噺の話

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柳家つばめ_落語の世界

 『創作落語論』に続いて河出文庫から再販された本書の初版は昭和42年講談社からで、著者38歳の時である。よくぞ復刊されたこの本の魅力は、次のようになるだろう。
(1)落語家や寄席の世界(まさに「落語の世界」)を知る絶好の入門書
(2)柳家つばめが活躍した時期の落語界のことを知る歴史的に価値のある書
(3)柳家つばめ自身のことを知ることができる書
あえて言えば、「空間」と「時間」、そして「人物」に関してよく出来た本である。
なお、過去の落語関係本発掘に関する河出文庫の奮闘には敬意を表するが、残念ながら、すでに関係者はお分かりだろうが、表紙カバー裏のプロフィールにおいて生年を「1927年」と誤記している。昭和4年、1929年の生まれなので、できるだけ早いうちに訂正版に変更をお願いしたい。

 さて、本書のことを記す前に、今日の落語ファンに馴染みが深いとは思えない著者のことを少し知っていただくために、東京放送(TBS)で長年落語番組の企画を手がけた川戸貞吉さんの『現代落語家論』(下巻)(昭和53年、弘文出版発行)から引用する。
川戸貞吉 現代落語家論 下巻
 

 私は『小さん一門全員集合』という企画を練っている最中だった。月曜から金曜まで五日間にわたる放送で、最後の日には御大小さんが登場してオチをつける。こんな大筋は、きまっていた。
 長年小さん師のもとへ出入りしている私は、小さん門下の余興に数多く接することが出来た。忘年会、新年会で演じられた余興のうち、おもしろかったものを集大成してみたいとも思って、小さん師と飲みながら何回か相談した。
 大勢の門下を一堂に集めるのだから、たいへんである。各人のスケジュールを調整して、こちらのスタジオのスケジュールと合わせなければならない。ひとりでも欠けたら駄目である。余興も選び出さなければいけないし、簡単に、ことは運びそうになかった。私がそのことをいうと、即座に小さんの答えが返ってきた。
 「つばめがいい。つばめに頼めばいいよ」
 小さんの目が細くなった。
 小さん一門は大所帯である。直弟子の真打だけでも、小せん、さん助、つばめ、談志、燕路、小三治、扇橋等がいる。孫弟子まで含めると、たいへんな数となる。五代目柳家つばめは、こうした大人数の小さん一門を取りまとめる番頭役として、師匠小さんを助けていたのである。 
  (中  略) 
 病院で考えてきたのだろう、画用紙を貼って、小さん一門の似顔絵を画きながら、出演者を紹介しはじめた。私は、昔の彼の高座を思い出していた。さいわいにも心配した咳は出ず、無事収録することが出来た。
 すぐに病院に送って、二日目三日目のぶんの録画を撮り、この日の作業を終わった。
 『車を出してください。いまから行きますから』という連絡が入ったのは、その翌日である。『駄目だ』という私に、『最終回は師匠が出ます。師匠の紹介だけはしたいから、病院に迎えの車を出してほしい。車をくれないんなら、タクシーを拾っても行きますから』。こういわれては、しかたがない。私は車の手配をさせざるを得なかった。
 画用紙に、小さん、小さん夫人の似顔を描きながら、師匠とおかみさんの長所短所を説明するつばめの紹介は、おもしろかった。
 これが最後のテレビ出演になろうとは、夢にも思わなかった。
 柳家つばめの容態が芳しくないと聞いたのは、それから半月ぐらいたってからである。


 この後、二週間ほどたった昭和49年9月30日に、五代目柳家つばめは肝硬変で亡くなった。まさに“芸人魂”を物語るエピソードである。そして、彼がどれほど師匠小さん、そして一門を愛していたかが推し量れる。

 その師匠小さんが、本書の冒頭で「つばめのこと」と題して次のように書いているが、ここでは入門当時のつばめの意外な(と私は思った)横顔を紹介している。

 

 藤沢から出て来るのは大変だから東京に部屋を借りたいというので、私の借りている家の一間があいたから、そこへ越して来なと言って同じ屋根の下に住むことになった。
 ところが、私が起きて掃除をしていても、なかなか起きてこない。部屋に行って見ると、きもちよさそうに寝ている。「おい何時まで寝てんだ」とどなると、しぶしぶ目をああけて、「ハッ私は十時間寝ませんと頭がはっきりしません」−大変な奴だ、師匠が掃除をしてるのに弟子がのんびり寝てちゃいけねえ、そこで雑きんがけをやるようになったが、どうもまずくて見ちゃいられねえ。朝は私より先にお膳の前に座って待っている。「おい母ちゃん、小伸がお膳の前で待っているから早く飯にしてやれよ」。飯もあわてて食わない。よくかんで、味わって、ゆっくり食べている。米の少ない時分で女房が代用食にうどんの煮込みをこしらえた。飯が少しある。そこで小伸に、「おい飯が少しある、お前はうどんを食うか飯を食うか」ときいた。私としては、「師匠御飯をおあがんなさい、私はうどんをいただきます」と、言うかと思って期待をしていたんだが、「御飯の方をいただきます」と、少しの抵抗もなく、すらすらと言ったもんだ。まことに正直で、すなおで、立派なものである。


 なかなか、こういう弟子もいないだろう。また、小さんが師匠でなければ、早々に追い出されていたのではなかろうか。だからこそ約二十年後に、師匠夫妻をテレビで紹介するため、病身ながら病院を抜け出してまで駆けつけたのだろう。

 師匠小さんの餞(はなむけ)の言葉の後、二十一の章にわたって本編が構成されている。そのタイトルを全て並べてみる。

 自殺した落語家・入門・楽屋入り・前座の仕事(その1・その2)・噺の稽古・
 下座さん・小言のかずかず・覚えること・二つ目前夜・二つ目の悲哀・迷い・真打・
 新作落語の苦しさ・古典落語のすばらしさ・評論家・定席天国・噺家の収入・
 高座のおきて・高座での考えごと・師匠と弟子


 巻末には「附録 落語事典 つばめ編」が付いており、解説は大友浩さん。
 
 紹介し始めるとキリがないほど内容が豊富なのだが、最初に第十六章「評論家」から、著者柳家つばめが、談志をはじめとする当時の「若手」落語家を評する部分を引用したい。これは魅力であげた当時を知る「歴史」的な意味と、それぞれの噺家さんをつばめ自身がどう見ていたか、ということで「つばめを知る」ことにもなる。二つの魅力がある部分といえるのだ。
 

