噺の話

kogotokoub.exblog.jp
ブログトップ

<   2010年 07月 ( 13 )   > この月の画像一覧

横浜にぎわい座の、文字通り“アンダーグラウンド”であり“秘密倶楽部”的な味わいもある「のげシャーレ」の141席は立錐の余地なし。老若男女の兼好ファンで、会場はムンムンする熱気。10分前にぎりぎり会場に入り、案内の方になんとか空いた席に誘導していただけた。前の三列は水平な床にパイプ椅子、4列目以降は階段式の席に小さな座布団のみで背もたれがなく、高齢の方にはちょっと疲れる会場。しかし、皆さん今夜は堪能したことだろう。

開演の午後7時に、いきなり兼好登場。たまには趣向を変えたかったらしい。次のような構成だった。
---------------------------------
三遊亭兼好 『堀の内』
一龍斎貞鏡 講談『戸塚九郎兵衛』
三遊亭兼好 『花筏』
(中入り)
三遊亭兼好 『青菜』
---------------------------------

兼好『堀の内』(19:00-19:24)
十分ほどの粗忽者に関するマクラの後なんとも意外な、そしてうれしいこのネタ。マクラの内容については、ある特定の落語家さんのネタがとびきり笑えたのだが、ご本人の名誉のために書かないことにする。さて、この噺。始まった時には真っ先に志ん朝を思い出した。志ん朝版は志らくも強く推す隠れた(?)志ん朝十八番の一つで、私の携帯音楽プレーヤーの定番でもあるのだが、兼好版にも今後十分に十八番となる要素があった。参詣から金坊を連れて行く銭湯までノンスップで、ともかくリズムがいいし、独自のクスグリも楽しい。本編約十五分の名演を楽しみながら、二つの協会所属の噺家しか出演しない都内定席寄席で、まだ兼好未体験の多くの落語ファンに味わって欲しい、と強く思った。

貞鏡(19:25-19:40)
講談について何か語れるだけの知識も経験もない。貞山さんの娘さんらしい。あえて小言を。リズムが今ひとつで、丁寧なのはいいのだが、語りの前の一拍が、どうしても会場が乗れない原因となっている。ただこれからの人なのだろうし、今日は相当緊張していたようだ。頑張ってください。

兼好『花筏』(19:41-20:12)
この噺に合ったやや長めの相撲ネタのマクラは、ほど良いブラックさで楽しめた。私もブログで書いたことだが「相撲は興行」という当たり前の歴史を紐解くことから本編への導入は無理がないし可笑しかった。特に、「反社会的勢力」が今後大相撲観戦ができなくなり、その目的であるテレビに映って“塀の中”の仲間に合図を送れなくなったら、「笑点」のオープニングで歌丸さんの隣りに座るのじゃないか、というネタは大いに笑えた。(あまりに傑作だったので、つい書いてしまいました。兼好さんゴメンナサイ!)
本編は他の二席が光ったので三席の中では相対比較としては見劣りするが、単独の一席としては十分に存在感のある出来。難を言えば、後半少し急ぎ足になったようで水戸の素人相撲とりで九戦全勝の伊勢が浜大吉を、千秋楽の前日に父親が諭す場面がやや甘かったようにも思うが、全体的には“旬”のネタでもあるし楽しめる内容だった。時間があれば花筏に扮した提灯屋の遊びっぷりを、この人ならではの演出で膨らませることもできるだろうから、今後の進化も期待できるネタ。

兼好『青菜』(20:24-20:52)
本来は初夏が旬なのだが、これだけ暑い時にも似合う噺。語り口やテンポも間違いなく東京の『青菜』なのだが、たとえば権太楼とは別な味わい。しかし、頗る良い出来だったし、「お屋敷」と「長屋」、「良家」と「庶民」、「冷えた柳影」と「ぬる~い日本酒」、「鯉の洗い」と「鰯の焼いたの」といった、この噺の真髄である対比、温度差の妙を見事に演じた。そして、後半の植木屋夫婦が“お屋敷のご夫婦”の真似をするヤマ場は、どちらかと言うと上方流、それも枝雀のテイストを強く感じたなぁ。たぶんそれは、笑いのツボの押さえ方のようなものに相通ずる何かがあるのだろう。ともかく汗をかきながら大笑いしているうちにサゲへ。会場からは人数が倍にも思える盛大な拍手であった。*このネタの内容に興味のある方は2009年5月21日のブログをご覧ください。2009年5月21日のブログ


『堀の内』で志ん朝を彷彿させ、『青菜』で枝雀を想起させる、といった構成は、本人が意識したかどうか分からないが、十分に落語ファンを楽しませてくれる。「のげシャーレ」という密室(?)が笑いで満たされた三席。暑さや座り心地の悪さなど見事に吹き飛ばすパワーのある素晴らしい兼好ワールドだった。「自由席」のチケットがすぐに売り切れる理由もよく分かる。これだけ完売が続けば、「次は上の大きなホール?」と思わないでもないだろうが、それは、桂かい枝との二人会ということで、やはりこの空間での“ひとり会”を続けて欲しい。なんとも言えずオツなんだなぁ、この“アンダーグラウンド”が!(アングラ、と言っても分かる人は少ないだろうなぁ)

終演後に本人が客を見送る“手作り感”のあるこういった落語会は、1000人収容のホールでの落語会とはまったく違う温かさがあるし、江戸時代に何百とあった寄席もこんな趣か、とも思わせた。

もしかすると、十年後に、この場にいたことが自慢できる落語会だったかもしれない。そんな思いで桜木町の駅へ、ついニヤニヤしながら歩いていた。
[PR]
by kogotokoubei | 2010-07-28 22:58 | 落語会 | Comments(4)
ここのところ落語から離れた内容が多かったので、久しぶりに落語会のネタで!

この会は一昨年(2008年)11月15日の「市馬・喬太郎 ふたり会」以来。その際は土曜でこの二人で七割の入り。2008年11月15日のブログ相模川を越えた場所での興行の厳しさのようなものを感じたが、今日は九割は埋まっていた。「志ん生」ネタでさん喬、権太楼の強力コンビが登場、志ん駒が師匠の思い出を語るということで、私と同様に楽しみにしていた厚木や相模原周辺の落語愛好家が多かったのだろう。

演者とネタは次の通り。
-----------------------------------------
古今亭駒次 『半分垢』
雷門助六  『替り目』+『あやつり踊り』
柳家さん喬 『千両みかん』
(仲入り)
古今亭志ん駒 志ん生の思い出
柳家権太楼 『火焔太鼓』
------------------------------------------
さん喬、権太楼の両師匠以外の三名が、生では初である。

駒次(14:00-14:17)
着物も羽織も、一回り大きい感じで、どうも見た目がおさまらない。
だから、私は噺にも集中できなかった、というか途中めずらしく眠気が。
志ん生ネタとしては、なかなかオツな選択なのだが、残念。
やはり、噺家さんの着物姿が自然でないとねぇ。

助六(14:18-14:45)
九代目助六は本日唯一人の芸術協会の芸人さん。
先代が志ん朝師匠の踊りの師匠で、そこからあの住吉踊りにつながった歴史があるので、噺よりは踊りに期待だった。
マクラでさかんに自分が高齢であることを匂わせていたが、トリの権太楼と同じ昭和22年1月生まれだから63歳。
実年齢より上には見えるが、まだまだ現役で頑張ってもらいたい。
マクラはややたどたどしかったが、『替り目』も(志ん生版とは言えないが)結構でした。踊りもテレビでよく見た先代を思い出すオツな芸だった。

さん喬(14:47-15:17)
食べ物の季節感がなくなってきた、という本編につながるマクラに会場のお客さんの多くが頷いていた。今日は大人のお客さんがほとんどで、かつ携帯が鳴るこもとなく、笑いのツボもはずさない。非常に心地よい会場が旬なネタを盛り上げる。途中の刈り込み方もリズミカルで、若旦那が蜜柑の食べる仕草には、つい口の中が甘酸っぱくなった。流石である。

