噺の話

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落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。

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この会には三度目。しかし、最初が2010年5月22日の第372回、二回目が2010年10月30日の第378回なので、去年は行っていない。それは、私の“うっかり”もあるが、多分に一之輔人気によってチケットが取りにくかったことが影響していたと思う。

 今月は平日は計算できなかったため、土曜三連続の落語会。一之輔が卒業(?)しても、なかなかの顔ぶれで木戸銭(1,800円)も手頃、「満員御礼」である。
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構成は次の通り。
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開口一番 古今亭きょう介 『子ほめ』
川柳つくし 『健康診断に行こう』
古今亭志ん丸『野ざらし』
カンカラ  時代劇コント
古今亭菊志ん『九州吹き戻し』
(仲入り)
柳家さん喬 『抜け雀』
鏡味正二郎  曲芸
春風亭百栄 『マザコン調べ』
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古今亭きょう介『子ほめ』 (13:00-13:15)
 今年2月、座間の落語会以来。あの日は何と言っても今松の『子別れ』(通し)が良かった。
 さて、この人は志ん橋門下の四年目の前座さん。正直なところ前回からの差が分からなかった。顔色がいいように思えないし、中途半端に髪がボサボサ。床屋に行く金もないのかなぁ。噺よりもそんなことが気になった。

川柳つくし『健康診断に行こう』 (13:16-13:31)
 袴姿で登場。マクラで右足を少し痛めていると弁解があったが、高座では気にならなかった。末広亭で聴いたこともあるし、かつて“ぽっどきゃすてぃんぐ落語”(ニフティ)でも聴いていて、悪い印象はない。1997年3月の入門、16年目だ。一之輔に抜かれた二ツ目の仲では香盤の上でもっとも上。小三治改革の前の年功エスカレーター方式なら、昨年真打になっていたはずの人だ。
 新作。病院嫌いの母親をなんとか健康診断に生かせようとする娘と父とのドタバタなのだが、どうしても感想は小言になる。あえて言うならトリの百栄の新作と比較して、そのネタ本来の作り込みの浅さもあるし、同じような高い声の調子で父母娘と描き分けきれていない技量の問題もある。
 師匠川柳を支える弟子としては、なかなかの人なのだろうと思うのだが、もう少し新作を練って欲しい。あるいは、いっそ古典でも十八番をつくるべきなのではないだろうか。古典ができてこそ、新作に味が出るだろうし、師匠も初めから「ガーコン」ではなかった。もし、すでに古典も手がけているのなら、ごめんなさい、とあやまります。

古今亭志ん丸『野ざらし』 (13:32-13:51)
 この人の見た目と声は、特長がある。尖った感じの顔の表情、そして同じく尖った声。
 志ん太時代から気にはしていたが、今日もなかなかの高座だった。長屋の八っぁんの隣りにいる尾形清十郎が釣りに行き、ハゼを頼みに大根の煮付けを用意して八が待っていた、という前提で始まるが、ハゼと大根の煮付け、旨そうだ。鐘の音の声色の描き別け、そして難関(?)のサイサイ節も順調にこなして、八が川に落ちる場面でサゲたが、この噺は志ん丸にはニンだと思う。

カンカラ 時代劇コント (13:52-14:06)
 初である。プログラムによると「欽ちゃん劇団」の劇団員だった三人による「チャンバラとアクロバットを取り入れた時代劇コント」とのこと。
 こういうトリオは好きだ。しかし、「チャンバラ」は分かるが、用意したBGMを使ったスローモーションでの殺陣は、「アクロバット」と言うよりも、「チャンバラトリオ」の現代版という感じ。体を鍛えているのだろう、ボディビル風の胸を動かすギャグもあったが、あれが“アクション”ではなかろう^^
 なかなか、楽しいトリオが出てきたのは、うれしい。

古今亭菊志ん『九州吹き戻し』 (14:07-14:37)
 マクラで言っていたが、カンカラが舞台狭しと暴れまくった後の落語は、たしかにやりにくかろう。
 円朝も慕ったとされる初代古今亭志ん生が十八番にしていた噺。円朝は、志ん生が元気な間は弟子にこの噺をかけるのを禁じていたらしい。雲助も演じるらしいが、最近の噺家さんでは、CDも発売されている談春のほうが有名か。珍しい噺なので、少し粗筋を説明。
 主人公は遊びが過ぎて勘当された、きたり喜之助。だから発端は他の若旦那モノに近いのだが、その後の活動範囲が広い。喜之助は幇間になったが借金まみれになって、江戸を逃げるように流れ流れて肥後の熊本城下へ。「お泊りではございませんか」「わしか」「いえ、そちらのお武家様で」、といった会話の中で一文なしの喜之助が熊本の宿場街を歩く様子は、ほとんど『抜け雀』の小田原宿。「江戸屋」という名に懐かしさを感じて立ち寄った。もちろん無銭飲食のつもり。しかし、その宿は江戸で「大和屋」として喜之助に馴染みのあった主が熊本に流れてきた宿であることがわかる。江戸屋の主の情けと助言で江戸屋で料理人兼幇間として仕事に励み、三年間に貯めた金はほぼ百両。このへんは、『紺屋高尾』的だ。里心がついた喜之助が江戸に帰りたいと言うと、江戸屋の主が近所に奉加帳を廻して餞別を集めてくれた。
 噺のヤマの一つは、喜之助が江戸に帰る前夜の妄想場面。喜之助が二階に寝ており、預けた金は階下。この位置関係は、『水屋の富』を思わないでもない。いろんなことを考える。江戸屋の主から、「五十両貸してくれ」と言われるのじゃないだろうか、とか、大金を持って江戸に帰って昔の仲間と吉原にでも行って大盤振る舞いしたら、すぐに金がなくなるだろう、などなど。結局一睡もできず朝も明ける前に主を起こし、貯めた金をもらい江戸屋に別れを告げる。船に乗ろうと浜辺に出て、たまたま江戸行きの船の船乗りに出会った。そして、江戸への貨物船に便乗して嵐に出会い遭難するシーンが、二つ目のヤマだろう。船に乗る場面から三味線が入る。嵐、そして大波に船が翻弄される様は、三三の『嶋鵆沖白浪』の「島抜け」にも似た場面だが、菊志んの演出はそれほど大袈裟ではない。船は転覆、三日目に流れ着いたのが薩摩の桜島。江戸への帰りを急ぐあまり、百二十里も吹き戻された、でサゲ。
 非常に良かったと思うが、マクラで言っていたように、出だしのリズムが少し悪く盛り上がるまでに時間がかかった。また、本来は一時間近いネタかと思うので短縮版で少し無理があった。しかし、この人にはニンなネタだと思うし、今後に大きな期待をさせる高座。あらためて聴いたみたい。

柳家さん喬『抜け雀』 (14:53-15:22)
 今回のゲスト。短縮版で、たとえば、宿(相模屋)の主が絵師親子からそれぞれに、「おまえのマミエの下にあるのは何だ」と、物を見ても分からぬ目には銀紙でも貼っておけ、というクスグリがなかった。しかし、この人の本来の持ち味の“くどさ”を抑えたスピーディな展開が、ある意味新鮮で良かった。
 しかし、古今亭志ん輔なら、宿場で往来を歩く人に呼び込みをかける場面があるので、“ツク”と考えてネタを替えるのではなかろうか。そんなことを思いながら聴いていた。

鏡味正二郎 曲芸 (15:24-15:38)
 この人は芸の技量もユーモアも交えた語りも結構。プログラムを見るまでボンボンブラザーズの鏡味繁二郎門下とは知らなかった。将来は、洋服を着てボンボンを継いでくれるとうれしい。
 
春風亭百栄『マザコン調べ』 (15:39-16:04)
 とにかく会場は爆笑の連続だった。代表作であることは知っていたが、初めて聴いた私も大笑い。
 ボケの症状についてのマクラから、落語の名作のこと、そして志ん朝を代表とする『大工調べ』のことになり、オリジナルの筋書きを解説する。政五郎の啖呵も伏線として聞かせる。
 「大家のほうが被害者でしょう!」と言う見方を展開した上で本編へ。ある会社の社長夫人が息子をふって他の男と一緒になった女性の家に乗り込む。とりあえず息子(マサヒコ)の“おもちゃ”になってちょうだい、すぐに飽きるんだから、などと女性(カズエ)にお願いするが、その言葉のはしばしに「尻軽女」「ワケアリ物件」などのカズエを中傷するどぎつい言葉が挟まれる。
 どうしても、マサヒコとは一緒になれないとカズエが言うと、「政五郎ママ」(?)が切れて啖呵の始まり。カズエのことは調べていて、どれほど性悪女なのかを畳み掛けていく。『大工調べ』のパロディなので、聴きながら百栄が置き換えている素材とオリジナルとのギャップなども楽しく、終始笑っていた。
 詳しい“啖呵”の内容は、今後この噺を楽しみにされる方へのネタバレになるので書かないが、相当レベルの高い新作だ。落語愛好家としての百栄が、志ん朝や柳朝が代表するこの噺へのオマージュとして作ったのだろう。談志は『現代落語論』の中で、志ん生との会話として、このネタにおける政五郎は、とにかく啖呵を切りたいんだ、と指摘する。その啖呵を切っている社長夫人とマザコン息子、そしてカズエとどっちが悪いと思いますか、という百栄の客への問いかけが背景に残っている。やはり、この人は目が離せない。今年のマイベスト十席候補としたい。

 
 なかなか結構な会だった。菊志ん、百栄、そして志ん丸、それぞれに持ち味があって今年のこのレースを盛り上げてくれるだろう。昨年よりはチケットも取りやすそうなので、今後も彼らの奮闘を見にこようと思いながら隼町を後にした。
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by kogotokoubei | 2012-06-30 18:11 | 落語会 | Comments(10)
「世論調査」という名前の「世論操作」が大手新聞を中心に進行中だ。

まず、読売から。YOMIURI ONLINEの該当記事

小沢新党、無党派層・各年代とも期待薄く

読売新聞社の緊急全国世論調査では、「小沢新党」への期待が広がっていない実態が浮き彫りになった。

 支持政党別にみると、小沢新党に期待しない人は、民主支持層で82%、自民支持層と無党派層では各78%に上った。

 年代別でも、20歳代を除く各年代で「期待しない」が70%を超え、40歳代では最高の84%を占めた。小沢氏らが消費税率引き上げ関連法案の採決で反対したことを「理解できる」と答えた人に限っても、「期待しない」62%が、「期待する」32%を大きく上回った。

 対照的に、大阪市の橋下徹市長が代表を務める「大阪維新の会」と、東京都の石原慎太郎知事を中心とする新党結成の動きへの期待は一定の水準を維持している。維新の会の国政進出に期待する人は56%(前回6月8~10日は60%)と半数を超え、無党派層では60%に達した。「石原新党」についても、「期待する」との回答は45%(前回46%)となった。
(2012年6月28日22時16分 読売新聞)



次に朝日。ASAHI.COMの該当記事

2012年6月27日23時43分
小沢新党「期待する」15% 朝日新聞世論調査関連

 消費増税法案が衆院を通過したのを受け、朝日新聞社が26、27日に実施した全国緊急世論調査(電話)によると、法案に賛成は39%で、反対52%の方が多かった。民主党の小沢一郎元代表らが検討している新党については「期待する」は15%で、「期待しない」が78%と大きく上回った。

 野田内閣の支持率は27%(6月4、5日実施の前回調査27%)で横ばいだった。不支持率は56%(同51%)で、5月調査の53%を上回り、過去最高になった。

 質問文が一部異なるが、前回調査では消費増税法案の賛成は32%で、反対は56%だった。自民支持層は前回39%対54%だったが、今回は44%対47%。民主支持層は前回69%対25%、今回59%対34%だった。

 一方、消費増税に向けた野田佳彦首相の取り組みを「評価する」は31%にとどまり、「評価しない」は59%だった。民主支持層は58%対35%で「評価する」が上回り、自民支持層では29%対61%だった。

