噺の話

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落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。

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九月の睦会以来の横浜にぎわい座。“地下秘密倶楽部”のげシャーレは、七月のこの会以来である。パイプ椅子と階段状の席は最大で141席らしいが、相変わらずの満員。会場前のショーケースのポスターには「完売御礼」と貼ってあった。

次のような構成だった。
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三遊亭兼好   『磯の鮑』
三遊亭こうもり 『元犬』
三遊亭兼好   『夢金』
(仲入り)
三遊亭兼好   『宿屋の富』
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三遊亭兼好『磯の鮑』 (19:00-19:32)
 時事ネタのマクラで選挙や政治のことで幕開け。政治家がいろいろ言っているけど、信じたら裏切られてばかりで、「はじめから信じず聞かないで、落語聴いて笑っているほうがいいでしょう!」と、小咄をいくつか続ける。
・「与太、店賃どんだけためてる」「いや、まだもらったことがねぇ」
・「権助、提灯に灯を入れろ」「その必要はねえだ、夜があけた」
などで、会場を沸かせる。こういった小ネタが、この人は余程好きなのだろう。基本は、とことん“滑稽噺”の人なのだ。
 政治家の中の落語好きということで、二人の元首相を挙げる。Mさんは末広亭で高座に上がったことがあるらしい。HさんはSPに囲まれて鈴本で寄席を楽しんだようだ。どちらも「引退」して、落語家のネタがなくなって寂しい、という兼好の言葉に会場が沸いた。
 また、最近、念願(?)の名古屋城を見ることができた、ということで、名古屋城の最寄駅が、なぜ「市役所前」なのか、というネタが続く。城好きだったとは知らなかった。兼好は昇太と城の噺で盛り上がることもあるのだろうか。七月の会で昇太の弟子が出たのは、“城友達”だからか・・・・・・。

 これらの十五分近いマクラの後の本編は短いながら、この人の真骨頂といえる滑稽噺。一昨年2月13日、前夜降った雪が道端に残る中、自宅近くの「ざま昼席寄席」の鯉昇との二人会で聴いて以来。2010年2月13日のブログ
 その時は、大師匠彦六-師匠好楽と受け継がれてきた噺なのだろう、としか書かなかったので、少し筋書きを書くことにする。小満んや小里んも高座にかけるようだが、私は兼好でしか聴いたことのない珍しい噺。
・源兵衛と太助が話している。吉原で花魁から他の客が忘れて行った煙草入れをもらった
 とか、 それぞれが自慢話を競うように、吉原で“儲かる”話をしている。
・それを聞いていた与太郎。(ざま昼席で最初に聴いた時は、甚兵衛さんだったはず)
 「吉原ってのは、そんなに儲かるところなのか?」と二人に聞く。
 源兵衛と太助、与太郎をからかってやろうと、
 「そうだ、吉原ってのは儲かるところだ。それをよく知っているのが蔵前のご隠居。
 隠居に教わってこい。」と言う。断られても家に上り込んで山盛りのご飯を出して
 「飢え死にはしねぇ、聞くまで帰らねぇ」と言って聞いてこい、 とそそのかす。
・二人の話を真に受けた与太郎。ご飯を炊いて持参し隠居宅へ。二人から与太郎が
 預かった手紙には、「どうか、こついをからかってやってください」とある。
 与太郎が「吉原で儲かる法を教えろ」と大きな声で叫ぶものだから、玄関には人が
 行列をつくる。
 隠居が困った顔で言う「並ばないでください」が笑える。
・隠居も、まんざら吉原を知らないわけでもなく、与太郎が可哀そうになったの
 だろう、「儲けるということではないが、安く気持ちよく遊ぶ法、もてる法はある」
 と手ほどき。
 その中に、「三年も花魁のことを思っていた・・・磯の鮑の片思い」という文句で
 花魁の気を惹け、 と教わるが、この言葉を言い間違えるところが、ミソ。
・与太郎が隠居に教わった文句を、おもしろ可笑しく間違えるので会場も大爆笑。
 吉原の若い衆やオバサンを煙に巻く与太郎は、花魁に決め科白の「磯の鮑」を間違えて
 「伊豆のわさび」と言って、サゲにつながる。

 吉原を舞台にした鸚鵡返しのネタなのだが、こういう噺、この人は本当にうまい。若い衆に向かって与太郎が指をさして「牛!」と言ったり、同様にオバサンに「おまえがオバサンか!」とやる場面などで会場が沸く。珍しいネタを自分のものとして爆笑の渦をつくる高座、今年のマイベスト十席の候補としたい。

三遊亭こうもり『元犬』 (19:33-19:46)
 初見。昨年八月に好楽に入門した兼好の弟弟子らしい。この後の兼好の高座で、以前はピンのお笑い芸人だったとのことだが、見たことはない。顔の表情を売りにしたいのだろうが、まず基本の語り口をしっかりする必要があるだろう。

三遊亭兼好『夢金』 (19:47-20:18)
 出身の会津のこと、そして雪のことから、年末ジャンボの話題にふれた短いマクラから、この人では初めて聴く旬の人情噺へ。
 滑稽噺大好き派として、どうしても当たり前の人情噺にしたくないのだろう。笑いのためと思われる次のようなクスグリを入れる。
・船宿の主人が侍と若い娘を家の中へ入れて、笑いながら侍に聞く、
 「泥棒さんじゃないですよね」の一言。
・船宿の主人が侍に「船はあっても、船頭がいませんもので」と言うと、
 侍が「二階に居候している若旦那はいないのか?」「それは、別の噺でして」

 サゲはこの人自身の工夫なのかどうか分からないが、権太楼の『天狗裁き』的なループに行きかけてから、落とす。
 主人公熊の、櫓を漕ぎながらの独り言場面などはなかなか結構なので、あえて滑稽噺風な演出をする必要はないと思うのだが・・・・・・。
 照れなのか、あるいは自分に似合った噺としての譲れない演出なのか。
 このネタをかけてくれたことは嬉しいし、ところどころで見応えもある高座は、まだ、磨いている途上と察する。

三遊亭兼好『宿屋の富』 (20:28-21:04)
 この会は来年も開催されるらしい。「しかし、もうネタがつきつつあって、途中でつっかえる新しいネタや、どうしても暗い、つまらない噺をしなくてはならないかもしれません。ご容赦のほどを」と言うあたりに、この人のネタの好みがあらためて反映されていた。とにかく、滑稽ネタ、ゲラゲラ笑える落し噺が大好きなのだ。
 二分ほどの短いマクラからの本編は、“二番富に当たるはずの男”が良かった。夢枕に現れた天神様(菅原道真で“みっちゃん”)が、一番富を当てさせるという約束を反故にすると言うので襟首をつかんで怒ったら、二番富が当たることになったとはしゃぐ。当ったら吉原の花魁を身請けして、という妄想は志ん朝の名調子を思い出すが、もっと軽いノリで「湯から帰ったら、刺身があって天麩羅があって鰻がある・・・お前も一杯やれ・・・いや~ん、酔っちゃった、さぁ寝ましょう」を二回半。この場面は、この噺ではずせない^^
 全体的に悪い高座ではないが、一席目の大爆笑ネタと比べると、おとなしかった印象。 


 終演後は、いつものように自ら客を見送る。「あ~っ、どうも」「いつもお世話になります」など兼好の声を後ろに聞きながら階段を上がって外へ。一服しながらポスターを見ると、12月3日の歌丸・円楽ふたり会が完売らしい。鯉昇・文治ふたり会も同じ週、6日の夜だがチケットは残っているようだ。どちらも都合が合わないのでいけないが、いや、前者は都合が良くても行かないなぁ・・・などと思いながら桜木町の駅に向かった。

 帰宅の道すがら空を見上げると、旧暦10月15日の満月が、雲一つない空に輝いている。近くにはオリオン座の星たちも瞬いている。こんな夜は月見酒、とばかりに飲んでいるうちに、つい日付変更線を越えていた。まぁ明日があるさ、と落語会の内容を書くのは断念したが、ニュースを見ていて、つい別なネタでブログを書き始めていた。
 兼好が一席目のマクラで言っていたように、裏切られっぱなしの政治のことなど忘れて、与太郎さんや熊さんや二番富の男のような落語の世界の住人の心境になるには、まだまだ修行が足らないようだ。
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by kogotokoubei | 2012-11-29 06:25 | 落語会 | Comments(4)
昨日、山形での「タウンミーティング」という名の“独演会”で、「日本未来の党」結成について、橋下が彼流の不思議な論理で噛みついたようだ。時事ドットコムの該当ページ

「嘉田新党」をけん制=橋下氏【12衆院選】

 日本維新の会の橋下徹代表代行(大阪市長)は27日、山形県酒田市で開いた同党のタウンミーティングで、嘉田由紀子滋賀県知事が「日本未来の党」結成を表明したことについて、「脱原発のグループが新しくできたが、彼らはいくら言っても実行できない。それは実行した経験がないからだ。嘉田氏に国会議員や政治グループを束ねた経験はない」とけん制した。
 維新の松井一郎幹事長(大阪府知事)も同日、大阪市内で記者団に「日本には(原発だけでなく)さまざまな問題がある。それを総合的に判断していただくのが今回の総選挙だ」と語り、反原発を結集軸として、「未来」に国民の生活が第一などが合流することに疑問を呈した。 (2012/11/27-22:12)



 彼は、「原発」というテーマを語らず、矛盾した論理で人への攻撃をしているだけである。

「脱原発のグループが新しくできたが、彼らはいくら言っても実行できない。それは実行した経験がないからだ。嘉田氏に国会議員や政治グループを束ねた経験はない」

 この発言は、あることを過去に実行したことのない人は、将来もそのことを実行できない、という非常に不思議な論理を展開しているわけだ。

 この論理を踏襲すれば、「石原は総理大臣はできない。なぜなら総理大臣になったことがないからだ。」とか、「橋下の維新は、与党として国の政策を推進することはできない。なぜなら、過去に実行したことがないからだ。橋下には、与野党と調整をはかり、官僚を束ねた経験がない」という言い方もできる。もちろん、こんな論理は成り立たない。それに気が付かないほど、橋下は動揺しているのか・・・・・・。

