噺の話

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 なんと、1月31日は、「愛妻の日」だったらしい。

 最初の「1」をアルファベットの「I」に見立て、「I31」で、「あいさい」=「愛妻」らしい。

 事務局が群馬嬬恋(つまごい)にある「日本愛妻家協会」という団体があるようだ。
日本愛妻家協会のサイト

 そのサイトで、1月31日の「愛妻の日」午後8時9分に「ハグ」しよう、と呼びかけている^^
ハグタイム計画
「倦怠感削減愛情持久力向上プログラム」、とのこと。

2013年1月31日愛妻の日は、世界で最もハグの苦手な日本人がハグで世の中を一瞬明るくしてみることに挑戦する日にします。
100万人が同時にハグすれば日本はちょっといい感じになるかもしれない。



 なんと、同協会のオフィシャルグッズには、「ハグマット」なるものがある。ここに足を乗せて、「ハグ」るらしい。
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 サイトから、同協会のことをご紹介。

〇日本愛妻家協会趣意書

■日本愛妻家協会とは

妻というもっとも身近な赤の他人を大切にする人が増えると、世界はもう少し豊かで平和になるかもしれない。という甘い理想のもと、日本独自の伝統文化かもしれない愛妻家というライフスタイルを世界に広めていこうという文化活動です。

■活動理念

日本愛妻家協会は、持続可能な夫婦関係はどうも世界の平和と地球環境の保全につながっているらしいと気づいたオヤジたちが始めた、いたってスローな活動です。「サスティナブルな夫婦環境を保全するワイフコンシャスなライフスタイル」という感じです。
1.失われつつある日本独自の愛妻家という文化を再生します。
2.絶滅が危惧される愛妻家の生態を調査し保護育成に努めます。
3.愛妻家だけもつ知られざる倦怠感削減の知恵を世の中に広めます。



 そういえば、嬬恋で夏に旦那がカミさんに対して何かを叫ぶイベントがあったなぁ、と思ってググったら、あれは「キャベチュー」と言うらしい。「キャベチュー」のサイト

標高1200mの広大なキャベツ畑の真ん中にある叫び専用台から浅間山に向かって、
男たちが今まで言えなかった愛と感謝の言葉を叫びます。



 嬬恋村観光の一つの目玉にもなっているようだ。村のホームページにも紹介されている。
嬬恋村ホームページの該当ページ

日本愛妻家協会公認夫婦環境保全倦怠感削減プログラム
キャベツ畑の中心で妻に愛を叫ぶ(キャベチュー)

村名の由来と生産量日本一のキャベツを活用したイベントとして、日ごろ寡黙な男たちが1年に一度くらいは妻への感謝の言葉、愛の言葉を大声で叫んでみてもいいのではないかとのことから平成18年に始まりました。
おおむね、日本の男性は妻を前にすると「ありがとう」や「愛してる」などの言葉が出にくいとされています。そこでひとまずキャベツに向かって叫んでみると苦手な愛情表現を克服できるのではないかと考えたわけです。
その場で指輪を差し出し、「生まれ変わってもまた一緒になろう!」、その場でプロポーズ「○○さんと一緒になろうと思います!」など、たくさんのドラマが生まれています。その時、会場は温かい空気に包まれます。



 まぁ、村も協会も、半分以上は「シャレ」のつもりで始めたイベントなのだろうが、私もニュースなどで見たことがあるので、それなりの経済効果もあるのかもしれない。


 さて、我が家の“倦怠感削減愛情持久力向上”のための、「ハグタイム」は・・・・・・。

 あつ、気が付けばもう午後8時9分を過ぎているではないか、残念^^
 そもそも、そんなことをこっちが言い出したら、「何、馬鹿言ってんの!」で会話はお開きだろう。

 ところで、「愛妻の日」はあっても、「愛夫の会」ってないなぁ。そもそも「愛夫」という言葉がないか。

 現実問題としては、「恐妻家の日」はどうだろう。

 居酒屋で、家で肩身の狭い思いをしている男同士が集まってグチをこぼしながらの飲み代が半額になるような、そんな記念日が欲しい、と思わないでもない。
「あっ、9月31日がいいか!?」とひらめき、「きゅうさい」→「きょうさい」→「恐妻」だ、などと思ったが、9月には31日はなかった。そもそも「931」なら、「くさい」か。「加齢で臭いわよ!」っていうことか。とても笑えないお粗末なサゲでお開き^^
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by kogotokoubei | 2013-01-31 19:30 | 今日は何の日 | Comments(4)
 八代目正蔵に続き、その正蔵とも縁のあった噺家について、明日の命日を前にして書きたいと思う。

 十代目の桂文治のことである。大正13(1924)年1月14日生まれで、平成16(2004)年の1月31日、ちょうど落語芸術協会会長の任期満了日に旅立った。東京都豊島区出身の落語家で南画家でもあり、新宿末広亭で販売している高座扇子の着物姿の女性の後ろ姿など、私は好きだ。「友の会」の更新の際は、必ずこの扇子をいただく。父親も噺家で初代柳家蝠丸。出囃子の『武蔵名物』は十一代目にも継承された。

 八代目正蔵との縁、というのは十代目襲名の際に、正蔵の大きな力添えがあったからである。九代目桂文治は、本名の高安留吉から、通称「留さん文治」と呼ばれた。この「留さん」が正蔵と同じ稲荷町の長屋暮らしで、それも隣同士で、正蔵とは兄弟分の間柄だった。正蔵は一時、「留さん文治」の最初の師匠四代目橘家圓蔵一門に在籍していたことがある。この四代目橘家圓蔵一門には、正蔵の“天敵”、六代目円生もいた。


 十代目文治の師匠は、五代目古今亭今輔や桂小金治などの師匠でもあった上方出身の二代目桂小文治。小文治が七代目文治門下だったとは言え、当時の伸治が大名跡を継ぐ立場にいたとは言えないだろう。
 しかし、九代目の「留さん」が亡くなった後で、正蔵の強い推薦があって十代目を継ぐことができたのである。「留さん文治」は落語協会所属だったから、師匠小文治と同じ落語芸術協会所属の桂伸治がこの大名跡を継ぐことなど、今日の両協会の関係を考えると、非常に思い切った襲名と言えよう。十代目文治と八代目正蔵の縁は、非常に深いものと言える。

 私にとっては、ご本人には申し訳ないが、文治よりも伸治の名で記憶されている。桂伸治(二代目)の名は、昭和23(1948)年から昭和54(1979)年まで30年以上の長期間名乗っていた。ちなみに文治としての在籍期間は25年。小学生時代に見た「お笑いタッグマッチ」が懐かしい。


 さて、十代目文治の弟子の一人で、大師匠の名を継いだ三代目桂小文治が、ホームページ「桂小文治は噺家で!」に、師匠が亡くなった時の状況などを書いているの引用したい。冒頭の秀美さんとは、師匠の御子息の名である。
桂小文治のホームページ

 秀実さんから「ちょっと話しておきたい事があるんだ。皆、都合はどうかなあ?」「はい、私から連絡します」1月27日昼、師匠宅に蝠丸・伸治・小文治・平治・右團治の真打5人が集まりました。皆、洒落も笑顔もなく重々しい雰囲気です。

 「お父さんの病気なんだけど、肺炎じゃあないんだ・・・。白血病なんだ」「ええっ、白血病?」病気の詳しい説明を聞きました。31日から抗がん剤を投与する予定。もしかしたら、意識不明になる恐れがある。感染症が心配なので本来は見舞いは出来ないけど、師匠も会いたがってるから、抗がん剤投与前日の30日に師匠に会って元気付けてもらいたいとの事。皆、ただただ驚くばかり、この現実を受け入れたくない気持ちでいっぱいです。「それで色々騒がれたくないから、今まで通り、インフルエンザをこじらせて肺炎になったと言う事にしておいてね」「はい、承知しました」

 30日昼、5人で待ち合わせて東京女子医大に行きました。皆、口数少なく本館のエレベーターを上がり師匠の病室へ。ドアを軽くノックしたら秀実さんが出てきて「ちょっと待ってね」しばらくぼ~っと待って中へ入りました。師匠は「ハア、ハア」と息苦しそうにベットに横たわっています。私達の姿を見て、ベットを起こし座るような姿勢になり、開口一番「誰が会長になった?」「歌丸師匠です」「そうか、俺はもう~これからは好きにやるよ」常に血圧や心電を計っています。後で聞いた話ですが、私達がいた時だけ正常値になったそうです。かなり気を張ったのではないのでしょうか。長居はできません、弟子一人一人が師匠と話しをし、元気付けて失礼する事にしました。先ずは私から「師匠、私達一門だけじゃあありません。芸術協会の為にも落語会の為にも早く元気になって下さい」涙をこらえるのがやっとです。続いて右團治「師匠噺の稽古をお願いします」次の平治「・・・師匠~・・ううぇ~」泣き始めちゃった。師匠は目をぱちくりして何が何だかわからない様子。何とか終らせて伸治兄さん、蝠丸兄さん・・・。病室を出たらもう~皆涙が止まりません。「師匠の死期を早めたのは平治だ」と言うのは本当かもしれません。

 感染症の心配はあるけれど、これからは弟子が交替でそばにいて師匠の世話をし、元気付けようと言う事になりました。その割り振りを私がすることになり、何の気なしに2月1日から決めたのです。まさか31日に亡くなってしまうとは・・・。



 師匠の死期を早めた、といじられている平治が、十一代目文治を継いだ。もちろん、芸も継承していて『源平』や『禁酒番屋』『鼻ほしい』などの滑稽噺で会場を爆笑の渦にする実力者と、私は認めている。

