噺の話

kogotokoub.exblog.jp
ブログトップ

<   2012年 10月 ( 16 )   > この月の画像一覧

しばらく10月10日の「いざ浅草へ」という内容から更新のなかった古今亭文菊のブログが、昨日ようやく(?)更新された。病室と思しき師匠とのツーショットも掲載されている。10月28日の古今亭文菊のブログ

 池袋の居酒屋で志ん陽と飲んだ後のようだ。

 それまでは、いろんな思いで心が一杯だったのだろうし、まだブログに復帰する気持ちになれなかったのだろうと察するが、“吹っ切れた”のだろうか。一部引用したい。

皆様から、あたたかいお悔やみのお言葉を賜りまして、ありがとうございました。
師圓菊は10月13日に旅立ちました。

真打昇進披露興行、浅草芸能ホールの3日目でした。
師匠に、元気なうちに真打昇進を報告できたことが、何よりの孝行だったかなと、自分勝手に思ってます!


 そうだよ、師匠孝行できたじゃないか。これからも頑張れ、と言いたくなる。

 ちなみに、それまでは結構マメに更新のあった菊志んのブログは、今日現在、10月12日で止まっている。古今亭菊志んのブログ

 弟子一人一人に、さまざまな感慨はあるだろう。まだまだ平常心には戻れない人もいるはずだ。それは、“丸太ん棒”ではない、血も涙も通った生きた人間だからこそ。

 総領弟子である菊龍の10月13日のブログには、亡くなった当日の様子が詳しく書かれている。10月13日の古今亭菊龍のブログ
 
 文菊と志ん陽の披露興行は、各定席で盛況のようだ。私は、先日の浅草一日のみで、明日で千秋楽の池袋、一日空けて始まる国立演芸場には行けそうにない。しかし、一日だけでも行けたのは幸甚だった。

 五十日間の長丁場は、もう少しでゴールだ。しかし、それはこれから長い噺家生活の始まりでもある。
 
 志ん陽の最初の師匠志ん朝、二人目の師匠の志ん五、そして文菊の師匠圓菊は、きっと新真打の二人を遠い空の上から見守っているはずだ。それも、師匠としてのやさしさだけではなく、厳しさも含めて。
[PR]
by kogotokoubei | 2012-10-29 20:47 | 噺家のブログ | Comments(2)
今月上旬は一度も寄席や落語会に行かなかったこともあり、先週の浅草に続き、小里んが主任の末広亭にやって来た。
 朝の落語協会のサイトを見て一朝の休演は残念だったが、伯楽は出るし川柳もいる。三三の顔を見るのも久し振り。燕路や彦いちも予定通り。それに正太郎がどう成長しているかも興味深かった。笑組もホンキートンクも予定通り出るようで、なかなかの顔ぶれ。お目当てが三人もいたら、寄席は十分に行く甲斐がある。
11時20分頃に新宿三丁目に着き、コンビにで助六とお茶を買い込んで入場。桟敷に落ち着いた。終演時点では一階はほぼ満席で、二階も開放する入り。土曜ということだけではないのだろう。昼の小里ん、夜の正雀という両主任を、知る人は知っている、ということかと思う。

演者とネタ、所要時間に寸評は次の通り。

開口一番 三遊亭ございます『からぬけ』 (9分)*開演11時50分
 初見。歌之介の弟子らしい。正太郎のブログによると、彼の大学落研の後輩のようだが、正朝ではなく、大好きな歌之介に二年前入門したようだ。まだ、落研とプロの途上にある高座。しかし、何とも言えない可能性を、感じないでもない。精進していただきましょう。

春風亭正太郎『反対俥』 (13分)
 袴で登場。なるほど、このネタならそうするだろう。久し振りだが、ずいぶん成長したと思う。二ツ目になる大事な時期に師匠の問題があって辛い時期を過ごしたことが、結果として良い経験になったのではなかろうか。自分でも何かを感じているのだろう。余裕のある高座で、途中でくすぐりもいくつか入るが、韋駄天俥屋の走りで土手に突き当たった後で、「疲れる落語だね」は、笑いはとったものの、私は感心しない。しかし、そういう遊びを挟むだけの技量になったことは、評価したい。(このへんが、落語愛好家として上げたり下げたり、なかなか難しいのだ^^)

ペペ桜井 ギター漫談 (8分)
 浅草と新宿と落語協会の定席が続くと、演者も続く。ほぼ先週と同じネタだが、「禁じられた遊び」を弾きながらの演歌は、今日はなかった^^

林家彦いち 漫談(K大学空手部?) (8分)
 ネタはかけなかったが、会場を沸かせる術は知っている。K大学の先輩と会って「オス!落語家になったらしいな。」と声をかけられた。落語の知識のない先輩が、頭から筋肉に落ちていった(?)筋肉脳を働かせ、「正拳突きとかけて?」とふってきた。いきなりの謎かけに驚いた彦いちだが、なんとか考えて、「演歌ととく。どちらも“こぶし”が効いてます」と答える。しかし、先輩は、「もっと分かりやすく言え!」。ほぼネタなのだろうと思うが、可笑しかった。

柳家三三『真田小僧』 (12分)
 久し振りだが、寄席の短い出番でも、この人の上手さ巧みな芸は結構。
 今春は、一人真打昇進の一之輔が“寄席好き”ということが本人の著書や他のメディアなどで数多く紹介されていたが、実は三三も寄席は嫌いではない。いや、相当好きな方だろう。持ち時間が5分だろうが、20分だろうが、しっかりとこなす寄席の三三を、チケットがすぐ売り切れるような落語会ばかり行っている三三ファンに聴いて欲しいと思う。寄席こそ、三三や一之輔のホームグランドなんだよねぇ。

ホンキートンク 漫才 (9分)
 今日は、色物さんの出番が結構入れ替わった。当初の番組ではペペ桜井の番での登場のはずだった。まぁ、いろいろあるのでしょう。コンビの名前の由来を説明しなかったのを聴いたのは、もしかすると初めてかもしれない。時間の関係だろう。しかし、いつものような軽快な漫才だった。

三遊亭丈二 漫談 (13分)
 彦いちと順番が入れ替わっての登場。結果としてネタの出来る時間ながら、相変わらずの、つまらない漫談。そろそろ二ツ目の頃の名前のことをネタにしたマクラは、やめにして欲しい。まだ、若いのだ。しっかりネタをやりなさい!

柳亭燕路『短命』 (15分)
 丈二に見せたい高座。しっかりとネタをかけてくれた。この人の高座は、語り口や身振り表情などを含め、落語の“教科書”になるような本寸法なもので、きっと沢山の若手が稽古に出かけるのではないか、そんな気がする。

三遊亭小円歌 俗曲 (15分)
 昭和の名人の出囃子の披露を中心に、最後はカッポレで締め。いつもの元気で艶のある時間と空間が、落語協会の寄席には不可欠。

初音家左橋『親子酒』 (14分)
 先代馬生門下から伯楽門下となって、この名は初代らしい。二度目だが、なかなか本寸法の高座。この会場でこの噺となると、歌武蔵を思い出す。息子が酔って帰ってきて、ドタンとあの体で倒れるのが、何と迫力のあったことか。左橋は、そんな大げさな演出はしないのだが、父、母、そして息子いう三人の登場人物をしっかり描いていた。全体の印象もなかなか結構。まだまだ聞くべき噺家さんがいる、と痛感させられた。

川柳川柳 『ガーコン』 (20分)
 高座に釈台が置かれてから、ご本人登場。交通事故で怪我をしたらしい。正座ができないので釈台で隠していると言い、わざわざ釈台をはずして、「こんな恰好では失礼でしょう」と解説&言訳。数えで82歳。その十八番は、いつも通りで健在を示した。弟子のつくしも来年真打昇進、まだ頑張ってもらいましょう。

アサダ二世 奇術 (10分)
 色物さんは時間変更が多かった。この時間は予定ではペペ桜井の出番。結局、マギー隆司の予定時間にホンキートンク、ホンキートンクの時間にペペ、マギーは休演だった。この人も、私には先週の浅草から連続。ほとんど同じ基本(?)の芸だったが、時間が短い分だけお客さんからお金を預かってのマジックはなかった。

柳家小さん『家見舞』 (15分)
 仲入り前は、この人。寄席でたまたま出ている時にしか聴かない人なので、久し振りだ。失礼な言い方になるが、期待していなかった分、なかなかの高座に驚いた、というのが正直な感想。語り口が以前に比べて、良い意味で渋くなり味わいが出てきた印象。この名前でさえなければ、もっと褒めるのだが・・・・・・。

入船亭扇好『のっぺらぼう』 (12分)
 いわゆる“くいつき”は、この人。実は初見。当初は扇辰よりもこの人のほうが将来を期待されていた、という落語愛好家の方の情報をコメントでいただいたことがある。なるほど、三升家小勝の作といわれる短い怪談噺をしっかり演じていた。ただし、現在後輩扇辰が高座で醸し出す味というか、深みのようなものは残念ながら感じられない。軽快でリズミカルは結構。あと少し“何か”が欲しい。

笑組 漫才 (12分)
 時事ネタとしてiPS細胞の話題から。iPSからつくった自分の肝臓(レバー)を食べる回数は1000度。なぜならレバーはXXが命、でサゲ。この地口には、ちょっと笑えなかったなぁ。七福神は実は十人の神様がいて、三人が宝船に乗り遅れた、遅れた理由は・・・・・・というネタは初めて聴いた。こちらはなかなか結構。以前に聴いた「銀河鉄道の夜」を題材にしたネタには、この人たちならではのメルヘンを感じた。新たな作品として「坊ちゃん」に挑戦しているとコメントをいただいたが、さて、その進捗はどうなっているのだろう。