 できないことを努力してできるようになろう、というプロセスこそが“成長する”ことである。できるための障害や問題を明確にして克服する努力なくして、成長はできない。それは、個人も組織にも同じように言えるだろう。

 もちろん、「過去に経験がないから、苦労する」とか「未経験のことなので、大変だ」という表現なら、まだ分からないでもない。
 しかし、橋下は「彼らはいくら言っても実行できない」と言いきっているのだ。

 この発言には、自らが“第三極”の中心と思っていたものの、石原以外の他グループとの連携が進まず、予想もしなかった手ごわい敵が現れたことへの焦りが見える。

 人の弱みや組織の仕組みの問題などにつけこんで、とことんその点を攻撃するのは、この男の常套手段。それをマスコミを利用して行い、一見正統性のあるようなある一部の事実や主張を膨らませて、相手を攻撃し、自分を有利な立場に導こうとする作戦は、今後も続くだろう。それを、「公開の場」という表現でマスコミを巻き込んでのパフォーマンスに仕立てるのも得意技だ。

 しかし、そろそろマスコミもこの男の広報部門の役割をすることに疑問を持ち始めているはず。踊らされていることに、もう気づくだろう。それでもマスコミが橋下擁護的なニュースを発信するのなら、以前に書いたように、大飯再稼動の際に、関電を中心とする原子力村という黒幕連中との裏取引があって、その黒幕がマスコミを動かしていると私は見る。

 しかし、どんな黒幕がいようと、「偽維新」が民意から遠く離れて選挙で負け組になることが明確になれば、きっぱりと手を切るに違いない。それは時間の問題だ。

 「テーマ(問題・課題)」で主張できない時は「人」を攻撃し、何か主張できそうな時には「テーマ」を語る、利害の打算のみで言い分をコロコロ変える“カメレオン”男の化けの皮は、日々はがれていくだけである。
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by kogotokoubei | 2012-11-28 07:41 | 幸兵衛の独り言 | Comments(4)
橋下が、11月27日午前中に会津若松で街頭演説をしたことが、ニュースで報道されている。毎日から、まず前半部分を引用。毎日jpの該当記事

日本維新:「脱原発」後退がっかり 橋下氏、被災地で演説
毎日新聞 2012年11月27日 12時05分(最終更新 11月27日 13時28分)

 日本維新の会の橋下徹代表代行(大阪市長)が27日午前、福島県会津若松市で街頭演説を行った。原発事故の被災地・福島で街頭に立ち、被災者に語りかけたのは初めて。集まった有権者からは期待する声も聞かれたが、維新の「脱原発」路線が旧太陽の党と合流後に後退したことに「がっかりした」「脱原発の数値目標を示してほしかった」と話す人も目立った。【川崎桂吾、乾達】

 「原発はなくなってほしい。だから原発政策について聞きに来ました」 

 小雪舞い散る27日午前9時半、会津若松市・飯盛(いいもり)山のふもとにある維新陣営の事務所前。会津坂下町(あいづばんげまち)からやってきた農業の男性(72)は寒さに体をすぼめながら、橋下氏が登場するのを待っていた。「でも(戊辰(ぼしん)戦争中、飯盛山で自決した)白虎(びゃっこ)隊が見守る場所で『維新』というのも何か複雑だね」

 陣営は集まった有権者を「800人」と発表したが、記者からは200~300人に見えた。「会津を敵対視しているわけじゃありませんよ」。そんな「つかみ」から話を始めた橋下氏は冒頭、旧太陽との合流で「原発ゼロ」の表現がなくなったことを釈明した。「(マスコミは変わったと指摘するが)なーんにも考え方は変わっていません」「どの政党も、具体的なプランは持っていないんです」

 身ぶり手ぶりの演説は17分間。「演説はうまいけど、あんまり言うことは他の政治家と変わんねえな」。耳を傾けていた会津若松市内の女性(72)はぽつりと言った。原発政策については「選挙目当てでしょ」と冷ややかだった。

 市内には、警戒区域内の同県大熊町から避難した住民2850人が暮らす。借り上げ住宅で避難生活を送る鈴木文雄さん(60)は橋下氏の演説に「総論で細かいところに踏み込まなかったのが残念。脱原発の数値目標を示してほしかった。福島への対応の話もなく、大都市と地方の温度差があるのかもしれない。実行力を強調していたので、もう少し見てみないと分からないが、期待はしたい」と話した。遊説場所から約1キロ離れた仮設住宅で暮らす60代女性は「福祉などが削られないか不安。実行力の裏返しで、何をするか分からない怖さがあり、冷静に見極めたい」と語っていた。



 記事に掲載されているのが、インタビューに応じた一部の人であるのは分かっているが、冷静な対応をしている会津若松市民がいることは、間違いがない。

 そして、72歳の男性が指摘するように、飯盛山は、あの白虎隊戦士が自刃した場所である。Wikipediaから引用。Wikipedia 飯盛山(福島県)

江戸時代後期、戊辰戦争に際して新政府軍と幕府方の会津藩の間で発生した会津戦争に際して、会津藩では藩士子弟の少年たちで構成される白虎隊と呼ばれる部隊が結成され抗戦するが、そのうち士中二番隊が戸ノ口原の戦いにおいて敗走し撤退する際に飯盛山に逃れ、鶴ヶ城周辺の武家屋敷等が燃えているのを落城と錯覚し、もはや帰るところもないと自刃した地でもある。「白虎隊十九士の墓」には、年間200万人ともいわれる観光客が訪れ、墓前には早すぎる死を悼む香煙がたえない。



 たまたま事務所があったのが、この場所なのだろうが、橋下には、戊辰戦争で官(維新)軍に追い込まれて、この地を最後の場所と決めた白虎隊の少年たちの無念、そしてその歴史の流れの中にいる会津の人々の感情を鑑みるデリカシーなどは、一切ないだろう。東京裁判の歴史にはこだわるようだが、この人は、彼がその名を軽々に利用している「維新」の歴史には、あまり興味がないのかもしれない。

 もちろん、戊辰戦争も白虎隊も過去のことであり、今そんなことを気にする方がおかしい、という指摘もあるかもしれない。しかし、戊辰戦争で、徳川への忠義を尽くし、あどけない少年たちも含め会津の人々が最後まで戦った事実は、動かしようのない歴史なのである。

 会津は、戊辰戦争で亡くなった方の子孫がたくさんいらっしゃる地である。その象徴的な場所で「維新」を語ることの“居心地の悪さ”を、橋下は微塵も感じないだろうことが、私には大いに政治家としての適性を欠くように思う。

 72歳の男性の「複雑な思い」を、橋下は理解できないし、理解しようとしないだろう。そんな政治家に、誰がついていくのだろうか。

 そして、この記事の後半には、「原発」をめぐる橋下の発言の変遷が列記されているのでご紹介。

 橋下氏は前日の26日夜は市内のホテルでも1時間を超える演説をしたが、原発政策への言及は最終盤の6分間だけ。「タウンミーティング」と銘打たれていたが、参加者から質問を受け付ける時間はなかった。

 ◇脱原発を巡る橋下氏の発言の変遷◇

(4月24日)電力供給体制の改革をやる。可及的速やかに原発廃止という文言に集約しないと政治的なエネルギーが生まれない。

(8月9日)電気料金はそんなに問題にならない。2030年原発ゼロに向け、道筋を見せれば絶対いける。

(10月24日)安全性は当然だが、国を強くするために原発依存度を下げる。2030年代ゼロの方向性を目指すべきだ。

(11月18日)原発稼働のルールを再確立し、電力市場を自由化すれば、結果として新しい電力供給体制に転換する。原発ゼロを打ち出すことが問題ではない。

(11月24日)脱原発と言っている人はどういうプロセスでやるのか。選択肢ができてないのに2030年代ゼロなんて言えない。スローガンだけでは実現できない。



 26日の夜は、質問時間のない「ミーティング」を開催したようだ。要するに、自分の言いたいことだけを言いまくって終わり。これまでは、この男のプレゼンテーションに騙される市民も多かったろうが、その後に並ぶ発言の変遷のように、“無限の舌”を持つ男の化けの皮がはがれるにつれ、一挙に賛同者を失っていくのは、当然のこと。

  「2030年代ゼロの方向性を目指すべきだ」発言から、
  「2030年代ゼロなんて言えない」まで、たった一か月。

 これが、橋下という男の本質を見事に表している。その場その場の損得勘定、打算で言うことがコロコロ変わる男と、“老害”をまき散らし、死ぬ前に総理大臣になりたいだけの石原に、この国の未来を託せるはずがない。
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by kogotokoubei | 2012-11-27 18:30 | 責任者出て来い! | Comments(4)
明治四十(1907)年の十一月二十六日、初代三遊亭円遊が満五十七歳で亡くなった。嘉永三年(嘉永二年、という説もあるが、ここでは三年説をとる)五月二十八日(新暦1850年7月7日)の生まれだったので、師匠円朝の十一歳年下になる。江戸小石川小日向の生まれ、本名は竹内金太郎。

 最初二代目五明楼玉輔に入門したが師匠が廃業(後に復帰している)したため、明治五(1872)年頃に円朝門下に移った。大きな鼻から“鼻の円遊”と呼ばれたが、何と言っても“ステテコ踊り”で一世を風靡したことが有名。
 しかし、この人は“ステテコ”のみならず、高座そのものも優れていたようだし、今の世に残る滑稽噺の創作(改作も含め)において評価すべき人のようだ。

