噺の話

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旧暦では、今日が大晦日、明日が元旦。

 中国では大晦日の夜、家族団らんで夕食をすること(「団円飯」と言う)が大事なこととされている。

 会社の中国出身の社員に聞いたところ、団円飯の料理は、東北地方では餃子を食べるが、南方では食べないという違いはあるが、共通するのが、縁起の良い鶏料理や魚料理を食べること。
 鶏を中国語で「ジー」と発音し、吉も「ジー」と発音すること、魚を中国語で「ユー」と発音し、お金がたくさん余るようにの余も「ユー」と発音するためらしい。

 昨今は、中国などアジアの中華圏で「春節の民族大移動」といったニュースが報道されるので、「あぁ、旧暦で正月なんだぁ」と気づかされるかと思う。

 中国における春節の交通ラッシュを「春運」と言うが、予想では春節の二週間ほど前から始まり、述べ36億人の大移動があるとのこと。

 昨今では中国の都市に住む富裕層を中心に、春節の長期休暇を利用して海外旅行をする人も多いらしい。中国情報ニュースサイト「新華経済」の次の記事のように、今年は国内旅行者より海外旅行者の方が上回るとの予想もある。
「新華経済」サイトの該当記事


春節期間中の旅行先、韓国・日本が人気、海外が初めて国内上回る—中国
2014年01月22日

今年の春節(旧正月)期間中に中国から海外旅行に出かける人の数が初めて、国内旅行に出かける人を上回るとの予測を中国旅游研究院が発表した。20日付で中国網が伝えた。

同研究院の調査によると、2014年の春節(旧正月)期間中に旅行に出かける予定だと答えた都市部住民は59.9%で、昨年の76.8%を下回った。予約状況を見てみると、海外旅行に出かけようとしている人は39.3%、国内の別の省への旅行は32%となり、2009年の調査開始以来、初めて海外旅行の割合が国内旅行を上回った。

人気の渡航先は韓国、日本、シンガポール、マレーシア、タイ、米国、フランス、ニュージーランド、カナダ、香港・マカオ・台湾。国内旅行では、三亜(海南省)、北京、杭州(浙江省)、上海、雲南省、東北地方などの人気が高かった。



 ウォールストリートジャーナルには、今年の中国からの旅行先人気トップが日本、という調査結果を掲載している。
「ウォールストリートジャーナル」サイトの該当記事

トラベル2014年 1月 15日 19:47 JST.
中国人富裕層の人気旅行先トップは意外にも日本

 旅行情報サイト運営会社トラベルズー・アジアパシフィックの最新調査によると、中国人富裕層の今年の人気旅行先ランキングで日本がトップとなった。尖閣諸島をめぐる問題などで日中関係が冷え込んでいることを考えると、これは意外な結果かもしれない。

 中国本土の回答者で最も行きたい旅行先に日本を挙げた人の割合は29%と、昨年の18%から大幅に上昇した。

 中国人富裕層にとって、円安で日本は買い物天国となっている。円相場は昨年1年間で米ドルに対して約22%下落。一方、人民元相場は対米ドルで約3%上昇した。

 トラベルズー中国部門のビビアン・ホン社長によると、中国人観光客は日本に滞在中、ルイ・ヴィトンのバッグや1000ドル(約10万4000円)の炊飯器などを先を争って買い込んでいる。

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 その主たる目的は買い物であるということに、かつての日本の海外旅行ブームを思い出す。近いうちに、中国の都市でルイ・ヴィトンを持つ女性の姿を数多く見かけることになるのだろう。

 今日の「新華経済」に、次のような記事を発見した。(太字は管理人)
「新華経済」サイトの該当記事

日本に2カ月滞在した中国人、帰国した中国はどのように見えたのか?—中国メディア
2014年01月30日

日本に2カ月前後滞在したという中国のビジネスマンが先日、日本が繁栄し、かつ文明化された国であり、経済や社会モラルにおいて中国が学ぶべき点が多いと紹介する文章を掲載し、話題になっている。その内容は以下のとおりだ。

まず、経済分野において中国は日本から学ぶべきだ。日本経済は1960年代から飛躍した。戦後の20年で一流の経済国となり、五輪を成功させたのだ。翻って中国は77年(文化大革命の終結)から37年が経つにもかかわらず、なおも一流の経済大国入りが果たせていないうえ、1人あたりの平均収入も世界の下位に甘んじている。

2カ月の訪日中に11都市を巡ったが、日本人の物質文明、精神文明について深く感じさせられた。例えば、網のように張り巡らされた東京の地下鉄はしばしば人が押し合うほどに混雑するが、その最大の特徴は静かで整然としていることなのだ。みんな順序よく乗り降りし、ぶつかって来る人もいなければ、他人の足を踏んでケンカになることもない。そして、時間の正確さにも舌を巻く。更に驚いたのは、自動車交通も秩序が守られていて、警察官が交通指揮を行っていないのに歩行者もドライバーもちゃんとルールを守っていたことだ。最も大きな驚きを覚えたのは、バスでさえ定時運行していたことだ。中国はいつ、飛行機も列車も定時に運転できるようになるのだろうか

社会モラルにおいても、日本を見習わなければならない。日本人は公共の場所では他人に迷惑をかけないように小さな声で話す。中国ではどこでも見られるような、大声で叫んだり、傍若無人に談笑したりといった状況を1度も見なかった。行列にはみんな自覚的に並び、割り込むような現象は見られない。そして、友人や同僚に会ったときでもお互いにおじぎをする。中国にも拱手という伝統的な礼節があったのに、文革で消えてしまったのが残念だ。

日本人の民族精神は、自らの民族文化への敬愛にも現れる。中国人は中国文化を愛してはいるが、リスペクトしているとは言い切れまい。骨董品を見るや否や「いくらで売れる」などと考える人は多いし、各地では墓荒らしが日常茶飯事だ。工事現場で古いお墓が見つかれば途端に略奪状態となり、貴重な遺体はその辺に捨てられる。これが先人に対する中国人の態度だ。日本ではみんなが文化財保護の意識を持っていて、墓をあばく人など見られない

2カ月の旅を終えて中国に戻ったとき、発展した現代社会から中世に連れ戻されたような感覚に陥った。中国も日本も絶対的な「和諧社会」ではないが、総じて日本の方が調和のとれた部分が多く、繁栄し、かつ文明化された国なのだ。

(編集翻訳 城山俊樹)



 真摯に相手から学ぶことのできる、このビジネスマンのような中国人ばかりではないだろう。

 しかし、旅行の目的が買い物であれ何であれ、多くの方が中国から日本を訪れることで、もし日本や日本人に対するネガティブな印象を払拭し、日本への認識を新たにする人が少しでも増えるのなら、とにかく日本に来てくれることは、そのことによる経済効果に限らず、良いことなのだろう。

 その逆も然りのはずなのだが、残念ながら日本から中国への旅行者は減っている。それは、PM2.5という環境の問題に加え、日本政府の外交政策の影響もないとは言えない。

 日中の旅行事情においては、片道通行がしばらく続きそうだが、来る者は拒まず、が日本の精神であろう。

 街で中国の方と目があったら、渋面をつくるのではなく、とりあえず笑顔で返すようにしよう。
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by kogotokoubei | 2014-01-30 06:45 | 旧暦 | Comments(0)
行き逢ふて そ知らぬ顔や 大三十日

正岡子規の句である。

 明日1月30日は、旧暦の12月30日で、大晦日。だから、当たり前だが1月31日が元旦。旧正月で春節と呼ばれる。

 この句は、明治32(1899)年12月24日子規庵での第三回目蕪村忌句会での作。新聞「日本」の明治33(1900)年12月31日号に「大三十日(おおみそか)」と題して掲載された。

 子規が亡くなったのが明治35(1902)年9月19日なので、その約三年前、三十五歳での発句。
 
 この句を、大晦日で何かと気ぜわしく知人と行き逢っても知らぬ顔をしてしまう、と解釈したのでは、何らおもしろくない。

 落語好きの方なら、この句の可笑しみがお分かりだろう。

 大晦日は『掛取萬歳』『言訳座頭』『にらみ返し』などのネタでご存知のように、借金取り(掛取り)がやって来る日である。

 その掛取りに道で行き逢っても、「そ知らぬ顔」でやり過ごす光景をネタにしたのだろう、と思う。

 子規は、この句をつくった時期、ほとんど寝たきりになっていたはずだ。

 落語が好きな子規であり、病床でもできるだけ明るく振る舞っていた彼のことである。きっと、行けなくなった寄席を想っての発句だったのではなかろうか。

 だいぶ前にも引用したが、亡くなる前年、新聞『日本』に明治34(1901)年1月16日から7月2日までの期間、途中たった四日だけ休み、計164回にわたって連載された『墨汁一滴』より抜粋。(太字は管理人)
2009年12月22日のブログ

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     正岡子規 『墨汁一滴』
 

散歩の楽(たのしみ)、旅行の楽、能楽演劇を見る楽、寄席に行く楽、見世物興行物を見る楽、展覧会を見る楽、花見月見雪見等に行く楽、細君を携へて湯治に行く楽、紅灯緑酒美人の膝を枕にする楽、目黒の茶屋に俳句会を催して栗飯を鼓する楽、道灌山に武蔵野の広さを眺めて崖端の茶店に柿をかじる楽。歩行の自由、坐臥の自由、寝返りの自由、足を伸す自由、人を訪ふ自由、集会に臨む自由、厠に行く自由、書籍を読む自由、癇癪の起りし時腹いせに外に出て行く自由、ヤレ火事ヤレ地震といふ時に早速飛び出す自由。・・・・・総ての楽、総ての自由は尽(ことごと)く余の身より奪ひ去られて僅かに残る一つの楽と一つの自由、即ち飲食の楽と執筆の自由なり
(後 略)                            (3月15日)


 病に伏せる身の上であっても、彼の筆は決して暗くない。もちろん書いている内容そのものは健常者から見れば誠に可哀想ではあるが、彼はユーモアたっぷりに身の上を表現し、多くの“楽”と“自由”を奪われたが、「まだ、食べて、そして書くことができる」と自分自身を鼓舞しているようにも読み取れる。

