噺の話

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落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。

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 16日の夜10時から、NHKのEテレで放送された「先人たちの底力 知恵泉」を見た。
 あの遠山の金さんは、実は大変な上司のために苦労した、というお話。
 NHKのサイトから引用。
NHKサイトの該当ページ

先人たちの底力 知恵泉「遠山金四郎 一件落着!苦手な上司対処法」

「この桜吹雪をよ~く見ろぃ!」実は遠山の金さんは上司に悩んでいた?「ワンマン」「ムチャぶり」「職場いじめ」…現代もいる迷惑上司に向きあう、一件落着!の知恵とは?

「お前の所業は、この桜吹雪がすべてお見通しだ!」と、嫌な上司に言えたらいいのに…。実は「遠山の金さん」こと遠山金四郎(景元)は、苦手な上司との関係に悩んでいた。上司は「天保の改革」で有名な老中・水野忠邦。江戸が衰退しかねない強引な改革を進める水野は、「ワンマン」「ムチャぶり」「職場いじめ」と3拍子そろった迷惑上司。庶民の笑顔を守るため金さんが駆使した、人づきあい全般にも使える、みごとな知恵とは?

 番組で「天保の改革」で、水野が寄席全廃を主張したが、遠山が意見書を出して、なんとか十五軒の寄席を残すことができたと紹介されていたが、たしかに、幅広い芸能に関して、あの改革は「改悪」でしかなかった。

 天保の改革においては、水野の方針のために八丁堀の同心たちも、大いに苦労した。

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林美一著『江戸の二十四時間』(河出文庫)

 時代考証家の林美一さんの著書『江戸の二十四時間』には、江戸時代の庶民や旗本、殿様や同心などのある一日の模様を描いていて、実に興味深い。

 本書の「定町廻同心の二十四時間」は、天保十二年(1842)に絵草紙、人情本、好色本等の取締りのために右往左往する定町廻同心、飯尾藤十郎の一日を描いたものだが、その行動の後の実際の裁きの経緯について書かれた部分をご紹介しよう。

 押収品をもとに、改めて版元の洗い直しがなされ、作者や絵師の身元の割出しが急がれたが、人情本はともかく、春画本の作者や絵師は、署名を欠いたり、わざと隠号を使ったりしているので、なかなか摑めず、嬌訓亭腎水・大鼻山人・女好菴主人・好色山人・淫斎白水・百垣千研・桃草山人・好色外史・悪疾兵衛景筆・猿猴坊月成(以上作者)、婦喜用又平・一秒開程芳・艶川好信・淫乱斎(以上絵師)などと多数の人名が挙がったが、結局、作者としては人情本の元祖と自称する「春色梅児誉美」の作者・狂訓亭為永春水が、嬌訓亭腎水なる似通った隠号から春本作者でもあったことが明らかとなり、かつ最も多作でもあるところから代表的人物として槍玉に挙げられ、浮世絵師では、これも婦喜用又平なる隠号で、最も多作、かつ代表的人気浮世絵師であった歌川国貞が、一月下旬に版元ら七人とともに北町奉行所から差紙を立てられて、奉行遠山左衛門尉じきじきの調べを受けることになった。

 遠山の金さんじきじきのお調べとは、大事だ。
 
 ところが、春水は出頭したが、国貞は事前に察したのだろう、門人を連れて伊勢参りに出かけて裁きの日になっても帰って来なかった。
 その代わりに召喚されて被害に遭ったのが、同じ豊国門下の弟弟子で一秒開程芳の名を高めていた国芳だった。
 彼は、二日間牢に入った後、春水と同様に吟味中に手鎖の刑になってしまい、両手が使えないから絵を描けず飯の食い上げ。

 特に国芳は、人一倍向う意気の強い男だが、二日間の入牢はさすがにこたえた。彼は憤懣の余り、判決後、水野の改革を諷刺した錦絵「源頼光公館土蜘作妖怪図」を発表し、江戸っ子たちの喝采を浴びるのだが・・・・・・。

 その後、伊勢に逃げた国貞が捕えられることはなかった。
 
 金さんが水野に進言して春画、枕絵の作者や絵師を裁かないよう仕向けることができず、自らお白洲で春水や国芳を罰したのだから、逃げた国貞も江戸に戻った後で裁くべきだったと思うなぁ。金さん、ちょっと片手落ちでしょう。

 その逃げた国貞について、林一美さんは、こんな譬えをしている。
 何だかロッキード事件で、すぐアメリカへ飛んでしまった容疑者たちと似たような話
 この本の単行本での初版は平成元年(1989年)。

 ロッキード疑惑が明らかになったのは昭和51(1976)年だ。

 十年以上を経ても作者林さんが譬えにしただけの大事件だったということだろう。

 私は学生時代で、結構テレビに釘付けになったものだ。

 結果としては総理の犯罪として田中角栄の退陣につながるのだが、あの事件を巡っては、周囲で不審な関係者の死が続いた。
 まず、ロッキード事件を追っていた日本経済新聞の高松康雄記者が昭和51(1976)年2月14日、児玉誉士夫の元通訳の福田太郎が同年6月9日、さらに田中元首相の運転手である笠原正則が同年8月2日と立て続けに急死している。

 証拠隠滅のため、何者かの手によって抹殺されたのではないかとの疑念を呼んだ。

 この度の加計学園疑惑のことに思いが至る。
 ようやく全国紙やテレビも思い腰を上げたように思う。
 森友とは比較にならない「総理の犯罪」の匂いがプンプンするじゃないか。

 周囲で不自然なことが起こらないことを祈るばかりだ。


 水野忠邦という暴君とも言える上司に知恵と行動で対処した遠山の金さんのような奉行が、今まさに求められているなぁ。

 遠山の金さんや天保の改革のことから、つい、現実に戻ってしまった。

 「改革」という名で「改悪」をしようとする権力者は、いつの世にもいる、ということか。

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by kogotokoubei | 2017-05-18 12:47 | 江戸関連 | Comments(0)
 山手線の新駅近くに、「新東海道」ができる、という東京新聞の記事をご紹介。
東京新聞の該当記事

「新東海道」江戸の活気再び 山手線新駅・田町-品川間
2017年5月10日 14時27分

 JR山手線と京浜東北線の田町-品川間に二〇二〇年春に開業する新駅(東京都港区)の西側に、国内外の人々が集う広場のような歩行者道「新東海道」がお目見えする。二〇年の東京五輪後に着工し、三〇年代の完成が見込まれている。すぐ近くにかつての東海道にあった江戸の玄関口「高輪(たかなわ)大木戸」の跡があることから、交通の要衝だった往時のにぎわいの再現を目指す。(増井のぞみ)

 新東海道は、新駅前広場の西側に南北にわたって造る想定で、道幅は八メートル以上、長さ四百メートル。道の両側に高層ビルが並び、ビルの低層階に飲食店や商業施設が入る。

 道沿いの建物の一階部分には柱だけの空間や、外に張り出したひさしを設け、建物内と路上を行き来しやすくする。路上などに机やいすを置き、ビル内のオフィスで働く人らが外で仕事をするなど、買い物客、観光客を含めた憩いの場所にする。

 新東海道に近い国道15号沿いにある国史跡の高輪大木戸跡は、旧東海道の関門。江戸時代に道の両側に石垣を築き、門を取り付けた場所で、治安維持のために門を開閉して江戸への人の流入を制限した。近くに茶屋などが並び、旅人らでにぎわった。門は江戸後期に外され、今も石垣の一部が残っている。

 品川駅の地下には二七年にもリニア中央新幹線が開業し、泉岳寺駅は京急線で羽田空港とつながっている。新駅周辺の整備方針を検討した委員会の座長で東京工業大の中井検裕(のりひろ)教授(59)=都市計画=は「新駅周辺は、日本全国や世界各地から訪れるのに便利な場所。東海道の歴史を生かし、人の交流を促して新たなビジネスや文化の創出につなげたい」と話した。

<東海道> 江戸時代に江戸を起点に整備された五街道の一つで「江戸と京、大坂を結ぶ大動脈。幕府が最も重要と位置づけた」(品川区立品川歴史館)。海沿いにあり、景色が良く起伏が少ないため、参勤交代によく使われ、物資を運ぶ人馬、旅人らが行き交った。現在の東京都港区では、国道15号の位置にあったとされる。