金原亭馬の助『手紙無筆』 (14分)
 一朝の代演はこの人。先週の浅草と同様、ネタの後で百面相。大黒、恵比寿、達磨そして狸。この芸はぜひ誰かに継いでもらいたい。見た目からは志ん陽を推薦^^

金原亭伯楽『目黒のさんま』 (14分)
 「秋らしくなってまいりました。季節にふさわしいお噺を」と、うれしいこのネタ。「カタカナのトの字に一の引き様で、上になったり下になったり」で、このネタを察した時は、何ともうれしくてたまらなかった。実は、電車の中で、ちょうど三遊亭金馬のこの噺を聴いていたのだ^^
 もちろん師匠先代馬生も十八番だったネタ。実に結構だった。昭和14年生まれは小三治と一緒で志ん朝の一つ下。総領弟子だったのだが、弟弟子に馬生襲名を譲った。かつて時代劇などで活躍した「桂太」も、七十三歳。しかし、まだまだ現役バリバリの高座。それも、旬のネタを見事に聴かせてくれた。この高座だけでも、来た甲斐があった。年末に振り返る時に、何らかの賞に価する高座だと思うので、赤い色を付けておこう。

翁家勝丸 太神楽 (10分)
 太神楽の若手では、三本の指に入る芸と話芸。傘と鞠の芸では、客席の二人が上手く投げることができないハプニングがあったが、それもこなしての達者の技だった。

柳家小里ん『木乃伊とり』 (33分)*終演午後4時38分
 期待したネタは『うどん屋』だったが、十日間通うわけでもないのに、それは無理と言うものだろう。このネタも実に結構だった。飯炊きの清蔵がいい。まさに、この人にはニンな役柄。このネタでは白酒の大爆笑ものを思い出すが、小里んのような本寸法があってこそなのだと思う。小さん門下で、権太楼とは年も真打昇進も一つ違いの実力者。渋すぎて目立たないが、寄席ではこの人や南喬などベテランの存在が、実は落語協会と芸術協会の底力の差になっているように思う。


 主任小里ん、そして伯楽の高座に十分満足して帰宅。もちろん、他にも数多くの噺家さんや芸人さんが、ゆったりと寄席の気分を楽しませてくれた。
 帰宅し、一杯飲みながらブログを書こうとしたのだが、途中で外の空気を吸って空を見上げれば、雲間に見える十三夜の月。これは、月見酒を楽しまないわけにはいかない。パソコンを閉じて、つい酒量が増えていき、ブログを書くのは日曜の夜、となった次第。やっぱり、寄席はいいね。
[PR]
by kogotokoubei | 2012-10-28 19:48 | 落語会 | Comments(10)
スポーツ新聞や一部の全国紙で報道されているので、すでに多くの方はご存知であろうが、10月20日に開催された今年の「NHK 新人演技大賞」の落語部門で、桂宮治が大賞受賞(要するに、優勝)した。
 落語芸術協会は、うれしさの余り(?)、次のように、放送日を含めてニュースとして報じている。落語芸術協会サイトの該当ページ

NHK新人演芸大賞 受賞

下記の演者が平成24年度NHK新人演芸大賞(落語部門)において大賞を受賞致しました。

桂宮治(落語:二ツ目 かつらみやじ)

なお、大会の模様は、
NHK総合 2012年11月4日(日) 15:05 ~ 16:15
放送の予定となっております。

*放送日に着色したのは、当ブログの管理人。

先日、あまり自信はないと言い訳しながら次のような予想を書いた。
2012年10月2日のブログ

----------------
◎ 桂宮治
○ 笑福亭喬若
▲ 春風亭ぴっかり
△ 桂二乗
△ 春風亭昇吉
----------------
接戦だっただろうが、何とか予想があたって、悪い気はしない。

この大会について書く時には、いつも下記の優勝者履歴を紹介している。
*参考→Wikipedia「NHK新人演芸大賞」
--------------------------------------------------------
        西             東
1994年                桂平治(→桂文治)
1995年                柳家三太楼(→三遊亭遊雀)
1996年                古今亭志ん次(→志ん馬)
1997年  桂宗助
1998年                柳家喬太郎
1999年  桂都んぼ(→米紫)
2000年                林家彦いち
2001年  桂三若
2002年                古今亭菊之丞
2003年                古今亭菊朗(菊志ん)
2004年  桂かい枝
2005年                立川志ら乃
2006年  笑福亭風喬
2007年  桂よね吉
2008年                三遊亭王楽
2009年                古今亭菊六(→文菊)
2010年                春風亭一之輔
2011年  桂まん我
--------------------------------------------------------

 遊雀が受賞した際は落語協会の所属だったので、芸協所属の噺家さんの優勝は、18年前の今年文治を襲名した平治以来となる。
 
 その平治が十一代目文治を襲名した年に、同じ十代目文治一門でのお目出度が続き、芸協にとっては、ここ数年の停滞を打ち破るためにも大きな励みになるだろう。
 
 決勝(本選、と言うのが正しいようだが)出場者の入門年と年齢は次の通り。

喬若 1998年入門(38歳)
二乗 2003年入門(34歳)
ぴっかり 2006年入門(31歳)
昇吉 2007年入門(不明)*芸協サイトのプロフィールには、相変わらず生年月日がない。
宮治 2008年楽屋入り(36歳)

 年齢はすでに三十代半ばだが、入門5年目での受賞は、これまでのスピード記録になるのではなかろうか。紹介した文治以降の入門年と大賞受賞年を並べてみる。

 文治  1986年入門→1994年大賞受賞(入門から9年目での受賞)
 遊雀  1988年→1995年(8年目)
 志ん馬 1981年→1996年(6年目)
 宗助  1988年→1997年(10年目)
 喬太郎 1989年→1998年(10年目)
 米紫  1994年→1999年(6年目)
 彦いち 1989年→2000年(12年目)
 三若  1994年→2001年(8年目)
 菊之丞 1991年→2002年(12年目)
 菊志ん 1994年→2003年(10年目)
 かい枝 1994年→2004年(11年目)
 志ら乃 1998年→2005年(8年目)
 風喬  1998年→2006年(9年目)
 よね吉 1995年→2007年(13年目)
 王楽  2001年→2008年(8年目)
 文菊  2002年→2009年(8年目)
 一之輔 2001年→2010年(10年目)
 まん我 1999年→2011年(13年目)
 宮治  2008年→2012年(5年目)
 
 この大会は名前や表彰方式など微妙に変わってきているのだが、過去まで遡ってみて、スピード受賞者を調べてみたら、実はもっと早い人がいた。

 桂福楽(受賞当時は桂小福) 1979年入門→1982年受賞(4年目)
  
 福楽(二代目)は、入門が1979年12月なので、もし年を越して四代目福団治に入門していたら、3年目(まるでネタみたい)ということになっていた・・・・・・。ちなみに、福楽は福団治の総領弟子。福楽は、二年前から体調を崩して高座を休んでいたようだが、今は復帰して繁昌亭にも出演しているようだ。上方落語協会サイトの桂福楽のプロフィールページ
 聴いたことがない。まだまだ知らない噺家さんが多いのだ。
 こういう人の生の高座は、ぜひ聴きたいのだが、東京での開催はないのだろうか。

 また、私にとっては意外だったのだが、林家正雀が1974年入門で、6年目の1979年に受賞している。

 ちなみに、小朝は1970年に15歳で入門し、9年目の1978年に受賞。古今亭右朝は1975年入門、11年目の1985年に受賞である。

 もちろん、参加資格や大会の形式なども違いもあったので、過去の例と単純には比較できない。

 たとえば、現在の「NHK新人演芸大賞」という呼称は、その前の「新人演芸コンクール」を第6回目から名称変更したもので、その第4回から第8回までは、落語部門と漫才などの演芸部門の区別はなかった。部門別表彰のなかった最後の第8回、受賞者の顔ぶれは次の通り。

-------------------------------------------------------
第8回 新人演芸大賞(1993年) 
大賞:爆笑問題、優秀賞:林家たい平「松竹梅」、林家染吉「湯屋番」
-------------------------------------------------------
 爆笑問題に敗れた林家たい平。彼と染吉を、落語部門の最高位受賞者と考えると、たい平は1988年の入門から6年目でのスピード受賞と言うこともできる。

 
 同じ基準と表彰形式における1994年以降過去19回の大会において、宮治の入門5年目の受賞は十分に誇っていいだろう。

 当日の宮治の勝負ネタは、いくつかのブログを拝見したところ、私も何度か聴いたことのある『元犬』だったようだ。他の4人も含め、11月4日の放送を見るのが待ち遠しい。

 芸協は、定席でも宮治などの若手を深い席で登場させるなどの試みをしており、観客も増えているように思う。私が何とかもぐりこんだ先月の末広亭での文治襲名披露は、大変なお客さんの入りだった。
 一時話題になった他の流派の手助けなどは必要なく、活気のある高座を一人づつが積み重ねていくことで、定席席亭に苦言などを言わせないようにして欲しいし、きっとできるはずである。

