噺の話

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5月30日は、昨年亡くなった尾崎紀世彦の命日でもあるが、ここではジャズ・サックス・プレーヤーのハンク・モブレーを偲びたい。

 1930年の7月7日生まれ、1986年の5月30日に旅立った。Wikipediaから引用。Wikipedia ハンク・モブレー

 本名はヘンリー・モブレー(Henry Mobley)。ハード・バップやソウル・ジャズのジャンルで活躍した。レナード・フェザーによって「テナー・サクソフォンのミドル級チャンピオン」と呼ばれたことで知られる。この隠喩は、モブレーが平凡であるかのような印象を持たせかねないが、実際にはジョン・コルトレーンほど鋭くもなければスタン・ゲッツほど円やかでもない音色を指している。付け加えると、モブレーの音楽様式は、とりわけソニー・ロリンズやコルトレーンと比較すると明らかなように、落ち着きがあって精妙かつ歌謡的であり、ジュニア・クックやジョージ・コールマン、ジョー・ヘンダーソンらに影響を与えたものの、その才能が識者に完全に評価されるには、モブレーの歿後を俟たねばならなかった

略歴
ジョージア州のイーストマンに生まれるが、ニュージャージー州ニューアーク近郊のエリザベスに育った。

初期の活動においてディジー・ガレスピーやマックス・ローチと共演する。アート・ブレイキーやホレス・シルヴァー、ダグ・ワトキンスおよびケニー・ドーハムと並んで、ハード・バップの画期的なセッションの一つに参加した。その成果は、アルバム『ホレス・シルヴァー・アンド・ジャズ・メッセンジャーズ』として発表されており、モブレーのよりブルージーな抒情性と、シルヴァーのファンキーなアプローチとのお蔭で、クール・ジャズの取り澄ました古典性とは対極にある。「ジャズ・メッセンジャーズ」が1956年に分裂すると、暫くはシルヴァーと演奏を続けたが、数年後にはブレイキーと再び共演するようになり、1960年代初頭のモブレーのアルバムにもブレイキーが出演した。

1960年代は主にバンドリーダーを務め、1955年から1970年にかけてブルー・ノート・レーベルに20枚以上のアルバムを録音した。1960年の『ソウル・ステーション』と『ロール・コール』は、代表作のアルバムである。最も重要なハード・バップの演奏家、例えばグラント・グリーンやフレディ・ハバード、ソニー・クラーク、ウィントン・ケリー、フィリー・ジョー・ジョーンズらと共演し、トランペッターのリー・モーガンとは、とりわけ実り豊かな協力関係を築いた。モブレーは、興味深いコード進行や、独奏者の見せ場を繰り広げたことにより、ハード・バップの時代の最も偉大な、独創的な作曲家の一人として広く認められている。



 上記でも紹介されている『Roll Call』のアルバムジャケットでご尊顔をご覧いただこう。
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 レナード・フェザーが「ミドル級のチャンピオン」と称したのは有名なのだが、たしかにこの言葉は誤解されているように思う。実を言うと、私もハンク・モブレーを真剣に聴き始め、そして好きになったのは、ジャズにどっぷり浸かっていた二十代ではなく、結構最近のことである。レナード・フェザーの言葉が影響していた。しかし、この人はサポート・プレーヤーとしてもいいし、ブルーノートのアルバムもいいのだよ。たしかに、ジョー・ヘンダーソンなんか、相当影響受けているなぁ、と思う。


 では命日の今日、彼のどのアルバム、そしてどの曲をご紹介しようか、ということなのだが・・・・・・。

 ブルーノートに残した『Soul Station』 (1960)、『Roll Call』 (1961)、そして、収録曲「Recardo Bossa Nova」でお馴染みの『dippin'』(1965)も結構ではあるが、私は、つい最近(昨年かな)初めて聴いて気に入っているアルバムを紹介したい。

 先日の一蔵・市弥・小辰の落語会を思い出したのだ。若い芸人の発表の場をつくる非常に結構な会だったのだが、ジャズの世界にも、実はそういう場があった。
 
 ハンク・モブレーのリーダー・アルバムではないが、私の好きな'50年代のハード・バップが聴ける、“Monday Nights at Birdland”である。

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Monday Nights at Birdland
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1. Walkin'
2. All The Things You Are
3. Bag's Groove
4. There Will Never Be Another You
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Hank Mobley (ts)
Lee Morgan (tp)
Billy Root (ts)
Curtis Fuller (tb)
Ray Bryant (p)
Tommy Bryant (b)
"Specs" Wright (ds)

*April 22,1958
*EMI Music Japan TOCJ-50090

 Wikipediaでも、“トランペッターのリー・モーガンとは、とりわけ実り豊かな協力関係を築いた”と紹介されている、リー・モーガンを含むメンバーと、1958年4月22日、あのバードランドのマンデイ・ナイト・ジャム・セッションでの演奏。
 実は、このアルバム、数年前に東芝EMIから手頃な価格で発売されているのを、落語ブログ仲間のYさんから教えていただくまで、聴いたことがなかった。これが実にいいのだ。ハンク・モブレーは27歳、リー・モーガンは19歳という若さ。Yさん、ありがとう!

 バードランドは、チャーリー・パーカーのニックネーム“バード”に因んで名付けられた。そういえば、彼の人生を辿った映画『BIRD』は良かったねぇ。フォレスト・ウィティカー演じるバードが、最後はテレビでコメディーを見ながら倒れるけど、あれが事実なら、少し救われる。

 さて、バードランド。1949年暮れにブロードウエイ52丁目にオープンし、1965年に閉店するまで、まさに“ジャズのメッカ”として愛された。1954年の2月21日に、このバードランドで歴史的名演が演奏されている。そのことは、また別途書きたい。クリフォード・ブラウンですよ!

 すぐ脱線しそうになるけどお許しを。このお店、1986年に場所を106丁目に移して再開して、その後さらに44丁目に移転している。今でもやってますよ。サイトご確認のほどを。行ったことは、残念ながら、ない。
Birdlandのオフィシャル・サイト

 1950年代、バードランドは毎週月曜日をレギュラー・バンドの休日に当てて、新人たちのジャム・セッションのために開放していた。まさに若い芸人のための発表の場。
 そのセッションから生まれた傑作アルバムがこれ。ちなみに、「アナザー」が頭についたタイトルで、もう一枚アルバムが発売されている。

 バードランドでのハンク・モブレ—を含む若手ジャズメンの、荒削りながら、エネルギッシュな演奏を聴いていただきましょう。

 人気DJシンフォニー・シッドがMCとして雰囲気を盛り上げ、若きハンク・モブレー、早熟のトランペッター、リー・モーガン、当時24歳のカーティス・フラー他のメンバーが、お馴染みのスタンダード曲で熱い演奏を聴かせている中から、「Walkin'」を聴きましょう。まさに、若手ジャズメンの「研鑽会」での演奏である。
 
 

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by kogotokoubei | 2013-05-30 19:56 | 今日は何の日 | Comments(0)
お題は、正しくは「三人集~若手同期編~」である。 落語協会で昨年11月に揃って二ツ目に昇進した三人の会。なんと、ゲストが権太楼。先週金曜に続いて、若手の高座を楽しみに日本橋へ。会場は、ほぼ半分ほどの入り。若手への貴重な場をつくる意欲的な企画なのに、少し残念。

三人の生年月日と入門時期、師匠を落語協会のHPからご紹介。

春風亭一蔵
・1981年7月13日生れ(31歳)
・2007年8月に春風亭一朝に入門

柳亭市弥
・1984年2月10日生まれ(29歳)
・2007年12月に柳亭市馬に入門

入船亭小辰
・1983年11月24日生まれ(29歳)
・2008年2月に入船亭扇辰に入門

 それぞれ、前座時代の名が、朝呂久、市也、辰じん。こちらの名前のほうが馴染み深い人も多いだろう。


次のような構成だった。
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(開口一番 柳亭市助『出来心』)
入船亭小辰 『金明竹』
柳亭市弥  『明烏』
春風亭一蔵 『ちりとてちん』
(仲入り)
柳家権太楼 芸談*途中三人も登場
入船亭小辰 『宿屋の仇討』
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柳亭市助『出来心』 (19:00-19:11)
 市弥の弟弟子で、兄弟子の良い刺激になっているであろう人。若々しい高座は好感が持てる。持ち時間が短く、最後は少し慌て気味ではあったが、この人も将来を期待させる。

入船亭小辰『金明竹』 (19:12-19:25)
 与太郎ではなく松公なので、柳家の型と言ってよいのだろう。三代目金馬では与太郎で、不思議な(?)上方言葉の言い立ても、金馬版と柳家の型では微妙に違っている。
 なかなか結構な演出がある。師匠譲りなのか、この人の工夫なのか勉強不足で分からないが、旦那が小言をまくし立て、「いいか、店番をする」「誰か来られたら奥に言う」を繰り返して、最後に「頑張れ」と松に行って出かけた後、「あんなに小言ばかり言われたら、最後の方なんて覚えちゃいないや・・・店番をする・・・誰か来られたら・・・・・・頑張る!」と言う松の科白は可笑しいし、その後の筋にも自然につながっていた。中橋の加賀屋佐吉の使いの上方者が最初の言い立てをした後、「う~ん・・・頑張れ!」を自分自身を励ます科白も楽しい。
 言い立ての滑舌の良さは前座時代から聴いていて感心していたが、聴いていて安心できる。「わての旦那の旦那寺が兵庫にありましてな、兵庫の坊主の好みます屏風じゃによて、表具に出し~」の部分、「表具に出し」を、しっかり言うところなども、好感が持てるし、相当稽古しているだろうし、師匠からも注意されているように察する。お内儀さんが、旦那に思い出しながら頓珍漢な説明をする場面での、「沢庵も喰わん、いんげんも喰わん」は、初めて聴いたような気がするが、私の記憶力が落ちただけかもしれない。いずれにしても基本を踏まえたしっかりした前座噺で会場を沸かせた。

柳亭市弥『明烏』 (19:26-19:54)
 聴き終わった時に、「市弥、頑張ったね!」と率直に思った。イケメンで女性ファンが増えているようだが、その高座には小言を書くことが多かった。しかし、この日は、稽古しているなぁ、と思われる内容だったし、今後に期待させる内容。
 若旦那の時次郎は、キャラクター的に“素”でも出来るような人物設定かもしれないが、源兵衛と太助の演じ分けもかなり出来ていたし、吉原の情景描写もなかなか結構。茶屋の女将(お巫女頭!)やラストのの浦里花魁など女性の描写も、以前よりはずいぶん上手くなったと思う。全体として“間”の取り方も悪くなかった。サゲの後、足がしびれて市助に肩を貸してもらったのも、ご愛嬌。今後が楽しみだ。

