噺の話

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カテゴリ:テレビの落語( 97 )

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NHKのホームページより
 初回放送は4月7日だったが見逃したので本日再放送で見た。昨年4月にも落語家の柳家金語楼が登場したことを思い出す。
 正直言って、見ていてつらいものがある。命日は平成11(1999)年4月19日なので、亡くなってすでに10年の歳月が過ぎようとしている。もう、十年か。

 神戸大学を中退し昭和35(1960)年に21歳で米朝師匠に入門し、ABCラジオの「漫才教室」で名を上げた漫才少年前田兄弟の兄、前田達(とおる)は落語家の桂小米となった。兄弟子は現在の月亭可朝を含め二人いたが、いずれも通いだったので、初の住み込み弟子であった。入門当時の稽古熱心ぶりはすごかったらしい。

 朝日新聞大阪の学芸部編集委員として枝雀本人とも懇意だった上田文世さんの著『笑わせて笑わせて 桂枝雀』(淡交社)から引用する。今日の内容は、引用のみならず、多くをこの本に因っている。
上田文世_笑わせて笑わせて 桂枝雀
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小米の稽古熱心さは尋常ではなかった。深夜、この道をブツブツ言いながら
歩いて、警察に通報されたことがあった。米朝家では、ちょうど、長男の現
小米朝に続いて、双子の二、三男が生まれた頃だ。子守を頼むと乳母車を
押して出て、しばしば行方不明になった。さほど遠くない所に住む姉の絢子
さんにも同じ年代の子どもがいた。小米は度々そこに双子を任せては、ネタ
繰りにでかけた。「一緒に外出しても駅のホームで稽古をする。こっちはホ
ームの端の方に寄っていったもんです。」と米朝は言う。
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 昭和48(1973)年に二代目枝雀と襲名する直前に、最初のうつ病になっている。放送は、その病気を振り返ったり、どう乗り越えたかということにも少ない中で多くの割合を割いている。収録された番組は昭和50年代後半が中心で、四十代で全盛期の彼の姿が映される。しかし、そこまでの道のりは決して平坦ではなかった。昭和45(1970)年、31歳の年に七歳年下で「ジョウサンズ」という女性漫才トリオのメンバーだった志代子さんと結婚し、二年後に長男が誕生。結婚した翌年に、弟子のべかこ(現、南光)と米治(現、雀三郎)との三人で「桂小米の会」が伊丹の杜若寺で始まった。その後、会場を変えながら枝雀襲名まで続いた、入場者の最低が23人、最高が120人というこの会が枝雀の重要な修業の場であったことは間違いない。そして、枝雀襲名を目前にして、病が襲った。前掲書には、その頃のことがこう書かれている。
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「好事魔多し」というが、すべてがうまく走り出したところで暗転があった。小米
が「演芸場に行きたくない」と言い出したのだ。73年2月1日、大阪・道頓堀の
演芸場、角座の上席(一日から十日までの興行)初日だった。志代子は「お父
さんを送ってくるわ」と弟子に言って、小米と一緒に自宅を出て、いつもの角で
タクシーを拾った。「車に乗ったので舞台着を渡そうとしたら、降りてきて『怖い、
行かへん』と言って、その場にしゃがみ込んでしまったんです」と志代子。
「えらいことになりました」と米朝に電話。会社にも電話して代演を頼んだ。それ
からは、いろんな病院、医院を巡った。診断は強い鬱病だった。
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 その後、定時制高校時代の恩師森本先生や、阪大病院(当時)の柿本医師の努力もあり、小米は快方に向かった。前掲書から再び引用する。
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「長らく『心の旅』に出ておりましたが桂小米がこの度、無事帰国いたしました
ので、再びここに『桂小米の会』を開かせていただきます。」73年4月16日に
再開した「第十八回小米の会」の案内状には、そう書かれている。小米の
「心の旅」は三カ月で終わった。小米の演目は『崇徳院』と『悋気の独楽』。
前回の五十人から百二十人と、倍増したお客さんで小米は力強く復活した。
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 しかし、四半世紀後に病が再発。そして十年前の3月13日に自殺をはかり約一ヶ月後に息を引き取った。この放送のキーワードとして取り上げられている、最初のうつ病を克服したことに関し語られた次の言葉は、あまりにも重い。
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「自分を思うことが 自分を滅ぼすこと。
人を思うことが 本当は 自分を思うこと。」

