噺の話

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カテゴリ:落語のネタ( 95 )


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佐藤光房著『合本 東京落語地図』(朝日文庫)

 朝日新聞の編集委員であった著者による『合本 東京落語地図』(朝日文庫)は、座右の書の一つ。今では古書でしか入手できないが、この本、落語愛好家にとっては実に有益なのだ再刊を期待したい。

 立川龍志の『花見の仇討ち』が実に良かった。
 帰宅してこの本のこの噺の部分を開いてみたら、おもしろいことが書いてあったので紹介したい。


六十六部を知ってるのは16パーセント

 「六部」には説明が必要なようだ。演芸評論家の中野良介さんが以前、落語に出てくる言葉の理解度を調べるため、首都圏の百人を無作為に抽出してアンケートをとった。「六十六部または六部」を知っているのはわずか16.1パーセントに過ぎなかった。ついでに紹介すると、「半ドン」は80.6パーセント、「廓」は83.9パーセントが知っていたが、「舫(もや)う」は71パーセント、「幇間」は61.3パーセントの人が知らなかった。
「六部」は「六十六部」の略。書写した六十六部の法華経を全国六十六カ所の霊場に一部ずつ納める回国巡礼僧、ねずみ木綿の着物で、笈という衣服や経典を入れた箱を背負い、鈴を振って家ごとに銭を乞い歩いた。広辞苑に挿絵がある。

 補足すると、後に六部の多くは、物乞いの聖になったのだが、いずれにしても、今では落語の世界、それもこの噺にしか残っていないのではないかとも思われる言葉だろう。

 この本は、1988年1月、90年2月に朝日新聞社から刊行された正編と続編に、その後、「朝日新聞」東京版(90年8月~91年8月)に連載したものを加え、92年6月に発行されたもの。

 アンケートの時期が定かではないが、少なくとも今から30年近い前のことだろう。

 だから、もし今、「六十六部」「六部」を知っているかとアンケートをしたら、知っている人は一桁台に違いない。

 もちろん、知っていたから“偉い”、というわけではないが、知っていることでより一層落語や江戸時代のことがを楽しくなると思う。
 どんどんかつての文化や風俗を表す言葉が死語になりつつある。
 そういう意味でも、落語の「学校じゃ教えない」‘古い’ことを伝える役割は、重要だと思う。
 この私の思いへの賛同者は、四分か六分か、できれば六分であって欲しい^^


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by kogotokoubei | 2015-05-01 08:16 | 落語のネタ | Comments(2)

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 野村無名庵の『落語通談』は昭和18年に高松書房より単行本が発行され、中公文庫で昭和57年に再刊された本。

 この本には「落語名題総覧」というネタの一覧が掲載されており、そのネタの数は496席におよぶ。

 五十音順ではなく、無作為とも思える順で並んでいるので、これまで暇をみつけてはエクセルで五十音順の一覧を作っていた。
 志ん朝の主要落語会のネタの一覧をつくって以来の‘力仕事’だった.

 最近、ようやく完成したのが次の表だが、これでは読めませんよね^^

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 一覧のご紹介は、もう少し待っていただき、著者野村無名庵について紹介したい。
 中公文庫BIBLIOで再刊された『本朝話人伝』のAmazonのブックレビューに私が書いた内容を引用する。
野村無名庵著『本朝話人伝』

無名庵を知るために、加太こうじさんの『落語-大衆芸術への招待-』から少し長くなるが引用する。「~私は顧問の正岡容にすすめられて落語研究家の野村無名庵について落語の勉強をすることになった。~野村無名庵は私に、落語を勉強するなら、落語を知らなくてはだめだから、まず、寄席できき、かつ、速記本を読めといって、騒人社刊の『落語全集』12巻を貸してくれた。~無名庵はさいそくしなかったが、昭和20年の春に、12冊を風呂敷に包んで小石川の格子造りの家へかえしにいった。~それから二、三日ののち、野村無名庵は空襲のために死んだ。~後年、講談の一竜斎貞丈と無名庵の思い出を語ることができたが、貞丈は『あんな、いい先生が爆撃で死んじまったときいたときは、この世には神も仏もないんだなあって思いましたよ』と、いっていた」私がこの本を読むきっかけは、まさにこの文にあった。そして、この珠玉の落語・演芸評論を読むうちに、空襲で亡くなった本人の無念と、日の目を見ることがなく焼失したであろう数多くの原稿があまりにも大きな文化的損害であったことに心を痛めるのだ。よくぞ改版発行となってくれた、その喜びももちろん大きい。


 実は、先日紹介した、加太こうじさんの『落語-大衆芸術への招待-』で知った人だった。

 明治21(1888)年8月月23日生まれで、 上記の通り、昭和20(1945)年5月25日の東京空襲で亡くなった。
 加太こうじさんの本から、レビューでは書かなかった野村無名庵に関する部分を紹介したい。

小説家谷崎潤一郎とおなじ中学校で、谷崎が一組の級長、無名庵は三組の級長だったと、長谷川伸が随筆に書いている。無名庵の著書には、落語家の名前を借りたものや演芸関係の新聞雑誌の記事を別にして『本朝話人伝』『落語通談』などがある。無名庵は一時、古今亭元輔といって百面相と落語で高座に出たこともあるそうだが、これは、糊口をしのぐために、やったことであろう。元輔という芸名は、その本名が野村元基であることによっている。

 

 あらためて、その代表的な著作『落語通談』の「落語名題総覧」のこと。
 著者野村無名庵は次のように記している。

これは落語家の携帯用として「昔噺百々」と題し、懐中持ちの小さな帳面に印刷、明治42年1月、柳連でこしらえた非売品であります。三十年も以前の事ですし、その後震災もあり、ほとんど見当たりませんので、探していましたところ、先頃幸いにも先輩鶯亭金升氏から、御所蔵品を御恵与下さいましたので、この喜びを御同好の各位にも分かちたくかくは全部を転載した次第であります。もちろんその以後に出来ました新作や、上方から移入された関西の話は入っておりませんが、これだけでも合計四百九十六種、思えば随分あるものと存じます。もっとも時代に合わなかったり、憚る筋があったりして、現在やれないのも夥しく含まれていますので、それ等は次第に忘れられ、今日ではその道の専門家でも、内容の分らぬ話が相当にありましょう。筆者も残念ながらこの中で、全然見当のつかないのが、八十幾つもあったには赤面しました。


 もし、昭和18年に本書を上梓できず、鶯亭金升-おうてい きんしょう、雑誌記者・新聞記者・作家で、『明治のおもかげ』(岩波文庫)などの著作がある-から譲り受けた「昔噺百々」を野村無名庵の家に置いていたなら、空襲で燃えて無くなっていたかもしれない。