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せっかくだから、毎日も。
毎日jpの該当記事

本社世論調査:「新党の動き不支持」71%

毎日新聞 2012年06月28日 21時53分
(最終更新 06月29日 01時59分)

野田内閣支持率の推移

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 毎日新聞は27、28日、税と社会保障の一体改革関連8法案が衆院で可決され、参院に送付されたことを受け、緊急の全国世論調査を実施した。採決で反対し、新党結成の構えを示している民主党の小沢一郎元代表の行動について「支持しない」が71%に達し、「支持する」(24%)を大きく上回った。元代表ら採決で造反した民主党所属議員に対し、党執行部が除名など厳しい処分をすべきかどうかについても「処分すべきだ」が57%を占めた。

 内閣支持率は28%で、今月2、3日の前回調査より3ポイント上昇した。不支持率は同1ポイント増の53%だった。

 民主党の造反議員に対し、「処分する必要はない」は34%にとどまり、民主支持層でも62%が厳しい処分を求めている。元代表の新党結成について、民主支持層の「支持しない」は82%に上り、「支持する」は16%。「支持政党はない」と回答した無党派層でも「支持しない」68%、「支持する」27%だった。



 まだ出来てもいない“小沢新党”に関して、なぜ「緊急」に世論調査が必要だったのだろう・・・・・・。それも、新党に「期待する」「期待しない」の二択で選べと、無作為抽出で電話によるアンケートである。

 そのような調査結果を「世論」と呼ぶことに「賛成する」「賛成しない」の二択で問われたら、「賛成しない」に一票を入れる。

 朝日や毎日は読売にはない、次のような記事も掲載している。ASAHI.COMの該当記事

大飯4号機で初警報 2次冷却系復水器ポンプに過負荷?
2012年6月29日

 経済産業省原子力安全・保安院は29日、原子炉の起動に向けて準備中の関西電力大飯原発4号機(福井県おおい町)で同日午前9時59分ごろ、復水器から水を採取するポンプの異常を示す警報が鳴ったと発表した。放射能漏れなどはないという。

 保安院によると、復水器の2次系冷却水の塩分濃度を監視するために試料を採取するポンプ。試運転をしようとしたところ、過負荷になったことを示すランプが点灯したという。

 故障の可能性があり、関電はポンプを分解して調べる。4号機は21日から2次系配管の洗浄などをしており、7月17日に原子炉を起動する予定。


 3号機でも人為的ミスによる警報が鳴ったらしいが、衆目監視の中であってもミスは起こる。こんな状況で大飯が再稼動されて、本当にいいのか。いいはずはない。

 小沢新党へのネガティブキャンペーンより、ずっと大きな紙面を割き、継続して報道して欲しい重要な案件は他にもたくさんあるはずだ。フクシマの収束が一向に進まないこと、原発再稼動のこと、そして大震災からの復興についての民主党政府のサボタージュのことなどなど。なにより、「生命」が関わっている。

 大新聞による「小沢つぶし」のネガティブキャンペーンについて嫌気がしていた時、結構私の思いに近いことが「日刊ゲンダイ」のサイトにあったので、ご紹介。日刊ゲンダイ Gendai.Netの該当記事


小沢新党「支持率15%」は低いのか
2012年6月29日 掲載

民主党だって 自民党だって 15%

<これからどこが上向くのかが問題>

「小沢出て行け」なんて怒鳴っている民主党執行部の連中は、「ウーン」とうなっているのではないか。朝日新聞と共同通信が28日公表した世論調査で、小沢新党の支持率が“高かった”からだ。
 世調は朝日、共同とも、消費税増税法案が衆院で可決された直後の26~27日にかけて実施された。それによると、「小沢新党に期待する」が朝日で「15%」、共同では「15.9%」だった。
 この結果を受け、大マスコミは相変わらず、「期待しないが8割」とネガティブキャンペーン一色だが、この見方は大間違いだ。同じ調査で、民主党の支持率は「17%」「17.1%」、自民党は「15%」「22.1%」だった。「小沢新党の期待」=支持率と見れば、民・自の支持率とほぼ拮抗しているのだ。
 政治ジャーナリストの鈴木哲夫氏はこう言う。
「『15%』という数字は、既存政党に不満を持ち、仮に小沢新党が出来れば、まず確実に投票する人たちです。支持政党なしが増える中で、この数字は大したものです。確かに小選挙区で戦う状況は厳しいかもしれないが、比例は十分当選ライン。小沢さんのコアな支持者は、自由党時代からの人たちが多い。これは少数でも政治理念を追求する——という姿勢に共感した人たちです。今の政治状況とソックリだし、こういう支持者がいるから小沢さんは強いのです」
 つまり、小沢新党の「15%」は最低限の支持率でありまだまだ上がる可能性が十分にあるということだ。
 それにしても、立ち上がってすらいない「小沢新党」への期待感を調査すること自体、異常だし、その結果をことさら強調してマイナスイメージを煽(あお)るメディアって一体何なのか。財務省の先兵として、そこまでして小沢新党を拡大させたくないのなら、四の五の言わず、「朝日は小沢を殲滅(せんめつ)します」と一面トップで宣言すればいい。それだけの話だ。



 朝日が「財務省の先兵」で、読売は「原子力ムラの広報部門」、ということなのか・・・・・・。

 それは置いておいて、新聞や通信社による「世論調査」について、もっと論議されてもよいと思う。
 そのデータの取り上げ方については、日刊ゲンダイが指摘する通りだが、そのデータ自体の問題もある。

 たとえば、朝日は調査方法について、次のように説明している。

 〈調査方法〉 26日夕から27日夜にかけて、コンピューターで無作為に作成した番号に調査員が電話をかける「朝日RDD」方式で、全国の有権者を対象に調査した(福島県の一部を除く)。世帯用と判明した番号は1872件、有効回答は1043人。回答率56%。



 平日のある特定の日の夕方から翌日の夜まで、無作為に抽出した固定電話のみでの調査。ほとんどが二者択一の質問。果たして、そういった調査を集計したものが、「世論」なのだろうか。

 大新聞は、こういった調査から得られた統計を都合よく使って「これが世論です!」と訴えるが、そのような「空気」づくりにこそ危険な匂いがする。

 日本の三大新聞が、揃いも揃って同じような「世論調査」とやらを実施し、まだ出来てもいない政党への支持の低さを煽っているのを見ると、その背景に何かが潜んでいると思わないでもない。これも「人物破壊」の一環ではないか。
 小沢一郎を支持するかしないかは人の自由だ。しかし、大新聞が一斉に調査した結果とその論点がほぼ一致するところに、日本の大新聞の罪深さを感じる。
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by kogotokoubei | 2012-06-29 21:00 | 責任者出て来い! | Comments(6)
先日の大手町落語会における柳家権太楼の『らくだ』(通し)は、圧巻だった。

 落語愛好家の方のブログで知ったのだが、23日の土曜の同じ時間帯に、三田の落語会では一之輔が『らくだ』を演じたらしい。その日の高座について、一之輔のブログ「いちのすけえん」に、次のように書かれていた。(実際には、行間がもっと空いている。彼の流儀のようだ。)ブログ「いちのすけえん」

昼、三田落語会。

鯉昇師匠と二人会。

師匠の時間の都合もあり、私がトリ。

一、たらちね 一力
一、麻のれん 一之輔
一、佃祭 鯉昇
中入り
一、持参金 鯉昇
一、らくだ 一之輔

やるたんびに違うから何ともいえんなー。らくだ。なんだろかなー。



 一之輔も、このネタと格闘している様子がうかがえる。もっと言えば、彼が闘っているのは、このネタだけではなかろう。五十日に及ぶ披露興行の後も、定席や落語会に出続けていることから、結構疲れもたまっているはずだ。本当は少し休むほうがいい時期なのだが、人気者はつらい。この時期をどう乗り越えるか、それも抜擢された一之輔には試されているような気がする。でも、きっと乗り切ることができる人だと思う。

 さて、話は戻る。このネタの名演と言えば、発祥の地である上方では、何と言っても笑福亭松鶴。先日、一門のことを書いた松枝の本を紹介したが、このネタに限らず酔っ払いが登場する噺は、「少しひっかけてから高座に上がってんのとちゃうか?」と思うほど、上手い。

 そして、東京の名人達なら、古今亭志ん生と三笑亭可楽(八代目)が良い。それぞれの持ち味が好対照で光っている。可楽の無駄を省いた演出も結構なのだが、志ん生の『らくだ』には何とも言えない愛着をおぼえる。“通し”と短縮版の両方の音源が発売されており、どちらも悪くないが、やはり“通し”の方が、この噺の味わいが増すと思う。 
 志ん生の“通し”の音源として、昭和40年1月の高座がある。古今亭志ん生『らくだ・二階ぞめき』
 昭和36年暮れに巨人の優勝祝賀会で脳溢血で倒れており、それ以降の高座について否定的な落語愛好家も多いが、たしかに、たどたどしいのは事実だが、この『らくだ』は悪くない。私は、東横落語会での『疝気の虫』なども含め、復帰後の志ん生にも、なかなか味わいのある高座があると思っている。

 さて、この噺の構成について、野村雅昭が『落語のレトリック』(平凡社選書)で次のように書いている。「第六章 オノマトペ」からの引用だが、落語における擬音語・擬態語の意味であるオノマトペについての解説の中で書かれたものだ。
*この本は「落語の言語学シリーズ」の一つとして発行されましたが、現在重版されていません。古書店では比較的入手しやすいかと思います。

 滑稽噺としての落語は、マクラの部分をのぞけば、原則として会話を中心にストーリーが展開していく。登場人物のことばとしての会話には、もちろんオノマトペがあらわれる。しかし、演者が直接にキキテにかたりかける地の部分は、量的にはおおくない。それに対して、講談や人情噺では、地の説明が多用され、そこではオノマトペが自由に駆使される。ただし、それは典型的な東京落語の演出法についていえることである。
(中略)
 東京ふうの落語の演じかたについて、例をしめそう。「らくだ」という噺は上方ダネだが、東京でも戦前から高座にかけられている。まともに演じると一時間ちかくかかるオオネタである。場面転換もかなりおおい。らくだというあだ名の男がフグにあたってしぬ。その死骸をらくだの兄貴分の男がみつけ、後始末のために、くず屋をよびこむところから話がはじまる。それを映画のショットふうにわってみると、つぎのようになる。

①らくだの兄貴分の独白(らくだ宅)
②兄貴分とくず屋の対話(らくだ宅)
③くず屋の独白(らくだ宅→月番宅)
④くず屋と月番の対話(月番宅)
⑤くず屋と兄貴分の対話(らくだ宅)
⑥くず屋と大家の対話(大家宅)
⑦くず屋と兄貴分の対話(らくだ宅)
⑧兄貴分と大家の対話(大家宅)
⑨くず屋と兄貴分の対話(らくだ宅)
⑩くず屋と八百屋の対話(八百屋宅)
⑪くす屋と兄貴分の対話(らくだ宅)
⑫くず屋と兄貴分の対話(らくだ宅→火葬場)
⑬くず屋と火葬場の男の対話(火葬場)
⑭くず屋と兄貴分と願人坊主の対話(橋のたもと)
⑮くず屋と火葬場の男と願人坊主の対話(火葬場)

 この区分けは、五代目古今亭志ん生の演出にしたがっている。志ん生は、これだけの長丁場を、ほとんど地の説明なしに演ずる。例外は、右の⑬から⑭にうつるところである。火葬場にらくだの遺骸をかつぎこんだつもりが、途中でおっことしたらしいので、さがしにいく場面である。もう一か所、⑮の途中にみじかい説明が挿入される。それにしても、地の部分がすくないことが納得されるだろう。これが東京ふうの演出なのである。

 
 オノマトペのことは棚に上げておいて、この本で説明されているように、この噺は対話が中心で場面展開が多い。ヤマは、何と言っても、上記の⑪における、屑屋と兄貴分との対話だ。屑屋久蔵が八百屋に菜漬の樽をもらいにいっている間に、らくだの家に月番から香典が届き、死人の「かんかんのう」に驚いた大家からは酒と煮しめが届いている。屑屋は、お役御免とばかり笊(志ん生は籠)と秤を返してもらって商売に行こうとするが、兄貴分が、「死人を背負って穢れている、清めの酒を飲め」と無理に飲ませて、そして三杯目、劇的な場面展開が訪れる、というわけだ。

