噺の話

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落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。

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残暑きびしい中、さわやかなニュースに巡り合ったので四国新聞のサイトからご紹介。
四国新聞のサイトの該当記事

被災地に笑い届ける/三豊の中学生落語家
2012/08/31 09:44

 香川県三豊市三野町の子ども落語家、日向家(ひなたや)ひかるさん(14)=本名・見目日和=が8月中旬、大阪などの落語仲間の子どもたちと東日本大震災の被災地・宮城県を訪れ、落語を上演した。大人とはひと味違った子どもならではの魅力あふれるしゃべりを繰り広げ、仮設住宅で暮らすなど今なお、不自由な生活を余儀なくされている被災地の住民に笑いを届けた。

 日向家さんは小学4年時にNHKの連続テレビ小説「ちりとてちん」で、主役が演じる女性落語家に憧れ、落語講座の門をたたいた。現在は三野津中学校2年生。昨年、宮崎県であった子ども落語の全国大会では優秀賞に輝いている。

 被災地訪問は、日向家さんの家族でつくる「みとよGENKIプロジェクト」(見目幹子代表)が「被災者に元気になってもらえたら」と企画。約1年前、それぞれが地元でチャリティー寄席などの活動を行っている他県の子ども落語家に参加を呼び掛けるなどして、準備を進めてきた。

 今回、被災地を訪れたのは日向家さんをはじめ、大阪や兵庫、兄弟で活躍する愛知の子ども落語家5人と、その保護者の計10人。一行は17日に宮城県入りし、18日は仙台市、19日は石巻市の仮設住宅や現地のまつりなどに参加して各日2回、落語を披露した。

 18日昼は、約30世帯が暮らす仙台市若林区のみなし仮設住宅の一グループ「若松会」の集会所開所記念行事として口演。日向家さんらメンバーの軽妙な語りが住民の笑顔を誘ったという。この日、メンバーはうどんの炊き出しも行った。

 初の東北訪問だったという日向家さんは「まだがれきの山がたくさんあり、想像以上に復興は進んでいなかった」と肩を落としながらも、今回の上演については「みんな笑ってくれていたので、少しでも元気が届けられて良かった」と話した。



 日向家ひかるさんや他の子供落語家たちに、拍手である!

 彼や彼女たちが届けた笑いは、貴重だと思う。そして、彼らが自ら見てきた被害の様子や復興が進まない状況を友達に伝えることも、これまた重要なことだ。

 私が彼らの学校の先生なら、特別表彰してあげるのだがなぁ。

 「ちりとてちん」は、今月NHK BSで総集編が再放送されて、ついついまた見たのだが、ひかるさんがあの番組を見て女流落語家を目指しているのなら、将来楽しみである。

 福井小浜から大阪を目指した徒然亭若狭のように、四国香川から大阪に出るか、地元に残るかはともかく、家族の「GENKIプロジェクト」の後押しもありそうだから、結構実現性が高いのではなかろうか。

 将来、彼女の高座で、「ようこそのお運びで。厚く御礼申し上げます。」を聴きたいものだ。

 がんばれ、子供落語家たち!
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by kogotokoubei | 2012-08-31 21:20 | 幸兵衛の独り言 | Comments(2)
笑福亭松喬は見事に復活した!
 
 JALに乗る際は、機内で必ず落語を聴くので、もちろんこの会は知っていた。たまに良い顔ぶれの会に気が付いた時には、だいたいチケットは売り切れていたり、都合が合わなかったりで、今回初めて参上。

 今回の初参加における最大の動機は、出演者の中に癌と戦っている笑福亭松喬の名を見つけたことだ。テレビでは見たことはあるが、生の高座はまだ経験していない。
 松喬が昨年12月に肝臓癌の治療のため入院し、今年4月に退院したことは、以前にブログに書いた。
2012年5月8日のブログ

 その後、松喬のブログを読む機会も増え、6月から二か月近く再入院していたのを知っていたので、この会に出演できるかどうか心配であったが、つい最近も一門会で『三十石』を一時間以上演じたと日記で知り、きっと会えるだろうと祈りながら、新橋駅から会場へ向かっていた。
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 会場に降りる階段の手前の掲示板に、しっかり「笑福亭松喬」の名があった。ひと安心。

 今回は松喬の他の顔ぶれも悪くない。落語は柳家甚語楼に、以前から聴きたいと思っていた三遊亭竜楽。U字工事など漫才二席を加えて千円という木戸銭。機内放送用コンテンツ制作のため、とは言え、こんなお得な会はそう滅多にないだろう。

 開演15分前にホール内に到着。自由席だが、前のほうにもところどころ“歯抜け”のような空席はがあったので、結構好みの場所に座ることができた。見た目ではほぼ満席に近かったのではなかろうか。

次のような構成だった。開口一番以外の落語は、プログラムでネタ出しされていた。
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(開口一番 柳家緑太『道具屋』)
柳家甚語楼 『のめる』
風藤松原  漫 才
三遊亭竜楽 『片棒』
(仲入り)
U字工事  漫 才
笑福亭松喬 『崇徳院』
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柳家緑太『道具屋』 (18:30-18:41)
 初見。花緑の弟子。協会のサイトのプロフィールには生年月日のみ記載されており、28歳。今では不思議のない年齢かもしれないが、見た目はそれ以上に老けて見えるかなぁ。妙な表現だが、前座にしては上手すぎる、というか地味すぎる印象。カミシモはしっかりできているし、言い間違いや言い淀みもほとんどない。噺家の雰囲気もある。しかし、この段階で“老成”しては困るわけで、もっと若々しさが欲しい。そんな印象だった。

柳家甚語楼『のめる』 (18:42-19:02)
 三三、左龍と真打昇進が同期。他の二人の個性と比べると地味ではあるが、この人の本寸法の高座はもっと評価されてもいいだろう。寄席に似合う人だし、見た目の清々しさもあって、今後の柳家一門にとっても貴重な人材だと思う。

風藤松原 漫才 (19:03-19:14)
 初見。なんとも言えないリズム感のあるコンビ。それぞれがなりたかった職業、というよくあるテーマで、タクシー運転手と客の会話、先生と生徒の“ことわざ”の授業、というネタだったが、前半の松原の“ゆる”い口調と、後半の二人のアップテンポな会話の落差が、この人たちの実力の高さを示していた。
 特に後半の先生役の風藤(ふうとう、本名)が、「坊主憎けりゃ」とふって、即座に生徒役の松原(本名)が「ネットで叩く」などと答えるようなやりとりの連続は、ギャグの秀逸さとリズムの良さで、並の一発芸頼りの漫才とは違うことを示していた。帰宅してから調べたら、大阪で修行して現在は太田プロの所属で、芸歴は短いとはいえない。プログラムに「アップテンポ漫才全盛の時代にあえてゆったりのペース~」と紹介があるが、あえて補足するなら、アップテンポもスローも自在な漫才と評価したい。テレビで2~3分の持ち時間で披露する一発芸の場合は、持ち味である“ゆるさ”を強調するのだろうが、10分あれば、どちらも披露できる。寄席でも通用するだけの技量があるように思う。私はこの漫才、好きだ。

三遊亭竜楽『片棒』 (19:15-19:40)
 日中国交正常化40年記念の一環として、中国天津で開催予定だった林家三平の落語会が延期になったことを書いたばかりだが、コメントでこの人が外国語を駆使して海外で落語会を披露していることをご指摘いただいた。そのことは深く知らずに、円楽一門の数少ない実力者の一人らしい、という思いで楽しみにしていたのだが、なかなか絶妙のタイミングでいただいたコメントだった。
 その外国語落語のことからマクラが始まった。『味噌豆』を七か国語で演じたCDを出したらしい。英語、ドイツ語、フランス語、イタリア語、スペイン語、ポルトガル語、そして日本語である。ネタの出だしの部分を各国語で演じてみせた。次に、異文化ジョークとしては定番とも言える、船が沈没しそうになった際に、各国の男たちに海に飛び込ませるための方法(科白)のネタ。そして、ケチを題材にバルセロナ人、スコットランド人に関するジョークなどの9分ほどのマクラから本編へ。
 このネタの見せ場は次男銀次郎の場面なのだが、なかなか結構だった。葬儀というより、ほとんど祭り風景の描写になるが、笛や太鼓の口真似など、ほぼ今日の型として本寸法の内容も良かったし、セスナ機が飛んできて空に「あかにしや」と描くというギャグも可笑しかった。機内放送を聴く人にとっては、赤螺屋吝兵衛そっくりの人形の可笑しな動きは“見せる芸”なので分からないだろうが、それを想像するのも落語の楽しさのうちなのだろう。
 同じこの会場で独演会を行っているようでもあり、今後もぜひ聴きたいと思った。兼好との二人会でもやってくれないかなぁ、というのはまったく都合の良すぎる話なのだろうなぁ。

U字工事 漫才 (19:50-20:09)
 前半は緊張もあったのか、少しリズムが悪かったが、次第にペースを上げてきた。テレビで何度か見ているので、風藤松原のような、初見での驚きや可笑しさはないが、定番の栃木ネタで会場を沸かせた。無難な出来。

