噺の話

kogotokoub.exblog.jp

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。

<   2009年 11月 ( 12 )   > この月の画像一覧

 私にとって県民ホール寄席は、今年6月の瀧川鯉昇独演会(『蒟蒻問答』、『御神酒徳利』)以来、通算でも昨年9月のさん喬独演会(『品川心中-通し-』と『妾馬』)から数えても、たったの三回目となる。
2008年9月18日のブログ
2009年6月25日のブログ

 この会そのものの歴史は古い。神奈川県民ホール小ホールを会場として、昭和55(1980)年1月に柳家小三治独演会から今年で30年、通算250回を数えるということで、今回は記念シリーズの一環。
 受付で今日のプログラムと一緒に、過去30年間の全演目一覧表という記念資料が配布されたが、その顔ぶれの凄いこと。米朝、志ん朝、談志、枝雀、五代目小さん、十代目馬生、そして第一回目以降も毎年のように出演している小三治師匠など、まさに壮観と言える眺めだ。志ん朝師匠は2001年3月に一門会を行い、亡くなった10月にも一門会が予定されていたようだ。それほどこの会への思い入れがあったと察することができる。
出演歴のある亡くなった噺家さんの味わい深い色紙なども掲載されており、有料でも欲しいくらいだ。こういう資料を作ろうという気持がうれしいし、貴重な記録でもある。「ごらく茶屋」という主催者の方のこれまでのご苦労、そして客への心配りに頭が下がる。

さて、今日の演者とネタは次の通り。
---------------------------------------------
(開口一番 柳家小太郎 新聞記事)
権太楼   言訳座頭
さん喬    寝 床
(仲入り)
対談 
さん喬    徳ちゃん
権太楼    猫の災難
---------------------------------------------

小太郎(18:33-18:50)
6月に二つ目となり名が替わったが、まだ“小ぞう”で記憶にある。いい名だったのになぁ。
噺はさすがに上手くなった。このネタも相当こなしているのだろう自分のものにしつつあり、耳の肥えたお客さんが多い(と思われる)会場を沸かしていた。線は細く無邪気な顔つきなので母性本能をくすぐるタイプなのかと思うが、今のところはそのキャラで得をしているのだろう。今後の変化が楽しみ。

権太楼『言訳座頭』(18:51-19:29)
まさかこの噺が聞けるとは、といううれしいネタ。三代目小さんのオリジナルで七代目の三笑亭可楽を経由して五代目の小さんに伝わったというから、これぞ柳家のネタである。きっと、舞台袖で師匠小さんの芸を見ながら覚えたんだろうなぁ。大晦日、米屋、炭屋、そして魚屋と順に借金を払わんがために、泣いたりわめいたり脅したりする座頭富の市と、傍らで成り行きを心配そうに見つめる甚兵衛さん、このコントラストがこの噺の肝かと思うが、流石である。仲入り後の対談では、今年はおろか去年も演っていないらしいので、貴重な高座に出会うことがきたわけだ。それも、この会に対する権太楼師匠の意気込みの表れなのだろう。富の市の「気合だぁ~」、甚兵衛さんの「やっぱり払うよ~」が効いていた。

さん喬『寝床』(19:29-20:13)
権太楼師匠の終演とさん喬師匠の開演が同じなのは、間違いではない。なぜか権太楼師匠自らメクリを替え座布団を直して、すぐにさん喬師匠登場。(小太郎はどこへ行った?)
師匠小さんの思い出話、八代目文楽の話などから本編へ。旦那の「発声練習」が、ともかく効いている。あの声があるから、この噺の脇役達の逃げようとする様に信憑性(?)が出てくる。煎餅屋のイレゴトは、さん喬オリジナルなのだろう。他の人で聞いたことはない。定吉登場の本来のサゲまで、堪能した。

対談(20:25-20:46)
さん喬師匠が先にご登場。「もう、二人で対談もいつもやっているので、やめようかと・・・」と脅かしておいて、「いくつか質問を受けたので、権太楼師匠に答えてもらうということで・・・・・・」とふってお二人が揃い、
・ネタ出しをせずにその場でリクエストしても出来るものなのか?
・ネタは何席ありますか?
・演っていて楽しいネタは?
などの質問(たぶん、主催者の方が用意したのでしょう)に、お二人ならではの回答。途中師匠小さんの失敗話なども挟み、なかなか楽しい対談。詳しい内容は会場にいた人だけの秘密、ということで。
ただ、ひとつだけ書きたいのは、さん喬師匠が、
「楽屋で権太楼師匠が『うわーっ』と(身振りあり)やって稽古しているので、もしかしたら『言訳座頭』かなを思ったら、やっぱりそうだった。このネタは久しぶりでしょう?」というような話があったこと。
何を言いたいのか。この両師匠、二人会であっても事前にネタを明かさずにいた、ということ。寄席などと同様事前にネタ出しはせず、お互いに「何を演るのか?」という緊張感で臨んでいたわけだ。ここらあたりが、今時の人とは違って、かつて数々の昭和の名人達と接してきた、いい意味で芸人のこだわりをもっている最後の噺家さんだなぁ、と思いながら実にうれしかった。
そういえば、さん喬師匠が、「権太楼師匠がトリの寄席で、『代書屋』を先にやってしまう人が時たまいるが、何を考えているのか・・・・・・」という話もあった。かつて名人と言われた人の生存中は、その十八番(オハコ)の噺そのものを他の噺家が演るのを控えていたから、今日の若者あるいは中堅クラスでも気配りのない噺家については、結構ストレスもたまっているのだろうなぁ。

さて、対談の後で、それぞれ一席づつ。

さん喬『徳ちゃん』(20:47-21:02)
権太楼『猫の災難』(21:03-21:30)
さん喬師匠は寄席での十八番で会場を沸かして、今回もさん喬師匠自ら前座の役割を務め、トリの権太楼師匠登場。(小太郎への戒め?)これまた柳家お家芸といえる落し噺。対談中の師匠のダミ声を少し心配したのだが、噺になるとしっかりと会場に響き渡る声で爆笑を呼ぶ。あたり前だが、プロフェッショナルとは、こういうものなのだ。若干終演時間を考慮されたのだろう、終盤は少し急ぎ足であったが、逆に兄いの帰りを待つ時間のダレ場が短くなり、この位がいいと思うし、この噺の楽しさは十分に伝わった。


この会は、なかなか良い。演者も客も、そして主催者も良し。スケジュールと空席具合との相談になるが、300回、400回と続くことを期待し、できるだけ足を運ぼうと思う。

こういった良質な会に出会うと、対照的な落語会、たとえば当日のプログラムは配布せず今後の主催興行のパンフレットをこれでもかと配り、アンケート用紙も共通フォーマットの不鮮明なコピーを使っている某大手興行主の会と、どうしても比べてしまう。
よく言うことだが、「一期一会」へのこだわり、演者と客の一体感、そういったことに配慮する落語会なのかどうかをしっかり見極めていきたいと、最近つくづく思うのだ。なんとか時間と金をやりくりして駆けつけたのはいいが、ストレスだけを持ち帰る会だってある。
しかし、この会は、自然体ながらも本寸法の落語へのこだわりを持った主催者、客、そして演者の三位一体が感じられる。
[PR]
by kogotokoubei | 2009-11-25 23:25 | 落語会 | Comments(0)
放送を見終わって、意外な接戦だったなぁ、という感想。あくまで、私の評価としてである。

