噺の話

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カテゴリ:江戸・東京落語界( 4 )

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暉峻康隆著『落語の年輪-大正・昭和・資料篇』(河出文庫)

 主に暉峻康隆さんの『落語の年輪』に基づき、ほぼ百年前の東京落語界を振り返るシリーズの四回目。

 大正九年十一月、それまでの東京寄席演芸株式会社(会社)、落語睦会(睦会)、東西落語会の三派に加え、五厘の大与枝が再起をかけて睦会の分断を仕掛けて新睦会が発足。それを機に噺家の引き抜きや移籍が続き東京落語界は混迷していた、というところまでが前回。

 さて、そんな状況を、メディアはどう伝えていたのか、という部分から再開。

 咄が聞きたくば会社派へ、見物したくば東西派へ、にぎやかなのがよければ睦会へ、浪人不平党がよければ新睦会へ、というのが大正十年(1921)三月一日付の「都新聞」の評判である。ところがそれから半月後には、新睦会と円右の三遊派が“東西落語会”に合併したので、これでまた東京落語界は、会社派と睦会と三派合同の“東西落語会”の三派になったわけである。

 あらら、また三つになったんだ。
 と、思ったら。

 ところが、三派でしばらくおちついていた大正十年の東京落語界も、秋になるとまた一騒ぎが持ち上がった。それは神戸の吉原派が、鈴本一派の東西落語会から分立し、神田の入道館と浅草の江戸館などを根城として“扇風会”と称し、競争することになったからである。その扇風会は、明けて大正十一年の一月から、事務所を日本橋蠣殻町に設け、扇風会改め“東西落語演芸会”と称することになったので、東西落語会はたまりかねて、七月になると“東洋会”と改称している。

 まさに、離合集散。
 この後に、当時の落語界で中心となった人物として、品川の円蔵と言われた四代目橘家円蔵のことが書かれている。
 当時、東京落語界でもっとも勢力があったのは、この四代目円蔵であった。東京の三派へはもちろん、京都へも門人を出しているのはこの円蔵だけで、東西派へは円坊、文三、円幸、睦派へは円都、大阪へ蔵之助、花橘、京都へ一馬、桂州、蔵造、会社派へは御大自身の出馬だけに、円窓(のちの五代目三遊亭円生)を旗頭に、円好(六代目円生)、小円蔵の新進に、円兵衛の古参をしたがえていた。そのほか地方(どさ)回りや修業中の若い者を入れると同勢は約百人というのであるから、まさに円朝亡き後の最大の勢力といってよかろう。
 百人の一門・・・とは凄い。

 また、この時期に今につながる興行形態の変更があった。
 それは、睦会が、それまで月二回替り興行だったのを、上席一日、中席十一日、下席二十一日としたのである。

 三派が争う中で、大正十二年が、明けた。
 離合集散の動きは、その後、おさまっていたのだが。

 ところが、そのしばらくの平穏も、今度は落語界というコップの中の嵐ではなく、九月一日の関東大震災という天災地変によって、東京落語界は壊滅してしまった。
 まず市内の寄席では、会社派に属している神田の立花亭、両国の立花家、本郷の若竹亭、雷門の並木亭、京橋の金沢亭は焼失、わずかに駒込の山谷亭、四谷の若柳亭の二、三が残るのみとなった。
 睦会の席では、四谷の喜よし、駒込の動坂亭、青山の富岳座、同じく新富岳、牛込の神楽坂演芸場、小石川紅梅亭、渋谷演芸場などを残し、他は全部焼けてしまった。
 多くの落語家が焼け出された中で、運わるく本所被服廠跡に避難したために死亡したのは、坐り踊りの名手であった麗々亭柳橋、それに古今亭志ん橋、音曲師の三遊亭花遊、手品師の帰天斎小正一、柴笛の山田天心であった。この四人の合同追善法要は、翌月十九日、浅草観音堂で営まれた。
 また市内の寄席の看板およびビラを扱っていた専業者は、三光新道のビラ辰、神田三崎町のビラ万、それに廓橋の村田などであったが、三軒ともにこの大震災で類焼してしまったので、当分は江戸趣味の木版のビラは見られないことになってしまった。