春風亭一蔵『ちりとてちん』 (19:55-20:23)
 マクラで、市弥の最後の姿を「美しい兄弟愛」といじっていたが、まったくその通り。小辰も少し話していた、三人の会開催が決まってゲストを誰にするか、という相談は、居酒屋で行われ、びっくりするような人にしようと、権太楼になったと回想。三田落語会の楽屋で依頼したらしい。この会のチラシのための写真撮影のことなどで会場を沸かしてから、食べ物のネタにふさわしく、自分の経験(と思しき)、ある鰻屋さんでの家族の光景をふって本編へ。
 見た目も少し太いが、声も太いし、所作もダイナミック。このネタは合っている。終演後の居残り会分科会でIさんが、「文左衛門みたい」とおっしゃっていたが、なるほど、もしかすると文左衛門に稽古してもらったかもしれない。あくまで、想像。御世辞のうまい六さんと、対照的な寅さんの描き分けも結構だし、さまざなま料理を食べる場面も、悪くない。噺家らしさ、という意味では、三人の中でこの人がもっとも“らしさ”があるだろう。
 昨年春、兄弟子一之輔の真打昇進披露興行で、しっかり先輩の高座を見てきたことも糧になっているに違いない。そういう一門の良い環境も含め、この人は成長スピードが速いように思う。どんなタイプの噺家になるのか、大いに将来が楽しみだ。

柳家権太楼 芸談 (20:34-20:51)
 仲入り後、三人が、“ダメ元”と頼み込んだ大御所の登場。「私が落語するのもなんでしょう・・・三人のために、昭和の名人のことをお話しましょう」と、扇橋や志ん朝の逸話を聴かせてくれた。その後に三人を呼び出して、芸を磨くことの本質的な意味を、ある動作を元に教えてくれた。これらの内容は秘密にしておきたい。この会場に足を運んだお客さんだけの宝物である。

入船亭小辰『宿屋の仇討』 (20:52-21:28)
 すでに権太楼に呼ばれたため、お披露目(?)済みの袴姿で登場し、マクラなしで本編へ。
 元気一杯の高座。基本をしっかり踏まえながら、楽しいクスグリも加えて、真打レベルの内容だった。江戸の“始終三人組”が、宿の伊八に、布団を「巴で敷け」と説明する場面の、「わかんねぇかな、ほら太鼓の脇に、魂が追っかけっこしているようなのがあるだろ」というのは、初めて聴いた。隣り部屋で騒ぐ江戸っ子三人と、うるさくて眠れず伊八を呼ぶ万事世話九郎、という場面が三度ばかり続き、筋書を知っている場合は、人によってダレる噺なのだが、まったくそんなことはなく、一気に聴かせてくれた。
 源兵衛の作り話の舞台が高崎、源兵衛が斬ったという侍の名が三浦忠太夫で、弟は大蔵、万事世話九郎が前日に泊まった小田原宿の宿の名が浪速屋であることなどから、先代小さんの型ではなく、正蔵(もちろん八代目)→先代柳朝と継承されている型かと思う。扇橋、扇辰のこの噺を知らないが、柳家系では喜多八も同じ設定でかけているのを聴いている。もしかすると喜多八から稽古してもらったのかなぁ。自信はない。
 それにしても、この人は、師匠の切れ味の良い江戸っ子の語り口をしっかし継承しながら、こういう大きなネタの演出も堂々とこなす。やはり、ただ者じゃない。


 非常に満足した若手の会。もちろん、途中の権太楼の厳父、慈父のような厳しくも愛情溢れる言葉なども余韻を良くしている。会場で偶然お会いした落語愛好家仲間の素敵な女性お二人と、「軽く行きますか」と居残り会分科会へ。
 お二人も私同様に、この落語会に満足されていたし、「どうして、こういう会に客が入らないの!」という思いも同じ。オフィスM’sさんの好企画、次は十月開催。この会は、五年後、十年後、「あの時、私はあの三人を聴いた」と自慢できる会だと思う。それだけ、この三人は将来を期待できる。個性もそれぞれ違っており、良き友人でありライバルとして、ぜひ切磋琢磨し、その成長度で客を驚かせて欲しいし、その力のある若手である。

 楽しい落語談義を肴の話は時間を忘れさせる。もちろん、帰宅は日付変更線越えであった。ああいう若手の会、ぜひ今後も行きたいものである。個々の高座ではなく、落語会として、年末に何か特別な賞をあげたい、そんな思いで振り返っている。伸び盛りの若手の成長する姿を目の当たりにできるのも、落語を聴く楽しみの一つであることを再認識した。
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by kogotokoubei | 2013-05-29 06:15 | 落語会 | Comments(4)
ずいぶん久し振りの落語の“連ちゃん”である。昨日の文左衛門と扇辰の会に副題として「本寸法対決」とあったが、この日の主任である萬窓も、まさに本寸法なのである。他の出演者もなかなかの顔ぶれ。楽しみにしていた席である。最終的な入りは、ほぼ七分といったところだったように思う。

 出演者とネタ、寸評と所要時間を書きたい。良かったと思うものに色をつけてみた。

開口一番 柳家いっぽん『弥次郎』 (13分、*13:46~)
初である。この十月から二ツ目らしい。眼鏡をかけたまま登場し、ネタになってはずした。まぁ、こういう失敗も今のうちだろう。落語協会のプロフィールを確認したら、三三と同じ平成18年に真打昇進した柳家獅堂の弟子らしい。ネタは決して易しい噺ではない。私の中では志ん生、そして扇橋の十八番としての印象が強い。この噺をかけるチャレンジ精神は買おう。しかし、基本が、まだまだ。上下(かみしも)が中途半端、滑舌の悪さ、演じ分け、一本調子、その全てを今後も精進してもらおう。

林家はな平 漫談&『味噌豆』 (18分)
 聴くのは四~五回目かと思うが、残念ながら聴く度に小言が増える。ネタはほぼ五分で前半は、つまらないマクラと小咄でつないでいたが、同じ小咄をかけようとしたり、その後の師匠の十八番のネタがボロボロになったり。次の窓輝にもいじられていたが、この人は何か勘違いしているのではないか。開口一番のいっぽんのほうが良く思えた。そもそもマクラで出身大学(喜多八と同じ大学の落研)のことを明らかにするなんて野暮は、勘弁して欲しい。しっかり、ネタをかけて欲しい。基本は出来ているはずの人だ。残念ながら漫談で会場を沸かせる技量はない。下手でもいいから、ネタをかけて、それも修業という発想にならなければ、この人は成長はあやしい。

三遊亭窓輝『武助馬』 (16分)
 先月の末広亭の高座には小言を書いたが、今日はなかなかのものだった。珍しいネタで、最近では鯉昇がよくかけるが、師匠であり父の円窓の、あの“五百噺”にも入っている。
 この人は、声で損をしているように思うが、この声は替えられるようにも思う。猫背でボソボソ話すのではなく、いわゆる発声の仕方を替えてみたらどうだろう。専門家ではないので、これ以上は何も言えないのだが、もう少し太い声を出せれば、高座の印象は大きく変わるような、そんな気がする。この本寸法の高座は、好感が持てた。それだけに、つい、こんなことを書いてしまった。

春風亭百栄 漫談と小咄 (16分)
 彦いちの代演。はな平と比べては可哀想だが、百栄のマクラや小咄は同じネタでも笑える。回転寿司のネタでの「オカキャビア」のネタや、「ゆのみ(You Know Me)」のネタ、好きだなぁ。客も店の人間も噛まずには言えない鮨ネタの名をつけるな、という内容は、きっと自分のアメリカでの経験が背景にあるのだろう。
 そして初めて聴いた最後の小咄、“無口な夫とおしゃべりな妻が乗った車がパトカーに止められた”というネタ、私は好きだなぁ。内容は秘密。知らない人は百栄を追っかけていただきましょう^^

松旭斉美登 奇術 (14分)
 あれ、美智さんとのコンビは、解消したの?
 会場のお客さんの可笑しさで救われたが、あのコンビがどうなったのか、美智さんがどうかしたのか、そればかりが気になっていた。

三遊亭吉窓『山号寺号』 (10分)
 圓窓門下の総領弟子。ネタ選びは結構。猪瀬さん都知事、ジョナサンお食事、など今日風のネタも追加して会場を沸かせて、所要時間は十分。なるほど、という高座。

金原亭伯楽 漫談&『猫の皿』 (21分)
 仲入り前は、このベテラン。マクラでの志ん生のかばん持ち時代の骨董品買いの逸話は楽しかった。懐かしい話の漫談のままでも良かったのだろうが、しっかしネタも披露。非常に結構だったが、サゲた後がいけなかった。
 落語協会騒動の逸話を少し語って、売店で売っている自分の著書の紹介を約五分。私はその本を持っているで買うことはない。正直なところ、好きな噺家さんであり、かつての昭和の名人達のエピソードだけでも楽しいのだが、最後の“商売”は、少し野暮だった。せっかくの噺の後味を悪くした。もし著書を紹介するならマクラでして欲しかったなぁ。ネタが結構だったので、非常に残念。ベテランでも、こんなことがあるんだなぁ。

古今亭志ん陽『強情灸』 (11分)
 この人ほど聴く度に成長の度合いに驚く噺家さんはいないだろう。真打昇進が決まった際には、同時昇進の文菊、半年前に一人昇進だった一之輔と並んでは、どうしても見劣りするだろうと思っていたのだが、どうしてどうして、堂々たる高座だ。伯楽のために押した時間を回復させる寄席の技も含めて、十分に本来は窓輝の出番であったクイツキの役割を果たした。志ん朝最後の弟子。やはり師匠には阿武松の素質を見抜いた錣山と同様の眼力があったのだろうし、本人がその素養を磨く努力をしているのだろう。確実に将来の古今亭を背負って立つ噺家になるだろう。

柳家喜多八『短命』 (16分)
 昔の噺家は、登場してからしばらくは火鉢の白湯を飲んだり、場内を睨みつけたり、痰をかんだり、とにかく客には媚びなかった、といういつものマクラなのだが、やはり楽しい。
 そして十八番と言えるネタへ。途中の隠居と八五郎のジェスチャーだけのやりとりも、会場を爆笑の渦に巻き込む。落語会の時よりもサゲ間際の部分を少し端折ったが、それでも貫禄の高座で、志ん陽がつくった良い流れをもっと強めて、膝の、のいる・こいるへ。

昭和のいる・こいる 漫才 (12分)
 いつもながらの可笑しさで会場は爆笑。しかし、客席から見て右側、突っ込み役のいるの声が余り出ていないのが気になった。昭和11年生まれなので談志と同じ。しかし、今は八十、九十まで芸の世界では活躍できる時代である。この二人の漫才はぜひ今後長い間聴きたいと思う。