 せっかく、無名庵が後世のために遺してくれたものである、落語愛好家の皆さんのためにも、全496席を並べてみたい。
  (字は同書の表記のまま。順番は同書並び順)
------------------------------------------------------------------------------
あ行
あ  朝ばい 明石参り あわもち 明がらす 穴どろ 欠伸指南 麻のれん 
   朝友 あり(無筆の女房) 天に浮橋 有馬のお藤 あかん堂 阿波太郎
い  今戸やき 伊勢参り 勇の遊び 芋食うな 居残り左平治 磯のあわび 
   意地くらべ 芋俵 石がえし 一分茶番 田舎芝居 いいえ いはいや 
   今戸の狐 いつ売る いちこ いもり黒焼 いなり車 市助酒
う  厩火事 牛かけ うちわや 牛の嫁入 魚売人 うなぎや 梅ほめ 
   牛ほめ 浮世ぶろ 植木のお化 浮れ提灯 うかれ三番 魚づくし
   うそつき うらむき 鰻屋幇間 うきよ床 浦しま屋 うそとみ
   植木の気違い うば捨山 氏子中 馬の田楽 牛の丸薬
え  永代橋 えて吉 絵双紙屋
お  おふみ様 お七 おしくら およく おはらい お見立 大男の毛
   小原女 親子茶屋 おせつ 泳ぎの医者 音曲風呂 音曲質 おいだき
   おうむ徳利 おおかみ 王子の狐 おかふい 王子幇間 お釜様
   おすわどん お血脈 おのぼり 鬼娘 近江八景 おもと違い 
   お七の十 お若伊之助
か行
か  かつぎや 合羽 紙くづ屋 勘定板 鏡のない国 紙入 釜どろ 
   代り目 蚊いくさ 蛙茶番 かけまん かし本屋 かい小僧 活々坊
   かべ金 形見わけ 火焔太鼓 岸柳島 から茶屋 看板の一 
   からくりや 加賀の千代 雁風呂 かわ衣 風のかみ 開帳の雪隠
   雁つり 火事息子 鰍沢 がまの油 亀太夫 かたぼうかた袖 景清
き  狂歌家主 きつね きゝゝゝま 菊江仏壇 きめんざん 錦明竹 
   禁酒番屋 気養い帳 杵 胆つぶし ぎぼし 近日息子
く  首ったけ 廓大学 熊坂 熊の皮 くみたて 九だん目 九郎蔵狐 
   楠運平 首屋 黒は弱い 熊の浦 熊野ごふ 黒焼 首つぎ 首提灯
   くわ形
け  稽古所 けさ御前
こ  高野違い 権助提灯 乞食の夢 五人廻し 子わかれ 小いな 五百駕
   五郎えい 五もく こしょう 胡椒の悔み 木の葉狐 黄金餅 駒馬
   後生鰻 小言幸兵衛 甲府い こんにゃく問答 こいがめ 公冶長
   子がえり 御百人一首 子供洋行 こび茶いい 紺屋高尾 甲州茂兵衛
   後家馬士 五人政談
さ行
さ  盃の殿様 秋刀魚殿様 三人片輪 三助の遊 三枚起請 三人無筆 さめ 
   三両残し 真田小僧 さけ売 三人絵かき 三でさい 西行 三百植木
   三年目 三十石 さら屋
し  地口 蜀山人 将棋の殿様 三味線栗毛 しの字嫌い 芝浜 鹿政談
   白木屋 品川心中 素人車 松竹梅 七兵衛 仕かえし しめこみ
   宗かん 士族の車 しるこや 甚兵衛に五俵 神道茶碗 菖蒲かわ
   七だん目 芝居風呂 芝居長屋 尻ちがい 質屋が原 しし物語
   寺号山号 寿限無 心がん 写真の仇討 樟脳玉 十八壇林
   新聞記者 しゃっくり政談 品川 しに神 しぼり紺屋 甚五郎
   品川の豆 質屋の庫 仕込みの箪笥 虱茶屋 
す  すきみ 酢豆腐 脛かじり 菅原 ずっこけ 水中の玉 脛きり奴 
   酢瓶 脛かじり 鈴ふり 住吉かご
せ  せき所 ぜんそく せった せんき 世辞屋 清正公酒屋 千両みかん 
   宗禅寺馬場
そ  蕎麦の殿様 外りょう それがら 蕎麦の羽織 ぞろぞろ
た行
た  大工調べ 高尾 立なみ 高さごや たらちめ 狸の嫁入 だくだく 
   玉きん 代みゃく 館林 団子兵衛 たこ芝居 狸のさい 狸の釜 
   狸の大根 狸の坊主 狸の面 大仏餅 太鼓ばら 竹の子 大王下し 
   魂違い たがや 太平楽 大黒の鼠 俵藤太 棚という字 巽の辻占 
   ためし斬 大福屋 立切
ち  茶釜の喧嘩 茶金 縮み上がり ちょう合 町内若者 張果郎 茶の湯 
   ちきり伊勢屋 茶碗屋敷
つ  佃まつり 搗屋無間 つき馬 つづら つるつる 佃じま
て  天災 てんしき てん宅 出来心 天とく 天人 てっかい
と  道灌 富の八五郎 富の久蔵 土蔵の夢 とろろん とんちき 
   とうなすや 同双紙 道具屋 年ほめ 隣のはな とよ竹屋 とけつ 
   土俵入 徳利亀屋 とう神 遠眼鏡
な行
な  成田小僧 泣き塩 夏どろ 夏の医者 中村仲蔵 鍋ぞうり なす化け 
   なめる 長さき屋 長刀きず
に  二十四考 錦のけさ 二階ぞめき 二分つり にわかどろ にう 
   尿どくり 二番目 人形買 にせきん 人参かたり
ぬ  布引
ね  葱鮪の殿様 ねこ久 ねどこ 猫の忠信 ねこ芝居 年中行事 猫定 
   猫たいじ
の  のめる 野ざらし
は行
は  初音の鼓 鼻利源八 鼻利源兵衛 鼻利長兵衛 羽織 早桶屋 
   花見の仇討 化物長屋 花見 囃子長屋 半分垢 化物使い 鼻がほしい 
   初天神 はんかい 羽うちわ 八門とん甲 八九升 派手彦 はんごん香 
   橋弁慶 灰屋騒動
ひ  ひと目上がり 一つ穴 百人坊主 ひねりや 火とう ひとびょう
   人まね 引越の夢 ひなつば ひや ぴんと落ち 姫かたり 一人酒盛
   百年目 不精代参 びん乏神
ふ  古喜 二ツ三ツ四ツ 富士参り 文違い 船とく 風呂しき 武助馬
   古寺古い 福のかみ 文七元結 不動坊 船べんけい
へ  屁ひねり べっかこう 竃ゆうれい 竃盗人
ほ  ぽんこん 星野屋 ぽかんぽかん 坊さんの遊 本膳 包丁 ぼうだら 
   法華長屋 本堂建立 法事の茶
ま行
ま  松引 三つ巴 万金丹 万ざい まくらや 松田加賀 饅頭嫌い 万病丹
み  水屋の富 みいらとり 宮戸川 目がね屋 味噌ぐら 茗荷屋
む  無筆の手紙 無筆の医者
め  妾馬 妾の手切 妾の角力 目ぐすり
も  元久かつら 百川 もぐら 元犬 もう半分 もうる
や行
や  宿屋 山崎屋 やかん 薬缶どろ 厄ばらい 宿屋の仇討 弥治郎 
   柳の馬場 やしま やっこ吉 弥吾平 薬缶なめ やげん 山岡角兵衛
ゆ  雪てん 夢合 夢の瀬川 夢金 湯屋番 ゆきとん 夢八
よ  夜かご 四人くせ よみうり 吉野 よいよい蕎麦 四段目 
   養老滝 よたかお松
ら行
ら  らくだ
り  悋気の独楽 理はつ床 両国八景 利休の茶

れ  れこさ
ろ  六歌仙 六尺棒 六段目
わ  和歌三神 笑い茸 わしがかか 我わすれ
------------------------------------------------------------------------------
 知らないネタが、なんと多いことか。
 野村無名庵でさえ、八十いくつ知らない噺があったと知って、少し気が楽になる^^

 『楠運平』は『三軒長屋』、『百人坊主』は『大山まいり』であることは察しがつく。『万ざい』は、たぶん『掛取萬歳』だろう。
 『羽織』が『羽織の遊び』のことなのか、他のネタなのかは不明。
 『いいえ』なんてネタは、まったく内容の想像がつかない。「知ってますか?」「いいえ」というくらいのものだ^^
 『れこさ』って、いったい、なにさ?

 ここ数年で、聴くことのできた噺も、いくつかある。
 関内の小満んの会で『有馬のお藤』に出会った。小満んには『ゆきとん』も聴かせてもらっている。
 『おふみ様』は、NHKの「落語でブッダ」で塩鯛のこの噺を聴いた。
 『植木のお化』は人形町らくだ亭で一朝が楽しく演じてくれた。
 喬太郎が掘り起こしてくれた『ぎぼし』は、何度か聴いている。
 『よいよい蕎麦』は昨年三笑亭夢吉が聴かせてくれたなぁ。

 ちなみに、もっとも多かったのは「し」行のネタ。次のように42席ある。

-----------------------「し」行のネタ----------------------------------------
地口 蜀山人 将棋の殿様 三味線栗毛 しの字嫌い 芝浜 鹿政談 白木屋 
品川心中 素人車 松竹梅 七兵衛 仕かえししめこみ 宗かん 士族の車
しるこや 甚兵衛に五俵 神道茶碗 菖蒲かわ七だん目 芝居風呂 芝居長屋 
尻ちがい 質屋が原 しし物語 寺号山号 寿限無 心がん 写真の仇討 樟脳玉 
十八壇林 新聞記者 しゃっくり政談 品川 しに神 しぼり紺屋 甚五郎 
品川の豆 質屋の庫 仕込みの箪笥 虱茶屋
-------------------------------------------------------------------------
 『甚兵衛に五俵』なんて噺、いったいどんな内容なのだろう。

 「る」のネタは皆無。だから、新作で「る」のネタを作れば、結構目立つだろう^^

 興津要さんの『古典落語』全6巻に収録されているネタの数は、197席。
 三一書房『古典落語大系』全8冊が212席。
 麻生芳伸さんの『落語百選』と『落語特選』の6冊で合計140席。
 これらは、ネタそのものが紹介されている本。