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 自殺の際に遺書はなかったが、枝雀が一枚残した紙きれに、復帰後予定していた20日間連続で毎日3席づつ披露する独演会「枝雀六十番」のネタ順が書かれていたという。その一部を紹介。
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初 日  延陽伯・一人酒盛・どうらんの幸助
  ・
三日目  代書・植木屋娘・愛宕山
四日目  壷算・くやみ・高津の富
  ・
七日目  七度狐・くしゃみ講釈・寝床
  ・
十二日目 鷺とり・宿替え・仔猫
  ・
十四日目 時うどん・雨乞い源兵衛・質屋蔵
  ・
十九日目 幽霊の辻・替り目・茶漬けえんま
千秋楽 つる・景清・崇徳院
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 残念ながら実現しなかった六十席の豪華なこと。どのネタもいまだにしっかりと耳に蘇る名演だ。たった10分の放送の中でも、「代書」「壷算」他いくつかのネタのワンショットが盛り込められている。「たら」「れば」の話ではあるが、元気だったならば、十分実現できたと思う、実現して欲しかった。昭和56(1981)年と昭和60(1985)年の二回、枝雀は一日三席の連続六日間の独演会「枝雀十八番」をサンケイホールで開いている。しかし、幻の「枝雀六十番」は毎日ネタを替えての20日間。単純に比較はできないが、志の輔inパルコは、同じ三席での連続公演である。凄いイベントになっただろうし、もしチケットが手に入ったら会社を休んででも行ったかもしれない。

 放送のタイトル通り、まさに「あの人に、そして、あの噺に会いたい」と思わせる。

 笑福亭松鶴師匠は、どんな時でもネタを繰っていた枝雀を称して、「あの男は、雨のしょぼしょぼ降る晩に、窓を開けてニタニタと笑う癖がある」と言ったらしい。今日の放送でも、傘をさし「ニタニタ」して歩きながら稽古する姿が印象的だった。「天才」とも言われるが、とんでもない努力の人であり、目一杯に真面目な人だったのだろう。収録された番組の姿と晩年への思いが交錯し、切なさと懐かしさが一緒にあふれ出てきた。
*教育テレビとデジタル教育では、まだ再放送があります。興味のある方はどうぞ。
  ・4月14日火曜日 午後2:30 ~ 午後2:40 教育/デジタル教育

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by kogotokoubei | 2009-04-11 16:59 | テレビの落語 | Comments(2)

落語研究会 BS-i 3月1日

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芸達者な三人の噺を楽しんだ。

○春風亭一朝 『二番煎じ』
大きく次の3つの場面がある。
・「火の用心」の夜まわり
・番小屋での宴会
・見回り役人登場
それぞれに聞かせどころ、見せ場があるが、そつなくしっかりとこなした、という感じ。
この会の名前がそうさせるのか、夜まわりでの「火の用心、さっしゃりゃァしょう・・・・・・」の声はやや硬すぎる気もしたが、猪鍋を旦那衆がつつく場面のやりとりや、見回り役人登場後のお約束の「宗助さんが」など、落語としての壷を押さえた芸である。この噺は、ある意味で江戸時代の町人文化を伝える重要なネタとも言えるので、ぜひ弟子にも受け継いでいってもらいたい。四天王と言われた先代柳朝の総領弟子で、入門は小朝の先輩でありながら真打昇進では小朝に先を越された。しかし本寸法の古典落語で寄席の主任を安心して任せられる人であり、弟子もよく育っている。何より弟子が師匠の名を継ぐことができたことが、亡き先代への供養となっている。こういういぶし銀の噺家さんがどれだけいるかが、実は落語という芸の底力につながっているのだと思う。