 実は、上記の文を含め、大震災以降の東京落語界については、以前に落語協会の成り立ちとして記事にしている。
 同記事は、協会のホームページの改悪のことにも多く触れているが、冒頭にはこのシリーズ一回目で紹介した大正六年の出来事など紹介していた。
2015年4月11日のブログ

 重複する部分のあるが、大震災の後のこと。

 不幸中の幸いは、落語家の大部分が無事だったことで、九月十六日には早くも動き出し、落語睦会では当日から五日間、牛込の神楽坂演芸場と白山下の紅梅亭で、罹災者慰問のため、無料演芸会を催した。講談奨励会でも、震災後ただちに地方の災害地慰問委員として、貞丈や若狸(じゃくり)などを近県に派遣していたが、十月二十日には日比谷公園音楽堂で無料講演会を催し、これを第一回として諸方で催すことになった。
 被害に遭った落語家もいる。五代目麗々亭柳橋は火災のため焼死している。
 しかし、人数的には、名人たちの多くが健在だったことは、東京の落語界にとって救いだった。その名人たちの動向のこと。

 そうした動きの中で、かねて隠退を希望していた柳家小さんは震災を機に決意し、九月十七日に上野桜木町の家を引き払って蒲田の隠宅へ移った。だが時勢はそれをゆるさず、小さんの隠退はのびのびとなっている。また談洲楼燕枝も、門下の営業の道もついたので、十月二十六日に家族をつれて大阪へおもむき、北区の老松町に落ち着いたが、これまた早くも翌年四月には東京に舞いもどっている。いずれも東京落語再建の動きが、隠退をゆるされなかったのである。

 談洲楼燕枝は二代目。こ人、最初は初代快楽亭ブラックの一座で地方廻りをしていた。東京に戻って二代目代目禽語楼小さんに入門。三代目小さんは兄弟子にあたる。明治34(1901)年二月、初代燕枝の一周忌に柳亭燕枝を襲名し二年後に亭号を談洲楼と改めた。

 隠退を思いとどまった名人たちの思いは、その後実ることになる。
 あれだけ分裂を続けていた東京落語界は、震災という危機により団結する。
 大正十二年九月一日の関東大震災で、一時支離滅裂となった東京落語界であったが、翌十月には早くも大同団結に着手し、“落語協会”が誕生した。それは“落語睦会”と“会社派”の大部分が合同したもので、四代目柳枝こと華柳を顧問にいただき、左楽が頭取に就任し、馬生、三語楼などもすでに加入して、一日から睦会の席であった八席に出演し、成績は上々であった。旅に出ていた小勝、文治も加入のはずであり、また隠退したのを借り出されて大阪へ出演中の小さんも、別格の大看板として落語協会に迎えることになった。

 これで、ひとまずは、百年前に始まった東京落語界の“戦国時代”は終焉を迎える。

 とはいえ、翌大正十三年には、落語協会に参加しなかった四代目円橘や二代目金馬などによる“三遊睦会”や、いったん落語協会に吸収された東西落語会が協会を脱退し“柳三遊落語会”を発足し、再び三派体制になるのだが・・・・・・。

 大正六年に戦乱の火ぶたが切られた東京落語界の戦国時代については、これにてお開き。
 長々のお付き合い、誠にありがとうございます。
 
 あらためて思うのだが、“戦国時代”は、客にとっては、そう悪い状態でもなかったのではないか、ということだ。
 大正十一年三月一日の都新聞を再度ご紹介。

 “咄が聞きたくば会社派へ、見物したくば東西派へ、にぎやかなのがよければ睦会へ、浪人不平党がよければ新睦会へ”

 これだけの選択肢があったということだ。

 今の落語界、果たして、協会や会派などによる際立った特色、売り物、はあるのか。
 戦国とまではいかなくとも、やはり、ある程度の競争は、芸の世界でも必要なのではないかと思うなぁ。