 概要についてのガイド本では、矢野誠一さんの『落語手帖』の収録数は、274席。同じく矢野さんの『落語讀本』が303席。二村文人・ 中込重明著、 延広真治編集による『落語の鑑賞201 』は、その題の通り201席。

 だから、あらすじや解説はついてないものの、この496席一覧は、結構貴重だと思う。
 このリストを作りながら、まだまだ、落語のネタはあるのだ、ということを実感した次第。

 意欲のある噺家さんに、一つでも多く、埋もれかかったネタを掘り起こしてもらいたい。
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by kogotokoubei | 2015-03-17 00:10 | 落語のネタ | Comments(2)
先日の柳家小満んの会の三席のうち、トリネタは『八五郎出世』と題して演じられた。
 もちろん、『妾馬』である。
 小満んは、珍しく本来のサゲまで演じたので、まさに『妾馬』で良いと思った。
 
 『八五郎出世』という題は、六代目円生が使ってから流行るようになったと察するが、内容を表現しているとは思うが、この題を使うことがどうも腑に落ちない。
 
 同じ落語でも、別な演題を持つ噺がいくつかある。私は、内容に相応しい別題がつけられた理由も分からないではないが、本来の題名を残してほしい、と思っている。

 ずいぶん前になるが、このことについて記事を書いたことがある。今でも同じ思いなので、一部内容が重複することになるが、ご勘弁のほどを。
2009年2月17日のブログ

 『寝床』の別題として『素人義太夫』や『素人浄瑠璃』がある。『妾馬』には、『八五郎出世』という別題がある。
 私は、それぞれ『寝床』、『妾馬』であって欲しいと思う。

 本来は長い噺だが、サゲが現代では分かりにくい、とか内容が今ひとつつまらないなどの理由で、一部分のみが演じられるようになり別題を持つ噺としては、『宮戸川』、『妾馬』、『おせつ徳三郎』などがあげられるだろう。
 
 『宮戸川』は、ほとんど前半しか演じられず、別名『お花半七なれそめ』とも言われる。
 『妾馬』は、題にある馬が登場するサゲまではほとんど演じられず、『八五郎出世』という別名を用いることが多くなった。。
 『おせつ徳三郎』は、前半を『花見小僧』、後半を『刀屋』と言う。どちらも今日では滅多に聞くことはなくなったが、五代目小さんによる前半、志ん生や志ん朝による後半は、なかなか味わいがある。

 この中では、『おせつ徳三郎』だけが異質かもしれない。なぜならば、前半と後半のそれぞれが単独の噺として独立した存在と言えるからである。
 実は、来年3月18日に再開される関内の小満んの会のネタ出しに、『花見小僧』と『刀屋』が書かれていた。『おせつ徳三郎-通し-』ですぜ!

 『宮戸川』と『妾馬』は、通しで演じることはあり得ても、後半のみ独立させて演ずることはないだろう。
 
 確かに、『宮戸川』の前半の舞台に、「宮戸川」は登場しない。
 しかし、このお題が残ることで、その題である理由を知りたいという思いになるはず。また、「通し」で聴きたい、という興味も湧く。今年6月に聴いた五街道雲助の『宮戸川-通し-』は、良かったなぁ。

 また、『妾馬』の前半だけでは、この演題は意味不明である。
 内容に即して言えば『八五郎出世』のほうがふさわしいのかもしれない。

 しかし、私は本来の題のままにして欲しいと思うのだ。

 それは、題目の由来を知ろうとすることで、その噺が成立した社会的背景や庶民の生活、文化などへ好奇心が広がるからである。

 「なぜこの噺で『宮戸川』なんだ?」、「どうして『妾馬』なの?」、という疑問が起こり、その謎(?)を自分で解くことで、噺を聴く時の味わいも増すと思うのだ。

 他のネタでは、『寝床』で別題が使われることがある。
 サゲまで演じない場合に、『素人義太夫』や『素人浄瑠璃』とすることがある。

 十八番にしていた噺家で有名なのは八代目桂文楽だが、途中でサゲるとはいえ志ん生のこの噺も捨て難い。

 この噺の題は、「寝床」という言葉に特定の意味を持たせたほどの力がある。

 「うちの社長のカラオケ好きにも困ったね。無理矢理付き合わされて聞かされる身にもなって欲しい。ありゃぁ寝床だよ。」という表現ができるのだ。
 落語の演題がある現象を見事に言い表すまでになったのである。
 「下手の横好き」=「寝床」、なのである。
 ただし、今日では、「下手の横好き」という言葉でさえ聞かれなくなった。だからこそ、「寝床」という言葉を遺して欲しいと思う。

 志ん生が文楽と違って通しで演じなくても、あくまでも『寝床』でよいと思う。

 正岡容がこの噺を語った文章が、矢野誠一著『落語手帖』で紹介されている

この「寝床」という言葉は最も一般によく浸透されていて、「巧いかいあいつの小唄?」「駄目、寝床だよ」といった具合に旺(さかん)に流用されています。なかでいちばん天晴れだったのは亡くなった四代目小さんで、この『寝床』のマクラでしたが、「あそこの家の奥さんのコロッケは寝床だ」と申しました。コロッケに寝床とは対照の妙を極めていて実に奇抜ではありませんか。


 よほどこの奥さんは、自分自身ではコロッケづくりが上手いと思っていて来客の度に作るのだろう、と想像できるじゃないですか。出された客も、迷惑だろうなぁ。
 あっ、私自身も友人の前で、たまに酒の勢いで落語を披露したりするが、まさに「寝床」である。被害者の皆さん、ごめんなさい。

 将来、もしほとんど前半しか『寝床』が演じられないようになり、『素人義太夫』という演題が当たり前になった時、「ありゃぁ寝床だね!」という表現自体が失われることになっては寂しいじゃないですか。
(そんなことを思うのが私だけなら、なおさら寂しいのだけど・・・・・・。)
 
 『妾馬』にしても、「妾」という言葉を大事にする(?)意味で、『八五郎出世』には替えないでもらいたいと思う。

 たしかに、「妾」という言葉、日常的な会話として使われることが少なくなった。代わりに「愛人」などという言葉が使われるのだろう。しかし、妾と愛人とは、まったく別なのである。
 そして、落語の世界で「妾」の存在は大きいのだ。
 『悋気の独楽』『悋気の火の玉』『権助提灯』『権助魚』はもちろんだし、7月の小満んの会で初めて聴いた『有馬のおふじ』だって、「落語でブッダ」で紹介され、今年1月に記事でも書いた上方落語の『お文さん』だって、妾が重要を役割を果たしている。
2014年7月18日のブログ
2014年1月15日のブログ

 上方では、お妾さんのことを、「お手かけさん」と言うらしい。なるほど、である。

 かつては、それ相応の旦那が妾を持つことに、本妻は実に寛容だった。妻妾同衾の場合すらあった。
 だから、愛人とは、似て非なる存在なのだ。「妾」という言葉を使うことで、本妻がその存在を許した時代の風俗、あるいは文化を推しはかることができる。
(なぜか、このへん力んでいるのは、自分が妾を囲うだけの力も金もないからか^^)

 そんなに演題に執着しなくても、と思われるかもしれないが、私は結構気になるなぁ。
 滅びつつある‘言葉’への哀愁、ということもある。

 しかし、自分を冷静に見つめると(?)、それは私の助平根性からくる発想なのかもしれないなぁ。
 妾を囲う甲斐性はなくても、今後、落語初心者の若い女性と一緒に落語会に行く機会があり、その後にお茶でも(あるいはお酒でも)飲む場で、「どうして『寝床』なの?」とか、「なぜ『妾馬』っていうの?」などと聞かれた時に、待ってましたとばかり、「それはね・・・」と、知ったかぶりで教えてあげたいだけなのかもしれない。

 それじゃ、まるで「やかん」だ・・・・・・あっ、この言葉も死語になりつつある・・・。
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by kogotokoubei | 2014-11-21 06:52 | 落語のネタ | Comments(4)
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  『榎本版 志ん朝落語』(ぴあ)

 榎本滋民さんの『榎本版 志ん朝落語』は、雑誌『落語界』に連載した内容から十九作品を選んで書籍化したものである。
 この“十九”という数字が、なんとも切りが悪いのだが、それについては私はこう思う。十八番として十八に絞ると、私が何度か“古今亭十八番”の選出で苦労(勝手にしてるんだけどね^^)しているように、「あれがない!」とか、「これはどうした!」ということになる。
 要するに、古今亭にしても志ん朝にしても、十八には絞れないのだ。だから、「十八番ではないよ、たまたま選んだ作品で、他にもあるよ」というメッセージだと、思っている。
 しかし、この本は榎本さんが亡くなってから二年後の平成17(2005)年の発行なので、きっと編集者か発行人が、私のような発想で選んだのかと思う。
 いや、あとがきを書いた、山本文郎さんの考えだったかもしれない。
 その「あとがき」の冒頭部分をを少しだけご紹介。