 
 この句を練っている時、きっと、こんな心情だったのではなかろうか。

 「もうじき、大晦日だなぁ。この時期になると、よく聴くネタがあるなぁ。『掛取萬歳』に『言訳座頭』、そして『にらみ返し』か・・・・・・」

 そういった心情が、この句に結びついたような気がする。

長病の 今年も参る 雑煮哉

 これが、翌明治三十三年、新年の句である。

 数多く失った“楽”や“自由”がある中で、また雑煮を食べることができる喜びの句とも思うが、“長病”の文字が、やはり重い。
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by kogotokoubei | 2014-01-29 19:12 | 旧暦 | Comments(0)
昨年三月以来、久し振りの見番である。前回は『よかちょろ~山崎屋』が結構だった。
2013年3月31日のブログ

 少し仲見世をひやかしてから早めに席を確保し、二年ほど前にこの会に初めて来た時にも行った見番近くの大衆的な中華料理屋さんで昼食。
 店の名は変わっていないが、以前来た時は老夫婦で店を切り盛りしていたのが、息子さんと思しき方が厨房の中で調理をしていた。
 あの時はちょうど平成中村座の最中だった。その時の内容から少し引用する。
2012年4月21日のブログ

懐かしい屋台の味の醤油ラーメンを食べていると電話。奥さんと思しき女性が電話を受ける。「はい、橋之助さんですね、ワンタンとチャーハン、2時ですね、分かりました。毎度ありがとうございます。」と電話を切った。そうか、今、平成中村座が墨田公園で芝居をしている。注文を確認した主、「そうか、じゃあ勘三郎さんの注文と一緒に持っていけばいいな」ときた。この夫婦二人の小さな中華屋さん、ただものではなかった^^

 あの時、勘三郎は何を注文していたのだろう・・・・・・。
 今回は瓶ビールと焼き飯にしたが、これまた結構な味だった。帰りがけに、「以前うかがった時はご夫婦でやってらっしゃいましたよね」とお聞きすると「ええ、父と母です」とのこと、つい「ご両親はお元気ですか」と尋ねると、「ええ、家で元気にしています」との答えに、なぜかほっとした。

 開演直前に会場に戻った時は、ほぼ満席に近い百名ほどのお客さんで広間が埋まっていた。

 次のような構成。
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(開口一番 林家なな子『やかん』)
柳亭市楽  『松山鏡』
五街道雲助 『初天神』
五街道雲助 『初霜』
(仲入り)
五街道雲助 『三枚起請』
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林家なな子『やかん』 (14分 *13:50~)
 同じ正蔵門下の後輩のつる子よりはマシな高座だが、そういう比較をされることは、なな子にとって本意ではないだろう。言い立ての多い厄介な噺だが、なかなか良かった。しかし、後半、カミシモがいい加減になった。それについては、この後に市楽がバラしたのだが、年末から首を痛めてカミシモを振るのがきついらしい。なるほど、そういうことか。
 今回は、よく覚えたで賞、を贈呈できるが、今後も一層がんばってもらいましょう。

柳亭市楽『松山鏡』 (17分)
 マクラでは、ある地方の落語会。師匠の市馬と出かけ、市馬が約1時間に渡る『文七元結』の力作。終演後の打ち上げで主催者の地元の方々が師匠の高座を褒めるのだが、そのうち「雲助師匠も凄かった!」という話題になる。市楽が「どんなネタだったんですか?」と聞くと『目薬』とのこと。実はその落語会の何十周年とかの祝賀会の余興で雲助が呼ばれ、挨拶などですっかり時間が延びて十分しか残っていない段階で、「師匠、お願いします」となったらしい。
一時間の長講人情噺『文七元結』より十分の『目薬』、と笑わせるが、これは比較の問題ではなかろう。あくまで、限られた時間で寄席で鍛えられた芸を雲助が披露したことが客に強い印象を与えた、という逸話かと思う。
 市楽は、前座の市朗時代に比べあまり良い印象を受ける高座に出会わなかったが、この日は非常に良かった。しかし、前から二列目で見ると、顔がでかい^^

五街道雲助『初天神』 (26分)
 マクラで、「蔵出し」と言っても、ほとんどネタが尽きて会のタイトルを変えようということになった、とのこと。ただし、今回を「蔵出し ふたたび」の最終回として案内しようと、“テキ屋的な”企画を考えていたが、すでにミックス寄席のサイトで新タイトルの「蔵出し ぞろぞろ」と掲載されてしまった、とのことで雲助ファンで埋まった会場が沸く。また、「蔵出し ふたたび」での高座は録音されており、キントトレコードから発売予定、との案内。
 キントトレコードのサイトに、さっそく雲助のマクラの内容を含め、今後発売予定の演題が掲載されているので、せっかくなのでご紹介しよう。「キントトレコード」のサイト

雲助 蔵出し 制作決定 ~ 2014年03月25日リリース?

五街道雲助師は、2014年1月25日午後2時半過ぎ、浅草見番に於ける「雲助蔵出し ぞろぞろ」の第1席目「初天神」のまくらにて「この会は録音されています。それがCDになります…キントトレーベルから…この会(雲助 蔵出し ふたたび)では随分と、不謹慎な噺、汚い噺、を演っています。キントトレーベルから出すんですから、大手では絶対に出せないそんな噺が収録されます…」
 さらに 「1枚目は、この会(雲助 蔵出し ふたたび)の第1回目の演題である九州吹き戻し、人情話火焔太鼓、新版三十石…」「一枚目が売れなければ、2枚目、3枚目を出すことができません。よろしくお願いいたします。」以上、意訳

 キントトレコード緊急会議の結果、以下を目指し、邁進する所存です。

雲助 蔵出し1
2014年3月25日リリース(予定)収録演題(予定)

CD1
 1:九州吹き戻し 約33分 2009年6月21日収録
 2:人情噺・火焔太鼓 約26分 2012年4月21日収録
 3:新版・三十石 約10分 2009年6月21日収録
CD2
 1:妾馬(通し~馬の下げまで)約1時間 2012年9月30日収録
 収録場所は いずれも、浅草見番、演題解説は、雲助師に執筆を依頼しています。録音、マスタリング、プロデュース:草柳俊一


 この中で、『人情噺・火焔太鼓』は、二年前に初めて来た時に聴いて大笑いしたネタだ。その年の<特別余興賞>として表彰(?)したほどである。
 『新版:三十石』の約10分って、どんな内容なのだろう。『九州吹き戻し』も、意外に短いなぁ。いずれにしても、これらのCDは、どれか買ってしまうことだろう^^

 さて、高座に戻り『初天神』である。噺の途中で「(1月)25日に、このネタをやらないわけにはいかない」と父親に語らせて笑わせたが、まさに“旬”のネタ。それも、寄席や落語会でもほとんど聴くことのない“通し”である。
 飴・(あやめ)団子・凧揚げ、までをしっかり。初天神に向う途中で、父親が金坊に向って「言うこと聞かないと、山に放り出すぞ。狼が来て喰われてもいいのか」と言うと、「この前学校で先生が、日本には狼が一匹もいないって言ってたよ」の後の「そうなのか、ちぃ~っとも知らなかった」が、妙に可笑しかった。
 団子屋を親子でいたぶる場面も楽しい。
 父親が、
 「もう少し奇麗な恰好をしなよ。こういう店でドテラはないだろう。袖がほころびて綿が出てるよ・・・きたねい顔だね。顔洗ってんの」に、団子屋が「日に二度洗ってます」と答えると、「年に二度じゃぁねえのかい」といじめるが、金坊までこの調子で団子屋をからかい、「薮入りみたいに年に二度しか顔を洗ってないんだろ」で、爆笑。お客さんの筋が良いのだよ、この会は。
 凧揚げでの父親の子供じみた楽しみ方も結構で、演者も心底楽しんでいるように見えるのが微笑ましい。凧屋に勧められて渋々、凧も大きなものを買い、糸もガラスが混ぜ込んであり喧嘩しても他の凧に負けない高いもの、加えて良い音のする“うなり”まで買っていた。すぐ近くで凧を揚げていた子供との喧嘩凧になり、その子供の凧の糸を切って「あ~飛んでいかぁ、こっちはガラスが練りこんであるんでぇい」と高笑いしたり、高く揚がって良い音をさせていると、「やっぱり、うなりも買っといて良かったなぁ」と大満足。
 親子が逆転する可笑しさは凧揚げまで演らなければ分からない。最近では三遊亭遊雀の金坊の壊れ方の凄まじさや春風亭一之輔の金坊が親に向かって「Good Job!」と言う今どきの憎たらしさなどが印象的なのだが、そういった若手の内容を数段上回る雲助の旬な『初天神』、今年のマイベスト十席候補にすることをためらわない。これまで聴いたこの噺の中でのベストである。

 なお、『初天神』については、ずいぶん前のことになるが書いたことがあるので、ご興味のある方はご覧のほどを。2009年1月24日のブログ

五街道雲助『初霜』 (25分)
 高座に残ったままの二席目は、初めて聴く、三席目のマクラで判明した宇野信夫が師匠馬生のために作った新作。
 二人の植木屋が主人公。『笠碁』に似た味わいもあるが、昭和の世阿弥と言われた宇野信夫の作なので、芝居がかった演出。師匠馬生が宇野の前で稽古し、相当ダメを出されたため、ほとんど演じなくなったようだ。雲助がこの噺をすることを宇野の親族の了解を得た際に台本をもらい、師匠の音源と比べたところ、だいぶ内容は違っていたらしい。
 留(吉)さんが
060.gifそなたと供に~と言いたいが~愛(いと)しいこなたも手にかけて~”
 と口ずさみながら松の枝を揃えていく。平(へい、作)さんは怪我をしていて梯子に上れないので留さんに高い松は任せている。留さんは娘が大店に奉公していて娘の支援で悪くない生活をしている。平さんは一人息子が病で亡くなって寂しい暮らし。その息子が死ぬ間際に残した一両、これがこの噺の鍵となる。
 終演後、居残り会でOさんが、宇野信夫が円生のために創作した『小判一両』のことをおっしゃっていたが、なるほど、どちらも“一両”が鍵を握っているなぁ。
 サゲの唐突感は、芝居なら良いのかもしれないが、落語としては違和感が残る。師匠が宇野信夫にダメを出されているのは、この噺そのものが、なかなか落語には染まりにくいということかもしれない。

