噺の話

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カテゴリ:落語のネタ( 95 )

 加太こうじさんとなると、やはり紙芝居作家としての印象が強い。
 その加太さんは、落語に関しても一家言持つ評論家であり、著書も少なくない。

 本名は加太一松(かぶと かずまつ)らしいが、名門加太家の血筋を誇る父に反発して、尋常小学校5年の時から自ら「かた」と名乗るようになった、と言われている。

 私の好きな加太さんの著作に『落語-大衆芸術への招待-』(社会思想社・現代教養文庫)がある。

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 昭和37年1月15日に初版が発行された本。上の表紙は、本牧亭での林家正蔵の高座。

 この本については、「落語は文学である」という加太さんの主張について、以前記事にしたことがある。
2015年3月14日のブログ

 先日、矢野さんの本から、香具師や『一眼国』について記事を書いた後で本書をめくっていたら、「道徳について」という章で、このネタを取り上げていた。

 興味深い内容だったので、ご紹介したい。

 この話には、見世物にしよう思っていた男があべこべに見世物にされるこっけいを通して、価値というものが、立場を変えれば、まったく反対になることもあると語っている。
 それは<武士が支配する国では、金銭にかかわりを多く持つ町人はいやしいとされるが、金銭が支配する町人の国なら、武士は金銭にうとい者としていやしめられる>という寓意ともとれる。そのように解するとき、この話は、落語の多くが持っている共通の内容<封建社会にあって未来ー資本主義社会の到来ーを指向する>を象徴している。あるいは、体制側の英雄が反体制側の悪人であったり、反体制側の英雄が体制側の法律に照らすと罪人になることがあるのを象徴しているようにもとれる。そして、その価値観は、<物ごとにかかわりのある人間の多数決によって正邪、善悪、高下などの価値が定められるのだ>という考えかたによっている。

 この部分を読んで、つい、最近の文科省の組織ぐるみの天下り斡旋のことを思い出していた。
 
 現役の役人が斡旋の窓口になることは違法だがOBなら問題ない、とばかりの役所の姿勢に、多くの国民はあきれ返っているはずだ。
 参考人質疑で、前川前事務次官は「万死に値する責任」と言っていたが、その男は、その舌の根も乾かないうちに、隣に座った仲介役OBの嶋貫と顔を見合わせてニンマリしていた。何が「万死」だ。

 彼等にとってOBの嶋貫は、英雄とまでは言わないが大事な人物なのだろう。

 その嶋貫が財団法人から年五百万、社団法人からも七百万、顧問となった生命保険会社から、月二日の出勤で一千万円という報酬を得ていると聞いて、国民の大多数が、不合理であると考えるだろうし、怒りを覚えるはずだ。
 しかし、文科省、あるいは霞が関の人たちにとっては、それは“常識”なのだろうか・・・・・・。
 残念ながら、国民の大多数の価値観が、「文科国」では通用しないようだ。

 落語は文学であり芸術であると考える加太さんは、次のように続けている。

 芸術というものはすべて、作者が意識しようがしなかろうが、作者の物ごとにつけた価値が作品や演技を通して受け手にどう考えられるかという働きを持っている。それは、一見無意味で、価値という概念とは関係のないように思える抽象絵画や音楽でもおなじである。それは<雲のように漠たる形や色がうつくしい>と抽象画家が提示していた価値を、見る側が<その通りだ>と共感するか、ときには<わからない>と拒否するか、<こんな非現実的な絵画は社会において人間生活に直接働きかけるものもないから価値は低い>とか判断することっである。落語も、演ぜられるとき、ひとつの価値を受け手に提示し反応を求めることに変わりはない。ただ、それは、つねに他の芸術とおなじように、それとは直接に提示しない。寓話だけが直接に、なにかにたとえて価値を問うのである。たとえば、イソップの寓話は動物にたとえて人間生活における教訓を直接に語って受け手に共感を求めている。「一眼国」も、ひとつ目とふたつ目の世界があると仮定して価値の転換を問うているわけである。「一眼国」は落語中の特例である。他の落語は人間描写を主眼とし、それを通してこのようなことに共感するかと、問いかけている。

 最近では入船亭扇辰をはじめとして、このネタを聴く機会も少なくないが、初めて、八代目正蔵の音源を聴いた時は実に新鮮だった。
 サゲの後に一瞬、自分の脳裏に静寂が訪れたような、そんな感覚があった。

 それは、きっと加太さんの言う、受け手への問いかけが、あまりに強かったからかもしれない。
 映画やミステリーのドンデン返しのようなエンディングは、たしかに他のネタとは一線を画すものがあるだろう。

 「そうか、一つ目国では、二つ目は“化け物”だなぁ・・・・・・」
 という聴いた後での感覚は、たしかに強く道徳、いや哲学的な色合いを持つ。

 
 落語には、ただ面白おかしさに笑ってさえいられればいい、という純粋な娯楽としての存在意義もあるが、滑稽噺に笑っているときも、登場人物のしくじりや会話の可笑しさ、仕草、行動の奇抜さなどは、「それ、あるある!」という共感性があればあるほど、笑いも度合いも深まるのだろう。

 加太さんは、次のネタ『死神』へとつなぐ部分で、こう記している。
 道徳というものは、その時代の価値基準の大きな目もりである。支配者はつねに支配者の道徳を作り出して、支配される者に押しつける。支配される側も自分たちの道徳を持ち、その立場から支配者の道徳を批判する。支配者の道徳と支配される者の道徳が一致する場合もあるが、多くは相反するものである。落語はいつも、支配される側ー民衆の立場に立っていたから支配者の道徳を批判する話が多い。ここでは、直接、支配者の道徳に対して別の道徳を提示した落語について考察してみよう。

 この後の『死神』に関する部分は、後日ご紹介するとして、この反体制、民衆側の落語、という概念は、実に重要だ。

 『一眼国』の、一つ目の国こそ、民衆の世界であり、見世物小屋の主人を代表とする二つ目の国こそが、文科省などの支配者側であるわけで、その逆ではない。

 やはり、悪い奴はとッ捕まえて、こっちの見世物小屋で晒し者にしなければならない。
 彼らが、仲間たちとの村芝居で謝ったところで、それは、『一分芝居』の権助よりも下手な、言ってみれば楽屋の馬鹿話の延長でしかない。「万死に値」すると言ったところで、その科白には何ら説得力がない。もう、下手な芝居は見飽きた。
 まだ、忠臣蔵の七段目で、高みから飛び降りる権助の方が、役者は上だ。

 『一眼国』に関する加太さんの文章から、こんなことまで、思いが至った。

 それにしても、加太さんの落語への思いは、熱いねぇ。
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by kogotokoubei | 2017-02-10 20:57 | 落語のネタ | Comments(0)
 桂小南治が今秋襲名する師匠小南の十八番の中に『鋳掛(いかけ)屋』がある。

 このネタでは、得意にしていた三代目春団治、そして喜多八のことにも思いが及ぶ。

 今ではなくなった商売のことを題材にした噺だ。
 私が子供の頃には、さすがに道端で鋳掛屋さんは見かけなかったが、家の近所に鍛冶屋さんや刃物の研ぎ屋さんを兼ねる鋸の目立屋さんなどがあったなぁ。
 
 落語の『鋳掛屋』の主役は鋳掛屋をからかう子供たちと言ってよいだろう。

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矢野誠一著『落語長屋の商売往来』(文春文庫)

