噺の話

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落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。

<   2014年 05月 ( 18 )   > この月の画像一覧

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    「桂吉坊がきく藝」(ちくま文庫)

 『桂吉坊がきく藝』は、雑誌『諭座』に連載された内容を2009年に朝日新聞社から単行本、2013年にちくま文庫として再刊。

 吉坊の対談相手は、次の十人の名人達。

 小沢昭一、茂山千作、市川團十郎、竹本住大夫、立川談志、喜味こいし、宝生閑、坂田藤十郎、伊東四郎、そして桂米朝

 この顔ぶれを見て、あらためて、この本が非常に貴重であると思う。

 七世竹本住大夫の引退でこの本を思い出して再読した。

 中学まで野球をやっていた私には、住太夫という人を身近に感じることのでできた部分を引用したい。

吉坊  師匠のお父様が六世住大夫師匠。やっぱり子供のころから浄瑠璃の道に進もうと考えていらしゃったのですか?
住大夫 僕は幸せなことに幼稚園へ行くか行かんうちから、寄席から、芸妓はんの踊りや、歌舞伎に、新派から、映画、演劇、いろいろなものを見てましたなぁ。親父が文楽の人間やし、家が北新地でそういう環境にあって。そんな中で、ほんまは役者になりとうおました。でも僕、頭が大きいので、鬘が合いまへんのや。
吉坊  いやいや(笑)。 
住大夫 役者はやっぱり、暖簾がなかったらあかんし、暖簾というのは家柄で。それで、役者をあきらめてね、やっぱり浄瑠璃が好きで。僕はもう、文楽のまねごとばかりして遊んでいましたな。

 
 歌舞伎役者になりたかったが、暖簾(家柄)がないのであきらめた、というところは古今亭志ん朝と相通じるものを感じるなぁ。この後を続けよう。

吉坊  そうなんですか。
住大夫 それで子供時分から、文楽の楽屋に行けば皆が(本名が欣一なので)欣坊tと言うてかわいがってくれはってね。ますます文楽の世界が好きになって、小学校4年の時から親父に浄瑠璃の稽古してもろうたんです。
 小学校卒業するときに、文楽に入らせてくれと言うたら、親父があかんと言うてね。当時は修業が厳しいし、お金はもうからへんし、うちの親父も若い時分は不遇やったから、そういう思いをさしたくなかったので、学校行けと言われましてな。それで旧制の中学に行きましてん。浪華商業学校、今の大阪体育大学浪商高校へ。
吉坊  スポーツで有名な学校ですよね。
住大夫 僕は野球が好きでね、子供の時分から。浪商のファンで、浪商に入って野球部の試験を受けたんです。その当時、野球部に入るのにも試験がおましてな。
 初めはキャッチボールで。これは通ったんですが、100メートル走らされた。それで落ちたのです。頭重うて、走れまへんねん(笑)。
 旧制中学を卒業するときに、文楽の太夫になりたいと親父に言うたら、あかん。というのは当時、第二次大戦中で、戦争が激しくなってきたから、今やったら工場へ取られるから学校へ行けと、言われましてな。
 学校へ行けって言われても、受験勉強してへんし。学校を二つすべって。今の近畿大学の前身の大阪専門学校、そこが2次募集してたんで法科を受けたら、通りましてん。英語が苦手で、なるべく英語の少ないところ、と法科を受けましてん。どうしても野球部に入りたくて、野球部に入部し、部員が20人ぐらいしかいまへん、戦争中でね。そのころ、全国高専大会予選が甲子園であって、全員甲子園へつれて行ってもらいました。僕は補欠のキャッチャーで、甲子園の土を踏んだ太夫は僕だけで、これは今でも自慢(笑)。


 私も中学時代はキャッチャーだったので、欣ちゃん(?)を身近に感じるのだ。

 予選とは言え、七世竹本住大夫が甲子園の土を踏んだ球児であったことは、間違いがない!

 大正13(1924)年生まれの住大夫は、二十歳の昭和19(1944)年に入隊し、12月に博多から船に乗って釜山に渡り、一週間列車を乗り継いで上海に行く。

住大夫 そして、上海港から出て行く船が皆やられるのでね。
吉坊  危いところろでしたね。
住大夫 上海で3カ月足止め食うて、それで蘇州に転属になり、そこで終戦を迎えました。ちょうど13カ月間兵隊に行って、そのころに栄養失調でもうフラフラで入院しました。軍医さんがよい人で、病院船で早くに鹿児島へ帰らせてもらいました。昭和21年の1月末でした。
 帰ってきて、親父がどないすんねんと。僕はどうしても文楽に入りたいと。親父もわかったと言うてくれまして、わしの手元に置いておいたら甘やかすというので、豊竹古靱太夫師匠、後の豊竹山城少掾師匠に預けられたんです。預けられましたけど、名だけの師匠で一ぺんも稽古してもろうたことはおまへん。
吉坊  そうなんですか。
住大夫 用事をするだけで、一ぺんも稽古してもろうたことはおまへん。けど、文楽というところは結構なとこで、自分がこの人と思うところに頼みに行ったら、みんな稽古してくれはる。竹本だろうが、豊竹だろうが、三味線弾きさんだろうが。それもただで、月謝は取りまへん。その代わり、家の用事から芝居の用事はするのです。
 稽古でえらい怒られましたなぁ。ああ、また向こうへ行ったら2、3時間怒られるわ、嫌やなと、ご飯ものどを通らんときもおました。それでも思い切って翌朝行きますと、また怒られまんねん。けど帰りしなにはいろいろな話をしてくださったり、文楽の話を聞いたり、ああ、来てよかったなと思うのです。それの繰り返しでんなぁ。


 芸の伝承の形、師匠と弟子との関係は、文楽も落語も似たものがあるようだ。具体的な技術指導は、他の師匠やその世界の先輩達の、無償の相互扶助としての稽古が主体。師匠はあくまで“背中”で弟子に何かを伝えるものなのだろうなぁ。

 人間国宝、七世竹本住大夫の強さの背景には、野球大好きな少年時代からの体力と、戦争体験を含め養われた精神力があるのだろう。あらためてなかなかニンな聞き手である吉坊の対談集を読んで、そう思った。
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by kogotokoubei | 2014-05-31 07:56 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(0)
今月16日が、五代目柳家小さんの十三回忌であったため、新宿末広亭をはじめ、数多くの追善興行的な落語会があったが、明日30日の落語研究会も、そんな色合いが濃い番組になっている。
 
 “BS TBS”のサイトから引用。BS TBSサイトの「落語研究会」のページ

会 名:第551回落語研究会 
日 時:5月30日(金)18時開場 18時30分開演
会 場:三宅坂 国立劇場 小劇場   
番 組:「狸の鯉」台所鬼〆
    「道灌」 柳家喬之助
    「笠碁」 柳亭市馬
    「短命」 柳家權太樓
    「山田洋次作頓馬の使者」柳家さん喬


 小さんの孫弟子(花緑、さん喬の弟子)が二人、弟子が三人出演。
 
 私は行かないのだが、居残り会でお会いする落語愛好家の先輩達の何名かは隼町へ行かれるはず。

 トリのさん喬の噺は、山田洋次が小さんのために作った新作の一つ、『頓馬の使者』だ。

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 山田洋次の落語作品集『真二つ』には『頓馬の使者』も収録されている。単行本で大和書房から昭和51年に発行され、平成6年発行の新潮文庫版には、落語の他に著者と小さんとの対談なども収録されている。

 このブログでも小さん十三回忌特別シリーズ(?)を実施し、この本から対談部分を一部紹介した。2014年5月13日のブログ

 さて、この噺は決して易しくないなぁ。

 同じ山田洋次作で芸術祭奨励賞を受賞した『真二つ』のような劇的な要素が少なく、ほとんど八五郎と熊五郎との会話中心のネタ。それも、基本的には明るいネタとは言えない。だからこそ、噺家の力量が問われるネタとも言える。

 山田洋次新作落語第一作の『真二つ』のことを書く前に、流れのままに(?)、第二作のこの噺のことを書こうと思う。

 実際に落語研究会に行かれる方で、あえて筋書を知らずに聴きたい方は、これから先はネタバレ注意です。会の後でご覧のほどを。 ただし、原作のサゲは書きません。

----------------ここからネタバレ注意----------------

◇登場人物
 ご隠居、八五郎、熊五郎
 (『粗忽の使者』のように、侍は登場しませんよ)

◇あらすじ
(1)女房のおきくに首ったけの八五郎だが、出来心で女郎買いをしたことが露見し、
   おきくに家を追い出される。
(2)そのおきくが八五郎のいない間に、はやりの病(やまい)でぽっくり亡くなった。
   仲の良い熊五郎が八の居場所を知っているので報せに行くことになるのだが、
   ご隠居から、引き止められる。
(3)ご隠居が言うには、気が弱く、可愛がっていた猫が死んでも三日三晩寝込んだ
   八五郎に、いきなり惚れた女房が亡くなったことを知らせたら、気が狂うかその場
   でポックリいってしまうかもしれない。だから、充分に足慣らしをして遠回し
   に伝えろ、とのこと。
(4)八五郎に会った熊さん、できるだけ遠回しに伝えようとするが、ついうっかりバレ
   そうなことを口走る。結局、本当のことは言い切れない熊さんだが、八っあんは
   察して長屋へ一緒に戻る。
(5)隠居からおきくさんが亡くなったことを告げられた八っあん、おきくさんの遺体
   と対面。そして、サゲの一言・・・は内緒。

 とにかく八五郎と熊五郎との会話が中心。
 原作には、このような部分がある。八五郎のおきくさんへの惚れようが深いので、熊五郎がなんとかその気持ちを変えようと苦労する場面。

熊五郎 お前はおきくさんにちいと眼がくらみすぎる、あんな女なんてもなァその辺に掃いて捨てるほどいるんだ、ちっとも惜しかねえって・・・・・・判ってるよ、大きなお世話だってんだろ、そりゃ判ってるよ、でもな八公、お前を追ん出しといてそいで知らぬ顔の半兵衛てのは余りにひどすぎると思わないかい、俺ァ友達としてだな、あえて言うがあんな女にゃ手前の方から三下り半つきつけてやった方がいいんだぜ
八五郎 熊・・・・・・お前は何でそうおきくの悪口ばかり言うんだ・・・・・・お前、それを言いにわざわざここまでやって来たのかい
熊五郎 おう、そうとも、こういう言い難(にく)いことはな、友達の俺だから言えるんだぜ、他の奴にゃなかなか言えるもんじゃねえ、俺ァお前の眼をさましにやって来たんだ、たとえお前にうらまれたって、仕方がねえと思ってるよ、それがお前のためだと思うからこそ俺ァこういう嫌な役目を引き受けて、言いいたかねえ仏の悪口まで数々並べてるんじゃねえか」
八五郎 おい熊・・・・・・今何て言った・・・・・・仏と言ったな


 
 こういった二人の会話が、この噺の大きな聴かせどころになるだろう。

 熊五郎が隠居の忠告に従い、八五郎が女房の訃報で衝撃を受けないようにしようとするが、つい言ってはいけない言葉が出る。それを八五郎が問いただすと熊五郎が誤魔化そうとする、といった調子で続く二人の会話。

 作者と演者は、この噺について、こんな会話をしている。

小さん 第二弾で、『頓馬の使者』、これもよかった。このほうがむずかしいや、ちょいとね。
山田  あまり上手くいってないんですよ。上手くいってないから、むずかしいんじゃないですか。
小さん そんなことはない。そうねェ、心理描写がむずかしいン。筋立っているもんなら・・・・・・ね、『真二つ』みたいに順序よく筋立っているとねェ、演出は楽なんだ。だけど会話だけの噺がむずかしいン、うん。でもおもしろさからいったら、会話だけのほうが絶対おもしろいよね。