 慢心で、いい例が、談志さんだ。
 彼は、私と同じ二十七年四月に入門し、同じ二十九年に二つ目、同じ三十八年に真打になった。
 彼は、昔からすじがいいと言われ、なまいきだと言われ、油断ができないと言われ、やっぱりうまいと言われ、慢心するぞ、と言われ、していると言われ、現在まで育ってきた。
 立派なものだ。人間的には、ひとくせあるから、当然悪く言う人もいる。私も、性格はまるで合わないから、同期であっても、あまりつきあいはない。つきあわない、と言うより、お互いに合わないのを十分知っているから、領分を侵しあわない、とでも言うのが本当だろう。
 彼は、今も、慢心かもしれない。しかし、ことによると、慢心が、本人のためになっているかもしれない。それで、あれだけの人気が出たのなら、慢心も悪いものではなかろう。
 ただし、この頃は落語家と言うより、落語家出身の毒舌タレントになってしまった、という気はするが。ついで、と言っては申し訳ないが、他の若手にも、私なりに感じたことをひと言ずつふれてみると、
 林家三平さん。
 ネタが少ないということは、売れっ子共通の悩みだが、やはり気になる。もう永いことないぞ!すぐ人気が落ちるぞ!と言われ出したのは七、八年も前。それが、今も人気を持ち続けているのは、そのサービス精神と、可愛らしさだろう。問題は、もっと年をとっていじいさんになっても、いかに可愛らしさを持ちつづけるか。可愛いおじいさんになれるかという点だ。しかし、この人ならできそうだ。
 三遊亭歌奴さん。
 売れっ子の中では、私は一番の技術者だと見ている。だから、一時、故馬風師の線をいっていたが、そんな必要はない。歌奴には歌奴の行き方があるはずだ。何も他人の足跡をさがすことはない。馬風流は、後輩のかゑるあたりにまかしておいて、あなたは堂々と、歌奴でわが道を走るべきだ。
 金原亭馬の助さん。
 昔からうまい人だったが、今もやはり、若手中では屈指の達人だ。ただ、いまだに、志ん生師の幻がぬけない。好きだからこそ弟子になったのはわかるが、弟子だからこそ、志ん生のかすを払い落とすべきだろう。そのかすを、平気で拾い上げて、手にとって眺められるようになった時、名手馬の助が生まれるにちがいない。
 月の家円鏡さん。
 この人は、売れっ子になってはいけない。いや、実際は売れっ子であっても、何とかして売れっ子になりたいと努力している姿が、この人の魅力である。だから、売れっ子のような顔をしたら、とたんにファンは、半分に減るだろう。典型的な噺家像。客から見ては理想的な噺家なのだから、いつまでも客に愛されていてもらいたい。
 柳家小せんさん。
 大勢の中のすばらしい一人、として売れ出したところに、この人の苦しさがある。あの味を、一人高座の時、どうやって出すか。大問題ではあるが、信頼できるのは、その神経の図太さと度胸だ。
 桂米丸さん。
 人気も芸もすっかり地についたが、客はもう一つ、新鮮さを求める。これが新作派の辛いところだ。冒険をバリバリやってもらいたい。失敗でもいい。不死鳥米丸の姿を、大勢が見たがっているにちがいない。
 古今亭志ん朝さん。
 名門出を感じさせなくなったところに、この人のえらさがある。噺は以前の繊細さが消えたが、線の太さが目立ってきた。もう一度、以前とちがう繊細さを取り戻したら、素晴らしいものになるだろう。
 他にも有望な若手はいっぱいいる。


 同門、同期で何かと引き合いに出される談志をはじめ、その後大看板となる人たちについての柳家つばめ評、なかなか鋭いものがある。本書が発行された昭和42年、談志は31歳、志ん朝はまだ29歳である。

 少し戻って第十二章の「迷い」には、落語家二つ目時代に直面する心理的葛藤を説明する中で、ある大名人のエピソードが明かされている。
 

よく、先輩が、
「若い頃、何度やめようかと思ったか・・・・・・」
と言うが、本当を言えば、これは嘘だと思う。
苦しい時に、やめたら気楽だ、とは思ったことだろう。
しかし、やめよう、とは思わなかったはずだ。
やめたくないから苦しむのだ。あくまでやっていたい。成功したい。そこで血の涙を流すのである。
われわれの仲間での、最高峰の一人。黒門町の師匠桂文楽。
若くして、文楽となり、若い頃か大いに売れ、順調にのびて、名人の名をほしいままにしている師匠。才能も精神も最高と思える人。
「わたしゃね、苦しくて苦しくて、寝たって寝られるもんじゃない。真夜中に、枕にしがみついて、カーッて、男泣きなんだ。女房がびっくりして、とび起きて、どうしたんですって、聞くんだよ。しかし、女房に話せることじゃないし、話したって、わかるようなもんじゃないんだ。そんなことが、何度あったか」
まさか、あんなに大成功の師匠に、そんなことがあったのか、と、これを聞いた時、私は思ったものだ。
しかし、事実は、そうした苦しみを、感じとる心があったからこそ、成功したのだ、と私は思い返した。



 へぇー!あの文楽にして、である。
 他にも、「巌流島」を、なぜ「岸柳島」と表記するようになったか、とか下座さんの仕事などなど、紹介したい内容は山ほどあるのだが、これ以上は本書を実際に読む人にとってはネタバレにもなるので、師匠小さんの言葉を借りて、「落語の世界を知るにはこの本がいい、この本を読めばいいよ」とお奨めし、サゲとしたい。
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by kogotokoubei | 2009-12-29 15:39 | 落語の本 | Comments(2)

今年のマイベスト10席

今年行った寄席・落語会は39回。備忘録替わりに、私のベストテンを選んでおくことにした。ただし、好みもあって結構同じ噺家さんの会に複数通っていることもあるので、あえて同じ噺家さんからは一席だけとし、マイベスト十席を序列をつけず時系列で並べてみる。
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・三遊亭遊雀 『崇徳院』 
  *3月21日 朝日名人会(有楽町朝日ホール)
・桃月庵白酒 『木乃伊取り』 
  *4月28日 WAZAOGI落語会 白酒ひとり会(お江戸日本橋亭)
・柳家喬太郎 『純情日記・横浜篇』 
  *6月17日 談春・喬太郎 二人会(関内ホール)
・瀧川鯉昇 『御神酒徳利』
  *6月25日 県民ホール寄席 瀧川鯉昇独演会(神奈川県民ホール)
・柳家権太楼 『寝床』
  *8月3日 三三 背伸びの十番 第六回(横浜にぎわい座)
・柳家さん喬 『百年目』
  *8月18日 鈴本夏まつり さん喬・権太楼選集
・桂雀々 『夢八』
  *9月2日 雀々・談春 二人会(国立演芸場)
・古今亭志ん輔 『居残り佐平次』
  *9月15日 志ん輔三夜 第三夜(国立演芸場)
・柳家三三 『文七元結』
  *11月2日 三三 背伸びの十番 第九回(横浜にぎわい座)
・三遊亭兼好 『一分茶番』
  *12月1日 師走新風落語会(横浜にぎわい座)

<番外特別の一席>
・桂枝雀 『つる』(ビデオ落語)
  *12月4日 桂枝雀生誕70年記念落語会(麻生市民館)
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 悩みに悩んで次の高座は十席からはずしたが、どれも印象に残るものだった。
  ・立川談春 『三枚起請』(2月14日 立川談春独演会)
  ・柳家喜多八 『首提灯』(2月18日 浜松町かもめ亭)
  ・桂平治 『おかふい』(6月10日 鯉昇・平治 二人会)
  ・古今亭菊之丞 『船徳』(8月27日 平成特選寄席)
  ・昔々亭桃太郎 『寝床』(9月8日 桃太郎・鯉昇 二人会)
 
 寄席の高座の中では、6月6日の新宿末広亭における古今亭志ん輔『夕立勘五郎』が印象深い。

 迷いなく選べたものが次の三席。まぁ、2009年マイベスト3と言ってよいだろう。
 ・柳家三三   『文七元結』
 ・瀧川鯉昇   『御神酒徳利』
 ・柳家喬太郎 『純情日記・横浜篇』

 三三は、“背伸びの十番”で権太楼『寝床』と同じ日に演った『三枚起請』も捨てがたかったが、二者択一なら文七になる。マクラなしで一気に語り込んだ噺には、今後の三三の可能性が見えたような気がする。また、それまでは年齢不相応に老獪さばかり目立っていて心配していたのだが、佐野槌の女将の演技などを含めそういった杞憂を払拭してくれた。「背伸びの十番」は、企画そのものが良かった。来年の三三が、またどこまで伸びるか楽しみだ。しかし、チケットはますます取りにくくなるなぁ・・・・・・。

 鯉昇は、今年意図的に追いかけた人だが、一つもはずれがなかった。『ちりとてちん』も『船徳』も『茶の湯』も忘れ難いが、一席に絞るならこの噺。何度も書いているが、“食べ物”のネタになると追随を許さないものがあるが、あえて三遊派本寸法の『御神酒徳利』を鯉昇ワールドに仕立て直し、横浜のベテラン落語愛好家で埋まった県民ホールを沸かせたこの高座を選ぶ。来年もこの人からは目が離せない。