三遊亭萬窓『寝床』 (30分、*~17:03)
 高座に上がった時の笑顔が、非常に結構。マクラで修業時代に師匠(圓窓)の家で稽古をつけてもらっていたら、師匠宅で飼っていたダックスフンドが、欠伸をしたという楽しい話から自然な流れで本編へ。
 ほぼ大師匠圓生→師匠圓窓から継承されてきている型と言っていいのだろう。旦那が怒ってから、あらためて長屋の連中を集めて回ってきて、旦那の部屋に行き、皆が聴きたがっているから、ぜひ義太夫を語ってくれとお願いをする茂蔵。旦那が、「やりませんよ、帰ってもらえ」で、「あっ、そうですか」と一度帰ろうとする場面は、文楽や志ん生の型にはない。
 このネタは文楽、圓生、そして志ん生がそれぞれ演じており音源も残っていて、それぞれの名人の特徴がしっかり出ているネタということができるだろう。好みもあるが、圓生の型は、浄瑠璃に造詣の深い人ならではの筋書きとして貴重だと思う。萬窓は、最後に定吉の泣いている理由を聴く場面で、数多くのお題を並べたが、あれな圓窓譲りなのか、本人の工夫かは分からない。いずれにしても、“本寸法”とは、こういう高座を言うのである。開口一番のいっぽんなどは、萬窓の高座を見て、ぜひ自分の滑舌の悪さを直して欲しいものだ。言いにくい科白の時の萬窓の口の動きなど、非常に勉強になるはず。結構なトリネタだった。


 久し振りに落語の連ちゃんだった。しかし、落語会と寄席だったので、味わいの違いもあって楽しかった。帰宅後の思い出しながらの酒も旨かった。しかし、酔いのまわりが早かったのは、落語疲れがあった、ということなのだろうか。しかし、それは心地よい疲労感であった。

 寄席は末広亭も良いが、その日の代演情報を反映したプログラムを配布する気配りがあって、高座との一体感の強い池袋も、なかなか結構なのだよね。奥の喫煙場所はは楽屋の脇なので、芸人さん達を身近に感じることもできる。それぞれに持ち味がある寄席があって結構。増えることはなかろうから、減らないことを祈るのみだ。
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by kogotokoubei | 2013-05-25 19:44 | 落語会 | Comments(12)
副題に「本寸法対決~じっくり聴いていただきます~」と付いた、道楽亭さんの出張寄席。久し振りに文左衛門も聴きたかったし、今もっとも充実していると言ってよいだろう扇辰との二人会、楽しみにしていた。会場は、最終的には八割くらいの入りだったように思う。

次のような構成だった。
------------------------------
(開口一番 三遊亭わん丈『不精床』)
橘家文左衛門 『天災』
入船亭扇辰  『阿武松』
(仲入り)
入船亭扇辰  『団子坂奇談』
橘家文左衛門 『猫の災難』
------------------------------

三遊亭わん丈『不精床』 (19:02-19:14)
 初である。円丈の十番目の弟子らしい。小辰を期待していたので残念ではあるが、新たな発見をした思いもある。落語協会のホームページで確認すると、昨年四月の入門。とてもそうは思えない高座。潜在能力は相当高そうだ。「ほう、円丈にこういう弟子もいるんだ」という、うれしい出会いだった。今後も気になる若手である。

橘家文左衛門『天災』 (19:15-19:42)
 いつものように、何かに悩むような顔つきで登場。冒頭、「何が本寸法・・・なんでしょうねぇ」と、ブツブツ喋りながら、少し早めに来て近所を歩いた当地との縁を語る。父親が茅場町生まれで、戦後戻ってきた時、何もなかったと言っていたことを回想。その後、道をはさんで同じコンビニがあることの不思議にふれたが、これは私も感じていたことなので同感。
 短いながら味のあるマクラを五分ほどふって本編に入ったが、場所柄に合ったネタ選びである、長谷川町新道は会場のすぐ近くだ。それにしても、こんな大爆笑のこの噺は初めてである。冒頭の、「何が本寸法なんでしょう」の言葉は、この人なりの落語の解釈、もっと言うと哲学が言わせた独り言なのだろう。彼の心中を勝手に察すると、“噺は時代とともに生きているし、噺家の解釈によって演出は違っていいだろう”、という思いがあるのではなかろうか。考えすぎかもしれないが、そんな気がした。
 この人の八五郎は岩田の隠居の家の戸も、紅羅坊名丸の家の戸もはずしてしまう乱暴者。紅羅坊の話の途中で、何度も右手を振り上げ「表へ出るかぁ!」と叫ぶ短気で喧嘩っぱやい人物像を明確に描く。しかし、まったくその演出は違和感もないし、この噺の本質に十分沿ったもだろう。
 荒っぽそうでいて繊細な噺家文左衛門の真骨頂とでも言える高座。会場は爆笑に包まれた。私も、途中で涙が出るほど笑っていた。今年のマイベスト十席の候補としたい。

入船亭扇辰『阿武松』 (19:43-20:13)
 マクラでは入門して前座時代、先輩で立て前座だったうちの一人が文左衛門で、「いろいろ世話になったし、世話もした」と語る。ちなみに当時、他の立て前座は白鳥、扇治、萬窓など。よく楽屋仕事を休む文左衛門が、楽屋に電話を入れ、扇辰が受話器に出た際の会話、(扇)「兄さん、どうしたんですか?」(文)「・・・おなかが痛いの」と、子供のような声で話していたらしい。まぁ、仮病だろう。
 次に大相撲が盛り上がっていてテレビを見るのが楽しみであること、この日の全勝の二人が勝ったことなどの話から、無理なく本編へ。
 この人のこの噺は、三年前の九月に白酒との二人会で、同じ会場で聴いて以来。
2010年9月18日のブログ

 その時にも感じたが、細身の扇辰が、大きく感じるのも“芸”ということなのだろう。主役の阿武松はもちろんだが、タニマチの“板橋の旦那”橘屋善兵衛、そして阿武松の素質を見抜いた親方の錣山、それぞれがしっかり演じ分けられた、結構な高座だった。

入船亭扇辰『団子坂奇談』 (20:25-20:46)
 短いマクラから、珍しい噺へ。この噺があること、そして扇辰や三三が時たま演じることは知っていたが、聴くのは初めて。地の部分が多い怪談めいた内容なのだが、扇辰は、擬音の使い方の上手さも含め、聴かせてくれる。筋を知らない方であればあるほど、一心に聴き込んでしまう見事な高座。

 こんなあらすじ。(名前の漢字は違っているかもしれませんが、ご容赦のほどを)

(1)武士の生駒弥太郎は、“そのうち武士の時代も終わるだろう、その時は町人にでもなるか”、と思っていた。町人達が、団子坂の桜が見頃だと話しているのを耳にし、団子坂へやって来た。八分咲きの見事な桜を愛でた後、近くの蕎麦屋おかめ屋に入った。
(2)おかめ屋は父と娘の親子二人で切り盛りしている。弥太郎はその一人娘のお絹の美しさに一目ぼれ。帰ってから、お絹のことを想っては食事も喉を通らない。このへんは、ミニ『崇徳院』かな。
(3)心配した母親が弥太郎から訳を聞き、おかめ屋に行って弥太郎にお絹を嫁にもらえないかと頼むのだが、主人から「父と娘二人だけの店、娘を嫁にやるということは、店を閉めろということ。申し訳ないが諦めてください」と言われ、帰って弥太郎に告げる。
(4)元々が武士への未練の少ない弥太郎。「それなら、武士をやめて蕎麦屋になって、お絹さんと夫婦になろう」と、おかめ屋の主に修業させて欲しいと頼み込む。おかめ屋の主、「そんな生易しい修業ではないが、やってみるかい」と店の裏の空き家に弥太郎を住まわせ、どこまで修業について来れるかを見極めるためだろう、弥太郎を仕込み始めた。弥太郎の生活費は、家からの仕送りがあるので、おかめ屋の負担にはならない。
(5)毎日早朝から修業に励み、ようやく蕎麦職人としてのメドもつき始めた弥太郎。ある蒸し暑い日、深夜まで寝苦しくしている弥太郎。八つ(午前二時)頃、おかめ屋の裏をこっそり抜け出そうとするお絹の姿が目に入った。「男でもできて、逢引か」と疑う弥太郎はこっそり後をつけた。
(6)なんとお絹が行った先は・・・・・・

 読者の方の今後のお楽しみのために、ここまでとしよう。サゲも、もちろん明かさない。
 
 擬音の演出とは、たとえば、深夜八つの鐘の音であり、お絹の後をつける弥太郎の足音、先を急ぐお絹の足音などだが、地の多い噺を立体的にさせ、またその光景を聴く者がイメージさせるのを大いに助けている。
 短い噺なのだが、会場をシ~ンとさせ、サゲでほぼ全員の緊張感を解放し、すっと去った扇辰の見事な高座、今年のマイベスト十席候補としたい。
 
橘家文左衛門『猫の災難』 (20:47-21:24)
 袴姿で登場。『妾馬』でもやるか、と思ったがこの噺。なるほど、兄貴分が買ってきた酒をこぼして、畳に染み込んだのを吸う場面や、ついつい寝込んでしまう場面など、袴のほうが演技するにも安心なのだろう。酔ううちに熊が兄貴分のことを、「いつまでかかってんだ、本当の自分勝手なんだよ」と言って、「おい、どっちが勝手んだよ」と客に思わせて笑いを誘うあたりは結構。酒を呑む仕種も楽しめたが、やや途中がダレた感もないではない。サゲの後の、何とも申し訳なさそうな文左衛門の表情が、出来栄えを反省していたのかどうかは分からないが、それほど満足した顔には見えなかったかなぁ。隣りのおかみさんに真相を暴露され、「じぇ、じぇ!?」と言うあたりは楽しかったが、やや過剰な演技を含め「本寸法じゃなくて、すいません」と言う顔に見えないこともなかった。


 帰宅する電車の中で、なかなかの好企画の余韻に浸っていた。帰って寝酒を呑みながらブログを書き始めたのだが、本寸法の『天災』といえば、正蔵(八代目)→柳朝(先代)→一朝と伝わる噺だと思い出し、一之輔が真打昇進披露興行において演じた二十四のネタを眺めてみたのだが、この噺がなかったことに気づいた。その理由は、分からない。一門の大事な噺として慎重になっているのか、彼自身が好まないのか・・・・・・。
 そんな疑問も感じながら途中で外で一服しながら見る月は旧暦四月十五日の満月。あらためて続きを書くのだが、一之輔『天災』ミステリーのことなどを思いながら手は進まず、寝る前に書き終わることはなかった。

 あらためて、文左衛門と扇辰。高座へ登場する様子からも噺の演出も、好対照な二人。文左衛門が年齢で二つ上、入門は三年早い。真打昇進では扇辰が一年差に縮めた。一緒にバンドも組む仲間だが、良いライバルとしても、お互い切磋琢磨して欲しいと思う。特に扇辰のここ数年の充実ぶりは際立っている。文左衛門がそれを十分認識して芸を磨くことで、この二人の中堅噺家は近い将来、落語協会の中核になるだろうと思わせた落語会だったと思う。
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by kogotokoubei | 2013-05-24 23:56 | 落語会 | Comments(6)
5月20日は、八代目桂文治の命日。明治16(1883)年1月21日生れで、昭和30年(1955)5月20日に満72歳で没した。本名は山路梅吉。根岸に住んでいたので通称「根岸の文治」。出囃子は『木賊刈り』。そう、談志家元と同じ。