 さて、芋づる式の拙ブログ、この後どんなネタになるものやら。

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by kogotokoubei | 2018-02-10 11:36 | 江戸・東京落語界 | Comments(2)
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暉峻康隆著『落語の年輪-大正・昭和・資料篇』(河出文庫)

 このシリーズの三回目。
 前回は、寄席演芸会社(会社)、睦会、誠睦会の三派に分裂した大正六年の東京の落語界において、最後発の誠睦会の“東西落語会”に、合資会社と改めた会社側の無限責任者でもある三代目小さんが、弟子の燕枝との親子会で出演したというところが、切れ場だった。

 もちろん、そのままでは収まるはずはない。

 会社側もだまってはおらず、看板はただちにはずされたが、その騒ぎは睦会への飛火して、小さんが鈴本へ出演する以上、我々も断然会社派と手を切って、三月上席にきまった横浜新富亭の出演もことわれ、と決議してしまった。
 会社側はまた一騒動ですったもんだの末、ようやくおさまって、小さんも無事に鈴本へ出演したが、そのどさくさに、会社派の月の家円鏡は三月上席から睦会へ転籍してしまった。これは睦会における柳と三遊を二分して争おうという右女助の策略と勘ぐるむきがあったが、その噂のとおり睦会は三月中に両派に分裂し、三遊は円右、円鏡、右女助、円左、小南、小円右、小文の一派、柳は柳枝、左楽、今輔、馬生、正蔵、翫之助、枝太郎、芝楽、馬之助、柳昇の一派が対立することとなった。
 離合集散、という戦国模様だ。
 この右女助は、初代円右の弟子だった初代三遊亭右女助で、その後、四代目古今亭今輔になる人。
 この後、東京の戦乱(?)に巻き込まれる形で上方の落語家が東京で出演したことが、思わぬ副次的な産物を生み出したことが紹介されている。

 大正七年五月の「朝日新聞」に、「色物席が江戸式の杉戸高座を大阪風の袖附の襖に改築」という記事があるが、さらに翌大正八年一月の同紙には、
  近頃の寄席は江戸式の杉戸高座を大阪式の袖附襖に改築するのが流行して
  いるが、睦会はこの頃円右などが上がる時でさえ楽屋で大阪式の鳴物を入れ、
  又芸人も上方風に脱いだ羽織を右手へ放り込む。
 という記事が見える。江戸前の杉戸高座を大阪式の袖附襖に改築したり、高座に上がる際に出囃子を使ったり、脱いだ羽織を右手へ放りこんだり、寄席の高座や演出が上方風に一変したという事実は、東京の落語史上、見落としてはならない変革である。
 今につながる出囃子などは、“戦国時代”が生んだ東西交流の産物だったわけだ。

 代表的な噺家の出囃子が、次のように紹介されている。

 三升家小勝 「いでの山吹」(長唄)
 林家正蔵  「あやま浴衣」(同)
 桂文楽   「野崎)
 三遊亭円生 「正札付根元草擦引」(長唄)
 古今亭志ん生「一調入り」
 三遊亭円遊 「さつま」
 三笑亭可楽 「勧進帳」
 古今亭今輔 「野毛山」
 春風亭柳橋 「せり」(大阪芝居でせり上げに使う合方)
 三遊亭円歌 「踊地」
 柳家小さん 「のっと」

 さて、そういう変化があったものの、戦乱は一時鳴りをひそめていたのだが。

 さて、小康を保っていた東京落語界も、大正九年八月になるとまたもやひと騒ぎもち上がった。会社派、睦、東西落語の三派のほかに、一日から五厘大与枝の“誠睦会”が復活したのである。大与枝は会社派ができたとき、睦派の創立に奔走したが、睦派が後援する伊藤痴遊をはじめ左楽などの幹部連と不和になり、大正七年十一月に鈴本・金沢などと組んで“中立会”を、さらに翌八年春には大与枝が主任となって“誠睦会”と改めたが、まもなく神戸の吉原が乗りこんできて、誠睦会は“東西落語会”となり、大与枝はしだいに窮地に追いこまれてしまった。そこで東西会とは手を切り、小さいながらも独立しようとして復活したのが“誠睦会”である。