五街道雲助『三枚起請』 (34分 *~16:03)
 マクラで二席目のことを説明。その後、飼っている老犬(16歳)の公園の散歩の話題から、雀が犬に寄ってくるのはいいが、烏が三匹いて犬に寄って来ると心配で追い払う、という話から本編へ。
 三人の起請文仲間を楽しく描いたのだが、途中はあまり楽しめなかった。というのは、手拭いを忘れたのだろう、三人の起請は“エアー”手拭いで表現。また、最初に熊野権現の誓紙のこと、誓いに背いたら熊野で烏が三匹死ぬ、という仕込みをしなかった。サゲの直前で熊野の烏のことを差し挟んだが、手拭いのことも含め、残念ながら聴く私が集中できにくい高座であった。手拭いさえ忘れなければ、きっとマクラでも仕込みが出来たのではなかろうか・・・・・・。
 しかし、ご通家さんの中でも、もしかすると多くの方が手拭いのないことを気が付かないかもしれない、見事な芸であったことも事実だ。惜しかったなぁ。


 終演後は、新年居残り会。リーダーSさん、ほぼレギュラーI女史とM女史、そして昨年から仲間入りのOさんの五人で雷門の近くの魚の美味しいお店へ。刺身の盛り合わせも結構だったし、めひかりの唐揚げ、ほやの塩辛も美味。何より落語の話を肴に二合徳利が空いていく。
 今年も、楽しい落語と居残りを楽しめそうだ。レギュラーのYさんが仕事で参加できなかったのは残念。次の居残りは、来月の、あの会だなぁ。そういえば、居残り会は、皆さん(私も含め)なかなか話題になる固有名詞が思い出せず、ほとんど「あれだよ」「ああ、あれねぇ」と言う会話だったなぁ^^
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by kogotokoubei | 2014-01-26 15:14 | 落語会 | Comments(4)
先日の古今亭菊之丞の『居残り佐平次』には、やや厳しい注文をつけた。

 このネタに関連することとして、このネタを基本として数々の古典落語の名作をストーリーにちりばめた傑作映画『幕末太陽傳』がある。この映画については、一昨年書いたので、関心のある方はご覧のほどを。佐平次役のフランキー堺をはじめ、豪華絢爛のキャスト。日本映画の金字塔だと私は思っている。
2012年1月9日のブログ

 初代春風亭柳枝の作と伝えられる。『子別れ』の作者でもある。初代柳枝と『子別れ』については、ずいぶん前に書いたこともあるので、ご興味のある方はご覧のほどを。
2009年4月18日のブログ

 ちなみに、「佐平次」(左平次、左平治とも)という言葉には、もとは人形浄瑠璃の社会における隠語で、口きき、差し出口、追従、出すぎたまね、余計な世話、などの意味があるらしい。(榎本滋民著『榎本版 志ん朝落語』より)

 今回は、菊之丞の高座に関しても書いたのだが、ある噺家による見事な演出について書きたい。

 その噺家とは、「めくらの小せん」の別名をもつ、初代柳家小せんである。

 初代小せんについて、当代小せんの襲名に際して書いたことだが、今村信雄著『落語の世界』の「盲(めくら)の小せん」の章から再度引用する。
2010年2月17日のブログ

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今村信雄 『落語の世界』
 柳家小せんは明治16年4月15日浅草区福井町で提灯屋をしていた四代目花山文(後に二代目万橘と改名)の倅に生まれた。本名は鈴木万次郎。十五の時に座り踊りの達人四代目柳橋の門人になって柳松、後に三代目小さんの門に移って小せんと名乗った。二代目小さんの門人にも小せんというのがあったようだが、世の中に現れたのは、この盲小せんからである。
 才人小せんは、十五歳で落語家になり、二十七歳で腰が抜け、三十歳にして失明し、三十七歳で没した。大正八年五月二十六日である。
 (中 略)
 小せんは三代目小さんの弟子であっても、三代目のやる落語はほとんどやらなかった。それは師匠の前に高座に上がって、師匠のやり物をやってしまうことは失礼だという遠慮だったかも知れないが、二代目小さん、即ち禽語楼の物はよくやっていた。「鉄かい」にしろ「五人回し」にしろ、そうであった。小せんにはまた「白銅」だの「ハイカラ」だのという新作もあり、古い落語も得意の警句を入れて新しくしていた。
 小せんの所には、大勢若い者が稽古に来ていた。

 “二十七歳で腰が抜け、三十歳にして失明し、三十七歳で没した”早世の噺家だが、彼が遺した財産は小さくはない。

 女郎屋通いが講じて病になり、最後を看取った女房もその世界の人だったこともあり、とにかく廓噺では他を圧していたようだ。名のある文人たちも認める実力者だったのである。

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 旺文社文庫の興津要著『恋しき落語家たち』から紹介したい。「佳き時代の薄幸の落語家 初代柳家小せん」より。

 すでに失明していた小せんだが、彼の芸を惜しむ岡村柿虹、久保田万太郎、吉井勇、鈴木台水などの支援で、新石町の立花亭で「小せん会」が始まった。大正三年(1914)のことである。
 からだは不自由になる一方だったが、それでも小せんは人気者で、大正六年(1917)四月三十日の独演会では、「小せんの五女郎買い」と銘打って、天地紅の巻き紙に、おいらんの文のような色っぽい挨拶状を配り、「五人廻し」「磯のあわび」「お茶汲み」「居残り」「羽織」など五席の廓噺で聴衆を酔わせるのだった。



 そして、師匠三代目小さんの支援もあり、若い噺家が稽古代を持って噺を教わりに来た。

 稽古は、一席の噺を三回ぐらいに切って教える親切な方法なので、まことに覚えやすいとよろこばれた。
 五代目古今亭志ん生、八代目桂文楽、春風亭柳橋、六代目三遊亭円生など、昭和落語界の重鎮となるひとたちが、小せんの指導のなかから育っていったのだから、小せん自身は、メイン・ストリートから姿を消したとはいいながら、その功績は大きかった。

 

 若手に教えるばかりでなく、小せんは自分の芸の精進を続けていた。

 研究熱心な小せんは、ある日、久保田万太郎といっしょに、ふらりとやって来た岡村柿虹に向って、いきなり話しかけた。
「ねえ岡村先生、あのう、白浪五人男の稲瀬川の勢ぞろいの場で、それぞれツラネのせりふがありますね。あのなかの忠信利平のはなんといいましたかね。餓鬼のときから手くせが悪く・・・・・・」
「抜け参りからぐれ出して」
「ああ、そうそう。旅から旅を稼ぎ廻り」
 と、いいかける小せんのことばを受けて、柿紅は、すらすらと、
「碁打ちといって寺方や、物持ち百姓の家へ押し入り、盗んだ金の罪科(つみとが)は、毛抜けの塔の二重三重、重なる悪事に高飛びなし・・・・・・というんだろう」
 といってから、
「なんだい。なにかに、これを使うのかい?」
 と聞くと、小せんの顔に微笑が浮かんだ。
「ええ、じつは、このつぎの小せん会で、居残りをやろうと思って、いろいろと工夫をしているんですが・・・・・・」
 と話しはじめた。
 (中 略)
「しまいのほうに、女郎屋の主人が、すっかり佐平次をもてあまして、ひとまず金の算段に出ていってくれというところがあるでしょう」
「ああ、あすこね」
「こいつを使おうというんですよ。へえ、それがね、もし旦那え、と芝居がかったせりふになってから、こちらの敷居をまたいで外へ出られないというのは、じつは旦那、人殺しこそしていませんが、夜盗、かっさり、家尻切り、悪いに悪いということをし尽くしまして、五尺のからだの置きどころのない身の上でございますというと、主人はおどろいて、そんな悪いことをしそうにも見えないといいます」
「うん、それから?」
「ええ、それからが、このせりふですが、すっかり調子をくだいてしまって、持って生まれた悪性で、餓鬼のときから手くせが悪うございまして、抜け参りからぐれ出しまして、旅から旅を稼ぎ廻り、碁打ちといっては寺方だの、物持ち百姓の家へ押し入りまして、盗んだ金の罪科は、毛抜けの塔の二重三重、重なる悪事に高飛びなしというと、主人が、なんだか聞いたような文句だといいます。いかがでしょう?ひとつ、こんどは、こういうふうにやってみようと思っているんですが・・・・・・」
 と小せんがいうと、
「なるほど、こいつあ、きっとうけるね」
「おもしろいよ」
 と、万太郎と柿紅が口をそろえていったが、果たしてその通りで、当日になって、忠信利平のせりふまで来ると、寄席が、どっとひっくりかえらんばかりのうけかただった。
 
*この逸話は、もっと短縮されてはいるが、講談社学術文庫の『落語-笑いの年輪』にも紹介されている。しかし、たった10年前に発行された同書が重版されていないため、ほとんど古書扱い。講談社のBOOK倶楽部のサイトでも取り扱っていない。不思議だ。
興津要著『落語-笑いの年輪』(講談社学術文庫)

 腰が抜け、目も見えない小せんにとって、「小せん会」の高座は、生きている証そのものであり、すべてを注ぎ込む対象とも言えたのではなかろうか。

 じっと部屋で座したまま、四六時中、このネタをどう磨き上げるかを考えた末の忠信利平だったのだろう。この科白には、小せんのこの噺と、残り少ないと自覚した彼の“生”に対する執念を感じるのだ。
 だからこそ、初代小せんの名演出は、昭和を経て平成の世までに伝わっている。

 そんな歴史を感じる故に、先日の菊之丞にも、短縮版にせずに演じて欲しかったのである。

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 私の座右の書、興津要の『古典落語』シリーズでは「上」に掲載されているが、著者は巻末で、この噺の要点を次のように書いている。

 この噺は、佐平次が徹頭徹尾相手をだますストーリーなので、達者な演者が、佐平次の人物像を淡彩にえがくために軽快なテンポで噺をすすめないと、佐平次が悪党じみてしまって、噺のおもしろさが半減されてしまう。
 はじめに若い衆に勘定といわせず煙にまくところ、どさくさまぎれに客をとりまくところ、旦那をおどかして金や衣類をまきあげるところ、最後に、ついてきた若い衆に自分の素性をあかすところなど、いずれもがおもしろいが、むずかしい場面といえる。