<JR山手線・京浜東北線の新駅> 1971年開業の西日暮里駅(荒川区)以来となる山手線30番目の駅。2020年春に、品川-田町間の品川車両基地(約13ヘクタール)の一角で暫定開業の予定。基地跡地では、山手線と京浜東北線の線路を東に最大120メートル移設。JR東と他の地権者の土地を合わせて東京ドーム3個分に当たる約16ヘクタールの開発用地をつくり出す。オフィス向けを中心とした7棟の高層ビル、マンションなどが建てられる。

(東京新聞)


 この「新東海道」ができる背景となる歴史について、肝腎な部分を、もう一度太字で確認。
すぐ近くにかつての東海道にあった江戸の玄関口「高輪(たかなわ)大木戸」の跡があることから、交通の要衝だった往時のにぎわいの再現を目指す


 “道の両側に高層ビルが並び、ビルの低層階に飲食店や商業施設が入る”というのは賛成しないが、高輪大木戸にちなむ新たな「東海道」という“憩いの場”ができることには賛成したい。

 三年ほど前、この新駅の名を「高輪大木戸」にしてはどうか、という記事を書いた。
2014年6月4日のブログ

 その記事で、次のようなことを書いた。
 2020年の東京五輪に向けた“建設という名の破壊”ばかりではなく、良い機会ととらえて過去の名所を蘇らせる試みがあってもよいだろう。

 新駅「高輪大木戸」の命名で、その昔の話題が喚起されることも結構だし、新たな町が江戸時代の庶民の生活を偲ぶことのできる、土や木の香りのする場所がある方が、海外のお客様も喜ぶのではなかろうか。

 もはや、新駅の名は「高輪大木戸」で決まりでしょう^^

 しかし、この「新東海道」、「新」という言葉に甘えた超近代的なつくりにはして欲しくないなぁ。
 すでに概要は決まっているのだろうが、新「東海道」なら、それに相応しい道のあり方があるはず。

 まだ間に合うのなら、良い手本がある。
 東北自動車道の羽生パーキングエリア、“鬼平江戸処”だ。
鬼平江戸処のサイト

 羽生には「栗橋関所」が近くにあった。
 円朝の『怪談牡丹燈籠』の舞台でもあった。

 鬼平江戸処のコンセプトは、「温故知新」。

 同じ商業施設にしても、その土地の歴史に立脚し、まさに、「温故知新」の精神で開発してもらいたいものだ。

 「新東海道」では、“高層”ビルより、“高輪大木戸”にちなむ街づくりという“構想”にこそ力を入れて欲しいと切に願う。

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by kogotokoubei | 2017-05-11 00:36 | 江戸関連 | Comments(2)

 「恵方巻き」という、まったく伝統とは無縁な現代の疑似年中行事が終って、ほっとしている。
 恵方に相応しい言葉は「恵方参り」であり、これは落語の『御慶』のサゲにも登場する。
 先月の小満んの会での『御慶』は、実に結構だった。

 何度か書いているが、節分の伝統的行事は「厄払い」「厄落し」であり、その一環としての「豆まき」である。


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宮田登著『江戸歳時記』(吉川弘文館)

 宮田登著『江戸歳時記』は、吉川弘文館から発行された「<江戸>選書」の一冊で、初版は昭和56年発行。私は神保町で買った初版を読んでいるが、2007年に復刊されている。

 「江戸歳時の世界」の章から、厄払いに関する部分をご紹介。

 実は必ずしも大晦日や節分の日だけに厄払いがあったわけではなかった、などについて。

立春と節分

 旧暦が中心だった時代には、暦の上でまだ新年にならないうちに、立春が来てしまうことがあったが、これはどうも改まった感覚が生まれにくかったのではなかろうか。
 元旦と立春の間は、かなり近いのがふつうで、時に一致する年があった。
 (中 略)
 節分の豆撒きと十二月の追儺の儀礼とが混同しはじめたのは、江戸時代にはいってからのこととされている。
 柊の枝に鰯の頭をさして焼き、それを門口に置くのは邪霊を防ぐための呪術であり、邪霊の化身というべき鬼が追われる。室町時代の『徒然草』の中で、大つごもりの夜に松明をともして人々が夜半すぎまで各家の戸口をたたきまわったことを印象深いこととして記しているが、この夜はまた追儺の行なわれている夜でもあった。さらに節分の豆撒きがくわわることがあると、いっそう賑やかになったのである。
 小豆や大豆が厄除けの呪力をもつという考え方は古くからあったが、災厄を一身に背負う厄払いという職能が出現したのは、江戸や京・大坂という大都市であった。喜田川守貞の『守貞漫稿』には、厄払いが文化元年以来、大晦日、節分、正月六日、十四日にまわってくるようになったと書いている。元来は、節分の夜の厄払いの行事と結びついていたものである。厄年の者が、節分の夜に神社へ厄落しに参拝するというのを、身代わりになって厄を一身に背負う代償として銭十二文をもらった。
 これは願人坊主が、身代わりに代参して、報酬を得るのと同じ発想であり、都市社会であるからこそ成り立つ商売でもあった。

厄払い・厄落し

 「御厄払いましょ、厄落とし、御厄払いましょ、厄落とし」のよび声が、夕暮どきに町のいずところもなく聞えてくる。年越しで厄を払うのか、ごくあたり前の心情であるが、江戸では、さらにこれを三回にわたって厄を払っておこうとする、何度払っても落しきれない厄の蓄積が、厄払いの民俗を複雑にしているのであろう。

 あら、江戸時代には、なんと四日も厄払いの日があったのだ。

 当時の江戸庶民に蓄積されたと思っていた厄を、「恵方巻き」を食べて払っていたわけではない。
 しかし、払うべき厄は、現代人の方が少ない、とは言えないだろう。
 今の日本も、払わなくてはならない厄がたんまりと蓄積しているような気がするなぁ。

 さて、立春の今日、旧暦では十二月二十六日。
 今年の旧暦元旦は2月8日だ。
 ニュースでは、「春節」休暇による大陸からの「爆買い」ツアーの話題が流れている。

 立春と旧暦の元旦が一致することも巡り合わせでありえる。
 1954年と1992年がそうだったし、次は2038年。

 江戸時代、文化年間にあった四度もあった厄払い日。
 せっかくなので(?)、矢野誠一さんの『新版・落語手帖』から、厄払いの口上をご紹介。読むだけでも、少しは厄が落ちることを願って(^^)
矢野誠一著『新版・落語手帖』

ああら、めでたいなめでたいな、今晩今宵のご祝儀に、目出たきことにて払おうなら、まず一夜あければ元朝の、門に松竹しめ飾り、床にだいだい鏡餅、蓬莱山に舞い遊ぶ、鶴は千年、亀は万年、東方朔は八千歳、浦島太郎は三千年、三浦の大介百六ッ、この三長年が集まりて、酒盛りいたす折りからに、悪魔外道がとんで出て、さまたげなさんとするところを、この厄払いがかいつまみ、西の海へと思えども、蓬莱山のことなれば、須弥山のほうへサラリ、サラリ」

 落語『厄払い』では、与太郎さんがこの口上を覚えることができず苦労する。
これ、与太さんじゃなくても、覚えるのは大変だ(^^)

 厄、と言えば、私は昨年が還暦の本厄だった。

 その昔、還暦で迎えて、こんな句を詠んだ人がいた。

 春立つや 愚の上に又 愚にかへる

 小林一茶の句だ。

 一茶は、藤沢周平が『一茶』で著したごとく、決して平穏な人生を送った人ではない。

 遺産相続をめぐる骨肉の争いなど、その二万句を超える作品の印象からまったく想像できない多難な日々を送った人のようだ。

 紹介した句は、実に身につまされる。

 六十年も生きてきて、なんと愚かしいことばかりやってきたか、と私も思うばかり。

 かと言って、あの時にタイムマシーンで戻ることができたところで、同じ愚行をしていただろう、とも思う。

 立春の夜、そんなことを思いながら飲む酒は、少しほろ苦い。
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by kogotokoubei | 2016-02-04 20:23 | 江戸関連 | Comments(4)
 浅草寺では明日19日まで「羽子板市」が開かれている。
 