 誠睦会の芸人は、小円遊、龍玉、武生、小三治などの落語家に百面相の花栗、義太夫の越駒などで、席は花川戸東橋亭、江戸川鈴本、牛込柳水亭の三軒。
 噺家に注がないので調べてみた。
 龍玉は二代目蜃気楼龍玉だろう。小円遊はその龍玉の息子の三代目かと思う。武生は金原亭で、あの志ん生のはず。ちなみに、翌大正十年に真打に昇進している。この小三治は三代目小さん門下の六代目で、本名は内田留次郎。俗に「留っ子」「坊やの小三治」と言われた人だろう。

 この誠睦会の復活とは、別な動きも出て来た。
 こうして会社、睦、東西落語会、誠睦会と、東京落語界は大小四派となったと思うとまもなく、翌九月下旬に、今度は四団体の中でもっとも優勢であった“睦会”に分裂さわぎがおこった。
 睦会は左楽派の勢力が盛んで、柳枝派といえども太刀打ちができず、その結果、左楽派に属しない各系統の芸人で不平を抱く者がすくなくない、というのが昨今の情勢であった。ところが、一方に左楽などと不和のために、睦会の創立当時功のあった大与枝が睦会を去って、中立会をつくり、また誠睦会をつくったが不振で、昨今は逆境におちいっているのを同情し、軍資金を出して大与枝の復活を図る者が現れたことが、睦会分裂の原因であった。
 睦会の水面下で、左楽派に押されている者だちが五厘の大与枝と通じ、誠睦会の復活、そして、睦会の分裂につながっていく、ということか。
 噺家の集団とはいえ、なんとも政治的な権力闘争のドロドロした世界が、その当時はあったのだなぁ。
 この睦会の分裂で出来たのが、“新睦会”。
 大正九年十一月上席から発足した睦会の別派の新睦会の幹部の顔ぶれは、おおむね予定どおり桂小南、金原亭馬生、月の家円鏡、神田伯龍、春風亭柳昇(ただし今月から改め朝寝坊むらく)ときまった。ところが円右だけは過般来、騒ぎの渦中に巻きこまれて身動きがとれなくなり、やむなく小円右、右女助をしたがえ、円右一人で三遊派をとなえ、局外中立を標榜し、新睦会と三遊派は大与枝の家に事務所を置くこととなった。
 担ぎ上げられたのが、初代桂小南。発足時に睦会に呼ばれたものの、勢力のあった左楽派の組織には馴染めなかったということだろう。先日、文楽の言葉を紹介したように、小南は、うぬぼれ屋であり、自分が一番でなければ済まない人だったようだ。
 この金原亭馬生は後に四代目古今亭志ん生となる六代目馬生。月の家円鏡は、のちの三代目三遊亭円遊だろう。
 新睦会の発足は、戦乱をさらに混沌とさせることになる。
 新睦会が十一月の上席から、馬生、小南、今輔、むらく、円鏡等に、中立の円右を加えた三十余名で旗あげしたので、落語界はいっそううるさくなった。というのは、同勢三十余人で中堅の芸人が欠けている新睦会が、月給や手当てや何もかも合算して六、七十円の収入で、へこたれていた会社派の中堅に目をつけて引抜きにかかった結果、円治(もとの文三)その他十数人が会社を辞職することになったからである。また騒ぎは東西落語会にもおよび、十二月になると燕枝が東西派を抜けて睦会へもどることになった。

 もう誰が以前はどこにいたのかが、記憶がごちゃごちゃになっている。

 この後、東京落語界は、いったいどんなことになるのかは、次回。
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by kogotokoubei | 2018-02-10 00:27 | 江戸・東京落語界 | Comments(0)
 大正六年に勃発した東京落語界の戦国模様について、暉峻康隆さんの本の続きの前に、別の本からも、百年前の様子に関する記述を引用しておきたい。