 たしかに、地噺の良さはあるとしても、落語の本来の魅力は会話だろうう。

 この噺、少し調べてみると小燕枝や喬太郎も演るようだ。

 さん喬の高座、八五郎と熊五郎との会話と心理描写、そして、サゲに込められた男の性(さが)(?)が最後に表現できれば、きっと楽しめるに違いない。

 実際にどうだったのかを、後日先輩達にお聴きするのが楽しみだ。

 ご興味のある方は、私の能書きなどより、小さんの高座を、ぜひ。マクラもいいんだよね。


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by kogotokoubei | 2014-05-29 00:47 | 落語のネタ | Comments(4)
新国立競技場の問題について、反対派の中でもっとも強い影響力を持っているのが、建築界のノーベル賞ともいわれるプリツカー賞を受賞している世界的建築家、槇文彦(85歳)だろう。
*このブログの従来通り、敬称は略します。

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 公益社団法人日本建築家協会の機関誌「JIA Magazine」の昨年8月号に、槇文彦は「新国立競技場案を神宮外苑の歴史的文脈の中で考える」という記事を寄稿している。同協会のサイトからPDFをダウンロードできる。一部を引用したい。
日本建築家協会サイトの該当ページ

 発表された新国立競技場案のパースが一葉、日本のメディアに公表された時、私の第一印象はその美醜、好悪を超えてスケールの巨大さであった。私自身がすぐ隣接する所で体育館を設計したその経験から直感的に抱いた巨大さであったが(図2)、このパースはよくこの2つの体育施設のスケールの差を示している。



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 *同誌に掲載されている写真。左が東京体育館。右が新国立競技場を東京体育館と対比させたもの。

 次に私がこの案に対して持った関心は、その接地性、言うなれば与えられた場所の中で、目線のレベルでその対象建築が様々な距離、角度からどう見えてくるかであった。もしもこの案の正確な立面、平面を与えられれば、コンピューターグラフィックによって即座に数十箇所からその見え方を検証することができたのだが、残念ながら私はそのインフォメーションを持っていないので、当分こうしたイメージをもとに検証を進めていかなければならない。そして、おそらく新国立競技場案の場合、我々の時と異なって、現存の施設の規模を遥かに超える「超超法規」が適用されたのではないかと思われる。

 

 この「超超法規」の一つの事実として、ザハ案選定後、競技場を管理する「日本スポーツ振興センター」(JSC)側から要請を受けた東京都都市整備局が、昨年6月に、一帯の高さ規制を75メートルに「緩和」した。
 
 槇文彦が、“残念ながら私はそのインフォメーションを持っていない”のは、競技場を管理する「日本スポーツ振興センター」(JSC)が情報を公開しないからである。

 日刊ゲンダイの今年1月24日の記事から引用する。日刊ゲンダイの該当記事

 日刊ゲンダイ本紙は建設予定費の積算根拠について、所管の文科省に情報公開法に基づき、開示請求を行った。すると、文科省の出してきた「見積書」は真っ黒け。A4判26ページの資料の中身といえば、工事内容や設計仕様、用いる資材の名称と数量、単価にいたるまで、すべてが墨塗りで隠されていた。

 文科省は「工事発注時の予定価格が類推される恐れがある」(スポーツ・青少年企画課)と説明したが、これでは建設予定費が当初より膨らんだ理由が、さっぱり分からない。積算根拠を何ひとつ明かさず、べラボーな税金を勝手に使うなんて許されない。


 血税が使われるにも関わらず、都合の悪いことを隠すのはどの役所も同じである。

 槇文彦の記事に戻る。

 私がハーヴァード大学に学んだ時、デザイン学部学部長は当時、都市デザインの権威ホセ・ルイ・セルトであった。次の彼の言葉が一生忘れられない。彼は、「都市で道を歩く人間にとって最も大事なのは、建物群の高さ15m位までの部分と人間のアソシエーションである」と言った。つまり人間と建物の視覚的関係には様々な距離が介在する。しかし建物に近づくに従って彼の触覚も含めた五感的体験はこの原則に支配されていく。それが人々の建築に対する好意を持つかの判断のベースにもなる。道行く人々にも様々な生態がある。そこを訪れるもの、散歩するもの、ジョギングをするもの……。今回のこの提案では東京体育館と現国立競技場の間の外苑西通りに沿った南北に延びる都市公園はほとんど消失し、2つの体育施設を結ぶ道路の上部には広場のスケールに近いプラットフォームが提案されている。
 計画の段階で建築の接地性、周縁の環境との関係を単に俯瞰するだけでなく、先に述べた目線からもチェックし、理解するに最も有効な手段は対象プロジェクトの縮尺模型である。我々は普通それをスタディモデルという。1990年に現東京国際フォーラムの国際コンペに、私は丹下健三、I. M. Pei氏等と共に審査の一員として参加した。Pei氏以外の二人の海外からの審査員に対しても周縁の状況をよりよく理解してもらうために、有楽町、東京駅、皇居のお堀端、JRを越えた銀座方面までを含めた敷地模型を用意し、参加者の提出したモデルを一つずつ落とし込み、様々な角度から数百の応募案を検討していった。もちろん目線からのチェックも当然なされた。その時、モデルが図面よりも何よりも一つひとつの案を絞り込んでいくのに効果的であったことを今でも鮮明に覚えている。主催者東京都の当時の知事は鈴木俊一氏であった。
 今回新国立競技場のコンペに参加する設計者には、模型提出は求められず、4枚のパースのうち外観パースは鳥瞰図一葉だけが求められた。一方このコンペにも二人の外国人建築家が審査員に含まれていた。
 また、今回の新国立競技場のような巨大な施設には充分なゆとりのある敷地が与えられていることが望ましい。何故か。それはイベント終了時における多数の人間をいかにさばくかという機能上のゆとりへの要請だけでなく、こうした施設が一般市民に必ずしも愛されるものでない、あるいは好ましくない時に生じる問題が常に存在するからである。


 模型の提出も求められず、外観パースは鳥瞰図一葉のみの提出・・・・・・これでは完成時点の周囲との関係などを推し量ることができないだろう。多額の税金の使い道を決めるにあたって、今回は先行の前段階からあまりにも杜撰であったと言わざるを得ないのではないか。

 紹介した中の文章を強調し再確認。

 “新国立競技場のような巨大な施設には充分なゆとりのある敷地が与えられていることが望ましい。何故か。それはイベント終了時における多数の人間をいかにさばくかという機能上のゆとりへの要請だけでなく、こうした施設が一般市民に必ずしも愛されるものでない、あるいは好ましくない時に生じる問題が常に存在するからである”

 すでに、“愛される”ものでも、“好ましい”ものでもないことが明白ではなかろうか。
 
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 記事中の画像を拝借。左がイチョウ並木と絵画館。右が新国立競技場案と絵画館の想像図。

 人によっては、右の光景にSF的な未来を感じて好ましいと思う方もいるかもしれないが、私にはグロテスクにしか見えない。絵画館を邪魔するだけの景色である。

 そして、空間的な問題のみならず、歴史という時間的な側面も重要だ。
 この特別寄稿記事は次のように締めくくられている。(太字は管理人)

 最後に、私は今まで述べたどのシナリオになろうと、少なくとも絵画館前の広場を大正15年に完成した当時のデザインに戻すことを強く提案したい。先に触れた西側の建物を除去し、もしも駐車場が必要とあれば地下駐車場を設ければよい。大正12年(1923年)の関東大震災では7万人余の尊い人命が失われた。その頃造営に着手していたこの絵画館と前庭の計画は、その3年後に完成する。私は冒頭「歴史的遺産として貴重」という言葉を引用したが、更にここの歴史を振り返る時、それは大震災で亡くなった人々に対する鎮魂のみちにも見えてくる。
 それが平成の都民が未来の都民に対して、また大正の市民に対するささやかな贈り物なのではないだろうか


 私は、こういう主張を明確に打ち出すことのできる日本人が少なくなったと思うので、この文章を読んで、なんとも言えない熱い思いがした。
 今回の競技場問題は、明治神宮、外苑、絵画館、イチョウ並木・・・・・・その全体の歴史や地理的な意義を考慮して、検討されるべきだろう。

 “建設という名の破壊”の象徴、新国立競技場などは必要はない。現在の国立競技場を修理、補強することで、歴史の遺産として残し、神宮外苑の緑も残すことが大切である。それが、“もったいない”の日本人の精神を示すことにもなると思う。
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by kogotokoubei | 2014-05-27 00:46 | 幸兵衛の独り言 | Comments(0)
現在の国立競技場は、先日のラグビーの日本対香港戦を最後に7月から解体され、2020年に向けた新国立競技場建設が進められることになっているのだが、この計画には各方面から反対の声が上がっている。

 北海道新聞の記事が、これまでの経緯を含めよくまとまっているので引用したい。しかし、4月の毎日や朝日の記事が、すでにリンク切れになっているのが、なんとも不可思議だ。(太字は管理人)
北海道新聞の該当記事

国立競技場 著名建築家ら解体見直し求める 景観破壊、費用…不透明な建設計画
(05/25 11:57、05/25 14:32 更新)

 2020年東京五輪・パラリンピックのメーン会場となる新国立競技場の建設に向け、7月から現国立競技場(東京都新宿区)の解体工事が予定される中、建築界を中心に取り壊し延期を求める声が高まっている。3月末までに完了するはずだった新競技場の基本設計が示されていないなど計画が不透明で、巨大な施設が明治神宮外苑の歴史的景観を壊してしまうという危機感がぬぐえないからだ。建設費が一層膨らむのではないかという懸念も根強く、計画を見直すべきだという意見は少なくない。

 ■市民知らず進展

 「市民が知らないところで計画が進む。こうしたことが成熟した国で行われることが信じられない」—。建築界のノーベル賞ともいわれるプリツカー賞を受賞している世界的建築家槙文彦氏(85)は4月23日、都内で開いた記者会見で、新競技場建設計画の進め方を嘆いた。

 会見は、明治神宮外苑の中心ともいえる聖徳記念絵画館前に、新競技場建設に伴う陸上サブトラックを設置する計画が突如明らかになったことなどから開かれた。イチョウ並木の美しさでも知られる場所で、会見に臨んだ槙氏ら6人は、景観への悪影響を心配した。

 12年に行われた新競技場のデザインコンペで最優秀賞に選ばれたのは同じプリツカー賞受賞者で英国の建築家ザハ・ハディド氏のデザイン。槙氏は昨年9月の東京五輪招致決定前から、高さ70メートル超ともいわれる新競技場の巨大さに違和感を示し、絵画館や広場との不調和を指摘。神宮外苑の歴史的経緯を抜きに進められたコンペを批判した。

 ■国などに要望書

 五輪招致決定で新競技場建設がクローズアップされると、槙氏の指摘は一層注目され、建築や景観の専門家らの共感を集めた。同11月には槙氏ら約100人が結集し、国などに新競技場の規模縮小や情報公開の徹底などを求める要望書を提出した。

 こうした要望も本質的には考慮されず、新競技場建設計画は進展。会見で槙氏は「異論が噴出している現段階で、取り壊し開始は拙速だ」と、立ち止まって計画を見直すよう訴えた。

 槙氏同様、プリツカー賞受賞者で日本を代表する建築家の伊東豊雄さん(72)は今月12日、都内で開かれた市民有志によるシンポジウム「新国立競技場のもう一つの可能性」で現競技場の改修案を公表した。

