噺の話

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*お台場寄席ホームページより
お台場寄席のホームページ

 「上手かった」とは聞いたり本で読んだりしている。しかし、その高座を聞くのは初めてだった。

 2004年7月19日の国立演芸場での高座。小金治さんは大正15(1926)年10月6日の生まれなので満77歳でのライブ。
*1926年は12月25日からが昭和元年。

お台場寄席のホームページからプロフィールを引用する。

<プロフィール>
桂 小金治 (かつらこきんじ)
出身地: 東京都杉並区
芸歴:
1947年 桂小文治師匠の弟子となり落語界へ入門。前座名 小竹(コタケ)。
1949年 二つ目に昇進、桂小金治となる。
1952年 映画界入りする。その後テレビ界に進出。
1966年 ワイドショー番組『アフタヌーンショー』のメイン司会者を担当。“怒りの小金治”の異名をとる。
1975年 『それは秘密です』の司会を担当。“泣きの小金治”と言われ親しまれる。



 私が子ども時分は、すでに“怒りの小金治”であり、古い映画での活躍もテレビ放送で何度か拝見した。“泣きの小金治”の頃は学生から社会人になる時期で、あまり関心をもってテレビで見る対象ではなかった。

 だいぶ前に紹介した本、『小沢昭一がめぐる 寄席の世界』で小沢さんとの対談が載っていて、次のような述懐がある。
2008年10月4日のブログ

小金治 正岡容さんになにかの機会にお会いしたときにも
    「小金治さん、あなたは落語の世界に生きるべきでしたよ。
    私はね、川島監督をうらんでます」と言われました。
    喜んでいいのか悲しんでいいのか、分からなかったけれども。
小沢  正岡容は私の師匠です。陰でよく言ってましたよ。惜しい、
    惜しいって。でも、惜しい、惜しいというのは好意があって
    のことなんだけど、悪意のこもった陰口もずいぶんあったで
    しょうな。
    お耳には届かなかったでしょうけど。
小金治 僕は魚屋の息子に生まれて、一生懸命やるということだけを
    親からたたき込まれた。どこかの世界に行っても一生懸命。
    僕はよくおやじに言われたんですよ。悩め、苦しめ、強く
    なれって。
    やっぱりお金が入ったときに、周りからチラチラと「落語
    の世界にいれば」みたいなことを聞かされて悩んだ。でも、
    こうやって悩んだことによって、俺は強くなるんだって自分
    に言い聞かせて、歩いてきた。
    それでも正直言って、せっかく身につけた落語を全部消し
    ちゃうというのはもったいないんで、うちで落語の稽古を
    ときどきやってます。その話を司会者の玉置宏と会ったとき
    にしたら、玉置がある高等学校で落語会をやって、僕を使って
    くれた。それから、横浜の駅前に「にぎわい座」という寄席が
    あるんだけどね。玉置に言われて、あそもにも出たの。
小沢  それは最近ですか。
小金治 今年(2003年)の4月2日。『長短』と『禁酒番屋』をやった。

 正岡容は、小沢さんのみならず人間国宝桂米朝の師匠でもあるが、当時の落語界での大ご意見番であった。
 そして、この川島監督こそ、小金治を落語界から映画界に転職(?)させた張本人、川島雄三。あの落語を題材とした傑作映画『幕末太陽傳』の監督。ちなみにこの映画では、フランキー堺も石原裕次郎もいいが、貸本屋金造役の小沢昭一さんが凄い。小金治さんは残念ながらこの映画には出演していない。この映画については、後日別途書きたい。ともかく傑作です。

 小沢さんの本には、小金治さんのこの高座のマクラで語られる“落語家になった動機”なども語られているし、川島雄三監督との出会いのことや、最初の映画出演のギャラのことなども明らかにされているので、興味のある方にはお奨めです。

 とにかく、この高座を聞いて驚いた。三代目桂三木助直伝とのこと。「含」ではなく「眼」とあるのは誤りではない。噺の中でご隠居も説明している。
 何か凄いものを聞いた、という印象。正岡容が川島監督をうらむ、と言ったのも理解できる。
 「大向こうを唸らせよう」というような気負いなど微塵もなく、77歳にしてなんとも軽妙で聞く者を自然に噺の世界に引き込む語り口の見事なこと。八っつぁんが餅を食べるシーンが脳裏に鮮明に浮かんでくる。客に聞かせてやろう、ではなくご本人も客の一人として高座を楽しんでいるようにも思え、きっと当日の会場は幸せな空気が流れていたんだろう、と察する。

 “落語家の実働年数”としては中途で転職したので五年ほどしかなかったわけだ。映画やテレビといった他の芸能の世界において磨いてきた語りの技が、“冷凍保存”してきた噺家としてのDNAに加味されて、誰にも真似できない小金治落語の世界が出来上がった、そんな印象を受けた。ぜひ、生で聞きたいものだ。
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by kogotokoubei | 2010-08-28 06:41 | インターネットの落語 | Comments(9)
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 *歌川国芳作の長兵衛。Wikipediaから

 今日8月27日は、旧暦では7月18日、幡随院長兵衛の命日。日本の“侠客”の元祖とも言われ町奴のリーダー長兵衛が、ライバル旗本奴のリーダー水野十郎左衛門に湯殿で殺された日、ということになる。明暦3(1657)年の7月18日のことで、生まれは諸説あるが元和8(1622)年説をとると、享年36歳、江戸時代とはいえ、まだ若い。まぁ、「まだこれから・・・・・・」という時に亡くなったから英雄視され、歌舞伎にもなったのだろうけど。

 大雑把に言えば、やくざの元祖と言うこともできるだろうが、当時は決して「反社会的勢力」ではなかった。どちらかというと、徳川の世も三代目家光の時代を迎え、職を失った侍たちが徒党を組んで狼藉をする「旗本奴」に立ち向かう庶民の味方であり、ヒーローとして慕われたようだ。恩人である山脇宗右衛門の仕事であった“人入れ宿”(口入れ稼業兼派遣労働者の宿)を継承し、荒くれ者たちに仁徳と力で慕われた。そして、弱き庶民の味方。だからヒーローとして歌舞伎にも描かれたのだろう。まず、鶴屋南北が書いた。“鈴ヶ森”は、落語ではマヌケな泥棒の噺だが、『浮世柄比翼稲妻(うきよづかひよくのいなづま)』において、長兵衛が駕籠の中から白井権八に向かって、あの科白、「お若えの、お待ちなせえやし」と呼びかける場所である。歌舞伎にはそれ程詳しくないが、この科白くらいはわかる。その後、明治に入ってから河竹黙阿弥の「極附幡随長兵衛」が上演され、長兵衛人気が定着したようだ。

 落語にだって登場する。『芝居の喧嘩』は、幡髄院長兵衛を元締めとする町奴と、水野十郎左衛門を頭とする旗本奴の芝居小屋山村座(猿若座とも言われる)での喧嘩をネタにしている。実話かどうかはちょっと怪しいらしい。今年4月に末広亭で春風亭一朝の名調子を聞いた。良かった。上方落語で長兵衛の名が印象的なのは『胴乱の幸助』。桂枝雀の音源はよく聴くが、喧嘩仲裁を趣味とする幸助のことを語る、上方の噺ではレギュラーと言える登場人物のデコボココンビが、幸助が仲裁役を引き受ける際に見得を切って言う科白として「幡随院長兵衛とは俺でございっ~」、が楽しい。