 矢野誠一さんの『落語長屋の商売往来』は2003年文春文庫からの再刊で、私が持っている初版は、白水社から1995年に『落語商売往来』として発行された単行本。

 「店構え」「小商い・手職人」「飲物・食物」「遊楽・乗物」の四つの章に分かれ合計34の商売について書かれている。
 
 この中の「いかけ屋」では、冒頭、矢野さんが結局は実現しなかったある出版物のための大阪での取材における、楽しい逸話が紹介される。

 その実現しなかった「寄席百年アルバム」の大阪取材で、上方落語協会事務局長桂米紫に案内をたのんで天王寺付近を歩いていたときである。突然、米紫の、
「ちょと、ごらんなさい。あれ、『鋳掛屋』の餓鬼でっせ、ほれ」
 という声に、指さす方をながめて思わずふき出した。ひっきりなしに車の通る道路の横断歩道を、黄色い小旗を手にした十人足らずの子供の集団が渡ろうとしてるのだ。覚えておられるだろうが、その時分信号のない横断歩道には、両側に黄色い交通安全の旗が用意されていて、歩行者はそれを手にして横断することになっていたから、それ自体はごく日常的な光景といってよかった。問題はその渡り方である。たくさんの車の流れを停めた彼らの、ある者は国会議員の牛歩戦術よろしくこれ以上ゆっくり歩けないくらいゆっくり歩くし、ある者はいらいらしてやけ気味にクラクッションを鳴らす運転手に赤ンベイをしてみせる。なかには道路のまんなかで、旗振りながら踊り出す者ありといった按配で、いやはやたいへんな騒ぎ。
 なるほど「鋳掛屋の餓鬼」とは言い得て妙で、大人をからかう子供の悪戯に手を焼くのは落語ばかりではないと、つくづく感心した。
 明治百年を記念した企画だったということだから、1968年の少し前、昭和40年頃の小学生となると、私とほぼ同じ年頃。
 私も、「鋳掛屋の餓鬼」だったかもしれないなぁ^^

 本書から、元となった(?)落語の方の子供たちの悪童ぶりをご紹介。
 道端で鋳掛屋が店をひろげ、鞴の火をおこしていると、悪餓鬼どもがやってくる。鋳掛屋のたくみな仕事ぶりをば静かに鑑賞するなどという、なまやさしい神経など持ちあわせているわけがない。鋳掛屋をおちょくるのである。
「オッタン、あんた、えらい御精が出まんな」
「・・・・・・えらい御精が出ますな、て、お前、精出さな、どんならんやないけェ」
「とら、とでごだいまンな、オッタン。この世の中ナ、働いた上にも働いた上にも働かんならんいうたかて、体が弱かったら、働かれしまへんが、ナ、オッタン。その点、オッタンら、体がお達者なだけ結構でござりまんナ、オッタン」
「ようしゃべるな、エエ。ひとこと言うたら、あんだけ引っかかってきやがんね。・・・・・・うかつもの言えんな」
「オッタン。あんたとこで、火ィブウブウやっとるが、そらどういう目的や」
「こらまた大層そうに吐(ぬ)かすなァ・・・・・・。どういう目的・・・・・・どういう目的て、お前、ただ、金属(かね)を湯ゥに沸かしてんのじゃい」
「ただ金属を湯ゥに沸かしてやんのやて、オッタンとこは、造幣局やおますまいな」
「ゾ・・・・・・ぎょうさんそうに吐かすな、アホ。造幣局やなかったら、金属、湯ゥに沸かされへんかェ」
「とらとやな、オッタン」
「おお、おお。小さい柄さらしやがって、他人(ひと)のはなし横手からそらそやなて、なにがそらそやィ」
「とらとや、オッタン。造幣局やなかったら、金属、湯に沸かされん。とんなことあらへんナ、オッタン。造船所かて、金属、湯に沸かしてるがナ、オッタン。鉄工所かて、金属湯に沸かしてるがナ。オッタン。鋳物屋かて、金属、湯に沸かしてるがナ、オッタン。・・・・・・ホナ、オッタンとこ、それ、造船所の方か」
「じぃわり嬲(なぶ)ってけっかる。アホンダラ。こんな小さい造船所があるかィ。・・・・・・アホ、モ、あっちけ、あっちけ、あっち行け」

 この子供たちが、あっちへ行くはずがない^^

 人によって、また持ち時間によって、鋳掛屋を相手にしてサゲる場合もあれば、その後に鰻屋に行って、また悪餓鬼軍団が活躍(?)することもある。

 矢野さんの本には、次のような説明もある。

 三谷一馬『江戸物売図聚』(立風書房)によると、鋳掛屋のかつぐ天秤棒は「常より一尺五寸長く七尺五寸」だったという。江戸の頃、軒下七尺五寸以内の地べたで火を用いるこちが禁じられていたため、測定用に長尺の天秤棒を使用したので、これはやっぱり鋳掛屋の知恵というものだろう。

 なるほど、知恵、だね。

 鋳掛屋には、もう落語でしか会うことができない。
 「鋳掛屋の餓鬼」たちにも、落語でしか出会えないかもしれない。
 今の子供たちは、どこへ行ってもゲームかスマホだ。
 懐かしい悪童たちに出会えるその落語を得意にしていた達人たちが、次第に少なくなっていく。

 今秋の襲名後、ぜひ三代目小南のこの噺を聴きたいものだ。

 では、その師匠の『鋳掛屋』をお聴きのほどを。
 鰻屋まで含む、実に楽しい高座。




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by kogotokoubei | 2017-02-05 17:54 | 落語のネタ | Comments(8)

 昨日は、12月14日。

 今はなにごとも新暦がまかり通っているので、一応、赤穂浪士討入の日としておこう。

 ちなみに、旧暦では昨日が11月16日であり、旧暦の12月14日は来月11日。

 国立劇場が開場50周年記念ということで、大劇場では歌舞伎の「仮名手本忠臣蔵」を10月から三ヵ月かけて通し公演を開催中で、今月は最終月で八段目以降だ。

 小劇場では、文楽の仮名手本、二部に分けての通し公演中。

 私の落語愛好家のお仲間の皆さまの何名かが、どちらにも行かれている。
 
 私は、もっぱら忠臣蔵は落語。
 ということで、いったい忠臣蔵にちなんだネタがどれ位あるのだろうかと思い、ある本をめくった。

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今村信雄 『落語の世界』

 今村信雄著『落語の世界』(平凡社ライブラリー)に、「忠臣蔵の落語」という短い章があり、六代目円生の話として、次のようなネタが紹介されている。
 円生の話ー落語には忠臣蔵が沢山使われている。大序兜改めは「田舎芝居」に、三段目の喧嘩場は「浮世風呂」や「よいよいそば」に、四段目の判官切腹は「四段目」「淀五郎」「辻八卦」などに、また五段目の山崎街道は「とけつ」に、七段目の茶屋場は「七段目」に、九段目の本蔵も「九段目」に、十段目の討入は「角兵衛の妻」に、そのほか二段目、六段目や八段目も、マクラばなしに用いられている。

 これを読んで、結構「ゲェッ!?」と唸った。
  
 これだけ円生が挙げている中で、まったく聴いたことのない噺、知らない噺が、多いこと。

 「四段目」「七段目」は、もちろん知っている。

 「よいよいそば」は、一昨年、真打昇進前で夢吉時代の夢丸が、一之輔との二人会で演じた高座を聴いた。
2014年9月20日のブログ

 今思うと、実に貴重な噺を聴けたものだ。


 大序の兜改めを素材にした「田舎芝居」は、八代目正蔵が手掛けていたようだ。
 現役の噺家さんでは聴いたことはないのだが、上方の桂文我が演るらしい。

 文我は、今年2月に大阪で「忠臣蔵通し落語会」を開催した後、7月には京都でも実施し、なんと来年1月14日、紀尾井ホールでも開催予定。
 紀尾井ホールの公演情報から引用する。
紀尾井ホールのサイトの該当公演情報
上方落語会 初春! 桂 文我の「忠臣蔵落語」通し口演
2017年1月14日(土) 開演:10時30分
出演者 桂 文我、桂 米平
曲目「田舎芝居(大序)」「芝居風呂(二段目)」「質屋芝居(三段目)」「立体紙芝居」「蔵丁稚(四段目)」「五段目(五段目)」