順番とネタ、そして私の採点(100点満点)は次の通り。
----------------------------------------------------------
(1)桂しん吉       『鯉盗人』     75点
(2)桂ちょうば      『皿屋敷』     82点
(3)古今亭菊六     『豊竹屋』     87点
(4)三遊亭きん歌   『新・岸柳島』   85点
(5)林家きく麿     『金明竹』      83点
----------------------------------------------------------

出演者の生年月日と入門年月を添えて、寸評を書く。

・しん吉(1978年7月26日生まれ。1998年1月、吉朝師匠に入門)
師匠吉朝一門くらいだろう、今このネタを演るのは。思いはよく分かるが、トップバッターの緊張感もあり、肝腎な鯉をさばく場面でも盛り上げ方が不足であった。この人は、まだチャンスがある。よね吉先輩に負けず、精進をして欲しい。

・ちょうば(1978年9月29日生まれ。2001年10月、ざこば師匠に入門)
堀井さんの、ややヨイショかと思われるようなコメントを聞いて、「やはり、上方にとってホーム、東京にとってアウェーなのかなぁ」という思いがあったが、確かに味はある。しかし、この噺でホームグランドでこの程度の笑いでは大賞はありえない。前半で少しもたついた感があったのがもったいなかった。

・菊六(1979年2月23日生まれ。2002年4月、円菊師匠に入門)
まず、四回連続本選出場の今回、六代目円生で有名なこの音曲噺をネタに選んだことで加点。古今亭でもネタにしている人が多いがマクラにした円菊師匠が推薦したのだろうか、あるいは志ん輔のこの噺を聞いて決めたかな。いずれにしても、今後もこの人の十八番の一つになりそうな予感をさせる出来だった。途中でさだまさしを登場させるなどの味付けをしたが、この噺の本筋を活かしながらの昔と今の融合の具合は、この人ならでは、である。
聞き終わって、「少し、差がつくかな」と思わせた。しかし、この後の二人もなかなかだったのだ。

・きん歌(1971年8月31日生まれ。1997年1月、円歌師匠に入門)
師匠譲りの「眼鏡」をかけての高座が、審査員には少しマイナスになったような気がする。オリジナリティという意味では、もっとも高い点をつけることができる。今風でテンポのある新作落語だが、その眼鏡を含む見かけや語り口のせいで世間話のように受け取られたのかと思う。この噺は、もっと磨きようで光る可能性がある。来年は真打、さすが、と私は評価した。

・きく麿(1972年7月16日生まれ。1996年11月、木久蔵師匠に入門)
この噺は、円丈の名古屋弁、小袁治、談笑の東北弁バージョンが有名だが、福岡弁(博多弁?)は、たしかにオリジナル。本来の噺そのものの出来に救われている部分もあるが、なかなかの味わいだった。しかし、大賞をとるには相手が悪かった。あとは、来年の真打昇進以降も、サゲを含めて、「きく麿の金明竹」を磨き上げて欲しい。この人は初めて聞くこともあり、新鮮さもあった。会場の笑いは一番だったように思う。


 私の評価では、菊六は昨年優勝していても不思議ではなかった。
2008年11月24日のブログ

 
 今回の本選出場者の中でもっとも年齢が若く、入門からの年数も短い菊六だが、連続4回目の本選出場でチャレンジングなネタを選び、十分な吟味をし見事に調理して目の前に出してくれたと思う。しかし、来年真打昇進する東京落語界の先輩二人も新作で真っ向勝負したし、その出来も良かった。なかなか見ごたえがあったし、審査結果にも異論はない。一つだけあるとすれば、筧利夫がなぜ審査員だったのか、ということか。なぜ彼だったの、本当に。
[PR]
by kogotokoubei | 2009-11-23 14:15 | テレビの落語 | Comments(0)
e0337777_11061115.gif

 今年一月に第一巻古今亭志ん朝を買って以来の購入。
 第一巻に関するブログも書いた。
2009年1月10日のブログ

 音源の詳細情報は買うまで分からないが、「初出し」をしてくれたことと、それを購入前に分かるよう表紙に明示していることは、PRの意味もあるだろうが、評価したい。

その、“初出し”音源と表紙に書いてあった『たらちね』と、保田武宏さんによるブックレットの内容が目当てである。
CDの内容は次の通り。
------------------------------------------------------------
(1)王子の狐 22分30秒 
  昭和33年3月28日、ラジオ京都ほかにて放送
(2)子ほめ   13分16秒 
  昭和34年7月15日、ニッポン放送「お楽しみ演芸会」にて放送
(3)元犬    13分52秒
  昭和34年6月17日、ニッポン放送「お楽しみ演芸会」にて放送
(4)たらちね  13分14秒
  昭和34年1月1日、ニッポン放送「お楽しみ演芸会」にて放送
------------------------------------------------------------

買ってすぐに『たらちね』を聴いて、やはりこの人はいい、と再認識。
お決まりの「今朝は怒風激しゅうして、小砂眼入す」のクスグリなども省くコンパクト版なのだが、この噺の楽しさは十分に伝わるし、何気ない語り口で会場を沸かせている。相変わらずの丁寧な口調が心地よい。
今日、この噺をこれだけの長さで柳枝ほど見事に演じることのできる人は、残念ながら思い当たらない。

このブログでは柳枝のことをこれまでも書いているので、八代目春風亭柳枝の詳細は、たとえば昨年6月27日のブログなどを参照していただくとして、今回は最後に保田さんの文章から抜粋。
2008年6月27日のブログ
---------------------------------------------------------------------
 柳枝の唯一の速記全集が、没後の昭和52年7月に弘文出版から出た
『八代目春風亭柳枝全集』である。これには『花色木綿』・・・(中略)・・・
『宮戸川』の27席が載っている。このほか巻末に「柳枝を偲んで」という
座談会が載っており、柳枝の門下だった林家枝二(現・春風亭栄枝)、
三遊亭圓弥、三遊亭圓窓に司会の三遊亭圓楽の4師匠が、柳枝について
語っている。・・・(中略)・・・圓楽師匠は前掲の全集でこう語っている。
 <私が柳枝師匠から『締め込み』という噺を教わったときに、『私はこれを
やるについて、どれだけ悩んだか知れない』と聞かされました。ということは、
黒門町(文楽)が十八番でやっていたし、五代目圓生のよさが頭に入って
いるし、どうやって二人とは違うようにやろうかと考えてもなかなかよい案が
浮かばない。ほんとうにこの噺だけは苦労したと言っていました>
---------------------------------------------------------------------