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今村信雄著『落語の世界』(平凡社ライブラリー)
 今村信雄著『落語の世界』に「三派に分裂」という章があり、東京寄席演芸株式会社(会社)側と落語睦会(睦会)との争いの状況が、興味深く書かれている。

 会社創立の理由は種々あったが、根本は落語家の月給制度であり、睦会の反対理由もやはりそこにあった。睦会側は普通では会社側に及ばないと考え、伊藤痴遊に応援を頼んだ。ところが会社側に貞山が加わったので、睦会では伯山を応援に頼むというわけで、両軍しのぎを削ってゆずらなかったが、面白いのは、顧問弁護士に会社側が鈴木富士弥氏を頼めば、睦会では三木武士吉氏を頼むという具合だった。

 同書の注を元に何名かについて補足する。
 伊藤痴遊は、元自由民権運動家で、明治の元勲らを題材にした新講談を得意として人気のあった人。
 貞山は、六代目一龍齋貞山で、「義士伝」など本格講釈の名手。
 伯山は、三代目神田伯山。「次郎長伝」で人気だった。

 暉峻さんの本では、この弁護士や講釈師における両派の対抗の姿は書かれていなかったので、この本で知り、あの戦国の様子が、より理解が深まった。

 そして、戦いが上方をも巻き込んでいったことについて、次のように書かれている。

 この競争は大阪にまでのびて、会社側は三友派の紅梅亭と手を結べば、睦会では反対派の吉本花月亭と提携、会社派が飽くまで本格の芸を看板に進めば、睦会はどこまでも陽気に、踊れる者は落語のあとで必ず踊るという方針にした。

 三友派と反対派、そして反対派と手を握った吉本については、以前何度も書いた通り。
 NHKのあの番組からはサヨナラしたので、今どうなっているか分からない。きっと、綺麗ごとばかりなのだろう。
 三友派との戦いをしていた吉本せい、そして吉本興業は、大正前半には、東京の戦争にも敵の敵は味方、として担ぎ出される存在になっていた。

 今村信雄の父親、次郎もこの戦いにどっぷり浸かっていた。

 そのうちに会社側が弱ったのは、睦会のなかに会社の株券を持っている者がいて、株主の権利とたてにとって会社の帳簿を調べに来ることで、その結果、会社側の芸人の月給がすっかりわかり、睦会ではそれ以上の金を出して買収にかかった。会社の重役は鈴木顧問の意見を容れて株式会社を解散して合資会社に改めた。その際、今まで主事として頼んでいた今村次郎を代表社員に就任せしめ、無限責任者には、小さん、円右、円蔵、貞山、鈴木富士弥、京橋の金沢亭、神田の立花亭、両国の立花亭等、有限写真としては本郷の若竹、上野の鈴本、人形町の鈴本、浅草の並木、四谷の若柳、金馬、つばめ、文治、円窓、小円朝、小勝、英昌、三語楼、貞吉、岡鬼太郎であった。
 さすがに、お父上が会社側の代表社員であっただけあり、詳しい。
 ちなみに、金馬は二代目、つばめも二代目、文治は八代目(山路の文治)、円窓は後の五代目円生、小円朝は二代目、小勝は五代目、三語楼は初代である。

 すでに「三派」という言葉が出てしまったが、あらためて、ここからは、前回の続き。

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暉峻康隆著『落語の年輪-大正・昭和・資料篇』(河出文庫)

 前回は『落語の年輪』より、東京寄席演芸株式会社と睦会の争いが激しさを増し、事態は訴訟にまで発展したところまで紹介した。

 では、その訴訟の理由から再開。

 その理由は、会社を設立した立花亭が小柳枝は月給六十円、しん馬は二十五円と定めて、八月から原告指定の寄席に出演すべき雇傭(こよう)契約を結び、すでに広告までしたにもかかわらず、両人は反対派の寄席に出演したために、円歌・りう馬の二人を臨時にやとい入れて穴埋めしたが、顧客の攻撃ははなはだしく、すくなからざる損害および名誉を傷つけられというにあった。会社派を睦派の芸人争奪戦が表沙汰になったわけである。
 要するに古典派とか新作派とかいう傾向によるグループの結成ではなく、主として利害と派閥による団体であるから、動揺がはげしいのも無理はない。なお十一月には金原亭馬生(五代目古今亭志ん生)も会社を脱し、“睦会”へ移っている。
 
