噺の話

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カテゴリ:お笑い・演芸( 5 )

 寄席や落語会でのマクラで、人にもよるが、鋭い権力批判が、落語家らしい装飾もされて披露されるのを聴くのも楽しみの一つだ。
 
 もちろん、ほとんどが「テレビじゃ、無理だろうなぁ」と思われる内容で、そういうことも、生の寄席、落語会での一期一会の魅力なのだと思う。

 しかし、ふと、思うこともある。

 以前は、テレビでだってそういう批判精神に富んだ発言を、もっと聴くことができたのではないか、ということ。

 そんなことを考えていたら、興味深い記事を発見した。

 テレビに出るお笑い芸人たち、そして、メディアにおける権力批判の日米の違いに関し「LITERA」に載っていたのだ。
LITERAの該当記事
 主に町山智浩の指摘が中心。

 冒頭から、まず引用。

トランプ問題で鋭い論評連発の町山智浩がアメリカと比較し「日本のお笑い芸人が権力批判できない理由」を喝破
2017年8月27日

 シャーロッツビル事件をめぐる「どっちも悪い」発言で、アメリカではトランプ大統領への批判がかつてないくらい高まっているが、日本のメディアではむしろ、トランプ的な「どっちもどっち」論が幅を利かせている印象がある。

 ネットでは事件の発端となったリー将軍像の撤去をめぐって、ネトウヨや「中立厨」を中心にリー将軍擁護論が盛り上がり、テレビでも「白人至上主義も忌まわしいが、リベラル至上主義も問題」などというトンデモ発言をした有本香はじめ、複数のコメンテーター、番組がどっもどっち的な解説を垂れ流していた。

 そんななか、こうしたトランプ擁護論を徹底論破していたのが、現在アメリカ在住の映画評論家・町山智浩氏だ。町山氏はツイッターで、リー将軍像が白人至上主義という差別思想と不可分であること、南北戦争で「南部が自治権を守ろうとしただけ」などというのは戦争終結後の南部のプロパガンダであることを指摘。こんな鋭い分析まで披露していた。

〈南部の正当化の仕組みは日本における戦争の正当化のそれと非常によく似ていると思います。南部帝国を擁護する日本人には、意識的か無意識か、大日本帝国を投影している人が多いのではないでしょうか。〉

 まさに博覧強記の町山氏らしい鮮やかな切り返しだが、その町山氏が今度は、トランプを徹底批判するアメリカのニュースショーと比較する形で、権力批判ができない日本のメディア状況やお笑い芸人の問題に踏み込む発言をして、話題になっている。

 発言があったのは、8月22日放送の町山氏のレギュラー番組『たまむすび』(TBSラジオ)でのこと。町山氏はこの日、シャーロッツビル事件以後も予定されている右翼の大集会やトランプ大統領の動向について解説したあと、「いまアメリカのレイトショー、夜のトークショーの人たちは、もうずーっと、この事件があってからもそうなんですけども、トランプギャグでものすごく面白いことになっているんですよ」と切り出した。

アメリカでは毎晩、コメディアンたちがトランプをネタに

 そして、ABCテレビ『ジミー・キンメル・ライブ!』司会者のジミー・キンメルやCBS『ザ・レイト・ショー・ウィズ・スティーヴン・コルベア』で大人気を博しているスティーヴン・コルベアが毎日のように、トランプに対して苛烈なジョークやツッコミを浴びせていることを紹介した。

 たとえば、キンメルが「ドナルド・トランプをアメリカの王様にして、政治から手を引かせよう」という皮肉たっぷりの提案をしたことや、トランプが「両方とも悪い」と言ったことに対して、コルベアが「それは違うだろ、だって、あっちはナチだよ、こっち側はそのナチのカウンターだよ、ナチと戦う人たちだよ」「アメリカはナチと戦ったんじゃないの?」と厳しく突っ込んだことなど。

 しかも、町山氏が強調したのが、これらトランプ批判の多くがアメリカの「お笑いトークショー」を舞台に、コメディアンの口から発せられていることだった。

「アメリカのすごいところは、とにかくいちばん視聴率を取っていていちばん人気のあるコメディアンは政治ネタをやるっていうことなんですよ」
 芸人やメディアにおける「言論の自由」や「表現の自由」について、何とも日米の差は大きい、と感じさせる。