○柳家三三 『不孝者』
両国駅前のコンビニに入った浴衣姿の痩せた三三を見ているおばさん達が、「あれじゃ勝ち越せないわよねぇ」と言っていた、というマクラのギャグが楽しい。このネタを最初に使ったのは、たぶん2007年7月27日、まさに両国は江戸東京博物館で開催された第一回らくだ亭「柳家小三治一門会」だと思う。その時はお腹がよじれるほど笑った記憶がある。よほど気に入っているのだろうその後もよく聞き、その度に笑える。ちなみにその一門会で三三は『笠碁』を渋く語り、その後に師匠小三治は『死神』で場内をうならせてくれた。さて、テレビの噺に戻ろう。ちょっと風邪気味のようで鼻声だが、噺はしっかりしていた。かつて三遊亭円生くらいしか演じなかった珍しいネタ。放蕩人の息子を脅かして懲らしめようと、息子が遊んでいる柳橋の貸し座敷の物置に飯炊きの清蔵に化け潜んでいる旦那。待っている間に昔別れた芸者と偶然顔を合わせる。この噺は旦那とこの年増芸者との会話がヤマなのだが、なぜか34歳のこの人が旦那も芸者も巧いのだ。講釈ネタもいいが、こういうネタも今後十八番の一つになりそうだ。

○柳家花緑 『長短』
登場人物が二人だけだが、難しい噺である。花緑の師匠小さんも良かったが、三代目の桂三木助のこの噺も捨て難い。人間国宝の祖父から特訓で身につけた芸は、さすが魅せるものがある。
小三治師匠は『落語家論』の中で、二つ目時代に師匠小さんのこの噺を人形町末広の高座のソデで見ていた時の驚きを次のように書いている。
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ダラダラした長さんの話を聞いているうちに短七つぁんがイライラ
してくるわけだが、イライラしてくると、座っている師匠の足の指が
ピクピク動いたのである。お客さんからは、どんなことがあっても
見えない場所だ。ボクはそれを発見したうれしさとあきれ返ったの
とで、ボーッとしてしまった。
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長さんの気の長さ、短七の気の短さは、仕草を含めた芸で伝わらないと、これほどつまらない噺もない。しかし花緑の芸には背後に相当の稽古数を感じさせるものがある。きっと足の指がピクピクしていたに違いない。かつて落語からテレビに舞台を移し、そしてまた最近は落語を披露する機会のある桂小金治さんのこの噺が素晴らしかったと聞く。ぜひ機会があればめぐり合いたいものだ。

チケット入手が難しく、かつサラリーマンにはなかなか出かけにくい時間帯で開催される落語会。せいぜいテレビで楽しみたいものだが、京須さんの意欲的な人選やネタの選定でバリエーションは広がったものの、ブログに書き残したいと思わせることが意外に少ない気がする。人気もあり実力のある噺家さんがたくさん出演するが、必ずしも良い出来映えばかりではない。この会独特の雰囲気やネタとの相性などが微妙にプレッシャーとなっているのかもしれない。しかし、今日は噺家とネタの組合せも良く、加えて寄席の雰囲気も伝わる良い会だったと思う。人情噺の大ネタばかりが落語ではない、そんなことを伝えてくれたような気がする。
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by kogotokoubei | 2009-03-01 17:02 | テレビの落語 | Comments(2)
大賞受賞者が誰かはすでに知っていたが、本日テレビにて確認。

登場順は次の通り。
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(1)笑福亭喬若   『青菜』
(2)三遊亭王楽   『鼓ヶ滝』
(3)桂まん我     『野ざらし』
(4)立川志らら    『壺算』
(5)古今亭菊六   『やかん』
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ご存知の通り大賞は王楽。

ライブでご覧になった落語ファンのいくつかのブログでも、いろいろ選考結果への疑問が投げかけられていたが、私も素朴な感想として違和感がある。もちろん、「評価」そのものが個人の好みに頼るわけだし、加えて複数の審査員で合意をとるなどという場合は、声の大きな人、いわゆる「偉い人」の影響力が強くなるだろう。あるいは、何らかの政治的な配慮が働かないとも言えないだろう。