 よく知られたことだが、夏目漱石は『三四郎』の中で、登場人物の一人である与次郎に三代目小さんを礼賛させている。その時に引き合いに出されているのが円遊だ。青空文庫から引用。夏目漱石『三四郎』(青空文庫)

 次に本場の寄席へ連れて行ってやると言って、また細い横町へはいって、木原店という寄席を上がった。ここで小さんという落語家を聞いた。十時過ぎ通りへ出た与次郎は、また
「どうだ」と聞いた。
 三四郎は物足りたとは答えなかった。しかしまんざらもの足りない心持ちもしなかった。すると与次郎は大いに小さん論を始めた。
 小さんは天才である。あんな芸術家はめったに出るものじゃない。いつでも聞けると思うから安っぽい感じがして、はなはだ気の毒だ。じつは彼と時を同じゅうして生きている我々はたいへんなしあわせである。今から少しまえに生まれても小さんは聞けない。少しおくれても同様だ。——円遊もうまい。しかし小さんとは趣が違っている。円遊のふんした太鼓持は、太鼓持になった円遊だからおもしろいので、小さんのやる太鼓持は、小さんを離れた太鼓持だからおもしろい。円遊の演ずる人物から円遊を隠せば、人物がまるで消滅してしまう。小さんの演ずる人物から、いくら小さんを隠したって、人物は活発溌地に躍動するばかりだ。そこがえらい。
 与次郎はこんなことを言って、また
「どうだ」と聞いた。実をいうと三四郎には小さんの味わいがよくわからなかった。そのうえ円遊なるものはいまだかつて聞いたことがない。したがって与次郎の説の当否は判定しにくい。しかしその比較のほとんど文学的といいうるほどに要領を得たには感服した。


 与次郎の三代目小さん、そして円遊の評価は、たぶんに作者夏目漱石自身の思いを反映したものであったろう。
 私には、この部分を読んで、単に三代目小さんを礼賛する文章とは思えなかった。名人小さんを語るのに漱石が引き合いに出したほど、円遊の存在が大きかったのだろうと思うのだ。ちなみに、三代目小さんは円遊より七歳年下。

 円遊の“ステテコ踊り”は、四代目立川談志の“郭巨の釜堀り”、初代三遊亭萬橘の“ヘラヘラ節”、四代目橘家円太郎の“ラッパ”と合わせて、「珍芸四天王」ともてはやされた。

 明治になり、主に“官軍”の長州(中国地区)や薩摩(九州地区)などから東京に移り住んだ多くの人々が、江戸から伝わる人情噺中心の古典落語の良さを分かるには時間がかかる。そういった、新しい“東京人”にとって、円遊らの「珍芸」は、見たまんまの単純な可笑しさで受容された。

 しかし、古典の本格派からは、そういった「珍芸」は毛嫌いされ、そのことが第一次落語研究会の発足にもつながった。
 第一次落語研究会は、明治三十八(1905)年から始まった。速記者の今村次郎、歌舞伎演出家で作家の岡鬼太郎が顧問。今なら「レギュラー出演者」に相当するだろう、「発起人」の顔ぶれは次の通り。

-第一次落語研究会発起人-
 □初代三遊亭円左
 □四代目橘家円喬
 □三代目柳家小さん
 □四代目橘家円蔵
 □初代三遊亭円右
 □二代目三遊亭小円朝

 先日ブログで書いた、“幻の二代目三遊亭円朝”の初代円右も含まれている。2012年11月2日のブログ
 この円右は、円朝の直系の弟子ではない。円遊より十歳年下で、初代円馬、二代目円生、三代目円生とともに“円朝門下の四天王”と言われた二代目円橘門下だった。ちなみに暉峻康隆著『落語の年輪』によると、二代目円橘は、明治三十九年の七月十一日、谷中全生庵における円朝七回忌法会の最中に卒倒したまま、その夜六十九歳で亡くなっている。暉峻康隆著『落語の年輪』

 円朝直系門下の初代円左は、円遊と比べて年齢で二歳上、入門は五年早い。志ん生などが絶賛する四代目円喬は、円遊より十五歳も下だが、七歳で円遊と同じ年に円朝に入門している。四代目橘家円蔵は円遊より十四歳年下で、四代目円生に最初入門している。二代目小円朝は円遊の八歳年下で、最初は初代円馬に入門し、その後円朝門下になった人。

 この第一次落語研究会発足の中心人物は、円遊より年齢も入門も先である円左。円左は、弟弟子である円遊の「珍芸」や滑稽噺が人気を得るのを歯ぎしりしながら見ていて、「このままでは落語は滅びる」といった危機感をもったようだ。
 裏を返せば、それほど円遊の人気が凄かったようで、多い日には一日に三十六軒の寄席を掛け持ちしたと言われる。ほとんどは、“ステテコ”を踊るだけなのだが、それでも客は大いに喜んだらしい。

 しかし、繰り返すが、円遊は“ステテコ”だけではなかった。

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興津要著『落語』(講談社学術文庫)
*リンク先の「講談社BOOK倶楽部」に小言を言いたい。たった八年前の2004年に発行(初版は昭和43年の角川選書)された本書について、どうして「BOOK倶楽部ではお取り扱いしておりません。」と書かれてあるのか!?

興津要著『落語-笑いの年輪-』から引用。

 五明楼玉輔ゆずりの「義士伝などでお茶をにごして売れないユウウツな毎日をくりかえすうち、ふと円遊が気づいたのは、九州・中国あたりの人たちがぞくぞく東京へ入りこんできて、客の種類がだいぶかわってきたことだった。「世の中が追々変わって日増しに進んでゆくのだから、昔の話をありきたりのままで演っていた分にやァ、多くのお客様の御意にいるまいから、なんでもこれは時勢にはまるような落語をやらなければいけない」—そんなことが頭にうかんだ。そして、えらんだのは、人情噺をすてて滑稽落語に徹する道だったが、それが落語繁栄の基礎となり、近代落語への道となった


 このように、私の“座右の書”である『古典落語』(講談社文庫)の作者興津要さんの、円遊への評価は高い。
 

 それはたとえば、若旦那徳兵衛が勘当されて船宿に居候するうちに船頭になり、ある日、昔なじみの芸者お初を船で送る途中で夕立にあい、船をもやって雨やみをまつうちに昔のよりがもどるが、お初に思いをよせる油屋九兵衛のためにお初徳兵衛は心中にいたるという初代古今亭志ん生作の人情噺「お初徳兵衛浮名桟橋」は、新米船頭の若旦那の失敗をえがく落語「船徳」にちあらためられ、二枚目の若旦那も「御当家は遊船宿をしていらっしゃるのを幸いに、おれはどうか船の方へ関係致して、猪牙から荷足(にたり)・高瀬・伝馬・川蒸汽から屋形・屋根船は申すに及ばず、五十馬力、百馬力、二百馬力、五百馬力ぐらいの蒸汽の船長に成って洋航(ママ)をしようと考えておりやす。行く末は海軍で海軍卿とも謂われたいもんで」と三枚目になり、客も「和郎(おまえ)は鉄道馬車や赤馬車が贔屓で車が便利だてえので、幾ら混雑(こみ)合ってても彼の革へぶら下がってグルグル廻る度に他人(ひと)と鉢合わせをして瘤ができるので、和郎の額には鉄道馬車がスーッと並んでいるだろう」—だから、それよりも船に乗ろうという珍妙なセリフを吐き、この客を乗せた若旦那がもやったままの船を漕ごうと骨折ったり、石垣へくっついた船を客の洋傘で突かせ、洋傘を石垣にはさんだまま船をだして客に損をかけたり、船がゆれて煙草に火がつかなかたっりと、明治の新風俗を背景の笑いの世界だった。


 興津さんが紹介する円遊のオリジナルは、言葉づかいが当時のもので、やや難解なところもあるが、「お初徳兵衛浮名桟橋」を改作した「船徳」の、今日でも演じられる円遊の演出を確認することはできるはず。円遊が遺した滑稽噺としての「船徳」は、今や原作から一人立ちした名作落語として、継承されている。
 ちなみに、昨年夏の人形町らくだ亭で、雲助の「お初徳兵衛」と志ん輔の「船徳」を聴いたが、どちらも結構な高座だった。2011年8月23日のブログ
 さて、興津さんの書では、この後に、十三人のベテラン真打たちが、円遊の「珍芸」をやめさせようと師匠円朝宅に乗り込んだが、円朝が彼らをご馳走してなだめた、という逸話が紹介されている。そして、師匠円朝と円遊のことについて、次のように書かれている。

 円朝がめざすのは、円遊とゆきかたはことなるものの、やはり新時代むきの噺だった。かくて円遊はその努力がみとめられ、明治十五年、真打に昇進した。
 円遊は、「素人洋食」「金魚の芸者」などの新作も数多く手がけたが、それよりもむしろ、明治の新風物を詩情ゆたかにあしらったり、ギャグにつかったりした古典落語の現代化に本領を発揮した。「転宅」では、活発な女性をえがくのに、「女のくせに瓦斯灯へ昇って煙草を吸い付け」などとやったかと思うと「ずっこけ」では、酔っぱらいのセリフが、「そこに何かおちてるよ、何だい、これは、男帯がおちてたよ(中略)、よくよくみれば鉄道馬車の線路でございました」「オヤうれしいネ、ダイヤモンドがおちてたよ(中略)、よくよくみたら電気がぬかるにみ映ってたんだ」と、明治の東京の夜の詩情をうつしだし、「穴どろ」では、年末、金の工面につまった男をえがくのに、隅田川をゆく蒸気船にうつろな目を投げかけ、日暮れに上野公園のブランコでやるせなく憂さをまぎらす設定にするなど、ギャグを通じて明治の東京風俗詩絵巻を展開した。そんな円遊の手腕によって多くの噺が面目を一新し、とくに、仏教色のつよい陽気な噺といわれた「野ざらし」は、円遊の改作が原話を追放して、原話のほうは跡もとどめないほどのていたらくとなった。円朝が江戸落語の完成者とすれば、円遊は近代落語の祖だった。