 伊東氏は新競技場のコンペに参加しており、「敗軍の将、兵を語らず」と発言を控えていたが、計画に疑問を抱く人類学者の中沢新一氏(63)に説得され改修案作りに取り組んだ。伊東氏も「コンペから1年半もたっているのに、いまだにどういうものができるのか、ほとんど一般の人には知らされていない」と、計画の進め方を問題視。コスト面から現行計画を遂行する難しさにも言及した。

 ■“遺産”残す改修

 改修案は、現競技場の一部を取り壊し観客席を8万人収容まで増設。聖火台を残すなど、1964年東京五輪のレガシー(遺産)としての現競技場の価値にも注目した。コンサート会場としての機能は考慮せず、開閉屋根をやめることで、「競技場本体の建設費はラフにみて半分ほどで済むのでは」と述べた。

 改修案が実現されたとしても自身が設計を引き受けることはないと強調し、「コンペに参加したからこそ分かったこともある。今は改修が一番いいと思う」と話した。また、シンポでは中沢氏も登壇し、「まずは解体を延期し、改修も含め国民的な議論をすべきだ」と主張した。

 「どちらも指摘しているのは日本の公共建設の問題点だ」。こう語るのは、インターネットなどを通じて新競技場問題について積極的に発言している建築エコノミスト(一級建築士)の森山高至氏(48)。建築界の権威でもある槙、伊東両氏が異議を唱えていることを「プロ野球界でいえば、長嶋と王がそろって発言しているようなものだ」と驚きの目でみつめる

 森山氏は「大物2人が発言することで建築界の議論は活発になっている」と感じる。「建設費が高騰している中、本当に計画の予算でできるのか。基本設計が示されれば『このままでいいのか』という声がより大きくなるのでは」と話す。

 市民の立場で競技場問題を考える「神宮外苑と国立競技場を未来に手わたす会」の共同代表の一人で作家の森まゆみ氏(59)は「多くの専門家が疑義を唱える計画が省みられないのはおかしいが、これは建築界だけの問題ではない。税金の使われ方が適切かなど国民全体の問題だ。説明不足のまま、なし崩し的な解体は許されない」と訴える。(編集委員 佐藤元彦)



 建築界の“長嶋、王”に、あの森まゆみさんも登場。 長嶋・王・森・・・・・まるでV9時代の巨人だ!

 森さんが共同代表を務める「神宮外苑と国立競技場を未来に手わたす会」のサイトから引用。(太字は管理人)「神宮外苑と国立競技場を未来に手わたす会」のサイト

11万平米の土地に29万平米の広さの競技場を建てるこの計画、
予算の1300億では出来そうにありません。3000億とも噂されています。

しかも70メートル(マンションでいうと20階建て以上)のため、東京都の都市計画審議会は日本で最初の風致地区、神宮外苑の高さ規制を20メートルから75メートルへとまともな論議もないままに緩和してしまいました。
このままいくと、神宮外苑のあの美しい銀杏並木、重要文化財の聖徳絵画館の左後ろに、この巨大な競技場が建ってしまいます。そんなこと認めるわけにはいきません。
そうしたらきっとたくさんの木が切られるでしょう。
そうしたら霞ヶ丘都営アパートの住民も二度目の移転を迫られます。

コンクールの粗雑さ、デザインや防災面での不安については
建築家たちも異論を唱えています。
わたしたちは市民の目線から、この新国立競技場計画を考えたいのです。
巨大な建物を造っても需要がなければそれは子孫への巨大なお荷物です。
たくさんの都民、国民がこの問題に興味を持って、東京の空を
もうこれ以上狭くしないこと、東京一極集中をこれ以上進めないようにしませんか?

国民の税金でつくられるのですから。
そう考えて「神宮外苑と国立競技場を未来へてわたす会」をつくりました。

わたしたちは1964年の歴史ある思い出のあるスタジアムを
直して使うことを提案します。



 同会が安倍首相や舛添都知事宛てに5月21日に提出した要望書の内容を引用。(太字は管理人)

                              記


 現国立競技場は、1940 年に開催が決まりながら、幻となったオリンピックの記憶、雨の学徒出陣の記憶、さらに1964 年東京オリンピックへと神宮外苑の歴史の記憶を連綿と感じさせることのできるスタジアムです。これには、神宮外苑の歴史の継承と景観の保全に取り組んだ先人の努力の結果として現国立競技場があります。これは軽々に壊して良いはずがありません。


 現在進められている計画は、陸上競技、サッカー・ラグビー会場として、どちらにも使い勝手の悪い計画です。中途半端な計画を推し進め、維持費ねん出のために音楽イベント会場化するのは本末転倒です。もっと、スポーツを市民生活の中に活かしていけるような整備をするべきです。


 2020 東京オリンピック・パラリンピックでは、「もったいない」という、モノを大切にする日本人の美徳を世界に発信するチャンスです。現国立競技場を改修して使いつづけてこそ、『さすが日本人』といわれるオリンピックとなるでしょう。また、改修して使い続けるための技術こそ、今、確立していかなければならない急務であると考えます。


 新国立競技場のために膨大な費用をかけるより、建設費を抑制して、その分、遅れている震災の被災地への復興に向けるべきです。東日本大震災から3 年以上経過してなお、多くの人たちが避難生活を余儀なくされていることを忘れてはなりません。


 ザハ・ハディット氏の作品が、先ごろソウルでオープンいたしましたが、新国立競技場よりも小さな規模でありながら設計から完成まで8年の歳月がかかっており、費用も増大しています。隣国の事例を見ても、新国立競技場案が2020 東京オリンピック・パラリンピック、いや2019 年ラグビーワールドカップ開催に間に合うかどうか確証がありません。確証がない中で国立競技場を解体することは、オリンピック開催を危うくするものです。

以上


 私は、このすべての主張に賛成だ。
 
 同会のサイトから、森まゆみさんのメッセーも、全文ご紹介しよう。

共同代表 森まゆみ(作家・谷根千工房)

わたしたちは「いちばん」をのぞまない

「世界最高のキャパシティ」
「世界最高のホスピタリティ」
(以下、かっこ内はJSCのコンクールのメッセージより)

そんなものが何になるのか、この放射能汚染にふるえる日本で。
いまもふるさとを追われさまよう15万人を置き去りにして。
仮設住宅で冬の訪れを待つ無口な人びとの前で。

「この国に世界の中心を作ろう」
「スポーツと文化の力で」
「世界で「いちばん」のものをつくろう」

私達が東京に欲しいのは「いちばん」の競技場ではない
神宮外苑の銀杏をすかして降り注ぐ柔らかな光だ。
その向こうの伸びやかな空だ。
休みの日に子どもと一緒にあそべる自転車練習場だ。

1964年、アジアで初めてのオリンピックが東京で開かれた。
それは戦争に負け320万人が死んだ日本、その復興を示すイベントだった。
植民地支配を脱したアジア・アフリカの参加国、その民族衣装の誇らしさ。
「世界史にその名を刻む」のなら、この競技場を残すべきだ。
灯火台をつくった日本の誇る職人技とともに。アベベや円谷の記憶とともに。

ベルリンでは1936年のナチス政権下のオリンピックスタジアムを今も使う。
それは同じ過ちを繰り返さないことを己が記憶に問うモニュメントでもある。
22年後、1958年築の国立競技場を残す道がないわけはない。
いまこそ「もったいない」の日本を世界につたえよう。

人口減、資源の枯渇、非正規雇用、食料自給率、そこから目をそらして
「世界一楽しい場所」なんてできるのか?
”パンとサーカス”に浮かれたローマ帝国末期のようではないか。

わたしたちは「いちばん」をのぞまない。
子どもの時代に、健やかな地球が存続していることを願う。
「世界一楽しい場所」は私たちの近所につくりたい。

風と木と匂いのある町を。路地や居酒屋のある町を。
赤ちゃん、子ども、お年寄りを見守る町を。
若者が自由に仕事を作り、みんなで応援できる町を。
お金がなくても、助け合って暮らせる町を。
あたたかく、風通しのいい、つつましい町を。


 かつて話題になった「一番じゃなけりゃダメなんですか」と、ここで言う「いちばん」は、まったく意味が違う。
 
 五輪開催のために、生活と密着した自然と歴史や文化的遺産をないがしろにして、“ハコモノ”の「いちばん」を作るのが、いったい誰のためなのか考えなければならない。

 同会のサイトには、問題を整理し署名用にも使えるチラシがある。抜粋してご紹介。 該当チラシ

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 この問題提起に賛同できる方は、ぜひ同会のサイトからご署名のほどを。

 2020年の東京五輪のための“建設という名の破壊”の象徴的な暴挙が、新国立競技場建設だと思う。
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by kogotokoubei | 2014-05-25 19:26 | 幸兵衛の独り言 | Comments(2)
落語仲間の先輩SさんとI女史は、国立劇場の竹本住大夫引退公演に、激しいチケット争奪戦を勝ち抜いてお出かけになった。

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 このポスターをお借りした国立劇場のサイトから、興行の内容を引用。国立劇場サイトの該当ページ

公演期間 2014年5月10日(土)~2014年5月26日(月)

開演時間 (第一部)午前11時 (午後3時9分終演予定) (第二部)午後4時 (午後8時1分終演予定)

ジャンル 文楽

演目・主な出演者
国立文楽劇場開場30周年記念
七世竹本住大夫引退公演


<第一部>11時開演

 増補忠臣蔵(ぞうほちゅうしんぐら)
    本蔵下屋敷の段
    
 恋女房染分手綱(こいにょうぼうそめわけたづな)
   引退狂言
    沓掛村の段
    坂の下の段

 卅三間堂棟由来(さんじゅうさんげんどうむなぎのゆらい)
    平太郎住家より木遣り音頭の段

 <第二部>4時開演

 女殺油地獄(おんなころしあぶらのじごく)
    徳庵堤の段
    河内屋内の段
    豊島屋油店の段
  
 鳴響安宅新関(なりひびくあたかのしんせき)
    勧進帳の段

 (主な出演者)

 竹 本 住大夫

 鶴 澤 寛 治

 鶴 澤 清 治

 吉 田 簑 助

 吉 田 文 雀

        ほか

   *字幕表示がございます

※七世竹本住大夫が本公演をもちまして引退することを発表いたしました。
詳細はこちらからどうぞ


 「詳細はこちらからどうぞ」の文字は、次の国立文楽劇場のサイトにリンクされている。
国立文楽劇場サイトの該当ページ

 同サイトのページにある、大夫の引退に関する文章。

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 今年十月には満九十歳になられるご高齢。引退もやむなし、という思いもあるが、文楽ファンは、大阪の橋下市長への恨みが強い。
 なぜなら、昨年七月、大阪市による補助金カット問題で文楽界に激震が走った後で脳梗塞で倒れ、緊急入院されたからだ。十月には退院されたが、補助金カット騒ぎにより心身ともに疲労された入院が、引退興行の時期を早めたことは間違いなかろう。水曜日の夜、居残り会で我らがリーダーSさんは橋下に怒っていたぞ!
 
