噺の話

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さて、今年も半分が過ぎたので、前半を振り返ってみたい。今日(30日、日曜)書くのは無理かと思っていたが、テニスの後の食事(飲み)会から帰宅し、少し寝て『八重の桜』を見ていたら目がパッチリ開いたので、書くことにした。

 一月から六月にかけて落語会および寄席に行った回数と、聴いた高座の数を数えてみたら、こんな数字だった。

 一月 5回 20高座
 二月 5回 28高座
 三月 5回 27高座
 四月 5回 31高座
 五月 6回 34高座
 六月 4回 24高座

 ということで、上半期合計で30回、164高座だった。開口一番も含んでいるし、寄席に行くと一挙に高座数も増える。ちなみに、寄席に行った回数は、二月、三月、四月が各一回、五月が二回、そして六月が昨日の一回だった。末広亭三回、池袋が三回。浅草は昨年行っているが、鈴本は久しく行っていないなぁ。


 落語会や寄席に積極的に行きはじめてから八年位になるが、上半期としては最多回数で最多高座数である。
 
 その164高座の中で、「今年のマイベスト十席」の候補としたのが、次の18席。

(1)五街道雲助『二番煎じ』
>五街道雲助独演会 横浜にぎわい座 1月9日

(2)瀧川鯉昇『芝浜』
>ざま昼席落語会 ハーモニーホール座間 1月12日

(3)春風亭一之輔『明烏』
>月例 三三独演 新春公演 イイノホール 1月18日

(4)春風亭小柳枝『時そば』
>新宿末広亭 2月中席 昼の部 2月11日

(5)古今亭寿輔『ラーメン屋』
>池袋演芸場 3月上席 昼の部 3月2日

(6)入船亭扇辰『さじ加減』
>通ごのみ 扇辰・白酒の会 日本橋社会教育会館 3月5日

(7)桂文我『菜刀息子』
>ざま昼席落語会 ハーモニーホール座間 3月9日

(8)五街道雲助『よかちょろ~山崎屋』
>雲助蔵出し 浅草見番 3月30日

(9)古今亭志ん輔『柳田格之進』
>志ん輔三昧 横浜にぎわい座 4月11日

(10)春風亭一之輔『大山まいり』
>ハマのすけえん 横浜にぎわい座のげシャーレ 4月30日

(11)五街道雲助『髪結新三』
>らくご街道 雲助五十三次之内~吉例~ 日本橋劇場 5月14日

(12)橘家文左衛門『天災』
(13)入船亭扇辰『団子坂奇談』
>橘家文左衛門・入船亭扇辰 日本橋社会教育会館 5月24日

(14)柳家喜多八『寝床』
(15)柳家喜多八『仏の遊び』
>柳家喜多八・柳家三三 中野ZERO小ホール 6月5日

(16)露の新治『狼講釈』
(17)露の新治『大丸屋騒動』
(18)柳家さん喬『包丁』
>第26回 三田落語会 夜席 6月22日


 特徴の一つは、寄席から二席入ったこと。それもどちらも芸協である。

 また、地域寄席のざま昼席落語会から二席入った。自宅近所で土曜の昼という好条件なのだが、いろいろと野暮用もあって毎回行けているわけではない。しかし、この会はあなどれない。昨年は今松の『子別れ-通し-』もあったからねぇ。

 そして、その座間の会の桂文我『菜刀息子』を含め、上方落語から三席入ったことも、例年と違う特徴だろう。


 同じ噺家さんで複数ノミネート(?)されたのは下記の通り。

五街道雲助
『二番煎じ』
 >五街道雲助独演会 横浜にぎわい座 1月9日
『よかちょろ~山崎屋』
 >雲助蔵出し 浅草見番 3月30日
『髪結新三』
 >らくご街道 雲助五十三次之内~吉例~ 日本橋劇場 5月14日

春風亭一之輔
『明烏』
 >月例 三三独演 新春公演 イイノホール 1月18日
『大山まいり』
 >ハマのすけえん 横浜にぎわい座のげシャーレ 4月30日

入船亭扇辰
『さじ加減』
 >通ごのみ 扇辰・白酒の会 日本橋社会教育会館 3月5日
『団子坂奇談』
 >橘家文左衛門・入船亭扇辰 日本橋社会教育会館 5月24日

柳家喜多八
『寝床』
『仏の遊び』
>柳家喜多八・柳家三三 中野ZERO小ホール 6月5日

露の新治
『狼講釈』
『大丸屋騒動』
 >第26回 三田落語会 夜席 6月22日


 全十八席のうち、この方々で十一席になる。

 直近の新治の印象が強いのは、致し方ない。凄い噺家さんが上方にいたものだ。米二、文我、そして雀々など、東京で落語会を開いていて好きな上方落語家さんは何人かいるが、この人の名は大きく太字で、私のリストに加わったように思う。

 他は東京落語界を背負って立つ人たちが並んだのではなかろうか。

 三席が候補となった雲助は、今もっとも乗っている噺家さんだと思う。“いたちや”さんや“オフィスM’s”さんといった良心的な席亭の努力もあって、好企画シリーズで発表の場があるという環境の良さも手伝っているが、そういう機会に期待通りの高座を披露する力量は並大抵ではない。三席の中では、やはり『髪結新三』が圧巻だった。しかし、『よかちょろ~山崎屋』も捨てがたいし、あの『二番煎じ』も良かったなぁ。年末までに雲助のノミネートされる高座は、きっと増えるだろう。選ぶ楽しみ(と悩み?)は、その時まで取っておこう。

 喜多八は、ここ数年聴いているが、最近の落語会で非常にレベルの高い高座が続いた。マクラも含めた“喜多八ワールド”の奥深さを感じている。

 扇辰の充実ぶりにも目を見張る。選んだ二席(『さじ加減』『団子坂奇談』)のような珍しい噺を、しっかり自分のものにしており、同期の喬太郎に良い刺激を与えているのではなかろうか。

 一之輔は、真打昇進後もマイペースで順調に成長しているように思う。ブログを見ても、何ら気負ったものを感じず、志ん輔のブログとは好対照^^

 その志ん輔の横浜にぎわい座の新企画での『柳田格之進』は、非常に結構だった。最近のブログ日記では、先日の怪我からまだ快復していないようなので、少し心配ではあるが、また古今亭の十八番を聴きたいものである。

 他の噺家さんと高座について、思い出しながら。

 鯉昇の『芝浜』は、ほぼ三木助の型で、結構驚きながら聴いていたなぁ。会場に追加のパイプ椅子が並べられ、喜多八が、史上(?)最多の入場者数と言っていたことも思い出す。

 同じ座間での文我『菜刀息子』は宗助との二人会での一席だった。珍しい上方落語の一つだったが、失踪した息子を思うお店の父と母の心理描写は見事だったし、時間の経過を“鍋ぁ~べ焼ぁ~き~うど~ん (この後に、カラスが)「カァ~」(文我は扇子で顔を隠して、「カァー」)” の声での演出で描く部分や、昔の上方の物売りの声も楽しかったなぁ。

 小柳枝の末広亭での『時そば』も良かった。芸協の重鎮として寄席を引き締めていた。鯉昇の“ベートーベン”とは趣の違った本寸法(この言葉を使うと怒る人がいるが、他に言葉が見つからない)の高座だった。年末には、ベストテンとは別に「寄席」分野として取り上げることになりそうだ。
 同じ寄席での名演が寿輔の『ラーメン屋』。子供のいないラーメン屋の老夫婦。お金がない孤児上りの若い男がラーメンを食べ、無銭飲食だから交番に突き出してくれ、という場面から、何とも言えない人情劇が進む。寿輔の抑えた語り口が、かえって老夫婦と若者の心の通い合いを際立たせていた。あの派手なテトロン着物で隠された寿輔の実力を思い知った高座だった。

 文左衛門の『天災』には驚いた。岩田のご隠居、そして紅羅坊名丸の家の戸など外してしまうほどの乱暴者で短気な江戸っ子八五郎に涙を流して笑った。扇辰との二人会は、なかなか良い企画だと思う。

 さん喬の新治をたてようと言う配慮からと察する滑稽噺二席のうちの『包丁』は、私が好きな“人情噺よりも、落とし噺のさん喬”の面目躍如。歌舞音曲の素養があるから、寅の都々逸や端唄もサマになっていた。
 
 ちなみに喬太郎は小満んとの二人会のみ行ったが、ややがっかりだった。今年後半は、何席か古典を聴いてみたいと思っている。
 立川流の三人、志の輔、談春、志らく、は聴いていない。下半期も、たぶん行かないだろうと思う。

 上方あり、芸術協会あり、そして、中堅のベテランありの上半期、昨日の池袋の柳家小のぶとの出会いも含め、贅沢な前半だったように思う。落語会や寄席に行ける幸せを、本当はもっと感謝しなくてはいけないのだろう。


後半は、回数は減るだろうと思うが、一期一会の楽しい高座を期待したい。
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by kogotokoubei | 2013-06-30 20:30 | 落語会 | Comments(6)
なんとか行けないか、と思っていた小三治が主任の末広亭の下席夜の部は行けなかった。まだ二日あるが本来は行かない土曜の夜の落語会を二週続けて行くほどの強い思いはないし、日曜は落語会や寄席に行かない。

 しかし、末広亭か池袋の昼の部に行こうかと思って落語協会の代演情報を見て、目を疑った。
 
 歌武蔵が主任の池袋の昼の部、仲入り前のさん喬の代演に「柳家小のぶ」の名・・・・・・。

 「えっ、まさか?」と思いながら堀井憲一郎の『青い空、白い雲、しゅーっという落語』を確認したら、同書で“幻の落語家”として、その独演会の逸話などを紹介している、寄席に出ないはずの噺家さんの名ではないか!
堀井憲一郎著『青い空、白い雲、しゅーっという落語』

 少しググってみたら、今月上席の池袋にも出演していたようだ。“幻”の落語家に何か心境の変化があったのか・・・・・・。
 
 一度聞いてみたかった人。

 他の代演は白酒に菊之丞。最近聴いていない菊之丞の名がうれしい。正蔵の代演がしん平、加えて、今秋真打昇進の天どんの名も。ひな太郎の名もある。これは行かねばなるまい。

 犬の散歩の後、一路池袋へ向かった。ちょうど開場の一時半頃に到着。入りは七分位だったが、最終的には八分程度になっていた。

 演者とネタ、寸評と所要時間を備忘録として書く。印象に残った高座にを付けた。

三遊亭歌(うた)りん『子ほめ』 (15分、*13:45~)
 開口一番は、歌之介の三番目の弟子。初である。今年の入門とは思えないなかなかしっかりした高座。落語家らしい見た目(?)も徳していると思うし、その後の高座返しの仕種なども含め、一時代前の前座さんかと思わせる人。今後に期待したい。

三遊亭天どん『釜泥』 (14分)
 久し振りだ。九月に真打に昇進する、と言うと会場から私も含め拍手。天どんの名のままらしいが、「昇進時に別な名を襲名するのは、一門に組織力があるか、師匠に政治力がないと無理。うちの師匠円丈はどちらもない」と言っていたが、そんなことはなかろう^^
 この人は古典落語でも、独自の工夫をしている。石川五右衛門の一門(?)の泥棒が、五右衛門が最後を迎えた“釜”を世の中からなくせば供養になるとばかりに、“釜”盗みの犯行を続けている。豆腐屋の主が、「盗まれちゃあ、仕事ができねぇ」と、釜の中で一晩過ごすことになるのだが、妄想で芸者を釜に呼び込むという楽しい筋書きがあった。私は、結構こういう創作、好きだ。「お釜だけに痔に悪い」のクスグリは、まだお客さんに小学三年生の女の子が来る前だったはず。

三遊亭歌も女『平林』 (15分)
初である。“かもめ”と読む。前座名は、多ぼう。二ツ目になったばかりの円歌門下の女流噺家さん。客の時代、そして前座時代の“しくじり”の逸話のマクラから本編へ。
 マクラでの何とも言えないゆったり感のある語りが、ネタになると結構しっかりしてきた。この人、意外に今後は化けるかもしれない。