 この小柳枝は三代目。会長となった師匠の四代目柳枝について睦会に入った人。その後、五代目を飛ばして六代目柳枝となったのがこの人。
 当時馬生だった志ん生は、まだ人気が出る前。いずれにせよ、あの方に月給をもらう姿は、似合わないね^^
 次のように、会社派と睦会の噺家争奪戦は、相当激しかったんだ。
 会社側と睦会の競争は、いよいよ激しさを加え、十月になると寄席演芸会社は大阪へ手をのばし、紅梅亭へ芸人の交換を申しこんだ結果、七代目桂文治門下の桂米丸が一ヵ月の約束で上京したが、そのまま東京にとどまることになり、翌七年の春、矢の倉の福井楼で桂小文治を襲名したのが、後の“芸術協会”の最高幹部の小文治である。このとき米丸とともに上京した大阪の咄家で、橘ノ円(まどか)門の橘家円歌は、談洲燕枝、師匠の円、先代三遊亭円歌、円子(えんこ)、馬生その他の宴会で、橘家と三遊亭と亭号はちがうけれども、円歌が二人あってはややこしいから改名してくれという燕枝の要請にしたがい、師の円と相談の上で、橘ノ円都と改名したといういきさつは、昭和三十九年(1964)二月、神戸市灘区に八十二歳で健在であった円都師よりの私信で知ることができた。その私信は、巻末の「年譜考証」の最初に資料として転載しておいたから、参照していただきたい。

 ワァを! である。
 まったく予期していなかったが、二代目小南の記事で書いた、小南の上方咄の師匠、橘ノ円都のことが書かれているではないか。

 こうなると、巻末の資料を見ないわけにはいかなくなる。

 暉峻さんは、落語の通史を書くため、当時ご健在だった多くの噺家さんにアンケートを送っていた。転載された内容の前に、暉峻さんはこう記している。

 なお橘ノ円都さんからのアンケートに対する返事はわざわざ封書で、自分が橘家円歌を橘ノ円都と改名するに至った事情や略歴がしたためてあり、かけがいのない資料と思うので、とくに転載することにした。昭和三十九年当時、円都さんは八十二歳、すでに引退して発信先は神戸市灘区深田町五ー二十九であった。

 ちなみに、本書の初版は昭和53(1978)年である。

 円都師匠の手紙の内容は・・・別途、この方について書く際にご紹介したい。

 ますます、この人のことをもっと知る必要性を感じている。

 さて、初代小南を睦会が呼び、その後に小文治となる米丸や円都を演芸会社が呼ぶ、という上方の噺家をも巻き込んだ派手な戦いは、相手がやるならこっちも、という終わりの見えない泥沼の様相。
 一方睦会の方でも、人寄せに狂奔し、会社の月給制とちがって、うちはワリ制度だから、腕次第で客さえふえればいくれでも収入がふえるという口実で誘いをかけたので、腕に自信のある咄家が睦会に心をひかれたのも自然のなりゆきであった。翌大正七年四月に、柳亭燕枝と小燕枝改め六代目林家正蔵が睦会に移ったのは、その一例である。また会社側の顔付けをしていた二代目三遊亭金馬が会社を辞任したのは、その翌五月のことであった。

 これだけ会社側から噺家が離れていっては、株主の中にも、不安が広がるのが道理。
 そうこうしているうちに、十一月になると鈴本一派と京橋金沢亭が寄席会社から脱退し、“落語席中立会”を設立した。このため会社側は中立会を憎み、かえって一ヵ年間も敵視してきた睦会とよしみを通ずることになり、円右を相談づくて睦会へ貸し、横浜の新富亭で三本に一本は会社側が興行することになった。
 一方中立会では、主要な看板どころの真打連は、おおむね会社・睦に属しているので形勢がふるわない。そこで体制の立て直しを図り、翌大正八年(1919)の春になると、柳派の五厘大与枝を主任にかつぎ上げて、寄席会社と同様に月給制で芸人を集め、会名も“誠睦会”と改めたが、形勢は依然としてふるわない。
 この後に、五厘の説明があるが、割愛。

