噺の話

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堀井憲一郎さんの『落語論』で、噺家さんの“声”に関する考察があったのを、昨日や今朝の通勤のバスの中や、今日昼食のために出かけたとんかつ屋さんで思い出した。二日間で、違った年齢層の「ボリューム故障症候群」(Volume Failure Syndrome、略してVFSと名付ける)の方に出会ってしまった。要するに、周囲の状況や語っている相手の距離などに無関係に、むやみに声が大きい病のこと。どうも、世の中にはご自分の声の「ボリューム」が壊れている人がいるらしい。

(1)やや高齢者の女性
 まず、昨日の帰宅のため最寄駅に向かうバスの中。途中のバス停から乗った、60歳台後半と思しき女性二名。ご近所のお知り合いが、たまたまバス停で一緒になったらしい。このお二人、同じ健康食品関係の会に参加しているようで、共通の知り合いの話題になった。それが、どちらかと言うと“悪口”である。お二人のうちのうち一人、仮にAさんとする、が「VFS」である。知り合いの方の実名を堂々と公表しながら「○○さんはズルイ」などと、バスの乗客全員が聞こえる大きな声で、終点までしゃべりまくっていた。もう一人の御婆さん、Bさんとする、はごく普通の声の大きさで、かつノーマルなマナー感覚をお持ちのようなので、Aさんがしゃべり出すたびにBさんは、少し周囲を気にするそぶりを見せる。しかし、注意をするわけではない。Bさんのその時の心境は「早く終点について、Aさんから逃げたい!」ということだったと察する。もしバスの中に「○○さん」の親戚や近所の方が乗っていたら、どう思っただろうか。ともかく、Aさんの「独演会」には、バス中が閉口した。

(2)女子高校生
 今朝会社へ向かうバスでの話。会社に行く途中に、この周辺では進学校として一応名前の通った公立高校がある。夏休みのクラブ活動に行くらしい女子高校生が三人、駅で待ち合わせでもしたのであろう、バスに乗った。この三人のうちの一人が「VFS」だった。好きな同級生の男の子の話題あたりは、まあそう害のないネタでもあったが、家族の秘密めいたエピソードというか、いわば身内の恥までを、ほとんどのバスの乗客が、いやでも知ることになった。女子高校生には、この患者が実は多い。理由はわからない。

(3)子供
 今日の昼休みは、買い物(と言っても、100円ショップだが)する都合もあり会社の近くのショッピングセンターの中にある、とある“とんかつ屋”に行った、いわゆるチェーン店である。蜆の味噌汁のお替りができる。これ以上は明かさない。父親も夏休みをとったのだろう、両親と小学校低学年と思しき女の子、そして4~5歳と察する男の子の四人家族が、私が坐ったテーブルの隣に来た。私が店に入ったのが12:15位。この家族が来たのは12:30位。私はすでに定食を出されており食べ始めていた。さて、この家族の女の子が若いVFS患者である。目の前に母親がいるのに、とんでもない大きな声で、どんな些細なことでも「お母さ~ん!」と叫ぶような声を出す。相手は目の前だよ。顔と顔の間隔50センチという状況で、周囲の客の全員が振り向きかねない声を出す。やや、グズッテいたこともあるが、まるで志ん生の『風呂敷』でのギャグ、「船見送るような声を出すんじゃないよ!」なのだ。しかし、父親はビールを飲みだして少しいい気分、母親もまったく注意などしない。

聞こえるか聞こえないかという小さな声の人も困るが、周囲への迷惑度合いでいけば、間違いなく「VFS」の人たちのほうが厄介だ。落語会や寄席で、周囲と遊離した“間”と大きな声で笑うお客さんがたまにいるが、まだその人たちは、同じ場と空間を共有する落語好きの同好の士として、なんとか我慢できないことはない。しかし、まったく見ず知らずなのに、他人の実名入り悪口の独演会をする御婆さん、自分の家族の恥を堂々を曝す女子高生、顔を見合わせていながら“船を見送る”小学生には困ったものだ。あ!全員、女性だ。「VFS」は、女性だけの病ではないと思うが、昨日と今日はこの病の男性には出会わなかったなぁ。しかし、女性に多いような気もする・・・・・・。待て待て、「口は災いの元」!「VFS」ウォッチャーになりたくはないのだが、この件、今後男性を見かけたら報告します。

さて、この病はどうすれば治るのかというと、ともかく自分が「病気」だと気づくことが先だと思う。しかし、自覚していないからこうなっているのだから、他人が注意しないと分からないかもしれない。とは言っても、家族、学校の先生、クラブ活動の仲間も注意しにくいのだろうなぁ。周囲の人間も「VFS」として認識していないかもしれないし。また、小言幸兵衛が嫌われ者になって注意する日が近いうちに来るのだろう、とイヤ~な気分でのエンディングになっってしまった。でも、ホント迷惑なんだよ、あなた達!
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by kogotokoubei | 2009-07-31 17:48 | 幸兵衛の独り言 | Comments(2)

『落語論』 堀井憲一郎

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この本を取り上げるのには少なからず躊躇したが、今日における落語の語り部として第一人者であろうと思う堀井憲一郎さんの『落語論』である、やはりス~ッと通り過ぎるわけにはいかない。また、私のほうが少しだけ年上だがほぼ同世代の落語愛好家として、彼の落語に関する思いや主張は、基本的には同感できるだけに、やはり書くことにした。

意外に読むのには骨が折れた。これは、同じ堀井さんの『落語の国からのぞいてみれば』や『青い空、白い雲、しゅーっという落語』の読みやすさから比べると、その差は読了までの時間が物語る。上述の二作は、たぶん電車での通勤時間の行き帰りで二日から三日で読んだと思う。今回は一週間はたっぷりかかった。
なぜか?は、おいおい説明しましょう。

三部構成でタイトルページを除くボリュームは次の通り。
第一部 本質論 P6~P83(78頁)
第二部 技術論 P86P~158(73頁)
第三部 観客論 P160~P218(59頁)

「本質論」は、“落語とは、ライブのものである”から始まり、堀井さんが度々主張している内容が中心なので、ほぼ抵抗なく読めた。またその主張にも納得できるものが多かったし、ギャク(?)も当を得ていてスンナリ読み進めた。

例えばということで、『第三章 落語はペテンである』から抜粋する。

内容なんかどうでもいい
 落語はペテンである。
存在しないものを、さも存在するかのように舌先三寸で現出させ、目の前で聞いてる者に信じ込ませて、金を取る。まさにペテンである。ペテンと落語の違いは、客が納得ずくで金を払ってるかどうか、だけである。構造は同じだ。
(中略)
 ペテンはもともと、人の生の声が聞こえる範囲でしか有効ではない。ライブでしか効き目がない。落語がライブでしか力を発揮できないのは、ペテンだからとも言える。
 架空のもので人を騙すためには、なるたけ狭いところに大勢の人を閉じ込めて、生の声で語りかけるのがいい。ヒットラーは、夕刻から屋外で演説を始め、徐々に暗がりになっていくなかでライトを自分に集中して当てさせ、意味はよくわからないけど何だかすごい、とおもわせることに成功した。