 「浅草寺歳の市」のサイトをご覧のほどを。
「浅草寺歳の市」のサイト

 昨年、「羽子板市」が「歳の市」の名残りであることについて記事を書いた。
2014年12月4日のブログ

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鈴木章生著「江戸の職人 その『技』と『粋』な暮らし」

 江戸関連本も多い青春出版社のプレイブックス・インテリジェンスシリーズの一冊、「江戸の職人 その『技』と『粋』な暮らし」からは、すでに、職人さんと信仰について記事を書いた。
2015年12月1日のブログ

 今回は「押絵羽子板」のことについて、本書から紹介したい。

 「第七章 季節を彩る」からの引用。

押絵羽子板
■縁起物としての羽子板
 娘道成寺、藤娘、八重垣姫、助六、鏡獅子、弁慶、め組の喧嘩の辰五郎・・・・・・、歌舞伎の登場人物の絵姿が目にも鮮やかに再現された押絵羽子板の世界。江戸時代から人々に愛され続けてきた、日本の正月を彩る華やかな小道具である。
 羽根突き遊びはもともと、その羽根を、子供に病気もたらす蚊を食べてくれるとんぼと見立てて、これを突き上げて厄払いする、という風習からはじまったとされる。室町時代には御所で、公家やその女官たちらが集まって、羽根突き大会に興じたという。かつては胡鬼板(こぎいた)、羽子木板(はこぎいた)と呼ばれ、羽根は、こぎの子、はごの子などと呼ばれていた。
 また、時代が下がって天保九年(1838)の『東都歳事記』(江戸後期の最も詳しい年中行事の解説書)によると、当時、男の子が生まれると破魔矢を、女の子が生まれると羽子板を贈る風習があったとされる。この通り、江戸時代、羽子板は遊び道具であるとともの、縁起物であり、祝いの品であった。さらに土産物としても重宝された。

 羽根を「蚊」を食べてくれる「とんぼ」と見立てていた、なんてぇことは、初めて知った。

 羽子板が遊び道具から発展して、縁起物、土産物になったわけだが、そうなったことに「押絵」の技術は大きく関わっている。
 さて、現在の押絵羽子板は、描かれた下絵に合わせて頭、顔、襟、袖、帯、手、小道具など、各部分をボール紙で作り、これに綿をもってその上から柄布でくるみ、それを板の表面に糊で貼り付けて作られている。裏面には、板屋によって松竹梅などの絵がさらりと描かれている。
 押絵羽子板は、それ以前に生まれた押絵の技術を羽子板の装飾に応用したものである。現在知られている中でもっとも古い押絵を残しているのは、二代将軍秀忠の娘で、後に後水尾天皇の中宮になった東福門院(1607~1678)だ。当時の押絵は、綿が少ないか全く入っていない作りで、現在のように立体的なものではなかった。
 東福門院の影響により、押絵はやがて京都御所内の女官の間で、やがては江戸城内の奥女中の間で流行したとされる。やがて絵師の中から押絵を専門とする押絵絵師が生まれ、さらに押絵で羽子板を作る者が出てきて、押絵羽子板が誕生した。
 押絵羽子板の歴史をたどると、秀忠の娘、東福門院にたどり着く、ということか・・・・・・。


 例年、その年の話題の人で「変わり羽子板」を発表している「久月」。
 今年は、「五郎丸羽子板」も登場。
「久月」サイトの該当ページ

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*「久月」のサイトより借用。


 TPPで「甘利羽子板」というのは、なんとも・・・・・・。

 「話題の人」の選定基準、今ひとつ分からないなぁ。
 あくまで、選ぶ人にとっての「話題」ということか。

 羽子板->押絵、ときて、東福門院を話題にする人は、現在は皆無に近いだろう。

 しかし、私は、今後は羽子板を見ると、徳川家と天皇家をつなぐための人生を送った東福門院のことを思い出しそうだ。
 彼女は、お江の方と秀忠の末っ子の徳川和子(まさこ)。

 武家から初めて天皇家に嫁いだ人で、宮尾登美子が『東福門院和子の涙』という小説を書いているようだが、未読。近いうちに読んでみたい。

 彼女は後水尾天皇の中宮(妻)となってから、宮廷での辛い生活のために心から笑うことはなかった、と言われている。

 東福門院和子が今に残る押絵を作っていたのは、そういった日常から少しでも気を紛らすためだったのかもしれない。

 羽子板市をきっかけに、東福門院という一人の女性のことを思う、そんな師走である。

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by kogotokoubei | 2015-12-18 20:45 | 江戸関連 | Comments(0)
 早いもので、12月。
 
 先日、「お会式」のことや、落語のネタ『甲府い』『鰍沢』などについて記事を書いた。

 江戸の人々にとって、信仰や祭事は深く生活に根付いたものだったからこそ、落語のネタにも信心深い人々や物語が残ったのだと思う。

 年末の祭事と言えば、酉の市。
 浅草の酉の市は11月なので今年は29日が三の酉だったが、鷲(おおとり)神社の本社とされる埼玉久喜の鷲宮(わしのみや)神社は、12月最初の酉の日、今年は11日に大酉祭が行われる。

 鷲神社は、日本武尊を祀り、武運長久、開運、商売繁盛の神として信仰されてきた。
 江戸時代にも、数多くの人が、年末の酉の日にお参りしたことだろう。

 最近読み返した本に、江戸の人々、なかでも職人さんと信仰について書かれた内容があった。

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鈴木章生著「江戸の職人 その『技』と『粋』な暮らし」

 江戸関連本も多い青春出版社のプレイブックス・インテリジェンスシリーズの一冊に、「江戸の職人 その『技』と『粋』な暮らし」がある。
 本書の監修者鈴木章生という人は、本書発行時(2003年1月)は江戸東京博物館の主任だったらしいが、現在は目白大学の教授のようだ。

 第二章「職人と江戸っ子文化」の中で「職人と信仰」について書かれているので、引用したい。

業種ごとの職業神

 職人たちは、古くからそれぞれの業種ごとに、特有の職業神を信仰してきた。多くの場合、とある神が現れてその仕事を手伝ったとか、技術を開発したといった言い伝えにしたがって、職業神が決められていたようである。物を作り出すという仕事に従事する上で、宗教的な支えがあったことは想像に難くない。特に、古代から伝統的な技術を持つ職種にその傾向は強い。
 それぞれの職人たちは、その信仰に則って毎年独自の祭礼などを行っており、それは彼らの大事な年中行事になっていた。また、その信仰は仕事の現場に限らず、それぞれの家庭においても守護神的役割を果たし、職人たちの精神的なよりどころとなっていた。
 たとえば大工、屋根葺(ふき)、石工、左官などの建築関係者たちは、聖徳太子を祀り、毎年二月二十二日に太子講を行っていた。その信仰は、聖徳太子が寺院建立の祖であるとされていたところからきている。昭和の初期頃までは、建築関係の職人の家や店には、必ず太子の掛け軸などが祀られていたという。
 一方、鍛冶、鋳物師、錺職人など金属加工関係者たちは、稲荷を信仰していた。これは、10世紀末、京の三条にいたという鍛冶が刀を打つときに、稲荷神が現れて共に槌を打ったという言い伝えからきている。彼らは十一月八日に稲荷祭を行っており、これを別名、鞴(ふいご)祭といった。ただし、これは職人たちが一同に集まって行うものではなく、各自の家で内々に祀ったものだった。
 また、金属加工関係者の中には、天目一筒命(あめのまひとつのみこと)を信仰する者たちもいた。こちらは、天照大神が天の岩戸に隠れていた間、刀や斧を作っていたという伝承からきている。
 他にも、紺屋は愛染明王(あいぜんみょうおう)を、挽物師(焼き物職人)は水上祖神を信仰したことが知られている。