 さて、小文治のサイトには、あの「ラッキーおじさん」の逸話も書かれているので、ご紹介したい。

 師匠は小柄で威勢がいい、それに何と言ってもあの大きな目玉をくりくりっと動かす、これが大変な魅力だったのではないでしょうか。ファン層にも幅があり、女子中・高に「かわいい!」なんて言われてたんですよ。西武池袋線沿線で(ラッキーおじさん)に会うと、その日一日が幸せになると言う噂がラジオで紹介され、若者の間に広まっていますが、どうやらその(ラッキーおじさん)がうちの師匠らしいのです。上は着物で、下は変ったずぼん(もんぺ)、帽子をかぶって草履を履いて、変なカバンを持って杖ついてる・・・こんな人、師匠の他に滅多にいませんからね。



 「ラッキーおじさん」のネタは、文治一門に限らず噺家がマクラで使うことがある。

 さて次に、高田文夫が「日刊スポーツ」に書いていたコラム「娯楽 極道 お道楽」をまとめた『毎日が大衆芸能』という本のシリーズの第二巻から引用。

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高田文夫『毎日が大衆芸能-しょの2-』(中公文庫)

正しい東京人

 桂文治師匠が風邪で入院しているといううわさは聞いていた。しかしこんなにいきなり亡くなってしまうとは。去り方までが、江戸っ子らしくあっさりと。80歳。小柄で丸くて大きなかわいい目をしていて、晩年はそのいなせな角刈りの髪も真っ白で、高座は愛嬌たっぷりで、そのくせ人一倍、江戸の暮らし、言葉などにはうるさくて、私などが東京っ子として間違った言葉遣いをしてインタビューすると、ピシッとその場で小言、これがまた含蓄があって楽しくて勉強になった。日本一かわいいおじいちゃんだと思っていた。心のアイドルだった。365日、常に着物で暮らしていた。「堀之内」「道具屋」「源平」など軽い噺がバツグンにユーモラスでホールではなく寄席が一番似合った師匠だった。楽屋の火鉢の所にいるだけでそこはもう江戸から明治の空気、風情だった。また正しい東京人を一人失った。お年寄りが一人亡くなるということは図書館が10軒つぶれることだという。もっともっと何でも聞いておけば良かったかなぁ。



 十一代桂文治も、日常着物で通している。芸のみならず、師匠の精神の継承なのだろう。

 お年寄りが一人亡くなるということは図書館が10軒つぶれることだ、という言葉、なかなか味があるし説得力があると思う。

 八代目林家正蔵は、五代目柳家小さんの名には縁がなかった。文楽という強力な後ろ盾のあった九代目小三治が継ぐことになった。その正蔵が、小さんにも負けないだけの大名跡である文治の襲名において、今度は後ろ盾になったという歴史の巡り合わせに、なんとも不思議なものを感じる。

 八代目正蔵のこと、そしてこの記事を書いた後、ネットで稲荷町の長屋の写真を発見。「二邑亭駄菓子のよろず話」というホームページの「東京-昭和の記録-」における、東上野の写真の中にあった。あまりにも貴重で雰囲気の出ている写真なので、管理者の方にお願いし許諾を得て掲載させていただく。
 昭和59(1984)年4月当時の写真。その昔、奥の四軒長屋に「トンガリ」と「留さん」が住んでいたんだね。

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「二邑亭駄菓子のよろず話」の「東京 -昭和の記録-」

 この長屋で「トンガリの正蔵」の隣りにいた「留さん文治」は、その十八番の中に十代目文治の父である初代柳家蝠丸の作『大蔵次官』があった。そういった縁も含め、きっと稲荷町の長屋で、次のような会話があったのではなかろうか。

文治 正蔵さん、俺も、もう長くはねぇよ。
正蔵 おい、留さん、何を言ってんだ。そもそも、おめぇさんの大きな名を継ぐ者が
   決まらねぇままでは、逝っちゃいけねぇよ。
文治 ・・・それなら、伸治がいい。あいつがいいやね。
正蔵 ・・・それは、難しかろう。協会が違ってるよ。
文治 そんなことは関係ねぇよ。問題は人だよ。第一、俺には継がせるだけの弟子は
   いないよ。伸治は親の代からの噺家・・・あいつでいいんだよ。


 まったくの想像である。
 
 本来なら継ぐことのできなかったであろう大名跡を、「トンガリ」正蔵の後押しで継承することのできたことを考えると、ご本人こそが、まさに“ラッキーおじさん”であったといえるだろう。
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by kogotokoubei | 2013-01-30 19:30 | 今日は何の日 | Comments(4)
1月28日のNHK「ファミリーヒストリー」は、五代目柳家小さんのことを辿った映像を孫の花緑が見る、という内容だった。
NHKサイトの「ファミリヒストリー」のページ

ファミリーヒストリー「柳家花緑~祖父・小さんの二・二六事件、その真実~」
落語家・柳家花緑。祖父で師匠の柳家小さんは、落語界初の人間国宝。77年前、小さんは二・二六事件に加わった。極限状態で、小さんは落語をすることになる。その後、反乱軍の汚名を着せられ、向かった満州。兵士たちは皆、絶望を味わっていた。そんな中で小さんが気づいたのは「つらい時こそ、笑いが希望になる」。そして、波乱の人生を経験した小さんのもとで育った花緑。小さんから、ひとつの試練を与えられる。その真実とは。


 ある程度は知っていたが、二・二六事件や戦地での小さんのことを、子ども時代の友人や戦友、そして川戸貞吉などの証言を交えて辿る内容は、人間小さんを知る上でなかなか結構だった。見逃した方は、金曜(木曜の夜)に再放送があるのでご確認を。

 さて、この番組を見ながら、歴史に「If」は禁物だが、もしかすると五代目小さんはあの人だったなぁ、という噺家が1月29日が命日であることに気がついた。
 その名は、八代目林家正蔵。明治28(1995)年5月16日生まれで、昭和57(1982)年の1月29日、米寿での旅立ちだった。住んでいた長屋の地名から「稲荷町」と呼ばれ、また、その性格から「トンガリの正蔵」と言われた。

 晩年の名である彦六でお馴染みだが、実は彦六という名では、たった一年しか活動期間はなかった。

 昭和25(1950)年当時、彦六は三代目小さん一門の兄弟子だった四代目の小さん門下で、小さんへの出世名であった五代目蝶花楼馬楽を名乗っていた。しかし、五代目小さん襲名を当時の九代目柳家小三治と争い、八代目文楽の後押しを受けた小三治が五代目を襲名することになった。香盤は馬楽の方が上であり、小さんという大名跡が馬楽の下になる逆転現象を解消する方便として、一代限りということで林家正蔵の名を海老名家から借りたのである。その名を初代三平が亡くなった昭和55(1980)年に海老名家に返上し、昭和56(1981)年1月から名のったのが、彦六。
 だから、八代目正蔵の名は、昭和25(1950)年から昭和55(1980)年の30年間名乗っている。彦六は、たった1年。彦六の期間がもっと長かったと勘違いしている人は多いだろう。それは、晩年に彦六としてテレビに登場する頻度が高かったことと、現在の木久扇の物真似が影響しているように思う。

 その八代目正蔵には、数多くの逸話がある。

 まず、矢野誠一著『酒場の藝人たち-林家正蔵の告白-』から引用。

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矢野誠一著『酒場の藝人たち-林家正蔵の告白-』(文春文庫)

 ウィスキーのお代わりを命じて、枝二がいなくなるのを見すますと、ほんのちょっと居住まいを正した正蔵が、それまでとは変った、芝居がかった調子で口をひらいた。
「じつは、私とKさんが切れて、きれいな関係になってから・・・・・・」
 これには、僕も江國滋も、腰をぬかさんばかりにおどろいた。
 Kさんというのは、その時分まだ充分に色っぽかった音曲の女芸人で、毒舌と軽妙な語りが売物のひとり高座でならしていた。漫才の相方でもあった亭主に先立たれてから、ひとりではじめた三味線漫談が当って、当時の色物の女芸人では抜群の人気で、しばしば映画にも出演したりしていたものである。


 ある程度、昭和の芸能の世界を知っている方なら、このKさんが誰かはすぐお分かりだろう。

 矢野誠一と江國滋が「腰を抜かさん」ばかり驚いたのは、堅物として知られ、「トンガリ」と言われていた正蔵と、そういう艶っぽい話に、あまりにもギャップを感じたということなのだろう。

 この本には全部で三十六編の芸人についてのエッセイが収録されているのだが、副題にする位、この正蔵の告白の印象が強かったと察する。ちなみに、紹介した文に登場する枝二は、今日の春風亭栄枝である。


 次に、暉峻康隆著『落語芸談』から。昭和40年代の対談の記録である。

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暉峻康隆著『落語芸談』(小学館ライブラリー)

暉峻 正蔵さんの真打前後、真打になってからでもそうでしょうけれども、いま広くはなし家のみなさんの暮らし方を見ていると、やっぱり正蔵さんがいちばん、明治・大正時代のはなし家の生き方をそのまま、非常に頑固に守り続けている感じがするんですよ(笑)。
正蔵 あたくしだってね。階下が二間で二階が二間っかない家よりか、もっと豪勢なところへ住みたいという、了見は、それはありますよ。ありますけれどね。あたしは売り出しといいますかね、少し用いられ方が遅かったもんですから、大して収入のないうちにこういう世の中にになってしまったんです。税金のほうがきびしくなってしまって・・・・・・。そのうちに建築費はどんどん上がってきましたから、あたしなんぞ建てるという資力もないし、そういうことを思ったこともありませんがね。それで依然として長屋住まいなわけなんですよね。けども、よく考えてみるとね。最初にあそこ(台東区稲荷町)へ越してきたのが昭和の十二年なんです。それからみると、今日のほうが衣類やなんかもふえていますしね、借金はありませんし、かえっていまの生活が非常に快適であるということは言えるんですよ(笑)。