 喬太郎は、談春との二人会での一席。昨年、一昨年あたりの喬太郎は、超過密日程のせいだろう、やや疲れが見られ風邪気味とも思える日も少なくなかったのだが、この日は良かった。ちなみに、談春に関しては今年は独演会には一度だけで他は雀々そして喬太郎との二人会の計三度しか行かなかったが、十席に入れようかどうか迷ったのは独演会の『三軒長屋』。二人会のほうはどちらも相手のほうが光った。なかでも横浜での喬太郎との二人会では、喬太郎の出来がすこぶる良かったこともあり、ボクシングなら8ラウンドのノックアウト、野球なら5回コールド、で喬太郎の勝利という印象。もちろん、喬太郎にとっては地元ということもあって談春にハンデがあったと言えるのだが、それにしても談春は二人会の場合に気負い過ぎるのか、独演会に比べて出来が良くないようだ。“上手い”のは、誰しも認めるところなので、“凄い”談春に会える落語会に出会いたいのだが、ともかく喬太郎も談春もチケットが取れなさ過ぎる。


 もちろん、上記以外の落語会、寄席でのたくさんの高座で今年も笑わせてもらい、時には唸らせていただきました。さて、来年はどんな顔ぶれになるのか、自分自身でも楽しみである。ただし、意図的に追いかけようと思う若手・中堅が二~三人いるので、結構同じ名前がブログに登場するかもしれませんが、ご容赦の程を願います。
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by kogotokoubei | 2009-12-24 12:23 | 落語会 | Comments(2)

正岡子規と寄席・落語

NHKの『坂の上の雲』第一部は次の12月27日放送の第五回で終了するので、また来年末までこのドラマとは間が空く。第一部第二回で、試験が終わってからご一同が寄席に繰り出し、下手な落語家を演じた古今亭菊六が彼らに野次られたシーンがあった。よく言われることだが、正岡子規と夏目漱石が懇意になったきっかけは寄席の話題で意気投合したからであった。すでにこのブログでは漱石と落語について書いたことがあるし、漱石の落語好きは彼の多くの作品にも反映されていて、いわば“物証”がたくさん残っている。それでは子規は、寄席や落語についてどんな記録を残しているかを、少しだけ書きたい。
 すでに先週の第一部第四回、日清戦争従軍記者として帰途にあった船上での喀血が、子規の病状が決して軽くないことを伝えているが、彼は病に伏せてからも、恩人である陸渇南が発行する新聞『日本』に随筆を発表していた。その内容の多くは岩波文庫で今日でも読むことができるが、もっとも若い時分から書き溜めていた随筆も『筆まかせ(抄)』として岩波文庫から発行されている。これは子規が東京にやって来た明治16年の翌年、明治17年2月13日から、新聞『日本』に俳句論を連載し始め、大学中退を決意した明治25年まで書き続けたものだ。慶応3(1867)年生まれの子規は、明治と年齢が一緒なので、17歳から25歳までの記録である。その中から第一編、明治19年に書かれた「寄席」と題した内容を抜粋。
正岡子規 筆まかせ(抄)

寄 席
  余はこの頃井林氏と共に寄席に遊ぶことしげく 寄席は白梅亭か
  立花亭を常とす しかれども懐中の黄衣公子意にまかせざること
  多ければ あるいは松木氏のもとに至りあるいは豊島氏の許に到り
  多少を借り来りてこれをイラッシャイという門口に投じることしば
  しばなれども未だかつて後にその人に返済したることなし 必ずや
  うたてき人やとうとまれけん また人をして余らの道楽心を満足
  せしむることは度々出来ることにあらざれば 時として井林氏は
  着物を質に置きその金にて落語家の一笑を買ふることもありたり 
  寄席につとめたりといふべし


 すでに大学予備門(明治19年からは第一高等中学校と名称変更)で夏目漱石(金之助)と出会っているはずなのだが、彼の名はこの文章にはまだ出てこない。寄席や落語の話題で仲良くなったのはこの後なのだろう。しかし、借金までして寄席へ通ったというのだから、相当の熱の入れようだ。その後、子規が債権者に返済したかどうかは不明。
 ちなみに「黄衣公子(きんいこうし)」は「うぐいす」のことなので、うぐいす色をしたお金のことを、洒落てこう呼んだのだろうと思う。(この件、幸兵衛は自信なし・・・・・・)
 “しゃれ”といえば、地口に関心のあった子規は、この『筆まかせ(抄)』には残念ながら割愛されているのだが、第二編の「一口話し」に、落語家が高座にかける「一分線香即席ばなし」を真似た作品を書いている。これは矢野誠一さんの『文人たちの寄席』から引用する。
矢野誠一 文人たちの寄席
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 ・ラムプがこわれた「ホヤ~
 ・あの木村の親父は死んだといふねヘ「オヤ~
 ・あの男も英雄だったが 哀れな西郷をしたなァ
 ・若竹亭へいかんか「よせ~
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 なぜか、我々凡人をホッとさせてくれる作品ではないか(笑)

 次に、彼にとっての晩年の文章から。新聞『日本』に明治34(1901)年1月16日から7月2日までの期間、途中たった四日だけ休み計164回にわたって連載された『墨汁一滴』より抜粋する。子規34歳、亡くなる前年である。
正岡子規 墨汁一滴
 

散歩の楽(たのしみ)、旅行の楽、能楽演劇を見る楽、寄席に行く楽、見世物興行物を見る楽、展覧会を見る楽、花見月見雪見等に行く楽、細君を携へて湯治に行く楽、紅灯緑酒美人の膝を枕にする楽、目黒の茶屋に俳句会を催して栗飯を鼓する楽、道灌山に武蔵野の広さを眺めて崖端の茶店に柿をかじる楽。歩行の自由、坐臥の自由、寝返りの自由、足を伸す自由、人を訪ふ自由、集会に臨む自由、厠に行く自由、書籍を読む自由、癇癪の起りし時腹いせに外に出て行く自由、ヤレ火事ヤレ地震といふ時に早速飛び出す自由。・・・・・総ての楽、総ての自由は尽(ことごと)く余の身より奪ひ去られて僅かに残る一つの楽と一つの自由、即ち飲食の楽と執筆の自由なり。
(後 略)                            (3月15日)


 病に伏せる身の上であっても、彼の筆は決して暗くない。もちろん書いている内容そのものは健常者から見れば誠に可哀想ではあるが、彼はユーモアたっぷりに身の上を表現し、そして「まだ、食べて、そして書くことができる」と自分自身を鼓舞しているようにも読み取れる。
 そして、この時期には、いろいろと昔の回想もネタになる。5月30日付けで次のような文章がある。

  (前 略) 
余は漱石と二人田圃を散歩して早稲田から関口の方へ往たが大方六月頃ンお事であったろう。そこらの水田に植ゑられたばかりの苗がそよいで居るのは誠に善い心持であつた。この時余が驚いた事は、漱石は、我々が平生喰ふ所の米はこの苗の実である事を知らなかったという事である。都人士(とじんし)の菽麦(しゅくばく)を弁ぜざる事は往々にしてこの類である。もし都(みやこ)の人が一匹の人間にならうといふのはどうしても一度は鄙住居(ひなずまい)をせねばならぬ。 (後 略)


 田の苗が米になることを知らぬ漱石に、子規はよほど驚いたことだろう。その時は笑いころげたのではなかろうか。ちなみに「菽麦(しゅくばく)を弁ぜず」とは、三省堂の「大辞林」によると、中国の左氏伝(成公十八年)にある言葉で、「豆と麦との区別さえつかない。非常に愚かなことのたとえ。」とのこと。私は四十歳くらいまで、カリフラワーとブロッコリーの違いが分からなかった。どっちも嫌いなので覚えようとしなかった、とも言える。しかし、苗が米になることは、田舎で生まれて田圃や畑に囲まれた環境だったので幼い時分から知っていた。かといって、私の方が漱石より偉いということにはならない。当たり前だ。

 さて、正岡子規はその短い生涯を俳句に捧げたわけだが、その背景には寄席・落語から獲得したユーモア精神や、漱石をはじめとする同好の士との交流が大いに影響していると思うのだ。そして「坂の上の雲」を追いかけながら、秋山真之や母、妹に暖かく見守られ、35歳とはいえ幸せな生涯を送ったのだと思うし、そう思いたい。
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by kogotokoubei | 2009-12-22 17:31 | 歴史上の人物と落語 | Comments(0)
睦会と東京音協の、いわゆるコラボレーションによる年末特別開催二日目。会場は演芸場ではないが同じ池袋にある東京芸術劇場の小ホールで、演芸場よりはずいぶんキャパが増えたがほぼ九割の入り。演芸場が92席、こちらが287席なのでほぼ三倍である。
 初日の昨日のテーマが「わるい奴」ということで、ジャマさんのブログ「落語の噺とネコの話」によると、次のネタだったようだ。
□初日(12月16日) テーマ「わるい奴」のネタ
  柳家喜多八『鰻の幇間』、瀧川鯉昇『ねずみ』、入船亭扇遊『三枚起請』
落語の噺とネコの話_12月16日

