噺の話

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 今年はまだ機会のなかった県民ホール寄席だが、通算300回記念シリーズの中のズバリ300回、第一回の出演者でもあった小三治独演会というメモリアルな落語会。

 当初はチケット争奪戦に勝てそうにないと思っていたのだが、落語仲間のIさんが苦労してチケットを入手してくれたおかげでご縁があった。

こんな構成だった。
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柳家はん治 『鯛』
柳家小三治 『道灌』
(仲入り)
柳家小三治 『付き馬』
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柳家はん治『鯛』 (26分 *18:32~)
 開口一番は前座でも二ツ目でもなく、三番弟子のこの人。ちなみに一番弟子は〆治、二番弟子が喜多八である。
 上手から登場し高座に上がろうとしてから気が付いて、メクリを自分でめくった。なんとも手づくり感のある幕開きである。
 ネタは、お得意の(?)当代文枝作品の一つ。七月の池袋でも聴いたなぁ。それほど多く聴いている人ではないが、『背なで老いてる唐獅子牡丹』、『ぼやき酒屋』とこの噺しか聴いていないなぁ。
 舞台は、生簀のある料理屋。新米の鯛が見事なジャンプで網で掬われるのを阻止した。先輩に言われ、開店以来生き延びている“生簀の主”銀次郎に挨拶に行くと、銀次郎から、いかに掬われずに生き残るかという極意を伝授される。店の人間が見ている時は、店は弱った魚から料理するから、精一杯元気にふるまう。逆にお客さんが見ている時は、いかにも活きが悪いように、腹を見せて背泳ぎ、これが極意。ここで場内爆笑。
 しかし、ついに銀次郎も生簀から掬われて活き造りにされてしまって・・・・・・というネタなのだが、銀次郎が来店するお客様の名前と好みを語るあたりが、妙に可笑しい。
 私は当代文枝のネタは、ご本人よりもこの人の方がニンであると思っている。終演後の居残り会で、M女史が、「はん治は、あれでいいのかしら?」とおっしゃっていたが、私は、あれでいいと思う。とは言いながら、古典もいつか聴いてみたい気はするなぁ。

柳家小三治『道灌』 (29分)
 高座に上がっての第一声は、「太鼓のバチをはん治に渡したのは、お気づきでしたか」。そうか、二人と下座の太田その、三人しかいないのか。300回記念、木戸銭も通常より高めな会と、舞台裏とのギャップを感じないでもないが、私はこういう手作り感は嫌いではない。最近読んだ本(『枝雀らくごの舞台裏』)で、米朝から枝雀へのバチの引き渡しなどの逸話が書いてあったことを思い出した。
 300回記念に関することは、二席とも一切口にしない。これが小三治流なのだろう。独演会を開くこと、そして、その高座の内容でこの落語会への祝いとする、といった了見と察した。
 マクラは太鼓は「ステツクテンテン」のリズムで、「ス」はいわばタメにような一拍であることを解説。そこから、ベートーベンの「運命」を指揮したことがあり、楽譜を読んだら、いきなり「休止符」があって驚いたという逸話も含め八分のマクラは、この人にすると短かったなぁ。
 なんとも贅沢な『道灌』、という印象。隠居と八五郎との会話が中心のネタだが、次のようなやりとりが、絶妙な間も効果的で楽しかった。

 隠居 「それは、歴史画だよ」
 八五郎「・・・轢死画・・・電車にでも敷かれた」
   ・
   ・
 八五郎「なんだい、ごきじょう、ってなぁ」
 隠居 「(道灌公は)お城にお帰りになったな」
 八五郎「・・・・・・越後獅子かい」
 隠居 「どうして」
 八五郎「後ろにひっくり返った」
  
 八五郎が「轢死」という言葉を知っているところが、なんとも可笑しい。
 緩急を自在に使い分け、八五郎の表情も豊か。サゲ前、八五郎が“賤の女(しずのめ)”に扮して「おはずかしゅう」と言う場面などは、なんとも可愛いかったなぁ。前座噺を、いかにも楽しそうに語った高座で、会場は終始笑いに包まれていた。流石である。こんな“贅沢”とも言えるような『道灌』、今年のマイベスト十席候補としたい。

 仲入りで、携帯を確認すると、夕方に仕事で行けないかもしれない、とメールのあったYさんから新たなメールは届いていない。私の隣りの席が空いているのだ。残念ながら居残り会創設(?)メンバー勢揃いとはならないようだ。宮仕えは辛いのぉ~。
 次がトリネタになるが、さて何だろうと考えても想像がつかない。入場の際にいただいた、過去の出演者と全演目の立派なパンフレットを斜めに読むと、『付き馬』と『死神』が複数回演じられていることが目についた。ちなみに昭和55(1980)年1月18日の第一回が、『付き馬』と『芝浜』であった。

柳家小三治 マクラ&『付き馬』 (67分 *~20:58)
 やや間をつくっての登場。「俳句仲間に小沢昭一さんがいて・・・」という言葉から始まった時、少し“ゾクッ”と身震いした。さて、どんな逸話を聞かせてもらえるのか、と期待が高まった。十歳上の小沢昭一の葬式のことを「いいお弔いでした。・・・でもね、生きている時にいいことしなきゃね」と語り、「私なんか、落語の小三治なんて言われたことはない・・・オーディオ評論家とかオートバイとか・・・」と趣味人としての過去の思い出に少しふれて、次第に葬式からお棺のことに話題は移っていく。
 父方の祖父が宮城の人で、その葬式に行ったらしい。土葬で、土を掘って埋めたのが、桶のような座棺。座った姿で棺に納めて土に埋めるもので、縦長の棺に寝かせるのが寝棺(ねかん)、と解説。そこから江戸時代の早桶屋のことになり、その昔の早桶の大きさの種類は「並一」「並二」と言って、いわば今で言うなら「M」と「S」、それより大きいのは「大一番」。その 中でも飛び切り大きいのが「図抜け大一番」と、分かりやすく丁寧すぎる程の解説。もちろん『付き馬』のためのマクラである。その後、小沢昭一のことに話が戻って、小沢昭一が早稲田の落語研究会の創設者であり、彼自身も落語が大好きで、高座にも上がりたかったろうと察して、小三治が主任の末広亭に出演してもらった、という思い出を語った。これは、平成17(2005)年の六月のことで、本にもなっている有名な話。
 「おや、どこまで行くかな・・・・・・」と心配(?)したが、30分ほどのマクラから本編へ。
 まず、最初に登場する廓の若い衆、妓夫太郎(ぎゅうたろう、牛太郎とも書く)の表情が何とも結構。いかにも、かつては客として遊びが過ぎて今の仕事になっただけのことはある。言葉巧みに客をその気にさせて廓の二階に放り込めるだけの勢いがある。そういう設定だから、小三治の筋書きでは、きっかけで妓夫が主導的役割を果たす。
 風邪をひいた叔父さんの代りに仲之町の茶屋に集金にやって来た、と言う男がに、「集金したお金で上がってくださいよ」と誘うのだが、金を返してもらったら遊びになんぞ使わず叔父さんのところにすぐ帰る、と言う。すると、妓夫太郎の方から「あなたが集金をしたお金を見て里心がつくのなら、先に遊んでいただき、明日集金してはいかがですか。必ずいただけるお金なんでしょう」と悪魔のささやきをするのだ。なるほど、こういう展開もあり、だな。他の噺家の場合は、あくまで男のほうが、先に遊んで明日集金して払う、と仕掛ける。
 他にも志ん朝などと違う演出として、翌朝、茶屋に集金に行くと言って妓夫太郎を連れ出した男が、まだ朝早いから時間を潰そうと、食べたり湯に入ったりする場面は地でさっと流して説明し、その後の行動をしっかり描写する。志ん朝は湯に入り、その後で豆腐で一杯やる場面も描くが、小三治の主眼は、その後の場面にあるのだ。

 田町のおばさんから金を借りる、と言っていたのが田原町のおじさんに替わり浅草へ。そろそろ“切れかかっている”妓夫太郎は無口になり、“我が道を行く”男の一方的なしゃべりが続く。

 「花やしきに象がいるけど、パンやりに行こうか・・・(男を振り返って)・・・そう、行かないのぉ」
 浅草寺境内で鳩の豆を売っている婆さんの悪口も可笑しい。「自分のところに鳩が寄ってくると、棒で叩くんだよ、あの婆さん。鳩の豆のおかげで食べてるのに、ひどいことするだろう、ひどいと思わない・・・・・・ひどいと思わないんだ」
 この時に声にならない妓夫太郎の心境は「お前に比べたら婆さんなんて可愛いんもんだ」といったところか。
 次は仲見世めぐりである。たとえば、電車の方向指示器の説明をしてから「そうだ、電車に乗ってどっか行こうか・・・・・・電車、乗らないんだ」
 このあたりで、そろそろ堪忍袋の緒が切れて妓夫は男に噛みつく。それに答えて男が最後の仕上げ(?)にかかるのだ。近くにいる早桶屋のおじさんから金を借りると言って、早桶屋の場面へ。

 男の騙しのテクニックの真骨頂が、早桶屋の主との会話。少し離れたところに妓夫太郎を残し、「おじさ~ん、おじさ~ん」と声をかけ主との会話になる。妓夫太郎の兄が昨夜“腫れの病”で死んだので、“図抜け大一番小判型”の棺桶をつくってくれ、と言って、早桶屋が請け合うと、あの男が心配しているから私がお願いしますと言ったら分かったと言って胸を叩いてくれと頼み、大きな声で「おじさん、つくってくれますか」に対し主が胸を叩く。次は小声で「あの男は急に兄貴が死んで気が動転していて、おかしなことを言うかもしれませんが気にせず、早桶を作って渡してやってくれ」、と、用があると言って逃げる。この男、並大抵の詐欺師ではない。

 次の早桶屋の主と妓夫との会話も、なんとも結構だった。煙草を吸いながら主が発する質問に、妓夫が珍回答を続ける。聞かれた後に、一瞬「えっ?」と質問の意味を推し量る妓夫が、勝手な解釈で応じるのだ。

 早桶屋の主「突然だったのかい」
 妓夫太郎 「・・・えぇ、突然お越しになったんで」
   ・
 早桶屋の主「だいぶ、腫れたんだろうね・・・」
 妓夫太郎 「・・・えぇ、ずいぶん惚れたようです」
   ・
 早桶屋の主「お通夜は、どうだったい・・・」
 妓夫太郎 「・・・それはもう芸者をあげて大盛り上がりで」

 文字で書くとつまらないが、早桶屋の主の煙草をゆっくり吸う仕草や低い声の調子と、妓夫太郎の頓珍漢な返答の落差で、つい笑いが起こる。妓夫太郎の返答の後、早桶屋の主の苦りきった顔が、陰陽をさらに強める。
 無理に笑わせようとしているのではなく、登場人物になりきって丁寧に描くことで自然な笑いが起こる、そんな時間と空間だった。このネタでこれだけ笑ったことはない。どちらかと言うと、暗いネタという印象があったが、ネタへの考えを一変させてくれた高座、もちろん今年のマイベスト十席候補とするのを迷わない。


 ちょっとネタバレ的に書いてしまったが、それだけ書きたいこと満載の高座であったということで、ご容赦のほどを。

 終演後は、リーダーSさん、そしてほぼレギュラーとなってきたIさんとMさんの美女お二人と、Sさんが事前に当たりをつけていた居酒屋で居残りである。
 この日も、Sさんの旨い居酒屋を見つける嗅覚と眼力は流石であった。ビールと剣菱で乾杯し、後半は剣菱の二合徳利が、さて何本空いたのやら。Sさんが仲入りで係の人に尋ねたところ、一門に前座も二ツ目も少なくて、はん治が前座的な仕事をしたらしい。邪推だが、若い者には、この会の前座役の荷が重いので、あえて二人でこなしたのではなかろうか。
 そんなことや他の落語の話題はもちろんのこと、昨今巷をにぎわすニュースや事件など、話題は尽きない。途中で「十一時には帰ろう」と言っていたことは、四人とも会話に夢中ですぐに忘れており、あやうく店で日付変更線を超えそうになってお開き。なんとか終電前には乗り込んで帰宅してからでは、とてもブログなど書けるものではない。