古今亭菊之丞『幇間腹』 (17分)
 結論から書くと、この噺はこの人、という高座。何度か聴いているが、幇間ネタは、現役では相当秀でていると思う。若旦那が酔狂で針を始めた。思い立って本を読んだのが二日前。一日前に壁で練習し、その後、ネコで練習しようとしたが逃げられ、人間の試験台に選ばれたのが、幇間の一八。
 「壁、ネコ、私!?」と言う一八が楽しい。このキーワードは後でまた出てくるが、そこでも客席は爆笑。一八が針の試験台になるのを覚悟したところで、「道理で夢見が悪かった。親鸞聖人が、○○新聞配ってた」というネタでも笑いが増す。置屋の女将も定評のある女役で、程よい艶があって良い。
 この噺をよくかける喬太郎は、正直なところ、あの腹が目立って、主役(?)になってしまう。菊之丞はあくまで一八という幇間が主役で、見事な高座。

すず風 にゃん子・金魚 漫才 (11分)
 金魚の頭に、富士山、お茶と茶摘み娘の人形、ぶどう、と世界遺産記念の装飾(?)が凄かった。この二人の漫才、結構パワーをもらえる。

林家しん平『粗忽長屋』 (25分)
 「おや、髭?」と思った疑問は、すぐに本人が解消してくれた。「金属アレルギー」で髭剃りで血が出て、顔が腫れるらしい。医者に行き治療と薬で治っているらしいが、髭が女の子にもてる(これはジョークか?!)のと、意識としてまだ怖くて髭を当れないようだ。潜伏期間の長いアレルギーで、注意したほうがいいとのアドバイス。
 たしかに、白髪まじりの口髭、似合わないでもない。会場に小学生の女の子がいるのに気づき、「こういう場合は、ネタ選びに影響する」と笑いながら、この噺へ。寄席では漫談の多い人なのに、初めて聴くネタ、驚くほど結構な古典落語だった。もちろん独自のクスグリは入るし、客席をネタに巻き込んだりするが、目一杯受けていた。
 私はしん平の実力を再認識した。願わくは客席に、熊五郎が行き倒れになった原因をつくった居酒屋S水産の関係者の方がいなかったことを祈りたい^^

柳家小のぶ『長短』 (15分)
 “幻”の噺家さんが、黒紋付で登場。落語協会のサイトで、プロフィールは次のようになっている。
「落語協会」サイトの該当ページ

出身地 東京都・港区芝
出囃子 元禄花見踊
紋 花菱
芸歴 
1956(昭和31)年05月 五代目柳家小さんに入門 前座名「小延」
1958(昭和33)年09月 二ッ目昇進 「小のぶ」と改名
1973(昭和48)年03月 真打昇進
初高座日時 1956年
場所 鈴本演芸場
演目 道灌


 この後に、発売されているCDのリストが並んでいる。

 『古今東西落語家事典』を確認すると、生年月日は昭和12年10月3日、とある。談志の一年後輩、志ん朝の一年先輩、小三治の二年年上、入門は三年早い。木久扇と同じ年で今年、七十六歳。
 声は、少し枯れている。しかし、語り口はしっかりしていて丁寧だ。マクラで釈迦や老師などの例をひいて、気の長い人、短い人のことにふれて、本編へ。 
 長さんの悠長さ、短七さんのせっかちな様子が、見事に表現された高座。これが師匠五代目小さん譲りの『長短』か、と思わせた。長さんが決して与太郎にはならず、二人の対照的な性格が描写されていた。
 客席に、この人のことを知っているお客さんどれだけいたかは分からない。しかし、会場は、滅多に寄席に出ない“幻”の噺家さんの芸に程よく沸いていた。
 とにかく、この人に会えて良かった。

橘家蔵之助『蛇含草』 (15分)
 初である。円蔵門下。東京なら『そば清』の上方ネタを、楽しく聴かせ、見せてくれた。室伏の“ハンマー投げ”で食べる餅、などこの噺の見せ場をわきまえた芸、なかなか楽しかった。

桂ひな太郎『強情灸』 (12分)
 ずいぶん久し振りだ。私にとっては、いまだに志ん朝門下の志ん上。
 高座姿を見て、「枯れてきたなぁ」という印象。今後も見たい、聴きたいが、もう一つ聴きたいのは、あの頃のこと、でもある。懐かしい人の高座に、さまざまな思いが去来した。

アサダ二世 奇術 (16分)
 いつもながらの話芸で、客席を騙す。初めてのお客さんも多かったようで、最後のトランプのマジックが、受けに受けた。小学三年生の女の子も、しっかり貢献。

三遊亭歌武蔵 相撲漫談&『宗論』 (30分、*~17:04)
 お約束なのかもしれないが、「只今の勝負」で始まる。マクラは、相撲界や落語界のトンデモない人達の逸話。これが14分ほど。そして、本編。オリジナル(だと思う)のクスグリで会場は爆笑だが、私は長講ネタを期待していた。このネタだから、それなりにマクラを引っ張る必要もあるのだろうが、トリで半分がマクラは、小三治くらいにして欲しい^^


 とにかく、小のぶを聴けたこと、そして、そのネタ『長短』が結構だったことで、池袋まで来た甲斐があった。

 上方のみならず、まだまだ聴いていない芸達者な噺家さんがいる、ということを教えられた日でもあった。

 帰宅し、思い出しながら飲む酒の、これまた旨いこと。落語は、奥が深い。
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by kogotokoubei | 2013-06-29 18:33 | 落語会 | Comments(10)
昨日のブログにいただいたコメントで、一つの謎ができた。

 いただいたコメントでは、米朝の『落語と私』にある『大丸屋騒動』に関する文章について述べられ、その内容から察して、米朝がこのネタを高座にかけたことは、もしかすると一度もないのではないか、とのご指摘。

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桂米朝著『落語と私』
 
 本書は初版が昭和50(1975)年にポプラ社刊。その後私が持っている文春文庫で1986年発行。そして、写真はポプラ社から2005年に発行された新装版。だから、内容は昭和50年当時、と思ってよいのだろう。

 「第二章 作品としての落語」の中の、“名作・駄作も演者しだい”の部分から引用。該当部分の前に、『しの字嫌い』について、ネタの内容などが少し紹介された後の部分から引用したい。

 わたしは、このはなしはもともと、その悪演出とされる悪智恵競争を主眼とした、わりに程度の低い落語であると思います。それがたまたま、二世円馬によってすばらしい息吹きをふきこまれ、わたしの師匠を瞠目させたのであると言えましょう。
 もう一つ。
『大丸屋騒動』という落語があります。さる若旦那が芸妓とふかく馴染む。どちらも真剣です。親の知るところとなって、若旦那は別宅にとじこめられて外出止め。
 (中 略)
 これは『しの字嫌い』とちがって、むずかしい大ネタで、人物の表現やら、京都の風景描写やら、ちょっとだれにでもやれるというわけにはゆきません。京の先斗町に住んでいた先代の桂枝太郎師という人の十八番であったことは有名でしたが、いまはだれもやれません。
 むつかしい噺—と言っても『たちぎれ』や『百年目』『菊江仏壇』などに比べて特にどうということもないし、ことにサゲはあまりよいサゲとも言えません。
 なぜ、この噺がだれにもやれないかというと、先斗町の枝太郎師が、人をつぎつぎと切ってゆく演出に、実にすばらしい演技をみせたためで、その演(や)り方は活字では説明できませんが、(註、わたしは故小文治師のを二度見ました)踊りの輪という特殊な群衆描写がまず大変で、そこへ、目を半眼にした若旦那が、血刀をぶらさげてふらりふらりとはいってゆく、本人は切る意志がないのに、刀が勝手にうごいて切りたおす。その瞬間の若旦那の顔。・・・・・・つぎの瞬間には踊り手の芸妓になる。朋輩と声をかけ合う、つぎの瞬間に切られてガックリ崩折れる舞妓、・・・・・・不審そうにのぞきこむ踊りの仲間、フト血刀をみてキャッと声をあげる、一瞬刀をふるう無表情な若旦那・・・・・・、楽屋からはこの間、ずっとお囃子がながれていて、踊りの振りも、あいだにはさまれる・・・・・・、そしてだんだん群衆がこの男に気づいて恐怖がひろがってゆく・・・・・・、夏の夜の季節感が感じられて・・・・・・と、こう言えばこの演出のむずかしさがお解りいただけると思います。
 この演出あってこその『大丸屋騒動』でして、この演出あってこその大ネタと言えます。ここをさっと逃げた演り方でやるのなら、わたしにもできるでしょう。しかし、その場合、この噺は別にたいした落語でも何でもなくなってしまうわけです。
 活字で読めば『大丸屋騒動』は、特別扱いするほどの落語ではありません。が、先斗町演じる『大丸屋』を見た古い人たちは、どんなに感動したか・・・・・・。はじめに書いたように、なまの落語と読む落語とはべつの物なのです。



 私は、このネタのWikipediaを読んで、「米朝も演るんだ・・・・・・」と思っていた。
Wikipedia「大丸屋騒動」

 そして、音源をググったところ、たしかに米朝の音源が見つからなかった。五代目文枝、新治の師匠二代目露の五郎兵衛の音源はすぐに見つかった。
 東芝EMIから発売されているCDにもDVDにも、このネタはなさそうだ。音源はたしかに存在しないのかもしれない。
 しかし私は、米朝は高座では演じたが、音源は発売されていないのだろう、と勝手に思っていた。
 でも、紹介したような次の文章を読むと、もしかすると演じたことがないかもしれないなぁ。

“この演出あってこその『大丸屋騒動』でして、この演出あってこその大ネタと言えます。ここをさっと逃げた演り方でやるのなら、わたしにもできるでしょう。しかし、その場合、この噺は別にたいした落語でも何でもなくなってしまうわけです”

 『落語と私』初版発行の昭和50年、米朝は50歳。だから、四十歳代の米朝は、この噺を“逃げ”ずに演る自信はなかったのだろう。

 しかし、その後に“逃げ”ずに演じる自信がついて、高座にかけた可能性もあるだろう。

 あるいは、米朝の高座を収録した音源はあっても、この噺は“見る”落語だから、発売しなかったとも考えられる。

 いずれにしても、今の私にとっては、ミステリーなのだ。

 こうなると、「米朝独演会」のネタを調べてみようか、などと新たな欲求が出てきてしまい・・・自分の性格が少し嫌にならないでもない^^

それにしてもどうやって調べようか?

 米朝は『大丸屋騒動』を演じたのか?

 この謎の答えを知っている方のコメントを期待するしかないかな・・・・・・。
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by kogotokoubei | 2013-06-25 19:29 | 落語のネタ | Comments(12)
 土曜日の三田落語会、露の新治による『大丸屋騒動』は圧巻だった。

 今日、『米朝ばなし-上方落語地図-』にもこの噺の紹介があったのを読んだ。
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『米朝ばなし』(講談社文庫)
 少し、筋書きが違う部分もあったのを発見したので、「祇園」の章から引用したい。

 旧暦の七月、お盆のころ、京都・東山の祇園さん境内の盆踊りの輪の中に、血刀を下げてあばれ込む男の話があります。
『大丸屋騒動』です。
 伏見に大丸屋という古い呉服屋がある。兄の宗兵衛が店を継ぎ、弟の宗三郎にもいずれ分家させて店を持たそうと思うておりますが、この宗三郎が祇園の富永町に屋形のあるおときという芸妓と深くなじむ。
 (中 略)
 大丸屋に借金のカタに取った村正の刀がある。これを宗三郎は気に入って、いつも護身のように持ち歩いている。木屋町の家にも、それを持ってきています。



 あれっ、村正の妖刀は、兄の宗兵衛の妻が嫁入り道具に持って来たのではなかったのか・・・・・・。

 米朝の音源は聴いていないが、きっと、この本に書いている設定なのだろう。

 新治も、師匠露の五郎兵衛も“嫁入り道具”という設定だし、三田の会の前に神保町のN書店で買った『上方落語』の速記もそうなっていた。

 しかし、埋もれた上方落語の発掘で定評のある、米朝である。どちらが、オリジナル(?)に近いかは、勉強不足で分からない。

 しかし、この噺の根本には影響はないのだろう。

『米朝ばなし』には次のような記述がある。

 この話の“百人斬り”のくだりを、先斗町に住んでいた桂枝太郎という、明治から大正にかけての名人と言われた人が、絶妙の演技でやってみせたと伝わっています。踊っている芸者が「どうおしたえ?」とのぞき込む、ハッと表情が変わる。ズバッと斬る。あと、目を半眼に開いた宗三郎が、フラー、フラーと歩いていく・・・・・・。
 だれにも真似の出来ない、あまりに見事な芸であったので、先斗町に比べられるのを恐れてだれも手がけんうちに、滅びかけたという落語です。



