噺の話

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野暮用があって早めに浅草散策のつもりが、浅草駅から会場に向かう途中でおにぎりを買い、見番に着いたのが開演約20分前。
 すでに結構な埋まり具合で、列で言えば7列目位の空いたスペースに自分で座布団を敷いて場所を確保。固定ファンが多い、よく拝見する顔ぶれが、あちらこちらに。

次のような構成だった。
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開口一番 林家つる子『手紙無筆』
柳亭市楽  『真田小僧』
五街道雲助 『品川心中』
(仲入り)
五街道雲助 『よかちょろ~山崎屋』
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林家つる子『手紙無筆』 (13:50-14:02)
 冒頭、携帯電話の注意をするのはいいのだが、鈴本の前座の携帯注意のパフォーマンスをマクラのネタとして語るのは、彼女のキャリアやこの会のベテラン落語愛好家の多い客層などから考え適切とは言えないだろう。まだ、思いつきの逸話などでマクラをふる時期ではない。大学落研→策伝大賞出場→正蔵入門・・・・・・本当に噺家として修業をする覚悟があるのか、それとも根岸を芸能事務所と見立てて芸能人としての将来も選択肢として残しているのか、疑問だ。女流落語家で可愛いい、というだけで生き残れる世界ではない。少しきつい小言になるが、高座は落研の域を出ていない。

柳亭市楽『真田小僧』 (14:03-14:17)
 市朗の前座時代の好印象があるので、どうしても期待が高すぎるのか、市楽になってからの高座に不満を感じる。三三の会で手伝いに来た落研の女子学生の市楽と三三への態度の違い、という逸話をマクラでふったが、ネタに無関係な、それほど面白くもない内容だった。本編も、この噺で按摩の服装のことを抜かしてはいけない。「白い服に黒メガネ、ステッキをついた男」が、父親の留守に来て、母親が喜んで家に上げたからこそ、父の疑惑と焦燥が募るのである。精進してもらおう。

五街道雲助『品川心中』 (14:18-14:55)
 江戸は男が圧倒的に多い土地であり、そのために流行った廓のことや夜鷹のことなどを説明。本所の吉田町は夜鷹がたくさん居た場所のようで、川柳「吉田町 二つやらせて 三つ喰い」を紹介。夜鷹の一回が二十四文、蕎麦が十六文ということである。私は、同じような内容で「客二つ つぶして 夜鷹三つ食い」というのを知っているが、さて、どっちが下品かなぁ^^
 本編は私の勝手な予想に反して通しではなかった。お染が金づるができたので、結局一人先に品川の海に飛び込んでひどい目に遭った貸本屋の金蔵(『幕末太陽傳』の小沢昭一さんをイメージして聴いていた)が、博打をしていた親分の家に幽霊のような姿でやってきた後の、サゲ前の騒動に、雲助ならではの工夫があって楽しかった。
 金蔵が来て、明かりをつけようとした親分に火打石の代わりに渡されたのが鰹節、というのも結構受けていた。
 慌ててサイコロを二つとも飲んでしまった若い衆が、悶絶しながらサイコロを吐き出した後で、「やっぱり、半だよ!」も可笑しい。
 はばかりから出てきた与太郎の場面でサゲ。通しと思って聴いていた身には唐突に思えたが、なかなか楽しい高座だった。

五街道雲助『よかちょろ~山崎屋』 15:07-16:09)
 二席ともネタ出しされていたが、『品川心中』が通しではなかったので、どんな構成になるか楽しみだった。この噺は、数年前の菊之丞、そして今年池袋演芸場で三遊亭萬窓で聴いており、三度目。
 廓噺が続くが、マクラのネタの引き出しも豊富。吉原のガイドブック「吉原細見」で「入り山形に二つ星」のついた花魁が最高級との説明。花魁の遊び代が、昼夜で三分に新造がつく。その新造にも番頭新造、留袖新造、そして振袖新造といたことなど、学校では教えない吉原のお勉強をあっさりとふって、本編へ。
 もともとの長い噺の前半部分を初代三遊亭遊三が『よかちょろ』として独立(?)させて、このネタと二つの噺になったと聞く。『よかちょろ』は、もちろん八代目桂文楽の十八番。雲助は、この『よかちょろ』も披露して、一時間を越える長講を、まったく飽きさせなかった。
 登場人物も多く、サゲも今日では分かりにくい。だからマクラで江戸時代の廓のことを説明する必要もある、という難しいネタだが、流石の雲助。このネタの鍵を握る番頭久兵衛、山崎屋の主人、若旦那、花魁を預かってもらう棟梁(かしら)、そして、花魁などをしっかり演じ分ける。
 まず、前半の『よかちょろ』部分が楽しかった。
 若旦那が回収に行った二十両の使い道は、まず床屋代で五両。花魁の部屋に床屋を招いて、新造もはべらして髭を当って、皆に小遣いを払えば、床屋も高くつくわなぁ。そして、残り十五両が「よかちょろ」代。もちろん、“物”ではない。これから流行るだろう“唄”というか“芸”だね。父親に言われて披露する若旦那。
「女ながらも、まさかのときは、ハアよかちょろ、主に代わりて玉ァ襷(たすき)ィ、よかちょろ、すいのすいの、して見てしっちょろ、味見ちゃよかちょろ、しげちょろ、パッパ・・・・・・」。
 雲助の唄と手振りに会場は大爆笑。
 後半で聴かせたのは、若旦那と久兵衛の会話。久兵衛が花魁と若旦那を夫婦にするための狂言をひねり出す前の、若旦那が久兵衛が妾をかこっていることを暴露する場面も楽しいし、久兵衛が秘策を語るくだりも結構。久兵衛の秘策に喜ぶ若旦那が、「番頭、耳をお貸し」「へぇ」と久兵衛が差し出した耳に、大きな声で、「エライ!」で会場は大爆笑。私も可笑しくて涙が出そうだった。
 マクラでの「廓の勉強」は、最後のこの会話に生きてくる。山崎屋の旦那、元は花魁とは知らず持参金(それも元は自分のお金^^)の三百両に目がくらんで道楽息子の嫁にしたお花との会話だ。
「お前のお勤めしていた大名様はどちらだね」
「北国ざます」
「加賀様かい。道中もするのかい」
「するんざます。暮れ方に出て、武蔵屋ィ行って、伊勢屋ィ行って、大和の、長門の、長崎の・・・・・・」
「おいおい男の足だってそんなに歩けない。諸国を歩く六部、足の達者が飛脚と天狗・・・・・・。お前には六部に天狗が憑いたんだな」
「いいえ、三分で新造がつきんした」でサゲ。
 前半に『よかちょろ』も楽しませてくれたので、一席で二席聴けて得した高座、文句なく今年のマイベスト十席の候補とする。


 終演後は、我らが「居残り会」のリーダーSさんと、紅一点Mさんと三人での「居残り会 分科会」。落語の話など酒の肴は、このお二人だから尽きることはない。木馬亭の浪曲を聴きに行かれるMさんと別れた二人は、Sさんが昔行ったことのあるお店で二次会。無口な職人気質親子の営むお店の絶品おでんで話は弾む。

 土曜の昼席とはいえ、その後が“夜席”にかかった。帰宅後はブログどころではない。翌日夕方になって、ようやく思い出しながら書いているのであった。しかし、雲助、良かったなぁ。
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by kogotokoubei | 2013-03-31 16:59 | 落語会 | Comments(6)
一昨年は、震災直前の3月1日に池袋で開催だったことを、思い出す。芸術劇場の改装後も昨年同様に国立演芸場での開催となった。会場は七分ほどの入り。何とも言えない気持ちだ。チケットが取りにくくなっては欲しくないが、もう少し入って欲しい、という複雑な思い。

 前回までは、過去のネタがプログラムに記載されていたが、今回はなかったなぁ。
 昨年のブログを元に、過去五回の演目を並べてみる。2012年3月28日のブログ

①平成20年3月15日 花見酒・雪とん・三十石
②平成21年4月 1日 百年目・柳田格之進
③平成22年4月 5日 雪てん・青の別れ・花見の仇討
④平成23年3月 1日 盃の殿様・夢金・景清 
⑤平成24年3月27日 花見小僧・刀屋・しじみ売り

 昨年の『しじみ売り』は良かったなぁ。一昨年は、三席とも素晴らしかった。

 さて、今回は、どんな「雪月花」で楽しませてくれるのかを楽しみに隼町へ。

 次のような構成だった。
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開口一番 柳亭市弥『高砂や』
柳家小満ん 『崇徳院』
柳家小満ん 『ねぎまの殿様』
(仲入り)
柳家小満ん 『佃祭り』
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柳亭市弥『高砂や』 (19:00-19:16)
 1月の月例三三の開口一番以来だが、ネタも同じなら、マクラもほぼ一緒。しかし、イイノホールの三三ファンよりは、暖かい笑いと拍手があった。小満んファンは懐が深い^^

柳家小満ん『崇徳院』 (19:17-19:43)
 マクラもそこそこに本編へ。とにかく、熊さんが絶品。随所に江戸の職人ならではに科白が巧みに挟まれていた。若旦那の病が恋患いと知り、笑わない約束なのに大笑いした後の科白、「そんな古風な病をどこで背負い込んできました」などが、まさにサマになる。また、「崇徳院」を「人喰い」と言ったり、若旦那も旦那も美人のことを「水もたれるような」と表現するのだが、熊が「あ、それそれ水たれ女」とまぜっ返すのも可笑しい。
 若旦那が一目惚れした謎の女性を、床屋や湯屋を探し歩いている場面で、空いている床屋から帰ろうとする熊を呼び止めるのに対し、「混んでいる所、つっかえている所を探して歩いている」と言うと、床屋が「どぶ掃除みたいな人だね」も効いている。
 この噺は、初代桂文治作なので、もちろん上方がルーツ。上方版では、若旦那と“水たれ女”お嬢さんとの出会いは高津(『高津の富』の舞台でもある)や生玉明神で、別れ際にお嬢さん自らが「瀬をはやみ~」の句を書いて若旦那に渡す。東京版になった時に誰かが創作したのだろうか、小満んは、上野の清水様の桜の枝に結んでいた短冊が、ちょうど落ちてきたのをお嬢さんが拾って渡す、と変えている。このへんは好みもあるのだが、私は、自ら書くほうが好きだ。そこに、女性の若旦那への「謎かけ」を含む意思表示が明確に表れていると思うからだ。しかし、そういった女性の出すぎた行為よりも、偶然短冊が落ちてきた、という“縁(えにし)”の方に軍配を上げる人も、もちろんいるだろう。どちらも、よく出来た演出だとは思う。ちなみに志ん朝など古今亭は、お嬢さんが自ら短冊に書く上方の本来の演出。小満んは、積極的な女性像を描くより、桜がとりもつ“縁”を重視したように思う。
 もっと細かな東西の違いを言うなら、小満んはお嬢さんが落として若旦那が拾うのが「塩瀬の茶袱紗」としているが、たとえば昨年八月にJAL名人会で聴いた笑福亭松鶴の渾身のこの噺でもそうだったが、上方は“緋”」塩瀬の茶袱紗である、「緋」の一言で鮮やかな袱紗の色が浮かぶ分だけ、上方版に軍配を上げたい。ホントに些細な違いで、「重箱の隅」つつきと言われそう^^
 サゲは、熊さんのお嬢さん陣営の親方の喧嘩で鏡が割れて地口、というスタイルではなく、「こうやって一対の若い夫婦ができあがるという、崇徳院というお噺・・・・・・」で締めた。
 江戸っ子職人熊さんの粋な科白などを含め、「雪月花」の「花」を彩る噺は、非常に楽しかった。