個人的な順位と100点満点の点数を記します。
100人落語ファンがいれば、100通りの順位があっていいでしょう。

1位 菊六  85点 
2位 まん我 82点
3位 志らら  75点
4位 喬若  73点
5位 王楽  72点

菊六とまん我が決選投票の結果菊六、という印象である。
まず、80点以上が、菊六とまん我の二人。
70点から80点までに他の三人、という感じだ。
参考になるかどうか、昨年のこのイベントについて、あえて私が採点をするなら、春風亭一之輔 『鈴ヶ森』と桂よね吉 『芝居道楽(七段目)』が 85点で同点、他の三人は80点以下という評価になる。ただし、古今亭菊六 『権助提灯』 はほぼ80点という感じで、出来は悪くなかった。「この人はなかなか古典落語の空気があって、いいなぁ。」という印象を持った記憶がある。

王楽のネタ選びを寸評で評価した審査員がいたが、それを言うなら上方の噺家では非常に珍しい『野ざらし』を選び、違和感を感じさせなかったまん我のチャレンジ精神のほうが評価されるべきだろう。
喬若は、やはりトップバッターというのが緊張を強いたと思う。この人は初めて聞いたが、上方にしてはおとなしい落語だが、基本がしっかりできているように思え、先が楽しみだ。
志ららは、「暴れてやる」という思いが強すぎたのか、ちょっと自分でスピードをコントロール仕切れていなかったように感じた。二つ目で当たり前だが、まだこのネタをこなし切れていないと思うし、ネタに助けられている面とネタに負けている面が五分五分という感じだった。
王楽は何度かライブで聞いているが、今回の出来そのものは悪くない。しかし、とてもこの五人の中で1番、とは思えない。
菊六の『やかん』は、間違いなく真打レベルの内容であり、川中島の決戦の講釈語りの場面も堀井憲一郎さんの寸評の通りで澱みなく、全体として゛古典落語の居心地よい場゛をつくってくれたように思う。もしかしたら、少しくらい噛んだほうが、審査員達のウケは良かったのでは、と思うほどの出来だった。(この皮肉が審査員に届くかどうか?)菊六という噺家の醸し出す懐かしい落語の世界があったようにも思う。
私のつける順位も、もしまん我が得意の上方落語で勝負していれば、どうなったかはわからない。

他のバラエティ番組やものまね番組では、ほとんど意味のない点数で審査結果が明らかにされるが、それは別として、このイベントも、そろそろ審査結果について、もう少し説明責任を感じてもらう必要があるかもしれない。
来年の王楽の真打昇進という話と、彼のガッツポーズに妙に寂しいものを感じた。他にも若手を対象としたコンテストはあるが、やはりもっとも重要視されているイベントである。無記名でいいので、審査員の採点結果の合計位は明らかにしてはどうだろうか。番組冒頭に3つの基準、という話もあった。それぞれの項目別に採点しているなら、項目別合計点と総合計点を公表するのが親切かもしれない。もし、そういったデジタル的な集計などなく「話し合い」で決めた、というなら、誰が誰を推したか、ということだけでも明確にして欲しい。ライブでは、そういう選評もあったのだろうか。どなたか教えていただけるとうれしい限り。菊六の悔しい表情がやけに印象深かった。
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by kogotokoubei | 2008-11-24 17:30 | テレビの落語 | Comments(0)
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NHK総合テレビの「プロフェッショナル 仕事の流儀」の今日(日が変わったので昨夜だが)は、100人目という特別版で柳家小三治師匠だった。
小三治師匠の本の中で読んだ内容もあったが、本人の生の言葉で語られるさまざまなエピソードが非常に刺激的だった。師匠小さんが「お前の噺は面白くねぇな」の一言からの苦悩。志ん生の言葉「落語を面白くするなら、面白くしようとしないことだ」という珠玉の名言。これまで、この名言は師匠小さんのアドバイスだとばかり思っていたので、意外な発見である。小さんの有名なアドバイスは「その料簡になることだ」であり、よく言われるのが「狸の噺なら、狸の料簡にならなきゃいけねえ」である。だが、今日の放映には一切この小さんの口癖のことは話題は出てこなかった。「おもしろくねえなぁ」と言ったきり床屋へ行った師匠はひどい、という発言は面白かったが。