 まったくその通りだと思う。だから、それ相応の芸達者でなければ名演は生まれない。

 『幕末太陽傳』の佐平次は、咳きこむ姿を時おり見せ、ラストシーンの墓場の舞台設定も含めて暗さが伴う。あくまでも、映画としての演出である。映画の佐平次には、監督川島雄三の人生哲学が、色濃く反映されているのだろう。
 しかし、前半から中盤までの明るい居残り役としてのフランキーの演技には、卓越したスピード感やリズム感の良さなどが生かされており、落語の名高座と相通じるものがある。

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*写真は日活のサイトから借用。当時、フランキー28歳、南田洋子24歳。若い!「日活」サイトの該当ページ

 『幕末太陽傳』の舞台は、品川の通称「土蔵相模」の相模屋である。

 四国新聞社のサイトに二年前に開催した浮世絵展のページが残っていたので、喜多川歌麿の「土蔵相模月下遊宴図」の画像をお借りした。
四国新聞社サイトの該当ページ

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 ちなみに、円生の回顧では、小せんは同じ品川なのだが、「島崎(楼)へ登楼(あが)る」と演じていたらしい。この島崎楼は、当時品川で唯一、桟橋を備えていた貸座敷だったらしく、『品川心中』の舞台である白木屋のモデルは島崎楼だと言われている。


 さて、初代柳枝が創り、初代小せんが磨き上げたこの噺、過去の名演として落語愛好家の方なら、まず円生を挙げるだろう。円生は、初代小せんからじかに教わった。だから、もちろん円生の佐平次もいい。
 しかし、私のお気に入りは、やはり志ん朝なのだ。菊之丞の高座を聴きながら、「あ~っ、志ん朝なら、こうやるのに・・・・・・」などと思っていたのだから、菊之丞には、誠に申し訳ない。
 当代では、佐平次が真っ赤な着物で「唐辛子踊り」を披露して廓の客を楽しませる権太楼の高座も好きだ。

 よ~く考えれば(いや、考えなくても^^)、佐平次のやっていることは、ほとんど犯罪である。少なくとも無銭飲食と詐欺は該当するだろう。だから、悪い奴に描こうとするなら、案外簡単なのだ。
 それを、いかにテンポ良く、後味良く描くかが肝腎。聴く客に、「なかなか憎めない奴!」と思わせて、なおかつ彼が療養するために居残りするという話も信じられそうになり、ついには親孝行までする「いい奴!」に思わせることができたら、その高座は成功なのだろう。


 これからもさまざまな佐平次に出会いたいものだ。
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by kogotokoubei | 2014-01-23 00:12 | 落語のネタ | Comments(0)
地下鉄六本木駅から歩いてロアビルのある六本木五丁目の信号を右に曲がってしばらくすると、会場である麻布区民センターがある。ホールは地下一階で、客席数約240。
 この会場には、なんと四年ぶり。その時も菊之丞、そして当時の菊六との兄弟会だった。菊之丞の『山崎屋』が良かったことを、なんとなく覚えている(脳細胞が日々激減している。だからブログに書くのだ)。2010年1月29日のブログ

 地元の常連さんと思われるお客さんを中心にほぼ九分の入りだった。

 構成は次の通り。
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(開口一番 立川志らら『壺算』)
古今亭菊之丞 『居残り佐平次』
(仲入り)
古今亭菊之丞 『士族の鰻』(『素人鰻』)
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立川志らら『壺算』 (18分 *19:00~)
 港区の落語会のほとんどに立川企画が運営に協力しているようなので、開口一番は志らくの弟子のこの人。ネタは2008年のNHK新人演芸大賞で演じたものだったが、さすがに6年前より出来は良い。真打昇進を弟弟子の志ら乃に抜かれたが、昇進も近いような好印象の高座だった。

古今亭菊之丞『居残り佐平次』 (45分)
 昨日まで鈴本の昼の部の主任で、昨日はNHK朝ドラ「ごちそうさん」の出演者(男性)が楽屋を訪ねてくれたらしい。父親が落語のCDを与えてくれた子供時分からの落語ファンとのことで、最初に聴いたのが志ん朝の『三枚起請』とのこと。菊之丞は「恐れ入りました」と頭を下げたらしい^^
 同じ番組に出演している他の俳優に落語(『棒鱈』)を番組の企画で稽古した縁でメル友になったらしいが、あの番組の出演者は落語愛好家が多いらしい。非常に結構なことだ(?)。
 今年の初仕事である帝国ホテルの正月落語会出演時の逸話なども含むマクラを約6分、本編に関わるマクラが約3分なので、噺自体は35分位だったろうか、想定外の大ネタは嬉しかった。
 現実世界のマクラから廓の客の上・中・下をふって、一気に品川遊郭に連れて行ってくれた。佐平次も妓夫太郎の若い衆も結構。印象的だったのは、霞(かすみ)おいらんの“いい人”である勝っあんの部屋に刺身の下地(実際は蕎麦つゆ)を持って場をとりもつ場面。勝っあんに会いたい霞姐さんが、さみしそうに三味線を手に都々逸で心情を吐露する場面を披露。
「浮名立ちゃ それも困るが 世間の人に 知らせないのも 惜しい仲」と、ほどよい色気で聴かせる。こういう艶っぽさは、中堅の噺家さんの中でも際立っている。

 あえて注文をつけるなら、二つ。
 一つは佐平次が居続けた翌日、若い衆が「勘定、勘定」と迫るのを、昨夜の四人が今夜裏を返しに来る、と騙す場面の科白が、今一つリズミカルではなかった。人によって微妙に表現は違うが、志ん朝版を元に書くなら、こんな感じの科白だ。 (志ん朝は佐平次以外は三人だが、菊之丞は四人としていたので、四人としておく)
「今三時、過ぎた、そう四時、五時ともなるとここいらあたりも小暗くなって、あっちこっちから下足札をまく音がしたり、壁をトントン叩いて鼠なきの声がするよ、坂の上からいせいのいい俥が四台、俥の像ッ鼻をトーンと突くってえと、俥からおりてくるのがゆうべの四人(よったり)だ。あそびをして裏を返さないのはお客の恥、なじみをつけさせないのはおいらんの腕のにぶいぐらいは心得ている輩だよ。昨日縞を着ていたのが今日は無地、無地だったのが絣を・・・・・・」といった科白は、もう少しだけスピード感が欲しい。菊之丞には申し訳ないが、どうしても志ん朝と比べてしまう。
 もう一つは、サゲ前の部分で、主人に自分の正体(もちろん、嘘)を明かす場面の名科白のこと。これは、初代の柳家小せんによる演出だが、白浪五人男の忠信利平の科白を真似て挟むのだ。
「がきの折から手癖が悪く、抜参りからぐれ出して・・・盗んだ金の罪科は、蹴抜の塔の二重三重、重なる悪事に高飛びなし・・・」 ここで主人が「聞いたような文句だね」で歌舞伎を知っているお客さんから、ドッと笑いが起こる。
 菊之丞は前半だけだったのだが、やはり省略せず聴きたいところだ。これは廓ばなしの名人、初代小せんへの敬意を表わす場面でもあると思う。

 しかし、これらも私のわがままに近い要望とも言える。全体的には、まったくダレることのない結構な高座だった。

古今亭菊之丞『士族の鰻』(『素人鰻』) (32分 *~20:48)
 自分の酒癖の悪さを披露する、やや自虐的なマクラから本編へ。
 結論から書くと、非常に結構な高座。菊之丞の実力を再確認させてくれた。とにかく神田川の金がいい。
 明治維新になり新政府から下された奉還金を元に士族が鰻屋を始めるわけだが、料理は腕のいい金に頼るしかない。しかし、この男は酒乱であって、飲んでしくじってばかりいる。しかし、今度は酒を断って旦那(中村)を助けるというので、迎えた開業式の夜。主人の友人で金も馴染みの麻布の旦那(会場の地元^^)が、「開業式は特別だ、三杯だけ飲むのを許す」と酒をふるまったから、さぁ大変。
 一杯目は一気に飲み干し、二杯、そして三杯と飲みながら、金の表情がみるみる変わる。丹精な表情の菊之丞が、顔をしわくちゃにしながら演じる金の独演会が始まる。
 麻布の旦那に、以前に水戸藩邸の前で門番と酒で口論になり紐で縛り上げられていたところを助けてもらった、という思い出話をしている当りまでは、麻布の旦那も、言葉を挟まないにしても「(あぁ、そんなこともあったなぁ)程度で聞いていだろう。しかし、仲居のお花に追加の徳利を持ってこさせて手酌で四杯目を飲むあたりから、金の声が大きくなる。吉原に一緒に行った時の逸話を披露するあたりから「こら、良さないか」と主人がたしなめるのだが、「なにを」と食ってかかる始末。最後には「出て行け!」と主人に言われ「こんな店、いてやるもんか」と飛び出す。
 翌朝、吉原から付き馬を連れて帰る金、「なにもおぼてねえんです。気が付いたら、横に女が寝ていた」と詫びる。金がいなくれは店が開けない弱みの主人、吉原の付けを払い、店を開けることができたのだが、夜になって情け心を出して寝酒を出してやると、もういけない。べろんべろんになった金を見て、ふたたび「出て行け!」となる。
 サゲの仕草も結構だったが、とにかく金が酔って暴言を吐くまでの場面が秀逸だった。若旦那、幇間、そして女性を演じることには定評のあるところだげ、菊之丞の酔っぱらいも、いい。実践で練習しているのかな^^
 過去の音源では桂文楽が図抜けていて、菊之丞も文楽版が下敷きにあるように思うが、私は三笑亭可楽のこの噺も好きだ。だから、あえて可楽と同じ『士族の鰻』の演題にしている。
 江戸の世では職人を下に見ていた武士の中村や麻布の旦那が、店のオーナーとしての権威はありながらも、金の鰻さきの腕に頼らないわけにはいかない。そんな明治初頭の士族と職人との微妙な人間関係を背景にしながら、酒乱の金の姿を見せておいて、最後には鰻をつかまえることもできない士族の姿で笑いをとる、実はなかなか奥の深い噺を、ツボをはずさずしっかりと演じた菊之丞だった。なかでも金の顔の表情、である。この人が、こんなに表情を崩して演じることもあるんだ、と妙な感心をして聴いて、見ていた。文句なく、今年のマイベスト十席候補第一号である。