志ん駒(15:37-15:51)
昭和12年1月生まれの73歳。助六、権太楼の10歳年上だから、かつてテレビの時代劇で「瓦版屋」を演じた時のイメージからは、当り前だが時の流れを感じる。
しかし、“口”は見た目と違って若々しく、海上自衛隊時代の思い出話や、巻紙に自ら書いてきた志ん生の略歴を読みながら語るエピソードは、なかなか楽しかった。「落語はこの後で権ちゃんが、ちゃんと締めてくれますから。もう名人だね!ご馳走になってるからヨイショしないとね」というところが、この人の本領発揮なのだろう。
まだまだ元気に古今亭の歴史を語り残していただきたい。

権太楼(15:52-16:23)
多摩川どころか相模川越えで滅多に落語にふれる機会のないお客さんを、これでもか、と目一杯沸かせる名人芸だった。感心させられたのは、「権太楼の火焔太鼓」が未だに進化していること。詳しくは明かさないが、今まで聞いたことのない奇抜なクスグリが二つ三つあったように思う。それが、ドカンドカンと受けた。会場の多くのお客さんも私も、「権太楼ワールド」を満喫した。


次の第10回目は10月に三遊亭円歌一門会的な会。都合で行けそうにないが、なかなかの顔ぶれである。
今日は盲導犬と一緒のお客さんもいらっしゃった。地方の自治体に根ざした組織(厚木市文化振興財団)が主催するこういった落語会は、なかなか都内に出向くことができない落語愛好家にとって非常に重要だと思う。こういう“財団法人”なら必然性があるだろう。400名弱のホールで寄席の雰囲気もあるし、ぜひ長く続けていただきたい。

最後に、厚木市文化会館前のベンチ脇で、まだ数は少ないものの「百日紅」が花を咲かせていたので、サービスに掲載。私が携帯で撮った下手くそな写真で恐縮だが、2枚目の小さく見えているピンク色が花です。この花を見ると杉浦日向子さんの傑作漫画を思い出すなぁ。
e0337777_11064036.jpg

e0337777_11064169.jpg

[PR]
by kogotokoubei | 2010-07-24 19:22 | 落語会 | Comments(5)
大相撲に関する“芸能ニュース”に紙面を割いてばかりいる日本の新聞を筆頭とするマスコミには、ほとほと呆れるばかり。何ら、問題の本質に迫ろうとしないし、ジャーナリズムの精神などどこ吹く風だ。

サラリーマンばかりの事なかれ主義の記者達によって書かれた“ぬる~い”記事ばかり読むのに飽き飽きすると、つい骨太のブログや海外メディアの“クール”な記事を求めたくなる。
あっ、そうか、日本のマスコミにいるのがジャーナリストと思うから腹も立つが、「記者」という名刺を持った「芸能レポーター」と思えば、腹が・・・・・・やっぱり立つなぁ。
*そう簡単に『天災』の八五郎のようには騙されないぞ!

よく立ち寄らせていただいている「HOME☆9(ほめ・く)」さんの、短い休養明け(?)の22日のブログを読んで、まったく同感であり、その切れ味の鋭い正論に拍手喝采したくなった。下記に一部引用させていただいたが、ぜひ全文読んでいただきたい。HOME☆9(ほめ・く)さんの7月22日のブログ

このたびの金賢姫の来日では、日本政府は二つの法令違反を行っている。
一つは、死刑確定者の入国を認めてしまったこと。これはどのような法的根拠があるのだろうか。
二つ目は、パスポート偽造は日本国内法の「旅券法違反ないし偽造公文書行使」に該当するので、入国した時点で金を逮捕すべきだった。もちろん金は韓国にいたから、公訴時効にはかからない。
逮捕して厳しく取り調べれば、拉致問題についてより有力な情報が得られるだろう。
こんないい加減なことをして、日本は果たして法治国家といえるだろうか。


そして、日本のマスコミが書かない本寸法(?)の指摘を英国インデペンデントのwebニュースで読んで、あらためて「なぜこういう記事が日本の新聞では載らないのか・・・・・・」とため息が出る。インデペンデントの7月21日の記事
記事のタイトルは「ジェット機を爆破した北朝鮮の元スパイを日本は歓迎」というもの。
そして、文中にこうある。

As a foreign national who was at one time sentenced to death and who carried a fake Japanese passport during the Korean Air attack, she should have been arrested at Tokyo's Haneda airport. Instead, her status makes her something akin to a visiting VIP.


「日本のパスポートを偽造し大韓航空爆破事件を犯し一度は死刑を宣告された外国人として、羽田空港で逮捕されるべきだった。しかし、なんとVIP待遇でまるで身内(親戚)のように日本に迎えられた。」という端的でまっとうな指摘である。

鳩山家の別荘がxxxxx、ヘリコプターがxxxxxx、といった事実を伝えるのも「ニュース」ではあろうが、芸能レポーター的な周辺記事ではなく、「なぜ金賢姫は羽田空港で逮捕されなかったのか?」という問題が提起されないのか、本当に不思議な国だ。

今日も今日とて、産経新聞のwebニュースには、こういう“お涙ちょうだい”記事が踊る。
Yahooニュース:産経の記事

金賢姫元工作員は22日、東京都内で、横田めぐみさん以外の拉致被害者家族とも面会した。ほかの被害者について確たる情報はなかったものの、「みなさん帰ってくる。その日まで元気でいらして」との金元工作員の言葉に家族らは「心が通じた」との思いを強くした。


何を根拠に「心が通じた」のか、不思議だ。こういった記事が掲載されている時、大韓航空機爆破事故では115名にものぼる被害者がいた、なんてことを書くのを、日本のマスコミでは「野暮」と言うのかもしれない。しかし、彼女は“元”だろうが間違いなくテロリストの一味だったのだ。その点がまったく抜けて、女性雑誌の記事と同じような論調が新聞を賑わせているように思えてならない。また、「元工作員」という表現が今ひとつなのだなぁ。「元テロリスト」あるいは「元スパイ」と書いたほうがいいように思う。このほうが、言葉そのものから問題を再検討させる契機になるのではなかろうか。「えっ、ということは今はもうスパイじゃないの?」という素朴な疑問が沸くじゃないか。
実はまだスパイであり、テロリストであることだって、十分に考えられるのだから。その美貌や涙に騙されてはいけない。きっと目のふちに「お茶ゃ葉」が付いているから。(落語の『お茶汲み』ですよ!)

ここでちょっとだけ歴史のタブーである「if」を使おうじゃないか。あの爆破事件のすぐ後、二人の犯人が逃走する途中のバーレーンの空港で捕まりそうになったので服毒自殺をはかったのだが、もし生き残ったのが金勝一であって、金賢姫が亡くなっていたのならば・・・・・・。金勝一は当時(1987年)59歳だったから存命だったなら82歳。そして男性。今回のような茶番とは、まったく違ったシナリオになったはずだ。

ともかく、この暑い最中、その暑さを一層つのらせてくれるマスコミに「喝!」、と江川紹子さんに言ってもらいたい(笑)。
そう、江川さんにはがんばってもらいたい。「サンデーxxxx」とかいう、“老害”を撒き散らすばかりの某テレビ番組で、唯一ジャーナリストと言ってよい彼女がまっとうなことを言ったばかりに、気を悪くした元プロ野球選手がむくれて降板させられる。それが日本のマスコミの現状だ。あの番組が「報道局」の制作だというから、なおさら笑ってしまう。今回の金賢姫来日の件だって、江川さんならどう言うか、楽しみだったのに・・・・・・。
(独り言が長くなってきたのは年のせいかなぁ。)

p.s.
これを書いた後で、7月23日付けの朝日新聞の社会面を読んで驚いた。
「異例の歓待 思い交錯-金賢姫元死刑囚きょう帰国」という相当大きなスペースを割いた記事の冒頭で次のようにインデペンデントや韓国の朝鮮日報の記事を引用していた。
 

