噺の話

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落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。

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九月下席は、鈴本が落語協会の二人の真打昇進披露興行、末広亭は十一代目桂文治襲名披露興行と、いずれもお目出度い席が並んでいる。志ん陽、文菊は、後日どこかに行くつもり。末広での文治にはどうしても行きたいと思っていて、何とか六日目の昨夜もぐり込むことができた。
 都内での仕事を終えコンビニで助六とお茶を買って、六時少し前に会場入り。見た目は満席。空席は一階桟敷か二階席とのこと。一階の桟敷も相当後ろの方しか空きがなく、二階に上がる。結構、末広の二階は好きなのだ。
 芸協でもこれだけ客が入るのである。席亭も喜んでいるだろう。高座では、ぴろきが会場を沸かせていた。色物は芸協もまったく落語協会に負けていないと思う。
 二階の最前列は、ほとんど埋まっていた。二列目と三列目が空いていて、紐で囲われ「予約席」の札がしてある。後援会の方かなぁ、などと思いながら、そのすぐ後ろの空いた席に落ち着いた。聞けた高座の所要時間と感想を記したい。

桂伸治『お菊の皿』 (15分)
 十一代目の入門より十二年前に先代文治門下になった兄弟子。相変わらずの明るい高座。途中ややリズムを乱したが、ぴろきが温めた会場の温度をしっかりキープした。ちなみに、NHK新人演芸大賞決勝進出を決めた宮治の師匠である。

桂伸乃介『高砂や』 (14分)
 昭和四十五年に先代に入門した、十代目文治一門の総領弟子にあたるが、あえて小言を。なかなか結婚できなかった伊勢屋の若旦那のことを「昇太のように結婚できなかった」とか、ご祝儀のネタで「根岸の方で地下室に隠していたやつだよ」といったクスグリを入れるのだが、ベテランがこういうネタで笑いをとろうとすることは、感心しない。噺本来の可笑しさだけで挑んで欲しい。それができるだけの経験も技量もあるはずだ。

*この伸乃介の高座の途中で、予約席に学生(高校生)が二十人ばかりドヤドヤと入場(?)。果たしてどういう関係か、あるいは修学旅行か。その疑問は十一代目のトリの高座でようやく判明するのだった。

北見伸・スティファニー 奇術 (14分)
 北見伸は、相変わらずスマートな技を披露。しかし、スティファニーの、一つづつの芸の後に「ハイ!」と言って拍手を強要する姿には、やや興ざめ。手袋をして指を切るネタも、あまり好きではない。

桂米助『新聞記事』 (15分)
 今春、池袋での芸協の真打昇進披露興行で聴いた『看板のピン』もそうだったが、米助が古典をかける姿が、なぜか新鮮だ。正直なところ、“上手い”とは言えない。彼らしいクスグリで笑いは取るが、ところどころ科白まわしに苦労している部分などもあり、漫談なら野球のことなど含めいくらでも会場を沸かすネタを持ちながら、古典に挑戦(?)する了見を、私は好ましく思う。

三遊亭小遊三『引っ越しの夢』 (18分)
 仲入り前は、この人。「私の好きな言葉に、夜這いというのがありまして」というマクラが、まさにニンである。本編は、短く刈り込んではいたが、夜這いに失敗する三人-ドガチャカの番頭、二番番頭の徳蔵、そして井戸に堕ちる久七-を中心に、楽しい高座。騒ぎを聴きつけてやってくるのがお内儀ではなく旦那であったり、通常の設定との違いなどもあるが、まったく影響はない。芸協の副会長、単にトイレで尻を拭くばかりではない実力を示していた。

口上 (13分)
 仲入り後、幕が上がって舞台に六人が並ぶ。下手から司会の伸乃介、米助、鶴瓶、文治、小遊三、歌丸。芸協らしい、くだけた口上が続いたが、その中で印象的だったのは鶴瓶。小学生の時に先代が伸治時代の『堀の内』を(ラジオ?)で聴いて笑い転げ、それから『いらちの愛宕詣り』を友達の前で披露するようになったらしい。だから、このネタだけは歴史(?)があるわけだ。さて、松鶴に入門して半年、師匠から一切ネタを稽古してもらっていないのに、師匠が審査員をしている落語大会に出るように言われて、オートバイに乗ったアンチャンの登場する『いらち~』で臨んだが、香川登志緒から酷評され落選。しかし、帰り際に師匠から「お前が一番おもしろかったでぇ」と褒めてもらえた、と思い出を語る。
 私も六月の池袋で昇進披露興行に出向いたが、鶴光の弟子里光の披露目で東京に来た際に、平治から襲名披露への出演を依頼されたらしいが、その時は、伸治が文治を襲名すると勘違いしていたらしい。先代との不思議な縁を含む鶴瓶の話、笑いもとりながら結構なはなむけになったのではなかろうか。
 他には米助や小遊三が、文治画がまだ独身であることへのクスグリで笑いはとっていたが、ある意味、お約束のネタで今後も繰り返されるのだろう。鶴瓶の話は、彼が出演している日の口上でしか聴けない希少性があるこれも縁である。

江戸家まねき猫 物まね (10分)
 初である。芸は結構しっかりしているし、しゃべりもそう悪くない。馬と鹿の掛け合い、結構可笑しかった。こういう色物さんて、寄席では大事なのだよね。しかし、当代猫八の妹のようだが、別な協会に所属している。まぁ、それはそれで結構だとも思う。

笑福亭鶴瓶『青木先生』 (10分)
 本人いわく、「私-わたくし-落語」と言う、実際の話を元にした創作落語である。鶴瓶にこういうネタがあることは他の方のブログなどで知っていたが、生で聴くのは初。なるほど、これは笑えるなぁ。「青木のピー」という言葉が、しばらく耳から離れないかもしれない。たった10分で、会場を爆笑させる話芸の力は、やはり並大抵ではない。もっと、手頃な木戸銭で独演会をしてくれるなら、この人の話芸を聴きに行ってもいいのだが・・・・・・。特にこの人の出演日を選んだわけではなく、都合がたまたま合っただけなのだが、得難い高座に出会えた気がする。

桂歌丸『鍋草履』 (15分)
 談志と同じ昭和11年生まれ、今年76歳になる芸協会長が健在で良かった。トリへの配慮がうかがえる軽い噺ではあるが、こういうネタをしっかり出来ることが、落語家にとって重要なのだと思う。口跡もはっきりしていて、聴いていて疲れない高座。ある意味で、落語の教科書とも言える内容に感じた。
 昨年末、この寄席の席亭が発した苦言を契機に、このところ芸協は頑張っているように思う。全員の実力が一気に上がることはありえないが、米助の古典への挑戦なども含め、背後に歌丸会長の思いが、良い方向に向かわせているような気がする。この席でも千秋楽に当代円楽が出演するようだが、それは披露目での特別なもの。定席では、他の一門の助けなど借りずに、客を呼べるだけの勢いがつきつつあるのではないだろうか。だから、会長にはまだまだ元気でいて欲しい、と思う。

ボンボンブラザース 曲芸 (8分)
私が大好きな、紙の芸を演じてくれた。それだけでうれしい。芸協色物の重鎮であり、日本のボードビリアンとしての代表的な存在だと思う。こういう芸の素晴らしさ、寄席に来ないと分からないんだよねぇ。

桂文治『源平盛衰記-木曾義仲-』 (35分) *終演21:09
 先代の晩年に「師匠、最近『反対俥』や『源平』をおかけになりませんね」と聞いたところ、「やらない。骨が折れるから」と、あっさり答えられた、と思い出を語る。ということは、どちらかの噺かと思っていたら、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり・・・・・・」と始まった。とは言え、とにかくクスグリの満載した内容なので、筋書はなかなか進むはずもなく、那須与一までは進まない。彦六や柳昇の声色は入るは、池袋の怖いXXさんは登場するわ、盛りだくさん。「我が協会は鈴本には出れないので、通りを挟んだ上野広小路亭というxxな席に出る。できるだけ鈴本の席亭には会わないように、広小路亭に行く時は、けもの道を通る」とか、「池袋はシリアより治安が悪い」とか、この人独特のややブラックなネタに会場は沸きっぱなし。「学校寄席とかにもよく行くんです。今日も新潟の高校生さんの団体がお越しですが」と、ようやく団体の正体(?)が判明。「学校寄席では、あまり賢い学校より中の下位が笑ってくれる」「千人聴いているうち一人でも寄席に行こうかと思ってくれたら、それでいいんです」などなど。柳昇がテレビで生放送で語ってしまった爆弾発言のネタも、なかなか可笑しかったなぁ。
 ところどころ、初代三平や歌之介を思わせる感じもあるが、全体としては先代譲りの噺を軸にして、オリジナルのクスグリで濃い味付けをして十一代文治ならではの源平、と言ってよいのだろう。
 「後編の那須の与一は、明日やるか明後日やるか、毎日来ていただければそのうちに」とふって締めたが、「序」であろうが「通し」であろうが、新たな文治の十八番の一つであることは確かである。とにかく久し振りに笑い疲れた。