柳家小満ん『ねぎまの殿様』 (19:44-20:04)
 次は大名のお噺で、と「カタカナのトの字に一の付けようで、上になったり下になったり」ときたから、「えっ、金馬の定番のマクラで『目黒のさんま』か?」と早とちりした。
 短いマクラから入った本編は、「雪月花」の「雪」に相当する噺。本郷のお殿様、降り出した雪を見て、「雪見じゃ!」と三太夫を供に馬で外出。三太夫さんも大変だ。湯島切通しの坂をジグザグに「つづら降り」し、下谷広小路に来ると、いろんな店や屋台が並ぶ。「煮売屋」から旨そうな匂いがするので、殿様、下馬して入っていった。実際には、江戸時代にあり得ない話だけど、そこが落語。町人が旨そうに食べているものは何かと店の若い衆に尋ねると、早口で「ねぎま」と言うので、殿様には「にゃー」としか聞こえない。その「にゃー」を注文し、酒は「ダリか三六か」と聞かれるので、当てずっぽうでダリを頼む。このダリ、終演後の居残り会で、「ダリって何だったっけ」と、ちょっとだけ話題になった。帰宅の電車の中で思い出した。四を表す寿司家の符牒だったなぁ。だから、一合四十文の灘の生一本か、三十六文の並の酒か、と殿様は聞かれたわけだ。滅多に飲まない熱燗の酒と、豪快に油ぎったねぎまで良い気分になってご帰還の殿様。
 次の日の昼食時、御膳番に「にゃー」を所望する。朝、晩は殿様と言えども好きなものを食べることはできないが、昼だけは何か食べたいものを希望してよかった、とのこと。案外、殿様も楽ではない。御膳番は「にゃー」が分かるはずもなく、三太夫に聞いてそれが「ねぎま」と判明。さて、どうやって作ろうと、いうことになってここからは、『目黒のさんま』とほぼ同じような筋書となる。
 「煮売屋」でアツアツのネギを食べて中の芯が口で飛び出し、店の若い衆に「ネギ鉄砲」と教わった殿様が、屋敷で食べた後で、「ネギは種子島にかぎるぞ」が可笑しかったが、それがサゲではないので、念のため。

柳家小満ん『佃祭り』 (20:16-20:55)
 日本の四季は「かかかっか」と四つの「か」で表すことができる、という話から。花の“か”、瓜の“か”、水果(果物)の“か”、そして火の“か”、ということから、果物の中でも梨のことを縁起で「ありの実」と昔は呼んで、歯痛のまじないで、梨を川に流し戸隠さまに願をかけた、というサゲのための大切な解説。もちろん、佃島の由来も、昔は旧暦六月の晦日の開催だった、なども説明し本編へ。
 ここで、「おや、花、雪、の次の月は六月晦日の新月か・・・・・・」と首をひねねったが、さすがに小満ん、最後にしっかり「月」を見せてくれた。

 この噺は、相当前に書いたことがあるので、その内容を元に小満ん版にて筋書を紹介。2008年8月9日のブログ

(1)神田お玉ケ池の小間物屋の主、次郎兵衛さんは、大の祭り好き。今日もやきもち焼きの女将さんに「どうせお祭りが白粉(おしろい)つけて待っているんでしょう」などと言われながらも佃祭りに出かけた。

(2)祭りを楽しみ、目一杯帰りの乗客を乗せた暮れ六つの終い船で帰ろうと船に足を踏み出した次郎兵衛さんの袖を引く女がいた。次郎兵衛さんが女に引き止められているうちに船は出てしまう。しょうがなく女の話を聞いたところ、実は三年前に奉公先の主人の金三両(五両とする場合もある)を盗まれ、橋(本所の一つ目の橋、とか吾妻橋など設定はいろいろ)から身を投げようとしたところを助けたのが次郎兵衛さんだった。女は結婚して佃に住んでいるので、ぜひ寄って欲しいと懇願する。連れあいが船頭なので、後でお送りすると言われ、ほっとして家を訪ねる次郎兵衛さん。

(3)女の家で次郎兵衛さんが一杯ご馳走になっていると、急に外が騒がしくなってきた。なんと終い船が沈んで岸は死体の山になっているとのこと。三年前に命を救った女に、今度は次郎兵衛さんが助けられたわけだ。女の連れあいが次郎兵衛さんに挨拶に立ち寄ったが、船を出すのは騒動がおさまってからになるので、家でゆっくりしていってくれと言われ、腰を落ち着けてご馳走になる次郎兵衛さん。

(4)一方、神田の次郎兵衛さんの家で帰りを待つ女将さんに、終い船が沈没したとの伝聞が届く。どうも一人も助からなかったらしいという噂に泣き崩れるおかみさん。はっきりしない伝聞ではあるが、次郎兵衛さんが死んだらしい・・・・・とのことで弔問客でごったがえす。中には、とんちんかんな悔やみを言う者もいるが、とにかく早桶も届き坊さんも駆けつけて通夜が始まった。若い衆は、次郎兵衛さんの遺体をひきとにり行くにあたって、おかみさんに次郎兵衛さんの衣装や体の特徴を聞いたところ、次郎兵衛さんの二の腕におかみさんの名前(小満んの場合は、「お玉いのち」)が彫ってあるとのこと。「なんとも、ごちそうさまで」と出かけていく。

(5)すっかりご馳走になり明け方に船で神田川まで送ってもらった次郎兵衛さん。ご機嫌で家に帰ってきたが、家では弔いの最中。「おやっ、簾が裏返しになって“忌中”って、誰が死んだんだ。お袋か。かかぁか・・・・・・」と家の中に入って、居並ぶ弔問の者たちが「幽霊!」、という大騒動。

(6)次郎兵衛さんにいきさつを聞いたご一同、坊さんに若い衆があやまるが、坊さんいわく。「けっこうけっこう。因果応報と言いましてな。次郎兵衛さんが三両の金で若い女の人を助けた。だから今日んなって、その三両のために、こんどは自分の命を買うようになったのです。人を助けるということは、みんな自分の身にかえってくることでございます。情けは人のためならず、今日は私が次郎兵衛さんから有り難いご法話をいただいたようなもの」と場を締めた。

(7)さて、この話を聞いていたのが与太郎。「身投げを助けて三両やれば、自分が死なねぇですむ」とばかり三両を都合して、毎日、ほうぼうの橋に身投げを探しだした。
 なかなか身投げに出会わない与太郎だったが、旧暦九月の十三夜(出た「月!」)、永代橋に若い女の姿。目に一杯の涙をため手を合わせている。与太郎、ここぞとばかりうしろから抱きついて「待ってくれ。三両の金がねえために、身を投げるんだろう。おれが三両やるから、待ちねえ」」と止めにかかったが、女の言い分はこうだった。「あたしはね、歯が痛いから、戸隠さまへ願をかけているんだよ。」与太郎が「うそぉつきやがれ、え、懐に石があらあ」女の言葉がサゲとなる「これは戸隠様に納める梨だよぉ」。

 小満んの高座が好きな理由の一つは、現役の噺家さんの中で、もっとも登場人物の衣装の描写がしっかりしていて、またサマになることだ。たとえば、(4)で次郎兵衛さんの衣装を細かく確認する場面で、女房のお玉さんから、次のようなものが並ぶ。

「白薩摩の絣に茶献上の五分づめの帯、透綾(すきや)の 羽織に、扇子と煙草入れを腰へ差し、白木ののめりの下駄に柾が三本通っています」 

 この内容は、近所の若い衆が、すぐ後で再確認するため繰り返す。このあたりは、かつての志ん生や三代目三遊亭金馬の芸を継承する稀有な噺家さんだと思う。ちなみに、この噺を十八番にしていた金馬の場合は、薩摩の蚊飛白(かがすり)となっている。これまた渋い。
 この季節でのこの噺ということで、やや無理は承知での「月」のお題だったのだろう。結構でした。


 短いマクラからの三席。当初の時間配分は25分、20分、40分で、ほぼ予定通り演じたのだろう。

 この三席、よく考えると(考えなくても)最初の師匠文楽の十八番は、一席もない。そして、二人目の師匠五代目小さんの柳家の典型的な十八番もない。
 『崇徳院』は三木助、そして志ん生、馬生、志ん朝親子が代表的だろう。『ねぎまの殿様』は、何と言っても五代目古今亭今輔。そして、『佃祭り』は前述した金馬、そして、これまた古今亭の十八番と言える。
 これを、そろそろネタ選びがきつくなってきた、と見るか、文楽や小さんという師匠のネタに依存しない豊富な持ちネタ、と考えるか、微妙ではある。

 終演後はレギュラー四名での楽しい楽しい「居残り会」。落語ブログを介して知り合った年代も少しづつ違う三人が、「今後も、居残り会」として続けましょう、と会の名前を決め、落語愛好会としての絆を誓った(?)、平河町のあの店へ。残念ながら“ねぎま”はなかったが、“塩ちゃんこ”が誠に結構でした。
 話が弾み、二合の“ダリ”が瞬く間に空いていく。りーダーSさんは、「今日は、四季のすべてがあったね」とご指摘。なるほど、『崇徳院』の春、『ねぎまの殿様』の冬、そして『佃祭り』の夏から秋、と四季が揃っていた。そうか、だから、マクラで「かかかっか」だったのか、ということはないよね^^
 他にも話題はとどまらず、落語のこと、相撲のこと、紅一点Iさんの旅行の土産話などなど、もっと時間が欲しい、と思いながらお開きしたのが11時を少し過ぎたから、もちろん帰宅は日付変更線越えであった。

 一日たってみて、あらためて、小満んの会は良かったと思う。際立った一席はなかたっが、全体的に江戸の香りがして、江戸の四季があった。名人である二人の師匠からにとどまらず、昭和の名人達の芸をしっかり継承している稀有な噺家さんであることは、間違いがない。
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by kogotokoubei | 2013-03-26 07:30 | 落語会 | Comments(6)
三月二十三日は、旧暦二月十二日にあたる。この日のことをWikipediaで調べると、歴史の皮肉にも思える出来事が並んでいた。
Wikipedia「2月12日(旧暦)」

慶長8年(グレゴリオ暦1603年3月24日) - 徳川家康が征夷大将軍に就任し、江戸幕府を開く。
明治元年(グレゴリオ暦1868年3月5日) - 徳川慶喜が幕府追討軍に恭順の意を示し、江戸城を出て上野寛永寺に移り、謹慎する。