「ジェット機を爆破した北朝鮮の元スパイが日本で歓待される」「信じがたいスパイ・ストーリー」。英紙インディペンデントは東京電で、こう驚きを表した。金元死刑囚の日本での処遇を、韓国の大手紙朝鮮日報は「国賓級の歓迎」と伝えた。来日を主導した中井拉致問題担当相が「パフォーマンスなら(参院)選挙前にやっている」と反論する。一方で、政府関係者は「サッカーのワ−ルドカップが終わり、注目されやすいこの時期を選んだと聞いた」と打ち明ける。


社会面とはいえ、大「朝日新聞」が自社の主張を展開するのではなく、海外メディアの記事を引用し、「政府関係者」という匿名を含む奇妙なバランス感覚での第三者的な内容を羅列・・・・・・。ほとんど芸能週刊誌と同レベルのこういう紙面作りを見ると、日本の新聞社にはもう意地もプライドもなくなったのか、と思わざるを得ない。挟まれたチラシ以外に新聞には有用な情報はなくなったのかもしれない。
[PR]
by kogotokoubei | 2010-07-23 11:43 | 責任者出て来い! | Comments(4)
 さて、今日7月22日は杉浦日向子さんの命日。亡くなってもう5年が過ぎ来年は七回忌になる。

e0337777_09372461.jpg

杉浦日向子の江戸塾

 すでに多くの方はご存知かとは思うが、そのプロフィールを先日少しだけ紹介した『杉浦日向子の江戸塾』(PHP研究所から1997年に単行本発行、PHP文庫として2006年発行)の「著者紹介」から引用。

-------------------------------------------------------------------------
1958年、東京都生まれ。「通言室乃梅」で漫画家としてデビュー。
江戸風俗研究家として活躍の後、道楽+研究・著述の日々を送っていたが、
2005年7月22日、
46歳で逝去。
著書に『杉浦日向子全集』全8巻(13年間の画業の集大成)『江戸へようこそ』
『江戸アルキ帖』『一日江戸人』『ごくらくちんみ』『4時のおやつ』『隠居の
日向ぼっこ』など。
-------------------------------------------------------------------------

ちょっと言葉足らずなので、補足。
実家は日本橋の呉服屋さん(だった?)らしい。日大芸術学部を中退し、時代考証の大家だった稲垣史生さんに師事。稲垣さんが明治45(1912)年5月生まれだから、当時すでに六十歳代半ばの頃に、二十歳前後の日向子さんが入門したわけだ。*1912年は7月30日からが大正元年。
師稲垣史生の杉浦さんへの評価は非常に高かったと言われる。

さて、『杉浦日向子の江戸塾』で私がもっとも興味を持って読んだのが、第一章。宮部みゆき、北方謙三というヘビー級の物書き二人との鼎談(と言っても、北方氏は途中入場)である。
まずは、深川育ちの宮部みゆき、川を挟んで日本橋生まれの杉浦日向子のお二人、江戸時代の食事をテーマにこんな楽しくてためになる会話が弾む。


宮部 江戸時代は初期から一日三食だったんですか。
杉浦 中期以降ですね。初期は二食です。
宮部 小説のなかで食事の回数を書くとき、いつも迷うんですよね。
杉浦 その家の風習にもよるんです。江戸の中期以降でも、二食で通して
   いた家もありました。
宮部 決まった時間に食べてはいなかったんですか。
杉浦 腹が減った時が食べる時。日に六度飯の人もいれば、一日一回、
   ドカ食いする人もいる。商家のように大人数を抱えているところ
   では、食べる時間が決まっていましたけどね。
宮部 朝昼晩で、どの食事が一番豪勢だったんでしょう。
杉浦 それはお昼。昼には焼き魚がつきましたから。ご飯は冷や飯
   だけどね。午前中でほぼ仕事が終わってしまう河岸の衆などは、
   酒も付けてまるまる一刻(二時間)かけて食べるんですよ。
宮部 ラテン系の人たちみたい。
杉浦 そう。それで夜はお茶漬けでさらさらっと。
宮部 たりない分は夜食で補う。
杉浦 そうなんです。
宮部 当時の人はたちは、お米をたくさん食べていたんですよね。
杉浦 一日五合が基準。二食のときは一食で二合半です。だからどこの
   家庭にも、二合半の升が必ずあった。一人前の分量ということで。
   それで、一人前じゃない人に対して「この一合野郎」という罵り
   言葉があったほどです。半人前以下ってことですね。
宮部 一合野郎か、今度使ってみよう。


 私なんかも間違いなく「一合野郎」だ。とても一日に五合は食べられない。ご飯の後は味噌汁に関する会話。

宮部 お味噌汁っていうのは、朝だけだったんですか。
杉浦 昼はほうじ茶、夜はお茶漬けだけで、昼夜とも汁物はつきません。
   江戸では「お味噌汁」とは言わずに、「おみおつけ」って言って
   いました。それがすごい字を書くの。「御御御汁」ですから。
   御が三つ続くということは、非常に価値ある食べ物だったという
   ことです。一日の活力の源となるもので、具は二種類以上という
   ことになっていました。
宮部 けんちん汁に近いような。
杉浦 大振りのお椀で、朝一回、「おみおつけ」をいただくんです。


「おみおつけって、こう書くのか」、と思った方も多いでしょうね。
さて、北方さんが登場してからの会話も紹介。

(ここで北方謙三氏、突如乱入)
北方 江戸の食べ物と酒の話だって?僕、聞きたいこといっぱい
   あるんです。
杉浦 どうぞどうぞ。北方さんなら大賛成です。
北方 早速ですが、今のように、男が食い物で女性を口説くことは
   できなかったんですか。すき焼き食おうよ、なんて感じで。
杉浦 ええ?いきなりそこからですか?
宮部 ひもじい宮部は、それにひっかかる(笑)。
杉浦 う~ん。初物をご馳走するというのがそれにあたるかな。
北方 自分で釣ってきた鰹かな。
杉浦 鰹だけじゃね。鰹って、お釈迦様のお祭り(潅仏会、花まつり)
   である四月八日以降に食べさせると野暮なんですよ。
北方 四月八日前には釣れないよ。
杉浦 それを釣るのが男の意気ですよ。
北方 そんな無茶な。
杉浦 でも旧暦ですからね。
北方 そうか。それなら、なんとかなる。


ほら、「旧暦」が出ましたぞ。ちなみに今年なら旧暦の四月八日は新暦五月二十一日です。北方さんがこの対談の後、自ら釣った鰹をエサに、どこかの美女を釣ったかどうかは不明。

次に、相撲の件でも引用した杉浦日向子さん監修『お江戸でござる』(新潮文庫)の中で、途中に挟まれているコラム「杉浦日向子の江戸こぼれ話」から。六編ある中で、その「壱」を引用。杉浦日向子監修 『お江戸でござる』

相撲、寄席、歌舞伎、浮世絵———江戸からは、世界的にネームバリューのある日本文化が生まれていますが、江戸文化の特徴は、そのいずれもが庶民が生み出している点です。それに親しむために日本を訪れる外国の方も沢山いますが、西欧の文化はオペラにしろバレエにしろ、特権階級の貴族を喜ばせるために生まれたものでした。それが、だんだん下の階級に降りていき、伝播していったのです。反面、江戸では下から上に伝わります。庶民から生まれた歌舞伎なども、奥女中や武士がお忍びで観に行きました。
 江戸は天下泰平の世の中で、内外とも戦争が二世紀半に渡ってありませんでした。西欧は攻めて奪うことによってハイブリットな文化が生まれていきましたが、江戸に略奪戦争はありません。江戸の文化は納豆のように中から発酵する熟成文化です。
 江戸で最初に整備された五街道も、商人たちが通っていた道が、だんだんと太くなったものです。それに対して、西欧に残っている道のほとんどは、軍隊が通った後にできたもの———日本が西欧に対して誇るべきは、二世紀半の平和の中で独自の文化を育んでいった、その一点につきるでしょう。
(中 略)
 江戸には、価値観の同じ仲間たちがわいわいと一緒に趣味の会をする「連」という集まりがあります。ここでは、職業、身分、年齢、性別すべておかまいなしです。武士も町人も一緒に楽しんでいました。そんな中から、江戸独自の文化が生まれたのです。