 アメリカ在住の映画評論家である町山智浩に関しては、昨年7月に、ギャンブル依存症に関する記事を含め“コメンテーター”なるものについて書いた記事で、彼の言葉を引用したことがある。
2016年7月1日のブログ
 また、2014年7月には、アメリカ大統領選の背景に見えるアメリカに関し、彼の著書を引用した。
 あの時紹介したウォールストリートジャーナルの共和党予定候補に関する記事には、トランプの名は、出てこなかったなぁ。
2014年7月17日のブログ

 LITERAの記事はこの後、茂木健一郎が「空気を読んでいるお笑いばかりで権力に対して批評の目を向けたお笑いがない」」とツィートしたら“炎上”し、爆笑問題の太田や松本人志の反論にも遭って、結局茂木が松本に謝罪した、という話を紹介した後で、次のように続く。

 どうやら町山氏もこの本質が隠されしまった展開に違和感を抱いていたらしい。茂木氏に対して、「“日本のお笑いはだからダメだ”じゃなくて“なぜ、こういう政治的なお笑いをやる人がテレビに出ないのかな?”っていう話にすればよかった」と苦言を呈する一方、博多大吉の発言を引用するかたちで、日本のお笑い芸人が権力批判できない理由について、改めて言及したのだ。

「その時に(茂木氏に)反論した中で博多大吉さんが一番正直に言ったんだと思うんですね。博多さんが」
「それは『安倍総理を批判したらリスクが大きい』って言ったんですね。彼は(笑)。それが一番正直だなと思ったんですけど(笑)。だって、そのザ・ニュースペーパーっていうグループは森友事件を茶化すコントをテレビのために収録したら放送されなかったんですからね」
「だから『リスクが大きい』っていうのはやっぱりかなりストレートなものなのと、あとやっぱりスポンサーとかでコマーシャルに出れなくなっちゃうんですよね」

 そう、町山氏は日本のお笑いが権力批判できないのは、太田光の言うような「政治ネタをやってるヤツはいるけど、笑えない、浅い」とかそういうことではなく、芸人がつぶされるリスクを感じているからだ、と指摘したのである。

 爆笑問題の太田などは、あるタブー視されているキーワードを持ち出すが、その問題に本質的な批判を加えているわけではない。
 彼が、権力批判をしていると目されているなら、NHKを含めレギュラー番組を持つことはできないだろう。

 リスクは、確かにあるだろう。
 「あいつは、何を言い出すか分からない。はずそう」というメディア側の自主規制は、間違いなく存在するに違いない。
 
 さて、私が好きなザ・ニュースペーパーの、放送されなかった芸とは。
 政治風刺を入れ込んだコントを得意とするザ・ニュースペーパーのリーダーである渡部又兵衛は、2017年5月14日付しんぶん赤旗日曜版に掲載されたインタビューでこんな裏事情を暴露している。

「僕は最近コントで「カゴイケ前理事長」を演じています。そう、森友学園問題の。こんなコントもしました。
 アベシンゾウ首相(舞台袖から登場し)「どうも、カゴイケさん。お久しぶりです」
 カゴイケ「あ、首相。ごぶさたです。…『お久しぶり』って、やっぱり僕ら、知り合いですよね?」
 それから二人は「お互い、奥さんには苦労しますね」と嘆きあうといった内容です。
 見たテレビ局の人が「面白い!」といってコントを放送することになりました。収録までしたのに放送当日、「すみません。放送は見送りです」と電話がきました」

 これ以上の詳細な裏事情は詳らかにされていないが、おそらく、現場スタッフのなかで「是非放送したい」とされた内容が、放送前の上層部チェックで「自主規制」および「忖度」の対象となったのだろう。
 このネタ、ぜひ見たいじゃないか^^
 寄席でなんとか遭遇したいものだ。

 結局、テレビに出る(出たい?)お笑い芸人が自主規制(忖度?)するのは、次の鴻上尚史が指摘するように、メディア側の問題だ。

 劇作家の鴻上尚史氏は「SPA!」(扶桑社)17年6月20日号掲載の連載エッセイ「ドン・キホーテのピアス」のなかでこのように書いている。

〈地上波では、現在、まったく政治ネタの笑いがありません。かつてはありました。昭和のずいぶん前、テレビがまだいい加減さを持っていた頃、毎日、時事ネタを笑いにしていました。
 でも、今はありません。それは、お笑い芸人さんの責任ではありません。テレビが許さない。それだけの理由です〉

 この後、ウーマンラッシュアワーの村本大輔が、例外的に権力批判をしていると紹介されている。
 どこまで彼の批判精神が本物なのかは、しばらく様子を見る必要があるだろう。
 本当に、体を張っているのか、どうか。
 
 アメリカだって、かつては、なかなか芸人が権力批判ができにくい時代もあった。
 アンダーグラウンドでの芸だって、あのレニー・ブルースは、何度も逮捕されている。
 
 彼が舞台でこう言ったのは有名だ。

 “I'm not a comedian. I'm lenny bruce!”