 
 正蔵が「稲荷町」に居続けた理由の一端である。

 もちろん、この対談に正蔵の思いの全てが吐露されているわけではないだろう。正蔵が長屋住まいに固執したのは、決して経済的な問題だけが理由とは思えない。きっと、周囲の多くの噺家が立派な家を構える状況を横目で見ながら、本来の「トンガリ」精神で、“長屋の八ッあん、熊さんの噺をする落語家は、長屋暮らしでいい”という思いで稲荷町に居続けたように思う。

 その稲荷町の長屋の様子や、正蔵の「トンガリ」精神の一端を江國滋著『落語美学』から紹介したい。
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江國滋著『落語美学』(ちくま文庫)

「芸の人びと」という章の、最初の文章が『正蔵の定期券』である。初版は昭和40(1965)年の発行。

 いまではもうほとんど見られなくなって、いっそ重要文化財扱いをしたくなるような、そんな昔ながらの三軒長屋が、下谷稲荷町の地下鉄の駅近くの狭い路地にあって、そこに林家正蔵(八代目)が住んでいる。
 玄関で案内を乞うと、障子ごしに「さあ、どうぞ奥へ」と、打てば響くようにご本人の返事がかえってくるのだが、そういわれたって、奥はもう台所ではないかという、その台所と玄関を画す分水嶺ともいうべき六畳間の中央に、ことし六十九歳の正蔵は、五十歳ぐらいの若々しい顔をして、端然とすわっている。いつたずねてもいっても、「いまコーシー(珈琲)をいれますから」といって、パーコレーターを持ち出してきたり、「牛めしがありますけど、めしあがりませんか」とすすめてくれたりしながら、如才なくよもやまの雑談をはじめる。

 稲荷町の長屋で、客人に自ら“コーシー”を振る舞う正蔵の姿を想像すると、なぜか微笑ましくなる。この文章の後半には、正蔵ならではの逸話が紹介されている。

 自分なりの理屈とモラルを、この人ほど大事にする人はいない。例えば、各種パーティーの案内状を見て、会費いくらいくらとあれば万障繰り合わせて出席するが、<ご招待>と書いてあったら原則として欠席して、その代り当日必ず祝電をうつ—といったような一種独特のルールを、この人はいくつも持っていて、断固としてそのルールにのっとって行動する。そのため、時には頑迷固陋もきわまれりというような突飛な行動に出ることさえあるのだが、その場合でも、正蔵にしてみれば、そうするのが当然だからであり、あくまで大まじめなのだ。
「どうぞごゆっくり」といい残してさっさとおりていった、その地下鉄について、こんな話がある。
 きちんと定期券を買って寄席にかよっている正蔵が、ある時、同じ区間なのにわざわざ切符を買ったので、弟子が「師匠、定期忘れたんですか」と尋ねると、「いや、ここに持っているよ」といってちゃんと定期入れを出してみせた。期限切れでもなければ、行先がちがうわけでもない。それなのに切符を買うのはなぜか。実は、この日、これが二度目の出勤だったからである。
「いいかい、通勤定期ってものはね、勤務先、われわれでいやァ寄席だァね、その勤務先へ毎日行って帰ってくるためのもんだ、それだからべら棒に安くなっているんだよ。きょう、俺はいったん家ィ帰ったろ?二度往復するのに定期使っちゃ悪いじゃねえか」
 正蔵は弟子にそういって説明したという。卓然として独往する正蔵の面目躍如というところだが、これが、一事が万事なのである。


 人間国宝はライバルだった小さんに授けられたが、著者江國滋が指摘するように、その長屋ではなく、正蔵という人こそ重要無形文化財に相応しかったのではないだろうか。なかなか、こんな人はいない。
 この本には矢野誠一が主催する「精選落語会」のギャラが多すぎると、従来より上がった分を正蔵が返却した逸話も書かれている。どこまでも、自分の筋、美学を通す明治人の典型と言えるのではなかろうか。

 正蔵は先代柳朝の師匠であり、小朝の大師匠である。また、今日落語界において充実ぶりを誇る春風亭一朝一門のルーツである。何と言っても、あの古今亭志ん朝は、父志ん生に入門はしたが、入門からの一年半に渡って稲荷町に通い、正蔵から落語の基礎をみっちり学んだ。いわば志ん朝の最初の芸の師匠であり、恩人である。

 稲荷町は、目白の五代目小さんと襲名においてライバルではあったが、心情的な競争相手は柏木の円生であったと言えるだろう。弟子柳朝の『宿屋の仇討ち』を聴いた円生が、「師匠よりも、いいね」と言ったことを耳にした正蔵が怒った、など二人の確執にまつわる逸話も多い。

 私は、この二人とも十八番とする噺の中で、『中村仲蔵』と『火事息子』は、正蔵の方が好きだ。と言うか、自分が知る限りの情報での判断になるが、噺家として、その人物、人格面から考え、私は正蔵という人間の方に、強い思い入れがある。柏木には、どうしても他人に冷たい印象が拭えない。


 日本ビクターの「日本伝統文化振興財団」から発売されている下記の音源は、『火事息子』が昭和39(1964)年、『中村仲蔵』が昭和40(1965)年の、どちらも東宝名人会でのものだが、とても結構。ほぼ古希の年齢での高座だが、まさに円熟した味がある。マクラもいいんだよね、両方とも。お奨めです。

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林家正蔵『中村仲蔵・火事息子・一眼国』(日本伝統文化振興財団)

 その芸と人に思いを馳せると、明治人の凛としたた生き方の美学、そして日本人が失ったモラルのことにも考えがおよぶ。「多すぎる」とギャラを返却したり、「定期は一回限り」として二度目に切符を買う、といった考え方や行為は、当時でも他の人にとって違和感があっただろうが、今日では「ありえない」ことだろう。しかし、そういった正蔵の「トンガリ」精神をあらためて振り返って、何らかの教えとして生かしたいとも思う命日である。


p.s.
 この記事を書いた後、ネットで稲荷町の長屋の写真を発見。「二邑亭駄菓子のよろず話」というホームページの「東京-昭和の記録-」における、東上野の写真の中にあった。あまりにも貴重で雰囲気の出ている写真なので、管理者の方にお願いし許諾を得て掲載させていただきました。
 昭和59(1984)年4月当時の写真です。奥の四軒並んだ長屋。その昔、ここに「トンガリ」と「留さん」が住んでいたんですね。

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「二邑亭駄菓子のよろず話」の「東京 -昭和の記録-」
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by kogotokoubei | 2013-01-29 00:11 | 今日は何の日 | Comments(8)
昨日が旧暦12月14日ならば、今日は12月15日の道理。

 12月14日ということで、昨日は「忠臣蔵」の史実と虚構のことを書いた。

 さて、明治元年12月15日(新暦1869年1月27日)は、 旧幕府軍の榎本武揚らが箱館で蝦夷地の領有を宣言し蝦夷共和国を発足した日。

 榎本武揚と箱館で思い出したのが、小説においても、歴史小説と史伝の違いがあるなぁ、ということ。

 榎本本人のことというより、榎本が函館に連れて行きたかったが、その誘いを断った一人の医師松本良順を主人公として、名作と言える小説が二作ある。
 一つは司馬遼太郎の『胡蝶の夢』であり、もう一作が吉村昭の『暁の旅人』である。私は前者は相当前に読んで、また読み直そうと思っている。後者は、つい最近読了したばかり。

『暁の旅人』から少し引用したい。

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吉村昭著『暁の旅人』(講談社文庫)

 松本良順は、長崎でオランダ人医者ポンペに学び、蘭方医として幕末に幕府医学所頭取となり、戊辰戦争勃発後は江戸から会津、庄内と渡って幕府軍の負傷者を治療しながら旅をしていた。次の行き先が、仙台から手紙を寄越した榎本の軍艦が停泊していた松島近郊の地であった。
 軍艦「開陽」で榎本と会った良順は、榎本から一緒に蝦夷へ行ってくれと誘われる。その後、榎本の口から、実父佐藤泰然の五男である弟の信五郎が、榎本艦隊におり一緒に蝦夷へ行くこと、榎本の妻が異母姉の娘、姪であることなどを知る。その後の榎本との会話を一部引用。

「榎本殿が、弟に蝦夷へ参ろうと説いたのですね」
 良順は、辛うじて言った。
「その通りです。信五郎は、英語に精通しておられる。私は蝦夷に行き新政府を作りあげる所存だが、箱館に在住する多くの外国人との交渉が必然的に生じるはずです。それにともなう外交文書の作成その他に信五郎殿は、不可欠の人物なのです。そのことを説き、蝦夷の新天地で共に働きましょう、と誘ったのです」
「承諾したのですね」
「お父上の泰然先生に御相談なさった由ですが、先生のお言葉は、私の思うところと一致しており、感激いたしました」
 榎本は、感慨深げに言った。
 泰然は、幕府の政治は腐敗を極めているので、滅亡に至るのは当然のことである、と述べた。しかし、人間には節操というものがあり、一日でも主君と仰いだ家の滅亡に際して、いわゆる君辱しめられる時は臣死すの教訓通り、命を捧げるのは人間の道である。お前の志すところは、私もよしとするところであるから、自分の望む通りにせよ。身の危険を避けようとするのは臆病であり、私の最も卑しむところである、と。