 “庶民”“下から”“熟成”“発酵”“連”、と言ったキーワードが並ぶ。そう言えば、この季節、日本全国が徳島になったのかと思えるほど、あちこちで開催される“阿波踊り”のチーム名が「xx連」としてあるなぁ。

杉浦さんご指摘の通り、上から与えられた文化と、庶民が主役となって熟成していった文化の違いは大きいし、日本人はそれを十分に誇っていいはずなのだ。
 しかし、この文化の中で杉浦さんが真っ先に挙げている相撲は今どうなったか・・・・・・。本来“庶民”のものだったはずの相撲という文化を、その担い手たちの集まりを「財団法人」などに祭り上げて“お上”の手に委ねたことが過ちの始まりだったということも言えるだろう。スポーツ(芸能)紙は、掘ればいくらでも芋づるで出てくる力士や年寄りと「反社会的勢力」とのつながりを、飽きもせず書きたてるのだろう。しかし、もはや特定個人の問題ではない。税制面で優遇され、天下のNHKから年間数十億の放映料を安定的に確保でき、加えて、なんら努力しなくても出現してくれた一部の人気者のおかげで興行自体も連日の満員御礼という黄金の日々にうつつを抜かし、「国技」という言葉と裏腹に海外の「相撲レスラー」スカウトに執着してきた“相撲村”の住人の共同責任なのだ。この閉鎖された相撲村の住人たちは、いつからか外の社会における「庶民」の視点を忘れてしまったようだ。杉浦さんも天国で嘆かれているに違いない。

そう思うと、相撲が大好きだった杉浦さんがご健在だったなら、彼女こそ相撲復活を目指すための、年齢も性別も職業も超えた「相撲文化再生連」のリーダーとして、もっとも相応しい人だったように思う。

命日の今日、そんな思いで杉浦さんのことを書いた次第です。
[PR]
by kogotokoubei | 2010-07-22 08:03 | 江戸関連 | Comments(2)

今日は山岡鐵舟の命日

今日7月19日は“海の日”でもあるが、山岡鐵舟の命日でもある。勝海舟、高橋泥舟と合わせて“幕末の三舟”などと言われるようだが、泥舟は鐵舟の義兄にあたる。

天保7(1836)年6月10日生まれで、明治21(1988)年の7月19日没。落語愛好家の方なら、名人円朝との関係でこの人を取り上げたということはお察しだろう。円朝は天保10(1939)年5月13日生まれだから鐵舟の三歳年下。明治33(1900)年の8月11日に亡くなり、落語協会が“円朝まつり”で奉納落語会を行う谷中の全生庵に墓がある。この全生庵を建立したのが鐵舟。ちなみに、七代目の襲名問題でゆれている圓生。六代目は圓朝が没した明治33年に生まれたので、ご自身が「俺は圓朝の生まれ変わり」と勝手に思い込んでいたフシがある・・・・・・。

さて、鐵舟は円朝の禅の師匠だったので円朝の小説や評論にはもちろん登場する。たとえば、矢野誠一さんの『三遊亭圓朝の明治』(文春新書)では次のように鐵舟のことや圓朝との関係が書かれている。
矢野誠一 『三遊亭圓朝の明治』

 鈴木古鶴の「圓朝遺聞」によるならば、山岡鐵舟ははじめ名前を聞くだけで胸くそが悪くなるほどの圓朝ぎらいであったそうだが、「高橋泥舟の紹介で一度圓朝を見るに及んで、これ凡物にあらずと嗟嘆し」たという。
 名は高歩、通称鐵太郎の山岡鐵舟は、1836年(天保7)、旗本の子として江戸に生まれ、北辰一刀流千葉周作に剣を、刀心流山岡静山に槍を学んだ。講武所剣術世話心得から浪士組取締役を拝命。維新後は静岡藩権大参事、伊万里県知事などを歴任、明治五年(1872)には侍従となり、明治十四年(1881)に宮内少輔にすすんでいる。
 三遊亭圓朝は山岡鐵舟から禅を通じ、藝、人格の両面でいろいろと指導を受けることになるのだが、知り合ったときすでに明治新政府の要人となっていたこのひとが、維新時には精鋭隊頭として徳川慶喜の警護にあたり、西郷隆盛を駿府に訪ね、勝海舟との会談を斡旋するなど、徳川家救済と江戸開城のために尽力し、彰義隊にも新政府への協力を説いてみせた行動が、おなじ江戸っ子の血をひきながら単純な徳川贔屓の心情から逃れなかった圓朝には、機を見るに敏をふまえた柔軟性のあるものにうつり、時勢に即して生きなければならぬとしていたおのれの半生の指針ともなったはずである。


 鐵舟が西郷と海舟との会談を実現させるのに大きな貢献をしたことはよく知られているので、ここではこれ以上書かない。鐵舟と圓朝が出会うきっかけについて、小島政二郎著『円朝』(河出文庫)からの引用。
小島政二郎 『円朝』
 

 そうした矢先、円朝は山岡鉄太郎と会った。
 会うについて、ちょいとしたイキサツがあった。高橋泥舟、成島柳北、栗本鋤雲、その他の幕臣十人ほどが集まって談笑する会が、毎月不忍の池のほとり、上野の山添にあった無極という貸席で催された。
(中略)
 円朝は、この無極の会に招かれて、毎回一席ずつ話を寄付していた。
 そんな関係で、高橋泥舟とも彼は昵懇にしていた。ある日、泥舟が山岡鉄太郎に会った時、山岡の家で客をするについて、二三芸人を招きたいという話が出た。
「そんなら、円朝を一度呼んでみたまえ」
 泥舟がそう云って、彼を推薦した。ところが、鉄太郎は眉をしかめて、
「あいつはいかん。思い出しても虫唾が走る。」
と、はき出すように云った。と云うのは、昔、まだ円朝が若い売り出しのころ、赤い長襦袢などチラチラさせていた頃に一度聞いたことがある、それをすぐ目に思い浮かべたからだった。人に媚びるような彼の話っぶりが、鉄太郎には鼻持ちがならなかったのだ。
「そりゃ君に似合わんことを云う。例えにも、三日見ざればと云うじゃないか。だまされたと思って、一席呼んで聞いて見たまえ。もし相変らずの円朝だったら、おれは軽蔑されてもいい」
 泥舟がそれほど云うのだからと思って、鉄太郎は円朝の周旋を頼んだ。
 一度聞いて、鉄太郎は舌を巻いた。円朝はあまりにも変り過ぎていた。鉄太郎は高利貸に金を借りて、証文に「なくて七癖、私の癖は、借りりゃ返すがいやになる」という都々逸を書いて渡したというシャレの分かる人だから、円朝の芸のうまさがすぐ分かった。これが縁で、大層贔屓になった。円朝の方でも、この茫洋としてつかまえどころのない人物に心を引かれた。



 小説なので、その真偽は定かではない部分もあろうが、小島政二郎さんのご祖父が円朝と幼馴染でこの小説にも登場する。また、泥舟が二人を仲介したという話は他にも数多くの裏づけ話があるから間違いはなさそうだ。そして、きっとこのような会話があったのだろう、と思う。