 その劇的な演出については、後の楽しみにする。
 
 さて、昭和40年1月の志ん生の『らくだ』、マクラでは戦時中も今も着物で暮らしていることをフッているが、平岡正明が『志ん生的、文楽的』で次のように書いている。
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平岡正明著『志ん生的、文楽的』(講談社文庫)

「人間は昔を恋しいと思うもんなんですな。忘れられない。さからっても負けちゃうんですけど、今でも着物を着ているのはあたしくらいでしょう。洋服を着られないんですよ。大連でも、おい、いま着物着た人通っただろと言われるとあたしだった。靴が履けないんですからしかたがないですな」
 敗戦時の大連を和服着て下駄履いて歩いているのなんて、おれは日本人だから鉄砲で狙え、と広告しているようなものだったろう。
(中 略)
 関西では河豚のことをテッポウともいう。当ると死ぬからだ。敗戦時の満州を和服で歩くという奇妙な枕はムテッポウの意味もあると思うが、志ん生は楽屋から客席をのぞいて、みんな洋服だね、それならと、こんな思い出話をしたのだろう。というのは、この日の高座は、昭和40年1月31日、東宝演芸場の「紫綬褒章受章記念志ん生独演会」であり、授賞式当日、紋付袴で天皇の前に出たのは彼一人だろうからで、あとの受賞者の燕尾服姿を見て、そんなもんなのかねえと志ん生は思っていたのではないか。和服という衣の自分のナショナリズムの頑固さを自覚した瞬間、満蒙の大地を長い首をのばして黄砂にのって歩んでくる駱駝の群に重ねあわせて、古今亭の出囃子「一丁入り」に乗せて志ん生は高座に出る。


 この本は、落語ブログ仲間で、我らが(?)「居残り会」のリーダー佐平次さんお奨めの本なのだが、桂米二の会で深川に行った時に会場近くの古書店で見つけ、ようやく最近読み終えたところ。落語、ジャズ、そして新内などの古典芸能に通じた平岡正明による、頗る楽しい本である。

 読んで分かるように、平岡は実際の高座を見たわけではない。音源を聴きながら、「なぜ志ん生は、大連で着物で歩いていた、などと言う枕を、この噺でふったのか?」と思案して、このような推理をめぐらしたのだ。

 私は、同じ音源を聴いたが、とても、平岡のような想像力を働かすことはできなかった(あたりまえか!)。この本を読んで、「あっ、そうか!」と膝を打った。
 
 数多くのネタと同様、上方がルーツ。元々の題を「駱駝の葬礼(そうれん)」と言って、上方の四代目桂文吾が完成させ、大正時代に三代目柳家小さんが東京へ移植したと言われている。松鶴もそうだが、上方版は屑屋を泣き上戸として描く。しかし、東京版が上方と違う演出になったことに関して、平岡は次のように書いている。この噺についての鋭い考察である。

 文吾に対して三代目小さんと志ん生は、したがって剣術の小さんも可楽も、久蔵が泣き上戸であるという演出を採らない。小心で善良な屑屋の久蔵が、三碗の酒でトラになり、生傷男を圧倒するのだ。三碗にして岡を過ぎず。水滸伝の武松が景陽岡で、三碗呑んだら岡を越えられないという強いききめの「透瓶香」という酒(同じ銘柄の白酒が現在の景陽岡にある)をぐびぐび飲んで、ますます気宇壮大になって、虎が出るから夜間の山越え禁止という役所の高札を無視して岡を越え、あんのじょう人喰虎に出くわしたが、これを素手で殴り殺したとき、虎の魔性が武松にのりうつったことを感じる。同様に三杯の酒でらくだが久蔵にのりうつったのだ。三代目小さんが「らくだの葬礼」を東京に移植するにあたって、久蔵が三杯の酒でがらっと性格が変って関係が一気に逆転したほうがよく、屑屋の内心の変化を追う上方の演出はぬるいと感じただろうことを志ん生も感じているようだ。


 上方版も味はあるが、三代目小さんの脚色を踏まえた東京版は、平岡が指摘するように、久蔵の激変がドラマチックで楽しい。しかし、“らくだがのりうつった”、という解釈は、なるほどとも思うが、やはり、久蔵とらくだ、そして兄貴分はそれぞれ自立した別な個性なのだと思う。

 その兄貴分「生傷男」のことを、志ん生は、こう表現する。
「額のこのへんに匕首かなんかで切られた傷跡がある、こっちのほうに出刃包丁かなんかで、こっちは脇差の、顎んとこは竹槍で突かれたのが・・・傷の見本みたいな顔」

 傷の場所と原因は音源によって微妙に違うが、生傷の形容は必ずある。この「生傷男」の形容があるから、その後の逆転劇での屑屋と兄貴分の姿が想像されて、聴いている者に一種の爽快感を味わわせてくれるのだろう。音源によっても変わるが、久蔵が月番のところに行って兄貴分のことを説明する際、『まるで、傷の取締みたいな」と、この人お決まりのギャグがで出るのも可笑しい。

 最後に三笑亭可楽のこのネタについても少しだけふれたい。可楽は短いマクラからのこんな出だしで始まる。
 「馬、起きろい。・・・野郎、めぇってるな」
 誰よりも短く噺を凝縮して、あの独特の声で演じるのだが、これはこれで私は好きだ。
 色川武大は著書『寄席放浪記』で、次のように可楽『らくだ』との出会いを書いている。色川武大著『寄席放浪記』(河出文庫)

 たしか日曜の昼席で、なんだか特殊な催しだったと思う。まだ春風亭小柳枝といっていた時分の可楽が、後年と同じく、「にらみ返し」という落語に出てくる借金取り撃退業の男を地で行くような顔つきで(着流しだったような印象がある)、ぬっと出て来た。
 中入り前くらいの出番だったがたっぷり時間をとり、「らくだ」を演じた。小さく会釈して、すぐに暗い悲しい独特の眼つきになり、
「クズウいー」
 久六がおずおずと長屋に入ってくる、もうそのへんで私は圧倒されていた。陰気、といってもしょぼしょぼしたものではなくもっと構築された派手な(?)陰気さに見えた。

 
 色川武大が圧倒された可楽の『らくだ』も結構。

 権太楼は小さん版を踏襲しているが、先日の大手町の高座には志ん生と可楽の両方のエキスを感じた。私はまだ定評のある小三治のこの噺を聴いたことがない。僥倖を待つしかないが、過去の音源で松鶴や米朝、可楽や志ん生を聴くだけでも楽しい噺だ。もちろん、一之輔の十年後の『らくだ』にも期待したい。上方の松鶴を継ぐ人達の高座にも出会いたいと思っている。なかなか、この噺の話は尽きることがない。
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by kogotokoubei | 2012-06-27 22:07 | 落語のネタ | Comments(10)
民主党が分裂した。もう、過去系でいいだろう。選挙に勝つため、何ら実現性の根拠もなく掲げた玉虫色の「マニフェスト」は、次の東京新聞の記事で書かれているように、ことごとく崩壊した。
東京新聞 TOKYO Webの該当記事

民主党マニフェスト 崩壊止まらず
2012年6月24日 朝刊

 野田政権は社会保障と税の一体改革に関する民主、自民、公明の三党協議で、消費税率引き上げと引き換えに二〇〇九年の衆院選マニフェストで掲げた社会保障分野の主要政策を棚上げした。今回に限らず、政権交代直後から民主党政権は主要政策の撤回を繰り返してきた。民主党政権の三年間弱はマニフェスト崩壊の歴史だ。 (関口克己)

 野田政権は二月に閣議決定した一体改革大綱に、マニフェストの主要政策である最低保障年金制度の実現と、後期高齢者医療制度の廃止を盛り込んだ。

 いずれも現行制度の維持を主張する自公両党は反発。困った野田政権は自民党の誘いに乗り、新設する社会保障制度改革国民会議の議論に委ねることになった。実質的な先送りだ。

 野田政権は「マニフェストの旗は降ろしていない」と釈明する。しかし、自公は主要政策の撤回を迫っているだけに、国民会議で実現に向けた議論が進む可能性は低い。

 民主党はマニフェスト実現を「国民との契約」と訴えて政権交代を実現した。だが、多くのマニフェスト政策が放棄されてきた。

 親の所得にかかわらず子ども一人当たり月二万六千円支給すると約束した子ども手当。最初の年は公約通り半額の一万三千円で実現したが、自公の抵抗で継続を断念した。名称は自公政権時代の児童手当に戻り、支給額も第一子と第二子は月一万円になった。所得制限も復活した。

 「コンクリートから人へ」の象徴だった八ッ場(やんば)ダム(群馬県)の建設中止方針は昨年末に撤回。高速道路無料化も実現しなかった。参院の与野党逆転や東日本大震災で〇九年とは状況が変わったという事情はあるにせよ、目玉政策で健在なのは高校授業料の無償化など数えるほどしかない。

 民主党内では、小沢一郎元代表が野田政権の姿勢を「国民への背信行為だ」と批判し、マニフェスト順守を訴えている。

 しかし、元代表は一〇年度予算の編成時、党幹事長として、財源を確保するため、当時の鳩山由紀夫首相にマニフェストの目玉の一つだったガソリン税の暫定税率廃止を撤回させた。

 岡田克也副総理は二十二日の記者会見で、暫定税率廃止について「マニフェストの中でも金額が大きい政策だったが『国民の声だ』と言って止めたのは元代表だ」と批判した。だが、岡田氏も昨年、幹事長として子ども手当の縮小で合意した自公両党との三党協議を主導している。



 マニフェストを選挙公約と理解し、その全てが実現できると思っている有権者は多くはないと思うが、“譲れない一線”はあるはずで、そういう意味では、3.11という“想定外”のことがあったとは言え、完全に骨抜きになったことの責任は否めない。

 2010年の参院選の際の民主党のマニフェストは、今では見たくもない方も多いと思うが、当時の菅代表の写真が満載されたものだった。民主党のサイトのマニフェストのページ

 表紙には、菅の大きな写真の横に、「元気な日本を復活させる。」のタイトル。何とも、皮肉な言葉ではないか。日本の元気は、どんどん失われている。

 マニフェストにおける年金や医療関係の項目は次のようになっていた。
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 そう言えば、“消えた年金”のことなど、今ではメディアもまったく取り上げないなぁ。たった二年前のことなのだ。

 「最低保障年金」の財源についてはほとんど検討せずに掲げていたので、その後いろいろ論議を呼んだ。しかし、テーマとして掲げることで、次のステップとして、実現するにはいかに財源を確保するか、可能性はあるのか、という議論にはつながる。
 「新しい高齢者医療制度」は、2013年にスタートできるはずもない。

 税に関する項目は、「ムダづかい行政刷新」→「強い財政」、という構図で説明されていた。
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 行政改革は官僚の抵抗に遭って一向に進まず、また仕分けの対象に関する基本的な知識不足を露呈していたなぁ。あの人の「一番でなきゃダメなんですか?!」を思い出す^^

 マニフェストの初めのほうに、次の「強い経済」というチャートがあった。
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 あらためて見ていたら、発見をした。左上の「総理、閣僚のトップセールスによるインフラ輸出」の部分。拡大する。
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 なんと「原発」もトップセールスすることを明記していた。

 枝野はAPECエネルギー相会議で、 「脱原発依存」の政府方針は「直ちに実現することはできない」と指摘。その上で、電力の需給とコスト、エネルギー安全保障の観点から「当面は原子力も利用する」と表明した。
時事ドットコムの該当記事

