写した作品の中に、先週金曜26日に柳家小満んで聴いた『牡丹燈籠』の舞台の一つである亀戸の梅の絵がある。

 あの噺では、萩原新三郎がお幇間医者である山本志丈と亀戸の臥龍梅を観に行った帰りに、志丈がお露の住む柳橋の寮(別荘)に新三郎を連れて行き、二人は運命の出会いとなった。

 亀戸の梅って、そんなに有名だったのか。

 Public Domain Museum Of Artの歌川広重「名所江戸百景」から、「亀戸梅屋舗」をお借りした。
Public Domain Museum Of Artサイトの該当ページ

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 「臥龍梅」の由来について、亀戸梅屋敷のサイトからご紹介。
 なお、現在の亀戸梅屋敷は、亀戸に点在する商店街の有志の方たちにより建設され、昨年から運営されているらしい。

亀戸梅屋敷サイトの該当ページ

江戸時代、亀戸には呉服商・伊勢屋(いせや)彦右衛門(ひこうえもん)の別荘「清香庵(せいきょうあん)」があり、
その庭には見事な梅の木々が生えていました。

立春の頃になると江戸中から人々が北十間川や竪川を舟でやってきて、この地はたいそう賑わったといいます。

特に、庭園のなかを数十丈(150m)にわたり枝が地中に入ったり出たりする一本の梅が名高く、評判を聞きつけこの地を訪れた水戸光圀は、まるで竜が臥せているようであると感嘆し、その木に「臥竜梅(がりゅうばい)」の名を与えました。また、八代将軍・徳川吉宗は、一旦土に入った枝が、再び地上に這い出る様を生命の循環になぞらえ、「世継(よつ)ぎの梅(うめ)」と命名し賞賛したそうです。



 水戸光圀、そして徳川吉宗も愛でた梅なのだなぁ。

 梅屋敷のサイトには、歌川広重の浮世絵のことも、もちろん紹介されている。

「亀戸梅屋敷(かめいどうめやしき)」の名で人気を博したこの梅の名所は、多くの浮世絵で題材となっていますが、なかでも浮世絵師・歌川広重(うたがわひろしげ)が安政三年(1857年)に描いた『名所江戸百景(めいしょえどひゃっけい)』の「亀戸梅屋敷」は、江戸の時代に海を越え、かのフィンセント・ファン・ゴッホが模写(作品名「日本趣味 : 梅の花」/1887年)するなど、日本のみならず世界から評価された傑作と言えるでしょう。

粋な江戸っ子たちを魅了し、その名を世界に知らしめた「亀戸梅屋敷」。

当時の如き賑わいの場として、そして、江戸/下町/亀戸の粋な歴史と文化を世界へ発信する拠点として、当館を「亀戸梅屋敷」と名付けました。


 亀戸の商店の方々が、自分たちの住む街の歴史をしっかり継承するために造られたのが、梅屋敷ということなのだろう。

 では、ゴッホの模写と並べてみよう。(Wkipediaより)

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 左が広重、右がゴッホ。


 梅は春だが、亀戸梅屋敷では、10月8日、旧暦の9月15日の満月の日に、月見の会を催すらしい。
亀戸梅屋敷サイトの該当ページ

2014.09.19
10月8日は梅屋敷でお月見をどうぞ!
秋の夜長に亀戸梅屋敷では「お月見の夕べ」を
開催します。お琴を聴きながら和菓子をどうぞ。

日時:10月8日(水)18:00~21:00

・広場にてお琴の音色でお茶会を楽しんで下さい。
・和菓子が付いて 500円です。(前売り券450円)
・雨天の場合は 、館内となります。
・屋台フードやソフトドリンク、お酒も販売致します。

お問い合わせ:亀戸梅屋敷 03-6802-9550
(月曜日 定休日(休日の場合は、火曜日))



 実は、8日の二日前6日が旧暦9月13日で「十三夜」なんだけどね。
 別名、「後の月(のちのつき)」(中秋の名月の後、だから)、あるいは「豆名月」「栗名月」。

 中秋の名月は旧暦8月15日で、今年は9月8日だった。この行事は中国由来で、中国では国民の祝日。家族集まって月餅を食べる風習がある。しかし、十三夜は日本独自の風習。

 まぁ、これから満ちて行く月を観るのも良し、真ん丸お月様を観て一杯呑むのも、また良し。(酒飲みの屁理屈^^)

 私としては、亀戸でのデモ→「牡丹燈籠」亀戸の梅→歌川広重の浮世絵、という連想ゲームでの記事であった。

 10月8日の月見の会、私は行けそうにないので、我が家からの月見で一杯やろう!
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by kogotokoubei | 2014-09-29 06:10 | 今日は何の日 | Comments(4)
宇沢弘文さんが、亡くなられた。47NEWSの該当記事

経済学者の宇沢弘文氏死去 理論経済第一人者、環境でも活動

 日本の理論経済学の第一人者で東大名誉教授の宇沢弘文(うざわ・ひろふみ)氏が18日午前4時49分、肺炎のため東京都内の自宅で死去した。86歳。鳥取県出身。葬儀・告別式は近親者で執り行った。喪主は妻浩子(ひろこ)さん。

 経済成長のメカニズムに関する理論を確立し、「宇沢モデル」として世界的に知られた。1983年文化功労者、97年に文化勲章。

 行動する経済学者として有名で、環境問題でも積極的に活動した。成長重視の日本社会を批判し、自動車公害の構造を分析した「自動車の社会的費用」(74年)はロングセラーになった。成田空港問題では対話路線に導く調停役を務めた。

2014/09/26 10:21 【共同通信】



 昨年から今年にかけて、『社会的共通資本』や『経済学は人びとを幸福にできるか』の引用を中心に何度か記事を書いてきた。ご興味のある方はご覧のほどを。

2013年4月17日のブログ
2013年4月23日のブログ
2013年12月13日のブログ
2014年1月6日のブログ
2014年1月10日のブログ

 「TPPを考える国民会議」の代表世話人の一人でもあった宇沢さん。
「TPPを考える国民会議」サイトのメンバーのページ
 一貫して市場原理主義に反対してきた硬骨の経済学者だからこそ、多くのメンバーを束ねることができたのだろう。

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宇沢弘文著『経済学は人びとを幸福にできるか』(東洋経済新報社)

 以前も紹介したが、『経済学は人びとを幸福にできるか』から引用したい。

第二章から、講演後の質疑の内容を引用。

質問  たいへん貴重なお話、ありがとうございました。近年、日本でも
    グローバル化の影響、具体的には失業の増加や賃金の低下が
    議論になっています。その辺についてコメントをお願いします。
宇沢  グローバリズムという考え方自体が、じつは市場原理主義のいち
   ばん重要な武器だったわけです。
    つまり、市場原理主義というのは、法律を変えてでも儲ける機会を
   つくるということなんですね。それを貫くという考え方をグローバ
   リズムと言うわけです。それぞれの国は、歴史的な、慣行的ないろ
   いろな制度を、雇用でも、あるいは経済取引でももっております。
   それをいっさい無視し、いっさい取り払って、そして設ける機会をできる
   だけ大きくしようということです。これが市場原理主義の考え方です。
    市場原理主義は、これはフリードマンに代表されるんですけれども、
   (自由主義を守るためには)水素爆弾を使ってもいいということを
   大きな声で主張していました。それが『ニューヨーク・タイムズ』に出て、
   (フリードマンと同じシカゴ大学にいた)私たちは非常に迷惑したことも
   あるんです。



 このフリードマンの“水素爆弾”のことは、第一章の講演の中からご紹介しよう。

 話は戻りますけれども、64年に私はシカゴに戻りました。ちょうど大統領選挙の最中で、ジョンソン(民主党)とゴールドウォーター(共和党)の二人が争っていました。

 私がシカゴに着いたころ、ゴールドウォーターがヴェトナム戦争に水素爆弾を使えと主張したのですが、ミルトン・フリードマンがゴールドウォーターを弁護してこう言ったのです。ヴェトナムに水素爆弾を落とせば何百万人死ぬかわからない。しかし、それは自由主義を守るために当然だと。そのときフリードマンの言った有名な言葉が残っています。
 “One communist is too many!”(共産主義者なんぞ一人でも多すぎる)
 ゴールドウォーターやフリードマンの言う自由主義というのは、もっぱら企業の自由です。それを守るために何百万人の生命も惜しくない。このゴールドウォーターの主張に対して、アメリカだけでなく、世界中からきびしい非難と批判が起こった。ゴールドウォーターは政治家ですから、その主張を取り下げました。
 あるときフリードマンがゴールドウォーターの選挙陣営に呼ばれて、アドバイスをしたことがあります。帰ってくるなり、“Goldwater is the man.Compared with him, Richard Nixon is a communist.”(ゴールドウォーターこそリーダーにふさわしい。彼に比べればリチャード・ニクソンなど共産主義者のようなものだ)と言って歩いていました。私たちは(シカゴ大学の同僚として)ほんとうに恥ずかしい思いをしたものです。



 宇沢弘文さんは、市場原理主義のみならず、戦争への強い嫌悪感もあった。言い替えれば市場原理主義の延長線上にある戦争肯定主義への抵抗だった。

 また、宇沢さんは、教育について次のように指摘している。
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宇沢弘文著『社会的共通資本』(岩波新書)
 宇沢弘文著『社会的共通資本』(岩波新書、2000年初版)の「第4章 学校教育を考える」から引用したい。
 

教育とは何か 
 教育とは、一人一人の子どもがもっている多様な先天的、後天的資質をできるだけ生かし、その能力をできるだけ伸ばし、発展させ、実り多い、幸福な人生をおくることができる一人の人間として成長することをたすけるものである。そのとき、ある特定の国家的、宗教的、人種的、階級的、ないしは経済的イデオロギーにもとづいて子どもを教育するようなことがあってはならない。教育の目的はあくまでも、一人一人の子どもが立派な一人の社会的人間として成長して、個人的に幸福な、そして実り多い人生をおくることができるように成長することをたすけるものだからである。


 今、教育再生実行会議とやらがやろうとしていることは、著者が「あってはならない」と指摘する中の、“経済的イデオロギー”にもとづいて教育しようとする試みと言ってよいだろう。宇沢さんの主張は、道徳や英語の授業を国が押し付けることに真っ向から反対するものだ。