 二百六十五年の時の流れを間にはさみ、初代家康が江戸幕府を開いた日と、最後の将軍十五代慶喜が江戸城を去った日が、同じ旧暦二月十二日なのだ。

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吉村昭著『彰義隊』(新潮文庫)

 その日のこと、そして寛永寺のことを、吉村昭は著書『彰義隊』の中で次のように描いている。

 寛永寺は、二百四十三年前の寛永二年(1625)、江戸城を守るため比叡山延暦寺になぞらえて東叡山寛永寺として創建し、やがて幕府の墓所をかまえた。
 根本中堂には、後水尾天皇の書かれた寛永寺の額をかかげ、代々輪王寺宮法親王が一山を管領した。慶喜が寛永寺で謹慎しようとしたのは、朝廷と縁の深い寺と考えたからであった。
 二月十二日朝、慶喜は家臣にまもられて江戸城を出て寛永寺にむかった。途中、新撰組局長近藤勇が、陸士をひきつれて見えかくれにこれを警護した。
 慶喜は、まず寛永寺に参拝し、ついで二十二歳の輪王字宮に拝謁した後、大慈院内の二間続きの部屋に入った。
 輪王寺宮は、弘化四年(1847)二月十六日、伏見宮邦家親王の第九子として生まれ、翌年、二歳にして孝明天皇の父仁孝天皇の猶子となった。慶応三年(1867)、孝明天皇の皇子睦仁親王が即位し、後の明治天皇となるが、輪王寺宮は睦仁親王の叔父にあたる。


 天台宗のお寺のトップが、皇族、それも養子よりゆるい関係の猶子とは言え天皇の子供、なんだ。
 寛永寺のサイトには、歴史の説明の中で次のように書かれている。
寛永寺サイトの該当ページ

第三代の寛永寺の山主には、後水尾天皇の第三皇子守澄(しゅちょう)法親王を戴き、以来歴代山主を皇室から迎えることになりました。
そして朝廷より山主に対して輪王寺宮(りんのうじのみや)の称号が下賜(かし)され、輪王寺宮は東叡山寛永寺のみならず、比叡山延暦寺、日光山万願寺(現 輪王寺)の山主を兼任、三山管領宮(さんざんかんりょうのみや)といわれ東叡山に在住し、文字通り仏教界に君臨して江戸市民の誇りともなりました。



 輪王寺宮を猶子にした仁孝天皇と言えば、先代将軍家茂の未亡人和宮はその仁孝天皇の第八皇女。弘化三年の閏五月生まれで輪王寺宮より一つ上。だから、和宮と寛永寺のトップである輪王寺宮は、姉弟ということになるなぁ。この時、満年齢で和宮が二十二歳、輪王寺宮が二十一歳。

 だから、次のような親族同士のネットワークが発揮されるわけだ。

 慶喜謝罪のため使者を出して懇願した和宮は、その責任上、慶喜があくまでも朝廷に対して恭順の姿勢をとるように願い、そのため輪王寺宮に書を送り、慶喜が謹慎をくずさなぬようきびしく監視して欲しいと要請した。



 この後、山岡鉄舟らの努力もあって、輪王寺宮は、江戸に向かっている官軍(朝廷軍)に、慶喜の恭順の姿勢を証言するため小田原宿まで供の一行と行き、沼津まで来た官軍に箱根を越えぬようにという要請を使者である覚王院に持たせたが、結局、この要請は無視された。

 奇しくも藩祖である徳川家康が征夷大将軍に就任したと同じ日に江戸城を離れて恭順の姿勢を示そうとした慶喜だったが、その行為も、大きな時代の流れを変えることはできようはずがなかった。

 徳川幕府滅亡について、特定の日はなかなか定めにくいと思うが、江戸幕府開府と最後の将軍が城から退去した日が同じであったというのは、265年の歴史を考えると、偶然を越える運命的なものを感じる。
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by kogotokoubei | 2013-03-23 09:26 | 今日は何の日 | Comments(0)
まるで、落語『井戸の茶碗』のような、本当の話が、ニューヨークであったようだ。
朝日新聞サイトの該当記事

280円のお碗、実は北宋の名磁器 NY、2億円で落札
2013年3月21日10時39分

 【ニューヨーク=中井大助】ニューヨーク州に住む家族が3ドル(約280円)で購入した磁器の碗(わん)が中国の北宋時代(960~1127年)の名器とわかり、19日に222万5千ドル(約2億1千万円)で落札された。

 競売にかけられたのは定窯(ていよう)の白磁碗。直径が13・4センチで、内側にはハスの花、外側には葉の模様が彫られている。競売を実施したサザビーズによると、同じような模様と大きさの碗は、ロンドンの大英博物館が所蔵している一つしか確認されていないという。

 所有していた家族は2007年にガレージセールで購入し、自宅に飾っていた。最近になって価値が気になり、専門家に鑑定してもらったという。

 競売では20万~30万ドル(約1900万~2800万円)の値段がつくと予想されていた。しかし、4人が激しく争った結果、ロンドンの美術商が予想を大幅に上回る値段で競り落とした。



 280円が-------->2億一千万円に、ということは75万倍である!

 「定窯」とは何か、ということを調べたら、東京国立博物館には定窯の白磁の「皿」があるようで、こんな説明が記載されていた。
東京国立博物館サイトの該当ページ

定窯は宋時代を代表する白磁の名窯であり,窯址は現在の河北省曲陽県に発見されている。良質の磁土を用いて器壁は薄くのびやかに成形され,酸化焔焼成によって釉薬中の微量の鉄分が黄味をおび,あたたかみのある牙白色の釉膚となっている。流麗な蓮花文,文様の輪郭に向って斜めに刃を入れて彫る片切り彫りの手法によっており,深く掘られた部分に釉薬が厚く溜ることによって文様が浮かび上がって見えるのである。釉調の美しさと文様の見事さをかねそなえた定窯白磁の典型作といえる。



 さて、それでは高麗茶碗の王、と言われている「井戸の茶碗」は幾らだったのか、ということで、あらすじを簡単にご紹介。

・清正公様脇の裏長屋で娘と暮らす貧乏浪人の千代田卜斎から、正直者で通っている屑屋清兵衛が卜斎に頼まれて普段は扱わない仏像を預かった。その仏像を、細川家家来の高木佐久左衛門が二百文で買って洗ったところ、底の台紙が破けて中から五十両出てきた。
・「仏像は買ったが、中の金子まで買ったわけではない」と佐久左衛門。清兵衛を呼んで卜斎に金を返すための仲介をさせるが、卜斎も、「先祖が困窮した時のために仏像に隠した金であろうが、その大事な仏像を手放すような愚か者には、この金はふさわしくない」と頑固に受け取らない。清兵衛が、この二人の間を往復し難渋して仕事にならない。卜斎の住む長屋の大家に清兵衛はいきさつを話したところ、大家が「今どき珍しい美談。さすが、花は桜木、人は武士」と喜び、仲介役を買って出る。
・施しを受けることはできない、と金を貰うことを固辞する卜斎に、大家が「どんな物でも先方に何かを渡し金を受け取れば、貰った事にはなりません」と説き、やっと納得した卜斎。いつも使っている古く茶渋で汚れた茶碗を渡し二十両の金を受け取る。ちなみに、五十両は、卜斎と佐久左衛門で各二十両、清兵衛が手間賃で十両である。
・この話を佐久左衛門の主である細川の殿様が耳にし「今どき、あっぱれな話である」と高木を呼び出して褒めたところ、居合わせた目利き(鑑定人)が茶碗を見て、「殿、この茶碗は世に二つと言われる井戸の茶碗という名品です」と言ったものだから、殿様が高木に三百両与えて自分のものにする。
・さて、この三百両をどうするかで、また清兵衛は佐久左衛門と卜斎二人の間を言ったり来たり。その結末は、割愛。

 目利きが言う「世に二つ」が、「世に二つとない」という意味か、「世に二つしかない」なのか、勉強不足で分からないのだが、アメリカで発見された定窯の白磁碗は、今のところ「世に二つ」のようだ。このへんも、落語の内容と似ていて、つい笑ってしまった。

 さて、「井戸の茶碗」の三百両が、いったい現在の価値でいくらになるか、ということを考えてみる。

 まず、江戸の「金」「銀」「銅銭」の関係は次のようになっていた。

 金一両=銀五十匁(もんめ)=銭四貫

 一両小判でもっとも純度が高かった「慶長小判」で金の含有は約15グラムだったが、一匁は3.75グラムなので、銀五十匁は銀187.5グラムとなり、これで一両。通貨単位の一貫は1000文。だから銭四貫が4000文。落語の『五貫裁き』に登場する五貫は、一両と少し、ということ。

 次に「一両」は現代の貨幣価値でいくら位か、ということ

 江戸時代にもあったインフレなどの影響で一概に決められないが、米の値段などを考慮すると、一両が4万円から12万円位の幅で推移したと考えられる。ここでは一両を六万円として計算。ちなみに、単位として、一両=四分、一分=四朱、という構造がある。よって、一分が1万5千円、1朱が3,750円となる。
 落語の泥棒ネタのマクラで使われることが多いが、江戸時代、泥棒が十両盗むと打ち首だったようで、泥棒もぎりぎりの金額しか盗まないことが多く、そこから「どうして九両三分二朱」などという言葉が残っている。「九両」は「くれよう」の洒落ですな。

 では、一両=60,000円の妥当性を、他の江戸時代の物価との比較から検討したい。
 例えば、そばの値段。『時そば』でご承知のように、そば一杯は十六文。60,000円=銭4000文、となるので、一文が15円、よって15X16=240円、ということになる。

 また、当時の一般的な大工さんの給料は記録によると一日の手間賃銀五匁四分。もし月に25日働いたとすると、5.4X25=135匁となる。一両=60,000円=50匁ということは一匁が1,200円なので、1,200X135=162,000円ということ。月給162,000円で、そば一杯240円。まぁまぁ、物価の安かったであろう江戸時代なら、違和感のない数字かなぁ。

 佐久左衛門は、卜斎が手放した仏像を200文で購入して、中から五十両、自分には二十両分配があったのだから、15X200=3,000円で買って、おまけが60,000X20=120万あった、ということになる。

 そこで、あらためて三百両は現在ならいくらか、である。

 60,000円X300=1800万円。

 偶然だが、紹介した記事に、“競売では20万~30万ドル(約1900万~2800万円)の値段がつくと予想されていた”とある。

 予想通りなら、ほぼ三百両で、「井戸の茶碗」と同じなのだが、細川の殿様のような人が複数で競った結果、2億一千万に跳ね上がったわけだ。

 ここで思った。ガレージセールで幸運な持ち主に売った人に、この持ち主は、なにがしかの御礼を、普通はするだろう。

 記事になって世間に知れた以上、だんまりはないわなぁ。

 果たして、ガレージセールで手放した“アメリカの千代田卜斎”は、「それは受け取れん!」と固辞するのかどうか。このニュース、その後の顛末も気になるなぁ^^
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by kogotokoubei | 2013-03-21 12:18 | 幸兵衛の独り言 | Comments(2)
レスター・ヤングは、多くのジャズミュージシャンに尊敬されたテナーの巨人。