原子力の重要性認識」=枝野経産相、原発利用を表明−APECエネルギー相会合

 【サンクトペテルブルク時事】当地で開催されたアジア太平洋経済協力会議(APEC)エネルギー相会合は25日午後(日本時間同日夜)、エネルギー需要の拡大見通しを踏まえ「原子力エネルギーの安全な利用の重要性を認識している」とする共同宣言「サンクトペテルブルク宣言」を採択し、閉幕した。
 会合で枝野幸男経済産業相は「脱原発依存」の政府方針は「直ちに実現することはできない」と指摘。その上で、電力の需給とコスト、エネルギー安全保障の観点から「当面は原子力も利用する」と表明した。
 宣言は、東京電力福島第1原発事故について「悲劇的な事故」としながらも、原子力利用の重要性を指摘。さらに、安全性向上のため「日本が原発事故を含む知識と経験を国際社会と共有することを期待する」と明記した。
 一方で「化石燃料は今後も重要な役割を果たす」とも指摘。二酸化炭素(CO2)の排出が少ない天然ガスの有用性を評価するとともに、供給力拡大に向け設備投資を進める重要性を強調した。(2012/06/25-22:36)



  この男の「直ちに」は、もう聞き飽きた。

 アジア各国への原発輸出は、経団連をバックにして民主党の継続課題として依然として生きているのが実態なのだ。野田ドジョウは、それを率先してきた。

 こんなマニフェストだけを守られたんじゃ、困るのだ。社会保障関係の項目同様、ぜひ“お蔵入り”にして欲しいものだ。

 小沢の今後の動きはまだ分からないが、「新党きづな」あたりと手を組んで、反原発も重要なマニフェストに加えたら、結構世論の支持を集めるのではないだろうか。それ位の期待しか、今の政治にはできそうにない。
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by kogotokoubei | 2012-06-26 16:30 | 責任者出て来い! | Comments(0)
今月は平日はなかなか都合がつかないので、落語会のネタが少ない。加えて土曜は昼席のみ、日曜は落語会や寄席には行かないことにしているので、生の落語会はようやく三回目。
 先週から土曜の昼の会が続く。この会は一昨年の第一回、そして昨年の第六回、第七回に続く四回目になる。今回は昼が柳家、夜が古今亭、という昼夜公演だが、昼のみ参加。

次のような構成だった。
--------------------------
柳家さん弥 『かぼちゃ屋』
柳家小せん 『崇徳院』
柳家花緑  『不動坊』
(仲入り)
柳家三三  『雛鍔』
柳家権太楼 『らくだ』
--------------------------

柳家さん弥『かぼちゃ屋』 (14:01-14:16)
 あとで花緑がいじるが、やかん頭と表情からは今年で37歳とは見えない。2000年さん喬に入門の13年目。菊六に抜かれた先輩二ツ目の一人だ。しかし、私はこの人の成長を実感した。「ザ・柳家」ということで、上方の『みかん屋』を四代目小さんが東京に「みかん」から「かぼちゃ」に品を替えて移植した伝統のネタ、結構でした。
 一つだけ気になったのが、会話の“間”の取り方。いわばジャズのアフタービート、一拍遅れでの“間”が多過ぎたので、ちょっとリズムに乗り切れなかった気がする。スピーディーな会話の切り返しとアフタービートの適度な組み合わせで噺にリズムができる。そのへんがもっと上手くなれば、次の真打昇進候補の一人であって不思議はない。

柳家小せん『崇徳院』 (14:17-14:44)
 昨年は真打昇進がなかったので、一之輔、朝太、菊六のすぐ上の先輩が2010年昇進のこの人達ということになる。しかし、小せんも、花緑がいじるように今年で38歳の年齢よりは上に見られるのだろうか。私は結構相応のような気がするが。
 久しぶりに聴いたが、なかなか落ち着いた高座。とにかく“声”が良い。低いトーンの声が聴いていて心地よい。扇辰、文左衛門との音楽活動でも美声を披露しているようだが、この持ち味を、今後はいかに使いこなしていくか、楽しみである。もちろん、柳家にとって懐かしい名跡に相応しいネタへの挑戦も期待したい。

柳家花緑『不動坊』 (14:45-15:16)
 マクラでは、自分より若いさん弥、小せんの頭髪と見た目のこと。「私より二人とも若いんですよ」で会場が沸いた。私は、花緑が41歳という年より若く見られることでギャップが広がっていると思う。頭髪に不自由している身としては、正直なところ、花緑の豊富な髪の毛には嫉妬する^^
 三代目小さんが上方から持ち帰った本編は、短縮版。吉公(吉兵衛)に不動坊の美人の後家お滝さんを奪われる長屋の負け組(?)三人の相談から始まった。鍛治屋の鉄つぁん、チンドン屋の万さん、そして仕返し作戦のリーダー格の漉返し(すきがえし)屋の徳さんの会話、大いに結構だった。さん弥が楽屋で聴いていたら、花緑の三人の会話のスピード感とリズムが大いに参考になったのではないだろうか。
 吉兵衛に大家が縁談を持ち込む通常版の導入部や湯屋で吉公が妄想する場面がなくても、十分に噺は成り立っていたし、味わいがあった。
 会場に噺の筋そのもので笑ってくれるお客さんが多かったこともあるが、爆笑が続いた。短縮版にしてこの高座、花緑の持ち味はこういう世界ではないかと思った。師匠である祖父直伝の『笠碁』や、米朝直伝の『天狗裁き』などは、あと十年後でもいいのではないか。そんな気にさせる高座。悩ましいが、短縮版なので、マイベスト十席候補からははずす。しかし、久しぶりの花緑、大変結構だった。

柳家三三『雛鍔』 (15:32-15:48)
 後の権太楼の長講への配慮なのだろうか、寄席並の時間。しかし、肝腎なツボは押さえている高座。三三を目当てにしていた客(私も含めて)には、正直物足りなかったが、しょうがないか。
 余談だが、独演会は“分殺”状態でチケットを入手するのは難しく、いわゆるコラボレーション企画には興味がわかず、しばらく聴いていなかったので、この高座では“三三禁断症状”は直らなかった。近いうちにどこかで聴かねば。

柳家権太楼『らくだ』(通し) (15:49-16:42)
 酔っ払いの短いマクラから、私自身は予想もしないこのネタだった。たしかに、この噺も三代目小さんが東京に移したものではある。しかし、権太楼は、二年前の手術からまだ完全に復調しているとは思えないので、たとえば、『一人酒盛り』とか、『猫の災難』あたりかと思っていたが、マクラ三分で、「おい、らくだいるかい」ときた時は、一瞬身震いした。
 前半は、権太楼の熱い思いが高座で少し空回りしていたような気がするが、次第に権太楼ワールドが盛り上がっていく。中盤からは、会場全体が一体化した不思議な空間が生まれたように感じた。
 何と言っても、らくだの兄貴分(丁の目の半次?)と屑屋が酒を飲みながらの会話がヤマなのだが、権太楼節が炸裂した。たとえば、屑屋が二杯目の酒を飲むのを逡巡していると、「らくだと一緒に土の中に・・・」と半次は脅す。屑屋が三杯目の酒を、じっくり味わいながら飲み干してから、ついに主客逆転。屑屋は、生前のらくだの悪行を暴露。その後の焼き場への行脚は、完全に屑屋が兄貴で半次が弟。願人坊主も現れてサゲまでしっかり。
 気になる言い間違いも少しあった。しかし、本人も分かったのだろう、途中で同じ科白(「嵩にかかって」)を言う場面で修正。そんな小さなことはどうでもいいような、熱演。これをマイベスト十席候補にしないわけにはいかない。


 権太楼『らくだ』の余韻に浸りながら地下鉄の駅へ向かっていた。しかし、あらためて思ったのは、「一時から始めて4時半までやれば、花緑もフルバージョン、三三も別なネタかフルバージョンで出来たのではないか?」ということ。もっと言えば、ネタ出しをしていないのはミステリアスで結構なのだが、人によってお目当ては違うわけで、権太楼の『らくだ』を中心にした時間配分だったとするなら、噺家間のバランスとしては問題だろう。このあたりは難しいが、いずれにしても三三の寄席並の所要時間が残念。9月のチケットを売っていたが、土曜の夜席なので、断念した。残念。

 小言をいったん棚に上げるなら、権ちゃんの元気な高座、そして花緑のスピード感、小せんの落ち着き、そして三三の技術、それぞれ結構でした。
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by kogotokoubei | 2012-06-23 19:34 | 落語会 | Comments(10)
小沢一郎に関する「人物破壊」の一環とも言える記事の後は、原辰徳が週刊文春の「売れさえすればいい」というセンセーショナリズムな記事の攻撃対象にされたようだ。

 私は、読売も巨人も贔屓ではないことを、最初にお断りしておく。昨年大震災後のナベツネや巨人の姿勢については、結構小言を書いた。

 「週刊文春WEB」の「スクープ速報」の内容全文を掲載する。そして、この雑誌そのものを買わなくて済む方が一人でもいてくれたら、掲載した甲斐もあるかと思う。週刊文春WEBの該当記事

巨人 原監督に一億円払わせた元暴力団員K氏の電話

 読売巨人軍・原辰徳監督(53)が2006年に元暴力団員らに女性問題で脅され、1億円を支払っていたことが、週刊文春の取材で分かった。

 発端は、原監督が現役だった24年ほど前、遠征先のホテルの女性スタッフと“深い関係”になったこと。交際を続けるなかで女性を傷つけてしまう“トラブル”が生じたのだが、一連の事情を女性は日記につけていた。その日記が暴力団関係者の手に渡ったのだ。

 2006年8月、2回目の巨人軍監督に就任していた原監督のもとに元暴力団員であり、現役プロ野球選手の父親を名乗るKから電話が入った。

「原さんにとって非常に大事な話がある。あなたの昔のスキャンダルだ。至急会って話してもらった方がいい」

 原監督が面会に応じると、Kは仲間のHを連れて、巨人の遠征先の熊本に現れた。

 Kは女性の日記のコピーを示し、

「原さんが野球界から居なくなったら大変なことになる。表に出ないように私が解決するので、私に任せなさい。それには金がいる」

 と言って、1億円を要求した。かつてKは東京に本拠を置く暴力団に所属しており、その後、破門になった。小指は欠損している。

 原監督は知人である会社経営者から金を借りるなどして、2日間で1億円を用意した。K側は金と引き替えに、その場で日記をシュレッダーに掛け、原監督のマネジメント会社の名前が宛名になった領収書も切ったという。

 原監督は恐喝の被害者ではあるが、球団や警察には相談していない。

 原監督自らが登場する警視庁作成の「暴力団追放」ポスター(2009年5月~11月まで東京都内のJRや私鉄駅構内に掲示)には、「暴力団を恐れない」「暴力団に金を出さない」「暴力団を利用しない」というキャッチフレーズとともに、「暴力団のことで困ったら、すぐ相談」と書かれているが、自らはそれを行っていなかったということになる。

 この件について読売巨人軍および原監督に取材を申し込むと、桃井恒和社長と読売新聞グループ本社取締役経営戦略本部長でもある山口寿一常勤監査役らが取材に応じた。

「本人も非常に浅はかな対応をしてしまったと言っているが、要求された金額が監督が用意できる限度額だったため支払いに応じた。Kは元暴力団員だが、20年以上前に足を洗ったと聞いている。監督の頭の中には暴力団と関係があるなどという考えはまったくなかった」(山口常勤監査役)

 巨人軍はこの恐喝事件を2009年に把握し、その時点で「お金は払うべきではなかった」と監督を厳しく注意したという。ただし、原監督は被害者であり、加害者であるKやHは反社会的勢力ではないとの認識を持ったため、何の処分もしなかった。

 2011年10月に暴力団排除条例が施行され、「暴排」意識が国民的に高まっている中、「巨人軍は紳士たれ」を標榜してきた球団が、この問題をどう総括するかが注目される。

文「週刊文春」編集部


 今から24年ほど前の、本人三十歳前後の出来事、そして、実際に恐喝があったのも、今から六年前のことだ。

 こんな記事は、「原も若かったね。しかし、二日で一億とは凄いね。」という感想を持って、私はそれでオシマイ。しかし、マスコミ、特に報知以外のスポーツ紙はこのネタを拡散するだろう。