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池波正太郎著『侠客』

 小説では、池波正太郎が、ズバリ『侠客』というタイトルで長兵衛こと塚本伊太郎の物語を書いている。この本では、長兵衛と水野十郎左衛門との関係が劇的だ。少し長くなるが、引用する。池波正太郎 『侠客』
 まず、長兵衛の体型や顔つきについての記述。
 袖のの短い、茶の麻の小袖から若い伊太郎の体躯がはち切れそうに見えた。
 背丈は六尺に近かったし、筋肉もみごとに引きしまっている。
 巨体、といえよう。
 濃い眉や、まなじりの切れ上がった両眼、ふとい鼻など、伊太郎の顔貌もまた、その体躯にふさわしい男性的なものがあったけれども、肌は白い。
 少年のころから、父と共に長い流浪の旅をつづけていたときも、ふしぎに肌が陽に灼けなかった。
「伊太郎の肌の白さは、亡き母ゆすりじゃ
 と、よく、父の伊織が眼を細めていったものだ。

 次に、あくまで池波正太郎の小説の世界であるが、後年ライバルとなる二人の出会いについて。長兵衛こと塚本伊太郎が主君の用を済まし、父が身をよせている八百屋久兵衛の家に向かっている途中で、父が謎の者たちに斬りかけられる場面。
「えい!!」
「おう!!」
 まぎれもなく、闘争の叫びが、すぐ近くできこえてきた。
 伊太郎は身を乗り出した。
 通りをへだてた向うの武家屋敷の築地塀の曲り角から、抜刀した武士がひとり、突きとばされるようにあらわれ、
「う、うう・・・・・・」
 うなり声をあげつつ、よろめきながら伊太郎の眼の前まで来て、
「あ、ああ・・・・・・」
 がくりとひざをついた。
(中略)
 五人の武士が白刃をぬきつれ、一人の武士へ斬りかかっている。
 雷鳴が、すさまじきとどろきわたった。
 またひとり、斬り倒された。
 残る四人を相手に、浪人らしい一人のはたらきは相当なもので、手傷を負っているらしいが、
(強い)
 伊太郎は瞠目した。
 しかし、その浪人が、ついに肩を斬られ、横ざまに倒れつつ、ぐいと顔を上げて刀をかまえた・・・・・・その顔を雨の中に見たとき、伊太郎は愕然となった。
「ち、父上!!」
(中略)
「やめい、やめぬか!!」
 増上寺の方角から馬を飛ばせてきた武士が、大声をかけた。
「ひけい」
 四人のうちのだれかがいい、四人は、いっせいに刀を引き、仲間の死体を捨て置いたまま逃走しはじめた。
(中略)
「父上、父上・・・・・・」
 だが、伊織のこたえはなかった。
 そのとき、
「息が絶えたと見ゆる」
 伊太郎の背後で、声がした。
 このときはじめて、伊太郎は傍に立つ武士に気づいたのであった。
 武士が、伊太郎へ安心をさせるためか、かすかに笑い、
「身どもは、水野百助と申す者だ。曲者どもを追いはらってくれたぞ」
「は・・・・・・」
「おぬしが父ごか?」
「はあ・・・・・・」
「気のどくに・・・・・・」
 伊太郎は、父の死顔を、まじまじと見入った。


 中略が多く大変恐縮だが、池波活劇の臨場感を味わっていただくためと、お許しのほどを。
 さて、この水野百助こそ、後年の十郎左衛門なのであった。謎の集団に父親を殺された伊太郎はこの後どうするのか。そして、伊太郎と百助との関係は・・・・・・。さて、この後の筋書きは、この本をぜひお読みください。

 侠客という言葉からは、侠気とか任侠という言葉をイメージする。この「任侠」「侠気」という言葉、私が持っている『新明解国語辞典』-第四版-(三省堂)によると、こうある。
にんきょう【任侠】「おとこぎ」の意の漢語的表現。じんきょう。「--の徒」「仁侠」とも書く。
きょうき【侠気】おとこぎ。「--の有る人」
 それでは、「おとこぎ」って何?、ということで調べると、「男」の熟語として、こうある。
男気 弱い者が苦しんでいることを知って、黙って見のがせない気性。侠気。

 ここで素朴な疑問。
 幡随院長兵衛→侠客の元祖。侠気、任侠の人。→弱い者の味方。
 やくざ、あるいは暴力団→???
 
 日本の広域暴力団も、港湾労働者などの口入れ稼業を一つの生業としているので長兵衛と同業者と言える。その仕事そのものは、もちろん「反社会的」ではない。もし、そんなことを言うと、テンプXXXX、リクルーXXXX、とか言う会社が属する現在の派遣業界を敵に回すことになる(笑)

 “任侠”を扱った『中国任侠伝』のあとがきで、著者の陳舜臣さんがこう書いている。
 

 タイトルの『任侠』は、思い切ってひろい意味に解していただきたい。常軌に従わず、はみ出してしまった人たちの物語を集めたものである。その行為は肯定すべきものもあれば、否定するしかないものもある。


 任侠の者≒常軌を逸した者、という解釈は分かりやすい。しかし、陳さんの本に登場する任侠の者とは、たとえば秦の始皇帝を暗殺しようとした荊軻など、“中国四千年”の歴史から選ばれた人物なので、ちょっと”日本の任侠“とは、趣もスケールも異なる。

 さて、話が発散してきたがあらためて、今日は“侠客”の元祖、弱い者の味方で男の中の男、と言われた幡随院長兵衛の命日。なかなか、こんな人はいない。あの時代の空気と江戸という場だったからこそ、長兵衛という本物の“侠客”が生まれたのだろう。

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by kogotokoubei | 2010-08-27 08:58 | 今日は何の日 | Comments(2)
ほぼ一年前の8月27日に、かつて夕刊フジの主催だった会が産経新聞主催になった第一回に行った。今日が第五回とのこと。ちなみに第一回は次のような演者とネタだった。

*2009年8月27日 第一回の内容
-----------------------------------
(開口一番 立川らく兵 『初天神』)
林家彦いち   『権助魚』
立川志らく   『お化け長屋』
(仲入り)
古今亭菊之丞  『船徳』
柳家三三    『髪結新三』

-----------------------------------
この時は、菊之丞の『船徳』が良かった。
昨年のマイベスト十席には入れなかったが次点レベルの結構な高座だった。2009年8月27日のブログ

チケットを取った時の動機は、もちろん久しぶりの市馬、花緑、そして二週連続となるが百栄という顔ぶれが良かったからだが、実は桂三木男も一度聞いておきたかった、ということもある。
構成は次の通り。
------------------------------------
(開口一番 立川志らべ 『強情灸』)
桂三木男  『悋気の独楽』
柳家花緑  『野ざらし』
(仲入り)
春風亭百栄 『甲子園の魔物』
柳亭市馬  『船徳』
------------------------------------
結果として、今日も『船徳』の日。