今年8月に主任をつとめた池袋演芸場上席昼の部での姿が取材されており、プログラムの中心として使われていたが、初めて見る六畳という狭い楽屋を含め、貴重な映像だった。中休み前の三日目、その日のネタが決められず、よもやま話のマクラで探りながら始めたのが十八番の一つ『あくび指南』というのが驚きだった。こういう噺は、ある程度決めていないと出来ない噺ではないのか、という疑問である。さすが名人と思わせる一瞬だった。楽日前日の逸話も興味深い。前座が漢方薬の入った湯呑みを出し忘れていた。しかし、この萎えかけた自らにつぶやいた言葉が「小さく、小さく」だったと言う。ついつい受けようとする気持ちを戒める言葉とのこと。そして始めたその日のネタが『死神』。その時のくじけかけた気持ちをそのまま主人公の惨めさに投影したのであろう。このへんが名人芸なのかと得心した。そして、楽日は『宿屋の富』。

もちろん、落語ファン、小三治ファンには、8月の池袋でのネタの説明は不要かもしれないが、それぞれの「楽屋話」があって、師匠の心の動きがうかがえるようで、゛えっ、この時にこのネタ゛という意味で書き記しておきたかった。

上野鈴本で恒例だった余一会での独演会は今年で終了らしいが、池袋の真夏の主任興行は、どうも小三治師匠自身が”まだ頑張れるだろうか”ということを測るバロメーターと考えているようであり、また「江戸っ子」としての寄席へのこだわりでもあるようなので、しばらく続けてもらえそうな気がした。もちろん、「無理をするこたぁねぁ」と思ってやめても不思議はないのだが。
真夏の池袋、平日の昼席、夏休み前でいろいろ忙しい時期、しかし来年もご出演いただけるのであれば休みをとってでも行って、立ち見でもいいから行ってみようかと思った次第である。あの狭い特殊な空間で演者の呼吸音が聞こえる寄席というものは、なかなかホールでは味わえないものだ。

ちょっとだけ、師匠小さんとのやりとりについて補足したい。小三治師匠の著書『落語家論』の中で、次のようにある。第一章の「面白くねぇな」の部分から抜粋する。
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「お前の噺は面白くねぇな」
このひとことは効いた。グサっと心の臓を突き抜けた。しかも、どうしたら面白くなる
のでしょうかとは聞けない威厳があった。そんなことは自分で考えるのだ、人に聞く
もんじゃないうという、裏を含んだ口調であった。
(中略)
ボクは、師匠小さんはほったらかしで何も教えてくれない、と愚痴を言っている訳
ではない。その逆で、よくほったらかしにしてくださいました、という気持ちでいっ
ぱいだ。ここはこうやるんだよと親切に教えてくれれば、なんとかそのようにできる
かもしれないが、それ以上のものはできなくなってしまわないだろうか。
(中略)
あるとき、師匠が「気の長短」を演じるのを人形町末広の高座のソデで見ていて、
ハッとした。気の短い方がじれてくるところがあの噺では一番むずかしいのだが
(これもずっとあとになってわかってきたことだが)、その短七つぁんにハッとした。
ダラダラした長さんの話を聞いているうちに短七つぁんがイライラしてくるわけだが、
イライラしてくると、座ってる師匠の足の指がピクピク動いたのである。お客さん
からは、どんなことがあったって見えない場所だ。ボクはそれを発見したうれしさ
とあきれ返ったのとで、ボーッとしてしまった。
「その料簡になれ」
なァるほどなァ。イライラするときは足の指を動かせ、と、もし教わったとしたら、
フーンそんなもんかで終わっちまっただろう。
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月報『民族芸能』に連載された「紅顔の噺家諸君」というタイトルのエッセーを中心に本書は2001年に小沢昭一さんが発行者である”新しい芸能研究室”から単行本で発行され、昨年末、ちくま文庫でも発行された。上記の内容は昭和61年に書かれたもので、小三治師匠がまだ40歳代である。さすがに筆に勢いがある。68歳の今日の番組を見たことで、この本を読み返す楽しみも増した。私にとっては、著作と映像、昔と今、師匠と弟子、寄席とホール落語、といった複数の対比を楽しむことにつながる好企画だった。そこには、司会者とゲストという対比もあって、さすが小三治師匠、冒頭では司会者の茂木健一郎さんを鋭い質問でやり込める一瞬があり、このあたりも「名人」、なのである。