 さて、二日目のテーマは「こまった人たち」。落語の多くが「こまった人」を扱っているので、初日よりネタの選択肢は多かろう。事前のネタ予想として、
「季節柄『二番煎じ』は誰かやるんじゃないかなぁ、扇遊かなぁ。『居残り佐平次』は・・・やるなら昨日だなぁ。
鯉昇は『時そば』かな?喜多八の『いかけ屋』なんかもいいなぁ・・・・・・。」

といった心境で出かけたが、ものの見事にはずれた。

演者とネタは次の通り。
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(開口一番 柳亭こみち 黄金の大黒)
入船亭扇遊  明 烏
(仲入り)
柳家喜多八  粗忽の釘
瀧川鯉昇   味噌蔵
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こみち(19:00-19:21)
上手くなったのは間違いない。しかし、・・・・・・。好みの問題にもなるので失礼なことは書きたくないが、女流落語家でも好きな人はいるが、この人は私には合わないかもしれない。

扇遊(19:22-20:00)
マクラで師匠扇橋のことを題材にして、入門時に前座の時は「酒、煙草、博打」はダメと言われたが女性に関してはダメとは言われなかった・・・・・・という話が出たので、「もしや、昨日演らなかったので、『佐平次』か!」と淡い期待をしたが、郭噺ではあっても、こちらだった。「こまった人」は時次郎ということらしい。しかし、源兵衛と太助も、たぶん町内では“こまった”札付きだろうから、いずれにしてもテーマには合致しているが、季節感にはちょっとはずれ、という感じ。しかし、この人の噺の完成度というか上手さには聞く度に感心する。まず、見た目も所作も語り口も丁寧で綺麗、かつ“江戸”がしっかり描かれている。野球なら安定した三割打者というイメージ。残る二人ほど“毒”がないので熱狂的なファンは少ないのだろうが、私はこういう本寸法の人は好きだ。今後、もっと枯れてきたら師匠のような存在になるのかなぁ・・・・・・。“今年の漢字”というイベントで「新」が選ばれたらしいが、これを真似て扇遊を表すならば“颯爽”の「爽」かな。

喜多八(20:15-20:44)
いやぁー、楽しませてもらった。『首提灯』など噺自体が「見て味わう」ものなら当たり前なのだが、こういう噺でも「見せる」ことで「魅せる」技を十分に発揮して会場を沸かせた。特に、慌て者の亭主が八寸のかわら釘を隣家との壁に打ち込んでしまって詫びに行ってからの「顔」と「目」の演技が真骨頂。こういった楽しさは、CDでは味わえない。女房に「あんたも落ち着いたら一人前なんだから」と決め台詞で後押しされ隣家で一服し、自分達夫婦の馴れ初めでのろけるくだりが絶妙だった。隣家の主とのセリフの入らない掛け合いにも笑った。今日は、結果として喜多八が一番。昨夜飲んで寝て夕方起きたので休養十分、という意味のことをマクラで言っていた通り、私が今まで見た喜多八の中で一番良かった。
この人を漢字一字で表現するなら、エンジンがかかる前の絶妙な病的イメージ演出とその後のフルパワーとの転回の妙で「転」かな。

鯉昇(20:45-21:20)
何度聞いても笑えるタミフルのマクラから本編へ。マクラで登場した「近所の(医者の)青木先生」を本編でも活かすなど、流石の鯉昇ワールド。ケチな主人の店に奉公に来てから「刺身」にお目にかかっていない奉公人が、食べ方を思い出すシーンで笑いをとるなど、あらためて、「食べ物」ネタでこの人を上回る人は今いないんじゃないか、と思わせたが、『ちりとてちん』や『時そば』を知っている者としては、これが十八番とは言えない。実際に今日は喜多八ほどは笑いを取れていなかった。(喜多八は絶好調だったと思う。)
しかし鯉昇ワールドを堪能した。さて、漢字なら・・・・・・鯉昇流の演出やクスグリの“捻り出し”方にいつも驚くので「捻」かなぁ。

 睦会のお三方、漢字のイメージをつなぐと「爽転捻」となった。「総天然」の洒落!?

 今年私が行く落語会や寄席は1月6日の横浜にぎわい座の睦会に始まり、この池袋の睦会で終わりそうだ。このままだと回数は39。本年も落語に“サンキュー”という洒落ですね。もしあと一回行くことができれば四十回。“しじゅう”落語にお世話になります、となるかどうかは年内のスケジュール次第。
 ともかく、今日は三者三様で楽しませていただきました。
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by kogotokoubei | 2009-12-18 09:01 | 落語会 | Comments(0)
今回はNHKで放送中の『坂の上の雲』への、落語家さんの出演について。

 第一回の放送で笑福亭松之助師匠が出演していても、松之助師匠は立派な“役者”なので特別な感覚はなかった。そして第二回放送で、寄席に繰り出した秋山真之ご一行に野次られる下手な噺家の役を古今亭菊六が演じたのを見てうれしかったし、この番組関係者のキャスティングのセンスの良さを感じたものの、寄席に落語家がいるのは当たり前なので、それ以上の詮索をしなかった。
 しかし、先日の第三回目。松山の警察署長役で柳家喬太郎の登場となると、これは明確に“意図的なもの“を感じるではないか。

 司馬遼太郎を愛読する私は、もちろん今後三年間このドラマを見るつもりだが、本来の壮大な歴史物語を見る以外に、もしかして新たなこのドラマの楽しみが増えるのだろうか。

 (1)ドラマに登場する正岡子規や夏目漱石が落語好き・寄席好き←これは事実
 (2)番組関係者(演出家など)が落語好き←これは想像

というつながりで、今後も現役噺家さんの思わぬ場面への登場があるのなら、それはなかなか結構なことであり楽しみである。あるいは、喬太郎出演は“たまたま”で、今後はこういった落語ファンにとっての“サプライズ”はないのかもしれないが・・・・・・。

 いずれにしても、原作良し、キャスト良し、このドラマからは目が離せませんぞ。
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by kogotokoubei | 2009-12-15 12:10 | 役者としての落語家 | Comments(0)
12月10日配信の「お台場寄席」は、フジテレビに一席だけ存在したという、先日亡くなった立川文都の『短命』。今日聴いて、文都の良さを再確認した。
 1999年1月9日の収録で真打昇進の翌年。立川流であっても上方落語を東京の落語ファンにも分かりやすく演じようという姿勢が、マクラでの警察官募集ポスターの東西の違い、成田空港と関空のポスターの違いなどの楽しいクスグリに現れている。彼は、常に「東」と「西」のギャップを感じ、たまには“アウェー”の洗礼も受けたことだろう。しかし、最後は自分の立場を逆に強みにすることができたのだと思う。
 文都の『短命』はもちろん上方流で、「くやみ」の言い方について甚兵衛さんに教わる場面も彼らしく演じている。柔らかな語り口で、決して聴く者に“緊張”を強いるようなこともない。やはり、得がたい人だった。
 ナビゲーターの塚越氏が「サゲの通りになっていれば良かったのですが・・・・・・」とコメントしていたが、たまにはいいこと言うじゃないですか、まったくその通りです。

文都落語をご存知ない方は、ぜひお聴きください。
お台場寄席
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by kogotokoubei | 2009-12-12 11:33 | インターネットの落語 | Comments(0)