 大阪市の問題については、以前にこんな記事を書いた。2012年5月15日のブログ

 その後、大阪市の補助金の対応については、次のように報道されている。日本経済新聞の該当記事

大阪市、文楽への補助金を減額へ 劇場入場者数が基準に達せず
2014/1/26 23:19

 国立文楽劇場(大阪市)は26日、2013年度の有料入場者数が10万1204人(速報値)になったと明らかにした。大阪市が文楽協会に対して運営補助金を満額支給する基準には達せず、約730万円減額され約2170万円になる見通し。最終公演が近づくにつれ入場者が増えたが、満額には約25%届かなかった。

 市が12年度に文楽協会に支給した補助金は3900万円。橋下徹市長が打ち出した補助金見直しで、このうち2900万円分は13年度から観客数に応じ補助額を決めることにした。

 入場者数が9万人以下ならゼロ、それ以上なら1人につき約1930円ずつ増額し、10万5000人以上なら満額の2900万円を支給する。過去10年間の平均入場者数は9万6395人。市はこのほか、入場者数に関係なく衣装代などの活動補助費として別途1000万円まで支給する。

 今年度最後の初春公演(3~26日)は、千秋楽が近づくにつれ入場者数が伸びた。19日からは技芸員(演者)が人形とともに開演前と終演後のロビーに立ち、あいさつ。初春公演としては過去最多を記録した。ただ、年度を通しては「仮名手本忠臣蔵」などの人気演目が上演された昨年度に及ばなかった。

 文楽協会の業務は技芸員のマネジメントや地方巡業の企画など。職員の人件費など運営費は補助金で賄ってきた。補助金の減額分は「退職者を補充せず、人件費の削減で対応する」(三田進一事務局長)という。

 市は来年度も同じ制度で補助する方針。


 橋下が文楽について語る資格も審美眼も、日本の伝統芸能に関する知識もないことは、いったん置いておく。

 私が思うのは、“補助金”のあり方が逆ではないのか、ということ。

 大阪市のサイトに、「公益財団法人文楽協会補助金交付要綱」が掲載されている。そこには、別表として、「集客数連動型文楽振興補助」の内容が記されているので引用する。大阪市サイトの該当ページ

別表2 集客数連動型文楽振興補助

補助額
・文楽協会がより一層文楽の普及・振興への努力を求め、集客増を図ることを前提に、大阪公演有料入場者数が一定数を上回る場合に集客数に応じて補助する。
・本市の予算(29,000千円)の範囲内で、当該年度の大阪公演有料入場者数が9万人を超えた場合に支出する。

〔90,001人~104,999人の場合〕
入場者数に基づき、90,000人を超えた入場者数を15,000人で除したものに上限額を乗じた額とする

〔105,000人以上の場合〕
本市予算額満額支出とする

なお、1円未満の端数については切り捨てる。



 要するに

  観客動員 大 → 補助金 大
 
  観客動員 小 → 補助金 小


 という構造。

 文楽という伝統芸能を「補助」する基準に、企業の論理と同様の数値管理を持ち出していること自体が、私には賛成できない。

 百歩、いや千歩譲って数値管理するにしても、この考えは矛盾しているだろう。
 まず、伝統芸能として支援を認めるなら、観客動員にか関係なく一定の補助をすべきだ。加えて大阪市も観客動員の支援をすべきだろう。
 そして、観客動員が増えれば、その収入は関係者にも反映されるはずだから、補助金を減らすことで大阪市の負担も減る、という構造になるのではないか。

 本来は、

  観客動員 小 → 補助金 大
 
  観客動員 大 → 補助金 小


 とすべきなのではないか。もちろん、文楽協会も集客努力をし、公演以外にも収入を増やす工夫をする必要はあると思う。BSやCSのテレビ局との契約やDVDの発売などにも、従来以上に積極的になるべきかもしれない。

 新たな現代の芸能や娯楽に押されて、歴史のある伝統芸能が存続の危機を迎えているのは、日本だけではないのかもしれない。

 ヨーロッパの代表的な伝統芸能は、何と言ってもオペラだろう。

 そのオペラに、国や地方自治体は、どれほど支援をしているのか。

 朝日新聞の「GLOBE」サイトの記事から引用したい。2010年の記事で少し古いデータだが、ヨーロッパ各国の主要な歌劇場の収入状況が円グラフで掲載されているのでご紹介。
Tha Asahi Shimbun GLOBEサイトの該当記事

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 減ったとはいえ、ヨーロッパ各国の歌劇場への助成金と、新国立劇場のそれとは、文字通り、“桁が違う”のだ。

 それにしても、日本でもオペラを観たいから出来たのであろう新国立劇場に、意外に国は助成しているのだなぁ。国と新興会で43億円だって。後で書くが文楽協会への国からの助成金は、8000万円だよ・・・・・・。
 私なんぞは、オペラなどには行こうとは思わないので、この何十分の一でもいいから文楽を支援して欲しいと思う。

 さて、記事から、この調査をした大学の先生のコメントを含め引用。

 近年劇場が取り組みを強化しているのはチケット以外の事業売り上げ。

 休憩時間にシャンパンや軽食を出すのは当たり前。関連グッズ販売や、テレビ放送、DVD販売などの多メディア化で収入増を目指す。

 どの国も財政に余裕がない中でのやりくりだ。昭和音楽大オペラ研究所准教授の石田麻子は「町の顔としてブランド力を保つため、劇場も努力している」と話す。



 この記事は、当時のヨーロッパ各国の財政難から、歌劇場への助成が減っており、それぞれの劇場がさまざまな経営努力をしている、ということが基調となっているのだが、それにしても国や自治体はこれだけの支援をしている。

 もちろん、助成に頼るばかりではなく、入場者数増によるチケット収入アップはもちろん、グラフの分類にある「その他事業」の増加も検討すべき課題ではある。しかし、大阪府や大阪市も、引用した記事にある言葉を借りるなら、“町の顔としてブランド力を保つ”努力をすべきだろう。
 
 文楽は、松竹が経営を離れ、昭和三十年代に、国や大阪府、大阪市などが相談して財団法人文楽協会が設立された。その文楽協会に、2011年度には、国が8000万円、府が2070万円、市が5200万円の補助金が支払わていた。大阪府はそれまでの5200万円から橋下府政時代に減額。そして、大阪市も、すでに上限が2900万円に引き下げられた。

 技芸員と言われる文楽の担い手は、必ずしも多いとは言えない。平成20(2008)年時点で、大夫24人、三味線弾き19人、人形遣い37人で計80人。現在も80人前後だろうと思う。技芸員は文楽協会に所属し、兼業は原則として許されない。世界的にも重要なこの伝統芸能を継承し続けるには、技芸員を養成するための支援も必要だ。

 文楽は歌舞伎と違って、興行主やスポンサーがいないので、地方公演の運営も含め、協会がやっている。補助金がなくなるのは大きな打撃なのである。いわば国、大阪府、大阪市が“お旦”として育てる構造になっている芸能なのだ。それを、「経営努力をしなければ助成金を減らす」と言うこと自体が、“お旦”としての資格を放棄しているのではないか。

 海外で日本の文化に興味のある方は、次のユネスコのサイトで動画なども見て、知識を習得しているはずだ。
UNESCOのサイト
 
 ありえないだろうが、こんな空想をしていた。

 海外の企業や投資ファンドなどが、文楽協会に多額の助成金を支払い、海外公演も増やし、日本の公演には海外からのツアーで客を動員するなどの経営的な施策を打つ。たとえば、シリコンバレーの企業が冠スポンサーになり、会場ではスポンサーのスマートフォン専用に英語の訳の音声が配信され、外人さんが舞台を身ながらスマホのイヤホンで英語版を聞いている。スマホの画面では場面の説明が映っている、なんて光景。

 しかし、ありえないと言えるだろうか?

 大阪が、“パトロン”の役割を放棄しようとしているのだから、海外企業の文楽愛好家の企業人にとって、それは大きなビジネスチャンスに思えるのではなかろうか。

 落語と文楽、人形浄瑠璃との関係は深い。
 複数の噺になっている忠臣蔵関係以外にも、上方を中心に次のようなネタが思い浮かぶ。
 ・軒づけ:浄瑠璃そのものが噺の主役
 ・胴乱の幸助:お半長、でっせ!
 ・猫の忠信:千本桜があるからこその噺
 ・寝床:説明する必要なし
 ・住吉駕籠:枝雀版では「壷坂」が語られる
 他にその名も『浄瑠璃息子』というネタが上方にある。

 歌舞伎、そして落語という伝統文化の一つの土台になっているのが文楽、人形浄瑠璃だと言えるだろう。

 七世竹本住太夫の引退公演から、いろんなことを考えた。

 私も、第二の人生においては、できるものなら、落語のみならず文楽や能、狂言の世界を楽しみたいと思っている。

 しかし、それも懐具合にもよるなぁ。消費税は上がる、年金は減る、好きな芸能の木戸銭が国の補助が減って上がる、ってなことになっては、とても楽しい六十代が送れそうにないぞ。上がるのは、『寝床』の旦那の下手な浄瑠璃の段だけにして欲しいものだ。
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by kogotokoubei | 2014-05-24 07:15 | 幸兵衛の独り言 | Comments(2)
久し振りの落語会は、昨年12月以来の隼町での睦会。ぎりぎりまで都内で野暮用があり、半蔵門駅近くのコンビニでおにぎりを一個買って国立演芸場へ。
 ロビーでおにぎりを食べようと思っていたら、Sさんとお会いした。参加予定のYさんから仕事で欠場のメールがあったことをお互いに残念がったが、これも宮仕えの辛いところ。私だって、十分にあり得ることなのだ。

 結構なお客さんの入りで、終演時点では九割がた席が埋まっていたような気がする。この三人である、不思議はない。

 次のような構成だった。
---------------------------------
(開口一番 柳家喬之進『出来心』)
瀧川鯉昇   『へっつい幽霊』
(仲入り)
入船亭扇遊 『ねずみ』
柳家喜多八 『お直し』
---------------------------------

柳家喬之進『出来心』 (18分 *18:30~)
 久し振りだ。また、太った印象。2000年の入門で、二ツ目では三遊亭司の次の香盤になるから、順当なら来年の真打昇進。開口一番で出会える機会も残り少ない、ということだなぁ。キッチリした高座は相変わらず。間抜けな泥棒の子分が、最後に親分に家に入って盗もうとする設定。『花色木綿』的に構成しようとすると、あと五分はかかるだろうから、時間短縮の工夫だろう。 以前はそんなに気にならなかった、声の“高さ”が少し耳についた。難しいとは思うが、何とか工夫や鍛錬によって、もう少し低めの落ち着いた声になれば、この人の芸の幅が広がるのではないか。そんな気がした。

瀧川鯉昇『へっつい幽霊』 (45分)
 いつもよりは短めの“サイレントタイム”の後、春先は血圧と年収がすっかり下がって、と言う一言で会場も爆笑。消費税アップ→カード(PASMOなど)と現金の金額差から、十八番の自動(児童)改札ネタへ。次に、亡くなったお婆ちゃんが生き返った話、鎌倉から逗子に向かうトンネルの話など幽霊ネタをふってから本編につなげる無理のない流れ。
 約11分のマクラの後の本編、ほとんど三木助の型と言ってよいだろう。上方訛の男がへっついを返す、と言ってくる部分では、三木助はこの男が「なぁ、道具屋」と、「道具屋」という言葉を何度も繰り返すことで笑いの一つの山をつくるが、鯉昇は同じ上方訛の男を登場させながらも、「道具屋」連発の演出はしなかった。かと言って、この人ならではのクスグリも極力抑えた高座。幽霊の仕草などはこの人らしい演出で見た目で笑わせるが、鯉昇落語としては大人しい部類に入ると思う。  以前に座間で聴いた『芝浜』も、三木助版をしっかり踏襲していた結構な高座だったなぁ。噺によっては枝雀への思いを強く感じる(『日和違い』や『質屋庫』など)が、東京落語では三木助が好きなのかもしれない。あるいは、扇遊の師匠扇橋への思いがネタ選びにつながったか。