 一夜明けても、あの小三治の、程よい“間”と緩急自在な語り口、そして時折見せるあどけないとも言える表情が、目と耳に焼き付いている。手作り感たっぷりながら、同時代の実力者にしっかり語ってもらうこの伝統ある地域落語会の300回記念、第一回出演者である小三治からの最大のお祝いとなったのが二つの高座と言えるだろう。

 いただいた過去のネタ一覧のパンフレット、いやちょっとした冊子のことも含めると、決して木戸銭は高くなかった。そのネタ一覧には古今亭志ん朝、桂枝雀の名がいくつも並んでいる。生の落語には接していなかった頃だが、横浜には遠くない場所にすでに住んでいた・・・・・・。
 そんなことを思うと、なおさら昨夜の小三治の高座に出会えた喜びも増してくる。
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by kogotokoubei | 2013-09-26 07:32 | 落語会 | Comments(4)
先週19日は、行く予定だった落語会に都合がつかずに行けなかった。宮仕えの辛さである。

 それを知っている連れ合いが、秋分の日の前夜、「寄席にでも行ったら」、と珍しくも優しい言葉をかけてくれた。

 せっかくのご好意(?)に甘え、文菊が主任で他の顔ぶれも悪くない池袋へ。開演時点では、ぎりぎり“つばなれ”した程度。終演時で、約五十名ほどの入りだったろうか。この顔ぶれで、本来なら贅沢な環境だった。
*なぜ「本来なら」かは、読んでいただければ判明します。

出演者とネタ、感想を記しておこう。

古今亭きょう介『不精床』 (13分 *13:44~)
 開口一番は久し振りのこの人。着実に成長していると思う。楽屋入りしてほぼ四年になる前座さん、来春あたり二ツ目だろうか。若いのにどこか、良い意味での伝統的な噺家の雰囲気のある人。師匠志ん橋はもちろん、古今亭の多くの先輩達に鍛えてもらうことを期待しよう。

初音家左吉『家見舞』 (16分)
 初、のはず。今日は代演で菊春が出演だったが番付に出ていた左橋の弟子。左橋の師匠が最初十代目馬生、その後伯楽だから、もちろんこの人も古今亭一門。落語協会のプロフィールには、“2004(平成16)年06月初音家左橋に入門 、2005(平成17)年01月 前座となる”と書いてある。入門から前座になるまでの半年のことは、分からないが、何らかの理由があったのだろう。キャリアから考えれば相応の高座だと思う。見た目は林家しん平に少し似た印象。古今亭には珍しいタイプかもしれない。

古今亭菊生『新聞記事』 (14分)
 円菊が亡くなった時、長男であるこの人のブログを度々見ていたが、高座は初めて。父の九番目の弟子である。円菊の若い時の写真を見ると、非常に男前だが、なるほどこの人もなかなかのイケ面。
 前座噺とも言えるかもしれないネタだが、非常に丁寧に演じた高座。私は好感を持った。「正眼の構え」を言うのに「ヒラリー・クリントンの目の色」などのギャグも、可笑しかった。ただし、座布団に座っての開口一番で「一杯のお客様で、ありがとうございます」というのは、ちょっと違うでしょう。たぶん、その時点では三十人位の入りだったはず。真面目なのは結構だが、少しはマクラにも“遊び”が欲しいものだ。

古今亭菊春『目黒の秋刀魚』 (14分)
 左橋の代演。初である。円菊の四番目の弟子に当るようだ。『桜鯛』など殿様のマクラから本編へ。
 旬の噺。裾の乱れが気になる動きの大きな高座。たとえば、殿様が馬に乗る時、左90度に飛んで乗馬の仕種になる。しかし、噺の本筋はしっかり押さえているし、私はこの人、好きになりそうだ。たぶん、枝雀が好きなのだと思う。そんな印象を受ける高座だった。

笑組 漫才『走れメロス』 (16分)
 『坊ちゃん』かな、と思っていたが、十八番のこちら。メロスが妹の婚礼に出てからシラクスに戻る道中、山賊を撃退するなどの、かずおのいつもに増して(?)の熱演は、寝ているお客様を起こそうとしていたようだ。
 そうなのだ。残念ながら二列目の中央で、最初からずっーと寝ている客がいた。しかし、かずおの熱演でも、起きない。「これでも起きない?!」と二人がその客の方を見る仕種で客席が沸く。このお客様、開演からほとんど寝ていたが、何しに来たんだろう。そうか、寝に来たのか。だったら、あんな前の席に座っちゃいかんわなぁ。笑組のクスグリでお客さんが笑った感触では、他のお客さんも、あのおっさんのことに気づいていた、ということだろう。珍しく第一列にはお客さんが座っていなかったから、最前列に座って、大きく船を漕いでいたのだ。

吉原朝馬『蜘蛛駕籠』 (15分)
 初である。十代目馬生一門。順番では雲助と当代馬生の間に入門した人。非常に厳しい言い方になるが、途中で「どうでもいいけど疲れるね、この噺。あと四分もつかな」という言葉は、せっかく江戸の世界に浸ろうとしていた客を現代に呼び戻すことになる。このクラスの人が挟むギャクとしては、感心しない。

柳家小満ん『悋気の火の玉』 (17分)
 池袋に決めた理由の一つは仲入り前のこの人。しかし、あまり良い体調ではなかったような印象。ところどころ言いよどみがあり、サゲにつながる部分では「根岸」と言うべきところを「花川戸」と言ってから言い直していたなぁ。こういう日もある。


 仲入りで、喫煙所で少し考えた。この会場は高座と客席が非常に近いことが特徴である。たぶん、一番後ろの席だろうが高座からは人の表情までしっか見えることだろう。噺家が高座に上がると、いや上がる前の楽屋から、あの二列目の「居眠りオヤジ」には目が行くだろうし、気合が抜ける、あるいは少なくとも気になるわなぁ。この後も、あまり期待してはいけないなぁ、と思っていた。


古今亭志ん丸『狸賽』 (18分)
 さて、そんな思いの後で、クイツキはこの人。元気にそつなくこなしてはいたが、あくまで私の考えだが、深い席、しかもクイツキでこのネタというのは、どうなのだろう。もしかすると、未だに頭を上下に揺すって寝ている、あのお客様に合せた(?)のだろうか。そんな思いで聴いていた。

柳家小袁治『夢の酒』 (15分)
 この日、夜の部ではこの人の独演会である。唯一古今亭ではない人。こういう噺もかけるんだぁ、と思って聴いていた。個人的には東北弁の金明竹を期待していたが、こういった噺も、なかなか結構でした。

ペペ桜井 ギター漫談 (11分)
今ひとつ、いつものノリがない。体調のせいか、はたまた、あの二列目のせいか・・・・・・・。

古今亭文菊『甲府い』 (33分 *~17:02)
 マクラは鈴本の八月下席の楽日とほぼ同じで、「落語なんてぇものは、弱い芸能でして」と、農協に呼ばれて、TPP問題での会議で紛糾している中での一席、というネタ。この「弱い芸能でして」の科白の時も、二列目は船を漕いでいたなぁ。
 しかし、さすが文菊である。本編は、善人ばかり登場する噺を、豆腐屋の女房の存在を見事なアクセントとして描ききった。豆腐屋の主は「どうだい、善吉をお花の婿にとって、店を継がせようと思うが、お花の気持ちを聞いてみてくれ」と言うと、「もう聞いてますよ。善吉さんをどう思うかい、と聞いたら、お花は畳にのの字を書いて顔を赤くしてましたよ。あの子、好いてるんですよ。・・・・・・善吉さんなら、この私だって」と言わせるところが楽しい。青々した頭の文菊が、なぜこれほど色気のある女性を演じることができるのか、これが芸であるなぁ。
 登場人物の描き分け、緩急の妙、そして話のリズムの良さなど、すでに中堅どころの高座であり、貫録である。また、二列目の客などは無視して集中する、主任としての責任感のようなものも感じる素晴らしい高座だっだ。今年のマイベスト十席候補とする。


 こういう日もある、とは思うが、やはりあの二列目の「居眠りオヤジ」は許せないなぁ。

 帰宅して一杯飲みながら振り返っても、どうしてもあのおっさんのことを思い出して酒がまわった。

 池袋は、高座と客席の距離が近いので、高座と客席との一体感がつくれた時は他の寄席以上の感動があるが、その分、もし客席に空間の調和を乱す人がいると、その崩れ方も大きい。

 文菊が言う通り、「弱い芸能」である。だから、寄席に寝に来るなら、一番後ろの端っこに座って欲しいものだ。もちろん、来た以上は、少し位のコックリならともかく、ほぼ全編寝るようなことは芸人さんに失礼だろう。

 まさか私が連れ合いに「寄席にでも行って来たら」と言われたのと同様、「そんなに眠いのなら寄席にでも行ったら」と女房に言われたわけでもあるまい。

 しかし、文菊の高座だけでも二千円の木戸銭の価値はあった、と慰める自分なのであった。
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by kogotokoubei | 2013-09-23 19:47 | 落語会 | Comments(8)
今年の九月二十一日、五代目古今亭志ん生が亡くなって四十年になる。

 『名人長二』のことを書いている時、志ん生の音源を聴いていたが、「名人」のことを語るマクラで、名人と言われた橘家円喬が師匠だった、と語っている。五回に分けた高座で一度ならず語っている

 それはきっと願望だったのだろう。そして、その思いが強すぎて本人も自分自身で“刷り込み”をしてしまったかもしれないが、実際は二代目三遊亭小円朝の弟子であって、前座名の朝太が物語っている。

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 結城昌治著『志ん生一代』には、冒頭にこう書かれている。
 *この本、単行本も文庫も古書店でしか手に入らない状態だが、河出か筑摩で文庫で再刊してほしいものだ。

 五代目古今亭志ん生、本名美濃部孝蔵、命名には親孝行をして蔵のひとつも建ててくれという願いがこめられていた。
 しかし、孝蔵は十五歳のとき家を飛び出したきり両親の死に目にあうこともなく、生涯借家住まいのまま八十三歳でこの世を去った。昭和四十八年九月二十一日、家人も気づかないうちに、とろとろと眠るような往生であった。
 その志ん生が三遊亭小円朝(二代目)に弟子入りして、朝太の名をもらったのは明治四十三年(1910)、ちょうど二十歳のときである。



 明治後半から大正、昭和、そして戦後しばらくまでは、最後まで一人の師匠につくことのほうが少なかったように思う。八代目文楽は最初に初代桂小南に入門したが、師匠が旅回りに出たため、自分はのこって多くの師匠の下で修業している。芸の師匠として三代目の三遊亭円馬、そして庇護者でもあった五代目柳亭左楽の存在も大きい。

 志ん生は、最初は小円朝の門下であったが、円喬を“師匠と仰いだ”ということは間違いないだろう。そして、他にも数多くの師匠がいたと言えるだろう。

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 立風書房の『志ん生長屋ばなし』には、『びんぼう自慢』の聞書きをした小島貞二と、『落語の年輪』など落語に関する多くの書を著している暉峻康隆の対談が掲載されている。

 志ん生の師匠について語られている部分を引用。ちなみにこの本の初版は昭和45(1970)年の発行。

小島  志ん生は芸名も随分かえているけれど、師匠も随分とかえています。
   師匠と仰いだ人は、名人円喬(四代目の橘家円喬)、初代の小円朝
   (現小円朝の父)、鶴本の志ん生(四代目志ん生)、それに柳家三語楼
   の四人ですが、芸の師匠として初代の遊三、めくらの小せんも当然加
   わってきます。一体、だれの影響を一番うけている人でしょうねえ。
暉峻  それがね、師匠を遍歴したということが、あの人の独特の芸を作った
   理由だと思うんです。型にはまらない・・・・・・。
    あるひとりの師匠に最後までついて、その名前を襲名するという
   タイプではないんですね。西部劇の流れ者みたいで、至るところで
   戦っては、自分を鍛えていくというタイプなんですよ。だから結局、
   自分の持ち味を出すよりしようがない。しょうがないというより、
   それが強みなんじゃないですか。


 小島貞二が「初代」小円朝と言っているが、二代目の誤りだろう。

 “西部劇の流れ者”という表現は可笑しいが、当っているなぁ。日本的に言えば“道場破り”のようなイメージに近いが、戦っているのは相手ではなく、自分自身と言えるだろう。