昭和の名人「春風亭柳枝」は10月27日発売。円楽師匠が亡くなったのは、その2日後である。柳枝の思い出を語れる噺家がまた一人減った、という意味でも寂しい限り。
また、弘文出版の全集が発行された昭和52年は、円生一門落語協会脱退騒動の一年前。
巻末に掲載された座談会のために一緒に柳枝の思い出を語り合っていた円楽と円窓のお二人の関係も、この一年後から激変したわけだ。

ともかく、この「落語 昭和の名人-CDマガジン-」シリーズで春風亭柳枝のファンが増えてくれるなら、同好の士としてはうれしい限りである。
[PR]
by kogotokoubei | 2009-11-21 10:08 | 落語のCD | Comments(0)
例の件の続報。
本日、下記の内容が落語協会のホームページに掲載された。
まぁ、明日が鈴本下席初日だから、ぎりぎりのタイミングとギリギリの内容(?)で、なんとか“パブリック”な組織としての面目をとりあえず保った、という印象。
落語協会HP
----------------------------------------------------------------------
謝罪とお詫び

幣協会会員の春風亭正朝が去る9月11日都迷惑防止条例違反で現行犯
逮捕されました。世間をお騒がせ致しましたこと深くお詫び申し上げます。
落語協会理事会としては正朝に対して厳正なる処分を下すことに致します。
今後二度とこのようなことを起こさないよう肝に銘じ、寄席・演芸の普及に
全力を挙げる所存でございます。
重ねてお詫び申し上げますとともに今後とも何卒よろしくお願い致します。

平成21年11月20日
社団法人落語協会
----------------------------------------------------------------------

次の疑問は、
(1)「厳正なる処分」の具体的な内容は?
(2)弟子の正太郎はどうなるの?
(3)「今後二度とこのようなことを起こさないよう肝に銘じ」るのは当然だが、何か具体的な施策は?

ということだが、このへんは明らかにするつもりがないのかもしれない。

明日からの鈴本の下席(正太郎の二つ目披露がある)には都合もあって行けそうにないのだが、何か新たな情報が“現場”鈴本で発信されたなら、どなたか落語ファンの方がブログで書いていただくことを期待したい。他力本願で恐縮です。

そろそろ、本件は私のブログ上では休憩に入ろうと思う。
他にも米朝師匠のことや、春風亭柳枝のCDのことなど書くつもりだったのだが、この件で先延ばししていた。そういうことも、私にとっては“二次災害”である。(!?)*勝手なこと言ってますなぁ。

最後に少しだけ。
たぶん、人の噂もなんとやらで、正朝は意外に早く小さな地域の落語会から復帰するような気がする。それは、彼のブログにおける「拍手」の異常な数からの、推察である。
しかし、寄席への復帰には時間がかかるだろう。従来の慣習から考え、都内四軒の寄席の席亭による判断に従うのが協会のスタンスだろうが、一年以内はありえないだろう。しかし、寄席や協会という向こう側の人たちだけで、こういうことを決めていいのかな、と素朴な疑問が浮かぶ。落語に通じた、いわゆる“識者”にも意見は聞くだろうが、“客”である我々の意見(思い)も聞いて欲しい気がする。
そうだ!せっかく落語協会には正朝本人も参画したホームページがある。一案として、75日(人の噂の期限?)を過ぎた頃にでも、正朝の寄席復帰の是非や時期についてアンケートを実施してはどうか。
(A)半永久的に寄席復帰はなし
(B)謹慎3年で復帰が妥当
(C)謹慎一年で復帰が妥当
(D)もう復帰しても可
(E)その他

などの選択肢で募ったら、100人位の落語ファンから回答があるんじゃないかな、という無責任なことを書いて、この件はひとまず終了。
[PR]
by kogotokoubei | 2009-11-20 17:49 | 落語協会 | Comments(0)

落語協会はどうする

昨日、普段は買わない「週刊新潮」を買った。
(340円は高いのでは・・・・・・。ちなみに「週刊文春」は350円、値段は関係なく買わなかった。)

その中で、今回の事件に関する記事の中で次のコメントが掲載されている。
------------------------------------------
「昔の噺家ならともかく、今は許されない。
協会としても処分を下しており、当面、
謹慎です」(鈴々舎馬風会長)
------------------------------------------

昨日のネット上のニュースでは、落語協会の姿勢について次のように報じられている。
(産経ニュース、他のメディアも概ね同一内容)
--------------------------------------------------------------------
落語協会によると、同月中旬に「体調不良でしばらく寄席を休みたい」と
届け出があったが、逮捕についての説明はなかった。協会は処分などを
行う予定はないという。
--------------------------------------------------------------------
産経ニュース 11月18日

「週刊新潮」の内容は、“処分を下しており”であり、“下す予定”ではない。

「週刊誌の内容じゃないか、あまり目くじら立てるなよ。」という声も聞こえてくるが、やはりひっかかる。こういう“事件”の時にこそ、その団体なり企業の本質が見えてくるのである。あえて小言を言わせてもらう。

まず、「週刊新潮」に掲載されている鈴々舎馬風会長のコメントが正しいのであれば、その処分(謹慎?)は、いつ命じられたのか。そして、それが11月18日よりも前ならば、なぜニュースでは、落語協会として「処分などを行う予定はない」と報道されているのか。

いまだに、協会のホームページでは、本件について何ら情報は発信されていない。昨日、本人がブログで謝罪しているのにも関わらずである。

円楽グループのことを書いた時に、協会というものは“置屋”のようなものと評したが、それなりの置屋なら、しっかりした女将がいて抱えの者が何か粗相をしたら情と誠意で、ともかく謝罪するだろう。信用商売だからね。

社団法人落語協会は都内の寄席四席への噺家の出演、その他の関連する演芸ビジネスを行っているわけだから、十分に“パブリック”な存在である。そして、その看板で商売をしている傘下の噺家に、看板に泥を塗られたら、何らかの処分をするのは当然だろう。しかし、ここで悩ましいのは、協会と個人の関係である。
もちろん、今回の事件は、まずは個人の問題である。では、その個人と協会はどういう関係か、ということなのだが、特定の事務所を持たない噺家は協会を通して地域寄席などの仕事をもらうので、部分的とはいえ所属する会員のマネージメントの役割も持っている。だから、ややこしくなるのだ。個人である会員の噺家が問題を起こしたら、協会はその個人を“処分”するだけで済むのか、ということである。置屋の例に戻すと、置屋は抱えの芸人の「躾」をする責任もあるのではないか、ということだ。

別にアメリカ礼賛主義ではないが、アメリカでは「ユニオン」(組合)が数多くある。有名なところでは全米俳優組合、全米脚本家組合、全米監督協会などハリウッド系の組合だ。一昨年も脚本家組合がストをして、人気のあるテレビドラマがしばらく休まざるを得なかった。
ボードビリアン達だけの組合があるかどうかは知らないが、何らかの個人の利害問題をユニオンという団体を通して交渉し解決しようという伝統と仕組みが、アメリカにはある。
日本の芸人さんには保険組合くらいはあっても、その立場を守るための組合がありそうにはない。
だから、何か会員に問題があったら、「協会はその個人を処分するどころか、助ける役割があるのではないか」、という指摘があっても不思議はない。