笑福亭松喬『崇徳院』 (20:10-20:46)
 高座に見台と膝隠しが置かれた。若干、待ちながら緊張。テレビでは何度か見て聴いているので、顔のイメージはある。登場した時の表情は、やはり病み上がりの印象が残る。しかし、語り始めてからは、安心した。口調はしっかりだし、何と言っても、全体に力強さを感じることができる。
 マクラは自分の病気のことから。昨年末に癌が見つかり、すでにステージ4の末期で、医者からは最近になって、「本当は6月頃には死んでいたはず」などと言われている、といった内容なのだが、まったく暗くない。
 医者の話として、
「抗癌剤や放射線治療の効果もあったのだろうが、それ以上の何かを感じる」
「それは、きっと笑うことの免疫効果だろう」
「お客さんが笑っている様子を見ることでうれしいでしょうから、それだって免疫効果が高まることにつながるのでしょう」
 と続けて、「もし、お客さんの笑いが少ない時は、私の免疫効果が高まらないので、高座を降りさせていただきますが、それは私じゃなくて、お客さんのせい」と言って、会場が沸く。
 病気のことを語りながらも、しっかりと会場を温めるマクラ5分で本編へ。滑舌も悪くない。「緋塩瀬(ひしおぜ)の茶帛紗(ちゃぶくさ)」なんて、なかなかスッとは出てこないのだが、問題なし。登場人物も生き生きと描かれた。蚊の鳴くような声で悩みを語る恋煩いの若旦那、その息子を心配するお店の旦那、旦那から礼金や長屋というエサをぶら下げられて謎の女性を見つけるために奔走する熊、そして後半で登場するお嬢さんのお店側の頭領風の男、すべからくそれぞれの個性を際立たせながらも無理のない役づくりと語り口の良さに、どんどん引き込まれた。会場には初落語と思われる東京の方も多かったように思うが、会場全体が一体になって沸いていたように思う。大げさだが、松喬の生命のエネルギーのような何かを感じる素晴らしい高座、もちろん今年のマイベスト十席候補である。


 帰宅してから、ビールを飲みながらブログを書き始め、松喬のブログを覗いてみた。8月23日のブログ(日記)に、次のように書いていた。
笑福亭松喬のブログ(日記)

清々しい朝を迎えました。6月27日から入院し、途中4日間退院。
述べ53日に渡っての長期の入院に成りました。
途中、正直挫折感と絶望感を味わいながらも、家族の励ましでやってこれました。
特に家内には感謝感謝です。53日間毎日11時過ぎから夜の消灯まで
私を励まし、「かならず治る、大丈夫」「新しい治療も挑戦しよう」
病室で会話もなくなる時がある、「私は本を読む時間が増えて嬉しい」と
不満ひとつ言わず、ただただ私のために。子供たちも不満ひとつ言わず
留守の家を守ってくれた。
家族の皆が「お父さんの落語を多くの方々が待っている
しっかりしなさい」この言葉で再び生きる元気が出ました。



 きっと、家族や周囲で支えてくれる全ての人への感謝の念が、高座で昇華されて、何とも言えない力を感じるのだろう。そんな気がする。
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by kogotokoubei | 2012-08-29 23:02 | 落語会 | Comments(8)
たまたまネットで落語ネタをググっていたら、こんな記事を見つけてしまった。
「NHK NEWS WEB」の該当記事

日本に反発か 中国で落語公演延期
8月22日 5時17分

日中国交正常化40年の記念の一環として、24日に中国の天津で予定されていた落語家の林家三平さんの公演が直前で延期になり、沖縄県の尖閣諸島を巡り、中国で日本への反発が強まっていることが、延期の背景にあるのではないかとの見方が出ています。

延期されたのは、中国で外国との文化交流を進める団体などが主催して24日に天津で開かれる予定だった落語家の林家三平さんの公演で、主催者側が21日、NHKの取材に対し、延期を決めたことを明らかにしました。
延期の理由について、主催者側は「落語の翻訳などの準備作業が間に合わなかったためだ」と説明しています。
一方、公演会に協力していた天津日本人会によりますと、今月19日、主催者側から「両国間の情勢が悪化しているため、安全面に考慮して公演を中止したい」と連絡を受けたということで、21日、ホームページなどを通じて告知しました。
主催者側では次の日程についてはまだ決まっていないとしており、沖縄県の尖閣諸島を巡って、中国で日本への反発が強まっていることが延期の背景にあるのではないかとの見方が出ています。


 延期の原因が尖閣諸島問題なのかどうかは別にして、中国との文化交流のためということなら、人選問題はあるなぁ。他にいくらでも候補はいるでしょうに。

 天津日本人会の人たちが協力しているらしいが、まさか父親と間違えたはずもなく、ご縁のある方でもいらっしゃるのだろうか・・・・・。

 しかし、「文化」交流の代表として、この人がふさわしいのか?
 はっきり言って、とてもそうは思えない。

 延期を良い機会に、ぜひ「これが落語!」と自慢できる噺家さんに替えてもらいたいものだ。

 あの人の芸を「落語」と思われては、困る。

 昨年7月、三遊亭兼好は、日独交流150周年行事の一つの行事として、日本在住で落語に理解の深いドイツ人のクララさんの労により、ドイツで大学など複数の場所で落語会を開催し好評を博したと聞いている。

 桂かい枝のアメリカでの英語落語会による文化交流のための貢献は、つとに有名だ。

 記事に「翻訳の準備」という言葉があるから、三平が中国語で落語をするのではないのだろう。それなら、「文化交流」としての人選は、それに相応しい人を選ばなきゃ。

 高座での「どうもスイマセン」連発が、日本の謝罪外交の落語化と思われたのでは、洒落にならない^^
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by kogotokoubei | 2012-08-28 21:43 | 幸兵衛の独り言 | Comments(14)
今日8月27日は、旧暦の7月10日。そう、「四万六千日」である。しかし、「浅草寺」は、「ほおずき市」を含めてもっとも御利益の大きな日の行事を新暦の7月9日・10日に開催にしている。

 「浅草寺」のサイトに、「四万六千日」は次のように説明されている。
『浅草寺」サイトの該当ページ

 観音さまのご縁日は「毎月18日」ですが、これとは別に室町時代以降に「功徳日(くどくび)」と呼ばれる縁日が新たに加えられました。月に一日設けられたこの日に参拝すると、百日分、千日分の参拝に相当するご利益(功徳)が得られると信仰されてきました。中でも7月10日の功徳は千日分と最も多く、「千日詣」と呼ばれていましたが、浅草寺では享保年間(1716~36)ごろより「四万六千日」と呼ばれるようになり、そのご利益は46,000日分(約126年分)に相当するといわれるようになりました(この数については「米一升分の米粒の数が46,000粒にあたり、一升と一生をかけた」など諸説ございますが、定説はありません)。
 なお、この10日を待って一番乗りで参拝したいという民衆の思いから、前日の9日より人出があって、7月9・10日の両日が四万六千日のご縁日と受け止められるようになりました。
 また、この両日には「ほおずき市」が「四万六千日」のご縁日にちなんで開かれます。そもそもこの市は、芝の愛宕(あたご)神社の縁日に始まり、「ほおずきを水で鵜呑(うの)みにすると、大人は癪(しゃく)を切り、子どもは虫の気を去る」といわれるなど薬草として評判であったようです。その愛宕神社の縁日は観音さまの功徳日にならい四万六千日と呼んでいたのですが、やがて「四万六千日ならば浅草寺が本家本元」とされ、ほおずきの市が浅草寺境内にも立つようになり、かえって愛宕神社をしのぎ盛大になったと伝えられています。
 一方、江戸の昔、落雷のあった農家で「赤とうもろこし」を吊るしていた農家だけが無事であったことから、文化年間(1804~18)以後に「雷除(かみなりよけ)」として赤とうもろこしが売られるようになりました。ところが明治初年に不作が原因で赤とうもろこしの出店ができなかったことから、人々の要望により「四万六千日」のご縁日に「雷除」のお札が浅草寺から授与されるようになり、今日に至っています。



享保年間(1716~36)ごろより「四万六千日」と呼ばれるようになったのだから、間違いなく旧暦の時代だ。

 何度か紹介したことがある、『旧暦はくらしの羅針盤』(小林弦彦著、NHK生活人新書)には「四万六千日」は次のように書かれている。
小林弦彦 『旧暦はくらしの羅針盤』

四万六千日
 七月十日、観音さまの結縁日です。結縁とは、『広辞苑』には『仏道に入る縁を結ぶこと』と書いてあります。この日に観音さまにお参りすると、四万六千日分の功徳があるといわれます。一日のお参りで、百二十年以上の功徳があるとは。浅草寺の観音さまが、ことのほか賑わいました。