 たしかに、仕事を失うリスクを考えると、なかなか、権力批判を口にすることはできないかもしれない。
 しかし、権力への不満を抱きながらも飲み込んでしまう芸人や、逆に権力へのヨイショを続ける芸人は、レニーの言葉を踏まえると、「自分自身が、存在しない」ということになりはしないだろうか。
 アメリカのメディアの「自由」を尊ぶ姿勢と、コメディアンの権力批判で笑いたい聴き手の存在は、単純に国民性の違い、と片付けられないような気がしてならない。

 自由に発言できにくい社会は、やはり、おかしいだろう。


 とはいえ、今、切れ味鋭く、洒落の聴いた警句は、寄席や落語会で楽しむしかないのだろうなぁ。

 むかし家今松、桂文我などの高座は、そういったマクラも大きな魅力なのである。

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by kogotokoubei | 2017-08-28 23:21 | お笑い・演芸 | Comments(2)
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佐藤義和『バラエティ番組がなくなる日』

 昨今相次いで終了したつまらない“ネタ見せ番組”や『M-1グランプリ』について何度か書いてきたが、かつて『THE MANZAI』や『らくごin六本木』『オレたちひょうきん族』、『笑っていいとも』などのディレクターやプロデューサーとして、新しいお笑い番組の創造に取り組んできた創り手の方が、大いに共鳴できる内容の本を書いてくれた。サブタイトルには、“カリスマプロデューサーのお笑い「革命」論”、とある。次のような章の構成。

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序章  危機に瀕するバラエティ番組
第1章 バラエティ番組の進化
第2章 お笑い芸人の習性
第3章 バラエティ番組をダメにしたテレビマンたち
第4章 バラエティ番組はどこへ行けばよいのか?
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 著者は佐藤義和さん。フジテレビの制作会社フジポニーを経て1980年にフジテレビに入社。演芸制作担当部長などを歴任され、2005年にフジテレビを退社されて、現在フリープロデューサーという方である。「ひょうきんディレクターズ」5名の一員だった方でもある。「夢で逢えたら」をとっかかりにダウンタウンやウッチャンナンチャンを表舞台に引き上げ、SMAPをバラエティ番組に登場させた方でもあるらしい。

 この本は至るところ「うん、うん」頷ける部分があり、ついつい引き込まれて読んでしまった。たとえば、次のような指摘。

 ネタ見せ番組に、才能を感じさせる新しいコンビなどが出てくると、彼らの将来に期待をしたくなるだろう。しかし彼らが、ひな壇に座って、大きな笑いをとることはない。お笑いタレントそのものには可能性を感じたとしても、新しい笑いを生み出してくれそうな可能性を感じさせるバラエティ番組は皆無である。お笑いタレントたちの才能はまったく生かされていない。(序章)


 「ごもっとも!」、である。この“ひな壇形式”のバラエティについては、次のような制作者達の問題を指摘している。

 たとえば、6人の出演者を選ぶという場合、その人選はひとりひとり入念に行われなければならない。それが10人であっても同じことである。しかし最近のバラエティ番組は、とりあえず、そこそこのレベルのタレントを集めておけばなんとかなるといった安直さが目立つ。その典型例がひな壇形式のバラエティ番組である。(第3章)


 そして、ご自分の経験に基づく鋭い指摘につながる。

 30年前の『THE MANZAI』において演じている漫才師たちを、それ以前に浅草や花月の舞台で見た人がいても、テレビの画面で演じている漫才師と同一人物とは思わなかっただろう。それほどに、『THE MANZAI』は、出演者たちを化けさせることに成功した。私自身が、彼らの変貌ぶりに驚いたのだ。
 だからバラエティ番組において、出演者選びを安直に行うべきではないし、使い捨てにすることを前提にタレントを使うべきではない。ひと目見ただけで、素人でも与えられた役割がわかってしまうような予定調和的なバラエティ番組は、視聴者にばかにされるのがおちである。(第3章)