 「田舎芝居」も、しっかり予定されている。
 興味津々なのだが、私が行けるかどうかは、今の時点ではなんとも言えない。
 いろいろ野暮用があるのだよ。

 東京地区では、歌や鹿芝居を含むバラエティとしての忠臣蔵落語会はあっても、通し口演的な試みは聞いたことがない。

 それとも、誰か演っているのだろうか。

 史実としての赤穂事件と比べると、いろいろ小言も言いたくなるのが「仮名手本忠臣蔵」を筆頭とした物語の忠臣蔵なのだが、芝居は芝居として楽しむものなのだろう。

 また、それを落語の世界で味わうのも、なかなかオツと言えると思う。

 「四段目」「七段目」のみならず、今後は、さまざまな段を素材とした噺を聴いてみたいものだ。


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by kogotokoubei | 2016-12-15 20:54 | 落語のネタ | Comments(4)
 前回の記事で、三三の『嶋鵆沖白浪』に限らず、初代談洲楼燕枝の作品を現役の柳派の噺家さんに演ってもらいたい、と書いた。
 同記事にいただいたコメントで、柳家さん助が『西海屋騒動』の通しに挑戦しているとの情報をいただいた。

 先日の記事で、この噺のことに触れた。知ったきっかけは、六年前、紀尾井ホールで三三の嶋鵆に最初に出会った後で、初代燕枝のことに関心を抱き記事にした際に読んだ本だった。
2010年11月19日のブログ

 あらためて、暉峻康隆著『落語の年輪-江戸・明治篇-』から引用する。
暉峻康隆『落語の年輪-江戸・明治篇-』
 もともと彼は俳諧をたしなみ、仮名垣魯文に師事して戯号を“あら垣痴文”と称して狂文を作った。かつ芝居好きであったから、その交際の範囲も円朝と異なり、演劇関係が多く、また森田思軒、饗庭篁村、幸田露伴、久保田米僊、幸堂得知、須藤南翠、関根黙庵などという、いわゆる根岸派の文士と親交を結んでいた。
 したがって円朝にはおよばないにしても、演し物に工夫をこらし、佐原の喜三郎や海津長門の活躍する「島千鳥沖津白浪」(明治二十二年六月春木座上演)や、「水滸伝」の花和尚魯智深の件を翻案し、それに曲亭馬琴原作の「西海屋騒動」をとり合わせた「御所車花五郎」など、彼の苦心の作である。あるいはまた円朝の翻案物に対して、彼もまた『レ・ミゼラブル』を脚色した福地桜痴の「あはれ浮世」を人情咄として高座にかけたりしている。

 この書から、『御所車花五郎』の存在を知ったのだ。
 しかし、いただいたコメントでは、さん助の演目は『西海屋騒動』らしい。
 さて、馬琴の本を元にしたのか、それとも燕枝の創作に沿っているのか、疑問を抱いた。

 こういう時に頼りになるのが、円朝作品などでもお世話になる「はなしの名どころ」さんのサイトだ。

 期待通りに、関連した記事が見つかった。
「はなしの名どころ」さんサイトの該当ページ
 同サイトから引用する。
春風亭柳枝(3),唐土模様倭粋子,滑稽堂 (1883, 84)

 3代目春風亭柳枝[嘉永5~1900]は,初代柳亭(談洲楼)燕枝の弟子で,燕枝に代わり,柳派の頭取として一派を率いた.百花園の速記など20席あまりが復刻されており,没後,三芳屋から個人集『柳枝落語会』(1907)が出ている.「七面堂の詐偽」が他と重複しない噺.

 唐土模様倭粋子(からもようやまとすいこ) 速記本文 は,伊東専三編集.前後編の2冊.全34回,通しで73丁.登場人物の口絵1枚,挿絵32枚.伊東専三の序文.「怪談牡丹燈籠」出版よりも古く,速記ではない.談洲楼燕枝(1)の代表作で,『名人名演落語全集』 第1巻に,「西海屋騒動」の題で,導入部の速記とその後のあらすじが載っている.本作の出版よりも後,1897年に毎日新聞に連載したもの.「唐土模様倭粋子」は,その名の通り,「水滸伝」の登場人物名を取り入れている.花五郎改め魯心が花和尚魯智深,九紋龍新吉が九紋龍史進,黒船風理吉が黒旋風李逵,金髪挿のお蓮が潘金蓮,一丈背の小さんが一丈青扈三娘,林屋忠右衛門が林冲など.「西海屋騒動」では,この趣向はなくなっている.

 その『名人名演落語全集』にリンクすると、次のように説明されている。
62. 名人名演落語全集,10巻,立風書房 (1981~82)  ☆☆☆☆

 斎藤忠市郎・保田武宏・山本進・吉田章一編.時代ごとに明治から昭和末期までの範囲の速記を集成したもので,出典・解題が明記されており,表記法がしっかりしている.圓朝の全集未収録作品が載っている.戦後期の人選が,他の時期に比べて甘めではあるが,読者と同時代ということでやむないか.
 初代談洲楼燕枝の代表作「西海屋騒動」の速記は導入部までで,その後のあらすじが載っている.春風亭柳枝(3)が演じた「唐土模様倭粋子」で全部を読むことができる.「続噺柳糸筋」は,毎日与えられた三題噺を連作して新聞連載したもの.彰義隊の戦乱を背景に,御家人の近藤甚三郎が,堺の偽坊主,実は団五郎と組んで悪事を行う.庄屋の山田正作を殺し,息子の直次郎を色仕掛けでたぶらかした上,座敷牢に閉じ込めて殺そうとする.悪計を盗み聞きした忠僕清助が直次郎を救い出す.清助が捨てた子供が今の団五郎だとわかり,善にかえった団五郎と清助,直次郎は,近藤を討つ.

 なるほど、燕枝は『西海屋騒動』の名のままで演じていて、弟子の三代目柳枝が、先祖帰りし水滸伝の型で『唐土模様倭粋子』として演じた、ということか。

 暉峻さんの本にあるように、『御所車花五郎』という主人公の名を演題としたことがあるのかどうかは、もう少し調べてみる必要がある。

 水滸伝、そして馬琴を経由した噺、ますます興味が湧いてきた。
 さん助の高座、なんとか聴きたいものだ。


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by kogotokoubei | 2016-12-11 16:52 | 落語のネタ | Comments(2)
 いわゆる「流行語大賞」が、「神ってる」、に決まったとのこと。

 私は、広島の監督が、単に「神がかってる」を言い間違えてしまったのだろうと思っているのだが・・・・・・。

 今回は、言葉も時代によって変わるが、落語も、時代や噺家さんによって違う、というお話。

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今村信雄 『落語の世界』

 三遊亭小円歌が二代目立花家橘之助を襲名するというニュースを目にしてから、あらためて今村信雄の『落語の世界』(平凡社ライブラリー、初版は青蛙房から昭和31年発行)を読み返していた。

 本書で、初代橘之助に可愛がられた三代目三遊亭円馬のことに関する章に、今ではお目にかかることのない『文七元結』の演出があるのに気づいた。

 以前も読んでいるはずなのだが、まったく忘れていたなぁ。

 「むらく芸談」の章から引用する。

 昭和五年の六月、数年振りで上京したむらく改め三代目円馬が、当時神田の立花亭でやっていた第二次落語研究会の第二十六回に出演した。-かつてむらく時代に出ていた時とは内容は違っていても落語研究会という名は、なつかしいものだったし、会員の連中も文治、円生、小さん、文楽、円蔵、小円朝など昔なじみの者ばかりだ。それに自分の芸を慕って旅を一緒にまでした金馬が、今日は自分の出番を譲ってくれたと聞いた。何もかも嬉しいことだらけー。これから年に一回はぜひ出てほしいとみんなが云うし、円馬自身も東京に来る度に出たいといっていたのだが、縁がなく、第二次の研究会出演はついにその時だけで終った。