入船亭扇遊『ねずみ』 (36分)
 ポール・マッカートニーの話題から自分の高校時代のフォークソング体験、最近のニュースで気になる女性が二人いる、などのマクラで引っ張っていたが、実は喜多八が池袋演芸場(落語会さきがけ)と掛け持ちで、まだ楽屋に現われないことを暴露。羽織は、次の演者が到着したかどうかを伝える役割もあって、「今、着いたようです」とホッとし12分ほどのマクラから本編へ。
 実に端正な高座。先日師匠の扇橋のことを書いたが、この噺も三木助から師匠を経由して伝わる一門の大事な噺だ。こういうと贅沢な小言になるのだが、“綺麗”な高座すぎた印象。せめて、虎屋の番頭、虎を彫る飯田丹下については、もう少し“悪(ワル)”の側面を描いて欲しかったなぁ。『甲府い』のような後味の高座で、気持ちは良いのだが、劇的な要素が少なく、すっと軽~く行き過ぎた、そんな印象。
 しかし、この端正さがこの人の持ち味でもあるんだよなぁ。以前に聴いた『三井の大黒』では、棟梁の政五郎が大いに結構だったが、この噺では二代目政五郎の科白がサゲ前のほんの少ししかないこともあり、この人の持ち味である鯔背な江戸っ子を噺に織り込むことが出来ないことも影響しているのだろう。

柳家喜多八『お直し』 (30分 *~20:57)
 やや照れながらの登場。池袋との掛け持ちについては、国立演芸場が三年後に改装工事が始まって使えなくなるので、この会も池袋芸術劇場で開催すれば、池袋で掛け持ちがしやすくなる、とやや無茶な言い訳^^
 先の二人が喜多八のために時間を稼いでいたことを踏まえ、短いマクラから、なんとこの噺へ。
 結論から言うと、これぞ喜多八ワールド、という素晴らしい高座。志ん生が昭和31年に芸術祭を受賞したことは有名。
 あらすじを少し紹介。
  年齢(とし)とともに人気を落とした花魁と、そんな彼女に優しい言葉をかけた客引き(妓夫太郎、牛太郎とも書く)の二人が出来てしまい、見世(みせ、女郎屋のこと、志ん生は“貸し座敷”と言っている)の主人の情けで二人は所帯を持ち、女房は“おばさん”として見世で働き始めた。二人で稼ぐのでそこそこの貯えができると亭主がコツ(千住)で遊んだり博打にうつつを抜かし、金は底をついて女房は質屋通い。亭主が無断で仕事を休むことも多くなり、見世にもいられなくなった。働き口がなくなって困り果てた二人。そこで、亭主は心を入れ替えたと詫びて、お歯黒どぶそばの羅生門河岸の見世に空きができたから女郎になれ、と女房に頼む。その見世とは、お客を蹴飛ばしてでも入れようとするから「蹴転(けころ)」と呼ばれる、吉原でも最下等な見世。逡巡していた女房が肚を決めてからが、見どころ、聴きどころだ。

 女房が、「お前さんは人間が嫉妬(やきもち)やきだからねぇ。あたしが客にいろんなこと言うけど、お前さんがそれを見て、歯ぎしりしたり眉(まみえ)を上げたり下げたりしていられたぁ日にゃあ、あたしぁ仕事ができないよ」と釘をさした。この前提があるから、後の会話も生きる。
 何人か客を逃がした後、亭主が引っ張り込んだ酔っ払いが、こんな場所にしてはいい女だ、掃き溜めに鶴だ、身請けしよう、などと言うと女房も嬉しいわと返して、いちゃいちゃする。
 客が帰ってからふてくされている亭主と女房の会話。喜多八の高座の記憶と志ん生版を参考にし、やや短縮版だが、こんな感じだ。

亭主 やめた!俺ァこんなことよすよ。ばかばかしくってよ
女房 何さぁ?
亭主 おめえ、あの野郎んとこ行って、女房になるのか?えぇ、おい
女房 誰がだよ
亭主 誰がって、いま、そう言ってたじゃねえか
女房 何言ってるのさ、お前さん、嫉妬(やきもち)かい?
亭主 嫉妬じゃねえ、ただ・・・おもしろくねえだけだ
女房 じゃぁ、どうすんのさ?
亭主 やめだい、こんなこたぁ
女房 やめ?・・・じゃぁよしちゃおうじゃないか
亭主 おう、よしやがれ!
女房 (少し間のあと、声を一段と高く)こっちだって、こんなことしたかぁないんだよ、
    自分が悪いんじゃないか。あたしとお前さんが一緒になって、どうかして別れたくない
    と思うから、こんなことしてるんだよ。いい歳して、顔の白粉がねぇ、口をききゃ落ちる
    のを我慢しているのは、何のためなんだい・・・こんな私でも、お前さんの女房だ
亭主 (急にやさしく)おこっちゃぁいけないよ、俺だって、おめえの体が心配だから・・・

 女房の「顔の白粉がねぇ、口ききゃ落ちる」の言葉が、なかなか泣かせる科白で結構なのだ。この後は、亭主が平謝りして仲直りする会話になり、サゲにつながる。

 この二人の会話で、喜多八、吉原で生きるためのぎりぎりの境遇における、夫婦の情愛を見事に描いてくれた。この後、この二人には幸せに暮らして欲しい、そんな思いがしたなぁ。

 “蹴転ろ”は線香が立ち切れる度の支払い。酔っ払いと女房との会話に嫉妬する亭主が四回目に「直してもらいなよ」と言った後、客が「なんか早かぁねえかい」で、しっかり笑いをとる。
 それぞれの人物像を少ない科白と仕草で明確に描写する技量はこの人ならでは。女郎屋の主人も良かったし、酔っ払いの客も可笑しい。亭主が客を捕まえては逃がしてしまう場面の「キャッチ&リリースだね」には笑った。
 逃がした後で女房に叱られ、やって来た酔っ払いの袖をしっかりつかんで離さない仕草からは、亭主の、女房が無理をしてるんだから俺も負けずに頑張ろう、という思いが伝わった。
 始まってしばらくは、相変わらず顔色が良くないので、短い科白を大声て言って大袈裟な仕草で笑いをとるつもりかな、と思わないでもなかったが、それら全てはこの噺に相応しい演出であったと思う。文句なく、今年のマイベスト十席候補としたい。 あえて付け加えると“新茶のゼントルマン”という副題にかかわる、“お茶を引く”の言葉もあった。他の二席には、お茶は登場しない。
 終演後の居残り会でも話題になったが、人間の持つ“悪(わる)”の側面や、“影”の部分を効果的に描くことにかけては、この人は大変な技量を持っている。談志の言う“業の肯定”にも近いものを感じるが、喜多八は談志を引き合いにされるのは好まないだろうなぁ。端正で善人がたくさん登場した扇遊の高座とは、好対照でもあった。

 終演後は我らがリーダーSさんと、Oさんの三名で居残り会。創立(?)メンバーの一人Yさんは上方の空の下だ。喜多八の高座についてはもちろん、文学談義にもなり、司馬遼太郎と吉村昭のことや漱石など話題は広がり、越後の酒、清泉の二合徳利が何本空いたのやら。ラストオーダーの声を聞いたのだから、帰宅が日付変更線を越えるのは想定(?)通り。
 Sさんや、国立演芸場前でお別れしたI女史は、あの文楽特別興行を観に、連日の隼町通いらしい。あの方々の元気なこと、そして好奇心旺盛で多趣味なことには驚くばかりだ。

 さて、喜多八の『お直し』の余韻が残っているうちに、少し補足など。

 舞台の“羅生門河岸”を「吉原再見」のサイトから拝借した吉原の図で確認。「吉原再見」サイトの該当ページ
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 お歯黒どぶ脇の羅生門河岸に、畳二畳ほどの見世が並んでいたらしい。志ん生は「九尺二間」と言っている。両側に小さな見世がつながっている間に細い路地があって、そこを冷やかし(覗くだけの客)も通るので、客引きは相手の着物の袖を素早くしっかりつかんで、引っ張り込まなければならないのだ。

 喜多八がマクラで言っていた国立劇場、国立演芸場の改装工事の件は、下記のように報じられている。
毎日新聞サイトの該当記事

国立劇場:17年4月から3年かけ大改修 五輪行事も視野
毎日新聞 2014年01月30日 15時10分

 歌舞伎や文楽など伝統芸能の拠点として親しまれている国立劇場(東京都千代田区隼町)が、2017年4月から休場し、約3年をかけて大改修されることが30日、分かった。開場から約半世紀が経過し、老朽化が著しいため。20年に開催が決まった東京五輪の関連行事会場となることを視野に入れ、同年6月完成を目指すという。

 国立劇場は、大劇場(1610席)と小劇場(590席)からなり、1966年11月に開場。隣接する、寄席演芸主体の国立演芸場(300席)は79年3月に開場した。

 運営する独立行政法人日本芸術文化振興会(茂木七左衞門理事長)などによると、劇場は給排水や空調に問題が生じている。計画では基礎部分をそのまま活用し、国立劇場や演芸場、事務棟など5棟を1棟に集約。「校倉(あぜくら)造り」を模した外観は残す予定だ。総工費は約400億円を予定。工事期間中の公演については、代替劇場を含めて検討中という。【小玉祥子】


 2020年の五輪関連、ということか。老朽化への対策は結構なのだが、私が好きな寄席会場の一つが、妙に落ち着かない環境にならないことを祈ろう。

 以前にも喜多八で聴いているような気がしたが、記録を見ると初のようだ。師匠小三治の音源があったような気がしたが、これまたなさそうだ。日々脳細胞が大量に死滅している。

 それにしても、喜多八は、誰に稽古をつけてもらったのだろうか・・・・・・。

 当てずっぽうで古今亭の何人かの名前でグぐったら、雲助の名で、彼のホームページの「雲助のぶつくさ」という日記風の記事で、次の内容を発見。十年ほど前のことだ。(前半と後半は省略、太字は管理人)
五街道雲助のHPの該当ページ

平成十四年 二月十日 於・鈴本演芸場
◎お直し
  ・
  高座に上がってみるとどうやら前の方のお客様は「お直し」目当てのカンジ。その他は日曜のお客様か。三連休の中日なのでまずまずの入り。枕を振りながら様子を探るがどうやら席も立たずに聴いてくださるようだ。そのまま本文に。この噺はまだ何度かしか演っていないが「遅くたって目が覚めたい」はウケたりウケなかったり。まだウケどころがハッキリ分からない。「お客を蹴転がして入れるからケコロってんだよ。又は羅生門河岸とも言うんだ」の羅生門が出てこないのでこの台詞はとばした。(^^ゞ口に紅を塗って亭主に「どうだい」と言うところは女房から女郎に変わるところ。いささかケレンだがこのくらいはようがしょ。(^.^)あたしの雑俳の宗匠は歌舞伎座のイヤホンガイドもやっている人だが、この宗匠が「名人が芸をダメにする」と言う。ハナは分からなかったが、要するに名人の芸に傾倒するあまり踏襲しようとするが踏襲しきれず、それでもなお後世の者に託すから芸に枠が出来て矮小化してつまらなくなると云うことらしい。例として山城抄掾と六代目の菊五郎を上げた。そして猿之助や勘九郎のケレンが必要なのだと言う。なるほど分からないでもない。噺家でも名を残した人はケレン味のある人が多い。大圓朝師も素噺に転じるまではケレンたっぷりの芝居噺で名を売ったし、江戸前と言われる黒門町もよく聴けば結構ケレン味のある芸である。近ごろ年齢のせいかケレンをさして恥ずかしいと思わなくなったのは良い傾向なのか知らん。でもケレンなくあっさりと生涯を終わった噺家も好きなんだよな~。
 ウケどころの少ない噺で「直してもらいなよ」「ヤケに早ぇなぁ」のくすぐりがウケてホッとする。そのあとの女房の口説(くぜつ)は少々クサいが、このくらいに演らないと下げが生きてこない。どうにか下げまで持っていけた。楽屋に下りてガックリ疲れた。喜多八さんが袖で聞いていて「今度稽古をしてください」と言うから「これは門外不出でゲス」と断った。あたしは決して根多惜しみをするタチではない。頼まれれば自分がいい加減に覚えた根多でない限りは、あたしが掘り起こした根多でも何でも教えている。でもこの噺は教えたくない。語弊のあるのを承知で言えば「柳家には演ってもらいたくない」なのだ。(^m^) 一つぐらいあたししか演らない根多があってもいいですよね~。 楽日は弟子達と打ち上げをするのだが喜助は自分の会でいないし、かなり疲れていたのでやらずに帰った。地下鉄のあたりで鈴本のお客様らしきご夫婦が「ここは笑点なんかのスターはあまり出ないんだよ」とか言っていた。こん平師も木久蔵師も出るんだけど…。(^_^;)こうしたお客様には「お直し」はマニアック過ぎたかな~。ぶつくさ…。
  ・