桂米朝 その弐

先週12月4日の金曜日、ある意味で歴史的な落語会の会場で、米朝師匠の元気なお姿を拝見できたし、春團治師匠の『祝い熨斗』も聞くことができた。そして、桂枝雀生誕70年記念落語会全体が、会場も一体となった素晴らしい会だった。
 そこで、文化勲章受章記念(?)の米朝特集第二弾をお送りする次第である。前回(11月17日)は、米朝師匠と正岡容との出会いなどを中心として書いたので、今回は米朝師匠の若かりし日(とは言っても40歳代)の逸話や、落語への師匠の思いなどを参考資料の引用を含め少し書きたい。*この先は米朝師匠の敬称を略させていただきます。
 米朝という上方ローカルの噺家を“全国区”にするきっかけとなった「上方落語の会 桂米朝独演会」を主催したのは矢野誠一さんである。第一回目が昭和42(1967)年5月2日に紀伊國屋ホールで開催されたのだが、プレイガイドの女子事務員が「ドカタらくごのかい」と読み間違えたという逸話が残るほど、上方落語の東京での浸透度が低い時代だった。
 矢野さんの思い出話を、文春文庫版の『落語と私』の解説より、少し長くなるが引用。
桂米朝_落語と私*文春文庫の初版発行は昭和61(1986)年3月25日 

 あの六十年安保前後の、世情が騒然としていた時代に、ひょんなことから同世代の落語家の何人かとのつきあいが始まり、いまに至っているのだが、その時分柳家小ゑんといっていた立川談志や、まだ三遊亭全生だった三遊亭円楽が、「大阪じゃ、やっぱり米朝さんだ」と、口をそろえてほめちぎるのをきいて、桂米朝という落語家の存在を知った。
   ・・・・・・(中略)・・・・・・
 どうしても米朝さんに会う必要を生じて、その千日前のマンモス寄席まで出かけた。その日の米朝さんは落語の出番がなかったものか、めずらしく背広姿で「お笑いトンチ袋」なる大喜利の司会者の席にすわっていた。
 笑福亭松之助、桂文紅、桂米紫、小春団治だった露乃五郎、我太呂だった桂文我、小米時代の枝雀、それにまだあどけなさの残っていた桂朝丸、紅一点のいまは亡き吾妻ひな子・・・・・・と、こんなところが解答者で、彼らの口にする珍答の罰として、顔に墨をぬりたくる役目を如才なげにつとめていたのである。思えば、この米朝に、笑福亭松鶴、桂春団治、桂小文枝らの努力がやっと実って、上方落語復興の曙光がさしかけていた頃であった。
 あらかじめ来意は告げてあったので、この大喜利を見終えて、初対面の挨拶をするべく楽屋にまわった僕は、そこで感動的な光景を目にしたのである。
 いまのいままで、駄洒落や謎がけに興じていた面々が、顔につけられた墨を落とす間もあらばこそ、こんどは真剣な表情で上方落語の演出について、熱気あふれたディスカッションをかわしていたのである。誰が口火を切ったわけでなく、ごく自然発生的にそうした論議がなされていたような様子なのもよかったが、落語家がこんなにもひたむきに、自分たちの仕事をむかいあっているさまにふれたことがなかったから、その迫力に圧倒されて、なんだか上方落語ルネッサンスの現場に立会っているような気がして、胸がしめつけられたのを覚えている。そんな討議の中心にあって、明快な論旨を展開しながら座をリードしていたのが米朝さんであったのはいうまでもない。


 「お笑いトンチ袋」は千日劇場で昭和38(1963)年10月から始まり、昭和40(1965)年から昭和42(1967)年に渡り関西テレビでも放送された。私も小学生時代に楽しみにしていた記憶があるので他の地域でも放送されたはずだ。矢野誠一さんが楽屋で“歴史的な場面”に遭遇したこの時期、大正15(1925)年生まれの米朝は四十歳前後、枝雀は昭和14(1939)年生まれなので、まだ二十歳代である。
 罰ゲームの墨を顔につけたままで、この顔ぶれが交わした落語論議は、よほど熱いものだったのだろう。当時小米の若かりし頃の枝雀が、墨を塗られた顔のままで米朝に落語論議でつっかかる姿が目に浮かぶようだ。
 さて、大阪まで出演交渉をしに行ったのであろう矢野誠一さんの誘いを受けて実現した東京での米朝独演会。この会に来場した安藤鶴夫さんが米朝を絶賛したこともあり、それ以降、東京の落語愛好家にも一気に米朝の名が浸透していくことになった。昭和と同じ年齢を重ねる人なので当時四十歳代前半、パワーに上手さが加わって、もっとも勢いのあった時代であったろうと察する。
 その「独演会」という興行について、同じ正岡容門下である小沢昭一さんの本『小沢昭一がめぐる 寄席の世界』(ちくま文庫)所収の対談で米朝が語っているので抜粋する。この本の初版は2004年に朝日新聞社からの単行本での発行なので、対談の時期も今から数年前と推測。
小沢昭一がめぐる 寄席の世界

小沢  もう、あまり独演会的なことはおやりにならないというおつもり
     ですか。
米朝 独演会は、一応もうやらないということにしています。東京では、
   (六代目三遊亭)円生さんからそうなったんですが、二席で独演会
   と称するんですね。昔の四代目(柳家)小さんなんて人は四席やり
   ましたよ。五代目(笑福亭)松鶴という人はもう四つぐらいやって
   それで独演会ですよ。そやさかい私は、どうしても三席はやらなんだら
   独演会とは名乗れないというんで頑張ってやってたんですがね。
   やっぱりもうしんどくなってきて、二つで独演会ということにしたり
   はしてたんです。そやけど、もうそれも・・・・・・。
小沢 でも、どうですか、独演会で三席とか四席は無理というような状態
   になっても、噺をやめようというお気持はございませんでしょう。
米朝 ありませんな。それはない。やめて何すんねんいうたらね。何も
   することないですわ。


 補足するが、私が付けた下線部分の「もう四つぐらいやって」は、書き間違いではないので、五代目松鶴の独演会では、七席から八席演じたということか・・・・・・。

 ともかくこの会話からわかることとして、次の2点。
(1)独演会とは、三席あるいは四席演じるのが、昔は当たり前だった。
(2)米朝は、独演会ができなくなったからと言って、落語家を引退するつもりはない。

 (1)については、今日においてその是非は微妙だなぁ、という感じ。同じ人の噺で三席あるいは四席というのは、結構聴くほうもきついと思う。かつて、横浜にぎわい座での「志らく百席」シリーズで三席聞いたこともあるが、彼の短い噺を交えた三席でさえ結構お腹いっぱいになった。短い滑稽噺と長講人情噺の構成であろうと、演者が同じで三席は、聴く側にも覚悟がいる。そうかぁ、三席、四席聞いても飽きないだけの名人だった、ってことなのだろう。
 (2)については、今もって落語家であり続けたいという米朝に、ただただ拍手であり感謝である。今年のNHK演芸大賞落語部門大賞を受賞した古今亭菊六について、ある審査員が「落語をするために生まれてきた人」と表現したが、米朝は、“生涯をかけて上方落語を救うために生まれてきた”のかもしれない。

 米朝の芸については今さら私などが下手なことを書く必要もないと思うし、得意ネタについても、あまりにも多すぎて絞り込むのが難しい。
 たとえば「『地獄八景亡者戯』が代表作」と書けば、とたんに「おい、『算段の平兵衛』やろ!」とお叱りの声が聞こえそうだし、「算段ですよねぇ・・・・・」と答えると、別の方向から「こらぁ、『百年目』を忘れるな!」と言われそう。他にも、「何言うてんねん、米朝はん自作の『一文笛』を知らんのか!」などなど。次のような噺それぞれに、ご贔屓がいるだろう。
  らくだ・鴻池の犬・愛宕山・骨つり・帯久・はてなの茶碗・どうらんの幸助・宿屋仇・
  池田の猪買い・天狗裁き・近江八景・七度狐・軒づけ・景清・鉄砲勇助・・・・・・。

 あまりにも持ちネタが多いし、それぞれが素晴らしく味わいがある。“どれか一つ”という質問でも意見は分かれるだろうし、“米朝ベスト3”をそれぞれのファンに挙げてもらっても、相当な数のネタが並ぶと思う。だから、特定のネタについて何か書くことはやめる。
 その代わりというわけでもないが、「落語家」ではなく、優れた「落語研究家」あるいは「落語の先生」としての側面を、『落語と私』の「第一章 話芸としての落語」“説明なしですべてがわかる話術”の項から引用。
 