 つい、今年の結果から歴史を遡って、ダラダラと書いてしまったが、来年の真打昇進が年功にもどった落語協会と対照的に、芸協での抜擢昇進が数年のうちにあるような予感もさせる宮治の大賞受賞で、落語界全体が活気づくことを期待したい。
[PR]
by kogotokoubei | 2012-10-25 18:47 | テレビの落語 | Comments(8)
久し振りの日本橋・人形町エリアでの落語会。調べてみたら、2月のらくだ亭以来だった。
 今月前半は、業務上のいろいろのため落語や寄席に行くことができず、20日の浅草が9月26日の末広亭での文治襲名披露以来となった。今回のらくだ亭は、落語と少し間が空くことを見越して結構早めにチケットを押さえていた会で、ベテラン陣の渋い(?)高座を楽しみにしていた。277席の一階会場は、七分ほどの入りか・・・・・・。この顔ぶれ、2,500円の木戸銭なら、もっと入ってよさそうなものだ。まさか志の輔の赤坂ACTシアター(1階と2階の合計1,300席!)に行く人とは客層が違うように思うので、小学館の宣伝不足かなぁ。
 
次のような構成だった。
---------------------------
(開口一番 林家扇『金明竹』)
古今亭志ん吉 『代脈』
桂 南喬    『佐野山』
柳家小満ん  『忍三重』
(仲入り)
古今亭志ん輔 『子は鎹』
---------------------------

林家扇『金明竹』 (18:51-19:02)
 残念ながら、少し辛口にならざるを得ない。相変わらず、会場を目一杯寒くした。あの言い立ての滑舌が悪く、たとえば「兵庫」なのか「表具」なのか聞き取れない。妙な上方弁を話す客に応対するお内儀さんも、男の噺家よりも色気も艶もないのは、どうも・・・・・・。基本をしっかり身に着けて欲しい。

古今亭志ん吉『代脈』 (19:03-19:24)
 冷えきった会場を何とか温めなおしてくれた。このネタは、一之輔の銀南が印象に残っていて、どうしても比べてしまうのは酷だと思うが、なかなかに頑張った高座。志ん橋に入門して七年目。先日の浅草では仲入りで、一所懸命に文菊のCDと池袋のチケットを売っていた姿を思い出す。見た目も語り口も、良い意味での噺家として適性を持っているように思う。決して体調万全ではないと思われる師匠を支えながら、ぜひ精進して欲しい。

桂南喬『佐野山』 (1925-19:54)
 最初は三代目金馬に入門し、金馬没後は二代目小南の預かり弟子となった、寄席の重鎮である。私は、この人や小里んが脇を固める寄席が好きだ。
 マクラで「モンゴルの国技の相撲、いや違った」と相撲好きであることを語り、「柔道やボクシングだって女性が活躍するんですから、相撲だってまわし一つで若い女性にとってもらえるなら、私は毎日通います」と、やや下品な笑いを浮かべるのも、ご愛嬌だ。このへんも、寄席と変わらぬいつもの高座、という様子で結構。末広亭で聴いた『短命』や『替り目』のような味とはネタの性格上違うのはやむを得ないだろう。地口の多い噺なので、途中はやや言いよどむ場面もあったが、それも十分に許容範囲。昔ながらの寄席の雰囲気漂う高座、結構でした。

柳家小満ん『忍三重』(しのびさんじゅう) (19:55-20:25)
 事前にネットで調べたが、小満ん以外での口演記録を探すことができなかった。帰宅してから調べたところ、この人形町らくだ亭や芝大門のかもめ亭の音源などを販売している「落語の蔵」サイトの石井徹也さんの「らくご聴いたまま」というコラムで、昨年震災直後3月13日の小満んの会におけるこの噺について、次のようなコメントがあったのを発見。「落語の蔵」サイトの該当ページ

長谷川伸の作品に想を得たと伺えば、成程と納得。北前船中の小騒動なら『旅の里扶持』か映画『浮草』のような噺になり、駆落ち者から旅芸人、旅役者、門付けの独り芝居と変わった夫婦が『鎌倉山』の趣向で料理屋の板場に「泥棒芸(とでも言うか)」に入り、祝儀まで貰うに至る、という趣向尽くしのような一席。本格に下座を入れたら、更に風趣の増す噺になりそう。『歌行燈』や『佃の渡し』が聞きたくなる。


 と言うことは、この噺は小満んの創作、ということのようだ。
 他にはブログを含めてこのネタに関する情報を探すことはできなかったので、せっかくだから(?)、何とかこの噺の筋書を頑張って書きたいと思う。少し長くなるが、記憶の曖昧な部分もあるし人名の誤字などは十分あり得ることをご了解のほどを。

 まず、お題の元である芝居の効果音「忍び三重」を、下座さんに弾いてもらってから本編が始まった。聴いて、「あぁ、あれか!」と分かる馴染みのある曲。闇の中での探り合いなどで使われる効果音とのこと。泥棒が家探しをする際に定番、というわけで、噺のヤマでは「有識 鎌倉山」の泥棒の場面が鍵となっている。

 さて、前半は越前船(北前船の中で八百石を越える船らしい)が舞台となる。 後半は江戸へ向かう途中の飛騨高山が主な舞台。こんなあらすじだった。
----------------------------------------------------------------------
前半(お題をつけるなら「越前船騒動」かな)

<越前船の航路と出来事>
・柏崎   銀三郎・おその夫婦が密航。
|
|
・今町(現在の直江津) お蝶が乗船
|
|     銀三郎・おその夫婦の密航が発覚。船長から、「海に飛び込め」と脅される。
|     様子を見ていたお蝶姐さん、「可哀そうじゃないか」と、二人の船賃を巧みに
|     値切って払ってやり、夫婦は助かる。
|
・糸魚川  荷を積むために、沖で二泊することになった。
|
|     お蝶と夫婦は互いの身の上を語り合う。お蝶は信州善光寺の色街にいたが、
|     役者の嵐伝三郎に惚れて、芝居を打っている水橋(富山)まで行く途中。
|     銀三郎とおそのは、売れない旅役者と 三味線弾き。仕事がなく食べるもの
|     にも事欠き、思い余って密航したという。
|
・水橋   三人は下船。

ここまでが、前半。(ふ~っ
e0337777_11091854.gif


後半(「夫婦芝居」?)
・水橋での再会
 水橋で芝居を打つ嵐伝三郎と涙の再会を果たすお蝶。喜んだ伝三郎は、銀三郎を弟子に
 抱え嵐伝助と命名。おそのも下座としてやとわれることとなった。

・天保の改革
 おりしも江戸で天保の改革があり、加賀前田藩の支藩である富山前田藩でも、芝居は
 興行できなくなった。悩んだ伝三郎。「そうだ、江戸では芝居小屋を浅草一ヵ所に集
 めることになったようだ。この際、江戸に出て役者として勝負してみようか」。
 お蝶も「そうおしな」と後押し。
 
・飛騨高山~日陰村
 江戸に出る旅の途中、飛騨高山を過ぎた日陰村で、お蝶は病に伏せる。
 しかし、お蝶は、伝三郎に「私は大丈夫だから、江戸に行っておくれ」と言う。伝助と
 おその夫婦には、「無事、伝三郎を送り届けてちょうだい」と頼む。
 江戸に向かう伝三郎。しかし、伝助とおそのは命の恩人であるお蝶を置いて江戸に
 行くことはできず高山に戻り、いわゆる「辻芝居」をして投げ銭を稼ぎ、日陰村の宿で
 病に伏せるお蝶の宿賃や薬代に充てるのだが、雨が降った日には稼ぎもできず、
 困り果てたその時、伝助に名案が浮かんだ。

・魚七
 夫婦の会話。
  伝助  こうなったら、泥棒でもするしかねえな。
  おその 何言ってんだよ、お前さん。
  伝助  本物の泥棒じゃあねえ。こういうことだ。
 と伝助はおそのに自分の計画を打ち明ける。

 さて、舞台はは高山の老舗料理家「魚七」。日が暮れ、泥棒装束となった伝助が魚七に
 忍びこむのだが、効果音として、おそのの「忍三重」の三味の音が響く。その音を
 聴いた魚七の店の者が騒ぎ出すが、主人は「静かに。皆、隠れて見るんだ」と、家の中
 で様子をうかがう。
 さて、台所に忍び込んだ伝助。「有識 鎌倉山」の泥棒の場面よろしく、鍋の蓋を取ると、
 鱈の煮つけ。 「ありがてぃ、かっちけねぇ。奪い取ったる鱈の煮つけ」と科白を語ると、
 隠れていた主人から、「大根役者!」の声。主が明かりをつけて伝助を見て、
 「おや、辻芝居をしていた人だね。どうして、こんなことを。何か訳がありそうだ」と
 親切な言葉がかけられた。伝助は、病で伏せているお蝶のためであると打ち明ける。
 魚七の主、「よ~く、分かった。鱈の煮つけの他にも何かこしらえて祝儀も出そうじゃ
 ないか。もう一度、芝居を見せてくれ」とうれしい言葉。店の者を皆集めて、あらためて
 “出前”芝居が始まる。
 伝助とおその夫婦の恩返しの芝居、そして魚七の粋な計らいでお蝶も快復した、という
 「忍三重」というお噺、これにてお開き。
----------------------------------------------------------------------
 精一杯思い出しながらのあらすじだが、サゲはこうだったか、正直自信がない。
 くどいようですが、人名の誤りもあるでしょうし、細かい点では違っているかもしれませんが、概ねこのような噺でした。(ほぉ~っ
e0337777_11091836.gif


 筋書きや場面展開を解説する地の部分の多い噺で、小満んは、ところどころはやや苦労しながらつないでいたようにも思うが、そんな表面的なことなどは気にならず、初めて聴く筋書の面白さに惹かれていた。流石だ。もちろん、噺そのものの希少性を含めて、今年のマイベスト十席候補としたい。