 この“ぶつくさ”、『お直し』という噺を演じる側の噺家さんの思いが分かるし、古今亭の柳家への意地(?)もかいま見られて、なかなかに楽しい。 “ケレン”かぁ。喜多八の高座、ケレン味があったなぁ。それにしても、雲助が耳にしたお客さんらしき夫婦の会話、“笑点なんかのスター”という言葉は、なんとも・・・・・・ぶつくさ・・・。
 
 しかし、この後、喜多八のたっての願いで雲助が稽古をつけた、ということなのだろうか・・・・・・謎だなぁ。

 こういった疑問が残るからこそ、今後も落語を楽しめるのだ。
 この噺では「直す」は“延長”を意味するわけだが、もちろん別の意味もあるなぁ。私の落語への好奇心、というか偏執狂的なほとんど病気は、とても“直し”ようがない。(お粗末)
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by kogotokoubei | 2014-05-22 06:47 | 落語会 | Comments(6)
 五代目小さん十三回忌特別シリーズを書いた中で、迷った末に割愛した内容がある。

 このまま埋もれさせるのが惜しいので、末広亭の追善興行も今夜が楽日、私の五代目小さん十三回忌特別シリーズも千秋楽特別篇として書きたいと思う。

 その前に、追善興行の番組表を確認。私は行けなかったのだが、記録として残しておきたいので、末広亭の番組表をコピーさせてもらった。


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 長男の六代目小さんと孫の花緑が皆勤。当然、かもしれない。そして、小燕枝が口上で皆勤に加え高座も含め休みなし。人柄が伝わってきて、この噺家さん、あらためて好きになった。
 次に出演が多いのが、口上と高座で九日出演のさん喬。
 小三治は初日のみ。なかなか寄席でも出会えない小はんが三日出演。残念ながら小のぶの名はない。

 小のぶの他にも残念ながら名前のない人、入船亭扇橋について書こうと思う。


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入船亭扇橋『噺家渡世』(うなぎ書房)

 『噺家渡世-扇橋百景』は、2007年7月に、うなぎ書房から初版発行。長井好弘の編集。

 七年前に発行された後で掲載された朝日新聞の記事がまだ残っているので、そのうちリンク切れになるだろうから、写真以外の全文を引用。その写真は、お互いにファンであった島倉千代子からもらったベストを着て笑っているのだが、なかなか良い表情なのだ。朝日新聞サイトの該当記事


「汗かかない訓練しなくちゃ」 落語の扇橋、芸歴50年記念し自伝出版
2007年10月12日

 古典落語の大看板、入船亭扇橋(76)が芸歴50年を記念して初の自伝『噺家(はなしか)渡世』(うなぎ書房)を出した。昭和の名人たちの指導を直接受けた最後の世代で、俳人としても知られる。

 東京都青梅市生まれ。57年に三代目桂三木助に入門し、三木助没後は五代目柳家小さん門下に。70年に真打ち昇進し、九代目扇橋を襲名した。以来、古典落語一筋だ。

 師匠の家に住み込む内弟子を体験した最後の世代だ。修業時代の思い出といえば、始終空腹だったこと。先輩が捨てた傷んだすしを食べたこともある。「ものは腐りかけがうまいというが、本当ですね。噺家も死ぬ前の方がいいのかな。でも口跡が悪くなるし、いいのは65までかなあ」

 三木助、小さん、志ん生といった名人たちの高座から多くを学んだ。翻って最近の落語はテンポの速さが気になる。

 「もっと間(ま)が欲しい。汗をかいての熱演なんてのはみっともない。プロは汗をかかない訓練をしなくちゃ。噺家は自分では笑いも泣きもしないでお客を泣き笑いさせるもんです」

 俳句を始めたのは中学入学前。水原秋桜子(しゅうおうし)の「馬酔木(あしび)」に投句し、「橋本光石」の号で歳時記にも載る。桂米朝、小沢昭一、柳家小三治、加藤武らと作っている「東京やなぎ句会」では宗匠もつとめる。

 「俳句をやると植物の名前も覚えるし、季節に敏感になる。枕で『サザンカが咲いていますな』と言うだけで、気分が出るでしょ」。俳句も落語も、大事なのは言葉をそぎ落とすことだという。

 「梅が香や根岸の里の侘(わ)び住まい」という句がある。「根岸の」以下はどんな上の句にもつく「万能俳句」として有名だが、評論家の矢野誠一さんの調べで、実は先代の扇橋の作だったことがわかった。不思議な縁があるようだ。


 “もっと間(ま)が欲しい。汗をかいての熱演なんてのはみっともない。プロは汗をかかない訓練をしなくちゃ。噺家は自分では笑いも泣きもしないでお客を泣き笑いさせるもんです”、という言葉が重い。小三治も同じような考えではないかと思う。だから、あの二人は仲が良いのだろうなぁ。

 九代目扇橋を継いでから、“万能俳句”の作者が先代であることが分かったわけで、たしかに不思議な縁があるものだ。

 昭和32年の11月、浪曲が大好きで旅回りの一座と九州に巡業してからの帰り、東京駅に出迎えてくれた浪曲作家の水野春三から、「おまえさん、浪曲は難しいよ。これから浪曲やって都会で妻子を養うってのはとても無理だ。だから、落語やったらどうだ」と言われて動揺した橋本光永青年だったが、縁あってその約一年後に三木助の門下となり前座名が木久八。翌年、初高座を迎えた。

初高座

 内弟子のころは、昔はもう、楽屋ン中、歩くんでも、音を立てて歩いたら大変ですよ。畳のへり踏んじゃいけないし。静かにね、まるでペルシャ猫が歩いているように、すーっと、いつの間にか後ろへ忍び寄ってるみたいな。そういう歩き方をしてたんです。このごろは静かに歩いてると、
「おい、どうしたんだい、体の具合でも悪いの」
 なんて、聞かれたりしますがね。
 最初に教わったネタは「寿限無」でした。三木助のところでは、初めは必ず「寿限無」から。十二月十七日に入門して、で、あくる年、昭和33年の5月には、寄席に出ました。初高座は横浜の相鉄演芸場、そこで「寿限無」を演りました。浪曲やってるころにずぶん人前に出てるはずなんだけど、あがっちゃって。けっこうお客さんがいたと思うんですが、まったく顔は見られなかったなあ。
 当時の三木助は日本芸術協会(現・落語芸術協会)の所属でしたから、楽屋には幹部の先代春風亭柳橋、先代桂小文治、古今亭今輔、先代三遊亭円馬、先代三遊亭円遊、それから先代柳亭痴楽なんて師匠連がいましたね。
 前座では、とん馬さん(三遊亭遊三)と、当時は今児といってた桂歌丸さんがいました。それから、今の橘の圓さん。これは冨太馬って名前でした。歌丸さんは、太鼓がめちゃくちゃうまかった。こっちは田舎の人間だから、太鼓なんか、お祭りの時しか叩いたことないでしょ。上手な歌丸さんが、うらやましかったですよ。
 そうそう、昭和33年9月には、芸術協会で六人真打ってのがあったんですよ。桂伸治(のちの十代目文治)、春風亭柳昇、三遊亭小円馬、桂小南、三笑亭夢楽、先代春風亭柳好の各師匠が一度に昇進した。落語協会では、三遊亭歌奴(4月、のちの三代目円歌)、林家三平(9月)という売れっ子二人が真打になってます。
 三木助は、弟子への稽古は滅多にやらなかった。あたしの入門してすぐは兄弟子がやってくれた。でもあたしは、「四人癖」とか「初天神」、「手紙無筆」、「道具屋」なんか教わってます。一度、『世界画報』っていう雑誌があたしの稽古風景を取材に来て、あたしが三木助の前で聞いてる写真が大きく載ったことがありましたよ。


 三木助が芸術協会にいたからこそ、扇橋は両協会の噺家さんと交流が出来たわけだ。歌丸の太鼓かぁ・・・・・・。

 次に、昭和36年、師匠三木助の最期の場面。

 亡くなる直前だから、15日だったのかなぁ。おかみさんが台所に来て、「ちょいと。あんたのこと、お父さんが、泣いて頼んでるから、行ってごらん」っていうから、飛んでいったの。
 師匠はあたしを見ると、「俺が死んだら、小さんのとこへ行くんだ。そして、『芝浜』やってくれ」と言うんです。そして、小さん師匠に、「『芝浜』を覚えて、こいつに稽古してやってくれ」って、吐き出すように頼んでました。文楽師匠にも言ってましたよ、「稽古してやってくれ」と。あん時は、「ああ、申しわけないなァ」と思いましたね。
 師匠はあたしのことだけを頼んで、三人の子どものことも、おかみさんのことも、何にも言わない。だから、おかみさんは怒ったの、泣いたの。
「一言でもいいから、子どものことを言ってもらいたかった」
 って。情けなかったんでしょうねえ。
 最期のときは、あたしと木久蔵と二人だけしかいなかったんです。おかみさんは、向こうで何か電話をしてた。「もう、死に水とらなきゃまずいよ」ってことになって、二人で三木助の唇を濡らした。それで、すーって、引き取る感じ。吐いて死ぬんじゃなくて、吸って死ぬんだね。「息を引き取る」っていうのは、あれなんだなって思いました。まるで芝居を見ているような感じでした。おかみさんは、間に合わなかった。私と木久蔵だけで、死に水を取って・・・・・・。


 師匠三木助が、どれほど当時の木久八を評価していたかを物語る逸話である。

 しかし、五代目小さんの『芝浜』の音源は、たぶん存在しないはず。扇橋の『芝浜』は誰に稽古してもらったのだろうか。

 さて、師匠の遺言と言うべき指示に従って、木久八は目白に向かった。
 小さん門下へ

 小さん門下に移った時には、上に小せん、さん助、つばめ、あのころ小団冶っていってた先代燕路、小のぶ、かゑるだった馬風、さん吉なんて人がいる。あたしは九番目ぐらいだったでしょうか。
 三木助門下から小さん師匠のところへ行ったのは、三人。あたしと小はんさん(木久弥)と、後にやめちゃった木久次です。円輔さん(木久松)は円馬師匠のところへとか、兄弟弟子はあっちこっち分かれちゃった。木久蔵は、林家(八代目正蔵)へ行った。でも、そのおかげで、彦六師匠の物真似で食ってんだもんね。文楽師匠ンとこへ行くってのは、一人もいないんだ。まずかったと思うよ。誰か行くっていうかと思ったら、誰も言わねェんだもの。で、圓生師匠も言わなかったな。でも、あそこは弟子が大勢いたからなあ。
 目白に行ってすぐ、師匠の小さんに「俺の『さん』を付けて、さん八にしよう」って言われて、「木久八」から「さん八」に改名しました。
 そして五月には、あたしも二つ目になったけど、十日に三日は目白の師匠宅に掃除に行くんです。そういう約束なんですが、今の若い連中はなんにもしてないんじゃないかなあ。
 小三治なんかは、要領がよかったんだ。そのころね、こっちはまだ新婚で、二人だけ部屋で寝てんの。そこへ、
「トントントン、アニさん」
 っていきなり、あいつが来やがってね。
「なんだい」
「悪いけど、今日、師匠んとこ行ってくんないかなァ」
 休むときは、ちゃんと代わりの誰かを差し向けるという。で、「ちょっと待ってろ、おまえ」って、あたしがガサガサさせてたら、「やってやがったな、アニさん」なんつって。
 小さん門下は、とにかく放任主義。三木助のところとは大違いだったなあ。