 文中の文治は八代目、俗に山路の文治のこと。円生は五代目、小さんは四代目、文楽は八代目だ。円蔵は六代目で後の六代目円生であり、小円朝は三代目である。
 金馬は、もちろん三代目。

 円馬は、最初に上京した時に初代三遊亭円左に師事して立花家左近を名乗り、第一次落語研究会の準幹部に抜擢された。
 上方の噺を東京向きに演じ、三代目小さんとともに、東京落語のネタを飛躍的に増やした功績は小さくない。
 大阪弁、京都弁、江戸弁を見事に使い分けた唯一の噺家とも言われている。
 
 引用を続ける。
 現在金馬がやっているはなしは、すべて円馬から教えられたものばかりだ。「唐茄子屋」にしても「佃祭」にしても「孝行糖」にしても、その他数々の落語は、みんな一緒に旅をしている間に円馬から教えられたものだ。一席の落語ばかりではない。はなしのイキとかコツとかいうものを教えてもらった。それが今日の金馬を作り上げてくれたのだ。金馬はこういっている。「私はね、酒が飲めるおかげでずいぶん得をした。酒の強かったむらく師匠のお相手をするのは大概私でしたが、飲みながら話してくれた芸談は、改まって教えてくれる時とはまた違って、大変に薬になりました。師匠は芸が好きだったんだなァ、飲みながら話をするのはたいてい芸談だった。もっとも私の方からそのように持ちかけたせいもあるが、面倒がらずに喜んで話をしてくれました」
 「文七元結」というはなし、左官の長兵衛が、バクチで着物も何もなくしてしまい、年の瀬をこせない。
  (中略)
 女の着物だから身幅が狭く、ややともすると膝小僧が出るから、絶えずそれを気にしていなければいけない。また佐野槌のおかみさんに懇々と意見をされて、恐縮しながら、新しい畳のケバを骨を折ってむしって叱られるところがあるが、これは単なるクスグリと思ってはいけない。帰る時に長兵衛はシビレが切れて立てない。そこで前にむしった畳のケバの落ちているのを拾って唾をつけて額にはるという大きなクスグリの伏線になっている。また帰りの吾妻橋の上で空を見上げて思わず「明日は雨だな」というのは、始終天気を気にしている職人を現すために必要なセリフだから落してはいけない。空に水気(すいき)があるから、下のあかりが映って赤い。まして吉原方面は真っ赤だ。それを見て長兵衛が今別れて来た娘のことを連想するという段どりになるのだから、ここらは一言一句おろそかには出来ないと、円馬は丹念に教えた。

 足のシビレを治すのに、指に唾をつけて額(眉間)にあてたり足の裏にあてるというおまじない(?)は、もはや過去のものとなりつつあるので、このクスグリはなくなってきたのだろう。

 また、吾妻橋で長兵衛が空を見上げる演出も、現役の噺家さんで出会うことは稀有だ。
 
 『文七元結』は、以前からあった噺を円朝が磨き上げたと言われる。

 果たして円馬が重要視した演出は円朝からの継承なのかどうか気になり、青空文庫で円朝のこの噺を確認した。
青空文庫 三遊亭円朝「文七元結」

 実は、畳のケバをむしって、足がシビレたまじないにつながるという演出は、存在しない。
 吾妻橋で、空も見上げない。

 もっと、驚いたことがあったので、引用する。
 角海老の内儀と長兵衛との会話部分だ。

内儀「百両で宜いのかえ」
長「へえ…」
内儀「それではお前に百両のお金を上げるが、それというのも此の娘の親孝行に免じて上げるのだよ、お前持って往って又うっかり使ってしまっては往けないよ、今度のお金ばかりは一生懸命にお前が持って往くんだよ、よ、いゝかえ、此の娘の事だから私も店へは出し度たくもない、というは又悪い病でも受けて、床にでも着かれると可哀そうだから、斯う云う真実の娘ゆえ、私の塩梅の悪い時に手許へ置いて、看病がさせ度いが、私の手許へ置くと思うと、お前に油断が出るといけないから、精出して稼いで、この娘を請出しに来るが宜いよ」
長「へえ私(わっち)も一生懸命になって稼ぎやすが、何うぞ一年か二年と思って下せえまし」
内儀「それでは二年経って身請に来ないと、お気の毒だが店へ出すよ、店へ出して悪い病でも出ると、お前この娘の罰は当らないでも神様の罰が当るよ」

 あら、円朝においては、長兵衛が借りるのは百両で、その返済期限は二年。

 今日演じられるこの噺では、大半が五十両で一年。

 円馬のこの噺が円朝->円左->円馬と伝わったのかどうかは、不勉強で分からない。
 だから、畳のケバ、空を見上げる、といった演出が円馬によるものなのかどうかは不明なのだが、私は、どちらも円馬の工夫ではないかと思っている。

 それにしても思うのは、なるほど、落語は生きているなぁ、ということ。

 同じ噺でも、その時代によって、そして、噺家さんによっても内容は変わる。

 それは、悪いことではないだろう。

 円馬が、左官職人の長兵衛が吾妻橋でつい空を見上げる場面を大事にするように、人それぞれ、譲れない演出やクスグリがあって良いだろう。
 
 また、その噺のどこを変えるか、また、どこを変えないか、ということで噺家は自問自答を繰り返すのかもしれない。

 その噺の本質的な部分を壊さない限り、同じネタでも十人十色で良いだろうし、それが、落語の魅力でもある。

 大事なことは、伝承されてきた原典を分かった上での工夫なのか、どうか。

 「昔は、こう演じていた」ということを分かった上での改作なのか、原典を知らずに自由気ままな変更なのか、には大きな違いがあるだろう。

 自分の師匠はもちろん多くの先輩噺家からネタを教わり、芸にまつわる様々な話を聞くことが、噺家の糧、財産となる。

 そして、一人一人が得た財産が、その弟子や後輩たちに伝わっていくことで、落語という芸が長らえてきたと思う。

 それこそが、伝統の継承ということだ。

 だから、金馬が酒の相手をしながら聞いていた円馬の芸談が、金馬がその後一枚看板になるためには、実に重要だったのだと思う。


 まさに、伝承の芸、落語。

 しかし、伝承されてきた基本の筋、型、了見といったものに、どのように時代の空気を反映し、自分なりの解釈や感性で創作をほどこすかが、噺家一人一人に重要な仕事なのだろう。

 伝承と創作、その積み重ねが、数々の古典落語の名作を残してくれたのだと、一つの噺からも痛感するのだった。
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by kogotokoubei | 2016-12-01 21:09 | 落語のネタ | Comments(2)

 昨夜は、落語愛好家仲間、いわゆる「居残り会」の仲間六人が集まった。
 とはいえ、落語会の後の「居残り」ではなく、仲間に二人、「横浜DeNAベイスターズ」の熱狂的なファンがいらっしゃるので、関内のスポーツカフェで、「ベイスターズファンを囲む夕べ」という趣向での集まり^^

 お店のテレビで「日本ハム vs. 広島カープ」を観ながら、野球のことや落語のことなど、久しぶりに集まった同好の士、四方山話で盛り上がった。
 その話題の中で、国立劇場開場50周年記念ということで、今月から三ヵ月かけての通し公演が始まった「仮名手本忠臣蔵」のことも、酒の絶好の肴になった。