 86歳で旅立った、日本が誇れる経済学者の遺志を、残された者は継がなければならないと思う。

 合掌。
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by kogotokoubei | 2014-09-28 06:45 | 幸兵衛の独り言 | Comments(0)
7月に初めてだった関内での小満んの会に、また行くことができた。時期的に、何かと野暮用が多く行けるかどうかは、ほぼ半々の状況だったのだが、前日になんとかメドがつき良かった。
 関内ホールに着くと、なんと上の大ホールでは桂文珍の会。へぇ、一杯にできるのかなぁ、などと思いながら地下一階の小ホールへ。開口一番には間に合わなかった。居残り会で出演者を確認したのだが、緑太『弥次郎』のサゲ近くの様子がモニターに映し出されているのをロビーで見ながら、コンビニで仕入れたおにぎりを急いでパクついて、緑太が下がったところで入場。

 小満んの三席について記す。入りは六~七割くらいだっただろうか。

柳家小満ん『粗忽長屋』 (16分 *18:48~)
 粗忽者のマクラの中で、「粗忽な方が、間違って文珍さんの方に行ってしまったりして・・・」で会場が沸く。間違わないよ^^
 半鐘に頭を突っ込む粗忽者や、「赤(犬)出て行け!」を「かかぁ出て行け!」と間違える粗忽者同士の、小さんや志ん生が懐かしい小咄、パイプを持ちながら「パイプがないよ!」と探す二人目の師匠小さん由来の楽しい小咄など5分ほどのマクラの後に本編に入ったから、ネタ自体は10分ほどだったことになる。しかし、流石の高座。
 八五郎を、やや強面に造型しているが、ボンヤリしている熊五郎との対比が明瞭で結構だった。片方がマメでそそっかしく、もう片方が不精でそそっかしい、という違いが二人の会話を際立たせる。『長短』ほどの差をつけてはいけないが、程よい演じ分けは、若手ではなかなか出来ない。志ん生の演じる八五郎は、それほど強面とは思えない。やはり小さんの芸を継いでいると思って聴いていた。
 熊五郎が八五郎に「死骸を取りに行くんだよ」と言われ、「これが私ですなんて・・・今さら決まりが悪い」などの科白も頗る楽しい。会場はご通家ばかりと思しくツボを皆さんわきまえていて、笑い声が同じタイミングで重なる。
 世話人的な男が熊五郎に向かって行き倒れを「見なきゃだめだよ」と言われ、「なまじ死に目に会わねえほうが・・・」などの科白でも客席が一緒に沸く。
 サゲ近く、熊五郎が自分の死体を見ながら、「こんなことになるんだったら夕ンべ(吉原に)ひやかしじゃなくて、上がるンだった」は独自の工夫だろうか、なかなか良いと思う。
 この後に長講があるので、あっさりとだが、しっかりとした佳作、という印象。

柳家小満『牡丹燈篭・お札はがし』 (47分)
 志ん生の音源では、分けて話している二回目に相当。志ん生が地に近い説明として語る場面の前半部分の萩原新三郎とお露の出会い、お幇間(たいこ)医者の山本志丈と一緒に亀戸の臥龍梅を観に行った帰り、柳島のお露の寮(別荘)を訪ねる件もしっかり演じた。

 私は亀戸にデモに参加するために行ったが、そのうち梅見にも行かなきゃ^^

 お露は新三郎があまりに美男子なので、「ブルブル~ッと震えた」。女性は男前に会うと震えるようで、と志ん生と同じように、「私も以前に高座に上がると、前のほうの女性が、ブルブルーッと震えまして・・・」で笑いが起こったが、志ん生は「はばかりへ行っちゃった」で謎を明かすが、小満んは、「クーラーが効き過ぎたようで」と替えていた。
 志丈が新三郎とお露に盃を交わさせる。お露が女中のお米に言われて、新三郎が厠を出てから柄杓で水をかけてやるのだが、新三郎を見ることができず、水があちこちへ。新三郎が手を動かして、という場面で笑いをとる。
 さて、お露が持っていった手拭いの上から新三郎がお露の手を握り・・・・・・二人は相思相愛であることを確認。
 二人は手を「握りっぱなし・・・忙しくなった鮨屋さんのようで」が可笑しい。
 お互いに、お米じゃないが、ひとめぼれ、ってえことか。

 小満んは、「秋波を送る」ことに、少し解説を加えた。
  左眼の女はくどくべし 右眼の女はくどくべからず
 という格言(?)があるらしい。左眼での流し目には惚れて良いが、右はダメらしい。へぇ。

  さて、この初対面が二月。志ん生の『お札はがし』では、新三郎がお露に会いたくてしょうがなく、夢で、手伝いをさせている伴蔵と釣に行った帰りに柳島の寮に立ち寄る場面がある。もちろん、原作にもある筋。
 しかし、最初の出会いを語っているから小満んは夢を挟まなかったが、それもやむなし。
 新三郎は、お露に会いたくてたまらないのだが、一人で行くのは厚かましいと思い、志丈が来るのを待つのだが、なかなか来ない。早や時は過ぎて六月も半ば、ようやく志丈がやって来た。しかし、なんとお露が、新三郎に恋焦がれて死に、看病疲れで、お米も後を追ったとのこと。

 そして、盆七月十三日の夜がやって来る。駒下駄の音が「カラ~ン、コロ~ン」と・・・・・・。
 この場面、青空文庫から、圓朝の原作を引用したい。青空文庫『怪談牡丹燈籠』

今日しも盆の十三日なれば精霊棚(しょうりょうだな)の支度(したく)などを致してしまい、縁側へちょっと敷物を敷き、蚊遣(かやり)を薫(くゆ)らして、新三郎は白地の浴衣(ゆかた)を着、深草形(ふかくさがた)の団扇(うちわ)を片手に蚊を払いながら、冴(さ)え渡る十三日の月を眺めていますと、カラコン/\と珍らしく下駄の音をさせて生垣(いけがき)の外を通るものがあるから、不図見れば、先(さ)きへ立ったのは年頃三十位の大丸髷(おおまるまげ)の人柄のよい年増(としま)にて、其の頃流行(はや)った縮緬細工(ちりめんざいく)の牡丹(ぼたん)芍薬(しゃくやく)などの花の附いた灯籠を提(さ)げ、其の後(あと)から十七八とも思われる娘が、髪は文金(ぶんきん)の高髷(たかまげ)に結い、着物は秋草色染(あきくさいろぞめ)の振袖(ふりそで)に、緋縮緬(ひぢりめん)の長襦袢(ながじゅばん)に繻子(しゅす)の帯をしどけなく締め、上方風(かみがたふう)の塗柄(ぬりえ)の団扇(うちわ)を持って、ぱたり/\と通る姿を、月影に透(すか)し見るに、何(ど)うも飯島の娘お露のようだから、新三郎は伸び上(あが)り、首を差し延べて向うを見ると、向うの女も立止まり、
女「まア不思議じゃアございませんか、萩原さま」
 と云われて新三郎もそれと気が付き、
新「おや、お米さん、まアどうして」


 あら、下駄の音は、「カラコンカラコン」か。高座では圓朝も「カラ~ン、コロ~ン」と演ったのかどうかは、分からない。

 もちろん、この二人は、お露とお米の幽霊。この日から七日の間、毎夜二人は新三郎を訪れ、お露よ新三郎は、蚊帳の仲で・・・小満んの言葉を借りるなら「漆のごとく、膠のごとく」離れない。
 この後を含め、原作を知りたい方は、青空文庫を。また、この長編の全体の概要や人物相関図などは、昨年、『名人長二』について書いた際も参考にさせていただきた、「はなしの名どころ」サイトに詳しいので、ぜひご確認のほどを。
「はなしの名どころ」サイトの該当ページ
 『お札はがし』という題名ながら、志ん生の音源も、小満んの高座も、お札はがしに至る直前でサゲている。志ん生は、「牡丹灯篭、抜き読みでございます」で高座を降りるが、なるほど、である。
 さて、小満んの高座だが、いつもにも増して言いよどみが多く、決して良い出来とは言えなかった。しかし、この方の持ち味がもっと別にあることは、三席目、トリネタで実証された。

柳家小満ん『寝床』 (26分 *~20:30)
 仲入り後は、最初の師匠文楽譲りのこの噺。マクラでは、この日に重なり行くことの出来なかった新橋演舞場の邦楽の「銀座くらま会」のこと。いつも案内をもらい、早めに行くとありつける木村屋のパンが美味しいらしい^^
 マクラも短めに本編へ。
 流石である。二席目に比べて対照的な流れるような口調。
 茂蔵が回った長屋は、登場順に次の通り。順番も含めて師匠文楽と同じ。
   ①提灯屋 ②金物屋 ③吉田の家 ④小間物屋 ⑤豆腐屋 ⑥棟梁
 使用人の仮病の中で、“亀どんの鬱病”、というのが可笑しい。もちろん、師匠版にはない^^
 茂蔵が長屋から誰も来ないことを各家庭ごとに詳細に理由を語った後、旦那が「茂蔵、おまえいくつになった。四十、五十と重箱みたいに年を重ねやがって」で、会場から一斉に笑いが起こる。
 番頭が、怒って部屋に引っ込んだ旦那に、気を取り直して義太夫を語って欲しいと頼む場面が圧巻だ。
 途中からは旦那一人で会話を表現するが、怒っていた顔の表情がだんだん笑顔になる過程が、頗る楽しい。
 分かっていても、おだてられると嬉しいのが人間、ということだ。番頭の説得実り、「みんなも、好きだね~」の旦那の笑顔が実に良い。
 挙句に豆腐屋がよいしょするもんだから、「一段だけ」と番頭に言っていたのに、「たっぷりやりましょう」、となる^^
 長屋の面々の、「うまく風がおさまったようだね」「まるで火事だね」というあたりのテンポの良い掛け合いも楽しい。
 高田さんは子供を連れて来て、「あらお子さんまで?!」の声に、「今から忍耐力をつけるため連れてきました」は可笑しかった。
 きっちり八時半でサゲた高座、文句なく今年のマイベスト十席候補としたい。