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 「根岸の文治」について、平凡社から平成元年(1989年)に発行された『古今東西落語家事典』から引用する。
*先日、神保町の古書店で結構安く購入することができた。Wikipediaの落語家の内容は、この本を出所にしたものが非常に多いことが分かる。平凡社のサイトには「品切」とあるが、ぜひ改版して欲しいものだ。

 初め竹本識太夫の門下で識故太夫という義太夫語りであった。
 明治三十一年五月、落語に転じ六代目翁家さん馬(中村勘三郎)門人となって翁家さん勝と名乗った。母が彼をつれて六代目桂文治の後妻となったことから養子となり、明治三十五年五月、四代目桂才賀と改名して二ツ目に昇進した。同三十九年九月から大阪へ修業に行き、三代目桂文枝の門下で同四十一年桂慶枝となり、さらに同四十三年、文枝の死に伴い二代目三遊亭圓馬(竹沢斧太郎)の門人として三遊亭小圓馬を名乗った。
 大阪での修業を終わって東京へ帰り、桂大和に改めたのち、大正二年四月、七代目翁家さん馬を襲名した。そして、一時大阪に移っていた桂文治の名跡を継ぐこととなり、大正十一年十月上席から八代目桂文治となったのである。


どこか、六代目圓生の生い立ちと似たものを感じる。

 黒くて長い顔を持ち、四代目柳家小さんがつけた仇名が「写真の原板」または「茄子」といい、根岸に住んでいたところから「根岸の師匠」、または昭和二十二年以後、落語協会会長であったとことから「会長」、また桂の家元として「家元」の尊称を奉られていた。


 『古今東西落語家事典』では、この後に正岡容の、ちょっときつい小言が載っている。さん馬までは良かったが文治を継いでから“邪道に踏み込んだ”という指摘だ。
 まぁ、正岡容という人は、贔屓の引き倒し的な表現をする人なので、それは割り引いて考えて、良い面だけをとったほうが良さそうだ。

十八番については次のようにある。

 得意の演目は、『祇園会』『夜桜』『五人廻し』『縮み上がり』『ざる屋』『本堂建立』『鼻利長兵衛』『義太夫息子』『酒落小町』『猫久』といったものがあり、声色芝居噺としても父親譲りの『逸見十郎太』が残っている。


 いろいろ珍しい噺が並ぶが、この中の上方の『親子茶屋』を元にした『夜桜』は、音源が残っている。
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「落語蔵出しシリーズ(10)」(コロムビアミュージック)
 コロムビアから発売されている、かつての名人たちのSP盤の音源を集めた『落語蔵出しシリーズ』の第10巻に、約七分と短いながら『夜桜』が収録されている。

 これが、非常に結構。しっかりハメ物(三味線に唄)が入っており、ノイズも気にならない名人芸だと私は思う。

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立川談志/写真田島謹之助『談志絶倒 昭和落語家伝』(大和書房)
 『談志絶倒 昭和落語家伝』は、以前に紹介したことがある。2011年11月29日のブログ
 この本は、八代目文治の存在がなければ存在しなかった本だろう。「根岸の文治」を撮り続けた写真家の田島謹之助と談志の合作と言えるだろう。

まえがき、から。

 ここに写った噺家、この人たちが戦後、“落語ブーム”とまでいわせた時代も含めて、私たちに落語を伝えてくれた。伝授してくれたのである。
 で、この時代を背景に撮った写真、撮りまくった田島謹之助さん。この人もその頃、これまた奇人扱いされた部分もあったろう。
 八世桂文治に惚れ、人形町の寄席から高座を狙い、あげくは自宅に押しかけ、文治の素顔を、そして文楽、志ん生、三木助、小さん、馬生・・・・・・と追いかけた二千枚の貴重なフィルム。縁あって、これを受け継いだ立川流のお家元。
 写真を見て、眺めて、あれやこれやと当時を偲ぶ。そこで過ごした青春、今は亡き憧れし師匠連。思いつくままに書きとめておく。



この本で取り上げられている噺家を目次からご紹介。
-----------------------
六代目 三遊亭円生
三代目 春風亭柳好
三代目 桂三木助
八代目 桂文楽
六代目 春風亭柳橋
     桂小文治
五代目 古今亭今輔
八代目 三笑亭可楽
四代目 三遊亭円馬
四代目 三遊亭円遊
二代目 桂枝太郎
七代目 春風亭小柳枝
     昔々亭桃太郎
     林家三平
人形町末広、楽屋の記憶
十代目 金原亭馬生
三代目 柳家小せん
七代目 橘家円蔵
九代目 翁家さん馬
    三遊亭百生
二代目 桂右女助
八代目 春風亭柳枝
八代目 林家正蔵
二代目 三遊亭円歌
八代目 桂文治
五代目 古今亭志ん生
五代目 柳家小さん
あとがき
-----------------------

本書で、家元は「根岸の文治」について、どう書いていたのか。

 大阪でいう『親子茶屋』を『夜桜』と改題して売り物にしていた文治。その頃のさん馬。人気はあったらしい。いや。あったのだろう。つまり「『祇園祭』の文治」で売った。
 それが、私どもが聴くようになってからは、奇声を上げたりした。判りやすくいうと、“臭い落語家”。で、上手さは判らなかった。
後年、私がいくらか落語が判るようになってから聴いた文治は、人物描写がすばらしかった。つまり、上手いのだ。

 

 コロムビアから出ている談志の『ゆめの寄席』にも、八代目文治の『夜桜』が家元の解説つきで収録されている。実は、YouTubeで聴くことができる。いろんなものがYouTubeに載っているなぁ。興味のある方はネットで探してください。


 私は、SP盤を元にした、たった七分弱の音源に、八代目文治の味わいを感じた。家元が指摘するように、人物の演じ分けも見事だ。
 サゲの「博打はいかんぞ」の後にも三味線と唄が続く。その時、高座に文治はいなかったのか、それとも踊っていたのか。そういうミステリーも感じる音源である。ぜひ、ご興味のある方はお聴きのほどを。

 談志と田島謹之助さんの『談志絶倒 昭和落語家伝』という傑作を生み出すきっかけとなった八代目桂文治。命日に、田島さんが撮ったその長い顔を見、短いながら味わい深い“根岸の文治”の『夜桜』を聴きながら呑む酒は旨かった。
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by kogotokoubei | 2013-05-20 19:57 | 今日は何の日 | Comments(6)
午前中に野暮用があったので、末広亭に到着したのが一時少し前。落語協会のHPで本来の主任の扇遊の代バネが扇辰であることなどの代演や出番の変更を確認。小辰や出演時間が前倒しになった笑組を見逃したのが残念だが、それも縁。円十郎の『堀の内』の途中で会場に入り、次の小猫から下手の桟敷へ。

それぞれ出し物と所要時間、そして短い感想。良かったと思うものにをつけた。

江戸家小猫 物まね (10分、*12:52~)
 初である。四月下席の昼はお父さんが出ていたなぁ。芸は似ていたが、見た目は、そのお父さんには似ていないような気がした。やけに日焼けしている。ゴルフでもやるのだろうか。なかなかの芸で、会場は結構沸いていた。ぜひ祖父から三代の芸、しっかり継承していただこう。

三遊亭丈二 漫談 (13分)
 この人には、どうしても辛口になる。まず、ネタがいつもの二ツ目時代の名のこと、そして自分の病気になった時の話。別に内容が同じでも、それが聞くに堪えるネタになっていればよいが・・・・・・。この若さでマンネリ化したつまらない漫談ばかりでは閉口する。

入船亭扇里 『持参金』 (13分)
 初である。扇辰のすぐ次の扇橋の弟子、そして最後の弟子になるだろうが、扇辰とは少し年が空いている。三年前の真打昇進だが、その後に抜擢された一之輔、文菊、志ん陽と比べては可哀想ではあるが、相当力の差があると言わざるを得ない。
 噺は私の知っている型と違って、伊勢屋の番頭が酔った上で奉公人のおなべを孕ませ、隠居が持参金を番頭から受け取る前に八五郎の長屋におなべを連れてくる、という設定だが、この噺の可笑しさの基本は変わらない。しかし、客席は沸かない。この噺でここまで笑いがとれないというのでは困る。私はポッドキャストの音源の菊朗時代の菊志んの型を元に、テニス仲間との合宿での宴会で披露したことがあるが、大爆笑だった。それほど、ネタそのものが笑える噺なのだ。
 しかし、非常に真面目な高座だし、基本はある程度できているのだろう。兄弟子たちの高座をしっかり学んで、基本編から、ぜひ応用編に進んでもらいたい。

ホームラン 漫才 (13分)
 のいる・こいるの師匠である、てんや・わんやの「玉子の親じゃ~ぴよこちゃんじゃ~」や、順子・ひろしのネタの真似、そして客席から右(上手)のたにしが師匠であった三波伸介に、歌舞伎や新劇などいろんな舞台を見て勉強をするよう言われた、という話題から歌舞伎のネタを披露した。この二人の芸の奥深さを味わった、結構な芸だった。

柳家小ゑん 漫談&新作 (15分)
 実は初である。なぜか縁がなかった。電気屋の息子でハンダ付けが得意。「昔はハンダ付けができないと、秋葉原の改札を通れなかった。今は、メイドが出迎える」と嘆きのマクラから、短い鉄ちゃんモノの新作。会場は沸いていたが、この人の実力は寄席の15分では分からないようだ。別な機会にじっくり聴こうと思う。

春風亭一朝 『たがや』 (16分)
 若干だれた流れをしっかり締めてくれた高座。「旧暦の五月二十八日が、川開きでした」とふり、江戸っ子の威勢のいい啖呵で小気味良く噺を進める。やはり、こういう人が寄席には必要なのだ。
 この噺については、ずいぶん前に書いたので、興味のある方はご覧のほどを。2009年6月3日のブログ

林家正楽 紙切り (13分)
 最初の「相合傘」の後は客席の注文によって、「中間試験」「正楽師匠」「三社祭」「助六」と、いつもの見事な芸。「中間試験」という珍しいお題でも、しっかりとした作品だったのが印象に残る。

桂南喬 『替り目』 (16分)
 仲入り前はこの人。以前にも聴いたが、やはりこういう噺家さんの高座は寄席で必須である。志ん生版のように、おでんのネタでのくすぐりなどはないのだが、独自の選出も違和感なく交え、一朝、正楽から続く寄席の本寸法の芸の流れで後半につないでくれた。

入船亭扇治 『新聞記事』 (14分)
 本来のクイツキは扇辰。その代演で登場。以前、白酒の代演で聴いた時よりは、時間が深いことで気合いの入れ方も違うのだろう出来は良かった。しかし、代演の時のマクラは前と同じで「これもご縁。私が出ていない時に、ぜひ末広亭の前で大きな声で『扇治は出てないのぉ、そうか、だったら出直そう』と言ってください。これなら祝儀の金もいりません」というのは、ちょっとさびしいぞ。