あとがき                          山本文郎

 今から24年前のこと。ラジオのインタビュー番組で雑談中に「貴方が担当している深夜の落語番組は良いですね。とくに榎本さんとの対談がなんとも言えない雰囲気があって楽しいな。あの人の江戸時代の考証はたいしたものですよ」。
 作家の吉行淳之介さんに褒められたことがある。


 さすが分かる人には、分かるということだろう。このあと、山本さんは榎本さんと1972年から1999年まで、「落語特選会」で二十七年間お付き合いしたと振り返る。その山本さんも旅立った・・・・・・。

 さて、この本には『酢豆腐』も含まれていて、このネタについて、榎本さんならではの興味深い噺の背景が解き明かされている。「はなしの来歴」から、ご紹介。

「やかん」同様、題名が通語になっているほど知られたはなしである。宝暦三年(1753)版『軽口大平楽』所収の小ばなしあたりがもとになり、江戸で練り上げられた。
 明治・大正期の名人三代目小さんの弟子小はんの改変による演出が大阪に移植され、『ちりとてちん』の題名で伝わっている。
 『酢豆腐』は、廓遊びが過ぎて脳脊髄梅毒症にかかり、白内障で失明し、しまいには腰まで抜け、弟子に背負われて高座に上がったほどでありながら、陰惨な印象をいささかも与えず、素枯れた陽性な味わいをたのしませたという初代柳家小せん(大正八年没・三十六歳)が得意とし、八代目桂文楽(昭和四十六年・七十九歳)が洗練を加えて十八番としたほか、六代目三遊亭円生(昭和五十四年没・七十九歳)も小せん直伝のものを継承した。
『ちりとてちん』のほかに、豆腐を石鹸にした改作で、初代三遊亭円歌(昭和二年没・五十三歳)の『石鹸(シャボン)』と四代目橘家円蔵(大正十一年没・五十九歳)の『あくぬけ』があるが、おかしみの質は『酢豆腐』に遠く及ばない。
 文楽がこのはなしを自家薬籠中のものとする上には、若旦那のモデルにした人物があった。三代目三遊亭円橘(大正五年没・五十二歳)門下から二代目三遊亭小円朝(大正十二年没・六十七歳)門下に転じた落語家三遊亭円盛で、低い背を高く見せようと、晴れた日にも高下駄をはき、羽織にはりつけた紙の紋が雨ではがされないようにと、夏でもインバネス(とんび)をはおって細身のステッキをつき、頭には安物の髪油とハッカ水をべたべたとふりかけ、両手の指六本にメッキの指輪をはめていたという。
 言動ことごとく二枚目きどりで、なんとも鼻もちならず、いかが立ち泳ぎをしているようだというところから、いか立ちと呼ばれていた。いかの立ち泳ぎとは、いかにもまざまざと姿態が思い描ける形容で、噺家のあだ名のつけかたは全くうまい。


 このあと円生の若旦那のモデルはラシャ問屋の主人であったと書かれている。
 しかし、榎本さんは、彼らよりも、黄表紙・洒落本などの戯作文学作品で半可通ぶりを発揮する遊冶郎(ゆうやろう)が元々のモデルと考えられる、と流石の考証ぶり。

 ただし、文楽が“いか立ち”の円盛に若旦那に通じる姿を見たのも事実だろう。
 この円盛は、志ん生が二代目小円朝に入門する前、天狗連の頃の師匠として志ん生の経歴に名を残している。

 榎本さん、志ん朝の高座については、次のように評している。

 後段の若旦那のくだりは、まだ文楽との間に径庭があり、前段の一座のくだりは、なお円生に一籌を輸するとしても、中段の半公のくだりは、すでに志ん朝は両大先輩をしのいでいる。



 この部分を読んで、「さて、榎本さんが、先日の志ん輔の高座を聴いていたら、どんなことをおっしゃるだろうか」、などと考えてしまった。

 この本を読むと、私は「落語特選会」での榎本さん山本さんの会話を思い出す。

 山本さんの「あとがき」は次のように締めくくられている。

 志ん朝師匠。榎本滋民も山本文郎も貴方の大ファンでした。「文七元結」はもう最高!その二人とも先に逝くなんて、なんでなの?・・・・・・合掌。


 きっとあちらの方では、志ん朝を囲んで、榎本さんと山本さんが、落語談義で旨い酒を飲んでいることだろう。しかし、肴は「酢豆腐」、ではありえないな^^
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by kogotokoubei | 2014-08-12 10:27 | 落語のネタ | Comments(0)
先日、春風亭一朝の『淀五郎』を堪能したのだが、この噺では、ある逸話を思い出す。


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矢野誠一著『落語讀本』
 平成元(1989)年12月に文春文庫で発行された矢野誠一著の『落語讀本』は、講談社から再刊された『落語手帖』と重複部分も多いのだが、讀本にしかない内容もあって、「こぼれ話」などには結構楽しい逸話が多い。

 『百年目』の「こぼれ話」からご紹介。

 三遊亭圓楽が、まだ三遊亭全生といって二ツ目の時分、有楽町の第一生命ホールでひらかれていた「若手落語会」に、『淀五郎』を出したことがある。いくら若手落語家にとっての晴舞台とはいえ、大看板の師匠連でも尻ごみしかねない『淀五郎』に、二ツ目の分際でいどんで見せたあたりが、いかにも後の圓楽である。
 当日、高座にあがってびっくりした。うしろのほうの客席に、師匠の三遊亭圓生がすわっているのが目にはいったのである。さあ、それからはなにをどうしゃべったか、まるで夢遊病者の気分で一席を終えた。あくる朝、案の定師匠からの呼び出しだ。おそるおそる顔を出した圓楽に、圓生はいったそうだ。
「全生さん、あなたは結構なはなし家ンになりました。もう私が教えることはなにもありません・・・・・・」
 もちろん、いってる言葉とはまったく裏腹の、強烈な、いかにも圓生らしい皮肉なのである。針のむしろにすわらされた圓楽は、ただ、だまって頭をさげるだけである。師匠から呼び出しを受けたときの心境は、まさに『百年目』の治兵衛のそれだったときいた。


 
 矢野さんの本人から聴いた逸話、師匠圓生からは、こう語られている。

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三遊亭圓生著『寄席育ち』

 『寄席育ち』の「芸と年齢」から引用。

 芸ってものは、何でもそうですが、かたちばかりそれになっても腹の虫がからッぽだったらだめなもので・・・・・・だから老人(としより)の出る噺は、若いうちは、どうやったって出来ないんですね。うちの弟子の圓楽が『淀五郎』を演りたがって、あたしに内緒で演ったことがあるんです。あたくしがかくれて客席で聞いたんですよ。そしたら、あたくしが来てるって、また、よけいなことを言った者があって、当人へどもどしてましたがね。噺はすっかりよく覚えてますが、ただほかの者は出来ても仲蔵が出来ない。年配で、自分が苦労してきて、世慣れてるから、下の者に対する言葉づかいも、そう威張ってはいない、やさしい言葉で、しかもその中に威厳があって、親切で、情誼がなくちゃいけない。そういう人間は、なかなか若いうちに出せっこないんですよ。あたくしも若い時分に『淀五郎』を演りたくッてね、演って失敗したことがあります。『ちきり伊勢屋』なんかも、二十二、三の時分に演ってみたことがありますが、やっぱり大きな噺だからもちこたえられない。しゃべるだけしゃべったってだめなんです。



 『淀五郎』という噺に関する、実に含蓄のある逸話だと思う。
 ただし、圓生本人が、仲蔵に造型したような人物として弟子や他人と接したとは思えないのが、残念ではある。

 春風亭一朝、昭和25年生まれで64歳。もちろん、“しゃべるだけしゃべる”のではない、年の功を生かした味のある噺家だ。

 先日の高座には、“年配で、自分が苦労してきて、世慣れてるから、下の者に対する言葉づかいも、そう威張ってはいない、やさしい言葉で、しかもその中に威厳があって、親切で、情誼”がある仲蔵が存在していた。

 大師匠正蔵と圓生の芝居噺、『中村仲蔵』については、私は正蔵に軍配を上げる。しかし、『淀五郎』については、圓生の芸は捨て難いと思っていた。なるほど、圓生の『淀五郎』への取り組み方には年季が入っている。