 終演後は、我らが居残り会のリーダー佐平次さんと、拙ブログにコメントをいただいたことをご縁に知り合うことになったKさんとの三人で居残り会。
 佐平次さんの居酒屋探しの鼻は、この日も大いに効いていた。
 関内で39年になるというお店で、カツオ、サンマの刺身、コハダなど出された肴は大変美味だった。三人の落語談義も大いに盛り上がり、つい酒のピッチが上がった。
 お開きとなり、電車に乗ったのはいいのだが、乗り換えなければならない大和駅を寝ていて乗り越してしまった。相模大塚から、また大和に戻る時点で日付変更線を超えていた。
 帰って湯を浴びて、爆睡。
 
 それにしても、最初の師匠文楽の十八番、二人目の師匠小さん十八番、そして志ん生や圓生で有名な圓朝の怪談噺と、味わいの違う三席を聴かせてくれた小満ん、昭和17年生まれ72歳は、まだまだ健在である。

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これが、次回の案内。なんとか駆けつけたいと思っている。
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by kogotokoubei | 2014-09-27 10:35 | 落語会 | Comments(4)
9月25日は、玉川 スミ師匠の命日。
 このブログは、いつもは敬称略なのだが、この方には“師匠”をつけたい。

 大正9(1920)年7月17日生まれで、2年前、平成24( 2012)年9月25日に満92歳で旅立たれた。

 2010年のNHK戦争特集番組の「戦場の漫才師たち~わらわし隊の戦争~」を見て記事を書いた。
2010年8月11日のブログ

 あの番組で玉川スミ師匠がどうおっしゃっていたか、以前の自分の記事から、喜味こいしさん、森光子さんのことも含めて引用したい。

 NHKの番組では、この慰問団のこと、そして慰問団「わらわし隊」のスーパースターであったミス・ワカナのことを、生き残られた数少ない当時の兵士の方々への取材で振り返るとともに、芸能人からは、今年で83歳になる喜味こいしさん、そして共に今年90歳になる森光子さん、玉川スミさんが当時の回想を貴重な映像として残してくれた。
 喜味こいしさんは当時を振り返り、有無を言わせず慰問団に順番に派遣されていく先輩達の顔を見ると、「これが最後か・・・・・・」という万感の思いだった、と語る。
 玉川スミさんが、いまだに艶やかな舞台を勤めた後で、たぶん滅多に口にされないはずの、残酷な戦争という名の殺人シーンを回顧された言葉は、胸に重く突き刺さる。
 そして、ミス・ワカナに可愛がってもらい、舞台『おもろい女』でワカナを演じた森光子さん。正直な感想として、この番組を見ながら、「森さんの遺言か・・・・・・」という思いが募った。彼女が語る戦争体験とワカナへの思慕、結果として伝わる強烈な反戦の主張。演技ではない、人間“森光子”として語り残したいことを振り絞っている、という印象を強く受けた。


 4年前のブログだ。このお三方とも、旅立たれた。

 さて、湿っぽい話は、ご本人もお嫌いだろうから、その芸について、少し書きたい。
 私は生でスミ師匠の芸に触れたことは、一度だけ。しかし、テレビではよく拝見したし、その芸が好きだった。
 
 
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 昭和63年に出版された、「The DODOITSU おスミの艶歌記念日 愛のメッセージ」(博美館出版)という本が手元にある。この本、都々逸を少しは知りたいと思って古書店で買ったのだが、実に良いのだ。

 いくつか紹介したい。都々逸の後に、スミ師匠の味のあるコメントがある。( )の中がそれ。
 まず、 「おスミの 人間“ラブ”を忘れちゃおしまいですよ」の章から。

   ぬしとわたしは 玉子の仲よ
        わたしゃ白味で きみを抱く
       
          (いやっ、ヒヨコができちゃう!)

 いいでしょう!

 この章から、もう一つ。

   ぬしとわたしは 羽織の紐よ
        かたく結んで 胸におく
      
         (今のヤングは羽織の紐も結べない)
  

 次に、「おスミの 棹をさしたい流されてみたい!」の章より。

   私しゃお前に 火事場のまとい
        ふられながらも 熱くなる
 
         (しっかり水をぶっかけておやりよ) 

   枕出せとは つれない言葉
        そばにある膝 しりながら
 
         (文句いわず、枕を二つ出せばよい) 


 こういった都々逸が、た~くさん収録されている。

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 裏表紙(いわゆる表4)にあるプロフィールをご紹介。

ご存知、高座の人気者、三味線漫談の第一人者。1920年福島県郡山市在で生まれる。女流歌舞伎「市川牡丹一座」曾我廼家五九郎劇団の子役を振出しに、漫才界で活躍、のちに三味線漫談でユニークな芸風を確立、昭和46年芸術祭優秀賞受賞。現在寄席・ラジオ・テレビで人気を博している。


 くどいようだが、この本、昭和63(1988)年発行。スミ師匠68歳のときだ。その時から、四半世紀近く、現役として寄席に出演された。

 この本には、ところどころに「おスミのひと言」というコラムがあり、昭和46年の芸術祭受賞について、このような述懐がある。

おスミのひと言
 昭和46年(1971)「松づくし」の演技で、芸術祭優秀賞を受賞。その受賞パーティーで、司会者に促され、謝辞を述べる段になって、必死に涙をこらえていた私はとうとうたまらずにいいました。
「みなさん、ちょっと泣かせてください」
 集まった人たちは、わたしが泣き終わるまでただだまって待っていてくれました・・・・・・いまでも感謝しています。


 読んでいるこっちの目が潤んでくる。

 浪曲師であった父の影響で天才少女浪曲師として初舞台を踏んだのが3歳。14歳までに13回親が替わるという少女時代を経て、歌舞伎、新派や幅広い寄席の芸を修得し、51歳で芸術祭優秀賞を受賞した時に、こみあげるものがあったに違いない。

 この本、都々逸坊扇歌などの都々逸や扇歌が影響を受けた「よしこの節」、都々逸の元祖とも言われる「神戸節(こうどぶし)」なども巻末には掲載されており、都々逸好きには、たまりません。

 玉川スミ師匠の三味線と都々逸を含む俗曲の芸は、現役の小菊、小円歌、そして桧山 うめ吉などにも伝わっているのだと思う。しかし、あの何ともいえない三味線漫談の芸は、スミ師匠でしかありえない。

 もちろん、スミ師匠の前に、俗曲の歴史をつくった二人の先輩の存在も大きい。

 柳家三亀松 明治34(1901)年9月1日~昭和43(1968)年1月20日
 都家かつ江 明治42(1909)年3月5日~昭和58(1983)年9月29日

 そして、三大巨匠の最後のスミ師匠が、二年前・・・・・・。

 玉川スミ師匠の三回忌、都々逸の良さ楽しさとともに、偉大な寄席芸人のことを思う日でもあった。
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by kogotokoubei | 2014-09-25 18:38 | 今日は何の日 | Comments(9)
昨日23日の朝、あまりにも天気が良いので(?)、亀戸に出かけることにした。

 昨夜は、帰宅し一杯やったらウトウトしたのだった。

 それにしても、新聞もテレビもほとんど昨日のデモを無視しているなぁ。

 代々木公園から亀戸中央公園に場所を替えた、「さようなら原発1000万人アクション」実行委員会主催の集会とデモに参加したのである。

 全体のプログラムをサイトから紹介。
さようなら原発1000万人アクション

11:00 ブース開店
      第二ステージ ライブ&トーク 開始
       司会:菱山南帆子(許すな!憲法改悪・市民連絡会)
ゼロノミクマ
       桃梨&制服向上委員会
       島キクジロウ&NO NUKES RIGHTS
   
       小野有五(北海道大学名誉教授)
       パク・ヘリョン(韓国・脱原発新聞共同代表)
       チェ・スーシン(台湾・台湾緑色公民行動連盟事務局長)
       若泉政人(もう動かすな原発福井県民署名実行委員会共同代表)
       河合弘之(脱原発弁護団全国連絡会共同代表)
       村上達也(元東海村村長)
12:20 第二ステージ ライブ&トーク 終了

12:20 第一ステージ ライブ
       エセタイマーズ

13:00 第一ステージ トーク開始
       司会:木内みどり(女優)
       鎌田慧
       内橋克人
       澤地久枝
       大江健三郎
       大石又七(第五福竜丸元乗組員)
       向原祥隆(反原発・かごしまネット代表)
       橋本あき(原発いらない福島の女たち)
       古今亭菊千代(落語家)
       パク・ヘリョン(韓国・脱原発新聞共同代表)
       チェ・スーシン(台湾・台湾緑色公民行動連盟事務局長)
       広瀬隆(作家)
       落合恵子

       デモ出しライブ
14:15  第一ステージ 
        李政美
第二ステージ 
        ジンタらムータWITHリクルマイ&The K



 田園都市線~半蔵門線にて錦糸町へ。少し駅周辺を散策し、JRにてお隣駅の亀戸へ。

 着いたのが11時頃。ビラを配っている方に道を聞いたが、まずはラーメン屋で腹ごしらえ。

 公演につくと、さまざなま団体や個人の方がビラを配る中を第一ステージへ向かう。

 ライブの音合わせをやっていた。バンドのファンなのだろうか、ステージ前に立つ人垣が五十名ほど。

 エセタイマーズというバンドのライブが木内みどりの紹介で12時10分頃に始まった。
 後で調べたら、以前、忌野清志郎似(?)のメンバーを含むタイマーズというプロテストソング・バンドがあったらしい。今年のフジロックにも出演したようだ。

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 ご覧のような状態で、末広亭の手拭を敷いて座っている身からは、ステージは見えない^^

 四人組のプロテストソング・バンド、ということなのだろう。次のような曲を披露。元の歌があり、その曲に反戦、反原発的な詩を乗せている。元歌を記す。

 (1)エセタイマーズのテーマ(元歌:モンキーズのテーマ)
 (2)イマジン(ジョン・レノン、清志郎版かな)
 (3)デイ・ドリーム・ビリーバー(モンキーズ)
 (4)サマータイムブルース(清志郎版?)
 (5)青空(ブルーハーツだよね)
 (6)今日を生きよう(テンププターズの、シャーラーララララー、です)
 (7)Hove You Ever Seen The Rain?{雨を見たかい」(もちろんCCR)
 (8)エセタイマーズのテーマ

 懐かしい曲をベースにしているので、結構年配の方も聴いていたように思う。

 私は大好きなCCR(Creedence Clearwater Revival)で締めてくれたので、嬉しいよ。
 トークの締めで落合恵子がこの曲の雨は「劣化ウラン弾」と説明したが、実際はベトナム戦争で米軍が落としたナパーム弾のこと・・・と言われている。
 ただし、同じCCRの「Who'll Stop The Rain」の雨はナパーム弾のことを指しているが、「雨を見たかい」の雨は、晴れて虹が出ているのに降る雨のこととジョンが後で言っているので、できれば、「Who'll Stop The Rain」を今後は歌って欲しいと思う。CCRフリークとして、あえて助言です。