 会社が睦と手を握ったのは、“敵の敵は味方”ということだなぁ。
 さて、二十八の寄席の席亭が結束した設立したはずの演芸会社だが、席亭たちの足並みが揃わなくなり、まさに群雄割拠、なるほど戦国時代の様相。
 こうなると、漁夫の利を得ようとする者が現われるのは、歴史の必然か。

 するとそこへ、神戸の興行師吉原政太郎が上京し、東西芸人の融和を図るという名目で誠睦会に働きかけたので、たちまちこれと結んで、“東西落語会”を作り上げた。そこで鈴本一派は勢いを得て、寄席会社の転覆をくわだて、第一着手に小さんに白羽の矢を立て、弟子の燕枝に泣きを入れさせて、首尾よく鈴本へ小さん燕枝親子会の看板をあげることに成功した。
 小さんは、もちろん名人と謳われた三代目。寄席演芸会社の無限責任者の一人なのに、会社を脱退して鈴本が中心となって作った誠睦会の芝居に出るとはなぇ。

 ついに、三派に分裂し、上方の芸人や興行主まで巻き込んだ、百年前の東京落語界。

 今回は、このへんで、お開き。
 三代目の小さんが誠睦会の芝居に出た後のことは、次回のお楽しみ。

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by kogotokoubei | 2018-02-09 08:30 | 江戸・東京落語界 | Comments(2)
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暉峻康隆著『落語の年輪-大正・昭和・資料篇』(河出文庫)
 初代桂小南のことを書いた記事の中で紹介した、暉峻康隆さんと文楽の会話で、東京寄席演芸株式会社と睦会のことが話題になっていた。

 私のブログは“芋づる式”なので、この大正六(1917)年の東京落語界の出来事が気になり、同じ暉峻さんの『落語の年輪(大正・昭和・資料篇)』で確認した。

 今からほぼ百年前に、こんな状況があったのだ。

 “落語研究会”が支えとなって、小康を保っていた東京落語界も、大正六年八月に“東京寄席演芸株式会社”が設立されたのをきっかけに、落語史上またとない戦国時代がおとずれることとなった。

 落語界に“戦国時代”という言葉は、なんとも不自然な印象なのだが、いったいどんな戦国だったのだろう。

 この演芸会社の株主は、神田の立花、白梅、下谷の鈴本、人形町の鈴本、末広、京橋の金沢、浅草の並木、両国の立花、麹町の青柳をはじめとする落語二十八軒と、小さん、円右、燕枝、小勝、円蔵らの咄家連で、柳・三遊派と契約して、新たに月給制度を採用するという新体制であった。内輪もめの連続で、一年あまりで解散してしまったが、月給制度の会社組織に踏み切った理由は、つぎのようなものであった。
 それまで寄席と出演者の取り分は、長年の習慣で歩合制せあった上に、掛持ちが多いので席を空ける咄家が多く、しかも高座の時間は十分か十五分、といえば今のラジオのコマ切れ落語なみで、中には都々逸の二つ三つもうなって下がるという咄家も出る有様、これではとうてい落語のみで客はひけなくなるという判断にもとづき、団結して会社を組織し、給料を定めて十分に技術を発揮させようというのであった。
 まず、大正六年時点で、この株式会社設立に賛同した寄席だけでも二十八軒あった、ということに、時代の流れを強く感じる。
 この寄席側の思い、分からないではない。都々逸の二つ、三つの高座では、席亭も怒って当然。
 さて、その後、どうなったのか。

 ところが八月上席から、その制度で興行をはじめてみると、内外の苦情が持ちあがり、現在株主たる席亭の中にさえ、折を見て脱会しようとする者があらわれ、左楽のごときは高座で反対を唱える始末であった。