 後ろ幕は、仲入り前が「栄町カトレ落語会」、仲入り後に「浅草後援会」、口上の後は出身地「大分県宇佐市後援会」の三種類が掲げられた。幅広い支持者のいる人なのだろう。

 “十一代目文治の源平”で大いに楽しんだのだが、今後のこともあるので、少しだけ苦言を呈しておきたい。
 平治として権太楼、市馬と共演した三月の「新宿亭砥寄席」では、あまり褒められない高座を聴いた。2012年3月17日のブログ
 あの会は、運営する側にも問題があったと思うし、権太楼と市馬の落語協会メンバーにも責任があると思うが、この人の狭量をを物語っていたことも事実だ。先代は、言葉づかいやマナーなどには、非常に厳しい人だったと言われているが、決して人間の器が小さな人ではなかったはず。何せ、“ラッキーおじさん”である^^
 文治の名を継いだのだから、ぜひ、大きな器になって欲しい。持って生まれた噺家としての見た目の良さ(?)もあるし、本寸法な落語も、爆笑ネタも自在な力がある。将来は芸協を背負って立つ立場にもなるだろう。ぜひ、協会の垣根などは乗り越えるだけの噺家になって欲しいと切に願うし、それが出来る人だと思っている。

 さて、笑い疲れた後は、ようやく秋らしさを感じながら家路を急いだ。しかし、帰宅後の一杯がきいて、とてもブログを書き終えることなどできなかった。先代の十八番を自分なりに継承していくだろう文治、今後も期待したい。
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by kogotokoubei | 2012-09-27 07:01 | 落語会 | Comments(6)
先日、東京代表三名のことを書いたが、今年のNHK新人演芸大賞(落語部門)の上方からの決勝進出者は、複数の落語愛好家の方のツィッターなどによると、二乗と喬若のようだ。
 
 東京代表を含む五人の決勝進出者には次のような名が並ぶ。

<東京代表>
桂宮治
春風亭昇吉
春風亭ぴっかり

<上方代表>
桂二乗
笑福亭喬若

 先日ご紹介したように、決勝は10月20日の土曜日。夜の開催なので私は行かないが、興味のある方は下記のURLに応募方法が記載されているので、ご覧のほどを。同サイトから開催概要も再度ご紹介。と思って、あらためてNHKのサイトを見たら、決勝出場者が書かれていた・・・・・・。
*もっと早く出場者の名を公開できなかったのだろうか・・・・・・。結構探すのに苦労したんだよ。
「NHKネットクラブ」の該当ページ

日時 平成24年10月20日(土)
 【演芸部門】
  開場:午後2時10分 開演:午後2時30分 終演予定:午後4時
 【落語部門】
  開場:午後6時20分 開演:午後6時40分 終演予定:午後8時30分
会場 NHKみんなの広場 ふれあいホール (東京都渋谷区神南2-2-1)
出演予定(50音順)
【演芸部門】 8組予定(漫才、コントなど)
【落語部門】 桂二乗、桂宮治、春風亭昇吉、春風亭ぴっかり、笑福亭喬若
  *予選は9月中に東京・大阪で実施(非公開)
司会 【演芸部門】 古賀 一 アナウンサー ほか
【落語部門】 水谷彰宏 アナウンサー ほか
表彰 演芸部門・落語部門ともそれぞれ大賞1人(組)


 五人の中で、喬若以外は生の高座を聴いている。優勝予想は、後日書く予定。
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by kogotokoubei | 2012-09-25 22:00 | テレビの落語 | Comments(4)
 昨日は、志ん生の命日ということで、『銀座カンカン娘』で披露された『替り目』の動画を掲載したのだが、結城昌治の『志ん生一代』には、ずばり『替わり目』という章がある。これは、ネタの名と、志ん生の人生における“替わり目”をかけたものだ。なお、本書では『替わり目』という表記なので、それを踏襲し、『替り目』と二つの表記が混在しますが、ご容赦のほどを。
 *この本、単行本も文庫も古書店でしか手に入らない状態だが、河出か筑摩で文庫で再刊してほしいものだ。

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 なかなか興味深い内容なので、前の章の『業平橋』の後半から引用したい。時は昭和七年。当時の名は、甚語楼。ツ離れしない金車亭で『付き馬』をかけたのだが、それを上野鈴本の支配人である島村が聞きにきていた。

 甚語楼は島村に誘われて外へ出た。
「うまくなったよ」
 島村はいきなり言った。
「え・・・・・・?」
 甚語楼は聞き返した。誘い出されただけでも意外に思っていた。
「いまの付き馬を聞いていたんだ」
「どこへいたんですか」
「隅のほうで寝そべっていた」
「気がつかなかったな」
「気づかれねえようにしてたのさ。おかしくて、何度も噴き出しちまった」
「・・・・・・」
 甚語楼は首をかしげた。客は疎らで、それほど受けたとも思えなかった。
  (中 略)
「どうだい、上野へ出てみねえかい」
 島村はまた意外なことを言った。
 上野といえば鈴本ときまっていた。


 この誘いを断る理由はなかった。

「あたしを上野へ出してくれるんですか」
「条件があるけどな」
「何ですか」
「おれの言うとおりにやることだ。おめえのずぼらは知りすぎているくらいだが、抜いたり遅れたりしたら承知しねえ。酒はいい。博打も止せとは言わねえ。しかし、商売はきちんとやってもらう」
「分かりました」
 (中 略)
 島村は評判のわるい男だが、悪人というわけではなかった。寄席の経営を任された支配人として、見るべき眼は持っていたのである。甚語楼を起用したのも彼を売り出すことが目的ではなく、客の入りが低迷している不況対策のひとつだった。
「今度こそやるぜ。ばりばり売り出してみせる」
 甚語楼は張り切ってりんに言った。


 
 そして、次の「替わり目」の章の冒頭はこう始まる。

 上野鈴本の支配人島村に引き立てられた甚語楼は、着実に客をつかんでいった。
 年が明けて昭和八年(1933)。
「客が食いついてきたこの辺で、看板を上げ直してみねえかい」
 甚語楼は島村に言われた。
「もう一度真打披露目をやるんですか」
 甚語楼は文都の例を思い出して言った。
「そうじゃねえ。名前を変えるんだよ。甚語楼という名には貧乏が染みついちまっている。そいつを取っ払うのさ。ひょこひょこと勝手に変えてきた今までとは違うぜ。きちんとした改名披露をやる」
「そいつは無理だ」
「どうして」
「金がねえ」
「それは何とか都合するんだ。大してかかるわけじゃねえ。配り物をこしらえて、うしろ幕があれば十分だ」
 うしろ幕は贔屓の客に贈ってもらう物で、高座のうしろの杉戸にかける。贔屓が多くて幾張りももらう芸人は毎晩のように張り替えるが、甚語楼はもらえそうな当てがなかった。



 なんとか金を工面して、甚語楼あらため、二度目の古今亭志ん馬を襲名し鈴本で披露目を迎えるのだった。
 うしろ幕は宇野信夫(劇作家)が寄贈した生地に鴨下晁湖(日本画家)が墨一色で富士山を描いてくれた。

 上野鈴本の披露が終わると、次は大塚の鈴本で十日間、さらに江戸川の鈴本、片町の鈴本という具合に鈴本系の披露興行がつづき、やがて四谷の喜よしや人形町の末広などにも出演できるようになった。
 まだ売れっ子とまではいかないが、ここまでくれば立派な真打だった。講談社の雑誌には口演の速記が載り、ポリドール・レコードから吹き込みの注文もきた。
 レコードは古今亭志ん馬の名前で、演題は「元帳」としたが、「替わり目」の別題である。


 昭和八年、志ん馬は四十三歳。ようやく、運がめぐってきたのだ。そして、ようやく、「替わり目」が登場した。結城昌治は、このネタの粗筋を少し紹介してから、こう続けている。

 この落語は後半があって音曲ばなしのようになるが、志ん馬はいつも前半で切っていた。まるで自分たち夫婦の仲を喋っているようで、馬の助や兵隊寅にもそう言われたことがあった。表向きは亭主関白のようだが、実際は女房に頭が上がらないのである。
 講談社の雑誌に載ったのも「元帳」で、やがて掲載料を郵送してきた。
「あんた、たいへんだよ。これを見てごらん。間違いじゃないのかい。二十円だよ」
 りんは郵送してきた十円札二枚を握りしめて、取り返しに来られるのではないかと心配していた。
 ところが、レコード会社から送ってきた封筒には五十円入っていた。一日一円あれば家族五人が暮らせた時代の五十円である。というより、つい一年ほど前までは三日で一円の給金(ワリ)しかもらえなかったのだ。


 親子五人が一日暮らせた一円、今の貨幣価値ならいくら位だろうか。仮に五千円として二十円は十万円、五十円は、二十五万円位の価値がありそうだ。

 冒頭に書いたように、ネタの「替わり目」は、志ん生の人生の“替わり目”と、強く深く結びついている。きっと志ん生が、寄席や落語会でこの噺をかける時、脳裏にはりん夫人への感謝の気持とともに、辛い貧乏暮らしから脱出しつつあった、昭和前半の思い出がよぎるのだろう。やはり、この噺は志ん生を象徴する代表作である。