 それらの師匠から志ん生はどんな芸を学んだのか。

小島 志ん生の師匠系列では、円喬、小円朝が本筋の芸、めくらの
   小せんと三語楼がかなり破格です。鶴本の志ん生はその中間
   ・・・・・・。
暉峻 おそらく、みんなの芸が入っているんでしょうね。いつかNHK
   のテレビで北斎(江戸末期の浮世絵師、葛飾北斎)をやったん
   だけれども、あの北斎という人は師匠がないんです。あるとす
   れば、あらゆる師匠について、日本のあるとあらゆる流派を
   勉強している。波紋されたり、喧嘩したりして、あげくの果て、
   てめえの芸をつくっちゃうんですね。志ん生さんにも同じこと
   がいえるでしょう。

  
 私は、志ん生にとって晩年の師匠といえる三語楼の影響が強いと思っており、このブログを書き始めた頃に三語楼について書いたことがある。
2008年6月12日のブログ

 対談では、次のように語られている。

小島  志ん生さんが注目されはじめたのは、甚語楼になってから
   というはなしがさっき出ましたが、これは芸風がそのころから
   陽気になったということでしょう。志ん生の身のこなし、特に
   手ぶりなどは、三語楼流がかなり入っているそうですね。
暉峻  もともと下地が出来ているところへ、三語楼の受ける芸の
   エキスが入ったということはいえましょうね。
小島  志ん生さんに芸の話をきくと、一番多く出てくるのが名人
   円喬です。円喬のうまさを語るときは、きわめて感動的なんです。
   若いころ、円朝まさりといわれた円喬の名人芸を肌で感じている。
   それから小円朝が入り、遊三が入り、鶴本の志ん生が入り、
   めくらの小せんが入り、三語楼が入って、そのカクテルの中
   から、先生がさっきおっしゃった、型にはまらない・・・・・・  
   あるいはすべての型を破って、あの一種独自の志ん生が生まれ
   たんでしょう。



 あの志ん生の芸には、個性の違うそれぞれの師匠のエキスが見事にブレンドされていた、ということか。

 志ん生の好きな日本酒は、あまりいろんなものを混ぜると不味くなる。志ん生が洋酒を飲むことはほとんどなかったと思うが、自分の芸は“灘の生一本”ではなく、スコッチの絶妙なブレンドのようだったと思うと、なぜか可笑しくなる。

 志ん生の師匠たちのことを思うと、さて今日の噺家さんは、さまざまなエキスのブレンドに努めているのか、と思わざるを得ない。特に協会を離れた立川流や円楽一門の噺家さんは、よほど努力しないと他流派の師匠から学ぶ機会をつくることができないだろう。それに比べて、たとえば一之輔の著作を読むと、数多くの先輩達から稽古をつけてもらっていることがわかる。

 若手の成長株には、ぜひ“西部劇の流れ者”“道場破り”で、芸を磨いて欲しいものだ。

 志ん生の命日、そんなことを考えていた。
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by kogotokoubei | 2013-09-21 09:14 | 今日は何の日 | Comments(8)
今年のNHK新人演芸大賞<落語部門>は、10月18日(金)に大阪で開催されるようだ。しばらく落語部門の出演者が紹介されていなかったが、ようやく予選が終ったらしい。

同イベントのサイトから引用。
「NHK」ネットクラブサイトの該当ページ

<落語部門> 平成25年10月18日(金)
開場:午後5時30分 開演:午後6時10分 終演予定:午後8時

会場
NHK大阪ホール  
大阪市中央区大手前4−1−20
(交通:大阪市営地下鉄中央線・谷町線「谷町四丁目」駅下車、2号・9号出口よりすぐ)

主催
NHK大阪放送局


そして、、放送は、

<落語部門>
平成25年10月20日(日)午後4時20分~5時29分 <総合テレビ>


予選を勝ち抜いた下記の五名も写真付きで紹介されている。

春風亭 昇吉、立川 志の春、月亭 太遊、露の 紫、鈴々舎 馬るこ (50音順)


 ここ数年、競馬予想の真似事をしているのだが、今年は困った。生の高座を聴いたことがあるのは、昇吉と馬るこの二人だけ。他の三人はテレビなど他の媒体からも聴いたことがない。

 とりあえず、五人のプロフィールを眺めてみよう。東京から三名、上方から二名の出場。

<東京>
春風亭昇吉
落語芸術協会のサイトからプロフィールを引用。「落語芸術協会」サイトの該当ページ
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芸名 春風亭 昇吉
芸名ふりがな しゅんぷうてい しょうきち
芸種 落語
階級 二ツ目
出囃子 独楽
芸歴 平成22年5月下席 二ツ目昇進
ホームページ http://ameblo.jp/shokichiblog/
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 相変わらず、情報が少ない。ちなみに、昨年大賞を受賞した同じ協会の桂宮治のプロフィールは次のようになっている。「落語芸術協会」サイトの該当ページ

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芸名 桂 宮治
芸名ふりがな かつら みやじ
本名 宮 利之
本名ふりがなみや としゆき
生年月日 昭和51年10月7日
出身地 東京都
芸種 落語
階級 二ツ目..
出囃子 阿波踊り
芸歴 
 平成20年2月 二月下席より浅草演芸ホール楽屋入り
 平成20年3月 浅草演芸ホールにて初高座「子ほめ」
 平成24年3月 下席より二ツ目昇進
出演番組 NHKラジオ第一「日曜バラエティー」レギュラー出演中
受賞 平成24年 NHK新人演芸大賞
趣味 適度な飲酒・子育て・家族と戸越銀座を散歩
コメント とにかくお客様に笑っていただけるように・・努力します!
ホームページ http://katuramiyaji.com/
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 昇吉もラジオかテレビに出ていたように思うし、出身大学は落語愛好家の方でご存知な人も多いだろう。まぁ、あの大学の名をあえて書かないのは結構だが、他に書くべきことはあるはずだ。

 さて、次は立川流からの出場。

立川志の春
 立川一門のサイトからご紹介。「立川流」のサイト
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たてかわ・しのはる
本名:小島一哲
生年月日:1976/8/14
出身:大阪府
    イェール大学卒
出囃子:供奴
問合せ先
http://shinoharu.com
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 そうか、志の輔の弟子にイェール大卒がいるらしいとの噂は聞いたことがあったが、この人か。こっちはしっかり「イェール大学」と書いている^^

 彼のブログのプロフィールも紹介。立川志の春のブログ
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プロフィール
ニックネーム:立川志の春
性別:男性
誕生日:1976年8月14日0時頃
出身地:豊中生まれ柏育ち
お住まいの地域:東京都
職業:その他 職業詳細:落語家(二つ目).

自己紹介
立川志の輔の三番弟子。
25歳で初めて生の落語を観て衝撃を受ける。
2002年10月入門、2011年1月二つ目昇進。
イェール大学卒業後三井物産に3年半勤務。
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 今年の大会、どうも高学歴噺家の争い、などと囃し立てられそうだなぁ。司会は林家たい平らしい。ちなみに、たい平はこの大会が漫才と落語に分かれていない時で、大賞を爆笑問題が受賞したため、「悲劇の落語家」とネタにしている。
「日刊スポーツ」サイトの該当記事

 さて、次は、昨年この大会のことを書いた時に、いち早く出演者情報をブログで書いていたので引用させてもらった人。昨年は予選敗退だったので、気合が入っているだろう。

鈴々舎馬るこ
 落語協会のサイトからご紹介。「落語協会」サイトの該当ページ
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生年月日 1980年08月04日
出身地 山口県防府市
出囃子 UWFプロレスのメインテーマ紋鈴
芸歴
 2002(平成14)年 大正大学文学部中退
 2003(平成15)年05月 鈴々舎馬風に入門
 2003(平成15)年06月01日 前座となる 前座名「馬るこ」
 2006(平成18)年05月21日 二ツ目昇進
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 ちなみに、名前の呼び方は「まるこ」。


<上方>
月亭太遊
上方落語協会のサイトからご紹介。「上方落語協会」サイトの該当ページ
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1.芸名/月亭太遊(つきていたいゆう)
2.本名/後藤 征平
3.生年月日/1984年 (昭和59)年 4月21日
4.出身地/大分県竹田市
5.血液型/A型
6.入門年月日/2010年 (平成22年) 12月12日「月亭遊方」
7.出囃子/
8.紋/
9.趣味/オムライス全般
特技/よく食べる
10.ホームページ/http://www.ynn47.jp/kyoto/
11.所属/よしもとクリエイティブ・エージェンシー
12.その他/大分県立緒方工業高校卒
第26回ABCお笑い新人グランプリ新人賞受賞(漫才で)、キングオブコント2010準決勝進出ほか
ひとこと/太ってて遊んでばっかりの太遊です。かわいがってやって下さい。オムライスが大好きです。食べさせてやって下さい。
「あなたの街に“住みます”プロジェクト」で、京都府在住。特設サイト「YNN47 LIVE」Ustream配信中。
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 月亭がついてなければどの一門か推測できにくい名前だが、師匠の関係からは、可朝--->八方--->遊方--->太遊となるので、八方の孫弟子、可朝の曽孫(ひまご)弟子、ということか。

露の紫
この人のプロフィールも、上方落語協会のサイトから。「上方落語協会」サイトの該当ページ
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1.芸名/露の紫(つゆのむらさき)
2.本名/矢野 ゆかり
3.生年月日/1974年 (昭和49)年 4月6日
4.出身地/愛媛県
5.血液型/A型
6.入門年月日/2008年 (平成20年) 10月23日「露の都」
7.出囃子/
8.紋/
9.趣味/そば打ち・陶器集め
特技/イベント司会
10.ホームページ/http://ameblo.jp/murakugo/
11.所属/露の都事務所
12.その他/姫路学院女子短大卒
ひとこと/素直な落語を目指して頑張ります。
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 都の弟子、五郎兵衛の孫弟子。

 上方の二人は、米朝門下でも、六代目松鶴門下でもない一門からの出場で、これは結構珍しいように思う。


五人の入門順は次のようになる。

2002年 立川志の春
2003年 鈴々亭馬るこ
2007年 春風亭昇吉
2008年 露の紫
2010年 月亭太遊

 聴いたことのある二人について。

 昇吉は昨年も出場して、季節感度外視の『たがや』だった。さて今年はどんなネタで勝負するのだろうか。自分の芸に埋没するタイプのように思うので、どれだけ客席と一体感を出せるかが重要なポイントだろう。客を置いていかないことが大事だと思う。

 馬るこは初出場。私は彼の高座に結構辛口な感想を書いてきた。この人は器用なのだと思う。その器用さに溺れず、ウケばかり狙うことも自制したら、基本的な力はある人だと思うのでおもしろいかもしれない。客に媚びないことが大事だろう。
 
 他の三人は聴いたことがないので、優勝予想は無理ですねぇ・・・・・・。

 期待しているのは、露の新治と同門の露の紫。師匠露の都は、日本で最初の女性落語家。古典一筋の人で、この師匠に鍛えられ、新治にも稽古をつけてもらう機会もあろうと察するので、大いにテレビ放送が楽しみだ。
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by kogotokoubei | 2013-09-20 20:23 | テレビの落語 | Comments(0)
昨日は台風の影響で日曜恒例のテニスは休みとなり、その台風18号は日本列島を北上し、家の近辺も風が強くなってきた。ニュースで報道されている関西地方の被害もひどいなぁ。

 昨日読んだばかりの本について書く。土曜日に近所の書店で見つけた本は、一気に読むことが出来た。それもそのはずで、大好きな枝雀について座付き作家とも言える小佐田定雄が書いた本である。


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小佐田定雄著『枝雀らくごの舞台裏』(ちくま新書)

 『雨乞い源兵衛』や『幽霊の辻』を枝雀のために創作した小佐田定雄による本書は、枝雀ファンにとって必読者であろう。ちくま新書で9月10日の初版発行。

 短い「第一章 持ちネタの変遷」には、六十席に絞っていたネタの内容の変遷と、満六十歳の平成11(1999)年10月に予定していた一日三席を二十日口演する“幻”の「枝雀六十席」のネタが紹介されている。
 当ブログでも、相当前になるが「NHK あの人に会いたい 桂枝雀」について書いた記事で部分的に紹介したことがある。
2009年4月11日のブログ
 また、枝雀と著者の合作とも言える『らくごDE枝雀』についても以前に書いたことがある。サゲに関する秀逸な分析の本である。
2009年4月14日のブログ