その主張も喩えも無理がない。“ペテン”とは言いえて妙だ。ライブの落語で、ぜひペテンにかけてもらい、どこかに連れて行って欲しい、とおもうではないか。

この部分の半頁後には、こんなテレビ(映像)とラジオやCD(音声)の落語についての考察がある。
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 テレビメディアというのは、わたしたちがおもっているよりもっともっと不完全な
メディアなのだ。ラジオと比べてさのみ進歩しているわけではない。そのことを
いつもわたしたちは忘れようとしている。映像が録画されて再生されれば、何
だって再現できる気になっている。
 そもそもの大きな間違いは、ラジオでの落語の再現率を三割くらいとすると、
テレビで落語を見れば八割再現してくれるとおもってるところだ。とんでもない
勘違いである。蒸気機関車があれば、イギリスはあと五百年安泰だ、と1830年
のロンドン市民が考えてるようなものだ。早く街頭テレビの衝撃から自由になった
ほうがいい。ラジオの再生率が三割だとすれば、テレビが落語を再現してくれて
いるのはよく見積もって四割である。ただの一割くらいのアップである。しかも
この一割アップのために、大きなものを失ってしまう。
(中略)
 CDで落語を聞いているときは、情報が欠如してるのを意識しているために、
欠如部分を補助しようと、落語そのものに近づいてゆく。落語に参加しようとする。
ところが映像を見ると落語がほぼすべて再現されているとおもっているから(落語
を見慣れていない人は、というのが前提であるが)、受け身で見てしまう。もともと
欠如した情報であるのに、その欠如を埋めずに、本人が参加しなくなる。それで
落語に近づけるわけがない。
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まったく同感。ライブ以外で楽しむ場合、私はテレビ(あるいはDVD)より圧倒的にCDの音声を好む。それは、現役でも物故者でも同様に楽しめるし、堀井さんの言葉を借りれば、ライブの「三割」は再現してくれるわけだ。しかし、どうもテレビは見た目の平板さもあるし、想像力をかきたてる楽しみもない。そして堀井さんも指摘しているが、「アングル」をコロコロ替えすぎるのが腹立たしい。

さて、次が問題(?)の第二部「技術論」である。たとえば『第一章 落語は歌である』の中で、「音」に関するチェックポイントとして、
(1)声の高低 (2)声の強弱 (3)声の長短 (4)声の高揚 (5)声によって人を描き分けない

の五つを挙げている。このチェックポイントを紹介する前に堀井さんは次のようにことわりを入れる。
「仕事で聞かないのなら、あまり真似をしないほうがいい。つまり、落語をふつうに楽しみたい人は、以下のチェックポイントを気にして落語を聞かないほうがいいということだ。老婆心ながら申し上げる。技術差がわかっても、鑑賞の邪魔になるだけだ。」

しかし、気にするかどうかは別として、720円(税別)を投資した以上、この部分も読まないわけにはいかないのだ。五つのチェックポイントについて、それぞれ詳細に解説してくれるのだが、個々の解説の前に次のような部分がある。
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つまり「声の高低をきれいに使って、人心を見事に掴むメロディラインを作って
喋っており」「声の強弱によってきちんとリズムを作って噺を心地よく前に進め」
「ときにブレスしないフレーズを作って客の緊張を逃さず」「また予想外のい高い
声で客を高揚させ」「声を分けて人の違いを出さず、どの人物も声の高低をきち
んと持っている」という落語が、音としてとても聞きやすい、ということになる。
これを基本として、ここに言葉のきれいさが乗っかると、とても聞きやすい落語
になる。桂文楽。古今亭志ん朝。そのあたりの名前を浮かべてもらってもいい。
現役であげるなら、春風亭小朝の名になる。それもあまり気にしてもらわなくても
いいだろう。人は音の出しようでは演者を選んでいないからだ。
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上述のように実際の噺家さんの名前が登場するのは、本書では異例なほうである。特に現役の噺家さんの名前はめったに登場しない。「間」を語る部分で小三治師匠を引き合いにだしていることや、いくつかの箇所で談志家元を登場させるが、それは本書においては例外的といえる。

堀井さんは、たぶん冒険したのだと思う。「○○○のような声」とか「△△△のようなリズム」というように実際の落語家を喩えにして解説すれば読者には分かりやすいが、反面、特定の噺家さんだけをイメージさせてしまう危険性も伴う。できるだけ、純粋な「技術論」として人の例示に頼らないで書き進めようとしたのだろう。もちろん、現役の噺家さんの名前を挙げると、いろいろと差し障りもあるというリスクヘッジもあっただろう。

結果として、次のような文章が多くなる。*「複数の人物を声で演じ分けない」の説明から抜粋。
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 落語の冒頭に出てくる二人には、だいたいメリハリがついている。
 寝てる者と起こす者、客を逃した亭主とそれをこれから怒ろうとしている女房、
小言を言ってる番頭と聞いてる小僧、大金持ちを装う無銭客と人のよい亭主、
座敷を避けている花魁とそれを探す若い衆。
 だいたい、押しているほうと引いているほう、動と静に分かれる。ふつうにやっ
ても(きちんと動と静が出れば)声は違ってくる。もちろん違った人物に見える。
それに顔を左から右に振ってるんだから、違う人物だと分かる。無理に声を変え
なくてもいい。
 この場合の声を変えるというのは、声域を別ゾーンに分けることを言う。女房を
高いレンジ(いわばテノールゾーン)、亭主を低いレンジ(バスゾーン)に設定して、
そこから出ない。声の違いを、声域ゾーンの違いだけと限定してしまう。苦しくなる。
なぜそんなことをしてしまうのかというと、それは演者が設定として楽をしている
からだ。最初に決めたほうが、楽である。そして硬直化してしまう。
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たしかに、上記で説明している「無理に声を変える悪い例」として実際の噺家さんの名前を出すわけにはいかないだろう。しかし、良い例として「○○○の『厩火事』を聞いてみれば良い」「△△の『道灌』は見事だ」などと例示してもらえば、読者は非常に参考になるのだが・・・・・・。そういった喩えは少ない。

そして、この“喩え”や“ギャグ”に関して言うと、本書全体において、なぜか次のような内容が多いことも、読み進みにくい原因の一つである。
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 サゲを分類して、何の意味があるのだろう。でも、ハインリヒ四世は聖職者を
任命しつづけて破門され、カノッサに向かうことになるし、落語は集められてサゲ
が分類される。
(P28、第一部の“サゲの分類は無意味”から抜粋)
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 圓蔵は十八世紀のフランスにいたら、パリ市民を煽りに煽って貴族を襲わせた
だうろし、1917年のペトログラードにあればその声でもってケレンスキー臨時政府
の施設を襲撃させたに違いない。そういう声である。
(P117-118、第二部の“動物的な声の力”から抜粋)
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 芸人なら、売れたほうがいい。
 それにはなるべく大きな場を作れたほうがいい。私はそうおもう。
 そう言っても、その小さく巧い落語家さんたちは、いや、いまさらそれは無理
なんだよ、と弱々しく笑いそうである。うちはロシア革命の前までは、小さいながら
もちゃんとした貴族だったんだ、と煙草をもらいながら、歯の抜けた顔をしわくちゃ
にして笑ってるサンクトペテルブルクの老人の話を聞いているみたいである。
(P156、第二部の“うまさを客観的に語るのはむずかしい”から抜粋)
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堀井さんとしては、“ハインリヒ四世”や“ケレンスキー臨時政府”、そして“サンクトペテルブルクの老人”が、喩えとして分かりやすいと考えたのだろうか?もちろん、“ギャグ”として異質な引用を挿入したという狙いも考えられる。しかし、少し無理があるし、やや衒学趣味が匂う。もしかしたら、「このレベルのことが分かる人だけ読んでください」というハードルなのかもしれないが・・・・・・。