志らべ(19:01-19:12)
初めてだが、ネットで調べると2000年志らくに入門、2007年に立川流二ツ目となったらしい。なるほど志らく的なクスグリが入る。なぜかこのネタに清水健太郎やら加山雄三の名が挟まれる。この会での開口一番の回数は多く、会場では結構笑いが沸くが、私にはその可笑しさが理解できない。語り口は良く、心地よく眠くなる口調。しかし、このネタは大師匠となる談志家元の師匠五代目小さんのように、ネタの面白さだけで笑わせることができるはず。ギャグを考えるより前に、まず、噺そのものを磨いて欲しい。配布されたプログラムに主催の産経新聞の方が出演者のプロフィールを書かれており、この人のことを「フラ」がある、と記されている。残念ながら、今日の高座ではそれを発見することはできなかった。どちらかというと「フラ」よりは「ムラ」が多かったかな。

三木男(19:13-19:33)
祖父が三代目の桂三木助、母の弟が亡くなった四代目という噺家の血筋。なかなか聞く機会がなく今回が初である。2003年に当代の馬生に入門。2006年に二ツ目。ということは、志らべより深く上がったというのは二ツ目の香盤ということなのかと思うが、落語協会と立川流の二ツ目だから、微妙なところ。力量も志らべといい勝負だと思う。ネタの持つ可笑しさで定吉の可愛さなど持ち味の良さも感じるのだが、“血統”だけではこの世界は難しい。しかし、確かに血筋による潜在力は感じるので今後の精進次第だろう。

花緑(19:34-20:01)
祖父小さんのことなどマクラで会場を沸かし、小三治から稽古をつけてもらった噺ということで5月の国立演芸場の花形演芸会とネタがかぶったことが分かった。2010年5月22日のブログ
それでも流石の内容なのだが、この会の都合で午後9時には終わるということで端折ったのだろう、本来のサゲまではいかなかった。尾形清十郎の早口の言い立てを口ごもったのも、時間厳守の焦りのせいだろう。マクラが良かったし、全体的には二ツ目二人とは圧倒的な違いを見せつけたが、このネタなら通しで演じるだけの持ち時間を与えて欲しかった。あと5分あれば、という気がする。しかし、それは噺家本人の問題とは言えないだろう。

百栄(20:15-20:38)
夏の甲子園のマクラで、早くも先週20日のにぎわい座での一之輔との二人会とネタがかぶることが判明。しかし、あえてそれを楽しもうと思い聞いていた。この後で市馬が、この噺を今輔の作と紹介するまで、百栄の新作と思っていた。先週よりも流石にこなれていて平均年齢が結構高い会場も沸きに沸いた。持ち時間はオーバーしたと思うが、会場の盛り上がりは一番だった。初めて百栄に出会った港区のお客さんには、強烈なインパクトを与えたに違いない。

市馬(20:39-21:01)
久しぶりだ。百栄をいじっていたのは、彼の持ち時間が20分と想定するが、それをオーバーし市馬自身の持ち時間が減ったからと察する。終演21:00厳守なのだろう。しかし、20分でこの噺のエキスを詰め込んだ高座は、見事としか言えない。徳三郎が船頭になると言い出して、先輩の船頭を親方が招集する場面が端折られたが、それ以外の場面の重要な要素をしっかり演じ、徳の歌として自慢の喉を披露。会場を沸かせ、笑わせながらも引き締めた手腕は、他の演者と比較して際立っていた。特に船宿の女将が茶目っ気があって好きだ。もっとたっぷりな時間、できればあと10分あれば・・・とは思うが、これも噺家さんの責任ではないのだろう。打上げが21:00スタートなのかな。


ある意味で、もったいない会だった。もし、どうしても午後9時に終演したいのなら、出演者が一人多すぎる。逆に、この人数で構成したいのなら、終演は遅くなってもやむを得ない。あるいは開演を早くすべきだろう。
産経新聞主催とはいえ会場を提供している港区も共催なので、難しい面もあるのだろうが、せっかく多くのお客さんが楽しみにしているのトリの市馬が時間調整役にならないような番組構成にすべきだろう。

花緑には焦らず演じて欲しかったし、市馬の“江戸の風”をもっと感じていたかっただけに、少し残念な思いで、残暑きびしい都会の雑踏の中を地下鉄の駅に向かっていた。
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by kogotokoubei | 2010-08-24 23:00 | 落語会 | Comments(4)
ようやく、落語協会ホームページの「当期役員」のページが更新され、常任理事が明らかになった。
落語協会HP “当期役員”

当期役員 (任期:平成22年6月25日より2年間)
会長 柳家小三治
常任理事 柳家さん喬・古今亭志ん五・林家正蔵・柳亭市馬・三遊亭吉窓
理事 桂文楽・古今亭志ん輔・入船亭扇遊・三遊亭歌る多・五明楼玉の輔
監事 三遊亭圓丈・柳家さん八・柳家小さん
-------------------------------------------------------------
相談役 柳家さん助・橘家圓蔵・古今亭圓菊・三遊亭圓窓・入船亭扇橋・
     林家こん平・林家木久扇
顧問 三遊亭金馬
最高顧問 三遊亭圓歌・鈴々舎馬風



素朴な疑問がある。
正蔵、吉窓が常任理事?
志ん輔、扇遊がはヒラの理事?


小三治会長を、さん喬と志ん五の二人が支え、若手とのパイプ役に市馬、という構図は理解できる。

当初予定していた7月8日の役員会で決まったのか決定が遅れていたのか、それは推測するしかないが、たぶん7月8日には決められない事情があったのではなかろうか。背景には小三治会長の思惑とは違う何かがあったように察する。(まったくの邪推ですよ!)

個人的には、常任理事の正蔵と吉窓、理事の志ん輔と扇遊が、まったく逆だと想像していた。
入門も真打昇進も同じという志ん輔と扇遊が、今後の協会の実質的なキーマンなるだろう、いや、なって欲しいと思っていた。

う~ん、売れっ子の実力者である志ん輔と扇遊のお二人は、寄席・落語会そのもので頑張ってもらい、事務方は正蔵と吉窓ということなのか・・・・・・。

まぁ、相撲協会のようなことにはならないだろうが、落語協会にはいろいろと改善して欲しいことがある。
まずは、今後の動きを見守りましょう。(陳腐な新聞記事みたいなサゲで失礼しました)
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by kogotokoubei | 2010-08-24 11:32 | 落語協会 | Comments(4)
今日8月23日は二十四節気の「処暑」。暑さも和らぐ、と言われている目安の日。しかし、今年はどうなのか・・・・・・。
 8月7日が「立秋」だったが、「立秋」と「処暑」は、“二十四節気”の「節気」と「中気」である。
 なんて、いきなり書いても「わかるかなぁ~わかんねぇだろうなぁ~」と松鶴家千とせ、じゃなく小言幸兵衛は言う(失礼!)
 “二十四節気”とは何か、について以前にも紹介したことがある、『旧暦はくらしの羅針盤』(小林弦彦著、NHK生活人新書)から引用。
小林弦彦 『旧暦はくらしの羅針盤』