 “芸と年齢”のことを考えると、志ん朝の七十代の『中村仲蔵』や、『淀五郎』を聴きたかったなぁ、などと考えてもせんないことを思ってしまう。

 今になって輝いてきた一朝、そして雲助など芸達者がいるじゃないか、と自分に言い聞かせよう。
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by kogotokoubei | 2014-08-02 10:56 | 落語のネタ | Comments(4)
土曜日の池袋で一之輔の『鰻の幇間』を楽しんだ。

 鰻と言えば、明日が夏土用の丑の日。
 この日に私は鰻を食べない。旨くて安全で程よい値段の鰻が食べれるとは到底思えないからだ。
 老舗の鰻屋の中には店を休むところもある。十分に客の対応ができないという理由の店もあれば、客が多くていつもの品質の素材を提供できないから、という店もある。理屈だと思う。

 しらすうなぎが獲れないとか今年は少しは獲れたとか、中国で欧州産の鰻を来年から輸出しないとか、いろいろとメディアを賑わわせる時期だが、別に丑の日という一日に絞って鰻を食べることもないし、法外な値段の鰻を、他の日でも食べようとは思わない。

 かつての日本には、夏の土用に、必ずしも鰻を食べるだけではない過ごし方が伝わっていた。
 ほぼ三年前に、荒井修著『江戸・東京 下町の歳時記』からの紹介などで書いたことがあるので、ご興味のある方はご覧のほどを。
2011年7月20日のブログ

 現実の鰻のことは別にして、落語の『鰻の幇間』について。

 八代目文楽で名高いが、私は志ん生の、ややぞろっぺいの一八も好きだ。

 野幇間(のだいこ)一八が、獲物の客を探して歩いているうちに、見たことがあるような男に出会い、つい知ったかぶりで御馳走にあずかろうとして、鰻屋で大失敗してしまう、というのが噺の中心。
 実話を元にしている、という説がある。こんな男には会いたくないものだ。
 先日の一之輔は、先にこの男が「おや、師匠!」と一八に声をかけさせているので、その罪状(?)は一八が声をかけるより重いだろう^^

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安藤鶴夫著『落語国紳士録』
 その男がどれだけひどい奴か、ということについて、安藤鶴夫著『落語国紳士録』からご紹介。

 この本、私はちくま文庫(1991年初版発行)で読んだが、その後平凡社ライブラリーで2000年に再刊されている。
 上の画像はちくま文庫、リンク先はAmazonの平凡社ライブラリー版である。

 「せんのとこの男」の章から引用。

せんのとこの男

「鰻の幇間」に登場。浴衣がけで、手拭いを下げて、ぺたんこな下駄をつっかけていたが、その日の朝、一八が五円で買った下駄を、鰻屋の店からはいてッちゃッた男、三十がらみ。せんの家に住んでいる。
      □
 落語国の中で、これほどいやな野郎はない。どうしていやな野郎かというと、理由はいろいろあるけれども、まず第一に、どこに住んでいるかが明らかでない。なにかというと「せんのとこだ」せんのとこだとばかりいっている。落語国の中には、それァ名なしの権兵衛は男女共にいくらでもいるが、それはまたそれで、親たちが名をつけてくれなかったとか、或はつけてくれてもてめえで自分の名を忘れちまったとかいうようなれっきとしたわけがあって、殊更らに、意識して名なしとか、或は名を名乗らないというわけではない。
 ところが、この男ばかりは、明らかに名を名乗らず、さらに自分の住んでいるところも、意識的に知らせまいとしている。尤も、こんな男に鰻の一と串でもたかろうとして、なにからなにまで、みんな心得た風にみせかけた一八も、決していいとばかりはいえないようだ。うちの神さんがまた芸人が好きでね、始終大勢遊びにきているよだの、芸人の配りもののの浴衣なんかも沢山あるから取りにおいでな、なんかいうから、一八もわくわくして、是非伺います。お宅はどちらでしたッけというと「せんのとこじゃアねんか」一八がまた百年の知己の如き知ったかぶりをしちまったばかりに「あ、さいですな、心得てます、あすこんとこだ、(扇をひとつ、ぽオんと膝へ当てて)せんのとこだ・・・・・・」といわざるを得ない。この愚かなる一八に、こういわざるを得ないようにしむけているこのせんのとこの男の、なにか知性の如きものに腹が立つのである。この野郎がなんの某と名乗ってさえいれば、なにもこんなヒッチコックばりの映画のような題なんかつけなくッてもよかったのである。
 さも自分がおごるような顔をして、逆に土産を三人前も持って、一八の買いたての下駄をはいて、勘定は二階の羽織を着ているあの旦那から貰ってくれを、ぷいッと消えてしまった手口は、まことに鮮やかである。
  (中 略)
 梅雨あけの、煮えるような暑さの中を、私はせんのとこの男を捜して歩いた。せめて、横づッぽの一つも張り飛ばしてやりたいと思ったからである。しかし、野郎が湯にいくのに手拭いを借りた家が、なんだか縁日の露店の元締めをやっている家だというところまでは分ったが、それからさきは、そこでもまた野郎は「せんのとこ」で押し通していたようだ。なんでも、王子の狐をからかったたたりを恐れて、知り合いを転々としていたらしいが、そういえば、王子で女狐をだまして、扇屋で酔ッぱらわして、さんざんな目に会わせてやり口と、全く同じいき方なのである。
 いたら、お教えを願いたい。


 アンツルさん、もちろんお遊びとして、こういう紳士録を書いているわけだが、『王子の狐』の男と同じとは、私は思えないなぁ^^
 彼は、後から詫びに行くからね。せんのとこの男、そうするようには思えない。どちらかと言うと、『付き馬』の男と同一犯(?)ではないかと、私はにらんでいる。あの狡猾さが似ているではないか。
 
 しかし、この男、それほど儲かったのだろうか。男に逃げられてから一八が女中を叱る時の形容のごとく、噛み切れないような(一之輔はゴムホースのようなと言っていた^^)鰻のことを考えると、実質的な男の戦利品は、桐の下駄だけかもしれないなぁ。土産の鰻を、余興の“罰ゲーム”にでも使うなら、別だが。

 とは言っても、この男が捕まったら、無銭飲食には問われるだろうし、窃盗罪に詐欺罪まで加わるかな。いや待てよ、詐欺罪の方は微妙だなぁ。「御馳走する」とは明言していないのだよ・・・・・・。

 また、本職の話芸の達人であるはずの一八を、それを上回る話術と策略で見事に騙すところなどは、騙された後の一八に「今度会ったらじっくり語り明かしたい」と言わせるだけの練達者であるかもしれない。

 もし、後日一八が会ったなら、「この野郎!」とばかりに拳を上げるのではなく、「よっ大将、ぜひご一献!」となるのが落語界の住人の行動としては相応しいのではないか。そして、それこそが、野幇間一八の真骨頂のように思うし、そうあって欲しい。

 落語の世界に登場する悪い奴は少なくない。それこそ、『寄合酒』の若い衆など、乾物屋にとっては、憎き窃盗犯である^^

 しかし、そういう面々も含め、楽しく聴かせてくれるのが落語の世界。
 現実で繰り広げられる様々な犯罪や、政府が国民を騙す国家的な犯罪には笑えないが、それらを思う怒りや哀しさを、いっとき笑いで救ってくれるのが落語でもある。

 「せんのとこの男」、旬な噺であるだけに、しばらくあちこちで登場することだろう。落語会や寄席で、一八が見事に騙され、その悔しい思いを鰻屋の女中にぶつけているはずだ。

 一八は、その後あの男と再会して、じっくり話術とヨイショの極意を学ぶことができただろうか。

 もちろん、長年名人上手によって練り上げられた古典落語は、本来のサゲまででお開きなのだろうし、エピローグは蛇足でしかない。しかし、あり得ない後日譚に思いを馳せるのも、落語の楽しみ方の一つのように思う。一八があの男に会って、「いよぅ、大将!」と言った時、どんな表情を浮かべるか、そんなことも邪推するのである。「この野郎!」と拳を上げて喧嘩になれば、一八に勝ち目はなさそうだ。それより、「よっ、大将!」と持ち上げて、鰻屋の分も含めて取り返してこそ、野幇間の道(?)ではないか。その時に、せんのとこの男は、きっと、「う~」とうなって難儀するはず^^
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by kogotokoubei | 2014-07-28 06:57 | 落語のネタ | Comments(4)
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 柳家小満んの何とも結構な独演会のトリネタで聴いた『大山詣り』だが、榎本滋民さんの『落語小劇場-下巻-』(三樹書房)の第一章に、この噺がある。