 仕事によって、それぞれ信仰対象があり、心の拠り所になっていたんだなぁ。

 曲尺(かねじゃく、さしがね)を広めたのが聖徳太子と言われており、大工さんたちの家にあった聖徳太子像は、曲尺を持った姿であったようだ。

 富士講、大山講、えびす講などと同様に太子講もあったのだ。二月二十二日は、聖徳太子の命日。

 今日では大工さんが不足しており引く手あまたのため、その手間賃も増えているようなので、大工さん→聖徳太子ということから一万円札を連想してしまう自分が、なんとも野暮でいけねぇや(^^)

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by kogotokoubei | 2015-12-01 12:49 | 江戸関連 | Comments(0)
 ラグビーワールドカップの準決勝の現地開始時刻と日本時刻のことで、疑問を感じた方は少なくないのではなかろうか。

 準決勝のスケジュールは、次のようなものだった。
 
 開催日  現地時刻 日本時刻
10/24(土) 16:00   24:00   南アフリカ対ニュージーランド
10/25(日) 16:00   25:00   アルゼンチン対オーストラリア

 「あら、現地は同じ16:00なのに、日本は一時間ずれている?!」

 と思われた方が、いたはず。

 もちろん、ご存じの方も多かったとは思うが、これはイギリスで夏時間(サマータイム)が10月25日で終了することによる。

 Wikipediaの「英国夏時間」から引用する。
Wikipedia「英国夏時間」

具体的な実施期間は、3月最終日曜日1時(UTC)から10月最終日曜日1時(UTC)までの期間。つまり、グリニッジ平均時で3月最終日曜日の1時になった瞬間、英国夏時間が始まり、同日の2時になる。また、英国夏時間で10月最終日曜日の2時になった瞬間、グリニッジ平均時に戻り、同日の1時になる。このため、夏時間の開始日は1日が23時間となり、終了日は1日が25時間となる。

 電車のダイヤが分刻みで計画され、それがほとんど遅れない日本において、こういった夏時間の運用は、難しいかもしれない。

 一年のある一日が23時間になり、また、ある一日が25時間になる。

 ただし、戦後、連合軍(≒米軍)の占領期間に短期間ながら日本も夏時間を導入したことがある。

 サマータイムに反対する人は、いろんな理由を挙げるが、たしかに、さまざまなシステムのソフトウェアの変更などの必要はあるだろう。
 また、東の北海道と西の沖縄での日の出と日の入りの時刻の違いなども、導入に掉さす理由にはなる。

 しかし、地域を限って導入する試みはあって不思議はない。実際に北海道で試験的に実施しようという動きもある。

 江戸時代は、サマータイムよりもっと先進的(?)な「不定時法」という時間を採用していた。
 日の出、日の入りを基準に、自然の変化に柔軟に適合していた江戸人は、私は凄いと思う。

 夏至、春分・秋分、冬至における時刻は、現在の時刻を横軸にすると次のようになる。
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 私がExcelで作った図なので分かりにくいとは思うが、灰色の部分が夜で黄色い部分が日中。
 黄色が始まる、要するに朝が明ける時刻が「明け六つ」になり、灰色が始まる前、日が暮れかかる時刻が「暮れ六つ」となる。

 たとえば、夏至に代表される夏は、現在の時刻で朝4時から5時頃「明け六つ」となり、現在時刻夜7時頃に「暮れ六つ」となる。

 冬至との日の出と日の入りとの時間差は、2時間近い。


 江戸時代の時刻の数え方は、今の時間にして約二時間単位で九つ、八つ、七つ、六つ、五つ、四つとなって、また九つに戻る。この一つの単位を「一時(いっとき)」、あるいは「一刻(いっこく)」と呼ぶ。
 
 目安として現在の時間に相当する一時と、その時間帯を干支に当てはめた呼び方は次の通り。

 九つ:午後11時~午前 1時=子(ね)の刻
 八つ:午前 1時~午前 3時=丑(うし)の刻
 七つ:午前 3時~午前 5時=寅(とら)の刻
 六つ:午前5時 ~ 午前7時=卯(う)の刻
 五つ:午前7時 ~ 午前9時=辰(たつ)の刻
 四つ:午前9時 ~午前11時=巳(み) の刻 
 九つ:午前11時~午後 1時=午(うま)の刻
 八つ:午後 1時~午後 3時=未(ひつじ)の刻
 七つ:午後 3時~午後 5時=申(さる)の刻
 六つ:午後 5時~午後 7時=酉の刻(とり)
 五つ:午後 7時~午後 9時=戌の刻(いぬ)の刻
 四つ:午後 9時~午後11時=亥の刻(い)の刻

 この一時を四つに分けて一つ、二つ、などと呼んだりするので、「草木も眠る丑三つ時」は、今の時間にあえてたとえると、午前2時から2時半くらいの時間帯、ということになる。

 さて、私は何を言いたいのだろう・・・・・・。

 江戸っ子は、自然現象の日の出、日の入りを基準に、現在の定時法的な概念ではなく、四季の移り変わりに応じて、柔軟に時間を管理し運用してきた、ということだ。
 逆に言えば、自然と時間経過が同期していて当たり前であり、暗闇なのに「明け六つ」などという状況こそ、彼らにとっては違和感があったのだろう。

 もちろん、日が昇ったら起きる、沈んだら寝る、という生活のリズムに、時は密着して流れていた、ということも言えよう。

 あえて言えば、サマータイムの先を行っていた江戸時代。

 現代人の生活は、日が昇れば起きて、沈んだら寝る、というリズムではない。
 農作業など、自然との共存が重要な生活とは無縁な人が圧倒的多数にのぼっている。
 一日は24時間であり、23時間や25時間では困る、という人も、少なくないだろう。

 さまざまな理由からサマータイムの導入ができそうにない今の時代、もし、江戸時代と同様の不定時法を採用しよう、なんてぇことを言ったら、役所や企業から「ふてい奴!」と言われそうだ。(おそまつ)


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by kogotokoubei | 2015-11-04 20:36 | 江戸関連 | Comments(0)
 9月27日は、旧暦8月15日、中秋の名月。

 十五夜に加えて月を愛でる日としては、旧暦9月13日の十三夜が有名。

 しかし、江戸時代の人々は他の日にも月を愛し、楽しんでいたということを紹介したい。

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杉浦日向子監修『お江戸でござる』(新潮文庫)

 出典は、お馴染みの『お江戸でござる』。

 平成7(1995)年から平成16(2004)年まで放送された、NHK「コメディーお江戸でござる」を本にしたもので、もちろん杉浦日向子さんの監修。

 言葉の起源についても勉強になる部分を、引用する。

 八月の月見も、十五夜だけでは終わりません。次の夜は「十六夜(いざよい)」で、満月よりも、出るのがちょっと遅くなります。「いざよう」というのは、ためらっている状態をあらわしています。
 その次の夜が「立待月(たちまちづき)」。立って待っているうちに、月が出てきます。物事が早くはかどることを、「たちまち」というのは、ここから来ています。また、江戸時代の即配便を「十七夜(じゅうしちや)」と呼ぶのは「たちまち着く」というシャレからです。

 「いざよう」や、「たちまち」という言葉の起源が「月」だったとは。
 ここで、まだ月の楽しみ方が終わらないのが、江戸人の凄いところ。

 十八夜が「居待月(いまちづき)」で、座敷で待っていると、月が出ます。十九日が「臥待月(ふしまちづき)」です。座敷に横になって待ちます。さらに出てくるのが遅くなると、「更待月(ふけまちづき)」といいます。夜更けにならないと出てきません。
 江戸で月見が最もにぎわったのは、実は「二十六夜待ち(にじゅうろくやまち)」です。八つ(午前二時くらい)に月が出てくるので、それを、どんちゃん騒ぎをしながら待ちます。水菓子、にぎり鮨、天麩羅、二八蕎麦、団子などの屋台が出ます。月見を口実に、夜更かしができるというわけです。「月見舟」も出ます。

 「二十六夜待ち」なんて、言葉自体が死語化しているねぇ。
 ちなみに、この「二十六日」は、旧暦の七月二十六日。
 月の出が遅いので、“待ち”なのである。
 待つだけの、ご利益がある、と信じられていた。