古今亭志ん輔『子は鎹』 (20:35-21:05)
 仲入り後、いつもの飄々とした調子で登場。池袋で文菊と志ん陽の披露が始まったことなどのマクラから本編へ。
 この人のこの噺は、少し前になるが、2010年3月の改装前の東京芸術劇場(小ホール)以来。2010年3月15日のブログ
 2010年から2011年という期間は、師匠志ん朝の重圧(呪縛!?)から解放される途上の試行錯誤の時期かと思うが、その時の高座は悪くなかった。しかし、昨年後半から、没後十年を経て、これまでに肩にのしかかっていた師匠の重さから解き離れたような自由さがあり、それぞれのネタに、志ん輔らしさが出てきたように思う。
 ただし、この噺は古今亭の十八番ではない。以前にこのネタのことを書いたが、初代春風亭柳枝作の、とことん柳派の噺。2009年4月18日のブログだから、小三治の通しの名演があるし、さん喬と権太楼のリレーのCD(鈴本夏祭りでの口演)もある。師匠志ん朝は演じたが、立川談志はこの噺が嫌いだった(合わなかった?)ようだ。
 では志ん輔はどうだったか。結論から言うと、この人の持ち味が発揮された高座を堪能した。まず、全篇通じて言えることとして、独特の間を挟みながらのリズミカルな会話が心地良かった。また、この人ならではの新たな演出として、熊五郎が酒をやめる時に心境を語る場面が加わっていた。(以前はなかったように思う・・・・・・。)それは、吉原の花魁が家を出て行った後、ヤケで飲んだくれていたが、ある時、酒を飲もうとして盃を眺め、「こいつが、こいつのせいで・・・・・・」と、失った大きなものに思いを馳せて、ようやくやめることができた、ということをお店の番頭に語る場面だ。私も酒が嫌いではないので、この噺でいつも聴いていてひっかかるのが、番頭や金坊(柳派は亀吉)に、「えぇ、酒はやめました」と軽いノリでは語られると、「おい、そんなに簡単に止めれるの?」と思ってしまうのだ。よほどの葛藤があったはずなので、このひと工夫は効いている。特に酒飲みには実感として伝わった^^
 また、場面転換の鮮やかさも印象に残る。泣きじゃくる金坊から熊に会話が移る際の一瞬で表情を含む切り替えの見事さは、噺にこの人特有のスピード感を与えている。笑いと涙を適度に交えながらの志ん輔版『子は鎹』。師匠の呪縛から脱した芸が熟しつつあると感じた。もちろん、今年のマイベスト十席候補である。欲を言えば、やはり金槌ではなく“玄翁”(げんのう)にして欲しかったが、これは今日では無理な相談なのだろうか。ちなみに、師匠志ん朝も小三治も、もちろん玄翁である。


 終演後は、レギュラーメンバーのYさんと、ほとんどレギュラーと言って良い紅一点Iさんと三人で、いつもの蕎麦屋さんで「居残り会分科会」。お店に向かう道すがらの話題は、「どうして、こんないい会にお客さんが少ないのだろう」ということ。共通見解は、「(この会の噺家さんの良さを)分かっていないんだよねぇ」ということ。
 お店に着くと、人が店から溢れている。「あら、一杯かな?」と思い入ったら、一階のテレビを見ている人達だった。巨人が中日に勝つ寸前とのこと。非常に不愉快になったが、席は三階に空いているようなので、どうでもいい日本の野球のことは忘れて、さっさと階段を上がった。
 席につき、まずは生ビールで乾杯。話題はもちろん落語のこと。聴いたばかりの高座のこと、発表されたばかりの落語協会の新真打のこと、その他諸々の噺の話を肴に会話は弾み、予定通り(?)に帰宅は日付変更線を越えていた。パソコンを開けて疑問点を少しググッているうちに、上の瞼と下の瞼が仲良くなっていく。とても、ブログなど書ける状態ではなく、風呂に入り気持ちよく床についたのだった。
[PR]
by kogotokoubei | 2012-10-23 20:47 | 落語会 | Comments(8)
落語協会の来年秋、および再来年春の真打昇進者が発表された。
落語協会の10月21日のニュース

新真打昇進決定

2013年 秋

川柳つくし(川柳川柳門下)、金原亭小駒(金原亭伯楽門下)、三遊亭天どん(三遊亭圓丈門下)、三遊亭金兵衛(三遊亭小金馬門下)、柳家喬四郎(柳家さん喬門下)

以上、5名

2014年 春

柳家小権太(柳家権太楼門下)、鈴々舎風車(鈴々舎馬風門下)、三遊亭亜郎(三遊亭圓丈門下)、古今亭志ん公(古今亭志ん橋門下)、桂才紫(桂才賀門下)

以上、5名

が真打に昇進することが決定いたしました。



 この十人、風車と亜郎以外は生の高座を聴いたことがある。

 さて、一之輔、そして文菊、志ん陽と続いた抜擢昇進が、もう終了したということなのだろうか・・・・・・。

 念の為、落語協会サイトの芸人紹介の「二ツ目」の上から(香盤)順に並べる。
落語協会サイトの該当ページ
-----------
川柳 つくし
金原亭 小駒
三遊亭 天どん
三遊亭 金兵衛
柳家 喬四郎
柳家 小権太
鈴々舎 風車
三遊亭 亜郎
古今亭 志ん公
桂 才紫
三遊亭 司
柳家 喬之進
三升家 う勝
柳家 麟太郎
入船亭 遊一
金原亭 馬治
金原亭 馬吉



-----------

 まったくの香盤順での昇進。
 
 来年春に昇進者がないのは、「まだ早い」という意図の現れか、はたまた、披露興行の本人達と寄席側の準備期間をつくるためかは、不明。

昇進者の入門年と二ツ目昇進年月は次の通り。
----------------------------------------------------
川柳つくし:平成9(1997)年入門、平成12(2000)年11月、二ツ目。
金原亭小駒:平成9(1997)年入門、平成12(2000)年11月二ツ目。
三遊亭天どん:平成9(1997)年入門、平成13(2001)年5月二ツ目。
三遊亭金兵衛:平成10(1998)年入門、平成13(2001)年11月二ツ目。
柳家喬四郎:平成11(1999)年入門、平成14(2002)年11月二ツ目。
柳家小権太:平成11(1999)年入門、平成14(2002)年11月二ツ目。
鈴々舎風車:平成11(1999)年入門、平成14(2002)年11月二ツ目。
三遊亭亜郎:平成9(1997)年入門、平成14(2002)年11月二ツ目。
古今亭志ん公:平成11(1999)年入門、平成15(2003)年5月二ツ目。
桂才紫:平成11(1999)年入門、平成15(2003)年5月二ツ目。
----------------------------------------------------

 ちなみに、同じ時期の二ツ目昇進の場合は、入門が少しでも早いと香盤は上になる。たとえば、志ん公と才紫は、志ん公の入門が平成11年の3月1日、才紫が同3月25日。

 さて、あらためて今回の発表を見て浮かぶ二つの疑問。

(1)あれ、また年功昇進に戻ったのか?
(2)平成15年5月の二ツ目昇進までか?

 (1)の問題は大きいので、後に譲って、(2)の件。実は平成15年5月に二ツ目になった人でも、漏れた人がいる。

 才紫に続く二ツ目の入門と二ツ目昇進時期を、少し詳しい情報を加えて並べてみる。

三遊亭司:平成10(1998)年5月三木助に入門→平成13年3月より歌司門下、平成15(2003)年5月二ツ目。
柳家喬之進:平成12(2000)年1月入門、平成15(2003)年10月二ツ目。
三升家う勝:平成12(2000)年1月入門、平成15(2003)年10月二ツ目。
柳家麟太郎:平成11(1999)年4月入門→平成12年4月より前座、平成15(2003)年10月二ツ目。
入船亭遊一:平成11(1999)年12月入門→平成12年6月より前座、平成15(2003)年11月二ツ目。
金原亭馬治:平成12(2000)年4月入門→7月より前座、平成15(2003)年11月二ツ目。
金原亭馬吉:平成12(2000)年4月入門→7月より前座、平成15(2003)年11月二ツ目。

 昇進する志ん公、才紫と同じ、平成15年5月に二ツ目になった三遊亭司。
 「入門だって、他の二人より早いじゃないか・・・・・・」と思うのが当然の疑問。その芸も、私はほぼ二年前のらくだ亭で聴いているが、なかなか艶のある高座で結構だった。実は、彼は最初に入門した四代目桂三木助でしくじって、しばらく落語の世界を離れてから歌司に再入門している。ある情報(?)では、三木助を破門になった、とも言われている。そんなキャリアの空白と最初の師匠でのしくじりが、昇進の妨げになっているのは間違いなかろう。

 まぁ、この“流れ”が変わらなければ、司は平成26年の春の昇進になるのではなかろうか。

 しかし、年功昇進を会長小三治は否定したはずではないのか・・・・・・。

 では、(1)の問題について少し書きたい。

 20日の土曜にようやく文菊と志ん陽の披露興行に行くことができたのだが、二人の昇進披露に関して8月27日に行われた記者会見の記事を、少し遅れて紹介したことがある。
2012年9月3日のブログ

 紹介した記事に小三治会長の言葉があるが、あらためてご引用したい。MSN産経ニュースの該当記事

 真打ち昇進に関しては、小三治は「私の方針としては、いいものは引き上げたい。年数で真打ちにするのは、はっきりいうと私の好みではない。新しく入ってきた人が『やろう』という気持ちになるのがいい」

 落語協会では、しばらくは年功序列はなく、抜擢による昇進が続きそうだ。

 最後は「(落語家は)保護されてのぼっていくものではない。振り落とされてもあがっていく心意気を見せてほしい。それは私自身にもいえること。安全なんてどこにもない」と、小三治は厳しい言葉で結んだ。

*太字は、管理人によるものです。

 さて、なぜ小三治会長の考えは変わったのか?