 

 会津で多くの負傷者を治療し、その後も鶴岡に向かって庄内藩を医者として支援してきた良順は、自分の行いは、父泰然の思いにも通じていたと思うのだが、蝦夷行きは、そう簡単に許諾できることでもなく、熟考させてくれと、「開陽」を降りた。

 そして、悩む良順の思いに決着をつけてくれたのは、誰あろうあの人だった。

 城下町に、新しい衝撃が走った。徹底抗戦をつづけていた会津藩の鶴ヶ城に、九月二十二日、遂に白旗がかがげられたという報が城下一円に流れた。藩主容保は、重臣たちと城を出て、降伏状えお薩摩藩の陣営に提出し、城下には死体が累々と横たわり、自刃した者も多いという。
 (中 略)
 雨の降っている日、旅館に思いがけぬ人の訪れがあった。新撰組副長の土方歳三であった。
 土方は、若い隊士三名を連れて部屋に入ってくると、良順と向い合って坐った。土方と隊士たちの顔は多くの戦闘をへてきたことをしめして浅黒く、眼には鋭い光がうかんでいた。


 良順は、京都に滞在した際、西本本願寺を屯所にしていた新撰組を何かと支援していた。
 土方は、良順に、近藤勇が亡くなったこと、自分達は榎本と一緒に蝦夷へ行くことなどを告げた。その後の会話。

「榎本殿が、先生に蝦夷へおいでいただきたいと強くすすめたときいておりますが、いかがなされるおつもりですか」
 と、問うた。
 良順は、視線を落し、息をついた。土方も蝦夷に行こうとすすめるにちがいなかったが、ただちにそれに応じる気持にはなれない。
 榎本は、有力な海軍と厖大な資金を擁して新政府軍と対抗しようとしている。しかし、会津をのがれ、米沢をへて庄内に至って仙台に入った良順は、蝦夷へおもむいても待っているのは死以外にないように思えた。それは幕府の医官として潔い死かも知れぬが、身についた西洋医術を若い医家たちに伝授することなくこの世を去る気にもなれない。
「まだ思い決しかねております」
 良順は、顔をあげた。
 土方は、何度もうなずき、視線を良順に据えると、
「先生は、前途有為なお方です。蝦夷などには行かず、この地から江戸におもどりになられるべきです。戦乱にまきこまれ、命を失うようなことがあってはなりません。江戸にお帰りなさい」
 と、強い口調で言った。


 この土方の言葉に後押しされて良順は武器商人スネルの船に乗り、江戸に帰った。

 私などは、詳細な調査に基づく吉村昭の本書を読んで、“事実は小説より奇なり”という感慨を持った。落語との縁も深い松本良順(後年は松本順に改名)の数奇な人生に、このような逸話があったことに、人生とは、ほんの少しの違いで大きく進路が変わるものだと感じた。

 司馬遼太郎の『胡蝶の夢』における良順は、もっと活発である。差別や古い慣習、制度との戦い、という一本の線が全編に流れていて、『暁の旅人』における良順とは別人のように描かれている。そして、『暁の旅人』では描かれる良順の晩年における家族の度重なる不幸は、司馬の書にはほとんど登場しない。

 同じ歴史上の人物を扱うにしても、小説の作者と、いわゆるコンセプトの相違によって、そこで描かれる世界が変わる。


 本書の解説で、文芸評論家でアンソロジストの吉國善己が、次のように書いている。

 古い制度を破壊するためにエネルギッシュに働く『胡蝶の夢』と比べると、吉村の描く良順は地味な印象は拭えないが、これは歴史小説と史伝との違いにほかならない。ただ本書には、司馬作品とは異なる魅力があるのだ。
 会社勤めをしていれば、長年受け継がれてきた仕事の進め方が非効率に思えることもあるはずだ。だが、それを変えようとしても、すぐには実行できない。古いマニュアルに慣れた先輩には反対されるだろうし、自分のアイデアが採用されても、それによって業績が劇的に改善される保証もないので、上司も二の足を踏む確率は高い。そtれでも改革を進めようと思えば、まずこっそりと自分で試して実績を上げ、そのデータを使って賛同者を増やしていくなど、丁寧に根回しをしなければならない。トップダウンで命令が出せる経営者ならいざしらず、組織の中で生きる個人は改革を進めるにも慎重にならざるを得ない。
 これに倣うならば、『胡蝶の夢』は自分の理想を強引にでも進められる経営トップの視線で書かれた物語であり、『暁の旅人』は幕府という巨大組織の一員に過ぎない良順が、改革ブームの後押しを受けながら、少しずつ医療改革を行っていく物語といえるだろう。いってみれば吉村が目指したのは、良順を等身大の人間としたからこそ際立つ偉大さであり、誰もが身近な存在に感じられるからこそ生まれる限りない感動なのである。



 歴史を踏まえながらもフィクションを交えたドマラを描く「時代小説」、できるだけ史実に基づくが、作家の視線、視点によって「本当のような嘘」を交えてドラマ性を高める「歴史小説」、そして、吉村昭のような手法、視線で歴史の埋もれた事実を掘り起こし、等身大の人間を描く「史伝」、ということができるだろう。

 司馬のような劇的な物語も嫌いではない。しかし、吉村が地道に描く事実にこそ、実はドラマ性が秘められていることもある。榎本武揚の蝦夷共和国発足記念日に、そんなことを思った。
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by kogotokoubei | 2013-01-26 11:20 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(2)
1月25日は、旧暦12月14日、あの赤穂浪士の討入りの日である。今夜の空を見れば、四十七士が、月明かりを吉良邸襲撃に利用したことが、分かろうというもの。
 よく指摘されていることだが、実際の赤穂浪士の討入りの史実と、歌舞伎や通説としての「忠臣蔵」とでは、結構相違点がある。芝居などでは、人物や逸話などに、面白い物語とするために数多くの枝葉が付いている。

 樋口清之さんの『江戸と東京』(全五巻、芳賀書店刊。*私が持っているのは、昭和51年10月発行の改題新装版。)の第一巻で次のように指摘されている。

嘘忠臣蔵

 元禄の快挙として、忠臣蔵程芝居講談で人気のあったものはなく、又、それだけに脚色に脚色が加えられて真実の誤りを伝えられているものも少くありません。
 殊に「仮名手本忠臣蔵」をはじめ、戯曲の忠臣蔵類は、芝居としての舞台変化と、ストーリーの曲折をねらって、良くもあんな嘘が言えたものと思う程に、色々と妙な話が附随してしまいました。いわゆる赤穂浪士には私も十分の同情と、理解を持っているつもりですが、それだけに、俗説忠臣蔵には一方甚だ憤りを感じています。今後機会を得てできるだけその真相を詳しくお話申し上げたいと存じます。
 第一堀部安兵衛高田馬場の仇討も十八人斬どころか相手は僅かに五人、味方は四人でありましたし、討入りにつきものの山鹿流の陣太鼓も実はただの銅鑼でありましたし、上野介が斬られたのは松の廊下ではなく大廊下でした。豪酒家といわれる赤垣源蔵は全然酒を飲みませんし、本所松坂町などという名の町は討入りの頃にはまだありません。一行が勢揃いした楠屋というそば屋はなく、勢揃いしたのは実は堀部安兵衛の私宅でした。それに第一討入りの正確な日は元禄十五年十二月十五日午前四時で、十四日ではなく、かつ雪等は降らず月夜でした。天野屋利兵衛は義士と何の関係もなく、忠僕直助等は実在しません。



 天候については、十三日には雪が降ったとされるが、十四日は晴れで月夜。映画で雪が降る中を討入りに向かう長谷川一夫の姿は、史実としてはありえない。

 天野屋利兵衛について、三波春夫、そして柳亭市馬が唄うのも、まったく虚構の上に立った熱唱^^

 同書では、この後に、上野介の最後についても、炭小屋ではなかったことなどが説明されている。

 あまり、通説に反する内容ばかりを並べると、「それじゃドラマチックじゃない」とか「夢を壊す」と指摘されそうだが、芝居は芝居、史実は史実である。脚色のレベルならまだよいが、虚構と史実の違いは分かった上で、芝居も楽しんだほうがよいように、私は思う。