 本書の内容のほとんどは「第二章 枝雀精選48席—演題別につづる舞台裏噺」である。

 最初の『青菜』から、初めて知った著者の新作『おもいでや』まで、48作にまつわる枝雀の“裏噺”の一部を紹介したい。

まず、『青菜』から。


 前半、植木屋が旦那にご馳走してもらうくだりで、柳蔭を一口のんで味醂が入っていることを知り、「小さい時分にお婆さんに連れて行かれた甘酒茶屋で、味醂をねぶらせてもらった」という想い出話を披露したりしているし、全体に肉が付いている。こういう、ストーリーには直接関係ない会話で、噺の世界をより克明にすることを枝雀さんは「生活する」と称して大切にしていた
 枝雀さんが落語についてアイデアを書きとめていた「枝雀ノート」を見ると、枝雀さんは冒頭の旦那と植木屋の会話に、もっと「生活」をプラスしようとしていたことがわかtる。「ノート」では、植木屋がひと仕事終えたところに、外出していた旦那が帰宅するところから始まる。縁側に腰を下ろした植木屋が旦那に語りかける。
「旦さん、お帰りでございますか。暑うございましたやろ。いやァ、ここ四、五日の照りつけやみな、ただ事やございませいで。ご用事は遠い所でございましたンか。私で用が足りましたら私が参りましたのに。もちろん、そうは参りまへんねやろけど、ま、たいていやおまへんわな。私が申しますのも何でおますけど、どうぞ一息ついておくれやす」
 それを受けて旦那が、
「いや、おおきにありがとう。ええ、ま、さほど遠いとこでもありゃあせんねやけど、夏のお天道さんは身ィに毒じゃちゅうで、片蔭を片蔭をととって来たつもりやが、やっぱり一寸こたえたなァ。いや、呼び止めたンは他やない。とかったら一杯やってもらおと思うて」
 これだけの会話をプラスすることで、植木屋は旦那のことを慕い、旦那も植木屋に対する「いつもご苦労さん」という感謝とねぎらいの心を持っていることがより明瞭に伝わってくるようになる。


 私が持っている音源の一つには「お婆さん」の逸話が含まれているが、旦那が帰ってきたばかり、という設定ではない。常に枝雀は厳選した六十のネタを磨き続けたのだろう。

 自分なりの工夫をするということが、単に新たに笑いをとるためのギャグを考えることではなく、枝雀の場合には、いかに落語に「生活」を加えていくかということに主軸があったということが、非常に興味深い。

 『阿弥陀池』(東京の『新聞記事』)の稿には、このネタとは関係がないのだが、なんともこの二人らしい逸話が紹介されている。


 1985年11月2日のこと。いつものとおり梅田で飲んでいた枝雀さんと私は、十一時ごろの帰宅するためタクシーに乗り込んだ。落語の話をしながら阪神デパートと阪急デパートの間にある大歩道橋の下を通りかかった時、橋の下を大勢の群衆が渡っているのがチラと見えた。
「遅いのに、えらい人手ですねえ」と私が言うと、枝雀さんもチラと見て、
「ほんまに、ぎょうさんの人手でんなあ」とまでは言ったが、あとは再び、
「それで、さっき言うてた『軒付け』のあのくだりですけどなあ・・・・・・」と落語の話の続きを平然と続けた。帰り道に枝雀さんのお宅に立ち寄ると、奥さんが、
「今日の梅田はえらい人でしたでしょう?」とたずねられたので、
「そうですねん。今日はなんぞあったんでしょうか?」と質問すると、奥さんはあきれた表情で、
「なに言うてはるんですか!阪神タイガースが日本一になったんですよっ!」
 ところが、この時点で枝雀さんも私も、それがどういう意味なのかよく把握していなかったのだから、今となったらあっぱれすぎて涙がこぼれる。それくらい、毎日落語の話ばっかりしていて浮世から遠く離れてしまっていたのだ。
 おそらく、あの日あの時に「タイガース日本一」を知らなかった大阪人というのは我々だけだったにちがいない。そんな二人を乗せたタクシーの運転手さん、きっと気味が悪かっただろうなあ。
 教訓。新聞は読まなくてはいけない。


 そこに一緒にいた著者しか書けないネタ(?)である。マイナーなスポーツのことではなく、プロ野球、それもタイガースが日本一を決めた日の大阪での出来事である。二人とも、落語以外には何も見えていなかったということだろう。

 次に、『ちしゃ医者』から。


 噺の冒頭の、往診を頼みに来た隣村の男に対する下男の久助の、
「どうしても治さんならんのやったら、よそへ行ってもらいたいですな。うちの先生、よう治しませんよ。ほっといても治るような病人でも、うちの先生が触ったために・・・・・・めちゃくちゃになったことはなんべんでもあんねんで」
 それに答えての隣村の男の、
「こちらの先生がヤブさんやいうこともかねがね聞いておりますんです。けど、『構わん構わん。医者の恰好さえしとったら、枕元へ並べとけ』ちゅうようなことで」
 そして、我が家に居る・・・・・・ことになっている駕籠屋が「風邪でも引いて寝ている」と聞いた医者と久助の、
「なんでわしに言わんのじゃ。じきになおしてやるぞ」
「アハッ、棺桶の中の」
「や、やかましい。薬を合わせてやるというのじゃ」
「命が惜しけりゃ、飲まんでしょ」という遠慮のない・・・・・・というか遠慮のなさすぎる言葉のラリーは初代春團治師のレコードのやりとりを増幅させたものである。
 初代の言いたい放題の言葉のバトルの裏に、医者と久助の友情を上乗せして、「おもしろうてやがて哀しい」物語に昇華させたのは枝雀さんである。
 枝雀さんの初代崇拝はほんまもんであった。


 著者は、笑福亭仁鶴も、そして「一番遠いところに居そうな米朝師」でさえ、初代春團治への傾倒はあったが、「その中でも、枝雀の初代崇拝は飛び抜けて」いたと指摘する。

 久助と隣村の男との「遠慮のなさすぎる言葉のラリー」は、枝雀のこのネタでの聞かせどころである。そして、それが、上方爆笑落語の元祖とも言うべき初代春團治の高座を元に枝雀が「増幅」し「昇華」させたものだったことは、初めて知った。初代の音源を聴かなきゃ^^

 初代春團治を崇拝し、爆笑落語を目指していた枝雀。人気が出てくると、なかなか苦言を呈すことのできる人は周囲にいなくなる。しかし、ただ一人、枝雀に遠慮のない批評を直言できる人がいたことが『はてなの茶碗』の稿に書かれていた。


 枝雀さんがお客さまの反応に合わせて、いささかオーバーな高座をした時など、下りて来た枝雀さんに、「おとーさん、フツーにやりましょうね」と小さな声でアドバイスしているのを聞いたことがある。当時、「爆笑王」として向かうところ敵なしだった枝雀さんに「フツーにやりましょう」なんて言えたのは枝代夫人のほかにいないと思う。枝雀さんも、
「けど、お客さんが喜んでくれはるさかいになあ・・・・・・」なんて言い訳をしておられたが、夫人の判断のほうが正しいことが多かったように記憶している。
 人気がアップするにつれて周りには「イエスマン」が増えてくるのが世の常である。枝雀さんもそれは気付いておられて、ある時、私としゃべっているうちに意見の相違があった。お互い一歩も引かずに最後は机を叩かんばかりの議論となったのだが、話が一段落ついてクールダウンしたとき、枝雀さんが、
「最近はなかなか『それはちがいます』と言うてくれる人が少のなってきたように思いますねん。そやさかい、あんさんはこれからも意見が違うた時は決して妥協せんといとくなはれや。自分がほんまに納得するまで反論してください」
 そう言ったあと、
「ま、今回の議論についてはあんさんが間違うてますけどな」と付け加えたので、私が思わず、「まだ言いますか!」と突っ込んで果ては双方大笑いとなって円満解決したことがあった。


 下座三味線と希少な批評家として夫を支えた枝代夫人の存在は大きかっただろう。

 そして、決してイエスマンにならずに、阪神タイガースの日本一などにも目をくれず、ひたすら枝雀と落語を語り続けてきた落語作家の小佐田定雄。そんな著者にしか書けない枝雀の“裏噺”が、他にもたっぷりの本。これは枝雀ファンに限らず、落語愛好家の方の必読者だと思う。
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by kogotokoubei | 2013-09-16 09:41 | 落語の本 | Comments(0)
久し振りに喬太郎を聞きたいと思っていたところ、末広亭の中席の主任、初日なら何とか都合がつきそうだったので、楽しみにしていた。
 会場入りした時はホームランの漫才の終盤。椅子席が八割位埋まっていただろうか。桟敷は好きな下手の真ん中あたりに空間(?)があったので、ホームランの後で席を確保。喬太郎のトリの時点では椅子席と桟敷はほぼ満席。二階席を空けるまでには至らなかったが、平日だからねぇ。

最初から聴いた志ん弥からネタと感想を書き留めたい。良かったと思う落語にを付けておく。

古今亭志ん弥『浮世床』 (15分 *18:00~)
久し振りだ。過去のブログを調べたら二年前に同じ末広亭での『替り目』以来。寄席が似合う人だ。将棋と本で、いかにもこれが寄席、という高座。幸先が良い。

林家正蔵『七段目』 (16分)
 マクラが先月鈴本の楽日で聞いた“歌舞伎と落語”のネタなので「またか」という思いだったのだが、この噺なら相応しい。前半、若旦那が帰宅して父親との会話で披露する歌舞伎の声色は今ひとつだったが、二階に上がってからの丁稚の定吉を相手にしたお軽と平右衛門の掛け合いは、そう悪くはなかった。しかし、どことなく元気がないような気がしたなぁ。

林家正楽 紙切り (13分)
 注文の前に「相合傘」。その後はお客さんの注文順に「陰陽師」「ピノキオ」「稲刈り」「末広亭」と、十分余りの時間で作り出す芸は、いつ見ても見事。

柳亭小燕枝『権助提灯』 (14分)
 悋気のネタなので、以前にも聞いたことのある「間男」と「冷蔵庫」のマクラなのだが、これが結構可笑しい。とにかく権助がいいのだ。江戸の大店には、きっとこんな飯炊き男がいたんだろう、と思わせる。田舎ものなのだが、主人に卑下して仕えるわけではなく、気の利いた風刺も口にする。仕事も手は抜かず、彼が炊いたご飯は旨かろう。もちろん、本妻と妾の演じ分けも見事。
 こういうベテランの江戸情緒たっぷりの噺を聴くと、寄席に来たのが嬉しくなる。

三遊亭円丈『シンデレラ伝説』 (17分)
 仲入り前は、久し振りに聴くこの人。昔の人形町末広の思い出などの楽しいマクラの後本編へ。後で調べたら、弟子の白鳥作のようだ。子供(金坊)が父親に「昔話を聞かせてくれ」とせがむと、父親が「桃太郎」を始めた。「そんなんじゃなくて外国の昔話、シンデレラがいい」と子供に言われた父親。「外国の昔話だってお父さん知ってるぞ、『ジョッキと枝豆』とか」など言いながら、「義姉が二人いるシンデレラは三姉妹だな」ということで、強引に「三匹の子豚」の筋書きでシンデレラを語り出す。長女は木の家をつくり、次女は藁の家、三女のシンデレラがツーバイフォー・・・というような筋書なのだが、ところどころ円丈(白鳥?)的なクスグリが挟まり、会場は大爆笑。円丈作と言われても疑わないだろう。というか、ネットで調べるまで、そう思っていた。それだけ白鳥に、師匠のDNAが伝わっているということなのかもしれない。こういう噺を聴くと、この人の新作における存在感の強さを思い知るし、新作もあなどれない、とも思う。