 概要解説にあたる「まくあい」から引用。

まくあい
 ほら熊による講中遭難報告から、女房連中に一斉剃髪までが山場だが、勇み手合いの活気にみちた道中、神奈川宿での騒動、翌朝の熊の驚きと怒り、大詰めの講中の敗北と、いささかもだれ場がなく変化にとむ名作。
 寄席芸人の経歴もあり、『大山道中膝栗毛』の作もある滑稽本作者瀧亭鯉丈(天保十二年没)の自作自演という説もあり、四代目円喬・四代目円蔵・三代目円馬・五代目円生・六代目円生という、三遊派のいなせな芸風の中で継承されてきた。女房連中に伝える悲報は、作りばなしと知っている聞き手までがつい引きこまれるような腕を必要とする。



 この噺は狂言の『六人僧』を原話とし滑稽本『耳嚢』などにも類話があるネタ、と解説している本が多いが、落語に仕立てたのは瀧亭鯉丈なのかもしれない。
 三遊派にこの噺を得意とする噺家さんが多かったのは事実だが、もちろん柳派が出来ない噺というわけではない。
 “人間国宝”小三治の音源を聴いたが、楽しい。冒頭に熊さんに釘を刺す場面もある。 

 榎本さんが指摘するように、場面転換も多いし、それぞれ聴かせどころがあるので、スピードがあってテンポが良い噺家さんの方が、この噺には合っていると思う。
 加えて、噺の舞台における時間と空間を聞き手にイメージさせる科白使いなども大事だ。
 たとえば志ん朝は、無事にお山が済んだ帰路、神奈川宿の場面に入る際、「神奈川宿から江戸までは七里」という一言が入るが、これだけで、「あっ、江戸までそんなに近いんだ」と分かる。こういうキーワードを忘れないことが重要ではなかろうか。

 榎本さんの本には、大山詣りに行く時期的な区分について、こう書かれている。

 六月二十六日から七月七日までを初山、八日から十三日までを間(あい)の山、十四日から十七日までを盆山。旧暦だから盛夏から初秋である。


 ちなみに、今年の旧暦七月十四日から十七日は、八月九日から十二日にあたる。

 小満んの会でいただいた、小さな可愛いプログラムには、次のようなことが書かれていた。
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 初山の始まりの日が榎本さんの本と違っているが、それは些細なこと。
 古川柳とその簡潔な解説が、実はプログラムには書かれていたのである。
 いいでしょう、こういう細かな配慮のある落語会って。

 榎本さんの本から補足する。出かける前の垢離場から。

 

両国橋東詰め(小石川関口にもあった)の垢離場で水垢離をとって精進潔斎する。
 罪障懺悔の唱えごとを一千回くり返すので千垢離というが、数を忘れないように緡(さし)を一本一本川に流す。よく流れるか渋滞するかで吉凶を占った。

 百度目のさしは目よりも高く上げ
 投げるさし十九本目に土左衛門
 屋根船の唄千垢離につぶされる
 清浄なへのこ南無帰命頂礼
 屋形を見まいおえるぞざんげざんげ
 

 涼み船の美女を見るな、へのこ(男根)がおえる(勃起する)とどなっているのだから、どんな野郎たちか想像できるだろう。
 上がると、伊達染めの浴衣か白い行衣の揃いで、納め太刀と称する七八寸から一丈あまりの木刀をかつぎ、いよいよ夜中に江戸を立つ。中には当時年二期(盆と暮れ)だった勘定の清算がつかず、借金とりを避けるために大山まいりに加わる者も多かった。

 盆前の借り太刀先で切り抜ける
 納まらぬ頭でかつぐ納め太刀 
 十四日抜き身を背負って夜道する
 所詮足りないと大山さして行き
 十四日末は野となれ山へ逃げ


 こういったことを知っていると、噺の楽しみが増える。

 榎本さんも小満んも、古典落語の背景にある江戸庶民の生活、文化、風習を古川柳などを含め知ることが、落語の楽しみをより深くするものであること、いいや、そういった落語が伝える生活を味わうことこそ本来の落語の楽しみ方であることを、よ~く知っているのだ。
 
 小三治の人間国宝ということに、落語会のチケットが取りにくくなるだろうというマイナス面もあるが、プラスももちろんあるだろう。
 それは、本来の落語の楽しさが奇をてらった現代風のくすぐりなどではなく、自然体でその噺の舞台である江戸や明治の庶民生活を描くことで、高座と客席が一体化した得がたい一期一会を共有することにある、というメッセージだと思いたい。
 そして、そういう大事な思いは、榎本さんの本からも強く伝わるものであり、小満ん、雲助などにも共有されているように思う。

 『大山詣り』という噺は、江戸時代の山岳信仰、それと表裏一体となった男の遊び、長屋の暮らしぶり、江戸っ子の心理、などなどが伝わる好きなネタの一つである。もちろん、旬を感じる噺でもある。ネタの表面的な演出や所作などだけではなく、そういったことを楽しめるからこその“古典”なのだと思う。

 榎本さんの本、サゲの部分を引用して、この記事もサゲとしたい。

 かみさん連中がくりくり坊主になるだけですんだのは、ほんとうにおけがなくっておめでたいことだった。熊公の報復は卑劣といえば卑劣だが、それを挑発した側にも集団暴力がないとはいえない。愚行の笑いの中で集団と個の問題を考えさせるような落語である。
 狂言の『六人僧』を原典とした上方落語『百人坊主』の移植だという説もあるが、背景と人物の適合性やはなしの運びの緻密さから見て、江戸系の創作と称して差す支えはないだろう。

 
 あら、最後に『六人僧』のことも書いてあるじゃないの。
 だから、本は落ち着いて読んでから引用しなけりゃならないのだよ。でも、修正はしない^^
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by kogotokoubei | 2014-07-19 05:54 | 落語のネタ | Comments(2)
 浅草見番の雲助の高座を聴いてから、『中村仲蔵』のことについて何冊か本を眺めていたら、暉峻康隆の対談集『落語藝談』で、林家正蔵(もちろん八代目)が次のように語っているのを発見した。ちなみに、矢野誠一『落語手帖』でも「芸談」として引用している部分である。


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暉峻康隆『落語藝談』(小学館ライブラリー)

正蔵 「中村仲蔵」は、あたしがどこで聞いたんですか、若いうちですが、天野雉彦先生という童話作家の大家がいましてね、あの方が徳川夢声さんのおじさんなんですってね。
暉峻 ああ、そうですか。
正蔵 その方が、「中村仲蔵」をやったのをどこで聞いたんだか、場所も年代も覚えちゃいませんのですが、聞きましてね、これはいい咄だなとおっしゃったんですね。それから、あたくしは、はなし家になって何十年かたってから、「仲蔵」をやってみたいと思ったんです。
 で、あたくしの「仲蔵」は、あらかたは根岸の文治さんなんです、先代の(八代目文治)。
あの方の「仲蔵」をやるんですが、「仲蔵」のはご案内のとおり、二通りありましてね。一つは「手前味噌」(三代目中村仲蔵の随筆)に頼ってるほうの「仲蔵」なんです。片っ方は先代小円朝さんなんかの演っていたような、夜逃げをしようってんで、道具屋がきているところへ迎えがくるわけですわね、道具の競り市の最中へ。文治さんのは偶然にも「手前味噌」のほうの「仲蔵」なんです。それですから、覚えはいいし、自分の好きなほうですから、そこでいっぺん聞いたんですが、すっかり覚えちまいました。
 文治師匠に小山内薫先生がおっしゃったんです。「柳島の妙見様へ取って返しておみくじをもらったらば、天地人の人人人てえのが授かった」んです。で、仲蔵が決心するわけですね。「手前味噌」と変わっているのは、百姓してる兄弟ところへ相談に行かないんですよ。自分独断でみんな呼んで、そこで決心のほぞを固めちまうわけなんです。そんなところは、咄のほうは簡略なんですけれども。
「仲蔵」の替え紋が、源氏模様の「人」という字が三つついているんですね。ですから、小山内先生の言われたのが事実なんですね。で、あたしは「仲蔵」好きなんですな。「仲蔵」でいちばん好きなのはね、仲蔵がまったくやりそこなったと思って、江戸をあとにするわけでしょう。それで魚河岸のなかを通ると、年寄りと若い者が会話をしていて、中村座の噂になって、
「中村仲蔵の定九郎、よかったよ!」
 という話を仲蔵が聞きましてね。
「ああ、ありがたい!広い世間にたった一人だけ、おれの芸をいいと言ってくだすった方がいる。この人の言ったことを女房に聞かせて、これを置き土産に江戸をたとう」
 というんで、自分の家へ帰ってくると。それで中村伝九郎のところからのお使者とぶつかるんですがね、あすこんところがあたしはいちばん好きで、「広い世間にたった一人・・・・・・」って、あたしどもの境遇では、それが真実ですからね。
暉峻 人ごとならず身にしみる・・・・・・。
正蔵 ええ。それと、このごろ「仲蔵」をやっていましてね、仲蔵が舞台でほめられないんで、これは失敗したと思いますね。と、たいていの芸人なら、そこで芸を投げるわけだが、「失敗をしたこの芸は江戸できょう限りだ。これが舞台の踏み納めだ」と、いっそ力を入れましょう、ね。あそこのところが仲蔵のえらさだと、そういうところを強調したいんです。
暉峻 そうですね。咄をする人の気持が、どこかで出てこなきゃいけないわけですね。はなし家自身の身にしみた気持をどこかに出していくということですかね。
正蔵 ええ。