 
 帰宅途上で、こんなことを考えていた。噺家さんによっては、高座に上がってから聴く側が、やや緊張して身構えてしまう人がいる。また、まったくそういう圧迫感がなく、気分を和ましてくれる噺家さんもいる。
 どちらが良い悪いということではないが、菊之丞は、間違いなく後者である。私の印象では、他に桂南喬、春風亭百栄、桃月庵白酒あたりが、いわば「和まし派」であろうか。反対の「圧迫派」の名は、あえて挙げない。

 菊之丞のように、高座に上がるだけで聴く者の気持ちを、ふわ~っと軽くしてくれて、自然に落語の世界に溶け込むことのできる噺家さんは、そうはいない。やはり得難い個性であり、卓越した芸なのだとも思う。

 帰宅し、菊之丞の一席目のマクラを思い出しながら録画していた「ごちそうさん」を、飲みながら見た。つい、神田川の金になりそうなのをこらえて、ビールを一本、その後酎ハイを一杯やりながらブログを書いていたのだが、NHKのBSにチャンネルを合わせたら、大島渚の特集番組をやっていた。これは、1999年制作の遺作「御法度」の制作過程をカメラに収めたドキュメンタリーで、結構見応えがあり、寝る前にブログを書き終えることはできなかった。

 「アップを撮るのは逃げ、引く勇気がないからだ」というようなことを大島渚は言っていた。落語に置き換えると、うけを狙ったギャグで笑わせようとするのは逃げ、噺そのもので勝負しろ、とでも言うことか。いや全然違うかな・・・・・・。
 酒を飲み酔ってテレビに出て喧嘩するような映画監督など、もういないなぁ。大島渚が神田川の金とダブル。
 そして、大島だから許されたのでもあろうが、酔った人間をトーク番組に出演するような制作者も、今はいないだろう。了見の広い旦那も減った、ということか。
 テレビは、どのチャンネルも似たような顔ぶれによる、他愛のない楽屋での身内話ばかり。加えて、ライブの番組はニュースとスポーツ位で、必ず編集されて放送されるので臨場感に欠けるし、“危ない”発言はカットされる。テレビの魅力って、いったい何なのか、と思う今日この頃だ。

 京都東山亭さんというお店のサイトに江戸時代の鰻屋の絵があったのでお借りした。
「京都東山亭」サイトの該当ページ

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 テレビや新聞などのメディアに限らず、飲食業界の職人さんもサラリーマン化し、上司が言うことには、それが悪い事だと思っていても抵抗せず、経営の論理にのみ盲目的に従わざるを得ないのが日常なのだろう。しかし、そういった受け身の姿勢が、結果として昨今の食品偽装問題などにもつながっているようにも思う。

 神田川の金のような人物は、今では少ないことだろう。もちろん酒乱はいけないが、食べ物を扱う者としての責任感や正義感にあふれる職人は、今日でも必要ではないだろうか。菊之丞の高座で、いろんなことを思うのであった。

 それにしても、圧巻だった。久し振りだったので、なおさら菊之丞のたくましさのようなものを感じた。昨年は縁がなかったが、今年はできるだけ聴こうと思う。
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by kogotokoubei | 2014-01-21 23:40 | 落語会 | Comments(6)
 昨日は、末広亭で豪華な顔ぶれを楽しむことができた。

 その中で、喬太郎が演じた『擬宝珠』について、少し書いてみたい。

 
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関山和夫著『落語風俗帳』(白水Uブックス)

まず、「落語でブッダ」の良き参考書として先日紹介した、関山和夫著『落語風俗帳』から引用。

擬宝珠(ぎぼし)
 実に馬鹿々々しい咄だが、この咄も観音さまに、いささか関わりがある。今は演り手がないので、あえて触れておきたい。これも仏教が親しまれていたからこそ出来た咄である。鼻の圓遊の速記を読むと実に面白い。安永二年(1773)に江戸で出た咄本『聞上手』所収「かなもの」が原話のようである。圓遊向きの落語だ。初代柳家小せんもこれを演じたというが、この種の咄に手をつける人はまず少ないと思われる。


 『落語風俗帳』の発行は1991年。だから喬太郎が発掘する前である。本書は次のように続く。

風俗資料としてもなかなか面白い。圓遊は、開口一番「ええ、今日は『金の味』というおはなしを一席うかがいます」といっている。本題に入るところに「明日ありと思ふ心の仇桜夜半に嵐の吹かぬものかは」という真宗の説教で有名な松若丸(のちの親鸞聖人)の歌が出てくるのも興味深い。


 さすがに喬太郎は松若丸の歌は登場しない。

 では、本書から圓遊の演じた筋書きをご紹介。

若旦那は原因不明の神経病にかかっている。年老いた両親は大変心配する。横浜から出入りしている幇間の桜川長光に「倅は何か心に思い続けていることがあるに違いない。なんとか倅にそれをいわしてくれれば金側の時計を一つくれてやる」といって聞いてもらう。長光は若旦那と一緒に浅草の観音さまへ行く。若旦那は「実は私は五重の塔のてっぺんの唐金の擬宝珠の真っ青のところがなめたいんだ」という。そこで長光は寺に頼みに行き、二百円を寄付して許してもらう。足場を組んでのぼり、若旦那は擬宝珠をペロペロとなめた。金属をなめることは、唐土(もろこし)の莫耶(ばくや)のの故事にあると浅草寺(現在は聖観音宗)の僧がいったとする。両親が心配してやって来た。しかし親はよろこんだ。
「倅もやっぱり擬宝珠が好きだった。先祖代々擬宝珠が好き。わしらもあちらこちら、なめ歩いた」と話し合っているうちに若旦那がおりてくる。
「五重の塔は、うまかったか」
「沢庵の味がしました。よほど塩がきいておりました」
「塩は三升か、四升か、五升か」
「なあに、上は六升(緑青)の味がしました。



 喬太郎版をご存知の方は、違う部分に気付かれるだろうが、本人から答えを語ってもらおう。

 出版もされているが、柳家喬太郎がポプラ社のWebマガジン「ポプラビーチ」に以前連載していた「落語こてんパン」のバックナンバーのページが残っている。「擬宝珠」のページから引用。
ポプラビーチ連載「落語こてんパン」の該当ページ

 古典落語として取り上げてしまったが、明治の頃の新作である。ステテコ踊りという珍芸で一躍人気者となり、新作を創り、当時の古典の改作も手がけた、初代三遊亭圓遊師匠の作品である。その後手がけた演者は、そう多くはないようで、現在は完全に埋もれてしまっていた噺である。
 僕はこの『擬宝珠』を持ちネタにしているが、そういう噺だから、もちろん誰かに教われる訳もなく、速記から掘り起こしたのである。
 だから「連綿と伝えられて多くの演者によって練られた噺が古典落語」とするならば、『擬宝珠』を古典というカテゴリーに括っていいのかどうかは分からない。まぁしかしこれだけ古ければ、古典と言ってしまって良いだろう。そもそもどこからが古典でどこまでが新作か、落語には確たる定義がないのである。
 ただ、僕が今演じる『擬宝珠』には、だいぶ僕の手が入っている。
 圓遊師の速記では、若旦那から気鬱の原因を聞き出すのは、出入りの幇間(たいこもち)であった。ネタ下ろしして何度かは、幇間で演ってみたのだが、どうもうまくいかない。親にも医者にも打ち明けない気鬱の原因を、出入りの芸人には吐露するというのが、演じていてしっくりこないのだ。大家(たいけ)の若旦那と職人という立場は違えど、精神的にはつながっている幼な馴染みという設定に変えて、何とか演じられるようになった。


 本人が語るように、幇間を出入りの職人で幼な馴染みの熊さんに替えているが、本筋はほとんど変えていない。

 もちろん喬太郎なので、彼なりのクスグリを挟む。熊さんが若旦那に病の原因を聞く場面で、「原因は女じゃない・・・じゃあ『崇徳院』じゃないんだ」「もしかして蜜柑が食べたい・・・違う・・・『千両みかん』でもないんだねぇ」と笑わせる。
 しかし、これは落語愛好家の方々の仲間内の笑いのようなもので、落語を詳しくない方も含めて笑いをとるところは別の部分である。昨夜もそうだったが、それは、熊さんが擬宝珠を舐めたいと言う若旦那の病の理由を、恐る恐る父親に告げたところ、「・・・やはり息子もそうだったか」と一族の不可思議な好みの血統を打ち明ける場面であり、父母の出会いのきっかけも擬宝珠舐めだった、と告げる場面でも笑いが増幅する。

 だから、非常にこの噺には深いものがあって、好みや趣味などは、他人から見たらとんでもない奇異なものであることが多い、という人間の本質を照らし出しているのである。

 だから、落語についてブログを書いている者など、落語を知らない、あるいは好きではない人からしたら、とても“真っ当な人間”のすることとは思えないだろうなぁ。

 でも書くよ^^
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by kogotokoubei | 2014-01-18 17:05 | 落語のネタ | Comments(10)
仕事の都合などを考えると、友の会の一月末までのチケットを使えそうな日が限られているので、都合と顔ぶれとの相談から昨夜は末広亭へ。主任の小三治が休演なのは承知。

 六時少し前、美智・美登の奇術の途中から入場。好みの下手桟敷の中央部が埋まっており、久し振りに椅子席へ。後ろから三列が貸切になっており、その前の空席を確保。

 喬太郎から聴くことができた。結果として、すべての高座が良かったので、落語はピンクで染まる。

柳家喬太郎『擬宝珠』 (11分 *18:00~)
 短いマクラから十八番の一つへ。もちろん短縮版なのだが、肝腎な筋、聴かせどころには抜けがない。何より十分未満と思える時間で、客席もしっかり沸かせた、その技量に感心した。寄席でこういう高座を目の当たりにすると、この人の凄さをあらためて認識させられる。

五街道雲助『ざるや』 (10分)
 こちらも短時間で十八番を披露。いつ聴いても笑える。演じている噺家も楽しんでいることが伝わるのが、良い。

柳家権太楼『黄金の大黒』 (15分)
 「ついこの前、マッカーサーが来たかと思ったら」の懐かしいマクラから本編へ。
 長屋の連中が、絽の羽織に古新聞を裏打ちしたものを羽織って一人一人口上を言う場面が頗る楽しい。てっちゃんが曲馬団の玉乗りの口上のように「東西(とざい)、とーざい・・・・・・」とやれば、きっつぁんは上がり性で何を言っているかわからない。金ちゃんは、「大家のガキと長屋のぼっちゃんが」で笑わせる。久し振りの権ちゃん、元気で良かった。