 本書には、夏目漱石が正岡子規宛てに送った手紙が紹介されており、円遊に関して書いてある件があるので引用したい。明治二十四年、漱石二十四歳の時の手紙と、その後の部分をご紹介。


 観劇の際御同伴を不得(えず)残念至極至極残念(宛然-さながら-子規
 口吻)去月卅日曇天を冒して早稲田より歌舞伎座に赴く(中略)一軒
 おいて隣りに円遊を見懸けしは鼻々おかしかりしなあいつの痘痕と
 僕のと数にしたらどちらが多いだろうと大いに考えて居る内春日局は
 御仕舞いになりぬ公平法問の場は落語を実地に見たようにて面白くて
 腹の痛みを忘れたり。

 と、円遊の売り物の鼻のダジャレをとばしたり、のちに自分の鼻のアタマのそれを気にして、中根鏡子との見合い写真に大修整をほどこしてそれを消したといういわくつきのアバタを、円遊のそれとかぞえくらべたなどとふざけたり、円遊中心の文章を見せていた。
 円遊がはじめてステテコを踊ったのが明治十三年、真打昇進が十五年で、とくに人気が絶頂だったのは二十年代前半だった。この時期は、金之助の寄席がよいがさかんだった十四歳から二十五、六歳にあたっており、彼が日の出のいきおいの円遊に魅せられたのも当然で、作家漱石となってからも、その高座と無縁ではいられなかった。
『吾輩は猫である』は、漱石が自分の育った環境を「全体にソワソワと八笑人か七偏人のより合の宅(いえ)」と言ったように、その意識のなかにあった『八笑人』や『七偏人』など、のらくら者の遊戯をえがいた幕末の退廃的滑稽本の匂いがあった。これは、漱石にとってはじめての創作であってみれば、専門の英文学の知識や手法のほかに、彼にとって郷愁の世界でもあった江戸文学や円遊を代表とする滑稽落語の手法が駆使されて当然だった。彼が『猫』において、底の浅い文明批評を展開するにあたって、底の浅い文明開化の笑いの芸術家円遊のくすぐりをとりあげたのは偶然ではなかった。

  *卅日は三十日。
 
 この後に、『猫』を中心に、漱石作品の円遊をはじめとする滑稽落語からの影響が説明される。
 
 漱石作品への落語の影響は顕著で、『猫』には、泥棒に入られた後の「花色木綿」そっくりの夫婦の会話がある。その会話の引用を含め漱石と落語について以前に書いたことがあるので、ご興味のある方はご覧のほどを。2009年2月9日のブログ

さて、爆発的な人気を誇った円遊にも、黄昏はやって来る。

 明治四十年十月十五日、人気もすっかり落ち目になった円遊は弟子の福円遊をつれて、谷中の天王寺へ亡くなった子供の石塔を建てにいったが、彼は「おれももう、ちかぢか此処へくるんだ」と言った。えんぎでもないとおもった福円遊が、「師匠、つまらないことを言うもんじゃありません。そんなことがあってたまるもんですか」と言うと、円遊は、「いや、そうでない。もうちかぢかだろう」となおもくりかえした。すっかりなさけなくなった福円遊が、「師匠、なぜまたそんな心ぼそいことを言うんですか」ときくと、円遊は、「いまおれは、この墓地へ来て、ふとあのステテコの唄をおもいだしたら、急に心ぼそくなってきた。あの唄は、『さても諸席の大入は、立川談志の十八番、郭巨の窯掘り、オイテロレン、万橘ヘラヘラ、円太郎ラッパで、お婆さんあぶない、円遊のステテコ、チャチャラチャラチャラ』というんだろう。そらその唄の談志、万橘、円太郎はその順に故人になって、のこっているのは円遊ばかりだから、今度はいよいよおれの番だ」と言い、それから三日目の十八日から床につき、十一月二十六日、小さんの栄光にかがやく姿に背をむけて世を去っていった。
 それはあたかも一つの時代のおわりを象徴するかのごとくだった。



 漱石の『猫』は明治三十八(1905)年から三十九(1906)年にかけて『ホトトギス』に連載された。人気に翳りが出たとはいえ、まだ円遊の名で客が呼べた時期である。
 そして、『三四郎』は、その二年後、明治四十一(1908)年の朝日新聞への連載で、円遊没後の発表だ。
 『三四郎』の中で与次郎の言葉として、円遊より小さん、と言わせる漱石の評価は、「珍芸」ブームが衰退する中で、余計なイレゴトなしの本寸法滑稽噺で人気を高めていった三代目小さんの絶頂期に当たる。
 『三四郎』における円遊の評価は、世相を反映したものでもあるのだろう。しかし、円遊没後の作品で、あえて小さん評価の引き合いとして円遊を登場させた漱石には、若かりし日に出会った円遊への思い入れも強く感じる。同じ鼻の“アバタ”仲間としての円遊への、特別な感情もあっただろう。

 
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落語蔵出しシリーズ(9)

 円右のことを書いた時にも紹介した、コロムビアから発売されている「落語蔵出しシリーズ」第九集に、初代円遊の「太鼓の当込」が収録されている。

「落語蔵出しシリーズ」-第九集-
-----------------------------
1. 太鼓の当込(初代 三遊亭圓遊)
2. 附焼刃(半分垢)(四代目 橘家圓喬)
3. 長屋の花見(三代目 蝶花樓馬樂)
4. 後に心がつかぬ(曽呂利新左衛門)
5. 鍋草履(初代 三遊亭圓右)
6. 近江八景(六代目 林家正蔵)
7. うどんや(三代目 柳家小さん)
8. 厄払い(初代 柳家三語樓)
9. 区画整理(五代目 三弁家小勝)
10. 動物園(二代目 桂三木助)
------------------------------
 残念ながら「太鼓の当込」についての詳しい情報を見つけることはできなかった。やや雑音が多い五分ほどの音源は、幇間一八が主役の小咄のようなネタ。一八が、旦那に「今晩、嫁をもらうんです」と言って宴席から浮かれて帰る道すがらの情景。興津さんの書で紹介されている、「男帯がおちてたよ、よくよくみれば鉄道の線路」や、「ダイヤモンドがおちてたよ、よくよくみたらぬかるにみに電気が映ってた」などのギャグが入っている。当時としては、きっとハイカラだったのだろう。


 円朝が「江戸落語の完成者」、円遊が「近代落語の祖」という興津さんの評から考えて、今や神格化されつつある円朝に比べ、初代円遊について語られることは少なすぎるようにも思う。
 しかし、「船徳」や「野ざらし」というネタとして、しっかり彼の業績は今に残っている。
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by kogotokoubei | 2012-11-26 20:44 | 落語家 | Comments(2)
昨日、明治の上方落語黄金期にかけられていた噺について書いたが、そこから“芋づる”式で連想したのが、三代目柳家小さんのことである。

 夏目漱石が作品の中で“名人”として讃えたことはよく知られている三代目小さんの功績は、その芸のみならず、上方で修業中に四代目桂文吾などの噺家から数多くの上方噺を授けられ、積極的に東京に移植したことである。三代目小さんを筆頭とする東の噺家が、多くの上方ネタを、時に改訂や改題して東京に移植したからこそ、今日、数多くの傑作ネタを聴くことができる。

暉峻康隆著『落語の年輪』の「江戸・明治篇」から引用したい。
*本書は、初版が昭和四十三(1978)年に講談社より発行。現在では河出文庫で入手可能。

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   暉峻康隆著『落語の年輪』

 三代目小さんも、もちろん咄のうまいほうの組ではあるが、しかし彼はそれなりに、東京人に目新しい上方の咄を仕込んでレパートリーをふやしている。だいたい、初代三笑亭可楽と同時に(寛政十年<1798>)に、江戸で寄席をはじめた岡本万作は大阪の咄家だったのであるし、その前後の咄本を見ても、大阪の小咄が江戸へ、江戸のが大阪へと、すこしずつ手直ししながらキャッチボールしている。近代に入って咄家の往来がしげくなると、東京では珍しい大阪の咄を、地名・人名・風俗・会話を江戸前に仕立て直して高座にかけることが多くなったのは当然である。中でも小三治時代(明治二十年代)に大阪へ修業へ行って腕を磨いてきた三代目小さんは、移植につとめている。


 小三治時代の明治二十年代の上方は、まさに上方落語が「桂派」「浪花三友派」の好ライバルの切磋琢磨で黄金期にあった時期に重なる。

 さて、三代目はどんな咄を東京に持ち帰ったのか。

 つぎの一覧表は私がまとめた原稿を、明治四十五年(1912)五月に円童から小円蔵となった生証人の現六代目三遊亭円生さんにチェックしてもらったものである。確実なもののみを挙げる。

 上方種の東京落語
 「あんまの炬燵」四代目桂文吾(大正四年<1915>九月没)より伝授。
 「市助酒」同じく桂文吾より伝授。
 「馬の田楽」
 「お神酒徳利」(占い八百屋)
 「しめ込み」(盗人の仲裁)ともに三代目の移植。
 「時そば」大阪の「時うどん」を三代目が移植改題。
 「二階ぞめき」三代目の移植。ただし三代目春風亭柳枝(明治三十三年没)
  の速記の中に小咄で出ている。
 「にらみ返し」桂文吾より伝授。小さん十八番の一。
 「猫の災難」
 「百年目」三代目小さんの速記がある。現円生の咄は二代目三木助より
  伝授。
 「不動坊」二代目林家菊丸作という。
 「宿屋の富」大阪の「高津の富」を桂文吾より伝授改題。
 「らくだ」大阪の「らくだの祭礼」を大正時代に三代目が桂文吾より
  譲られ、その後また文吾の師匠の桂文左衛門から教えを受け、東京風
  に直す。
  