ここで思うのだ。鐵舟と円朝にっとっての泥舟のような人物が、人と人との出会いには重要なのだなぁ、ということ。あのフジテレビの長寿テレビ番組ではないが、“人と人の輪”が大事。仲介役の泥舟なくして鉄太郎と円朝が出会うことはなかっただろう。だから、幕末以降、長男朝太郎の心配や多くの弟子のこと、落語という閉じられた芸能の世界での足の引っ張り合いなど、いろいろな心の葛藤の中で歴史の大きな変革期を生きることになる円朝が、その心を平静に保つためには、鐵舟から学んだ禅の力は計り知れないほど大きかったと察する。
だから、山岡鐵舟という人は、維新前夜には日本の歴史そのものにおいて重要な役割を演じ、維新の後は落語界中興の祖円朝にとって重要な役割を演じた、と言えるだろう。それにしても、鐵舟と円朝が眠る全生庵。来月行われる奉納落語会はともかく、あまりに騒がしい落語協会“夏祭り”のイベントには、そこに眠る鐵舟も円朝も“ぜんぜん(禅々!?)”うれしくないのではなかろうか・・・・・・。最後は相当無理な地口で失礼!
[PR]
by kogotokoubei | 2010-07-19 09:29 | 今日は何の日 | Comments(4)
BS2で今朝早朝、というか昨日深夜にあった再放送を録画していたのを、今ほど見たところである。

伯楽師匠が好きなこともあるが、14日の独演会で三三の演出に小言を書いた、吉原田圃の回想場面における古今亭伝統の芸を確認したかったのだ。

伯楽師匠は志ん朝師匠の一つ年下で小三治新会長と同じ昭和14年の生まれ。71歳だから、7月4日に36歳になったばかりの三三の、ほぼ“ダブルスコア”(?)である。比較しちゃ三三が可哀想ではあるが、伯楽師匠は回想場面で端唄『薄墨』を披露してくれた。

他の方のブログを拝見すると、4月16日に開催された第610回東京落語会の収録のようだ。当日は伯楽師匠のみならず、言い間違いなどが頻発したと書かれたブログがあったが、たしかに「誓願寺店」を「清正公様」と間違えて言い直したものの、それはご愛嬌でしょう。この誓願寺店の騒動は演じずに「唐茄子屋政談の中でございます」として高座をおりたので放送が終わりかと思ったら、終演後のニッショーホールの客席に座った伯楽師匠の回想談があった。次のような回想。

・大学在学中に家出をして馬生に入門した時、たまたま大師匠の志ん生に前座がいなくてお手伝いをすることになり、毎日のように名人志ん生の高座を聞けたことが今に残る財産。
・なかでも好きなのは『火焔太鼓』『唐茄子屋政談』だが、なかなか怖くて高座にかけることができず、唐茄子屋を高座にかけたのは五十を過ぎてから。

う~ん、三三の唐茄子屋に注文をつけるのは酷か・・・・・・。高座にかけるだけでも立派?

ともかくこの番組、一番良かったのは最後の伯楽師匠の回顧話だった。

「薄墨」がどんな端唄かについては、浜松町かもめ亭で三味線を弾かれることも多く、ブログも書かれている笹木美きえさんが“江戸端唄・俗曲の試聴と紹介”のサイトを開設してくれている。ぜひお聞きいただきたい。唄と解説は下記のごとく。
江戸端唄・俗曲の試聴と紹介


  薄墨に 書く玉章(たまずさ)の 思いして
    雁鳴き渡る 宵闇に 月影ならで 主さんに
     焦がれて 愚痴な畳算 思い回して ままならぬ
       早く苦界を そろかしく

<解説>
しっとりした曲調で 治伊坊が 苦界に沈む女性の 愛しい男に寄せる
想いを 手紙の文に仕立て上げた。

玉章 :(たまずさ)手紙
愚痴 : 言っても仕方がない事を言って嘆く
畳算 : 煙管(キセル)を畳に落とし、落とした所から畳の編み目を
     縁まで数え 丁・半で吉凶・待ち人を占う



三三が「薄墨」を唐茄子屋で披露するには、あと十年位必要かもしれないなぁ。彼自身は稽古していると思うが、やはり端唄なんてぇものは三十代では味が出にくいかもしれない。とはいえ、三三のこのネタ、早期バージョンアップ(?)を期待している。

伯楽師匠にはまだまだ長生きしていただき、志ん生、志ん朝、そして師匠馬生の思い出を語っていただきたいものだ。この番組に回想談話を加える企画は、NHKにしてはなかなかオツである。ぜひ続けて欲しいものだ。
[PR]
by kogotokoubei | 2010-07-17 07:43 | テレビの落語 | Comments(4)
三月以来のこの会。2010年3月2日のブログ
プログラムの“ごあいさつ”に短くこうあった。

以前は苦手意識があった“柳家の滑稽噺”
最近はとてもいとおしくって・・・。
これも「独演~」での特訓の成果でしょうか。
よォし、今夜もやるぞー!


この言葉通りの会で、結構でした。
演者とネタは次の通り。
-------------------------------------
(開口一番 柳亭市楽 『蝦蟇の油』)
柳家三三 『お菊の皿』
柳家三三 『粗忽長屋』      
(中入り)
柳家三三 『唐茄子屋政談』  
-------------------------------------

市楽(19:00-19:25)
マクラは名古屋の大須演芸場でトリで地元の芸人さんと十日間の興行に出演していたエピソード。本人はネットで書かないでくれとお願いしていたが、正直なところ書くほどおもしろくなかった。内容的には可笑しいと思うエピソードもあるし、やや暴露的ブラックテイストもあるのだが、語りが度々の言い澱みなどでリズムが悪く笑いのツボをはずしている。本編ももう一つだった。酔った後の演出が平坦すぎる。二つ目にはちょっと厳しいかもしれないが、市朗の前座時代は大きな声でメリハリも良く将来を期待させた人。今日の体調のせいもあるかもしれないが、今後の一層の精進を期待。

三三『お菊の皿』(19:26-19:46)
プログラムにネタ出しの『粗忽長屋』と書かれていたので、一瞬「あれっ」という思いがあったが、そのちょっとした驚きを含め演出として良かった。『粗忽長屋』を30分以上はふくらませなかったということかもしれないが、結果として得した気分の一席。なるほど細身の体型を活かした幽霊役も“ニン”なことを再認識した。小朝や喬太郎のような派手さはないが、誰もがやや演出過剰気味になりがちな噺だけに“本寸法皿屋敷”といった存在感がある。

三三『粗忽長屋』(19:47-20:05)
中入りかと思ったお客さんが数人席を立ったが、緞帳が降りず恩田えりさんの三味線と「なんまいだ~」の節を挟んで再登場。志ん生を一瞬思い出させるこのネタならではのマクラをふって入った噺は、柳家の滑稽噺への意気込みを感じさせる結構な出来。なかでも兄いが浅草から長屋へ戻って十年間空き家の戸を「熊ぁ~、熊ぁ~」と叫びながら叩く、一方の熊はゆったり煙草をくゆらしながら「兄ィもそそっかしいや。しかし熊って野郎も早く返事すりゃあいいじゃねえか」と言いながら「う~ん、熊って俺か!?」と気づく、というクスグリが効いていた。何度か書いたこともあるが、ぜひ三三の滑稽噺を以前から聞きたかったので、20分にも満たない時間とはいえ、大いに満足。この人の奥の深さを感じた一席である。

三三『唐茄子屋政談』(20:16-20:55)
この噺は2008年8月1日の紀尾井ホールの独演会以来。その翌日に新百合ヶ丘で小朝のこのネタを聞き、その時は小朝に軍配を上げるようなブログを書いた。もちろんあれから二年、十分に熟成され完成度は上がっている。しかし、唯一残念なのが吉原田圃での回想場面。“やらずの雪”で花魁と鍋をつつきながらの会話シーンで徳三郎に「何か唄ってよ」と頼む花魁の願いを徳が「唄はできないんだ」と断わり、艶っぽい会話でつなぐのだが、唄わないまでも都都逸の一つもそろそろ入れて欲しいものだ。この人なら出来るはず。まぁ、この噺がネタ出しされていない“お楽しみ”ネタなので、聞けただけでも良しとすべきかもしれない。しかし、ぜひ今後チャレンジして欲しい。せっかく徳三郎はもちろん、叔父さん夫婦、田原町の親切なお兄さん、誓願寺店の親子などの登場人物それぞれが生き生きしていて頗る良い高座なので、どうしても勿体ないと思うのだ。現役ならさん喬、小朝、そしてかつての名人志ん朝に匹敵する噺にこしらえて欲しいと思うし、三三には出来ると思うからこその小言である。
2008年8月1日の三三の会についてのブログ
2008年8月2日の小朝の会についてのブログ