 反原発、反戦と唱えると客が激減する、とエセタイマーズのメンバーが言っていたが、こういう若手のプロテストソング・バンドには頑張って欲しい。

 さて、ライブがお開きとなり、一時からトークの開始。感想などを記したい。 

 なお、出席予定だった内橋克人が欠席。

 木内みどりの司会で、まず鎌田慧が、決起表明的な挨拶。昭和13(1938)年生まれだから、古今亭志ん朝と同じ年。今年で76歳だが、お若い。さすが、原発に関するルポルタージュの第一人者である。しっかりしている。

 次に、車椅子で壇上に上がられたのが、大石又七第五福竜丸元乗組員。80歳。用意した原稿を読上げたが、「ビキニ環礁ではヒロシマの1000倍もの放射能が撒き散らされた」「原爆も原発も放射能は同じ」「水中に放出された放射能は何倍にも濃縮され魚が口にする。それを食べている」「内部被曝で多くの同僚が犠牲になった」「原発を推進した政治家が勲章をもらっている」「原発はやめなければならい」などの言葉が、胸に突き刺さる。

 次は「原発いらない福島の女たち」の橋本あき。この人の普段着での言葉が、何とも新鮮だった。「私がこんなところで話しているようでは世も末です」と言う言葉には会場から笑いが起こったが、こういう人の発言こそ大事なのだと思う。原発事故の後、いろんな勉強会を開催し、田中正造の精神を学びたいとおっしゃる。見習わねば。

 続いて、「反原発・かごしまネット」代表の向原(むこはら)祥隆。なるほど、鹿児島県知事選に出馬しただけあって、弁が立つ。川内原発30kim圏内の町を一戸づつ訪問して、原発反対の署名を集めたとのこと。鹿児島県民は決して川内原発の再稼動を許さない、の声は力強い。次の日曜28日には鹿児島でデモを行うらしい。残念ながら私は行けないが、成功を祈りたい。
 
 お次は、広瀬隆。昭和18(1943)年生まれだから、71歳だが、元気だ。元は編集者だったという向原を再度ステージに上げて紹介し、県知事選に出て、65対35の勝負、あともう少しだったと説明。
 安倍政権と反原発運動において、「われわれの方が圧倒的に勝っている」「もうじき電力の自由化になることは決まっており、安倍政権は焦っている」「安倍がやっていることは、人事だけ。原子力規制委員会に田中、NHKの籾井など」「止まっている原発も、火力発電の電力を大量に使用して冷やさなければならない」 「原発がなくても、十分生活できている」「国道6号線を開通させたが、計測によっては6μシーベルトから20μシーベルト、国民を殺そうとしている」などなど、歯切れのよい言葉が続く。
 時間が超過しそうになり司会の木内みどりから合図を受けるまで、広瀬節健在を見せてくれた。

 次に会場を和やかにしてくれたのが、古今亭菊千代だった。カンパのお願いが目的だったが、この後で、澤地久枝に日傘を持って行くなど、気配りも含め、この人は落語界代表として存在感を示したよ。

 韓国からのゲスト、パク・ヘリョンは、韓国政府が2035年まで41期の原発設置計画があり、日本の皆さんと一緒に反対活動を続けたい、と訴えた。もちろん、韓国の原発に事故があれば、日本への影響は避けれれない。放射能に国境も海も関係はない。

 大江健三郎登場。恩師である渡辺一夫のこと、関連して中野重治のことが印象的だった。特に、中野の言葉として、「もっともあさはかなオプチミストが戦争をしかけたがるのなら、我々ペシミストは断固としてそれを防がねばならない」が印象的だった。最後の方は、原稿の文章の場所を探して、ややあたふたしていたが、昭和10(1935)年生まれ、79歳のノーベル賞受賞者の存在は、この運動には欠かせないと思う。

 続いて澤地久枝。この人は昭和5(1930)年生まれだから、84歳だ。気丈だね。しかし、「安倍晋三に原発廃止を言わせたい」という主張は、いかがなものか。替えなきゃ無理ではなかろうか。

 「台湾・台湾緑色公民行動連盟」事務局長のチェ・スーシンが登場。台湾の反原発運動では、2013年に22万人デモを実施したとのこと。5万人が道路に寝そべったデモにより、政府の新期原発計画を撤回させたことも含め、非常に刺激的な内容。
 それにしても、韓国も台湾も、二人とも女性だった。アジアの女性は強し、である。

 トークの締めは、落合恵子。あのレモンちゃんが、なんともたくましい闘士になったものだ。流石の弁舌で、「私たちxxxxxxであることを知っています」と、品のあるアジテーション。CCRのことは、ディスクジョッキー時代にもちろん知っているわけで、「私、昔そういう仕事してました」で、あの声を聞きながら受験勉強をしていた私などは少し、うるっときたぞ^^
 
 ほぼ予定時間の2時半。木内みどりから、1万6千人が集まったと報告。

 デモまでは、少し時間がありそうだ。日陰にいたら、なぜか東京新聞の取材を受けた。来た理由や持論を少し言って氏名と年齢、住んでいる場所まで聞かれたが、今日の東京新聞には載っていなかった^^

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 デモ出発前の様子だが、幟の数の多さで分かるように、各地域の労組や日教組の組織、反原発の組織の動員が主体で、何らそういった組織に所属しない私など、どうやってデモに参加したよいのやら分からない。学生時代のデモとは勝手が違う。

 司会の木内みどりも、私のような一人の市民に対する案内をしていなかったように思う。

 煙草を吸っていたら、「湘北教組」の腕章をした方がいたので、お聞きすると私の住まいを含む地域の教職員組合の先生だったので、一般市民だが一緒に歩かせて欲しいとい言ったらご快諾いただいた。その先生のお話では、「一般の方なら、我々より早く出発できるはずですが」とおっしゃるが、前の方でテレビや新聞に顔が出るのは恥ずかしい^^

 3時過ぎに出発。とはいえ、亀戸公園を出るま約2時間は牛歩状態・・・・・・。公演を出て、亀戸駅から錦糸町駅を超えてデモ行進。
 先導車から「シュプレヒコール」と掛け声がああり、その声に従って、「原発はいらない」「川内原発再稼動は許さないぞ」「もんじゅも廃炉にしろ」「核燃料サイクル計画反対」(これが言いにくい^^)「安心・安全な生活を守ろう」「放射能はいらない」「子供を放射能から守ろう」などと訴えながら、大横川親水公園で解散するまでほぼ1時間半。

 先生方と飲んでいこうかとも一瞬思ったが、決して錦糸町から家まで、近くはない。

 6時頃に錦糸町から半蔵門線で帰途についた。

 デモに参加した実感として、労組や日教組の動員は重要だが、いわゆる一般市民の参加を増やす工夫が欲しい。

 どの組織にも属さない市民のために会場の窓口をつくって欲しいと思う。
 ほとんどがデモに参加するのは初めてで、要領が分からないために来ない人もいるのではなかろうか。

 天気も良く、ハイキング気分で参加できるような集会だったことを考えると、集会・デモについて知らないために不安があって来なかった人たちが多いだろうと思うと、残念である。

 もちろん、実行委員会は、警察への諸届けやら、会場手配やら、各組織への連絡やら、大変な準備が必要なのは百も承知。特に今回は代々木公演から会場を変更して大変だったと思う。でも、あえて言うならば、集会・デモの垣根を低くすることでもっと一般市民の参加は増えると思う。
 人それぞれの生活は、いろいろとある。仕事も家庭の用事も、スポーツや趣味、通院や介護などなど。そういった繁忙な予定をなんとか調整してまでも一般市民に参加を誘引する魅力をどうつくっていくか。

 古今亭菊千代だけでなく、その集会のイベントでしかありえない落語家の組合せで噺を聴かせてくれる、などの演出があってもおかしくはない。
 制服向上委員会が出店を出していたが、いわゆるアイドルで、勇気をもって「原発反対」を唱え、トークに参加する人がいても不思議ではないだろう。

 少し古いアメリカのことだが、ジェーン・フォンダ、ジョーン・バエズ、そしてブルース・スプリングスティーン、そしてCCRなどを思い出す。日本でだってエセタイマーズのみならず、音楽や芸能の世界の人気者がトークに参加したり、ライブやサイン会を行うなどで、もっと動員は増えるはずだ。忌野清志郎が生きていれば、と思わないわけにはいかない。

 この集会の主催者が1000万人の署名を目指すように、今、必要なのは、安倍政権の暴挙を阻む、国民の声の「数」なのだ。

 デモにしろ署名にしろ、組織に属さない市民の参加もなければ、反原発という目的を果たせないのではなかろうか。

 トークで登場した方々にはご高齢者が多いし、参加者の方にも数多く見かけた。
 しかし、反原発は長~く継続的な戦いであり、ある意味で日常的な活動でなければならないと思う。

 親子連れ、若者をどれだけ反原発、反戦の合言葉で動員できるか、そこに日本の将来はかかっているような気がする。

 私はデモ解散の際、実に心地よい疲労感を味わった。

 そこに行く楽しみがあって、気軽に参加できる安心と安全性があり、大新聞はもちろんどのテレビ局も無視できない規模の、多くの一般市民を含む何十万という参加者による集会・デモが開催されるならば、そこに自分もいたいと思う。
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by kogotokoubei | 2014-09-24 05:47 | ある日の行動記録 | Comments(4)
昨日9月21日は古今亭志ん生の命日だったが、志ん生のことは、何度か書いているので今年はお休み。
 昨年、一昨年の記事にご興味のある方は、ご覧のほどを。
2013年9月21日のブログ
2012年9月21日のブログ

 落語家ではないが、9月22日はアメリカの作曲家、作詞家として本国では大変有名なアーヴィング・バーリンの命日。

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Irving Berlin(1911年ニューヨークにて、英語版Wikipediaより)

 1888年5月11日生まれで、 1989年9月22日に満101歳の長寿を全うした。

 Wikipediaの日本語版と英語版を比べれば、この人のアメリカでの評価が分かろうというもの。
Wikipedia「アーヴィング・バーリン」
Wikipedia'Irving Berlin'