 旧暦では、「二十四節気」という基準点があります。太陽の動く黄経を二十四等分したものです。360度を15度ずつに分割すると、二十四になります。
 この二十四節気が、旧暦では太陽暦の思想です。すでに説明しましたが、二十四節気は「節気」が十二、「中気」が十二、配置され、中気が閏月を決めるポイントになります。二十四節気は、新暦では日付がほとんど一定していますが、旧暦では毎年変動します。
 二十四節気にはどんな意味があるのでしょうか。知っておくと便利です。
 (中略)
 二十四節気は、シーズンの変わり目に枕詞として、現在も活用されています。


 そして、“節気”である黄経135度の「立秋」の後の“中気”である黄経150度が「処暑」である。旧暦が「太陰太陽暦」と言われるのは、この「二十四節気」のように太陽の動きも考慮しているからなのだ。
 そこで、次に「黄経」って何?という疑問がわくでしょうねぇ。「黄経」を理解するには、“太陽の動く道”である「黄道」を知る必要があるが、Wikipediaの「黄道」に分かりやすい図を含め説明されてあったので、拝借 。*便利な世の中になったものだ・・・・・・。Wikipedia 「黄道」

 黄道は天の赤道に対して23.4度傾いている。この角度を黄道傾斜角といい、地球の公転面の垂線に対する地軸の傾きに由来するものである。白道(月の通り道)は、黄道よりさらに約5度傾いている。
 黄道と天の赤道との二つの交点を分点という。このうち、黄道が南から北へ交わる方を春分点(しゅんぶんてん)といい、春分点を起点(0度)として黄道を360度に分けたものが黄経(こうけい)である。もう一つの交点を秋分点(しゅうぶんてん)といい、黄経180度に当たる。
 現行の二十四節気は、黄道を15度毎の24分点に分割して定められている。
 読み方は「こうどう」でも「おうどう」でもどちらでも正しいが、文部省の学術用語集では「こうどう」となっている。


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 図にあるように、黄経90度が「夏至」、黄経270度が「冬至」である。黄経150度がどのあたりかは、皆さんご推察の程を。

 中国には、“七十二候”というものがあって、それは前述の小林さんの本で次のように紹介されている。
 

旧暦の二十四節気は、現在でも季節の移り変わりの枕詞として活用されています。また、旧暦での閏月を決める重要な役割ももっています。
 それに対して、七十二候はお天気の話題にも、登場しません。なぜでしょう。七十二候も本来は中国暦の思想で、二十四節気をさらに三等分して、七十二もの季節の目安を作ったわけです。七十二のなかには、とうてい考えられないようなものもあり、日本の気候に合ったように、作り替えられたものもあります。定説はありません。


 前掲の書の巻末を参考に、、「処暑」に関する七十二候をご紹介する。
 第40候(処暑・初候、8/23-8/27)  「鷹乃祭鳥」:たかが、とりをとってたべる
 第41候(処暑・次候、8/28-9/1)   「天地始粛」:あつさも、とうげをこした
 第42候(処暑・末候、9/2-9/7)    「禾乃登」 :いねがみのる *禾(か)とは、稲のこと
 *今年の「処暑」の次の節気は、9月8日の「白露」。
 初候に関して日本で作り替えられたものが「綿柎開(めんぷ ひらく) : 綿を包む咢(がく)が開く」であるらしい。たしかに、鷹が鳥をとって食べる、という表現は農耕民族には馴染みにくいかもしれない。

 さて、本当に「天地始粛」とならなければ、鷹どころか、人間がおかしくなってとんでもない事件ばかり起こしそうな、そんな猛暑。こういう時は、落語でも聞いて涼むに限る。
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by kogotokoubei | 2010-08-23 11:40 | 旧暦 | Comments(2)
7月28日の「兼好ひとり会」以来の、にぎわい座のげシャーレ、別名“野毛のアンダーグラウンド”へ。
この二人会はすでに四回目のようだが、初参戦である。これまではなかなか都合が合わなかったのと、気がついたら完売のどちらか。今回も完売だったようだ。なるほど会場は満席状態。と言っても、この二人なら150席足らずの“秘密倶楽部”は埋まるのも納得。兼好の時にもお見かけした方が数名いらっしゃった。やはり“秘密倶楽部“はクセになるらしい。

真打昇進後、やや「伸び悩みか」と思わせている百栄と、今もっとも実力のある二ツ目と言ってよいだろう一之輔。どんな二人会になるのか、大いに楽しみにしていた。

さて、本日の構成は次の通り。
-------------------------------------
(開口一番 桂宮治 『元犬』)
春風亭一之輔 『短命』
春風亭百栄  『甲子園の魔物』
(中入り)
春風亭百栄  『引越しの夢』
春風亭一之輔 『五人廻し』
-------------------------------------

宮治 (19:00-19:16)
昨年のらくだ亭20回記念落語会、そして今年3月の“かい枝・兼好ふたり会”以来の3回目。芸術協会から開口一番での登場は、この後の一之輔のマクラによると歌丸にぎわい座館長への“ヨイショ”とのこと。
伸治門下のこの人には、いわゆるフラも感じるし、見た目も含め噺家にとって得な雰囲気を持っているように思う。噺も聞く度に上手くなっている。やや太めのモヒカン刈りの落語家は、もしかすると大器かもしれない。

一之輔『短命』 (19:17-19:42)
八五郎があまりに鈍感なのでちょっと“切れそうな”なキャラクターとして隠居を描いたところに、この人の工夫の跡があり、それがまた合っていた。「くやみ」の部分をあっさりやり過ごしたので、まだまだ発展可能性はあるだろう。現役の噺家さんでこのネタは白酒が出色だが、ぜひ負けずに練り上げて欲しい。

百栄『甲子園の魔物』 (19:43-20:08)
まさに“旬”の噺。今日もっとも笑いをとったことは間違いない。“百栄健在”、を強く感じた。新作の内容を暴露すると初めて接する楽しさが半減するので詳しくは書かないが、夏の甲子園の決勝で「タイムリー3点エラー」をしたレフトの眼前に“甲子園の魔物”が現れる、とだけ書かせてもらおう。準決勝では決勝タイムリーを打ったレフトの選手に悪魔が囁く、という設定。百栄が化粧を濃い目にして登場したのが、この悪魔の演出だったことが噺を聞いて分かった。とにかく今夜は“秘密倶楽部”の耳の肥えたお客さんにも、このネタは見事にハマった。

百栄『引越しの夢』 (20:18-20:40)
上方なら『口入屋』。「古典も出来るんです!」という百栄の主張が込められていたような気がする。マクラで口入屋(桂庵)のことを説明する際に、入船亭扇橋師匠の『化け物使い』を引き合いにしたが、可笑しいと同時に結構うれしかった。扇橋師匠の真似はそれほど似ていなかったが、この人の古典の世界へのこだわりのようなものを窺わせてくれた。

一之輔『五人廻し』 (20:41-21:12)
結論から。今年のマイベスト十席には、並み居る真打を押しのけて二ツ目の高座が入るかもしれない。それほどの出来だった。師匠一朝の師匠であった先代柳朝の師匠の正蔵(彦六)のこの噺は定評があった。ある意味では一門伝統のネタだが、決してやさしくはない。吉原のマクラをふるためにだろう、今日は早めに来て野毛のソープランド周辺を散歩した、という話題を織り込み、廓噺に誘い込んだ。
五人目が関取でサゲも工夫されていたのは、師匠譲りなのかどうか勉強不足で分からないが、このネタの定番のサゲは今夜のお客さんクラスなら周知だから、こういう演出も楽しい。
一之輔恐るべし、を再確認した高座。