そこで、落語協会のホームページから、「活動」「目的」「事業」について眺めてみることにした。
落語協会
-------------------------------------------------------------------
協会の活動
社団法人落語協会は、昭和52年に文化庁を主務官庁として認可を受ける。

目的
古典落語を中心とする寄席芸能の普及向上を図り、もって我が国文化の発展に
寄与することを目的とする。

事業
1.古典落語の継承及び研究発表会、鑑賞会等の開催
2.後進の育成及び寄席芸能関係者の顕彰
3.下座音楽実演家の育成
4.学校、職場等の落語研究会への協力及び指導
5.落語家の昇進資格の認定
6.芸能関係団体との連絡提携
7.寄席芸能に関する調査研究及び資料文献の収集保存
8.会報及び寄席芸能に関する刊行物の発行
9.その他目的を達成するために必要な事業

社団法人落語協会定款より、抜粋
-------------------------------------------------------------------

さてさて、目的は、「我が国文化の発展に寄与」ですよ!主管は文化庁。
*しかし、昨年問題が発覚した通り助成金は辞退している。決算書未提出、過去の助成金使途不明は、多くの噺家がネタにしている・・・・・・。

社団法人様をからかうのはやめて、今回の問題に協会の責任として直接関係すると思うのは、事業の2にある「後進の育成」だろう。事件当事者の「育成」ということではなく、その弟子の育成に関し、協会は責任を持っている。

同じ大学の先輩として慕って入門したのであろう正太郎は、折りしも今月二つ目になる。
協会は、「謹慎中」の師匠が弟子の育成ができない(はず)の正太郎について、どう対処するのかを明確にする義務があるだろう。協会がパブリックな組織としてのモラルを持つのであれば、鈴本下席での正太郎の二つ目披露において会長あるいは常任理事クラスが然るべき謝罪をするのはもちろん、今後の対策や正太郎への対応などを明確にすべきだしホームページでもその内容について掲載すべきではないか。

そして、その下席は明後日21日(土)から始まる。
今現在も、どう対処すべきかを議論中なのかもしれないが、残された時間は多くはない。

せっかくのここ数年の落語ブーム、そして米朝師匠の文化勲章といううれしいニュースの後で、旧態依然として煮え切らない対応でお茶を濁すのであれば、将来の可能性を秘め、現代的な明晰さを持つ若手や中堅落語家たちから順に協会離れが進むように思うが、杞憂だろうか・・・・・・。
[PR]
by kogotokoubei | 2009-11-19 17:23 | 落語協会 | Comments(0)
9月23日付けの、春風亭正朝著『親子で楽しむ落語の時間』の内容を、いろいろ考えた末に削除しました。複数の方からコメントも寄せていただいていたのに、誠に申し訳なく思いますが、事情お察しの上ご容赦ください。

2チャンネルでは相当早い段階から噂のあった春風亭正朝の盗撮逮捕の事実が、本日複数のメディアで公けになりました。本人がこれまでブログ上で休演に関して虚偽理由による隠蔽工作をしていたことに抗議する気持を、せっかく良書として推薦した前述のブログ削除という形で示したいと思います。

非常に腹が立ちます。信じたくない思いがありましたが、本人もブログで事実として認め、謝罪しています。しかし、まだこの謝罪を認めるには、私のみならず落語ファンの多くには時間が必要でしょう。

常習犯ではなく、ちょっと“魔がさした”のであれば、もっと早い段階で協会にも、そしてファンにも事実を明らかににし謝罪すべきだったでしょう。*米朝師匠の“魔がさす”とは天地の違いだ!

もし、事件直後の本人の心境として、「昔の落語家なら、こんなこと日常茶飯事」とでも思っていたのなら、「昔の落語家なら、誤魔化さず堂々と事実を語っただろう」と反論したいと思います。嘘で誤魔化すことに、一番腹が立ちます。それも、事件後に寄せられたブログへのコメントにも平然と返事を書いている・・・・・・。
かつて勝新太郎や初代春團治のように、常識はずれで一般人なら犯罪になってもおかしくない行動をしても、その才能と人間の器でマイナス面をリカバーしてしまうほど、あなたは大きくはないのです。

子供に夢を与える本を書く人なんですから、基本的には性善説で見守りたいですが、時間が必要ですし今後の本人の行動が重要です。
しかし、落語協会は、このまま無言で放っておくのでしょうか。もしそうならば、私は、「協会幹部が、これをきっかけに自分たちの過去の悪事や粗相が暴露されるのを恐れているのだろう」と考えますけどね。何らかの見解を早いうちに表明すべきでしょう。彼は協会ホームページの担当でもあったはず。三之助の見解なども確認したいものです。

本人のブログに熱心に書き込まれたファンの激励のコメントを読むと実に切なくなります。
本当に後味の悪い事件であり、本人の出処進退の不味さでした。

ご本人そして落語協会の今後の行動をしっかり見守りたいと思います。


うん・・・・・・?
 ここまで書いてきて、一つの仮説が浮かび上がった。
昨日取り上げた桂米朝の文化勲章受章を政府が発表したのが、10月27日。授賞式は、ご存知のように文化の日の11月3日。この事件が発生したのが9月11日、そしてマスコミで明らかにされたのが、今日、11月18日・・・・・・。
 落語協会はマスコミからの取材に、あくまで本人から「体調不良・・・」という報告しか受けていないと言い、本人もブログでそう書いてきた。そして、落語界で初の文化勲章・・・・・・である。一人の落語家の盗撮騒ぎでも、その受賞に水をさす、あるいは受勲の妨げになる、と考える者がいてもおかしくはない。
 とすると、協会、本人も含む集団合意の上での確信犯的な時間稼ぎだったのか???  

 あくまで、仮説。そんなことありえないわな・・・・・・。
[PR]
by kogotokoubei | 2009-11-18 15:00 | 事件 | Comments(0)

桂米朝


e0337777_11061013.jpg

*写真は東芝EMI Soundtownのサイトから
東芝EMI 桂米朝

 桂米朝師匠が落語家で初めて文化勲章を受勲した。(あえて三代目と書かなくてもいいだろう。)
まずは、おめでとうございます。今回の受勲が、昭和29年に八代目文楽が落語家で初めて芸術祭賞を受賞した時と比べてどちらが画期的なのかは分からないが、人間国宝は落語界で二人目だったので、少なくとも今回は“初”という意味で、歴史的快挙である。

 さて、今回はその米朝師匠について。(ここからは「師匠」の敬称を略させていただきます)