柳家喬之助『堀の内』 (14分)
 クイツキのこの人も、随分と久し振りだ。ブログを始める前の二つ目時代に、鈴本やにぎわい座の一門会で聴いて以来だと思うので、六年ぶり位になるだろう。マクラでは、楽屋から見ていて、「桟敷の親子連れが気になってしょうがなかったんです。主任が主任ですから。途中でお帰りになってホッとしました」で会場は爆笑。こういったマクラもさすがに落ち着いてきた。もともと、真面目で明るい高座なのだが、真打に昇進して六年経た成長の跡を十分に感じた。慌て者の亭主としっかり者の女房、そして少し憎たらしい男の子、江戸の親子像の一つの典型をテンポよく演じてくれた。

ロケット団 漫才 (11分)
 好きだなぁ、この人達の漫才。テレビでは放送できない実名ネタこそが、おもしろい。いつもの四字熟語シリーズをあっさり挟み、最後のCMネタが傑作。とても書けない^^

柳家甚語楼『町内の若い衆』 (13分)
 同期左龍の代演。マクラでふっていたが、たしかにグッチ裕三に似ている。この人の江戸っ子の科白も好きだ。熊の女房が鉢巻きをしていて「闘魂」と書かれている、というのが可笑しかった。大将と呼ばれる兄貴分の女房と熊の女房の見事な落差、そこにこの噺のエキスがある。さて、自分の連れ合いはどちらに近いか・・・は、あえてコメントを控えさせていただく。

金原亭馬遊『蜘蛛駕籠』 (15分)
 初である。白鳥、文左衛門、萬窓などと同期の2001年9月の真打昇進。伯楽の二人の弟子のうち一人で、今月小駒から名を替えて真打昇進する龍馬の兄弟子、ということになる。入門12年で真打昇進しているから、当時は早い方だ。同時期の昇進者の中でももっとも短期間での昇進ではなかろうか。
 う~ん、何とも不思議な味わい。黒縁眼鏡が少しズレた感じの独特の見た目もそうだが、上手いのか、そうではないのか、微妙な後味のある人。喬太郎が高座の開口一番で「目の前に馬遊師匠の汗が・・・・・・」と言っていたように熱演ではあった。

翁家和楽社中 太神楽 (6分)
 心配なのは和楽がいないこと。小楽、和助、小花の三人でトリのためにしっかりヒザを務めたが、リーダーの不在が寂しい。

柳家喬太郎『抜け雀』 (30分 *~21:00)
 「小諸の学校寄席を午前、午後、その後池袋を務めて、ここです」と、相変わらずの多忙ぶり。池袋でも中トリだからねぇ。ファストフード店やコンビニで馬鹿な真似をしてツィッターに写真を載せる若者のことなど短いマクラで笑いをとってから本編へ。
 昨年あたりは、声の調子が気になったが、若い絵師の叫ぶ「ばかァ~」も含め、しっかり声は出ていた。体調は良さそうで何より。少しだけダイエットしたような、気もする。
 やはり、この人の古典が好きだ。すでに一文無しの若い絵師が小田原の宿に長逗留している部分から語り始めた。宿屋の女房や若い絵師に大声を出させる独特の演出をしてはいても、基本はまったく変えていない。“目に銀紙”のクスグリを省いたのは時間のせいか、構成として変えたのか不明だが、良い意味で無駄を省いてスッキリした印象だ。宿屋の主人が、屏風から消えた雀を、屏風の表、そして体を伸ばし少し曲げて裏を見て繰り返し確認する仕草など、結構細かい演出が私には好感が持てた。寄席、そして古典の喬太郎は、やはり流石である。


 久し振りの喬太郎は元気だったし、他にもしばらく聴いていなかった噺家さん達に会えた。そして、寄席ならではのベテランの味、若手真打の成長ぶり、テレビでは披露できない漫才ネタなど、非常に充実した時間と空間だった。
 帰宅して録画していた「あまちゃん」を見ながら一杯飲んで、その後にNHK BSの“世界のドキュメンタリー”-イラク戦争 終わりなき戦い-の「第3回 大統領、もう“地獄”です」を見ていたら、怒りが込み上げてきて、ついのめり込んでしまった。
 その結果、ブログを書き始めた時は当然日付も変わっていたし、寝る前に書き終えることもできなかったのだった。
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by kogotokoubei | 2013-09-12 00:56 | 落語会 | Comments(6)
 楽しみにしていた露の新治の独演会。鈴本恒例の権太楼とさん喬の“夏祭り”で仲入りを十日間つとめたこともあって、東京での人気も急上昇したのだろうか、木戸銭二千円の前売券は、発売後間もなく売り切れた。本来の 188席では足らずに、補助のパイプ椅子も並ぶ盛況ぶりだった。
 “ぴあ”などで販売したのではなく、あくまで手作りの会なので、これは結構凄いことではなかろうか。

次のような構成だった。
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(開口一番 桂三四郎 『時うどん』)
露の新治 『権兵衛狸』
林家正楽 紙切り
露の新治 『立ち切れ線香』
(仲入り)
露の新治 『源平盛衰記』
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桂三四郎『時うどん』 (19分 *19:01~)
 初である。上方落語協会のサイトで確認したところ、当代文枝の弟子が十九人(!?)いる中の十三番目。入門九年、三十一歳。マクラで年齢を言っても何ら反応がなく、まぁ、見た目も年相応ということだろう。長髪で、いわゆる“チャラ男”の容貌で、あまり期待していなかったが、ネタはまぁまぁだった。季節感ということでは、微妙ではあるが、きっと彼の得意ネタを披露したのだと思う。散髪したら、もっと高座も引き締まるのだが・・・という印象。

露の新治『権兵衛狸』 (26分)
 高座に上がると、あちらこちらから声がかかる。お知り合いの方もたくさん来場されているようだ。
 噺家になったきっかけとなった子供の頃に聞いた小咄というのが笑えた。「誰や、こんなとこに魚の骨をおいたんわ」「アラー!?」・・・「可笑しかったんです、こんなんが」と噺家の道へ、というのはネタとしての脚色もあるだろうが、そういうものかもしれないね、きっかけなんて。
 「目的と手段」という若干固いテーマのマクラは、聞く人にとっては合わないかもしれないが、私はこういう知的な香りのするマクラ嫌いじゃない。人権問題をテーマに講演なども行う人なので、そういうことを普段から考えることも多いのだろう。
 沖縄サミットでの当時の森首相とクリントン大統領の(歌之介お得意の)ネタなどで会場を沸かして本編へ。大ネタの前に、こういった軽めの滑稽噺でもしっかり会場を沸かせる。権兵衛さん、狸、村の衆それぞれ楽しく描かれていた。権兵衛さんの若かりし頃の水車小屋での艶っぽい話が、なかなか結構なアクセントとなっていたように思う。

林家正楽 紙切り (22分)
 OHPが寄席よりも少し高めの位置にある高座に置かれた。飄々としたいつもの様子で登場し、座布団に座って両手を広げてご挨拶。いわゆる“ルーティーン”は同じだが、会場、高座、客層なども含め寄席とは違う雰囲気の中、お客さんの注文の前に「馬」と「相合傘」を見事に仕上げてから注文を受けた。
 結果として「権兵衛狸」「露の新治」「十五夜」「東京オリンピック」と見事な芸を披露。これで下がるのかと思いきや、美空ひばりの『川の流れのように』に合わせて、OHPの前にかがみながら、事前に仕込んでおいた作品をどんどん「流」していった。師匠である先代正楽の次男、二楽が同様の手法で「動く紙切り」を演じたのを見たことはあるが、この人では初めて。なるほど、落語会ならこういう技も披露するんだ、と感心。それにしても、客性から見てOHPの後ろの方に回って頭を低く下げ、ところどころで引っかかる切り絵を歌に合わせて苦労して動かしていた正楽師匠の姿が、なんとも微笑ましかった。

露の新治『立ち切れ線香』 (44分)
 結論から言うと、非常に感動的な高座だった。上方版の“本寸法”と言える高座。登場人物がしっかり描き分けられ、それぞれが役相応の存在感を体現していた。もちろん、主役の若旦那も良いが、脇役の番頭、小糸の母であるお茶屋・紀ノ庄の女将も光っていた。番頭は怖すぎず、しかし船場の大店の番頭の威厳は保っている。ミナミのお茶屋の女将は、色街を仕切る強さと、亡くなった娘の面影を慕う優しさも兼ね備えた、いわば、大人の女性として色気を保っている。すご~く品が良くて色気のある女将像である。こんな女将がいる小料理屋に出会いたい^^
 上方落語の内容を確認する際に度々お世話になっている「世紀末亭」さんのサイトにある米朝版を元に、新治が語ったであろう科白に少しだけ変えて、特に印象的だった部分について書きたい。
「世紀末亭」さんのサイトの該当ページ
 秀逸だったのは、後半、紀ノ庄の女将と、百日の土蔵(くら)住まいが明けてやって来た若旦那との会話。しかし、もちろん前半の若旦那と丁稚定吉との会話、親戚一同集まった席での番頭と若旦那の緊迫したやりとりも良かったからこそ、後半も生きるのである。
 
まず、女将(母)による小糸の最後の場面の回想。何通も手紙を書いたものの若旦那からの連絡はこない。日々弱っていく小糸。その時に若旦那がつくってくれた三味線が届く。

 女将 「これ見なはれ小糸、若旦那お心変わりしたんやったら、こんな高こ
    ついたぁる三味線が届くはずないやろ。これには何か事情があるに
    違い ない。この三味線は若旦さんの気持ちやないか」ちゅうたら
    「ホンにそぉやったなぁ、お母ちゃん……。この三味線、わて
    弾きたい」 弾けるよぉな体やなかったんだすけどなぁ……、弾か
    してやろ思てもちゃんと座られしまへんねやがな。お仲が台所から
    手ぇ拭きながら飛んで来て、後ろから小糸の体を抱える。三味線、
    手ぇに持ったもんの調子も合わせられへん
    「どないすんねや?」ちゅうたら、あの子何を弾くつもりだしたん
    やろなぁ「本調子……」わたしが調子合わしてやって持たしてやる
    と、嬉しそぉな顔をして「しゃ~ん」とひと撥入れたままじ~っと
    してるさかい
    「どないしたんや?」っちゅうて覗き込んだら……、もぉこの世の
    もんではございまへなんだ……


 この場面で、私の席に近かった女性のお客さんの数名が、ハンカチを目に当てていた。実は、私も目がうるんでいた。この後に若旦那と女将の会話が続く。

 若旦那 可哀想ぉなことをいたしました。し、知らなんだ。何にも
     知らなんだんや。わしゃ百日のあいだ蔵へ入れられて、ひと足も外へ
     出ることがでけなんだんや。手紙を出すにも、見せてももろてへん
     がな。わしを恨んだやろなぁ……
 女将  そんなことやないかいなぁと思とりました。今日はあの子の三七日
    (みなぬか)朋輩衆がもぉじき来てくれるやろと思います。お参り
     してやっとぉくれやす
 若旦那 参らしてもらう
 女将  お仲、この位牌持って行って、それからあの三味線、いただいた
     三味線をお仏壇(ぶったん)の前にお供えしなはれ。ほな若旦那、
     どぉぞ……


 三七日(みなぬか)は、亡くなってから二十一日目の法要のこと。
 ここで若旦那が正面を向いて仏壇の前に座り、悲愴な顔つきで、小糸の位牌に向かう。

 若旦那 知らなんだとはいえ、小糸すまなんだなぁ……
 女将  若旦那、何にもおへんけど、ひと口
 若旦那 何を言ぅてんねん、酒なんか飲めるかいな
 女将  いぃえ、口もぬらさいでお帰ししたら、小糸が怒りますよってに、
     供養やと思ぉて、ひと口あがっとぉくれやす……


 このへんの見事なやりとりが、だれることもなく、かと言って早すぎずに心地よいリズムで交わされる。はっきりした語り口なのだが、情がしっかりと伝わってくる、そんな印象だ。

 この後、三七日の法要に訪れた芸者仲間の訪問という動きのあった後、あの場面となる。急に三味線の音が聞え、地唄『雪』を口ずさむ小糸の声・・・・・・。 そして、サゲへ。

 この噺で、小糸の手紙が八十日目で途絶えたことについて、番頭は「八十日目で、あとは鼬の道」と表現する。これは、イタチは通路を遮断されると、その道を二度と使わないという言い伝えからの表現なのだが、こんな言葉も落語にしか残っていないのではなかろうか。