 日本語版から、生い立ちとデビューを引用。

生い立ち
ロシア帝国のモギリョフ(現在のベラルーシ領マヒリョウ)近郊で、父親がラビを務める敬虔なユダヤ教徒の一家に生まれた。誕生時の名前はイスロエル・イジドル・ベイリン(イディッシュ語表記: ישראל איזדור ביילין、ロシア語表記: Израиль Исидор Бейлин、英語表記: Israel Isidore Baline)であった。5歳の時に家族とともにアメリカのニューヨークに移住するものの、移住した3年後に父親が死去したため、新聞売りや靴磨きなど様々な職を転々とする。

デビュー
後にニューヨーク、マンハッタンのチャイナタウンのカフェのウェイター兼専属歌手になり、カフェで歌うための曲を自作するようになる。その後ボードヴィルの舞台に自ら上がってもいる。1911年作曲の『アレキサンダーズ・ラグタイム・バンド』のヒットで名声を確立、これをきっかけに本格的にショーの世界に入り込み、多くのミュージカル楽曲の作詞、作曲を行う。



 上の写真は『アレキサンダーズ・ラグタイム・バンド』がヒットした頃なのだろう。
 
 "Israel Baline"が本名なのだが、1907年に初めて"Marie From Sunny Italy"を世に出した時、カバーに"I. Berlin"とミスプリントされてしまい、それを機に"Irving Berlin"と改名してしまったと言われている。


 Wikipediaの英語版から代表曲を拾ってみる。

"Alexander's Ragtime Band" (1911)
"What'll I Do?" (1924)
"Always" (1925)
"Blue Skies" (1926)
"Marie" (1929)
"Puttin' on the Ritz" (1930)
"God Bless America" (1938)
"I've Got My Love to Keep Me Warm" (1937)
"God Bless America" (1938)
"Annie Get Your Gun" (1946)
"White Christmas" (1942)

 "God Bless America"'は、いまやアメリカ第二の国歌と言えるのではなかろうか。
 ロシア生まれの亡命ユダヤ人一家の子供がこの歌をつくったというのは、アメリカという国を知る上で象徴的なことのように思う。

 "Annie Get Your Gun"は、もちろん「アニーよ銃を取れ」だ。

 "White Christmas"を、知らない人はいないでしょう。

 この他にも名曲はたくさんあって、たとえば 'SAYONARA'がある。
 これは、ナンシー梅木がアカデミー助演女優賞を獲得した映画「SAYONARA」の主題歌。1957年の朝鮮戦争当時のアメリカ兵と日本人女性の恋を描いた、知る人ぞ知る映画。

 他に、私の好きな、'How Deep Is the Ocean?'という曲がある。
 
 与世山澄子という日本の女性ジャズボーカリストを小三治が褒めていたのをお聞きになり、我らが居残り会のリーダー佐平次さんが入手された彼女のデビューアルバム「Introducing」をお借りして聴き、感心した。
 遅ればせながら、マル・ウォルドロンと共演した「With Mal」を買ったのだが、その中に"How Deep Is the Ocean?"が含まれており、これがまたいいのだよ。

 Wikipediaの'How Deep Is The Ocean?'(英語版)を見ると、1933年のBing Crosbyから、2014年のBarbra Streisandまで、実に多くのシンガーやジャズ演奏家がこの曲をレコーディングしていることを知ることができる。
Wikipedia'How Deep Is The Ocean?'
 
 英語版WikipediaのIrving Berlinでは、「Audios」の欄にあるこの歌は、1932年に発表されたのだが、映画やミュージカルからのヒット・ソングではない。ラジオで Paul Whiteman and His Orchestra による演奏、 Jack Fulton のヴォーカルによってヒットし、その後に映画の挿入曲になったことにもより、数多くの演奏家や歌い手さんが取上げるようになった。

 詩をご紹介。この疑問形の固まりのような詩も、アーヴィング・バーリンによるものだ。
 私のつたない訳を挟む。この歌は、数年前に生まれて間もなく亡くした息子に捧げるものだ、という考察もあるが、私の訳は女性から愛する男性へのメッセージと想定した。

How Deep Is the Ocean?
/Irving Berlin

How much do I love you?
I'll tell you no lie
How deep is the ocean?
How high is the sky?

 どれほどあなたを愛しているか分かる?
 私は嘘は言わないわ
 どれほど海が深いか分かる?
 どれほど空が高いか分かる?

How many times a day do I think of you?
How many roses are sprinkled with dew?

 一日にどれほどあなたを想うか分かる?
 どれほどのバラが露に濡れているか分かる?

How far would I travel
To be where you are?
How far is the journey
From here to a star?

 あなたのいる場所に来るために、どれほど長い旅を
 してきたか分かる?
 星までの旅がどれほど遠いか分かる?

And if I ever lost you, how much would I cry?
How deep is the ocean?
How high is the sky?

 あなたを失ったなら、どれほど涙を流すか分かる?
 どれほど海が深いか分かる?
 どれほど空が高いか分かる?

How far would I travel
To be where you are?
How far is the journey
From here to a star?

 あなたのいる場所に来るために、どれほど長い旅を
 してきたか分かる?
 星までの旅がどれほど遠いか分かる?

And if I ever lost you, how much would I cry?
How deep is the ocean?
How high is the sky?
How high is the sky?
 
 あなたを失ったなら、どれほど涙を流すか分かる?
 どれほど海が深いか分かる?
 どれほど空が高いか分かる?
 どれほど空が高いか分かる?


 'I'll tell you no lie'以外は、すべて疑問文、という歌詞。

 訳が稚拙なのだが、この歌の訴えることが少しでも伝われば、幸い・・・・・・。 
 もちろん、男性から愛する女性へのメッセージととらえても結構。

 バーリンの亡き子供へ贈る歌としても、不思議はない。
 アーヴィング・バーリン、42歳の時の作品。愛する人へ、その想いの深さを伝える優れた曲だと思う。

 与世山澄子ももちろんいいし、他にも与世山が私淑するビリー・ホリディや、エラ・フィッツジェラルドなど女性ジャズボーカリストの大御所が歌っているのだが、男性陣を代表して、フランク・シナトラでお聴きのほどを。


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by kogotokoubei | 2014-09-22 00:35 | 今日は何の日 | Comments(7)
 拙ブログにいただくコメントで、何人かの落語愛好家の方から、落語芸術協会の二ツ目三笑亭夢吉が良い、とお知らせいただいていたので、ぜひ聴きたいと思っていた。ようやく、オフィスエムズさんが不定期に開いている一之輔との二人会に行くことができた。

 二月以来らしい。会場は七割ほどの入りだったろうか。また、石井さんを発見^^

 次のような構成だった。
----------------------------
(開口一番 古今亭今いち『芋俵』)
春風亭一之輔 長いマクラ&『寄合酒』
三笑亭夢吉   『佐野山』
(仲入り)
三笑亭夢吉   『よいよい蕎麦』
春風亭一之輔 『子は鎹』
----------------------------

古今亭今いち『芋俵』 (13分 *19:04~)
 去年3月、池袋演芸場で寿輔の傑作『ラーメン屋』を聴いた時の開口一番以来。あの時よりは噛まなくなった。声が大きいのは結構なのだが、ほとんど抑揚がないので、ずっと怒鳴りっぱなしという印象。元気さは買うが、そろそろ登場人物の気持ちになって科白を言う努力も必要だろう。それにしても今輔が弟子をとるとはなぁ。

春風亭一之輔 長いマクラ&『寄合酒』 (28分)
 今いちが高座に釈台を設置。「あれっ、一之輔が講釈もの?」と不思議に思ったが、袴姿で少し足をひきずって登場して合点。
 長いマクラ(約13分)で、顛末を説明。運動不足なのでジムに行ったが入会二日目(11日)に張り切りすぎて膝を故障。翌日には曲がらなくなったとのこと。医者に行き半月板が問題とのことでMRIを受けたが少し反っているだけで、注射を打ってもらったようだ。ようやく昨日からなんとか正座はできるようになったが、大事をとって尻の下に敷物をしているとのこと。
 鈴本の楽屋では、結構先輩噺家に「一龍斎!」などとイジられているらしい^^
 入会する際の逸話や医者との問答、MRIの様子などを面白おかしく話す。ジムのインストラクターのおネエちゃんに、「あと30分は出来そうですね!」などと乗せられ「俺に惚れてるな」と思って頑張った、などと話をふくらませてたっぷりなマクラだったので、短いこの噺。
 鯛→干鱈→鰹節→数の子→味噌。与太郎が持って来た味噌を包んでいたのが朝日新聞、というくすぐりは、なかなか秀逸。寄席で鍛えられている噺家は、こういうネタでもしっかり会場を沸かせる。久し振りの一之輔、体調万全とは、もちろん言えないが、その芸は健在だった。

三笑亭夢吉『佐野山』 (33分)
 袴姿で登場し、「出来るだけ衣裳も被らないように思い袴にしたが、まさか一之輔兄さんも袴だったとは」と切り出した。怪我のことは今日知ったらしい。楽屋では詳しく聞かなかったので、脇で聞いていきさつがよく分かったと続ける。
 とにかく明るい。そして、口調が滑らか。スピード感もある。冒頭から並の噺家ではないことが分かる。
 相撲が好きで国技館に昼から行っていたらしいから、居残り会のYさんとは話が合いそうだ^^
 11分ほどのマクラから、「今から22分30秒」と言って本編に入った。講談の題は『谷風の情け相撲』というネタを、楽しく聴かせた。佐野山の貧乏の程度を、「びぃ~」と言えば、横から「棒がびゅ~ん」と飛んでくるほどの貧乏、といったクスグリもあったが、ほとんど基本の型。呼び出しの声色も結構。勝負の後、佐野山のタニマチである青物市場の旦那が、使用人に「旦那、佐野山が勝ったら百両でも二百両でもやる、って約束してましたね」と聞かれた時の落胆ぶりも可笑しい。
 いわゆる投纏頭(なげばな)の説明も丁寧。投纏頭とは、客が力士に投げる金のことなのだが、夢吉は贔屓の力士が勝ったあと、客が着物を力士に投げつけるのは、後で着物を祝儀と交換するから、との解説。この人、相撲のことよく知っているねぇ。好きだからか勉強家だからか。
 勝負の後、佐野山がこれを機に引退することを谷風に告げに行く場面を含めた好演。本人は「26分50秒かかってしまいました」とか言っていたが、宣言通りの時間だった。きっと時計の長針を読み間違ったのだろう。まったくダレなかったよ。