 べき論で言えば、原は一億円払うべきではなく、恐喝被害者として訴えるべきだったろう。

「暴力団排除条例」をWikipediaで調べると、次のような記述がある。Wikipedia「暴力団排除条例」

 暴力団の影響力を排除することを目的としている。また、公安警察が領域とする事案にも活用し、犯罪の未然防止を図るることも目的の一つとされている。
 2004年6月に広島県と広島市が条例で公営住宅入居資格について「本人とその同居親族が暴力団対策法に規定する暴力団員でないこと」と規定した。暴力団排除が規定された条例はこれが初めてである。
 また東京都豊島区で、不動産の取引において暴力団を排除することを規定した生活安全条例が制定され、2009年1月に施行された。
  (中 略)
 暴力団関係者との会食、ゴルフ、旅行など交際を繰り返すことについて、警察がその人物に対し「密接交際者」とみなし、認定を行うことを可能にする自治体もある。影響としては、密接交際者とされた場合に工事の入札から排除されたケースがあった。今回の施行にあたり東京都では、該当者が金融機関からの融資(ローン)を受けたり当座預金の開設ができなくなったり、住宅の賃貸契約もできなくなるよう、関係機関が各業界団体に働きかけていると報道されている。



 つい、コトを穏便に済まそうとした原は、一億支払ってしまった。しかし、原は、このWEBの記事にあるように「被害者」ではあっても、相手がもし“反社会的勢力”であったとしても、彼らと「密接交際者」とは思われない。

 この週刊文春は、いったい何のために、この時期にこんな記事を掲載するのか、まったく疑問である。

 “2011年10月に暴力団排除条例が施行され、「暴排」意識が国民的に高まっている中、「巨人軍は紳士たれ」を標榜してきた球団が、この問題をどう総括するかが注目される。”などとあるが、記事にも「元」暴力団としているわけで、法的に暴力団排除条例に抵触することはないだろう。

 昔のプロ野球界なら、夜の場外ホームランをかっ飛ばす侍がたくさんいただろうし、そんなことを暴く記者などいなかったはずだ。「英雄色を好む」だよ。当時はフライデーもなかったし、特定のメディア同士の痴話げんかにも似た誹謗中傷合戦もなかったけどね。

 週刊文春と読売との争いは衆知のことだが、原子力ムラ広報部門としてのヨミウリと戦うのならまだしも、原の若気の至りを掘り起こすのは、雑誌を売るための方便としか思えない。さっそく巨人は訴えるようだ。また、文春は裁判では負けるだろう。しかし、雑誌が売れて読売がイメージダウンすれば、文春はそれでいいと計算したのだ。
 
 訴訟も承知という文春の姿勢を知っていて、なぜ小沢一郎は訴えなかったのか・・・・・・。それは、そんなことに時間を割いている状況ではない、ということなのだろうと、今は思える。

 週刊文春は、そのエネルギーの矛先を間違えているのではないか。要するに、戦う相手が違うのではないか週刊文春さん。
 そもそも、WEBで見れば雑誌を買うまでもない内容であるのは明白。持ち味の闘う姿勢を生かして欲しいのは、雑誌メディアとWEBとの連動で、大飯再稼動など現政権を相手に戦う報道ではないのか。しかし、すでにマスメディアになった以上、お上には逆らわず、チマチマした読売との喧嘩や、個人的恨みを膨張させたやらせ記事による人物破壊記事しか載せられなくなったのかもしれない。多数の愛人がいたとされる創業者菊池寛が生きていた時代には、ニュース価値のまったくないようなネタだ。
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by kogotokoubei | 2012-06-20 20:58 | 責任者出て来い! | Comments(2)
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笑福亭松枝著『ためいき坂 くちぶえ坂』(浪速社)

 このブログにコメントをいただく上方落語愛好家の方に教えていただいた本を、ようやく読み終えた。実は、先週の土曜に池袋演芸場での芸術協会の真打昇進披露興行に出向いたのは、ちょうどこの本を読んでいたことも動機の一つ。笑福亭松鶴の孫弟子が東京で初の真打昇進、ということで、久しぶりに師匠の鶴光の顔と一緒に里光なる噺家の高座を見ることも目的の一つだった。

 1994年に初版が発行され、昨年6月に改版発行。副題が「松鶴と弟子たちのドガチャガ」。まさに、その“ドガチャガ”は何とも可笑しかったり、理不尽だったり、そして感動的であったりする。

目次から章の名前をご紹介。
------------------------------
「増刷にあたり」
序章  凍てついた時間
第一章 ためいき坂、くちぶえ坂
第二章 「昭和ブルース」
第三章 粉浜村「虎の穴」
第四章 それぞれの彷徨
終章  溶け始めた時間
あとがき
<付録>松鶴一門の推移・一門系図
------------------------------

 巻末に松鶴一門が紹介されているが、なんという人数なのだろうか。筆頭弟子仁鶴から順に並べてみる。

仁鶴-鶴光-福笑-松喬-松枝-呂鶴-故・松葉(七代目松鶴)-鶴瓶-鶴志-小つる(六代目枝鶴)-伯鶴-和鶴-竹林-円笑-鶴松-岐代松-伯枝-忍笑-福輔(廃業)-鶴笑-鶴二-小松(廃業)

 物故者一名、廃業者二名を除いても、十九名が六代目松鶴の直弟子として現役で活躍しているわけだ。

 本書で松枝が書いているが、五代目松鶴の苦労を知っている六代目は、上方落語が盛んになるには、まず噺家の層が厚くなることが必要と考え、弟子に関しては「来る者を拒まず」「去る者を追わず」という主義だったようだ。他の一門が、入門段階で適性などをふるいにかけるのに比べると、まず取り込んでから、あえて理不尽なことも含めた困難を味わわせて、それに耐える者だけが自然に残る、というのが松鶴の考えであったのだろう。この「虎の穴」の修行に途中挫折した者を除いても二十人近いこの顔ぶれというのは、米朝一門に匹敵する層の厚さを誇っている。

 著者松枝は、すでに見たように五番目の弟子。昭和25年生まれ、昭和44年3月1日入門。

 松枝が本書を書く気持ちになったことは、本文の終章において、松葉との会話として語られている。「平成五年十二月三十一日」の章から抜粋。

「あれから色々考えた。此の時期にこれ程の難儀に遭うとは・・・・・・、筆頭弟子もエライ爆弾を持ち込んでくれたな・・・・・・」
 松葉も苦笑した。
「これから暫く、いやその後も、“しんどい事”になりそうや・・・・・・」
互いのそれは、趣を変える。しかしその説明も必要無く思える。
「君は無論、僕・・・・・・、いやお互い、重い十字架を背負う事になる・・・・・・。辛い事になりそうやな・・・・・・」
 松葉は殆ど無言でいる。言葉を探しあぐねているのではない。無言でいる事が、松枝への全面的な同意なのである。
「我々は、改めてその真価を問われる。その関係も・・・・・・。そこでな・・・・・・」
「・・・・・・はい」
「“その日”が、来るかどうかは分からんが、来た時に俺は心の底から“その事”を、“君”を祝う・・・・・・祝える自分、になって置かんといかん・・・・・・。分かるな」
「はい」
「“本”を書こうと思う」
「・・・・・・本」
「自分が入門した頃の事、君の事。他の兄弟弟子の事。何より、師匠の事。此の際、整理しておきたい。それらの事を思い出す。もう一度それらの意味を考え直して置きたい。(後略)」


 
 “筆頭弟子”仁鶴による“爆弾”は三日前に落とされた。どんな“爆弾”だったのかは序章に書かれている。本書は次のように始まる。

平成五年十二月二十八日

「ええか・・・・・・。これからワシ、『ある事』を言う。三人共、賛成してや」
 仁鶴が声を潜めて言った。三人とは松喬・松枝・呂鶴である。その気配にただならぬ物を感じ、松枝は不安を覚えた。
『ある事』とは何なのか、何に賛成せよというのか・・・・・・。
 平成五年十二月二十八日、笑福亭一門の忘年会、今まさに乾杯を前にしての事であった。


 この忘年会には二番弟子鶴光、三番弟子の福笑が欠席していた。よって、四番弟子、五番弟子、六番弟子の三人に、仁鶴は乾杯直前に、声をかけたのだった。そして、『ある事』とは、何だったのかが、筆頭弟子から明かされた。

「先日、松竹芸能・勝社長よりお話があり、早く『笑福亭松鶴』の名前を復活させるべきではないか・・・・・・私も、尤もと思い・・・・・・そこで、その候補を六代目松鶴の直弟子であり、松竹芸能所属である者に絞り考えました・・・・・・。本日、その名前をここに発表します」
 凍結では無く、さらに仁鶴(吉本所属)本人で無いと言う。ならば・・・・・・。
(中 略)
「私は熟考しました。そして苦しいながらも、結論を出しました・・・・・・」
 鍋が煮えたぎりグツグツ音を立てた。自分の心臓の鼓動に似ていると松枝は思った。
 音にせきたてられたかのように、仁鶴は一息に言った。
「熟考を重ねた結果、『七代目・松鶴』は・・・・・・七番弟子の『松葉君』に」
空気が氷った。時間が凍てついた。



 松葉は、結局七代目を継ぐことになったのだが、癌にむしばまれ、当初昇進披露興行を予定していた日に亡くなった。松葉については昨年の命日に書いたので、ご興味のある方はご覧のほどを。
2011年9月22日のブログ

 さて本書のことに戻る。先にエピローグとプロローグの一部を紹介した。「ネタバレか?」との思いもあるが、この件はある程度巷間に伝わっていると思うので、あえて引用させてもらった。
 松枝が描く笑福亭松鶴一門の最大の“ドガチャガ”が、この「七代目・松鶴」襲名問題であることは間違いがない。しかし、本書には師匠松鶴と何とも多彩な弟子たちとの“ドガチャガ”が、まだまだたくさん書かれている。
 第一章は、松枝が入門するために南海本線「粉浜(こはま)駅」からほど近い坂道の上にある長屋の松鶴宅を訪ねる場面を振り返ることから始まる。この「坂」に二つの名を松枝はつけた。朝松鶴宅に行く時の「ためいき坂」であり、帰りの「くちぶえ坂」である。この坂の名がタイトルになったわけである。

 松鶴と弟子たちの“ドガチャガ”は、時に「そんなアホな!?」という想像を超えた芸人ならではのエピソードであったり、「そりゃ、あかんで!」という犯罪一歩手前の事件であったり、「ええ話やなぁ・・・・・・」という涙を誘う逸話であったり、とにかく盛りだくさん。

 盛りだくさんの最初は、松鶴の弟子への罵りのボキャブラリー(?)から。

「アホンダラ、ボケ、カス、間抜け・・・・。エライ奴弟子に持って(し)もた、一生の不作や、情け無い・・・・・・。三文の値打ちも無いガキ。(やる)気が無い、愚図い、イタイ・・・・・・この腐れ弟子・・・・・・。。やめい、去ね、死ね、出ていきさらせ・・・・・・」


 この言葉でひるんでいては、六代目の弟子などは勤まらない。

 松鶴の数々の逸話は、章の途中に「松鶴の腹巻」と題して挟まれている。一つだけご紹介。

酔って帰宅した松鶴が、出迎えた弟子達に言った。
「ワシ、今朝“黒”の靴出せ言うたのに、“白”の靴履かして出しよったん、誰や」
見ると“黒”の靴を履いている。伯枝が恐るおそる言った。
「あの、師匠“黒”の靴履いてはりますけど・・・・・・」
「・・・・・・情け無い。お前はまだワシのイキが分かってない。ええか、師匠が“白”いうたら、“白”やねん。たとえ“黒”でもそれは“白”やねん。師匠と弟子とはそう言うもんやねん。・・・・・・猿笑、此の靴は何色や」
「“白”で御座居ます」
「うん。さすがに兄弟子だけの事は有る。忍笑、“烏”は何色や」
「白です」
「岐代松、“炭”は何色や」
「白です」
「うん。伯枝、此の靴は何色や」」
「白です」
「・・・・・・、お前、阿呆と違うか。これは、“黒”や。・・・・・・お前ら皆阿呆じゃ。“烏や炭が白い”なんて言うたら笑われるで。誰が何と言おうと“白は白”、“黒は黒”。あ—、阿呆な弟子仰山持ってもた、情けない。もう寝る・・・・・・」