 この高座を今年のマイベスト十席にしないわけにはいかない。流石、露の新治。

露の新治『源平盛衰記』 (30分 *~21:40)
 仲入り後、見台、膝隠しの配置された高座に、黒紋付きと袴姿で新治が登場。「眠い噺で失礼しました」の一言は、残念ながら私の周囲にもいらっしゃった何名かの“コックリさん”の姿を高座から確認できたのだろう。もったいない・・・・・・。
 その後のマクラで、「独演会というのは、色合いの違う噺を三席はするもの、というのが師匠の教えでして、師匠は稲荷町の(正蔵)師匠から、それを教わった」という、うれしい逸話を披露。しかし、「すでに、コケかけています」という言葉は、結構本音だったようにも思う。あの高座の後である。
 張り扇と拍子木でにぎやかに、弁慶と牛若丸の五条の大橋での一戦や、木曽義仲と平維盛との倶利伽羅(くりから)峠の戦いなどを経て、那須与一の扇の的まで一気に進めたが、ご本人の言う通りで、やや息切れ気味であった。
 

 三席目はお疲れな様子もあったとはいえ、滑稽噺、大ネタの人情噺、そして講談ネタという三つの味わいの違うネタを聴かせてくれた新治。そして、何と言っても『立ち切れ線香』である。

 終演後は久し振りの居残り会分科会。なぜ分科会かというと、創立メンバー(?)のYさんが仕事の関係で来れなかったからなのだが、リーダーSさん、女性陣はほとんどレギュラーのI女史とM女史という強力メンバー。四人で、旨い居酒屋を見つける嗅覚が抜群のSさんに従って、会場近くの初めての店へ。
 結構広い店内。SさんとI女史はお酒の燗、M女史と私は生ビールで乾杯。三席目のマクラで、新治が東映映画の時代劇スターの名をスラスラと並べた話題から、「新治っていくつ?」という話題になり、普段は年齢を結構チェックする私も、迂闊にも答えられない。「東千代之介を見ていたんだから、五十代ということはないでしょう」ということにはなったが、帰宅して調べたら昭和二十六年生まれ。なるほど、今年六十二で、私よりは少し上だった。途中からM女史も私も酒に替えて、徳利は新治の「源平」の語りの調子のように素早く空いていく。話題は落語、オリンピック、フクシマなど多岐に渡り、ついにお店から「ラストオーダーです」の声。もちろん、帰宅は日付変更線を越えた。M女子がお開き前におっしゃった言葉が凄い。「今度、居残り会の途中で日付変更線を超えてみたら!」・・・・・・。それでは最終電車に間に合わないのですよ^^

 思い出すと、オリンピック招致のためのプレゼンテーションの映像については、全員一致で、猪瀬や安倍の言い分にダメ出しだったなぁ。Sさんも、IさんもMさんも人生の先輩だが、しっかりと毎日を楽しんでいらっしゃる。しかし、家のことだって手を抜くことはない。そのバイタリティにはとてもかなわない。スケジュール表は目一杯埋まっていて、「この日はお昼が文楽で、夜が落語」なんて日が続いているのだ。凄い!

 安倍の「放射能は完全にブロック」の大嘘には呆れかえるが、一時でもそういったストレスを、新治の高座と楽しい居残り会の先輩メンバーとの会話で忘れさせてもらった。電車で途中から座れたが、俺は七年後もあの先輩達のように、果たして落語が安心して聴けるのだろうか、などと思っているうちに眠っていた。さて、次に新治を聴けるのはいつかなぁ。
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by kogotokoubei | 2013-09-10 00:50 | 落語会 | Comments(4)
2020年のオリンピック開催地が東京に決まった。

 テレビで手を取り合って喜ぶ人達の姿を見ても、私はまったく素直に喜べない。

 決定後の会見で猪瀬知事が「ホスピタリティ」の言葉を繰り返す。滝川クリステルはフランス語のプレゼンテーションの中で「お・も・て・な・し」と語る。安倍首相は放射能汚染水は「完全にブロックされている」と嘘をつく・・・・・・。

 大震災とフクシマからの復興が優先されずに、外国からの客への「もてなし」のために、多くのの予算と労力を費やすことが許されるのか。

 経済効果(三兆円?!)が叫ばれ、やたら「スポーツの素晴らしさ」や「感動」「元気」といった言葉が口にされる。

 私もスポーツが好きで実際にプレーするが、スポーツを楽しむためには、まず「衣食住」の基本的な生活基盤があってこそ、である。


 震災や原発事故で故郷を失った人々は、「別な国」の出来事のよう、と昨夜のテレビで表現していたなぁ。

 マドリッドにおける財政的不安、イスタンブールにおける反政府勢力による安全面での不安が、僅差で東京における放射能不安より大きかった、ということか。
 すでにオリンピックは「都市」での開催ではなく「国」による開催である。加えて、ロサンゼルス・オリンピック以降、オリンピックは、完全なイベント・ビジネスとなっている。ビジネスである以上は、IOC委員の票を獲得するための取引もあるだろう。

 「おもてなし」という言葉より、世界で通用する言葉としてもっと大事なのか「もったいない」のはずだ。

 しかし、開催が決定した以上、それを、日本が抱えている問題を解決する方向に活用しなければ、それこそ「もったいない」だろう。

 マドリッドとイスタンブールのマイナス要因が大きかったことによる決定も、一つの「縁」だろうし、失われた日本人のさまざまな「縁」を、五輪開催を契機に新たに繋ぐことにならなければ意味がないように思う。

 日本人は、かつて存在していた「血縁」「地縁」を進んで崩してきた。

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佐伯啓思著『反・幸福論』(新潮新書)

 本書は、『新潮45』の2010年12月号から2011年8月号に連載された内容に加筆されて2012年1月に新潮新書から発行されたもの。

 五輪のことへの関連のみならず、少しこの本からダラダラ引用してしまうが、ご容赦のほどを。

「第三章 『無縁社会』で何が悪い」から引用。

 都市再生機構がもっている全国76万戸の賃貸住宅で孤独死した65歳以上の老人は、1999年で94人だったのが、2008年には426人へと急増しています。政府の調査によると(『高齢社会白書』)、65歳以上の高齢者のうちで一人暮しの割合は、1990年には162万人で男性5.2%、女性14.7%でした。162万人でもかなり多いと思いますが、これは2010年にはおおよそ465万人で男性11.0%、女性19.4%へと急拡大しています。10年後には、この人数は631万人へと増加すると見込まれています。今日、65歳以上の老人のおおよそ6人に1人が独居しているわけです。
 もちろん、独居は老人だけの特権というわけではありませ4ん。結婚しない若者が増加しています。まだしも資産をもっている親に寄生してパラサイト・シングルという結構な立場でフリーターをしていたとしても、親が死ねばたちまち「無縁」状態に放り出されてしまうこともある。あるいは、いままで20年、30年働いてきた会社がいきなり倒産したり、解雇されたりで、突如さしたる所得も資産もない状態で「無縁社会」へ放り出されてみれば、いまさら新たな「縁」を作ることさえ困難になるでしょう。
 こうなると、誰もが「無縁社会」と無縁ではなくなってしまうのです。


 まったく他人事ではない話だ。私より連れ合いが「独居」になる可能性が高いだろう。

 学生時代から、私は北海道、連れ合いは新潟の実家を出ている。現在もおかげさまで両親がともに実家で健在だが、二人は関東圏で暮している。

 故郷を離れて暮しているもっともらしい理由は挙げられるが、もっと、「地縁」「血縁」を大事にすることはできなかったのか、と思わないでもない。しかし、そういった「縁」を繋ぎとめておく社会ではなくなってきたのも事実だろう。何世代もが同居する家族は減少し、「味噌」「醤油」を借りあうほど親しくお付き合いをしていた「隣組」という共同体は、ほとんど消滅した。

 佐伯は次のように指摘する。

 実は、戦後の日本人はこぞってこの「縁」なるものをうっとうしく想い、放棄することに邁進してきたのではないでしょうか。さらにさかのぼれば、これは明治という近代の夜明け以来、というべきかもしれません。
 今はそこまでさかのぼるのはやめても、少なくとも戦後日本社会は、まずは「血縁」と「地縁」を断ち切ることから始めたのです。いうまでもなく「イエ」は「血縁」でできています。その「イエ」こそ、日本の前近代性そのものとされました。「イエ」を基軸に作られている旧民法は封建制の象徴とみなされ、個人の観念を軸にすえた新民法へ移行するとともに、「イエ」こそ攻撃の対象になりました。
 もちろん「血縁」がまったく解体したわけではありません。「血」の流れは細々と続いてはいますが、「イエ」は「マイホーム」に代わり、「家族」は「家庭」になってゆきました。大きな「イエ」から解放されると、まずは「家庭」が出現し、「父」と「母」と「子供」というフロイトが喜びそうなこぢんまりした三角形ができました。大家族から核家族への変化です。しかし「自由に自分の幸福を追求する権利をもった個人」からすればそれも窮屈なものです。
 そしてその次はといえば、核家族の中で、毎日のように小さな核分裂が起きてしまったのです。個人主義は、家庭というものに安住できません。そしてこの分裂は、今日ではいたるところで家庭崩壊をもたらしています。
 (中 略)
 実際には、歴然として「血」というものがあるにもかかわらず、戦後日本人は、皇室から「イエ」にいたるまで、ともかくも「血」というものに目をふさぎ、できるだけその意味を軽視しようとしたのでした。


 たまにメディアで、“三世代同居大家族”などが“珍しい”こととして紹介されたりするが、かつてはニュースになりえなたっか大家族はそれだけ珍しいものになってきた。地方から都市への移動を含め、日本人が「血縁」を崩してきたのは事実だろう。そして「地縁」はどうだったのか。佐伯はこう続ける。

 「地縁」についても同じです。もはやあれこれいうまでもないでしょう。前章にも書きましたが、日本の近代化とは、とりわけ地方の「土地」から人々を切り離し、土地をもたない都会へと人々を移動させることでした。生まれた場所というだけで「縁」があるというのはいかにも前近代的で封建的だとみなされました。「イエ」も「ムラ」も戦後もっともきらわれた言葉でした。



 都市化をすることが近代化であると信じて、「イエ」「ムラ」を積極的に崩し、今や食糧自給率は四割を切り、本来は農耕民族としての強みであった協調性や相互扶助の精神を失ってきた日本。
 
 失った「地縁」や「血縁」を過去のように復活させるのは難しい。いや、無理だろう。だからこそ、「縁」に替わる言葉として「絆」という言葉がもてはやされるようになった。

 しかし、今の段階では「絆」という言葉や「希望」なども、とても空虚に感じられる。五輪開催決定で「血縁」「地縁」の関係のない者同士が喜び合う光景に、私は正直なところ軽薄さを感じる。彼らの姿を目にした震災と原発事故の被災者の方の心境への想像力の存在を、飛び上がって喜ぶ人には感じない。

 しかし、オリンピック開催を意義あるものとして考えるなら、震災やフクシマで被災した人々と国との間に失った「縁」を、本物の「絆」で繋ぐことができなければいけないだろう。

 そして、本当に「おもてなし」をするなら、安倍の放射能「完全にブロック」という嘘を嘘のままに終わらせず、たとえば全ての格納タンクをステンレスと溶接によるタンクに替えるなどで実現しなければならない。安倍が言うように「ここからが本番」である。安倍は世界に「完全にブロック」すると約束したと考えるべきだろう。その約束を守ることが「おもてなし」の第一歩だ。

 五輪開催により、まだまだ続く被災者の方々の苦悩や、フクシマがまったく収束の道を歩んでいない実態が、今まで以上に海外の目にさらされることが、開催決定の最大の収穫になるような気がする。3.11は、まだまだ大きな傷跡を残したままだ。実態が海外メディアを通じて世界に明らかになるのなら、それも効用である。日本のメディアが近づかない現場で、海外の勇敢なジャーナリストは隠された問題を掘り起こしてくれるかもしれない。