 同劇場のサイトにあるように、今月は「大序」から「四段目」まで。
国立劇場サイトの該当ページ

 昨夜の話題の一つは、先日観に行かれたKさんの悲惨な(?)体験。
 「四段目」のラスト近くを固唾をのんで観ていたら、近くの席の女性の携帯が鳴ってしまい、大星由良之助役の松本幸四郎から、まるで自分が睨まれたようだった、という話。

 Kさん、どうしても残念でならず、もう一度隼町に行っている。

 休憩中に携帯やスマホをONにして、そのままにしている人って少なくないと思う。
 その結果、肝腎な場面で携帯を鳴らしてしまうのは、中年から高齢の女性が多い。

 寄席や落語会でも携帯の音には困ったものだが、歌舞伎で、それも「四段目」だよ。
 「出物止め」だし、もちろん、「鳴り物止め」だろう!
 この人の名前を記録し、劇場が出入り禁止にしても、不思議はない。

 それにしても、居残り会の皆さんは、落語に限らず伝統芸能がお好きで、行動力もある。
 昨夜のメンバーでは、M女史もI女史も、我らがリーダー佐平次さんも、すでに国立劇場で観劇して、感激しているのだ^^

 何と言っても「四段目」の最後の場面が良かった、と佐平次さん。

 そんな名場面での携帯とは・・・・・・。
 Kさんが仕切り直しした気持ちも分かるなぁ。


 さて、『四段目』(よだんめ)は、ご存じのように落語になっている。

 仕事をさぼって芝居小屋で「仮名手本忠臣蔵」を観ていた定吉が、主人に蔵に閉じ込められて、つい、観てきたばかりの「四段目」を一人で演じる場面が、とにかく楽しい。

 柳家喜多八の「落語研究会」でのネタを調べた際にもお世話になった、「手垢のついたものですが」さんのサイトに「落語はろー」というコーナーがあり、「落語速記編」として、さまざまな落語全集の内容が掲載されている。

 私が大好きな八代目春風亭柳枝の『四段目』も、弘文出版の全集を元に掲載されているのが嬉しい。
「手垢のついたものですが」サイトの該当ページ

 同サイトから、引用させていただく。なお、ルビを少し割愛している。

「(べそをかいて、大声で)旦那ァッ、相すいません、明日っから一生懸命に働きますから勘忍してください。
ねえ旦那ァ……気味《きび》が悪いなァこのォォ蔵ァ――嫌《や》だなァ本当にィ……
第一《だいち》ィあのォ朝おまんまァ食べたっきりでお腹ぺこぺこなんです。
こん中ィ入れなきゃァ気がすまないと思ったらば、表ェ出してご飯を食べさして、あらためてこん中ィこうしまってもらうような具合にならないんですか旦那ァ?……旦那ァ……勘弁してくれねえなァ。
けェどもいくら小言をいわれてもやまないのが芝居。どうしてあたしゃァこんなに芝居が好きなんだろうなァ……
(太鼓の口真似で)てん、すってん、てん……着到を聞くってえとぐうゥゥッと体が吸込まれるようだ。
何度見ても飽きがこないのが忠臣蔵、大序から幕数《まくかず》が、十二段目までずいぶんあるけれども気が入って見るのがたった二幕。四段目に六段目《むっつめ》、六段目《むっつめ》のほうは小身者の腹切りだけに、楽屋で三味線弾いたり笛が入る。
そこいくてえと四段目、これァご大身《たいしん》の切腹だけに、出物止《でものど》め。合間に太棹《ふと》が(口真似で)でえーんでえーんッとあしらうだけだ。
一杯の見物人手に汗を握って、幕の開くのを待っている。そのうちに三っつめの拍子木《つけ》がちょーんと鳴ると、柝《き》なしでもって、幕がつつつつつつつつつ、平舞台周囲《しらぶたいぐるり》に襖《ふすま》、丸に違い鷹の定紋、下手に、斧九太夫《おのくだいう》原郷右衛門《はらごうえもん》上使《じょうし》受けに出る。
そのうちに揚《あ》げ幕の内《うち》で上使触《じょうしぶ》れてえのがある。出て来るのが、石堂右馬之丞《いしどううまのじょう》薬師寺次郎左衛門《やくしじじろうざいもん》、石堂ってえ人《しと》ァ色白ないい男だ、薬師寺てえ人ァ真ッ赤な恐い顔ォしてえる。
上手へ直る、正面の襖を開けて、出ていらっしゃるのが塩冶判官高貞《えんやはんがんたかさだ》。
黒二重《くろはぶたい》の五所紋付《いつところもんつき》、同じ羽織を着て、『(芝居調で)これはこれは、ご上使とあって、遠路のところご苦労に存じたてまつる。
なにはなくとも粗酒《そしゅ》一献《いっこん》。たそあるか、酒《ささ》の用意』、『(大声で)なに酒? こりゃよかろう、この薬師寺もお相手《あいて》ないたそう。が、今日《こんにち》の、上使の趣うけたまわりなば、酒も咽喉ィは、通りますめえ』――憎《にく》らしいことをいう。
これに構わず立ちあがるのが石堂右馬之丞。懐から書付《かきつけ》のお父《と》ッつァんみたいのを出してな、『(扇子をばっと広げて声を張り)上意《じょうい》』ッという――座がしいーんとするなァ。
『しとつこの度、伯州《はくしゅう》の城主《じょうし》、塩冶判官高貞儀、私の遺恨により、執事たる師直に傷を負わせ、殿中を騒がしたる科《とが》により、国郡家《くにこうりいえ》没収《ぼっしゅ》し、その身切腹、申しつくるものなり』、読みあげといて判官さんのほうィきっと見せる。
心得《こころい》たという思《おも》い入れがあって、『お役目相すまば、まずゥうち寛《くつろ》いで粗酒一献』、『(大声で)黙れ伯州! またしても酒々と、自体、この度の科というのは、出頭《しゅっとう》たる師直に傷を負わせ、縛《しば》る首にも及ぶべきところを、格別の憐愍《れんびん》をもって、切腹仰せ付けらるるを、ありがたし、かたじけなしと三拝なし、早速用意もあるべき筈を、見れば、当世様《とうせえよう》の長羽織、ぞべら、ぞべらとしめさるるは、うん、よめた、おん身は血迷うたか、いやさ狂気召されたか?』