三遊亭小円歌 俗曲 (23分)
 次の文生の楽屋入りが遅かったのか少し長めだったが、いつもの艶のある芸で、しっかり。志ん生や志ん朝の出囃子はうれしかったなぁ。締めのかっぽれも、結構でした。

桂文生 漫談 (18分)
 小燕枝の楽屋入りが遅れたのか、少し長めになったが、なかなか楽しかった。以前にも聴いた話もあったが、志ん生や小さんの逸話など、昔の落語界のことを語れる人が少なくなった今、この人の漫談も得がたいものになってきたように思う。「落語は明日やります」と言って下がったが、毎日、漫談でもいいじゃないか、と思った。

柳亭小燕枝 『権助魚』  (14分)
 こういう噺家さんが寄席を支えている。時間の関係なのかどうか、権助が魚屋で買う中に目刺しがなかったのが残念だが、聴いていてホッとする高座。その前の文生と二人で膝前を務めた、そんな印象だ。

翁家和楽社中 太神楽 (6分)
 「和楽がいない?」、そればかりが頭にあった。三人はそれ相応の芸だったし、ミスもなかったが、とにかくリーダーが不在なのだ。何かあったのか・・・・・・。

入船亭扇辰 『百川』 (30分、*~16:37)
 敢えてだろう、兄弟子の代演であることは、一切語らなかった。この人のこの噺は三月の白酒との二人会二席目以来。あの時は、一席目の『匙かげん』が良すぎた。今日は、代バネでの気合い、のようなものを感じた。兄弟子の代わりをしっかり。河岸の若い衆の切れ味の良い江戸弁のやりとりも結構だが、なんと言っても主役の百兵衛が秀逸。この人の百兵衛は、新たな存在感をつくっているような気がする。志ん朝とも、円生とも違う存在感、そんな印象だった。
 この噺についても、ずいぶん前に書いたことがある。ご興味のある方はご覧のほどを。2009年5月13日のブログ

 
 やはり寄席はいい、と余韻に浸りながら帰宅。帰宅後、我が家の二人(?)の犬たちと散歩した後、今日の出し物を振り返りながら一杯呑むうちに、そろそろいい気分になってきた。やっぱり寄席ですよ、寄席!
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by kogotokoubei | 2013-05-18 18:59 | 落語会 | Comments(4)
安倍や橋下は、「国際的」「グローバル」などと言うキーワードを頻繁に使い、英語教育の強化などを訴えるが、真に「グローバル」な人間は、「地球」的な視野で、国際法の観点や常識をわきまえてからモノを考え発言するものだ。
 もちろん、けっして個人的な見解を無防備にさらけ出して、海外との無用な緊張関係をつくるようなヘマはしないように努めるのが、「グローバル」な政治家である。

 いわゆる「河野談話」について、まず外務省のサイトから引用する。
外務省サイトの該当ページ

慰安婦関係調査結果発表に関する
河野内閣官房長官談話


平成5年8月4日

 いわゆる従軍慰安婦問題については、政府は、一昨年12月より、調査を進めて来たが、今般その結果がまとまったので発表することとした。
 今次調査の結果、長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したことが認められた。慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。
 なお、戦地に移送された慰安婦の出身地については、日本を別とすれば、朝鮮半島が大きな比重を占めていたが、当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた。
 いずれにしても、本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。政府は、この機会に、改めて、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる。また、そのような気持ちを我が国としてどのように表すかということについては、有識者のご意見なども徴しつつ、今後とも真剣に検討すべきものと考える。
 われわれはこのような歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい。われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する。
 なお、本問題については、本邦において訴訟が提起されており、また、国際的にも関心が寄せられており、政府としても、今後とも、民間の研究を含め、十分に関心を払って参りたい。


 「村山談話」と同様、日本という国の見解として、ある意味、“グローバル”に許容されているメッセージだと思う。

 しかし、“強制的な状況の下での痛ましいもの”という表現について、河野談話否定派は、いくつかの調査を根拠に「強制的ではなかった」と反論する。しかし、「慰安婦問題」は、“強制的”か否かを論議する別の次元で“グローバル”で判断されていることが、彼らにはまったく分かっていない。
 もちろん、この度の橋下発言や、それを擁護する老害石原の発言は、論外である。安倍も最初の安倍内閣時代に、失言で日本への信頼を著しく貶めたことがある。

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東郷和彦著『歴史認識を問い直す-靖国、慰安婦、領土問題』(角川ワンテーマ21)

東郷和彦著『歴史認識を問い直す-靖国、慰安婦、領土問題』(角川ワンテーマ21、2013年4月10日初版発行)から引用したい。

時は2007年のことである。

 3月16日の質問主意書に対する回答が決められる前の3月1日、ぶらさがり懇談で安倍首相は、「当初、定義されていた強制性を裏づけるものはなかった。その証拠はなかったのは事実ではなかったかと思う」という発言をした。なきさけぶ人を強制して連れてくる狭義の「強制連行」はなかったという趣旨の発言だった。
 ところが、この発言が「安倍総理は、慰安婦に対する(いっさいの)強制性を否定し、河野談話の修正を企図している」というAP電と翌3月2日の『ニューヨーク・タイムズ』の記事で報ぜられて以降、事態が一変した。
 私はこの時、アメリカ西海岸カリフォルニア州立大学サンタ・バーバラ校で教鞭をとり、5月には、同大学の長谷川毅教授と「日本の歴史問題」についての国際シンポジウムを準備中であった。
 安倍総理を慰安婦問題の「否定者」(denier)として糾弾する米国マスコミの論調は想像を絶してすさまじいものがあった。日本語の活字にするとどうしても表現できない、肌で感ずる不気味な「日本否定論」が突如として噴出した。



 安倍は、この時の失態を覚えているのだろうか。果たして橋下は・・・・・・。

 著者は、この年の五月に開催されたシンポジウムの後で参加したアメリカ人から、明確な指摘を受ける。

会合の後に議論に参加したアメリカ人から言われたことは、世界がこの問題を見る目がどこにあるのかを知るうえで、晴天の霹靂だった。
①日本人の中で、「強制連行」があったか、なかったかについて繰り広げられている議論は、この問題の本質にとって、まったく無意味である。世界の大勢は、だれも関心を持っていない。
②性、ジェンダー、女性の権利の問題について、アメリカ人はかつてとはまったく違った考えになっている。慰安婦の話を聞いた時彼らが考えるのは、「自分の娘が慰安婦にされていたらどう考えるか」という一点のみである。そしてゾッとする。これがこの問題の本質である。
③ましてや、慰安婦が「甘言をもって」つまり騙されてきたという事例があっただけで、完全アウトである。「強制連行」と「甘言で騙されて」気がついた時には逃げられないのと、どこがちがうのか。
④これは非歴史的(ahistorical)な議論である。現在の価値観で過去を振りかえって議論しているのだ。もしもそういう制度を「昔は仕方がなかった」と言って肯定しようものなら、女性の権利の「否定者」(denier)」となり、同盟の担い手として受け入れることなど問題外の国ということになる。
⑤解りやすい例でいえば、「建国のころアメリカは奴隷制を受け入れていたのだから、歴史的には奴隷制は当然の制度」という議論が、今のアメリカではまったく受け入れられないことは、日本人にも理解できるのではないか。「慰安婦制度は歴史的にやむをえなかった」という議論は、全くそれと同じに聞こえる。
⑥あなたは、河野談話を基礎に、謙虚な姿勢から発言していた。だから皆「レイプ・センターではない」というあなたの言わんとすることを我慢して聞いていた。この順序が逆だったら、何人もの人が席を立ったと思う。


 このシンポジウムに参加したアメリカ人の思いは、相当程度に日本以外の「慰安婦問題」について共通するものではなかろうか。

 日本人として、「慰安婦問題」について、「グローバル」視点で考えるために重要な言葉を太字で再度並べてみる。

 「強制連行」があったか、なかったかについて繰り広げられている議論は、
 この問題の本質にとって、まったく無意味


 慰安婦の話を聞いた時彼ら(アメリカ人)が考えるのは、
 「自分の娘が慰安婦にされていたらどう考えるか」という一点


 「強制連行」と「甘言で騙されて」気がついた時には逃げられないのと、
 どこがちがうのか


 「昔は仕方がなかった」と言って肯定しようものなら、
 女性の権利の「否定者(denier)」となり、
 同盟の担い手として受け入れることなど問題外の国


 「建国のころアメリカは奴隷制を受け入れていたのだから、歴史的には
 奴隷制は当然の制度」という議論が、今のアメリカではまったく受け入れられない

 「慰安婦制度は歴史的にやむをえなかった」という議論は、全くそれと同じに聞こえる

 安倍や橋下、そして石原には、「もし自分の娘が慰安婦にされていたら」という想像力は働かないのだろうか。

 かつて必然性があったから、という理屈は、紹介した奴隷制度と同様、まったく発言の正当性もなければ、国際政治の場での受容性を持たない。

 本書には2002年7月1日に発足した、オランダのハーグ国際刑事裁判所に法的基盤を与える1998年7月1日付の『ローマ規程』第七条が紹介されている。

「人道に対する罪」(g)項は、「強姦、性的な奴隷、強制売春、強いられた妊娠状態の継続、強制断種その他あらゆる形態の性的暴力であってこれらと同等の重大性を有するもの」を「人道に対する罪」の一部として明確に定義している。日本は、この裁判所に2007年7月1日に加入。


 これが、いわば“グローバル”な見解である。

「慰安婦問題」についてどのような理屈をこねようが正当化する政治家は、まったく「グローバル」ではない、ということである。河野談話を否定することの外交上の影響を、政治家は十分に認識すべきだ。また、国際法を含め、官僚は政治家に“国際的常識”を伝授すべきである。

 高市早苗や橋下、そして老害石原、加えて今のままなら安倍も含め、戦争で被害を受けた相手の国民の心情を慮ることができず、その発言の外交上の影響も考えずに、結果として国の信頼を損なう発言をする政治家には、黙ってもらいたいものだが、「沈黙は金」という日本的な知恵も、必ずしも「グローバル」な正当性を持たない。

 今こそ、官僚が政治家のブレーンとして口の軽い彼らを諌め、またサポートしなければならないのではなかろうか。しばらくは安倍自民政権は続くだろう。彼らに国際感覚を備えた“大人”としての振る舞いと言動をさせなければ、日本はそれこそ“グローバル”な常識の通用しない好戦的な国として、ますます信頼されない国に堕すのみである。
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by kogotokoubei | 2013-05-15 20:42 | 幸兵衛の独り言 | Comments(0)
雲助の落語会を中心に開催している席亭いたちやさんが、長丁場のシリーズを始めた会の二回目に行くことができた。