 この桂枝太郎は初代。こういった名人がいたからこそ、露の新治の素晴らしい高座を聴くことができたのだろう。

 この枝太郎のことは、別途書くつもりだ。まだ、勉強不足。


 新治の至芸、しかし、米朝の書によると、枝太郎の芸があまりに素晴らしいものだったから、その後しばらく“埋もれて”いたらしい。

 それを考えると、他の噺家さんが挑戦してくれないと、新治しかこのネタを聴くことができなくなる・・・・・・。

 易しいネタではないが、ぜひ、東京の噺家さんに場所の設定を替えてでも挑戦してもらいたい。東京落語界にとって、十分に挑むだけの価値がある噺だと思う。
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by kogotokoubei | 2013-06-24 21:13 | 落語のネタ | Comments(8)
土曜の夜の落語会は原則として行かないことにしているのだが、落語愛好家の先輩達から直接言葉やブログで高い評判を聴いており、どうしても聴きたかった露の新治ともなれば、例外である。
 せっかくの休みなので、早めに神保町に行き古書店めぐりをした後、三田の会場入り。

 会場は満席。よくお顔を拝見する落語通と思しき方々が集っている。手作りの落語会による、なんともいえない暖かな会場の雰囲気も良かった。

次のような構成だった。
----------------------------
(開口一番 柳家さん坊『子ほめ』)
露の新治  『狼講釈』
柳家さん喬 『包丁』
(仲入り)
柳家さん喬 『ちりとてちん』
露の新治  『大丸屋騒動』
----------------------------

柳家さん坊『子ほめ』 (15分 *18:00~)
 前回四月と同じ前座さんの開口一番。今年はこの人に出会う機会が多いが、着実に成長はしているようだ。前回は楽屋で喜多八に出身地北海道のことでも話して、できるだけ長くやるよう言われていたようだが、今回は、そういったいじめ(?)もなく、程よい時間での高座。
 プログラムには前座として半輔の名もあったが、彼は下座に徹したのだろう。この日は下座役も実に重要だったから、半輔も頑張ったと思う。

露の新治『狼講釈』 (29分)
 ようやくこの噺家さんに会えた。高座姿が、まず結構。何とも言えない品の良さを感じるが、柔和な笑顔で会場と一体感ができる。 どこか五代目文枝を思わせる雰囲気もある。
 上方ならではのマクラがまず楽しかった。大阪の環状線でのオバチャンとオッサンの“屁”を巡る舌戦は、いかにもありそうな話。地下街の安売りカメラ屋が店に張り出しているチラシのネタは、実話だろう。頻繁に客が「ほんまに写るんか?」と聞くので、チラシに「写ります」とわざわざ書いて貼っている、とのこと。関西弁を含め、日本語の不思議さや、有名な森元首相の沖縄サミットでの逸話などで、会場は揺れるばかりに大爆笑。
 そして、しっかりと本編につながるマクラが続く。関西では“たまに当る”ということから「ふぐ」のことを「鉄砲」と言う。そこから“いい加減なこと”“ほら”“うそ”などをペラペラしゃべることを“鉄砲”と言うようになった、と説明して本編へ。見せ場、聴かせどころは、講釈師と嘘をついて世話になった挙句に逃げ出して、狼に囲まれて絶体絶命の一文無し男が、狼の頭領に「本当に講釈師なら、聴かせてみろ」と言われ、聴き覚えの複数の講釈を滅茶苦茶につないで聴かせる場面。だから、噺としては『五目講釈』『兵庫船』(『桑名船』)にも似ている。
 『難波戦記』から始まり、赤穂義士討入りになるは、会津の小鉄は出るは、白井権八、紀伊国屋文左衛門などがつぎつぎに登場する、いわゆる“五目講釈”場面は、何とも見事。東京の落語ファンへのサービスだろうか、寅さんも、そして柳亭市馬も引っ張り出し、場内は大爆笑。
 狼の頭領とあっけにとられている子分狼との会話によるマクラが効いたサゲも大変結構だった。楽しみなトリネタの前だが、今年のマイベスト十席候補とするのをためらうことはない。
 
柳家さん喬『包丁』 (35分)
 新治との縁のことを紹介し、「『大丸屋騒動』をお聴きにいらしたのでしょうから、私は気楽に・・・いえ、しっかりやります」と言ったが、新治をたてようというネタ選びが、結果として結構な高座になった。「さん喬は、人情噺より、実は滑稽噺」という思いもあったので、うれしかった。
 昭和の名人ではなんといっても円生で有名なネタだが、さん喬も歌舞音曲の素養があるので、この噺は楽しい。
 久治が清元の師匠“おあき”さんの“ひも”同然で苦労のない生活をしているのに、脇に若い女をつくってしまい、町で久し振りに会った弟分の寅と一緒に、間男の狂言を仕込もうという筋書き。久治に鰻屋に誘われ、清元の師匠と一緒にいる、と聞いた時点で、八王子から甲府まで行っても目の出ない寅には羨ましい限りなのに、久治から「脇に若い女ができて」と聞いた途端、「う~ん」と唸って酒のつまみを食べ出し、口をとがらし、怒った顔が紅潮する。こういう仕種が何度か繰り返されるが、何とも楽しい。寅が“おあき”さんの家に上がりこんで持参した酒に酔ったふりで口ずさむ端唄や都々逸も、さん喬だからこそ“さま”になる。
 「八重一重 山も朧に薄化粧 娘盛りはよい桜花」 など、非常に結構。新文芸坐で聴いた立川談春も流石だったが、さん喬、負けてない。今年のマイベスト十席の候補とする。

柳家さん喬『ちりとてちん』 (34分)
 仲入り後に再登場。七月の浅草の余一会で、前座時代に一緒に苦労した小さん門下の仲間と、当時小さんの道場で開いた会と同じ名の「ごくつぶし落語会」を開催する、とのこと。顔ぶれは、小里ん、小燕枝、さん八、小袁治、小団治にご本人。小さん門下の今や重鎮とも言える顔ぶれ。行きたいところだが、今は何とも言えないなぁ。その後、ソムリエ教室に通ったことがある、と本人にとっては“カミングアウト”的な話のようだ。試験で、勉強(?)していなかったイタリヤワインの問題が多くて苦労した、などを語って本編へ。
 滑稽噺のさん喬の、これまた本領発揮。ヤマ場の六さんが台湾の名産“ちりとてちん”を食べる場面、目をつぶり鼻をつまんで一気に飲み込んでからが傑作。真っ赤な顔で七転八倒する姿に会場も大爆笑。旦那が六さんを家に呼ぶ前に彼の性格を語る場面で「知ったかぶりをする」という説明がなかったのだけが残念。しかし、「さん喬は滑稽噺」なのだ。大いに満足の高座。

露の新治『大丸屋騒動』 (41分 *~20:52)
 待望(?)の高座。そして、安永三年に京都で起こった事件を元にした、師匠露の五郎兵衛や五代目文枝が手がける、上方落語の隠れた名作。
 さん喬からもややプレッシャーをかけられていたが、まったく臆することのないペースでマクラも楽しい。祇園に歌碑のある吉井勇の「かにかくに 祇園はこひし寝(ぬ)るときも 枕のしたを水のながるる」を紹介し、師匠二代目露の五郎兵衛の「かにかくに 祇園はこひし 金はなし」という川柳で笑わせる。同じ師匠の句「盛り塩が 膝をくずして 夜が更ける」も、なかなかの名句だと思う。
 十徳ナイフの思い出などをふって、自然な流れで「妖刀、村正」のことへ。伏見の大丸屋。父を継いだ宗兵衛に八幡の八幡様の娘が嫁入り道具で、この刀を持って来たことから、この悲劇(?)が始まる。
 筋書きを箇条書きで記す。
(1)伏見の大丸屋、代を継いだ長男の宗兵衛の嫁が、嫁入り道具に妖刀「村正」を持って来た。
(2)宗兵衛の弟、宗三郎がこの村正を気に入り、兄に頼み込んで、「預ける」ということで自分のものとする。
(3)宗三郎が、祇園の舞妓“おとき”に熱を上げ、親戚など周囲の諫言もあって、宗兵衛は、おときを落籍(ひか)し祇園富永町に住まわせ女中をつけ、宗三郎には木屋町三条に住まわせて外出どめ。「三ヵ月会うのを我慢すれば、周囲も忘れるやろ。その時は、二人を一緒にさせてやろう」と、宗三郎しばらくの謹慎生活が始まる。
(4)謹慎生活二ヶ月が経ったある夏の日、木屋町の家。番頭(喜助)が酒(柳影)と肴を用意し、二人は楽しく歓談する。
(5)宗三郎が、周囲の景色が何かを番頭に尋ねる。「京の四季」のはめものの入った二人の問答の中で番頭、「あれは檀王山法輪寺、あれは大日山、あの下が蹴上・・・あれは八坂の塔、下りたところが、祇園」と、つい、宗三郎には忘れさせたい禁句が出てしまった。
(6)しばらく便所(ちょうず)へ行きたいのを我慢していた番頭、ちょうずへ行っている間に宗三郎が祇園へ行ってしまわないかと心配するが、宗三郎が「そんな気兼ねがいるかいな。ほかのことと違(つご)うて、辛抱ができるかいな。行といなはれ」と答える。
(7)しかし、宗三郎が思い出した祇園、そして、おとき。会いたい想いのまま、村正を脇に差して祇園へ。
(8)富永町へやって来た宗三郎。おときに、酒、いやお茶、水でもいいから一杯、と頼むのだが、謹慎機関もあとわずか、番頭と一緒ならまだしも、一人で来た宗三郎と会っているのことが万が一でも兄の宗兵衛の耳に入ることを恐れ、「井戸の水も枯れました」と、すげない言葉。その冷たい態度に激昂した宗三郎、つい、「ぐずぐず吐(ぬ)かすと、打(ぶ)ち斬るぞっ」「さぁ、お斬りやす。・・・あては、貴方に斬られて死んでも、けっして怨みはしまへん」と、おとき。あくまで狂言のつもりで宗三郎が鞘ぐるみで振り払った村正、その鞘が割れて村正がおときの肩口に突き刺さった。倒れるおときの周りが真っ赤に染まる。その後宗三郎の“妖刀”村正は、女中、そして追ってきた番頭も斬り倒した。
(9)元結が切れて、ザンバラ髪になった宗三郎、富永町を出て、末吉町、祇園町へと出会う芸妓や男衆を斬りまくる。祇園の二軒茶屋、二階では、腕利きの芸妓が四、五十人。「いずれも、秋草の模様の揃いに、黒襦子の帯をお太鼓に結んで、絹張りの団扇をば帯に差し、頭は島田に花簪をさして、総踊りの真っ最中。」ここで、「伊勢の陽田」のはめもの。
(10)なにも知らない芸妓を斬りまくる宗三郎。表へ出ると、大勢の捕方が、「御用だ」と取り囲む。しかし、村正はその十手捕方の一人も斬って倒した。他の者は遠くからとりかこんでいるのみ。
(11)伏見の宗兵衛、虫の知らせか木屋町の宗三郎の家を訪ねたが宗三郎も番頭もいない。富永町へ来てみると、そこには三人の死体。表へ出ると通りがかりの人が祇園で狂人が刀を振り回して暴れているとのこと。宗三郎に違いないと、駆けつける。
(12)宗三郎が大勢の捕方に囲まれている中、役人に兄であることを告げ、十手を借りた宗兵衛。宗三郎を抱えて「コレ、宗三郎、気を鎮めェ」「だれや、放さんと、斬るぞ」と宗三郎は兄の体のあっちこっちを、斬ったり、突いたり。しかし、宗兵衛の体から血の出る様子がない。これを見た役人の問いかけに答える宗兵衛の言葉でサゲ。

 途中は新治の至芸に目を見張っていたので、この筋書きを書けたのは、神保町で格安で買うことのできた『上方落語』(佐竹昭広・三田純一編、筑摩書房)によるところ大である。
 妖刀の魔力で自分の思いとは別に人を斬り続ける宗三郎の姿も見応えがあったが、上記の筋書き(5)と(9)で重要な演出となる下座の太田その、そして前座のはめものも結構だった。
 正直なところ、上方ならではの噺のはめもの、東京の下座さんで大丈夫かと思ったが、終演後に新治が「たった一回合わせただけでここまでやっていただいた」と驚くほどの下座さんの貢献も大きい。もちろん、今年のマイベスト十席候補である。