 とはいっても、その噺や芸については後日書かせていただくとして、今回は米朝が米朝となった(?)歴史的な出会いや、受勲理由でもある戦後衰退していた上方芸能復興に関して、他のメディアからの引用も含めて書いてみたい。
桂米朝のことを書こうとすると、どうしても正岡容のことにふれないわけにはいかなくなる。もちろん、米朝は正岡容と出会わなくても名人になったかもしれないが、歴史的事実として正岡容、そして正岡の同じ弟子仲間である小沢昭一や大西信行、永井啓夫等との交流があったことが、今日の米朝落語に少なからず影響していることは間違いないだろう。
 ちくま学芸文庫版の正岡容『東京恋慕帖』には巻末に「鼎談 師正岡容を語る」という有難い附録があって、大西信行、小沢昭一、そして米朝の対談が掲載されている。少し長くなるが、噺家桂米朝の、ある意味で運命的な“その時”が記されているので引用する。
この鼎談は昭和50(1975)年の九月に行われたもので、なんと47頁も掲載されている。
正岡容_東京恋慕帖


米朝 私が正岡容という名前を知ったのは、徳川夢声さんの『くらがり二十年』
   という本の中に名前がね、出てくるんです。ヘンな名前の人がいるん
   やなアと思うたんです。容という名前が不思議だった。中学四年生くら
   いの時やったと思うけど、古本屋で『円太郎馬車』という正岡先生の
   小説が目について、で、まあ落語が好きだったし、あんまりありません
   わね、落語に関する本ていうのは。それで買うたン・・・・・・。
小沢 なるほど。
米朝 それを買うたのが始まり、その次に『狐祭』というのを本屋で見つけて
   ネ、あと見つけ次第に正岡容の著作を買い込んで・・・・・・それから
   東京に出て来たわけ。
大西 いつ頃ですか。
米朝 昭和十八年。
小沢 その東京に出てきたのは、正岡容に会うためじゃなくて。
米朝 そうじゃあない。学校へ行ってたんです。東京新聞に落語相撲をやると
   いう記事が出ていた。いったいどんなもんかいっぺん見てみたいと思う
   て行ってみると、この会の主催者が正岡容だった。昭和十八年五月でし
   たョ。誰がどんなもんやったかも憶えてるな。確か、落語相撲について
   正岡容さんが出て来てちょっと喋ったな。
小沢 ハアハア、それで?
米朝 それから、検査役みたいな形で、野村無名庵さんと二人で高座に座っ
   てた。意外と若い人やったんやなアと思うた。今から思えば、あの頃
   の先生は今の私より若いですからな。
小沢 つまり、書いたものがバカに老けているというか・・・・・・(笑)。
米朝 それから、たまたま大塚の花柳界の中に甘いものを食わす喫茶店を
   発見した。その時分は甘いものはないし、よそにないような甘い
   お饅頭なんかが、少し値が高いけど、その喫茶店いくとあるんで
   すわ。それで、ちょいちょいその店へ通った。その道筋で、ヒョッ
   と見たら、表札に正岡容、花園歌子という二枚看板・・・・・・
   目についた。私はその時分は内気やったのになア、魔がさしたと
   いうか(笑)、縁があったというのか、ゴメンくださいといって
   入ってしもうた。
   それがキッカケなんですヨ。



 大正十四(1925)年十一月六日、大連に生まれ、五歳の時に祖父が亡くなり、父が神主になるために日本に戻った落語好きの中川清少年が、その後、上述のように上京して入学したのは今の大東文化大学(当時の大東文化学院)である。本人も神主の仮免許を上京前に持っていたようだ。もし、「魔」がささなかったら、今頃は、単に落語好きの神主さんであったかもしれないわけだ。

 もちろん、歴史に「If(イフ)」は禁物だが、昭和十八年の正岡容との出会いは、その後の名人米朝を生むための重要な転機であったことは間違いない。正岡容は、桂文楽の師匠でもあった三代目三遊亭円馬に弟子入りし自ら落語を演じたことのある人で、小説家であり稀代の落語・芸能評論家でもあった。内気な中川清が“一瞬の魔”がさしたおかげで、我々は今日に至るまで米朝落語と米朝一門の落語を楽しませてもらう恩恵にあずかれたわけだ。やはり落語だけに「魔(間)」が重要(?)。

 さて、戦後上方で落語をはじめとして芸能全般が衰退している時に、正岡が米朝に対して上方落語の復興を叱咤激励しなかったら、『地獄八景亡者戯』『算段の平兵衛』などの埋もれた名作を蘇らせることもなかったかもしれないのだが、その上方芸能の衰退ぶりは昭和30年代後半に入っても深刻だったようだ。米朝は昨日11月16日の「米朝口まかせ」(asahi.comのコラム)で、文化勲章受章式のため上京した際に古くからの友人である演出家山田庄一さんと再会したことから過去を振り返って、次のように書いている。
米朝口まかせ 11月16日

 文化の日に、東京で演出家の山田庄一さんにお会いしました。山田さんは歌舞伎や文楽の生き字引のようなお方で、昭和38(1963)年から始まり、私も活動に加わった「上方風流(ぶり)」の発起人でした。それで、上方の文楽、歌舞伎、能、狂言、落語、漫才など幅広い世界からそれぞれ40歳までの芸人が集まって、上方風流という雑誌を出すことになったんです。
 私はもう細かいことは忘れてしもたんやが、そもそもは、新聞などに載る「芸能評」への反発もあって、芸人の方から何か発信できるものを作ろうというのが始まりやった。そやさかい、原稿を書けるというのが参加できる一つの条件やったと山田さんは当時を振り返ります。そのころ、私は千日劇場によう出てたんですが、落語について調べて書いても、載せるところがなかなかなかったんや。雑誌を出すこと自体、大変な時代やったさかいね。それで、この上方風流にいろいろと書いたんです。
 とはいえ、みんなからそう簡単には原稿が出てこなかったんやそうで、とりまとめをする山田さんは苦労したそうな。それで、まず何人かを集めて座談会をして、その内容を載せるようにしたんです。座談会と言うても、酒を飲みながらや。どこかの店に集まって、いろんな舞台の話をする。話題は尽きなんだな。
 雑誌は全部で8号出しているんやが、山田さんは7号まで携わったあと、仕事で東京に引っ越しました。発行してた部数が少なかったんで、あの雑誌をすべてお持ちの方は貴重やと思いますな。私もたまに見つけると、読みふけってきりがのうなってしまう。あの時分は、みんな懐もさみしかったな。広告も取ってはいましたが結局、赤字やったはずやで。
 今回、一緒に文化勲章を受章した坂田藤十郎(当時は中村扇雀)さんも、文化功労者になった吉田簑助さんも上方風流のメンバーでした。言い出した山田さんが感じてたように、あの活動を始めたころは、関西芸能の地盤沈下がどんどん進んでいました。集まった私たちも、それは危機感を持っていましたよ。当時はまさか、こんな日がやって来るとはだれも思ってもいなかったんです。