 会場の特徴も生かし、非常に凝った落語会だった。五街道雲助が得意とする『髪結新三』を、つけ打ちまでを準備し芝居仕立てでの上演。それにしても、会場は六割ほどの入り。大手興行会社の主催ではない、手作りの会だが、もう少し入って欲しい会である。
 会場にはホワイトボードにあらすじが張り出されていた。ご興味のある方は席亭さんのブログでご確認のほどを。「いたちや」さんのブログ該当ページ
 また、雲助グッズの販売コーナーもあり、手作り感のある、暖かな空気が漂う。そして、あの高座である。それだけに、空席の目立つ会場には、残念。

次のような構成だった。
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五街道雲助 『髪結新三 発端~葺屋町弥太五郎源七内』
 ・発端 紀伊國屋文左衛門(きのくにやぶんざえもん)
 ・序幕 第壱場 白子屋見世先(しろこやみせさき)
 ・第弐場 永代橋川端(えいたいばしかわばた)

(仲入り)

五街道雲助 『髪結新三 冨吉町新三内~深川閻魔堂』
 ・弐幕 第壱場 冨吉町新三内(とみよしちょうしんざうち) 
 ・第弐場 家主長兵衛内(いえぬしちょうべえうち)
 ・第参場 元の新三内(もとのしんざうち)
 ・大詰 深川閻魔堂(ふかがわえんまどう)

*つけ打 吉住誠一郎、下座 太田その社中
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 先に『髪結新三』について、その成り立ちを岡本綺堂『寄席と芝居と』の「柳桜と燕枝」から引用。旺文社文庫の『綺堂芝居ばなし』に収録されているが、今では青空文庫で読むことができ、ブログでの引用も簡便で大いに助かっている。
岡本綺堂『寄席と芝居と』(青空文庫)

 黙阿弥の作でしばしば上演を繰り返される世話狂言の一つに「髪結新三」がある。五代目菊五郎が初演以来の当たり狂言で、六代目も幾たびか舞台の上に復活している。書きおろしは明治六年、中村座の六月興行で、名題は「梅雨小袖昔八丈」という。原作は四幕十一場であるが、大詰の町奉行所などは初演だけにとどまって、再び舞台にのぼらない。
 誰も知るごとく、この劇の見せ場は二幕目の深川富吉町新三宅の場で、菊五郎の新三と中村仲蔵の家主長兵衛が大好評を博したのである。作としても黙阿弥の作中で屈指の傑作と称せられている。しかもこれは黙阿弥の創作ではなく、やはり寄席の高坐から移植されたもので、春錦亭柳桜(しゅんきんていりゅうおう)の人情話である。
 柳桜は名前を柳叟と云ったように記憶している。江戸末期から明治の中期にわたる人情話の真打株で、円朝ほどに華やかな人気はなかったが、江戸以来の人情話の本道を伝えているような、手堅い話し口であった。したがって、一部の人からは旧(ふる)いとも云われたが、その「四谷怪談」の如き、円朝とは又別種の凄味を帯びていた。かの「髪結新三」も柳桜が得意の読み物であった。私は麹町の万長亭で、柳桜の「髪結新三」を聴いたことがあるが、例の鰹の片身を分けるという件りは、芝居とちっとも違わなかった。して見ると、この件りは黙阿弥の創意をまじえず、ほとんど柳桜の口演をそのままに筆記したものらしい。ひとり円朝ばかりでなく、昔の落語家で真打株となるほどの人は、皆このくらいの才能を所有していたのであろう。


 なぜ、先のこの引用をしたかと言うと、前半のマクラで雲助も語っているが、この噺は、芝居が先ではなく、落語が先で芝居が後なのである。黙阿弥の芝居『梅雨小袖昔八丈(つゆこそでむかしはちじょう)』は、春錦亭柳桜の原作『仇娘好八丈(あだむすめこのみのはちじょう)』を元にしている。しかし、綺堂の文中にもある作者の春錦亭柳桜という名は、隠居してからの名で、現役時代は三代目麗々亭柳橋。ちなみに彼の長男は四代目柳橋、次男は講談師二代目桃川如燕、三男は五代目柳橋という芸人一家の長。綺堂の記憶は半分位は正しく、柳橋の名を長男に譲ってから柳叟(りゅうそう)を名のり、晩年高座に上がらなくなってから初代春錦亭柳桜と改名し隠居生活に入った。
*この経歴は『古今東西落語家事典』(平凡社)によるが、昨日は仕事の後で会場に行くまでの少しの時間に神保町に立ち寄り、この本を手頃な価格で入手できたのだ。落語家に関するWikipediaの内容の多くは、この書から引用されている。別な本を一緒に買ったが、値引きしてくれたN書店に感謝。

さぁ、珠玉の雲助の高座を振り返る。

五街道雲助『髪結新三 発端~葺屋町弥太五郎源七内』 (18:59-19:49)
 この前半部分を生で聴くのは、四年前「平成特選寄席」の三三以来。2009年8月27日のブログ
 なんと開演時間前に雲助登場。上述したように、この噺が春錦亭柳桜作であることは、五代目菊五郎の初演の際にも、しっかりと明記されていたと紹介。その後、紀伊國屋文左衛門の羽振りが良かった頃の逸話と二代目での転落、そして番頭庄三郎が白子屋として独立してからの、いろいろが解説され、お熊が店のために嫌な相手と結婚させられたが、番頭の忠七とできており、悶々としているところに新三が現れた。その日が旧暦ではあるが五月四日、節句の前日ということでのネタの選択。主催者も雲助も季節感をしっかりわきまえているのだ。
 ヤマは何と言っても、新三が、お熊と忠七の仲をとりもつように見せかけて、先にお熊を駕籠で新三の家に送り、忠七と二人で歩いていき、永代橋川端で“親切な人”が“極悪人”に変貌する場面。
 少しでも気分を味わっていただくため、いつもお世話になる「落語の舞台を歩く」から、円生の速記のこの部分を引用する。
「落語の舞台を歩く」の該当ページ

 その日の夕刻、和国橋に待たせた駕籠にお熊を乗せて新三の家に先に送り出し、忠七と新三は肩を並べて歩き出した。雨が降ってきたので、てりふり町で吉原下駄と一本の傘を買って履き替えた。相合い傘で歩き始めたが、なかなかの親切であった。新堀まで来ると、大降りになってきたので新三は尻をはしょって、一人で傘をさして先に歩き始めた。
 「新さん、待っておくれよ。濡れるじゃないか」、「濡れようが、濡れなかろうが俺の勝手だ。この傘は俺が買ったんだ」、「言い方が悪かったら、勘弁してくれよ。先に行かれたら家も分からないので、困るから・・・」、「何で俺の家に来るんだ。あの女は俺の女(いろ)だ。お前は道具に使っただけだから、ここから帰れ」。
 忠七は新三にしがみつくが、振りほどかれ突き飛ばされ、ぬかるみにドンと倒された。そこへ買ったばかりの吉原下駄で顔を叩かれ、血だらけで雨の中に行き場もなく、立ちつくす忠七であった。


 雲助は傘を「大黒の番傘」としていた。この雨の場面、場内が暗転する。そして、見る間に新三の表情が悪人のそれとなる。下駄で叩かれ血を流す忠七を尻目に去っていく新三、そして再び舞台が明るくなり次の場面へ。
 視覚効果も非常に結構。この後の抱え車力の善八夫婦の会話、そして善八が源七に助っ人を頼みに行く場面での善八のとぼけた味も、緊張した場面を程よく緩和させていた。さぁ、源七が新三のところに行くのだぞ、と期待させて前半終了。緞帳ではなく、定式幕が締められた。

五街道雲助 『髪結新三 冨吉町新三内~深川閻魔堂』 (20:02-21:00)
 仲入り後、舞台上手にはつけ打の場が用意されていた。源七親分が新三の家にやって来て、十両でお熊を引き渡せ、俺の顔を立てろ、と迫るが、「俺を誰だと思ってやがる。上総の刺青新三と言われた男。源七だとォ、大きな顔すんねェ。とっとと帰りやがれ」と十両を叩き返す。
 それを聞いていた大家の長兵衛が、源七を引止め、自分が三十両で仲裁しようと声をかける。さて、後半のヤマの一つが、この長兵衛と新三とのやりとり。紹介した岡本綺堂の文章で、黙阿弥の芝居の二幕目深川富吉町新三宅の場で、「菊五郎の新三と中村仲蔵の家主長兵衛が大好評を博した」と紹介されていた場面だ。
 原作者の柳桜もそうだったのだろうが、雲助、いわば菊五郎と仲蔵を一人で見事に演じ分けた。特に長兵衛の長科白では、会場からも大拍手。新三に輪をかけた悪人ぶりの長兵衛が、いいんだよねぇ。
 そして、最後のヤマ場である深川閻魔堂前。舞台は暗転。源七は新三にあちこちで意気地がないだの腰抜けだのと言いふらされたので、侠客としてのメンツを潰され恨みに思っていた。ある夜、賭場に新三がいることを知った源七が待ち伏せし、閻魔堂前の富岡橋で新三を殺す場面で、つけ打が活躍し下座の効果音もほどよい中、立膝で雲助の芝居がかった斬り合いが展開される。この場面は見てもらわなければその良さが分からない。言葉では説明できないなぁ。
 ようやく源七が新三を倒したところで見得を切って、いったん定式幕が締まる。しばらく静まっていた会場からは大拍手。そして、再び引幕が開き、雲助が頭を下げて緞帳が下りた。ここでも、大きな拍手が送られた。会場全体が、それまでの長い緊張から解きほぐされた、という感じ。あっと言う間の一時間だった。

 もちろん、今年のマイベスト十席の候補である。二席と数えず、企画として一席の大作と考えるべきだろう。


 私は歌舞伎には詳しくない。また、一度も生の歌舞伎を見たことがない。あの木戸銭を払うなら落語に何回行けるだろう、という勘定が働く。しかし、雲助の高座を見て、たまには芝居も見なければいけないな、と感じた。
 日本橋劇場という程よい器を生かし、照明、下座、つけ打という総合的な演出を利かした『髪結新三』に、寄席では味わえない感動を味わった。同じ噺でも、この会場だからこそ、雲助の背後に菊五郎や仲蔵をイメージできたように思う。一つだけ小言を言うなら雲助も、また席亭さんのサイトでも「河竹黙阿弥」という表現をされていたが、黙阿弥は、そう名乗るまでは「河竹新七」であって、「河竹黙阿弥」と称したことはなかったはず。まぁ、細かなことだけどね。
 余談ながら、この「河竹新七」も登場する小説として、松井今朝子著『幕末あどれさん』が楽しい。「銀座開花おもかげ草紙」全四巻の第一巻と位置付けることができるこの本も、最終巻『西南の嵐』も文庫化されて入手しやすくなった。主人公の久保田宗八郎は、第一巻で河竹新七に弟子入りするのだが、歌舞伎作者のことや舞台裏のことなど、この本ではずいぶん勉強になった。そのうち、この本やシリーズについて、何か書きたいと思っている。