 定吉の文字通りの一人芝居によって、結構、その映像が浮かんでくるではないか。

 「ぞべら、ぞべら」という科白、結構インパクトあるなぁ。

 続ける。
『あいや、伯州の城主《じょうし》、塩冶判官高貞、血迷いもせず、まった狂気もつかまつらん。今日《こんにち》お上使とうけたまわるより、かくあらんとはかねての覚悟』、すばやく着物を脱ぐ、下《した》ァ無紋の上下《かみしも》。
見ている者《もん》も驚いたが薬師寺てえ小父さんいい過ぎたもんだから目ばかりぱちくりやってる。これを見るなり石堂右馬之丞が、『ご用意のほど感じいったり、いい残さるることあらば、うけたまわるものもあり』、『こは、ご親切なるお言葉、ただ恨《うら》むべきは殿中にて、(力入れて)本蔵ッとやらに抱き留められ、(膝をうって、身をかきむしって)無念――』 
『ああいや……ご用意よくはお心静かに』。
所司《しょし》が畳を二枚、裏返《うらがい》し、白木綿、四隅《よすみ》に樒《しきび》。その上に判官さん、ぴしゃりっと座を構いる。
上手《かみて》から大星力弥、九寸五分を三方《さんぼう》の上へ乗せて、検使の前《まい》へ出す。目でよろしいと知らせる。判官さんの前《まい》へ据えて、下手へさがる……いいとこだなァ
(太棹の口真似で)でえーん――こら一人《しとり》で忙しくなってきたなァこらァどうも……でえーん……でえーん……肌を脱いでお腹をこうさするんだ――(と仕草をする)固いと切り担《そくな》うといけないッてなもんでな。九寸五分を半紙ィくるくるッと包ンで、三方を押し戴いてお尻《けつ》ィ支《か》う。お腹を切っても形のくずれないよう――細かいとこィ注意するもんだなァ……でえーん。
『力弥、力弥』『はァはァ』、『由良之助は?』、『いまだ参上、つかまつりませぬ』、『由良之助まいりなば、存生《ぞんじょう》に対面せで、残りおおいッと申し伝えよ』――
いいとこだなァどうもな……(べそをかいて)お腹がへっちゃァしょうがねえなァどうも……(声を張って)旦那もういいでしょ――いいかげんにおまんまァ食べさしてくれてもォ……先ァ演《や》っちゃうぞォ畜生《ちきしょう》……『力弥力弥由良之助は?』言葉せわしゅう問いかける。力弥もたまりかねて花道の附際《つけぎわ》、揚《あ》げ幕をきっと睨ンで、『どうしてお父ッつァんがこんなにおそいのだろう』て思い入れがあって、『いまだ参上』、つッつッつッと元ィ来て、『つかまつりませぬ』。『ご検使、お見、届けくだされ』。(力を入れて)右の手へ刀を持ちかいる。もうこれで口のきけないのが法だそうだなァ。
脇腹ィぶすっと刺すのがきっかけ、揚げ幕からばたばたばたばたッ、出てくんのァ大星由良之助、七三《しちさん》のとこまで来てひょいッと見ると検使がいるので、思わず平伏『はァッ……由良之助ただいま到着』。これを見ンなり石堂右馬之丞、舞台|端《ばた》までつかつかッと出て、
『おお、国家老、大星、由良之助とはその方か、苦しゅうない近う、近う』、
『はァはァ、はァァ』……じいっと頭を上げる。ご主人はお腹《はら》召されたあと、
『(膝を打って)ああおそかったか』という思い入れがあって、懐《ふところ》ィ手を入れるてえと腹帯《はらおび》をぐうゥッと締めて、すり足で、つッ、つッ、つッ、つッ、つッ、つッ、つッ、つッ、つッ、つッ……
『ごぜん』、
『由良之助かァ』 
『はァはァァ』、
『待ちかねたァ……』、(と急に力がぬけて) つ、つ、つ、つ、つ、つゥ……
(べそをかいて)いいとこでお腹ァへっちゃァしょうがねえなァどうも……
(声を張って)旦那もういいでしょ――ずいぶん入ってるんですからァ……ご飯食べさしてくださいよおまんまをォ……

 この後、蔵の中にあった本物の刀を使って切腹の芝居をしている定吉を女中が見かけて・・・・・・。

 私は、生の歌舞伎を観たことはないし、今回の通し公演も、諸般の事情で行かないだろう。

 歌舞伎は、あと数年したら、連れ合いと一緒に行こうか、などと思っている。
 しかし、あのお方は、落語に何度も連れて行ったが「何が面白いか、分からない」ということで、同行するのを諦めた過去がある。歌舞伎も・・・・・・。
 
 『四段目』は、柳枝が私にとってベスト音源だが、大須での志ん朝の音源もある。
 最初の年、平成2(1990)年の三日目の高座で、まくらを含め50分を超える。これは、まくらがとりわけ楽しいのだ。そのうち、書き起こそうと思っている。

 今年の通し公演には縁がないが、『四段目』に限らず『七段目』や『中村仲蔵』『淀五郎』など、落語で忠臣蔵を楽しむことができるから、私は今のところ不満はない^^


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by kogotokoubei | 2016-10-27 21:18 | 落語のネタ | Comments(8)
 明日は、秋彼岸の中日、秋分の日だ。

 先日、月見にまつわる秋の噺として、『盃の殿様』のことを書いた。

 秋の噺は、他にどんなものがあるかと思って、四季ごとにネタを分類している2冊の本を見比べてみた。

 結構、意外な発見(?)があったので、ご紹介したい。

 
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矢野誠一著『落語讀本』(文春文庫)

 まず、一冊目は矢野誠一さんの『落語讀本』(文春文庫、1989年初版発行)。
 副題にあるように三百三席のネタが紹介されている中で、秋として分類されているのは、95席。
 ちなみに、正月のネタが7席、春が100席、夏66席、冬35席なので、秋に分類されているネタは、春に次いで多いことになる。

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麻生芳伸編『落語百選-秋-』(ちくま文庫)

 次に、麻生芳伸さんの『落語百選-秋-』(ちくま文庫)。初版は1976年に三省堂から発行され、その後に社会思想社の現代教養文庫で1980年に再版。ちくま文庫では1999年の初版。

 百席を四季ごとに同数づつに分けて掲載しているので、秋篇は25席。
 残念ながら、『盃の殿様』は含まれていない。
 『落語百選』の25席を元にして、それぞれが『落語讀本』の中でも秋として分類されているのか、あるいは違う季節として扱われているのかを、確認してみた。

 落語のネタには、季節感がそれほど強くないものも多いので、二人の作者とも、それほど強い根拠や思い入れがあって分類したネタばかりではなかろうとは察していたが、なかなか面白い(?)結果が出た。

 左が『落語百選-秋-』のネタ。右が、そのネタの『落語讀本』における季節の分類である。
 ネタの表記は『落語百選』を元にする。
 両方とも「秋」と分類しているネタに、をつける。

 『落語百選-秋-』          『落語讀本』

(1)道具屋                 春
(2)天 災                春
(3)つるつる               夏
(4)目黒のさんま             秋
(5)厩火事                秋
(6)寿限無                春
(7)時そば                冬
(8)五人回し               秋
(9)ねずみ                冬
(10)やかん               秋
(11)山崎屋               春
(12)三人無筆              秋
(13)真田小僧              秋
(14)返し馬               なし
(15)茶の湯               秋
(16)宿屋の仇討             秋
(17)一人酒盛              秋
(18)ぞろぞろ              夏
(19)猫怪談               なし
(20)野ざらし              夏
(21)碁どろ               夏
(22)干物箱               春
(23)死神                冬
(24)粗忽の釘              春
(25)子別れ               夏

 ご覧のように、『落語百選』で麻生芳伸さんが“秋の噺”として選んだ25席のうち9席しか、矢野誠一さんは『落語讀本』の中で秋に分類していない。
 春が6席、夏が5席、冬が3席、そして、矢野さんの本には掲載されていないネタが2席ある。

 まさに、人によって季節感は違う、ということか。

 2冊の本で「秋」として一致した九つの噺にしても、『目黒のさんま』『茶の湯』あたりは秋の季節感が伝わるが、他の7席は、人によっては別の季節を感じるかもしれない。

 よく言われることだが、『野ざらし』は、十八番としていた三代目柳好の型が主に継承されているが、尾形清十郎が隣家の八五郎に前夜のいきさつを語る場面で挟む句が、季節がごっちゃになっている。「野を肥やす骨に形見のすすきかな」の後で「四方(よも)の山々雪解けて、水かさまさる大川の上げ潮南風(みなみ)でどぶゥりどぶり」と続き、秋と春が混在。だから、秋でも春でも、どちらでもいいとも言える。矢野さんが「夏」としているのはなぜか、不勉強で分からない。
 なお、この噺については以前書いているので、ご興味のある方はご覧のほどを。
2014年3月25日のブログ