三笑亭夢吉『よいよい蕎麦』 (31分)
 仲入り後、着替えて登場。新潟は新発田の出身であり、「東京に憧れた」と語る。私も新潟市に一年、長岡に六年いたから、あの“裏日本”の冬を知っている者として共感できる面はある。
 本編に相応しい自分なりのマクラから、実に珍しい噺に入った。聴くのは初だ。

 夢吉の噺を思い出し、、日頃よく参照している「落語あらすじ事典 千字寄席」で補完しながら粗筋を書く。「落語あらすじ事典 千字寄席」サイトの該当ページ
 前提は、田舎者が、あまりにも物ごとを知らない、ということ。

(1)田舎者の二人組登場
 田舎者の二人が、江戸に出てきた。片方が「腹が減って、もう歩けない」と街道でへたり込んでしまったので、相棒が食糧を仕入れに街に出る。
(2)菓子屋~たどん
 菓子屋で頓珍漢な会話をした後、炭屋で「たどん」がひと山五銭と安いので、食べ物と勘違いし、着物の袖口に入れてもらって相棒の元に戻る。たどんを石で割って食べるが、うまいはずがない。
(3)蕎麦屋でバタバタ
 再び歩き出し蕎麦屋に入る。もりを出されたが食べ方が分からない。あまりに蕎麦が長いので、梯子を出してもらい一人が蕎麦一本を上に上に箸で持ち上げ、それを寝そべった相棒に食べさせとうとする。まるで、二階から目薬状態。この場面のドタバタが一つの笑いの山。
(4)江戸っ子登場
 粋な江戸っ子がやってきて、もりを勢いよくかっこむ。しかし、蕎麦つゆの猪口に、あぶら虫(千字寄席では、釘)が入っていた。
 千字寄席の方を元に、江戸っ子の啖呵は、こんな感じ。
 「おい若い衆、そばの中に釘ィ入れて売るわけでもあるめえ。
 危ねえじゃねぇか。よく気ィつけろいっ。」
 店の若い衆が、さかんに詫びる。
 「もうxxxx」
 と代金を置いて威勢良く帰って行った。
(5)蕎麦屋の若い衆の嘘
 この様子を見ていた田舎者の二人。何が起こったのかよく分からないのだが、最後の威勢のいい啖呵が気になって、店の若い衆に聞く。彼は、この田舎者が今の騒動の実態を知らず、江戸の言葉が分からないことをいいことに、「実は、蕎麦が旨かったとお褒めいただきました。最後の言葉のよいよいとは、江戸で流行っている重ね言葉の褒め言葉です」と嘘をつく。
  さて、この言葉、夢吉は「唐変木」としていた。江戸っ子が、「この唐変木!」と言って怒って帰って行ったのを店の若い衆に聞くことになる。唐変木が、江戸で流行っている褒め言葉、という設定。
(6)芝居小屋~サゲ
 蕎麦屋を出て、田舎者は芝居小屋へ。舞台に五人並んだ真ん中の役者が見事なので、「こりゃあ、褒めねばなんねぇ」と「よぉ、真ん中、唐変木!」と声をかける。それを聞いた他の客が、「何を言いやがる。あの役者は名人だ。おめぇ達の方が、唐変木でぃ」と叱られるのだが、田舎者の二人、「あら、おらたちも、褒められた」でサゲ。
 原話は、もちろん中風を意味する「よいよい」。この言葉は、のろまな人間などへの蔑称でもある。子供の頃、大人たちが老人などを見て、「よいよいだね」、などと言っていた。
 だから、田舎者が名優を指して、大声で「よいよい役者!」などと言えば、周囲にいた贔屓の客は怒るよなぁ。

 夢吉の高座は、菓子屋での店員と田舎者との可笑しな会話(「(饅頭の)中、あんだって?」「・・・ええ、餡です!」の繰り返しなど)、蕎麦屋で田舎者二人が一人は立ち上がり、片方が寝そべり蕎麦を食べようとするアクロバティックな演技、芝居小屋での弾け方など、なかなかに結構。
 ネットで事前に知っていたのだが、四年前の5月の落語研究会(503回)でこの噺を披露した時は、「よいよい」のままで演じていたようだ。放送禁止用語のようで、落語愛好会の方のブログによると、夢吉は「放送できるんですか」と聞いたら、「二ツ目は、まず放送されませんからご安心を」と言われたとのこと^^

 噺によっては、サゲが通じないとか、自分で気に入らないなどで工夫することは、もちろんある。

 この噺、三遊亭圓窓は、あの五百噺の489番目のネタとしているが、「よいよい」を「べらぼう」に替えている。
 名古屋の落語愛好家の方々が、圓窓の五百噺を名古屋のお寺で聴く会が十年以上前にあったようで、圓窓五百噺のサイトに、その記録や感想を記録しているページがある。『べらぼう蕎麦』のあった会を含むページがこちらだ。
「圓窓五百噺を聴く会」の該当ページ
 その中で、次のように説明されている。

この落語、元は[よいよい蕎麦]と言った。”よいよい”とは中風のことで、差別用語にあたるようなので、それを圓窓師匠は[べらぼう蕎麦]と改めた。


 そうなると、夢吉のこのネタ、『唐変木蕎麦』となる・・・・・・。

 初代円右や三代目の小圓朝、六代目の文治なども演じていたらしい。「わせだ寄席」で昭和42年第19回に四代目三遊亭圓遊が演じた記録がある。
「わせだ寄席」のサイトの該当ページ
 この噺、やはり演目として、『よいよい蕎麦』として継承して欲しいし、さげも、「よいよい」でよいじゃないか。
 めくら、つんぼ、よいよい・・・・・・テレビやラジオを真似て、大衆芸能の世界が自主規制的に“言葉狩り”をするのは感心しない。戦中の「禁演落語」を思い出す。噺家にとって、伝統的な言葉そのものが、商売道具ではないのか。
 せっかくの夢吉の熱演なのだが、サゲの改作にだけは疑問を持った。しかし、圓窓だって替えているのだよね。
 きっかけが落語研究会で京須氏の指定なのかどうかは知らないが、ぜひ夢吉には、今後も継承して欲しいネタだ。

春風亭一之輔『子は鎹』 (35分 *~21:26)
 今いちが、再び釈台を出してから登場。マクラなしで本編へ。
 この噺は、十八番の一つと言ってよいのだろう。
 ちなみに、国立演芸場を含む、一人真打昇進披露興行でのネタは次の通り。
 □五回(1):茶の湯
 □四回(3):百川、子は鎹、粗忽の釘
 □三回(4):欠伸指南、初天神、明烏、らくだ
 □二回(6):短命(長命)、不動坊、長屋の花見、花見の仇討、青菜、藪入り
 □一回(10)):竹の水仙、雛鍔、くしゃみ講釈、鈴ケ森、蛙茶番、代脈、大山詣り、
        鰻の幇間、へっつい幽霊、五人廻し

 この噺がどれだけ好きか、分かろうというものだ。熊が亀と出会った時の親子の会話は、あえて泣かそうとはしないのだが、じわ~っとくる味がある。そして泣かせの場面、亀が母親から五十銭のことで玄翁(金槌じゃないよ)で打たれそうになり、「お父ちゃんから貰ったンだい」と白状した後に、からっと場面展開して「お父ちゃんって言ったら、せり出してきた」と湿っぽい流れを即座に乾かす技術なども巧みだ。
 しかし、釈台付きの一之輔は、やはり体調が万全ではなかったように思うし、やりにくさもあっただろう。釈台があるために、手の仕草がどうしてもぎこちない。これは生身の人間である以上は仕方がないことで、後日あらためて一之輔の元気な高座に期待しよう。


 初めての夢吉、なるほど評判通りだったと満足した。まだまだ聴かなきゃならない噺家さんが、た~くさんいるのだよ。
 落語芸術協会の二ツ目の香盤から考えると来年は真打昇進だろう。こういう若手に出会えるのが、落語愛好家の楽しさの一つであることは間違いがない。
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by kogotokoubei | 2014-09-20 08:09 | 落語会 | Comments(6)
末広亭で三十三回忌追善興行が開催されていることでもあり、本の中の馬生を知ることなどにより、十代目馬生を偲びたい。

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石井徹也・編著『十代目 金原亭馬生 -噺と酒と江戸の粋』(小学館)
 本書は、落語会や寄席でよくお見かけする石井徹也さんによる。この本の著者プロフィール欄を見て、石井さんが1956年生まれで私より年下であることに驚いたことを思い出す。2010年5月18日発行。

目次をご紹介。

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十代目金原亭馬生~まえがき、そしてあとがきにかえて

一 酸いも甘いも金原亭馬生
   —金原亭馬生一門話 その一 (昭和四十年代)雲助・馬生・朝馬
二 何で師匠が好きかといえば
  —席亭から見た金原亭 新宿末廣亭・北村幾夫
三 不思議の国、馬生家
  —父として子として 中尾彬・池波志乃
四 教えの基本は「綺麗と汚い」
  —金原亭馬生一門話 その二 (昭和三十~四十年代前半)伯楽・今松・駒三
五 亡くなった師匠に、さよならのチュー
  —金沢の馬生を語る 岡部三郎
六 十八番はあえて作らず
  —馬生の主要演目鼎談 雲助・馬生・石井徹也
七 あの夜の料簡—立川談志インタヴュー
八 先代馬生の亡くなった日
  —昭和五十七年九月十三日の池袋演芸場
終わりに~十代目金原亭馬生自筆エッセイ・川柳
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 15日の末広亭の記事の最後にも紹介したが、三年前の命日に、この本の引用を含め馬生について書いたので、ご興味のある方はご覧のほどを。
2011年9月13日のブログ

 実は、私が行った15日、座談会の後の抽選会で、石井さんも抽選に当たり、誰かの手拭か色紙をもらっていた。入場の際にもらうプログラムに当りの印(○やら△など)があれば、噺家さんの手拭や、中尾彬の色紙などがもらえる仕組み。私は今回も含め、そういうものに当たったためしがない。

 石井さんは、命日13日に席亭である湯島での古金亭で中尾・池波夫妻も招待して特別興行をしているし、本書を書いているなど、ほとんど馬生一門の身内のような方ではないかと思うのだが、やはりいただけるものはいただくのだなぁ^^