 権太楼のマクラを思い出す、なかなか味のある楽しい逸話ではないか。

 昭和47年に鶴瓶が入門した頃から、松鶴を慕って入門する弟子が急増した。弟子は“年季”が明けるまで通いで師匠宅で修行をするのだが、遠くから通う者たちのために松鶴は一計を案じた。

 弟子の増えた松鶴は、権利金を払ってやり、溜息坂の下の長屋の一棟に連中を住まわす事にした。
「朝と昼はうちで食べたらええ。晩飯と家賃はアルバイトでかせいでやっていけ。ええか、仲良う真面目にせえよ・・・・・・」
「たおれ荘」と名付けられた此の長屋で共同生活を始めたのは、「小松」「松橋」「一鶴」「遊鶴」「鶴志」の五人である。全員二十歳以下であった。ただでさえ危ない。
(中略)
 建物の古さは度を越していた。壁土は無数無残にこぼれ堕ち、数ヵ所畳に腐りが見え、部屋の中程には空いたか空けたか、床が陥没して下の土が覗ける所もある。布団は敷きっ放して垢じみ、すえた匂がする。畳は即ゴミ箱でチリ紙、カップ麺の殻、いかがわしい雑誌のいかがわしいグラビア等で足の踏み場も無い。極め付けは便所に戸が無かった事である。彼らは小も大も“”さらけ出し”で用を足して居たのである。又、その光景を横に見て食事をしていたと言う。驚嘆を通り越して尊敬すらしてしまう。


 ちなみに、『たおれ荘』の五人の弟子達は、鶴志以外は現役として残っていない。それは、もちろん『たおれ荘』に居たからではない。弟子ラッシュの頃に入門した人たちは、たとえば人前では緊張で何もしゃべることのできない若者や、師匠の好物がタバコの“ピース缶(ピー缶)”だと聞いて、実家に頼んで“ピーマン”の缶詰を送らせる弟子などもおり、全員が残るほうが不思議なのだ。ある意味では、修業中に自分の適性を早く見極めることで新たな人生を歩むことのできた若者も多かったのだろう。

 著者松枝は、自分自身のしくじりも披露するし、もちろん先輩後輩たちのさまざまな“ドガチャガ”が明かされる。現在人気者の鶴瓶に関する、ちょっと恥ずかしいエピソードなども含まれているが、ここでは明かさない。

 松枝本人に関するエピソードの中で印象深い話が、第二章の「涙の中に顔がある」で書かれている。名古屋の松鶴独演会に、他の兄弟子もいる中で前座と付添として抜擢された松枝と師匠との話なのだが、この部分、私は電車の中で読んでいて涙をこらえるのに苦労した。100ページ近くなったら、人前で読まないことをお奨めする。

 六代目のことを思う時、どうしても父五代目松鶴のことも知っておく必要があるだろう。明治から大正、昭和の初めにかけて上方落語界再興のために奮闘した五代目のことをWikipediaから引用したい。Wikipedia「五代目笑福亭松鶴」

 松鶴は、1936年4月1日に私財を投げ売って『上方はなし』を創刊。1937年には、遂に吉本興業を離脱。2代目桂米之助(後の4代目桂米團治)らと共に、上方落語の復興を模索し始める。その後、東成区大今里の自宅を「楽語荘」と名付け、若手の育成に力を入れる。なお、『上方はなし』は1940年4月、49号を最後に資金不足、紙不足等の理由で廃刊。
その他にも1937年9月には京都・大阪で『上方はなしを聴く会』を開いたり落語をやれる場所があればどこでも駆け付けた。1943年3月吉本の高座に復帰するが、戦争の空襲で大阪が焦土と化した。
戦後も、終戦の年にいち早く「楽語荘」の再開や上方落語の会を四天王寺本坊で開催。1947年3月、文楽座での興行の成功や、9月の戎橋松竹開館にこぎつけるなど活躍。1949年には関西落語協会の副会長に就任したが、翌年病で倒れる。享年67。


 六代目の弟子や若手落語家、それも東京落語界を含む噺家達への面倒見の良さは、この偉大な父のことを考えずに説明できないように思う。それは、偉大な父を持つ同じ境遇の古今亭志ん朝との関係にも現れる。
 昨年、六代目の命日に紹介した『志ん朝と上方』から、あらためて紹介したい。
岡本和明著『志ん朝と上方』(アスペクト)
2011年9月5日のブログ
六代目松鶴という人
   志ん朝が最も敬愛した上方の咄家は、六代目笑福亭松鶴である。
   父親は五代目笑福亭松鶴。志ん生の息子として生まれた志ん朝に
   とっては、同じような雰囲気を持った松鶴はそれだけ親近感を
   覚えたに違いない。現在でも“六代目”と呼ばれ、多くの落語
   ファンに愛されている松鶴についてまず語ってもらおう。

—志ん朝師匠とは知り合うきっかけは?
仁鶴 うちの師匠(六代目笑福亭松鶴)を通じてです。
—紹介されたわけですか?
仁鶴 松鶴がよく仕事をしている三栄企画という事務所があるんですよ。うちの師匠は松竹芸能に体を預けてるけど、営業はその事務所を通じてやったんです。
 うちの師匠と志ん朝師匠は気が合いますわなあ。お互い血ぃ引いてるから、われわれにはわからない、共感というのがありますよ。そやから仕事もよく、その三栄企画という事務所を通じて、よくやられたみたいです。
 僕は松鶴の弟子ですけど吉本(興業)の所属やけど松鶴とも一緒に落語会をやったし、志ん朝師匠ともやってたんです。で、師匠が亡くなってからは志ん朝師匠と“二人会”という形で数多く、全国でやるようなったんです。
—志ん朝師匠を語る時、松鶴師匠を抜きには語れないと思いますが、松鶴師匠はどんな方でしたか?
仁鶴 非常に面倒見のいい人でしたよ。だから、東京の咄家さんにもずいぶんと友達が多かったですよ。そやから、僕なんか、ずいぶんと得をしましたよ。大阪に来た時・・・・・・文楽師匠(八代目)、志ん生師匠(五代目)、可楽師匠(八代目)、みな、“名人会”で来ておられたんですが、かわいがっていただきました。
 (中 略)
—志ん朝師匠は、昭和三十四年十一月に初めて松鶴師匠に会っていますが、このころはまだ枝鶴の時代ということになりますね。
仁鶴 ですから、何か責任感というか、咄家の血を引いたための責任感みたいなんがあった。・・・・・・性分もあるし、お酒っちゅうこともあって、東京の師匠達との付き合いは一番多かったんと違いますか。
—六代目はお酒についての逸話がずいぶんありますが?
仁鶴 いっぺん、師匠に言うたことがあるんですよ。
「お酒、もう、適当にしはったらどうですか?」
って一門が揃ってるところで、毎晩ですから。で、その後、
「師匠は夜も仕事してはりますな」
って言うたんです。
「もう、終わったら自分一人ですっと嗜んで、家へ帰ることがあってもええと思う」
 みなを連れてって、わっと騒ぐというのが半分仕事みたいになってました。
—本当はあまり楽しんでいなかったわけですか?
仁鶴 まあ、楽しんでるのは半分ですなあ。・・・・・・半分はがんばりですな。そやから家ではお飲みにならないんですよ、うちの師匠は。晩酌はやらないんです。
 

 名人と言われた父を師匠とする松鶴と志ん朝の年令差は、ちょうど20歳。父と子というよりは、年の離れた兄弟という感じだったのかもしれない。志ん朝の酒の呑み方も凄かったらしいから、酒でもつながっていたのだろう。二人だけにしか共有できない空間と時間が、きっとあったはずだ。

 志ん朝が、「とても親父のようには出来ない」と思い、円生や文楽の高座を目標にしたと察することはできる。そして六代目も、「とてもおやっさんのような立派なことはでけへん・・・・・・」と悩み考え抜いていたと思うのだ。

・偉大な父五代目松鶴のように、俺は上方落語に貢献できるんやろか?
・とても、博識のある親父のようには、でけんやろなぁ・・・・・・。
・上方落語が賑やかになるには、ともかく噺家が大勢おらんことには始まらん。
・よっしゃ、どんどん弟子とって、苛め抜いて、そこから這い上がる奴を育てたろ!

 こういう思いが、あったのではないだろうか。もちろん、酔って帰った時には、“高邁”な師匠の信条などには関係なく、弟子に罵声も浴びせ鉄拳も飛んだであろう。しかし、数多くの弟子を松鶴と奥さんである“アーちゃん”が抱え続けたことの基本には、上方落語界への熱い思いがあったはずだ。とんでもない弟子達に、豊富な表現力(?)で罵声を浴びせながらも、松鶴という人の本質には繊細な優しさがあり、まさに慈父の目を注いでいたことは、本書でもよく伝わる。それは、七代目を継がそうと期待した実子(当初光鶴、その後五代目枝鶴、現在行方不明)が、その重圧に耐えられず落語の世界から逃げ出したことと無関係ではないだろう。
 だからこそ、弟子にとって「松鶴」は、あくまで六代目の「おやっさん」のことであり、自分達が元気なうちは、「松鶴」の名を止めておいて欲しかったのだ。
 
 七代目襲名をめぐる“ドガチャガ”のことを書き残したいという松枝の思いは、松鶴と弟子たちの数多くの“ドガチャガ”を包含し、上方落語の一大勢力を誇る一門を知るための貴重な記録、記憶で溢れた好著につながったと思う。
 この“ドガチャガ”は、なかなかに凄い。上方に関わらず落語愛好家の方にぜひお奨めです。
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by kogotokoubei | 2012-06-18 22:56 | 落語の本 | Comments(4)
仕事の関係で、行く予定だった落語会を一回断念したことによる禁断症状(?)もあったが、今年の真打昇進者については一之輔のことばかり書いてきたような気もするので、バランス感覚が少し働き、芸術協会の真打昇進披露興行の池袋へ。

 芸協の興行は五人の昇進者がいるので、昼席と夜席で出演者を分け、トリも交互に受け持つのだが、すでに紹介したように、昇進者の一人である春風亭柳城が入院したので構成が替わった。本来は柳城がトリの予定で五人中三人が登場予定だった昼席は、仲入り後(いわゆるクイツキ)で鯉橋、主任が里光だった。

 しかし、演芸場の前の掲示の昼席の部分には、柳城の名が残っていた。あえて名を消さなかったのか、書き直す手間を省いたのかは分からないが、これも結構だろう。
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 12:30開演ということなので開口一番を考え、また土曜日で混みそうなので11時半頃に並んだが、テケツ(入場券売り場)が開いていない。すでにチケットを持っているお客さんは地下に降りる入り口に、たぶん二十人ほど並んでいた、結果として12時10分前には開場になった。しかし、まだテケツの前から並ぶ三十人余りの人は、そぼふる雨の中で待つ。ようやく係の人が来たのは12:00頃。これは、いけませんよ、池袋さん。
 という状況で、開口一番の頃にはほぼ九分程度の入りになり、開演後は立ち見の状況だった。真打披露興行で、この顔ぶれ、芸協だってできるのだ。

出演者と所要時間、そして感想を書きたいと思う。ちなみに開口一番が12:15、打ち出しが16:15、ちょうど4時間の昼席だった。

前半の後ろ幕は、日本大学文理学部落語研究会OB会から鯉橋宛である。色は青。

開口一番 春風亭吉好『平林』 (15分)
 柳城の弟弟子らしい。前座にしては厳しいかもしれないが小言。2009年に入門したとマクラで言うのはいいのだが千葉大に8年いた、などはまったく無駄であり野暮である。入門したら学歴などは自分で口にすべきことではない。こんなことをマクラで言っているのを聞くと本編をまともに聞く気になれない。寝ていた。