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by kogotokoubei | 2012-09-22 19:20 | 落語の本 | Comments(8)
9月21日は、古今亭志ん生(五代目)の命日。明治23(1890)年6月28日生まれで、昭和48(1973)年9月21日に、眠るように亡くなった、と長女の美津子さんが本などに書かれている。実は、宮澤賢治の命日でもあるが、賢治のことは、後日何か書くつもり。笑組がネタにしている『銀河鉄道の夜』のことなどは、そのうち書きたいと思っている。

さて、志ん生が出演した映画の話をしたい。

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 昭和24年8月16日公開の映画『銀座カンカン娘』は、この年の4月に発売されて大ヒットした曲にちなんだ作品だが、落語愛好家にとっては、志ん生の落語を“見る”ことのできる、貴重な映像記録でもある。

キネマ旬報の映画データベースから、筋書きをご紹介。
「キネマ旬報映画データベース」の『銀座カンカン娘』のページ

ストーリー
落語家の新笑は、いまは引退して妻のおだいと、子供とささやかな生活を営んでいたそこへ居候として入ってきたのが、新笑が昔世話になったという恩人の娘お秋と、お秋の友人のお春だった。二人の明朗な娘達は朝から歌をうたって、おだいをイライラさせる。新笑の甥の武助は、会社の合唱隊を組織して歌に精進しているし、お春は声楽家、お秋は画家と、いずれも芸術家としての意欲にもえていた。しかし一文なしの娘達には、絵の具もピアノも買うことは出来ず、そうかといってブラブラといつまでも遊んでいる訳にも行かなかった。お秋が職さがしに出かけようとすると、おだいにポチを捨ててきてくれと頼まれてしまった。ポチをつれたお秋が捨場に迷っているとある映画会社のロケ隊に出会った。しかもその撮影に是非ポチと一しょに出てくれという話になり、一日だけエキストラとしてキャメラの前に立つことになった。撮影は進行して、女優の山田美恵が池の中に放り込まれることになって、ハタと困ってしまった。というのは山田嬢が、ガンとして承知しないのである。そこで代役を使うことになったので、お秋は早速お春をよんできて、代行させた。おかげで二人は千円という大金を手にすることが出来たのだった。そのエキストラで知り合った白井哲夫の世話で二人はバーで歌をうたうことになった。バーからバーへ毎夜銀座の裏から裏へ、白井の伴奏で三人は働いた。おかげでお秋もお春も、小ざっぱりした洋服と、いくらかの貯金も出来た。新笑の家では、生活も苦しく、しかも月一杯に十万円払い込まないと家を追いたてられると聞いて、恩返しはこの時とばかり、三人で十万円を送って新笑の苦境を救ったのだった。そのころから武助も会社をクビになったので三人の中に加って、武助とお秋、白井とお春の青春コンビは、カンカンブギウギのリズムと共に、親密さを増していった。新笑も引退しているような時代ではないと、再び落語家として第一線で活躍することになったその高座復帰のおひろめの夜は、急テンポで結ばれた、武助とお秋の婚礼ひ露の晩でもあったのだ。


 甥の武助(灰田勝彦)とお秋(高峰秀子)の婚礼披露の席で、志ん生が『替り目』を皆に聴かせるのである。

 終戦(敗戦)から四年後の8月16日を公開日に選んだのは、単にお盆休みでの観客動員を狙っただけではないように思う。敗戦直後の荒廃から復興しつるある日本を象徴する映画でもあったのだろう。8月15日ではなく、16日、というところに、意味が込められているのではなかろうか。


命日の今日、この貴重な映像をYouTubeでお届けしたい。途中で映像が暗くなりますが、ご容赦を。



 昭和24年、志ん生は59歳。二年前昭和22年の一月に、満州から引き揚げてきたばかりだ。晩年に比べて痩せている。こんな時期もあったのだ。

監督の島耕二、脚本の中田晴康、山本嘉次郎というスタッフも、灰田勝彦(武助)、古今亭志ん生(新笑)、 浦辺粂子(おだい)、笠置シヅ子(お春)、高峰秀子(お秋)といったキャストの顔ぶれも、豪華。

 お春役の笠置シヅ子のヒット曲『東京ブギウギ』は、この映画の2年前昭和22年、『買い物ブギー』はこの映画の翌年昭和25年の発売。作詞家はそれぞれ違えども、作曲は三曲とも服部良一。


 さて、昭和ならぬ平成24年の今、10月20日から、園子温監督の『希望の国』が上映される。映画『希望の国』公式サイト何とか見たいと思っている。この映画は、3.11とフクシマそのものをモチーフにしている。
 『銀座カンカン娘』は、敗戦の廃墟から復興に向かう日本人の“元気”で“明るい”“平和”な家族の日常を描いたものだ。

 3.11とフクシマからまだ一年半を過ぎたばかりの今、『銀座カンカン娘』のように、復興を象徴するような、“元気な日常”を描く映画は登場しそうにない。
 
 敗戦後、日本人は総じて貧しかった。しかし、そこには国を挙げて復興しようという意思と、「頑張れば何とかなる」という希望があったはずだ。では、今はいったいどうなのか。「頑張れば」という国民の精神論だけでは到底解決できない「ポスト3.11」と「ポスト・フクシマ」の問題を抱えたままではないか。そして、必ずしも日本人が総じて貧しいわけでもない。政府と国民との間に復興に向けたコンセンサスがあるわけでもない。そして、今日の状況における政治の不在が、国民に心の底から明るく笑える日常をもたらしはしない。

 では、3.11とフクシマから四年後の平成27年に、いったい日本はどんな明るい社会になっているのだろう。そして、『銀座カンカン娘』に匹敵する“元気”で“明るい”“平和”な日常を描いた映画が存在しえるのだろうか。そんなことも思わせる映画であり、志ん生の映像でもある。

 志ん生が手掛けたネタは多い。その数多い噺の中から、あえて“マイベスト3”を選ぶ時、私は『替り目』を入れることをためらわない。なんと言っても、この噺で志ん生は、噺の中の夫婦を自分達夫婦に見立てて、苦労をかけたりん夫人に、実際の生活の中では言えない感謝の気持ちを、落語の中で語っていると思うからである。
 別名を『元帳』と言うが、実生活で夫人には元帳を見せることができない明治男の照れが、高座への感情移入につながっている名品だと思う。だから、志ん生のこの噺は、サゲまで必要ないのだ。女房がおでん屋に行ったと思って、つい元帳を見られてしまう部分が、志ん生にとって最も重要なのである。
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by kogotokoubei | 2012-09-21 21:20 | 今日は何の日 | Comments(4)
9月19日は彼岸の入りであり、正岡子規の命日でもある。ちなみに、旧暦では八月四日。
 
 子規は慶応3年9月17日(1867年10月14日)生まれで、明治35(1902)年9月19日に没している。子規については、ずいぶん前になるが、寄席・落語との関係について一度書いたことがある。ご興味のある方はお読みください。
2009年12月22日のブログ

 生涯に二万句以上をつくったと言われれており、もちろん秋彼岸の句もたくさんあるが、今日はあえて、次の句を紹介したい。亡くなる二年前の句である。

鶏頭の十四五本もありぬべし

 鶏頭は、秋彼岸にふさわしい花でもある。

 この句は、その評価に関して「鶏頭論争」と言われるほどの騒ぎ(?)を巻き起こした俳句として有名である。Wikipedisから、鶏頭の写真も含め、引用。
「鶏頭の十四五本もありぬべし」Wikipedia

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ケイトウ(夏から秋にかけて咲く。季語は秋)
成立
この句はまず1900年9月9日、子規庵で高濱虚子などを含む計19名で行われた句会に出された。子規の病床で行われた例会は次回の10月14日を最後に行われておらず、以後も死去の年である1902年の2月上旬に一度行っただけなので、これが子規の生涯で最後から三番目の句会ということになる。当日の句会では、まず第一回の運座にて一題一句で十題が出され、「娼妓廃業」「芋」「祝入学」「椎の実」「筆筒」「つくつく法師」などの題が出されたが、体調のためかあるいは興が乗らなかったのか、この運座では子規は「筆筒」の題に「筆筒に拙く彫りし石榴哉」一句を投じたきりであった。

つづく第二回の運座では一題十句で「鶏頭」の題が出された(子規の句会でははじめの運座のあと一題十句を行うのが慣例であった)。子規庵の庭には中村不折から贈られたりした鶏頭が十数本実際に植えられており、嘱目吟(実際に景を目にしながら作句すること)でもあったと考えられる。子規はこのとき「堀低き田舎の家や葉鶏頭」「萩刈て鶏頭の庭となりにけり」「鶏頭の十四五本もありぬべし」「朝貌の枯れし垣根や葉鶏頭」「鶏頭の花にとまりしばつたかな」「鶏頭や二度の野分に恙なし」など計9句を提出している。いずれも写実的な句であり、「十四五本も」の句のみ例外的に観念臭がある。選では「十四五本も」の句は特に支持を集めておらず、参加者のうち稲青、鳴球の二人が点を入れたのみである。高濱虚子は子規の句の中では「鶏頭や」の句を選んでおり、当日虚子が「天」(最上の句)としたのは三子の「葉鶏頭(かまつか)の根本を蟻のゆきゝ哉」であった。

この2ヵ月後、「十四五本も」の句は「庭前」の前書き付きで『日本』11月10日号に掲載された。特に必要ないと思われる前書きをつけたのは、難しくとらず写生句として読んで欲しいという作者の思いからだと思われる。