 今日の日本においても、マスコミや声の大きな政治家などが、事実を矮小化して自分の都合の良いような虚構の世界を信じさせようとしている。真偽を見極める姿勢、態度を忘れないようにしないと、人の良い市民は騙されるばかりである。
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by kogotokoubei | 2013-01-25 20:55 | 今日は何の日 | Comments(4)
第四十一回だそうだ。昨年の落語協会の真打昇進者三人が揃う会、というので、久し振りにネオン街の真ん中にある新文芸坐へ参上。仕事が長引き、開演5分前に会場に到着。266席あるようだが、入りは七分程度だったろうか。
次のような構成だった。
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トークショー(鼎談)
古今亭志ん陽 『粗忽の釘』
古今亭文菊  『お見立て』
(仲入り)
春風亭一之輔 『味噌蔵』
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トークショー (19:00-19:19)
 三人が登場。上手から一之輔、志ん陽、文菊。中央に長椅子が用意されており三人は座る。文菊が、一応司会進行役となって進めようとするが、一之輔が「まず、自己紹介じゃないの?」と、突っ込む。自己紹介の後、文菊から、昨年の昇進披露興行を振り返ることから、と一之輔に「一人で大変だったでしょう」とふるが、一之輔は少し間を置いて、「楽しかったですよ。一人のほうがやりやすい面もある・・・そっちのほうがいろいろあったんじゃないの」と切り替えす。文菊も、一瞬の間を置き、「いろいろありました」。この間、志ん陽は、中央でニコニコしているだけ。このへんが、彼らしい。
 あまり詳しくは明かさないが、披露パーティーでは扇子、手拭い、口上書き、の三点を配ることになっており、この扇子の名入れを両名併記とするかどうかで、ちょっと揉めたらしい。一之輔は、「俺なんて作ってから、『師匠、これでいいですか?』って持って行ったら、師匠は『いいよ、もう作ったんだろ』で決まり。」とのことだが、古今亭には、いろいろうるさい人が多いらしい。一朝一門と古今亭の違いが興味深かった。
 また、笑ったのは、焼き肉屋での打ち上げのこと。名は伏せるが、落語協会の幹部に、とにかく焼肉が好きで大量に食べる人がいて、披露目の最初の鈴本の席の間で、多くの人を招いて上野の高級(?)焼き肉店で打ち上げをするのが恒例とのこと。志ん陽と文菊の披露興行で、“番頭”役を務めた志ん八が、その焼肉大好きさんのテーブルだけ少し多めに注文すればいいものを、全テーブル、特上カルビなどを人数分注文していたとのこと。食べきれないし、勘定が大変な額だったのだが、実はその日が29日の肉の日で半額になって助かった、というオチ。その勘定の額は伏せておこう。滅多に焼肉屋に行かない私としては、それだけかければ、どれだけ旨い和食が食えるものか、と思うばかり。
 文菊は、自分の高座のマクラでも言っていたが、志ん陽の「熊のプーさん」キャラは、計算されたもので、いろいろ細かいことが披露興行ではあるが、志ん陽が何も決めないで笑っているばかりなので、結局他の人がいろいろやってくれるようになる、とのこと。たしかに、この二人は性格が好対照なのだろう。
 一之輔は、帝国ホテルのパーティーで収支トントンだったようだ。彼の前の一人真打昇進者である菊之丞は、多額の借金を抱えて返済に苦労したようなので、よほどご祝儀が多かったのと、落語協会のFさんの値切り交渉力のお蔭なのだろう。
 三人三様の回想を楽しく聞くことができた。落語会での対談は結構ハズレが多いのだが、この鼎談は楽しめた。文菊が「さてこの後は志ん陽兄さんの長講です」でお開き。

古今亭志ん陽『粗忽の釘』 (19:21-19:56)
 長椅子を片付け高座ができた後、のそ~っと登場。トークショーで一之輔にいじられていたが、鈴本のトリを休んでの出演である。「長講って言われても、何をやろうか・・・・・・えへっ」と笑うところがこの人らしい。トークショーでのことで「何もしないんではなくて、私が何かするとしくじるんです」と自嘲気味に、ぼそっと語る。その後、「ますます噺に入りずらくなった」で、会場から少し笑いが聞こえたが、まだ暖まるまでには至らない。それでも「粗忽な人ってぇのは」と噺のマクラに入った。
 引っ越しの準備で八五郎が箪笥の上に火鉢、針箱、提灯を乗せて、柱ごと担ごうとする場面から。ほぼ本寸法と言える内容ではあったが、どうしてもこの噺の場合は一之輔の盥での行水場面などの大爆笑版、鯉昇の「エキスパンダー」や「ロザリオ」といった意外性のある改作の強い印象があるため、大人しい印象を拭えない。しかし、この人は、これでいいのだろう。地道に磨き続けて自分のものにする噺家さんだろうし、二ツ目時代からは、着実に成長しているのは間違いがない。「熊のプーさん」のキャラクターを、いかに高座に活かすか、今後も楽しみだ。

古今亭文菊『お見立て』 (19:57-20:36)
 上述したように、志ん陽の「熊のプーさん」は実は巧妙な作戦である、という話などマクラ8分ほどで本編へ。この人の“器用さ”が、発揮された高座。牛太郎の喜助、喜瀬川、杢兵衛大尽という登場人物が程よく描かれてはいた。しかし、この人ならもっと出来るようにも思う。喜瀬川が上品過ぎて意地悪さが薄いことや、杢兵衛がそれほど田舎者に見えないのは、この人自身の持ち味から醸し出されるものなのだろうが、それでは役になり切れていないとも言える。文菊なら今後まだまだ磨けるだろう。
 たとえば、この古今亭十八番とも言える噺、昨年国立演芸場で聴いた志ん輔の高座は結構だった。2012年8月5日のブログ 喜瀬川は、もっと憎らしく、喜助はもっと愚痴っぽくて可哀そうだし、杢兵衛は、喜助にとって“空気の読めない”田舎のお大尽として見事に描かれていた。一門の先輩に良い見本がいる。ぜひ、数年後に同じネタを聴きたいものだ。

春風亭一之輔『味噌蔵』 (20:47-21:21)
 学生時代に、映画を見に来た会場での落語、この地域のネオンの凄さ、といったイントロから、本編に続く“けち”な人ということで、落語協会の偉い人(名は伏す)のことを引き合いに出す。ちなみに焼肉大好きの人とは別人。ちょっと内容は書きにくいなぁ。すぐ誰かバレそうだ^^
 ケチな味噌屋の主人の名を、『片棒』と同じ赤螺屋(あかにしや)ケチ兵衛にしていたが、この設定は初めて聴いたように思う。名を出さないか、吝嗇(しわい)屋ケチ兵衛で聴いたことはある。まぁ、あまり大勢に影響はないが。
 旦那が出かけた後で、普段は具のない味噌汁など貧相な食事に甘んじている奉公人が番頭も巻き込んで旨いものを食べ、酒も飲もうということになり、番頭が「何が食べたい?」と聞く場面が可笑しい。ある者は「あったかいごはんに、醤油をかけて食べたい」、また別の奉公人たちは「ご飯のオコゲだけのおにぎり」「パンの耳に砂糖をかけて」など、日常の食の貧困さを際立たせる演出にもなっていて結構。 味噌田楽を食べたい、という者が、「カラ屋で張り紙をしていた」という件。オカラしか買いにいかないので、豆腐もガンモドキも知らないから、「カラ屋」なのだが、この場面では、昨年市馬で聴いた「芝浜より泣けるねぇ」の科白を思い出す。もちろん、一之輔は、そうは言わない。
 泊まりのはずの主人が戻ってきて慌てて片付けようとするドタバタも、この人ならではのクスグリで笑わせる。途中、二~三度、ちょっとした言い淀みがあったのだけは残念だったが、先に出た二人に貫録を見せたような高座。流石である。


 ロビーに、2月中旬に上映される「名優・小沢昭一さんを偲ぶ」企画のことが案内されていた。
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 初日2月16日(土)には加藤武さんのトークショーがあるようだ。2月22日(金)と23日(土)は、『貸間あり』と『幕末太陽傳』(デジタル修復版)2本立てである。何とか行けないかなぁ、と思っている。詳しく知りたい方は、新文芸坐のサイトをご覧ください。新文芸坐サイトの「上映プログラム」

 さて、仲入りで売店で買った「餡パン」を食べただけだったので、帰宅後はブログを書きながら少し酒の肴を食べて、粗っぽく殴り書きしているうちに、両の瞼が仲良くなってきた。風呂に入り熟睡。翌朝校正しながら思ったのは、あの三人を抜擢した小三治会長は、今秋と来春のまったく香盤順の大量昇進について、どこかで何か発言しているのかなぁ、ということ。まぁ、あの三人が秀でていたことは間違いはない。そして、順調に成長もしている。次の抜擢はいつになるのだろうか、などと思う今日この頃だ。
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by kogotokoubei | 2013-01-24 23:36 | 落語会 | Comments(0)
学校での体罰について、オーストラリア在住の社会学者、杉本良夫さんの著作から紹介したい。

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杉本良夫著 「日本人」をやめられますか

 「『日本人』をやめられますか」は、1988年に情報センター出版局から単行本(タイトル『進化しない日本人へ』)として刊行され、1996年に朝日文庫でタイトルを替えて出版された。現在は重版されていないようだが、ともすれば日本という閉鎖された社会で近視眼的な考え方や価値観に執着しがちな目を開いてくれる好著だと思っているので、ぜひ再刊を期待する。

 以前に、大阪の公務員「刺青」問題、福岡の「禁酒令」に関連して書いたブログで引用した部分と一部重複するが、今回は学校での「体罰」問題に焦点を当てて紹介したい。2012年5月24日のブログ