 現在のバラエティ番組なるものが、“タレントの使い捨て”であり、視聴者に“ひな壇タレント”の役割を見透かされる予定調和の番組であるからこそ、この小言なのだ。

 この本は、主婦の友新書の「なくなる日」シリーズの新刊として最近発行されたばかり。前半は、著者佐藤さんのフジポニー入社のいきさつや、入社後のさまざまな番組づくりにおける苦労話などが時系列的に綴られている。しかし、決して鼻持ちならない自慢話ではなく、フジテレビがフジポニーなどの制作子会社を吸収する際、『THE MANZAI』の成功がなかったらリストラされていただろう、と非エリートでだった自分のことを率直に語っている。ビートたけしや明石家さんま、タモリ達のデビュー当時のエピソードなども興味深く読める。もちろん、著者がディレクター時代に上司だった横澤彪プロデューサーの思い出も語られている。

 『夢で逢いましょう』や『シャボン玉ホリデー』に刺激を受けてテレビ番組制作者の道を目指し、1980年代以降の傑作バラエティ番組をいくつも手がけた佐藤さんが、本書の最終章「バラエティ番組はどこへ行けばよいのか?」で、次のように書いていることが、落語ファンにはうれしいじゃないか。「落語がバラエティ番組を救う」から、中略しても少し長くなるが引用する。

 私は、日本で新しい笑いをつくっていくためには、まず落語の魅力を知る必要があると考え、後輩たちにも常にそのことを伝えてきた。団塊の世代以上の日本人は、多かれ少なかれ落語の洗礼は受けている。子どものころ、テレビではけっこう寄席中継をやっていた。バラエティ番組と比べれば、ずいぶんと地味な雰囲気ではるが、期待もせずに見ていると、思わず引き込まれていく経験をみな何度かはしている。
 しかし、現在、落語は意識をしなければ、なかなか触れるチャンスはない。寄席中継はあるにはあるが、放送時間は、視聴率が期待できない時間帯だからである。
 私は、落語の魅力を多くの人に知ってもらいたい思いで、漫才ブームが渦巻く1981年4月に、『らくごin六本木』という番組を深夜枠で立ち上げた。
 (中 略)
 江戸時代後期から明治時代に、その原型が確立された落語は、世界的に見てトップといえる話芸であり、そのユーモアのレベルはきわめて高いと私は確信している。社会風刺もあり、ニュアンスの機微を描く洗練されたコメディもあり、荒唐無稽ともいえるアバンギャルドな設定の上のナンセンスジョークもある。一切セットのないなかで、たったひとりでさまざまなキャラクターを演じ分ける技能は、他の国のコメディアンにはまねはできない。
 私はここで「みなさん落語を鑑賞しましょう」というつもりはない。ただ、落語的な笑いの世界を軽視しないでほしいといいたい。それが日本人の笑いを堕落から救ってくれると考えるからである。お笑いバラエティが破たんする前に、制作者もお笑い好きの視聴者も、落語に目配せしながら、笑いとは何かを考えてもらえればいいと思う。
 そして、私自身も、これからの創作活動のなかで、落語との付き合い方を模索している。


 この最終章には、落語以外に次のようなキーワードが並ぶ。
  ◇見えていない中高年へのアプローチ
  ◇社会を風刺しなければお笑いではない
  ◇時代劇の可能性
  ◇時代のリズムをつかむ
  ◇ジャーナリズムの視点を取り戻す

 佐藤さんがフジポニー入社時の指導員的な存在でフジテレビ開局に文化放送から参画した元フジテレビプロデューサー常田久仁子さんが昨年11月に亡くなり、先日横澤彪さんも・・・・・・。テレビの作り手の世界に向けて正しい小言を発することのできる人がどんどん少なくなっていく中で、団塊世代の佐藤さんが鳴らす警鐘は貴重だろう。
 佐藤さんが過去に制作者として携った番組や、その番組の出演者が輝いていた頃に興味があり、昨今のバラエティ番組に憤りを感じる方にとっては、結構カタルシス効果の大きい本としてもお奨めします。
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by kogotokoubei | 2011-01-19 15:22 | お笑い・演芸 | Comments(8)
先日、“ネタ見せ”番組の終了について書いた際に、“トーク”ができる芸人、爆笑問題の番組と紹介したが、今週21日の対談相手が、1980年代に数多くの歴史に残るお笑い番組をつくった横澤彪さん。これは見ないわけにはいかない。しかし、当日は見ることができず、録画して今日になってようやく見たところだ。
 その概要はNHKのホームページに、この番組の“前回の放送”として紹介されている。
NHKのHP 爆笑問題のニッポンの教養 -横澤彪-
 横澤さんは昭和12(1937)年12月15日の生まれなので72歳。古今亭志ん朝師匠の一つ年上、ということになる。
*なぜかこのへんの年齢の方は、志ん朝師匠を基準に上か下かと覚えるクセがある・・・・・・。
 バラエティ番組、というキーワードに関する部分からトレースしてみる。