 戦後、上方落語復興の中心的役割を果たした落語家を四天王と呼ぶことがある。六代目笑福亭松鶴、三代目桂春団治、三代目桂小文枝(五代目文枝)、そして米朝であるが、この中で、テレビを中心にマスコミへの露出がもっとも多かったのは、間違いなく米朝であろう。私が米朝を知ったのも、落語ではなく、小学生の頃に見たテレビでのゲスト出演か何かだったように記憶する。今思うに、その昭和30年代後半から40年代にかけた時期というのは、意図的にマスコミに出演し落語をはじめとする上方芸能の復興への一助とすべく考えていたのではないだろうか。当時は大阪キー局制作の番組では、薬師寺管主だった高田好胤と米朝の二人をやたら見た記憶がある。

 このマスコミでの露出の多さが、他の四天王やそれ以外の上方、いや東京も含む噺家と米朝のイメージの圧倒的な差を生み出しているように思うのだ。ともかく、親しみやすい関西の好々爺のイメージが先にある。それに加えて落語の語り口も妙に気張らずに、日常会話の延長のようなマクラで肩の力を抜かせておいて、次第に米朝落語の世界に自然に誘い込む。CDで音声だけを聞いていても、ビジュアルの潜在的な記憶が強いので、その表情や仕草を容易にイメージできる。もちろん、“話芸”そのものが際立っているから、イメージも広がり膨らむのだが、ビジュアル面での絶対的な記憶量は、そのイメージ化を強力に支援していると思うのだ。

 米朝には正岡容という師匠と、もう一人、実際の噺家としての師匠桂米團治がいるが、この二人も、実は、あの“魔”が関係している。昭和22(1947)年に会社勤めをしながら入門した4代目桂米團治との縁をとりもったのも、正岡を通じて知り合った大阪の映画館主の息子である矢倉、後の3代目桂米之助である。やはりあの“魔”が米朝の人生にもたらしたインパクトは大きい。

 その師匠米團治の米朝への影響力の大きさを知るために、落語入門書としても優れている『落語と私』(昭和50年ポプラ社から発行され、その後昭和61年文春文庫に収録。2005年にはポプラ社から新装版が発行)の最終章「末路哀れは覚悟の前やで」から少し抜粋する。桂米朝_落語と私

 落語は、古典芸能のはしくれに入れてもらいましても、権威のある芸術性ゆたかな数々の伝統芸能と肩を並べるのは本当はいけないのだと思います。「わたくしどもはそんな御大層なものではございません。ごくつまらないものなんです」という・・・・・・。ちょっとキザな気どりに思われるかもしれませんが、本来はそういう芸なのです。
 前にも、「落語は正面きって述べたてるものではない」と書きましたが、汗を流して大熱演する芸ではないのです。・・・・・・実際は、汗を流して大熱演していても、根底の、そもそもが、「これは嘘ですよ、おどけばなしなんです。だまされたでしょう。アッハッハッハ」という姿勢のものなのです。
 芸人はどんなにえらくなっても、つまりは遊民(何の仕事もしないで暮らしている人)なのです。世の中の余裕------おあまりで生きているものです。ことに、落語というものは、「人を馬鹿にした芸」なのですから、洒落が生命(いのち)なのです。
 わたしがむかし、師匠米団治から言われた言葉を最後に記します。
 『芸人は、米一粒、釘一本もよう作らんくせに、酒が良(え)えの悪いのと言うて、好きな芸をやって
 一生を送るもんやさかい、むさぼってはいかん。ねうちは世間がきめてくれる。ただ一生懸命に芸をみ
 がく以外に、世間へお返しの途(みち)はない。また、芸人になった以上、末路哀れは覚悟の前やで』


 前半の落語家という芸と芸人についての記述は、米朝一門のDNAとして弟子達に十分に継承されたと思う。「だまされたでしょう。アッハッハッハ」の部分など、まるで枝雀がマクラで語っている声が聞こえてきそうだ。そして、最後の師匠米團治が米朝に送った言葉の意図も、きっと折に触れ弟子達に諭してきたことなのだろう。

 世間は、その米朝の“ねうち”を予想外の高みにまで評価した。そして、今でも米朝は「末路哀れは覚悟の前」という精神でいるからこそ、その84歳の老体をマスコミに曝すことを厭わないのだろう。
 本物の上方芸人というものは、なんと強く、そしてしなやかであることか。いまや存在そのものが“宝”、一日でも長生きしていただきたい。来月は多摩川を越えた落語会にまでご出演予定。ぜひお元気な姿を拝見したいものだ。
[PR]
by kogotokoubei | 2009-11-17 20:48 | 落語家 | Comments(0)
昨日の落語協会の来年9月昇進者の件を書いた文中で、円楽一門(グループ)についてあらためて書くと約束(?)したので、書きます。

しかし、テーマの中心は落語界の二大体系と大きな名跡のこと。

東京の落語の歴史には二大系列といえる三遊派と柳派があった(あえて過去形)。

三遊派のルーツは初代の円生。1768(明和5)年生まれで1838(天保9)年に70歳で亡くなっている。当時としては長生きの部類だろう。江戸神田の生まれで 1797(寛政9)年ごろというからほぼ三十歳あたりで山遊亭猿松の名で噺家となったとされるが、初代三笑亭可楽門に転じ東生亭世楽と称したとする説もある。初代の烏亭焉馬門で立川焉笑,さらに落語の爛熟期とも言える文化年中(1804~18)に三遊亭円生となっている。浅草の堂前に住んだところから「堂前の師匠」と呼ばれ,人望厚く二代目の円生や初代古今亭志ん生など多数の門弟を擁し、二代目の弟子であった円朝も尊敬の対象は、あくまでこの初代だった。
この三遊派のルーツにつながる六代目円生の一門が、旧(と言うべきだろうなぁ)円楽一門ということになるのだが、ここからがちょっとややこしい。三遊派の流れにある噺家さんは、落語協会にも落語芸術協会にもいる。古今亭一門がもちろんそうだし、円朝の弟子だった初代からの流れにある芸術協会の三遊亭円遊だってそうだ。遊三も小遊三ももちろんである。

片や、もう一方の大きな系統は柳派。ルーツは初代の麗々亭柳橋だが、三遊派に対する強力なライバルとして柳派の存在を確固たるものとして位置付けたのは、柳橋の弟子であった初代春風亭柳枝の弟子で、江戸時代から明治にかけて円朝一門と張り合った初代談洲楼燕枝(前名は柳亭燕枝)。この両チーム(?)1888(明治21)年には完全に独自に興行を行うことになる。実質的な柳派のルーツ燕枝からつながる大きな名跡が柳家小さんであり、春風亭柳枝であり、柳亭左楽などである。こちらも落語協会にも芸術協会にも子孫(?)がいるねぇ。

要するに、三遊とか柳というのは、芸者の置屋とでも言うべき協会とは別の次元の体系。また、「置屋」とご本人の「マネージメント会社」とは、これまた別。例えば、上方で米朝一門の噺家さんでも上方落語協会に入っている人もいれば入らない人もいるし、協会の所属とは関係なく、米朝事務所がマネージメントをする人もいれば、違う人もいる。だから、本来、東京で協会だろうが芸協だろうが、どちらに籍を置くかということと、三遊か柳かということは関係がないのが今日の状況。