第5回目が12月で、約束では5回で終わることになっているらしい。「のげシャーレ」では終演するかもしれないが、形を変えて続けて欲しいような、シナジーを感じる二人会だった。
ともかく、一之輔の『五人廻し』は、二ツ目どころか、真打クラスも含め出色の出来
配布されたチラシの中に、10月にオフィスM'sさん主催で三夜連続(28日・29日・29日)でお江戸日本橋亭で開催される「真一文字三夜~一之輔十八番作りの会~」の案内があった。リストアップされている中から当日は2席あるいは3席かけるという。そのネタの中にも『五人廻し』はしっかり入っているが、間違いなく今後十八番に入るネタだろう。研鑽会を手弁当で30年開催され昨年亡くなった稲葉守治さんが、晩年にもっとも目をかけた若手が一之輔であったわけだが、流石の先見であった。今や隠れもしない将来の大看板候補。喬太郎が2000年に入門11年で12人抜きで真打に昇進して以来、目立った抜擢がないように思う。私はこの人が来年入門10年で昇進しても、まったく驚かないし、喝采を送る。しかし、無理だろうなぁ・・・・・・。

とにかく、元気な百栄と、もしかすると歴史に残る一之輔の『五人廻し』に出会えた幸福な夜だった。

p.s.
後日調べたところ、『五人廻し』の最後に関取が登場するのは、廓噺の名手だった初代柳家小せんの創作のようです。補足させていただきます。まだまだ、勉強不足です^^
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by kogotokoubei | 2010-08-20 16:59 | 落語会 | Comments(4)
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小島貞二 『こんな落語家がいた-戦中・戦後の演芸視-』
 本書は、NHKの番組「戦場の漫才師たち~わらわし隊の戦争~」について書いた時、関連する本として紹介した。今回は「落語の本」のカテゴリーとして本書そのものを取り上げたい。ちなみに、タイトルの「落語家」には「はなしか」とルビがふってあります。

 私が最初に小島貞二さんの名を知ったのは古今亭志ん生の『びんぼう自慢』の聞書きをした人としてである。今日の噺家さんとの関係で言えば、古今亭菊之丞が子供の頃から小島さんに親しくしてもらい、落語の世界に進む際も菊之丞は小島さんに相談に行き、円菊師匠への入門を仲介してくれたのも小島さんである。また、ご長男の小島豊美さんは、あのCD-ROM『ご存知古今東西噺家紳士録』を発売しているエーピーピーカンパニーの社長さんである。

 小島貞二さんは非常にユニークな経歴をもっている。小島さんは、戦前のある時期には出羽海部屋の力士であった。安芸ノ海の付き人として、昭和14(1939)年1月場所四日目の1月15日に、あの双葉山の70連勝目を安芸ノ海が止めた歴史的な瞬間にも立ち会っている。力士から出版界に転身するのだが、そのいきさつや力士以前のことなどについて、本書では次のように記されている。

 私は兵隊検査のとき第二乙種。力士現役のときだ。
 なかなか召集は来ない。昭和十五年二月、役所勤めの父六郎が飛騨高山の勤務地で没。廃(や)めるべきチャンスだと思った。
 そんなとき、博文館の雑誌『野球界』の編集長池田恒雄さんから「ウチへ来ないか」と誘われる。時節柄、野球は敵性スポーツで、読者の関心はもっぱら国技の相撲のほうへ移っている。その相撲記者がいない。君どうだ、というのである。
 こいつはありがたい、早速首をタテに振る。
 いい忘れたが、私は田舎の中学(旧制豊橋中学、現時習館高校)を出て、漫画家に憧れ上京、川原久仁於門下となったのが昭和十二年。田河水泡門下の長谷川町子さんが、一年ほど先輩だから、ほぼ同期生。
 そのころの私は六尺、十九貫ちょいと(七二キロ)の体。漫画を描くには大きすぎる。やがて一年後、スカウトされて出羽海部屋に入ったという、少し風変わりな相撲さんであった。
(中略)
『野球界』はそろそろ『相撲界』と改題せざるを得ないときに差しかかっていた。
 古い相撲ファンの中には『国技の日本』という小型の月刊誌があったことを記憶しておられるかもしれない。『野球界』と同じ編集部内での仕事であった。その雑誌の編集長は野球専門だから相撲がわからない。
 「君、やってくれ」と強引に仕事を押し付けられたから、そのころは大車輪、土俵上とは百八十度違う知的な重労働で、もともと細い体が五キロほど痩せて、入門前に戻ってしまった。
 いまも『野球界』(相撲界)の古い雑誌は時どき見かけるが、『国技の日本』はとんと見ない。あれば私の下手な漫画なども載っているはずだ。


 漫画家を目指し愛知豊橋から上京し、その後スカウトされて相撲の世界へ。そしてお父上の死をきっかけに、後年ベースボール・マガジン社を設立する池田恒雄さんに誘われて雑誌の相撲記者に転身、という多岐に渡る経歴を持つ小島さんだが、まだまだ先がある。時は昭和十八年、小島さん二十四歳の時に再び転機が訪れる。少し長くなるが、南方での“命拾い”体験も含めご紹介する。
 