 三日前先週8月24日は、旧暦の7月7日、七夕だった。前の日の落語会のことを思い出しながらブログを書いている途中で、外で一服し空を眺めたら、見事な上弦の月だった。織女(ベガ)と彦星(アルタイル)を含む「夏の大三角」を確認し忘れたが、満月の明るさの十二分の一と言われる半月の夜だからこそ、織女と彦星の年に一度の逢瀬、というロマンを楽しむことができるわけで、今年の新暦7月7日は旧暦5月18日で月齢17.5の明るさだったから、たぶんベガやアルタイルを確認することはできなかっただろう。ちなみに、仙台や北海道などでは、できるだけ旧暦に近くということから8月7日に七夕のイベントを行う。ちなみに新暦8月7日は旧暦6月20日で立秋、月齢は18.9だった。その日、ベガとアルタイルがよく見えたのかどうかは不明。

 「四万六千日」と言えば、『船徳』の文楽による名言、「四万六千日、お暑い盛りでございます。」があまりにも有名だが、思うに文楽も新暦で考えたのだろうなぁ。旧暦で7月は“秋”の初めの月である。さすがに今年は残暑がきびしいが、本来「暑い盛り」は過ぎている。三代目柳家小さんが『船徳』を「四万六千日」の出来事と設定したと言われているが、小さんは安政四年(1857年)生まれなので、明治5年に新暦に切り替わった時は十五歳。浅草寺が、「四万六千日」の行事をいつから新暦開催に切り替えたのかは分からないが、小さんは旧暦で考えていたかもしれない。いや、噺家として活躍していた時はすでに新暦だったから、新暦でイメージしたのだろうか。このへんは、ちょっとしたミステリーだと私は勝手に思っている。

 今日行われた落語会や寄席で『船徳』をかけた噺家がいたら、その人は結構いいセンスをしていると思う。
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by kogotokoubei | 2012-08-27 20:25 | 旧暦 | Comments(6)
春の会が良かったので、残暑きびしい中、博品館にまたやって来た。満席の会場は、“喜多八ファンの集い”という趣き。あちらこちらで、お馴染みのお客さん同士が挨拶を交わしている。そういう自分も、終演後の「居残り会・分科会」を楽しみに、複数の落語愛好家の大先輩達と誘い合っての参上である。

次のような構成だった。
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(開口一番 柳家ろべえ『ぐつぐつ』)
柳家喜多八 『粗忽長屋』
柳家喜多八 『青菜』
(仲入り)
鏡味初音 太神楽
柳家喜多八 『怪談 乳房榎~おきせ口説き~』
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柳家ろべえ『ぐつぐつ』 (19:00-19:23)
 今年の初落語であった小田原の三三の会での開口一番以来。あの時の『もぐら泥』は、師匠の十八番を結構自分なりにこなしていたので、今後に期待したのだが、今回は小言が多くなる。まず、マクラがグダグダでいただけない。池袋の夏恒例の小三治主任の席で、お客さんの行列のために、いつも自転車を止めているテケツの脇に入れず、向かいのケンタッキーに置いたら豊島区に撤去され、保管料5,000円取られた、とか何とか、可笑しくもない内容にイライラした。開口一番が10分近くもマクラをふることはない。
 本編は柳家小ゑんの代表作で、おでんのタネを擬人化したネタなのだが、師匠の「夏之瞬」という会の季節感を無視したネタ選びには閉口した。小ゑんは天体観測が玄人並みで、このネタの季節設定はオリオン座が輝く冬なのだ。だから、小ゑんは、冒頭で冬の星空の情景を語る。しかし、ろべえは・・・・・・。翌日に旧暦の七夕を控え、二十四節気の“処暑”の日の会にかけるネタではない。ろべえは平成15年入門で10年選手である。会場には、ゲラさんも多くそれなりに沸いていたが、私はまったく笑えなかった。

柳家喜多八『粗忽長屋』 (19:24-19:44)
 弟子のマクラに合わせたわけではなかろうが、自転車の話題から。八月は自転車を「降りた」らしい。七月は、乗る前にシャツや帽子を水で濡らして乗っていたが、もうダメ、とのこと。加えて、鈴本では楽屋に半ズボンやジーパンで入るこをを禁じているので、楽屋入り前に近くの地下に降りる階段の踊り場で半ズボンの上に長いズボンを穿いてから楽屋入りする手間も嫌になったようだ。そして、今年「蚊」がいないのは暑さのせいかもしれないと新説(?)を披露。ありえるかもしれない。
 九分ほどのマクラから本編へ。八五郎がとにかく元気だ。ややスローペースの熊との対照でメリハリをつける。“行き倒れ”現場をなぜか仕切っている浅草の住人と思しき男と八、熊との会話で、落語の世界が描き出す“不条理”の可笑しさを短時間で描いてみせた。こういう高座を、ろべえは脇でしっかり見なくてはならないと思う。
 会場運営で一つ小言を言いたい。開口一番の時の途中入場を会場の方が誘導するのは、まだ許せる。しかし、喜多八の高座の途中では、勘弁願いたい。中盤あたりでも、前の方の席にお客さんを誘導したが、一席終えるまでは誘導すべきではないだろう。客も後ろで立って見ているマナーを心掛けて欲しいものだ。

柳家喜多八『青菜』 (19:45-20:15)
 一度下がって、再登場。一席目は、鈴本でも久し振りに演じてきたばかりだが、こっちのほうが間違いなく出来は良かったと、会場へのリップサービス(?)。マクラは2分そこそこで本編へ。
 ちょっと、一席目の八五郎の勢いのある口調を植木屋がひきづったような印象。お店の旦那の悠長な仕草や語り口との対比を出したかったのかもしれないが、ややリズムが悪く、少し忙しげな噺になってしまった印象。しかし、会場は“喜多八ファンの集い”的なお客さんで一杯なので、ドッカンドッカンを沸く。噺の筋そのもので大きな声で笑ってくれるお客様も多く、反応は良かったが、私は枝雀や権太楼とどうしても比べてしまい、あまり評価はできない。加えて、細かいことだが、植木屋と旦那の会話で、「奥様は“懲役”がある」「それを言うなら“教育”」というクスグリが本来あるのだが、たぶん言い間違えたのだと思うが、植木屋が直接「教育がある」と言ってしまったところなども気になった。後半はリズムも回復してきて、植木屋が女房にお店の奥さんのような隠し言葉を使って「長屋の淀君と呼ばれてみろぃ!」などという科白や、湯の帰りに植木屋にやってきた建具職人(大工ではなかったなぁ)の熊が、植木屋が旦那の口調を真似て何度も、「時に、植木屋さん」と聞くものだから終いに諦めて「時に」「そうだよ、俺は植木屋だよ!」と返すあたりはなかなか可笑しかったので、前半のノリの悪さが残念。
 サービス精神は大いに買うのだが、二席連続して演じるのは、なかなか難しいものだ、と思った高座。

鏡味初音 太神楽 (20:30-20:50)
 初めてである。後で調べると、芸術協会所属で、鏡味八千代・初音として、ボンボンブラザースの鏡味繁二郎、勇二郎をそれぞれ師匠にもつ女性二人でコンビを組んでいる一人のようだ。口調は、何とも言えない“ユルユル”キャラ。この後に喜多八が「地、なんでしょうね?!」と言っていたが、どこまでが演技でどこまで地なのかは分からない。意外にとんでもない演技力の持ち主なのかもしれない^^
 入門から6年目のようで、失敗しそうな危なっかしさもあり会場を緊張させるのだが、途中に挟むゆったりとして語りで緩和してくれる。枝雀の「緊張と緩和」理論じゃないが、その微妙なバランスは、これまでの太神楽にはなかった感覚。あのボンボンブラザースの門下であり、今後どのような舞台を見せるのか、楽しみである。芸協が層の厚さを誇る色物陣営に、将来が楽しみな若い力が加わったと言っても良いのだろう。

柳家喜多八『怪談 乳房榎~おきせ口説き~』 (20:51-21:27)
 少しだけ鏡味初音のことにふれてから、この噺の短いマクラへ。子供の頃、高田馬場近くに住んでいて、お婆さんが雑司ヶ谷にいたので遊びに行く時、面影橋の近くにある南蔵院の近くを通るのだが、怪談の舞台ということで怖かった、と回想。そして、「美人は三日たつと飽きる。そうじゃない方は、三日たつと馴れる」で会場爆笑。

 さて、この噺は、「怪談牡丹灯籠」、「真景累ケ淵」と並ぶ三遊亭円朝の代表的な怪談噺の一つ。
 一年余り前に紹介した森まゆみ著『円朝ざんまい』では、第九章で「高田・新宿十二社・板橋」を舞台とする噺として紹介されている。
森まゆみ著『円朝ざんまい』(文春文庫)
2011年7月19日のブログ 
 この本で、物語の中心となる夫婦、菱川重信そして妻おきせ、その子どもについて次のように書かれている。