柳家小三治_落語家論
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by kogotokoubei | 2008-10-15 00:27 | テレビの落語 | Comments(2)
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10月8日の再放送を収録しており、今ほど見たところでの感想。噺の内容よりも、終わってからの思い出話が興味深かったので、備忘録がわりに書いておきたい。

志ん五師は、志ん生に入門するつもりだったが、志ん朝にあづけられ、今では志ん朝一門の総領弟子の立場にある。初高座の話。昭和43年の上野鈴本、1月2日の初席で主任が志ん生。志ん生の寄席への出演はこの初席が最後であった。志ん五師、自分の前座名である高助と、トリの大師匠志ん生の名が並んだ記念のネタ帳を鈴本の倉庫で探し特別に譲ってもらい、大事な宝物にしているとのこと。
初高座でぎりぎり名人志ん生と同じ寄席の空気の中に居ることに間に合った、というのは確かに感慨深い思い出であろう。

また、当時師匠の志ん朝師匠の忙しさは半端ではなかったようで、なかなか稽古をつけてもらえなかったため、一緒にいる時間が長かった志ん生大師匠に稽古をつけてもらった噺が『道灌』『金明竹』『宿屋の富』など十くらいはあるとのこと。そして、クルマで移動する前に運転席の志ん朝師匠が志ん五師を後部座席に乗せ「オヤジに教わった噺をやってみな」とばかり聞いてくれたらしい。バックミラー越しの弟子がさらうのを見聞きし、ひどい出来の場合は「よほどオヤジが具合の悪いときに習ったな、そんなマクラはその噺ではふらないんだ」と駄目出しをしてくれたらしい。想像するにも微笑ましい光景だ。

そして、志ん五師が一番覚えているのは、志ん朝師匠が、「たとえ志ん生だって間違いは間違いだ。俺も神様じゃないんだから間違う時はある。オマエは『師匠は間違えたな』という耳だけは持たなけりゃだめだぞ」と言った言葉とのこと。このへんが、志ん朝の志ん朝らしいところなのだろう。

大師匠と師匠の名人親子、それは大師匠志ん生と師匠馬生の関係でもあり、古今亭一門も金原亭一門にもさまざまな思い出が伝わっているだろう。昭和48年に亡くなるまで、二人の息子とその一門の弟子達に多くの落語のDNAを伝えたであろう志ん生。その生き証人がまだ元気なうちに、もっとさまざまな逸話や記憶を語っておいて欲しいし、書き残して欲しい、と強く感じたエピソードだった。
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by kogotokoubei | 2008-10-11 17:14 | テレビの落語 | Comments(0)
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昨日のNHK BS2での放送。東京落語会のライブラリから、うれしい映像の登場。昭和53(1978)年10月13日の「夜の指定席」で放映されたらしいが、落語会の開催はこの年の8月18日。
当日の演目は、
2代目 柳家さん助         『湯屋番』
2代目 桂文朝          『三方一両損』
4代目 三遊亭小圓遊        『崇徳院』
10代目 桂文治(当時は伸治)  『三国誌』
そして
10代目 柳家小三治        『天災』
3代目 古今亭志ん朝       『たがや』
*『ご存じ古今東西噺家紳士録』(エーピーピーカンパニー)より