 そして、五輪ホスト国は、ゲストを「おもてなし」するためには、自国の国民が他人をもてなすだけの心の余裕を持てる状態でなければならないということを、十分に考え行動すべきだろう。その余裕は「衣食住」の基盤が安定することからしか生まれない。「おもてなし!?それどころではない!」という状態の国民の生活の安定化を最優先しないのなら、とても五輪を開催する資格などない。
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by kogotokoubei | 2013-09-08 06:10 | 責任者出て来い! | Comments(2)
さて、ついに(?)このシリーズ最終回。

 以前紹介したように、雲助による十一月から三カ月連続口演の演目が、主催されている「いたちや」さんのサイトに次のように紹介かれている。
「いたちや」さんサイトの該当ページ
11月18日 仏壇叩き 湯河原宿 谷中天龍院
12月24日 請地の土手 清兵衛縁切り
 1月15日 お白洲 大団円


 私のブログは四回に分けたが、これまでのお題を次のようにつけた。
 その壱 「仏壇叩き 湯河原の捨て子」
 その弐 「谷中天龍院 幸兵衛とお柳」
 その参 「請地の土手 スカイツリー」


 さて、その四は、「清兵衛縁切り お白洲」にて、ご機嫌をうかがいます。

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森まゆみ著『円朝ざんまい』(文春文庫)
 
 『円朝ざんまい』より、「請地の土手」(「押上堤」)の立ち回りの後の部分を引用。

 さて長二は思いがけなくも実の母と、実の父かどうかはわからなねど、その連れ合いの命を奪ってしまった。経過を見れば正当防衛ともいえようが、師匠に累が及んではとむりやり縁を切り、自主して出る。

  其の頃南の町奉行は筒井和泉守様で、お慈悲深くて御裁きが公平といふ
  評判で、名奉行でございました。丁度今月はお月番ですから、お慈悲の
  お裁きにあづからうと公事訴訟が沢山に出ます。

 江戸時代はいわば都知事が二人いて月替りで仕事をしていたのである。そして慈悲深いとか公平とか、人気の高い方が月番のときにどっと裁判の訴えが起こされたというのだから面白い。なかなか良い制度ではないか。


 ご覧のように、この本では、師匠との縁を切る、「清兵衛縁切り」の部分が、非常にあっさりとしかふれられていない。

 こうなると、青空文庫の原作から、少し引用したくなるのが、私の悪い(良い?)クセ。青空文庫「名人長二」

 請地の土手の不幸な出来事のあった翌十一月十日の夕刻、深川六軒堀の伯母の病気見舞いで留守にしていた兼松が長二宅へ戻ってみると、そこは既に空家となっており長二もいない。
 大家から長二が急に旅に出ると言って出て行ったと聞いた兼松、心配になって両国大徳院前の親方清兵衛の家へ行く。清兵衛、一番弟子の恒太郎、恒太郎の女房で清兵衛の娘お政、そして兼松らが心配をしているところへ、酒に酔った長二がやって来た。

 長「親方……私わっちは遠方へ行く積りです」
 清「其様そんなことをいうが、何所どけへ行くのだ」
 長「京都へ行って利齋の弟子になる積りで、家うち
  をしまったのです」
 清「それも宜いいが、己も先せんの利齋の弟子で、毎いつも
  話す通り三年釘を削らせられた辛抱を仕通したお蔭で、是まで
  になったのだから、今の利齋ぐれえにゃア指さす積りだが……
  むゝあの鹿島かしまさんの御注文で、島桐しまぎりの火鉢と桑
  の棚を拵こせえたがの、棚の工合ぐえいは自分でも好よく出来
  たようだから見てくれ」
 と目で恒太郎に指図を致します。恒太郎は心得て、小僧の留吉と二人で仕事場から桑の書棚を持出して、長二の前に置きました。
 清「どうだ長二……この遠州透えんしゅうすかしは旨いだろう、
  引出の工合ぐあいなぞア誰にも負けねえ積りだ、これ見ろ、
  此の通りだ」
 と抜いて見せるを長二はフンと鼻であしらいまして、
 長「成程拙まずくアねえが、そんなに自慢をいう程の事もねえ、
  此の遣違やりちげえの留とめと透すかしの仕事は嘘だ」
 兼「何だと、コウ兄い……親方の拵こせえたものを嘘だと、
  手前てめえ慢心でもしたのか」
 長「馬鹿をいうな、親方の拵えた物だって拙いのもあらア、
  此の棚は外見うわべは宜いいが、五六年経ってみねえ、留が
  放はなれて道具にゃアならねえから、仕事が嘘だというのだ」
 恒「何だと、手前てめえ父さんの拵えた物ア才槌せえづちで一つ
  や二つ擲なぐったって毀こわれねえ事ア知ってるじゃアねえか」
 長「それが毀れる様に出来てるからいけねえのだ」
 恒「何うしたんだ、今夜は何うかしているぜ」
 長「何うもしねえ、毎いつもの通り真面目な長二だ」
 恒「それが何故父さんの仕事を誹くさすのだ」
 長「誹す所があるから誹すのだ、論より証拠だ、才槌せえづち
  を貸しねえ、打毀ぶっこわして見せるから」
 恒「面白い、毀してみろ」
 と恒太郎が腹立紛れに才槌さいづちを持って来て、長二の前へ投ほうり出したから、お政は心配して、
 政「あれまアおよしよ、酔ってるから堪忍おしよ」
 恒「酔ってるかア知らねえが、余あんまりだ、手前てまえの腕が
  曲るから毀してみろ」
 兼「若わけえ親方……腹も立とうが姉あねさんのいう通り、酔って
  るのだから我慢しておくんなせえ、不断此様こんな人じゃアねえ
  から、私わっちが連れて帰って明日あした詫に来ます……兄い
  更けねえうちに帰けえろう」
 と長二の手を取るを振払いまして、
 長「何ヨしやがる、己おらア無宿やどなしだ、帰けえる所とこアねえ」
 と云いながら才※(「てへん+二点しんにょうの「追」」)を取って立上り、恒太郎の顔を見て、
 長「今打き毀して見せるから其方そっちへ退どいていなせい」
 と才槌を提ひっさげて、蹌よろめく足を蹈ふみしめ、棚の側へ摺寄って行灯あんどうの蔭になるや否や、コツン/\と手疾てばやく二槌ふたつちばかり当てると、忽ち釘締くぎじめの留は放れて、遠州透はばら/″\になって四辺あたりへ飛散りました。


 この後、長二は、わざと清兵衛に悪態をつく。もちろん、お世話になった親方清兵衛をわざと怒らせて縁を切り、自分の罪の累が及ばないようにしようという長二の狂言。

 自首した後の“お白洲”での物語を、あらためて『円朝ざんまい』から引用。

  白洲をずうツと見渡されますと、目安方が朗かに訴状を読上げる、奉行は
  これを篤と聞き了(をは)りまして、
  奉「浅草鳥越片町幸兵衛手代万助、本所元町与兵衛店恒太郎、訴訟人
  長二郎並びに家主源八、其の外名主代組合の者残らず出ましたか。
 
 師匠と大家は長二がいかに親孝行で実直で、家賃は十日前におさめ、施しが好きかを語る。

  「悪心があつてしたでは無いと存じます」
  「しかし何故、得意の恩人を殺したじや」
  長二「只あの夫婦を殺したくなりましたから殺したのでございます。
  「黙れ・・・・・・其方(そのほう)狂気いたして居るな」

 長二の善良と非凡を知っている奉行は、なんとか狂人ということにして命を助けたい、と誘導するのだが、長二はのらない。



 さぁ、せっかく名奉行筒井和泉守が救おうとしているのに、長二は、すでに肚を決めているのだろう、誘いにのらない。
 
 ここで、八月二日の「雲助五拾三次之内~惨劇~」『緑林門松竹』のことを書いたブログでも参考にさせていただいた、「はなしの名どころ」サイトの、「指物師名人長二」のページから、この噺の人物相関図をお借りする。
「はなしの名どころ」サイトの該当ページ
2013年8月3日のブログ

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 これから書く内容は、この図を参照していただくと分かりやすいはず。

 原作から、筒井和泉守が、調べの矛先を変える件を、少し紹介。

 町奉行筒井和泉守様は、長二郎ほどの名人を失うは惜おしいから、救う道があるなら助命させたいと思召す許ばかりではございません、段々吟味の模様を考えますと、幸兵衛夫婦の身の上に怪しい事がありますから、これを調べたいと思召したが、夫婦とも死んで居ります事ゆえ、吟味の手懸りがないので、深く心痛いたされまして、漸々よう/\に幸兵衛が龜甲屋お柳方へ入夫にゅうふになる時、下谷稲荷町の美濃屋茂二作みのやもじさくと其の女房お由よしが媒妁なこうど同様に周旋をしたということを聞出しましたから、早速お差紙さしがみをつけて、右の夫婦を呼出して白洲を開かれました。


 相関図の右下にいる、茂二作とお由が登場。

 筒井和泉守が、茂二作、お由の家を張り込ませたところ、やってきた岩村玄右との会話を耳にすることで、新たな展開が生まれた。あらためて『円朝ざんまい』から。ここは、大どんでん返しの部分なので、雲助や今松の高座で初めて知って驚きたい方は、我慢のほどを^^

 奉行はお柳幸兵衛の前身をさぐらせ、亀甲屋の先代半右衛門のなぞの死を吟味する。すなわち、幸兵衛はもと坂本二丁目の経師屋桃山甘六の弟子であったが、亀甲屋に出入りするうち柳に見込まれ、二人は不義密通をしたあげく、主人半右衛門を医師玄右の鍼で突かせて殺す。
 しかも柳が長二を身ごもったのが四月、幸兵衛が初めて亀甲屋に来たのが五月二日、さすれば長二の父はまぎれもなく半右衛門。なれば長二が幸兵衛を殺したのは天晴れ父の仇討ちということになる。母親はどうか。夫を裏切り、すでに妻たるの道を失っている以上、長二にとっても母ではない、と幕府きっての儒者・林大学頭が「礼記」を拠り所にしての講釈。これで母殺しの罪ものがれ、一件落着となる。御見事。
 なんだか「ハムレット」のような話になってきた。
 長二は計らずも実父の跡を襲い、大身代亀甲屋を相続し、名前を幼名の半之助と改め、筒井和泉守の腰元となっていた坂倉屋助七の娘島路をめとり、夫婦睦まじく豊かに暮した。
「墓は孝徳院長誉義秀居士と題して、谷中の天龍院に残ってございます」



 あら、こんな筋書きだったとは・・・・・・。

 本書では、この後で永井啓夫『三遊亭円朝』にあるこの噺が成立した背景を少し説明した後で円朝のことにふれ、次のように締めている。

「本所で飲もうよ」「あい」とぽん太。歩くうち、清々しい格子戸の居酒屋「わくい亭」に出くわす。たらの芽の天ぷら、しらたきの山椒煮、わらびのおひたし、塩らっきょ、関あじと皮はぎ。酒は朝日山、いずれも結構でございました。



 おや、我が「居残り会」でも、ぜひ行きたいようなお店ではないか。

 森まゆみ『円朝ざんまい』を中心に、青空文庫(これも貴重!)の原作なども交えて『名人長二』の内容を紹介したが、ますます今松、雲助の高座が楽しみになってきた!