 この句が、その後に論争を呼ぶとは、あの世の子規も予想しなかったであろう。論争について、あらためてWikipediaより引用。

評価

論争前史
前述のように、句会ではこの句は子規を除く18人の参加者のうちわずか二名が点を入れたのみであり、子規の俳句仲間の間ではほとんど評価されなかった。子規の没後の1909年には高濱虚子、河東碧梧桐によって『子規句集』(俳書堂)が編まれたが、その中にもこの句は選ばれていない。最初にこの句に注目したのは歌人たちであり、まず長塚節が斎藤茂吉に対して「この句がわかる俳人は今は居まい」と語ったという(斎藤茂吉「長塚節氏を思う」)。その後斎藤はこの句を、子規の写生が万葉の時代の純真素朴にまで届いた「芭蕉も蕪村も追随を許さぬ」ほどの傑作として『童馬漫語』(1919年)『正岡子規』(1931年)などで喧伝し、この句が『子規句集』に選ばれなかったことに対して強い不満を示した。しかしその後も虚子は1941年の『子規句集』(岩波文庫)においても「選むところのものは私の見て佳句とするものの外、子規の生活、行動、好尚、其頃の時相を知るに足るもの、併(ならび)に或事によって記念すべき句等」としているにも関わらずこの句を入集させず、「驚くべき頑迷な拒否」を示した。


鶏頭論争
こうしたことを背景に、戦後いちはやくこの句を取り上げて否定したのが俳人の志摩芳次郎であった。志摩は「子規俳句の非時代性」(「氷原帯」1949年11月)において、この句が単なる報告をしているに過ぎず、たとえば「花見客十四五人は居りぬべし」などのようにいくらでも同種の句が作れるし、それらとの間に優劣の差が見られないとした。また斎藤玄も「鶏頭」を「枯菊」などに、「十四五本」を「七八本」に置き換えうるのではないかという意見を出している。これらに対して山口誓子は、鶏頭を句のように捉えたときに子規は「自己の”生の深処”に触れたのである」(『俳句の復活』1949年)として句の価値を強調し、また西東三鬼も山口の論を踏まえつつ、病で弱っている作者と、鶏頭という「無骨で強健」な存在が十四五本も群立しているという力強いイメージとの対比に句の価値を見出して志摩への反論を行っている(「鶏頭の十四五本もありぬべし」「天狼」1950年1月)。このように俳壇内で意見が割れた結果、『俳句研究』では俳人22名にこの句についてアンケートを取る「鶏頭問答」なる企画も行われた(同誌1950年8月)。

その後、評論家の山本健吉は「鶏頭論争終結」(1951年)において当時の論争を概括し、まずこの句が単純素朴な即興の詩であり、だからこそ「的確な鶏頭の把握がある」として評価。そして誓子、三鬼の擁護意見が「病者の論理を前提に置きすぎている」としつつ、「十四五本」を「七八本」に変え得るとした斎藤の説に対して現実の鶏頭と作品の世界の鶏頭とを混同していると批判して、言葉の効果のうえで明らかに前者が優れていると指摘、その上でこの句が子規の「鮮やかな心象風景」を示していると改めて高く評価し論争を締めくくった。


 この論争、実は山本健吉で幕引きにはなっていない。

論争以後
  以後しばらく山本の論に匹敵するような論説は現れなかったが、1976年になって歌人の大岡信が「鶏頭の十四五本も」(『子規・虚子』所収)において新説を提示した。大岡はまず子規がこの句を作る前年に加わった「根岸草蘆記事」という、子規庵を題にした写生文の競作に注目する。この中で子規は自邸の「燃えるような鶏頭」を熱心に称えており、そしてこの鶏頭が霜のためか一斉に枯れてしまったときには「恋人に死なれたら、こんな心地がするであらうか」と思うほど残念がったことを記している。また同じ「根岸草蘆記事」の碧梧桐の作は鶏頭を擬人化してその視点で語る文章であったが、そこに「今年の夏から自分らの眷属十四五本が一処に」云々という部分もあった。つまりこの句は一年前の「根岸草蘆記事」の思い出に当てて、眼前にはない去年の鶏頭を思い出して作られたものであり、当日の句会の中では唯一の「根岸草蘆記事」の参加者であった虚子を意識して出されたものだというのである。大岡はまた句の中の「ぬべし」という、完了および強意の「ぬ」に推量の「べし」が結びついた語法が客観写生の語法とは言えず、「現在ただいまの景を詠む語法としては異様」として上の説の傍証としている。


 実は、この続きもあるが、興味のある方はWikipediaをご覧のほどを。


 一つの俳句の評価をめぐって、これだけの論争が起こる。論争、というよりは、さまざまな読み手による解釈の違い、という言い方もできるが、俳句の奥の深さを思い知らされる。それは、五七五の十七文字という世界最短の詩の背景に、それを詠んだ人の歴史や感情の様相を、それを読む者がさまざまな角度から慮るからであり、解釈する人間にも、さまざまな思いが沸き起こるからなのだろう。

 子規は、この句をつくる前年あたりからは、座ることすらできなくなっており、ほとんど晩年を寝たきりで過ごしていたという。寝返りを打つことすら相当つらかったらしい。そういう状況で見た、庭の“十四五本”の鶏頭なのである。


 あえて今日の“論争”のこと。総裁選や次期選挙をにらんだ政治家たちの論争には、私の心に訴えるものは皆無であり、その言葉の背景につらなる歴史も感じられない。また、民主党のまったく準備不足、その場しのぎの「2030年代原発ゼロ」政策は、予想通り財界の反発によって腰砕けになった。そこには、論争すらなかった。

 橋下を含め政治家たちは饒舌だ。しかし、子規のたった十七文字が読む者に与える感慨の、万分の一ほどのエモーションさえも喚起させることはない。
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by kogotokoubei | 2012-09-19 20:46 | 今日は何の日 | Comments(0)
今年のNHK新人演芸大賞の決勝は、10月20日(土)の開催のようだ。昼が漫才(演芸)、夜が落語の部らしい。「NHKネットクラブ」の“イベント・インフォメーション”に下記のように案内されている。
「NHKネットクラブ」の該当ページ

NHK新人演芸大賞

NHKでは、「NHK新人演芸大賞」を実施します。
この番組では、東京と大阪で行われる予選を勝ち抜いた、落語と演芸の新人たちが大賞を目指します。
観覧をご希望の方は、こちらからお申し込みください。

2012年9月7日

日時 平成24年10月20日(土)
 【演芸部門】
  開場:午後2時10分 開演:午後2時30分 終演予定:午後4時
 【落語部門】
  開場:午後6時20分 開演:午後6時40分 終演予定:午後8時30分
会場 NHKみんなの広場 ふれあいホール (東京都渋谷区神南2-2-1)
出演予定 【演芸部門】 8組予定(漫才、コントなど)
【落語部門】 5人予定
  *予選は9月中に東京・大阪で実施(非公開)

【司会】  NHKアナウンサー ほか
表彰 演芸部門・落語部門ともそれぞれ大賞1人(組)
観覧申込 入場無料。


 実際に観覧の応募をしたい方は、リンク先に詳細な情報が掲載されているので、ご覧のほどを。私は土曜の夜なので行けません。後日テレビで楽しむ予定。

“ *予選は9月中に東京・大阪で実施(非公開)”なのだが、もう予選は終わったの? 決勝進出者は誰?

 という疑問に、東京からの決勝進出者情報を教えてくれるブログを発見。
 昨年、決勝に進出した、鈴々舎馬るこの“公式ブロぐ”「馬るこ亭」に次のように書かれていた。
鈴々舎馬るこ公式ブログ「馬るこ亭」

4日
NHK新人演芸大賞予選。
早くも次の日に発表になりまして、東京から
桂宮治さん
春風亭昇吉さん
春風亭ぴっかりさん
が決勝に進出することになりました。
ぼくも優勝できませんでしたが、去年決勝に出てるんですよね。
今年も決勝行けるかなあと思ったんですが、
全員ぼくより後輩なんですよ。
なんかもう、ぼく、過去の人みたいになってませんかね。
すでに老後みたいな気分なんですけど。
新陳代謝早すぎですよ、落語界。



 昨年の優勝予想では、馬るこについて辛口なコメントを書いた。もちろん、その時の正直な思いだった。以前出会った彼の高座は、どうも馴染めなかった。しかし、できるだけ今後も聴いて成長を期待したいと思ってはいる。
 ブログに関しては、更新頻度でいくと“真打クラス”かもしれない^^
 こういう情報提供も含め、今の時代の噺家さんなのだろう。(素直に褒めているのだよ)

 他のソーシャルメディアでは、宮治がツイッターで予選突破を“つぶやい”ていたようだし、ブログで宮治のことを書かれていた方もいらっしゃった。しかし、三人まとめて教えてくれたのは、馬るこのブログしか発見できなかったなぁ。

 さて、桂宮治、春風亭昇吉、春風亭ぴっかりは、全員生の高座を聴いている。

 東京開催で東京から三名決まっているので、上方からは二名なのだろうが、さて誰か?