 いったい、どういった問題や苦情が持ち上がったのか。
 契約をした者が、上席の給金を受け取ったままで出演しなかったり、柳枝、小柳枝、年枝、錦生などは、公然と反旗をひるがえし、寄席会社は出発と同時に大騒ぎとなった。生活の保証は腕次第という咄家にとって、安定した月給制度は一応妙案ということになる。しかし一面、天狗の多い咄家のこだから、査定された月給に不満を持つのも当然だし、また腕に自信のある咄家は、月給でしばられて稼ぎを制約されるのは不満であったろう。また席亭にしても、出演者の顔付けは会社から一方的におしつけられる制度では腕のふるいようがなく、これまた不満組が出たのはやむをえない。
 とくに後押しする野次馬もあらわれて、月給に対する不満組が結束し、会社に向かって月給三割増しと要求した結果、一割五分増しで妥協したが、さらに三ヵ月分の給金前払いを要求する者もあらわれる始末であった。

 なるほど、そういうことだったか。
 会社と労働組合との争議、と見られないこともない。
 労使対決で済んでいればまだしも、もっと大きな騒動に発展する。
 一方、反対派は寄席会社が発足した同じ大正六年八月一日に、神楽坂上の演芸館に集合し、三遊・柳両派を存続せしめて旧慣を重んじ、寄席とも協定して円満に落語の改革を図ることになった。柳派の頭取の柳枝をはじめ、雷門橘之助、円遊その他六、日十名が調印して会社へは辞表を出し、政治家の三木武吉氏を顧問として、“落語 睦会”を結成した。会長は五代目柳枝、副会長は五代目柳楽と決定し、同時に睦会の強化を図り、同月中旬に大阪から桂小南を迎えた。
 小南の名も、登場。
 睦会の会長を「五代目柳枝」としているが、正確には後に初代春風亭華柳となる「四代目」の間違いだろう。
 実は、柳枝に五代目は存在しない。俗に「横浜の柳枝」と呼ばれる六代目柳枝が、左楽と同じ五代目では畏れ多い、と代を一つ飛ばしたのだ。
 睦会副会長の、その五代目柳亭左楽は、後に文楽が慕う人物。
 随分前になるが、左楽については書いたことがあるので、ご興味のある方はご参照のほどを。
2010年3月25日のブログ
 また、睦会の顧問役となった三木武吉は、鳩山一郎の盟友として知られた政治家で、1955年の保守合同実現の立役者とも言われている。映画『小説 吉田学校』では若山富三郎が演じていた。 
 そんな政治家まで担ぎ出して会社側に対抗する組織が出来上がった東京の落語界は、激しく戦国の様相を示していく。

 月給制の寄席会社に対して睦会が設立されると、落語界の動揺はいよいよはげしくなっていった。
 会社が発足してからまもなくの大正六年八月二十一日には、会社の重役の一人である神田立花亭こと大森竹次郎が、浅草山の宿(やまのしゅく)の春風亭小柳枝こと松出幸太郎と、下谷西町二丁目の立花家橘之助(浮世節)方の古今亭錦生改め古今亭しん馬の二人を相手取り、東京地方裁判所に演芸債務不履行および損害賠償金五千円の訴訟を提起するにいたった。

 さぁ、訴訟勃発。
 立花家橘之助“方”の志ん馬は、俗に「横浜の志ん馬」と言われた四代目で、昨年、橘之助の浮世節家元の看板の変遷について書いた記事で紹介した、寄席文字の橘右近さんの本『落語裏ばなし』に登場する。昨年二代目橘之助襲名が実現したことに、この志ん馬さん、結構貢献している。
2017年1月7日のブログ

 さぁ、寄席演芸会社と睦会が並び立った、東京落語界の“戦国時代”、その後どんな様相を示すものやら。

 今回は、ここらでお開き。次回をお楽しみに。
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by kogotokoubei | 2018-02-08 12:18 | 江戸・東京落語界 | Comments(0)

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by 小言幸兵衛