 筋書きを知らずに高座を楽しみたい方がいらっしゃるでしょうが、私は知った上で楽しみたいほうでして、お許しのほどを。

 長々とお付き合いいただき、誠にありがとうございます。
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by kogotokoubei | 2013-09-03 19:27 | 落語のネタ | Comments(0)
このシリーズの三回目。湯河原で自分の出生の秘密を知った長二が、お柳と幸兵衛に、意を決して自分の実の親だと名乗って欲しい、と懇願したにもかかわらず、二人は否定して長二の家を出て行った。さぁ、その後どうなるのか。

 今回のお題は、「請地の土手 スカイツリー」とでもしておこうか。なぜ「スカイツリー」かは、後半に判明(?)します。

まずは、森まゆみ著『円朝ざんまい』から。

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森まゆみ著『円朝ざんまい』(文春文庫)
 
 『円朝ざんまい』では、「請地の土手」の件は要約なので話の進みが早い。

「無慈悲な親だが、会って見ると懐かしいから、名告(なの)つてもれえてぇと思つたに」
 と長二はどっと溜息をつく。「おお左様だ、此の金を貰つちア済まねえ」。腹掛のどんぶりに五十両を押し込み、田圃径から請地の土手伝いに麻裏草履で先回りする。
「此方(こちら)は幸兵衛夫婦丁度霜月九日の晩で、宵から陰(くも)る雲催しに、正北風(まならひ)の強い請地の堤(どて)を、男は山岡頭巾をかぶり、女はお高祖頭巾に顔を包んで柳島へ・・・・・・」
 そこへ大の男がいきなりヌッとあらわれた。長二である。
「決して他には云わねえから、お前を産んだお母だといってくだせい・・・・・・お願ひです・・・・・・また旦那は私(わっち)の本当のお父さんか、それとも義理のお父さんか聞かせてくだせい」
 この涙下る懇請をあくまできかず、幸兵衛、長二の横面を殴りつける。長二、五十両の包みを幸兵衛に投げつけると、額に当って血が流れる。幸兵衛、長二をつき倒し、土足で頭を蹴る。長二、逆上して拳固を振り廻す。幸兵衛、紙入留の短刀を抜いて切り払う。危ねぇと長二、刃物をもぎ取ろうとする。幸兵衛、引くはずみに我と吾手で胸先を刺貫く。お柳、長二に組みつくが、その拍子に乳の下を深く突かれてアッと倒れる。
「さて幸兵衛夫婦は遂に命を落しました。其の翌日、丁度十一月十日の事でございます」
 円朝の語りは息もつかせない。



 こんな物語を、円朝は用意してしまうのだ。

 しかし、著者森まゆみが“円朝の語りは息もつかせない”と書いているので、この噺を円朝は高座にかけたと誤解されている人も多いと思う。
 
実は、この噺は円朝が高座に出るのを引退してからの作品。

 
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永井啓夫著『新版 三遊亭円朝』(青蛙房)

永井啓夫の『新版 三遊亭円朝』から引用したい。

 この頃の円朝は寄席に出勤していなかったので、湯河原よりの二年半後の中央新聞に連載したのが最初の公開であった。原稿も速記ではなく、円朝自身の簿記であった。


 と言うことで、この作品は高座の速記ではなく、円朝自ら書いた作品なのである。

 『円朝ざんまい』では、お約束として、著者森と相棒ぽん太が、噺の舞台を訪ねる。

 ぽん太と私、本所吾妻橋へ降り立ち、この立ち回りの現場を検分することに。北十間川源森橋を渡り、小梅橋を戻ったが、すっかり市街化がすすみ、川はコンクリの防波堤でさえぎられ、昔をしのぶよすがもない。向うに京成線の押上駅が見える。少し高い所に立ち、やっと川面を眺めた、黄色いブタ草が川岸にへばりついている。業平橋を渡る。場所が特定できないから、
「まあ、この辺でもみ合いがあったということで」
 そろそろ空は暗くなり、道に人気はない。横川には日本たばこの巨大な工場があった。家具職人が店先で仕事中。
「柳島はどこでしょうか」
 ときくと、
「お?なつかしいことをいうねえ」
 と道を教えてくれた。土地に古い方らしい。「こっちはもと武家屋敷で、そっちは田んぼさ」。いまの業平五丁目、そういえば同潤会柳島アパートに住人のお話を聞きに来たことがあったっけ。その古い共同住宅はプリメール柳島なる超高層マンションに姿を変えていた。ともかくこのあたりに幸兵衛夫妻の別荘はあったのだ。



 そうか、“土地に古い方”でなければ、かつて“柳島”だった場所が分からないのだなぁ。江戸時代から続く地名がどんどんなくなる、という件に関しては後でまた書くことにする。

 さて、請地の土手の“立ち回り”、『円朝ざんまい』ではあっさりとした紹介だったので、青空文庫の原作から引用したい。
*ルビが漢字に続いてしまい読みづらくもありますが、そのままにさせていただくことご容赦のほどを。
青空文庫「名人長二」

請地の土手伝いに柳島へ帰ろうという途中、往来ゆきゝも途絶えて物淋しい所へ、大の男がいきなりヌッとあらわれましたので、幸兵衞はぎょっとして遁にげようと思いましたが、女を連れて居りますから、度胸を据えてお柳を擁かばいながら、二足ふたあし三足みあし後退あとじさりして、
 幸「誰だ、何をするんだ」
 長「誰でもございません長二です」
 幸「ムヽ長二だ……長二、手前何なんしに来たんだ」
 長「何しに来たとはお情なさけねえ……私わっちは九月の廿八日、背中の傷を見せた時、棄てられたお母っかさんだと察したが、奉公人の前めえがあるから黙って帰けえって、三月越みつきごしお前めえさん方の身上みじょうを聞糺きゝたゞして、確たしかに相違無ねえと思うところへ、お二人で尋ねて来てくだすったのは、親子の名告なのりをしてくんなさるのかと思ったら、そうで無えから我慢が出来ず、私の方から云出したのが気に触ったのか、但しは無慈悲を通す気か、気違だの騙りだのと人に悪名あくみょうを付けて帰けえって行くような酷むごい親達から、金なんぞ貰う因縁が無えから、先刻さっきの五十両を返けえそうと捷径ちかみちをして此処こゝに待受け、おもわず聞いた今の話、もう隠す事ア出来ねえだろう、お母さん、何うかお前めえさんに云い難にくい事があるかア知りませんが、決して他ひとには云わねえから、お前めえを産んだお母ふくろだといってくだせい……お願いです……また旦那は私の本当のお父とっさんか、それとも義理のお父さんか聞かしてくだせい」
 と段々幸兵衞の傍そばへ進んで、袂に縋る手先を幸兵衛は振払いまして、
 幸「何をしやアがる気違奴め……去年谷中の菩提所で初めて会った指物屋、仕事が上手で心がけが奇特きどくだというので贔屓にして、仕事をさせ、過分な手間料を払ってやれば附けあがり、途方もねえ言いがゝりをして金にする了簡だな、其様そんな事に悸びくともする幸兵衞じゃア無ねえぞ……えゝ何をするんだ、放せ、袂が切きれるア、放さねえと打擲ぶんなぐるぞ」
 と拳を振上げました。
 長「打ぶつなら打ちなせえ、お前めえさんは本当の親じゃアねえか知らねえが、お母っかさんは本当のお母さんだ……お母さん、何故私わっちを湯河原へ棄てたんです」
 とお柳の傍へ進もうとするを、幸兵衛が遮さえぎりながら、
 幸「何をしやアがる」
 と云いさま拳固で長二の横面よこつらを殴りつけました。そうでなくッても憎い奴だと思ってる所でございますから、長二は赫かっと怒いかりまして、打った幸兵衛の手を引ひとらえまして、
 長「打ぶちゃアがったな」
 幸「打たなくッて泥坊め」
 長「何だと、何時己が盗人ぬすっとをした」
 幸「盗人だ、此様こんな事を云いかけて己の金を奪とろうとするのだ」
 長「金が欲ほしいくれえなら、此の金を持って来きやアしねえ、汝うぬのような義理も人情も知らねえ畜生の持った、穢けがらわしい金は要いらねえ、返けえすから受取っておけ」
 と腹掛のかくしから五十両の金包を取出し、幸兵衛に投付けると額に中あたりましたから堪りません、金の角で額が打切ぶちきれ、血が流れる痛さに、幸兵衞は益々怒おこって、突然いきなり長二を衝倒つきたおして、土足で頭を蹴ましたから、砂埃が眼に入って長二は物を見る事が出来ませんが、余りの口惜くやしさに手探りで幸兵衞の足を引捉ひっとらえて起上り、
 長「汝うぬウ蹴やアがッたな、此の義理知らずめ、最もう合点がってんがならねえ」
 と盲擲めくらなぐりで拳固を振廻すを、幸兵衞は右に避よけ左に躱かわし、空くうを打たして其の手を捉え捻上ねじあげるを、そうはさせぬと長二は左を働かせて幸兵衛の領頸えりくびを掴み、引倒そうとする糞力に幸兵衛は敵かないませんから、挿さして居ります紙入留かみいれどめの短刀を引抜いて切払おうとする白刄しらはが長二の眼先へ閃ひらめいたから、長二もぎょッとしましたが、敵手あいてが刄物を持って居るのを見ては油断が出来ませんから、幸兵衞にひしと組付いて、両手を働かせないように致しました。


 この後、正当防衛とは言え、長二は幸兵衛とお柳夫婦の命を奪ってしまうのだ。

“腹掛のかくしから五十両の金包を取出し、幸兵衛に投付けると額に中あたりましたから堪りません、金の角で額が打切ぶちきれ、血が流れる痛さに、幸兵衞は益々怒おこって、突然いきなり長二を衝倒つきたおして、土足で頭を蹴ましたから、砂埃が眼に入って長二は物を見る事が出来ませんが、余りの口惜くやしさに手探りで幸兵衞の足を引捉ひっとらえて起上り、”と、なるほど「息もつかせぬ」円朝の語りである。

 この場面、今松と雲助は果たしてどんな高座を見せてくれるのだろうか。楽しみだなぁ。

 さて、今回は噺の内容についてはここまで、として、地名のことについて書きたい。

 まず、噺の舞台である「請地の土手」だが、この周辺にはかつて「請地」の名のついた駅があった。Wikipedia「請地駅」から引用。Wikipedia「請地駅」

当駅開業の翌年(1932年)に京成請地駅が開業したことにより乗換駅となる。これは浅草乗り入れを巡って対立した東武と京成との歩み寄りによるものであったが、実際の乗り換えは業平橋駅(現・とうきょうスカイツリー駅)と押上駅との間で行われる場合が多く、請地駅は1946年に休止となり、京成請地駅が1947年に廃止された後の1949年に廃止された。



 円朝の名作の舞台の名や、古今亭志ん生極貧時代の代名詞とも言える「業平橋」の名が、駅名から消えるのは寂しいかぎりだ。しかし、志ん生も、あの場所にスカイツリーなんてぇもんが出来るとは思いもしなかったろうなぁ。

 たびたびお世話になる「落語の舞台を歩く」では、志ん生の高座を元に、この噺の舞台となった地域が紹介されている。「落語の舞台を歩く」の該当ページ

 掲載されている地図を引用したい。志ん生は「請地の土手」とは言わず、「押上堤」と言っているので、このサイトでも「押上の土手」と説明している。
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 この地図にある「本所〆切」が長二の家。幸兵衛とお柳の別荘が柳島にある。その中間に「請地の土手」(押上の土手)があるのが確認できる。
 同サイトから、ほぼ十年前の押上の土手の写真をご紹介。
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 『円朝ざんまい』の中で、“土地に古い方”が「なつかしい」と表現した柳橋という名は、すでに行政における地名としては存在していない。せいぜい柳島小学校などに、その名を残すのみ。

 今年1月29日の八代目正蔵の命日の記事で、正蔵や“留さん文治”が住んでいた稲荷町の長屋の写真を「二邑亭駄菓子のよろず話」のサイトからお借りした。2013年1月29日のブログ
 同サイトの「東京-昭和の記憶-」にある「押上~業平橋(同潤会中之郷アパート)」には、押上から柳島方面に向かう都電23番の写真が掲載されている。現在の写真では、バックに東京スカイツリーが見える。
「二邑亭駄菓子のよろず話」サイトの該当ページ
 「同潤会柳島アパート」ではなく、「同潤会中之郷アパート」の写真と、現在の同じ場所の写真が確認できる。やはり近代的なマンションに変っている。


 こういった時代の変遷から思うのは、もし将来、古今亭の一門が志ん生のことを語る時、あの「なめくじ長屋」のことを「業平橋近くにあった、なめくじ長屋」と言わずに、「スカイツリー駅近くにあった、なめくじ長屋」と説明することになりそうだなぁ、ということ。

 スカイツリーはともかく、江戸時代ゆかりの地名などが、野暮な役人たちなどのせいでどんどん消えていく。これって「文化的な損失」ではないかと思うのだがなぁ。

 「請地の土手」から脱線したが、このシリーズは次回で最終回としたい。お白洲での名裁きをご期待のほどを。
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by kogotokoubei | 2013-09-02 00:03 | 落語のネタ | Comments(2)

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