 いろいろ思うに、一之輔、文菊、少し差があるが志ん陽のように、抜擢したくなるほど際立った二ツ目が見当たらなかった、というのが本音ではなかろうか。

 よって、「修業年数も重要な基準」ということで、「待て」と言われ、精神的にも辛い日々を過ごしてきた香盤上位の二ツ目に、ある意味では、お返しのようなつもりでの年功昇進のように思う。

 私も、小三治会長の言葉を紹介したブログの後半で、もし私なら、ということで三名ほどの名前と挙げたが、自分の限られた経験と好みが左右しており、決して自信をもってのリストアップとは言えなかった。

 そう、今年の昇進者のように際立っている噺家はいないだろう。

 数年後、この11月に二ツ目になる入船亭小辰(辰じん)や春風亭朝呂久が抜擢されるまでは、なかなか小三治会長の厳しい目に応える人が出てくるようには思えない。

 私の邪推は、意外に当たってるよう気がするが、いずれにしても、どこかで小三治会長の見解を確認したいものだ。
[PR]
by kogotokoubei | 2012-10-22 08:55 | 真打 | Comments(10)
浅草は、このブログを書く前に行って以来。かれこれ五年振りになる。家からの距離の遠さの問題もあるが、やはり会場の客層に、団体が多いことに加え、あまりにも落語と寄席のマナーを知らない人が多い、という印象が足を遠ざけてきた。 
 しかし、文菊と志ん陽の真打昇進披露興行に行ける可能性のあるのは、結果として千秋楽となるこの日くらいのため、久し振りに参上した。鈴本と末広亭が済んだ後は、国立演芸場の九日目の夜の部以外は昼席であり、土曜の夜と日曜には寄席・落語会に行かないしがない会社員には、チャンスはきわめて少ないのだ。

 新仲見世をぶらぶらしながら浅草演芸ホールには開場時間11時の20分ほど前に着いたが、すでに十人ほど並んでいた。
 会場前の幟は、当人である志ん陽と文菊(字が反対でゴメンナサイ)のものに加えて小三治のものを含め三本並ぶ。
e0337777_11091718.jpg


 中で食べる食料を求め近くを少しブラブラしたら、行列のある店を発見。何と250円、「台東区一安い」と宣伝のある弁当屋だった。チラっと見ると、から揚げ弁当に、鮭とから揚げの弁当が中心。ちょっとご飯の量も多すぎるような気がするし、から揚げは好きなほうではないので、コンビニで「助六」とお茶を買って演芸場へ戻り、時間少し前に開場されて、もちろん一階の客席へ。

 最後列の一列にロープが張られ「予約席」の表示。この程度なら良しとしよう。前過ぎず後ろ過ぎない好みの席に座って開演を待つ間に、お客さんは次第に増え、最終的には一階はほぼ満席になった。

 11時30分に幕が開いた。主任の文菊への後ろ幕は、「たまごの会贔屓与利」。
 ここからは演者と所要時間、そして私の感想を記したい。ここは普段でも出演者が多く持ち時間が少ない上に、披露興行である。とにかく忙しい高座ではあった。しかし、いろんな人を知ることができるメリットも、もちろんある。(と、少しはヨイショ!)


古今亭半輔『のめる』(10分)  
 そうか、まだ三年目の前座だったんだ、と思わせる二ツ目としてもまったく問題のない高座。聴く機会が結構多いほうだと思うが、着実に上手くなっている印象。後で順子さんの相方を無難に務めたことなども含め、師匠の指導よろしく成長しているように思う。

古今亭きょう介『たらちね』(9分)  
 志ん橋門下で半輔の一年先輩の前座さん。私にとっては、今年2月のざま昼席落語会(今松の『子別れ~通し~』に驚いた会)、一昨年の横浜にぎわい座の白酒ばなしの開口一番と、同じネタが三回続いた。他のネタも持っているのだろうが、確率的に、他のネタにあたってもいいはずで、やはりもう少し持ちネタを増やす必要があるのではなかろうか。眉毛の濃さなども含め、芸人向きの顔であるように思うが、これからの精進次第だろう。

桂才紫『穴子でからぬけ』(10分)
 初である。桂才賀の弟子なので、古今亭一門に属する二ツ目さん。だから、古今亭で最初に習う前座噺のこのネタ。ちなみに柳家で最初に習う前座噺は『道灌』。
 私は都合で予選を含め行くことができなかったが、今年「さがみはら若手落語家選手権」で優勝している。その実力は高座に現れていた。今後も聴いてみたいと思わせた。

古今亭菊志ん『粗忽の釘』(10分)
 短縮版ではあったが、前の三人に貫禄を示す高座。会場には、寄席デビューのお客さん(某新聞社のタダ券か?)も多く、伊勢屋での出会いから盥での行水あたりでは爆笑の渦。この人の持ち味は十分に発揮しての高座だったが、サゲの後に下がる表情は、どことなく暗かった。まだ、師匠のことが尾を引いているか・・・・・・。
 もちろん、それも当然だろう。親とも言える師匠が、たった一週間前に亡くなっているのだ。しかし、菊志んの高座には、「意地でも、後輩文菊の披露目の高座は、精一杯努めるぞ!」といった想いが、私には伝わった。

すず風にゃん子・金魚 漫才(8分)
 浅草の舞台は他の寄席に比べて客席より高いので、金魚さんの衣装は、正直気になるのだ。もちろん、そんな心配は無用なのだろうが・・・・・・。

隅田川馬石『子ほめ』(9分)
 本来は白酒と菊之丞の交互出演の出番での代演。土曜日である、あの二人はたしかに忙しい。彼らのサイトによると、菊之丞は滋賀の大津、白酒は熊本である。短い持ち時間で、師匠雲助が寄席のネタでもっとも好きと公言している噺をしっかりと。

金原亭馬の助『権兵衛たぬき』&百面相(12分)
 本来は正蔵の番での代演。初である。初代馬の助の弟子。見た目も高座も“ほんわか”としていて、そうだ、志ん陽にも似た雰囲気である。ネタの後での「百面相」は、大黒、恵比寿、達磨、そして分福茶釜のたぬきで会場を沸かせた。今日では、貴重な芸の継承者と言えるだろう。志ん陽あたりが継いでくれないだろうか^^

ひびきわたる 漫談(8分)
 いつものネタだが、結構会場は沸いた。寄席初心者の方のおかげだろう。

古今亭志ん彌『親子酒』(15分)
 菊龍に次ぐ圓菊の二番目の弟子。私はこの人の渋い高座が好きだ。昨年末に末広亭で『替り目』を聴いて、もっと早く知るべきだったことを反省した。圓菊門下は、皆しっかりしている。仲入り後には、口上での司会役も、しっかりこなしていた。

古今亭志ん輔『豊竹屋』(13分)
 志ん彌と志ん輔との替り目に、ぞろぞろと客の出入りでざわつく。このへんは、他の三つの定席では考えられない騒がしさ。しかし、いつものように飄々と登場した志ん輔の高座は、面目躍如だった。本人も手応えを感じていたようだ。ブログにこう書いてあった。2012年10月20日の「志ん輔日々是凡日」

12時50分 楽屋入り「豊竹屋」をやって見た。これがことの外いい感じだったのは嬉しかった。


 実は、志ん輔はこの後、朝日名人会で『稽古屋』を披露するのだが、まさか文菊が同じネタになったのは、あくまで偶然だろうなぁ・・・・・・。

アサダ二世 奇術 (13分)
 この“ゆるい”芸、好きだなぁ。前のほうのお客さん同士が話しだしてうるさい時、「個人的な話を大きな声でしないでね」と叱ったところも大賛成!
 落語の途中で、平気で立ち上がって出て行った二列目の男とか、高座の途中で平気で入ってきた二人連れなど、とんでもない客が、他の定席に比べ多いのは、以前とまったく変わらない。

古今亭菊龍『つぼ算』(15分)
 圓菊一門の総領弟子。この人に関しては、昨年末のむかし家今松主任の末広亭で『ちしゃ医者』を聴いて、枝雀の十八番だった上方落語をかける噺家さんが権太楼と鯉昇の他にもいることを知ってうれしかったことを思い出す。
 やや桂才賀風のマクラから寄席初心者と思しきお客さんが沸き、本編に入ってからもネタそのものの可笑しさで笑ってくれていたこともあるが、しっかりとして高座だった。こういう“兄貴”がいるから、若手も育つのではなかろうか、そんな気がした。

桂歌司 漫談 (15分)
 圓窓の代演。圓窓のスケジュールは、知らない。後から登場した正蔵の漫談と同じ位に会場を沸かせたのではなかろうか。歌司も正蔵も、漫談なら笑える・・・・・・。

あした順子 漫談など (14分)
 一人の舞台は初めてである。とにかく、ひろしさんの復帰を心待ちしている気持がヒシヒシち伝わる。途中で相手役として開口一番の半輔が登場して盛り上げた。順子さんが半輔のひろし役を褒めていたが、ほとんど孫に対する言葉のようだった。順子さんは昭和9(1934)年生まれの今年78歳。ひろしさんは昭和2(1927)年生まれの85歳だ。ぜひ、ひろしさんが復帰されお二人の漫才を、もう一度見させていただきたい。