 お武家上りの絵師というわけで、三十七歳、美男ではないがなんとなく上品、すまいは柳島、土佐狩野はいうに及ばず、応挙、光琳の風をよくのみこんで、浮世絵の方では師宣、長春を見破って、大変生き生きとした絵を描く。この御家内のおきせがまたすこぶる美婦で、年は二十四だが、器量が好いせいか二十歳くらいにしか見えません、といわれると、女は年かァ、とぼやきたくなるが、十七、十八番茶も出花、二十すぎればうば桜、二十四、五ともなれば大年増という江戸時代の話である。人生は短く、人びとは前だおしに生きていた。役者の瀬川路考に似ているというので、柳島路考とよぶ。この路考は文化七年(1810)まで生きた三代目瀬川菊之丞のことだろうか。若女房をやらせたら江戸随一といわれた色女形である。
 むつまじい夫婦は何不自由のない暮らし、そのうちおきせが「酸っぱいものが喰べたい」。この一言で懐妊になりなすったとわかり、一子が生まれる。重信先生ころころ喜ばれました。付けた名前が間与島真与太郎というのがヘンテコだけど。


 おきせの美貌について、喜多八は何度も“三十二相”の美人、と表現していた。本来は仏(像)の表情を表わす用語だが、転じて“どこから見てもいい女”、というような意味もある。この幸せいっぱいの家族、真与太郎が生まれて二か月後の三月、向島の桜を見に、下女や下男を連れて出かけるのだった。そこは、この家族に不幸をもたす人物たちとの遭遇の場であった。
 重信に弟子入りする磯貝浪江という男と浪江を重信に紹介する竹六について、『円朝ざんまい』から『円朝全集』の引用を含めて、少し紹介。

 そこに来たのが浅草田原町に住む地紙折りの竹六。扇の地紙をしょっては、花見なんぞの場所に店をひろげ、即席に画や書を書いてはその場で折って骨をさして売る。古川柳の世界では、もっぱら蔭間(男娼)上り、男色をひさぎ、にやけた道楽者の代名詞、と角川版円朝全集の注にいう。
 大道芸みたいだが、それは手際よそうで。この手際という言葉も美しい。私は中国三峡下りの船中、客の名を使った五言絶句をその場でつくり、山水画をさらさらと描くのを見たことがある。杭州の岳飛廟では扇子に金泥で七言律詩をしたためていた。これもじつにお手際であった。
 話に戻ると、茶店のやりとりを聞いていた男がいた。

  年の頃は二十八九位で鼻筋の通った、色の浅黒い、痩ぎすなお人で、此の頃は流行りましたとか
  申します五分月代といふ奴で、小髷に結って少し刷毛を反らしたといふ、斜子(ななこ)んどの
  紋附に、御納戸献上の帯短い大小をさしました・・・・・・

と例によって髪型、こしらえの描写は微に入り細に入る。これが本所撞木橋、までいうと墨田区江東橋一~三丁目付近、堅川と大横川が交わる地点にかかる橋あたりに住いせる浪人磯貝浪江、谷出羽守様に百五十石頂戴した侍のなれの果て、この人が、重信を見かけて、絵の弟子になりたいという。


 竹六は重信の家にも出入りをしていて、絵を希望する客と重信との間をとりもつようなことも生業の一つとしていた。喜多八も、竹六が重信を見かけて挨拶し、誰かに頼まれていた絵が描けたか尋ねる場面を演じていた。磯貝浪江は、その会話を聞いており、重信と顔見知りの竹六に弟子入りの仲介を頼むのである。そして、無事浪江は弟子入りすることができたのだった。その後、重信とおきせ夫婦に不幸が訪れるのであるが、この噺は喜多八が演じた前半の「おきせ口説き」と、後半の「重信殺し」に分かれる。ただし、噺の筋書は、重信が死んだ後にも、やや肩透かし的なハッピーエンドな内容があって、最後まで知らないと、「なんで『乳房榎』なの?」と題名の由来がまったく分からないことになる。
 生の高座で前回『乳房榎』を聴いたのがいつだったのか調べたら、なんとブログを始める前、2007年7月11日の月例三三だった。内幸町ホールでの開催で、その時がこの会に行った最初だった。他に二席『酢豆腐』と『厩火事』もあったのだが、三三は上・下とも演じたはず・・・・・・。あるいは、「おきせ口説き」を簡略化して「重信殺し」を中心に演じたのだったかもしれない。当時は簡単なメモしか書いていなかったので、その日の手帳の殴り書きを解読しながら、日々消えゆく脳細胞に喝を入れつつ少しづつ思い出してみるに、やや粗っぽさもあったが、なかなかの高座だったはず。(こういうことだったので、ブログを書き始めたとも言えるのだなぁ)
 今月イイノホールで開催された同会でも、三三はこの噺(上&下)を披露しているようだ。まぁ、旬のネタでもある。
 喜多八と三三を比べると、数年前の記憶の中の三三の方に分があると言わざるを得ない。喜多八の侍役はニンで、磯貝浪江も、なかなかのものだったが、非常にジェントルな人物に描かれていて、それほど怖くないのだ。加えて、この噺に限らず円朝の怪談噺は“地”の解説部分も多く重要なのだが、その地の部分が、立て板に水、とは行かなかった。ところどころ言葉を思い出しながらとも思える若干の間を挟みながらの進行。この地の部分をトントンと進めないと、肝腎の登場人物の会話や修羅場などが生きない。

プログラムの裏面に落語作家の本田久作が、次のように書いていた。

昭和の女優たちは「必然性があれば脱ぐ」と言ったが、平成の喜多八は必然性がなくても乳房を出す・・・・・・はずはないが、それに近い匂いなら存分に嗅げることは受け合える。何故なら怪談噺とされている『乳房榎』も喜多八の手にかかると人情噺になるからだ。人情の「人」とは言うまでもなく男と女のことで、その男女が「情」を通じる「噺」だから人情噺である。


 しかし、その“人情噺”の重要な場面が不完全だった印象。終演後の居残り分科会会場(?)へ向かう道すがら、かつてはさぞかし、おきせに劣らぬ“三十二相”美人であったであろうIさんと落語会を振り返りながら見解がほぼ一致したのだが、磯貝浪江が、師匠である菱山重信が南蔵院の天井画を描くために柳島の家を留守にしてる隙に、真与太郎を殺すと脅して、おきせの貞操を奪おうとする肝腎な場面、喜多八には“照れ”があったように思う。「ここでシーンとされても困る」と言うのだが、実はそれ程多くのお客さんをあの場面に吸い込んでいたようには思えなかった。それは、実は会場側にも責任があって、チラシをめくる音を立てる人やら、途中で携帯を鳴らす人もいたのだ。私の席の近くには、熱演中なのにガサガサとアンケートを書いていたバカがいた。一期一会の高座とは、噺家と客席が一体にならないと生まれない。
 また、この噺は「上」だけというのは、ちとつらい。ぜひ、上下通しで、喜多八の『人情噺 乳房榎』を再認識させる高座に、近い将来出会いたいと思う。

 
 全体的には楽しかった“喜多八愛好者”の会の後は、「居残り分科会」だ。なぜ「分科」かと言うと、この会の設立メンバー(?)である三人のうちの一人Yさんが参加できなかったため。しかし、この分科会、美女四名に男はリーダーSさんと私の二人という“ダブルスコア”状態。あの、かつて志ん朝も行ったことのある東銀座のあるお店で、飛び切りの肴に舌鼓を打ちながら、人生の先輩達と落語を初めとする楽しい会話はも大いに盛り上がるのだった。
 女性カルテットは、俳句や落語、能や狂言という趣味でつながっている人たちで、若かりし日(今でも、お若いですが^^)、しっかり第一線で働いてきた方々。中には、現在落語会の主催者側の方もいらっしゃる。とにかく、皆さん元気だ。よく食べられるし、話すし、前向きというかパワフル。これからの日本、実は強いベテランの女性陣が世の中を引っ張る時代になるような、そんな思いを抱くうちに、“処暑”の一夜は過ぎて行った。ついつい時のたつをの忘れ、日付変更線は電車の中で越えてしまったが、何とか終電で帰宅することができたのだった。
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by kogotokoubei | 2012-08-24 20:57 | 落語会 | Comments(10)
盆休み前半を、越後長岡の連れ合いの実家で過ごした際、テレビでこの落語会の広告を見た。その木戸銭の高さには驚いた。

 今週末8月25日の土曜、「六代 桂文枝」は、新潟の1500席を誇る(?)大ホールで襲名披露興行をするらしい。
 会場であり、地元テレビ局とこの会を共催する新潟テルサのサイトから、イベントの概要を抜粋。「新潟テルサ」サイトの該当ページ

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三枝改メ 六代桂文枝襲名披露公演

【出演】 桂文枝   林家正蔵 桂きん枝 桂小枝 桂三風 桂文華

日付 2012年8月25日(土)14:00~

料金 全席指定 S席¥5,000 A席¥4,500
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 ちなみに、この会場は新潟市の繁華街にあるのではなく、新潟駅からバスで15分ほどの鳥屋野潟公園エリアにある。サッカー場などもある一帯だ。

 果たしてこの木戸銭で、1500席の会場は、どの程度埋まるのだろうか・・・・・・。

 そして、この落語会に行ったお客さんは、どんな思いで残暑厳しい週末の夕暮れの中、帰っていくのだろうか。

 なかなか落語会のない地域で、テレビで名前だけは売れている噺家の襲名披露公演。夏休みの終盤、もしかすると子供連れで大枚をはたいて行く家族連れのお客さんもいるのだろう。なかには、これが初の落語会という人も含まれているかもしれない。果たした、初落語体験の大人や子供のお客さんは、この落語会で「落語ファン」になるのかどうか・・・・・・。