そして、ここからがまたややこしい話。名跡については、これまたその権利所得者が誰かとか、協会はどういう権限を持つのかなどが目一杯グレーなため、いろんな問題の種になる。その例が、まさに円生という名である。故円楽は、昨年の春に自分と師匠の名跡について思いを吐露していたのだが、これが波紋を広げた。円生一門なのに円楽とウマが合わず落語協会に残った円窓さんは怒ったね。

2008年5月2日の三遊亭円窓師匠のブログを、全文引用させてもらいます。
*円窓さんのブログでは「圓」を使っていて、私は「円」を使うので混在しますが、ご容赦ください。
---------------------------------------------------------------------
 夜分、ソニーの京須さんより電話。
「今日の朝日新聞の夕刊に『圓楽(5)の談で、〈鳳楽の圓生(7)、楽太郎の
圓楽(6)の襲名〉が載っていた』」と。
楽太郎の圓楽(6)の襲名は問題はないのだが、鳳楽の圓生の襲名は
横暴の一語に尽きる。
そもそも、圓生の名は、6代目の死後、稲葉修大臣、圓生(6)の未亡人、
山本進(NHK)、京須偕充(ソニー)、それに圓楽(5)の五人が連名して、
「圓生の名前はもう誰にも継がせない」という意をこめて「止め名」にした
のである。
 この企画に奔走したのが、圓楽(5)である。
 五人のうち、稲葉修大臣、圓生(6)の未亡人は他界したが、他の3人はまだ
生存しているし、その文書もちゃんと現存している。

 然るに圓楽(5)は京須さんには一言の相談もなく、また兄弟弟子にはなにも
知らせずに新しい圓生の襲名を新聞に発表してしまった。
 圓生の名は「止め名」にしたのであって、圓楽が所有しているものではない。
 売れっ子が新聞に発表すれば、マスコミもその流れに乗るであろう。が、
偽装を施したものであって、本物ではない。
 圓楽はマスコミに売れていることを利用して、真実を隠して、報道させた。
 マスコミも売れっ子の発言を鵜呑みにしてないで、真実を追究してほしい。
 圓生の名は、止め名にして墓の中へ納めたものである。
 新しい圓生の看板を作りたいのなら、5人のうちの生存者と相談して、
止め名の封印を解いてから、新しい圓生の人選をすべきである。
 にも関わらず、圓楽は5人のうちの一人、京須さんには一言もなく、自分の
弟子に新しい圓生を継がせようとしているのだ。
 まるで、墓荒らしと同じ行為である。
 寺の息子である圓楽がそんな愚行をして恥ずかしくないのか。
 圓楽(5)は暴君のつもりでいるのであろう。
 悲しいことである。
-------------------------------------------------------------------
コメントなども含め確認したい方は、円窓師匠のブログへどうぞ。
三遊亭円窓師匠のブログ

円楽が横暴なら、由緒ある円生の名を勝手に「止め」てしまう人たちは横暴ではないのか、と疑問がわく。
*ちなみに、来年3月真打昇進する窓輝は円窓の息子である。本件には関係ない。
 
このブログから一年余り、円楽死して残ったのは山本進さんと京須さんの二人。え~っ、この二人で円生襲名の是非を決めていいの?山本さんや京須さんの書籍にはお世話になっていますが、それとこれとはまったく別な次元の問題ですなぁ。 

「円楽憎し!」のベテラン噺家は円窓に限らず残っているし、川柳師匠なんかは高座で頻繁にネタにしている。しかし、実は内心は結構寂しいんじゃないかな、川柳さん・・・・・・。
今のままで鳳楽が円生を継ぐのは難しかろう。かと言って、襲名のためだけに頭を下げて協会に戻るなんてことは一門はしないだろうし、許さない協会の古株もまだいるだろう。ここからは、時間が解決する以外には噺家が苦手とする「交渉力」の問題になりそうだが、さて、どうなることやら。

個人的には、現在継承者のいない大名跡はできるだけ相応しい噺家さんに継いでもらいたい。その代々の噺家さんの思い出を語ることができる方がご健在なうちに、語り部として若い人達に伝承して欲しい。志ん生、柳枝、円生、そして円朝だって止め名にしなくてもいいでしょ。何度か書いたけど、職業落語家の元祖である三笑亭可楽という大きな名前は、しっかり残っているじゃないですか。この名は、落語界にとって円生などよりずっと大きい名だと思うよ。

まぁ、今後起こるであろう騒動も、噺家の皆さんはネタにするであろうし、逆にネタにして笑えるようなことが起こることを期待して、この件は終わります。
[PR]
by kogotokoubei | 2009-11-12 17:04 | 一門 | Comments(0)
落語協会、来年9月の真打昇進者五名が昨日発表された。次の人たちである。
入船亭扇里(平成8年4月入門)→入門14年での昇進。
林家きく麿(平成8年11月入門)→14年
三遊亭きく歌(平成9年1月入門)→13年
•五街道弥助(平成9年2月入門)→13年
鈴々舎わか馬(平成9年2月入門)→13年
である。
落語協会 ニュース

ちなみに今年5月に発表された来年3月昇進者は次の四名。
•桂文ぶん(平成8年入門)→14年
  *月は不明。ちゃんと落語協会のプロフィールに掲載しなさい!
•三遊亭窓輝(平成8年1月入門)→14年
  *あなたも落語協会のプロフィールに掲載しなさい!
•柳家三之助(平成7年9月入門)→15年
•桂笑生(平成8年5月入門)→14年

来年の秋から、ようやく平成9年入門者の昇進順がきたわけだ。きく歌などはテレビでも顔を売っていたので、「あれ、まだ真打じゃなかったの!?」という印象。弥助、わか馬あたりも順当だろう。

ちなみついでで、落語芸術協会の今年5月の昇進者は次のようになっている。
•三遊亭遊喜(平成7年4月入門)→14年
•春風亭鯉枝(平成7年6月入門)→14年
•橘杏奈(平成7年10月入門)→14年
•瀧川鯉太(平成8年2月入門)→13年
•桂枝太郎(平成8年入門)→13年

どちらの協会も見事なエスカレーター、あるいは、ところてん方式は変わらない。

昭和53年に、入門後の年数が同じ二つ目を大量に真打昇進させようとする当時の落語協会会長柳家小さんに対し、真打昇進はその実力を評価して行うべきだと異を唱えて、六代目円生が一門を引きつれ脱退騒動を起こしたのも、わからなくはない。古今亭志ん朝だって円生を慕って記者会見にまでは同席したのだったなぁ。

では、円生の継承者である円楽を亡くしたこの一門の、最近の真打昇進の例。
•三遊亭兼好(平成10年入門、平成20年真打昇進→10年)
•三遊亭王楽(平成13年入門、平成21年真打昇進→8年)