 オーストラリアの学校の保護者会は日本とは全く様子が違う。日本の保護者会ではよく、「先生、このごろ子どもがテレビを見すぎているようなので、もっとたくさん宿題を出してください」とか、「最近、親の注意を聞きません。もっと厳しくやってください」というようなことを、親が先生に対して平気で頼んでいる。こういう現象は、オーストラリアの学校では、ほとんど見かけない。世界観、行儀作法、生活様式、倫理基準といった分野は、親が責任を持ってやることで、そんなことを学校に依頼すれば、親の資格そのものが問題になる。
 こういう気風に照らしてみると、日本の学校での体罰の横行は、日本における家庭の自立性の弱さを反映しているように思える。価値観、倫理観、ライフ・スタイルなどの選択については、オーストラリアでは、家庭が子どもに対する教育の場である。その点では、学校はごく末梢的な役割しか果たさない。教員の仕事は知識の伝授で、人格の形成というようなことを担当しないという点では、小学校でさえ、小さな大学のような感じがある。宗教色の強い私立学校は別として、ほとんどの子どもたちが通う公立校は、そういうことになっている。
 私たちの子どもたちは、全員近所の公立校で過ごしたが、日本へ一時帰国したとき、特に驚いたのは、日本の学校の先生が生徒に対して暴力をふるう点だった。子どもたちが日本の学校へ進学したのは、1977年と82年の二回。全部合わせると、十八ヵ月ほどになる。特に二回目のときは、娘たちが中学校へ通う時期だったが、先生が生徒に平気で手を上げることに、びっくりしていた。当時私たちは、母国の文化と言語を自分の子どもたちが、すこしは身につけて欲しいと考えていたので、彼女たちの観察には、言葉もない。
「きょうも、数学の先生が、こんな問題もできないのか、とふたりの子どもの背中を定規でなぐったの。きのうは、体育の時間に、きちんと整列しなかった生徒の頭を、笛でコツンコツンとたたいていったわ。出血した子もいるのよ。お父さん、日本の先生は、生徒をたたくことを許されているの」
「いや、法律では禁止されているんだけれど・・・・・・」
「法律違反をしているのなら、どうして、そういう先生は処罰されないの」
「・・・・・・・・・・・」
「生徒の両親は、こういうことに腹を立てて、文句をいっていかないの」
「日本の父母の大半は、体罰は望ましいことだと考えている。そういうことを示す世論調査の結果もあって・・・・・・」
「えー? どういうわけで、日本のおとなはそう考えているの」
 実際、どういうわけで、体罰を許容する親が多いのだろう。この問題はこみいっている。戦前の軍国主義は、戦後になって終わったといわれているのだが、先生が生徒をなぐる権利を維持しているという点では、根本的に変化はない。それに、「愛のムチ」などという表現さえあって、暴力を通して愛情が表現できるという考え方が、正当なものとして受けいれられる土壌もある。


 ちなみに、体罰に関して禁止している法律は「学校教育法」の「第一章 総則」の第十一条の下記の文言である。
電子政府総合窓口e-Govサイトの「学校教育法」

第十一条  校長及び教員は、教育上必要があると認めるときは、文部科学大臣の定めるところにより、児童、生徒及び学生に懲戒を加えることができる。ただし、体罰を加えることはできない。


 しかし、昭和22年制定の法律の意図するところは、遅刻などへの体罰を想定していたもので、運動部の指導に関しては、別途法的な生徒保護の配慮が必要かもしれない。
 
 さて、日本における家庭の役割は、さまざまな事情で稀薄になってきた。それは、諏訪哲二さんの主張を借りるならば、「農業社会的」な共同体の核としての家庭の喪失であり、親も子どもも、どっぷり「消費社会的」な文化の中で、社会性を失った「自己」の群れ、と化しているのかもしれない。そういった家庭の親は、子どもに対する権威を失っているから、学校の先生に躾まで踏む込んだ面で、過度に依存するようになるのかもしれない。

 家庭について、杉本さんは、引用した文章の後で次のように指摘する。

 しかし、もっと根本的な問題があるのではないか。それは、学校教育とは独立した家庭教育の空間が、日本社会では狭すぎるという点につきる。「人格形成」という概念ひとつにしても、それは教育の独占事業であってはならないはずだ。各家庭がそれぞれに独自の「人格」を育てる仕事をしていれば、その結果として、多種多様な「人格形成」がありうる。
 日本での生活中、息子はよく「日本のお母さんは、ほとんどみんな、子どもに『勉強したの?』『宿題やった?』というようなことを、しょっちゅう聞いているね」といっていた。
 この観察には、ある真理がふくまれている。学校の価値観を家庭がそのままオウム返しにしているという点をつかまえているからだ。息子の話によると、オーストラリアの母親はそういう会話は、あまりしないのだそうだ。
 むしろ、家族全員で休暇旅行に出かけるとか、歯医者の検診に子どもを連れていくとか、家のスケジュールのほうが中心で、学校のほうは「従」なのである。必要に応じて欠席させたり、早退や遅刻をさせたりすることがよくあるが、そういうときは、親が手書きの短い手紙を先生に持たせるだけだ。
 教員のほうも、学校は家庭から毎日子どもをあずかっている場所だという考えがあって、家庭の選んだ方針には介入しない。「人格形成」は家庭の仕事だから、教員は自分の価値観とは異なる子育てが行われていても、それを認めるという原則が貫かれている。先生が自分の価値観一色に、全生徒を染め上げようという前提を持っていない。


 「修身」の文化を持つ日本と、オーストラリアを比較することはできないが、「人格形成」「躾」は家庭の仕事、家庭が「主」で学校は「従」ということにおいては、日本もオーストラリアを大いに見習わないわけにはいかないだろう。もっと言えば、今日の学校の先生に、その大事な仕事を任せられるか、という現実的な適性の問題もある。

本書では次のような示唆に富んだ指摘がある。

 オーストラリアの先生は全く体罰を行わないだけでなく、道徳じみた説教も、ほとんどしない。
 日本の学校での体罰の横行、道徳教育の奨励といった現象は、家庭における人格教育の放棄を根に持っている。学校でのいじめの氾濫も、この相関関係の輪の中にあると思われる。
 オ−ストラリアの学校で体罰がないのは、子どもの人権という考え方が広がってきているからである。人権というものは、つきつめていくと、組織の要請と対極の位置にある。職場機構、労働組合、任意団体などの組織が、ああしろ、こうしろと求めてくることに対して、それをそのまま、うのみにしない姿勢が構成員の中にいないと、人権を守る気風はつくりにくい。組織の要請に対して、なまけ者になる用意があることが、人権擁護文化の筋金であるように思える。そういうなまけ者同士がおたがいを守り合うときに、多様な価値体系の共存を前提とする多文化主義の土壌が育まれる。


 
「組織の要請に対して、なまけ者になる」という表現は、あくまで「人権」が優先する、ということを象徴するユニークな言葉である。決して、我がままな「自己」を擁護するのではなく、一人の人間の存在を脅かす多数の横暴に抵抗する、という強いメッセージでもある。日本で「子どもの人権」と言う場合は、どうしても子どもを甘やかす方向に議論が流れやすいが、重要なのは、「人権」を脅かす「組織の要請」から守る、という意味合いで考える必要があると思う。

 オーストラリアのような「多文化主義」は、日本ではなかなか馴染みにくいとは思うが、多様な価値体系が共存することは重要だ。しかし、「体罰」を肯定する価値観は、許容されてはいけない。明らかに犯罪である。

 「農業社会」→「産業社会」→「消費社会」と経てきた今日において、共同体の中核としての家庭を取り戻すことは、決して容易なことではないだろう。しかし、「核家族」が、決して「核」とならない実態が、「体罰」「いじめ」「不登校」などさまざまな問題の底流にあることは否めない。かつて否定的な文脈で語られてきた「核家族」を、共同体の中心という意味で再構築する努力こそ、今の日本には求められているような気がする。

 あらためて、橋下が「廃校」までを口にし予算権を盾にして恐喝した結果大阪市教育委員会のとった決定は、果たして「体罰」をなくし、子どもの「人権」を守ることにつながるのかを問うなら、やはり、まったく見当違いの「組織の要請」を強いているとしか思えない。対象校の生徒、受験生の「人権」を侵害するものであると言える。「人格形成」の場が家庭にあり、子どもの人権を守る砦が家庭にあるのなら、この「組織の要請」に、積極的に「なまけ者になる」ことが大事なのではないか。

 ある教育評論家がブログで、今回の大阪の措置を肯定し、逆に入試実施を求め記者会見を開いた運動部の生徒たちのことを批判していた。「命の重さ」を主張し、生徒たちにも責任があるような言い様である。
 私は、特定の学校の問題ではない文脈で、運動部のチームメイトの生徒たちが、体罰やプレッシャーに悩む仲間の悩みの聞き役なり、自殺などに至らないようにすることのできない、生徒側の問題もある、と先日書いた。しかし、あの高校の生徒が、勇気をふるって記者会見をしたのは、決して自殺した生徒を冒涜するものでもなければ、体罰を擁護するものでもない。「体罰」をした顧問は明らかに「学校教育法」違反、要するに犯罪者である。自殺した生徒の親が控訴しなくても、罰されるべきである。
 しかし、どうして生徒が、今回の措置を我慢して受容しなくてはならないのか。入試実施イコール体罰擁護、ではないこと位、長年教師を勤め、教育評論家と言う肩書きを持つ人間なら分かりそうなものだろう。
 この評論家は、しばしば「子どもの人権」を口にするようだが、体育科の入試中止によって脅かされる在校生や受験生の「人権」を、どのように考えているのだろうか。私は、今回の措置は、特定の学校とその生徒や受験生に対する“いじめ”だと思っている。橋下の措置を支持する“評論家”がマスコミなどに登場するからこそ、いじめも体罰もなくならないのではないか。


 あの高校が教育委員会のミス・ジャッジに従い、形式のみの誤魔化しで入試内容の改悪をしようとすることに、断固として「NO!」と言う家族(親と生徒)の連帯が出来るのなら、日本の家族は、まだ捨てたものではないかもしれない。そう期待している。
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by kogotokoubei | 2013-01-23 19:26 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(2)
あの高校の問題に関連して、「内田樹の研究室」の記事のことを“書く”と言いながら、つい延び延びになってしまった。