 「新潟テルサ」のサイトには、大ホールの特徴が次のように記されている。

特徴:
ウィーンのムジークフエラインザール大ホールを念頭に入れ設計されました。
1,510席のワンスローププロセミアム形式のものであり、全国的にも余り例がなく、クラシックからポピュラー、演劇、大会などにも利用できるよう、残響可変装置を備えております。
オーケストラピット有り。



 S席5,000円、A席4,500円が、この立派な会場にふさわしいコンサートやオペラなどなら、決して高い木戸銭ではないかもしれない。しかし、あえて言うが「たかが、落語会」である。

 ちなみに、客演に売れっ子の名が並んだ9月12日の国立劇場は、一階席が8,000円、二階・三階席は6,500円。
「キョードー東京」サイトの該当ページ


三枝改メ 六代 桂 文枝 襲名披露公演

2012.9月12日(水)
桂文枝
春風亭小朝 笑福亭鶴瓶 春風亭昇太 立川談春
桂きん枝 桂文珍


国立劇場 大劇場

1階席 ¥8,000
2・3階席 ¥6,500



 国立劇場に出向く人は、他の落語会や寄席がある中で選ぶわけなので、新潟のお客さんとは、選択肢の多さが比較にならない。越後の人は、「滅多にない落語会だ、少し高いけど・・・行こう!」ということだろう。

 新潟の会について、誤解のないように補足。

  客演の方々には、何の恨みもありません!
  しかし、これだけの人数が必要なのかは疑問。
 
  木戸銭が、S席3,500円、A席3,000円なら、こんな小言は書いていません。


 しかし、ネットで調べてみると、この会場での落語会、この木戸銭が“相場”のようだなぁ。
 
 昨年3月の歌丸・小朝二人会が同じ金額。昨年10月、歌丸の芸歴六十周年記念を「笑点」メンバー三人(小遊三、好楽、たい平)で固めた落語会は、S席にお土産(湯呑、手ぬぐい、扇子)付で7,000円、A席は4,500円だったようだ。

 出演者のギャラや交通費、会場費用、チラシやチケットの印刷費、広告費用、その他諸経費。そして、予想売上から経費を引いた粗利の設定。その中のどれが、木戸銭の設定に大きな要因になっているのか、詳しく知る由もない。しかし、私は、明らかに「高い」と思う。

 実際に行かれた方は、いったいどのような感想を抱かれるのだろう。滅多にない落語会、ある意味で“ハレ”の日のちょっとした贅沢、ということで納得されているのだろうか。それとも、「高い!」と思いながらも「仕方がない」とあきらめているのか。

 今日から発売された10月の「朝日名人会」4,300円の木戸銭が、やたら安く思えてしまった。(でも行かないけど)

 こんなことを書きながら、途中でネットを調べていた。なんと、入船亭扇辰と扇辰後援会のホームぺージである「扇辰日和」に、この落語会の前日24日(金)の夜、同じ新潟市内で、雲助との二人会が予定されているのを発見。
「扇辰日和」のスケジュールのページ
 


24日(金)
18:00開場
18:30開演

新潟卸センター
納涼落語会

五街道雲助
「牡丹灯籠 お札はがし」

入船亭扇辰

入船亭辰じん

新潟卸センター
NOCホール 025−273−4181
新潟卸センター事務局 前売り
3,000円

当日
3,500円



 会場は250席ほどのようだ。この会場も新潟駅から車で15分ほど郊外にある場所だが、顔ぶれ、木戸銭、会場の程良い大きさ。この落語会なら、私が地元にいたら何とか野暮用を片付けてでも駆けつけたいではないか。

 地域の落語会もいろいろある。だから、大ホールにテレビの人気者を集めて、法外な(と私が思う)木戸銭を取る会ばかりではないようなのでホッとした。好みは人それぞれだが、私が新潟市に在住していて、この週末に落語会に行くのなら、どちらを選ぶかは明白だ。
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by kogotokoubei | 2012-08-20 20:39 | 幸兵衛の独り言 | Comments(14)
落語とは関係なく、夏の特別版。携帯のカメラでの下手くそな写真で恐縮ながら、我が家のシーズー犬、ミミーとユウのご挨拶。

 越後長岡の連れ合いの実家から16日に一度帰宅し、昨日から清里のペンションに一泊二日で行ってきた。余裕を持って向かったので、チェックインより早く現地に到着。
 この時は晴れており、少し長めの散歩で、ミミー(左、女の子、三歳と四ヶ月)とユウ(右、男の子、来月で二歳)は、ややバテ気味。
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 夕食前後から雨となり、だんだん降りが激しくなった。部屋の私のベッドの上から、窓の外を恨めしそうに見ているミミー(右)とユウ(左)。
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 本日、ペンションを辞す直前の清里の風景。
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 さぁ、夏休みも明日で終了。休み明け、仕事も、もちろん落語も頑張らねば^^
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by kogotokoubei | 2012-08-18 14:35 | 幸兵衛の独り言 | Comments(2)
連れ合いの実家の越後長岡で二人と二匹でゆっくりしていて、ついブログの更新もしないままに過ぎた。近くのお寺の木々には「空蝉」が夏の終わりを告げている。

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正岡子規の句。

淋しさに ころげて見るや 蝉の殻

 明治25年の句。三年前に喀血し、この年の秋には帝大を退学して、12月には陸羯南の新聞『日本』に入社している。大学を辞めようと悩む晩夏のある日、ころげて見上げる庭の木に空蝉を見つけての発句なのだろう。

「デジタル大辞泉」では、「空蝉」について次のように解説していた。
デジタル大辞泉「空蝉」

《「うつしおみ」が「うつそみ」を経て音変化したもの》
1 この世に現に生きている人。転じて、この世。うつしみ。「いにしへもしかにあれこそ—も妻を争ふらしき」〈万・一三〉
2 《「空蝉」「虚蝉」などの字を当てたところから》蝉の抜け殻。また、蝉。《季 夏》「—を妹が手にせり欲しと思ふ/誓子」「—の身をかへてける木(こ)のもとになほ人がらのなつかしきかな」〈源・空蝉〉



 そう言えば、源氏物語が書かれてから千年、と言われる四年前2008年、柳家喬太郎が、「空蝉」を現代を舞台に移し替えて演じたことを思い出した。生の高座は聞いていないが、ある落語愛好家の方のブログでは、なかなかの作品であったと書いていた記憶がある。

 脱皮後、蝉にとっての七日間は、決して短くも長くもない“寿命”であるように、人間も与えられた日々を精一杯に生きる、ということなのだろう。

 3.11やフクシマを経て、今年も何とか夏を越し、古い殻を脱ぎ捨てて、あらたな日々が始まる。蝉の抜け殻を見て、そんな思いがしていた。そして、国のリーダーを含む日本人それぞれが、過去からの古い殻を脱がずには、新たな日本の将来を描きようがないのではないか、そんなことを残暑きびしい越後の空蝉を見て感じていた。
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by kogotokoubei | 2012-08-16 10:18 | 幸兵衛の独り言 | Comments(2)
また、今年も三遊亭円朝の命日8月11日がやってきた。今回は、円朝と地震をテーマに何か書いてみようと思う。

 昨年の大震災、そしてフクシマ以降、地震や原発関連の本を読む機会が増えたが、最近になってようやく、古書店で入手した石橋克彦著『大地動乱の時代-地震学者は警告する-』(岩波新書)を読んだ。1994年の発行。阪神淡路大震災の前年だ。

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石橋克彦著『大地動乱の時代-地震学者は警告する-』(岩波新書)

 まず、安政の大地震について同書から紹介したい。
 安政二年(1855年)に江戸で大地震があったのだが、この地震は前年の安政東海、安政南海に続くものだった。その頃は、ペリーに続いて、あの大国が日本に開国を迫る、政治的にも大きな変動期を迎えていた。

もう一つの黒船
 ペリーと相前後して日本に開国を働きかけ、数奇な体験を重ねた異国船とその指揮官がいる。帝政ロシアの提督プチャーチンは、嘉永六年七月、ペリーに遅れてはならじと四隻の艦隊で長崎に来航し、年末になって、江戸から派遣された筒井政憲、川路聖謨(かわじとしあきら)らの全権団と国境・通商の協議を始めた。
 日本側の首席は筒井だが、七十六歳の老人であり、重責が川路にかかっていた。彼は御家人から異例の出世をした俊才で、洋学者との交わりも広く、剣は柳生新陰流の免許皆伝である。このとき勘定奉行・海防掛で五十三歳、ロシア側からも知性と人柄を敬愛された。
 川路は強硬な姿勢をとり、プチャーチンも平和交渉を重んじたから、条約締結は目的を果たさず、通商を許す場合はロシアを最初にするという約束を取りつけただけで、嘉永七年正月にいったんは長崎を退去する。
 ところが、ペリーの脅しに屈した江戸幕府は、日米条約を先に結んでしまう。また、当時ロシアはトルコと戦っていたが、日米条約調印の三日前に英・仏もロシアに宣戦してクリミア戦争となり、ロシアの船は極東の海で英・仏艦隊に追われる身となった。