 すべて味わいは、十分な説明をしないで相手にわからせた時の方が、味が良いものです。
  (中 略)
 『宿屋仇』というはなしがあります。上方落語の場合は、大阪の日本橋の宿屋街が舞台で、東京では『宿屋の仇討』という題になっていますが、これはもとは大阪の落語です。
 これを演じますのに、大阪の日本橋のズラリとならんだ宿屋の一軒が舞台であることだけは、はじめに説明しておきます。
「ああ、ゆるせよ」(このことばでこの人物は武家らしいな、とわかります)
「へえ、おこしやす」(これは語調で男である。どうやら宿屋の者らしい)
「紀州屋源助とはその方かたであるか」
「へえ、手まえどもが紀州屋源助でございます」(これで宿屋の名前がわかった)
「その方があるじの源助か」
「いやわたしは当家の若い者で」(ああ、これは主人でなく雇い人か)
「ほほう、若い者にしては、えろう頭(つむり)がはげておるな」
「おそれいります。御念のいったことで。かようなところへ奉公しておりま
 すと、いくつになっても若い者と申します」
「さようか、名は何と言うな」
「伊八と申します」(やっと名前もわかった。頭のはげた中年の宿屋の
 奉公人・・・・・・)
「なに、その方じゃな。鶏のしりから生血を吸うのは」
「そらイタチでございます。わたしの方は伊八と、かように申します」
「あはは、さようか、いなやに伊八、些少ながらこれをつかわすぞ」
「あ、これは、帳場へのお茶代で」
「いや茶代ではない。特別をもってその方にとらしたのじゃ」
「ああ、これはわたしへの御心づけで、こらどうもありがとうございます」
「これそのようにひねくらいでもよい。中には二朱(一朱は一両の
 十六分の一)よりはいっておらぬ」
「どうもおそれいります」
・・・・・・このへんになってくると、旅姿の武士と宿屋の奉公人と、
二人の姿が聞き手の頭の中に芝居やテレビの一場面のように、形をとって
現れてくると思います。こうして物語は次第にすすんでゆくのです。

 説明をあまりすることなしに、一木一草まで立体的にうかびあがらせるような話術・・・・・ということになると、そこはしゃべるだけでなしに、しぐさや視線の使い方にさまざまなテクニックがいります。
 レコードや録音テープで覚えて、へたな玄人以上にうまいアマチュアの方がおられますが、ラジオで聞いている分にはよいのですが、目で見た場合、やはり素人だなあと思わせるのは、こうしたテクニックがまるでできていないからです。
 こんどはその技術的な面から、落語の演出をみてみましょう。


 ということで、次の“しぐさと視線”の項に続くのだが、ここまで読んだ人は、次も知りたくなるでしょうが、続きはぜひこの本を買ってご自分で確認してください。

 この本は、全編にわたってこのように事例をふんだんに交え、わかりやすく「落語とは何か」、ということを教えてくれる。最初の発行は単行本(ポプラ社)で昭和50年だから、米朝50歳。その6年前の昭和44年に『愛宕山』で芸術祭優秀賞を受賞し、3年前の昭和47年からは、いまや伝説となりつつあるサンケイホールでの独演会が始まっており、同じ昭和47年には第一回上方お笑い大賞を受賞した。サンケイホールでの独演会に私は残念ながら行く機会がなかったのだが、残された音源で今でも当時の円熟期の落語を楽しむことができるのはうれしい限り。さて、昭和50年頃の米朝、落語会、テレビやラジオへの出演などが数多く、間違いなく多忙であったろう時期に、子ども達への落語入門書として本書が書かれたということが、米朝の偉さだと思うのだ。かといって、この本は大人の落語愛好家にとっても大いにタメになる本であり、いまだに本書を上回る落語の解説書はない、と私は思っている。だから、未読の方には是非お読みになることを薦めるのです。ポプラ社から新装版も発行されているし、文春文庫でもいい。どちらでも結構なので一読されることをお奨めします。

 先週の麻生市民館での“桂枝雀生誕70年記念落語会”に居合わせたお客さんは、私を含め本当に幸せだったと思う。しかし、まだまだ米朝は健在だ。次は「桂米朝米寿記念落語会」にぜひ出向きたいと思っている。数え年なら、あと三年後のことだ。“米”つながりで縁起もよろしいのではなかろうか。
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by kogotokoubei | 2009-12-07 17:08 | 落語家 | Comments(0)
1,000人は入る会場が、開演前に八割位、最終的にはほぼ埋まったように思う。
関東で、かつ多摩川超えでこの会にこれだけ集まったことが、なぜかうれしかった。

配布されたプログラムによると、
8月13日の枝雀の誕生日にサンケイホールブリーザで昼夜二回開催で幕を開けたこの会は、その二日後の8月15日に名古屋、翌16日に浜松などなど、回数を重ね今日が13回目の開催。残るは12月25日の鈴本と来年3月14日の札幌。
合計15回開催。そのうち、ビデオ落語の後に行われる「思い出を語る座談会」に米朝師匠が登場するのは、六回しかない。しかも関東では今日だけなのである。加えて、春團治師匠が落語で出演し米朝師匠が対談で出演する会は、10月10日の京都・南座と今日の、たった二回。
最初に、今日の会がある意味で歴史的な会であることを、あえて記しておきたかった。

さて、今日の“お誕生会”は、次のような構成だった。
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桂紅雀    普請ほめ
桂雀々    動物園
桂南光   あくびの稽古
桂春團治  祝い熨斗
(仲入り)
枝雀ビデオ落語 つる
《お誕生会》想い出語る座談会
 桂米朝 桂南光 桂雀々 桂紅雀
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今日の会は、個々の時間などを書く野暮なことはやめにしたい。
開演が午後六時半、終演が午後九時ということだけ記すにとどめよう。

紅雀
 東京の『牛ほめ』は上方がルーツで『池田の牛ほめ』と言っていたが、牛をほめるまで演らなかったので、『普請ほめ』というネタが終演後に貼り出されていた。枝雀の最後の弟子だが、上手くなった。
配布されたプログラムの「桂枝雀・おもろい年譜」では
  1995年9月 [56才] 一生懸命だが落ち着きのなさそうな男が入門。「紅雀」と名づけられる。
と書かれている。
 枝雀とは四年間ほどの師弟の歴史ということになるが、対談で披露された話では、枝雀が仕事の量をあえて減らしていた時期であり、結構直接師匠から稽古をつけてもらったらしい。入門から14年。今は、もちろん“落ち着き”もあり、兄弟子達にはない清々しさがある。今年9月初めての独演会を開いたというのも十分にうなづける。

雀々
 マクラがともかく大爆笑。詳しくは書けないが、とある湘南地域で開かれた平均年齢の高い落語会でのエピソード。さんざん笑わせておいて本編に突入した時は、「えっ、このネタ?」と思ったのだが、いやいや雀々落語はすさまじい。この噺でこれだけ笑いをとった人を私は知らない。その無言の仕草が鍵なので、こういう噺は生でなければ絶対にその良さが分からないだろう。
談春との二人会でも思ったことだが、 この人の落語のパワーにはますます将来の発展可能性を感じる。雀々、目の離せない人だ。

南光
 まだ「べかこ」だなぁ、私にとって彼の名前は。一番弟子で師匠が30才の時に入門し、一緒に枝雀の恩師である森本先生の家に居候したのが1970年だから、彼が入門してから40年にもなるわけだ。テレビ、ラジオなどでの露出も多く、見た目も声も含めキャラが目一杯立っているので、どうしても落語の登場人物が話している、というより南光が話しているという落語に思える。まぁ、それでもいいんだろう、この人なら。

桂春團治
 上方で「三代目」と言えば、この人である。
 10月10日の京都南座では『代書屋』だったらしいので、同じ噺か『いかけ屋』あたりを期待していたのだが、この噺も春團治師匠十八番の一つ。なんとも言えない優雅さがありながら笑いのツボははずさない、まだ十分現役の落語だった。
 米朝師匠の五つ年下、昭和5(1930)年生まれなので今年79才だが、いつもの通りマクラがほとんどなく本編へ入り、ご健在な姿を拝見することができた。ともかく、米朝師匠と春團治師匠に関しては、同じ空間に一緒だったことだけで、うれしかった。