田中:横澤さんが80年前半ぐらいに変えた、いわゆるバラエティ番組、その
    言い方すらあのへんから始まっている・・・
横澤:バラエティなんてないもん、その概念がね、ないない
田中:そこで変わって、今でも結局その流れのまんまですよね
横澤:そうですね
太田:どう思います
横澤:決していいほうには行ってないと思いますよ
太田:じゃあ、どういう番組をやればいいんですか
横澤:やっぱりね、これからバラエティとかっていう枠を崩すことでしょうね
(ベルリンの壁を崩す映像に「枠を崩せ」のテロップ)
太田:報道、情報・・・
横澤:なんでも、なんでもとにかく進出していくのが一番いいと思いますね。
   だからニュースキャスターなさいよ。できますよ
太田:できますか?
横澤:それだけ口跡がはっきりしていてね、しかもちゃんと物事が
   わかるっていうね・・・
太田:からかってんじゃないの
横澤:ちがう、ちがう
田中:毎日謝罪してますよ
太田:それこそ青筋立てますよ
横澤:謝罪してるのが一番おもしろい


 この後、タモリという芸人の“受け”の素晴らしさを横澤さんが語った後の会話にキーワードとなる「勘」が登場する。

太田:絶好調の時に、ねぇ、漫才ブームの人達からタモリさんに切り替える
    勇気・・・落ちるかもしれない・・・
横澤:落ちましたよ。でもね、今、変え方がちょっと弱いというか、みんな
   ビクビクしておとなしいから、今、必要なのは、コレ日本の教養って
   言うけどね、教養じゃなくてね、今、大事なのは勘です、勘。自分の
   勘です。パッと見てコイツいい奴か悪い奴かっていう、一発でしとめ
   る、そういう鋭い眼光ですよね、匂いっていうんですか、なんていう
   んでしょうねぇ
田中:・・・空気感のような
横澤:空気感、空気感!おっしゃる通り


 ここで、「爆笑問題のニッポンの勘」とテロップが出る。この後の会話は上述のNHKのHPで、「今回の対戦内容」として紹介されているので引用する。

横澤:私は観察するんだ。スタジオで、ひとり。「今日は西川のりお」って
    いったらね、西川のりおをずっと見るの、一日中。
田中:オバQやってるのをずっと。
太田:ひょうきん族の現場に横澤さんが来るとみんなちょっと緊張して
   嫌がったっていう話はよく聞きます。
横澤:何も喋らないんだけどね、見てるんです。座ってこうやってじっと。
   すると、その人の今の置かれた・・・「ああ、きっと夫婦喧嘩して
   いるんじゃないか」とか、色々わかって来るんです。
太田:でもその勘、鈍ってないですか、今? 自信あります?
横澤:勘はね、鈍らせないように尖らせてますよ。


 この後に、その“勘”のルーツとして、横澤さんは、小さい時から「少数派」で「いじめられっ子」だったと述懐する。その話に太田も自分もそうだったと呼応。画面には「少数派だからこそ見えるものがある」というテロップが出る。
 あの“ネタ見せ”“ショートコントたれ流し”番組を他局に追随して作っていたテレビ界の人間に、この「少数派だからこそ見える」という発想はない。

 この後の会話には、横澤さんだから言えるのだろう「視聴率は忘れたほうがいい」という言葉もある。“ひょうきん族”は、あのお化け番組“全員集合”の裏番組だった。結果として主客は逆転し、“全員集合“に引導を渡すことになったわけだが、当時はさぞ「少数派」としての「勘」をめぐらしながらも、相当もがき苦しんだことだろう。
 その後に登場する、「気持ちよくだます」「真面目にウソをつく」などの言葉も、今のお笑いテレビ番組界の人たちは肝に銘じて欲しいキーワードだ。