最後の「観客論」が、本書で落語愛好家にとって、もっとも有用な部分であろう。だから、抜粋はしない。読んでみてください。重要なキーワードのみ記します。
「集団で同じ方向にトリップする」
これが第一部「本質論」にもつながる重要な言葉です。

非常に、本書を語るのは悩ましい。「あとがき」に42日間で書き上げたことが明かされているが、残念ながら、締め切りに間に合わせるための無理があるように思う。“勢い”で書き上げた迫力はあるが、「論」という以上は、もう少し推敲が必要だったのではなかろうか。
また、実際の落語家とその芸を極力例示せずに純粋に落語を論じようとする心意気のようなものは伝わるが、私のような凡人には、やや高踏的な内容であることも事実。「それでも付いてくる人だけで結構」という思いは、堀井さんにはないはずなので、やはり推敲不足ではないかなぁ。本書で堀井さんが指摘する通り、落語家は「客を切らない」のであって、その落語を語る本も「読者を切らない」姿勢であって欲しい。

堀井さんは、本書の中の良質なエキスを昇華させて、別な切り口から次の落語論を書くような気がする。いや、ぜひ書いて欲しいものだ。本書で「書き尽くした」とは、到底思えないし、本の完成度としてはすでに述べてきた通り、けっして高いとは思えない。次作に期待する!
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by kogotokoubei | 2009-07-30 11:38 | 落語の本 | Comments(0)
副題が「盛夏の新宿 涼を呼ぶ三人会」とのこと。この会も会場も初めてである。今、もっとも気になる鯉昇と贔屓のさん喬、最近やや心配な百栄の三人会ということでチケットを買ったのだが、うめ吉が急遽参加という、大変うれしいプレゼント付きになった。結果としても、その演者と客がつくった「一期一会」の場として、今年これまでに行った落語会の中でベスト5に入る時間と空間だった。

演者とネタは次の通り。
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<開口一番 春風亭朝呂久 子ほめ>
春風亭百栄 状況説明窃盗団
瀧川鯉昇   茶の湯
(仲入り)
檜山うめ吉  俗曲
柳家さん喬  井戸の茶碗
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朝呂久(19:12-19:22)
初めて聞く。帰宅してから落語協会のホームページで調べたら一朝一門で二年目の前座さん。
表情は硬いが、なんとも言えない良い雰囲気がある。今後が楽しみ。

百栄(19:22-19:52)
7月3日の人形町での「百兼今」では少し心配したが、今日は本来の百栄に戻りつつある感じだった。
オリジナルの新作だからということもあるだろうが、何か迷いが吹っ切れかかっているように思えた。マクラで「どこが涼を呼ぶ三人なんでしょうか?」とふって、鯉昇を「芸術協会のリーサル・ウェポン」と称したあたりから、“今日は良さそうだ”と思って聞いていたが、初めて聞く本編もなかなか良かったし、この人のとぼけた味にはニンな噺だ。

鯉昇(19:53-20:30)
故郷浜松の“掘り起こし”のために、名物「うなぎ」の“なぞかけ”を募集したら三千通の応募があったということで、応募作からいくつかマクラで披露。小学生のなぞかけが、なかなか良い。さてこの人のこの噺を聞くのは、たしか三度目かと記憶しているが、毎回工夫され新たな発見があって楽しい。茶を泡立てる「椋の皮」は、とうとう「全温度チアー」になった。このへんの大胆さが真骨頂でもある。食べ物の噺がニンなのは、ご本人も十二分に合点承知で、相変わらずの表情での演技を含め、会場を沸かせる。200人前後の客は、ほぼ全員が根岸のご隠居の茶会の場に連れて行ってもらい、笑いころげていたと思う。やっぱりいいなぁ、この人!

うめ吉(20:44-20:59)
芸術協会の寄席でそのうちぜひお聞きしたいと思っていたら、まったく意外な会で初めてお会いできた。ともかく美しい。正直、その唄と踊りは評するだけの知識や素養はないが、寄席や落語会にこの美貌と色気が加わるだけで十分に価値がある。日本髪は地毛で、自分で20分位で結うとのこと。これからは少し俗曲を聞いて、その芸も楽しめるようになりたいと思った次第である。

さん喬(21:00-21:45)
師匠小さんネタなどのマクラをふりながら、「まだ何を演るか決まっていない」といういつものセリフで笑わせたのは、実は演出ではなく本音だったようだ。出囃子の恩田えりさんにこれまでの五回のネタ帳を持ってきてもらったのには、驚くとともに、この会場の雰囲気、客層の良さがさん喬にそうさせたように思う。詳しくは書けないが、ネタ帳を見て「xxxxxとxxxxxの親子会、ムダなことを・・・・・・」などブツブツ言う内容が、マクラとしてもしっかり笑わせる結果となっていた。「井戸の茶碗」を候補の一つと考えていたようで、過去五回で演っていないことを確認し決めたのだろう。「楽屋でネタ帳見てなかったの?」と突っ込む御仁もいらっしゃるかもしれないが、今日も鈴本と浅草の二つの寄席をこなしてきたはずのさん喬師匠である、許せる許せる。メリハリの利いた構成と口調が会場を屑屋の清兵衛さんの世界に連れて行ってくれた。

この会は、横浜の県民ホール寄席と似たような手作り感たっぷりの雰囲気で、好みである。商売っ気があるのは主催者の都合上しょうがないが、終演後のCD販売で、うめ吉さんの美貌を間近かで拝ませていただく余禄もある。一部、無駄に大きな声で笑うお客さんもいらっしゃるが、なかなかアットホームで、ほとんどメモを取る人もいない。私も開始と終了時刻以外はメモをせず、楽しむことができた。

チケット購入時期が早かったからなのだろう、自由席なのだが、前のほうの優先席に座らせてもらえた。演者の唾がかかるかかからないかという距離で楽しむ落語会というのは、そうは多く出会えない。ビジネスとしての落語会と地域寄席との折衷という感じだが、新宿周辺の常連さんがなかなかいい感じで、「昔の寄席は、きっとこんな感じだったのかな」と思わせる空間になっている。仲入りの間のBGMもオールディーズで私の好みである。

まだ六回目で次回の11月1日日曜は都合が悪く行けなくて残念だが、ぜひこの先も来てみようと思いながら、雨の中を新宿駅へ向かった。
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by kogotokoubei | 2009-07-24 23:56 | 落語会 | Comments(0)
さん喬師匠の『百川』を堪能して帰る道すがらも、「今日は、鯉昇!」と思いながら歩いていた。