 1909年8月27日、ミシシッピ州のウッドヴィルという町で生まれた。生まれて間もなく、家族と共にルイジアナ州のニューオーリンズに移住。さまざまな楽器に精通していた父親のウィリス・ハンディ・ヤングの影響で、レスターはまずヴァイオリンをおぼえ、その後トランペット、ドラムス、サックスを習得した。
 1933年ベニー・モーテン楽団に参加した後、カウント・ベイシー楽団に加入。その後すぐコールマン・ホーキンスの後任としてフレッチャー・ヘンダーソン楽団に加入した。しかしホーキンスとはスタイルが違いすぐるため追い出されるように退団、36年にベイシー楽団に復帰。その後メンバーを増やしたベイシー楽団と共にニューヨークへ進出、40年までベイシー楽団で活躍し、一時自分のバンドで活動したが、43年再度ベイシー楽団へ。
 翌年兵役となり、人種差別を受けたこともあって病気になり45年6月除隊。この短い軍隊生活がレスターの心身に大きな傷を負わせた。その後はJATPや自己のバンドで活動したが、体調は元に戻らず何度も入退院を繰り返した。酒と麻薬で心身ともにボロボロになり、1959年パリから帰国直後の3月15日に亡くなった。
 人間的に尊敬し合い、言わば薬友達でもあったビリー・ホリディが、テナーサックス奏者のプレジデント(代表)という意味でつけた、プレズ(Prez or Pres)の愛称で親しまれる。ちなみち、レスター・ヤングの埋葬のとき、レスターの妻はビリーが唄うことを拒絶したため、ビリーは悲しみのあまり泣き崩れたと言われる。そのビリーも、プレスを追うように同じ年の7月に旅立っている。

 ベイシー楽団時代の名演奏も多いが、晩年1956年の「Pres and Teddy」も傑作。ビリー・ホリディのサポートメンバー仲間のテディ・ウィルソンのピアノ、ベテランのリズム陣との絶妙のカルテット演奏。これぞ、「本寸法」のジャズ!

 一曲目の「All of Me」を、ぜひお聴きください。

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「Pres and Teddy」
1. All of Me
2. Prisoner of Love
3. Louise
4. Love Me or Leave Me
5. Taking a Chance on Love
6. Our Love Is Here to Stay
7. Pres Returns* *CD Vonus Track
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Lester Young (ts)
Teddy Wilson (p)
Gene Ramey (b)
Jo Jones (ds)
(January 13th,1956)
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by kogotokoubei | 2013-03-15 12:02 | 今日は何の日 | Comments(0)
今や、小泉純一郎政権の「郵政民営化」が、天下の失政、愚策だったことは明白である。そして、小泉は政治の舞台から去ったものの、あの竹中平蔵が、安倍によって復活しようとしているのには閉口する。

 新自由主義経済、市場原理主義の信奉者で、郵政民営化における“戦犯”である男に、もう用はないはずなのだが、何とか安倍に取り入ったようだ。

 また、あの男は“悪事”を働こうとしている。
日刊ゲンダイGendai.Netの該当ページ

産業競争力会議 竹中平蔵 今度は正社員の解雇促進
2013年3月9日 掲載


コイツはサラリーマンの敵だ!

<超高層マンションから庶民見下し>

 この男は一体、どこまで庶民をナメているのか。小泉政権時代、米国式の市場原理主義を持ち込み、この国を「稼ぐが勝ち」の弱肉強食社会に変えた竹中平蔵・慶大教授(62)のことだ。

 今度は安倍政権に取り入り、政府の「産業競争力会議」の民間議員として会議を仕切っているが、そこで今、とんでもない議論が繰り広げられている。なんと、会社が正社員をクビにしやすくするための雇用規制の緩和を検討しているのだ。

「問題の議論が出てきたのは6日の会議です。この日の主要テーマは雇用問題で、衰退産業から成長産業への“労働力の流動化”を促すための手段として、正社員を解雇しやすくするようにルール改正すべきだ、という意見が飛び出しました。この話はもともと竹中氏の持論で、自らが代表を務める提言サイト『ポリシー・ウォッチ』でも、似たようなことを言っている。『日本の正社員は世界の中で見ると非常に恵まれたというか、強く強く保護されていて、容易に解雇ができない』『企業は正社員をたくさん抱えるということが非常に大きな財務リスク』などと主張しています」(政界関係者)

 竹中といえば、かつて労働者派遣法を改悪して非正規社員を大量に生み出し、格差社会を拡大させた“A級戦犯”だ。そんな男が仕切る会議で、今度は「正社員を解雇しやすくしろ」とは、とことんサラリーマンの敵というしかない。

「竹中氏は、東京・佃の豪華タワーマンションの超高層階に住み、下界を見下ろしながら暮らしています。道行く庶民は虫ケラくらいにしか思っていないのです。国民生活を大きく左右するTPP参加についても、竹中氏は会議で『これは交渉であるため、“ゲーム”のルールを作るために、早く参加する方が有利だ』なんて言い放っています」(前出の関係者)

 この国をオモチャにするのもいい加減にしろだ。



 ゲンダイは、結構頑張っている。いわゆる全国紙で、竹中への批判的な記事は、今のところ出ていない。安倍が怖いのだ。

 竹中の“悪行”を振り返ってみよう。
 東谷暁著『郵政崩壊とTPP』(文春新書)から引用したい。まず、「郵政民営化」という失政の歴史を振り返りたい。

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東谷暁著『郵政崩壊とTPP』(文春新書)


民間にできることは民間に
 2005年8月8日の夜、内閣総理大臣・小泉純一郎氏は興奮した面持ちで記者会見を行なっていた。
「本日、衆議院を解散いたしました。それは、私が改革の本丸と位置づけてきました、郵政民営化法案が参議院で否決されました。言わば、国会は郵政民営化は必要ないという判断を下したわけであります」
 すでに衆議院では五票差ながら通過したが、自民党内部でも反対派が多い参議院では否決される可能性が高かった。案の定、賛成百八票に対して反対百二十五票。このとき郵政民営化担当大臣の竹中平蔵氏は、一瞬天を仰いだという。しかし、小泉首相は異例の衆議院解散という手に打って出る。
 (中 略)
 小泉首相は会見でこう続けた。
「本当に行財政改革をやるんだったら、公務員は減らしなさいということはみんな賛成でしょう。郵政事業にたずさわる国家公務員、約二十六万人、短時間の公務員を入れると約十二万人、併せて約三十八万人が郵政事業にたずさわっている。郵便局の仕事にたずさわっている。これは本当に公務員じゃなければできないんでしょうか」

郵貯は財投に流れていなかった 
 このときの解散演説では、小泉首相はもっぱら「公務員でなければ郵政の仕事はできないのか」と繰り返している。民営化をして郵政にたずさわる公務員を減らすことができれば、それは行財政改革になり、もし、それができなければ「手足を縛って泳げ」というのと同じだというわけである。
 しかし、これは少し奇妙な議論だと私は思っていた。なぜなら、たしかに郵政にたずさわっている職員は、身分上は公務員だったが、給与は郵政三事業の収益から出ていることは、よく知られたことだったからだ。
 長年にわたり自民党議員として活躍して国土庁長官を務め、かつては衆議院逓信委員長を経験したこともある亀井久興氏は、竹中氏がこの話を始めたとき、あまりの不自然さにあきれたという。
「小泉さんが郵政事業は公務員がやる必要がないといい、竹中さんは、郵政民営化をすれば公務員が少なくなるなどといいました。しかし、これは根本的に誤りですからね。郵政の職員には税金から給料を払っていないわけですよ」


 税金で給料を支払っていない公務員を減らしても、国の財源が増えないのは自明。

 小泉や竹中が郵政民営化を訴えた時のキーワード「財政投融資」については、どうだったのか。
 本書では郵便貯金が民間金融機関と競合している、という主張も、1992年に当時の大蔵省と郵政省との間で「定額合意」を結んでいて、郵貯の金利上での優位は解消されており、一千万円という限度額も含め、郵貯の競争力はかなり抑制が働いていたと指摘した後で、こう書かれている。

 さらに、根本的な問題として<巨額の郵便貯金の多くが、財政投融資(各種公的資金を財源にして、国の政策実現のために行なわれる政府の投資)という国家予算の補足機関の原資となって・・・・・・いろいろな矛盾や不合理も顕在化している>と指摘しているが、この問題も87年に預託金利が市場と連動され、2001年には郵貯は財投から完全に切り離されて、自主運用に転換してしまっていた。つまり、もう郵貯は財投には流れていなかったのである。
 付け加えるなら、日本の公務員は2003年の統計で、中央・地方合わせて一千人あたり三十八人程度で、アメリカの約七十九人、フランスの約九十七人と比べてもきわめて少ないといえた。また、一般政府支出の対GDP比較でも日本はアメリカとならんで、かなり低い国に属していた。なぜ、ここまで公務員を減らすことに熱心なのか、政府を小さくしたいのか、私には理解できないというのが正直なところだった。



 あの小泉劇場が観客に受けていた当時、マスコミは、上記のような事実について何らジャーナリストとしての報道をしていなかったことを思い出す必要がある。あの時は、小泉には逆らえなかったのだ。その政策が間違っていることを知っていても。

 本書ではこの後、郵政民営化担当大臣となった竹中が出した本『郵政民営化「小さな政府』への試金石』(PHP研究所)から、竹中が「郵政民営化のメリット」として挙げた下記の4つの内容を紹介している。

①350兆円という膨大な貯金・簡保資金が、「官」のおカネから「民」のおカネになっていく
②全国津々浦々の郵便局窓口がもっと便利になる
③国家公務員を3割削減し、小さな政府を実現する
④「見えない国民負担」が最小化される

 これらのメリットなどなかったことは、歴史が証明している。

 ①は、350兆円のカネを「郵政省」から、「財務省」のおカネにしようとしたのであり、②は、全国各地の郵便局で“ワンストップ”で提供されてきたサービスが、分社化によって混乱を招き、多くの顧客が離れていくことになった。③は、税金で給料を払っていない国家公務員の3割削減が、なぜ“小さな政府”に結びつくか、疑問だ。④は、「見えない国民負担」の意図が、「見えない」。