 この年の五月場所の十日目の午後三時、突如取り組みが中止され「連合艦隊司令長官山本五十六戦死」がアナウンスされ、満員の客席がウッと息を呑む。本当は四月十八日、ブーゲンビル島の上空で、撃墜されての戦死であったのだとあとできく。
 七月、東京市が東京都となり、九月には空襲時にそなえて上野動物園で猛獣数頭が薬殺される。日独伊で同盟を結んでいたイタリアが、遂に無条件降伏する。
 以上、その年、九月までの出来事だった。
 そして九月二十三日、いよいよ我が身に火の粉がふりかかる。
「国内必勝勤労対策」というので、駅の出札係、理髪、外交員など十七職種に男子就業を禁止するという法令が出た。雑誌編集者なども当然この中に入る。私は「二十五歳未満の男」ときいていたが、記憶はあまり当てにならない。要するにクビである。いまどきの会社のリストラよりズーッと厳しい。博文館の大橋進一社長は、別れてゆく社員のために、柳橋の料亭で宴席をもうけてくれた。一龍斎貞山(六代目・桝井長四郎)が「寛永三馬術」を熱演した。
「ウチへおいでよ。井上君も一緒だからさ」
 といってくれたのは寄稿家の一人であった野球評論家の大井廣介さんだった。福岡県の飯塚に麻生鉱業があり、大井さんは社長のいとこに当たる。炭坑なら徴用は来ない。九州もいいとこだよ、という誘いがあって、十月、飯塚へ行く。
 申しわけないが、“自分史”をもう少しご辛抱していただく。
 大井さんから、
「ウチは南方でも炭坑を開発している。そっちも男の花道だよ」
 ときいていた。九州へゆくとき、作家の井上友一郎さんも一緒になった。井上さんも筆の仕事をあきらめて、炭鉱ゆきを決意したのであろう。私は吉隈炭坑、井上さんは別の鉱業所に配置され、私は南方行きを志願しておいた。
 仕事は労務係。増産のポスター描きも引き受ける。南方派遣にはマレー語が必要だというので猛勉強中に、教育召集、赤紙が来る。八十日間と日を区切った令状だ。名古屋のお城の下の中部第八部隊。砲兵部隊であった。
 折りから動員のピークのころで、私たちの兵舎にもドーッと応召兵が入ってきて、寝るところを占領しておいて、そのうちにサーッと出発してゆく。まだ寒いのに夏向きの軍装から南方往きを思わせた。その繰り返しのうちに、八十日がアッという間に過ぎ、帰された。おそらく南方に砲兵はお呼びでなかったのだろう。
 帰されるのを待っていたかのように、社命で南方派遣が出る。任務先はインドネシアのセレベス島(現・スラウェシ島)。ボルネオ島の東にある「Kの字」形をした島で、麻生が開発した鉱業所がある、そこへ行けというのだ。
 向こうでつけていた日記は、帰るときすべて取り上げられたので何もないが、記憶は残る。佐世保港から君川丸という徴用客船(約一万トン)に乗せられ、出稿したのは昭和十九年七月十一日だった。
 東支那海へ出ると、あちこちから船が集まり、たちまち大船団となる。航空母艦もいる。心強い。日本海軍は健在なりを思う。
 健在が一瞬、恐怖に変わったのは七月十八日。命拾いしたあと、船中で見たガリ版刷りのニュースで、「東条内閣総辞職」を知った日であったから忘れ得ない。
 命拾いとは、「そろそろバシー海峡だよ」と聞いたその日の夕刻、私はトイレのため甲板に上がり、用足しのついてに深呼吸をした。船内はすし詰めで息苦しい。トイレは甲板の脇に間に合わせのように設けられ、風の強い日など大も小も甲板に舞う。
「きょうは臭い日だね」が会話のひとつになっていた。
 深呼吸の瞬間、「取り舵一杯!」の絶叫に続いて、船はギシギシ音を立てて左に廻る。その鼻っ先を、おそらく十メートルもないほどの距離を、魚雷が右に走ってゆく。間髪を入れずに、我がほうの艦載機が飛び、駆逐艦が走り、爆雷投下。幸い船団のどの船も無事であったようだ。火柱はどこにもない。
 おそらく東條内閣崩壊の日を狙っての攻撃であったろう。ことらの防御もそれだけに万全であったのだろう。
 大岡昇平の『俘虜記』によると、彼も同じころ、同じ海を渡っている。「サイパン陥落」の報をきいた三日後、バシー海峡で日進丸が魚雷を受け沈む。生存者約七百名を傍船が収容するとある。私たちよりひと足早い船団であったろう。
「南方へ死ににゆく」が実感となる。


 このバシー海峡は、「魔の海峡」、「死の海峡」などと言われ、数多くの日本兵士の命を奪っている。小島さんが命拾いをした一ヶ月後の八月十九日には、“ヒ71船団”の「玉津丸」が米軍の潜水艦スペードフィッシュの魚雷を二発受けて沈没し、5000名近くの兵士が亡くなった。
 レイテで戦死されたお父上の記録を残すために重松正一さんが開設されているHPの掲示板に、玉津丸のことを題材にしたテレビ番組が放送されるというニュースがあったので下記に引用させてもらいました。
遺誌 独立歩兵第13聯隊第3大隊レイテ戦史のHP

独歩第13聯隊聯隊本部及び第2大隊乗船の「ヒ71船団玉津丸」がバシー海峡で米潜水艦の魚雷攻撃で被弾海没、乗船将兵4,800名が瞬時にして戦死しました。一隻の輸送船海没では最大の悲惨悲劇と云われていますが、今般名古屋テレビにより 仮称「漂流兵士」タイトルで放送されます。
朝日テレビ系列の「テレメンタリー」というドキュメンタリー番組で放送、この番組は系列の24局が交代で制作するもので 未だ予定の段階ですが今のところ以下の日時で放送されます
大阪では朝日放送 9月11日(土)深夜25時30分~26時
               『9月12日 早朝1時30分』
東京では     9月13日(月)深夜26時40分~27時10分
               『9月14日 早朝2時40分』
上記以外の地域では この日時の前後になるかと思います
過去 3回取材に応じておりますが 只今関係者に広くお知らせしているところで どうぞ ご覧になってください


 
 本書には、そのタイトルの通り、戦中・戦後の噺家さんや芸人さんのことが数多く書かれている。だから、もちろん“芸能史”としても貴重な本である。しかし、あらためて読み返してみて、小島さんが一番書きたかったことは、実は“自分史”と、それを通じた反戦の主張ではなかったかと思うのだ。
 無防備ともいえるスシ詰め状態の日本船がバシー海峡を通過するたびに、米軍にことごとく沈没させられて多数の尊い命が失われた。こういった事実を知らないままに戦争のことを語ることは難しい。そういう戦争の酷さを知るきっかけを本書は与えてくれる。ミス・ワカナだって、ある意味では“戦死”と考えられなくもない。

 小島さん自らの体験を含む戦争の歴史を語り残した本書は、“お笑い”を題材とする“戦史”としての異彩を放っていると思う。
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by kogotokoubei | 2010-08-17 07:18 | 落語の本 | Comments(0)
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写真はNHKのホームページにある、“夏の「戦争と平和」関連番組”の同番組紹介ページからの借用。
NHKのHP内 “夏の「戦争と平和」関連番組”
この時期に戦争にまつわる番組が多くなるのは、それはそれで悪くないとは思うが、毎年似たような番組ばかりで閉口することもある。
しかし、8月11日のNHK(総合)のこの番組は、寄席・演芸の“お笑い”の切り口から、あの愚かな、そして二度と繰り返してはいけない戦争をテーマにした好企画だった。
この番組を見ながら、「わらわし隊」を含め、戦中・戦後のことを落語を中心に芸能分野から振り返った名著、小島貞二さんの『こんな落語家(はなしか)がいた-戦中・戦後の演芸視-』(うなぎ書房)を思い出した。
小島貞二 『こんな落語家(はなしか)がいた-戦中・戦後の演芸視-』
この本は2003年8月発行だが、6月に84歳で亡くなった小島さんの遺著となった。まさに「語り残したい」という思いの溢れた本である。番組と関連する部分を引用したい。

 戦時中、日本軍は“皇軍”と呼ばれた。
外地にいるその皇軍のため内地から駆り出された「演芸慰問団」の数は大変なものだった。芸能人と呼ばれる人で行かなかった人はいないといわれたほどに、みんな出かけている。
 因みに昭和十三年四月から十六年八月にかけて外地に行った慰問団の資料がある。
 陸軍恤兵部派遣が満州に21団、166人、970日。北支に38団、435人、1594日。中支に43団、382人、2182日。南支に20団、197人、1160日。計122団、1180人、のべ5906日。
 このほか各府県派遣が満州に45団、405人、2525日。北支に72団、647人、3026日、中支に66団、609人、2831日。南支に54団、422人、2010日。計237団、2083人、のべ10392日。
 おどろくべき数字といえる。


 あの戦争が日中戦争からの一連のものであり、慰問団もそういった時期に合わせて行動していることがわかる。しかし、「おどろくべき数字」という表現を超える、なんともすごい数の慰問があったものだ。
 さて、この本から“わらわし隊”のことも少し引用。