 噂の新治、その高座は期待通り、いや期待を上回るものだった。そして、新治を主役として脇役に徹したようなさん喬の滑稽噺二席も結構。充実の落語会。終演後はレギュラー三人に美女お二人も加わった「拡大居残り会」。田町駅前の居酒屋での落語を肴の楽しい会話は盛り上がり、もちろん(?)帰宅は日付変更線を超えた。
 新治の東京での落語会、これからも是非行きたいものだが、これまでのように、小さな小屋で聴きたいものだ。ご本人もそのつもりだろうから、1000人も入るホールでの会には出ないだろう。そして、その姿勢こそが、こういった会の楽しさにつながっていると思う。

 多くの人に知ってもらいたいものの、知ってもらうことでチケットが取りにくくなるのが困るなぁ、とも思う、上方落語界一押しの人である。土曜夜席というタブーを破ったせいで、翌日のテニスの後の飲み会の後、さすがに少し横になった。そして、『八重の桜』を見ながら書き始めたブログなのだが、未だに二席の高座が瞼に焼き付いている。
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by kogotokoubei | 2013-06-23 20:20 | 落語会 | Comments(10)
安倍右傾化内閣は、内閣官房に日本版のNSCと言える国家安全保障会議をつくろうとしている。自民党の公約には、「外交再生」の部分に次のようにある。自民党サイトの公約のページ

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 本家アメリカのNSCの傘下にCIA(中央情報局)が置かれている。そして、国家安全保障会議にとっては、CIAのみならず国家安全保障局(NSA)という諜報機関も重要な情報収集組織である。

 だから、日本版国家安全保障会議設立の背後には、日本版CIA、日本版NSA設立の目論みが対になっている。
 安倍内閣には、国家の司令塔機能を強化するために、スパイ機関をおおっぴらに作ろうという意図が見える。

 さて、スパイ国家の本家では、CIAやNSAに勤務していた一人の若者が、ネット時代の諜報活動の実態を暴露して話題になっている。後年「スノーデン事件」と名がつくであろう、この若者は、20万ドルの年収も恋人も家族も捨てて勤務先のハワイから香港に逃れて潜伏中だ。

AFPの日本語ニュースサイトから引用。AFP BBNewsサイトの該当ページ

米政府の市民監視プログラム暴露した元CIA職員、「怖くない」
2013年06月10日 16:48 発信地:ワシントンD.C./米国

【6月10日 AFP】米当局が個人のインターネット利用や通話記録を収集していた問題で、政府による大規模な監視プログラムの存在をメディアに暴露したのは自分だと9日に名乗り出た政府機関の契約職員、エドワード・スノーデン(Edward Snowden)氏(29)は、当局が情報漏えい容疑で捜査する構えを見せる中、「怖くはない」と発言した。

■快適な生活、良心と引き換えに

 米国家安全保障局(National Security Agency、NSA)で外部請負業者からの出向職員として4年間働いてきたスノーデン氏は、英紙ガーディアン(Guardian)のインタビューに対し、年俸20万ドル(約2000万円)とガールフレンド、順調なキャリア、家族に囲まれた「快適な生活」に3週間前、別れを告げてハワイを後にし、香港(Hong Kong)へ向かったと説明した。「喜んで全てを犠牲にする。米政府が世界中の人々のプライバシーやインターネットの自由、基本的自由権などを破壊するのを認めることは、良心が許さないからだ」と述べた。

 ベトナム戦争に関する米国防総省の報告書、通称「ペンタゴン・ペーパーズ(Pentagon Papers)」を漏えいしたダニエル・エルズバーグ(Daniel Ellsberg)氏や、米政府の外交公電や軍事機密を内部告発サイトのウィキリークス(WikiLeaks)に提供した米陸軍情報分析官ブラッドリー・マニング(Bradley Manning)上等兵と並び、米国史上に残る機密保護違反の1例となったスノーデン氏。勇気付けられた存在としてこの2人の名を挙げ、こう述べている。

「市民の名の下で何が行われ、また市民に対して何が行われているのかを公に知らせたいというのが、私の唯一の動機だ」

■「間違ったことはしていない」

 米ノースカロライナ(North Carolina)州エリザベスシティー(Elizabeth City)で育ったスノーデン氏は、後にNSA本部のあるメリーランド(Maryland)州へ引っ越し、地元のコミュニティーカレッジでコンピューターを専攻した。成績は平凡で、高校の卒業資格に相当する単位は取得したものの卒業はしなかった。2003年に米軍に入隊し、特殊部隊で訓練を受けたが、訓練中の事故で両足を骨折し除隊した。

 NSAに関連する最初の仕事は、メリーランド大学(University of Maryland)構内にあるNSAの秘密施設の警備員で、その後、CIAで情報セキュリティー関連業務に従事。情報要員となる正式資格は欠いていたが、優れたIT技術によって昇格し、07年からはスイス・ジュネーブ(Geneva)にCIA要員として外交官資格で駐在する地位を与えられた。09年に民間で働くためCIAを離職。民間請負業者を通じ、在日米軍基地にあるNSAの施設で任務に就いた。

 ガーディアンのインタビュー映像の中で、スノーデン氏は落ち着いた様子で「母国を再び目にすることができるとは考えていない」とコメント。さらに「間違ったことは何もしていないので、自分が何者かを隠すつもりはない。自分で選んだことだから、怖くもない」と語った。

 しかし、米情報機関を統括するジェームズ・クラッパー(James Clapper)米国家情報長官が8日、米情報活動に「多大かつ重大な損害」を与えたとして情報漏えい容疑で捜査を行う方針を示している点については、米当局による報復の可能性に不安を抱いていることを認めた。

■家族への影響を懸念

 ガーディアンによれば、5月20日にハワイを航空機で離れたスノーデン氏は、香港のホテルにチェックインして以来ほぼずっと客室内で過ごし、これまで3回ほどしか外出していない。監視や盗聴を懸念し、客室のドア沿いには枕を並べ、ノートパソコン使用時には監視カメラがあっても映らないよう、頭から大きな赤いフードをかぶって手元を隠してパスワードを打ち込んでいるという。



 Wiredの記事もご紹介。Wiredサイトの該当ページ

現在29歳のスノーデン氏は、防衛システムなどで知られるコンサルティング企業ブーズ・アレン・ハミルトンの社員で、NSAの外注契約職員として同組織のハワイオフィスにいたという。同氏は、英ガーディアン紙やワシントン・ポスト紙が先ごろ報じたヴェライゾンによるNSAへの通話情報の受け渡し(日本語版記事)や、米国外のターゲットを対象にしたウェブ情報の監視プログラム「PRISM」について、自らが情報源であったと名乗り出た。

英国時間9日付のガーディアンの記事と映像(6日に同氏の滞在先の香港で撮影されたもの)のなかでは、彼が自らの素性や暴露の背景について語っている。

「素性を隠すつもりはない。自分のしたことは正しいと思っている」と話すスノーデン氏は、暴露記事が発表された際には香港に身を隠していたという。「恐れはない。これは自分の決断だからだ」。

スノーデン氏は、自分がNSAのハワイオフィスでインフラアナリストをしていたことや、それが年俸20万ドルの仕事であったこと、さらに複数の外注企業の社員としてNSAで4年間働いてきたことなどを明かした。

また、同氏はシステムエンジニアやシステム管理者、シニアアドバイザーとしてCIAや情報通信システム関連企業で働いていたこともあり、政府の監視活動が活発になるのを目の当たりにしながら、大きなフラストレーションを感じるようになっていったと語っている。

スノーデン氏は提供資料に付属するメモのなかで、「自分の行動が自らを苦しめる結果になる可能性があることもわかっている」としながらも、「秘密裏に法律が適用され、その執行権が問答無用で行使され、世界が支配されている現状について、その一端でも明かすことができれば本望」としている。また、身元を明かすことでメディアの注目を引きたいわけではないとした上で、米国政府の大規模な監視プログラムにスポットライトを当ててもらいたいとガーディアンへのインタヴューで語った。

「報道機関が、政治的議論を個人の問題として捉えたがるものだということはわかっている。また、米国政府がわたしについて、あることないこと含めて悪評を流すであろうことも承知している」と彼は話す。「わたしが望むのは、公開した機密文書や人々の反応に対して報道機関が脚光をあてることだ。世界中の人々の間で、今後どんな世界に住みたいか、そんな議論が巻き起こることをわたしは期待している。暴露を決意したのは、国家の名のもとで人々に行なわれた行為を知らせたかったからだ」。



 NSAが諜報機関である以上、世界中のインターネットから情報を収集しようとするのは、彼らの使命に照らせば当然かもしれない。ウィル・スミス主演の『エネミー・オブ・アメリカ』は、まさにNSAの諜報活動の怖さを端的に表現する映画だったが、アメリカの良いところは、こういう映画も作られ上映される、という自由があるところだ。中国やロシアで、自国の諜報機関による犯罪をテーマにした映画など製作されそうにない。

 国家として、最高レベルの技術でネット上の情報収集をしたり、相手からのハッキングを防御しているであろうことは、今の時代では容易に想定できることだろう。
 しかし、その内部にいた者がその暗黙の事実を告発によって顕在化したことが、新たな状況をつくっていると思う。
 まず、彼の存在は一つの政治的状況を作り出す。スノーデンが指摘するまで「えっ、ちっとも知らなかった!?」とは、中国もロシアも本音では思いもしない。しかし、「知らなかったフリ」をするだろうし、内部告発者としてのスノーデンの中国やロシアにとっての価値は、まさに政治の材料としてのそれになった。
 今後、彼の人生が外交カードの一枚として破滅的な状況にならないことを祈りたい。
 
 そして、スノーデンは、ネット社会に生きる我々市民にも大きなテーマを命がけで提供した。
“世界中の人々の間で、今後どんな世界に住みたいか、そんな議論が巻き起こることをわたしは期待している”というメッセージを、どう考えたらいいだろうか。

「喜んで全てを犠牲にする。米政府が世界中の人々のプライバシーやインターネットの自由、基本的自由権などを破壊するのを認めることは、良心が許さないからだ」という訴えには共感できるが、果たして、ネット社会の便宜を享受しながら、そこに存在するプライバシーを守ることは可能なのだろうか。

 ちなみに私は、ネットバンキングを使わない。ネットで何かを買う場合は電子マネーを使っている。フェイスブックもツィッターもしない。ちょっとばかりの自己防衛のためである。しかし、このブログを書いている以上、ハッキングによって小言幸兵衛の個人情報を盗み出すことは、そう難しいことではないだろう。電子マネーだって、その管理サイトには個人情報が入っている。NSAが所有しているであろう最高レベルの技術なら、匿名ブログから個人情報に辿り着くことなど朝飯前のことだと思う。

 ネットによる便宜(光)を利用しながら、ネットによるサイバー攻撃、ハッキングの政府によるプライバシー侵害といった被害(影)をどう防ぐかは、非常に難しい問題だ。

 ネットが地球規模で張り巡らされている以上、一つの国で法規制しても根本的には解決できない問題である。しかし、政府が自らやっていることを、サミットや国連などの場で、それを規制するための議論などしそうには思えない。
 たとえば「サイバーテロ防止」というテーマで国際会議などで共同で議論したりルールを決めるというのは、想定できそうにない。
 こっちからは相手を覗きたいが、相手にはこっちを覗かせたくない、というのが本音であろう。隣りの家との間に壁や塀、垣根は作れるが、果たしてネットに強固な壁は作れるだろうか。セキュリティを確保する技術の進歩は、その防御をかいくぐる技術との追いかけっこである状況では、ハードウェア的にもソフトウェアの面でも、ネットに万全な壁を作るのは非常に難しいと思う。

 しかし、ネット時代にも「倫理」「モラル」は求められてしかるべきだろう。やはり「ネット・モラル」の壁で防ぐ道を考えるしかないような気がする。

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マイクル・コナリー著『スケアクロウ』

 ネットの影の部分は、政府によるサイバー攻撃のみならず、個人的な犯罪も含まれる。たまたま、最近読んだマイクル・コナリーの日本での最新作『スケアクロウ』(講談社文庫)は、天才的なハッカーであるシリアル・キラー(連続殺人者)と、ロサンゼルス・タイムス記者のジャック・マカボォイとの戦いが中心のサスペンスだが、このハッカーが、ジャックの後任となる予定だった女性記者アンジェラ・クックのプライバシーをネットから暴こうとする場面を引用したい。(同書上巻の190~191ページ)