 二十六夜待ちでは、観音様、阿弥陀様、勢至菩薩の三尊の光を見ることができるといわれ、信仰に対象にもなっています。月は女性と深い関わりがあり、子宝・子育ての願もかけます。秋に収穫の時期なので、農耕の感謝の気持ちも込めます。
月見の種類の多さを知るだけでも、どれほど江戸の人々が感受性が豊かで粋か、よく分かる。

 さて、これから団子・・・ではなく酒と肴で月見と洒落込むか(^^)


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by kogotokoubei | 2015-09-27 17:45 | 江戸関連 | Comments(2)


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*Studio Robinさんからお借りしたフリー素材
Studio Robinさんのサイト

 豪雨の災害情報により、昨夜のNHK木曜時代劇「まんまこと」の第七回「おさかなばなし」の放送は、来週に延期となった。

 鬼怒川の映像には驚くばかりだ。
 しかし、想定できなかったのだろうか。人災の要素は、たぶんにありそうな気がする。
 行方不明の方のご無事をお祈りするばかりだ。

 
 「まんまこと」を見てから書こうと思っていた内容なのだが、復習ではなく予習として(?)、「河童」について書きたい。
 「おさかなばなし」は、河童にまつわる物語なのである。


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杉浦日向子監修『お江戸でござる』(新潮文庫)

 何度か紹介している『お江戸でござる』は、平成7(1995)年から平成16(2004)年まで放送された、NHK「コメディーお江戸でござる」を本にしたもので、もちろん杉浦日向子さんの監修。

 単行本は杉浦さんが存命中の平成15(2003)年にワニブックスから発行されていたが、図版を入れ替えて、新潮文庫から杉浦さんが亡くなった翌年、平成18(2006)年に発行。

 この本には、河童は江戸時代に実在していた、と明確に書かれている。
 江戸時代は、全国各地に河童がいて、大名から学者に至るまで、実在を認めていました。
 ということなのだよ。
 どんな姿だったのか、引用を続ける。
 河童にも、いろいろな形のものがいます。四足歩行のものは、イタチとスッポンを合体させたような形で、二足歩行のものは、毛の生えているもの、表面がヌルヌルした鰻の肌のようなものと二種類あります。色は、青黒いものと、褐色のものがいます。共通しているのは、頭にお皿があってくぼんでいる点です。常にお皿に水がないと弱ってしまいます。手が長くて膝の下まであり、髪は赤毛で、ざんばら髪になっています。口が犬のように尖っていて、亀のようにギザギザの細かい歯が並んでいます。足に水掻きがあります。

 上のイラストとは違う姿だが、あまりリアルな絵にすると、ちょっと怖いからね(^^)

 決して、河童は空想上の生きものではなく、江戸時代には実在した・・・ということなのである。
 日本各地に、河童伝説がある。

 たとえば、横浜市神奈川区のサイトには、知る人ぞ知る「滝の川の河童」について、次のように記載されている。
横浜市神奈川区のサイトの該当ページ
民話「滝の川のカッパ」

 区役所の近くを南の方に向かって流れている滝の川。かつて権現山の山上からひとすじの滝が流れ落ち、滝川となってこの川に注いでいました。このため、この川を「滝の川」というようになりました。その滝つぼには、数百年も生きているカッパがいたといわれています。
 滝つぼの主であったカッパは、近くの東海道に出かけては旅人にいたずらをしたり、馬から荷物を奪っては馬子を困らせていました。ある日、神奈川宿に住んでいた剣術使いの浪人がそのカッパをつかまえると、カッパは涙を流しながら「わたしには夫がいましたが、去年、大蛇に決闘を挑まれ、殺されてしまいました。残された二人の子どもを養うために、悪いこととは知りながら人間に迷惑をかけていました」との打ち明け話。「今後二度と悪いことはしないので命だけは助けてください。先ほどの話がうそではない証拠に、命の次に大切なものを今夜差し上げましょう」と手をあわせて懇願するので、浪人も同情して許すことにしました。そしてその夜、浪人宅に昼間約束したカッパの夫のサラが投げ込まれました。
 カッパがくれたのはサラではなくカッパの頭だったという言い伝えもあります。

 他にも、全国各地、中でも九州や沖縄に数多くの河童伝説が伝わっている。

 そして、江戸時代には、河童に限らず、多くの妖(あやかし)が実在した、と言われる。
  
 『まんまこと』の作者畠中恵の大ヒットシリーズ『しゃばけ』に登場する妖たちは、必ずしも空想上のもの、とは言えないかもしれないのだ。

 また、江戸の人々の考え方そのものが、妖怪の存在を認めるものであったことが、『お江戸でござる』の中で各章の最期にある「杉浦日向子の江戸こぼれ話」に記されているので、紹介。
 江戸の狐狸はよく人間に化けて社会にとけこんでいます。人間のほうでもそれを喜んで、狸の和尚さんに揮毫してもらい、それを代々伝えているなどということもあります。とてもつもない美人がいると「あれは狐だ」というなど、その存在を当たり前のように信じているのです。
 落語『狸』シリーズや『王子の狐』などが、まんざら絵空事とは思えないではないか。

 「あれは狐だ」と言いたい美人には、なかなかお目にかからないのは、狐が、人間に化けようとする気持ちが薄らいできたのかもしれない。王子でもえらい目にあったし、人間の方が、ずっと恐ろしいからかなぁ。

 このあと、杉浦さんは、江戸の人々の考えについて次のように説明する。
 江戸の人々は、人間を万物の霊長とは考えていません。動物も人間も一緒で、蚤一匹殺すのにも、「祟られるかもしれない」と思いながらつぶします。命に関する考えが今と違って、「次は自分が虫に生まれてくるかもしれない」と思っているのです。「今つぶしたのが、前のお婆さんだったらどうしよう」などと本気で心配します。江戸っ子が環境について優しいのは、根本にそういう考えがあるからです。
 ものも、粗末に扱えば「百鬼夜行」で夏の夜中に練り歩くと思われています。しゃもじ、枕、破れた行灯などが、ぞろぞろと行進するのです。「きちんと最後まで使いきりましょう」と、子どものうちから教育されます。今の東京だったら、百鬼夜行だらけで人が歩けなくなってしまいます(笑)。

 輪廻転生、と言う言葉を思い出すねぇ。
 私は、前世は羊だったと思う。そうでなければ、未年生まれの牡羊座、ということはなかろう(^^)

 八百万の神という考えは、台所の鍋や釜、しゃもじにも命がある、ということか。

 これって、今の日本人にとって、実に重要な示唆を与えることではなかろうか。
 
 よく言われることだが、物を大事にする、修理をして一つの物を長く使う、という考え方は、江戸時代では当たり前だった。
 それは、江戸時代にあった次のような買ったり売ったり直したり、という幅広い仕事人の名を眺めれば、よく分かる。
 古着屋、鋳掛屋、瀬戸物焼き継ぎ、下駄の歯入れ、古傘買い、羅宇屋、ほうき買い、灰買い、古椀買い、木っ端売り、付け木売り・・・・・・。

 現在は、たしかに修理するより新品を買った方が安い、という経済的な理由もあるだろうが、あまりにも早く物を捨て過ぎると思うなぁ。
 ゴミをたくさん排出する今日の世の中を考えると、リサイクルの仕組みがしっかりしていた江戸時代を大いに見習う必要性を感じる。

 物を大事にするという精神は、本当は3.11以降に我々が取り戻すべき日本人の美徳だったはずなのだ。
 まだ、四年余りしか経っていないし、いまだに避難者の方は約二十万人もいらっしゃる。

 物を大事にすること、そして、相互扶助の精神でお互い助け合うこと。
 本来持っていた日本人の美徳を、取り戻す機会がったのに、喉元過ぎれば、何とやら・・・・・・。

 3.11の後で、若いデザイナーの方が制作した、買い占めに反対する下のポスターが注目され、私もブログで紹介したことがある。

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 日本人は、良くも悪くも、変わり身が早い。変化への適応性が高い、とも言えるが、変わっちゃいけないものもあるように思う。