 まだほかにもあるかもしれないが、これらは確かなもので、完全に東京化した三代目小さんの手腕と熱意を評価したい。


 三代目小さんが移植した上方落語が、何と今日まで東京落語の重要な演題となっているかが分かる。
 もちろん、小さんばかりが上方の噺を東京に移植したわけではない。本書は次のように続く。

 事のついでに、東京化されためぼしい上方落語を、円生加筆の原稿によって列挙しておこう。
 「愛宕山」三代目三遊亭円馬(橋本川柳)が東京で盛んにやり、故桂文楽
  が十八番とした。
 「阿弥陀ヶ池」初代三遊亭右女助(のち五代目古今亭今輔)の持ち咄。
 「あわびのし」(生貝)三代円馬が移植。
 「按七」(七の字)三代目円馬の招来かという。
 「大どこの犬」(鴻の池の犬)三代目円馬が「大どこの犬」と題して演ず。
 「青菜」初代円左が移植。
 「唖の釣」(唖の魚釣り)二代目桂三木助が現八代目正蔵に伝授。
 「親子茶屋」初代桂小南(大正六年に上京)持ち来たる。八代目桂文治
  (三遊亭円馬門人の小円馬)「夜桜」と題して口演。
 「書置違い」(ふたなり)二代目柳亭燕枝(三代目小さん門の小三治)口演。
 「景清」(盲景清)三代目円馬の移植。故桂文楽の十八番。
 「菊江の仏壇」(白ざつま)初代円右の移植。
 「金明竹」三代目円馬の移植。
 「鍬潟」五代目円生の移植。
 「稽古屋」初代桂小南、持ち来たる。
 「孝行糖」三代目三遊亭金馬(大正十五年五月襲名)が三代目円馬より
  伝授さる。

 
 この後も二頁半に渡って、上方から移植された噺の紹介が続く。その中には、「笊屋」「三枚起請」「粗忽の釘」「二番煎じ」「人形買い」「抜け雀」「寝床」「初天神」などが、ずらっと並ぶ。

 これだけのネタを見て、これらの上方噺が、もし東京に移植されなかったら、と思うと寒気がするではないか。

 上方落語を知らずに東京の落語を聴いて楽しんでいる落語愛好家も、実は、上方落語の伝統の継承、それらのネタを東京に移植した三代目小さんや三代目円馬たちの活動、そして移植された噺を今日まで繋ぎ続けた噺家たち、という長い歴史における噺家たちの努力の恩恵にあずかっているということを、時には考えてもいいように思う。

 だからこそ、昨日書いたように、明治の上方落語黄金期に演じられ、今ではほとんど聴くことのなくなった噺を、ぜひ復活させて欲しいとも思うのだ。
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by kogotokoubei | 2012-11-24 10:24 | 上方落語 | Comments(2)
せっかく「上方落語」というカテゴリーを作ったのに、あまりにも記事が少ないことを反省。

 明治の半ば、上方落語界は「桂派」と「浪花三友派」というライバル同士の切磋琢磨によって、大いに盛り上がっていた。二代目文枝襲名争いに端を発したこの両派の成り立ちは、初代桂春団治のことを書いたブログの中で紹介したので、ご興味のある方はご参照のほどを。
2011年10月6日のブログ

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関山和夫著『落語名人伝』(白水Uブックス)

 その時も引用した関山和夫著『落語名人伝』から、当時の上方落語界で活躍した噺家とバラエティに富んだ得意ネタを紹介したい。

 「桂派」「浪花三友派」が対抗して芸を競ったころ、一体噺家たちはどのような噺を演じていたのであろうか。前田勇著『上方落語の歴史』に番付などによる名人・上手の十八番が掲げられている。実に興味深い。それによれば、「桂派」では、二代目文枝は素噺、二代目文三は「百年目」「掛取り」、二代目南光は「稽古屋」「先の仏」「猿回し」、燕枝は「ない物買い」、談枝は「軒付け浄瑠璃」、万光「一休」「松茸山」「背虫茶屋」、二代目梅光はオッペケペー節、小文枝は「質屋蔵」「後家殺し」、枝太郎は「理屈按摩」「土橋万歳」、枝雀は「船弁慶」「野崎参り」、扇枝は「掛取り」、文屋は「辻八卦」「書生車」、伯枝は「立切れ線香」、三五郎は「春雨茶屋」「密合酒」<以上の人々の亭号は、すべて「桂」>、林家花丸は「新辻占」、五代目林家正楽は「鉄砲勇助」、笑福亭福助は「米揚げいかき」「口合小町」などであり、「浪花三友派」では、月亭文都が「背虫の住吉参り」「当世浮世床」、笑福亭福松が「紙屑選り」、笑福亭松光が「反魂丹」「化物長屋」「引導鐘」、艶文亭かしくが「たちぎえ」「辻占」、二代目桂文団治が「野崎参り」「三十石」「佐々木信濃守」、二代目桂米団治が「五人裁き」「三人兄弟」「立切れ」、二代目桂米喬が「鋳掛屋」「胴乱の幸助」、桂梅団治が「乙女狐」「稽古屋」、桂篤団治が「綿屋の火事」、三代目笑福亭松鶴が「大塩」、三代目笑福亭松竹は素噺、五代目笑福亭吾竹は「清水景清」、桂文我は「愛宕参り」「按摩芝居」、曽呂利新左衛門は「下の関水」「虱茶屋」などである。


 並んだネタ、半分以上は聴いたことがない。

 ちなみに、二代目米喬が、十月三十日に亡くなった藤本義一の直木賞受賞作『鬼の詩』で、桂馬喬として描かれる主人公のモデルである。映画で馬喬を演じた桂福団治は、来年藤本義一追悼落語会を開催するらしい。スポニチの該当記事

 さて、本書のことに戻ろう。明治の上方落語黄金期に、何とも多くの噺家さんがいて、バラエティに富んだネタが演じられていたことか。それぞれの噺家の十八番に、ほとんど重複がない。

 この本ではこの後、桂米朝の『米朝上方落語選』に収められている、米朝と小島貞二との対談から米朝の言葉が引用されている。

「明治二十六年かの番付ですと、はなし家の数が百二十五人からおり、定席かて、大阪に十四軒、京都や神戸も入れると二十軒近くあったようです。それ以外に端席もあり、盛んやったんですな。それが、明治も四十年ごろになると、両派合同の興行なんてものをやっています。下り坂の証拠でしょうなァ」と発言しておられる。明治三十六年の番付では、東京から参加していたものも含めて落語家は八十四名、定席は大阪が八軒になっている。だいぶ減少していることがわかる。近代上方落語の盛衰が示されている。私が特に注目しているのは、明治の「桂派」「浪花三友派」時代と現在の上方の演芸興行形態が如何に違うかということである。


 この本が発行されたのは、ちょうど二十年前の平成四(1992)年である。著者関山和夫は、二十年前の“現在”、明治の黄金期の上方落語界のことに思いを巡らしている。

 それでは、平成二十四年の“現在”の上方落語界は、どうなのだろう。

 二十年前よりは、間違いなく活況を呈していると言うことはできるだろう。

 繁昌亭という定席が出来、(古典のできない)六代目文枝が誕生し、二代目文枝の名を継ぐことができなかった二代目桂文都が名乗った月亭文都の名跡も来年三月に八天が七代目として継ぐことになり、これら懐かしい大きな名跡の復活もあって、勢いを取り戻しつつあるように思う。

 ちょうど今日、桂文我から封書が届いた。この人は、落語会のアンケートに答えると律儀に案内を送ってくれる。大手の興行会社から届く葉書ではなく、決まって封書。そういえば、談春の会を仕切る事務所からも、手書きではないものの、談春のなかなか心のこもったメッセージと今後の落語会の案内が届いていたなぁ。都内の各地での会は、私が行かない日曜ばかりだった・・・・・・。

 さて、文我の封書のこと。今後の落語会の案内チラシと手書きの手紙が同封されていた。

 宗助との二人会は、十二月二十三日(日、祝日)の夜・・・・・・。文我は『古事記』の落語版を演じるらしい。宗助は未見なので、ぜひ行きたいところだが、都合がつかない。残念。梅団治との二人会は三月五日(火)の夜で国立演芸場。開口一番は桂小鯛。文我は『三枚起請』と『応挙の幽霊』、鉄ちゃんの梅団治が『つぼ算』と、きっと新作だろう『切符』。期末で何かとあるが、行こうと思う。
 そして“おやこ寄席”が宗助との会の翌二十四日祝日に、日本橋であるらしい。この寄席は、文我のライフワークと言ってもよいのだろう。過去の会のDVDが発売されるようだ。

 そういえば、最初に紹介した文中の『三人兄弟』は文我で聴いた。

 そこで、思うのだ。もし、平成二十年代が、「上方落語の平成黄金期」と呼ばれるようになるには、過去の上方落語発掘の功績がある米朝の流れを引く文我に限らず、数多くの上方の噺家さんが、「上方落語の明治黄金期」に演じられて今では聴くことのないネタを、もっと掘り出して次の世代につなぐ必要があるのではなかろうか。

 文枝、文都という、明治の黄金期に「桂派」と「浪花三友派」を代表した名跡の復活を機に、“創作落語”も結構だが、当時の先輩達が手がけた数多の上方噺を、ぜひ平成の世に蘇らせて欲しいと切に願うのである。

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by kogotokoubei | 2012-11-23 10:13 | 上方落語 | Comments(6)
まったくの野合、烏合の衆と言える“維新の会”の橋下は、これまでも二枚舌どころか、無限にある舌を使って、嘘をつき、誤魔化し、詭弁を弄してきた。