 地震の本から、これだけ歴史を学ぶこともできるのである。さて、この後プチャーチンは、この年(嘉永七年、1854年、その後改易されて安政元年)の九月に、2000トンのフリゲート艦ディアナ号に乗って、突如として大阪湾に姿を現し、幕府の指示により十月十五日に下田湾に投錨。江戸から急行した川路と十一月一日(陽暦十二月二十日)、福泉寺で会見した。
 川路は相変わらず強硬姿勢を崩さず、十一月五日に再度交渉することになっていた。さて、その頃、政治のみならず、日本列島の地下でも大きな動乱の兆しがあった。

安政東海地震
 十一月四日(陽暦十二月二十三日)は風もおさまり、朝から美しく晴れ上がった。伊豆半島西岸の山からは、穏やかな駿河湾のかなたに、真白な富士山がくっきりと望まれる。村人は朝から山仕事に忙しい。
 下田の泰平寺では、書き物などをして徹夜した川路が、夜明けごろ少し横になったあとで、遅い朝食をとっていた。湾内のディアナ号では、より安全な場所に停泊位置を変える作業がおこなわれている。
 そのころ、東海地方の大地の底では、暗黒の岩盤のなかにピチピチと割れ目が発生しつつあった。それは人間には気がつかれない微小なものだったが、やがて無数の割れ目がつながりあい、増殖するうちに、地面はかすかに安定を失いはじめた。
 午前十時ちかく、ついに割れ目の成長は爆発的になった。、斧を入れられた巨木がおのずから激しく裂けていくように、恐るべきスピードで亀裂が拡大し、駿河湾から遠州灘、熊野灘におよぶ広大な地下に巨大な裂け目ができてゆく。太平洋の海底の圧迫に一四七年間耐えてきた東海地方の大地は、いま緊縛を解き放たれ、巨大な亀裂にそって激しい身震いを始めた。
 M八.四といわれる「安政東海地震」の始まりである。
 (中 略)
下田
 ディアナ号はとつぜん浅瀬に乗り上げたような衝撃を感じ、激しく振動した。しかし、急いで測深してみると水深は十数メートルあり、振動も二分くらいで止んだ。これは、海底の地震動が海水を伝わって真上の船を揺らす「海震」という現象である。
 ところが、それから十五~二十分して、沖合から大波が押し寄せてきた。海面はみるみる膨れ上がり、ディアナ号からは、下田の町が泡立ちながら急速に沈んでいくように見えた。その中で大小の船が翻弄され、山のほうへ押し上げられてゆく。
 食事中の川路は、生まれて初めての激しい揺れに箸を置いた。壁に亀裂が走りはじめるのを見て這うように外へ出ると、寺の石塔などがみな倒れている。間もなく、津波が来たと町中が大騒ぎになり、川路も家来たちも近くの山に向かって逃げた。振り返ると、浪に崩れる人家の土煙がもうもうと立つなかを、大船が飛ぶように迫ってくる。全員、道のない絶壁を夢中でよじ登った。


 まるで、昨年3.11のような光景が目に浮かぶ。

 下田の町は完全に消え失せ、家や船の残骸が散乱する浜辺と化した。当時の記録によると、八百四十一軒が流出全潰、三十軒が半潰水入、無事なのは四軒だけ、土蔵は、百八十八棟のうち百七十三棟が流出、残りは半潰れ水入で、百二十二人が死亡したという。
 自分の艦が大破しているなかで、プチャーチンは夕方外科医や通訳らとともの上陸して見舞を述べ、医療活動を申し出た。日本側は謝絶したが、助けられた人々はロシア人を神様のように拝んだ。


 下が「安政東海地震」の震度分布図である。被害の概要なども、Wikipediaをご参照のほどを。(Wikipediaより)Wikipedia「安政東海地震」
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 この後にすぐ、追い討ちをかけるように起こったのが、「安政南海地震」である。

安政南海地震
 東海地方の地底の巨大な亀裂は熊野灘付近で止まっていたが、その西側の岩盤もきわめて不安定な状態にあった。ちょうど、増水した激流を辛うじて支えていた堤防が一ヵ所で切れると、その隣もいつ崩れるかわからないのに似ている。
 最初の巨大地震から約三十時間後、十一月五日(陽暦十二月二十四日)の夕暮れどき、ついに紀伊水道沖から足摺岬沖までの海底でも巨大な岩石破壊が発生した。M八.四とされる「安政南海地震」である。


 「安政南海地震」も、広い範囲で最大深度七の大地震であった。Wikipedia「安政南海地震」
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 安政の大地震は、東海、南海で終わってはくれなかった。日本列島の大地は翌安政二年にも動乱を続けた。

前兆
 朝晩の肌寒さが身に沁みるようになった安政二年十月二日(陽暦十一月十一日)。
 江戸は、はっきりしない空模様だった。黄ばみはじめた銀杏の葉を時雨が濡らしたかと思うと、薄日が顔をのぞかせたりもした。
 この日の昼ごろ、深川辺で井戸を掘っていると、地の底がしきりに鳴った。職人は気味が悪くなり、仕事をやめて帰ってしまった。利根川岸の布川(ふかわ、茨城県北相馬郡利根町)でも井戸の中が鳴動した。
 (中 略)

発震
 江戸直下の岩盤が、ついに大破壊をおこした。
 世にいう「安政の大地震」、または「安政江戸地震」、M六.九。最悪の江戸直下型大地震の発生である。
 「源氏店」の蝙蝠安で大当たりをとった三代目中村仲蔵(当時鶴蔵)は、そのとき南本所尾上河岸の中村屋(現在の首都高速両国インター北詰付近)の二階にいた。芝居がはねたあと、娘たちの踊りの会を見てくれと頼まれたのである。全部終わって四ツ(午後十時)の鐘が鳴り出したのを聞いているうちに、突如、地の底からドドドッと激しい衝撃が突き上げてきた。
 キャツと悲鳴をあげる女たちを鎮めて立ち上がるうちに、いっそう強い横揺れが始まった。仲蔵は、階下へ降りるのは危ないと考えて屋根へ出ようとするが、足を取られて歩けない。
 中村屋は隅田川べりの風流な料理茶屋で、尺角(断面が約三十センチ四方の角材)の太い柱を立てた大きな建物だったというが、古い造りで、やがて倒壊する。仲蔵は、畳の落ちた穴にはまって敷居で肋骨を強く打ち、落ちてきた鴨居で頭を打たれた。しかし、運よく天井を破って、なんとか屋根へ出ることができた。まわりを見渡すと、東側の相生通りは早くも火が出て盛んに燃えており、南方の深川森下はいま燃え上がったところだった。
 幸い中村屋は出火しなかった。仲蔵自伝の『手前味噌』によると、彼の誘導で、会主の女師匠はじめ二十五、六人が屋根へ這い出してきた。死者のことは書かれていない。しかし、彼女たち十九人ほどが即死したという伝聞や、「打どめに階子(はしご)のおどる中むらや」という狂句もあり、何人かの犠牲者がでたのかもしれない。


 ふたたびWikipdiaからの引用。Wikipedia「安政の大地震」
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 ここからは小島政ニ郎の『円朝』から、この地震の描写を紹介したい。

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小島政二郎著『円朝』(河出文庫)

 円朝は、文字通り売れっ子になった。
 そうなると、方々の寄席から彼を買いに来た。現に、吹抜亭では、
「若師匠、このまま来月一ト月打ち通して見ちゃ、どうでしょう」
 そういう話を持ち込んで来た。
「そりゃ願ってもないことですが、しかし、一ト月というのがいいところでしょう。いずれ近いうちに、またお宅へ看板を上げさせて頂きますが・・・・・」
 正直の話、彼としては江戸市中至るところで自分の腕をためして見たい気が強かった。
 中には、
「是非家へ出て下さいよ。木戸銭は、お望み通り上げをしてもよござんす」
 金で釣りに掛かって来た席亭もあった。しかし、そういう話はみんな断って、初めから約束のあった神田の川芳亭へ出ることにした。


 円朝は、この年、数え十七歳の若さで真打になり円朝を名乗ったばかり。金よりも仁義を優先して出演した川芳亭で、円朝は“その時”を迎えた。

 円朝の話が、もう終りにはいろうとしていた時、どこからともなくゴーッという地鳴りがしたと思うと、突然下から突き上げるような上下動の地震が襲って来た。

 寄席から時ならぬ悲鳴が起こった。同時に、人々の姿がワヤワヤと入り乱れた。
 けたたましく、戸、障子のはずれる音、壁のくずれ落ちる音、壁土の砂ほこり、瀬戸物の割れる音、八間のあかりが、天井にぶつかる音、人の泣き声、間を置いてはゴーッという地鳴りの音、天地は音の乱暴狼藉と化した。
 それだけでも、恐ろしかった。その上、あかりというあかりが消えて、あたりは一面闇になった不安。安泰なものと思い込んでいた家や大地が激しく揺れ動いて、たよりにならなくなった恐れ。
 現に、円朝の坐っている左右にともっていた百目蝋燭が、ひとッたまりもなく倒れて消えた。火鉢とその上の鉄瓶が、どこかへ消し飛んで行った。
 うしろの、四枚はまっていた欅の扉が四枚ともはずれて、彼の上へ一時に倒れ掛かって来た。
 高座ごと、ドスンと揺り上げられて、ドスンと揺り落とされた。それだけで、高座はヘタヘタとなってしまった。あとはグラグラと左右に大幅にゆすぶられて、それがいつやむとも思えなかった。天井が頭の上へ落ちて来たのも、円朝は夢中で知らなかった。