あえて、この二人のことについては、コメントはしない。事実を記すのみ。
この一門については、円楽師匠の四十九日が過ぎたあたりにでも、協会か芸協への復帰ネタがマスコミを賑わすことになるだろうなぁ。あるいは、円生という大名跡について、いろいろな意見が噴出するだろう。その円生を襲名したいらしい鳳楽新リーダーや他の重鎮たちは、どのような結論を出すのだろう。独立したままで行くのか?この関係のネタは別途書くことにしたい。

e0337777_11060958.gif
さて、11月23日にNHK新人演芸大賞の落語部門が放送される予定ですが、優勝者を事前に知りたくない人は、この後を読まないでくださいね。
e0337777_11060958.gif


落語通の方ならすでにご存知の今年のNHK新人演芸大賞の落語部門優勝者である古今亭菊六は平成14年入門。また、昨年までこの大会で優勝してもいいだけの実力を発揮しながら栄冠を逃してきたが、いまや数多の落語愛好家がその力量と将来性を認める春風亭一之輔は、菊六より一年早い平成13年の入門。平成9年から平成12年あたりまでの入門者はそれ相応にいそうだから、一之輔や菊六の真打昇進も、やはり入門後13年あたりがメドで、あと5年後から六年後ということなんだろうなぁ。
 今日は何らかの結論を出すとか、何か見解を披瀝するわけではなく、事実と、事実に基づく推測を書いているだけです。あしからず。とは言いながら、一之輔や菊六は、来年真打でもまったく私は異論がない。でも、そうすると彼らの先輩達との関係が上手くいかんわなぁ・・・・・・。(最後は、ほとんどボヤキですね)
[PR]
by kogotokoubei | 2009-11-11 17:24 | 真打 | Comments(2)
ほぼ一年ぶりの小三治。去年の11月は前進座だったが今日は新百合ヶ丘駅前の1,000人は入るホール。満員である。壮観な眺めと言っていいだろう。“多摩川超え”である。平日でこの会場を満員にできる人は、そうはいない。そして、その期待に十分応えてもらったと思う。私もそうだが1,000人のお客さんにとって、なんとも得がたい贅沢な2時間だった。
演者とネタは次の通り。
------------------------------------------------------------------
柳家一琴    権助芝居                     18:36-18:50
柳家小三治  マクラ「今年を振り返る①」、転宅        18:51-19:46
(仲入り)
柳家小三治  マクラ「今年を振り返る②」、小言念仏     20:01-20:30
------------------------------------------------------------------

開口一番が柳家一琴である。これからして贅沢。携帯電話の注意をマクラでふって、あっさりと「権助芝居」のさわりだけ演じて、さて師匠登場。

いつものゆったりとした入りでマクラが始まったが、私には今日のマクラがこれまでの小三治体験の中では一番良かった。後頭部の髪の毛の生え際がかゆくなって・・・・・・という日常の異変から話はいろいろ飛んだが、ともすればダレる発散が、今日はわざとらしくなく自然に流れて丸く弧を描いて戻るような、そんな心地よいマクラだった。
後頭部の異変から“飛んだ”先は戦後の思い出話。昭和14年生まれで小学校に入学したのが戦後すぐ昭和21年。女の子の頭にはシラミ、男の子にはシラクモ(!?)やハタケ(!?)ができ、進駐軍支給のDDTでもなかなか治らなかった・・・・・・進駐軍に感謝しなさいと先生は言っていたが、実はあれは我々の税金で買っていたんじゃないですか!・・・・・・などと小言幸兵衛としての役回りも忘れず、絶妙の間の後でようやく戻った後頭部の湿疹の話。近所の病院と大きな病院の両方に行くことになるのだが、このマクラのキーワードの一つ近所の医者のひと言は、会場にいた人だけの秘密にしよう。大きな病院の皮膚科の医者に後頭部より、“顔の赤いのが心配”と言われ、その病名「脂漏性湿疹」の説明を同音異議をネタにして聞き間違えたというクスグリなどは、「このネタも本になりそうだな」と思わせたほど、出来すぎである。
とにかく35分のマクラは、まったく飽きさせなかったし、その後の『転宅』も、良かった。

仲入り後、「今年を振り返って、その弐」ということなので、上述のネタ表記もそのタイトルにした次第。今年3月にNHK BSで放送されたフランク永井さんの特集を、最初の30分見逃したのが悔しくて、再放送はないのか確認するためNHKに電話した、という話から始まった。話は途中、昨年出演した『プロフェッショナル-仕事の流儀-』におよび、「たくさん高座も撮ったのに、夏場の一番きつい時の映像と山盛りの薬を飲んでいるシーンを流したから、放送の後で会う人が皆、『お体、大丈夫ですか?』と聞くようになった」という話は笑えた。
ちなみに、この『プロフェッショナル-仕事の流儀-』の小三治師匠編にご興味のある方は私の感想ブログをご覧ください。
プロフェッショナル 柳家小三治

さて、無類の落語好きだったフランクさんのエピソードから飛んだ先は、やはり唄。、『公園の手品師』の一番だけだったが、今日は声の調子も良かったようだ。
 マクラの中でもっとも印象に残ったのが、親が教育者で躾が厳しかった、という話を自ら語ったこと。今までご本人の口からはあまり話されたことはないように思う。そして、「一生懸命がんばれば末にはいいことがある。少なくとも来世にはいいことがある」と親に言われて、それなりに一生懸命がんばってきたつもりだが、「五十を過ぎたあたりで、先が見えちゃった。そこから考え方を変えて、来世なんかどうでもいいや、今が楽しけりゃ、と思うようになった」、という話には、まさに五十半ばの今、同じような感慨を持つ自分にとって、妙にうれしかったし、心の中で、「師匠もそうだったの!」と叫んでいた。さて、フランクさんの放送の件だが、結局、その再放送が今日21:00からある、という結構会場にはサプライズな種明かしをして、「皆さんもお帰りになって間に合ったらご覧ください」と勧めて時計を見た。そしてお得意の『小言念仏』へ。10分で「どじょうさん」のサゲまで無理なく、そして爆笑もので演じ頭を下げ万雷の拍手。顔を上げてから会場の壁に架かった時計が8:30を指しているのを確認して差し出した右手親指のGoodのサインまで、自然な演出で見事。もちろん、ご本人は再放送を留守予約しているだろうが、“皆さんもご近所ならまだ間に合うかも”という意味だろう。


一期一会としての得がたい時間と空間が、間違いなくそこにあったし、マクラもネタも含めてこれこそが小三治、なのだろう。1,000人が、まるで一つになったような感覚が何度かあった。2時間がまったく短く感じられないし、ダレもしない。マクラも、ネタも師匠ならではの楽しいひと時。
私にとっては、今年、いやここ数年の中でも演者と観客が醸し出す心地よい落語会として相当上位に位置付けられるし、長らく思い出に残るだろう。
ありがとう小三治師匠!そして、無理に頑張らなくてもいいですけど、また多摩川越えて遊びに来てください。お待ちしています。
[PR]
by kogotokoubei | 2009-11-09 21:43 | 落語会 | Comments(0)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