当時小三治師匠が誕生日が12月だから満で38歳、志ん朝師匠40歳である。ともかく若い、そして二人とも達者である。仲入り後の二人の噺をノーカットで放映していると思われる。

『天災』は、時間の都合なのか、今では考えられないがマクラなし。「おらぁ江戸っ子だからねぇ、職人だから・・・・・・」の台詞が小三治師匠ならではのリズムをつくっていて心地よい。途中で煙草屋に立ち寄らずまっすぐに紅羅坊先生宅へ行くなど、刈り込み方も適切で、まったくあきさせない。30代の貴重な映像である。

『たがや』は歌舞伎の大向こうからの掛け声をマクラにして本編に入っている。よく言われる「唄う」ような流暢さでうならせる。不惑を迎えたばかりの志ん朝師匠は、直前に起こった大騒動の疲れも見せず、「芸のみに生きる」という気持ちの切り替えができていたのかもしれない。たが屋の立ち回り場面も含め、実に爽快な芸を見せてくれる。

昭和53年の大騒動というのは、あの落語協会分裂騒ぎのことである。
落語界にとって重要なエポックなので少し説明すると、こんないきさつである。
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5月9日の落語協会理事会で、同協会前会長であった6代目三遊亭圓生が大量
真打昇進に異を唱え、同制度を推し進めていた常任理事5代目春風亭柳朝、
4代目三遊亭金馬、3代目三遊亭圓歌を更迭し代わりに自分と同調する圓楽、
談志、志ん朝を常任理事にして同制度を白紙撤回する議案を出す。だが、賛成
は圓生と志ん朝だけ、圓楽と談志は棄権し、その他全幹部は反対したため大差
で否決されてしまった。圓生は一門を率いて新協会設立にに動き始め、5月24日
に赤坂プリンスホテルで新たな落語三遊協会の設立記者会見を行った。しかし
翌5月25日の席亭会議で、それまで新協会設立に理解を見せていた席亭達も、
新宿末広亭の北村席主の意見に従い、三遊協会には寄席を使わせない事を
決定。志ん朝、圓蔵、圓蔵門下の圓鏡は5月31日にそれぞれ落語協会からの
脱退を撤回。しかし、圓生一門は翌6月1日正式に落語協会を脱退。6月14日、
上野本牧亭で三遊協会を旗揚げした。
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ご存知のように、この翌年圓生は亡くなり、三遊協会は円楽党となった。
この騒動に関しては、三遊亭円丈、金原亭伯楽の両師匠によってリアルに騒動の内幕を明かした本があるので、別の機会にでも紹介したい。
この騒動のすぐ後、6月24日に三百人劇場で「志ん朝の会」が開催された。CDにも残る当日の『三軒長屋』のマクラでは、天候不順のことに続き「とにかく今年は大変な年で~お客様だけが頼りです。」と語って、場内からの笑いと拍手を誘っている。
このCDは、数ある志ん朝ライブラリの中でも、その出来栄えと歴史的な意味を含めトップ10に入ると思っている。

『よってたかって古今亭志ん朝』(文春文庫)の記録による昭和53年の志ん朝師匠の主要落語会での演目は次の通り。
1月13日 東京落語会  『ぞろぞろ』
3月29日 東横落語会  『碁泥』
3月31日 落語研究会  『幾代餅』
4月6日  志ん朝の会  『柳田格之進』『愛宕山』
5月29日 東横落語会  『船徳』
6月24日 志ん朝の会  『三軒長屋』『子別れ(下)』
6月29日 落語研究会  『酢豆腐』
7月31日 東横落語会  『宗の滝』
8月15日 落語研究会  『紙入れ』
8月16日 紀伊國屋寄席 『鰻の幇間』
8月18日 東京落語会  『たがや』*8月20日放映されたのはコレです。
8月30日 東横落語会  『唐茄子屋政談』
9月29日 東横落語会  『蒟蒻問答』
11月17日 東京落語会  『三枚起請』
11月19日 東横落語会  『猫の皿』
12月5日 志ん朝の会  『居残り佐平次』『芝浜』
12月26日 落語研究会  『居残り佐平次』