 まだ予選が終わっていないのかもしれない。あるいは、すでに終了しているが、ネットに情報が現れていないのかんぁ、今後の情報を待とう。

 五人の名が揃ったら、今年も予想をしてみるつもりである。今年は本命不在の戦国大会の様相。なかなか楽しみである。
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by kogotokoubei | 2012-09-18 19:25 | テレビの落語 | Comments(0)
自民党総裁選の国会議員票で安倍晋三がリードしている、とのニュースを目にした。

 人が再挑戦できるということは、組織の人事管理面では歓迎すべきことかもしれない。しかし、この人の出馬には、「性懲りもなく」という言葉が、どうしても頭をよぎる。

 五年前の、2007年9月10日、参院選の自民党の大敗北にもかかわらず、安倍は臨時国会の所信表明演説の中で「職責を全うする」という趣旨の決意を表明した。
 しかし、その舌の根も乾かないたった二日後、彼は記者会見で辞意を表明るす。その後の政局の混乱を招き、税金の無駄遣いにもなった、あの騒動を、日本人は忘れてはならないと思う。政治家に必須なのは、その「出処進退」であるはずだから。

「ポスト小泉」として期待されて登場しながら、はかなくも一年の短命で終わった安倍政権。その弱点、あるいは崩壊の原因はいくつか指摘することができるが、すでに紹介した上杉隆の『官邸崩壊-日本政治混迷の謎-』から、また引用したい。ちなみに、この文庫版は、2007年8月に新潮新書から『官邸崩壊-安倍政権迷走の一年-』に週刊朝日に2007年9月に掲載された文章を最終章として再録し、全体に加筆修正されて2011年11月10日に発行されたものである。
上杉隆著『官邸崩壊』(幻冬舎文庫)

 「第四章 自縄自縛」から。今回も、父安倍晋太郎の、あの“事件”の時期の逸話から。

 1987年、父・晋太郎は、当時、中曽根首相の次の座を、ともに「ニューリーダー」と呼ばれた竹下登・宮澤喜一と争っていた。結局、総裁選は行われず、話し合いという名の中曽根の後継指名が行われることになる。「中曽根裁定」の当日、テレビ各局は特番を組み、新しい首相になるであろう政治家の横顔を報じていた。
「まもなく、安倍晋太郎首相誕生!」
 テレビの画面にはテロップが流れ、記者が、安倍の人となりを伝え始めている。そのニュース番組を観ながら、日本テレビの氏家齊一郎は複雑な思いを抱いていた。
 氏家と竹下—、二人は誤解を受けるほどの親しさで有名だった。その氏家こそが、ただ一人、事前に中曽根裁定の結果を知っていた人物である。ある日、中曽根が氏家を呼んだ。
「竹下君の政策は、どうですか?」
 中曽根からの質問はこれだけ。氏家は竹下の政策、とくに税についての知識と来たるべき消費税導入への覚悟を代弁して語る。中曽根は黙って聞いていた。
 三公社五現業の民営化などの行政改革で輝かしい実績を残した中曽根だが、売上税の導入だけは成功しなかった。彼にとっては心残りの一つである。中曽根が氏家に聞きたかったのはまさにニューリーダーたちの税制改革への覚悟だった。氏家は最高のアシストを行った。税の理解において竹下さんの右に出る者はいません。
 一方で、氏家の盟友である読売新聞の渡邉恒雄(現主筆)は、安倍を強く推していた。渡邉は何度も氏家に聞く。
「中曽根から、何か聞いていないか?」
 渡邉恒雄と氏家齊一郎。二人は高校時代から交流を始め、東大ではともに共産党運動に明け暮れた。それ以降、比類なき友情で結ばれた二人の関係は、ともに読売新聞記者となってからも続く。今日でも連日のように電話で連絡を取り合い、また、夫婦四人で揃って食事に行くほどである。
 毎日新聞記者出身の安倍晋太郎は、氏家とも、渡邉とも親しかった。とりわけ渡邉は、政治家・安倍晋太郎にたいそうご執心であった。


 渡邉恒雄が安倍晋太郎に“ご執心”なのは、家を貸し与えるほど肩入れした中川一郎が自殺し、自分の“ペン”で総理大臣をつくる対象として、安倍晋太郎を選んでいたからであった。もちろん、安倍晋三は、父親の協力な支援者としての渡邉から、何かとアドバイスを受けるようになる。しかし、安倍晋三にとって“ナベツネ”は、口うるさい、疎ましい存在でもあった。

 恵まれた環境。銀の匙を銜えてきた者だけに与えられる特権。ところが安倍はその恩恵を特別だと感じない。本来は得がたい地位を当然のことだと認識している。無理もない。物心ついたときは、すでに首相の孫だった。
 しかし、味方がいつまでもそうでいてくれるとは限らない。
「うざいんだよな」
 2007年、首相になった安倍は靖国問題で意見が対立した渡邉に関して、こう漏らした。安倍は、靖国参拝に反対する父の友人を理解できない。なぜ口を挟むのか。応援するのならば黙っておいてくれればいいではないか。

 

 本書ではこの後、安倍晋三が“ネベツネ”を嫌うようになった、あるエピソードを紹介する。

・・・安倍晋三を、東新橋の日本テレビの応接室に呼んだのは2006年9月のことだった。氏家はいつものように渡邉を誘う。渡邉にしてみれば、あの安倍晋太郎の息子と会うのを断る理由はない。渡邉は日本テレビまで足を運ぶ。
 安倍の著書『美しい国へ』はすでにベストセラーになり、話題になっている。渡邉は、自ら持参したその本を改めて絶賛する。
 なんとすばらしい。父上もさぞ喜んでいることだろう。このようなビジョンを示せる政治家はなかなかいない。他の政治家にはできない相談だ。とくに、あの小泉には決してできないだろう。
 笑いも交え、渡邉は一通り褒め称えた後、本を安倍に差し向ける。そして照れたようにこう言ったのだ。
「ぜひとも、サインをいただきたい」
 意外なことに、安倍は一向に嬉しそうなそぶりを見せない。むしろ不機嫌だ。怒った様子でサインをしている。
 実は、安倍は知っていた。前日、山崎拓(元自民党副総裁)と会った渡邉が、安倍の『美しい国へ』を俎上にあげ、過去最低の政治家本だと罵っていたことを-。
 所詮、彼らもマスコミ側の人間なのだ。やはり彼らは信じることのできない人種だ。この出来事以来、安倍は渡邉との距離をとり始める。


 “ナベツネ”との距離をとり、醜聞を暴いた週刊現代や朝日新聞とも険悪な関係にあった安部は、産経と接近していくようになる。産経新聞の特定の記者との異常な関係については、後日紹介するつもり。
 
 安倍政権の終盤は、秘書(井上)、官房長官(塩崎)、そして広報担当(世耕)が、まったくバラバラな広報活動をしていたことも、崩壊の主原因の一つだったが、実は、安倍晋三という“銀の匙を銜えてきた”本人の我侭、度量のなさも大きな要因であったといえるだろう。ろくに“クリーニング”をしないで「論功」のみで大臣に任命するため、相次いで大臣の不祥事が発覚したことも含め、安倍晋三という男には、リーダーとしての管理能力も統率力も備わってはいないのだ。官房長官時代の北朝鮮問題におけるポジティブなイメージと毛並の良さで首相の座を射止めただけである。

 紹介したエピソードのことに戻る。次期総理本命ということで、前日にその著書をこきおろしておきながら、翌日には本人に著書を褒め上げてサインまでねだる演技を見せる渡邉恒雄という男。その品性のなさは、まさにあの男にふさわしいエピソードだ。
 そして、前日のことを知っているとは言え、笑顔をつくってサインする演技のできない、あまりに“若い”安倍晋三。小泉が同じ状況にいたのなら、満面の笑みをつくってサインするのではなかろうか。

 この逸話は、たった六年前のことである。“銀の匙を銜えてきた”男の本質的な甘さ、弱さが変っているようには思えない。突然の辞任には病気が影響していて、今はよく効く薬があり快復していると言っているが、総裁や総理という立場は、その病をぶり返させるだけの重圧と緊張をもたらす仕事であってもおかしくはない。
 3.11とフクシマの後の日本、もし安倍晋三の自民党が野田民主党から政権を奪還しても、決して明るい展望があるとは思えない。
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by kogotokoubei | 2012-09-17 19:50 | 責任者出て来い! | Comments(2)
自民党総裁選に、五人が名乗りをあげた。それぞれが所属する派閥の名や「無派閥」や「派閥離脱中」という表記も含め、自民党の派閥って、今どうなっているんだろう、と疑問がわいた。

 あらかじめ断っておくが、私は自民党員でもなければ、支持者でもない。しかし、現在の政治の混迷を思うと、いろいろあったにせよ、55年体制後の日本の経済的成長におけるこの政党の功績は否定できないし、次の総選挙にあたってこの自民党がどう臨むのかということは気になる。

 そこで、あらためて今回の自民党総裁選のこと。

 古賀派と谷垣派は、どっちが上なのか。かりにも派閥の領袖であり総裁である谷垣を差し置いて、古賀派から林が出馬して谷垣は出馬断念、宏池会はどうなっているのか・・・・・・。
 町村は清和政策研究会の会長なのに、町村派から本人のみならず安倍晋三も出馬って、これは分裂か・・・・・・。
 木曜クラブの流れを引く平成研究会は、誰も出馬させることができないほど弱体化しているのか。