 カーヴァーは検索をつづけ、アンジェラ・クックが数年まえにマイスペースのページを止めてしまったが、削除せずにいることを突き止めた。また、リンクトインにプロフェッショナル・プロフィールを公開しているのも見つけ、そ こから情報の源泉にたどりついた—「シティ・オブ・アンジェラ・ドットコム」www.CityofAngela.comというタイトルのブログで、そこにクックはロサンジェルスでの生活と仕事を扱った現在進行形の日記を載せていた。
 ブログの最新のエントリーは、警察と犯罪担当に配属され、ベテラン記者のジャック・マカヴォイの指導を受けていることに対する昂奮にあふれたいた。
 若い連中がおそろしいほど他人を信用したり、無防備だったりするのはカーヴァーにとっていつも驚きだった。連中はだれでも点と点をつなぐことができるのだとわかっていない。インターネットに赤裸々な心情を明かし、気楽に写真や情報を載せることができ、その結果がわが身にふりかかるとは思っていないのだ。クックのブログから、アンジェラ・クックについて必要な情報はすべて拾い集めることができた。生まれ故郷、女子学生クラブ、ペットの犬の名前すらわかった。
 (中 略)
 カーヴァーはクックのまわりを周回していたが、相手はそれに気づきもしないでいる。だが、周回が終わるたびにますます近づいていった。


 アンジェラがその後どうなったのか・・・は本書を読んでいただきたい。ハリー・ボッシュや最近人気のリンカーン弁護士のシリーズではないが、あの傑作『ザ・ポェット』のマカヴォイとレイチェル・ウォリングのシリーズも、なかなか結構だった。

 さて、“相手はそれに気づきもしないでいる”のに、“近づいて”くる、ネット上の脅威・・・・・・。 

 そのリスクを避けたいのなら、ブログもSNSも、もちろんネットバンキングもしない、ということか。
 それとも、ある程度の被害は承知でネットを活用するのか。

 スノーデン事件の記事の中に、“ワシントン・ポスト紙が先ごろ報じたヴェライゾンによるNSAへの通話情報の受け渡し(日本語版記事)や、米国外のターゲットを対象にしたウェブ情報の監視プログラム「PRISM」について、自らが情報源であったと名乗り出た”とあったが、そのワシントンポストの記事の中にある図をご紹介。
ワシントンポストの該当記事

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 この記事について、techcrunch.comの日本語サイトでも紹介されているので、引用したい。
techcrunchサイトの該当ページ

 Washington Postの報道によると、NSA(国家安全保障局)による最高機密データマイニング計画は、Google、Facebook、Microsoft、Appleをはじめとする各社サーバーを直接アクセスしている。「国家安全保障局およびFBIは、米国大手インターネット企業9社の主要サーバーに直接アクセスし、音声、ビデオ、写真、メール、文書、接続ログ等、個人の行動と接触相手の分析を可能にするデータを取得している」と同紙は報じている。

 この高度な機密計画、プロジェクトPRISMの詳細は今ひとつ曖昧だが、NSAは、司法長官および国家情報長官に対して「NSAと米国企業との連絡役であるFBIのデータ傍受技術ユニットにサーバーを開示する」ことを許可したとみられる。

「数回のクリックと、対象がテロリズム、スパイ行為あるいは核拡散に関わっていると信じられることが確認できれば、アナリストはFacebookの持つさまざまなサービスに対する大規模な検索および監視能力を全面的に利用できる」と同紙は説明する。

 そこからNSAは、被疑者のデータを発掘しその連絡先を次々と「ホップ」していくことによって、NSAが監視できるアメリカ人の数を指数的に増やしていく(外国人に関しては、NSAは通常業務として監視している)。

 本誌がFacebookにコメントを求めたところ、次の回答を得た。「われわれは、いかなる政府組織に対してもFacebookサーバーへの直接アクセスを提供しない。特定個人のデータあるいは情報を要求された場合、あらゆる適用法に照らしそれらの要求を精査した上で、法が認める情報のみを提供する」

 Googleは声明文でこう言っている。「Googleは当社ユーザーのデータ保全を第一に考えている。われわれは法に基づいて政府にデータを開示するが、それらの要求は慎重に検討している。時としてわれわれが政府に対してシステムの「裏口」を作っていると主張する人たちがいるが、Googleは政府がユーザーの個人データをアクセスするための裏口を持っていない」


 FacebookやGoogleがNSAに本当に協力していないのか否かは、分からない。しかし、それらが個人情報の宝庫であり、NSAなど諜報機関が調査の対象とするのは当然とも言える。


 友人達とのネットでの会話を楽しむことや、ブログなどの記録をクラウドを利用して管理・保管してもらう便宜、ネットの仕組みを利用して買い物や支払の手間を省くメリットを放棄しないのなら、その危険性についても覚悟しなければならない時代かもしれない。

 しかし、覚悟はするにしても、それを許してはならないと思う。

 怖いのは、政府のネットにおける監視の兆候を許す空気があることだ。ネット時代にいち早く突入し、SNSにおいても世界に先駆けて数多くのIT企業を輩出しているアメリカ国民の心理について、「ニューズウィーク」の日本版に次のような記事があった。
「ニューズウィーク日本版」サイトの該当記事

米政府の監視よりフェイスブックのほうが怖い?
2013年6月12日(水)16時35分
ウィル・オリマス(スレート誌記者)

 米政府によるネットと携帯電話への大規模な監視活動が判明したばかりだが、アメリカ国民はあまり憤りを見せていない。その大きな理由は、ネット上の情報のやりとりは既にグーグルやフェイスブックに監視されているのに何を今さら、と諦めているからだ。

 10日に公表されたワシントン・ポスト紙と調査会社ピュー・リサーチセンターの調査では、56%のアメリカ人が、米国家安全保障局(NSA)の監視は「許容できる」と答えている。また、昨年AP通信と米テレビ局CNBCが合同で行った調査によれば、フェイスブックが投稿された情報を第三者に渡さないと信じる人はわずか13%で、少しだけ信じる人は28%。つまり大多数は、同社が個人情報を守るとはまったく信じていないか、ほとんど信じていなかった。

 矛盾した結果のようだが、一般的なアメリカ人は、フェイスブックによる個人情報の支配よりも、政府によるスパイ活動のほうがましだと考えている。

 自己中心的に考えるなら、こうした考え方は理解できる。ほとんどのアメリカ人は、自分がテロ調査の対象になるとは思わないので、政府が自分の情報などに関心を示すはずがないと考えている。

 一方でフェイスブックは、すべてが利用者の個人情報によって成り立っている。実際には、個人情報を利用するといってもターゲット広告に使うぐらいだし、テロ容疑で起訴する意図などさらさらない。それでも多くの人にとって、浮気の証拠やきわどい写真、秘密のやり取りが意図せずにばれてしまう恐怖のほうが恐ろしいし現実的だ。

政府のネット監視からは「脱会」できない

 ある意味では、長年続いてきたフェイスブックなどのネット企業によるプライバシー侵害騒動が、アメリカ人がNSAによるネット監視を許容する地ならしをする結果になったのではないか。プライバシーなんてとうに過去のものなのに、米政府がグーグルやマイクロソフトが同じことをしたからといって何が悪いのか、というわけだ

 だが、この考え方は甘い。1つには、NSAの監視対象からは脱会ができない。アメリカを去れば怪しまれて監視はさらに強化される。一方、フェイスブックはプライバシー侵害の批判を受けるなかで徐々にプライバシー設定を充実させてきている。利用者は自分のデータを共有する範囲をかなり細かく設定できる。

 NSAはそんなことは決してさせないし、その監視を逃れようとすればするほどますます疑われる。この問題を無関心にやり過ごせば、いつかしっぺ返しを食うかもしれない。



“矛盾した結果のようだが、一般的なアメリカ人は、フェイスブックによる個人情報の支配よりも、政府によるスパイ活動のほうがましだと考えている”とは、驚きだ。

 しかし、日本においても、同じような質問をしたら、若者を中心に同様の反応があるような、そんな気がするなぁ。ネットに個人情報が溢れていて、その情報を元に、いろいろ便利なこともある。そのネットの“光”による恩恵から抜けられないために、ネットの“影”には目をつぶろう、という時代の空気があるのかもしれない。

 そういう空気があることも分かった上で、あえてその空気や慣れに流されるのは危険だと思う。

 「倫理」「モラル」「民主主義」といったキーワードによる壁をネットにおいても築かなければ、ジョージ・オーウェルが『1984』に描いた全体主義化、監視社会化を助長することは間違いないだろう。ビッグ・ブラザーのような政府は必要ない。
 為政者がネットでの監視や検閲を強化することで、過去の歴史さえ塗り替えることもあり得る。まさに安倍右傾化政府が進めようとしている“国家の司令塔機能強化”は、そういった全体主義化、監視社会化の匂いがプンプンする。
 「フェィスブックと同じで、別にいいじゃん」とか、「しょうがないじゃん」と言う若者が増えることを、実は政府は望んでいるのだろう。

 技術的に“できる”ことと、それを実際に“する”ことの差は、実はとても大きいはずだ。包丁は殺人の武器にもなりえる。そして、原子力は地球を何回でも崩壊させるだけの危険性を持つ。その“できる”悪事を“させない”ためには、文明における技術的なアプローチでは限界があるだろう。あくまで、文化的なアプローチで、「ならぬことは、ならぬ」という倫理観しか、壁にはなり得ないのではないか。

 まだ二十代の若者のエドワード・スノーデンは、敢然と倫理の旗を掲げたのだ。その勇気ある行動をどう生かすかが、ネット市民に求められているような気がする。
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by kogotokoubei | 2013-06-18 00:15 | 幸兵衛の独り言 | Comments(2)
通算で第二十四回目の会。東京での会は内幸町か深川、となっている。昨年も五月に深川だったが、この周辺は散歩していても楽しい場所なので、今回も少し前に来て歩いていたら、小さな成等寺というお寺に紀伊国屋文左衛門の碑を発見。中には入れなかったが、後で調べたらお墓も大きな碑の横にあったらしい。携帯で上手く写真が撮れなかったので、「写真紀行・旅おりおり」というサイトから写真と文章をお借りした。
「写真紀行・旅おりおり」サイトの該当ページ
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江戸前期の豪商として知られる紀伊国屋文左衛門の墓は、江東区深川にある成等院という小さなお寺の右手奥にある。墓の正面に紀伊国屋文左衛門の顕彰碑があり、その左手に小さく朽ちかけているような墓がそれです。墓地に入る手前の石柱には和歌山県関係者の名前が刻まれている。これは、昭和33年(1958)木場で材木商を営む和歌山県出身の方々が追善供養されたものだそうです。


 紀文は木場に縁があるし晩年を深川八幡で暮らしたらしいので、そういう関係で出身地の方が寄贈したのだろう。そんなことを考えながらの散歩の途中、地元名物の深川めしで昼食をとって会場へ。ついビールを一本頼んでしまったせいで、若干途中での睡魔を誘った。

いつもより若いお客さんの多い会場、入りは七分ほどだったろうか。

次のような構成だった。
-----------------------------
(開口一番 桂團次郎 『狸の賽』)
桂米二  『ろくろ首』
桂米左  『書割盗人』
桂米二  『貧乏花見』
(仲入り)
桂米二  『寝床』
-----------------------------

桂團次郎『狸の賽』 (14:00-14:16)
 初である。後で調べたら米團治の三人いる中の最初の弟子のようだ。身長が183センチで、着物を作るのに生地が一反では済まないらしい。はっきりした口調でなかなかの高座。入門五年目のようだが、また聴きたい上方の若手。

桂米二『ろくろ首』 (14:17-14:37)
 マクラでは昨日は『リトル・マーメイド』明日が『鹿鳴館』、ミュージカルを見に来たついでの落語会、と話していた。劇団四季の方にもお知り合いがいるのだろうか、終演後、居残り会会場へ向かう道すがら、Yさんが「あの若いお客さん達は劇団四季の方かなぁ」と話されていたが、当っているかもしれない。幽霊、化け物ということで、今は亡き勘三郎が勘九郎時代に『四谷怪談』のお岩さんに扮した大阪での歌舞伎におけるハプニングの話が楽しかった。
 三席ともネタ出しされていたが、まずこの噺から。この人にしては珍しい(?)笑いの多い噺が結構だった。やもめ男が、甚兵衛さんの知恵で、コヨリの細工で「さよぉ、さよぉ」「なかなか」「ごもっとも」の三つの言葉を話すという作戦が、猫がコヨリにじゃれついたため、この三つの言葉を喋り続ける場面は、なんとも可笑しかった。