 仲入りで会場に掲示された写真や襲名披露の時の記念の品々を見て、記念の手拭いを購入。さて、休憩も終わり「ビデオ落語」へ。

枝雀ビデオ落語『つる』
 不思議な体験だった。
 正面のスクリーンに「ひるまま」の出囃子で枝雀が登場すると、ビデオの会場(ABCホール?)も麻生市民館の1,000人の会場からも拍手。
 そして、その笑いもビデオと会場で呼応する。会場には、この噺そのものを初めて聴く人も少なくなかったようで、私の席の周囲の中年から高齢者までの複数の女性が、笑いころげていた。
 私は後半、笑いながらだんだん目がかすんできた。

《お誕生会》想い出語る座談会
 ビデオ落語が終わりいったん幕が下りて、また開く。ややドキドキもので会場を見たら、いらっしゃった、「国宝」が。84才というご年齢相応の姿で、言葉数も少なかったが、さすがに笑いは一番とっていたなぁ。
 南光が「文化勲章は天皇さんから直接手渡しでいただいたんでしょ。」に対して、「アホか、そんな心安うない!」には笑った。また、雀々の名前の由来の話題の際には、当時を思い出されたのだろう、心底笑い出し止まらなくなったのが、見ていても非常に微笑ましかった。
深夜に何度も枝雀から電話があり自宅に来て、次第に酒を酌み交わしながら落語談義をした思い出など、言葉数は少ないがなつかしげにお話になる米朝師匠の姿に会えて、心底うれしかった。会場に来ていただけただけでも感謝、である。8月13日の最初の会にも当初ご出席予定で、結果として出ることができなかったのだから。
 座談会では特別な映像も2つ上映されたのだが、その内容は会場に出向いた人だけの特権として書かないでおこう。

 私にとって歴史的な落語会のお開きの時間となり緞帳が下がる間、米朝師匠の姿を瞼に焼き付けていた。
 あの師匠だからこそ、あの枝雀なのだ。
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by kogotokoubei | 2009-12-04 22:17 | 落語会 | Comments(2)
横浜にぎわい座で兼好の達者な芸を味わい、そこから思いが発展し「朝日名人会」のことを、懲りずに書く。
 今年になって5月30日、8月25日と二度この会について書いたので三回目となるが、「三という数字は縁起のいい数字」ですから・・・・・。(先代の三平です、念のため)
2009年5月30日のブログ
2009年8月25日のブログ

 来年3月までの顔ぶれが決まったようなので、今年4月以降の結果と併せて記すと次の通り。
朝日名人会ホームページ
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・第88回 2009年4月18日(土)
  桂文珍・入船亭扇遊・柳家喬太郎・桂平治・立川志の吉 
・第89回 5月16日(土)
  三遊亭圓窓・柳家権太楼・林家たい平・柳家三三・三遊亭きん歌 
・第90回 6月20日(土)
   柳家小三治・立川志の輔・古今亭菊之丞・柳亭左龍・入船亭遊一 
・第91回 7月18日(土)
   柳家さん喬・金原亭馬生・瀧川鯉昇・柳家喜多八 ・三遊亭金兵衛
・第92回 9月19日(土)
   五街道雲助・柳亭市馬・柳家花緑・柳家三三・柳家三之助
・第93回 10月17日(土)
   桂歌丸・桂文珍・三遊亭小遊三・三遊亭金時・春風亭一之輔 
・第94回 11月21日(土)
   柳家さん喬・柳家権太楼・入船亭扇遊・橘家圓太郎・五街道弥助
・第95回 12月19日(土)
   柳家さん喬・柳家小さん・柳家喬太郎・古今亭志ん丸・金原亭馬治
・第96回 2010年1月16日(土)
   柳家権太楼・五街道雲助・古今亭志ん輔・桃月庵白酒・立川志の吉 
・第97回 3月20日(土)
   柳家小三治・古今亭志ん橋・林家正雀・三遊亭歌武蔵・柳家三之助 
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 念のため、次の注が書かれている。
「※2009年12月現在の予定です。出演者は都合により変更になることもあります。」

 5月30日のブログでは、その時点で出演予定者として名前がなく私が今後出演するかどうか気になっている人として次の名前を挙げた。
・桃月庵白酒
・古今亭菊志ん
・三遊亭兼好
・歌奴

 あくまで、若手・中堅で、この会に出演してもいいだけの技量と人気があると思っていた人たちである。もっと端的に言えば、この人たちが出て他の顔ぶれも良ければ、4,300円払ってでも行ってもいいかな、という名前である。結果として、白酒はうれしいことに来年1月に師匠と一緒に登場だ。もちろん初めてではない。さて、他の人は出演予定がないが、あえて百歩譲って(?)、同門の先輩が出演するならやむなしと考えるとして、菊志ん、歌奴は、ご本人の来年4月以降での出演を期待しよう。
ここで残るのが兼好なのだが、今年4月から来年3月までの一年間は、彼どころか、まったく円楽グループから出演がない。

 私は、円楽グループを特に贔屓にしているわけではない。しかし、顔ぶれを固定しないホール落語会で、公平を信条にするはずの天下の朝日新聞社が主催する、今ではホール落語会のビッグスリーに数えられるであろう朝日名人会に、一年間を通じて円楽グループから出演がないのは、尋常ではないと思うのだ。開口一番を除けば各回5名、一年間10回(2月と8月には開催がない)だから50人の噺家さんが出演する“枠”がある中で、である。東京の落語会なのに、上方から文珍さえ出演しているというのに。(ただし、彼以外の上方からの参加はほとんどないのだが・・・・・・。)

 もちろん、円楽グループの所帯は小さい。落語協会の約300人、落語芸術協会の約120人、そして立川流の約50人に比べても、20人ほどの所帯は数では圧倒的にマイナーである。しかし、過去に出演の実績がある。2007年9月15日の会場に私はいたが、その日は王楽が出演していた。ネタは『兵庫船』。なぜこのネタを選んだのか疑問に思ったが、ともかく彼は出演した。また、2006年7月5日に浜離宮朝日ホールで行われた「朝日いつかは名人会」の第二回目に、当時の三遊亭好二郎(現、兼好)が三遊亭遊馬とともに出演し、喬太郎との対談もしている。その後、遊馬は2007年7月21日に晴れて朝日名人会に出演し、私は会場で季節の噺『たがや』を聞いている。この人らしく豪快かつ繊細な、なかなか良い出来だったと記憶している。

 当然、兼好も今年あたりは出演するだろうと思っていたのだが・・・・・・。

 どう考えても、昨年円楽が弟子の鳳楽に円生を継がせると言ったことが、京須偕充プロデューサーの人選に影響しているとしか思えない。六代目未亡人、稲葉修氏、京須氏、山本進氏、そして円楽の五人が相談して、円生の名を「止め名」にすると決めた約束を円楽が相談もなく破った、という例の一件である。そして、この件を自身のブログで暴露した円窓が、今年5月には出演している。京須氏と円窓がつるんでいる証拠と判断していいだろう。
*襲名問題については11月12日に書いたので、興味のある方はお読みください。
2009年11月12日のブログ

 芸能の世界に、きな臭い政治的な争いは本来似合わないし洒落にもならないのだが、円生襲名問題に何らかの決着がつくか、円楽グループと京須さんとの間で手打ちでもない限り、この朝日名人会からの円楽グループ締め出しは続きそうだ。TBSの落語研究会も京須さんが人選をするのだろうから、大きな二つの落語会で、円楽グループは無視されるのだろう。こうなると、昨年NHKの新人演芸大賞落語部門で三遊亭王楽が大賞を受賞したのは、朝日、TBSへのNHKの抵抗か、などとまったく下衆な勘ぐりもしてしまう。