 『厩火事』は、なぜご両人が「秋」で一致したのだろうか・・・・・・。
 なんとなく春か秋だなぁ、とは思うが秋に限定する要素はないような気がする。

 『宿屋の仇討』は、仲の良い友達同士が上方見物からの帰り、という設定。まぁ、冬ではないな、ということは言える。
 上方の『宿屋仇』では、伊勢参りの帰りという設定をしているが、必ずしも江戸時代のお伊勢参りが秋にばかり行われたわけでもないようだ。
 縁起ということでは、毎月一日にある朔日参りをするのが良い、とされていたようだが、季節でのご利益の違いはないように思う。
 ただし、農事のことで重要視された「伊勢暦」を買い求める農家の方が多かったようなので、秋の収穫の後、農閑期にお参りに行って翌年の暦を買い求める、という設定は無理のないところか。
 
 『一人酒盛』は、秋と言われて、異論はない。
 『五人回し』は、微妙だなぁ。

 他のネタにしても、必ずしも「秋」と断定するわけにはいかないような気がする。
 『真田小僧』や『やかん』『三人無筆』から、どんな季節を感じるか・・・・・・。


 今回読み直してあらためて興味深かったネタがある。
 麻生さんが取り上げたが、秋に限らず矢野さんの本に掲載されていない2席、『返し馬』と『猫怪談』は、今ではほとんど聴くことのできない噺だ。
 なかでも『猫怪談』は、実に興味深い噺で、与太郎の知られざる生い立ちが分かるネタ。「谷中奇聞」の一席として円生は円生百席に含めており、音源が残っている。他には八代目正蔵、入船亭扇橋も演じていたようだ。現役では円窓が師匠円生から継承しているらしいが、ぜひ、扇辰や雲助などで聴きたいネタ。
 詳しいあらすじは割愛するが、ドタバタしている部分もあるが、育ての親が亡くなった後の与太郎の演じ方で、結構、人情噺的な雰囲気を出すことができそうな内容でもあると思う。

 上方の秋のネタの代表といえば、『まめだ』だろう。
 米朝のために、三田純市が作った新作だが、以前、米二で聴いている。
 一昨年、作者三田純市の生原稿が見つかったというニュースを紹介したことがある。
2014年11月17日のブログ

 もちろん、他にも“秋らしい”噺はあると思う。
 春かな、秋かな、と迷う噺は、数多くあるだろう。
 いずれにしても、それは、聴く者の感受性次第なのかもしれない。 

 季節感のある噺もあれば、年中演じて不都合のない噺もある。
 どちらかと言えば、季節を限定しない噺の方が圧倒的に多いだろう。
 聴く人の感じるままで結構、ということも落語の奥深さなのかもしれない。

 秋のネタなどを考えているせいか、無性に、秋刀魚が食べたくなった。

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by kogotokoubei | 2016-09-21 12:50 | 落語のネタ | Comments(0)

 三日前の9月15日は、旧暦で8月15日、諦めていた中秋の名月を、短時間だが雲間から眺めることができた。

 一昨日は「十六夜(いざよい)」の月が綺麗だった。月の出は遅くなるから、月が出るのをためらっている「いざよい」。
 昨夜も、立って月の出を待つ「立待月(たちまちづき)」、薄雲がかかったとはいえ、月齢満月の姿を楽しむことができた。

 ここで、まだ月の楽しみ方が終わらないのが、その昔の人たちの凄いところ。
 今夜は天気次第で見えるかどうか分からないが、十八夜は「居待月(いまちづき)」。

 この季節は、月の出が一日に約40分づつ遅くなる。十八夜ともなると、座敷で月を待つ。
 ちなみに、明日十九日が「臥待月(ふしまちづき)」で、座敷に横になって待つ。

 中秋を含む月見の風習は、残念ながら日本にはほとんどなくなってしまった。

 会社に中国籍の社員の方がいらっしゃって、15日の昼休みの立ち話で、仲秋はどう過ごすのかを聞いた。
 まず、「月餅」はお互いが贈り合うらしい。
 四つづつを一つに包み、家族の多い家には二包みの八個。
 中国では、偶数が縁起が良いとされている。
 また、月を眺めながら丸いものを食べると長生きすると言われており、家族そろった夕食で、いろんな丸いものを並べるとのこと。

 こんな会話をできる相手は私(幸兵衛のこと)だけだ、と彼女は少し喜んで、丸い顔で笑っていた^^

 月見で思い出す噺に、『盃の殿様』がある。

 柳家喜多八の、十八番の一つだった。
 現役で聴いたことがあるのは、もう一人、柳家小満ん。この二人だけ。

 喜多八で何度か聴いているが、その中では、古くなるが、2008年12月の「ビクター落語会 大感謝祭」が良かった。
 NHK東京落語会の会場でもあるニッショーホールで初めて聴いた落語会で、あの会場には、あの時以来行っていない。
2008年12月20日のブログ

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矢野誠一_落語歳時記

 矢野誠一さんの『落語歳時記』は、初版が読売新聞から単行本で『落語 長屋の四季』として昭和47(1972)年の発行。
 私の座右の書は、1995年2月発行の文春文庫版だ。

 秋の第一章が、この噺。さすが、矢野さんは、しっかりこの噺の良さをご存じなのだ。
 まず、冒頭から引用。

月見 犬吠えて駅から遠き月見宿

盃の殿様(さかずきのとのさま)


  時、旧暦の八月十五日、恒例の月見の宴が開かれました。まだ残暑の
  きびしいころでございます。
                                 『盃の殿様』

 さるお殿さま、気晴らしに吉原へかくれ遊びに出かけたところ、花扇という太夫にすっかり夢中になってしまう。いくらお遊びでも、二度三度とかさなると、自然重役の耳にはいるし、万一これが大公儀に聞こえればお家の大事にかかわるというので、急病のためお国詰めという処置。
 国へ帰った殿様、さあこの花扇が忘れられない。折りしも旧暦八月十五日、恒例の月見の宴がはられるが、花扇が忘れられぬ殿には、気散じにならない。坊主の珍斎に、花扇から餞別にもらった裲襠(しかけ)を着せて、
「殿さん、よう来なました。その後はおいでもなく、にくらしゅうざます」
 と膝をつねらせてみたが、面白くもなんともない。
「いま取り上げしこの大杯、江戸なれば太夫とともに月を見るにと、そぞろ太夫に献(さ)したくなった。だれぞ脚のはやいものはないか」
「足軽藤三郎と申すもの、日に百里ずつ走ります」
「すぐに呼べ」
 かくして、この藤三郎、殿が飲みほした三合入りの盃を懐中にすると、江戸表新吉原扇屋の花扇目指してひた走り。無事、江戸にたどりついた足軽藤三郎のさし出した盃をうけると、禿(かむろ)になみなみとつがせた花扇、
「殿はん、お懐かしゅう存じます」
 ホロリと落とすひと滴、ぐっと息もつかずに飲みほすと、
「ご返盃ざます。殿はんによろしゅう」
 再び懐中に、藤三郎は国もとへ。ところが帰りが意外に遅いのに、いらいらした殿さま、やっと帰りついた藤三郎に、
「予が思うより半日遅刻いたしたが、いかがいたした」
 藤三郎がいうには、帰る途中、箱根山で大名行列の供さきをつっきって取りおさえられた際、一部始終を聞いたこの大名、
「大名の遊びはかくありたいもの、予もそのほうの主人にあやかりたい」
 と盃を借りて酒を飲みほした。途中で合をいたしたため遅参したときいた殿さま、
「うむ、お見事、お手なみ拝見、いま一盃と申してまいれ」
 藤三郎、「はい」と盃懐中に走り出したものの、どこの大名かわからないので、いまだに探している・・・・・・。

 米朝が、東京落語の中で、スケールの大きな噺の代表作としてこのネタを挙げるのも、むべなるかな。
 “大名遊び”という言葉はあるが、ここまでくると、流石と言うしかない。