三遊亭金馬『長短』(15分)
 仲入り前のこの枠、小三治、木久扇、そして金馬の交替出演、と言っても木久扇は13日のみ、小三治は17日と18日の二日だけなので浅草の仲入り前はこの人が背負っていたと言っていいだろう。昭和4(1929)年生まれの83歳は、圓菊の一つ下。釈台を置き高座へ。二月にバス亭で倒れ心肺停止になったが、偶然の運もありペースメーカーを埋めることになったが生きている、と語る。 
 本編は、長さんが上方出身という設定が珍しいこの噺。私は感心した、と言うか金馬の執念のようなものを見たような気がする。長さんは決して与太郎にはならないし、短七の気短ぶりも結構。決して無理に笑わせようとしない芸で会場は沸いた。私は、非常に強い“気”を感じた。きっと千秋楽ということで特別な感慨もあったに違いない。この高座は忘れないだろう。

真打昇進披露口上 (11分)
 仲入り後、まだざわつく中で幕が上がる。後ろ幕は、「落語協会」・・・・・・。一之輔は三枚すべて彼への後ろ幕だった。それが例外的なのだろうということが、よく分かった。
 口上に並んだのは、下手から司会の志ん彌、圓菊門下総領弟子の菊龍、文菊、志ん陽、志ん橋(良かった!)、正蔵(おや、間に合った)、金馬の七人。
 司会の志ん彌の後は、次の順番だった。
 (1)正蔵 (2)金馬 (3)志ん橋 (4)菊龍
 この中では、その体調を気にしていた志ん橋が、志ん陽のことを「ほんわかで、ぼんやりしていて、お客様はムキになってお聞きにならないように」という言葉が会場を沸かした。菊龍からは、師匠圓菊のことも少し語られたが、一門の気持の整理はもう出来ていたのだろう、決してお涙頂戴ではなく明るい口上が印象的だった。締めの三本締めの音頭は金馬。

ペペ桜井 ギター漫談 (10分)
 口上後の後ろ幕はもちろん文菊宛で、「尾山台倶楽部与利」。
 何度見ても、「禁じられた遊び」を弾きながら、「浪花節だよ人生は」を唄う芸は、流石である。

古今亭志ん陽『まんじゅう怖い』(18分)
 一之輔、文菊と比べて、どうしても心配させてくれた(?)のが、この人だった。しかし、浅草千秋楽での高座を聴くかぎり、それは杞憂だったのかもしれない。非常に落ち着いていたし、まさに本寸法の出来。この人の持ち味である明るさと大らかさが生きた高座。志ん橋が口上で語ったいた通り、“ムキ”になって聴かなければ、なるほど楽しい高座に違いない。

古今亭志ん橋『浮世床-序-』(5分)
 口上の時の顔色の青さが気になったが、高座ではそれほどではなかった。しかし、声はかすれており、時おり咳き込んでいた。やはり体調は万全ではないのだろう。海老床に飾られた海老が「生きている」「いや、死んでいる」と口論している二人が、やって来たご隠居に判定役を頼んだところ、「いや、この海老は病んでいる」「どうして?」「見てみろ、この海老は床についている」の定番の小噺で、五分で下がった。

林家正蔵 漫談 (10分)
 志ん橋の助っ人、ということなのだろう。いつもの父三平を題材の中心にした漫談。その中で、会場近くの「250円弁当」も登場して、その部分だけは私も笑えた。

和楽社中 大神楽 (8分)
 寄席初体験と思われる多くのお客さんが芸に感心し、たくさんの拍手を送っていたのは、いいことなのだろう。

古今亭文菊『稽古屋』(30分)*終演16:34
 今年の三月に行った一之輔との二人会で聴いた時も感心したが、また一つ向上したような気がする、何とも安定感のある高座。
2012年3月3日のブログ
 この人の女性の描き方は、先輩菊之丞とは少し違った艶っぽさが漂う。みーちゃんに教えながら、ところどころ八五郎のいたずらをたしなめる稽古屋の師匠が、ともかく結構。まったく師匠逝去の影響など感じない(師匠のためにも、それを感じさせない努力が背景には見える)主任としての存在感を充分に示した高座だった。


 志ん陽と文菊という、対照的な個性の持ち主による披露興行は、なかなか味わいがある。二人とも古今亭、というところも、個人的にはうれしい限り。菊龍や志ん彌などの、あまりマスコミには出ない重鎮も含め、圓菊一門の充実ぶりを再確認することができた。圓菊も安心して旅立つことができたはずだ。

 『稽古屋』は、同じ日に志ん輔がネタ出しで朝日名人会でこの噺をかけている。私の邪推ではあるが、文菊は志ん輔に稽古をつけてもらい、あえてお礼のつもりでこの日のために選んだネタなのではなかろうか。あくまで勝手な推測です。


 久ぶりの浅草演芸ホール。一部の客のマナー違反は相変わらずだったが、主役の志ん陽、そして文菊の高座には大いに満足し、家路についた。
 しかし、帰宅後もいろいろ野暮用もあり、このブログを書き終えたのは、翌日の夜であった。
[PR]
by kogotokoubei | 2012-10-21 21:22 | 落語会 | Comments(5)
文菊の真打昇進披露興行の真っ最中に、師匠の圓菊が亡くなった。先日も引用した『背中の志ん生』から、著者である圓菊自身の真打昇進披露のことを紹介したい。
e0337777_11091587.jpg

古今亭圓菊『背中の志ん生-師匠と歩いた二十年-』(うなぎ書房)

負んぶ真打
 私が真打になったときの披露宴(昭和41年8月)は、上野の精養軒でやりまして、師匠もきてくれました。でも、九月からスタートした定席での披露口上には、もう歩けなくてだめだった。
 師匠が真打になったとき(大正十年九月、金原亭馬きんで真打昇進)の披露宴を精養軒でやるということで、精養軒さんがそのとき、特別に赤飯を炊いて祝ってくれたっていうんですよね。
 私のときも焚いてくれ、私の弟子が真打になったときも、じゃア、ってんで赤飯炊いて出してくれましたよ。
 披露宴で東宝の重役で、馬渕威雄さんという人が祝辞のなかで、
「この人は背中で芸を覚えたんだ」
 ということをいってくれたんです。それがいまだに「背中の志ん生」につながって生きてるんだとおもいますね。
 苦節十三年、真打昇進、二代目圓菊襲名。
 正式の高座での披露口上は、馬生師匠が代わりについてくれて、圓生、正蔵が会長、副会長ということで、上野鈴本演芸場、人形町末広、新宿末広亭、池袋演芸場、浅草演芸ホールなど、ずっと回ってくれました。そのころは人形町末広もまだありましてね(昭和45年1月20日廃業)。
 いずれにしても、そういう祝いの席に師匠が出てきたのは、私の披露宴が最後だったかもしれないですね。

 
 文菊と志ん陽の合同の披露も、今年8月27日に精養軒であったようだが、圓菊が同席できたのかどうか知らない。いずれにしても、志ん生—圓菊、圓菊—文菊は、披露興行の口上において師匠が不在であったという、同じような歴史(?)を継承している。

 圓菊の披露興行における口上の内容も、本書には掲載されている。

口上

初秋の候皆様方にはお変わりなくお過ごしの事と存じ上げます
さてこのたび古今亭志ん生門下むかし家今松儀 二代目古今亭
圓菊を襲名いたしここに目出度く真打昇進ということになりま
した
だいたいこの圓菊になりました人は 人間が少々真面目すぎて
いけませn 落語家はいくらか狂ったところがないといけない
ことになっておりまして この改名を機会に当人もこれから大
いに道楽もいたし悪事に励み・・・いや芸道に精進いたすでござい
ましょう
何卒この二代目圓菊を末長くご贔屓お引き立てのほどを伏してお
願い申し上げます
                
                               三遊亭圓 生
                               林 家正 蔵
                               古今亭志ん生
                               金原亭馬 生



 並んだ名前が、凄いこと。
 本書には、正蔵、本人、馬生の三人が並ぶ写真が掲載されているが、皆さん若い!
 しかし、真打昇進基準に厳しいあの人は、こんなことを言っていた。
 

師匠が落語協会の会長(昭和三十二年~三十八年)で倒れたため、もう辞めるってときに理事会で、
「うちの今松は一生懸命やってくれる。すまないけど、真打にしてもらいたいんだが、どうだろうか」
 といって話したら、
「そうしましょう」 
 ってんで、みんなが満場一致で真打にしてくれたんです。師匠の推薦で昇進したんです。ところがまわりからは、
「あれは本当の真打じゃねえ。師匠を負ぶって真打になったんだから“負んぶ真打”だ」
 ってことになっちゃった。うちの師匠のあと会長になっちゃった圓生師匠にも、
「あれは古典落語じゃござんせん」
 などといろいろいわれました。



 圓生なら言いそうな科白である。

 いまでもそうですけど、真打になってもうまくないのは二つ目より前に出されたり、そういう扱いをされちゃうんですよ。
 で、私もそういう扱いをされた。後輩の二つ目が私より深いところ(寄席の遅い出番)に出るわけです。悔しいですよ。真打になっても四年間は二つ目扱い、上野(鈴本演芸場)は出してくれなかったし・・・・・・・。
 前座から二つ目になるとき、お祝いとして先輩の二つ目さんが二本か三本奥へ入れてくれるんですよ。寄席では、私が二つ目になったとき(昭和三十二年三月、むかし家今松)、談志さんと柳朝さんが、
「よーし、あいつ、二つ目になったんだから、前でうんと演って食っちまおう」
 ってわけ。それで二人が上がるんですが、私のほうがはるかにうけちゃった。
 どういうわけかうけるんですよ、いつも・・・・・・。それから、席亭からも文句、いわれなくなっちゃった。
 それくらいお客さんに必ずうけるんですよ、私は。だから真打になったとき、そんな扱いをされるとはおもわなかった。


 二つ目時代の圓菊は、談志や柳朝が、「食ってやろう」と思うだけの技量があった、ということだろう。
 「なぜかうける」という独特のフラが、その当時からあったのだろうなぁ。