 ここからは、「馬生」と書くのは十代目のことで、十一代目には頭に当代と付けることにする。

  第一章の雲助・当代馬生・朝馬の対談も楽しいことは楽しい。馬生の名を誰が継ぐか、という時のことなども書かれているが、馬生という人を知るには、古参の弟子三人の対談の方が得難い内容を含んでいるように思う。

 15日の末広亭での座談会でも話題になった馬生の口癖、「何でもいいんだよ」について、第四章の伯楽、今松、駒三の対談から引用。この部分は三年前の記事でも紹介したが、馬生のことを語る場合は重要なのでお許しのほどを。以前より長めに引用する。

「何でもいいんだよ」の真意

駒三 とにかく、物事を押し付けないというか、非常に淡白ですね。
    弟子に対しても淡白。
今松 ウチの師匠の有名な言葉といえば、「何でもいいんだよ」
    だから、ね。
伯楽 最後は「何でも」だけになっちゃったけどさ、オレはちゃんと
   真意を聞いてたよ。
   「いいかい、酒の肴として海鼠腸(このわた)が出る。ホヤが出る。
    人によっては“こんな不味いものはねぇや”と思う人がいる。
    でも、それを食って旨いと感じる人もいる。“一品料理”として
    出せればいいんだ。
    お客様相手なんだから、喜ぶお客様がいて、“一品料理”として
    出せるものなら、芸でも、どんなもんでもいいんだ」そういう
   意味で「何でもいいんだよ」と言ってたんだよ、ウチの師匠は。
   それは親父の志ん生師匠の教えもあったと思う。志ん生は
   言ってた訳でしょ。
   「芸なんて、年に三、四回しか出来ないよ。寄席のお客は遊びに
    きてんだから。遊ばせなきゃダメだよ」
   そういう意味で、とにかく「笑わせる」ということを大切にして、
   特に寄席では結構笑いの多いものを演っていたね。
   また、ウチの師匠は人間的に「いい人」だったからね。非常に
   真面目な人だった。
駒三 優しいしね。



 なかなか“一品料理”になるのは難しい。“逸品料理”なら、なおさらだ。

 「いい人」「優しい人」という印象も、他の弟子にも共通の思いだったに違いない。
 
 「何でもいいんだよ」の精神は、師匠、古今亭志ん生から継いだものだという伯楽の指摘は同感だ。

 対談しているこの三人について、落語協会のプロフィールも参照して少し書きたい。

 伯楽は、昭和14(1939)年、横浜の生まれ。志ん朝の一つ下であり、交流も深かったようで、志ん朝に関する本や昭和53年の落語協会の騒動についての本なども書いている。昭和36(1961)年4月の入門で、前座名を桂太。テレビなどにも出演し、結構人気者だった。昭和48(1973)年に真打昇進。昭和55(1980)年に伯楽に改名。
 少し古くなるが、NHKテレビ「日本の話芸」で、この人の『唐茄子屋政談』を見て、高座の後の回想部分が印象に残ったので記事を書いたことがある。入門した頃、大師匠志ん生の芸にも接したことが大きな財産になっているようだ。ご興味のある方はご覧のほどを。
2010年7月17日のブログ

 次に金原亭駒三。昭和24(1949)年生まれで、佐賀の出身。昭和42(1967)年2月に入門。真打昇進は、今松や、入門で一年後の雲助より一年遅れて昭和57(1982)年。15日の末広亭で初めて聴いたが、見た目や口調などが先代文楽に、少し似ている。私は、この人の枯れた味のある高座、結構好きだ。雲助の著書(『雲助、悪名一代』)によると、彼が入門のため馬生宅を初めて訪れた際に応対したのが、この人だったらしい。

 むかし家今松は昭和20(1945)年10月、松戸の生まれ。昭和40(1965)年1月、19歳での入門。昭和56(1981)年3月の真打昇進。 今や、その淡々とした中にも味わい深い芸風には、熱狂的とも言える固定ファンがついており、その中の一人といえる居残り会仲間のYさんから私も教えられて好きになり、暮の末広亭下席に行くことが年中行事化している。雲助の本によると彼が入門した時の指導係的な役割を演じたらしい。だから、真打昇進では雲助と同期になるが、入門で三年先輩であり、馬生の弟子としての共有体験なども含め、心理的には伯楽、駒三などに近いものがあると思う。だからこそ、この三人の対談となったのだろう。

 さて、その三人の対談からの引用を続ける。

家庭を愛した珍しい(?)師匠

伯楽 師匠が「家庭を大事にする人」でしたから、いい家族
   だったよね。
駒三 おかみさん中心に回ってました。モメたりとか、そういう
  覚えはないですね。
伯楽 師匠はおかみさんに惚れてたしさ、おかみさんも
  「お父ちゃん、お父ちゃん」と言って相思相愛。
  あれは珍しいよ。
駒三 いわゆる「芸人のウチ」の雰囲気とは、違ってましたね。
  子供さん連れてプールへ行ったりして。
伯楽 オレが思うに、師匠が直ぐ家に帰りたがったのは、他所
  で飯を食うのが好きじゃないから。おかみさんの料理が上手
  だった。
駒三 ほんと、料理は美味しかったですね。
今松 外で師匠が何か食べるでしょ。「あそこのあれは旨かったよ」、
  帰ってからそう言うと、おかみさんが後で店に食べにいって
  研究してくる。
伯楽 それで店の味を取っちゃう。
今松 それくらいおかみさんは料理に長けてましたよ。
駒三 それで、弟子も師匠も食べるのは同じものですからね。
伯楽 斜め前の志ん生師匠のところの弟子は、ウチの料理を
  見ながら、「旨そうなコロッケ食ってやがる」とか、羨ましそうに
  さあ(笑)。
  美津子お姉さんなんかも、ウンと貧しく育ってるから、乾麺を
  茹でると、「茹でたお湯は勿体ない。醤油を足してツユにして
  食べなさい」と言うんだって。
  「これが旨くねェ」って、志ん駒さん、今でも言ってるよ(笑)。
今松 凄いねェ!それは初めて聞きました。


 馬生家と志ん生家の食卓は、相当に違いがあったようだ^^

 雲助も著書で、美津子姉さんが結婚した時、空いた志ん生宅の二階の部屋に馬生一家が住むことになり、志ん生家の食事を味わった(?)ことを書いている。冬場は餅、夏場は素麺がほとんどだったようだ。なんせ、びんぼうを自慢する本がある位だから、食べられるだけで結構、ということだったのだろう。
 食べるのが精一杯、その苦しい時代を十分に経験したからこそ、馬生は弟子にもしっかり旨いものを食べさせたかったと察する。唐茄子屋政談の徳じゃないが、ひもじいのは耐えられない^^

 それにしても、馬生に関して語られる、朝から飲む酒(実はビール小瓶)や、ほとんど食べないで酒を飲む、などの晩年の姿からは、どちらかと言うと昔ながらの芸人のイメージを想起させるので、これだけ家庭を大事にする人だったことに意外な印象を受けないでもない。

 家庭を大事にする馬生、本名美濃部清は、父、美濃部孝蔵を反面教師としている部分が少なくなかったと思う。

 私は、美濃部清という男と十代目金原亭馬生という噺家との間にどんな葛藤があったかと思わないではいられない。
 あるいは、父親である美濃部孝蔵、そして五代目古今亭志ん生に対してどのような思いの変遷があったかとも思う。

 昭和3年生まれで、予科練を志していたが、体調が悪く断念。腸の病気による大手術を経験し退院後、昭和17(1942)年8月に、父に入門。当時落語家の人数が少なかったことや、志ん生が戦争に行かせたくなかったという理由もあったのだろう、最初から二ツ目での落語家人生が始まった。
 敗色濃厚な昭和20(1945)年4月に、父・志ん生が満州慰問に出て、昭和22(1947)年1月に戻るまでの二年近くを、美濃部家の屋台骨を支える苦労は並大抵ではなかっただろう。

 志ん生は、晩年は別として、若い時分は決して噺家同士の付きあいが良いほうではなかったらしい。仲間内の博奕にしても、結構際どい勝負をしていたように何かの本で読んだ記憶がある。
 だから、志ん生をよく思っていなかった同業者も少なからずいたはず。馬生は、楽屋で嫌がらせを受けたこともあるだろうし、胃が痛くなる思いもしたはずだ。しかし、そういったことを愚痴っぽく回想する発言をまったく目にしない。

 若き日の美濃部清は、父・美濃部孝蔵に対し、少なからず「あんな父親にはならないぞ」という思いがあったのではなかろうか。また、若い頃に博奕や女郎買いに明け暮れ、大好きな母りんに苦労を強いていた父に、「許せない!」という思いもあったはずだ。

 しかし、美濃部孝蔵ではなく、五代目古今亭志ん生を見る馬生の思いは、別なのだろう。
 志ん生の天才的な芸、そして、死ぬまで圓朝全集を座右に置いていた稽古熱心さ。加えて、ただ高座に上がるだけでお客さんを喜ばせる、そのフラ。
 噺家としての馬生は、名人志ん生を尊敬もし、ぜひああなりたい、という目標でもあったはずだ。

 だから、美濃部清として「許せない父」と、馬生として「憧れの志ん生」という、一人の男を見る上での精神的な二重構造がしばらく続いていたのではなかろうか。

 私は、この二重構造による葛藤が消えて、馬生に心の平穏が訪れたのは、昭和36(1961)年あたりなのだと思っている。だから、最初の弟子、伯楽(桂太)をとったのだろう。心身ともに余裕がなければ、弟子などとることはできまい。

 そして、同年の師走、志ん生が倒れてからは、なおさら父・美濃部孝蔵、名人志ん生への思いは愛情に満ちたものへと変わったに違いない。何ら葛藤もなく、少しでも長生きしてもらい、また高座に上がってもらいたい、という気持ちになっていたのだろう。

 54歳での死は、もちろん長いとは言えない。しかし、少年時代にも大病を経験していた馬生は、結構自分の体のことをよく知っていて、そんなに長生きができそうにないことを受け入れていたのではなかろうか。だから、手術や抗がん剤や放射線などの延命治療は一切受けなかったのだと思う。手術で声を失うことを避け、噺家として死にたいという思いも強かったようだ。