 維新の会と橋下について、ようやく“脱原発”を切り口に朝日からまっとうな記事が発信されたので紹介したい。朝日新聞デジタルの該当記事

2012年11月22日03時00分
橋下氏、「脱原発」は? ブレーンも失望〈乱流総選挙〉

【京谷奈帆子、染田屋竜太】脱原発依存を掲げてきた大阪市長の橋下徹・日本維新の会代表代行が、「原発ゼロ」の目標を衆院選公約に明記しないと表明した。原発推進派の石原慎太郎代表ら旧太陽の党との合流を受けた方針転換で、「ルール強化で結果的にゼロは可能」と主張する。しかし、橋下氏に期待を寄せていた専門家や市民からは失望の声も上がる。

 「明らかな後退。脱原発の旗を降ろしてしまったのは残念だ」。大阪府市エネルギー戦略会議座長代理で元経済産業省官僚の古賀茂明氏は語気を強めた。

 戦略会議は、橋下氏の肝いりで2月に設置。有識者の委員らが脱原発の実現に向け、代替エネルギーの確保や電力市場自由化といった具体的な道筋について議論を重ね、橋下氏も「知恵袋」として強い期待を寄せていた。

 だが、維新と太陽の党の合流が決まった17日、橋下氏は「2030年代の原発ゼロは(政策合意に)表記していない」と発言。衆院選の公約には掲げない方針を示す一方、原発稼働のルール厳格化や電力市場の自由化を進めれば「結果的に原発ゼロにできる」と主張。脱原発をめざす考えは捨てていないと強調した。

 古賀氏は「それなら原発をなくすという言葉を入れるべきだった」と批判しつつ、橋下氏のリーダーシップには期待をつなぐ。「選挙のために妥協したかもしれないが、選挙後に橋下色を押し出せるか注目したい」

 戦略会議委員で環境エネルギー政策研究所長の飯田哲也氏も失望感をにじませる。「5月、電力需給への不安を理由に大飯原発の再稼働を容認したときと似ている。今回も一番肝心なところで土俵から片足を割ったようだ」



 古賀茂明や飯田哲也という、マスコミでも顔を売ったブレーンを使って、“脱原発”のスタンドプレーをしていた男は、大飯再稼動で、あっさりと関電を中心とする原子力村の圧力に屈した。

 古賀や飯田が、今後どのような対応をするかは分からないが、石原と橋下がくっついた以上、もう“脱原発”の旗が橋下から振られることはないだろう。しかし、「脱原発は可能である」というニュアンスの詭弁は、間違いなく繰り返されるはず。口先だかは達者だから。

 橋下は、政権を取る、あるいは政権を動かすためのイニシャティブを握るためなら、悪魔とでも手を握るはずで、原子力村という財界とのつながりを自ら断つことはないはず。私は、大飯再稼動を認める際、何らかの裏取引があったと考えている。橋下は、あくまで損得で考える男だ。

ブレーンのみならず、市民が橋下から裏切られた怒りも大きい。

 市民からも厳しい声が上がる。福島原発事故の影響で、福島県郡山市から大阪市内に母子で避難している森松明希子さん(39)は、「嫌な感じがする。なぜ脱原発を掲げることを押し切ってくれなかったのか」と残念がる。

 森松さんは、民意をくみ取る政治家として橋下氏に期待を寄せていた。「橋下さんが脱原発を掲げないのは、民意が脱原発を求めていないと思っているからなのか。そうだとすれば福島県民としてとてもつらい」

 「教育や福祉に関する取り組みには疑問はあったが、脱原発には期待していたのに」。大阪市西区の主婦駒崎順子さん(46)は「自分の都合で簡単に主張を変えてしまった」と憤る。「本当に原発をなくしてくれるなら、この人にかけようと思っていたのに。誰に投票すればいいんでしょうか」



 原発、消費税、TPPなどのテーマに関し、大きく見解を異にする橋下と石原の野合が破綻するのは時間の問題だろうが、民主や自民の顔ぶれを見た上での劣等比較で、ある程度の票を集める可能性はある。

 私は、無罪確定後にマスコミが無視し続ける小沢一郎の「生活」党と、“坊ちゃん”安倍自民、あるいは烏合維新のいずれが、震災とフクシマからの復興、景気浮揚など、日本再建に期待できるかは、それほど考える時間を要しない。

 小沢一郎というの人間のイメージは決してポジティブではない。しかし、民主党が、その結党の原点を忘れたことから離党し、新たな政党を立ち上げた男は、最後まで中途半端なまま、まるで余技として考えていたかのような政治家をあっさりやめた鳩山由紀夫とは対照的に、「自己」より「国」のことを思っていると、私は考えている。

 市民の“期待”という梯子を、いつはずすか分からないスタンドプレー大好きの橋下と、老害をまき散らす石原などより、自己アピールが下手で強面の東北出身の政治家に、私はしばらくこの国の舵取りを託してもいいと思っている。
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by kogotokoubei | 2012-11-22 12:04 | 責任者出て来い! | Comments(4)
五月、八月に続いて銀座に参上。会場はほぼ満席。固定ファンにご新規が毎度加わっている印象。人気は本物である。次のような構成だった。

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(開口一番 春風亭朝也 『芋俵』)
柳家喜多八 『黄金の大黒』
柳家喜多八 『一つ穴』
(仲入り)
ストレート松浦 ジャグリング
柳家喜多八 『火事息子』
-----------------------------

春風亭朝也『芋俵』 (19:00-19:31)
 どう考えても、喜多八の会場入りが遅れたための“つなぎ”があったように思う。そうでなければ朝也がネタと無関係なマクラを十分もダラダラと続けるわけがない。ネタのマクラ三分、本編十八分合わせて約三十分の開口一番は、いくら高座で頑張ろうと、眠気とストレスをさそった。朝也の高座は、今後寄席ででも聴き直したい。

柳家喜多八『黄金の大黒』 (19:32-19:57)
 このネタでこれだけ笑ったのは初めてである。金ちゃんが光る。大家が呼んでいるということで長屋一同が「店賃の催促か」と顔を合わせて、「おまえ、どの位たまってる?」と聞く“家賃問答”が発端。そして、実は大家の家で、子供が庭から黄金(きん)の大黒を掘り出したのでお祝いをするということが分かり、正装するのに羽織がいるだろう、ということになったが長屋一同で羽織を持っている者が一人。その一枚の羽織を順番に来て、交替で大家に祝いの口上をする“羽織リレー”のドタバタ、そして“酒盛り”まで、金ちゃんが光った爆笑の高座。
 長屋の連中の問答の途中途中で、「ちょいとぅ、うかがいやす」と口を挟むことで、可笑しさが増す。与太郎とはちょっと味わいの違う、とぼけた口上(「うけたまがたがた・・・・・・・」)で大家を煙に巻き、長屋仲間を呆れさせる場面など、金ちゃんの姿に会場から笑いが途切れない。
 初代春団治の十八番を、柳家金語楼が東京に移したと言われるネタだが、春団治の高座も、さぞこのように爆笑の渦を巻き起こしたであろうと思わせた。残念ながらマクラの途中、それも文楽の形見の着物の説明の最中、で鳴った携帯などには負けない熱演。もちろん、今年のマイベスト十席候補である。

柳家喜多八『一つ穴』 (19:58-20:21)
 一度下がって、すぐに登場。「正直あまり好きな噺じゃない」「それでも、たまには虫干ししないと」と、この噺。ブログを書き始める前に聴いたことがあるが、それ以来。他の人で聴いたことはない。
 とにかく珍しい噺。それはデータでも実証(?)されていて、長井好弘著『新宿末広亭のネタ帳』に、2001年から七年間に渡る末広亭のネタ帳の分析の結果、該当する七年間で一度もかからなかったネタの一つとして紹介されている。ちなみに、その七年間で一度も末広亭でかからなかったネタは次のようなもの。 石返し、近江八景、菊枝の仏壇、鍬潟、ざこ八、紫檀楼古木、大仏餅、搗屋幸兵衛、そして、一つ穴。
 古い噺らしい。いわゆる“悋気ネタ”で、本妻が、旦那がいる妾宅に権助を供に乗り込んでのドタバタ。マクラで「怒ればふてくされる、怒鳴れば泣く、殺せば夜中に化けて出る」は、この手の噺での喜多八の定番かと思うが、いつ聴いてもクスッと笑える。 筋書きは詳しく書かないが、本妻と妾の演じ分けも結構だし、権助もバイプレーヤーとして光る。
 喜多八は、侍モノもはまれば、一席目のような長屋ネタも結構、そして、女性を描くのも上手い。この人の引き出しの多さには、聴くたびに感心させられる。

ストレート松浦 ジャグリング (20:36-20:53)
 初めてである。名前は聴いたことがあって、一度見てみたいと思っていた。流石の芸に感服である。なかでも、傘やパイロンまでも二本の棒で叩きながら空中に持ち上げていく“デビルスティック”が凄かった。もし、糸がついている手品だとしても、それはそれで見事。洋風のジャグリングと太神楽の良さをミックスしたような、若手の有望株といえるだろう。

柳家喜多八『火事息子』 (20:54-21:21)
 唯一ネタ出しされていた噺。 開口一番の三十分から始まったために時間に押され、相当端折ったように思う。志ん生版に近い五分ほどの短いマクラから本編になったが、時間の余裕があれば、江戸の火消しの仕組みや臥煙のことなどを、もう少し説明するのではなかろうか。
 肝となる、親子の情愛を描く場面では、母親を中心にある程度の時間を割いたものの、全体として急ぎ足の印象は免れない。悪くはないが、たぶんこの人のこの噺のベストとは言えないはず。多くの昭和の名人たちが手がける噺を、どう喜多八が魅せてくれるか期待していたのだが、少し残念。
 また、一席目に続き、会場からの妨害。父親が勘当した息子を前にして、昔を回想してしみじみ語る場面での携帯の音には、まったく興醒めだった。この会には、そういうお客さんがいないと思っていたのが・・・・・・。
 なお、このネタの生の高座は、ほぼ一年前の雲助以来。その時のブログには江國滋著『落語手帖』の引用を含めてこの噺について少し詳しく書いたので、ご興味のある方はご覧のほどを。2011年11月22日のブログ