 古い物を大事にする文化が根づくには、その根底に、江戸時代の人々には当たり前だった、物にも命があるという考えがなければならない、ということかもしれない。

 そして、古いものより新しいものが良いという現在の風潮は、江戸時代には存在した日本人の大事な逆の哲学を喪失することにもつながる。

 杉浦さんは、こう説明する。
 同じものをいつまでも使い続ける誇りが、江戸にあります。「年季が入っている」「年代物だ」といわれると、褒められたことになります。江戸の人々は古いものほど価値を置きました。人間にしても、一年でも多く生きている人を尊敬します。「一年分の春夏秋冬をよけいに知っているから、自分よりも価値が上なのだろう」と考えるのです。江戸では最新の知識よりも、その人が長年培ってきた経験や技術が尊重されます。
 釣り、盆栽、歌舞音曲、俳句-と江戸の道楽はすべからく「隠居文化」です。若い人は「青二才」「若造」と馬鹿にされます。今だと年を取ったということ自体が馬鹿にされるので、若作りして見せるなど若さに執着しますが、江戸では逆にファッションを渋めにして老けて見えるようにします。頭が禿げたり白髪になったりしても風格がついたと喜びます。老いは誰しも初めての体験です。三十代なら三十代、四十代なら四十代という一度しかない年齢を過ごそう、と江戸の人々は考えます。いつまでも若さにしがみつくのは愚かしいことだと考えるのです。

 
 「隠居文化」って、なかなかいい言葉だなぁ。

 儒教の精神も根底にはあるかもしれないが、目上の人を大切にしていた日本人の心は、いったいどこへ行ったのか・・・・・・。

 河童のことから、やや拡散気味ではあるが、実に大事なことを『お江戸でござる』は教えてくれている。

 河童や狐狸妖怪は江戸時代に実在していた
        ↓
 その背景として、人間が万物の霊長ではない、という考え方が根底にあった
        ↓
 しゃもじなど台所の道具にだって、命が宿っていると考え大事にしていた
        ↓ 
 新しいものより古い物、そして、自分より目上の人を大事にする考えが根強かった

 こんな関係になるだろうか。

 この本からは、目に見える現象の根底にある、考え方、哲学の重要性を教えてくれる。

 江戸の人々が人間が万物の霊長とは考えなかったように、人間としての奢りを捨ててはどうか。
 その考え方が、自然や他の生物への真摯な接し方につながるだろう。
 
 自分が前世で虫だったかもしれないし、来世には蟻になるかもしれない、という発想を持ってはどうか。
 どんな物にも命が宿っている、と考えてみてはどうだろうか。
 そうすれば、物を粗末になんか、できやしない。

 そして、新しいものが古いものより上、という思いを、「本当にそうか?」と問い直す必要があるのではなかろうか。


 最近のニュースで思い浮かべるのが、ホテルオークラが、建て替えのため取り壊されることだ。

 「日本的建築美の創造」をテーマに外装、内装から各種設備まで日本古来の美しい紋様を取り入れ、海外の著名人からも愛されていたホテル。
 海外からも、多くの人が、取り壊しに反対のメッセージを送っていた。
 
 ネットで、取り壊しの理由は、国の東京五輪に向けた虎ノ門再開発を請け負うオークラの株主の森トラストの判断による、という記事を見た。ホテルより貸しビルの方が儲かるので、採算の取れないホテルが全体の再開発計画の犠牲となった形だ。
「ITmediaビジネスONLiNE」の該当記事

 それが事実なら、東京五輪に向けた「開発という名の破壊」の象徴的な出来事だろう。

 私も行ったことはあるが、たしかに古くはなったが、格調高く美しいホテルだと思う。
 「1万8000坪の芸術」と称されることもあり、多くの海外からの宿泊者が写真を撮るホテル。
 世界的なデザイナーや建築家が、取り壊しの暴挙を非難していたが、文化も美学もそっちのけので経済の論理が優先したのだ。

 新しいものの方が古いものより上、という、江戸の人たちとはまったく逆の考えが根底にあるのだろう。
 
 もっと、古い物を大事にし、目上の人を敬うことが、本来の日本人の心を回帰させることになるのではなかろうか。そして、その姿勢は、海外の人々からの尊敬を得ることにもつながる。

 この思いには、還暦を過ぎても何ら周囲から労われることの少ない親爺の僻みも、少し混じっている、かもしれない。しかし、まだまだ若いつもりなので、労われなくてもいいけどね。

 私なんか若造よりも労わられ尊敬されるべきなのは、国会デモや全国で戦争法案反対活動にに参加されている高齢者の方々だろう。

 「戦争は二度と嫌だ」という強い思い、そして、さまざまなご自分の経験を胸に、多くの七十代、八十代の方が、今の人生を精一杯自分らしく生きようとされている。


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by kogotokoubei | 2015-09-11 20:50 | 江戸関連 | Comments(0)
 落語には、富くじに関するネタが、いくつかある。

 『御慶』『宿屋の富』『富久』『水屋の富』など。

 これらの噺における富札一枚の値段は一分(一両の四分の一)となっている。

 一番富、いわゆる突き止めが千両の設定だからなぁ、とは思うものの、違和感を抱くのも当然の値段。
 
 一両の現在価値は時代によっても違うが、私が文化・文政の頃の貨幣価値として便宜的に使っている一両=十二万円で計算すると、一分は三万円。
 だから、富くじが登場する落語を聞いていて、「一分・・・いくら・・・高い!?」と思った方は多いと思う。

 私も最初は、そう思っていた。

 だが、実は、そんな高い富札ばかりではないのであったのだよ。

 この件は、NHK木曜時代劇「まんまこと」が始まり、原作を読んでいるうちに、良いきっかけをもらった気がして、書いてみようと思った次第。

 しかし、まずは、別の本からの引用。

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 「まんまこと」に登場する町名主や同心、岡っ引のことについて書いた記事で引用した、川崎房五郎著『江戸八百八町-史実にみる政治と社会』から引用する。

 富札の値段は、享保のころ金一分(一両の四分の一)などというのがあったらしいが、文化、文政の富くじ全盛のころには、ずっと大衆的な安い値段だった。寺社によってまちまちだが、一枚一朱(一分の四分の一)とか二朱、あるいは二匁五分とか一匁八分などといろいろあった。もっとも高いと裏長屋の連中には到底買いきれないので、富札を売る人が元札をあずかり、四人とか五人で組んで仮受取を出しておき、当ったら山わけなどというみみっちいのもあった。
 明和以降、この富札を寺社から委託されて売る商人ができ、文化、文政から天保にかけて、江戸市中各所に小屋がけをして富札を売る店が増加した。店をもたずに売って歩く人々もかなりできたほどであるが、値段は少しもうけて売ったらしい。

 だから、落語に出てくる富くじは、江戸時代でももっとも高かった富札の値段を採用しているわけだ。
 落語や大衆芸能、江戸の文化の爛熟期と言われる文化・文政(化政)の頃、一般的には富札一枚は一朱から二朱であることが多かったのだ。

 また、化政期には多くの寺社で盛んになり、ほぼ毎日のように富興行が開催されたと言われる。
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畠中恵著『こいわすれ』(文春文庫)

 畠中恵の「まんまこと」シリーズ、文庫の三作目となる『こいわすれ』の「鬼神のお告げ」から引用する。
 著者は、化政期を背景に本書を書いているのだろう、富札は一枚二朱となっている。

 湯島の鎮守、湯島天満宮の境内は、押しかけた数多の人々の興奮とい喧噪で、熱を帯びていた。月の十六日は天満宮にて、富くじ興行が行われる日であった。
 今回の湯島天満宮の富くじは、突き止めの最も高い当たりが、六百両という高額なものだ。それ以外にも、当たり札は多く出る。最初の当たり、初一番錐の札は、百五十両と決まっていた。他にも十両、二十両など、様々な額の金子が、当たり富に与えられる事になっていて、善男男女の夢をかき立てていた。
 富突きを行う理由として、天満宮は、修繕資金調達の為とか、神社が気の毒な子供らを助ける為とか、もっともな理由を語っている。だが、善男男女が興味を示しているのは、己の暮らしを変える程の金子であった。
「ああ、みんな当たる気満々だねえ。顔つきが違うよ」
 人混みで半分潰されそうになりながら、楽しげにそう口にしたのは、江戸は神田の町名主、高橋家の息子、麻之助であった。隣では悪友兼親友、そして町名主である八木清十郎が、やはり伸し烏賊の親戚と化している。
「全く酷い混みようだ。ああ、息ができない」
 富突きの場は怖い。押され揉まれて帯が解かれてしまうとか、髪が崩れる、袖がちぎれるなどという話を、当たり前のように聞くのだ。だからおなごは無理して、前へ来ない事が多い。