桂米左『書割盗人』 (14:38-15:04)
 これまた初の人。後で調べたところ入門二十年目、米朝の十七番目になるお弟子さんのようだ。少しだけ俳優の小林薫に似ている。東京では『だくだく』。東京では、「~したつもり」の科白が「~した体(てい)」となるのが、慣れない人には違和感があるかもしれない。丁寧な語り口は結構なのだが、時間帯と昼のビールのせいで、少しウトウトしてしまった。

桂米二『貧乏花見』 (15:05-15:34)
 着替えて二席目。マクラで昔の裏長屋についていくつかの表現を披露。ほぼ師匠米朝版と同じだが、楽しい。「三月裏」は、長屋がゆがんでいて桃の節句の菱餅のようだから、「八月裏」は、住人が裸同然で暮らしている裏長屋。「釜一つ裏」というのは、長屋が三十軒くらいあっても、ご飯を炊く釜が一つしかない。くじ引きで釜を使うので、「おい、お前とこ朝飯喰うたか?」「いやぁ、まだや。うちの朝飯は たぶん明後日の夕方になるやろう」という長屋。
 大阪日本橋筋の長町裏の長屋が舞台の噺は、こうした裏長屋のマクラから、小拍子を見台で鳴らし「雨上がったなぁ」の一言から本編へ。こういう展開は、上方噺ならではの演出で、私は好きだなぁ。東京の『長屋の花見』は、大家が発案者だが、オリジナルの上方版は、朝方雨が降っていて仕事を休んでいた長屋の連中が、雨が上がってから皆で相談して桜ノ宮に花見に行くことになる。酒の代わりのお茶を各家から供出させて樽に入れ、酒の肴も提供を募るのだが、次のようなとんでもないものばかり。
・「長いなり」:オカラを「切らず」と上方で言うが、切らないオカラなので、「長いなり」
・「カマゾコ」:釜の底にあったご飯のオコゲなので、この名。
・「はそぉめん」:何もおかずがない時は醤油をご飯にかけて食べるが、醤油は箸で挟もう
  としても、挟めん→はさぁめん→はそぉめん、である。
 こういう凄い発想(?)をする長屋の住人達の、今は亡き職業について、入場の際に米二師ご本人からいただいたチラシの「米二流落語用語の基礎知識」には、次のように書かれている。
 「羅宇仕替屋(ラオシカエヤ)」・・・・キセルは三つの部分からできている。吸い口、
  羅宇(ラオと読む。竹の管)、雁首(刻み煙草を詰める)の三つ。羅宇は煙草の
  ヤニが詰まったりするので消耗品。この羅宇を取り替えてくれる商売。
 「歯入屋(ハイレヤ)」・・・・下駄の歯を入れ替える商売。どんなものでも
  何度も取り替えて大事に使ったのですねぇ。
 落語は勉強になる^^
 さぁ、こういったご一行が花見に行くのだから、桜ノ宮での会話が楽しい。上方オリジナル版は東京版と違い、長屋連中が偽の喧嘩を演じた騒動のうちに他の花見客のご馳走を失敬し、盗まれた一行の中にいた幇間が長屋の一行に文句を言いにいく、という筋書き。しかし、時間配分を考慮したのだろう、米二は東京版と同じように長屋の連中の花見での会話の途中でサゲた。
 個人的には、最後まで聴きたかったなぁ。しかし、三席楽しめるのと、二席の長講のどちらを望むか、難しい選択でもある。

桂米二『寝床』 (15:46-16:37)
 マクラで、某会社の謝恩会の抽選会で配ったサイン色紙がネットのオークションで200円で売られており、なかなか売買が成立しないので、毎日パソコンで売れたか確認するのが日課だったという話が可笑しかった。ちなみに、マイケル・ジャクソンのサインは30万円だったらしい。
 昔、浄瑠璃を習ったことがあり、このネタの旦那の気持ちが分からなくもないと、本編へ、50分の長講。この噺も『貧乏花見』→『長屋の花見』と同様、上方がオリジナル。上方の『寝床浄瑠璃』が明治中期に東京に移植されたらしい。
 上方版と東京版とで共通する登場人物は、提灯屋に豆腐屋、そして金物屋あたりか。上方ならではのキャストとして手伝(てったい)の又兵衛がいる。東京版なら棟梁(かしら)が登場するが、上方オリジナルは、大工仕事などの建築現場の手伝い仕事をする“てったい”。
 また、豆腐屋がつくるのは、がんもどきではなく「ひろうす」となる。チラシの解説には、このように書かれている。
「ひろうす」
ひりゅうずとも言い、漢字で書くと飛竜頭。元来はポルトガル語の filhosから来ている。今はガンモドキのほうがわかりやすい。現在は豆腐が主原料だが、 昔は米の粉、麩、こんにゃくなどを揚げたものもあったらしい。

 なかなかの熱演。ところどころに独自のクスグリもあった。例えば、手代の久七が、旦那の浄瑠璃を一人で聴く覚悟をした時、「そんな予感がして、先日田舎の実家に帰り、家督を弟に譲ってきました」とか、一同が諦めて集まり、さあ浄瑠璃が始まろうという時に、耳栓を配るあたりも、楽しい演出だった。


 終演後は、レギュラー三名が久し振りに揃った居残り会。昨年もリーダーSさんと行き、その味を堪能した森下の店まで歩くと、ちょうど開店五分前。行列はあるが三十名ほどなので、待つこともなく地下の席に座ることができ、あの感激の煮込みとガーリックトーストに再会。初めて来たYさんも大いに喜んでいた。焼きとんも旨いし、お品書きの上から呑んでいった酒も結構。落語の話や人生の話(?)に盛り上がった。仕事でやや疲れ気味のYさんも元気になったのではなかろうか。
 帰宅して、サッカーブラジル戦を見るために、早めに寝た。今朝四時に起きてテレビを点けた瞬間がネイマールのゴール・・・・・・。結果は、あの通り。ブラジルと日本、真打と前座の差があったなぁ。まぁ、本番は来年である。本田を孤立させないよう、代表の皆さん、稽古稽古!
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by kogotokoubei | 2013-06-16 04:23 | 落語会 | Comments(4)
六月八日は、三代目麗々亭柳橋の命日。文政九年(1826年)三月二十四日生まれで明治三十七(1894)年の六月八日に満六十八歳で旅立った。本名、斉藤文吉。

 五街道雲助の『髪結新三』の落語会の記事で、柳橋があの噺の原作者であることを、岡本綺堂の文章なども含めて紹介した。
2013年5月14日のブログ

 暉峻康隆著『落語の年輪』の「江戸・明治篇」から引用したい。
*本書は、初版が昭和四十三(1978)年に講談社より発行。現在では河出文庫で入手可能。

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暉峻康隆著『落語の年輪』

 京橋南槙町の家主であった斉藤文吉は、はじめ滝川鯉かんの門人・鯉の助であったが、二代目麗々亭柳橋に従って昔々亭桃流と名のり、嘉永五年(1852)春、三代目柳橋を襲名した。


 ということは、柳橋襲名は、黒船の一年前ということだ。

 明治に入ると大看板となり、明治八年四月には、東京最初の咄家の団体“睦会”が結成されたとき、六代目桂文治と三遊亭円朝は相談役、三代目柳橋は頭取におさまっている。


 文政の後の天保年間の生まれである円朝は、明治八年当時三十六歳、六代目文治は三十二とまだ若く、数えで五十歳の柳橋の存在はそれだけ大きかったのだろう。

 のち長男亀吉こと小柳橋に四代目麗々亭柳橋の名をゆずり、自分は柳叟と称したが、まもなく春錦亭柳桜と名のった。
 (中 略)
 柳桜は温厚な物堅い人で、芸風はじみで落着きがあり、ことに晩年は枯れ切ったものとなった。続き物の人情咄が得意で、白子屋お熊や番頭忠七、それに髪結新三などのからむ大岡裁きの「白子屋政談」や、「四谷怪談」を改作口演して人気を集めた。明治二十五、六年ごろになると、もう古希に近くなったので引退披露をして楽隠居の身となった。ひまなものだから槙町の自宅からほど近い中橋の釈場・松川に、木戸銭を払って講釈を聞きにいっているうちに、顔見知りの講釈師連中にすすめられて、得意の続き物の人情咄で助に出ているうちに、六十九歳で亡くなった(本朝話人伝・宝井馬琴談)。



 得意の人情咄を演じるうちに亡くなったらしい。ある意味で、うらやましい最後ではなかろうか。ちなみに引用されている『本朝話人伝』は東京大空襲で亡くなった野村無名庵の作品。アマゾンのレビューで、加太こうじの『落語』からの引用を含め書いたことがあるので、ご興味のある方はご覧のほどを。
野村無名庵著『本朝話人伝』

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山本進著『落語の履歴書』

 小学館の「落語 昭和の名人 決定版」ソリーズの連載に加筆された山本進著『落語の履歴書』には、次のように書かれている。

 息子が三人いて、いずれも芸能界の人となった。長男亀吉は、父親の生前に四代目柳橋を襲名。次男嘉吉は、講釈の道に進んで、大名跡・桃川如燕の二代目を継いだ。さらに三男久吉は、長兄の没後に五代目柳橋を継いだ。
 父親の斉藤文吉すなわち柳橋本人は、長男に名跡を継がせるため、明治十一年に隠居名の麗々亭柳叟を名のり、さらに明治十六年頃、春錦亭柳桜と改めた—この名前は、いうまでもなく『古今和歌集』の古歌<見わたせば柳桜をこきまぜて都ぞ春の錦なりけり>をふまえている—したがって、残っている速記は、ほとんどが柳桜の名義のものである。



 “見わたせば柳桜をこきまぜて都ぞ春の錦なりけり”という古歌が、春錦亭柳桜の名前の由来であったことは、『古今和歌集』の素養など毛頭持たない私はこの本で初めて知った。

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 平凡社から平成元年(1989年)に発行された『古今東西落語家事典』には、次のような記述がある。

 若い頃『四谷怪談』を演じた時、四谷稲荷への参詣を怠った夜、寄席の天窓が理由もなく開いたのであわてて噺を中止し、翌朝は参詣のうえ、改めて演じたことから大評判をとったという。
 その頃の彼は女にもてて、安政大地震の時危く吉原の火事で命を失うところを、前に出演した二代目春風亭柳枝に故意に長演されたために吉原へ行けず、難をまぬかれたという。



 舞台を含め「四谷怪談」を演じる場合の縁起担ぎは、この頃から始まったのかもしれない。

 『髪結新三』の原作と言われる柳桜の 「仇娘好八丈」(あだむすめこのみのはちじょう)の内容は、黙阿弥の「梅雨小袖娘八丈」(つゆこそでむかしはちじょう)と併せて、たびたびお世話になる「落語の舞台を歩く」で紹介されているので、ご興味のある方はご覧のほどを。
「落語の舞台を歩く」の該当ページ

 三代目麗々亭柳橋、隠居して春錦亭柳桜のことを、三冊の書から紹介した。この三冊やネットの情報を読んで、この噺家の偉大さが、あらためて少し分かったような気がする。
 柳橋の名を継いだ長男と三男、そして講釈の大名跡を継いだ次男を含め、今の時代へ重要な芸の伝承者であったのではなかろうか。ちなみに、落語芸術協会の会長の座に長らく座った六代目の春風亭柳橋が柳橋の名を継いで、その後も春風亭で継承されている。


 雲助の『髪結新三』の名演は、三代目柳橋がいたからこそなのだと、命日に想うのだった。
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by kogotokoubei | 2013-06-08 12:23 | 今日は何の日 | Comments(0)
 道楽亭さんの出張寄席。副題が“「兄弟弟子対決」~冗談いっちゃあいけねぇ~”となっている。先月の文左衛門と扇辰の二人会の副題は、「本寸法対決~じっくり聴いていただきます~」だった。とにかく“対決”させたいようだ^^

 その対決は、結果として結構な高座を生み出しているように思う。席亭さんの思惑通り、ということか。顔ぶれが良く、地の利も良いせいか、小ホールと言えども550席ある会場は、ほぼ満席に近かったように思う。お客さんの笑いの感度も結構高いように思った。ほぼ同じ場面で笑いが程よく起こる。中野の落語偏差値は高い^^

次のような構成だった。
--------------------------------
(開口一番 三遊亭わん丈『桃太郎』)
柳家三三  『高砂や』
柳家喜多八 『寝床』
(仲入り)
柳家喜多八 『仏の遊び』
柳家三三  『締め込み』
--------------------------------