放送された『たがや』を演じた8月のスケジュールの過密なことに驚かされる。
京酢偕充さんプロデュースによりソニー・ミュージックから発売されているCDは、昭和51年から昭和57年にわたって三百人劇場で開催された「志ん朝の会」と、昭和56年の「志ん朝七夜」が音源の中心となっているが、この年の3回計6作品のうち5つはCD化されている。『芝浜』だけは、翌年11月の大阪での独演会の内容が七夜での『百川』とのカップリングで発売されている。この時期の志ん朝師匠の充実度は際立っている。

NHKの東京落語会に志ん朝師匠は昭和34年10月(なんと師匠21歳!ネタは『元犬』)から亡くなった平成13年の2月まで計71回出演している。
NHkさんには、もっと放送する機会を増やしていただきたいと願う落語ファンは少なくないはずだ。
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by kogotokoubei | 2008-08-21 12:21 | テレビの落語 | Comments(0)
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昨日の深夜、正確には本日の早朝、古今亭志ん朝のDVD発売記念、ということでTBS「落語研究会」で放送された。解説の京須さんによれば、昭和48(1973)年、志ん朝が35歳のとき、父親志ん生が亡くなった年の収録とのこと。調べてみると10月31日の公演であり、志ん生の命日が9月21日だから、亡くなってから約1カ月後、ということになる。すでに発売されたDVD(上)に収録したものは平成10(1998)年、60歳のときの収録だから、見比べるのには適した選択といえる。
志ん朝の落語に関するテレビ放送の記録は、NHKも数多く所有しているのだろうが、残念ながらDVD化はされていない。「落語研究会」のDVDは、解説で登場した京須偕充さんが監修だが、発売にあたってこの人の存在が大きいだろう。志ん朝が唯一人CDのプロデュースを許した人であり、榎本滋民さんを継いだ「落語研究会」の解説者でもある。音だけでも記録に残すことを渋っていた志ん朝、映像の発売には遺族も慎重であったろうし、京須さん自身も複雑な思いがあったに違いない。いきさつはもちろん私などに知るすべはないが、昨年七回忌、今年3月が生誕70年ということで、何らかの縛りがほどけ、あるいはふんぎりがついてのDVDの発売、そして昨夜の放送ということなのだろう。

とにかく若い。35歳の志ん朝の芸は、その20数年後の円熟した味わいがないかわりに、溢れんばかりのパワーとスピード感がたまらない魅力となっている。前年昭和47年に文部省芸術選奨を受賞し、長男も誕生している。3年前からテレビ時代劇「鬼平犯科帳」に木村忠吾役で出演、のり平劇団でも看板俳優として活躍していた時期で、文字通り“油が乗っている”時期だ。父志ん生が磨いた噺に自らの工夫も加え、観客を笑わせながらも登場人物を見事に演じ分け、おもわず「うまい」と声をかけたくなる場面の多い名演である。

志ん朝の芸の記録は、落語ファンと落語界で広く共有すべき財産ではなかろうか。これを機に、NHKが所有する「東京落語会」などの財産が、時おり思い出したようにBSで放送されるだけではなく、DVD化してリリースされることを期待したい。『愛宕山』『大工調べ』『酢豆腐』など「落語研究会」の内容とは時期、場所の違う内容を見比べることもできるし、NHKにしか残っていない貴重な記録も多いはず。

DVD発売のキーマンである京須さんには、ちくま文庫『志ん朝の落語』全6巻をはじめ数多くの落語関係の著作があるが、もっとも意欲的かつ革新的な作品は『らくごコスモス』(弘文出版、1996年)だと思う。落語関係本の復刊で奮闘している某出版社などでぜひ再刊されることを祈る次第である。
らくごコスモス
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by kogotokoubei | 2008-06-15 12:07 | テレビの落語 | Comments(0)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