ほぼ満員の会場、最前列に堀井憲一郎さんを見かけた。
さて演者とネタ。
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(開口一番 柳家花いち 桃太郎)
三遊亭金兵衛   蝦蟇の油
瀧川鯉昇      蛇含草
金原亭馬生    唐茄子屋政談
(仲入り)
柳家喜多八    小言念仏
柳家さん喬     百川
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*「開口一番」について
14:00から約15分の『桃太郎』についてコメントは控える。花いちについてではなく、以前から主張しているのだが、この会の開口一番は今日なら金兵衛でいい。前座の開口一番は寄席では必要だが、この落語会では、はっきり言って「時間の無駄」。もし17:00には終わりたい、ということなら一人演者が減ることで、今日の例で言えば、喜多八の“16分”はもっと長くできるようになるだろう。

金兵衛(14:15-14:36)
緊張していた様子だが、口上はほぼ澱みなくこなしたので拍手はさせてもらった。しかし、この人は今後どの方向に行くのかは、ちょっと未知数。古典の雰囲気はあるので、いわゆる本寸法の道を歩みたいのだろうなぁ。とにかく頑張ってもらいたい。

鯉昇(14:37-15:05)
今の季節とネタから想像した通りの定番「扇風機」の話を含むマクラ12分で会場を一気に盛り上げて本編へ。“初鯉昇”のお客さんが多かったようだが、尚更すごい受け様である。朝日名人会で、これだけのドッカンドッカンは経験がない。私自身も以前に聞いたことのあるマクラでも十分に笑わせてもらった。私が初めて聞くギャグの中で、人間ドックで「頭の中身がないと透けて写る」というのは秀逸。本編に入ってからも鯉昇ワールドは絶好調である。とにかく、何かを「食べる」ネタになるとこの人は凄さを発揮する。餅を無理やりほうばる仕草や、食べながらの顔の表情で会話する演技などは、他を圧倒する可笑しさ。30分未満だったが、会場は目一杯沸き返って、次の馬生が気の毒な位だった。

馬生(15:06-15:46)
十一代目馬生襲名10年とのこと。そうなるか、早いもんだ。この人の丁寧な語り口は相変わらずなのだが、やはり鯉昇に喰われたという印象。田原町の親切ないい男や近所の江戸っ子の兄さん達、おかみさん達の描写が真骨頂だったが、どうしても全体としては印象が弱い。

喜多八(16:08-16:24)
結構たっぷり目の仲入りの後、いつものように気だるく登場。この噺のマクラはいつも通りなのだが、やはり受ける。今日のお客さんは“初喜多八”も多いようだ。本来はサゲがあるが、三代目金馬も師匠の小三治も含め、特定のサゲなく終わることも多い噺だが、なんと16分で仕上げたのには驚いた。なんとか17:00終演を目指すための時間配分のように察する。
ちなみに本来のサゲは、どじょう屋からどじょうを買って、おつけの実にする場面で、「・・・・・・なむあみだぶ、なむあみだぶ、鍋のすき間から酒を入れるんだよ、なむあみだぶ、苦しがっているだろ、どじょう、なむあみだぶ、なむあみだぶ、静かになったら、ふた開けてみろ、なむあみだぶ、なむあみだぶ、みんな腹出して死んでる、ざまあみやがれ、なむあびだぶ、なむあびだぶ」
ここまで演って欲しかったではないか!

さん喬(16:25-17:05)
百兵衛を、その奇妙な方言だけでなく、なんとも言えない表情で演じようという師匠の演出は見事。全編、丁寧かつ硬軟のメリハリのあるさん喬ワールドで、安心して楽しめた、と言いたいのだが、どうしても最後のほうは時計を気にしているように思えて、若干気ぜわしい印象。

最近のこの会は17:00位にはどうしても終演にしたいらしい。誰が何のためか知らないが、そうであるならば、くどくなるが前座の開口一番は省いて欲しい。二つ目の開口一番で何か問題があるのだろうか。前座の勉強する場は寄席をはじめいくらでもあるだろう。喜多八は十分に会場を沸かしたが、16分というのはないだろう。寄席じゃあるまいし。あるいは、終演を17:30、少なくと友17:15位までということで構成して欲しい。一昨年や昨年の会では当り前の時間である。
土曜の「ハレ」の日にタップリ落語を楽しむ“覚悟”で来ているのだ、中途半端な運営はしないで欲しいと思う。

鯉昇が朝日名人会に何回目の出演かは知らないが、多かったと思われる“初鯉昇”のお客さんは、今後間違いなく“気になる噺家”と認識したに違いない。鯉昇出演の落語会のチケットがますます取りにくくなりそうだが、それは仕方がないなぁ。

また、鯉昇のマクラや本編で餅を食べる仕草で気になった会場の反応が、間の悪い「拍手」。と言うか、その可笑しい演技に「笑う」場面で、前の方のお客さん中心に拍手がやたら多かった。たとえば蕎麦の食べ方や、金兵衛の演じた「蝦蟇の油」の口上などの場合は、拍手で応えるのはまだ分かる。しかし、「笑い」の場面での間の悪い過度な拍手を聞くと、「あの噺家のご親戚の方?」と聞きたくなる。

かつての名人の音源を聞くと、昔のお客さんは、今なら「拍手」かなという場面でも自然な「笑い」で反応していることが多い。途中で入れる拍手も、会場全体から自ずと沸き起こってこそ演者も乗ってくるが、部分的な拍手の大安売りは興醒めである。
私自身は、ついメモを取ることも忘れて目一杯鯉昇に笑わせてもらった。とにかく、今日は鯉昇の日だった。
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by kogotokoubei | 2009-07-18 20:31 | 落語会 | Comments(0)
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長井好弘_新宿末広亭のネタ帳
昨年発売されていたことは知っており気にはなっていたのだが、2000円を越える価格に腰が引け買わずにいた。先日、神保町の“新古本”を扱うお店で破格の値段で入手できたので一気に読んだが、非常に楽しい本である。

2001年から2007年までの七年間の末広亭のネタ帳を全て調べて統計をとった上で、どんなネタが多く演じられているか、あるいはあまり演じられていないネタは何か、そしてよく出演している噺家さんは誰か、といった切り口でランキングを紹介しているが、何と言っても読んで楽しいのは、寄席でのネタを題材にした噺家さん達との対談。
長井さんだからこそということなのだろう、皆さん裃を脱いだ雰囲気での対談風景が想像できる。

インタビューの相手は次の通り。
まず最初の相手は古今亭寿輔師匠。第四章の「ネタ帳の中の噺家たち」の中で、七年間で1121回と末広亭出演数断然トップの噺家として登場。
他は、第五章の「噺家、寄席のネタを語る」の中で次の方々が登場。(敬称略)
 柳家さん喬、柳家権太楼、五街道雲助、柳亭市馬、入船亭扇橋、古今亭志ん輔、
 三遊亭小遊三、昔昔亭桃太郎、桂平治、瀧川鯉昇、春風亭一朝

錚々たる顔ぶれ。これらの噺家さんが七年間に末広亭でかけたネタのランキングは、人によって「な~るほど」と思ったり、「えっ!」と驚いたりするデータが明らかになる。
例えば、さん喬師匠のランキングのトップ10は次の通り。ちなみに、さん喬師匠は七年間での末広亭への出演数は779回で、落語協会では扇橋師匠の867回に次いで二番目に多い。さて、779回の出番で、どんな噺が多く演じられたのだろうか・・・・・・。
 (1)替り目/107回 (2)真田小僧/80 (3)そば清/66 (4)時そば/53 (4)長短/53 
 (6)短命/52 (7)天狗裁き/49 (8)初天神/44 (9)子ほめ/34 (10)浮世床・夢/21