 民営化によって、逆に、窓口がどれだけ混乱したかについて、本書のプロローグから引用。
 あの大震災後の、陸前高田からの報告である。

露呈した分社化の弊害
 2012年2月中ごろ、私は廃墟となった陸前高田郵便局の前に立っていた。あとひと月もたたないうち、東日本大震災から一年を迎えるというのに、陸前高田ではほとんどの建物が地面にわずかに痕跡を残しただけで消滅し、ところどころで鉄筋コンクリートの建築物が、その構造だけを寒風にさらしている。
 (中 略)
 この大災害に直面して、全国郵便局長会(旧・全国特定郵便局長会)の岩手県南部地区会会長で一関台町郵便局長の境眞さんは、すぐに陸前高田を含む南部地区内の復旧に取り組んだが、二、三日間は情報収集だけでやっとだった。職員、局長の安否確認にも四、五日かかったという。
「防災には、想定などという言葉はない、ということを思い知らされました。対策を採ろうにも被災地では、次の次の次と決めていかないと動けないのです。情報もなかなか的確につかむことはむずかしい」
 ようやくのことで始めた復旧作業も、被害のあまりの甚大さのために、空回りすることが多かった。なかでも、郵政民営化によって進められていた、分社化の弊害が大きかったと境さんは語る。
「郵便局会社が郵便事業会社から自動車を借りようとしても借りられない。自転車やバイクですら駄目だった。自動車の燃料も融通がきかなかったですね。保険の業務では本人か確認するさいに居住データが必要ですが、消失してなかなか確認できない。実は、郵便事業会社が加入者の居住データを持っているのですが、このデータを郵便局は借りることができないから、社員がわざわざ足を運んで居住地を確認したんです」
 日本郵政公社が民営化によって日本郵政グループとなったとき、この巨大な事業体は五つに分割された。持ち株会社で全体を統括する日本郵政株式会社の下に、郵便事業会社、郵便局会社、ゆうちょ銀行、かんぽ生命保険の四つが位置づけられることになる。
 この分社化はすぐにその欠陥が露呈した。郵便、郵貯、簡保の窓口となる郵便局の業務がとてつもなく煩雑になり、利用者から苦情があいついだのである。
 たとえば、郵貯、簡保の業務は分割されるているから、郵便局の窓口が分かれているだけでなく利用者がおカネの出し入れをすると、それぞれに別の会計処理が必要になる。郵便局内に業務を分けるために間仕切りをしたが、これが局内での情報交換に支障をもたらした。
 ことに評判が悪かったのは、どんなに小さな郵便局でも郵貯は大きな銀行なみの手続きが必要になり、金融庁が銀行に課している複雑な手続きに則って金銭の出し入れを行なわなくてはならないため、以前に比べて作業がいちじるしく遅くなったことだった。
 また、顔見知りの利用者にも身分証明を求めたので、従来からの利用者が離れる大きな原因となった。なぜ、知り合いの局員に自分が誰かを証明する必要があるのかと利用者は憤ったのである。
「陸前高田局では、津波が押し寄せたとき、建物の海側のほうで業務に従事していた郵便局会社の人たちは、津波の襲来に気がついて逃げることができました。ところが、間仕切りで切り離されていた、海側から遠い場所にいた郵便事業会社の人たちには連絡が遅れて、亡くなった方が多いのです」
 こうした分社化の弊害は、これまでも繰り返し指摘されていたが、東日本大震災の被災地では、まさに死活問題として露呈した。
 境さんは続ける。
「被災地では、多くの弊害にもかかわらず非常取扱いで対応しましたが、しかし、たとえば他の会社に何かをしてもらおうとすると、末端では判断がつかないので支社に上げて、支社は本社にうかがいをたててようやく判断が下るという体たらくでした。これでは民営化したはずが、逆にとんでもない縦割りの官僚主義的な弊害を生んでいるんです」


 郵政民営化法は昨年改正されたが、震災からの復興スピードを妨げる官僚主義による弊害が解消されるとは思えない。

 郵政民営化の背景には、次のような構造が見える。

    アメリカの新自由主義経済派の要請(陰謀)
                 ↓
  財務省官僚が、350兆の財源を郵政省から奪取するシナリオ
                 ↓
 小泉&竹中のアメリカ&財務省と共謀した詭弁パフォーマンス劇場


 まさに、日本をアメリカに売り渡すことになりかねない失政であった。

 その“戦犯”が、なぜか政治の舞台に戻ってきた。

 2月26日に開催された「産業競争力会議」の議事録から、この男の発言を引用する。冒頭に紹介した3月6日の会議の議事録は、まだ掲載されていない。「首相官邸」サイトの該当ページ

(竹中議員)
まず、安倍総理が日米首脳会談において見事な成果を上げられたことについて、国民の一人として大変うれしく思っている。本日急な開催であり、議員全員と連絡を取ることが困難であったため、連絡のついた5人が連名となったTPP に関するメモを提出している。
まず、TPP 交渉について、このような大きな政策は基本認識を共有することが重要。やはり自由貿易を拡大すること、そして、経済連携を深めていくこと、とりわけ、アメリカとの連携においてそのような関係を深めていくことは世界の利益であり、いうまでもなく日本の利益である。そして、日本の産業は自由貿易による競争を通じて強くなってきたという歴史的事実がある。これは基本認識ではないか。どうしても農業の問題に議論が集まるが、前回の産業競争力会議において新浪議員や秋山議員からも報告があったように、日本の農業の潜在力は非常に高いため輸出産業になり得るという認識を共有するべき。TPP の交渉に参加するか否かという問題以前に、農業は高齢化の問題も含め、モチベーションの高い若い担い手を確保していく必要があるため、農業の改革は必要不可欠である。その意味でも、長期的視点に立って競争力を向上させて、海外に市場を求めていける体制を構築していく必要がある。
そのためにも、TPP 参加を期して、「守りの農業」から「攻めの農業」に転換していく、そういう大きな決意を今すべきではないか。それを実現していくために、国は今後の農業改革に対してしっかりと支援を長期にわたって行うことが必要だと思うし、経済産業界もそれを支援していく覚悟があると理解している。
TPP 国内対策にあたり、ICT 活用推進も含め、競争力を強化するための制度改革を重視していかなければいけない。もちろん、お金も必要なわけであるが、制度改革等が伴って初めてお金も活きる。
そして、TPP の結果何が起こるかという効果については、これまでもいろいろな省庁で意見が違うとか、そういう議論もなされていたわけであるが、政府全体として一体何が起こるのか、言ってみればPDCA のサイクルをこの問題についても確立していく。内閣府においてそのような計量分析も行われているわけであるが、それをしっかりとやっていく必要がある。そして、この交渉は極めて技術的な問題を伴うため、法律専門家のリーガルサポートチーム、これは既にあると聞いているが、それを強化することも必要なのではないか。
言うまでもなく、これは交渉であるため、ゲームのルールを作るために、早く参加する方がやはり有利である。とりわけ多国間交渉では、情報収集も兼ねて、そして有利な交渉が可能になるという意味で、速やかに交渉に参加して、国益にかなう交渉を是非していただきたい。



“やはり自由貿易を拡大すること、そして、経済連携を深めていくこと、とりわけ、アメリカとの連携においてそのような関係を深めていくことは世界の利益であり、いうまでもなく日本の利益である。そして、日本の産業は自由貿易による競争を通じて強くなってきたという歴史的事実がある。これは基本認識ではないか。”
 の部分を読めば、この男のスタンスは明確である。郵政民営化も、アメリカの新自由主義経済派のために人肌脱いだ男が、今度はTPPでアメリカのために国をミスリードしようとしている。

 戦後の日本の産業は、たとえば、当時の通産省官僚たちの憂国の熱意と努力で、いわば政府のバックアップがあって発展してきたのであって、「自由貿易による競争を通じて強くなってきた」ということは、決して「基本認識」ではない。城山三郎の『官僚たちの夏』を、この男は読んでいないのだろうか。

この日のメンバーは次の通り。
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出席議員:
議 長 安倍 晋三 内閣総理大臣
議長代理 麻生 太郎 副総理
副議長 甘利 明 経済再生担当大臣兼内閣府特命担当大臣(経済財政政策)
同 茂木 敏充 経済産業大臣
議員 山本 一太 内閣府特命担当大臣(科学技術政策)
同 稲田 朋美 内閣府特命担当大臣(規制改革)
同 秋山 咲恵 株式会社サキコーポレーション代表取締役社長
同 岡 素之 住友商事株式会社 相談役
同 榊原 定征 東レ株式会社代表取締役 取締役会長
同 坂根 正弘 コマツ取締役会長
同 佐藤 康博 株式会社みずほフィナンシャルグループ取締役社長 グループCEO
同 竹中 平蔵 慶應義塾大学総合政策学部教授
同 新浪 剛史 株式会社ローソン代表取締役社長CEO
同 橋本 和仁 東京大学大学院工学系研究科教授
同 長谷川閑史 武田薬品工業株式会社代表取締役社長
同 三木谷浩史 楽天株式会社代表取締役会長兼社長
臨時議員 岸田 文雄 外務大臣
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 日本の産業界は、現在中国や韓国、そしてロシアなどの「国家資本主義」とボーダレスな市場競争を戦っているということを、この会議メンバーは認識しているのだろうか。そもそも、エレクトロニクス分野や自動車産業から選ばれたメンバーが見当たらない。その代り、関西電力の“味方”である武田の長谷川社長などが入っている。
 楽天の三木谷はじめ「競争至上主義」「世界基準」を主張する経営者が多いようだが、かつての通産省主導の「護送船団方式」について、「その時代は終わった」とは言えない状況にあると私は思っている。
 中国、韓国、ロシア、そしてオバマのアメリカだって、自国の産業育成のための政府のコミットメントを高めている。そんな競争の荒波の中に、「自由」と「競争」を唱えて、すでに疲弊している企業に何ら武器も与えず放り出すことで、本当に日本の産業は強くなり、勝てるのか・・・・・・。相手は国家から分厚い鎧と武器を与えられている敵なのである。

 竹中は、「ゲームのルールを作るために、早く参加する方がやはり有利」と言うが、すでにゲームは始まっていて、カナダやメキシコと同様、後から参加するプレーヤーは、すでに決まったルールを受容するしかないのではないか・・・・・・。東京新聞のコラム「筆洗」でも、そのことを指摘している。東京新聞のコラム「筆洗」3月14日の内容

遅れて交渉参加を表明したカナダとメキシコは、既に交渉を始めていた米国などから「交渉を打ち切る権利は九カ国のみにある」「現在の参加国間で合意した条文は原則として受け入れ、再交渉は要求できない」などと極めて不利な条件をのまされ、その念書を両国は極秘扱いにしていた▼交渉参加を正式に表明しても、参加国と認められるまで三カ月以上、日本政府は協定条文の素案や交渉経過を閲覧できない。これでは、日本側がルールづくりに主張を反映させる余地が乏しいのは明らかだ



 すでに進んでいるゲームに、自分だけが勝とうと思って後から参加してきたプレーヤーに、初めから参加しているプレーヤーは、どう思うだろうか。日本という国、日本人は、逆の立場なら「いらっしゃい!」と歓迎する文化を持っているが、相手はまったく違う国情と文化に立って遅れてきたプレーヤーに対処するに決まっている。