 なんとも、楽しい回想である。扇橋と小三治との仲の良さが伝わる逸話の一つだ。

 小三治の入門から真打昇進は、落語協会サイトで次のように記載されている。落語協会サイトの該当ページ
1959(昭和34)年03月 柳家小さんに入門 前座名「小たけ」
1963(昭和38)年04月 二ツ目昇進「さん治」と改名
1969(昭和44)年09月 真打昇進 十代目「柳家小三治」を襲名


 同様に扇橋もご紹介。落語協会サイトの該当ページ
1957(昭和32)年12月 三代目桂三木助に入門
1958(昭和33)年05月 初高座 前座名「木久八」
1961(昭和36)年01月 三木助没後、五代目柳家小さん門下へ
1961(昭和36)年05月 二ツ目昇進 「柳家さん八」と改名
1970(昭和45)年03月 真打昇進 九代目「入船亭扇橋」を襲名


 ご覧のように、扇橋が小さん門下に替わったのは昭和36年の一月。小三治は昭和34年に入門しているので、三年目の前座として扇橋を迎え、扇橋はすぐに二ツ目に昇進したということになる。

 さて、今回の特別篇のトリは、扇橋の十八番のあの噺の伝承に関する、私にとっては意外なお話。
 林家はけっこうしゃれたものを着てましたね。総領弟子の柳朝さん(先代)の感化で、ああなったのかなァ。夏なんかアロハシャツ着て、コーヒーを淹れてました。そんな時は、いつも小はんが手伝ってた。林家は、キリマンジャロがお気に入り。こっとは銘柄なんか知らないからね、香りはいいけど、ちょっと酸っぱいなあと思ってましたよ。
 その柳朝さんが、まだ照蔵だった時、よく稽古してもらいました。よく覚えているのは「麻のれん」だね。小さんがあたしの「麻のれん」「を聞いて、「おめェ、この噺、誰に教わった?」って聞くんですよ。「照蔵アニさんからです」、「あれは、俺がおせえたんだよ」って。「麻のれん」は、小さんから照蔵のところへ行って、私の所に戻ってきたんですね。



 へぇ、『麻のれん』は、小さん→柳朝→扇橋、だったんだ!

 このネタは三代目小さんの十八番でもあった。五代目小さんは、三代目の得意ネタを三代目を尊敬していた七代目可楽から数多く教わったことは、今回のシリーズで紹介した通り。

 ということは、『麻のれん』の系図(?)は、こうなるのだろうと思う。

  三代目小さん→七代目可楽→五代目小さん→五代目柳朝→九代目扇橋

 と伝わったのではなかろうか。

 十三回忌を迎えた五代目小さんのことを思いながら、さまざまな本をあらためて読んでいるうちに、扇橋の十八番ネタの意外な系統にたどり着いた。

 末広亭の追善興行に出演が叶わなかった扇橋の快復を祈りながら、特別篇のお開きとしたい。
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by kogotokoubei | 2014-05-20 00:55 | 落語家 | Comments(4)
5月16日の命日は、五代目小さん十三回忌特別シリーズの最終五回目。五代目なので五回でお開き。

 弟子による師匠回想では、すでに小三治の本を紹介したが、トリはやはりこの人だろう。

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立川談志/写真田島謹之助『談志絶倒 昭和落語家伝』(大和書房)

 談志の名著『談志絶倒 昭和落語家伝』から。談志を、優れた芸能評論家であり落語の好指南役と考えている私の推薦書。2007年9月の発行。だから、小さん没後五年の時。この本については以前に書いたことがある。2011年11月29日のブログ
  
 田島謹之助さんの貴重な写真(昭和29年から30年の人形町末広の噺家さんの写真や八代目桂文治の自宅の写真など)とともに本書で談志が取り上げられているのは、掲載順に次の噺家さん達。
-----------------------
六代目 三遊亭円生
三代目 春風亭柳好
三代目 桂三木助
八代目 桂文楽
六代目 春風亭柳橋
      桂小文治
五代目 古今亭今輔
八代目 三笑亭可楽
四代目 三遊亭円馬
四代目 三遊亭円遊
二代目 桂枝太郎
七代目 春風亭小柳枝
      昔々亭桃太郎
      林家三平
十代目 金原亭馬生
三代目 柳家小せん
七代目 橘家円蔵
九代目 翁家さん馬
     三遊亭百生
二代目 桂右女助
八代目 春風亭柳枝
八代目 林家正蔵
二代目 三遊亭円歌
八代目 桂文治
五代目 古今亭志ん生
五代目 柳家小さん
-----------------------
 これだけの顔ぶれのトリが、師匠小さん。。

 掲載されている40歳の頃の若々しい小さんの写真が楽しい。結構、二枚目なのだ。

 談志が小さんのお内儀さんの弔いの時のことを、次のように書いている。

 小さん師匠より早く死んだが、小さん師匠より年上である。ちなみに、お内儀さんの葬儀の弔文は私が書き、私が読んだ。小さん師匠は感極まって泣いていたっけ。
「バカヤロウ、弟子に弔文を書かせる奴があるか」
 という文句も出たそうだが、
「いいよなあ、お前がやる分には」
「いいですよ。ぐずぐず言う奴は、ロクな者(もん)じゃないですよ、師匠」


 噺家は、師匠のお内儀さんをしくじらないことが重要、とはよく言われることだが、談志に弔文を書かせたということは、しくじるどころか、師匠夫婦には実に良い弟子だったということなのだろう。

 お内儀さんが亡くなったのは昭和53年の12月。円生の脱退騒動のあった年である。小さんにとって激動の年の暮れに最愛の妻を失った時、あの騒動の仕掛け人であったとは言え、自分の元に戻ってくれた談志は可愛いかったに違いない。

 紹介した文章の後に、こうある。

 小さん師匠が、私にボソっと言った。
「昨夜(ゆんべ)、お前、タクシーに乗ったらよォ、その運転手がな、お前の悪口ばかりなんだよ。
“談志”はしょうがねえな。生意気だな、あいつな。師匠の弟子でしょ。だめだ、あれな、なんとかしねえと”
 さんざっぱら言うんだ、お前のことを。しょうがねえから、降りるときに六百円余計にやっちゃったよ」
 どうってことないんだけど、これ、小さん師匠が喋ると可笑しい。落語の「フラ」というが、えもいわれぬ面白さ。小さん師匠、フラのある芸人でした。


 なかなかいい話だ。小さんの弟子を思うやさしさが伝わるし、談志が「フラ」という表現を師匠に使うところが、意外でもあるが、実は「フラ」という専門用語の本質はこういうことか、と思わないこともない。

 この本の良さは、談志が田島さんの貴重な写真を元に昭和の名人たちを楽しそうに、そして愛情を込めて振り返っている姿が、自然体の文章で伝わるところだ。

 そして、本書のトリで、実に素直に師匠小さんのことを回想している。だから、あの談志からは意外とも思える表現に出会える。(太字は管理人)

 今だからいうが、その頃、あの頃、二人が喧嘩ァしてた頃、もし師匠が、
 「オイ帰って来いよ。俺が頭を下げる」
 と、もし言ったとしたら、家元は困ったろう。これで落語協会に帰らなきゃあ、日本教に反するものネ。世間が許さない。談志が日本中で叩かれ、潰される。
 それを偶然か故意(わざと)か、師匠は言わなかった。 
 「あれはあれで、いいんだ」と言った。
 師匠、済まねえ。師匠と弟子として、一番仲がよかったしネェ。


 
 「孝行をしたい時には師匠なし」とでもいう思いが強かったからの“師匠、済まねえ”だったのだろうと思う。

 談志は照れ屋だ。それは高座の後に時おり見せた照れ笑いで分かる。だから、立川流を創立した後も、自分から小さんとの関係にケジメをつけるため詫びに行くようなことはできなかっただろう。あるいは、師匠小さんは分かってくれているはず、という思い込み、甘えもあったはず。だからこそ、没後のこの言葉になった気がする。
  
 今頃天国でこの師弟はどんな会話をしているのだろうか。きっと、他愛ない子供のような喧嘩をしながら、美味い酒を酌み交わしているのだろう。

 そんな思いを抱きながら、五代目小さん十三回忌特別シリーズはお開きとさせていただきます。
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by kogotokoubei | 2014-05-16 06:12 | 落語家 | Comments(2)
五代目小さん十三回忌特別シリーズの第四弾は、まずこの本から引用。

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興津要・柳家小さん『芸談・食談・粋談』(中公文庫)

 五代目柳家小さんと興津要との対談、いや会話が中心の本。昭和五十(1975)年に大和書房で発行されたものが、中公文庫で昨年の5月に再刊された。
 この本については、読んですぐにブログに書いたので、ご興味のある方ご覧のほどを。
2013年6月1日のブログ
 四代目小さん入門当時のことから。

興津  師匠は四代目に入門して、内弟子はしなかったんですね?
小さん そう。「内弟子にしてください」つってたのんだら、「内弟子はとらない」っていうんで、通いになった。そのうちに、師匠が、「内弟子にきてもいいよ」なんつったけど、こっちも、やっぱりおふくろの手つだいしたりなんかしなくちゃなんなかったんで、「いや、通いにしてもらいます」って、ずっと通いで・・・・・・。
興津  で、入門したころは、噺、いくつかおぼえてたわけですか?まあ、正式に稽古しないにしても・・・・・・。
小さん そう。聞きおぼえのもんだからね。それで<立花>の昼席で、はじめて(高座に)あがったとき、『清書無筆』—それも、金語楼さんの『清書無筆』をやった。かんがえてみりゃあ、金語楼さんは、あたまが禿げてるからね。それで、清書を書いてるの、なんとかで、「はげめ、はげめ」ってくすぐりがあるんでね。それと自分の禿があれだから、客は笑うわけだよね。噺にでてくるおやじは、あの金語楼独特の(と、下くつびるを突きだし)顔して、笑わせたわけだ。だから、そんなのおぼえてやったわけだけどもね。どうも・・・・・・お客は、ふたりっきりはいってないんだから(笑)。
興津  心ぼそい—。
小さん うーん。それを、楽屋裏へウワーッときて、うちの師匠からみんな聞いてて笑ってんだ(笑)。だから、ぽーっとしちゃってね。そのふたりの客の顔なんぞ、まるっきりわからなかったね。あがっちゃってね。その客よりも楽屋のほうを気にしたからね。笑ってるからね。「やっぱりまずくって笑ってんだね」とおもうから、なおあがっちゃう(笑)。
興津  そのころは、芸名はもう・・・・・・。
小さん いや、芸名は、全然あたしは知らない。それで、亡くなった小円朝さんが、「君、なんだってね、栗之助ってんだってね?」「いいえ、あたしは、クニ之助ってんじゃねえんで・・・・・・」「いや、書いてあるじゃないか」。そしたら、「栗之助」なんだ(笑)。