 美濃部清と十代目金原亭馬生は、32年前、最愛の家族と多くの弟子に囲まれた一人の人格者として、心の平穏を得、幸せに人生を全うしたと思いたい。今頃天国で、志ん生、志ん朝とともに、下界を眺めながら、何か逸品料理を肴に旨い酒をちびちびやっているに違いない。

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by kogotokoubei | 2014-09-18 00:49 | 落語家 | Comments(6)
十代目金原亭馬生の三十三回忌追善興行に、なんとか駆けつけることができた。
 行かれた方のブログを拝見すると、開演ぎりぎりでは二階席かもしれないので、いつもより早めに、並ぶのを覚悟で新宿へ。
 電車から、もしや、と思い末広亭友の会の大先輩I女史にメールしたら、すぐ「私も行くわよ」との返信。しかし、少し遅くなるようだ。
 新宿三丁目に着き、コンビニでお茶と助六、お菓子少々を仕入れで並んだのが11時10分頃だが、行列は角のラーメン屋さんのあたりにまで達しており、もうじき曲がりそうな様子。11時半開場、椅子席は相当埋まっているが好みの下手桟敷を確保できた。一服して開演を待つ。

 演者とネタ、所要時間と感想を短く記す。印象の良かった高座にをつける。

金原亭駒松『豆屋』 (8分 *11:52~)
 開口一番は、当代馬生の弟子のこの人。初である。プロフィールを調べたら、大学を出て25歳での入門が2010年。そろそろ三十路の前座さんか。頑張っていたようには思うが、もう少し聴いてみないとコメントはしずらいなぁ。
 ちなみに、この噺は雲助が志ん生に稽古してもらった唯一のネタ。

金原亭馬吉『鮑のし』 (12分)
 二ツ目四人の交互出演、この日は来春同門の馬治と一緒に真打昇進のこの人。たぶん、初。私にはこの人の声は聴きやすい。ネタも結構。志ん生持ちネタについて、志ん朝は、この噺を隠れた十八番としてしている。一門の大事な噺を、丁寧に演じた。今後も期待したい。

 I女史ご来場。桟敷の私の斜め後ろに、ちょうど一人分の席が空いていて、そこに落ち着く。この方には、落語の神様がついているとしか思えない^^

天乃家白馬『お菊の皿』 (12分)
 先代馬生の最後の弟子。初である。滑舌があまり良くない。厳しいようだが、五十路の噺家さんであることを考えると、噺のメリハリやリズムも決して良いとはいえない。ぜひ、一門の先輩たちを見習って、まだ精進をしてもらいたいと思う。長生きも芸、ということもある。どこかで化けるかもしれない。

 ここで十代目馬生の弟子を順に並べてみる。
  金原亭伯楽・故鈴の家馬勇・五代目金原亭馬好・七代目むかし家今松・二代目金原亭馬の助・金原亭駒三・六代目五街道雲助・四代目吉原朝馬・十一代目金原亭馬生・金原亭世之介・初音家左橋・天乃家白馬

 この日、弟子は全員出演した。

金原亭世之介 漫談と小咄 (16分)
 ウクライナにいるロシア人を救うためにロシアは軍隊を繰り出した、だから錦糸町にもロシア軍が来る、というような咄や、外人に日本語の慣用句(「うってかわって」など)を教える小咄、高齢者向けの海外旅行の小咄もあった。
 古典的な雀取りの小咄などもはさんでいたが、なるほど器用で芸達者なのだろうとは思うが、一つの噺を披露しないのは不満である。きつい言い方になるが、「なんでもいいんだよ」が口癖だったらしい師匠だが、器用だけじゃ、天国では喜んでいないのではなかろうか。

とんぼ・まさみ 漫才 (10分)
 前半は一服の時間にさせてもらった。笑組との交互出演。一服後に後ろのパイプ椅子で聴いていたら、以前よりは笑いは取っていたようだ。それにしても、そろそろ客に「えっ?」という間をつくらない漫才をして欲しいものだ。

金原亭駒三『親子酒』 (11分)
 初である。見た目や口調がどことなく先代の文楽に似ている。私は、結構好きだなァ、こういう噺家さん。雲助の本によると、最初に馬生宅に入門を乞いに訪問した際に応対に出たのがこの人だったらしい。

金原亭馬好『初天神』 (10分)
 初である。金坊を連れて初天神に行く場面からだが、その独特の展開が楽しかった。
 七色(七味)唐辛子屋→占い→飴屋、とそれぞれの商売の口上をしっかり演じてみせた。私はこういう噺、好きだなァ。
 仲入り後の座談で、雲助が名前をつける際、師匠は「お前ならいいだろう」と許してくれたが、たとえば馬好のように見た目が雲助のようなら許さなかった、と笑い話をしていたが、なるほど迫力ある見た目である^^

松旭斎美智・美登 奇術 (10分)
 ハワイアン風の衣裳と音楽で、これまでの空間を一変。美智さんの話芸は健在。

吉原朝馬 漫談 (11分)
 結婚披露宴のマクラなど、ネタに入らないままだった。この後の座談の司会のこともあるのかもしれないが、漫談で下がった。器用なだけに、何でもできるのだろうが、私は10分でもネタをして欲しい。

金原亭馬の助『権助芝居』 (17分)
 番頭が足らなくなった役者の代りにしようと権助を呼出し、「村芝居で十八番は何だった?」と聞くと権助が「18番は、村長の電話番号」に、無性に笑えた。七段目で権助のお軽が二階から飛び降りて客席から野次られ、「今年のお軽は、マツコデラックス」でサゲた。その後、お約束の百面相。大黒→恵比寿→達磨大師→線香花火→カチカチ山の狸、をしっかり。
 こういう芸、ぜひとも若手に継承して欲しいものだ。

むかし家今松『家見舞』 (16分)
 「人に物 ただやるだけも 上手下手」とふって、本編へ。淡々とこの人ならではの語り口で進める。気をてらったクスグリなどはないが、要所要所でしっかり笑いもとる。古道具屋で値切る時に、「その焼き火箸を水に突っ込んだような、ジューッという音のしないように願いたい」などの科白でも、私も他の多くのお客さんも笑ってしまう。さすが特別興行、良い客席である。この日の高座の中ではもっとも印象が良かった。

ペペ桜井 ギター漫談 (9分)
 衣装がいつもより立派^^特別興行だからか。

金原亭馬生『目黒のさんま』 (14分)
 仲とりは、当代。師匠の十八番で、かつ旬のネタがうれしい。端正、上品、という言葉が相応しい高座。しかし、家来の名に安倍、石破、小沢などとつけるクスグリは、意外だった。こういう遊びも悪くはないが、私はこの人には似合わないような気がするなぁ。
 
座談会と抽選会 (38分)
 仲入り後、まず下手から朝馬、雲助、二人分の席を空けて、上手に馬生。後から、池波志乃と中尾彬が順に登場。
 朝馬に入門時期を問われた雲助が、「昭和23年」と誕生年と間違えて答えたので、これが最後までクスグリに使われていた。あまり詳しくは書かないが、出演者のことの方が主役の馬生のことより多くなっていたのは少し残念だが、中尾、志乃夫妻の馴れ初めなどは知らなかったので、貴重な話ではなかろうか。(有名か?)
 もっとも印象に残るのは、最後の朗読だ。中尾彬はテレビでのタレントとしての印象があまり良くなく、好きな俳優とは言えないのだが、馬生の蕎麦にまつわる随筆(日本の名随筆に選ばれているらしい)を朗読した時には、感心もしたし、感動もした。それにしても毎日行われるので、出演者も大変だろうなぁ。

初音家左橋『粗忽の釘』 (10分)
 雲助がトリなので、くいつき役がこの人。座談会の後で、やりにくさもあろう。時間調整も必要だったろうから、やや窮屈な印象になったのは、やむを得ないか。

金原亭伯楽 小咄など (11分)
 いくつか小咄を披露。そして、十年以上前からの陸前高田での落語会や学校寄席、ボランティア寄席などの話になったので、3.11以降の話もあるのだろうと思っていたら、それはなく下がった。お世話になった池之端の病院長のご次男が当地で歯科医をやっていて始まった、という話を興味深く聞いていたので、やや肩透かし的な印象。

翁家和楽社中 太神楽 (8分)
 小楽、和助、小花の三人が元気に登場。拍手の大きさは、和楽が亡くなったばかりということをほとんどのお客さんが知っているからだろう。
 小花の芸をヒヤヒヤしながら見るのが、この社中の楽しさ^^

五街道雲助『幾代餅』 (32分 *~16:33)
 落語会の時よりは、短縮版と言えるが、要所では流石の芸。前半の搗き米屋の女将が清蔵が恋煩いだと聞いて、指をさしながら爆笑する場面などは、何度見ても笑える。廓での場面をあっさりと。幾代餅開店後、若い衆同士の会話で、「行ったかい、幾代餅」「なにそれ?」「・・・死ね!」が頗る可笑しい。浅草見番や日本橋劇場とはまた別な明るい高座で、師匠に手向けをしたように思う。

 
 終演後、I女史から、馬生が挿絵を描いた貴重な本をお借りした。私家本300冊限定の立派な和紙の本。詳しくは後日書きたいと思う。
 一服し帰路へ。 全体的には、非常に結構な特別興行だったと思う。馬生門下で初めて聴くことのできた人も多かった。

 帰宅して、連れ合いと一緒に、我が家の「吾輩は犬である」と威張っている二匹と散歩。その後、一杯やりながら、ブログを書いていたが、いろいろと思い出すこともあり、あれだけのボリュームである、残りを翌朝回しとして爆睡。
 
 翌朝振り返ってみても、なんとも言えない空間だったと思う。一階は満席、二階にもお客さんがいらっしゃったが、皆さん落語通の方ばかりと見えて、笑いどころのツボを外さないし、暖かい気持ちで高座に接していたように思う。出演する馬生門下の皆さんも、三十三回忌ともなると、ジメジメしたところはなく、あれから三十余年になる自分史も振り返りながらの追善興行だったのではなかろうか。

 夏目漱石の猫と馬生の命日が偶然にも同じ9月13日。猫のことを書いたばかりだったので、不思議な縁を感じた。

 馬生については、三年前の命日に、いくつかの本からの引用を中心に書いたことがある。ご興味のある方はご覧のほどを。2011年9月13日のブログ
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by kogotokoubei | 2014-09-15 19:11 | 落語会 | Comments(11)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