江戸家猫八・子猫 物まね (11分)
 正月ということで特別の親子出演なのだろう。個々の技量で言うと、子猫は相当追いついてきたのではなかろうか。自分らしい味も出してきたし、今後が楽しみだ。

柳家小はん『親子酒』 (10分)
 金馬の代演。こういうことも寄席ならでは、である。私は、小はんの何とも言えない味が好きだ。ところどころに、「えっ?!」と驚かせるクスグリがあったりする。息子との禁酒の約束を破って飲み始めた親父。女房に向かって「乾きもんがありゃぁいいよ。乾きもんたって、おまえのことじゃない」とか、酔っ払った親父を見て怖い形相をしている女房に、「屋根瓦だって雪化粧すりぁ、もう少し色気があらぁ」なんて、いいよねぇ。

柳家小満ん『時そば』 (14分)
 仲トリは金馬に替わってこの人。最初に蕎麦屋を騙す男の江戸っ子ぶりが、なんとも恰好がいい。「おらぁ、蕎麦っ食いだからね。麻布の永坂まで喰いに行く」と言うのだが、その永坂更科と言う老舗は、旨いらしいが蕎麦の量が少なく値段が高いので有名。蜀山人も「更科のそば好けれど高稲荷 森を眺めて二度とこんこん」と狂歌に残している位だ。だから、時の数え方のトリックで一文誤魔化そうなんてケチな男が行きそうな店じゃないのだが、この江戸っ子の兄いなら行きそうに思わせる。だから、蕎麦屋も騙されるとも言えるなぁ。粋で結構な高座でした。

太神楽社中 壽獅子 (7分)
 仲入りの後は、正月らしい壽獅子。仙三郎社長と和楽社中の協同作業。高座の下手に薦かぶりにしつらえられた正月飾りも借景となり、縁起の良い出し物だった。最前列の下手にいらっしゃったお客さんが祝儀を渡し、獅子に頭を噛んでもらっていた。粋だなぁ。社中の中では、和助の笛の上手さが際立ってた印象。もちろん、寄席の吉右衛門の太鼓も結構。

柳家小袁治『女天下』 (15分)
 『かんしゃく』『堪忍袋』の作者でもある益田太郎冠者作の噺だが、私はこの人でしか聴いていない。と言っても、2009年の浜松町かもめ亭以来なので、すいぶん時間が経つ。
 その時とほぼ同じマクラ。先代の正蔵に楽屋で「男は自分のカカァをカミさんなんて言っちゃいけません。カカァ、愚妻です」と注意されたが、志ん朝師匠には「俺も同じように怒られた。でも、考えもんだよ。俺は自分のカミさんのいる前で他人に愚妻って言ったら、えらく叱られた」という逸話だ。
 棒手振りの金太、銀行員の山田さん、そして根津先生という三人が、そろいもそろって妻に頭があがらない、という設定で笑いを生む噺。もっと他の噺家さんがかけても良さそうだが、カミさんへの遠慮なのだろうか^^

春風亭一朝『湯屋番』 (14分)
 いいなぁ、この人のこういう噺。居候している若旦那が働き口として湯屋を紹介され、その番台での妄想がネタの中心となるが、一朝の若旦那には茶目っ気と江戸っ子の粋とが同居している。短いながらもしっかり会場を沸かして、さっと下がる。これも、江戸っ子の芸。

柳家はん治『ぼやき居酒屋』 (14分)
 定番の新幹線におけるヤクザとの遭遇、というマクラから十八番へ。昨年、大学の同期会の余興で演じて結構受けたのだが、はん治の高座に、まだまだ自分の芸が未熟だったことを悟った(当たりまえだ^^)。はん治の見た目は凄さを感じさせないのだが、十分に練り上げられた芸、実は周到な計算の上に立っていることを発見した思いだった。

林家正楽 紙切り (10分)
 誕生日ということで、出番直前に下座さんが「ハッピーバースデイ」を弾いていたようで、楽屋の笑い声が聞こえた。
 ご挨拶代わりの「羽根突き」リクエストで「節分を切る正楽さん」「東京五輪」「大黒様」を見事に披露。ここでも、獅子舞に祝儀を出したお客さんが「正楽さん」をリクエストし、誕生日祝いを渡していた。身内の方かなぁ。

柳家さん喬『妾馬』 (34分 *~21:03)
 代バネは、代わりにハネるという意味と説明。マクラでは楽屋のネタ帳に、文楽、小さん、正蔵などの名前を見つけると、前座時代からの時間を感じる、とのこと。文楽は兄さんと呼べる・・・正蔵は「コラ、正蔵!」と言える、三平は足蹴にする・・・は冗談、で会場が沸く。
 黒紋付で登場したので、ネタの予想が当たった本編は、少し短縮されてはいるが、兄弟子の代わりを務める気合いの入った高座。大家に八五郎が呼び出される場面から、最後は八五郎の都々逸に“ぎっちょんちょん”「さのさ節」のあと、「殿さん、どっかに飲みに行こうか」までをしっかり。


 主任小三治は休演だったが、この顔ぶれの良さである、今年の初寄席は、充実していた。ハズレのない寄席というのは、珍しい。
 帰宅し、「ごちそうさん」を見ながら飲み、途中で外で満月から一日経ったとは言え、見事な月を見て一服。その日の高座を振り返りながら酒もすすみ、少し歩きまわった一日だったので眠気が差した。ブログは翌日ということにして風呂に入り熟睡したのだった。やっぱり寄席はいい。
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by kogotokoubei | 2014-01-18 09:56 | 落語会 | Comments(2)
NHKのEテレ(旧、教育テレビ)の「趣味Do楽」月曜日の「落語でブッダ」が結構おもしろい、ということは以前に書いた。
2013年12月12日のブログ

 毎週月曜は、昼に前回の再放送があり、夜は新たな回があるので、前回見逃した時は両方録画することもある。

 13日の夜放送があった第六回の録画は昨夜観た。見逃した方は20日に再放送されますよ。
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第6回
なにわ商人文化と浄土真宗
桂 塩鯛 古典落語『お文さん』(西)
Eテレ 1月13日(月)
Eテレ再放送 1月20日(月)
総合再放送 3月11日(火)
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 この『お文さん』という噺は初めて聴いた。塩鯛を見るのも久し振りだが、元気そうで何より。

 NHKサイトの番組表には、この回のことについて、次のように書かれている。
NHKサイトの同番組該当回の番組紹介

第6回は桂塩鯛の上方落語「お文さん」。お文さんとは浄土真宗「本願寺中興の祖」蓮如上人が門徒衆のために分かりやすく書いた手紙のこと。御文章ともいう。江戸時代、大阪船場の商家の旦那衆はみな浄土真宗の信仰あつく、毎日「お文さん」を読誦するのが日課であった。近松の文楽など数々の大阪文化の舞台となった船場と、浄土真宗の関係を宗教学者・釈徹宗が分かりやすく解説する。



 番組で、釈徹宗が解説し、如来寺住職が実際に読上げてくれたが、『お文』(おふみ)とはいったい何か。

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関山和夫著『落語風俗帳』(白水Uブックス)

 この番組の良き参考書とでも言うべき本が、関山和夫著『落語風俗帳』である。この本の内容のほとんどが落語と仏教のことである。

 本書では“お文さま”というタイトルで、次のように紹介されている。

 上方落語で『お文さん』という。『万両』という別名もある。本願寺八世蓮如上人は、本願寺中興の祖と仰がれる業績を残したが、遺業の中で最も有名なものの一つに文書伝道がある。蓮如の真宗興隆への方法はいろいろあったが、文書による教化法は最大の効果を発揮した。蓮如が道俗のために認めた法義上の消息を孫の円如はよく集めた。これを浄土真宗本願寺派(西本願寺派)では『御文章』と呼び、真宗大谷派(東本願寺派)では『御文』(おふみ)という。そのほかに『宝章』とか『勧章』とか『五帖消息』とかいう異称もある。一応まとめられたものには五帖を通じて八十通あるが、実際にはまだまだ多くの文を蓮如は書いた。真宗の門徒(本願寺派)の間では、これを朝夕の勤行に一通づつ読誦する習慣がある。



 蓮如から伝わる文書による教化法が、庶民の生活に根付いたものが、『御文』なのである。

 東京では「お文さま」、上方で「お文さん」と呼ぶようだ。どちらにしても真宗門徒における敬称。

 放送で壽光寺の住職が実際に「白骨の御文章」を読誦してくれたが、その読み方について、『落語風俗帳』では次のように書かれている。

 『御文』(『御文章』)の読み方には、独特のイントネーションが必要である。静かな中にも感銘度の深い音声の荘厳を要する。説教教化は、単なることばの伝達だけであっては力が弱い。聴き手の耳にしっかりとついて離れず、拝聴者の心の底に永遠に残らねばならない。蓮如は、みずから作った『御文』(『御文章』)を慈愛をこめて読み、聴聞者たちの心の底までくいこむような教化を実践したのである。後世、末永く蓮如製作の消息文が聖教(しょうぎょう)と仰がれ、「お文さま」として敬慕されたゆえんである。


 これだけありがたい『御文』なのだが、塩鯛が演じた落語の粗筋は、男女の仲を題材にした、船場ならではの筋書きになっている。

 大阪船場の「万両」と称する大きな酒屋へあらわれた男が赤ん坊を小僧(丁稚)に預けて立ち去る。(中略)息子夫婦に子供がないので、喜んで育てることにする。さっそく手伝いの人の又兵衛に乳母をさがさせる。又兵衛は喜んで、お文さんという女を乳母として連れてくる。実はこの赤ん坊は若旦那とお文との間にできた子であった。


 こういう設定は、若旦那と又兵衛の関係が、『山崎屋』の若旦那と番頭との関係にかぶって思える。若旦那の色恋のしくじりを又兵衛の悪知恵でなんとか解決しよう、という筋書なのだ。あまり、褒められた行動とは言えまい。