 初高座が金語楼版の『清書無筆』だったとは。

 その後の修行時代のこと。昨年の本書の記事の際にも引用した部分だが、あらためて紹介したい。

小さん はじめはね、もう、師匠の噺ばかり聞きおぼえでやってた。そうすると、死んだ玉井長之助の可楽さんなんかは、「いいよ、師匠のだけでいいよ。稽古にいかなくたっていいよ」なんていってた。こっちも、そのつもりで、師匠の噺ばかりをしゃべってた。そしたら、二つ目になってから、師匠が、「もう、おれの噺やっちゃいけない。おれの噺やったら、もう、名前とりあげるから・・・・・・」っていうんだよね。
興津  小きんのころ?
小さん ええ。それから、ほうぼう稽古にいきはじめてね。
興津  どんなとこへ?玉井長之助の可楽さんのとこなんかへ?
小さん そう、可楽さんとこが一番多いですよね。それから、あとは、いまの正蔵さんとこ。
興津  正蔵さんの馬楽時代?
小さん そうそう。あそこへもちょいといってる。やっぱり、なんといっても、可楽さんとこが一番多かった。それから、あとは、ぜん馬さんね。
興津  可楽さんってひとは、どんなふうに稽古つけるんです?
小さん 普通に稽古してくれてね・・・・・・。
興津  全部やっちゃうわけ?
小さん ええ、やる通りにず—っとやってくれる。それで、あとで、ちょいちょい、ちょいちょい、ここは、こういうふうにしゃべったほうがいい、ああいうふうにしゃべったほうがいい、なんていってくれてね。で、いまの馬楽といっしょに稽古にいったんだけど、馬楽のぶんまでおぼえちゃった。


 本書の「注」によると、ぜん馬は五代目立川ぜん馬で、奇術師・曲芸師から落語家に転身した人らしい。高座にはほとんどあがらず、稽古台に専念した人とのこと。一緒に可楽に稽古をつけてもらったという馬楽は六代目蝶花楼馬楽で小さんの兄弟子。

 四代目のことや修行時代のことを、同じ興津要著『忘れえぬ落語家たち』から補足したい。

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興津要_忘れえぬ落語家たち

 本著は、かつて旺文社文庫で発行された3冊の著作から昭和の落語家に関する内容を中心に再編集され、2008年に河出文庫から発行されたもの。

 「四代目柳家小さん」の章からの引用。

 ます、五代目の師匠の回想から。

 歌笑がバリバリで売れている時分でね。みんな、歌笑のあとに(高座へ)あがるのを、いやがるんだよ。わたしだって、いやだった。歌笑のいくつかあとへあがっても、お客(の調子)はおかしいんだものね。うちの師匠が、「あれは、いかものだ。おれの前で出しておけばいい」なんて言ってね。あたしの真打披露のときだったか、歌が、ワーワーひっかきまわしたあとへ師匠が出ていって、「付き馬」だったかなあ、お客をバッとおさえて、おりて来た。そうすると、浪曲の林伯猿が楽屋へはいって来てね、「おまえの師匠は、やっぱり名人だなあ」って言ったことがありますよ。


 歌笑についても書いたことがあるのでご興味のある方はご覧のほどを。2009年5月28日のブログ
 その時分、ラジオの普及と相まって、歌笑は「爆笑王」「笑いの水爆」と呼ばれたほどの人気を誇っていた。歌笑が客席を笑いの渦にした後に、その空気をおさえて客に聴かせることのできた四代目小さん、なるほど名人だったのだろう。
 
 そんな四代目に惚れ込んでいた栗之助に師匠が命じたことがあった。。

 五代目が栗之助を称した前座時代には、四代目の落語ばかり演っていた。
 すると、「小さんに生き写しの影法師みたいな弟子がいる」ということが評判になった。
 これが四代目の耳にもはいったらしく、栗之助が、二つ目に昇進して小きんと改めたさい、
「おまえ、おれの咄をやちゃいけない。おれの咄をやると、もう、小きんの名前をとりあげるぞ」と釘を刺した。
 師匠の物真似ばかりやっていては大成しないという意味だったわけで、五代目は、ほうぼうの師匠のところへ稽古を受けに行くようになったが、とくに七代目三笑亭可楽のもとへはもっとも多く通った。
 七代目可楽というひとは、三代目小さんを尊敬して、若いときには<小さんの影法師>と言われたくらいだから、三代目の咄は数多く持ちネタにしていた。
 三代目小さんは、昭和五年に亡くなり、五代目小さんは、昭和八年に四代目に入門したにもかかわらず、「猫久」「大工しらべ」「宿屋の富」「高砂や」など、三代目の咄を得意にしているのも、可楽の稽古をい受けたおかげだった。
 四代目の<束縛せぬ方針>によって、三代目の咄が五代目に受け継がれたのだから世のなかはおもしろい。
 弟子の個性を尊重した四代目は、自分の個性も熟知していて、弟子には、自分にない佳さを他の師匠から吸収させた。
「おまえの芸には、ずうずうしさ(著者注、度胸のよさの意)がない、色気がない。だから、金馬(三代目)のとこへいって、そのずうずうしさをおぼえて、文楽のとこへいtって、その色気をおぼえて来い」と五代目に言い、それを実行したことで五代目は成長したのだった。


 三代目→四代目→五代目の小さんは、このように三代目→七代目可楽→五代目、などの迂回経路を含めて繋がっているわけだ。他の一門の先輩から自分の師匠のネタを教わる、ということは、ある意味では非常に優れた伝承の形式なのかもしれない。
 ある程度はこの構造が今日の落語界にも当てはまるのだろう。師匠が一門よりも他の門下の噺家に熱心に稽古をつける、ということがあの世界では常識のようだから。

 四代目小さんが栗之助の将来を案じ、自分の真似を禁じて他流試合をさせたからこそ磨かれた五代目小さんの芸。今後もぜひ一門の身内のみならず、外にも伝え続けて欲しいと思う。
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by kogotokoubei | 2014-05-15 19:40 | 落語家 | Comments(0)
五代目小さん十三回忌特別シリーズ、昨日のお記事を書いた後には、次は小三治のおカミさん郡山和世著『噺家カミさん繁盛記』から何かご紹介しようかと思っていたのだが、私の記憶違いで、ほとんど旦那の師匠小さんについての記述がなかった^^
 何か書いていたような気がしたのだが、相当脳細胞が減っているようだ。

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 路線変更で、川戸貞吉著『現代落語家論』(弘文出版)から紹介したい。

 著者は、早稲田の落研時代から当時の小ゑん(現談志)や全生(五代目円楽)と懇意になり、TBS入局後に、今につながる落語研究会の再開を企画した人。

 本書は昭和53年五5月10日初版発行なので、あの落語協会分裂騒動の直前。よって、著者は翌年早々に『新現代落語家論』を書くことになる。

 さて、上下二巻の下巻に小さいのことが書かれているので、引用したい。


 不精な私だが、『落語日記』と称して、落語に関する日記だけは、つけてきた。この日記から、小さんの芸談を、少し拾い出してみよう。

 昭和四十二年十月三日
 夜、イイノホールへ行く。楽屋では正蔵・小さん両師のやりとりが印象に残った。
 小さんが正蔵に、いろいろと聞いている。まず朴炭(ほおずみ)のこと。『湯屋番』に出ているという。
「家の愚妻さんも使っているよ。四代目(四代目小さんのこと)も使っていた」
 と、、正蔵がいう。
 朴炭は朴の木の炭で、それでこすると、たいへんすべすべするそうだ。
「垢すりも近頃は使わなくなったねェ」
「昔は三助が使ったが」
 と、しばらく雑談。
『湯屋番』は小さんの十八番といわれているのに、まだ調べている。頭が下がる。
 (中 略)
 この夜の小さんの演しものは『王子の狐』。


 稲荷町と目白の楽屋話、なんともいい感じだ。横で聞いていた人が羨ましい。日記の紹介を続ける。
 

十月八日
 夜、小さん師と飲む。『王子の狐』について話を聞いた。前座・二ツ目時代に八代目文治から教わったもので、ずっとオクラにしていたという。
「久々此間(こないだ)演ったが、もう忘れちゃったよ」
 そういってケラケラ笑った。
 四代目小さんは、狐をだます人間を二人連れにして演っていたという。『そのほうが演りやすいから』という理由からであった。
「なるほどそのほうが演りやすいやね」


 今まで『王子の狐』で二人連れで狐をだます噺は聞いたことがないが、なるほど面白いかもしれないなぁ。

 この師匠四代目小さんにまつわる逸話を、昭和四十八年三月二十二日の日記の、小さんの会話の途中からご紹介。

「とにかく昭和の名人というと、五代目円生、三語楼、四代目小さん、八代目文治だな。文楽師匠は、まだそのあとだよ。あたしも三語楼の噺を聞いて噺家になろうと思ったんだから。そりゃァ素人のときは、三語楼を追いかけたもんだ」
 それから話は、自分の師匠四代目小さんのことに移った。
「うちの師匠は本当に上手かった。でも、うちの師匠の本当のよさをわからねえ奴が、大勢いたね。あの小勝(五代目小勝)だってそのうちのひとり、それから正岡容。
 その人が、うちの師匠のことを悪くいったんだ。『志ん生の代わりに四代目が出たが、あれじゃァ代演にならない。志ん生の代わりに小さんなんて・・・・・・』等と書いたんだな。いまにして思うと、これはセコだとかなんとかいうんじゃァない。芸風が違うから代演にならないという意味なんだろうけれど、なにしろこっちゃァ若かったからねェ、浅草のほうの鳶の鳶頭(かしら)が見せてくれたんだが、『うちの師匠のことをこんなに悪くいうなんて』と思ったら、体がぶるぶる震えてきたね。『よーし、あの野郎明日ぶん殴りに行ってやる』と思ったン。『そうだそうだ』なんて、鳶頭もこっちを煽るしね。本当に行こうと思ったン。
 ところが、その晩に赤紙がきて、こっちは軍隊に連れてかれちゃったァ。いまから考えると、殴らなくていいことしたよ」
 本当だ。もしこのとき殴っていたら、おそらく大騒動になっていたに違いない。

 
 三語楼(初代)については、このブログを初めて間もない頃に書いた。ご興味のある方はご覧のほどを。
2008年6月12日のブログ
 紹介した内容でもお分かりのように、五代目小さんの師匠四代目への思いは強く深い。

 夏目漱石が『三四郎』の登場人物にその名人ぶりを語らせた三代目と、五代目の間に挟まって影が薄いように思われる四代目小さん。
 十八番は、『かぼちゃ屋』『二十四孝』『ろくろ首』『三軒長屋』『青菜』『お化け長屋』『雑俳』『三人旅』『芋俵』などの滑稽噺と言われる。ほとんど五代目は師匠のネタを継承していることが分かる。

 五代目の十三回忌、必ずしもご当人の五代目を思い出すことに限らず、師匠四代目のことに思いを馳せるのも一興ではなかろうか。

 末広亭での追善興行では日替わりで『千早ふる』が演じられているようだ。たしかに五代目のネタではあるが、“小さん”ということで考えるなら、もっとネタ選びも変わってよいような、そんな感想を抱いた。ちなみに、ちくま文庫の『小さん集』には、ちょうど十八席収録されているが、『千早ふる』は含まれていない。三代目から四代目、そして五代目に継承された他のネタでも番組はつくれるように思う。広い意味での『浮世根問』を、人それぞれに演るなんてぇのも楽しい企画ではなかろうか。『やかん』になってもよいだろうし、『一目上がり』でもよいだろう。

 四代目小さんについては、五代目のことを知るためにも、もっと語られてよい、名人ではなかろうか。五代目が正岡容を殴りに行こうとまで思わせた師匠である。

 小さんにあの日、赤紙が届かなかったら・・・・・歴史に禁物の「IF」だな、これは。
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by kogotokoubei | 2014-05-14 12:48 | 落語家 | Comments(6)

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by 小言幸兵衛