 対談は横澤邸で収録されており、テーブルの固定カメラも含むアングルで三人の対談が、すぐそこに彼らがいるような感覚で捉えられている。

 紹介した部分は、ほんの一部。かいがいしく邪魔にならないよう接待する奥さんの姿も少し映っている。何より、紹介した会話はあくまで文字にしたらああなるだけで、会話は生きた言葉のキャッチボールであり、声の大きさや表情などを含むニュアンスは、実際の映像を見なけりゃわからない。。
 見逃した方は、まだチャンスはあるよ。HPに次のように再放送日時が書いてあった。
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9月27日(月)午後4:05~<総合>
28日(火)午後4:00~<BS2>で再放送予定です。
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 横澤さんも古希を越えられて、あの当時の切れ味のようなものは薄れて、今日のお笑い番組を批評する口調もソフトだし、爆笑問題へのヨイショも若干目立った。まぁ、それはしょうがないだろう。しかし、あの“神様”役のブッチー武者本人が登場して「ばくもん懺悔室」をする際に、今回は太田よりもシャープさが目立った田中が手を合わせながら、「この人テレビ何年やってんだかわかんねぇけど、こんなに放送できねぇこと言って・・・・・」ともらす。その「放送できない」部分こそ見たかった!
 ということは、一番おもしろい場面は、もはやテレビでは放送できない、ってことか・・・・・・。テレビには期待せず寄席か落語会に行け、ということなのかもしれないなぁ。そして、来週は田中優子さんが相手で、江戸や落語がテーマになりそうだ。これも見逃せない。
NHK HPの次回放送予告
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by kogotokoubei | 2010-09-23 09:49 | お笑い・演芸 | Comments(2)
昨日9月14日のMSN産経のニュースで、若手お笑いタレントの“ショートコント”や“ネタ見せ”ばかりをたれ流すだけのテレビ番組が相次いで終了していることに関する記事があった。少し引用する。
MSN産経ニュースの9月14日の記事

「エンタの神様」(日本テレビ系)や「爆笑レッドカーペット」(フジテレビ系)など、ここ10年ほどブームだった若手芸人による“ネタ見せ”を中心としたレギュラー番組が、今年に入って次々と終了している。若手芸人の登竜門が消えることについて、お笑いの関係者からは「時代はネタよりトーク重視に移っている」「今後は“一発芸人”ではなく、実力ある芸人だけが残るだろう」などの声が聞かれる。


 こういった番組が終了するのは当たり前だろうし、実力者だけが残るのはどの世界でも同じ。気になったのは「トーク」の文字。この記事の中ほどにも次のように書かれている。

民放バラエティーに携わる放送作家は、ネタ見せ番組縮小の一因を「時代はネタよりトークだから」と説明する。「コストを抑えて視聴率も取れるのは、トークやクイズを主体とした番組。そこで必要とされているのは、じっくり練ったネタより、素早く気の利いたコメントができる頭の回転の早さだ」


 “ネタよりトーク”という言葉に違和感を覚える。視聴率優先で、かつ放送作家の仕事としては、「ネタよりトーク」なのかもしれないが、演芸・芸能というコンテンツで考えたら、「見るに耐えないショートコントより、鑑賞に耐える芸」ということじゃなかろうか。もちろん、視聴“率”ではなく、視聴“質”ということでの話だ。
 番組がなぜ終了するのか、よく考えて欲しい。どのテレビ局も、ほぼ同じ顔ぶれのギャラの安い若手お笑いタレントによる、ほぼ同じようなショートコントや瞬間芸を、“これでもか”と言わんばかりに揃いも揃って流していたから、飽きられたのだ。最初は視聴率も良かっただろうが、熱しやすく冷めやすい若者を中心とした視聴者である。仲間うちの会話で、「超~飽きた!」とか「あの二人うざ~い!」というコンセンサス(?)がとれたら、こういった番組が獲得していた彼らの時間は、携帯かゲームの時間に取って代わる。もちろん、本当におもしろい“芸”は、同じネタでも何度も笑えることは、寄席に行けばわかる。寄席で15分もたせる芸があるかどうか、そこが漫才やコントの芸の一つの指標となるはず。テレビに大勢出ていたお笑いタレント(お笑い芸人、ではない)の大半は、寄席で五分も持たないだろう。「レッドカーペット」での一分ネタを三本も寄席でやったら、私なら寝るか席を立つ。