春風亭笑好『雑俳』 (14分)
五月に同じ池袋で聞いて以来。小柳枝門下で13年目、ということを考えると、小言が続く。舌足らずなのはしょうがないが、あまりにもリズムが悪すぎる。開口一番を含め、普段は寄席に来ないお客さんも多かったようで、ネタ自体の可笑しさで笑いは起こるが、真打昇進を目の前にしている噺家の高座としては、感心しない。

北見翼 奇術 (13分)
 たぶん二度目。若いが、この人は達者だ。いわゆるテヅマ(日本古来の奇術)を継承する得難い芸人ではないだろうか。

春風亭傳枝『壷算』  (18分)
 初である。なかなかのイケメン。マクラで「小沢さんも大変で」とふったので、個人的には不快だったが、噺は結構。ようやくまともな落語を聴けた、そんな思いだった。会場は普段の池袋とは違って、ネタそのものの可笑しさで笑ってくれるお客さんも多く、結構な盛り上がり。この人、もう少し聴いてみたいと思った。

春風亭柳好『動物園』 (10分)
 テレビで見たことはあるが、生の高座は初めて。本来はトリをとるはずの弟子柳城の入院のことが明かされた。腰にできた“良性”腫瘍のための入院で、今月のうちには退院する予定とのこと。
 本編は、通常の内容から少し舞台設定を替えてアッサリと。 マクラを含め10分の高座では何とも評し難い。あらためて後日聞いてみたいと思う。大きな名跡を継いだ当代の高座を聞くことも大事だと思う。

東京ボーイズ  ボーイズ  (14分)
 名人芸、だと思う。私は小学生の頃から、テレビで見る“ボーイズ”が大好きだった。
 二人になっての高座を何度か見ているが、同じネタでも“生きている”ので、その都度、良い意味でで変わるし、何とも言えない“間”が好きだ。八郎さんが、今残っているボーイズは五つ、と言っていたが、本当に少なくなった。旭五郎亡き今、菅六郎さん(三味線)と仲八郎さん(ウクレレ)の芸の貴重性について、いわゆる芸能評論家は分かっているのだろうか。

桂米助 漫談&『看板のピン』 (22分)
 「オウムの高橋です」というツカミを含む漫談風のマクラが続き、野球の話に進んだ時には、このまま漫談で行くのだと思っていた。しかし、次の鶴光の入りが遅かったせいなのかどうか、マクラ8分ほどで、なんと「落語」に入る。久しぶりなのか、言いよどみ、言い直しが多く、決して良い出来とは言えない。しかし、汗を額に光らせながらの熱演に、何か訴えるものを感じた。「俺にも古典落語ができるんだ!」と、会場よりは楽屋に向かって見せているような、そんな意気込みのようなものが漂っていた。協会専務理事としての、改革への熱意が背景にあったのなら、非常に良い兆候だろう。

笑福亭鶴光『袈裟御前』 (16分)
 この人ならではのやや下ネタ風のマクラで会場を沸かせ、得意の地噺へ。長年のラジオのDJ経験などを含め、ピンクジョークやさまざまなエピソードで、漫談でいくらでも時間をつぶせる人だろうが、しっかりネタをするのは、トリが上方落語として東京で初めて真打に昇進する自分の弟子であること、そして松鶴一門の二番弟子であることへの認識も忘れていないのだろう。NHK「日本の話芸」にもたまに登場するが、この人の落語、なかなかのものなのである。師匠松鶴も東京での活動を後押ししたようだが、東京と上方との架け橋としての役割も小さくない。高座もなかなか結構だった。

真打昇進披露口上 (14分)
 仲入り後に幕が開いて、後ろ幕が青から赤に替わる。しかし、寄贈は同じ日大文理学部落語研究会OB会。里光がトリの高座で明かすのだが、里光が入学した時、鯉橋が四年生(関西なら、四回生)。しかし、入門の差は数ヶ月に縮まったようだ。
 下手から、司会の柳好、鯉昇、鯉橋、里光、鶴光、米助、と六人が並ぶ。それぞれ笑いを取りながらの口上だったが、あえて書いておきたいことは、締めの場面。柳好が「米助師匠の音頭で三三七拍子」」と、きっとお約束でと思われたフリだったのに、米助がマジに泣きながら笑って止まらず、鶴光に音頭を譲った場面だ。途中に米助が、「俺は、落語やって疲れてんだから」と言ったのが、何とも印象に残る。やはり、滅多にやらない落語の後で、いつもとは違う心の持ち様にあったに違いない。 あるいは、入りの遅かったため古典をやらざるを得なかった鶴光へのお返しか。しかし、結構マジに笑っていたなぁ、米助^^

瀧川鯉橋『蒟蒻問答』 (25分)
 「口上の時にお辞儀をしっぱなしも、なかなか大変で・・・披露興行もそろそろ半ばで皆さんお疲れで・・・」という話は、この人の語り口だから許せるが、一之輔は、ブログでは泣きも少し書いていたが、高座ではそんなことは一切聞かなかった。このへんは、開口一番と同様、今後野暮な言い回しにならないことを祈りたい。
 本編は、大変結構。師匠も十八番にしているネタだが、マクラで「問答」の例をさりげなく、しかし流暢にふって伏線として、なかなか堂々とした高座。
 あえて、今年の落語協会の三人の真打と比較するが、朝太よりは上か、と思う。しっかりした本寸法の噺に、この人への期待が高まった。


瀧川鯉昇『粗忽の釘』 (12分)
 近所の田中さんからもらった骨に効くサプリメントなどの定番のマクラで7分。そこからの本編は、たった五分でも、間違いなく鯉昇ワールドである。釘にかけるのは、箒ではないことはもちろん、すでにエキスパンダーでさえない。ロザリオである。これ以上は書かないが、寄席でも光る高座、あらためてこの人の芸協での頑張りに期待したい。

ボンボンブラザース 曲芸 (13分)
 芸協における豊富な色物の中でも、この二人は大好きだ。あの紙を使った至芸はなかったものの、帽子を使い客席を巻き込む芸など、難しい技を淡々と進める良質のボードビルに堪能した。

笑福亭里光『皿屋敷』 (30分)
 15分あったマクラの中で、大学の落研の先輩だった鯉橋のこと、そして本来はトリの予定だった柳城のことにふれる。「柳城からチケットを買って来られた方?」との質問に、前の方の列で数名のお仲間と思しき女性陣(?)から手が上がる。なかなか心温まる一瞬だった。柳城の地元、行田から来られたのかどうかは知らないが、うれしいじゃないか、こういうお客さん。そして、マクラは続き、学校寄席でのなぞかけのこと。これは本編でのクスグリにつなげていて、まぁまぁの効果があった。
 本編は、鯉橋と、あえて比べれば、少し差がある。しかし、彼が、「柳城の得意なネタをやります」と言った気持ちには、十分にこの噺家をまた聞こうと思わせる気配りを感じた。東京で初の上方落語の真打、という謳い文句をどこまで広めることができるか、ぜひ今後も見続けてみたいものだ。


 芸術協会の真打披露興行は、なかなか結構だった。米助やそれぞれの師匠達の意気込み、そして同時昇進したのに高座に出ることも出来なかった柳城への思いやりなども感じることができた。
 何と言っても鯉橋の高座には今後の芸協を支えるだけの力量と味わいを感じることができた。

 こういう若手実力者がいるのだ。何も末広亭で客寄せパンダで有名人に来てもらわなくてもいいだろう。席亭は客の入りに不満をもらしただろう。たしかに現時点での落語協会との客席の埋まり具合の差は歴然だ。しかし、それぞれの噺家がしっかり芸を磨けば、色物は落語協会より上だと思う。客は来るはずだ。円楽一門や立川流などの手を借りることもなく、協会そのものの自助努力で、平日だって客を呼ぶことはできるはず。そのためには、技術、了見ともに、今以上に先輩達が嫌われるのを恐れず「小言」を言う必要もあるのでないか。
 落語協会もそうだが、若手前座や二ツ目の中には、落研のノリから抜け出せない人も多い。そういった了見違いを直すためには、先輩師匠達がもっと怖い存在になる必要があろう。どこの大学に何年いようが、関係がない。そもそもそんな話題をする背景には、自虐的な心理より、やや自慢げなものを感じる。

 あえて言うが、今更、末広亭に永六輔が出演しようが、彼の話を聞くために行こうとは思わない。彼の親族が鯉橋の連れ合いであろうが、正直なところ、どうでもいいことなのだ。あくまで高座であり、その一期一会を楽しむために寄席や落語会に行くのだ。そういう意味で、鯉橋のしっかりした高座に出会えたことだけでも、雨の池袋に駆けつけただけのことはあった。
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by kogotokoubei | 2012-06-17 15:41 | 落語会 | Comments(6)
週刊文春が売り切れているらしい。小沢一郎夫人(元夫人?)が支援者に送ったという手紙のインパクトは小さくなかったようだ。週刊文春WEBから一部を引用。週刊文春WEBの該当ページ

 民主党の小沢一郎元代表(70)の和子夫人(67)が、昨年11月に地元・岩手県の複数の支援者に、「離婚しました」という内容を綴った手紙を送っていたことがわかった。

 便箋11枚にも及ぶ長い手紙の中で、和子夫人は、昨年3月の東日本大震災後の小沢元代表の言動について触れ、「このような未曾有の大災害にあって本来、政治家が真っ先に立ち上がらなければならない筈ですが、実は小沢は放射能が怖くて秘書と一緒に逃げだしました。岩手で長年お世話になった方々が一番苦しい時に見捨てて逃げだした小沢を見て、岩手や日本の為になる人間ではないとわかり離婚いたしました」と書いている。



 手紙ではこの後に、「愛人」「隠し子」といった諸々が綴られているらしい。

 この手の週刊誌ネタの信憑性の問題は残るが、どうも、昨年震災以降の小沢一郎の行動、いや静寂を裏付けてもおり、この手紙は説得力がありそうだ。

 私は大震災およびフクシマからほぼ一か月後の昨年4月13日、次のように書いた。そんなに長い文章ではないので、全文を再度掲載する。*時事ドットコムの記事はすでにリンク切れです。2011年4月13日のブログ

----------2011年4月13日のブログ-------------------------------------------
 予想通り、民主党内部でも菅おろしの動きが出てきた。それも、小沢一郎が吼えている。
時事ドットコムの該当記事

菅政権「さらなる災禍招く」=小沢氏、首相の震災対応を批判 
 民主党の小沢一郎元代表は13日、東日本大震災や福島第1原発事故への菅政権の対応について「初動対応の遅れをはじめ、菅直人首相自身のリーダーシップの見えないままの無責任な内閣の対応は、今後、さらなる災禍を招きかねない」などと厳しく批判する見解をまとめた。10日の統一地方選前半戦での民主党大敗で菅政権の求心力が低下する中、小沢氏が公然と首相を批判したことで、首相退陣を求める声が高まる可能性がある。
 見解は、小沢氏を支持する若手議員による「北辰会」の13日の会合で配布された。小沢氏周辺によると、同氏と12日に会談した鳩山由紀夫前首相も、認識を共有しているという。
 小沢氏は見解で「地震、津波による被災者への対応は遅々として進んでいない」と強調。「政治家が最後に責任を取る覚悟を持てないのであれば、何のための政権交代だったのか」と指摘し、統一地方選の結果については「国民からの菅政権への警告だ」としている。(2011/04/13-16:17)


 小沢よ、そこまで言うなら早急に自ら「責任を取る覚悟」で、“元”代表から“現”代表に復帰してもらおう。そして、一向に先が見えない災害対策の道筋を示し、率先して困難な状況を打破するために、自らの政治生命を賭けてもらおうじゃないか。もし、憎い菅をひきずり下ろすためだけの民主党の内輪もめなら、勘弁願いたいものだ。
 この人は、前に出るべき時に隠れ、隠れていて欲しい時にでしゃばる人、という印象が強い。菅や鳩山にはない“豪腕”は、この時のために必要な気がする。“ゆぅだけ”の「うどん屋の釜」で終わって欲しくないものだ。
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 私は小沢一郎に期待していた。最近も、野田政権の体たらくに対し、小沢復権を期待する思いを書いてきた。
小沢一郎を潰そうとする動きの危険性を本を紹介することなどで非難してきた。