 昭和十三年に朝日新聞と吉本がタイアップして「わらわし隊」という慰問団を結成した。当時、陸軍の飛行隊は「陸の荒鷲隊」、海軍は「海の荒鷲隊」と呼ばれ、時代の花形であった。それを「笑鷲隊」とモジったネーミングで洒落ていた。命名は吉本の長沖一(漫才作家)と伝わる。


 NHKの番組では、この慰問団のこと、そして慰問団「わらわし隊」のスーパースターであったミス・ワカナのことを、生き残られた数少ない当時の兵士の方々への取材で振り返るとともに、芸能人からは、今年で83歳になる喜味こいしさん、そして共に今年90歳になる森光子さん、玉川スミさんが当時の回想を貴重な映像として残してくれた。
 喜味こいしさんは当時を振り返り、有無を言わせず慰問団に順番に派遣されていく先輩達の顔を見ると、「これが最後か・・・・・・」という万感の思いだった、と語る。
 玉川スミさんが、いまだに艶やかな舞台を勤めた後で、たぶん滅多に口にされないはずの、残酷な戦争という名の殺人シーンを回顧された言葉は、胸に重く突き刺さる。
 そして、ミス・ワカナに可愛がってもらい、舞台『おもろい女』でワカナを演じた森光子さん。正直な感想として、この番組を見ながら、「森さんの遺言か・・・・・・」という思いが募った。彼女が語る戦争体験とワカナへの思慕、結果として伝わる強烈な反戦の主張。演技ではない、人間“森光子”として語り残したいことを振り絞っている、という印象を強く受けた。

 ミス・ワカナは、番組でも紹介されていたが「ヒロポン中毒」で若くして世を去っている。再び、小島貞二さんの本から引用。

 「ヒロポン」というのも、戦中戦後の芸能界をゆさぶった。
 上方漫才の生き字引だった吉田留三郎さん(演芸評論家)にきいたところによると、初見は昭和十六、十七年ごろ。所は松島の八千代座。初代のミス・ワカナ(玉松一郎とコンビ)が、強行軍の巡業を終えて、グロッキーの状態で楽屋入りしたものの、とても高座はつとまりそうもない。支配人は医者よ薬よと大あわて。
 と、そこへ現れたのが陸軍の軍医大尉。ちょうど休暇の帰省中で、支配人の顔見知りだったらしい。一発ブスっと射ったところ、ワカナは生気はつらつ、体の疲れも頭のモヤモヤも吹っ飛んで、元気に高座をつとめた。
「この薬は眠気さましにもきくが、一刻を争う戦争に対し、一時的にエネルギーを集中出来る」という軍医の説明をきき、「兵隊の薬」は大したもんだと、吉田さんは驚いたという。どうやらこれが芸能界における「ヒロポン事始め」らしい。
 結局、ワカナは戦後間もなくの昭和二十一年十月十四日、三十六歳の若さで亡くなったがはっきりとヒロポン中毒であった。天才といえる稀有の才能の持ち主だっただけに惜しまれた。


 ワカナも、数多くの悲惨な現場を見たことだろう。たしかにヒロポンは、当時超売れっ子の彼女が激増する仕事をこなすための「魔法の薬」だったかもしれない。しかし、中毒になった場合の危険性を、ワカナがまったく知らなかったとは思えない。邪推であるが、私には、ワカナはヒロポンを服用することによる自殺であったのではないだろうか、と思うのだ。なぜなら、彼女が戦地で笑わせてきた兵士の多くが、ワカナの漫才で最後に腹を抱えて笑ったことを思い出として、死の戦場に戻って行ったのである。

 小島貞二さんも森光子さんや玉川スミさんとほぼ同年齢だったが、小島さん自身は終戦(敗戦)を南方の島で迎えている。思い出とともに、芸能に携わった一人としての反戦への思いをこの本に残したかったに違いない。

 森光子さん、玉川スミさん、そして喜味こいしさんには、まだまだあの戦争のことを語り残していただきたい。「敗戦」を「終戦」に言い換える誤魔化しに加え、時の流れは確実に「この前の戦争」を風化させていくのだから。
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by kogotokoubei | 2010-08-11 20:15 | 幸兵衛の独り言 | Comments(0)
休みでもなければ来れない国立演芸場平日昼の定席。主任が一朝、中入り前が小満んという渋い両師匠の顔づけに魅かれ、朝方のちょうどよいお湿りの後で永田町へ向かった。

会場に入った途端、一階も二階もご年輩の団体さんがお弁当を広げている。
どうも、ややご高齢の方の同窓会の場となったようである。そのお客様が全体の三分の一位はいらっしゃっただろうか。まぁ、なかなか洒落た同窓会、とは言える。

次のような構成だった。
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(開口一番 春風亭ぽっぽ 『狸の札』)
春風亭一左  『幇間腹』
桂文雀    『八問答』
ダーク広春  マジック
三遊亭金時  『駒長』
柳家小満ん  『茗荷宿』
(中入り)
ホンキートンク 漫 才
宝井琴柳  講談『堀部安兵衛-抜き読み-』
翁家勝丸    曲 芸
春風亭一朝  『井戸の茶碗』
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ぽっぽ(12:45-12:59)
寄席の開口一番の始まる時間をご存じない団体のお客様が慌てて席につき、ロビーでの会話の続きでもしているのだろう、会場はぽっぽの噺が始まって五分程過ぎても、まだざわざわしていた。団体客の仲間の方が注意してくれて、ようやく落ち着いてから、あらためてぽっぽの噺に耳を傾けることができた。
出だしの騒々しさで、やや気が散ったこともあるのだろうが動揺することもなくしっかり噺を進め、特に後半はなかなかの出来。そろそろ“可愛いい”だけでなく、“上手い”の段階に入る兆しはある。

一左(13:00-13:17)
ちょっと強面のこの噺家さんは入門六年目の二つ目さん。初めてだが、正直な感想として、開口一番のぽっぽのほうが上である。もちろん、このネタのほうが難しい。しかし、その分だけネタの力を借りることもできるはずだ。もっと研鑽していただきましょう。

文雀(13:18-13:35)
楽しみにしていた一人だった歌奴の代演・・・・・・。歌奴を聞けなかったのは残念だが、これが寄席の常。この人は今年三月に真打昇進したばかりだが、昨年末廣亭で二つ目の笑生の時に聞いている。そして、ネタも同じ。これまた、寄席でよくあること。まぁ、この噺が十八番なのだろうし、なかなか珍しいネタなので続けて欲しくはあるが、次は別のネタに出会いたいものだ。

三遊亭金時(13:51-14:07)
この噺を15分で収めた構成の妙を含め、なかなかの高座だった。次の小満ん師匠のために縮めたように思う。以前に寄席で聞いた時はそれほど記憶に残ることはなかったが、今日はその芸達者ぶりを感じた。もしかするとこの人、周囲の評価が低すぎるのかもしれない。今後も少し気にしてみよう、と思わせた高座。