 さて、今日演じられるこの噺は、六代目円生が春錦亭柳桜の速記を見て掘り起こしたと言われる。(三代目春風亭柳枝の速記、という異説もある)
 立川流の噺家さんも十八番にする人がいるが、ここ最近では雲助一門が積極的にかけている。六月にも文化庁芸術祭の新人賞受賞記念落語会で馬石が師匠とリレーで演じるようだ。雲助一門には、新たな『髪結新三』の一席も期待したい。なぜなら、原作はもっと長いのである。

 円朝や燕枝、そして柳桜が活躍した頃は、長編の人情噺を日を分けて演じることが多かった。大岡越前が実際に裁いたと言われる実話「白子屋政談」に基づくこの春風亭柳桜の原作「仇娘好八丈」(あだむすめこのみのはちじょう)も、全十四席の長編。それを黙阿弥は四幕に凝縮した。
 原作に興味のある方は、「落語の舞台を歩く」に原作も紹介されているので、ご確認のほどを。 
「落語の舞台を歩く」の該当ページ

 居残り会はなかったが、十分に雲助の至芸に酔いながら帰宅した。帰宅後のビールも頗る旨かった。
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by kogotokoubei | 2013-05-14 23:57 | 落語会 | Comments(2)
昨年亡くなった藤本義一の直木賞受賞作『鬼の詩』を自宅近所の古書店で探したが見つからず、近いうちに神保町で探索するつもりでいたら、何とうれしいことに河出文庫で4月に他の短編を含めて発行されていたのを見つけて読了したところである。

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藤本義一著『鬼の詩/生きいそぎの記』(河出文庫)

 読み終わっての正直な感想が、「もっと早く読むんだった!」ということ。しかし、出会えて良かった、という思いも大きい。

 「11PM」での印象が強く、作家藤本義一が上方の芸人についてこれほどの名作を書いていたことを知るのが遅かった、と反省しきりである。

 『鬼の詩』はもちろん傑作だが、川島雄三監督の『貸間あり』で、監督と一緒に脚本を書いていた当時の記録とも言える『生きいそぎの記』も結構だし、漫才の師匠の影武者役を務めた男を主人公にした『贋芸人抄』も、寄席の下座や夫婦漫才の相方役を経て、劇的な最後をとげる一人の女性の人生を描いた『下座地獄』も印象的だ。また、1988年に下北で開催された「川島雄三映画祭」での講演記録も貴重である。

 要するに、収録された全作品が短編とはいえ、充実した内容だったし、作者の洞察力と表現力に感心した。河出に感謝!

 『鬼の詩』は、実在した上方の噺家である桂米喬(二代目)をモデルに、桂馬喬という名の一人の芸人の姿を描いている。内容は米喬のさまざまな逸話をベースにしており、その中でも彼の人生で大きな転機をなったのが、天然痘にかかり、その顔が大いに変わったことである。

 その日の夕刻、彼は意識不明のまま、天然痘の疑いで河内の施療院に隔離され、その翌日には、激しい疼痛が起り、その高熱の中で天然痘特有の麻疹が下腹部や大腿部の内側に散らばり、真性と診断が下されたのだった。
「馬やんがミッチャになりよったんやて・・・・・・」
 楽屋は上を下への騒ぎになった。消毒と焼却がはじまった。
「ミッチャの神さんの札を祀れや、なあ」
 天然痘で面貌が無茶苦茶に崩れるところから滅茶を訛ってミッチャと呼んだ。

 馬喬の全身に赤色の斑点が小さく散らばり、そのひとつひとつが盛りあがり、真ん中あたりが窪んで、丘疹になった。
 殺風景な窓ひとつない病室で、熱が退き、衰弱し切った馬喬は己の腕、腹、大腿部の赤い丘疹が次第に水を含んで柔かくなり、、その透明に近い水が濁った膿液になっていくのを観察していた。
「わいは、これでミッチャになっていくわけや」
 怯えは一切なかった。彼は冷静に変貌していく己の五体を見守っているのだった。


 “ミッチャ”によって変貌した姿について、著者の描写が何とも印象的である。

 夏の終り、瘡蓋(かさぶた)がぽろぽろと落ち、指先で顔を撫でてみると、破れ唐紙のような乾いた感触があった。頬から顎にかけて指先を這わせてみると、そこは虫の食った舟板で、額は細工の下手な閾(しきい)であった。毬(いが)のように指先にちくりとくる部分もあった。
「看護婦さん、鏡を見せとくなはらんか」
 これが馬喬が入院してから他人に放った第一声であった。
 看護婦は躊(ためら)って。彼が歪み窪んだ顔を見たなら絶望するか、悪くいけば発狂するのではないかと思ったのだ。彼女は、馬喬が、異常な芸人であると仲間うちから噂を仕入れていた。
「わい、他人(ひと)さんに見せる前に己の顔をじっくりと眺めとおますのや」
 と、いった。
 看護婦から手鏡を受けとった馬喬は、廊下から差し込む明りの中で、己の面をじっくりと眺めた。想像以上に歪み、肉は痙(つ)れて、窪みは深く、黒い赤と茶が垢と膿汁の乾いたあたりを色彩っていた。



 さて、退院し、仲間が持ってきてくれた、藍一色で染められた絹紬(けんちゅう)の袷(あわせ)を着て街に出た馬喬。

 黄昏の道頓堀に立った。藍が、ひらりと裾の方で舞い、堀の風にも秋の気配が感じられたのだった。
「あ、鬼や!」
「鬼が出たァ」橋の下で小鮒を掬っていたらしい子供たちが、馬喬を指して叫ぶと、一目散に逃げ出した。
「鬼かいな。追いかけたろか。これが、ほんまの鬼ごっこやで・・・・・・」と、馬喬は微笑で見送った。文我の鬼を真似た時は、誰も「鬼」とは思ってくれなかったのに、ただ立っているだけで鬼と呼ばれる皮肉さを噛みしめたのだった。
「鬼・・・・・・鬼か・・・・・・」
 ふっと視線を動かぬ水面に投げた。まだ四十には間がある己の過去を、何百年もの道程を歩んできたかのように縹渺(ひょうびょう)の思いで眺めている自分を覚えた。遠く、櫓音(ろおと)が聞える。音はただひとつ、その他、諸々の音は消え失せていた。
 水面の少し上に透明な羽を小刻みに顫わせている蜻蛉が一匹いる。時たま、思い出したように、体を折り、水面に近付き、尾の先で一刷け水脈を入れて、水を吸い上げた。
「芸とはあんなもんや・・・・・・」
 馬喬は小さな昆虫の動作に、芸の本質を見た思いだった。弱い羽で空中にとどまっていなければならぬ。そして己の欲求のために、水面に降りねばならぬ。が、欲を大きく求めて羽を濡らしてはならぬ。そこに、馬喬は芸を見たのだ。



 馬喬は、自分のあばた面を武器にした。鬼が主役の噺で勝負をかけ、人気を博す。彼は、自分のあばた面をも芸の素材にする。そして、その馬喬の最後は・・・・・・。

 子供が病気の時や、若くして亡くなった妻の露の弔いの仕方なども含め、馬喬の行動には、少し“引ける”表現もないではない。しかし、それ以上に、著者の文章の深さ、表現の巧みさにどんどん惹き込まれた。

 他の三篇と下北での講演の記録のことも、後日書きたいと思う。特に『生きいそぎの記』は、川島雄三に興味のある方は必読。ぜひ、あらためて紹介したい。

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関山和夫著『落語名人伝』

 関山和夫著『落語名人伝』から、明治時代、上方落語界華やかなりし頃に活躍した噺家と得意ネタが書かれている部分に、桂米喬の名もあるので紹介したい。

 「桂派」「浪花三友派」が対抗して芸を競ったころ、一体噺家たちはどのような噺を演じていたのであろうか。前田勇著『上方落語の歴史』に番付などによる名人・上手の十八番が掲げられている。実に興味深い。それによれば、「桂派」では、二代目文枝は素噺、二代目文三は「百年目」「掛取り」、二代目南光は「稽古屋」「先の仏」「猿回し」、燕枝は「ない物買い」、談枝は「軒付け浄瑠璃」、万光「一休」「松茸山」「背虫茶屋」、二代目梅光はオッペケペー節、小文枝は「質屋蔵」「後家殺し」、枝太郎は「理屈按摩」「土橋万歳」、枝雀は「船弁慶」「野崎参り」、扇枝は「掛取り」、文屋は「辻八卦」「書生車」、伯枝は「立切れ線香」、三五郎は「春雨茶屋」「密合酒」<以上の人々の亭号は、すべて「桂」>、林家花丸は「新辻占」、五代目林家正楽は「鉄砲勇助」、笑福亭福助は「米揚げいかき」「口合小町」などであり、「浪花三友派」では、月亭文都が「背虫の住吉参り」「当世浮世床」、笑福亭福松が「紙屑選り」、笑福亭松光が「反魂丹」「化物長屋」「引導鐘」、艶文亭かしくが「たちぎえ」「辻占」、二代目桂文団治が「野崎参り」「三十石」「佐々木信濃守」、二代目桂米団治が「五人裁き」「三人兄弟」「立切れ」、二代目桂米喬が「鋳掛屋」「胴乱の幸助」、桂梅団治が「乙女狐」「稽古屋」、桂篤団治が「綿屋の火事」、三代目笑福亭松鶴が「大塩」、三代目笑福亭松竹は素噺、五代目笑福亭吾竹は「清水景清」、桂文我は「愛宕参り」「按摩芝居」、曽呂利新左衛門は「下の関水」「虱茶屋」などである。


 
 「鋳掛屋」「胴乱の幸助」が十八番というモデルの米喬と、『鬼の詩』の桂馬喬との間にギャップがあるが、これは藤本義一が馬喬という主人公の姿をつきつめた結果の創作と言えるのだろう。本寸法の上方落語が十八番では、馬喬という人間像は輝かないし、狂的とも言える芸人の姿が強調されない。

 Wikipediaでは二代目桂米喬について、このように書かれている。
Wikipedia「二代目桂米喬」

 21歳の時、天然痘に罹り、あばた面であったため「鰐皮」とあだ名された。十八番は『鋳掛屋(いかけ屋)』だったが、噺が終わると立ち上がり、三下がりの『逢いたさ』を踊り、ぶら下がっている電球を舐めるなど、そのおかしさは抜群だったらしい。

初代桂春團治が芸の目標としたほどの爆笑派で一時3代目米喬の襲名をもくろんでいたが実現しなかった。

三友派内の人気者であったが、死去の前日に3軒の寄席を掛け持ちし、「辻八掛」「崇禅寺馬場」「小倉船」を演じたのが最後で、その翌日、脳溢血で若くして亡くなった。


 天然痘のことや「電球舐め」は小説でも踏襲されているが、その人生の最後の状況はモデルの米喬と馬喬では大きく違う。しかし、その馬喬の最後は書かないでおこう。ぜひ、本書を読んでいただきたい。

 私は未見だが、『鬼の詩』は桂福團治の馬喬役で映画化されている。女房の露役は、なんと片桐夕子である。ぜひDVDかVHSで見てみようと思う。(我が家には、まだVHSがあるのだ)
映画『鬼の詩』