 まったく個人的な好みだが、私は兼好だけは、円楽グループの中でお金を出しても聞きたいと思っている。加えて、三遊亭きつつきも気になる落語家で、今後どうなるか関心がある。

 兼好が、名人上手が並ぶ落語会で、どんな戦いをするかについては大いに興味があるが、この状況なのである。まぁ、たしかにプロデューサーという位だから偉いのでしょうが、本当に偉いなら、広い度量で幅広く落語愛好家が期待する出演者を人選して欲しいものだ。
ちなみに、来年4月以降で一部の出演者が決まっている会の予定は次のようなっている。
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・第98回 2010年4月17日(土)
   柳家さん喬・五街道雲助・桂ひな太郎・柳家三三・三笑亭可龍
・第99回 5月15日(土)
   立川志の輔・柳亭市馬・柳家喬太郎 ほか
・第100回 6月19日(土)
   桂文珍・柳家権太楼・柳家花緑 ほか
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 そして、第101回7月17日(土)、第102回9月18日(土)、第103回10月16日(土)、第104回11月20日(土)、第105回12月18日(土)、第106回 2011年1月15日(土)、第107回 3月19日(土)、については「出演者未定」となっている。
 私自身がこの会に出向いた回数は、2007年に4回、昨年は1回、そして今年は3回。果たして来年は何回行く気になり、そしてチケットがとれるのかは分からない。全席4,300円なので、チケットを取れそうでもその席が相当後ろの席の場合は行かないこともある。
 いずれにしても、上記の日程表にある「ほか」や「未定」が、どんな名前に置き換わっていくのかは、しばらく様子を見ていくことにしよう。その顔ぶれの変化で、あらためてこの会へのモチベーションが上がることを、内心では期待しているのだ。寄席もいい、他の落語会もいいのだが、ちょっとだけ「ハレ」の日を感じることのできる有楽町朝日ホールにも、たまには行きたいというのが正直な思いだ。

 もし、円楽グループのファンが朝日新聞を購読しないとしたら、それは商売にも(ちょっとだけ)影響するんではなかろうか。そして、この件は「倫理」上でも問題があるように、私は思うのだ。
朝日新聞社のホームページの「行動規範」のページには次のように記されている。
朝日新聞ホームページ 行動規範
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(1)朝日新聞社の使命
《基本方針》
「私たちは、新聞づくりの理念を定めた朝日新聞綱領にのっとり、高い倫理観をもち、
 言論・報道機関としての責務を全うすべく努力します。国民の知る権利に応えるため、
 いかなる権力にも左右されず、言論・表現の自由を貫き、新聞をはじめ多様なメディア
 を通じて公共的・文化的使命を果たします」

《具体的指針》
(ア)新聞、出版物、通信、放送など時代に応じた情報媒体を積極的に活用し、市民生活
 に必要とされる情報を正確かつ迅速に提供します。
(イ)あらゆる不正行為を追及し、暴力と闘い、より良い市民生活の実現を目指します。

(以下割愛)
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 上記の表現を借りるならば、「いかなる権力にも左右されず」、「朝日名人会」というメディアを通じ、落語ファンの「知る」(「見る」、「聞く」)権利に応えることが、「文化的使命」を果たすことになる、と思うのだが、さてさて今後どうなることやら・・・・・・。
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by kogotokoubei | 2009-12-03 10:56 | 落語会 | Comments(0)
にぎわい座としては珍しい組合わせの落語会。私好みの出演者なので出かけた。
演者とネタは次の通り。ちなみにネタ出しは事前にされていた。
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(開口一番 林家はな平 たらちね)
鈴々舎わか馬  あくび指南
古今亭菊之丞  井戸の茶碗
(仲入り)
三遊亭兼好   一分茶番
立川志らく     富 久
----------------------------------------------------------------

はな平(19:00-19:10)
 正蔵門下で二年目の前座さん。なかなかしっかりした落語をする。今後も注目したい。しかし、なぜあの師匠を選んだのだろう・・・・・・。

わか馬(19:11-19:29)
相変わらず、低音の声は通りがいい。「風林火山」のあくび、「水金地火木土天海冥」のあくび、といったクスグリはオリジナルなのだろうか、なかなか効果的だった。「冥王星のあくびはその後なくなり、ハレー彗星のあくびになった」というあたりが、この人ならではのセンスの良さだと思う。来年真打、本寸法に独自のセンスで味付けができる力があるし、あの声である。
将来が楽しみだが、なぜこの人があの師匠を選んだのか、それが不思議でならない・・・・・・。

菊之丞(19:30-20:02)
にぎわい座で菊之丞を聞くのは初めて。高座に上がったとたん、江戸の長屋の情景が見えてくる、私にとってはそんな人である。演出上で力量を物語ったのが、屑屋の清兵衛が高木作左衛門と千代田ト斎との間を往復する場面で、同じ位置に座っていながら一瞬の間で切り替える演技の小気味良さ。また、清兵衛の困った時の表情がいい。“古典”の世界に安心して誘ってくれる噺家さんだ。ぜひにぎわい座での出番が増えることを期待する。

兼好(20:15-20:38)
今年は、この人の落語をもっと聞くつもりだったのだが、「百兼今」も結局は都合が合わず一度しか行けなかったし、にぎわい座の会は、行こうと思った時は完売で、なかなか縁がなかった。今日は、久しぶりにこの人の噺を楽しむことができた。ネタ出しがされていたので他の人はマクラも短く本編に入ったが、この人のマクラは良かった。しかし、本編との関連のある歌舞伎ネタであり、無理がない。かつ、上手い。そして、程よく“毒”が、別な表現をすると“エスプリ”が効いている。わか馬の低音とは対照的な高いトーンなのだが、噺に入るとその声を巧に使い分ける。この噺そのものの構成にも少しは助けられてはいるが、この人ならではの芸として、権助の語り口や芝居での滑稽な仕草がなかなかの出来であった。ともかく今日一番笑いをとっていたし、“初兼好”の多くの方はファンになったはず。しかし、この人も、なぜあの師匠を選んだのだろう・・・・・・。(こればっかり)

志らく(20:39-21:15)
久しぶりの志らく。なぜか、しばらく遠ざかっていた。それはいくつか理由があるのだが、感性の問題なので上手く説明できない部分もある。この噺も師匠談志家元版をベースにオリジナルのクスグリやサゲ、久蔵がだんだん欲しい賞金の値を下げていく場面などに演出上の工夫を出していたとは思うのだが、どうも違うんだなぁ、という感じがする。にぎわい座の「百席」も、「ピン」も最近はチケットの売れ行きがいいらしいが、そのチケット争奪戦に参加する気にはならない。自分自身の好みを考えると、たぶんそれはこういうことだろう。
今日の菊之丞やその弟分の菊六、あるいは桃月庵白酒、今日の兼好やわか馬もそうだが“江戸”の香りがするのだ。しかし、志らくにはそういった古典、江戸という空気をあまり感じることができない。だから、私のアンテナに感度良く受信されないのだろう。その技量の高さ、オリジナリティ、センスの良さは感じるが、江戸の下町に連れてってくれるという感覚がなく、あくまでその芸を客観的に見て聞いているという印象。あえて言うと、その芸を評論する対象にはなるのだが、感動空間を一緒に共有する体験は得にくい、ということかもしれない。これは、まったくの好みの問題。彼が家元の後継者の一人として今後ますます成長してくれることを期待しているが、私が彼の落語会に行く回数はあまり多くはならないだろう、というだけのことである。


ともかく今日は兼好が際立っていた。いわばホームグラウンドで、余裕をもってその実力を発揮したという印象。来年は、もっとこの人の落語会に行くつもりである。また、今後ますます騒がしくなるであろう大師匠没後の名跡襲名問題。もし、この人が5年後に七代目円生を襲名するためのプロジェクトなら応援してもいいかなぁ、そんな気持ちで桜木町駅に向かっていた。大名跡襲名のためにはいくつかのハードルを乗り越える必要があるだろうが、現在名前が出ている襲名候補者よりも、彼には時間という強い味方がある。実現性は決して低くないのではなかろうか。この件は、後日また書きましょう。
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by kogotokoubei | 2009-12-01 23:05 | 落語会 | Comments(0)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