 さて、あらためて、あの男のことだ。

 竹中平蔵という男が「国益」と言う場合の「国」は、決して日本のことではないと認識すべきだろう。郵政民営化という失政の“戦犯”竹中には、戻ってこれる政治の舞台はないはずだ。
 だから、彼を選んだ安倍の背後にはアメリカの影が見えてしょうがない。オバマは就任当初のスタンスを支持率のために替えざるを得ず、新自由主義経済派(ネオ・リベラリズム)との距離を縮めた。そのアメリカ新自由主義陣営の都合の良い手足でありスパイとして、竹中を注視する必要があると思う。
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by kogotokoubei | 2013-03-14 06:15 | 責任者出て来い! | Comments(0)
今年(平成24年度)の芸術選奨・大衆芸能部門で、さん喬が文部科学大臣賞、菊之丞は文部科学大臣新人賞を受賞したらしい。
落語協会サイトの該当ページ

平成24年度芸術選奨

文化庁は、平成24年度(第63回)芸術選奨を発表いたしました。

文部科学大臣賞 大衆芸能部門で柳家さん喬が受賞いたしました。

文部科学大臣新人賞 大衆芸能部門で古今亭菊之丞が受賞いたしました。

贈呈式は、3月18日(月)如水会館にて行われます。



 文化庁サイトのトップページから、受賞理由などを含む報道資料のPDFを読むことができる。
文化庁サイト・トップページ

さん喬の受賞理由。

まろやかな風味を感じさせる高座ぶりは、時に一転、涙を誘う迫真の演技となり、また飄々たる味わいの滑稽味を醸し出す。豊潤な芸の香りを、柳家さん喬氏は国立演芸場での国立名人会における「花見の仇討」や日本橋劇場での自身の独演会を舞台に「たちきり」「井戸の茶碗」などで遺憾なく発揮した。五代目柳家小
さん一門の高弟として弟子や後進たちの育成にも余念なく、芸の実りに加えての華と言えよう。落語界の明日を背負って立つ存在の一人として、その独演会の成果を高く評価したい。



「まろやかな風味」って、さん喬にふさわしい形容詞かなぁ。声の質は、たしかに“まろやか”かもしれないが、落語そのものの特長は、私は「くどさ」と「くささ」だと思う。これ、褒め言葉だよ^^

菊之丞の受賞理由。

「第7回古今亭菊之丞独演会」(平成24年10月)における二席の口演のうち、「芝浜」では、酒飲みの魚屋亭主の心境の変化が丁寧に語られ、その女房の表現では、従来も評価の高い女性の描写に一層磨きが掛かった。もう一席の「百川」では、江戸っ子を気負う魚河岸の若い衆と地方出身の奉公人との対照が、江戸弁と
地方なまりの使い分けを通じて活写された。氏の近年の進境の著しさを如実に示すものであった。その他、「景清」「たちきり」などの口演でも、古典落語の格調をいたずらに崩すことなく、基本に忠実に演じ、更なる発展の基礎を築いたことを賞したい。


 こちらは、あまり小言を言う(重箱の隅をつつく^^)ネタがない。

 去年、権太楼が受賞したので、順番でさん喬、ということか。審査員も“バランス感覚”を働かせたかな。

 しかし、去年の権太楼の受賞にからんで、少し嫌な思い出がある。
 発表後の3月16日に開催された新宿亭砥寄席に、権太楼が、市馬や平治(現、文治)と一緒に出演し、冒頭に、本来は、ある本の出版に関連しての対談のはずが、芸術選奨のことなどを含めた話題になった。その内容について、私は次のような小言を書いた。芸術選奨と芸術祭との違い、過去に芸術選奨を受賞した落語家の名なども書いているので、ご興味のある方はご参考のほどを。
2012年3月17日のブログ

 幕が開き、パイプ椅子が並んでいたのを見て対談と分かったが、市馬が出てこない。司会役の瀧口氏の話では、まだ会場に着いていない、とのこと。理由はともかく、このへんから、この会は少しギクシャクし始めていた。
話題は、やはり権太楼の芸術選奨文部科学大臣賞受賞から。しかし、この賞は芸術祭賞と紛らわしくて、過去の落語家の受賞者という質問では、芸術祭賞の文楽、志ん生の名が混在してしまう。芸術選奨は、その人の一連の活動や作品が対象だが、芸術祭は、賞の評価対象として参加することを意思表示した特定の公演や作品の評価で決まる。
 あらためて、落語協会で芸術選奨文部科学大臣賞を受賞した噺家を確認するが、協会HPの本件のニュースにあるように、六代目三遊亭圓生、八代目林家正蔵、古今亭志ん朝、柳家小三治。権太楼で五人目。二つの賞の違いや受賞者のことを、落語評論家の瀧口氏が説明できないのが、やや不思議であり不満であった。
 対談開始10分後に市馬が登場。権太楼のリクエストで「達者でな」を唄う。このあたりから、私はこのプロローグを早く切り上げてもらい、肝腎な落語に時間を割いて欲しくなっていた。
 それでも対談で印象に残ったことはある。権太楼が最初の師匠つばめ門下の“ほたる”時代、元旦は、まずつばめ師匠の家に行き、一緒に目白の小さんの家に行って、その後に全員で黒門町の文楽の家に挨拶に行った、という思い出話。
 企画の背景にある瀧口氏の本(『落語の達人』)は、この五代目柳家つばめのことを権太楼に、三代目三遊亭右女助について桂平治に、そして橘家文蔵のことを柳亭市馬に取材し、この“馴染みのない”三人の「落語の達人」のことを本に書いたため、取材したこの“馴染みのある”三人の会を亭砥寄席と合同で企画した、ということらしい。しかし、著作を紹介したこともあるが、つばめに関して言えば“馴染みのない”噺家でもないし、“忘れさられようと”しているわけでもないと思うけどね。


 
 この会は他にも平治が権太楼のトリネタ(『一人酒盛り』)を明かしてしまったり、会場運営においても不満があったなぁ。
 嫌な思い出を拡散することもないとは思うが、私が落語ブログ仲間を誘ってご一緒した会だったので、芸術選奨という言葉に、あの会のことが連想されてしまう。本当は、嫌なことから忘れたいものだが、まだまだ修行不足・・・・・・。

 さん喬で好きなネタを一席だけ、と聞かれたら、『棒鱈』と答える。ご本人も、実は人情噺より滑稽噺が好き、と長井好弘さんの質問に答えている。2009年7月16日のブログ

 菊之丞で同じ質問なら、『幇間腹』かなぁ。喬太郎のこのネタは、どちらかと言うと聴きたくない(見たくない)ネタになるが、菊之丞は結構。女性の上手さは定評があるが、幇間モノにこそ、この人の持ち味がもっとも発揮されるように思う。

 芸術選奨の審査の方は、二人の人情噺を主に評価しているが、私は滑稽噺にこそ、この二人の良さがあると、あくまで個人的に思っている。

 さん喬は、大衆芸能部門で谷村新司と一緒に受賞。何か、不思議な感じもするが、歌だって大衆芸能だよね。そう言えば、去年は権太楼ともう一人の受賞者が由紀さおりだったなぁ。

 ともかく、お目出度いことだ。お二人には素直に「おめでとう!」と言いましょう。
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by kogotokoubei | 2013-03-13 12:07 | 落語協会 | Comments(4)
 3月12日は、少し前に吉村昭の『暁の旅人』で紹介した松本良順の命日。
2013年1月26日のブログ

 同書や司馬遼太郎の『胡蝶の夢』の主人公、松本良順は、天保3年6月16日(1832年7月13日)生まれで、 明治40(1907)年の3月12日に、晩年を過ごした大磯で亡くなった。

 松本良順は、後に順天堂となる私塾を開いていた佐倉藩医佐藤泰然の次男として生まれ、父の友人である幕医松本良甫の養子となった。長崎に海軍伝習所が開設され、教員としてオランダから軍医も来日することを知り、長崎に出てオランダ軍医ポンペに西洋医学を学ぶ。長崎養生所設立にも貢献した後、蘭方医として幕末には幕府の(西洋)医学所頭取となった。新撰組との縁も深く、上京した際には、親交のあった近藤勇を訪ね、屯所にて隊士の回診を行うとともに、隊の衛生管理指導も行った。戊辰戦争では幕府軍のために戦場に赴いて兵士たちの治療にあたった。会津では日新館で負傷兵の手当をし、その後庄内を経て、仙台藩へ。
 松島沖に停泊中の軍艦「開陽」で榎本武揚から一緒に蝦夷へ行ってくれと誘われたが、土方歳三の意見を踏まえ、蝦夷行きを断ったということは、1月のブログで『暁の旅人』の引用を含め紹介した通り。
 幕府方についたため投獄されたが、のちに山県有朋の要請により陸軍軍医部を設立し、初代軍医総監となる。名を松本順と改め、貴族院の勅選議員を務めた。

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長崎大学附属図書館サイトの該当ページ
 長崎大学附属図書館のサイトにある、ポンペと一緒に写った良順の写真である。
 前列の右側にポンペ(本名は、ヨハネス・レイディウス・カタリヌス・ポンペ・ファン・メールデルフォールト)、その左に良順。

 シーボルトに比べてポンペの名は馴染みが薄いように思うが、二十代で日本にやって来て、言葉や文化の壁のある異国の地で献身的に西洋医学を教えたポンペの名は、もっと知られてよいと思う。

 さて、ポンペから西洋医学の精神と技術を習った松本良順は、落語にも縁があって、二代目の小さんに「禽語楼」という楼号を名乗るよう勧めたのが松本である。その由来は、江戸の昔、「小さん金五郎」という人情本があり、小さんという芸者と金五郎という旗本崩れが憤死するという艶っぽい物語だったらしい。この「小さん金五郎」を当て込み、もう一方では、二代目小さんが非常に高い声で、鳥がさえずるように喋るところから、「禽が語る」という文字をあてて楼号にしたらどうかと、本人に進めたと言われる。この二代目小さんは、最晩年に弟子の小三治に芸名を譲って、自分は柳家禽語楼となった。よって、二代目と言われるより、禽語楼の小さんとして通っている。

 『暁の旅人』を読了後、本棚から埃をかぶった文庫版『胡蝶の夢』(四分冊)を取り出して読んでいた。
 ボリュームとして、『胡蝶の夢』はざっと『暁の旅人』の四倍。そして、司馬の方は、松本良順一人が主人公ではなく、もう一人司馬凌海(島倉伊之助)についても同時並行的に描かれているし、幕末の状況に関する司馬ならではの幾層にも重なる味付けがされている。松本良順だけに関しては、戊辰戦争での会津で医療活動のことや、晩年の家族の不幸のことや大磯での生活などの記述は、吉村の方が圧倒的に多い。

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吉村昭著『暁の旅人』(講談社文庫)


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司馬遼太郎著『胡蝶の夢』(新潮文庫)