 しかし、真打になってからの環境は、決して甘くなかった。 

 浅草(演芸ホール)さんにしても、やっぱり浅いところ(早い時間の出番)ばっかり。これは若手真打だから、二つ目の次に出ますよって、だけど、私はお客さんが三人しかいないときでも、精いっぱい演った。池袋(演芸場)でもどこでも必ず一生懸命演ってね。で、演芸ホールの門馬さんって支配人から、
「師匠が最初に笑わしてくれないと、あと、客が笑わなくなっちゃうから。頼むからちょっとのあいだ、早く出てくださいよ」
 といわれたりしたもんです。
「そんなら三平さんがいまいちばんうけてんだから、三平さんをここに出してからにしたらどうだい」
 なんてことをいったこともありますよ。
 人間、気骨がなくてはいけない。まあ、ちょっとありすぎてもだめなんでしょうけれども、そううこともあっだんです。でも、それがよかったんです。
 当時はそこがわからない。悔しいというおもい、がんばるんだという気持ちをきちっと心に、芯まで植えつけてくれたんだなあというようなおもいがいまではするわけですよ。

 
 圓菊が味わったようながんばるんだという気持ちをきちっと心に、芯まで植えつけてくれるような試練を弟子たちは味わわないかもしれない。しかし、その生き様に接してきた彼らに、そのDNAはしっかり伝わっているように思う。

 文菊の披露興行、早く行きたくなってきた。
[PR]
by kogotokoubei | 2012-10-18 22:55 | 落語の本 | Comments(0)
e0337777_11091628.jpg

小学館のサイトの該当ページ

 本書は、「落語 昭和の名人 決定版」の連載に加筆されたもの。小学館のサイトの“宣伝文句”には、次のようにある。

編集者からのおすすめ
情報累計200万部を突破したCDつきマガジン『落語 昭和の名人 決定版』の人気連載(全26回)に、時代別の名人列伝、噺の分類などのコラムを大幅加筆しました。タイトルの「履歴書」はもちろん、四代目桂米團治の名作『代書』から拝借しています。「ラクゴのギレキショーちゅうもんですけど、読んでもらえますでしょうか?」


 著者の山本進さんは、昭和六年生まれの芸能史研究家。東大の落語研究会に所属し、卒業後はNHKに勤務しながら、六代目圓生や八代目正蔵の著書を編集。落語愛好家には、『落語ハンドブック』(三省堂)の著書として馴染みがあるはず。

 小学館のシリーズについて、私は第一回配本の古今亭志ん朝、第十一回配本の金原亭馬生、そして第二十二回の春風亭柳枝の三回しか買っていないので、山本進さんの連載が加筆されて本になり読むことができて、大いに喜んでいる。

 ちなみに、購入した三作については、ブログに書いたので、ご興味のある方はご覧のほどを。馬生は今年になってバックナンバーからの購入である。
2009年1月10日のブログ
2009年11月21日のブログ
2012年3月13日のブログ

 このシリーズ、なんと「決定版」のあとに「完結編」が出てそれぞれ二十六巻。懲りずに(?)「アンコール」が四巻。これでもかと「大トリ」で談志が一巻、合計で五十七巻発売されている。

 平成の世の落語愛好家にとっては、なかなか良い企画だったのだろう。途中からは「初出し」を表紙で謳うなど、気配りも向上したように思う。いずれにしても、昭和からの落語愛好家で、音源をそれ相応に持っている者にとっては、厳選しての購入とならざるを得なかった。

 山本進さんの連載は、きっと本になると予想していたので、ようやく書店で発見した時は、「ほーら、出た!」と心の中でつぶやいていた^^
*きっと、田中優子と五街道雲助の連載も出版されるに違いない。

とにかく本寸法の落語本である。目次からご紹介。
------------------------------------------
はじめに
第一章 戦国末期~江戸時代  
      落語の始まり

第二章 明治維新とその後   
      「近代落語」の成立

第三章 大正時代~太平洋戦争 
      激動の落語界

第四章 戦後~平成      
      復活かららブームへ
------------------------------------------

 起源から今日の状況まで、これだけ分かりやすくまとめられた本は、他にないように思う。

 歴史を中心に書かれた本としては、まず暉峻康隆著『落語の年輪』があげられる。今日では、河出文庫で二冊になって発行されており入手しやすくなった。暉峻康隆著『落語の年輪』(河出文庫)

 また、名人と言われた噺家を中心に、歴史をたどることもできる本としては、何度も引用させてもらっている、関山和夫著『落語名人伝』がある。“白水Uブックス”というマイナー(?)なシリーズなので、書店で購入するのは難しいかもしれないが、ネットでなら問題なく手に入る。
関山和夫著『落語名人伝』(白水Uブックス)

 この二冊と本書があれば、“落語家と歴史”については、ほぼ網羅されていると言ってもいいかもしれない。しかし、前二冊は、若い読者にとって読むやすい、とは言えないかもしれない。その点、本書は250ページほどの新書版でコンパクトだし、中身も非常に読みやすい。平成の落語愛好家の必読者ではなかろうか。

 
 第一章から、コラム的に挟まれる部分の、初代古今亭志ん生の紹介を引用。

◆初代古今亭志ん生[1809~56]—圓朝をうならせた写実
 初代圓生の門には、ふたりのすぐれた弟子がいた。ひとりが立花家圓蔵、もうひとりを三遊亭圓太といった。「圓生」の師名をどちらが相続するか、競り合った結果、圓蔵が二代目圓生を襲名することとなったため、面白くない圓太は江戸を出奔、しばらく旅回りののち、古今亭志ん生(新生、真生とも)と名を改めて、江戸の高座に舞い戻った。
 ただ、この逸話には疑問も残る。
 天保年間に圓生が著し、初代正蔵が序文を書いた『東都噺者師弟系図』という三枚続きの刷物(すりもの)がある。天保七年(1836)正月の配り物と推定されているが、ここの物故者を含め約二七〇名の落語家の名前、師弟関係が記載されている。
 この刷物に「志ん生」が見える。初代圓生はまだ元気なのだから、名跡争いに敗れて江戸を離れ、その後、志ん生になって戻ってきたという逸話とはいささか矛盾する。
 もっとも、初代圓生がみずからの存命中、圓蔵を後継者に指名、面白くない圓太が飛び出した—と考えられなくもない。いずれにせよ「古今亭志ん生」という名前は、初代圓生の門人が、初めて名のったものであることは間違いない。
 初代志ん生は、『九州吹き戻し』や『お富与三郎』を得意にし、幕末の名人のひとりとされている。
 『九州吹き戻し』は落語に珍しく九州が出てくる噺で、江戸から肥後の熊本に流れた主人公が、数年後、便船で江戸へ帰る途中、台風にあって薩摩まで吹き戻されてしまうという一席。今聴くと、さほど面白い噺ではない。ただ、九州という土地への距離感や、旅の感覚が現代とはもちろん違う。志ん生は船が木の葉のように揺れる描写などを写実的に演じ、それが当時の観客に喜ばれたのではないだろうか。
 若き日の三遊亭圓朝が、志ん生の『九州吹き戻し』を聴いて大いに感銘を受け、門弟たちに「あれだけの名人でなければあの噺はできない。お前たちは決してやっちゃいけないよ」と釘を刺したという話が残っている。ちなみに、志ん生が圓朝の噺を聴き、「(二代目)圓生はいい弟子を取った」と、その技量を認めたという逸話もある。名人は名人を知るということか。


 初代志ん生の襲名時期に関する疑問を提示するあたりは、「芸能史研究家」山本進さんの面目躍如、というところだろうか。

 この後に『お富与三郎』について、少し説明が続く。初代桂文枝が亡くなった後、文三と文都の二人が襲名を争い、結果として文三が二代目文枝を継いで、文都は月亭を名のって桂派に対抗する浪速三友派を組織化した、ということは以前に紹介した。

 圓生の跡目争いもあったこと、そして敗れたのが初代の志ん生であったことを思うと、五代目志ん生と六代目圓生が、昭和二十年の敗戦目前の時期、一緒に満州に渡って生死をかけた苦労をともに味わったという事実に、何とも不思議な感慨を抱く。
 だから、上方で新たに文三と文都が揃い、二人会などを開催してくれるのも、なかなか粋な企画かな、などとも思うなぁ。

 余談だが、五代目志ん生が朝太の次に名のったのが圓菊である。しかし、古今亭ではなく三遊亭。だから、亡くなった圓菊は、師匠に配慮して二代目と称していたと思うが、古今亭としては初代と言えないこともない。

 さて、本書からの引用は一気に平成へ飛ぶ。

東西合わせて約730人 
 現在、プロの落語家は何人くらいいるのだろうか。
 東京では落語協会・落語芸術協会・五代目圓楽一門・落語立川流と二協会二派があって、前座・二ツ目・真打総数で510人強。上方では、ほとんどの噺家が上方落語協会に加入しており、総数で220人ほどが活躍している。東西合わせて約730人という数は、落語史上で最大かどうかは確信ができないが、それに近いことは間違いないだろう。
 戦後、東京では70人足らず、上方では10人そこそこで再出発したことを思えば夢のようで、頭数だけかqら見れば、近い将来が危ぶまれることはあるまい。
 しかし、頭数ばかりで安心してはいられない。明治・大正・昭和期のような名人が、今後、はたして現れるだろうか。寄席という興行形態は、これからも続きうるものなのか。何よりも、急速に変化する社会に、落語という芸がついていけるかどうか・・・・・・不確定な部分は、あまりにも多い。


 このあとに、山本さんは「悲観することはない」と、いくつかの例証を提示するが、それは実際に本書を読んでご確認のほどを。

 本書は、次のように締め(サゲ)られている。(かと言って、地口ではない^^)