 遅ればせながら、「内田樹の研究室」の『体罰と処分について』の記事を紹介したい。

 まず、同記事の後半から最後まで。
「内田樹の研究室」の該当記事

今回事件を起こした教員の行為がどこまで重い罪を問われるべきか、軽々には判断することができない。
現に、この教員がスポーツ指導ではなやかな実績を上げていた限りでは、その体罰行為は同僚のみならず生徒や保護者を含む関係者から黙認されてきていたからである。
同じような体罰をいまも日常的に繰り返しているスポーツ指導者は日本中に何千人何万人といる。
市長自身、この事件が起きるまでは学校における体罰を支持する立場を明らかにしていたし、政治的同志である石原慎太郎は人も知る「体罰有用論者」である。
「自分は潔白であると思う人間だけが石もて打て」という条件を課した場合、「この教員は社会通念を逸脱しており、許しがたい大罪を犯した」という批判をほとんどの人は口にする権利がないだろう。
誤解して欲しくないが、私はこの教員を擁護しているのではない。
体罰によって、あるいは心理的な抑圧によって短期的に心身を追い込んで「ブレークスルー」をもたらすというのは頭の悪いスポーツ指導者の常套手段であり、その有効性を信じている人間が日本には何十万人もおり、私はそういう人間が嫌いである。
ほとんど憎んでいる。
けれども、それでも、この教員「だけ」が、この教員のいる学校「だけ」が、この教員の在籍している自治体の教育機関「だけ」が政治的処罰の対象になるという事実に対しては「それはフェアではない」と言わざるを得ない。
そのような教員を野放しにしてきた人々、それをむしろ支援してきたような人々がここを先途と「処罰する側」に回って、ひとを罵倒しているさまを形容するのに「アンフェア」という言葉はあまりに穏やかすぎる。
この「組織的失態」をレバレッジにして、市長は教育行政に対する自己の支配力をさらに強化することをめざしている。
この生徒の自殺は、政治的水準では、教育現場への強権的干渉を正当化する「千載一遇の好機」として功利的に活用されようとしている。
「ひとの痛み弱みを功利的に利用して成果を上げる」技術の有効性を信じているという点で、この人々は私の眼には重なって見える。
私たちが批評的に対象化すべきなのは「処罰の恐怖のもとで人間はその限界を超えて、オーバーアチーブを達成する」という人間観そのものだと私は思う。



 私が、この問題について書いたことと思いを共有できるのは、次の部分。
“この教員「だけ」が、この教員のいる学校「だけ」が、この教員の在籍している自治体の教育機関「だけ」が政治的処罰の対象になるという事実に対しては「それはフェアではない」と言わざるを得ない。”

 大阪市に限っても、体罰やいじめによる自殺が他にもあるはずだろうし、その実態の解明を言わずして、橋下は、目の前にある「ひとの痛み弱みを功利的に利用して成果を上げる」 常套手段に出た。

 大阪市の教育委員会は、市全体の問題と認識して、生徒の自殺を契機に運動部の指導の実態調査と改善策の検討をすべきかと思うが、委員長が反対したところで、組織としては、役者橋下の介入を受け入れてしまった。体育科系で想定した内容のまま試験を実施し、まだ未定のまま受験生を混乱させている入学後のカリキュラムが、「体育」を優先するものだとしたら、それは普通科ではなくなるだろう。その場しのぎの辻褄合わせで取り繕うとするから、本来の教育の大義などは消滅し、まったく矛盾した学校のあり様が想定できてしまう。「予算権」を盾にされ、本来独立性を確保すべき教育委員会が、行政の横暴に屈したのである。

 内田のブログで、私が橋下の行為を、正義の味方をきどる“パフォーマンス”と表現したことと、似た文脈と思ったのが、次の部分。
“この「組織的失態」をレバレッジにして、市長は教育行政に対する自己の支配力をさらに強化することをめざしている。”

 まさに、これが橋下が目論んだことなのだ。


 私も、この件について、橋下が知事の時代に大阪府の職員が自殺してことを書いた。内田も次のように書いている。

大阪府でも大阪市でも公務員の自殺者はあった。だが、それについて府知事や市長が市民に陳謝し、辞表を出したという前例のあることを私は知らない。
社員や役人が自殺するのはあくまで「自己責任」であり、「組織の失態」ではない。
たぶんそういうことなのだろう。
「ひとりの人間の命は地球より重い」という黄金律は汎用性があるわけではないということである。
「命が重い場所」があり、「命が軽い場所」がある。
市立高校は「命が重い場所」で、企業や役所は「命が軽い場所」である、と。
命の重力が場所によって違うというのは、あるいはほんとうなのかも知れない。
では、いったいどういう基準でそれは分別されているのだろうか。
誰かその基準をご存じだろうか。
自殺が「組織の失態」とされる場所と「自己責任」として放置されるかの分岐線はどこに引かれるのだろう。
私はそれを知りたい。


 もちろん、内田の指摘する「組織の失態」と「自己責任」の境界を、“私も知りたい。”

 同じ大阪の教育機関での問題について、内田は次のような指摘をしている。

大阪の国立大学でも、在学生が殺人事件を起こしたことがあった。
このときも学長以下の謝罪記者会見はあったが、「組織的失態」の責任を問うて、在学していた学科の廃止や大学廃校を論じたものはいなかった。
刑事上の重罪を犯す構成員がいることは「組織的失態」としては重く問わないというのが日本の教育機関についてはどうやら「常識」のようである。
良いか悪いかは別にして、これまでは、そういうことになっている。殺人については、教育機関にその組織的瑕疵を問わない、と。
今回は、自殺した生徒が出たことが教育機関としてきわめて不適切であるとされている。
その判断に基づいて、入試中止や廃校、さらには教育委員会の改組や、政治家の教育行政への関与の必要性など、「学校内で殺人事件があったときも議論にならなかったトピック」が論じられている。
それほどまでに常軌を逸した大罪がなされたという話になっている。
この判断は適切なのであろうか。



 私も、“「学校内で殺人事件があったときも議論にならなかったトピック」が論じられている。” ことの異様さを感じるが、それは、「殺人事件」では橋下が吠えないからだ。
 きっと、「殺人事件」においては、すでに加害者と被害者が確定していて、橋下が好きな「いじめがいのある」対象を見つけにくいからなのだろう。

 紹介した記事のサゲは、内田の独特の表現になっている。
“私たちが批評的に対象化すべきなのは「処罰の恐怖のもとで人間はその限界を超えて、オーバーアチーブを達成する」という人間観そのものだと私は思う。”

 今回の件に沿って端的に言えば、「体罰により運動部員は成長でき、運動部は強くなる」という価値観が問題だ、ということ。まったく、その通りなのだが、“そこでサゲていいの、樹さん?”と思わないでもない。

 この記事の前半に、こう書かれている。

この時期における入試の変更は受験生への影響が大きい。
おそらく市長の指示通りにはならないだろうと私は予想している。


 内田樹の予想を超えた結果に、彼は次に何か書くのだろうか、時折覗いてみよう。
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by kogotokoubei | 2013-01-23 06:26 | 幸兵衛の独り言 | Comments(0)
桜宮高校の入試内容の変更にまつわる状況について、毎日がやや詳しい記事を掲載していた。 毎日JPの該当記事

大阪・桜宮高:「折衷案」受験生に戸惑い
毎日新聞 2013年01月22日 01時47分(最終更新 01月22日 02時36分)

 大阪市立桜宮高校で生徒が自殺した問題を巡り、体育系2科の入試中止を決定した21日の大阪市教委会議。教育委員らは「再スタート」と強調したが、結論は普通科の入試を事実上、従来の体育科と同じにするという「折衷案」だった。入試を1カ月後に控えた受験生や保護者らには「なぜ変更が必要なのか」と戸惑いが広がり、「子どもたちを置き去りにした議論だ」と批判が上がった。

「今更、普通科に名前を変えて入試をする理由が分からない」。体育科を希望していた中学3年の男子生徒(15)は疑問を投げかけた。そして「塾のない日も自習室に通って勉強してきた。桜宮に入って甲子園を目指すと決めていたのにショックだ」と落ち込んだ様子を見せた。

 体育教師を目指して同校を受験予定の中学3年の男子生徒(15)は「希望する学科に編入できるのか、普通科で何が勉強できるのかも分からず、受験するか決められない」と、困惑の表情を浮かべた。母親も「市長や教育委員は子どもたちを無視して議論している」と憤った。

 一方、運動部の元主将ら同校の生徒8人が21日夕、市役所で記者会見。女子生徒は「市長から入試中止について納得できる説明はなかった」と反発し、「部活ができず、今しかない一瞬を全部つぶされていると感じる」と言葉を詰まらせた。男子生徒は勝利至上主義との橋下徹市長の指摘を強く否定し、「僕らのことを何も分かっていない」と憤った。8人は市長の説明に納得できないとして、保護者と相談した上で、記者会見を開いた。今後、市長と面会し、入試中止の撤回を求めるという。

 一方、長谷川恵一教育委員長は、この日の会議で憤りを隠さなかった。体育系の入試を中止して定員を普通科に振り替える事務局案は、試験にスポーツの実技を設けるなど、実質的には従来の体育科と同じ。「これでは看板の掛け替え。つじつま合わせにしか見えない」と批判し、入試を継続して体育科を改革することを主張した。しかし、他の委員からは「予定通りの募集では、改革のスタートとして弱い」などと異論が相次ぎ、多数決で中止が決定。長谷川委員長は「不本意だ」と唇をかんだ。

 今月15日に橋下市長が入試中止を要請して以降、委員らは議論を重ねた。20日夜も委員らが市役所に集まり、21日午前2時ごろまで議論が続いたが、結論は出なかった。



 まず、教育委員会の決定の背景をあらためて確認。

“長谷川恵一教育委員長は、この日の会議で憤りを隠さなかった。体育系の入試を中止して定員を普通科に振り替える事務局案は、試験にスポーツの実技を設けるなど、実質的には従来の体育科と同じ。「これでは看板の掛け替え。つじつま合わせにしか見えない」と批判し、入試を継続して体育科を改革することを主張した。
 しかし、他の委員からは「予定通りの募集では、改革のスタートとして弱い」などと異論が相次ぎ、多数決で中止が決定。
 