 歴史小説と史伝について、先日も引用した『暁の旅人』の文芸評論家でアンソロジストの吉國善己による解説を再び紹介。
 古い制度を破壊するためにエネルギッシュに働く『胡蝶の夢』と比べると、吉村の描く良順は地味な印象は拭えないが、これは歴史小説と史伝との違いにほかならない。ただ本書には、司馬作品とは異なる魅力があるのだ。
 会社勤めをしていれば、長年受け継がれてきた仕事の進め方が非効率に思えることもあるはずだ。だが、それを変えようとしても、すぐには実行できない。古いマニュアルに慣れた先輩には反対されるだろうし、自分のアイデアが採用されても、それによって業績が劇的に改善される保証もないので、上司も二の足を踏む確率は高い。それでも改革を進めようと思えば、まずこっそりと自分で試して実績を上げ、そのデータを使って賛同者を増やしていくなど、丁寧に根回しをしなければならない。トップダウンで命令が出せる経営者ならいざしらず、組織の中で生きる個人は改革を進めるにも慎重にならざるを得ない。
 これに倣うならば、『胡蝶の夢』は自分の理想を強引にでも進められる経営トップの視線で書かれた物語であり、『暁の旅人』は幕府という巨大組織の一員に過ぎない良順が、改革ブームの後押しを受けながら、少しずつ医療改革を行っていく物語といえるだろう。いってみれば吉村が目指したのは、良順を等身大の人間としたからこそ際立つ偉大さであり、誰もが身近な存在に感じられるからこそ生まれる限りない感動なのである。

 もちろん吉國善己氏は吉村派として、こう書いているのだろう。

 歴史小説は、“劇的”な物語とするため、主役を中心とする人物像をどう描くか、たぶんに作者の思い入れが反映される。そして、史伝は、出来る限り作者の思い入れを排し、遺された記録を掘り起こすことで、等身大の人物像をあぶり出そうとする。

 たとえば、当時の将軍家の医師として江戸城詰めをする奥(御)医師の頂点には、かつてシーボルトに学んだ蘭医の伊東玄朴がいた。この伊東玄朴は、司馬も吉村も、非常に出世欲がある政治好きな人間として描かれている。玄朴は、最新の西洋医学をポンぺから学んで江戸に帰ってきた良順を、自分の立場を脅かす者と見なしていた。

 では、試みとして、伊東玄朴に関する記述から、二つの小説を読み比べてみる。
 どちらも、良順が長崎から江戸に戻ってすぐの頃、良順と玄朴とがからむ描写からの引用。

 まず、『暁の旅人』から。江戸に戻ってすぐの場面。かつて伊東たち八十余名の医者が協力してつくった種痘所の施設を元に、幕府が(西洋)医学所を開設し、二代目の頭取として伊東が緒方洪庵に要請し、洪庵が大阪から赴任して間もなくの頃である。

 翌日、かれは医学所の隣りにある頭取役宅におもむき、緒方洪庵に新任の挨拶をした。医学所に通うようになり、奥医師として江戸城へも日を定めて足をむけた。
 かれは、伊東玄朴が、江戸の蘭方医を支配し、自分の目の前に大きく立ちはだかっているのを感じていた。
 玄朴は肥前藩領の貧農の子として生れ、貧しさから逃れ出るために医家への道をえらび、やがて蘭学をまなんでシーボルトの門下生となった。
 その後、江戸に出て刻苦勉励の末、肥前藩の藩医となり、多くの患者の治療にあたって多額の富を貯えた。
 かれは、大医家としての外観をそなえようとして、下谷御徒町和泉橋通りに表口二十四間(約43.6メートル)、奥行三十間(約54.5メートル)という大邸宅を新築した。それが江戸市中の評判となり、多くの患者が殺到して門外に順番を待って並ぶほどになり、年間の収入は千両以上と噂された。
 その間、かれは積極的に新知識の吸収につとめ、多くの医学書に親しんで、その学識をしたう門下生は百名近くに達していた。
 幕府は、玄朴の学識と実行力を高く評価し、前年の暮れに奥医師最高の地位である法印の座に任じ、名実ともに蘭方医たちの上に君臨していた。
 大きな権勢を持ったかれに、些細なことでもその意向をうかがわなければ、事が少しも進まない。玄朴に話を通さずに処理すると、必ず幕吏を動かして妨害する傾きがあった。
 奥医師の蘭方医たちは、陰で玄朴が異常なほど金銭欲と名誉欲に執着しているち非難していたが、富と名誉を一身に集めた玄朴に抗するすべはなかった。
 医学所のことでも、玄朴は、長崎から帰着してそうそうに頭取助に任命された良順に嫉妬の感情をいだいているようだった。そのため、奥医師最高位の法印であることを前面に押し出し、良順を威圧する。このようなことは、長崎では経験したことはなく、良順は鬱々とした気分であった。



 さて、次は『胡蝶の夢』から。司馬は、良順と玄朴の対面を描く。

 江戸に帰った良順は、四方へあいさつまわりをしなければならない。
 玄朴卓にも、あいさつに伺候した。養父の松本良甫が心配して、
「相手は法印長春院さまであることを忘れぬように」
 と、あらかじめさとしたが、良順は玄朴を単に悪党としてしか見なかった。良順という男は、多分に倫理主義の性癖をもっていた。かれにいれば医師という仕事そのものが倫理的にきわどい。ひとを死や病気から救済しようという点は、これほど倫理に即した職業はないが、それをおどしのたねにしておのれの欲望を遂げることができるという点では、これに似た仕事など地上にありえないといえる。医師だけはいつでも人非人になることができると良順はおもっていた。というより、頭を施(めぐ)らせばそのまま人非人になれるきわどさを自覚しつつ、たえず頑固に目を正面にむけていなければならないしごとであると思っていた。
(中 略)
 玄朴宅へあいさつにゆくと、奥座敷に通された。良順は登城のときの医官の服装である十徳を着て中啓を待っていた。
 やがて玄朴が入って、上座にすわった。良順は本来なら平伏しなければならない。相手はおなじ官位といっても法印長春院であり、位階だけでいえば大名に相当する。
 が、良順は同僚に対するようにかるく頭をさげた。それそのものが挑発である。色の黒い玄朴の顔が、赤黒くなった。
「長崎はどうであった」 
 と、玄朴はやさしくたずねてやろうと思っていたのだが、その言葉が出なかった。
 —こいつは、やはりわしに一物持っておるか。
 と、玄朴はおもった。玄朴はかねて良順が自分に悪意をもちつづけていることは気づいている。しかしこうも露わな態度を示されては黙っているわけにはいかず、
「良順どの、そこもとは夷人になったか」 
 と、わざと目をつぶって言った。目をひらくと生れつき眼光が鋭すぎることを玄朴は知っている。目を閉じたぶんだけ、言葉の激しさをやわらげてやったつもりである。
「夷人の礼なきを真似るようでは、殿中のお役目はつとまるまい」
 といったが、良順はそっぽをむいている。玄朴は、ひそかに復讐を考えた。



 この部分的な引用のみで判断するのは難しいが、歴史小説と史伝の違いを少しはイメージすることはできる。
 吉村は、伊東玄朴邸の巨大さを具体的な数字、彼の権勢や金銭欲を史実に残る記録を用いて示そうとする手法をとっている。まさに史伝的である。そして、良順の玄朴への思いにも、過度な感情移入を避け、「良順は鬱々とした気分であった」と記すことにとどめている。
 かたや司馬は、玄朴と良順の面会の席における良順の態度に、明確な玄朴への悪感情を表現する。そして、玄朴は、その良順の態度を不遜と思い何らかの復讐を企てる、と描く。あくまで、この対面場面は作者の想像による。

 どちらが良いとか悪いではない、と私は思う。どちらも楽しめるのが幸せなのだと思う。


 今回の記事の何とも散漫なタイトルが物語るように、松本良順という人のことを思う時、司馬と吉村の二つの小説に限らず、当節はNHKの大河ドラマ「八重の桜」が描く新島(山本)八重と新島襄夫妻のことも思い起こされる。

 松本良順は、新島夫妻と次のような縁で結ばれている、と思う。

 まず、八重とは、戊辰戦争の際に会津に赴いた良順が、日新館で会津の負傷兵を手当てする、という縁がある。もちろん、幕臣として最後まで徳川のために自分の医術を駆使した良順と、女だてらに鶴ケ城から官軍に向かって鉄砲で応戦した八重には、戦友としての縁がある。

 そして、新島襄との縁は、二人とも人生の最後を大磯で迎えていることだ。良順は、晩年、かつてポンぺから海水浴が人体に良いことを聞いていた。『暁の旅人』から引用。

 陸軍軍医総監を辞する前年、かれは伊豆の熱海温泉に遊び、帰途、大磯の宮代屋という宿屋に泊り、その地を調べた。
 大磯は潮の干満が大で、気候温暖、砂地が広く清潔であり、海水浴場としてのすべての条件をそなえているのを知った。
 かれは、宮代屋の主人宮代謙吉に大磯を海水浴場とすることを強くすすめ、宮代は僻地である大磯が繁栄することにもなると奔走したが、その効は薄かった。
 順は、折にふれて海水浴の効能を説き、大磯が海水浴場として最も適した地であると説いてまわった。しかし、大磯は僻地であることから、足を向ける者は稀であった。
 明治二十年(1887)七月十一日、横浜、国府津間の鉄道が開通し、東京から大磯まで汽車で行くことが可能になった。
 これによって京浜地区から大磯に海水浴に行く者が増し、年々にぎわいをきわめた。これに伴って政財界の者も競うように別荘を建て、むろん順もその一人であった。


 毎年七月一日の大磯の海開きは、まず松本順の碑で黙祷を捧げることから始まる。大磯海水浴場の祖、なのだ。

 その大磯の別荘で松本順が明治40年3月12日に亡くなる17年前、明治23年の1月23日に新島は大磯で満46歳で亡くなっている。同じ天保年間の生まれだが松本より11歳も年下だった新島襄は、同志社設立運動中の旅の途中に前橋で倒れ、まだ良順の勧めで海水浴場として開発される前の大磯の旅館百足屋で静養中に、旅立った。

 漫画を元にしたテレビドラマ「JIN-仁」に松本良順や伊東玄朴も登場したようだが、私は見ていないので、このドラマに関連して松本良順について書くことはできない。どうも、ああいうSF的なドラマは苦手なのだ。

 
 松本良順について考えると、どうしても二つの小説のことと、会津と大磯という地で縁のある新島襄と八重夫妻のことに思いが至る。
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by kogotokoubei | 2013-03-12 07:29 | 今日は何の日 | Comments(4)
 ざまの会は1月の鯉昇・喜多八に続き今年二度目だが、文我は昨年聴く機会がなく、一昨年9月、小金治さんの『渋酒』の高座と、あの“サプライズ”のあった会以来になる。
2011年9月30日のブログ

 文我から案内はもらっているのだが、去年は都合がなかなか合わなかったなぁ。
 会場前の看板。
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 今回はほぼ地元の会で都合も良く参上。文我も久し振りに楽しみにしていたが、何と言っても未見の上方落語の実力者、桂宗助との二人会とはうれしい。

 春の陽気の中で、昼食をとるために駅前の商店街で飛び込んだのだが、この店が大当たり。夫婦で営むお店で、関西出身のご主人がつくる「明石焼き」でビールが進み、お代わりしたら小鉢のサービス。ご主人との会話で落語会に行くことを話すと、米朝や枝雀の名は、もちろんご存知。また来ますと言って店を出た後、心地よく散歩気分で会場へ。