 しかし、これか・・・・・・。何とも言えない怒りと脱力感がないまぜになっている。
 
 「愛人」「隠し子」という、いわばプライベートな部分には、あえて目をつぶってもいいが、夫人の手紙にあるように、“放射能が怖くて秘書と一緒に逃げだしました。岩手で長年お世話になった方々が一番苦しい時に見捨てて逃げだした”男による、「地震、津波による被災者への対応は遅々として進んでいない」「政治家が最後に責任を取る覚悟を持てないのであれば、何のための政権交代だったのか」と菅を批判した言葉は、彼自身が放射能に汚染される不安が言わせた、ということか。

 私が紹介した本『人物破壊 誰が小沢一郎を殺すのか?』の著者、カレル・ヴァン・ウォルフレンは、この件についてどうコメントするのだろうか。2012年4月27日のブログ

 この手紙の内容が事実なら、小沢は他の誰からでもなく、まったくの“自滅”で破壊される。

 この男、「うどん屋の釜」だったのか・・・・・・。

 もし、文春掲載の手紙が捏造されたものであったり、真実を曲げているものなら、即座に反論すべきだろう。いや、ぜひそうして欲しい。

 ここでもまた“隠れて”いるようなら、実際は「李下に冠」「瓜田に履」であったにしても、この男の政治生命はもう終わりだろう。

 小沢が消えたら、劣等比較で橋下の人気が上がりそうなのが、何ともやりきれない。「うどん屋の釜」も困るが「維新そば」も、不味そうだ。
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by kogotokoubei | 2012-06-15 15:12 | 幸兵衛の独り言 | Comments(8)

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松本尚久編『落語を聴かなくても人生は生きられる』(ちくま文庫)

 著者は放送作家で、落語に関する著書もある、いわゆる落語評論家。

 タイトルは、“反語”と思えばいいのだろう。集められた文章の書き手は、落語大好きの人ばかり。落語がなくても生きてはいけるだろが、味気ない人生になるのは間違いがない。

 落語-放送作家、という関係では、先輩に落語立川流Bコース真打だった二人を思い出す。亡くなった景山民夫(立川八王子)、そして4月に緊急入院し療養中の高田文夫(立川藤志楼)だ。

 著者松本尚久も立川流、正確には談志との縁が深い。2001年から2002年にかけて文化放送の『立川談志最後のラジオ』を担当していた。
 この人は1971年生まれらしいから、まだ41歳。これまでに、本人単独での落語関係書として、『芸と噺と—落語を考えるヒント』(2010年5月、扶桑社)、『 落語の聴き方 楽しみ方』 (2010年12月、ちくまプリマー新書)という二冊の著作がある。ラジオや雑誌のコラムなどでの露出も少なくないようで、本人の年齢に近いか、より若い世代の落語ファンに受け入れられている人なのだと察する。

本書の目次は次の通り。途中途中に著者による次の章の序章的な文章が入る。
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まえがき

志ん朝さんの死 小林信彦
志ん朝「最後」の十日間 長井好弘

私の落語今昔譚 都筑道夫
悋気の火の玉 池内紀
人と人の出会う間 戸井田道三

桂枝雀 三國一郎
立川談志 三國一郎
立川流オールスター一門会パンフレット 田村隆一
噺家は世上のアラで飯を喰い 景山民夫
明石家さんま 小倉千加子
落語を聴かない者は日本文化を語るな 小谷野敦

ブログ 老後にそなえて 佐藤晋
なんか憂鬱。(mixiの日記より) 抹茶モナカ
twitter sugaya03
ブログ 時間の空間 時間

金馬・正蔵はなぜセコと言われたか 日比野啓
上方落語・桂枝雀 森卓也
ある落語家—立川談志 松本尚久

寄席 久保田万太郎

あとがき
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 若いながら、このアンソロジーにおいて選ばれた文章は、熟年(?)落語ファンも「おっ!」と思わせるセンスの良さを感じた。
 冒頭の志ん朝に関する二編は既読。しかし、志ん朝から始めることには異論なし^^
 
 そして、他に滅多に目にしない数多くの掘り出し物が並んでいた。

順番として、「まえがき」から少しだけ紹介。

 ここにひもとかれるアンソロジーには、ぼくを含めて、落語に関する専門家や職業的な書き手—いわゆる落語評論家—が登場しない。ここに並んだ彼ら彼女らは、落語を外部から視ている人たちだ。モチーフとして他者として視ること。その(距離)を足がかりにして、なんらかの見取り図が示されていること。
 このアンソロジーを編むにあたって、みずからに設けた選択方針は、この一点に尽きる。そして、さまざまな<他者の視線>を通じて、落語の現在を読み解くことが、本書の目的である。



 やや“固い”表現で執筆意図が説明されているが、この本を読むにあたっては、何ら力むことも構える必要もないと思う。いろんな「外部」の落語愛好家が、それぞれの視線、そして生活基盤に立って落語に関して書かれたものが集められており、一部には落語以外の分野の評論家さんの若干難解な文章もあるが、大半は新たな発見も伴い楽しく読むことができた。
 
 たとえば、推理作家で、テレビ番組「キイハンター」(懐かしい!)の原案を考えた人でもある都筑道夫さんの「私の落語今昔譚」は、晶文社から1974年に発行された『目と耳と舌の冒険』が原本だが、なかなかいいのだ。
 
まずマクラは次のように始まる。
 昭和十年代の小学生のころに、はじめてつれていかれた寄席は、神田の花月だった。専修大学前の電車通りを、神保町の交叉点のほうへひとつ目か、ふたつ目の露地を右に入って、いまの北沢書店新刊洋書部の裏あたりだろう。鈴蘭通りへ出ないうちに、また細い露地を左へ入ったところにあった。

 都築さんが語る寄席と落語への思い出は、昭和の初めの東京の街並を辿る楽しさがある。そして、ある特定の落語家への思いの変遷が、次のように語られる。
 最初のうち、私は志ん生よりも、文楽のほうを尊敬していた。ところが、志ん生が弟子のひとりにいった言葉を聞いてから、落語という芸に対する考えが変って、私のなかでのふたりの席順もひっくり返った。ことに戦後の志ん生の円熟ぶりに、弟子の言葉の真意がだんだんわかってくるような気がして、尊敬はますます深まった。その言葉というのは、羊羹とカステラの食いかたのちがいや、うどんと蕎麦をつまみあげる扇子のつかいかたの違いを、身につけようと努力している弟子にむかって、志ん生がいったことで、
「並河のは、ありゃあ、お前、物真似がいくらうまくても、落語にゃあならない。帯をしめるところなら、こうすりゃいいんだ」
 と、両手で水平に、ぐるりと輪をえがいてから、その両手をぽんと叩いてみせたというのだ。並河は文楽の本名だが、この志ん生の言葉は、それに対する敵意ではないだろう。描写だけでは落語は出来ない、落語でいちばん大切なのは、しゃべる話そのものだ、計算づくの落語には限界がある、という信念をいったもににちがいない。

 この逸話について、都築さんは後からそのネタ元を披露する。それは、落語家の兄だったのだ。都築さんは四人兄弟の三番目。二番目の兄が落語家だった。

大正十五年生まれで、たしか昭和十八年に、深川の都立化学工業学校の電気化学科を卒業するとすぐ、志ん生の弟子になった。古今亭志ん治という名前をもらって、前座の修業をはじめて一年目ぐらいに、先に書いたことを師匠にいわれて、「目がひらいたような気がする」と、感動の面もちで、私にも聞かしたのだった。

 
 この志ん治は、師匠が満州で消息不明になったため、正岡容の口ききで古今亭今輔の門に移って、桃源亭花輔となる。
 兄は今輔門下に移ってから、新作落語に転向した。ギャグをつくる才能は豊富で、「桃太郎」に入れた、
「おじいさんの名前、ないの。お米と取っかえちゃったんだ」
 というのや、
「ぼくんちへ遊びにおいでよ」
「やだよ。狭いから」
「ひろくなりましたよォ。おとうさん、きのう箪笥、売っちゃったから」
 というまくらなぞ、戦後の貧しい時代には、するどく響いたものだ、ほかの落語家たちが、たちまち登用したくらいだから、身びいきとばかりはいえないだろう。自作自演の新作がみとめられだして、やがて真打に昇進し、鶯春亭梅橋を名のった。

 現役の落語家も、このギャグを使っているのを聞いたことがある。「綴方教室」や「彼女の弟」、「幽霊タクシー」などの新作を残した梅橋は、肺肉腫で昭和三十年十月二十七日に、二十九歳の若さで亡くなったらしい。

 本書で、都筑さんの昭和初期の街並み描写とともに語られる当時の寄席や落語界のことに加え、鶯春亭梅橋という噺家を知ることができた。原本である晶文社の本は、この出版社ならではの日本や海外の文芸、芸術、いわゆるサブカルチャーを伝える貴重な本が多いのだが、決して安くないので、買いたくても買わなかったものが多い。こういうアンソロジーで紹介してくれるのは、単行本を古書店で探すためのガイダンスとしてもありがたい。

 先日、著書『21世紀の落語入門』を紹介した小谷野敦の「落語を聴かない者は日本文化を語るな」の初出は、「文學界」2005年9月号。これを読んで、実は七年前に、文春新書から小谷野は落語入門書執筆の依頼を受けていたが、なかなか書くことができなかった、ということが判明。内容は『21世紀の落語入門』と重複するものもあるが、タイトルに沿った主張の切れ味はなかなか結構。この人の臆さない物言いは、賛同する読者には心地良いが、見解を異にする人からは、結構恨みを買うだろうなぁ。紹介した本も、明らかな誤りなどが結構あって、校正が不十分なのは間違いないが、この人は、「後で直せばいい」という感覚なのだと思う。だから、合う人と合わない人の落差は大きいだろう。私は、細かな誤りよりはそれほど気にならず、その主張内容や感性において、結構合うほうだ。だから、読みながら「その通り!」と思う部分が多いので、この人の他の本も読もうかと思っている。これって、社会心理学用語で言うと、「フェスティンガーの認知的不協和理論」で説明できるんだろう(偉そうに!)。人は自分の不協和を低減させるべく行動する、って奴だ^^

 そういった、私の“好み”という観点で言うなら、桂枝雀に関する内容もうれしい限り。三國一郎さんの短文の味わいも結構だし、小米時代から枝雀を聴いてきた森卓也さんの文章も読みごたえがある。

 そして、本書でのうれしい発見のもう一つが、落語ブログ仲間(と勝手に親近感を抱いている)「時間」さんの、昨年大震災直後のブログが掲載されていること。あの時、私もブログ「時間の空間」に綴られた震災後の行動の記録を、眼を皿のようにして読ませてもらったことを思い出す。あらためて本書で読み返しても、あの震災後に、何とも冷静に行動し、かつ丹念に貴重な記録を残されたことは尊敬に値する。「時間」さんは落語への鑑識眼も鋭く、私のように冗長な文章ではなく、簡潔にして的確なその内容にはいつも感心している。同じブロガーとして、本書に掲載されたことで、勝手ながら誇らしい気分にさせてくれた。


 昭和初期の落語体験記があるかと思えば、他の芸術評論分野からの落語評論への試みがあり、そして自分の好きな落語家への熱い思いの吐露があるかと思うと、評価の低い贔屓の落語家への応援歌もある。そして、ブログにツイッターという今日ならではの表現スタイルで語られる、生活の中の落語。

 「まえがき」で紹介した、著者が思い描いた目論見は結構成功していると思うし、私にとっては“発見”と“賛同”の豊富なアンソロジーだった。この人、若いのになかなか結構な了見をしているようだ。幅広い落語愛好家の方が楽しめる本として、推奨します。
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by kogotokoubei | 2012-06-12 23:31 | 落語の本 | Comments(6)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