 この乳母、お文さんが堂々と万両に住み込むのだが、計略を知っている丁稚が、つい「お文さま」と呼ぶので、バレてはかなわんと若旦那が「決してお文に“さま”をつけてはならん」言う。下女のお松(これがなかなか結構な助演女優(?)で塩鯛も好きだと言っていた^^)が気づいて若旦那の女房に告げ口をする。その後、サゲまでを本書から引用。

 問いつめられた小僧は、お文さんのことを告白する。
 「して、今、若旦那は・・・・・・」
 「奥の間でお文を読んでいらっしゃいます」
 「同じ屋根の下で住みながら、文をとりかわすとは・・・・・・」
 女房が奥の間へ入ると、若旦那は、お仏壇にお灯明をあげて蓮如上人の『御文』(『御文章』)を拝読していた。
 「これ、あれは御文章、お文さまというものですよ。お文さまなら、なぜ『さま』をつけないのですか」
 「お文に『さま』をつけたら、私が怒られます」


 ちなみに東京版は若旦那ではなく、大旦那の浮気相手に子供ができるという筋書になっているようだ。

 蓮如が遺した、ありがたい「お文さま」が、こういった内容で登場するあたり、落語が庶民のものであり、きれいごとばかり扱うものではない、そんな力強さを感じるなぁ。

 それにしても、落語で蓮如のことを学ぼうとは思わなかった。落語は奥が深い。そして、かつての庶民生活に仏教文化が深く根付いていたことにも思いが至る。『小言念仏』は、ああいうお年寄りが実際にいたからこそ笑えるのだ。

果たして、この後に若旦那とお文はどうなったのか、などということを心配しないのが、落語の楽しみ方である。

 本書の「お文さま」の次の章が「宗論」。ありゃ、放送も来週は「宗論」である。この番組のスタッフも、この本を読んでいるのかもしれない・・・・・・。

NHKサイトの該当ページ
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第7回
宗教を笑い飛ばす!?
五明樓玉の輔 古典落語『宗論』(東)
Eテレ 1月20日(月)
Eテレ再放送 1月27日(月)
総合再放送 3月18日(火)
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by kogotokoubei | 2014-01-15 00:36 | 落語の本 | Comments(2)
今日のメディアの状況を傍観すると、“ジャーナリズム”とか“ジャーナリスト”という言葉が死語になっているように思えるが、かつては骨のある“ジャーナリスト”がいて、国家や社内の権力と体を張って闘っていた、という一つの証しを紹介したい。

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本田靖春著『我、拗ねものとして生涯を閉ず』

 本田靖春の『我、拗ねものとして生涯を閉ず』(講談社文庫)は、著者の“遺書”と言ってもよい本である。
 
 闘病中に月刊『現代』に掲載されていた内容だが、2005年に講談社から単行本として発行され、2007年に上下二巻で講談社文庫で発行された。

 本田靖春は、昭和8(1933)年に京城で生まれ、2004年に71歳で亡くなっている。大学卒業後に読売新聞に入社し、本田の言い分を借りるなら、「社会部が社会部であった」時代の読売で記者として活躍し、昭和46(1971)年に独立。吉展ちゃん事件を扱った『誘拐』(講談社出版文化賞受賞)や『不当逮捕』(講談社ノンフィクション賞受賞)、『私の中の朝鮮人』『警察回り』などの著作をものにした、いわゆるノンフィクション作家だった。

 記者時代の功績としては、今日の献血制度につながる、当時の売(買)血問題を取り上げた「黄色い血」キャンペーンが有名だ。

------<本書の目次>----------------------
-文庫版の“上”-
第1部 由緒正しい貧乏人
第2部 植民地朝鮮、支配者の子として
第3部 戦後民主主義、光輝く
第4部 新聞記者への道
第5部 社会部配属、そして暗転
第6部 撥刺たる警察(サツ)回り、そして遊軍

-文庫版の“下”-
第7部 社会部が社会部であった時代
第8部 渾身の「黄色い血」キャンペーン
第9部 病床で飽食日本を斬る
第10部 正力コーナーへの嫌悪
第11部 さらば、読売新聞
絶筆 拗ね者の誇り
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 上記のように、文庫は上下二巻で合計十一部構成。

 第1部の「由緒正しい貧乏人」から、少し引用する。

 私は折りにふれて、自分のことを由緒正しい貧乏人といってきた。ふつう「由緒正しい」はお家柄にかかる修飾語で、貧乏人にはそぐわない。世にお仲間はたくさんおられるはずだが、先祖代々ずっと貧乏人だったことを、ちょっと強調しただけの話である。
 いついだったか、国民の九割が中流意識を持っている、という意識調査の結果が発表されたとき、私は裏切られたような気がした。おいおいお仲間たちよ、どこへ行ってしまったんだ・・・・・・と
 私はモノを欲しがらない。「由緒正しい」家系に流れる遺伝子の関係であろうか。欲しがったところで手に入らない。それなら欲しがらない方がましではないか。ご先祖さまがそういう暮らしを何百年のあいだ重ねて、貧乏に安住する気質が強まっていったのかも知れない。そして生まれついたのがこの私というわけである。


 本田靖春は、父親が一時は京城や日本で日本高周波という会社の経理担当として羽振りの良い期間もあったようだが、引き揚げ後は会社の統廃合や父の病死などもあり、窮乏期間が長かったようだ。
 本田は生涯賃貸住宅暮らしを貫いていた。また、その暮らしに奥さんもまったく反対しなかったようである。
 そんな“由緒正しい貧乏人”の社会へ向けられた目は厳しい。この文章は2000年頃に書かれたものなのだが、本質的な問題はまったく変わっていない、いや、より悪化しているように思う。

 思い出した。わが家には電子レンジもない。これが必要であるかどうかについては、意見が分かれるかも知れないが、かみさんによれば不要ということなので、ないままにしている。彼女は、電気オーブンを使ってケーキ類まで焼くので、狭いキッチンの場所ふさぎをする電子レンジは、邪魔な物と認定されているようである。
 わが家のような暮らしは、いまの世の中だと、落ちこぼれとして類別されそうである。それを認めたうえで、世の経済学者、経済評論家、経済ジャーナリストらの諸先輩に、ずっと抱き続けてきた疑問をぶつけてみたい。あなた方は、不況から脱出するための最も効果的な手段は個人消費の拡大である、と異口同音に唱え続けている。経済学的には、たぶん、そういうことになるであろう。しかし、あなた方の眼には、いわゆる繁栄がもたらした精神面での大いなる荒廃が見えていないのではないか。
 古くは、衣食足りて礼節を知る、といった。
 いまの日本で、「衣」はあり余っている。片付けられない症候群の若い女性の部屋が、それこそ足の踏み場もないほど、袖を通さなくなった衣類で埋め尽くされ、なかには堆積をつくっている光景が、ちょくちょくテレビに映し出される。最近では、すっかり見慣れてしまって、観て驚かなくなった。つまり、衣服で溢れ返っているのである。「食」の方もそうであろう。回転寿司というと、最初のころは、ネコでさえそっぽを向いて通り越す、というイメージがあったが、昨今はいいネタが供されるようになったと聞く。慶賀の至りというところだが、子連れのおかみさんたちが、大口を開いて頬張るさまを見ていると、ちょっと待てよ、という気分にさせられる。



 3.11後の電力不足の際にあれほど叫ばれた“節電”の声は、いまやまったく聞くことがなくなった。

 EH家電のテレビCMさえ復活している。もうじき“オール電化”まで息を吹き返し、頃を見計らって“電力不足、燃料高騰、地球温暖化”、だから「原発」というキャンペーンがゾンビのように生き返るかもしれない。

 3.11とフクシマを、あえて“災い転じて福となす”とするなら、“節電”“省力化”“無駄の排除”そして、“相互扶助”という言葉や文化を推進させる機会であったはずだ。

 もし一言で言うなら、“もったいない”という言葉こそ、一昨年や昨年を象徴する言葉になるべきではなかったのか。それこそ“流行語大賞”をとるほど巷に普及しても不思議のない歴史的な位置づけにあったのではなかろうか。

 しかし、安倍政権とその取り巻きマスコミの“洗脳”よろしく、再び飽食と贅沢の復活があちこちに見え始めた。


 デフレ脱却は、インフレ社会の中で、際限なく個人消費の拡大を目指すものではない。利益を度外視して、その価値に見合わないような低価格戦争により、労働者の賃金や生活などが圧迫されることをなくするためだったはずだ。また、中小企業も含めて、企業が適正な利益を得て社員や社会に還元させる原資を得るためではなかったのか。

 アベノミクスによる恩恵は、果たして誰が得ているのか。この四月に一部の産業や企業で若干の賃上げはあるだろう。しかし、消費税は上がるし、社会福祉のための国民の負担は増えている。しかし、“景気が良くなった”という共同幻想に浸り、咽喉元を過ぎて“もったいない”を忘れているのが、今の日本社会ではないのか。

 本書の中から、あえて、読むのが辛い部分を紹介する。

 本田靖春は、月刊「現代」に執筆中にも、数回にわたって手術や療養で休筆を余儀なくされている。

 第8部の冒頭から。

 すでに書いたことだが、私は肝ガンを抱えている。そいつが見つかったのは、1998(平成十)年であった。当時、人工透析に通っていた阿佐谷の診療所の春の定期検診で発見された。一センチに満たない小さなものであった。
 投げやりに聞こえるかも知れないが、告知を受けたとき、私は手術などしないで放っておく道を選んだ。老人のガンは進行が穏やかで、差し迫っての問題ではない、との説明があったからである。
 ガンが成長して、それが命取りになる事態はいつごろくるのか、医師はいわなかったし、私も訊かなかった。妙な言い方になるが、そのときまではとても生きてはいられないだろう、と考えたのである。
 それには根拠がある。私が透析に入ったのは1993(平成五)年九月だが、診療所の所長に、透析を始めた患者の平均余命を尋ねてみたところ、「うちの場合で五年というところですかね」との答えがあった。ちなみに、十年間の生存率はおよそ10パーセントだという。
 その日、家に帰ってからかみさんに意見を求めると、「あと二年間、頑張れないかしら」といった。当時は体調がひどく落ち込んでいて、四時間にわたる透析を終えたあと、待合室で三時間前後横になってからでないと、家路につけない状態にあった。私自身は、一年間もてばいい方だろう、と考えていたくらいだったのである。
 病気の話はなるべく手短かに片付けたい。読まされる側にとっては、迷惑以外の何物でもない、と思うからである。
 肝ガンが発見されたとき、透析に入ってからすでに五年余が経っていた。平均余命は消化していたのだから、ありがたいとしなければならない。残りの人生を一年と踏んでいた私からすれば、充分に長生きしたことになる。
 そういう気持ちでいたところ、翌99(平成十一)年七月、左眼が突然、見えなくなった。硝子体出血であった。
 このときはあわてた。右眼はすでに失明しているから、左眼もダメだとなると、全盲になる。執筆はもうできない。それでは死んだも同然である。
 悲壮感というやつは嫌いなので、ごく軽く読み飛ばしていただきたいが、私はこの連載を書き続けるだけのために生きているようなものである。だから、書き終えるまでは生きていたい。正直なところ、寿命が尽きる時期と連載の終結時を両天秤にかけながら、日を送っているのである。
 (中 略)
 東京女子医大糖尿病センターに入院し、レーザーの治療を受けたところ、硝子体の出血は収まって、視力を回復することができた。といっても、視力検定表のいちばん上の字がわからないので、0.1以下である。でも、倍率4のレンズを使って、原稿を書くことはできる。一日も早く退院して、執筆に復帰しなければならない。