 会場では、開場時に大勢の方が並んでいた。開演時には、ほぼ満席だったように思う。
 次のような構成だった。
--------------------------------
(開口一番 柳亭市助『たらちね』)
桂宗助 『ちしゃ医者』
桂文我 『菜刀息子』(『弱法師』)
(仲入り)
桂宗助 『蔵丁稚』
桂文我 『古事記』
--------------------------------

柳亭市助『たらちね』 (14:01-14:15)
 市弥が二ツ目になったので、この会の開口一番のレギュラーは、この人になったようだ。派手ではないが、さわやかさ清々しさがあるし、妙なクセもない。このまま成長して欲しい。市弥にも、非常に良い刺激を与えているように思う。

桂宗助『ちしゃ医者』 (14:16-14:41)
 楽しみにしていた人が、出囃子「芸者ワルツ」で登場。マクラでヤブ医者、竹の子医者、スズメ医者のことを説明し本編へ。
 この後に文我がマクラで言っていたように、上方落語の、代表的な一席。「小便タゴ(壷)」を足で抱えたヤブ医者が揺れる駕籠に乗っている風景を想像させるところに、この噺のポイントがあるのだから、決して上品なネタとは言えない。ヤブ医者の主人公、赤壁周庵の描写が何とも結構。きっと、こういう医者なのだろうと思わせる。
 題目になっている「ちしゃ」は、サニーレタスと言うより韓国焼肉のサンチュと考えたほうが良さそうだ。上方でも「ちしゃ」という言い方は今では廃れてきたのではなかろうか。落語の効能は、昔の風俗や言葉を遺すことにもあるが、このネタもそういう範疇に入ってきたかもしれない。

桂文我『菜刀(ながたん)息子』(『弱法師』 (14:42-15:27)
 マクラで、この落語会の二回目から出演していること、その当時はホールではなく会議室のような会場だった、という思い出話を披露。今では年に一回か二回の出演だが、勝手知ったるスタッフさんと仕事をするのは楽しい、と語る。宗助のネタも上方の典型的なものだが、それとは趣の違う上方の人情噺をします、と本編へ。
 初めて聴く。別名『弱法師(よろぼし)』。後で調べたところでは、東京では桂小南が十八番にしていたらしい。今は弟子の小南治がかけるようだ。
 これも後で知ったのだが、2005年11月8日に亡くなった桂吉朝が、2005年10月27日、大阪国立文楽劇場「米朝・吉朝の会」で演じた生前最後の噺が、この「弱法師」だったらしい。

 主な登場人物は、商売の内容は詳しくは分からないが何らかのお店の旦那、その女房、一人息子の俊造、家出をした俊造を探しに行く熊吉だが、この噺の特徴として他にも声だけで登場する多くの出演者が脇を固める。
 父親が息子俊造を叱るところから噺は始まる。紙を裁断する断ち包丁を買って来いと俊造を使いに出したのに、菜や大根を切る菜刀(ながたん)を買ってきた、と言って息子を責める父親。何とかその怒りの矛先をそらそう、息子を庇おうとする母親。しかし、父親の出て行って苦労をして来い、の言葉を真に受けたのか俊造は家から姿を消した。
 この後の日と一日の過ぎる様子が、次の声で表現される。
 鍋ぁ~べ焼ぁ~き~うど~ん
 (この後に、カラスが)「カァ~」(文我は扇子で顔を隠して、「カァー」)
 さて、翌日深夜になっても戻らないので、出入りの熊吉(他の演者では熊五郎の場合が多い)が呼び出され、親戚を訪ねる。この時の複数の訪問先とのやりとりは、最初は一軒づつ語られるが、その後は訪問先の返事を、「俊造はん、いいえ、宅へは来てはらしまへんで」「うちには、来てへんで」「ここんとこ顔を見てへんなぁ」などと畳み掛けるた部分が結構だった。
 実は、この噺では、この手の畳みかけで時間の経過を表現する演出が他にもある。俊造が家出してからの時間の経過を、物売りの声で語る。
 ここからは、私の記憶も曖昧なので、いつもお世話になっている「世紀末亭」さんの「上方落語メモ」からご紹介。桂吉朝最後の高座の記録であることが、このページを見て分かった次第。「世紀末亭」さんサイトの該当ページより

 竹ぁ~けの子ッ 蕗やぁ~竹ぁ~けの子ッ
 葦ぉ~しやスダレは要りまへんか~い
 金魚ぉ~え 金魚ぉ~ッ
 蓮やぁ~オガラ 白蒸しの~ぬくぬく~
 さぁ~や豆ぇ~ 鉄砲豆ッ
 ミカンどぉじゃい 甘いおミカンどぉじゃい
 おぉ~しめ縄 飾り縄ぇッ
 七草ぇッ 七草ぇッ
 鍋ぁ~べ焼ぁ~き~うど~ん


 文我は、ミカンはなくて、スイカがあったように思う。モノ売りの声で四季の流れを表現し、さて七草になり、寒い夜「鍋ぁ~べ焼ぁ~きうど~ん」屋の声の後に、カラスが「カァ~」と鳴く。
 夫婦の会話で「あれから一年か・・・・・・」となるのだが、その一年後の物語のことやサゲについては、ご紹介した世紀末亭さんのページでご確認のほどを。
 親子の情愛、そして、時間経過を演出するモノ売りの声などを含め、なかなかの熱演だった。久し振りだったが流石の文我である。今年のマイベスト十席候補とする。

桂宗助『蔵丁稚』 (15:38-16:08)
 仲入り後、この人から。マクラでの歌舞伎の紹介や団十郎の声帯模写が、なかなか結構だった。東京では『四段目』。マクラの歌舞伎ネタの声色から本編まで、東京でなら市馬と十分に対抗しうる高座。こういう人が上方には、まだいたのだ。やはりうれしい出会いだった。
 入場の際にもらったプログラムでは、女性役が良いとのことだったが、この日の二席では、一席目のサゲで登場する農家の婆さんと、二席目も最後に登場するお清どんのみ。次回、女性がもっと出演するネタを聴きたいと思う。二席とも結構だったが、これ位ならこの実力者には当たり前でもあるだろう。ぜひ、今後も聴きたい人だ。

桂文我『古事記』 (16:09-16:50)
 この人が「古事記」を素材にしたネタをするとは聞いていた。しかし、こういう内容とは想像していなかった。
 喩えて言えば、「古事記」を素材にした『源平』や、歌之介の『龍馬伝』のようなネタと思ってよいだろう。文我が「古事記」でネタということで、まさかこういう爆笑ネタにするとは思っていなかったが、六代目松鶴や「笑点」の初代メンバー柳亭小痴楽の逸話などで、会場は大いに沸いた。
 計算された脱線ネタを含め、「古事記」の作者や、自分と同じ三重は松坂出身の本居宣長による「古事記伝」のことなどでの長講だったが、良い意味で文我の新しい“お茶目”な面を見た楽しさもあった。しかし、これだけの時間があれば、この人はいくらでも本寸法の上方落語をできたはず、という不満とが交錯していた。しかし、それを言うなら、関東でも独演会を精力的に開催している人なので、もっと他の会に行かなきゃならないのだろう。

 
 文我の一席目、そして宗助の二席、これが当日券でも800円、というあまりにも嬉しい会。そして、上方落語でこれだけののお客さん、と言うのは、3月末までの回数券(5枚で3000円)の使用期限ということもあったかもしれない。回数券を買うと、一回600円。この木戸銭で、今回のような二人や、一月の鯉昇と喜多八などの二人会を楽しめるのだから、座間の人々は恵まれている思う。

 そして、隣り町の在である私は、安く良質な落語を聴かせてもらえることは座間の市民の皆さんの税金のおかげとばかり、座間のお店で昼食を、と入ったお店が大当たり。つい生ビールを飲んでいたこともあり、帰宅し犬の散歩の後で晩酌をしていると、昼間のビールと夜の酒が結託してほろ酔い加減から両の瞼を仲良くさせてきた。よって(酔って)、当日のうちにブログを書くことはできなかったのである。
 翌日曜夕刻、ようやく書き終えた。それにしても、結構な会だったなぁ。あの二人であの木戸銭。日産から落ちるお金がごそっと減った座間の街には、あの木戸銭であれだけの落語を聴かせてもらっているのだから、もっとお金を落とさなければ申し訳ない。そんなことも思うのだった。この日で通算168回のようだが、今後もぜひ続けて欲しい会である。
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by kogotokoubei | 2013-03-10 16:02 | 落語会 | Comments(2)
3月8日は「国際女性デー」らしい。Wikipediaから「起源」を引用。
Wikipedia「国際女性デー」

起源 
 1904年3月8日にアメリカ合衆国のニューヨークで、女性労働者が婦人参政権を要求してデモを起こした。これを受けドイツの社会主義者・クララ・ツェトキンが、1910年にコペンハーゲンで行なわれた国際社会主義者会議で「女性の政治的自由と平等のためにたたかう」記念の日とするよう提唱したことから始まった。



 さすがに、女性の社会進出が進んでいるフランスでは、パイロットを含め女性搭乗員のみでエアバスを飛ばすんだとさ。AFP BB Newsの該当記事

エールフランスが女性乗員だけのフライト、「国際女性デー」を記念
2013年03月08日 09:49 発信地:パリ/フランス

【3月8日 AFP】エールフランス(Air France)は8日、国際女性デー(International Women's Day )を記念して、乗員全てが女性の仏パリ(Paris)~米ワシントン(Washington)便を運航する。

 同便に投入されるのは超大型旅客機「エアバスA380(Airbus A380)」。旅客は516人まで搭乗可能だ。

 同社は7日、「パイロット2人と客室乗務員22人、すべて女性で運航する」との声明を発表。同社は2006年から毎年、国際女性デーに同様の便を運航してきたが、A380を投入するのは初めてで、これまでで最大規模となる。

 同機に搭乗する操縦士のクリスティーヌ・ハイツ(Christine Heitz)さんは、「女性だけで運航する便となれば、注目を集めるでしょう。とてもわくわくしています」と話している。(c)AFP



 Googleも今日は「国際女性デー」に因んだ複数の女性のイラスト。そして、その中に「Google」の文字が隠れている。ガジェット通信の該当記事

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 う~ん、日本ではどんなことが考えられるのかなぁ。

 因みに、日本では「3=み」「8=や」で、みやげ(土産)の日なんだと
 そうか、カミサンに何か土産を買えば、二つの記念日をいっぺんに祝うことになるなぁ。
 そして、「3=サ」と「8=ワ」で「サワークリームの日」でもあるんだとさ。
Wikipedia「3月8日」
 
 そうかカミサンにサワークリームを土産に買って帰れば、なんと三つの記念日をいっぺんに祝うことができるのだ。

 などと安易なことを考えると、普段土産など買って帰ることはないから、「何か後ろめたいことがあるに違いない」と疑われて、いろいろと詮索されるのがオチ。

 何もしないに、こしたことはない^^
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by kogotokoubei | 2013-03-08 06:23 | 今日は何の日 | Comments(0)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