 大きな派閥の結束が高く派閥抗争が激しかった頃のことについて、上杉隆の『官邸崩壊』(幻冬舎文庫)から引用したい。「終章 呪縛」から。

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上杉隆著『官邸崩壊』(幻冬舎文庫)
 

 1986年の衆参同日選挙で勝利を収めた中曽根は、特例によって総裁任期を一年延長する。翌年、その中曽根がいよいよ首相を辞める時がきた。後継者は、安倍、竹下、宮澤の三人に絞られる。下馬評では安倍が本命。総裁選に持ち込めさえすれば、首相の座は彼の手中に転がり込むはずだった。
 ところが、頂点を目前にしていつもの甘さが顔をのぞかせる。中曽根は、三人を東京・奥多摩の日の出山荘に呼びつける。自分の別荘で、次の首相を決めようという魂胆だ。行ったら最後、話し合いが行われた末、総裁選は開かれないだろう。当然ながら、権力闘争の舞台裏では盟友であるはずの竹下が、中曽根に対して執拗にアプローチを仕掛けている。一方の安倍は何もしていない。
 だが安倍は日の出山荘に出向く。そして三人の顔が揃う。安倍は激しい選挙を避けて、裁定を中曽根に委ねたのである。むしろ先に竹下でも構わないといった態度すらとっている。これが「事件」の伏線である。
 実際、中曽根は自身の後継に竹下を選ぶ。無念であるはずの安倍だが、そうした素振りは一切見せない。話し合いの結果だから仕方がない。さらに「次の後継者指名は安倍」という竹下との密約を胸に秘めていたからだ。
 だが、都内の料亭に戻り、派閥の慰労会に出席した瞬間、安倍は強烈な一撃を食らう。安倍派の中堅若手議員の一人、小泉からの攻撃だった。
「だから言ったじゃないか。なんで戦わなかった。総裁選をやるべきだった。逃げてどうする。そんなことでは総理の椅子など永遠に手に入るわけがないじゃないか」
 自身の派閥領袖を」罵倒する小泉、他の議員はみな押し黙っている。一人立ち上がって口角泡を飛ばしている。
 派閥全盛時代の当時、幹部に楯突くということは、すなわち派閥からの離脱を意味した。だが、小泉はそんなことはお構いなしだった。
 政治は権力闘争だ。権力は選挙で奪い取るしかない。ようやく角福戦争以来の借りを返す時が来たのだ。一度握った権力を経世会がみすみす渡すわけがない。なぜ、竹下を信じる。だから、脇が甘いと言われるのだ、というわけだ。
 その場には秘書の晋三もいた。だが父親を面罵する小泉の姿に圧倒され、ただ黙って見ているだけだった。
 安倍にとってこの「事件」は、小泉に対するトラウマを決定付けたものであり、同時に、幸福の女神は後ろ髪はない、という現実政治の厳しさを教わった。実際、安倍晋太郎はこの直後、リクルート事件に巻き込まれ、その後、肝臓癌のためにこの世を去る。



 小泉が安倍晋太郎を罵倒した慰労会。この派閥は、現在の町村派、清和政策研究会である。派閥の人名による呼称は、福田派→安倍派→三塚派→森派、そして町村派。自民党においては平成研究会や宏池会と並ぶ保守の名門派閥。

 Wikipediaからこの派閥の概要を紹介。「清和政策研究会」Wikipedia

自民党内では保守合同時の日本民主党(岸信介・鳩山一郎派)の流れを汲む。日本民主党の「反・吉田茂」路線を起源に持つため、親米を基調としながらも「自主憲法」の制定や自主防衛路線(再軍備)に積極的であるなど比較的タカ派色が強く、冷戦期にはその反共志向の反映として、親韓・親台に独自の人脈を持った。一貫して自民党の有力派閥だったが、佐藤栄作の後継争い(角福戦争)で福田赳夫が田中角栄に敗北して以来、自由党系の平成研究会や宏池会などの諸派に比べると非主流派に甘んじることが多かった。小泉内閣発足以降、主流派として実質的に政権の中枢を担うようになった。


 
 もちろん安倍晋三は、祖父岸信介の流れを引くこの派閥に属している。そして、今回の自民党総裁選には派閥の領袖である町村とも闘うことになる。『官邸崩壊』は、安倍内閣がいかにして崩壊したかを描いているので、性懲りもなく出馬した安倍について、この本を引用して別途書くつもりだ。

 さて、意外にも出馬を見送った谷垣禎一は、池田勇人にルーツを持つ宏池会の所属。とはいえ、この派閥は、あの2000年11月の「加藤の乱」以降、求心力を失った集団になっていると言ってよいだろう。Wikipediaによると、池田派として始まってからの派閥名は、前尾派→大平派→鈴木派→宮沢派→加藤派→そして、加藤の乱による分裂。
 派閥分裂後は、
  加藤派→小里派→谷垣派
  堀内派→丹羽・古賀派→古賀派
 の二派閥に分かれていたが2008年5月13日、分裂していた二派閥が統一し現在の谷垣派となった、ということになっている。今後どうなるかは、分からない。
「宏池会」Wikipedia

 『官邸崩壊』から紹介した1987(昭和62)年当時は、まだ自民党の派閥は、ある意味では政党内「二大政党」のような役割を持っていたのではなかろうか。それは、米英のそれとはまったく異なったものとはいえ、政策面での相違点で争う対立集団ではないにしても、拮抗した集団同士がお互いを権勢し合い、内部自浄作用につながる効果がなかったとは言えないのではなかろうか。
 
 派閥は、集団が大きくなるにつれて生じる必然的な分化作用の結果ではないかと思う。それは政治の世界以外にも発生する。何らかの共通項を持った“仲間”あるいは、“友達”は、集団内で群れるものだ。企業の経営者は、あえてライバルを競わせて、後継者をどちらにするか見届けるような策をとることも多い。そうなると、それぞれの派閥は、相手に負けまいと業績を上げる競争をする。それが、結果として企業を成長させることにもつながる、こともある。だから、派閥同士の競争は、ある意味でその組織の成長のための便法として有効な場合がある。

 角福戦争は与党自民党における田中角栄(木曜クラブ)と福田赳夫(清和政策研究会)との権力闘争だったわけだが、この二つの派閥のうち木曜クラブは、同じ“吉田学校”の生徒であった池田勇人の宏池会に対抗する形で佐藤栄作が領袖だった。だから、旧自由党の流れを引く。かたや、清和政策研究会は、すでに紹介した通り、鳩山一郎の旧民主党に起源がある。この“戦争”は、55年体制以前からの日本の近代政治における二大集団が拮抗することによるダイナミズムのようなものを継承していたともいえる。そして、その戦いの勝敗は、所属する議員にとって、文字通りの死活問題として認識されていたのだろう。そういった厳しい側面を十分に知っているからこそ、小泉は竹下にみすみす総裁の座を譲った“脇の甘い”安倍晋太郎を、派閥の長であろうが面前で罵倒したのだろう。小泉の本質的な面を物語る逸話としても、なかなか興味深い「事件」である。

 さて、現在の自民党のこと。客観的に現在の状況を見るならば、自民党は政権を奪回する千載一遇のチャンスにあるのでなかろうか。しかし、結果として野田が総裁を続けるだろう民主党と、マスコミでのパフォーマンスを利用して人気だけはある“悪の新自由主義者”橋下の維新の会の勢いにさえ抗することができそうにない。
 それは、派閥が派閥として機能していないからでもある。その起源との関係が曖昧になり存在理由すら疑問といえる自民党の派閥は、いったいどこへ向かって行くのだろう。それこそ、かつての内部エネルギーを取り戻すために、二大派閥に収斂させるような動きをしない限り、あの政党の未来はないのではないか。

 見たくもない五人の顔をテレビが映すたびに、そんなことを思う今日この頃である。
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by kogotokoubei | 2012-09-15 15:56 | 責任者出て来い! | Comments(2)
 五月の深川に続き、桂米二の会に参上。残暑きびしい中、新橋駅から地下通路を通って、先月JAL名人会で笑福亭松喬の名演を聴いて以来の会場に着くと、いつものように、米二ご本人がモギリを務めていた。こういう光景から、この会の持つ暖かさが伝わる。会場は七分ほどの入りだろうか。結構固定客も多いように見受けた。

 深川の会の時には残念ながら急用で欠席だった、この会を紹介してくれた落語ブログ仲間であり「居残り会」レギュラーのYさんが、今回は会社を休んでまで(遅い夏休みとのこと^^)参加。
 チケットもYさんが事前に予約してくれていたのである。師匠ご本人から、いつものように、裏に丁寧な噺の中の用語解説のあるチラシを受け取って、自由席の会場へ。前から数列目の中央部、もっとも好きな場所に陣取った。一番前は首が疲れるし、後ろすぎてもよく見えない。十列目以内の中央に近い席がベスト、だと思っている。ちなみに、寄席の場合は桟敷も好き。