 古い話になるが一昨年の年末に、このような番組について次のように書いた。2008年12月29日のブログ

多くの若い芸人さん達が切磋琢磨すること自体は結構。しかし、それぞれの漫才やコントの芸人さんの持ち味が十分にわかろうはずのない「瞬間芸」や「一発ギャグ」といわれるものばかりを、どこのチャンネルでも放送しすぎる傾向に嫌気がさすのだ。「嫌なら見なきゃいいだろう」という声も聞こえるが、広告費を商品購入という形で支払っているのは、我々視聴者である。
 今のテレビのお笑い番組、いや「お笑いを中心とするバラエティ番組」は、正直言って見る気がしない。別に落語を放送しろ、と言っているのではない。漫才にしろコントにしろ、優れた芸は見たいと思うし、理屈ぬきで笑いたいとも思う。しかし、テレビの、それもゴールデンタイムで「瞬間芸のカタログ」とでもいうものをたれ流しするだけの番組には魅力を感じない。


 そして、先日の谷啓さんの残念な訃報に接した後で昨日この記事を見て、あらためて一昨年書いたのと同じような思いを抱いた。恐縮ながら、自分のブログを再録。

そんなことを考えていると、最近は良質のお笑いのバラエティがないから、同じような番組ばかりになるのかと思い当たった。古くは「シャボン玉ホリデー」「ゲバゲバ90分」少し前なら「花王名人劇場」や「オレたちひょうきん族」など。プロデューサー他の作り手の志にしても、芸人の意気込みにしても、そして「瞬間」ギャグのおもしろさにしても、今日とは雲泥の差だった。 さて現在のお笑いバラエティは・・・というと、どのチャンネルも同じような顔ぶれの芸人達が、ほとんど「素」のままで楽屋話をするだけの番組や、ある一部の人気者とその取り巻きたちが学芸会レベルの他愛ない、そして笑えないコントでお茶を濁すような番組しかないのではないか。その人気者たちもかつてデビュー当時は光るものがあったはずだが、昨今の過剰露出の結果、彼ら自身も構成作家たちも企画が枯渇し、そして若くして゛大御所゛としての傲慢さだけが目立ってくる。


 「ネタからトーク」という言葉で危惧するのは、このお笑いタレントの“楽屋話”の延長線上にある“トーク番組”が増えるのではないか、ということ。そして、その“トーク番組”の司会や出演者は、また同じような顔ぶれになるのではないか、ということ。そうなると、ゴールデンタイムは、「漢字検定」などを素材にしたどれも同じようなクイズ番組と、一部の“トーク”のできるタレントによる“お笑いトーク番組”で大半が占められそうだ。

 “瞬間芸に頼る瞬間的な高視聴率”は、長続きしなかった。しかし、その後は「ネタからトーク」ではなく「悪いネタから良いネタ」という発想はないものだろうか。BSでもいいので、コアな視聴者による“長期安定した視聴率”の演芸・芸能番組が欲しいものだ。