もちろん主任(トリ)で出演する回数のほうが少ないのだから、こういったネタが並ぶのは、ほぼ想像通りである。トリ、あるいは仲入り前のネタだろうと思われる演目の七年間での回数を記す。
 千両みかん(9回)、心眼(7)、百川(5)、芝浜(4)、妾馬(4)、掛取り(4)、たちきり(2)、らくだ(2)、中村仲蔵(2)、文七元結(2)、笠碁(2)、鰍沢(2)、鼠穴(1)、柳田格之進(1)、品川心中(1)、三枚起請(1)

七年間、779回の末広亭への出演で、たった一回しか演じられていない『鼠穴』や『品川心中』などに出会えたお客さんは、まさに僥倖ということになる。

長井さんとさん喬師匠の対談から抜粋。
−「初天神」は、たしかTBS落語研究会でネタおろしをしたんですよね。
さん喬 あの日のことは、いまでも忘れないなあ。
−上手にできて、ほめられたから?
さん喬 とんでもない。高座の前の日から絶不調。尿管結石の痛みで
    歩くこともままならない状態だったんです。それで、一夜明け
    たら、師匠小さんのおかみさんが自宅で倒れた。で、その日の
    夜の「研究会」が「初天神」のネタおろしだったんですよ。
−スゴイ状況ですね。心身ともにボロボロ。
さん喬 そう。心も体も痛くて辛くて。高座では、よけいなことを考え
    る余裕なんてあるわけがない。もう、な~んにも考えずにやっ
    たら、ほどよく肩の力が抜けたんでしょうね。お客様に「本当に
    いい『初天神』でした」とほめられて、こっちはポカンと口
    あけたまんまでしたよ。
−その「初天神」が売り物になるんですからねえ。それにしても、師匠の滑稽落語は面白いですねえ。
さん喬 そういうことは、もっと方々で言ってよ。アタシはさあ、「滑稽
    落語のさん喬」って、言われてんだよ。
−何言ってるんですか、「人情噺のさん喬」でしょ。
さん喬 いやあ、みなさんから、そう言っていただくのはうれしいん
    だけど、そうなると期待にこたえなきゃいけないから、長講の
    人情噺ばかりやることになる。と、それを聞いた人が大ネタ
    ばかり注文してくる。
    好きな滑稽落語がだんだんやりにくくなっちゃうんですよ。
−そういえば、師匠お得意の滑稽噺、「棒鱈」だとか「片棒」は、ネタ一覧で見るかぎり、そんなに多くやってないですね。
さん喬 ・・・・・・そうです。一時はどこへ行ってもかけていたんですけど。
    でも、最近は、ちょっと息切れ状態かなあ。お客さんも変わって
    るんだから、噺も動かなきゃいけない。あれこれ棚卸しをしている
    うちに、ついやらなくなっちゃったんですねえ。「棒鱈」も「片棒」
    も、まだまだ改良の余地があると思うんだけど。
    
なるほど、さん喬師匠にしても、いろいろ悩みがあるわけだ。

次にそのトップ10を見て意外だった噺家さん。先にトップ10をご紹介。
(1)子ほめ/59回 (2)ざるや/40 (2)粗忽の釘/40 (4)権助魚/32 
(5)町内の若い衆/30(6)夏泥/28 (7)浮世床・将棋/25 (8)手紙無筆/24 
(9)身投げ屋/23 (10)豆や/18

この方の七年間での末広亭出演は553回で、落語協会で八番目に多い。この段階で噺家さんを当てれる人は、相当の落語通、寄席通、あるいはこの噺家さん通(?)だろう。

正解は、
五街道雲助師匠。

長井さんとの対談から抜粋。


−師匠のネタでいちばん多いのが、なんと前座噺の代表みたいに言われる「子ほめ」なんですね。ちなみに、落語協会でいちばん多く「子ほめ」を演じているのも雲助師匠という衝撃的な事実を今あきらかにしてしまいました!
雲助 何が衝撃的なんだか・・・・・・。しかし、アタシの「子ほめ」っ
   て、そんなに多いのかあ。たしかにね、「子ほめ」は好きな噺なん
   ですよ。その日、「子ほめ」が出ていないなあと思ったら、まず必ず
   やりますね。えっへん。
−そんなにいばらなくてもいいと思うけど、金原亭の寄席ネタと言うと、「ざるや」を思いつきますけど、師匠の場合は「子ほめ」のほうがずっと多い。
雲助 アタシの出番はねえ、なぜか夜のヒザ前が多いんですよ。末広亭
   みたいな入れ替えなしの寄席だと、アタシの出番までにけっこうな
   数の噺家が出て、定番ネタみたいなのは出つくしているんですよ。
   ところが、「ざるや」てえのは、きちんとした筋があるようなない
   ような不思議な噺だから、まず、前に出たネタと内容がカブるという
   心配がない。だから、けっこう多くなるんだね。うちの師匠(先代
   馬生)の「ざるや」も、ヘンテコで面白かったよな。


落語会、独演会で雲助師匠の「子ほめ」を聞くことはできそうにない。寄席に行かなきゃね。

私が6月6日に末広亭で出会えた古今亭志ん輔師匠の『夕立勘五郎』は、七年間で22回だった。
通算305回出演で『替り目』『宮戸川』『たがや』『相撲風景』についで志ん輔師匠のネタで五番目に多い演目。年間三回位は末広亭で演じられる勘定ですね。でも、他の噺家さんはほとんど演らないネタなので、やはり貴重な経験だった。

他にもこの本にはいろんな発見があり楽しい。ご興味のある未読の方には、ぜひ推奨します。まだ、神保町の「新古本」屋さんに置いているかもしれませんよ。あえてお店の名前は記しません。
だって、神保町探索の楽しみがなくなりますからね。
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by kogotokoubei | 2009-07-16 18:02 | 落語の本 | Comments(0)
7月10日は、六代目尾上菊五郎の祥月命日だった。明治18(1885)年8月26日生まれ、 昭和24(1949)年の7月10日に亡くなった。大正から昭和にかけて活躍した歌舞伎役者であり、屋号はもちろん、音羽屋。歌舞伎界で単に「六代目」と言うと、通常はこの六代目尾上菊五郎のことを指すらしい。初代中村吉右衛門とともに、いわゆる「菊吉(きくきち)時代」の全盛期を築いた人。ちなみに、初代中村吉右衛門は明治19(1886)年3月24日生まれで六代目より一つ年下、亡くなったのは昭和29(1954)年9月5日である。屋号は播磨屋だが、「大播磨」の掛け声で知られたらしい。