柳家小満ん(14:08-14:33)
茗荷の名の由来となった釈迦の弟子である周利槃特の逸話など、この人ならではの本寸法のマクラをふって本編へ進むのだが、そのマクラですでに“江戸”に誘ってくれる。あえて今日では他の噺家さんがあまり高座にかけない珍しい噺を選んでくれているような気がするが、小満ん落語を聞くと、「なぜ、もっとこの噺を他の噺家はかけないのか?」と思うことが多い。それが、まさに芸の力なのだと思う。今日はこの後に横浜にぎわい座で三三の会のゲストなので、もっと端折るかと思ったが、しっかりの高座。ちなみに、にぎわい座のほうは気がついた時には完売だった。

一朝(15:41-16:16)
マクラの大師匠林家彦六のエピソードが楽しかった。真似はそれほど似ていないのだが、雰囲気は十分に漂う。会場の“同窓会”のお客さんは寄席や落語会は初めての方が多かったようで、毎度おなじみの彦六逸話でも大爆笑。本編は、丁寧な語り口で、二人の侍を見事に演じ分け、正直清兵衛さんも、きっとこんな人だったのだろうと思わせてくれる。想定通りの心地よい後味。やはり、寄席には欠かせない師匠である


今日は国立演芸場が、浅草演芸ホール的な空間ではあったが、それだけ国立演芸場が定席として定着したということなのだろう。歌奴の休演は想定外だったが、金時の高座も想定外。コメントは書いていないが、ホンキートンクの漫才も琴柳師匠の講談も、そして勝丸の曲芸も楽しかった。休日の昼の寄席としては、十分に満足した3時間半だった。
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by kogotokoubei | 2010-08-09 19:02 | 落語会 | Comments(5)
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*円朝像 折井太一郎画(永井啓夫著『新版三遊亭円朝』より

山岡鐡舟のことを書いた時にいただいたコメントへの返信に、命日近くに円朝のことを書くつもり、などど書いてしまって、この暑いさなか冷や汗をかいている。
そんな生やさしいテーマではないのだ、この人、出淵(いずぶち)次郎吉さんは・・・・・・。
どんなことから書こうか思案すること数時間、年代順でいくつかに分けようと思い、最初のテーマとしてようやく子供時分の画工修行のことを思い出しパソコンを開いた。

この人は、父の音曲師橘家円太郎や周囲の勧めで数え七歳で小円太の名で初高座に上がった後、一度は芸人の世界を離れ寺子屋通いをしてから、あらためて父と同じ二代目円生に入門したのだが、この父親が旅に出たまま音信不通となったため、母と異母兄が相談して奉公に出すことになった。数え十一歳の時である。永井啓夫さんの『新版 三遊亭円朝』から引用。永井啓夫 『新版 三遊亭円朝』

 生活苦と将来を案ずる母と兄のすすめで、小円太はまたはなし家を止め、家とは程遠からぬ下谷池之端仲町(台東区池之端)にある紙商兼両替渡世の商家・葛西屋へ奉公することとなった。しかし、一度芸人として出発し、高座生活の哀歓を味わった少年には、同じ苦労でも性格の違う堅気の商家の奉公は、やはり水に合わなかったらしい。二年ほどで病を得て自宅に帰っている。
 商家が適さないと知った母や兄は、本人に多少その素質もあるところから画工の技術を身につけさせようと考え、玄冶店歌川(または一勇斎)国芳の内弟子として住み込ませることとなった。


さて、その画工修行について、小島政二郎さんは『円朝』でどう書いているか、というと。小島政二郎 『円朝』

 ところが、ここでの生活も葛西屋と大差はなく、明けても暮れても雑巾掛けと使い走りばかりで、絵なんか書かしてもくれなければ、教えてもくれず、そこらの丁稚と全く変りなかった。
 もっと悪いことには、夜になると酒盛りが始まり、これが夜ふけまで続いて、いつやむとも見えなかった。
 彼は体力が続かなかった。一年立ったか立たないうつちに、また激しい頭痛に悩まされ、泣きッ面に蜂で、脚気まで踏み出した。 
 またしても彼は親のもとへスゴスゴと帰ってこなければならなかった。


小島さんの本は、青年期以降は頗る楽しいのだが、奉公や画工修行の少年期があっさりし過ぎている。この時期の円朝に関しては、どうしても正岡容さんの『小説 円朝』に軍配を上げざるを得ない。ただし、正岡さんの本は、明治維新前夜あたりで終わる、言ってみれば『小説 円朝-序-』とでもいうべき内容であることをお断りしておく。正岡さんは、石屋、八百屋、そして葛西屋などの奉公先での生活を詳しく“小説”として描いているが、国芳の下での修行もドラマチックな演出をしている。正岡容 『小説 円朝』
 

・・・・・・癇癪持らしく頬のこけたそのころの六十近い師匠の国芳は、朝から晩までガブガブ茶碗酒ばかり呷っていて、滅多に仕事をしなかった。溜め放題仕事を溜めて、お勝手許に一文の蓄えもなくなったと見てとると、ここぞとばかり仕事をはじめた。


師匠国芳像が、浮かんでくる。

 多くの兄弟子たちと茫然と勇ましい師匠の筆の伸びてゆく跡を目で追っていた。多くの兄弟子たちの中に師匠に瓜二つの勇ましい絵を描くこれも癇癪持らしい背の高い男と、優美な絵を得意とする口数の少ない色白の男とがいた。師匠張りの絵を描く男がのちの月岡芳年だった。優美な絵を描く方がのちの落合芳幾だった。


優秀な兄弟子に囲まれた環境が提示された。

 上野や向島や御殿山の花もいつか散りそめ、程ちかき人形町界隈糸柳めっきり銀緑に萌え始めてきた頃、やっと次郎吉は雑魚や魚(トト)まじりながらに、師匠の描いた絵草紙の下図へ絵の具を施すくらいのことはできるようになってきた。いつ迄も忘れないだろう、師匠国芳が酔余の走り書きになる黒旋風李達が阿修羅のような立姿へ、はじめて藍と朱と墨とを彩ってゆくことができたあの瞬間の晴れがましさよ。何ともいえない恐しさ嬉しさみっともないほどガタガタ次郎吉は筆が震えて止まらなかった。にもかかわらず、塗りおえたとき、何にもいわずにきぃおうも茶碗酒を呷りながらジーッとそれを見ていた師匠は、
「次郎、お前(めえ)、筋がいい」
 酒で真っ赤にした目をパチパチさせながら、簡単にただこれだけいってくれた。


せっかく「筋がいい」と褒められた次郎吉なのだが、その後、労咳になりかけて倒れ家に帰ることになる。画工の道も閉ざされた。
 しかし、本来持って生まれた絵の素養を顕在化させた国芳の下での十代前半での修行は、間違いなくこの人の人生にとって大きな財産となったはず。その分かりやすい成果は、例の「芝居噺」である。画工修行なくして、真打になれず悶々としていた時期に一点突破につながる彼ならではの「芝居噺」の創造がありえただろうか。また、画家というアーティストに生で触れたことも、その後の彼の成長になんらかの影響を与えただろう。短い期間ながらもこの画工修業の重要さに着目したからこそ、正岡容は濃密に描くことにしたのだろう。
 
 さて、この続きは、講談ではないが、後日あらためてということで、本日はここまで!
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by kogotokoubei | 2010-08-07 13:48 | 落語家 | Comments(2)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