 一時楽しませてもらったテレビ朝日の「落語者」は復活しそうにない。BSでの再放送も今夜の玉の輔、来週の歌武蔵、そして再来週の菊志んで終了。BS朝日 落語者
 もちろん、落語そのものではなくて結構。落語は生が一番だからね。テレビというメディアを生かした第二の「シャボン玉ホリデー」「オレたちひょうきん族」と言える番組が欲しいものだ。
 決して無理なことを言っているつもりはない。今のところ、“平成のお笑い番組”として歴史に名を残すと思うのが、NHKの「サラリーマンNEO」。そして、“トークができる芸人”の筆頭と私が思う“爆笑問題”の見ごたえのあるトーク番組「爆笑問題のニッポンの教養」を放送しているのも、NHKだ。民放も頑張って欲しい、と私はエールを送っているのだ。
 世の中、少しは景気にも明るさが見えてきたように思う。腹の据わったスポンサーが視聴率に一喜一憂しないで、センスと骨のあるプロデューサーや構成作家とプロジェクトを組み、歴史に残る番組を作るような動きがあってもいいと思う。そもそも、“視聴率”という指標が、今日のように地上デジタルにBSやCSもある中での視聴実態を計るモノサシとはいえないだろう。いっそ、とことん口うるさい限定的な視聴者を意識した、“質”にこだわる「お笑い番組」を作って欲しいものだ。
 いずれにしても、今後増えるのであろう“トーク番組”が私の危惧する通りの内容ならば、そう遠くないうちに、“雨後の筍のように始まったお笑いトーク番組が次々に放送終了”というニュースを目にするはずである。
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by kogotokoubei | 2010-09-15 13:29 | お笑い・演芸 | Comments(3)
こんなことを書くつもりはなかったのだが、公共の電波を使った横暴が目に余るので書く。あまりにも「瞬間芸」「一発ギャグ」中心の、個々の持ち時間の短すぎるお笑いの番組が多すぎる。
 多くの若い芸人さん達が切磋琢磨すること自体は結構。しかし、それぞれの漫才やコントの芸人さんの持ち味が十分にわかろうはずのない「瞬間芸」や「一発ギャグ」といわれるものばかりを、どこのチャンネルでも放送しすぎる傾向に嫌気がさすのだ。「嫌なら見なきゃいいだろう」という声も聞こえるが、広告費を商品購入という形で支払っているのは、我々視聴者である。
 今のテレビのお笑い番組、いや「お笑いを中心とするバラエティ番組」は、正直言って見る気がしない。別に落語を放送しろ、と言っているのではない。漫才にしろコントにしろ、優れた芸は見たいと思うし、理屈ぬきで笑いたいとも思う。しかし、テレビの、それもゴールデンタイムで「瞬間芸のカタログ」とでもいうものをたれ流しするだけの番組には魅力を感じない。
 テレビ局側の理由はわかる。制作費は安くあがるし、そこそこに視聴率もとれるのだろう。しかし、そういう理由で作られた番組ばかりではもっとお笑いの「芸」を楽しみたいと思っている視聴者には迷惑だ。民放こそ、もっと良質の「お笑い・演芸」番組を編成して欲しいと思うのだが、現状ではNHKにはるかに劣っている。地上波での視聴率競争から開放される可能性のあるBSや地デジの普及は「お笑い・演芸」ファンにも期待をもたらしたはず。しかし、番組枠は確実に拡大しているのに、増えるのはテレビ・ショッピングや音楽番組に名を借りた通販番組ばかりではないか。
 持ち時間に関していえば、M-1にしても少なすぎる。オンエアの関係など、もろもろの事情はあるのだろう。しかし、寄席での持ち時間約15分とまでは言わないが、決勝くらいは持ち時間を10分程度で行うべきではなかろうか。その位の時間でしっかり芸のできる漫才でなくてはグランプリの価値などないだろう。しかし、テレビ用の「瞬間芸人グランプリ」の大会であれば、いたし方ない。
 
 そんなことを考えていると、最近は良質のお笑いのバラエティがないから、同じような番組ばかりになるのかと思い当たった。古くは「シャボン玉ホリデー」「ゲバゲバ90分」少し前なら「花王名人劇場」や「オレたちひょうきん族」など。プロデューサー他の作り手の志にしても、芸人の意気込みにしても、そして「瞬間」ギャグのおもしろさにしても、今日とは雲泥の差だった。 さて現在のお笑いバラエティは・・・というと、どのチャンネルも同じような顔ぶれの芸人達が、ほとんど「素」のままで楽屋話をするだけの番組や、ある一部の人気者とその取り巻きたちが学芸会レベルの他愛ない、そして笑えないコントでお茶を濁すような番組しかないのではないか。その人気者たちもかつてデビュー当時は光るものがあったはずだが、昨今の過剰露出の結果、彼ら自身も構成作家たちも企画が枯渇し、そして若くして゛大御所゛としての傲慢さだけが目立ってくる。
 
 もちろん五十路男の「ノスタルジー」もある。「団十郎じじい」と言われても結構だが、かつての「お笑い・演芸」と言う言葉のイメージは、今日ほど軽くなかったはずだ。挑戦的な番組をつくろうという意欲も明確なコンセプトもない現在のテレビ界には、「瞬間芸」「一発ギャグ」を数だけ並べて番組を制作するしか、それこそ゛芸゛がなくなっているのだろう。
 つまらない「瞬間」「一発」芸オンパレードの番組を提供しているスポンサーの商品はできるだけ買わないようにしようと思う。個人でできる抵抗はこれぐらいしかない。広い意味で落語も「お笑い・演芸」という範疇に入るわけだが、テレビという「お笑い・演芸」の舞台での余りにも寒いプログラム構成が、特に年末・年始に凝縮されるのが憂鬱のタネである。
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by kogotokoubei | 2008-12-29 11:14 | お笑い・演芸 | Comments(0)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


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