 本書が、本田靖春の遺書であるということは、このような文章が物語る。
 
 ほとんど裸眼では見えない状態で、うすぼんやりした残った左眼にレンズを当てて書いていた文章には、著者の命の重さが乗っており、執念が込められている。

 しかし、執筆が可能となってからも苛酷な試練が続いている。

 翌2000(平成十二)年は大忙しであった。六月に大量の下血をして、S状結腸ガンが判明、患部二十センチを切除する手術を受け、体力を回復するいとまもないうち、十二月にはエソに冒された右脚を腿のところから切断した。それを追いかけるように翌年七月、今度は左脚をやられ、これも同じ部位から切り落とす羽目になる。
 こういうありさまでは、肝臓のことを気に病むゆとりはない。ずっとそのまま放ってある。この分では、肝ガンを抱いたまま灰になるだろう。
 それもいいかな、という思いがある。なぜなら、このガンは私が社会部記者をやっていた証のようなものだからである。世に勲章を欲しがる奴がゴマンといるが、そんなものはいらない。私には肝ガンという「記念メダル」がある。せっかくだから、そいつを最期まで育ててやるのも一興であろう。



 こういった満身創痍の状態で綴られた得がたい“ジャーナリスト”の「遺言」を、今後も度々紹介しようと思う。

 本田靖晴ならば、今の政治状況、都知事選挙などについて、どんなことを言い、書くだろうか。間違いないのは、その視点は権力側にあるはずもなく、“由緒正しい貧乏人”の視点だろう、ということだ。


 本田靖晴が見限った読売新聞は、正力→ナベツネの伝統(?)をしっかり維持して、原発推進の旗を振っている。

 本田が生きていれば、今の読売の状況をどう言うだろうか・・・・・・。

 没後十年、3.11とフクシマの後に、彼が何を語るかを聞けなかったのが、心残りである。
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by kogotokoubei | 2014-01-14 07:01 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(2)
 今年の落語初めは逗子だった。鯉昇の二席目は『武助馬』。この噺については、ミステリアスな歴史がある。

 鹿野武左衛門という江戸落語の元祖と言われる人にまつわる事件である。武左衛門は“座敷仕方噺”として人の家に招かれて噺をしたり、中橋広小路で小屋がけの興行もしたと言われる。この人の末路は悲惨だった。

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関山和夫著『落語名人伝』(白水Uブックス)

 関山和夫著『落語名人伝』から引用したい。

 元禄六年(1693)の四月下旬に、江戸でソロリコロリという悪い病気が流行した。一万余人の人々が死んだという。妙な流言蜚語が江戸市中に飛び、大騒ぎとなった。そのころ、あるところの馬が人間のことばを使って「南天の実と梅干を煎じて飲めば即効がある」といったという、とんでもないデマが飛んだ。おまけに、その由をしたためた「梅干まじないの書」という小冊子が印刷され、その本がまた飛ぶように売れた。そして、南天の実と梅干の値段はたちまち騰貴して二十倍、三十倍にまではねあがった。人心を乱すことはなはだしかったのでついに六月十八日付で町奉行能勢出雲守から江戸市中へ触書を出して、厳重に取りしまることになった。
 いろいろ詮索した結果、その流言の犯人として神田須田町の八百屋惣右衛門と浪人の筑紫団右衛門の二人が逮捕されたが、この両人は、馬が人語を発したというのは、噺家の鹿野武左衛門が書いた『鹿の巻筆』第三「堺町馬の顔見世」の咄からヒントを得て、梅干と南天の実の値上げを考え、「梅干まじないの書」を出版したことを告白した。


 八百屋と浪人が悪巧みをするヒントになった咄とはいったいどんな内容だったのか。

 問題になった『鹿の巻筆』巻三「堺町馬の顔見世」の咄は次のようである。

   市村芝居へ去る霜月より出る斉藤甚五兵衛といふ役者、まへ方は
  米河岸にて刻み煙草売なり、とっと軽口縹緻もよき男なれば、兎角
  役者よかるべしと人もいふ、我も思ふなれば、竹之丞太夫元へ伝手
  を頼みけり、明日より顔見世に出るといふて、米河岸の若き者ども
  頼み申しけるは、初めてなるに何とぞ花を出して下されかしと頼み
  ける、目をかけし人々二三十人いひ合せて、蒸籠四十また一間の台
  に唐辛子をつみて、上に三尺ほどなる造りものの蛸を載せ甚五兵衛
  どのへと貼紙して、芝居の前に積みけるぞ夥し、甚五兵衛大きに喜
  び、さてさて恐らくは伊藤庄太夫と私、花が一番なり、とてもの事
  に見物に御出と申しければ、大勢見物に参りける。

 ここまでは、斉藤甚五兵衛という元は刻み煙草売りが、器量(縹緻)もよく話しぶりもよいので、近所の人も役者になることを勧め、本人もその気になって役者になり、その初舞台に近所の人達が花や造りものの蛸まで贈って駆けつけた、というだけのこと。
 ここからが、詐欺師たち(?)にヒントを与えたらしい部分。

  されど初めての役者なれば人らしき芸はならず、切狂言の馬に
  なりて、それもかしらは働くなれば尻の方になり、彼の馬出るより
  甚五兵衛といふほどに、芝居一統に、いよ馬さま馬さまと暫く鳴り
  も静まらずほめたり、甚五兵衛すこすこともならじと思ひ、いゝんと
  いいながら舞台うちを跳ね廻った。

 ここに出てくる伊藤庄太夫というものは、当時の座頭か人気者であろうと思われる。


 あくまで、甚五兵衛の馬は“いゝん”と鳴いただけなのだが、詐欺師二人がこの咄が騙しの手口のヒントと言ったために、悲劇が始まる。

 結局、元禄七年三月十三日に筑紫団右衛門は主犯として江戸市中引廻しの上、斬罪に処せられ、八百屋惣右衛門は従犯として流罪となった。気の毒なのは噺家の鹿野武左衛門で、彼も伊豆大島へ流されてしまった。『鹿の巻筆』の板木は焼かれ、版元の本屋弥吉も江戸追放、「梅干まじないの書」も焼却された。

 

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延広真治著『江戸落語』(講談社学術文庫)

 この鹿野武左衛門の大島流罪については延広真治が著書『江戸落語』で疑問を投げかけている。

大島遠島も証となるべき『流人帳』は現存せず(立木猛治『伊豆大島志考』、昭和三十六年)、赦免も、『旧幕府引継書』中の『赦帳』が、『正徳四年より享保九辰迄 御仕置ニ成候者此度赦ニ可罷成分窺帳』に始まるため、確認できない。八丈島遠島は、宇喜多秀家以来の『流人明細帳』により確認しうるが、武左衛門は不登城。したがって大島遠島に関しては確かめえないが、『延元年間秘事』も「板刻ハ焼捨」が、正徳六年(1716)板『鹿の巻筆』の存在により否定された以上、遠島も疑うべきであり、しかも無削除であるから、『鹿の巻筆』筆禍説は成り立つまい。


 武左衛門が流罪になったことを裏付ける証拠に乏しいのである。しかし、武左衛門のつくった滑稽噺が、江戸の詐欺事件に関係していたことは間違いなかろう。

 『落語名人伝』で著者関山和夫は、こう続けている。

 どうやら鹿野武左衛門は、この金もうけに一枚かんで、団右衛門らに頼まれて、南天と梅干の効能書「梅干まじないの書」を書いたらしい。そうでなければ、暗示を与えたぐらいで島流しの重罪に問われるはずがなかろう。もっとも噺家の武左衛門が、そんなに腹の悪い男とは思われないので、おそらくは八百屋惣右衛門らにおだてられて一筆書いてしまったものであろう。


 
 流罪になったのか牢獄だったのかは別として、江戸落語は武左衛門の事件以来、しばらく停滞する。

 出獄後の武左衛門については不明なところも多いが、延広真治は前掲の書で、京阪に上った可能性を指摘している。服役中の疲労が元で出獄後まもなく五十一歳で亡くなったという説もある。いずれにしても、事件前の人気、名声とはかけ離れた世界にいたことだろう。

 しかし、武左衛門の功績は小さくない。その一つが、今に残る噺の素材を残してくれたことだ。

 『落語名人伝』の内容を、あと少しだけご紹介。

 この話は、『徳川政府出版法規抄録』に見えるが、林若樹の『江戸の落語』(新潮社日本文学講座・江戸時代中篇)をはじめ、いろいろな本に紹介されているので、落語史に興味をもつ人なら、みんな知っている。この話を原典として落語「武助馬」ができている。因縁つきの落語である。上方でも「武助芝居」として上演される。「武助」の「武」はおそらく鹿野武左衛門の「武」をとったものであろう。



 このように、『武助馬』という噺には江戸落語の元祖と言われる鹿野武左衛門にまつわるミステリアスな逸話がついてまわる。午年の今年、この噺を聴く機会も増えるかもしれない。このネタとともに、古き江戸の噺家に思いを至らすのも、一興かもしれない。
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by kogotokoubei | 2014-01-12 15:50 | 落語のネタ | Comments(2)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