  

 過去に童話作家によって聞いたことが、仲蔵を演じるきっかけだったとは意外だ。

 天野雉彦については、出身の島根県のサイトで次のように紹介されていた。
島根県サイトの該当ページ

本名 天野 隆亮(1879~1945)児童文学者
 
鹿足郡津和野町に生まれる。明治23年に島根師範学校を卒業し、益田町立小学校訓導、島根師範学校付属小学校訓導を経て、明治38年に上京する。その後、久留島武彦の「お伽倶楽部」に参加し、坪内逍遙の指導を受ける。童話と講談の中間である独自の話風の口演童話家として活躍し、児童文学の普及に貢献した。徳川夢声は甥である。
 
主な著書
『七婦人』『実演お話集』


 
 正蔵は明治28(1895)年生まれなので、天野雉彦が上京した明治38年には10歳。きっと十代の時に、天野による “童話と講談の中間である独自の口演”による仲蔵を聞いて憶えていたということなのだろう。

 そして、実際の噺の方は、三代目仲蔵の「手前味噌」を元にした八代目文治の型を踏襲したわけだ。八代目桂文治は、顔が黒くて面長の顔から「写真の原板」とか「茄子」という綽名や、根岸に住んでいた事から「根岸の師匠」と言われていた。初代四代目小さん亡き後は落語協会の二代目会長だった人。いっとき八代目文楽もこの人の弟子になっている。

 もう一方の型で演じる三遊亭小圓朝は、志ん生の最初の師匠である二代目のことだろう。二代目を父にもつ三代目は昭和48年に没していて、この対談の時期は存命中のはず。

 ちなみに雲助の師匠馬生は仲蔵と女房が夜逃げをする設定なので、その部分においては小圓朝の型。

 小山内薫の指摘による妙見様のおみくじ「人人人」や紋のこと、正蔵はしっかり語っている。

 何と言っても、紹介した対談の中で印象深いのは、次の部分。くどくなるが、再度掲載する。

正蔵 「ああ、ありがたい!広い世間にたった一人だけ、おれの芸をいいと言ってくだすった方がいる。この人の言ったことを女房に聞かせて、これを置き土産に江戸をたとう」
 というんで、自分の家へ帰ってくると。それで中村伝九郎のところからのお使者とぶつかるんですがね、あすこんところがあたしはいちばん好きで、「広い世間にたった一人・・・・・・」って、あたしどもの境遇では、それが真実ですからね。
暉峻 人ごとならず身にしみる・・・・・・。
正蔵 ええ。それと、このごろ「仲蔵」をやっていましてね、仲蔵が舞台でほめられないんで、これは失敗したと思いますね。と、たいていの芸人なら、そこで芸を投げるわけだが、「失敗をしたこの芸は江戸できょう限りだ。これが舞台の踏み納めだ」と、いっそ力を入れましょう、ね。あそこのところが仲蔵のえらさだと、そういうところを強調したいんです。
暉峻 そうですね。咄をする人の気持が、どこかで出てこなきゃいけないわけですね。はなし家自身の身にしみた気持をどこかに出していくということですかね。



 “「広い世間にたった一人・・・・・・」って、あたしどもの境遇では、それが真実ですから”
 “人ごとならず身にしみる”
 “咄をする人の気持ちが、どこかで出てこなきゃいけない”


 こういった言葉に、正蔵の『中村仲蔵』が素晴らしい理由があると思う。私も“あすこんところ”が大好きだ。

 紹介した『落語藝談』だが、Amazonに私が書いたレビューをご紹介する。

企画されたのが昭和43年冬で、最初に三省堂から出版されたのが昭和51年4月なので、掲載された文楽、正蔵、円生、そして小さんという「明治・大正の格調を伝える四人の長老」(本書「再刊の辞」より)への対談は昭和40年代半ばから50年代初期まで、各師匠の都合や体調を十分見極めて丁寧に行われたのであろう。すでに志ん生は高座に上っていないことと、4時間にも及ぶ対談による体調への影響を考慮し企画からはずれたらしいが、非常に残念。しかし、志ん生が欠けていても、終戦後間もなく自身が教授として勤める早稲田大学の落語研究会会長として各師匠との深い親交があった著者の好リードにより、この4人の名人達が、入門前の動機、師匠のこと、落語哲学などを、まさに肉声が聞こえんばかりに吐露している本書の値打ちはいささかも下がらない。後半の「笑いの芸能」「近代落語について」も小品だが佳作。


 今や古書店でしか手に入らないが、ぜひ、復刊して欲しい好著。
 
 ちなみに、私の座右の書(?)興津要さんの『古典落語』には、なぜか、『中村仲蔵』は含まれていない。

 麻生芳伸さんは『落語百選』ではなく、『落語特選』の下巻に収容している。正蔵を評価しているのが、うれしい。なお、正蔵は中村座としているのだが、麻生さんは記録を元に市村座に訂正している。しかし、基本的には正蔵版を元にしたものだ。


 そうなのだ。
 拙ブログも、広い世間で“たった一人でも”、「いいね」、と言っていただければ本望。そういった謙虚な気持にもさせてくれた、正蔵のい~い話だった。
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by kogotokoubei | 2014-07-08 00:53 | 落語のネタ | Comments(0)
19日の雲助の独演会、お題の「大川」にちなむネタ三席のうちの一つが『汲み立て』だった。
2014年6月20日のブログ

 この噺、私は大いに楽しんだ。江戸っ子の“有象無象”のやりとりや、彼等の建具屋の半公(建半)への嫉妬による暴挙(?)、与太郎による味付け、そして小股の切れあがったいい女である常磐津のお師匠さんの艶、そういった登場人物が繰り広げる筋書も楽しいし、音曲噺でもある。何より、大川での船遊びが旬を感じさせてくれる。

 後から雲助のホームページにある「雲助蔵出し」のページを見たところ、平成3年7月11日の四谷倶楽部での会でかけていることが記録され、こんな文章があったのでご紹介したい。その日は、『唐茄子屋政談』との二席だったようだ。
五街道雲助ホームページの該当ページ

第拾壱番蔵出し

 ひとつ誓願寺店まで演ってみよう ト云フ回

  平成三年七月十一日  於・四谷倶楽部

一、汲み立て 一、唐茄子屋政談 

一、汲み立て
 下げは柳亭鯉丈の八笑人からとったもので、いかにも江戸落語という趣がある噺です。  お師匠さんをバーのママにでも置き換えれば現在でもありそうな噺で、男と女の事はこの頃も今もさして変わりがないのは面白いものです。  別にどうと云う事もない筋立てで、変な力みも無し、それでいて江戸っ子連中が生き生きとして、おまけに下げが意表をついていて、実に落語らしい落語で、こういう噺があたしは好きなんです。こんな噺にこそ粋や洒落を感じます。  大分前になりますが、あたしが二つ目の頃、日刊とびきり落語会にこの根多を出したところ、そんな噺じゃ評価のしようがないと言った、会の審査員で若い評論家の方がいましたが、困ったものです。なにも大作ばかりが噺ではあるまいし、噺に対して失礼じゃないでしょうか。あたしはどんな噺でも存在価値があると思っています。

 雲助も私と同じような思いなのが、頗るうれしい。私も、“いかにも江戸落語という趣がある噺”だと思う。

 そうなのだよ。ネタの最後で登場する肥船やサゲだけに焦点を当てて“下品”なネタと評する演目ではない。そういった見方はあまりにも浅すぎる。また、下がかっているから演じられることが少ないのではなく、この噺が音曲の素養も必要な難しい演目であるから敬遠する噺家さんが多いのが実態ではなかろうか。

 雲助の回想にある評論家さんは、どこまでこの噺を知っていたのか。雲助は昭和47年に二ツ目、昭和56年に真打に昇進している。二ツ目時代には、円生の十八番の一つとして定評があったはずだし、桂文朝なども寄席でかけていたと察する。雲助が言うように、「そんな噺じゃ評価のしようがない」とは、なんとも失礼な話、いや噺に失礼である。