人情噺や政談ものの力量は辛口の落語ファンも認めるところだろう。今夜は柳家の十八番(オハコ)である滑稽噺でも、期待通りの高座を披露してくれた。そして、なかなかの機知を感じるのがネタ出しの手法。しばらく滑稽噺を主眼にしているのだろうが、配布されたチラシによると、すでにチケット完売の8月12日の会は『看板のピン』、9月16日は『弥次郎』、そして10月14日は『宗論』となっている。これらの噺にももちろん興味は沸くが、その相方にどんな“お楽しみ”ネタをぶつけようとしているのか、これまた大いに気になるではないか。『粗忽長屋』に『唐茄子~』ですぞ!「どちらかと言うと『唐茄子~』をネタ出しすべきじゃないの!?」、と思わせる。さて、お披露目された滑稽噺の相方としてどんな“お楽しみ”長講ネタを用意するのかを想像するのも楽しい。これが企画会社のアイデアなら、なかなかのセンスである。

チケットが取りにくいのも十分に理解できる会。会場の規模もほど良く、現在行われている独演会のシリーズ企画では最良の部類に入ると思う。間違っても算盤をはじいて1,000人規模のホールに変更しないでいただきたい。都合もチケット入手の可否も含め、すべては“縁”であり“運”である。さぁ、次回のご縁はいつになることやら。長く続けてもらい、年に二~三回でも足を運ぶことができれば、と思っている。
[PR]
by kogotokoubei | 2010-07-14 23:00 | 落語会 | Comments(4)
落語協会の新会長や新役員のことを以前に書いた手前、常任理事が決まったら何か書くつもりで協会HPの更新を待っていたのだが、いまだにホームページの役員のページは下記のままである。
落語協会HP 役員のページ

会長 柳家小三治
常任理事 常任理事は、次回7月8日開催予定の役員会で決定いたします。
役員 桂文楽・柳家さん喬・古今亭志ん五・古今亭志ん輔・入船亭扇遊・
林家正蔵・三遊亭歌る多・柳亭市馬・三遊亭吉窓・五明楼玉の輔
監事 三遊亭圓丈・柳家さん八・柳家小さん
--------------------------------------------------------
相談役 柳家さん助・橘家圓蔵・古今亭圓菊・三遊亭圓窓・
入船亭扇橋・林家こん平・林家木久扇
顧問 三遊亭金馬
最高顧問 三遊亭圓歌・鈴々舎馬風



ここで素朴な疑問がわく。
果たして7月8日に予定されていた役員会は開かれたのだろうか?

この7月8日にはHPでは「円朝まつりスペシャルサイト」公開のニュースはあるのだが、役員会のことは何も掲載されていない。落語協会HP 円朝まつりSpecialSite
円朝祭りのますますの派手さ加減にはやや興醒めだが、いずれにしてもお盆の時期で都内にはいないので、これまで行ったこともないし今年も行けない。「円朝まつり」と言って良さそうなのは「奉納落語」だけで、屋台やらかくし芸は、あくまで「落語協会夏祭り」でしょうね。難しいテーマだが円朝については命日の前後に何か書くつもりです。

さて、今や話題の的の「相撲協会」とは財団法人と社団法人の違いがあったり、もちろん組織の歴史も役割も違うので比較するのも野暮なのだが、一応パブリックな組織がアナウンスした情報なので、何らかのフォローをするべきでしょう。

もし7月8日に役員会が開催されなかったとしたら、その理由が会長や他の役員の体調問題ではないか、などと心配する落語ファンだっているはず。
もし、開催されたが、何らかの理由で常任理事の選定には至らなかったら、そこんとこも書くべきじゃないの。
そして、実は開催されていて常任理事も決まっていたのなら、「円朝まつりSpecialSite」のコンテンツを掲載する前に役員ページを更新しなきゃね。

これじゃ、まるで「社団法人」じゃなくて「(情報)遮断放任」だろう!(失礼しました)
[PR]
by kogotokoubei | 2010-07-14 11:53 | 落語協会 | Comments(2)

e0337777_17234506.jpg

『杉浦日向子の江戸塾』

 先日相撲のことを書くことをきっかけに、久しぶりに杉浦日向子さんの本を何冊か読み返してみた。と言っても絵の多い本や対談などが多く、肩のこらない楽しい本ばかり。その中で、先日のブログに関連する相撲ネタを含めた次のような対談を発見したので紹介したい。『杉浦日向子の江戸塾』(PHP研究所から1997年初版、PHP文庫として2006年発行)の「第3章 鳶の頭、与力、力士がカッコいい」から。対談の相手は作家の北方謙三さんである。

 まず、鳶と鳶の頭についての対談部分。*この第3章のみ「東京人」1998年6月号の内容の文庫への追加収録

杉浦 体力の限界を感じたら、自分から申し出るのが掟です。その場合、頭の世話によって別の仕事につくわけです。
北方 そうか。火消は一生の仕事ではないんですね。ところで火消の衆を形容するのに、よく「いなせ」という言葉を聞くんですが、あれはどういう意味なんでしょう。
杉浦 いなせの「いな」とは、鯔(ぼら)の幼魚のことなんです。鯔の幼魚が大川(隅田川下流)を上っていくときに、背びれを水面すれすれに出していくんですが、その姿がスマートでカッコいい。「いなせ」な衆とは、その鯔の背びれのようにすっきりした丁髷(ちょんまげ)を結っているところからきているのです。あと立ち姿がよい、というのも「いなせ」の条件。
北方 髷と立ち姿ですか。夢枕獏という作家がね、「立てば立松(和平)、座れば椎名(誠)、歩く姿は北方謙三」という歌を詠んだんですが、歩く姿ではだめですかね。
杉浦 わはは。火消も頭になれば、町を歩いているだけで、注目の的になります。
北方 でもはじめから頭になるわけにはいかないでしょう。
杉浦 ええ。それと自分でなりたいからといって、なれるわけではない。頭は、あの人にやってもらいたい、という推挙で決まりますから。期待に応えられないと、引きずりおろされる(笑)。
北方 やはり「江戸の華」の頂点に立つためには、人徳がないといけないんですね。
杉浦 なにしろ鉄火肌の若い衆を一つにまとめなければいけないんですから。その若い衆が勢い余って問題を起こさないように、相撲や遊郭に連れていってガス抜きをさせたりするので、ずいぶんお金もかかりました。