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桂吉の丞 『強情』
桂吉坊  『稲荷俥』
桂米二  『始末の極意』
(仲入り)
桂米二  『遊山船』
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桂吉の丞『強情』 (19:01-19:17)
 見台と膝隠しのある高座に元気良く登場。吉朝の七番目、最後の弟子である。ちなみに、この後に登場する吉坊が五番目。マクラで、「米二師匠の会に、吉朝門下から二人出るというのは大阪でも滅多にない貴重な会」と言っていたが、たしかに五月の深川の会には米二の二人の弟子(二乗、二葉)が出演していたなぁ。今回は、吉朝門下の若手で組まれたが、結構な試みだと思う。
 この噺は最初「“Z”師匠に稽古をつけてもらいました」と言っていた。結局“Z”=ざこば、であることを暴露してしまうのだが、これも演出のうちだろう。非常に珍しい上方ネタで、初めて聴く。金を借りた男、辰っあんが、ひと月で返すと決めたものの自分には金(五十円)はなく、結局他の知り合いに借金までして返しに行く。しかし、最初に貸した強情な男が、「催促なしのある時払いでええと言ったやないか。遊んでいる金ができたら返しにおいでとも言ったが、この金はどう見ても苦しんどる金やでぇ」と返済を受け付けない。借金をした二人目の強情男に返しに行くと、「辰っあん、わては、あんさんが借りた金はひと月で返そうと決めた心意気が好きで貸したんやでぇ。嘘も方便、拾ったとでも、昔貸した金が今朝戻ってきたとでも言って、返してきぃ」と突っ返す。借りた辰も、貸してくれた男二人も、とんでもない強情である、ということでドタバタ劇が構成された噺。
 なるほど、ざこばにはニンなネタだろう。吉の丞の口調もところどころに“Z”師匠を思わせるものがあるし、この人にも良く似合う噺だ。入門からちょうど十年、三十歳の元気な若手は、非常に好感が持てた。先日の桂文三、阿か枝の高座でも感じたが、上方の若手や中堅、なかなかしっかりしている。東京よりは層が厚いのではないだろうか、とも思っている。

桂吉坊『稲荷俥』 (19:18-19:41)
 昨年五月に、テレビ朝日「落語者」でこの人の『蔵丁稚』と『崇徳院』が放送され、その力量に驚いた記憶がある。
2011年5月7日のブログ
 ようやく生の高座を、意外にも米二の会で聴くことができた。これまた、上方ならではの噺。別名『産湯狐』。
 筋書きを少しご紹介。高津神社から一台だけ客待ちをしていた人力車に一人の男が乗った。客が行き先が「産湯稲荷」と告げる。しかし、車夫の梅吉は「狐が恐い」と断る。他の車夫が結構狐にだまされてひどい目にあったようだ。しかし、最後は祝儀につられて客を乗せる。梅の狐の怖がりようを客は面白がって、途中、「自分は産湯稲荷のつかいの狐だ」と
一芝居して、車代を払わずに降りてしまう。しかし、車には大金の忘れ物があり、梅はその金で近所の者を読んで大盤振る舞い。三味線、太鼓で盛り上がっているところに、例の客が訪ねてきて・・・・・・という筋書き。
 吉坊が大師匠の米朝に稽古をつけてもらったとマクラで言っていたが、予習(?)として米朝の音源を聴いていた。ほぼ、米朝版と同じ演出だが、細かい点で、客が梅吉に払おうと言った車代は、米朝は二十銭、吉坊が三十銭だった。これは、噺への影響はほとんどない。大きな相違点は、サゲで米朝と科白の順番(「穴があったら入りとぉございます」という客の言葉と、「お社作って、お祀りいたしますがな」という梅の言葉の順)を逆にしていた。吉坊は、あながあったら、でサゲであるが、サゲとしては吉坊版のほうが自然で良いように思う。
 1999(平成11)年に吉朝に入門しているので、十四年目。東京なら年数的に真打の声がかかる時期だが、この人は真打の実力はもとよりあるし、上方落語界の将来を担う一人、と思わせる堂々の高座。上方落語、なかなか粒が揃っているなぁ。

桂米二『始末の極意』 (19:42-20:19)
 東京の『しわいや』。この噺は、上方も東京も、けちや、始末(ムダ使いしないこと、倹約すること)に関する小噺を並べたネタで、その小噺のトリに持ってくる内容の違いが東西で違っている。
 米二がマクラとして披露したネタの中には、志ん生の音源で馴染みの深い小噺が含まれていて、懐かしい思いがした。たとえば、けちな男が、眼の半分を隠して生活していて、開いている眼が突かれたから、「このために片方を隠していたんだ」とばかり、もう片方の眼を開けたら、世の中知らない人ばかりだった、というネタ。こういうシュールな小噺は大好きだ。米二は、この噺の後、「ついてきてくれてはりますか!?」と会場に問いかけをするのだが、そこで会場も沸く。
 上方版のこの噺は、「始末の極意」を先生とあがめる男の家に聴きに来た男が、庭の木に片手でぶらさがり、指を順番に離していき、サゲにつながる。東京版のトリの小噺となるのは、この二人の会話の前半部分。上方版のほうが、何かと念が言っているように思う。

桂米二『遊山船』 (20:29-21:00)
 このネタが聴きたかった。上方噺の大いなる特長は、三味線と太鼓などハメ物による演出である。吉坊の『稲荷俥俥』でも、車夫の梅吉の家での宴会の模様を三味線(豊田公美子さん)と太鼓(きっと吉の丞だろう、なかなかダイナミックだった^^)が場を盛り上げていたが、この噺でも下座さんの存在は大きい。
 上方噺には欠かせない二人、喜八と清六の二人が主人公ではあるが、川の下に浮かぶ「遊山」の屋形船の乗員が、たくさん登場する楽しい噺である。
 マクラでは、自宅の「よく言えば3階のロフト、実際は天井裏の収納」が自分の部屋で、とても節電には協力できない、という自虐的な話。かつて、室温計で五十度(目盛のテッペン)までになったことを目撃したことのある部屋で、とてもエアコンなしでは居ることができないらしい。中央部分に梯子で上り下りするための一畳ほどの空間があり、よく物を落とすが、吹き抜けになっていた、下手をすると一階まで落ちていくとのこと。暑さを物語、この自宅における三階の自分と一階のお内儀さんという位置関係が、見事に本編につながったマクラだった。
 笑いながら聞き入っていたが、なかなかこういうマクラは聴けないのだ。なぜなら、本編は喜六と清八が、暑さしのぎに大川(淀川)かかる難波橋に出かけ、橋の上から川に浮かぶ屋形船(遊山船)を見て、さまざまな可笑しいやりとりとする、という筋が中心。見台を橋の欄干に見立てでの演技は、まさに上方噺ならでは、という構図で、なるほど、多くの上方の名人上手が手掛けてきたことが納得できる。そういう意味では、たとえば昨年の命日に紹介した七代目笑福亭松鶴(旧名、松葉)の音源に比べると、米二は、このネタで重要な陽気さという面で、少し不足している気がする。
2011年9月22日のブログ

サゲにもつながるが、後半で稽古屋の船がやってくる場面はヤマ場である。上方ハメ物入り噺ではお馴染みの、「その陽気なことぉ」の一言で三味線と太鼓が鳴り出すのだが、今一つの勢い。ここは、ごくごく陽気な一言で鳴り物を呼び込む部分なのだが、大人しい印象。しかし、よく考えると、これもこの人の持ち味とも言える。人情ものでは、この人の語り口が活きる。
 そういった抑えた口調ではあったが、「芸妓がゲイシュウ、舞妓はマーシュウ、万さんならマンシュウ」など、二人組のトンチンカンな会話では十分に笑わせてくれた。
 一席目のマクラで、ネタ選びに苦労していることを匂わせていたが、この人の著書『上方落語十八番でございます』には、一席目も二席目も含まれていない。通算で今回が二十二回らしいから、“十八番”は、ほぼ出し尽くしているのかもしれないなぁ。
 この本のことを書いたブログから、Yさんとのお付き合いが始まったことを思うと、縁とは不思議なものだ。
2010年5月14日のブログ


 終演後は、そのYさんと二人だけのミニ居残り会。会場近くのビアレストランはいつになく混んでいたが、ビールとドイツ風(?)の肴で、落語のことやら、さまざまなネタで楽しい会話。上方落語に詳しいYさんとは、若手や中堅のレベルは東京より上方の方が上かもしれない、ということで意見の一致をみた。もちろん、それなりの力量のある人だから、関東の地で聴くことができる、ということかもしれないが、関東の落語会や寄席では、たまに、寝るしかないようなとんでもない高座に出くわすが、私の経験では、上方の噺家では滅多にそういうことがほとんんどない。
 そんなことを話しながら、会場で配布されたチラシの一枚に、今後の米二の予定が記載されていたのを見た。それは、すでに終了した落語会の裏を使ったもの。さすが、「始末」の極意やなぁ^^そのチラシには、9月15日岐阜、16日、19日は京都、23日が神戸(園田)、24日~28日は繁昌亭、など小さな会館と思しき会を含む今後の予定が、びっちり書かれていた。10月には愛媛のお寺での落語会も予定されている。この内容は、ご本人から送られてくるメールマガジンで紹介されている内容と同じだが、あらためて印刷されたものを見ると、その活動力の凄さを感じないではいられない。「これだ、これが上方の噺家の力の源泉だ」と思わされた。ビールやハイボールを飲みながらYさんと上方の噺家のアグレッシブさなどを語り合っているうちに、夜も更けてきた。さぁ、次はいつだったっけ、などと言いながら二人は新橋駅に向かっていた。帰宅は、ギリギリ日付変更線を越える前ではあったが、とても寝る前にブログを書き終わることはできなかった。