 受け継いだ落語のすぐれた内容を今に生かすのが、話し手である落語家の仕事であり、また聴き手である観客の働きでもある。落語の質は落語家だけによって維持されるのではない。落語家と観客、両者が互いのレベルを高めたときにこそ、落語という芸能は真の姿を見せてくれる。



 今年八十一歳の山本さん。この締めの言葉は、十分に説得力がある。芸能史研究家としての仕事と、自分自身のい経験を交えた、この“ギレキショー”は、落語という芸能についての歴史を語ることで、歴史に残る好著と言えるだろう。

[PR]
by kogotokoubei | 2012-10-17 21:50 | 落語の本 | Comments(0)
古今亭圓菊の訃報に接し、昨夜はこの本を読みながら、ついジーンときていた。

e0337777_11091587.jpg

古今亭圓菊『背中の志ん生-師匠と歩いた二十年-』(うなぎ書房)

 この表紙の写真の圓菊の若いこと・・・・・・。

 昨夜、いろいろ思うことのあった部分を引用したい。「第四章 お前はもう大丈夫だから」から。

 師匠が亡くなったのは昭和四十八年(1973)九月二十一日午前十一時三十分。
 亡くなる三日ばかり前に会いに行って、師匠はもう、起きられないっていう状態だった。おかあさんはもう先に亡くなっていて、家で、お姉さんもいて、
「師匠、二、三日したら大須(名古屋・大須演芸場)に出て、演らせてもらいます」
 っていったら、ちいさな声で、
「ああ、そうかー。大須の社長に、俺もこんど出るからって、そういっといてくれ」
 なんてことをいって、こりゃ、ちょっとおかしいなアとおもったんですけど、布団のなかに寝てて、
「お前はもう大丈夫だから」
 って、起き上がって、自分の腕をポンポンと叩いて、そういってくれたんですよ。
 いままで、
「もう、こいつは・・・・・・」
 なんていわれているなかで、お前はもう大丈夫だよといわれたたら、本当に夢みたいな話ですよね。
「ああ、よかったなア」
 とおもって、帰ってきて、その、大丈夫といったのは、芸がもう安心なのか、死んでからもずっと見ていてくれるから大丈夫なのか、どっちかだとおもったんですけど。
 やっぱり。
「死んでからも・・・・・・」
 のほうだろうなアとおもいました。
 師匠は、私が大須に着いたその日に亡くなりました。
 大須演芸場に到着したら、電話が入っていてね。あそこは出入り口は客席と同じですから、その木戸を入ったところで、
「師匠が亡くなったそうですよ」
 といわれた。もうそのときは連絡がきていたわけです。折り返し、大須には出演しないでそのまま引き返しました。



 志ん朝の命日に大須のことを書いたばかりだ。2012年10月1日のブログ

 圓菊の訃報を知り本書を読んで、奇妙な偶然を感じる。晩年の志ん生を背中にしょって“足がわり”となり、銭湯では三助にも負けない腕で志ん生の体を磨いていたほど密着していた圓菊。しかし、その師匠の訃報に接したのは遠く離れた大須だったとは・・・・・・。
 これは、「お前はもう大丈夫だ。おれが死ぬときだって、そばにいなくてもいいんだよ。お前がどこにいようがおれは天国から見守っているぞ。」というメッセージだったのだろうか。
 

 文菊を含む一門の弟子が、どこで師匠の訃報を知ったのかは知らない。
 彼ら一門は、この先、圓菊の芸や躾や古今亭のDNAもろもろを後世にしっかり伝えることが使命なのだと思う。
 しかし、圓菊がこの本を書いたのは2001年、たった十一年前である。志ん生没後二十八年後、本人が真打に昇進した昭和41(1966)年からは三十五年も後のことだ。

 圓菊一門が、師匠の思い出を本などで公けに語るのは、まだ先でいいだろう。しかし、ぜひ「時」がきたら落語愛好家にもその内容を伝えて欲しい、遺して欲しいと思う。
[PR]
by kogotokoubei | 2012-10-15 22:04 | 落語の本 | Comments(2)
今週は昨日まで仕事の都合でほとんど外出していたこともあり、圓菊の訃報は今日知った。

 圓菊の弟子は十三人。古今亭志ん生→古今亭圓菊という流れを引くこの一門は、結構多彩な人が活躍している。圓菊師匠で有名な手話落語を継承する女流の菊千代や、にぎわい座の名人会への出演も多いベテラン菊丸や長男の菊生、彼らの後輩としてNHK新人演芸大賞を受賞し活躍中の菊之丞と菊志ん、そして文菊として真打昇進披露興行中の元菊六と続いている。寄席を含む今日の落語界を支える落語協会の一門としては、柳家小三治一門、柳家さん喬一門、春風亭一朝一門、五街道雲助一門などに肩を並べる一大ファミリーである。

 圓菊と言えば、どうしても、志ん生が倒れて復帰してから師匠を背負い続けた逸話を思い出す。
e0337777_11091587.jpg

古今亭圓菊『背中の志ん生-師匠と歩いた二十年-』(うなぎ書房)

 二年前の志ん生夫人りんさんの命日の日に、圓菊の著書『背中の志ん生』からの引用を含め、次のように書いた。2010年12月9日のブログ
------------------------------------------------------------------
 古今亭圓菊の著『背中の志ん生』から引用する。この中で、圓菊は、りん夫人のことを、“おかみさん”ではなく“おかあさん”と呼んでいる。理由は本書に書いてあるが、ここでは明かさないでおく。
古今亭圓菊『背中の志ん生-師匠と歩いた二十年-』(うなぎ書房)
 

 お茶の間では、いろいろなことを聞かせてもらいました。
 もう、師匠も売れてきたから、入門当時は、貧乏たらしいことはひとつもなかったですよ。
 人間というものは、貧乏したから、始末しちゃうんだというのと、貧乏して悔しかったんで、いま、食べるものなんか、うんと贅沢しようというのがあって、おかあさんはあとのほうでした。
 我われにも、どんぶり、山のように盛って、
「食べな、食べな。腹いっぱい食べるんだよ」
 っていうのが口癖でした。
 新年に挨拶に行くと、お年玉なんか、上の者が若い者にやります。普通は当人がやりますが、師匠はそういうことはいっさいしない。その分、まとめておかあさんが寄席へ持っていって、
「みなさんに渡してください。ここは何人いるの?」
 といって、寄席の従業員からお茶子さんにまで、ちゃーんと渡して帰ってきましたからね。
 いまはよく、噺家でも女房を楽屋に連れてきたりするんですが、おかあさんは、
「わたしは志ん生のかみさんだ」
 というような顔を絶対しない人でした。そういう点では偉い人でしたね、ええ。
 ただ、へそを曲げられると、口を利いてくれませんからね。それを直すまでが大変でした。肩を揉もうとか、足を揉もう、何か持とうとすると飛んで行って、私が持ちましょう。パッと懐へ飛び込むんですよ。


 昭和3年生まれの圓菊は25歳という遅い入門で、前座時代には物忘れも多いなど楽屋で年下の先輩に叱られ苦労したようだ。だから、噺家をやめようと思ったこともある。そんな時のこと。
 

 弟子入りしてから一年半くらいたつと、無性に嫌になってくるときがある。私もそうでしたよ。
 きょうこそ師匠に、
「辞めさせてもらいます」
 っていおうといつもより少し早くいったんですが、師匠はいない。
「きょうは仕事で早いうちに出掛けたよ」
 と、おかあさん。
「ねえ、お前、ちょっときな」
 って、向こうも感づいていたんじゃないかとおもいますね。師匠もそんなに早く、九時ごろから、ひとりでトコトコ出掛けることはなかったですしね。
 あいつ、ちょっとおかしいんじゃないかって、二、三日まえから、もしかしたら辞めると言い出すかもしれないと、師匠、気配を察していたんじゃないでしょうか。
 で、おかあさんが私を客間に連れていき、
「これね、師匠の古い紋付だけど、お前にあげるから」 
 って、師匠の紋付を私の前に差し出したんですよ。
 この紋付が着られるまで一生懸命やんなよ、二つ目になるまでがんばりなさいよっていうことなんです。二つ目になると紋付が着られますからね。
 やっぱり、長年、弟子を扱っていると、相手の心のうちまで読めるんでしょう。あ、辞めそうだななんてね。おかあさんも何かあるなと感じたんですね。
「二つ目まではがんばりなさいよ、前座のときは苦しいだろうけど、二つ目になりゃ楽になるから」
 っていうおかあさんの胸のうちが、こっちも読めた。
(中略)
 その紋付は二つ目になったとき着ましたよ。羽織を脱いで、蔦の紋の入った紋付で一席うかがっている写真は大事にしています。それを着ておかあさんに見せた記憶はないけれど、やっと着られるようになりました、と報告はちゃんとしましたよ。
 二つ目になってからは苦労の意味合いも修行もかわってきました。師匠も元気なころで、まさか数年のちに師匠が倒れて、負んぶするなんて考えもしませんでした。


 圓菊が二つ目になったのが入門から四年目の昭和32年。志ん生が巨人の優勝祝賀会で倒れるのが、その四年後の昭和36年である。
------------------------------------------------------------------

 まだ、昨日までの疲労が若干残る中で、過去のブログでお茶を濁すような内容になるが、今頃りん夫人がこう言って弟子を迎えているような気がする。

「お前も来たのかい。立派に弟子達を育てたね。ご苦労さん」

合掌。
[PR]
by kogotokoubei | 2012-10-14 21:44 | 落語の本 | Comments(6)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