  昭和8(1933)年生まれの藤本義一は、33歳の昭和41(1966)年から25年間に渡り「11PM」の司会を務めた。『鬼の詩』は、この司会役をしていた昭和49(1974)年の作品で、『生きいそぎの記』以降で四度目の候補作での直木賞受賞だった。当時、41歳である。
 あまりに「11PM」のイメージが強く、本書を読んで、そのイメージとの落差を強く感じた。間違いなく一流の作家である。

 やや作品との出会いは遅かったが、今後もぜひ上方芸人を描いた藤本作品を読みたくなった。
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by kogotokoubei | 2013-05-13 19:16 | 落語の本 | Comments(4)
 昨年11月以来の銀座の喜多八の会。当日券の案内がエレベーター脇に貼られていたが、たしかに、これまでに比べて空席が目立った。それでも八割以上は埋まっていたように思う。結構真ん中あたりでまとまった空席があったのは、団体さんでのドタキャンか・・・・・・。受付で配布されたチラシの束の中に過去のネタ一覧があったのは、悪くないなサービスだ。
 そして、開演前と仲入りのBGMも良かった。曲名を書くと差しさわりがある(白酒が言っていたのだが、ブログで落語会のBGMの曲名が書かれているのを見つけ、JASRACから問合せがあったらしい)ので、私が好きなあのテレビの時代劇のエンディングテーマ、とだけ書くことにしよう。

次のような構成だった。
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(開口一番 瀧川鯉八 新作)
柳家喜多八 『唖の釣り』
柳家喜多八 『三人旅-びっこ馬-』
(仲入り)
太田その&松本優子 唄と三味線
柳家喜多八 『猫の災難』 
----------------------------- 

瀧川鯉八 マクラと新作 (19:01-19:19)
 主催者から三か月前に、「喜多八師匠のご指名で」と開口一番役の依頼があったが、一度も高座を聞かれたことはないはずで、鯉昇一門の他の弟子と間違ったのでは、と思った云々のマクラから、妙に無駄な間のある新作を二席。本当に間違ったのかどうかは分からないが、喜多八は師匠鯉昇から「不思議な男」で「ホームランか三振か」と聞いていたようだが、いわばこの高座は三球三振。この人、不思議な魅力はあるのだが、そろそろそういったイメージに頼るような姿勢を正す必要があるだろう。いくら“フラ”があるなどと言われたところで、基本ができて、それからなのだから。分かりにくさと不気味さの漂う高座だった。しかし、それでも笑ってくれるゲラ子さんゲラ男さんが多かったなぁ。

柳家喜多八『唖の釣り』 (19:20-19:43)
 マクラで鯉八のことを少し語って、寄席ではなかなかできない噺と二席目のマクラで語ったこの噺へ。
 内容は、これぞ生の高座でしか味わえない「見る」高座を、顔の表情や仕草で表現たっぷりに演じて会場が笑いの渦となった。特に最後のヤマ、七兵衛が表情と手振りで寛永寺の寺侍に池で鯉を釣っている理由を説明する場面は秀逸。
 元は上方ネタで八代目正蔵が二代目桂三木助から伝授されて移植したらしいが、当初から「不忍池」と言わず、「寛永寺の池」と言っていたようで、喜多八も踏襲した。なぜ「不忍池」と明確に言わないのかは勉強不足で不明。大阪は天王寺の池だが、寛永寺の池には、しっかりとした名前があるのだから固有名詞でもよいように思う。

柳家喜多八『三人旅-びっこ馬-』 (19:44-20:07)
 いったん下がって、羽織を脱いだまま再登場。師匠小三治から三席ほど稽古をつけてもらった頃、「そろそろ脇へ行っていい」と言われ、他の師匠に稽古をしてもらうようになった、とのこと。この噺は金原亭馬好から伝授されたようだ。さすがに談志に習いに行こうとは喜多八も思わなかったということか。
 喜多八の田舎言葉は、結構好きだ。馬方が江戸っ子(馬方に言わせれば「いどの人」)をからかうところに、このネタの楽しさがあるが、主従逆転の趣があって好きだ。馬方の唄「馬は豆は好き 馬子は酒が好き 乗せたお客様は女郎が好き」も、何とも可笑しかった。
 一席目、二席目と寄席ではなかなか出来にくい噺が続いた。三席目のマクラで、「なかなか寄席では難しいん多ですが、昔習ったものですから、まぁいいかとやってみました」とのこと。言いでしょう、これも落語。だから、詳しい筋書を書こうとすると、いわゆる“放送禁止用語”が並ぶことになる。ぜひ、いつもお世話になる「落語の舞台を歩く」のサイトでご確認のほどを。談志家元の内容を元に、下記のような馬方の符牒なども説明してくれている。
「落語の舞台を歩く」サイトの該当ページ

■符丁;ヤミ=3、(闇とも)陰暦の月の三十日は闇夜なので、3・30・300などの数。
    ジバ=2、かごかき、馬方の符牒で、2をいう。20、200などの数。
 では、1~10までを馬方は、1=おじ、2=じば、3=やみ、4=だり、5=げんこ、6=ろんじ、7=せえなん、8=ばんどお、9=きわ、10=どて。業界隠語ですが、地方によっても変わってきます。


 駕籠かきもほぼ同じ符丁のようだが、「やみ」=「3」は、旧暦で暮らしていたからこその符牒である。だから、知っておくと落語の愉しみも増えるのだよ、旧暦は。

太田その&松本優子 唄と三味線「寄席の一日」 (20:23-20:42)
 このお二人は、二年前の秋(11月7日)の会でも登場していた。
2011年11月8日のブログ
 「昔の寄席の一日を体験していただきましょう」と、いつもは御簾の内で高座を支えているお二人が結構な唄と三味線を聴かせてくれた。
 登場した出囃子は次のような内容だった。五代目志ん生親子三人の出囃子が入ったのが嬉しかった。
 ○前座の上がり
 ○老松(志ん朝)→天国ではまだ二ツ目でしょうとこの順。少し涙腺がゆるんだ・・・・・・。
 ○武蔵名物(十代目文治)
 □序の舞(五代目小さん)
 □琉球節(先代、当代の林家正楽)
 □勧進帳(紙切りで弁慶の場合)
 △藤娘(同様紙切りのBGM)
  *○が二上がり、□が本調子、△が三下がり、と説明あり。ほう、そうなんだ・・・・・・。
   まったく素養のない私は、ただ、頷くのみ^^
 ・おいとこ(四代目柳好)
 ・鞍馬(馬生)→馬生一門に断りもなく談春が使っているのは、礼を失しているぞ!
 ・一丁入り(志ん生)
 この後、“ひざ”が太神楽の場合のいくつかの曲を披露。「数え唄」の寄席版、よく聴く。
 撥(ばち)の組どりの曲は、「米洗い~きぬた~千鳥」と三つをつないでくれた。これもよく聴く。
 二人でしっかり息も合って達者なもんですなぁ。
 さて、トリは、とふって特定の誰かの出囃子をやると差しさわりがある、と言って「皆さんでお好きな方の出囃子を想像してください」とのことで、「中の舞」を弾くことなく締めた。贅沢な顔ぶれの結構な「寄席の一日」でした。

柳家喜多八『猫の災難』 (20:43-21:20)
 寄席の十日間は、どうしても呑んでしまう。楽屋で臭いにおいの噺家に「お前、酒が残っているよ」「えっ、どこに」(と辺りを探す)というネタは、リアルで可笑しかった。昔は酒屋によって出す酒も違っていたなどのマクラからネタ出しされていた三席目へ。
 柳家伝統のネタ。これまた上方がルーツで三代目小さんが東京へ移植。ちなみに志ん生は『犬の災難』に替えて演じており、先日白酒で聴いた。今後、古今亭は“犬”ということになるのかどうか。柳家はもちろん“猫”で継承されているが、権太楼も聴いたことがあるが、私は四年半近く前、今はなき前進座で聴いた小三治の高座が、未だに忘れられない。
2008年11月1日のブログ
 特に“下戸”の小三治が、なぜこんなに酒飲みを見事に演じることができるのか、と衝撃を受けたのだった。三代目小さんも下戸だったらしい。配布されたプログラムの裏に、落語作家の本田久作が書いている。

三代目は手銭で目下の者に奢り、酔っていくさまを観察したという。喜多八の私淑する三代目の悪口は言いたくないが、これはあまり趣味のよい酒ではない。共に飲み、共に酔い、共に方言し、共に恥をかくのが酒なのに、下戸にはその機微が分からないのだ。大方、酒を毒か何かだと思っているのだろう。三代目を天才と絶賛した漱石も下戸で、だからなのか、吾輩の猫は酔っ払って溺死した、と書いている。


 この部分はなかなか楽しい。お題が“「ねこさい」と「やなきた」”とついており、落語通はこの噺を縮めて「ねこさい」と呼ぶらしいとあるが、私はそんな呼び方はしたくない。何でも縮めて言う傾向が嫌いだ。
 ただし、この日の開演前のロビーで、常連と思しきお客さん同士の会話の中で「ねこさい」と言っているのを耳にした・・・・・・。

 さて、喜多八の高座。ご本人には誠に申し訳ないのだが、どうしても師匠小三治と比べてしまう。熊五郎の酔い方も悪くはない。畳にこぼしてから「歯のすき間から吸い出すか」とスーッスーやるクスグリもなかなか楽しい。しかし、そこには、本当に酔っ払った喜多八が見えており、熊五郎には見えないのだ。
 どうも、上戸より下戸の方が酔っぱらいの演技が上手い、という説は成り立ちそうだ。それは、酒の席で冷静に酔っ払いを観察することができるからなのだろう。上戸は、周囲が酔っている時は、自分自身もそうなっているのだから、観察されることはあっても逆は難しい、ということだろう。きっと。


 この日の三席、「鯉」「馬」「猫」と言う動物シリーズとも言えるが、三席目を動物虐待ネタと解釈すれば、別な言い方もできるかもしれない。しかし、思うにネタ出しされた『猫の災難』のみ予め決めておいて、残る二席は三席目との関係性はなく、一席目と二席目の関連を意識して選んだような気がする。それにしてもこの会は、結構ゲラさんや、チラシめくりオジサンがいて、ノイジーな雰囲気なのが気になるなぁ。
 終演後、真っ直ぐに帰ればいいものを、つい喜多八の高座に刺激され、新橋駅前の居酒屋に一人で入ってしまった。いわば、一人居残り会。炙り〆鯖と烏賊の塩辛なんぞで広島の地酒をやって帰ると、帰宅は日付変更線を回る直前になった。締めのビールが欲しくなり連れ合いと呑んでいるうちに日付変更線も越え、ブログをつけ始めたのだが寝る前に書き終わることはなかった。今朝、猫が〆鯖をくわえて私の顔をひっかいていった夢を見たのは、一緒に寝ている愛犬が「起きろ」とばかりに私の顔の上に乗っかったからに違いない。
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by kogotokoubei | 2013-05-09 00:15 | 落語会 | Comments(2)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