 小島政二郎は、必死に外へ飛び出した円朝が、そこで運命的な出会いをする筋書きにした。石橋克彦は中村仲蔵の自伝『手前味噌』から事実に近い描写をしたと思えるが、小島の説は、あくまで創作であろう。『手前味噌』を読んで、仲蔵を円朝に置き換えることを着想したことも、大いにありえることだろう。

 振り返ると、川芳亭は、人間が膝を突いたような恰好で前へ倒れていた。見ると、そこに何か動いているものがあった。
 よく見ると、人間らしかった。何か叫んでいる。近くへ寄って見ると、若い女だった。片方の足を軒桁にはさまれて、立つことも出来ず、地面に倒れたまま、もがいていた。
 円朝は駈け寄って、軒桁を持ち上げようとしたが、ビクとも動かなかった。梃子八人力という言葉を思い出して、手ごろの材木を探し出すと、それを軒桁にかって肩を入れた。
 そこへ二三人加勢が現われて、材木が二本になり、どうやらジリジリと二三寸動いた。
「どう?抜けませんか」
  だれかが聞いた。
「抜けましたわ、抜けましたわ」
 うれしそうに女が叫ぶように云った。それを聞くと、加勢の人たちは、なんにも云わずにプイとどこかへ行ってしまった。
 女は立ち上がったが、すぐまたしゃがんでしまった。
「どうかなさいましたか」
 円朝が、のぞき込むようにして聞いた。
「痛くって、立てませんの」
 女は足の付け根を手で押さえて、顔をしかめている風だった。
「そうしていても、ズキズキと痛みますか」
「いいえ、こうしていれば、それほど痛くはございません」
「それじゃ、骨は折れていませんね」
 そう云っている時に、またダ、ダ、ダと大地が揺れて来た。
「あぶない、早くこっちへいらっしゃい」
 彼が手を出すと、女はあわててそれにすがりついて、ビッコ引き引き往来のなかへ出て来た。
「ハハハ、歩けましたね。この分なら、大丈夫だ」
 とりあえず、往来なかに落ちていた竹ッ切れを拾って、杖代りに彼女に持たせて彼は歩き出した。
 (中 略)
「歩けますか」
「だって、歩かなければ仕方がないでしょう」
「さっきから、駕籠をと思って気を付けているんで4すが・・・・・・」
「無理よ、こんな時に・・・・・・。お師匠さんと一緒なら、私、谷中までだって歩けますわ」
「なアんだ、御存じだったんですか」
「当り前でしょう、私、お師匠さんの話を聞きに行ったんですもの」
「そりゃどうも・・・・・・。とんだ災難にお合わせした訳ですね」
「本当よ。でも、お師匠さんに助けて頂いたんだからうらみっこなしだわ」
 会話の間に、見るともなく相手を見ると、女は縮緬ゾッキのいいナリをしていた。着物には、香が焚き込めてあるらしく、奥ゆかしい香が立ち迷っていた。



 さて、安政江戸地震の混乱の中で小島政二郎が円朝との出会いを演出した女性とは、いったい誰なのか。

 下谷に近付くにつれて、人通りが多くなって来た。男も女も、みんな恐怖に目が据わって、火事で焼き出されたのだろう、それぞれ乏しい荷物をしょってトボトボと歩いていた。
「お宅までお送りしましょう。どちらです?」
 広小路までたどり着いた時、円朝はそう云って聞いた。女が何者であるか突き留めたい興味と、早くこの女と別れて小稲が無事かどうか確かめたい気持とに駆り立てられていたのだ。
「そうお。でも、家なんか、つぶれてしまったでしょうね」
 どこか殺気をおびた町の空気とは、およそ縁のないノンビリした調子で彼女は答えた。
 住まいはお徒士町だという。お同朋衆の倉岡元庵の娘で、名をおさとという由を彼女は打ち明けた。
「道理で・・・・・・」
 円朝は初めて合点が行った。お同朋衆は、俵で数えるほど扶持は少いが、お城で諸大名の着物の世話、茶の世話、食事の世話などする役ゆえ、心付けがタンマリもらえる、で、日常生活はおごったものだった。どこかその風がおさとの身に付いていた。


 小稲とは、その頃、円朝が心を奪われつつあった円朝贔屓の芸者である。松井今朝子の『円朝の女』には、吉原芸者の美代次が登場するが、ほぼ同じ役柄といえるだろう。

 そして、おさとこそ、その後に円朝と再会して一人息子朝太郎を生むことになる女性である。ちなみに『円朝の女』では「其ノ三 すれ違う女」に登場するが、小島のように地震を出会いの場とする演出ではなく、円朝贔屓の客として扱われている。もし、小島が安政江戸地震を二人の出会いにしなければ、きっと松井と同じような設定になるだろう。しかし、小島政二郎は、なぜか安政二年の大地震に二人の最初の出会いを設定した。それは、円朝とおさとのその後の関係を暗示させるものとして地震を舞台に使ったようにも思う。円朝とおさとの関係は、最終的には“ひび割れ”が入るから。おさとや朝太郎のことなどは、後日、松井今朝子の『円朝の女』を中心として書きたい。

 安政元年に東海地震と南海地震が続いて大きく揺らいだ日本列島。そして翌年の江戸地震を思うと、昨年3.11で大きく揺らいだこの島国の地下の胎動が、次なる大きなうねりにつながるような気がしてしょうがない。石橋克彦の本を読みながら、安政江戸地震と円朝との関係を描いた小島政二郎の書を思い出したのが、今回の内容を書くきっかけだった。円朝のことより安政地震が主役になったかもしれない。円朝の命日にふさわしかったか否かは、やや自信がない。(オソマツ)
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by kogotokoubei | 2012-08-11 17:49 | 落語家 | Comments(0)
この二人の兄弟会、気にはなっていたが、ようやく三回目に来ることができた。しかし、会場の入りはせいぜい七分程だろうか。もったいないとも思うし、チケットが取りやすいので助かるとも思う、複雑な思いだ。会場には、他の会でもよく見かける方が多く、いわゆる“ご通家”の会ということなのだろう。

この“兄弟”の簡単なプロフィール。

兄:扇遊(扇橋門下総領弟子)
熱海出身。昭和28(1953)年7月5日生まれ。昭和47(1972)年入門、昭和60(1985)年真打昇進。(志ん輔と同期)

弟:扇辰
長岡(越後)出身。昭和39(1964)年2月13日生まれ。平成元(1989)年入門。平成14(2002)年真打昇進。

 ほぼ一回りの年齢差があり、扇遊の下に扇好や扇治など先輩がいるので、扇辰の前座から二ツ目修業時代は、精神的には相当距離があったように察する。しかし。、今日において扇遊の次の実力者という意味では、扇辰の名をあげて異論はなかろう。

次のような構成だった。
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開口一番 入船亭遊一『たがや』
入船亭扇遊 『三井の大黒』
入船亭扇辰 『ねずみ』
(仲入り)
入船亭扇辰 『麻のれん』
入船亭扇遊 『厩火事』
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入船亭遊一『たがや』 (19:00-19:15)
 扇遊への入門が平成11(1999)年なので、今年14年目となる。一之輔、菊六(文菊)に抜かれた二ツ目の一人。根が真面目なのだろうなぁ、この人。一所懸命は分かるのだが、いかんせん滑舌が悪いことに加え細かな言い間違いもあって少し残念な出来。緊張もあったのだろう。このネタの持ち味である主人公のたがや、そして侍とたがやの喧嘩を取り巻く江戸っ子連中の啖呵が聞き取りにくくては、楽しめない。
 この後に大師匠扇橋の最初の師匠桂三木助の十八番が続くので、これまた三木助で有名な大ネタに挑戦した意欲は買うが、まだまだ精神面も含む修練が必要だろう。古典落語の教科書のような師匠についているのだ、頑張ってもらいたい。