古今亭志ん生(五代目、明治23年生まれ)は、この二人に贔屓にされており、酒席などにも数多く誘われていたようだ。『なめくじ艦隊』(ちくま文庫)によると次のような記述がある。少し長いが六代目との初対面の思い出が書かれた、なかなか心温まる話なので引用する。
古今亭志ん生_なめくじ艦隊
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 音羽屋(六代目菊五郎)とも、あたしはしたしくしていました。あるときあたしに
一席きかしてくれというんです。はじめあたしは、音羽屋という人は傲慢で、ぶっ
きらぼうで何だかつきあいにくい人だときいていたから、行くのがあんまり気が
すすまなかった。
 とにかく、あたしだって、音羽屋になにかしてもらわねば食っていけないという
訳じゃない。もしも気にくわんことがあったら、サッサと帰ってきちゃおうとハラを
きめて、築地のやしきへ出かけていったんです。
 するとそこに、さきごろ亡くなった三升がいて、音羽屋を火鉢をかこんで何か
話をしている。あたしがその部屋へスーッと入っていくてえと、
 「いくつになったい?」
 音羽屋はぶっつけにこう言った。その調子ったらないんです。たいていの人
だったら、おたがいに一礼して、それから初対面のあいさつをして、年配だから
「あなたはいくつになられました」とくるのが常識でしょう。それなのに座敷に入っ
て行ってあたしが、坐るかすわらないうちにこうきくんですよ。文字にしてしまっ
たんじゃわかんないでしょうけれど、その発音間合がとてもうまくて、なんとも
いえぬ親しみがある。で、あたしがそれに答えると、
 「そうかい。いつのまにかお互いに年をとったね、ハハハハ・・・・・・」
 といった調子なんです。あたしはそれがスッカリ気にいっちまいましてね。
そのぶっきらぼうなことばの中にこもっているあたたかい親しみぶかい気持が、
あたしの心をスーッとほぐしてくれたんです。あたしはうれしくなりましてね。
 「おらァ、なんだよ、おめえの師匠とは、すいぶんいろんなことがあったよ」
 といった話っぷり、まるで肩をたたいて話しあっているようで、まったく十年も
つきあった友達に出くわしたような気持になったんですよ。
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話し言葉そのままのような楽しい文章を読んでいると、まるで二人が旧知の仲のように軽口をたたいているその初対面の光景が現れてくるようだ。

さて、六代目で思い出すのは、「菊吉爺(きくきち じじい)」という言葉である。その前の時代なら「團菊爺(だんぎく じじい)」である。
歌舞伎好きの中で用いられる俗語が一般化した言葉である。九代目市川團十郎と五代目尾上菊五郎が最高の歌舞伎役者であって、他の若い役者を認めない頑固爺が「團菊爺」であり、その対象が六代目尾上菊五郎と初代中村吉右衛門になると「菊吉爺」となる。
“菊吉爺”は言う。
 「六代目に比べりゃあ、今の役者なんて・・・」
 「初代吉右衛門を知らないって、それじゃあ話にならん」

自分が同時代でその至芸を経験した名人・達人を、ノスタルジーもあるのだろう、過大に賛美するあまり、ついつい若者に憎まれ口をたたく爺(あるいは婆!?)は、間違いなく後輩世代から煙たがれる。しかし、この「爺」たちはどんな世界にでもいた。もちろん、落語の世界でもである。
たとえば、小島貞二さんが「四代目橘家圓喬爺」だったのは有名。先日取り上げた『祇園会』も、圓喬が最高だった、と小島さんは書いている。志ん生や文楽なら小島さんの噺を聞いても実際に圓喬の芸に接し尊敬していたから納得できたのだろうが、圓喬の生の落語に接することができなかったそれより若い世代は、小島さんの話を聞いて、さぞやストレスがたまっただろうと思う。

しかし、「菊吉爺」達は、ある意味で伝統芸能の歴史に関する「口承者」であると思うし、その芸の詳細に渡って語ることができる場合は、「口伝」の役割さえ担っているように思うのだ。
もちろん、今や昭和や平成の名人上手の芸はCDやDVDで再現することはできる。しかし、ある特定の「一期一会」に居合わせた人にしか語れないことは間違いなくある。特に、「落語の神」が舞い降りたと思われるような至芸の場に出会った場合など、その時の「背筋がぞっとする」感覚などは、同じ時間と空間を共有した者しか語れないことである。

もう数年すると、「談志爺」とか「志ん朝爺」、あるいは「談朝爺(?)」が登場するのだろう。
私は残念ながら全盛期の二人の“生の芸”にほとんど接していない。もっぱらCDの音源を楽しむばかりなので、「志ん朝爺」と言う資格はない。もし15年後、20年後になれるとしたら、「さん喬爺」とか「鯉昇爺」かな・・・・・・。そして、このブログを見ている私より若い落語ファンの方々も、これから先には次のように後輩の落語愛好家から言われるだろうか。「談春爺」「喬太郎爺」・・・・・・。
「xxx爺」のxxxに入るだけの名前になったら、それは凄いことなのである。もしこの先、いろんな「xxx爺」が存在感を持つことができたら、それは今が落語ファンにとって素晴らしい時期にある、ということなのだろう。間違いなく落語家の人数は昔に比べ格段に多い。好きな噺家のバリエーションが増えるということは、きっと良いことに違いない。

でも、よく考えたら、いくら「xxx爺」のxxxが増えようと、自分より若い人達に嫌われるのを承知で「xxx爺」になる人そのものが少なくなるだろう。煙たがられるのが嫌で小言を言う人が少なくなるのと同じ理屈である。せっかく後輩達に自慢できるだけの、自分が同時代で経験した贔屓のエンターティナーの思い出があるのに、それを嫌がられてでも語ろうとする「爺」は少なくなるのは、世の中にとって寂しいこと、もったいないことだと思う。

昔は、日本全国、家の近所には“恐い”おじさん、おばさんが必ずいて、他人の子であっても、マナーやルールを守れない子供を叱ったものだ。だからこそ、「これはやっちゃいけないことなんだ」と、身をもって学ぶことができた。小刀やナイフで鉛筆を削り、刃を滑らせて怪我をするからこそ、刃物による人の痛みが分かる、のと同じ道理であろう。
昨今は市町村合併やら道路拡張やらで、伝統的な地名は消え去るばかりだし、地域の共同体としてのつながりは、ますます希薄になっている。こういうことがボディブローとなって、他人の迷惑を省みない子供と親が充満する世の中になるのではなかろうか。モンスターペアレントなんていうのは、この悪い風潮の最悪な事例だと思う。私が小学校、中学校時代、先生に叱られ殴られて帰ると、親は先生にお礼を言いこそすれ抗議するなど考えられなかった。もちろん、先生の能力も権威も、そして品格も昔とはまるで違うのではあるが・・・・・・。

話はちょっと脱線気味になってきたが、「團菊爺」や「菊吉爺」といった言葉も死語になりそうな趨勢が、誠に寂しいじゃないですか。いいじゃないの、自分より若い人に嫌われても。どんどん「xxx爺」になりましょう、とあえて言いたい。子供の頃、近所や銭湯などで叱られた恐いおじさん達のことって、結構覚えていて、「あ~、そういえばあのおじさんに、あんなこと教わったなぁ」なんて今になって思い出すのである。恐い人達って、それだけいろんなことも知っていたなぁ、とも思う。そんなことを思い出しながら、こんなブログでもそれなりにがんばって「小言」を書いていこう、と気持を新たにするのである。
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by kogotokoubei | 2009-07-13 12:02 | 幸兵衛の独り言 | Comments(0)
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*“山鉾巡行”(「DigiStyle京都」さんのサイトから)DigiStyle京都

京都祇園祭のクライマックスである7月17日の「山鉾巡行」の順番が決まったというニュースを見て、『祇園会(ぎおんえ)』を思い出した。京都を舞台に夏真盛りのネタであり、今では演者が少ないのが残念。現役では橘家圓太郎のこの噺がなかなか良い。