 相撲という興行の空間が、どれほど血気盛んな若者たちが集まる場所だったかよく分かる。
 さて、次に相撲と力士についての部分。

北方 火消しと力士では、どちらがカッコよかったんですか。
杉浦 う~ん、これは好き好きですね。ただ、火消しはたくさんいましたが、力士は江戸で五十人くらいでしたから。それに当時、相撲は年に二回、十日ずつの興行でしたから、めったに力士を見ることはできませんでした。それも人気に拍車をかけたのでは。
北方 相撲は露天でやっていたんですよね。
杉浦 はい。でも天気が悪かったり、会場であるお寺や神社に行事があると順延していたので、十日興行するのに最低でも二十四日間、長いときは三ヵ月もかかったと言います。
北方 そうか。でも年に二十日しか見られなかったら、みんな押しかけたでしょうね。
杉浦 男性だけなんですよ。女性は正規に観戦することができなかったので、噂話に耳を傾けたり、あれこれ想像するだけで。
北方 ええっ?女性は見られなかったんですか。
杉浦 はい。相撲は男だけのものです。軟派の男性が吉原や歌舞伎に行くのに対し、硬派の男性が唯一出かけていくのが相撲。だいたい相撲観戦に行くのは喧嘩をしに行くようなものなんです。桟敷の中で乱闘がある。相撲見物に行って、あざの一つもこしらえずに帰ってきたら、男じゃないって言われたくらい。
北方 贔屓の力士を応援していて、カーッとなるんですか。
杉浦 でしょうね。たとえば「谷風!」と応援している隣りに割り込んで「小野川!」と言う。するともう、周囲を巻き込んでの大乱闘。それでよんどころなくなると、土俵の四本柱に括り付けられてある刀を親方が引き抜いて止めさせる、といった具合。夏なんかすごい熱気で、会場は蒸し風呂状態です。それで係が桶で客の頭から水をザバーンとかけまわる。観客から湯気がもうもうと立ち昇るさまはまるで「男のふかし芋」。こんな状態ですから、女性はとても観戦できません。
北方 男がそれほど夢中になる力士ということで、女性は想像力をかき立てられたんだ。
杉浦 そうかもしれませんね。
北方 力士がもてた理由としてもう一つ。女性は基本的に大きくてたくましい人が好きなんじゃないですか。
杉浦 はい。それに力士はいつも肌をさらしているので、体中が顔のようにきめ細かく、きれいなんだそうです。それが土俵上でぶつかりあい、上気して桜色に変わると想像するだけで、女性はぐっときてしまう。
北方 それで今でも女性にもてるんですね。
杉浦 ええ、きらびやかさ、という点から言えば、女性は花魁にきわまるけれど、男性はやはり力士でしょう。
北方 有名な力士も何人も出ましたよね。
杉浦 ええ。初代の両国梶之助なんて、たいへんな美男子だったそうです。土俵に上がるときは白粉を塗って、花魁のように前髪立に二枚櫛を挿していた。
北方 それで戦えるんですかね。
杉浦 相手によっては、櫛が落ちたら負けにしてやらァ、と豪語していたと言います。



 花形力士は江戸の大スターで、女性を「ぐっと」させるカッコいい存在だった、ということ。

 さて、若貴時代以降の大相撲で、女性が「ぐっと」くるような、“立ち姿”のカッコいい“いなせ”なスターがいただろうか。

 そんなことを考えると、この若貴兄弟の現役引退後の姿が、ある意味で相撲界の今日の騒動の遠因を知る手がかりになるような気がする。欠落した“心の切磋琢磨”の時間を埋めるべく人生の師を求めようともがき、年齢以上に老成を思わせる弟。そして、求道的な苦悩はあまり感じられずマイペースでビジネスの世界を生きようとする、弟より幼く見える兄。そして、本来ならば二人協力して、元横綱として相撲界の発展に寄与すべき立場なのだろうが、子供時分にあれだけマスコミを賑わせた笑顔のツーショットは、今日望むべくもない。彼らの対照的なセカンドライフの姿と反目に、相撲界が内包したまま放置してきた問題が露呈しているように思う。

 本当に相撲界の人たちが立ち直ろうとするのなら、その原点に帰るということで江戸時代にも学べるし、スターと言われた先輩達からも学べるはずだ。
 たとえば、「国技」などと自分達で主張しながら海外から安易に弟子を求め、親方も本人もただ勝てばいいという思いしかなく、「芸道」精神を忘れてきた人たちには、あの双葉山が師事したのが安岡正篤であったという歴史を紐解くことからやり直す必要があるように思う。いきなり凄い名前が出てきたが、お許しのほどを。双葉山や安岡正篤さんのことを説明するのはこのブログには似つかわしくないので、お知りになりたい方はご自分でお調べください。

 話をこの本に戻す。とにかく江戸塾の“塾長”である杉浦日向子さんとニンな相手との対談集である本書は頗る楽しい。たとえば、本書の第一章は北方さんに加え宮部みゆきさんとの三人の対談なのだが、これまた愉快に江戸を知ることができる。別途ご紹介するつもりです。
[PR]
by kogotokoubei | 2010-07-11 16:15 | 江戸関連 | Comments(2)
 正直なところ、それほど相撲が好きというわけでもなく、今回の問題ならびにマスコミの行き過ぎた騒ぎ方には嫌な思いがしていたが、ブログに何か書くつもりはなかった。
 しかし、昨日付けの朝日新聞でNHKの大相撲の放送に関するニュースを目にしたことと、同じ紙面の特集で小沢昭一さんのコメントを読んで、書くことにした。

 NHKは妙な対応をするらしい。受信料支払者の理解が得られないので生中継はしないが、相撲ファンのために幕内の取組を収録してダイジェスト版を放送する、とのこと。なんとも中途半端な・・・・・・。

 法律で定めたわけでもないのに「国技館」という建物の名称が一人歩きして「国技だ!」などと祭りたてられてしまったあたりから、この芸能は本来の単なる娯楽のための興行と相反する捉え方をされてきたと思う。
 早い話が、一般庶民の平均からは並外れて大きい体をしていたり、凄い腕力や突進力のある者同士が、闘犬や闘牛のように見物人の注目の中で闘う興行でしかない。「NHKが放送しているから」、とか「国技だから」といった余計な荷物を背負ったために「清潔さ」やら「スポーツマンシップ」などを求める間違いが起こり、今回のようにジャーナリズムのかけらもなくなってきたマスコミが一斉に騒ぎ出す始末。

 「江戸関連」として本件を取り上げたのは、相撲という興行が江戸時代に始まった芸能だからであり、そのことは7月7日付け朝日新聞の特集の中で、小沢昭一さんの「正論」と言うべきコメントでも説明されている。
特集ページのタイトルは「大相撲は何に負けたのか」、となっていて大学教授などのコメントなどと併せて“我らが”(!?)小沢さんのまっとうなお話が次のように載っていた。少し長くなるが全文の八割ほどを引用する。
 神事から始まった相撲は江戸の終わり、両国の回向院で常打ちが行われるようになる。両国というのは、見世物小屋や大道芸が盛んなところです。このころ現在の興行に近い形ができあがりました。
 明治になりますと、断髪例でみんな髷を落としました。だけど相撲の世界では、ちょんまげに裸で取っ組み合うなんて文明開化の世に通用しない、てなことは考えない。通用しないことをやってやろうじゃないか、と言ったかどうか分かりませんけど、とにかくそれが許された。そういう伝統芸能の世界。やぐらに登って太鼓をたたいてお客を集めるというのも芝居小屋の流儀でしょう。成り立ち、仕組みが非常に芸能的。どうみても大相撲は芸能、見せ物でスタートしているんです。
 芸能の魅力というのは、一般の常識社会と離れたところの、遊びとしての魅力じゃないでしょうか。そんな中世的な価値観をまとった由緒正しい芸能。僕は、そんな魅力の方が自然に受け入れられるんです。
 美空ひばりという大歌手がおりました。黒い関係で世間から糾弾されて、テレビ局から出演を拒否された。ただ、彼女には、世間に有無を言わせない圧倒的な芸があった。亡くなって20年になります。そんな価値観が許された最後の時代、そして彼女は最後の由緒正しい芸能人だったんでしょう。
 昨今のいろんな問題について、大相撲という興行の本質を知らない方が、スポーツとか国技とかいう観点からいろいろとおっしゃる。今や僕の思う由緒の正しさを認めようという価値観は、ずいぶんと薄くなった。清く正しく、すべからくクリーンで、大相撲は公明なスポーツとして社会の範たれと、みなさん言う。
 しかし、翻って考えると、昔から大相撲も歌舞伎も日本の伝統文化はすべて閉じられた社会で磨き上げられ、鍛えられてきたものじゃないですか。閉鎖社会なればこそ、独自に磨き上げられた文化であるのに、今や開かれた社会が素晴らしいんだ、もっと開け、と求められる。大相撲も問題が起こるたんびに少しずつ扉が開いて、一般社会に近づいている。文化としての独自性を考えると、それは良い方向なのか、疑問です。