入船亭扇遊『三井の大黒』 (19:16-19:54)
 マクラで扇辰について、「ビッグバンドで歌ってます」と少しだけ茶化す。「私はカラオケで歌う位で、それも酒の勢いで、せいぜい一晩に八十六曲程度・・・」「その点、市馬は素面で歌うからえらい」で会場を沸かす。
 「この会も三回目・・・・・・」、と言いながら会場を見回す目は、少しさびしそうに見えたが、その奥には「来られたお客さんは、今日はお得ですよ」と語っているようにも思えた。
 五分のマクラから本編へ。昨年10月に座間で聴いた扇辰のこのネタに感心していたが、この人で聴くのは初めて。結論から言うと、先輩の貫録をマザマザと見せつけた高座、という印象。
2011年10月8日のブログ
 扇辰の時にも書いたが、師匠である扇橋の最初の師匠三代目桂三木助の十八番であり、昭和35年11月東横落語会での生涯最後の高座が、この噺である。釈台を前に置いての一席だったらしい。
 神田橘町に住む棟梁政五郎と主役の“ぽんしゅう”甚五郎、そして政五郎配下の大工の面々(松、竹、梅など)のすべての登場人物が生き生きと描かれていた。そして、上下(カミシモ)の動作に無駄がなく、その語り口の何とも滑らかなこと。聴く側に一切の圧力やストレスを感じさせずに、噺に引き込んでいく力量は並大抵のものではない。江戸の香りを満喫させてくれた。
 三井(越後屋)が、すでに持っている運慶の「恵比寿」に付けられた句「商いは 濡れ手で泡の ひとつかみ、に甚五郎が彫った「大黒」に「護らせたまえ ふたつ神たち 」と下の句をつけてサゲた後、「これから十三年後の噺を扇辰がお聞かせします」と締めて、リレー落語であることが判明。なかなか粋な計らいである。
 「あぁ、こんな先輩の手本があるから、扇辰のこの噺も良くなるはずだ」と思わせた。三木助の音源を聞くと、政五郎がもう少し威厳がある。しかし、それも噺家それぞれの持ち味であろう。見事な本寸法の高座、もちろん、今年のマイベスト十席候補である。 

入船亭扇辰『ねずみ』 (19:55-20:25)
 浪曲師の二代目広沢菊春の得意ネタ「左甚五郎」を、三代目桂三木助が自分の十八番「加賀の千代」と交換した、という逸話のあるネタ。
 マクラなしで本編へ。伊達六十二万石の城下仙台の旅籠「ねずみ屋」の卯之吉がさっそく登場して、「おじさん、お泊りの人?」と旅人の甚五郎に聞く場面で幕が開いた。この人らしい楽しいクスグリがあった。卯之吉の父である卯兵衛や、卯兵衛の幼馴染である生駒屋が、驚いて話す場面で、慌ててたどたどしく話す仕草に対し聞く側か語る「しゃべる時は息を吸わない方がいいよ」の部分。これは、生で聴き、見ないと可笑しさは伝わらないあなぁ。あるいは、私の文章力の非力さのせいでもある。
 もう一つ、特別の演出があった。甚五郎の「福鼠」に対応させようとして「虎屋」が仙台版お抱えの飯田丹下に虎の彫り物を依頼するのだが、丹下役が談志になっていた。終演後の「居残り会」メンバーの四人とも初めての演出だったので、たぶん兄弟会スペシャルだろう、というのが一致した見解^^
 「福鼠」のおかげで「ねずみ屋」は大繁盛し、「二階の二(ふた)間に八十六人」と言ったのは、扇遊のマクラへのお返しの洒落なのかどうかは、不明。

入船亭扇辰『麻のれん』 (20:35-20:57)
 仲入り後の二席目。マクラで、「(甚五郎リレー落語は)扇遊兄貴が企画したんです。私には一切の責任がありません」で笑わせたが、もしかすると『三井の大黒』の方をやりたかったのかなぁ、とも思った。
 鐘の音の擬音から本編へ。この人のこの噺は好きだ。特に、杢市が枝豆を食べる場面は、何度見ても楽しい。扇辰の「食べ物名場面ベストテン」を作るなら、『徂徠豆腐』で冷奴を食べる場面と、杢市の枝豆は確実に入賞(?)するだろう。
*ただし、終演後の「居残り会」で紅一点のIさんから、「枝豆食べる時、あんな音、本当はしないでしょ」とのご指摘あり。それはそうなんですが、演出ということで・・・・・・。
 また、この後で扇遊もマクラで褒めていたが、杢市が蚊に食われるシーンで、口笛のような擬音で蚊が飛んでいる様子を表現するあたりも秀逸。杢市が蚊に食われる仕草なども結構で、旬の噺に満足。

入船亭扇遊『厩火事』 (20:58-21:24)
 下がろうとした扇辰を舞台に引き戻して、二人で並んで頭を下げた。手真似で扇辰に「もういいよ」と合図すると、扇辰「えっ、これだけ?!」と笑いながら下がったが、扇遊が高座につき、「私が扇辰の着物を借りたのではないことを証明するため呼びました」で大爆笑。そうなのだ、ほとんど同じ色合い(淡黄色?)の着物と黒紋付きの羽織、帯の柄までそっくり。「私たちはいい加減ですから、着物の柄なぞ事前に確認しませんので」とのこと。う~ん、四回目以降があるのなら、少しは事前調整が必要かな^^
 すでに書いたように、扇辰が『麻のれん』の中で杢市が演じた、蚊の飛ぶ擬音を褒めた。「あれも歌が上手いからできるんでしょうねぇ、私じゃああはできない」と謙遜謙遜^^
 長屋噺で夫婦が登場するネタになると、この人は他の追随を許さない、そんな印象。『夢の酒』『佃祭り』なども十八番に入っているはず。お崎さんが先輩の髪結から頼まれた仕事先で、娘の髪はすぐ出来たけど、芝居に行くという母親が癖っ毛、というのは、文楽では逆なのだが、まぁどちらでも噺の本筋には影響しない。
 全体を通して、お埼さん、彼女の相談相手の旦那、年の若いお埼さんの亭主のそれぞれが見事に演じ分けられており、江戸の長屋が舞台に現れた。定席の寄席で鍛えられた高座には、貫録を感じた。


 二人とも、師匠扇橋の近況などは、これっぽっちも話さなかったなぁ。昭和6年5月生まれの81歳。この夏をどう暮らしているのやら。

 あえて付け加えるが、扇辰の『三井の大黒』も私は好きだ。ネタに限らず、扇遊と扇辰それぞれの特徴(型?)をあげるならば、次のよう言えるのではなかろうか。

扇遊 
   噺の流れに主眼を置く。滑らかな語り口と心地よいリズムが持ち味。
   客を威圧しない柔らかさが際立っている。“洗練”という言葉がふさわしい。
   日本酒に譬えるなら、すっきり系の純米吟醸酒。
   
扇辰 
   登場人物の描き方に主眼。噺の流れも重要視するが、あくまで“人”を立てる。
   表情や仕草などで緩急をつけた演出が秀逸。“活写”という言葉を想起させる。
   日本酒なら、少し尖った生原酒、とでも言えようか。

 ややこじつけ的ではあるが、このあたりが好みの分かれるところではなかろうか。流れるような語り口が好みの人は扇遊派だろうし、少し尖った人物描写に重きを置く人は扇辰派。しかし、どちらも結構、という(私のような)人もいるはず。

 前半は桂三木助の十八番であった甚五郎噺のリレーだったが、扇橋が三木助門下にいた期間は、実は決して長くはない。落語協会のサイトの扇橋のプロフィールから引用する。
落語協会サイトの該当ページ

1957(昭和32)年12月 三代目桂三木助に入門
1958(昭和33)年05月 初高座 前座名「木久八」
1961(昭和36)年01月 三木助没後、五代目柳家小さん門下へ
1961(昭和36)年05月 二ツ目昇進 「柳家さん八」と改名
1970(昭和45)年03月 真打昇進 九代目「入船亭扇橋」を襲名


 昭和32年師走の入門で初高座は翌33年の5月である。三木助は昭和36年の1月16日に亡くなっているので、実質的な弟子としての期間は、ほぼ三年なのだ。しかし、相当濃密な三年だったであろうし、五代目小さん門下となってからも、小さんが大親友の三木助の得意ネタを扇橋に継承して欲しかった、という背景もあるのだろう。
 扇橋の演目そして、その弟子たちのレパートリーには三木助の十八番が並ぶ。こういった伝統、継承こそが落語を今の時代に息づかせているのだと思う。


 さて、終演後はレギュラー三人に美人のお姐さんが加わった拡大版「居残り会」。扇遊と扇辰の高座のことはもちろん、最近それぞれが出向いた落語会のことや今後の予定など楽しい会話は巡る。そして、リーダーSさんのちょっとした最近のエピソードなども肴に、二合徳利がリズミカルに(?)空いていく。秋に真打に昇進する二人については、果たして師匠が披露興行に出ることができるのか、という話題になった。円菊、志ん橋、最近寄席でも見かけないので、少し心配だ。
 最初から帰宅は男子サッカー準決勝開始時間に間に合えば御の字と思っていたので、確信犯で日付変更線を越えての帰還だった。女子卓球の準優勝は、立派なものだ。サッカーは・・・・・・メキシコに44年前の敵を討たれたが、銅メダルを目指してもらおう。もうじき四年に一度のオリンピックもお開き。立秋が過ぎ、少しは秋らしくなってきた外の空気を時おり吸いながら、ようやく昨夜の会について書き終えることができた。さぁ、今夜は女子のレスリングだ。みんな、悔いのない戦いを期待してるよ!
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by kogotokoubei | 2012-08-08 20:26 | 落語会 | Comments(6)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