 携帯の音に加えて、会場の設備も年季が入っているため、体を揺すって笑っている人の椅子からは、結構“キー、キー”と音が出る。一席目などは会場全体の笑い声にかき消され気味だったが、二席目、三席目では、少なからず気になる音だった。博品館さんには、ぜひメンテナンスを期待したい。

 さて、終演後は、この会の後で恒例となりつつある、東銀座のお店での、久し振りにレギュラー(?)三名が揃った居残り会。私の知り合いのMご夫妻も加わり五人で、絶品の刺身、馬刺し、薩摩揚げなどと、落語の話を肴に話題は尽きない。その話題の一つは、会場で配布されたプログラムにあった次のクイズ。
 喜多八の火事が登場するネタの中で、『火事息子』はKM、『鼠穴』はNA、『二番煎じ』NS、『富久』をTQとすると、KCは何か?
 私が火事のことがネタの中にあったと勘違いして『駒長』ではないかと言ったのだが、Mさんの奥さんに、きっぱりと「駒長には火事は出ない!」と指摘され、皆でさて何だろう、となったのだが、他の話題に花が咲き、空の徳利は増え続け、そのままお開き。もちろん日付変更線は越えて帰宅。
 連日の遅い帰宅で機嫌の悪そうな連れ合いとは、なるべく目を合わせず(「怒ればふてくされる・・・・・・」の文句を思い出した)、二匹のシーズーに「ただいま」を言い、矢野誠一著『落語手帖』をめくった。すぐにKCは『首提灯』であろうと、当たりがついた。しかし、読み方は「くびぢょうちん」だから、KCではないだろう。「首」と「提灯」を分けて読めば、KCではあるけどね。Yさんなど、答えが思いつかず、結構悶々としていたのだ。やや人騒がせなクイズであった。そもそも、KMだとか、NAなどと暗号めいた遊び、私は女子高生の新語のような印象で、あまり良い趣味とは思えない。少しだけパソコンを開いたが、両の瞼が仲良くなって、風呂に入って熟睡。年齢のせいか、最近は呑んでも翌朝は早く目が覚める。

 会場では次回のチケットを売っていたが、二月二十八日の開催だった。時期的には何とも言えない期末近くなので、購入は見合わせた。もし都合がつけば行こうとも思うが、今回の携帯や椅子の鳴る音、プログラムの妙なクイズなどの諸々から、ちょっと気持ちが萎えてもいる。まぁ、時間がたって、その気になって、都合がつくかどうかで考えよう。
 この会、必ずしもネタ出しされた高座よりも、一席目の方が良い印象のことが多い。『短命』や『長屋の算術』などは、ネタ出しされていない一席目の高座だった。また、それが落語というものなのかもしれない。そんなことも帰りの電車で思い浮かべていたことを、朝になって思い出した。『黄金の大黒』の金ちゃんの科白も、未だに耳に残っている。日々猛スピードで減少する脳細胞だが、まだ、かろうじて在庫がありそうだ。
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by kogotokoubei | 2012-11-21 06:56 | 落語会 | Comments(2)
11月19日付けの「内田樹の研究室」は、ドジョウ野田による解散後の、いわゆる“第三極”をめぐる醜い離合集散について。冒頭部分を、まずご紹介。
「内田樹の研究室」2012年11月19日

幼児化する政治とフェアプレイ精神

できたばかりの石原慎太郎の太陽の党が解党して、橋下徹の日本維新の会と合流。太陽の党との合流話を一夜で反古にされた河村たかしの減税日本は「減税の看板をはずしたら仲間にいれてやる」と恫喝されて落ち込んでいる。渡辺喜美のみんなの党は維新への離党者が続出しているが生き延びるために維新との選挙協力の方向を探っている。
いわゆる第三極政局は「あの業界」の離合集散劇とよく似ている。
党名を「なんとか組」に替えて、笠原和夫にシナリオを書いてもらったらずいぶん面白い映画ができそうである。
残念なのは、登場人物の中に感情移入できる人物がひとりもいないことである。
状況的には河村たかしと渡辺喜美が『総長賭博』の中井信次(鶴田浩二)や『昭和残侠伝・人斬り唐獅子』における風間重吉(池部良)の役柄に近い「引き裂かれ」状態にある。甘言を弄しあるいは恫喝を加えて縄張りを奪おうとする新興勢力に抗して、なんとか平和裏に組を守ろうとするのだが、うち続くあまりの理不尽な仕打ちにぶち切れて、全員斬り殺して自分も死ぬ・・・という悲劇的役どころは彼らにこそふさわしいのだが、ふたりともそこまでの侠気はなさそうである。


 内田樹が東映任侠映画に詳しいとは思わなかった。きっと好きなのだろう。私も嫌いではない。

 『網走番外地』『昭和残侠伝』そして『日本任侠伝』のシリーズ、結構見たなぁ。小学校の頃、小さな田舎の映画館では、東映の怪獣映画との任侠映画の二本立てや三本立てのことがあったように記憶する。学生時代は、深夜映画で番外地三本立てなどを見た。映画館を出る客は皆、肩をいからせ、健さんになり切っていたものだ^^

 まさに、“感情移入”によって、高倉健や鶴田浩二になり切っていたあの頃に比べ、内田の指摘の通り、今回の衆院選を巡るつまらないドラマの役者は、感情移入などできない幼稚な大根役者ばかりである。

 二年前の旧暦での命日に、幡髄院長兵衛のことを書いた。少しその内容を引用する。2010年8月27日のブログ
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 侠客という言葉からは、侠気とか任侠という言葉をイメージする。この「任侠」「侠気」という言葉、私が持っている『新明解国語辞典』-第四版-(三省堂)によると、こうある。
にんきょう【任侠】「おとこぎ」の意の漢語的表現。じんきょう。「--の徒」「仁侠」とも書く。
きょうき【侠気】おとこぎ。「--の有る人」
 それでは、「おとこぎ」って何?、ということで調べると、「男」の熟語として、こうある。
男気 弱い者が苦しんでいることを知って、黙って見のがせない気性。侠気。

 ここで素朴な疑問。
 幡随院長兵衛→侠客の元祖。侠気、任侠の人。→弱い者の味方。
 やくざ、あるいは暴力団→???
 
 日本の広域暴力団も、港湾労働者などの口入れ稼業を一つの生業としているので長兵衛と同業者と言える。その仕事そのものは、もちろん「反社会的」ではない。もし、そんなことを言うと、テンプXXXX、リクルーXXXX、とか言う会社が属する現在の派遣業界を敵に回すことになる(笑)

 “任侠”を扱った『中国任侠伝』のあとがきで、著者の陳舜臣さんがこう書いている。
 

 タイトルの『任侠』は、思い切ってひろい意味に解していただきたい。常軌に従わず、はみ出してしまった人たちの物語を集めたものである。その行為は肯定すべきものもあれば、否定するしかないものもある。


 任侠の者≒常軌を逸した者、という解釈は分かりやすい。しかし、陳さんの本に登場する任侠の者とは、たとえば秦の始皇帝を暗殺しようとした荊軻など、“中国四千年”の歴史から選ばれた人物なので、ちょっと”日本の任侠“とは、趣もスケールも異なる。

 さて、話が発散してきたがあらためて、今日は“侠客”の元祖、弱い者の味方で男の中の男、と言われた幡随院長兵衛の命日。なかなか、こんな人はいない。あの時代の空気と江戸という場だったからこそ、長兵衛という本物の“侠客”が生まれたのだろう。
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 本来の“任侠”が、弱い者の味方であって、今回の衆院選を巡る永田町の大根役者は、権力の座、いわば強い者になろうとあがいているのだから、そもそも“役者が違う”

 任侠映画で思いついたのだが、野田ドジョウ政権は、“賭場荒らし”政権と言ってよいかもしれない。国民の血税という賭け金を、いかに大震災やフクシマの復興のために使うか、という大事な政治の舞台に土足で上がりこんで、復興予算を不適切な用途に使ったり、日々の暮らしもままならない被災者への緊急かつ適切な税金の投入などをせずに、まるで自分達の懐に賭け金を掠め取ったと同然の政権だと私は思っているので、“賭場荒らし”政権。

 その“賭場荒らし”の後の混乱の中で、果たして全うな仁義を貫き通す侠客としての政治家は、残念ながら見当たらない。

 内田は、任侠でマクラをとった後、“いじめっ子”橋下のことから、テニスでの英国紳士のネタにつないだ。

橋下徹という人はほんとうに「いじめ」の達人だと思う。
どうすれば、人が傷つき、自尊感情を奪われ、生きる意欲を損なわれるか、その方法を熟知している。
ある種の才能というほかない。
減税日本とみんなの党の「いじめ」方をみていると、それがよくわかる。
人をいじめるチャンスがあると、どうしてもそれを見逃すことができないのだ。
たぶんこれがこの人に取り憑いた病なのだろう。
テニスで、相手がすべって転んだときにスマッシュを控えるのは英国紳士的な「フェアプレイ」であり、これができるかどうかで人間の質が判断される。
テニスの場合、強打するか、相手の立ち上がりを待つかの判断はコンマ何秒のうちに下される。政治的思量の暇はない。
フェアプレイ精神が身体化されていない人間にはそういうプレイはしたくてもできない。
だから、英国人は「そこ」を見るのである。
テニス技術の巧拙や勝敗の帰趨よりも、そのふるまいができるかどうかが、そのプレイヤーがリーダーとしてふさわしいかどうかのチェックポイントになるからである。