祇園祭を楽しむはずの茶屋で、江戸っ子と京都人(京者)がそれぞれのお国自慢、祭り自慢を戦わせる楽しい噺。京都と江戸の祭り囃子を演じるところが噺のヤマでもあり、京言葉も含め相応の芸を要求される。また、この噺は連作『三人旅』シリーズのアガリであるが、『三人旅』とは独立したネタとして扱われている。『三人旅』は、その昔には東海道五十三次すべてを題材にした噺があった、と言われているが、その多くが文献としては残されていないためアテにはならない。
今に残る『三人旅』は、個々の噺を組み合わせて演じられることも多いが、分解すると
・江戸を出発する『発端』
・神奈川宿の『朝這(あさば)い』
・『びっこ馬』(談志など)
・小田原付近の『道中』
・『鶴屋善兵衛(つるやぜんべえ)』
・『おしくら』
そして、旅のアガリがこの『祇園会』となる。
三代目三遊亭金馬の『三人旅』は、旧き昔の旅支度のことや道中の説明なども丁寧で、江戸時代の旅の様子がよく分かる。

さて、『祇園会』の概要は次の通り。
*筋書きにはいく通りかの種類がありますが、ここでは主に橘家圓太郎版に基づきました。
落語の蔵_橘家圓太郎『祇園祭』
------------------------------------------------------------------------
(1)江戸っ子三人が連れ立って伊勢参りを済ませた後、京見物にやって来たが、
  京都の夜の街で金を使い過ぎてしまい二人は先に江戸に帰り、京都に叔父の
  いる男だけが残る。
 (かつては、残る江戸っ子を八五郎として、八五郎が病に伏せ、他の二人が先に
  江戸に帰る、という筋書きが主流だったようです)

(2)叔父と茶屋で祇園祭を楽しむ予定だったが、祇園祭の当日、伯父に用事が
  でき、替りに茶屋で一人で楽しむことに。
 (この部分も叔父に替わって一緒に飲むことになったのが叔父の知り合いの京者、
  という設定もあります)

(3)茶屋に居合わせた京者がいつしか京都の自慢話を始めた。「王城の地だから、
  日本一の土地柄だ」と自慢する京者。「ワァー、ハー、ハーッ」という間延び
  した笑いが、短気な江戸っ子をいらつかせる。ついに京者が、江戸を「武蔵の
  国の江戸」ならぬ「むさい国のヘド」と言うに至り、江戸っ子は“切れた”。

(4)江戸っ子は、京都の町の面白くないところをことごとく上げて反論していく。
  そしてこの噺のヤマ場に向かう。、

(5)江戸と京都の祭りのどっちがいいかという話になり、二人は祭り囃子や神輿
  の情景をそれぞれ言い合って譲らない。
  京者が祇園祭の囃子を「テン、テン、テンツク、テテツク、テンテンテン・・・
  ・・・」とやり、対抗して江戸っ子は「なんて間抜けな囃子だい。江戸は威勢
  がいいやい。テンテンテン、テンテンテンツクツ、ドーンドン、ド、ド、ドン、
  テンツクツ、テンツクツ・・・・・・」とやり返す。

(6)二人のお国自慢合戦はまだ続き、京者が
 「御所の砂利を握ってみなはれ、瘧が取れまんがな」と言うと、江戸っ子は、
 「それがどうした!? こっちだって皇居の砂利を握ってみろい・・・・・・」
 「どうなります?」
 「首が取れらぁ!」で、サゲ。
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この後に欲深い芸妓が加わる筋が、かつては一般的であったようだ。別名『およく』とも言う。
芸妓が加わってからの内容は次の通り。
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・大阪者のとりなしで何とか騒ぎも一段落し、しばらく経って、江戸っ子が
「芸妓を一人買ってみてえ」と言い出した。しかし、祭礼の真っ最中で茶屋に
残っている芸妓は、欲が深く、客の商売に応じて「あれが欲しい、それが欲
しい」と無心ばかりするので評判が悪い芸妓だけ。

・茶屋の女将が渋るのを、江戸っ子が「ねだっても何もやれないような商売人
ということにしよう」と一計を案じ、一同それはおもろいと賛成。やってきた
のは亀吉という芸妓。

・なかなかいい女だが、案の定、いきなり「お客はん商売は何どす?」ときた。
江戸っ子が「オレは死人を焼く商売だ!」と答えると、亀吉、「そうどすか。
おんぼうはんにご無心がおます」、それを聞いた江戸っ子が、「おんぼうに
無心とは何だ?」返すと、「私が死んだら、タダで焼いておくれやす」でサゲ。
------------------------------------------------------------------------

かつては八代目桂文治、別名「根岸の文治」が得意ネタにしていたらしい。江戸と上方と両方で活躍していたからこそ、この噺が生きたのだろう。この人の『夜櫻』を聞いたが、ノイズまじりの音源でも、その高い技量は察することができる。

『祇園祭』や『京見物』という別名もあるが、『祇園会』の名で残して欲しい。そのためにも現役の噺家さんに一人でも多く演じてもらいたい。春風亭一朝師匠も演じるので、一之輔もネタにしているらしい。ぜひ一之輔版を生で聞いてみたいと思う。

学生時代に京都にいたのに、実は一度もじっくり祇園祭など見たことがない。運動部に所属していたので、大会と大会の間にある合宿の時期にちょうどぶつかっていた。しかし、オフシーズンには京都の旅館でのアルバイトに精を出したことを思い出す。京都の旅館はアルバイトなしでは立ち行かない。主(ぬし)のような人も含め、いろんな人がアルバイトにもいたものだ。今年の一月、大学時代の恩師が亡くなったので、久しぶりに京都に行ったが、駅前や繁華街の街並はなんとも言えない変わり様。たった30年余りでも変貌は大きい。この噺の時代からは想像できない変化があるのだろうと思う。ぜひ、噺だけでも古き良き時代の物語を残して欲しいと願う次第である。
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by kogotokoubei | 2009-07-04 14:44 | 落語のネタ | Comments(0)
都内での打ち合わせが少し早く済んだおかげで、持参していた河合昌次さんの『江戸落語の舞台を歩く』のガイドで、日本橋・人形町周辺の落語散策ができた。「玄冶店跡」「人形町末広亭跡」「三光稲荷神社」「三光神道」を経由して「椙森神社」まで散策。初めて来た地域だが、また来たくなる一帯である。少しだけ拝見した「甘酒横丁」にある“つづら屋”さんなど、次の機会にじっくり拝見したい職人さんの世界もある。さて、「小網神社」に立ち寄ってから近くの会場へ。

演者とネタは次の通り。
-------------------------------
(開口一番 春風亭昇々  初天神)
三遊亭兼好  熊の皮
古今亭今輔  影武者
(仲入り)
春風亭百栄  化け物使い
三遊亭兼好  大山詣り
-------------------------------

トップバッターの兼好によると、この会は第二回目だが、初回は三人で一席づつだったようだ。今回から順番に誰か一人が二席ということで、今日は兼好が担当とのこと。「睦会」と同様のスタイルだが、演者は昨年真打になったばかりの三人。落語協会の百栄、芸術協会の今輔、そして圓楽一門の兼好という他流試合であることもユニークであり、会場周辺の魅力とともに来たかった落語会である。ほぼ200席の会場は約六分の入り。なかなかご通家のお客様が多かったように思う。