三遊亭わん丈『桃太郎』 (19:02-19:17)
 文左衛門と扇辰の会でも開口一番を務めていたが、この人はとても昨年四月の入門とは思えない。この後に三三が「あの円丈一門にああいう人がいるんですねぇ、柳家にトレードしたい位」と言っていたが、同感。口跡というか語り口が非常に結構。滑下が良くメリハリがついていて、一本調子ではないので、非常に余裕のある高座。マクラで滋賀県の大津出身で、大津はこれまで噺家が出ない三つの地域の一つ、などと言っていたが、上方にはきっと大津出身者はいるだろうから東京落語界のことだろう。なぜ円丈だったのかを含め、今後気になる前座さんだ。

柳家三三『高砂や』 (19:18-19:47)
 喜多八をはじめ兄弟子にはお世話になったとふって、以前にも聞いたことがある柳家はん治の逸話などから本編へ。
 これまでにも何度か聴いているが、帰って調べたら前回聴いたのは二年前一月の新文芸坐だった。昨年も聴いたように思ったが、どうも三三が出演する会で他の噺家さんがかけたのを勘違いしていたようだ。これだからブログを備忘録代りにつけておかなければ、記憶だけでは、ずいぶん危い・・・・・・。
 結構、バージョンアップ(?)されている。八五郎が仲をとりもった若い二人。伊勢屋の若旦那が木場のお嬢さんの誕生日に何を贈ったらいいか八が相談を受け、八が「何と言っても、金でしょう」と答えたというクスグリは、多分初めて聞く。江戸というより明治あるいは大正あたりの時代設定なのだろう、隠居が「昨今は、テーブルに椅子、西洋料理というのも多いなぁ」と言い、八が「西洋ろうり・・・ハムカツ?」「ハムカツってことはない」「じゃぁ、ヒレカツ」、という掛け合いも、以前にはなかったような気がする。
 手慣れたネタを、しっかりこなした高座。しかし、三三としては当然とも言える。

柳家喜多八『寝床』 (19:48-20:18)
 マクラから、喜多八ワールドで楽しまてくれた。理想の姿として、ロッキングチェアに揺られて、葉巻なんぞくわえ、ブランデーを片手に、リルケを読みながら、BGMはクラシック・・・やっぱり合わないから村田英雄、という落差が可笑しい。笑いのツボをしっかり押さえているのだよ、この人は。
 本編はこの人では初かと思うが、何とも凄い高座。文楽および円生の型と志ん生版を混ぜ合わせた、喜多八オリジナルと言ってよいだろう。

 喜多八の構成面での特色を少し挙げてみる。ややネタバレ的だが、知っていて聴いても十分楽しめるはず。
・茂造が長屋の店子、店の使用人が旦那の義太夫の会に出られない理由を仮病などの作り話で説明する中で、「峰どんは、本当に胃痙攣です」とか、「若旦那は、はっきり『嫌だ』と言っておられました」など可笑しい。
・飯炊きの権助が、志ん生版の番頭(先代)のように、蔵に逃げるのだが、旦那が追いかけてきて開いた窓から義太夫を語り込み、権助が中で渦を巻いた義太夫に悶絶する。
・豆腐屋が旦那にヨイショしたばかりに、一段のつもりでいた旦那が「みっちりやりましょう」と言ったために、「こら、豆腐屋!」と怒る長屋の住人の姿や、ようやく義太夫が始まった場面での、「おい、刺身の色が変わってきたよ」など、細かいながら効果的なクスグリ

 そして、演出において際立ったのは、旦那の時間経過、状況の変化による落差の描写である。最初は、大いに上機嫌で陽気なのだが、茂造の話を聞くうちに、次第に不機嫌になる。しかし、決して強面ということではなく、気弱な性格が見て取れる。そして、番頭が店子、店の者をあらためて動員して、旦那に義太夫を聴かせて欲しいと頼み込む場面。旦那の一人芝居で演じながら、陽気な旦那に戻り、うれしくなってのけぞり、後ろに倒れそうになるあたり、見事な人物描写。喜多八は旦那を重厚な性格設定にせず、本来は気弱なお調子者として演じているが、その軽いノリが全篇を楽しい爆笑ネタにしている。今年のマイベスト十席候補。

柳家喜多八『仏の遊び』 (20:32-20:58)
 仲入り後、黒紋付きで再登場。前座時代の「飲む」「打つ」「買う」の修行の話は、なかなか楽しかった。前座時代、一日の給金が三百円。上野や浅草の寄席の際は、二日分六百円を持って前座仲間と北千住の安酒屋へよく行ったらしい。酎ハイが一人二杯までの制限つきなので、できるだけ呑めない奴も誘って他人の分も飲む算段をした、という涙ぐましい努力には、大いに同情できる。「昔の酎ハイには根性があった」という言葉は、飲んだ後の悪酔いの程度への賛辞(?)。そして、昔の師匠達は刺身を箸でちぎって食べていたという思い出や、先代馬生の飲み屋での逸話などから本編へ。
 初めて聴く噺である。節操のない酔っ払い坊主がお布施を持って吉原に行こうとするのを、ご本尊の阿弥陀様が呼び止め、「たまには、おれも連れて行け」と言う。なんとも落語らしい滑稽な廓噺。モテまくった阿弥陀様(あーさん)が、「ここが極楽!」と言ったり、吉原で「悟りを開けた」などと嬉しそうに、またデレデレと語る科白が可笑しい。阿弥陀様のはしゃぎ振りに会場大爆笑。
 帰宅してから、この噺はきっと埋もれた廓噺の古典なのだろうと思って、本棚から古今亭志ん生の最初の速記集である立風書房発行『志ん生廓ばなし』の中のコラム「廓ばなしご案内」を探したが、このネタは見つからない。昨年師走の目白で小満んが演じた『大神宮の女郎買い』のことが、このコラムに書いてあったので、きっと同じあたりにあるのだろうと思って探したが、見つからない。
2012年12月15日のブログ
 ネットで確認したら、なんと本田久作による新作だった。「落語の蔵」からは、2007年8月14日(お盆に、この噺^^) に文鳥舎で収録されたこの噺がダウンロードできる。あらすじも該当ページ記載されているので、ご参照のほどを。なかなか優れた、江戸の香りのする新作である。
「落語の蔵」サイトの該当ページ
 作品としても良く出来ているし、演者もしっかりこの噺のツボを押さえての好演。こちらも今年のマイベスト十席候補とすることを、ためらうことはない。

柳家三三『締め込み』 (20:59-21:25)
 三三のこのネタは、たぶん初めて聴く。女房が亭主に「お湯にする、お酒にする?お湯、お酒?」」という言葉を楽しそうに語るクスグリが何度か登場するのが、一つのアクセントとして効いていた。終演時間を考えてのことだろう、サゲまで演じずに、泥棒が夫婦喧嘩を仲裁し、亭主は一杯呑んで泊まっていけと泥棒を誘い、女房が亭主にうながされ泥棒に礼を言うあたりで、サゲた。だから、“締め込み”という言葉は登場しない。

 
 三三が喜多八の二席に圧倒されたような、そんな印象のある落語会。兄弟子は偉大だった!

 終演後は、我らが居残り会のリーダーSさんと二人で、Sさんお奨めの中野駅前のお店で居残り分科会。喜多八の二席に二人とも大いに満足し感心してのお酒は、つい進むのだった。刺身も、焼蛤も、水ナスといった肴も大変結構。お店の人の客あしらいも悪くない。料理自慢の小奇麗な店での旨いアテをいただきながら、いろいろと楽しい話題が広がる宴は閉店間際まで盛り上がり、帰宅は当然のごとく日付変更線越えだった。
 録画していた「あまちゃん」を見ながら、『志ん生廓ばなし』を開き、ネットでググって『仏の遊び』の謎が分かったところで、ようやくブログを書き始めたのだった。

 それにしても、喜多八殿下は、今ノッているなぁ。しばらくは雲助と喜多八の時代かなぁ、などと思わせる絶品の二席だった。
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by kogotokoubei | 2013-06-06 00:20 | 落語会 | Comments(10)
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井伏鱒二『黒い雨』(新潮文庫)

 『はだしのゲン』のことについて、先日テレビのニュースで放送していた。さまざまな言語による翻訳を手弁当で行っている人々が出演されていて、皆さん、「素晴らしい反戦作品」といった意味合いのことをおっしゃっていた。私もそう思う。作者の中沢啓治が昨年十二月に亡くなってから、この本のことが話題になることが多いようだが、よいことだと思う。

 同じように原爆を題材とした反戦文学作品として著名な井伏鱒二の『黒い雨』について、少し書く。

 本書は、実話に基づいている。主人公の閑間(しずま)重松とシゲ子夫婦は、姪の矢須子と同居している。その矢須子への縁談が持ちあがる度に、彼女は被爆者であるという噂が立ち、矢須子は縁遠いままになっている。実際に、矢須子は八月六日に、“黒い雨”を浴びている。

 書こうと思ったきっかけは、「芒種」について記された部分に触発されたから。

 明日六月五日は、二十四節気の芒種。梅雨入り前で、「芒(のぎ)」のある穀物、つまり稲や麦などの種をまく時期という意味だが、今日では種まきはもっと早まっている。ちょうど梅雨入りの頃で、体調管理に気を付けて栄養をとる、という意味あいもあるようだ。会社にいる中国出身の社員に聞いたら、彼女の故郷では、芒種には肉を食べる風習があるらしい。地域によっては違うと言っていた。

 芒種(ぼうしゅ)は、二十四節気では、小満の次、夏至の前。沖縄では、一つ前の節気と合わせて「小満芒種(すーまんぼーす)」と言うと、梅雨を意味するようだ


『黒い雨』から、かつて農村における芒種での風習ついて書かれている部分を引用したい。

「おいシゲ子、わしは思いついた」重松は、思いつきを云った。「お前、戦争中の我が家の食生活のことを、メモ風に書いてくれないか。献立表なら尚さらよいが、いちいち思い出すことは出来んだろう。明日でもメモ風に書いといてくれ」
「献立表と云うたって、ハコベのおひたし、ノビルのぬた。そんなことしか書けんでしょうが」
「それじゃよ、その散々な食生活のことじゃ。戦時下における閑間重松一家の、貧相この上もない食生活じゃ。それを『被爆日記』のなかに附加えて書かんならん。どうしてもっと早く、それに気がつかなんだろう」
「その気持なら、うちでは今後こうしたらどうかしら。これからは毎年八月六日の原爆記念日に、あの八月六日の朝の献立通りの朝飯を食べたらどうかしら。あの日の朝の献立なら、わたしは覚えておるわ。不思議に、はっきり覚えとるんよ」
「あの朝、何を食べたかな」
「浅蜊の塩汁と、御飯の代りに脱脂大豆。それだけですが。浅蜊は、三人で六箇しかなかったわ。あの前の日に、わたしと矢須子さんで御幸橋下で掘って来た浅蜊ですがな」
 重松は思い出すことが出来た。あの浅蜊は小粒で肉が透けているように見えたので、このごろは浅蜊まで栄養失調だと、冗談ではなしにシゲ子に愚痴を云ったのであった。
「あのなシゲ子、食生活の部門は一家の主婦の受持だから、お前に一役たのむんだ。メモ風でも書翰体の文章でも、何でもよい、明日にでも書きとめてくれないか。とにかく、わしは今日はもう寝るよ」
 そんなことで、重松はシゲ子に不慣れな記録仕事を押しつけた。
 その翌日は芒種の日にあたるので、重松は農家の戸主のお勤めとして百姓道具を整理した。鋤鍬や金梃子は洗って楔を打ちなおした。斧や鎌は研いだ。鋸は目たてをした。稲刈鎌にも目たてをして種油を塗った。屋敷神のまわりを除草して、ついでに庄吉さんのうちの池へも参勤交代に行って来た。これで結構半日が終った。



農家の戸主の芒種の役割を再度太字で。

“重松は農家の戸主のお勤めとして百姓道具を整理した。鋤鍬や金梃子は洗って楔を打ちなおした。斧や鎌は研いだ。鋸は目たてをした。稲刈鎌にも目たてをして種油を塗った。屋敷神のまわりを除草して、ついでに庄吉さんのうちの池へも参勤交代に行って来た”
 