 先月の松喬、先週の文三と阿か枝、そしてこの会と、間に睦会を挟んではいたが、このところ上方シリーズが続いた。なかなか得るものが多かった。最近、東京の噺家が関西で落語会を開催する機会が増えてきたこをとを思うと、今は上方に住んでいるほうが落語愛好家にとっては幸せなのではなかろうか、と思わないでもない。真打制度がなくても、あるいは制度がないからこそ、上方では若手が育つ環境と伝統があるのかもしれない。もちろん、単純に東京で真打制度をなくせばいい、ということではない。地域落語会をはじめとして、噺家を支援する伝統的な文化が残っており、かつ生半可な芸では満足しない厳しい落語愛好家の存在など、長い伝統に立った上方落語界を取り巻く環境も影響しているだろう。上方落語家から感じる、一人一人の、言い方は良くないかもしれないが、根っこの部分の強さ、そんなものをここ最近の落語会からは感じている。聴かなければ後悔するであろう噺家が、西の方にはうじゃうじゃいそうだなぁ。
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by kogotokoubei | 2012-09-14 08:30 | 落語会 | Comments(8)
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 内田樹著『昭和のエートス』(文春文庫)

 文庫で再刊になったのを機に、内田樹の『昭和のエートス』を読んだ。

 まず、「エートス」って何、という疑問に、Wikipediaでは、社会学上のエートス論として、マックス・ヴェーバーの主張を、次のように解説していた。
「エートス」Wikipedia
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生活態度 -
 古代ギリシア語のエートスが、「習慣」を意味しているように、エートスは、それに
 ふさわしい行為を営む中で体得される「習慣によって形作られた」行為性向である。
 社会化によって人々に共有されるようになった行為パターンないし生活形式とも
 いえよう。

心的態度 -
 しかし、ある行為がいくら機械的に反復されてもエートスは作り出されない。その
 行為性向は意識的に選択される必要があるからだ。この「主体的選択に基づく」行為
 性向がエートスである。

倫理的態度 -
 そして、この行為を選択する基準が「正しさ」である。「正しい」行為とは、内在性
 の基準(行為に固有の価値)が選択され、(目的達成の手段ではなく)行為それ自体
 が目的として行なわれるような行為のことである。外的な賞罰なしには存続しえない
 行為性向はエートスではない。
 したがって、エートスの究極的な支えは個人の内面にある。
------------------------------------------------------------------

 この定義を踏まえて「昭和のエートス」という言葉の意図するところを慮ると、昭和という時代の“習慣によって形作られた”「生活態度」であったり、あの時代の人々が“主体的に選択”した「心的態度」のことや、昭和の時代に“個人の内面”にあった「倫理的態度」のこと、ということになる。

 とはいえ、本書が、著者が新聞や雑誌などに掲載された複数の文章から、あまり時事的ではない内容のものを選んで、四つの章とオマケを含む三十九の文章で構成されたものである以上、「お題は、こんな感じかなぁ」という思いで付けられたかとも思う。だから、あまり無理に書名と個々の内容を結び付けても意味がないのかもしれない。しかし、全体を通じて読後には、著者の“失われた大事なもの”や“失われつつある大事なもの”についての強いこだわりや警鐘という印象が残るので、このお題は結構適合していると思う。

 今後、この本に関連して書く機会が多いと思うが、まず最初は、「第2章 国を憂うということ」にある「市場原理から教育を守るために」から、ほんの少し引用したい。

 このテーマは、これまでもブログ「内田樹の研究室」や、他の著作から同様の内容を紹介したことがあるが、大事なことなのでしつこく取り上げたい。初出は「論座」(朝日新聞出版)の2007年2月号。富山の県立高校で発覚した履修単位不足問題をマクラ(?)に、教育現場への市場原理の導入への批判が展開される。
*太字部分は、本文では強調するための傍点がある文字。

 学校教育、とりわけ公教育は市場原理を貫徹させるために生まれたものではない。むしろ市場原理が人生活の全場面に貫徹することを阻止し、親と企業による収奪から子どもたちを保護するために誕生したものである。
 マルクスが『資本論』に書いているとおり、十九世紀末のイギリスにおいて、公教育が推進されたのは子どもを誰におもましてまず親から守る必要があったからである。当時の下層階級の子どもたちは六~八歳から(早いものは四歳から)労働に従事した。貧しい親たちはためらうことなく子どもたちを工場や炭鉱での労働に追い立て、時には大人たちより長時間にわたって、苛酷な業務に就労させたのである。この非人間的な児童労働がもたらす身体的・道徳的な荒廃から少年少女を守ることが学校教育の義務化の最初の、そして最大の目的であった。「教育を受けさせる義務」は保護者たちの子どもに対する権力を規制したものであり、子どもたちに学校に通うことを義務づけたのではない。


 国政に乗り出そうとして、今や時の人となった橋下が、大阪でやろうとしたことは、まさに教育の場への市場原理の導入である。万が一、彼が国政に影響を持つことになった場合、教育の場は「アメ」と「ムチ」でズタズタになる恐れがある。
 アメリカではオバマが大統領就任前の共和党政権時代から、支出削減政策の切り札のように、消防隊員や教員たちの一時解雇が激増した。つい最近も現状への不満からシカゴで教員による大きなストがあったが、オバマは大統領選に向けて教職員たちの支持を獲得するために、どんな手を打とうとしているのだろうか。教員の評価方法なども含めた教育の場への市場原理の導入や人員削減がいかに間違っているかは、たとえば最近『さっさと不況を終わらせろ』でポール・クルーグマンも指摘している通りだ(この本のことは、近いうちに何か書きたいと思っている)。アメリカの誤りを他山の石とせずに、同じ轍を踏もうとしている新自由主義信者の橋下には、残念ながら、内田の主張は伝わらないようだ。

 紹介した上記の文章の後で、内田は、教育史的な事実として、十九世紀のアメリカで、資本家(ブルジョワ)たちが学校を公費で運営することに抵抗したことへの反論として、「費用対効果」を持ち出したのが、教育と市場原理の「結託」の始まりであり、あくまで納税者の抵抗を乗り切るための説明として言い出されたという起源を忘れるべきではない、と主張する。

 仮に費用対効果で学校教育を語る口吻がひろく日本社会に定着していたとしても、それは「そうでもいわないと」強欲な親たちや利己的な資本家たちが子どもを「人材」として功利的に育成し、消費することを妨げないからである。もっと平たく言えば、私たちが現代社会の学校教育で「費用対効果」ということが口にされるのを黙許しているのは、人間を深く損なう「本態的な邪悪さ」を制御するためなのである。「毒を以て毒を制す」以上、自分が扱っているのが「毒薬」であるという自覚だけは忘れて欲しくない。


 教育の起源、そして論法としての「費用対効果」の起源、その両方を十分に踏まえて、新自由主義者たちが今後やらかしかねない悪事を注視していく必要がある。そうしないと、「毒薬」が「日本の教育」のすみずみまでに浸透して、のっぴきならない事態を招きかねない。

 「費用対効果」で教育をとらえた場合、教育を受ける側は「消費者」として考え、行動する。それが、どれだけ今日の教育現場の荒廃の根底にあるか、内田は強調する。

 消費者は自分が購入する商品について、その有用性や意義についてあらかじめ熟知している(ことになっている)。スペックを熟知しており、他社の同種商品と比較考量して、「お買い得」であると判断したからこそその商品を購入しようとしているのである。「その商品は何の役に立つんか?」という問いに答えられないような売り手から商品を買うはずがない。
 学校というのは原理的に言えば、「それが何の役に立つのか?」を子どもたちがまだ知らないし、それを表現する語彙も持っていないことを教わる場である。というより、「それが何の役に立つのか」を子どもたちがまだ知らず、言葉で表現もできないからこそ子どもたちは学校に通わなければならないのである。学びとは学び終わったあとになってはじめて自分が学んだことの有用性や意味について知ることができるという順逆の転倒したかたちで構造化されている。


 消費者である子どもが、授業を聴くという「苦役」を「教育サービス」と交換する「取引き」をすることになったことが、教育の場への市場原理の導入が招いた不幸であることは、内田がブログや他の本でも再三指摘している。

 劣等比較とは言え、維新の会の人気は、彼等の間違った決断や行動を許しかねない。それこそ、「昭和のエートス」が根付いていた時代ならば、決してあり得ない政治状況が目の前で展開しつつあるように思う。また、安倍晋三という、一度死んだはずの名前が生き返ろうとしているが、彼が振りかざすであろう、「憲法改正」問題についての文章も本書には含まれている。

 「昭和」は遠くなったが、その「エートス」は、取り戻すことはできるのではないだろうか。それは、本来日本人が誇るべき「生活態度」であり、「心的」な、また「倫理的」な態度であると思う。失われつつある「エートス」を、平成の世で、3.11とフクシマを経験した日本人だからこそ、今一度持ち得ることができるはずだ。そんな気がする。
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by kogotokoubei | 2012-09-12 18:31 | 責任者出て来い! | Comments(2)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