 この後、テニスつながりで、ジョン・ル・カレの新作『われらが背きしもの』を引用している。

 この記事は、次のようにサゲられている。

繰り返し書いていることだが、また繰り返す。
今の日本の政治システムが劣化しているのは、システムのせいではない。
人間の質が劣化しているのである。
だから、制度の改変や政策の適否について、百万語を費やしても無駄である。
政治的公約や連帯の約束を一夜にして反古にすること、「勝ち馬に乗る」ことを政治家として生き残るために
「当たり前」のことだと思っているような人間たちばかりが政治家になりたがっている。
統治者になるための訓練を受けたことがない人間たちが統治システムに群がっている。
中学生的な「いじめの政治学」には長けているが、「フェアプレイ精神」については聴いたこともないという「こども」たちが政治の世界に跳梁している。
日本の政治は12月の総選挙で少しは変わるのだろうか?
私にはわからない。
これ以上政治が幼児化することがないように祈るだけである。



 たしかに、“賭場荒らし”の後の“第三極”をめぐる永田町には、幼稚さと役者としての大根ぶりばかり目立つのだが、現状の議席数で“第三”勢力となる可能性が高いのは、小沢一郎の“国民の生活が第一”党のはず。陸山会問題(あれは“事件”とは言えないのではなかろうか)も無罪確定になったのに、マスコミは今度はまったく小沢一郎を無視している。もちろん、メディアの暴力が小沢一郎裁判に一肌も二肌も加勢していたのに、無罪になって彼らが謝罪するわけもない。

 もしかすると、“幼稚性”の残る永田町よりもタチが悪いのは、“仁義なき”マスコミなのではないか、とも思う。橋下や石原のことなどの記事の頻度に比べ、小沢一郎や「生活」党の記事のなんとも少ないことか。
 その背後には、いまだに小沢一郎という人物を抹殺しようとするマスコミの連携と、マスコミを動かす黒幕が見え隠れしている。
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by kogotokoubei | 2012-11-20 00:34 | 責任者出て来い! | Comments(4)
 むかし家今松の高座に関する落語愛好家の方々の多様な評価をブログで読んで、“落語の楽しみ方”って何だ、という素朴な疑問に突き当たり、何冊か落語関連本のページをめくって、江國滋の三部作の二冊目『落語美学』に目がとまった。

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江國滋著『落語美学』

 冒頭の章が「落語への招待」である。
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落語への招待
 1 私の落語鑑賞
 2 誇張のおかしさ
 3 落語的リアリティー
 4 かなしさを伝える
 5 幻想の世界
 6 場面転換と省略
 7 仕種の妙味
 8 題名とサゲ
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「私の落語鑑賞」は、あえてアンツルさんの本と同じタイトルにしたに違いない^^
その中から、まず引用。

「落研」という組織がどこの大学にもある。落語研究会、略して落研。それが寄り集まって即ち全落連—と、そこまでは知っていたが、先日慶応の落研会員の一人に会って「君たち落研の人は・・・・・・」といったら「ラッケンというのは素人で、ぼくたちはオチ研と呼んでいるんです」と教えられた。
 ラッ研かオチ研か知らぬが、ぼくはかねてから大学の落語研究会なる存在自体に疑問を感じている。一と口に「落語研究」といい「落語鑑賞」という。だが、そもそも落語というものは研究だの鑑賞だのと開きなおって聴くべきものだろうか。気随気儘にふらりと聴いて、アハハと笑いのめす、それでいいのではないか。だから、研究会などと肩ヒジはらずに、すなおに「落語愛好会」ぐらいにしておけばいいのに、と思ったりする。
 この間も日大落研の女子学生が、おそろしくまじめな顔で「どういう聴き方をして、何を研究したらいいでしょう」と問うので、
「何もそうむつかしく考えないで、すなおに聴いてすなおに笑うこと。それに、一流といわれる人の噺をできるだけたくさん聴くこと、それだけじゃないかな」
 と答えたのだが、彼女にはそんな無責任な返事がどうもものたりない様子だった。
 また、ある地方大学国文科の女子学生から「落語のサゲの分類を研究して卒論を書こうと思うが、ついては参考文献を教えてほしい」という手紙がきたこともある。「それほど学問的な研究だとは思いません」と返事を出したら、それっきり何もいってこなかった。


“すなおに聴いてすなおに笑うこと。それに、一流といわれる人の噺をできるだけたくさん聴くこと”という言葉に、落語の楽しみ方の要諦が明確化されている。

 もちろん滑稽噺もあれば人情噺もあるので、すべてが“笑う”ネタばかりではないのは百も承知で、大事なことは“すなおに”ということだと、江國滋は伝えたかったのだろう。

 そういう意味では、ブログにいっぱしの感想やら能書きなど書いている私なんぞは、この“すなお”さを忘れかけていないか、大いに考えさせられる。

 さて、この文章の少し後には、本書が発行された当時の落語界の状況や、落語好きな著名人のことが書かれていて興味深いので引用したい。
 そんなわけで、ぼくは落語を天下の大芸術だと思っていないのだが、そのくせ「落語なんて」という人に出会うと、にわかにムラムラと反撥心が生じてくるからおかしい。
 よく落語と聞いただけで「くだらないもの」ときめこんで、さげすむような顔をする人がいるが、その人たちが考えるほど落語は低級ではない。それでなければ、落語があんなにもハバひろい層によって支持されるはずがない。早い話、危機だ危機だといわれながらも、つぎつぎに誕生したホール落語は、いずれも満員札止めの盛況だ。客席は、お年寄りから若いBG、学生まで、色とりどりである。それも観客動員数が多いというだけではなくて、いわゆる有名知識人にこよなく愛されている点でも、ちょっとほかの芸能には類がない。ひところ東横落語会に行くと小泉信三博士や志賀直哉氏の姿がきまって見られた。中川一政画伯にお目にかかったら「落語というものは大したものだと思うね。ぼくはむかし、絵で食えなかったら落語をやろうと思っていたんだ」といわれたし、亡くなられる直前に尾崎士郎氏も「わたしは落語がうまいんですよ」といっておられた。「落語の題名を借りて純文学の短編をいくつか書いてみたいね」といわれたのは阿川弘之氏だ。また、現存するただひとりの元大審院長霜山精一氏は、ラジオで落語ばかりひろって聴いておられた。ノーベル賞に輝く朝永振一郎博士の唯一の趣味が落語であることは、まだ記憶に新しいところだ。

 本書は、昭和40(1965)年に東京書房から発行され、その後旺文社文庫に加わり、今ではちくま文庫で再販されている。ただし、ちくま文庫での発行は2006年と、たった六年前なのに、新刊書店でもなかなか置いていないのは残念である。重版されてしかるべき好著なのだが。

 ちなみに、BGとはビジネス・ガールのこと。今日では、「死語」だね^^
 昭和40年といえば、古今亭志ん朝が27歳。昭和31(1956)年から始まった東横落語会には、二年前昭和38年に『天災』でデビュー、翌昭和39年には『百人坊主』(『大山まいり』)、そして昭和40年には『粗忽の釘』で出演している。
 昭和30年代終盤から昭和40年代にかけての落語界、その後四天王と言われるようになる若手の台頭もあったし、大御所の文楽、円生、病後とはいえ志ん生、正蔵などが健在であった。三代目金馬が昭和39年に亡くなるまでを昭和の黄金時代と言ってよいのではないだろうか。

 次の「誇張のおかしさ」以降は、具体例をあげて、落語を味わうツボのようなものを解説してくれるのだが、「場面転換と省略」から少し引用。『明烏』における場面転換と省略の鮮やかさを紹介した後の部分。

もう一つ、『夢の酒』という噺の中で—
 
「あたしゃ昼寝なんかしたことがないんだがね。(蒲団をかけてもらって)ああ、ありがと、ありがと、あハハ・・・・・・淡島大明神さま、どうぞ倅の見ました夢のところへ導いて下さいますように・・・・・・あァあ、いい心持ちだ・・・・・・」

 *

「ご新造さァ・・・・・・ン、大黒屋の大旦那がいらっしゃいましたよォ」

 聴き手を、現実の場面から夢の中に誘う、その導入の役割を「ご新造さァ・・・・・・ン」という下女の一と言に果たさせているわけだが、余計な説明は一切はぶいて一瞬のうちにガラリと場面を変えているのがまことにあざやかである。
 これがもし講談だったら、それぞれ*印の部分に、
「・・・・・・お話はかわって、こちらは二人の若い衆、いまやおそしと若旦那のご入来を待ちかまえております」
 だとか、
「・・・・・・いつしかぐっすり眠りにおちたかと思うと」
 といった説明が入るところだろう。現在、落語がこれほど盛んなのに、講談が滅亡寸前である理由の一つは、こんなところにもあるような気がしてならない。

 落語愛好家の方なら、『明烏』の説明で、どこに「*」があるか想像できるはず^^

 こういう本を読むと、落語を聴く楽しみが倍加するように、私は思う。


 “すなおに”聴く、というのは、何ら知識を持たず、という意味ではない。聴くときの心のあり様をいっているのだ。
 やはり、落語の舞台である江戸~明治のこと、それぞれのネタのことなどを知っているのと知らないのとでは、楽しさが違う。私はそう思う。
 
 寄席や落語会に意識的に行くようになって数年だが、江國滋の三部作(『落語手帖』『落語美学』『落語無学』)や、矢野誠一の数冊の著作が、私の落語指南役であった。

 新刊書店や古書店でも、五十音順で並んだ書棚に、今では娘さんの数多くの本の片隅に江國滋の本を見つけることができれば、それは僥倖といっても大げさではない。
 もちろん神保町やネットでなら見つけることはできるが、落語ブームと言われる中で、江國滋や矢野誠一の本がそれほど売れているようには思えない今日の状況を、私はなかなか“すなお”には喜べない。
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by kogotokoubei | 2012-11-17 11:09 | 落語の本 | Comments(4)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