兼好『熊の皮』(19:00-19:20)
この人の魅力は何と言っても高いトーンの声を基調にしたテンポが良い語り口だと思う。こういう噺でも甚兵衛さんと女房の会話を明るくメリハリをつけてリズミカルに進めながら、笑いのポイントははずさないのが流石だ。もともと噺家によって演出やサゲがいろいろあり、かつてはきわどい演出が中心となったため、戦争中には「禁演落語」に入ったネタだが、兼好は、いたって健康的な筋書きで、分かりやすいサゲ。今の時代はこのサゲがふさわしいのかもしれない。

今輔(19:21-19:40)
初めてで期待していた。「アタック25」出演の思い出話から始まるクイズ番組ネタのマクラも良かったし、この新作の本編もなかなか楽しめた。非常に、存在感のある個性的な新作派であることは間違いないだろう。古典もぜひ聞きたい、何とも言えないフラを感じた。

百栄(19:55-20:24)
ちょっと体調が悪かったのだろうか。やや噺の流れを止めるレベルで噛んでいた。古典は、兼好を意識しすぎて力んだかもしれない。百栄らしいクスグリもあったが、全体的には少し残念な出来。

兼好『大山詣り』(20:25-20:55)
この人がなぜ好楽師匠を選んだかは分からないが、師匠との共通点は「丁寧さ」と「粋」への意識なのだろう。しかし、目標とするのは大々師匠(?)の圓生であり、圓生を芸の手本とした志ん朝なのではないかと、勝手に思っている。そういった手本の上にこの人なりの噺の解釈、そしてクスグリが加えられて兼好落語となっているように思うのだ。だから、噺の本筋は伝統をしっかり踏まえながらも、熊が喧嘩の発端となる無理やり混んだ風呂に入る際の「ジリジリ」という演出や、宿の女中と女将さんが頭を剃られた熊を見た時の「ターッ」という叫び声などの彼なりの工夫で、“今”を演出する。もちろん、“謳うような語り口”は「軽い」という批判もあるだろうが、志ん朝だって、そう言われた時期もあったはず。今後に期待させるいい噺を聞かせてもらった。


この顔ぶれは、なかなかおもしろい。今日は百栄が今ひとつだったと思うが、彼の潜在力は相当なものと思っている。今輔にはなんともいえない魅力があるし、まだまだ化けそうだ。兼好は好二郎時代から光るものがあったが、今後本格派として限りない発展性を予感させる実力とセンスがある。ぜひ、今後も続けて欲しい同期三人会だ。
そして、所属団体の壁を越えたこのような落語会が今後ますます増えていくことを期待する。
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by kogotokoubei | 2009-07-03 23:12 | 落語会 | Comments(0)

匿名性の功罪

このブログを見ていただいている人の中には、すでにお気づきの方もいらっしゃるのだろうが、私はAmazonで落語関係本中心にブックレビューを書いている。(ニックネームは幸兵衛ではない。)
今日、久しぶりに自分のレビューの状況を見て驚いた。たった4~5日で、ある自分のレビューの「参考にならない」という数が30ほど増えている。通常ではありえない数だ。ここまでカミングアウト(?)したのだから、そのレビューの対象も明らかにしよう。昨年発行間もない頃に読んだ立川談春の『赤めだか』である。通勤電車の中で読了し、ついつい涙が出たことを今でも思い出す。もちろん星5つで評価した。しかし、なぜ今になって、あえて「No」という意思表示を一日平均5~6件も受けたのか・・・・・・。これは普通ではない。高い評価の定まった本であり、ここ数カ月は、私のレビューへの投票は2~3週間に一つあるかどうかという状況だったのだから。そう思って最近書かれた他のレビューを見ていると、以前にはなかったネガティブなレビューが並んでいた。加えて、そのレビューへの支持が、短期間では考えられないレベルで多い。一週間で20も30も「参考になった」という投票があるのは、よほど話題性のある新刊の場合くらいである。非常に不思議だ。また、そのレビューを読むと、「この本は楽しめた。しかし・・・・・・」と、本そのもののことではなく、この本を高く評価することが過剰な「談春礼賛」だと短絡している。「本」は本であり、「高座」は高座、「人」は人である、という当り前のことが分からないレビューが、なぜそんなに支持されているのか?

あえて勘ぐるなら、何らかの「談春憎し」といった意図を持った人が『赤めだか』憎し的な動きにつながったのだろう。そして、ポジティブなレビューの中で「参考になった」という支持の多いものに、意図的にネガティブな評を入れているように察する。技術的にどんな手法を使っているか分からないが、私以外の高い評価のレビューにも同様の現象が見られるのだから、尋常ではないと思う。もちろん私は談春の身内ではないし、出版社の回し者でもない。良い本と思うから良いと言うのであって、それは本という作品への評価ではあるが、著者を「礼賛」するものではない。

しかし、私のレビューへの「賛成票」とともに「反対票」の数の多さは、これから初めて読もうとする人への影響もあるだろう。また、何らかの作為的な、あるいは不自然な動きに自分のレビューが曝されるのは許せない。自分のレビューを本日削除した。
もちろん『赤めだか』が素晴らしい本であるという思いは今でも変わらない。

なぜ、一年も前のブックレレビューに、いきなり「No」「No」「No」という意思表示をされなくてはならないのか・・・・・・。匿名であることは、メリットもたくさんある。匿名だからブックレビューも書きやすいし、このブログも書いていると言える。しかし、今日は匿名であることの、特にネットでの危険性を、身にしみて感じた。よく「ブログ炎上」という表現があるが、これはたぶんに「便乗派」の付和雷同がもたらしているのだと思う。“みんなで渡れば怖くない”というギャグは笑えるかもしれないが、特定のポジティブ、あるいはネガティブなキャンペーンをするのに「匿名性」は“みんなで渡りやすい”、格好の隠れ蓑ともなり、この現象は笑って見過ごせない恐さがある。「匿名」であることは、群がりすごいエネルギーで流れを突き動かすこともあるが、反面大きな危険性も持つ。2チャンネルも氏名を公表するのなら成立しない。身をもって匿名性の功罪を再認識したのだった。

しかし、これからも「良いものは良い」「悪いものは悪い」と、幸兵衛は書く。もし、何らかの作為的な意図でこういうことをする人がいるのなら、私はその人を心底かわいそうに思う。また、やたらネガティブなレビューばかり投稿している人にも、憐れみを感じる。私のレビューの基本姿勢は、ほんの一部の例外を除き、「ぜひこの本を他の人にも読んでもらいたい」というポジティブなお奨め本紹介である。お奨めできない本は、レビューを書かなければいいのだ。どうも、世の中には良い面を発見することがヘタで、悪い面ばかり見えてしまうかわいそうな人もいるようだ。小言は言うが、幸兵衛は“良いもの”がわかるつもりだから、その目指すレベルと現状とのギャップに小言を言っているのである。最後はちょっと偉そうだが、自分が受けたショックから立ち直るには、これ位は許していただこう。
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by kogotokoubei | 2009-07-01 23:50 | 幸兵衛の独り言 | Comments(2)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