 この後、麻之助と清十郎は、天満宮の奥、富と突く場所の真ん前へとたどり着く。
 そして、次のように続く。

 富札は、結構高いものであった。今回は一枚二朱、一両の八分の一もの値がしたのだ。しかし、それでは買えぬ者も多い。だからか割り札という代物があり、麻之助や清十郎が今日手にしているのも、それであった。木札を預かった札屋が、分割して売りに出すもので、半割り札や四割り札がある。
「四割り札なら、一枚二百文もしないからね」
 それでも安くない。ないがその値であれば、一人で富札一枚を買えぬ者達も、こうして天満宮へ押しかけ、夢の端に連なることが出来るのだ。

 町名主でさえも、割り札という‘みみっちい’ことをしてまで、富くじを楽しみたかったのだねぇ。ただし、‘みみっちい’という形容は、ちょっと可哀想かもしれない(^^)

 現在でも、会社の仲間同士でお金を出し合って宝くじを買う人もいるようだが、これは割り札の伝統に由来するものと言えるだろう。

 以前に、江戸時代の貨幣価値について記事を書いた。
2015年6月12日のブログ

 江戸時代における貨幣価値は、時期により変動している。
 前回の記事で、ある本から、次のような時代による金・銀・銭のレートの相違を紹介した。

 慶長十四年(1609)
  金一両=銀五十匁=銭四貫文(四千文)
 元禄十三年(1700)
  金一両=銀六十匁=銭四貫文
 天保十三年(1842)
  金一両=銀六十匁=銭六貫五百文  

 江戸時代後期、一両は六千文から六千四百文位の間で変動したようだが、六千文の期間が長かったと言われている。
 以前の記事でも書いたが、私は、文化・文政を中心とする時代の為替を、

  一両(=四分=十六朱)=銀六十匁=銭六千文=現在価値にして12万円

 としておく。

 二朱は6000÷8で、七百五十文となる。
 よって、四割り札(四分の一)なら、麻之助が言う「二百文もしない」という言葉と辻褄が合うわけだ。
 二朱は120,000÷8で一万五千円、四割り札は、その四分の一なので三千七百五十円。

 これなら、夢を買う代金として、麻之助でも出せる範囲だったのだろう。

 ここまで書いてきて、落語愛好家としてのもう一人の自分は、
 「富札が一分だろうが一朱だろうが、落語の内容としては、どっちでもいいだろう!?」
 という声を発している。
 もちろん、そうなのだ。
 富くじが登場する落語のネタは、噺の内容全体として楽しむことができれば良いので、細かなことは、知らなくても支障はないだろう。
 たしかに、富札一枚が一分の頃もあったのだから、象徴的に値段の高い設定とした富札を買っているからこそ、僥倖に恵まれることが劇的になる。また、富くじを軸にしているものの、味わいの違う噺それぞれに魅力がある。

 とは言え、ともう一人の江戸大好きな自分は言う。
 時代小説や時代劇などで、より江戸庶民や武士などの世界を知ることで、結果として、落語の世界を補足するような情報を得ることができ、相乗的に、小説も落語も楽しむことができるのではなかろうか。

 なんとも、八方美人なサゲになったなぁ。


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by kogotokoubei | 2015-08-05 21:21 | 江戸関連 | Comments(4)
 NHK木曜時代劇「まんまこと」に関連して、名主を含む民間治安組織について、以前も書いた。
2015年7月20日のブログ
 先日は、今野信雄著「『江戸』を楽しむ」(朝日文庫)から引用したが、もう少しこの件について読んだ他の本からご紹介。
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 桃源選書で昭和42年に刊行された川崎房五郎著『江戸八百八町-史実にみる政治と社会』は、江戸の侍と庶民による治安組織の内容をはじめ、江戸を知るために、なかなか参考になる本だった。
 著者は都政史料館に在籍されていた方のようで、数多く江戸関連の本を出している。

 さえ、「まんまこと」の主人公高橋麻之助は、神田で八つの町を支配する古町名主高橋家の跡取り。
 麻之助の飄々とした姿からは、あまり名主の権威が伝わらないので、本書「名主の生活と利殖」より、名主の倅にしても結構権威があったことから、まずご紹介。

名主世襲
 江戸の名主は世襲だから、あとをつぐ倅は生れながらにして名主になる運命にある。こうした制度がどんなに「名主」というものを権威づけていたか、今では到底想像できない程である。正宝事録という本をみると、延享五年(1748)二月、銀座の畳町の名主岡本吉兵衛の倅吉左衛門が、町奉行所に出頭した時、天徳寺門前の仙石屋治兵衛という者が吉左衛門に酔って悪口をついた。酔っていたとはいえ、かりにも名主の倅に悪口をはくなど、町民として場所がらもわきまえず不届至極というので召捕りになり、江戸十里四方追放を命ぜられたとある。名主の倅に悪口をはいてもこの通りである。どんなに「名主」というものが町奉行の方からも重くみられたいたかがわかろう。

 名主の倅といえども、悪口をつくだけで追放の罪になった、というのだ。

 名主の給料については、「『江戸』を楽しむ」とほぼ同じような金額の説明があるが、具体例もあるので、引用したい。

 名主の生活の基礎は地主としてもっている土地を貸しての収入もあろうが、それは別として、多くは何町かの町を支配する、支配の役料、つまり地主階級の町人達が何かと名主さんに迷惑をかけ世話になっているからというので、町として金をあつめ、町人用の一部として名主役料というものを名主に差し出す。いわば固定した給料的な収入である。この役料が生計費の第一だが、名主によって十何町を支配する名主もあり、二、三町しか支配の町をもってない名主もある。だから年に五両か十両程度しか入らない名主もあり、五、六十両はいる名主から百両二百両に及ぶのもあって、その差はいろいろである。
 寛政年中の名主の給料の総額は二百五十人で一万三千二百余両、安政では三千五百両も増加して一万六千七百七十五両といった数字を示している。時代の下るほど人数は減少していったが、かりに二百六十人ほどでこれを割れば六十四両ほどになる。実際にはピンからキリまでといった差があった訳である。最も役料の多かったのは大伝馬町の草創名主馬込勘解由(まごめかげゆ)で三百一両と銀十二匁という記録がある。しかしこんなのは例外で、五十両から七、八十両というところが相当いたようである。
 名主の収入は正式にはこの外、増役料とか沽券書替の奥印料など何やかやと金の入る道はあったが不定期のこと、あてにはならない収入で、由緒ある用達町人として幕府の特権をもつものは別として、名主勤役中は商工業をいとなむことは禁ぜられていた。しかし十両盗めば首が飛ぶという世の中である。五十料も収入があればまあ生活は悪くない部類である。

 前回説明したように、名主は、古い順に草創(くさわけ)名主、古町名主、平名主、門前名主とわかれていた。もっとも権威があるのが草創名主で、家康の入府以前から住んでいた者と、町年寄同様、三河から家康について江戸入りしたという歴史がある名主たち。
 麻之助のような古町名主というのは、将軍家光の寛永年間までにできた三百余の町を支配していた名主である。