 あら、、教育委員長は、私と同じような意見だったのだ。しかし、他の委員の“改革のスタートとして弱い”という、訳のわからない理由が多数を占めて、リーダーであるはずの委員長の意見が通らなかった、ということか。

 大阪市のリーダーは、是非はともかく強いが、教育委員会のリーダーは、何と弱いことか。

 そして、この“改革のスタートとして弱い”と言う理屈で委員長の正論(と私は思う)を覆した、他の委員達は、どこを見て、こんなことを言っているのか。決して、在校生や受験生ではない。橋下を見ているのだ。

 橋下が体育科の入試を中止と言っているのだから、その通りにして、ここは穏便におさめよう という、事なかれ主義の最たる人たちと言える。「予算」という切り札をかざした橋下の脅迫に教育委員会が屈したのである。
 なぜ、委員長と一緒に、他の委員は理不尽な市長と戦わなかったのか。こんな状態だから、体罰もいじめも、そして自殺もなくならないのではないか。教育委員会の改革こそ求められている気がする。

 「改革のスタート」どころか「改悪でスタート」と言えるだろう。

「今更、普通科に名前を変えて入試をする理由が分からない」。体育科を希望していた中学3年の男子生徒(15)は疑問を投げかけた。  
 この受験生の疑問は、もっともだ。  

 こんなことで、この問題が解決に向かうはずがない。
 
 在校生も、きっと教師も、保護者も受験生も納得できない、形だけの場当たりな措置としか言えない。

“運動部の元主将ら同校の生徒8人が21日夕、市役所で記者会見。女子生徒は「市長から入試中止について納得できる説明はなかった」と反発し、「部活ができず、今しかない一瞬を全部つぶされていると感じる」と言葉を詰まらせた。男子生徒は勝利至上主義との橋下徹市長の指摘を強く否定し、「僕らのことを何も分かっていない」と憤った。8人は市長の説明に納得できないとして、保護者と相談した上で、記者会見を開いた。今後、市長と面会し、入試中止の撤回を求めるという。

 この在校生や保護者の行動を、私は強く支持する。
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by kogotokoubei | 2013-01-22 07:46 | 幸兵衛の独り言 | Comments(0)
あの事件に関連して、いったい一年間に学校で何名ほどの生徒の自殺があるのか調べていたら、昨年9月の、この記事を見つけた。時事ドットコムの該当記事

自殺件数調査、中止を検討=実態反映せず、状況重視へ−文科省

 文部科学省は13日、毎年行ってきた児童生徒の自殺件数の全国集計について、実態が反映されていないとして、来年度から中止する方向で検討を始めた。自殺に至った背景や置かれていた状況などを把握する調査に切り替える。
 文科省が11日公表した問題行動調査では、2011年度中に自殺した小中高校生は200人。警察庁統計の353人(11年中)と大きな差があり、毎回同様の傾向という。また、半数以上の115人で理由が不明とされ、自殺原因を特定できなかった。
 文科省は、警察庁統計とのかい離について、学校側が遺族に配慮し、自殺としないケースなどがあるためと説明している。(2012/09/13-23:36)



 文科省の統計と警察庁統計のギャップの理由は、ある程度想像できる。それは、文科省が言うように、“学校側が遺族に配慮し、自殺としないケース”よりも、遺族の意思に反して学校側が事故死や病死扱いにしたがるケースが多いからだ。

 昨年末、NHKは12月24日から26日の三夜連続で「追跡!真相ファイル」を放送し、三日目に子どもたちの自殺統計の問題を取り上げた。私は、その「“消えた”子どもの自殺」を見た。
NHKサイト「追跡!真相ファイル」の該当ページ

番組紹介ページに次のようにある。

取材班が追跡を進めると、自殺が「事故死」として報告されているケースが
相次いでいる実態が浮かびあがってきた。
学校や文科省が「遺族の要望を受けたため」と説明する事例の中にも、
実際には、遺族の知らないところで報告書が作成され、
修正を求めても拒否するものもあった。


 だから、統計に実態が反映されないのは、決して「遺族への配慮」が優先しているのではなく、「学校の都合」が優先している。
 この番組では、教育委員会に、「なぜ自殺として統計に反映されなかったんですか?」「修正してください」と両親が懇願したにも関わらず、ノラリクラリと職員がはぐらかした実態が明らかにされていた。死亡届に「自殺」とあるのに、文科省の統計には「事故死」となっていては、警察庁の統計と整合性がとれるはずがない。

 しかし、文科省は、今になって統計を修正などしたくはない。だから、集計中止なのだ。

 もし、企業で決算を粉飾したら、これは犯罪である。もちろん、過去に遡って修正を求められ、脱税が判明した場合は追徴課税される。

 企業決算とは違う、と文科省は言うだろう。決算書のように提出が義務付けられた統計でもない。

 しかし、自分達の統計の「粉飾」を過去に遡って追及されたくないから統計を中止するという風土が、いじめや体罰などによる自殺の問題の根本的な解決を遠ざけているのではなかろうか。

 “自殺に至った背景や置かれていた状況などを把握する調査に切り替える”と言ったって、個々の「自殺」という事実について、背景や状況を把握する調査をするのであるから、「自殺」の件数はデータとして存在する。それとも、無作為抽出で調査する、ということか。ありそうな話だ。

 学校も教育委員会も文科省も、学校での自殺者が増加している、などの統計を歓迎しない。だから、隠蔽工作をする。これでは、何の解決にもつながらない。早い話が、本気でこの問題を解決しようという意欲や責任感が、まったく伝わらない。事なかれ主義の役所なのである。


 さて、あの学校のこと。橋下の要請に、大阪市教育委員会が応じてしまったようだ。
朝日新聞サイトの該当記事

桜宮高の体育系2科、募集中止 体罰問題受け大阪市教委

 大阪市立桜宮(さくらのみや)高校でバスケットボール部主将だった2年の男子生徒が顧問教諭の体罰を受け、自殺した問題で、市教委は21日、臨時の教育委員会議を開いた。今春の体育系2科(定員計120人)の募集を中止し、同じ定員を普通科に振り替えて募集する方針が固まった。ただ、選抜時期や入試科目は従来の体育系2科と同じ内容とし、受験生に配慮した。
 同校の入試は前期選抜の体育科(80人)、スポーツ健康科学科(40人)と、後期選抜の普通科(160人)を予定していた。このうち前期選抜の体育系2科を普通科とする。ただし、新たに普通科とした前期選抜分については、入試科目を体育系2科と同じ国語、数学、英語、運動能力、運動技能の五つとし、入学後のカリキュラムについても、スポーツに特色のある内容とする。通学区域も体育系2科と同じ大阪府内全域とする。

 21日午後の教育委員会議では、体育系2科の募集を普通科へ振り替える案と、従来通りに体育系2科の入試を実施する案の二つが議論された。委員5人のうち4人が普通科への振り替え案に賛同し、この方針で入試を実施することが固まった。


 教育委員会としては、まったくのミスジャッジだ。形式上「体育系2科」の入試を中止しただけのことだ。予定通り入試をすべきだった。その上で、根の深い問題の解決に本腰を入れて取り組むべきだった。何度も言うが、この学校だけの問題ではない。

 橋下は、相変わらず特定の事象に対しスケープゴートを作り、自分が問題解決に当たっているというパフォーマンスをしているだけである。しかし、文科省も教育委員会も、「臭いモノにフタ」で、当座の解決をしようとしている。これでは何ら、問題の本質に迫ることはできない。


 あらためて、統計のこと。2011年の警察庁統計で353名、ほぼ毎日のように生徒の自殺があることになる。その全てが教師や運動部顧問の体罰ではなかろうが、中にはそういう実態も含まれているだろう。もちろん、いじめが関与している事例もあるだろう。

 特定の学校の入試の中止や教員の入れ替えで、毎日にように生徒の自殺が発生している問題が解決するのなら、たしかに文科省の統計など必要がないのかもしれない。しかし、そんなことはありえない。

 問題の実態の解明は決して容易ではない。しかし、「自殺」を「自殺」として記録することは、そこに何らかの作為さえ入り込まなければ、決して難しいことではないはずだ。

 この文科省の欺瞞について、紹介したNHKの番組以外にメディアはどんな報道をしてきたのか。そんなことも調べてみようと思う。橋下の広報部門よろしく、彼のパフォーマンスを披露するより、ずっと重要な問題なのではないだろうか。統計はあくまでデータである。しかし、そこから有用な情報を掘り出し、解決への知恵を探り当てるための土台でもある。そのデータに信憑性がなくして、いったいどんな解決の知恵が生み出されるというのか。

 過去の統計の修正は、たとえば十年前位までと遡及期間を区切れば決して面倒なことではないはずだ。しかし、その行為は、文科省、教育委員会、学校による作為や粉飾を明らかにすることになる。だから、「学校側が遺族に配慮」などと嘘をついて統計そのものを中止したいのだ。

 しかし、「嘘に嘘を重ねることはいけない」と、本来は生徒たちに教える立場にいるのが教育界の人間なのではないか。
 「過ちては改むるに憚ること勿れ」、という言葉は、教育界に生きる人々こそ肝に銘じるべきのようだ。
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by kogotokoubei | 2013-01-21 18:02 | 責任者出て来い! | Comments(0)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