「参勤交代」という表現が何とも楽しい。庄吉とは、被爆により重労働ができない重松が、池で鯉の養殖を一緒に始めた仲間である。

 かつての日本の農村で、芒種がどのような意味を持っていたかが、よく分かる。この本を読んでから、芒種の時には、この本を思い出す。

 この後に、シゲ子が重松からの宿題(?)に答えた記録の内容があるのだが、その中に興味深いことが書いてあった。

さて、主食の米麦の配給について申しますと、初めのころは一人あたり一日量三合一勺ぐらいだったと記憶いたします。間もなく米麦の代りに大豆が相当多く配給されるようになりまして、次いで外米や因果な大豆のしぼり滓が配給されるようになり、次第に減量されて大豆のしぼり滓が一日量二合七八勺になっておりました。最初の頃の配給米は玄米でございまして、瓶に入れて米搗棒で搗いて白米にしないと食べにくいので、ぶつぶつ不平を言いながら夜鍋仕事で瓶搗きしておりました。それで搗減りがして、三合一勺ぐらいの頃でも一人一日量が二合五勺強ぐらいになりました。
たぶんその頃だっとと思います。隣組の宮地さんの奥さんがその筋に呼出されてお叱りを受けたことがございました。宮地さんの奥さんは農家へ食糧を買出しに行くとき、可部行の電車のなかで隣の席の人に「このごろ配給米が三合になったので、うちの子供の教科書のなかにある言葉が改悪されました」と申されたそうでした。それは子供さんの教科書のなかにあった詩の文句が「一日ニ玄米四合ト・・・・・・」となっていたのを、米の配給量と睨み合わして「一日ニ玄米三合ト・・・・・・」と改訂されてあったから、そう申されたのだそうでした。後で奥さんから聞いた話ですと、その詩は宮沢賢治という詩人の代表的な作品で、農民の耐乏生活をよく理解した修道的な美しさの光っている絶唱であったということです。「一日に四合というのを、三合と書きかえるのは、曲学阿世の徒のすることです。子供がこの事実を知ったら、どういうことになりますか。おそらく、学校で教わる日本歴史も信じなくなるでしょう。もし、宮沢賢治が生きかえって、自分で書きなおしたとすれば話はまた別ですが」と奥さんは仰有っていました。しかし、かりそめにも国家の大方針のもとに編纂された国定教科書に関する問題でございます。その筋の人は奥さんに向かって、
「流言蜚語は固く慎め。お前が闇の買出しに行った事実はわかっておる。そんな人間が、教科書のことに余計な容喙する資格はない。戦時下に於いて流言蜚語を放つ罪は、民法や刑法に抵触するばかりとは云われない」


 戦時下での食糧事情が分かることも重要だが、教科書にある宮沢賢治の名作『雨ニモマケズ』が、配給が減ったことから改悪されていた、ということにやや可笑しさとともに驚く。

ちなみに詩の冒頭はこうなっている。

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
  ・
  ・
  ・ 

 意に反して、「玄米四合」を「玄米三合」と変えなければならない時の教科者制作者や、その教科書で授業をしなくてはならない教師の心情が、察せられる。宮沢賢治も、さぞかし天国で嘆いていることだろう。
 

 主人公の閑間重松が日記に綴った原爆投下直後の広島の様子は、今回はあえて引用しないが、淡々とした写生的な記述だからこそ、戦争の悲惨さが深く重く伝わってくる。

 
 『黒い雨』は、実際に被爆を経験した重松静馬の『重松日記』を井伏が借り受け、重松の了解を得て出来上がった作品であることが、今では明らかになっている。しかし、『重松日記』は2001年に筑摩書房から世に出るまでは、あくまで子孫のために書かれた個人所蔵、門外不出の日記であった。

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重松静間『重松日記』(筑摩書房)

 この『重松日記』刊行に併せて、『黒い雨』に難癖をつけた人がいる。現在の都知事、猪瀬直樹である。彼は「『黒い雨』と井伏鱒二の深層」という文章を『文学界』2001年8月号に書いており、その内容はネットで確認できる。
日本ペンクラブ「電子文藝館」の該当ページ
 まず、『重松日記』刊行のことや、その頃の自分の作品について書かれた部分から引用。

『重松日記』が奇跡的に刊行されたのは相馬正一氏(岐阜女子大学名誉教授)の尽力が大きい。相馬氏は幾度も重松家に通い、説得をつづけ、ついに遺族の了解を得るところまでこぎつけた。昨年の五月である。そのころ僕の『ピカレスク 太宰治伝』が週刊ポスト誌に連載中で、『重松日記』と『黒い雨』を比較考証した部分はすでに発表され話題をまいていた。


 自分の作品について、「話題をまいていた」と書く人は、あまりいないではないか。せいぜい、「少し話題になっていた」位の謙虚さがあってしかるべきだろう。このあたりに、猪瀬の持つ傲慢さが見える。

 そして、猪瀬が『黒い雨』が野間文芸賞を受賞した際の井伏の受賞スピーチなどに対して、いちゃもんをつけている部分を引用。

『黒い雨』は、『新潮』昭和四十(一九六五)年一月号から四十一年九月号まで一年半にわたり連載された。スタートの一月号から七月号までのタイトルは『姪の結婚』で、八月号から突然『黒い雨』に変えられた。連載が完結して以降、比較的地味な作家と目されていた井伏鱒二に対する注目度は『黒い雨』とともに高まるばかりだった。単行本が発刊されたのは昭和四十一(一九六六)年十月二十五日だが、四日前の十月二十一日にこの年の文化勲章受章者に決定した。

十一月十日には野間文芸賞の受賞が選考委員の全員一致で決まった。選考委員の井上靖は感嘆しながら述べた。

「『黒い雨』は異常な大事件を、市井の男女の眼で見させ、肌で感じさせ、それに依って描く手だてを見付け、また完全に描ききることができたということは、立派というほかありません。構成にも苦心のほどが窺われ、細部の描写など不思議と言いたいほど現実性を持っています」

 大岡昇平も同様にほめた。

「『黒い雨』は戦後現われた最も優れた作品かも知れない。広島の原爆について、多くの小説やルポルタージュが書かれているが、被爆の惨状をこれほど如実に伝えたものはなかった。作家の眼のたしかさと技術的円熟が、この結果を生んだことは疑いない」

 だが、つぎの井伏の「受賞のことば」(『群像』昭和42年1月号)に、ちょっと含んだニュアンスを感じるのは僕だけだろうか。

「私は『黒い雨』で二人の人物の手記その他の記録を扱ったが、取材のとき被爆者の有様を話してくれる人たちに共通していることは、初めのうちは原爆の話をしたがらないことであった。もう一つ共通していることは、話しているうちに実感を蘇らせて来ると絶句してぐっと息をつまらせることであった。思い出す阿鼻叫喚の光景に圧倒されるのだ。そのつど私は、ノートを取っている自分を浅間しく思った。

 要するにこの作品は新聞の切抜、医者のカルテ、手記、記録、人の噂、速記、参考書、ノート、録音、などによって書いたものである。ルポルタージュのようなものだから純粋な小説とは云われない。その点、今度の野間賞を受けるについて少し気にかかる」

 井伏は「ルポルタージュのようなものだから純粋な小説とは云われない」と言いながら重松静馬とその日記についてはまったく触れず、「新聞の切抜、医者のカルテ、手記、記録、人の噂、速記、参考書、ノート、録音」と数多くの記録類に拡散させてしまう。

 野間文芸賞をもらう三カ月前、井伏は重松静馬に向かいはっきり「これは共著」と言ったのだ。今回の『重松日記』解説(相馬氏)で、その事実が判明した。引いてみる。

「昭和四十一年八月十八日の午前十時頃に福山市の小林旅館で井伏と落ち合い、二人で早速初出訂正稿の読み合わせを始めた。その日は小林旅館に宿泊し、翌日も朝から読み合わせを続け、『午后五時、黒い雨の精読一通り完了。先生と打合せも完了』(「当用日記」)し、そのあと重松の慰労を兼ねて尾道の向島にある高見山荘に一泊する。その際井伏は重松に対して『これを二人の共著にしたいと思うが、どうですか』と申し入れたが、重松は『そんなことをすれば、先生のお名前に瑕(きず)がつきます。私は資料提供者として充分報われていますから""』と言って固辞したという話を重松家の当主から伺った」

 相馬氏はあまり疑問に感じていないようだが、僕は野間文芸賞の「受賞のことば」と「これを二人の共著にしたいと思うが」という申し入れとの落差に驚くのである。


 私は『重松日記』をまだ読んでいない。そのうち読もうとは思っている。だから、現時点で、『黒い雨』と『重松日記』を読み比べて何かを語ることはできない。しかし、「日記」と文学「作品」、あるいは「ルポルタージュ」という作品は、自ずと違うものであろうことは想像ができる。日記が元になっていたとはいえ、井伏鱒二の文章力なくして、『黒い雨』は成り立たなかったと思う。

 そして、猪瀬が紹介した文章で引用した、『重松日記』刊行に尽力した相馬正一の同書の解説文を読めば、重松静馬が、井伏からの「共著」にしようという申し出を辞退していることを、そのご子孫が証言している。重松静馬も、井伏の文学作品に自分の名を出すことを憚ったのは、日記との違いを十分認識していたからだろう。

 猪瀬は、“井伏は「ルポルタージュのようなものだから純粋な小説とは云われない」と言いながら重松静馬とその日記についてはまったく触れず、「新聞の切抜、医者のカルテ、手記、記録、人の噂、速記、参考書、ノート、録音」と数多くの記録類に拡散させてしまう”と言うが、これは“拡散”したのではなく、スピーチの際に“逡巡”したのだと思う。
 察するに、井伏は野間文芸賞受賞スピーチで、重松のこと、日記のことを言おうか言うまいか、相当煩悶していたのではなかろうか。
 井伏の当時の心境を察すると、「本当は、この本は重松日記が元である。しかし、ご本人は表舞台に出ることを拒んでいる・・・・・・。私のことを気遣っている」という思いが、井伏をして、歯切れの悪い受賞スピーチをさせたのではなかろうか。
 だから、私は猪瀬が書いているような“落差”に驚くことはないし、まるで盗作であることを仄めかす猪瀬の文章には抵抗がある。盗作は、原作者に無断で行うことであり、了解の元で出来上がった作品を盗作とは言わない。だから、猪瀬も盗作の二字は使っていないものの、井伏が重松日記のことを明らかにしなかったことを責める姿勢は強い。

 猪瀬がどう言おうが、『黒い雨』は、反戦文学の傑作の一つであることは間違いがないし、その原典に『重松日記』の存在があろうと、その日記が出版されようと、『黒い雨』の価値は損なわれることはないと私は思う。

 私は、猪瀬が政治の世界に転身する前のいくつかの著作(『ミカドの肖像』『天皇の影法師』『日本国の研究』など)は、結構好意的に評価していたが、井伏鱒二の『黒い雨』についての彼の姿勢は、あまり良く思えない。

 井伏鱒二は、あえて『黒い雨』を発表する際に、その原典について語ることはなかった。しかし、重松静馬の日記を埋もれさせてはいけない、という思いで、日記を元に一つの作品として世に出したのであろう。被爆者のことを、何とか世に伝えようという情熱がそうさせたのだと思う。実話を元にしているからこそ、八月六日の原爆投下の後の広島近郊の悲惨な光景、そしてその後の後遺症に苦しむ人々のことを、農村で生きる庶民の視点で淡々と綴ることで、反戦への説得力を持つ作品となった。

 そもそも、井伏が原典の日記の存在をどうしても隠したかったのなら、主人公の名前を、単に姓と名を逆にした閑間重松にしただろうか。この名前にこそ、できれば「共著」にしたかった、という井伏の想いが込められているように、私には思える。

 この作品に原典があることを大げさに取り上げ、まるで井伏鱒二が盗作したかのような言い様をする猪瀬は、作品の持つ本当の価値を見ようとする姿勢と視点に欠けている。


 『黒い雨』は、ヒロシマ、ナガサキ、そしてフクシマを経験した日本人にとって、必読書だと思う。そして、読者が戦争と原子力というものに対して正しい認識と姿勢を獲得することが、井伏鱒二と重松静馬にとっての望みではないだろうか。

 芒種のことから、ついいつもの癖で話がそれていったが、ご容赦のほどを。しかし、芒種の頃、『黒い雨』とともに猪瀬のことも連想してしまうのが、何ともすっきりしない。井伏鱒二と猪瀬直樹との間にこそ、大きな“落差”があるのだ。
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by kogotokoubei | 2013-06-04 00:43 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(2)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