 たしかに、五十~八十両の年収で、悪い暮らしではなかっただろうが、先日も紹介したように、家守(大家)の方が、収入は良かったようだ。

 「まんまこと」には麻之助の友人が二人登場する。一人は同じ名主の倅、八木清十郎。もう一人は同心の家に養子に入った相馬吉五郎だ。

 では、同心とはどんな存在だったのか。これは、与力を含めて説明する必要がある。
 「与力同心」からの引用。まずは、与力の人数や収入から。

与力同心
 町奉行所の与力同心は幕府直属の武士である。しかし直属でも一万石以上は譜代大名で一万石以下が旗本御家人である。旗本と御家人のちがいは将軍にお目見えしたかしないかできまる。二男三男は養子にでもゆかぬ限り将軍御目見えということはないから御家人で終る可能性が多い。旗本御家人といってもピンからキリまである。上は九千石なんて大身の旗本だってある。こんなのは大名の一万石よりはいい位である。しかし槍一筋馬一匹の家柄などといっても、キリの方は二百石の禄米取りである。つまり知行の土地をもたず、幕府の米倉から年二回にわけて米で給料をもらい、食べる分以外の米を売って、その費用で生活を賄う身分である。
 与力は二百石の知行で、つまりキリの方に当る。しかし旗本ではない。旗本の資格ではあるが個人個人の知行所というものをもっていない。まとめて何人分という土地の貰い方をしている。与力は二十五騎ずつときまっていた。三町奉行所の時代は別として、南北町奉行所になってからは南北合計五十人である。この五十人が、上総と下総(今の千葉県)でまとめて五十人分の知行所を貰っている。ここの年貢米で彼等の生活を賄っていたのである。
 南と北の町奉行所に各二十五名の与力。年に二百石の知行は、五十人が集団(?)として持つ上総と下総の知行地から配分されていたというわけだ。

 そして、旗本と違って出世することはなく、与力は一生涯与力で特別な職業意識があったと書かれている。

 さて、次に吉五郎や、あの「必殺仕事人」中村主水の仕事であった同心について。
 俸給は三十俵二人扶持で、文字通りの薄給である。ただし、物書き同心になると三俵の加俵があり、年寄り同心になるまでつとめると五俵の増加がある。常に蔵米渡しを貰う身分で、与力のように纏めて領地を支配するといった事もない。ただし出世して「与力」になることができるが、それも容易なことではなかった。
 同心ははじめは南北奉行所五十人ずつと限られていたが、次第に仕事が増加してゆくと共に人員がふえ幕末には百二十人ずつ、南北合わせて二百四十人になった。幕末混乱の時期には特別に百四十人ずつ、計二百八十人になったともいわれている。十八人ずつの増加で二百七十六人という説もある。
 こうしたわずか与力同心合わせて三百四、五十人の人数で、百二十万の人口、世界第一といわれた都市江戸の治安を維持してゆこうとするのだから、容易なことではなかった。
 
 この少ない人数では、大都市江戸の管理が行き届かないので、そこに岡っ引の出番となるのである。
 「まんまこと」の回が進めば、吉五郎が使う岡っ引の登場も増えることだろう。
 何と言っても、時代劇では、半七、銭形平次というスター(?)が岡っ引だ。
 まず、「岡っ引」とは、どんな存在なのか。

岡っ引 
 「岡っ引」というのは「岡」つまり「傍らにいて手引きする」といった意味で、同心の手足になって働くことをいう。世間でいう「目明し」であるが、江戸では中期以降「目明し」という言葉が禁ぜられて、「岡っ引」とよんでいる。岡っ引は別に町奉行所の役人ではない。同心が目をかけている者のうち顔のきいたのが「親分」になって、何人かの居候みたいな若い者をおいて、それらをまた下の働き使いにして活躍させて、いろいろ探偵の役を果すのである。だから岡っ引というのは同心に全く個人的につながる特殊な人々でこれが活躍しないと同心もどうにもならない。片腕とたのむのはこの岡っ引の親分連である。その代り、町奉行所の定員にない人々で、町奉行も同心が何人位の「岡っ引」をつかっているのか、手当の方もどうしているのかは知らない。(知らないことになっていたのだ。)
 ただ同心は自分個人の抱えのようにして年一分(一両の四分の一)位は出していたようである。しかし、ここに問題がある。探偵として活躍するには相当の金がいる筈である。神田三河町の半七親分とか、あるいは銭形の平次親分などと「捕物帳」によくでてくるこれらの「岡っ引」の親分連が、どうして生活していたのかは、多くの作者達も書いてない。まして「ガラッ八」などという居候をいずれもが抱えていて、それらにたまには酒をのませたりする。どうしたらそのような金が出るのだろうか、こうした疑問が起るのは当然である。
 もっとも、何々親分などとよばれる岡っ引は、町の中でも顔役である。ちょっとした事件などで町方の人々から頼まれることもある。「親分のお顔を」などといわれて出て行けば、いずれお礼の金が入ってくる。地主や家持連中からのふだんのつけとどけもある。しかしとてもそんなものだけで暮してゆけたとは思われない。

 たしかに、半七や銭平の様子を見ると、もっと確かな収入源があるはず、と思う。
 その疑問を、本書では次のように解いている。
岡っ引の手当金
 しかし、この謎をとく鍵はある。それは明治になって、東京府が、それまで旧幕府時代からのしきたりとして吉原や深川の遊郭花街からおさめられてきた「捕亡方用人」名義の上納金を免除したことである。従来からの上納金というのは、天保の改革の時、隠売女(かくしばいじょ)の取締りを厳にし、私娼の絶滅をはかり、吉原や深川などの遊所を保護する政策をとるかわり、市中取締りのための南北両町奉行所所見廻り方手先の者を雇う給料分として、毎月百七十両余ずつ、そのほか人数を増すごとに次第にふえ、幕末では年に二千五百六十両という大金を南北両町奉行所に献金していたことをさすのである。「十両盗めば首が飛ぶ」といった世の中に、こんな大金が吉原と深川の遊所から献納されていたのである。
 この金が天保改革までは全くおさめられてなかったかというと、どうも、そうではなさそうで、金額はもっと少なかったろうが、かなり前から町奉行所に「上納」という形でおさめられていて、それが、つまり南北奉行所の取締りの上で、同心連中が個人的に使っている「何町の親分さん」といわれた「岡っ引」の手にひそかにわたり、岡っ引はこの金を利用して、生活費から乾分の八五郎なんて連中を養って、家にゴロゴロさせておき、いざという時には江戸中を走り廻らせるといったことを行なう費用にあてていたのである。


 「捕亡」(ほぼう」とは、逃げる者や罪人を捕らえることだ。
 そうか、吉原や深川の遊郭の治安維持のために支払われた上納金があったか。
 これで、半七や銭平親分たちの収入の謎が解けた。

 考えてみれば、我々が払う税金も、国に対する「上納金」のようなもので、その用途の一つは「捕亡」のためでもあるだろう。
 しかし、あくまで、それは悪い奴を捕まえるためであり、戦争をしようとする悪い奴に渡すためではないぞ。
 また、江戸から東京に渡り守られてきた残り少ない自然を破壊するための道路や競技場を作るための上納金でもない。
 新国立競技場は、ぎりぎりのところでリセットされたが、相当無駄に税金が費やされることには違いない。
 その責任を、誰も取ろうとしていない。
 
 江戸の町奉行、与力、同心などの幕府直属の少人数の組織や、民間の年寄、名主、家守などのよる組織で、よくもあの大都市江戸の治安が維持されてきたものだと思う。
 そこには、庶民同士の相互扶助の精神が働いたことも大きな理由だろう。薄壁一枚で仕切られた長屋暮らしは、長屋全体が一つの大家族として機能していたとも言える。
 落語は、それらをデフォルメしている面もあるが、根底には、あの世界があったのだと思う。

 また、南北の町奉行所は、今日の警察署と裁判所の役割を兼ねていたといえるが、当時としては正当性があったのだろう。
 しかし、権力が集中することによる弊害を解消するために、今日では、役割は分担され、「捕亡」と「裁き」の役割は分かれている。
 それは、「独裁」を防ぐためだ。

 国の仕組みも、本来は三権分立であり、司法・行政・立法のそれぞれの府が、お互いの立場を全うすることで、お互いが牽制し合うことで、健全化が図られるはずなのだ。

 しかし、現在の日本はどうか・・・・・・。

 とても、八五郎や熊五郎、横町のご隠居が平和に馬鹿話をしている時代とは違い過ぎている。

 「まんまこと」に登場する人々のことを調べるにつれて、どうしても、現在のこの国のあり方にまで思いが至るのだ。

 今や、国民一人一人が「岡っ引」のつもりで、逃げる罪人を「捕亡」しなければならないのかもしれない。
 戦争反対と叫んで、悪人に税金の「銭」を飛ばさなければならないのだろう。
 
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by kogotokoubei | 2015-07-28 12:30 | 江戸関連 | Comments(2)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