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 榎本滋民さんだって、『落語小劇場』(下巻)で、しっかりこの噺を取り上げている。上下で36篇しか取り上げていない中の一席として選ばれているのだ。

 この本では噺の紹介の中で、コラム的に「まくあい」という内容があり、この噺について次のように書かれている。


 川面へ出てからは、瀧亭鯉丈作の『花暦八笑人』の茶番の趣向からとっている。初代円右・四代目円蔵らのすぐれた演出に、六代目円生が磨きをかけた。
 競争していた弟子たちが、共通の敗北感から団結する過程のにぎやかさと船中の師匠のつやっぽさが聞きどころで、『猫忠』などと同様、はなしの間に清元・常磐津などを入れて演じた。今は素ばなしで演じるが、音曲ばなしとしても聞きたい。四代目小さんは、『はやし船』と題し、肥船を出さず、怒った一人が師匠の船に飛び乗り、なぐりにきたのかと聞かれて、「なに、一杯御馳走になりにきた」と落ちにしている。

 榎本さんも、こういう噺が好きだったんだよね。
 
 常磐津のお師匠さん目当てに通う長屋の“有象無象”については、次のように書かれている。

 あわよくばころがして食っちまおうというアワヨカ連、狼連、張って張りぬく経師屋連、夏うちだけ涼みがてら人間離れのした親不孝な声を上げる蚊弟子、とにかく目的を音楽にではなく教師に置いた野郎連中も多かった。

 三味の弟子七尺去ってなめたがり
 三味の弟子破門のわけは師を口説き
 隙を見すましさらう気の男弟子
 させそうな身ぶりで弟子がやたらふえ
 させるかさせるかと岡崎を習い
 させそうもないで岡崎きりでやめ


  露骨な句だけ選っているように思われるかもしれないが、女師匠関係の川柳はこんなのばかりなのである。ぼくのせいではない。実際には難攻不落の御清潔な女師匠もいたことを、彼女らの名誉にためにお断わりしておく。
 裏通りの新道や横町に借家住まい、格子戸を入った土間に芸名の小提灯、猫か狆がいて、お袋はいたりいなかったりという舞台面。

 こういう舞台設定を想像して噺を聴くと、一層楽しくなるね。

 川柳の岡崎とは、人形浄瑠璃「伊賀越道中双六」の中の一つの段のこと。文楽、浄瑠璃がどれほど庶民の芸能であったかが、こういった川柳からも分かる。

 ぜひとも、雲助に限らず挑戦して欲しい江戸落語の趣たっぷりなネタである。

 詳しい筋書きや円生の高座については、いつもお世話になる「落語の舞台を歩く」でご確認のほどを。
「落語の舞台を歩く」の該当ページ


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 同ページから、渓斎英泉の「東都両国橋夕涼みの図」(部分)をお借りした。この噺の後半は、こういった光景を思い浮かべることができる。まさに、“旬”の噺。
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by kogotokoubei | 2014-06-25 19:24 | 落語のネタ | Comments(0)
雲助の『宮戸川~通し~』の余韻が残っているが、あの高座で重要な“芝居がかり”について、雲助本人の本から紹介したいと思う。
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五街道雲助著『雲助、悪名一代』
 
 「第5章 師匠もつらいよ!? ~弟子から「師匠」へ。師匠から弟子たちへ~」より引用。

芝居がかり

 落語と歌舞伎は大変に関わりの深い芸能です。
 元は落語や講談だったものが、歌舞伎化されるというのは先にも触れましたが、逆に、落語が歌舞伎を取り入れることもあります。
 その手法のひとつが、芝居がかりというものです。
 といっても最初から最後までではなく、いわゆるクライマックス、見せ場だけ歌舞伎風になる、その部分を芝居がかりといいます。
 たいていが人殺しなどの暴力的な場面でして、芝居がかりにすることで少しでも生々しくないように、後に嫌みが残らないように、という工夫のようです。
 台詞回しが歌舞伎調になるのはもちろん、三味線やツケといった音響演出を入れて演じます。
 わたしが最初にやった芝居がかりは、『宮戸川』という演目でした。
 (中 略)
 速記でこの後半部分を見つけて、どうしても芝居がかりでやってみたくなりました。


 しっかり「芝居がかり」とは何かが説明されている。
 このあとに、昨日の記事で紹介した芝居がかり部分のシナリオが紹介されている。

 雲助が刺激を受けた速記の噺家さんの名は本書に記載されていないが、たぶん三代目の春風亭柳枝だと察する。
 
 雲助が芝居がかりに興味をもったきっかけは、次のように書かれている。

 芝居がかりのおもしろさに目覚めたきっかけは、三遊亭圓生です。
 わたしが二ツ目のころ、圓生が『双蝶々』を演るというので、舞台袖から観させてもらいました。勉強熱心な若造に感心したのか、圓生がお小遣い(千円)をくれました。
 『双蝶々』は、三遊亭圓朝の作品で、二時間近い大作です。
 貧乏長屋に生まれた長吉が、継母をいじめるので家を追い出されるように奉公へ出されるまでが序章。長吉が奉公先で盗みをしていたことがバレ、それを知った番頭・権九郎に脅されて店にある大金を持ち逃げするのですが、その際に権九郎を殺して金を独り占めする計画を立ち聞きした定吉を殺す『定吉殺し』、店の外で落ち合った権九郎を殺す『権九郎殺し』、その後、悪事に悪事を重ねてすっかりヤクザ者となった長吉が、年老いて病に伏せる父親と再会する『雪の子別れ』の、四部構成になります。
 このとき、圓生は『定吉殺し』と『権九郎殺し』を演りました。
 『定吉殺し』は何度も聴いていたのですが、『権九郎殺し』はこのとき初めて聴いて、いえ、観て衝撃を受けました。
 舞台に膝立ちになり、三味線にのった朗々たる台詞回し、そこにツケが入り、長吉と権九郎の立回りから権九郎が殺されるまでは舞踏のように美しい所作、目線と手の動きで長吉と権九郎を演じわける技術に圧倒されました。
 のちに自分でもどうしてもやってみたくなり、ソニーの『圓生百席』を手がけたプロデューサー、京須偕充さんがこの公演のリハーサルと本番のビデオを入手してくださったおかげで、それを見て動きの稽古をすることができました。
 (中 略)
 『権九郎殺し』の立回りの所作ができるようになったおかげで、『髪結新三』の深川閻魔堂の場面、新三と弥太五郎源七の決闘も演れるようになりました。



 なるほど、圓生の『双蝶々』がきっかけだったのだ。だから、一門でこの噺のリレー落語を行うなど、特別な思い入れがあるのだろう。
 
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   矢野誠一著『新版 落語手帖』

 また『宮戸川』のことに戻るが、矢野誠一『新版 落語手帖』のこのネタの部分に、榎本滋民さんの次のような指摘が掲載されている。

たいていの解説が『宮戸川』は後日譚はつまらないので、馴れそめしか演じられないのだと片づけているのには、賛成できない。作が不出来なのではなく、初代三遊亭圓右あたり以後巧みに演じる者がいなくなったため、つまらないように思われているにすぎないのだとぼくは断言する。    榎本滋民


 この本の唯一の欠点だが、出典が書かれていない。私は所有していないが、たぶん『大衆芸能資料集成 第四巻 寄席芸 1落語』(三一書房、1981年7月15日発行)かと察する。
(*この件、P.S.をご参照のほどを)

 榎本滋民さんの意見に合点である。

 そして、雲助が“巧みに演じる”ことで、この噺は本来の芝居ばなしとして蘇るだろう。

 未見だが、小満ん、喬太郎も通しで演じるらしいので、ぜひ聴きたいものだ。喬太郎は、円歌の了解を得てかけているとのこと。そう言えば円歌の通しは『品川心中』とのカップリングでCDが発売されているなぁ。そのうち聴いてみよう。

 あらためて、雲助の芝居がかり、今後もぜひ聴き、観たいと思う。
 そして、一門弟子にも、白酒は別にして残る二人には、しっかり圓生→師匠と継承されてきた芝居がかりを磨いて欲しいと思う。

P.S.
雨でテニスが休みとなった日曜の午後、町田の古書店で榎本滋民著『落語小劇場』(上・下)(三樹書房、昭和58年初版)を入手。出典はこの本でした。あえて、記事は修正しません。この本については別途ご紹介予定。
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by kogotokoubei | 2014-06-21 08:31 | 落語のネタ | Comments(0)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