 まったく同感! 
 次に、江戸時代に相撲がどんな興行であり、そして力士がどのように見られていたか、杉浦日向子さんが監修した『お江戸でござる』(新潮文庫)から紹介。
杉浦日向子監修 『お江戸でござる』
 力士、与力、火消しの頭が「江戸の三男」といわれ、女性にたいへんもてます。でも残念なことに、女性は相撲見物ができません。女性が見ることができるようになったのは、明治以降になってからです。今でも土俵に上がれないのは、その名残でしょう。
「大関」に昇進すると、部屋から引き抜かれ、大名のお抱えになる力士もいて、侍の身分になり禄(給料)をもらいます。二本差しを許され、家来も与えられます。お抱え力士になると、大名の面子がかかってくるので、土俵上は、真剣勝負で燃え上がることになります。
「相撲見物に行って痣のひとつもこさえてこないような奴は男じゃない」と血気盛んな江戸っ子はいいます。喧嘩になって死亡することもあって、何度か禁令も出ました。
 土俵の柱には、数本の刀がくくりつけてあります。喧嘩が起きた時は、親方たちが、これを引き抜いて仲裁しに行くのです。
 刀を差している行司もいます。これは、肝心な取り組みの時に出てくる「立行司」で、刀を差しているのは、大名の名誉に関わるお抱え力士同士の対戦時、判定を間違えたら切腹してお詫びするためです。行司も命がけなのです。
 相撲は、屋外での晴天興行です。「よしず掛け」で、リオのカーニバルのスタンド席のようになっていて、興行が終わると、取り壊します。
 雨が降ると取り組みが行われないので、雨が多い季節だと、何カ月もかかることがあります。
「一年を二十日で暮らす良い男」という言葉がありますが、本当に二十日間の興行で終わります。「十両」と呼ばれるお相撲さんは、一年で十両もらいます。年俸制なのです。
 小柄で技のある力士もいますが、大きな力士もいます。どこまで信憑性のあるデータかわかりませんが、身長二メートル三十五センチの力士もいたそうです。黒船がやって来た時、港に力士をズラリと並べて、l米俵を運ばせました。「こんなに強い大きな日本人もいるんだぞ」と、体格の大きい外国人に示したのです。

 この本はNHKが放送していた「コメディーお江戸でござる」の中で杉浦日向子さんが担当していたコーナー「おもしろ江戸ばなし」をベースにしている。あの番組はコントも含めて江戸のことを楽しみながら知ることができる好企画だった。同じ杉浦日向子さんの『一日江戸人』(新潮文庫)からも引用したい。
杉浦日向子 『一日江戸人』
 少し前、元大関・小錦が「スモーはケンカだ」という名言を吐いたのがモンダイになって「そういう認識でスモーをとるとはケシカラン」とか「しょせんガイジンには神聖な国技がわからないのだ」とかやっつけられていましたが、江戸では、ケンカどころか、スモーあるところに血の雨が降るような風潮があり、そして庶民もまた、それをあおっていました。しかし、こんな乱痴気騒ぎは、いくらなんでもお上がだまっちゃいません。
 ですから、相撲にはたびたび禁令が出ています。そのうち、風紀もおさまり、相撲協会のような「相撲会所」という営業体制も整い、現在の形に近いものになりました。
 整ったとはいえ、幕末に近い天保時代でさえ「今じゃ見物も、ただ喧嘩の下稽古でもする気で見る様子だね」(『愚者論記』より)というぐらいで、ケンカがしたくってスモーに出かける野郎もいました。
 どうするかというと、ケンカ相手にちょうどよさそうな奴の隣にぐいっと押しわって座る。はじめは黙って酒なんか飲みながら見ている。で、相手が声援するやいなや、その敵方の力士の名を、倍くらいの大声で応援する。これでもう、ケンカの火ぶたは切って落とされるんです。
「スモー見物に行って、五体満足で帰るくらいだらしのねえ奴ァねえやッ」なんてえわけのわからないタンカを切って、仲間に青あざや引っかき傷を自慢したんだそうです。


 今回の騒動、杉浦さんだったらどうコメントしただろうか。もちろん、杉浦さんも小沢さんの言う「由緒正しい」芸能であり、あくまで興行であることことを前提に、的確な指摘をしてくれただろうと思う。

 力士だろうと何だろうと法を犯すことは犯罪として罰せられる。しかし、庶民の遊びの延長線上にある賭け事までを弾劾する勢いで力士たちの行為を糾弾するマスコミには閉口する。相撲の生い立ちを振り返り、あくまで芸能であり興行なのだ、という前提から報道をして欲しいと思う。それともマスコミで仕事する方々は、一切賭け麻雀も、ワールドカップのトトカルチョもしていないと主張するのだろうか・・・・・・。

 今は後援会と形を変えたが、かつては個人のタニマチが大勢いて、力士を金銭的にも支援していたしいろんな相談に乗ってあげたのだろう。取組みに勝って花道を引きあげる力士の汗ばむ背中に“聖徳太子”を祝儀として貼ってあげるお客さんの姿も、最近は減った。
NHKが、もしタニマチとしての気概を持っているなら、堂々と生中継するか、あるいは毅然とした親の気持に立って興行そのものを中止するよう協会に進言するかの二者択一ではなかろうか。

 高等教育を受ける前の子ども時代に体の大きさを見込まれスカウトされ、ただ食べて稽古して寝るだけの毎日を過ごし、三十歳にして“年寄り”などと呼ばれ、決して健康的な生活を重ねてはきていないので寿命も長いとは言えない力士という名の芸能人。タニマチという言葉の語源は、大阪谷町のお医者さんが大の相撲好きで、力士の治療代を取らなかったという説があるらしい。昔の落語家ならこういう人を「旦那」とか「お旦」などと呼んでいただろう。
 相撲の訓練は重ねてきても“心の訓練”が不足したまま育った力士や年寄。金と時間をもてあまし度を越した行為をすることなく第二の人生をまっとうに進むためには、指南役として、あらためて本来のタニマチ役や大人の旦那が必要なのかもしれない。そしてファッショ的な報道しかできないマスコミや一般庶民は、小沢さんの指摘するように「由緒正しい芸能」として相撲を見守る姿勢が必要だろう。

 芸能の分野は本来“閉鎖”された世界で、一般庶民が立ち入ってはいけない部分があっていいのだ。「開かれた社会」という言葉は耳ざわりが良さそうだが、一歩間違えば「暴露社会」となり、他人の家に土足で上がりこむことを是認する社会になるのではなかろうか。もちろん、昔の寄席の楽屋のようにヒロポンを堂々と打つような時代ではないから、相撲部屋も今風になる必要はあるだろうが、芸能であり興行であり人気商売である以上、一般庶民と同じ視線でその行動を規定するのには無理がある。

 今回の騒動に関するマスコミ報道の中で落語愛好家にとってあえて利点をあげれば、『阿武松』の読み方が世間に広まったことだけだ。あの噺における阿武松にとっての錣山のような親方が、今日の相撲という芸能の世界にも必要なのは言うまでもない。加えて芸の世界だからこそ、抱えている芸者の躾から始まり親代わりとして愛情ある鞭と飴を操ることのできる置屋の女将さんのような、腹の据わった相撲部屋の女将さんも求められるだろう。もし、そういった芸人としての力士を育てる環境が今日の日本ではつくれないとすれば、相撲は博物館に行くかモンゴルにでも場所を移してもらおう。ウランバートルで堂々と“ケンカ”の興行をしてもらえばいい。瀧川鯉昇演じる『千早ふる』の龍田川なら、きっと弁当のおかずに“豆腐”の出前をしてくれるだろう。(鯉昇のこの噺を知らない人には失礼!)
[PR]
by kogotokoubei | 2010-07-08 08:17 | 江戸関連 | Comments(4)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