 小満んや喜多八の内容は、この筋書きとは少し違う。
 そもそも、月見の宴、という設定がない。
 これは、この噺を十八番としていた円生がそうなので踏襲したのだろうか。
 数少ない秋の噺とするよりも、月見と限らず旬を気にせずに演じることができることを優先したのだろう。

 また、殿さまが、江戸づめがたいくつで“気の病”になるとだだをこね、重役を丸め込んで一緒に吉原に繰り出すのが、当代のお二人の設定。
 
 国に帰るのは、急病のためという口実ではなく参勤交代として、となっている。

 それらの脚色は、この噺の勘所であるスケールの大きさを失うことにはならない。
 しかし、私は、あくまで月見であり、この噺は秋の落語、と考えたい。
 そして、月を愛でる風流さを失ったことを思い起こす噺でもあってよいと思う。

 矢野さんの本には、このように書かれている。
 一般家庭での月見の宴は、もうほとんどすたれてしまった。アポロが月面に到着して、月の石をもち帰ったばかりか、その様子を全世界のひとが、野球中継を見るのとまったく同じ受像機でながめられるようになっては、月にたいするロマンも失われ、いまさら月見でもあるまいといったところであろうか。
 中国の月見は、瓜や果物を庭に並べ、枝豆、鶏頭花をささげ、月餅や果物を贈答しあうというが、わが国では、ふつう十五個の月見団子を三方にかざってそなえる。その団子も、あらかじめ米を挽いて粉をつくっておいて、十五日朝から家内総出でつくるというのが本式というものだからなかなか手間のかかるものである。団子のほかに枝豆、柿、栗、芋などをそなえ、瓶のなかには芒の穂を立て、おとなは酒をくみかわし、子供は枝豆や団子に興じたのが、戦前までのごく平均的な光景。となると、たいせつな米を粉ににて団子にするなど、もってのほかだった、あの戦時中の暮らしが、そのまま現在まで月見の宴を家庭から奪ってしまったともいえそうだ。
 米を挽いて粉から作る団子・・・食べたことがない。

 日本の月見の風習がなくなってきたのは、たしかに戦争の影響もあるだろうが、明治になってすぐに新暦に切り替え、その後は旧暦(太陰太陽暦)をほとんど忘れた影響も大きい。

 落語の世界だけでも、月の満ち欠けを感じる江戸の生活に浸っていたいものだ。

 喜多八のこの噺の高座で印象深いのは、藤三郎が、お国元から吉原へ向かう、道中立て。
 また、国詰めし、花扇を思い出すあまりに殿様が、堅物の重役に裲襠(しかけ)を着せて、「主、一服あがりなんし」と煙草を勧めさせる科白を言わせる場面などは、なんとも楽しかった。

 殿様の描写も、なかなかにお茶目で、可愛い面があったのを思い出す。
 
 矢野さんのこの噺に関する章の、サゲは、こうなっている。
 人間的にできているから、落語の殿様は、恋をする。それもごくごく俗っぽく。吉原の花魁を見染めたりする。『盃の殿様』ばかりではない。吉原は三浦屋の高尾太夫に懸想した『仙台高尾』の仙台候なんて例もあるのだから楽しい。この仙台候のほうは、鳥取の浪人島田重三郎といういい交わした男のいる高尾がなびかぬのに腹を立て、高尾を斬ってしまうというのだから乱暴だ。落語家のほうも、あまりこの仙台候には好感がもてぬとみえ、すこぶるつきのやぼてんに描いてみせる。ズウズウ弁まるだしで高尾を口説くのである。
 それにひきくらべると、わが『盃の殿様』などは、純情といおうか、粋といおうか、すがれた、スケールの大きな遊びをしてみせた。名君の資格十分といっていい。

 “殿下”と言われた喜多八に、“殿様”の噺は、まさに相応しいと言えた。
 
 どんな季節のどんなネタでも、それが喜多八が演じていたものであると、しばらくは思い出しそうだ。

 もうじき、秋彼岸だ。 
 早いものだ。
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by kogotokoubei | 2016-09-18 17:13 | 落語のネタ | Comments(2)

 明日8月11日は、円朝の祥月命日。
 
 私は行けないのだが、明日、全生庵の座禅堂で行われる「円朝座」で、柳家喬太郎が円朝作品としては珍しい『縁切榎』をトリで口演するらしい。

 全生庵のサイトで、8月20日開催の円楽一門会による「円朝まつり」と隣り同士で案内されている。
全生庵のサイト

 落語協会HPの落語会情報のページでも案内されている。
落語協会HPの該当ページ

 ちなみに、中入りでは馬桜が『牡丹燈篭ーお札はがしー』。

 『縁切榎』は、喬太郎が昨年の扇辰との二人会でネタおろししたようだが、別題を『両手に花』。


 ここからは、あらすじを知らないまま明日お聴きになりたい方はネタバレなので、ご注意のほどを。

 円朝のネタに関して度々お世話になる、図や簡潔な文章で多くの噺を丁寧に紹介してくれるサイト「はなしの名どころ」さんから、文章部分を引用する。
「はなしの名どころ」サイトの該当ページ
-えんきりえのき-

 落とし噺.2人の恋人宅を往復する滑稽は権助提灯と同工.よく考えると,突然の変心のサゲは無理がある.板橋の縁切榎は和宮が降嫁の際に避けたといわれる.

大あらすじ
野呂井照雄,芸者と堅気の娘の両手に花.どちらの宅でも縁切りを言い出せない.縁切榎の力を頼ろうと板橋へ行くと,当の娘達と出くわす.どうしても俺を取ろうという性根に感動すると,2人口をそろえてあなたと縁が切りたい

はなしの足あと
主人公の野呂井は,浪花町(中央区)に住む芸者小いよと六間堀(江東区)に住むおとめとの間を行ったり来たりする.縁切榎(板橋区)は石神井川にかかる板橋のそば.

 もう少し詳しく知りたい、という方は、「落語の舞台を歩く」でご確認のほどを。
 春風亭正朝の高座を元に書かれている。
「落語の舞台を歩く」の該当ページ

 冒頭部分のみご紹介。若旦那が野呂井照雄である。
 若旦那が徳さんの所に相談に来た。親がお前の好きな人と結婚しろと言う。
 芳町の芸者小春は器量が良い上に芸が立って頭が良い。もう一人は本所横網町の資産家のお嬢さんお久さんで本所小町と言われた娘さん。どちらも同じくらい大好きで、どちらが良いか迷っているので、アドバイスを求めてやって来た。
 徳さんが言うには「人の心を試すのはいけないが、『店を継ぐには、奉公に出なければいけない。2~3年は掛かるだろうからその間は逢う事ができない。その間に素敵な人が出来たら一緒になっても良い。そのことで苦情は言わないから』と言って、相手の出方をみて選びなさい」。 と、
 他に手だてがないので、試す事にした。

円朝はまくらで「人情ばなしと落語のあいの子でございます」と言っているらしいが、内容的には滑稽噺(落語)に入るだろう。

 若旦那が、二人の女の間で行ったり来たりしながら迷うという状況設定は、少し年齢を上にすれば『権助提灯』や『悋気の火の玉』『悋気の独楽』のような、いわば妻妾ものに近い感じもするし、相手の了見を試してみようという筋書きは、『星野屋』『辰巳の辻占』のような趣きもある。

 この噺、私には円朝自身の体験、心情が下敷きにあるような気がしてならない。

 その偉大性が強調されるが、やはり、円朝も人であり男であり、間違いなくもてたはず。
 彼が同時に複数の女性との関係の中で、ふと「縁切榎」のことを思ったことがあったのではあるまいか。
 
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 矢野誠一著『三遊亭円朝の明治』
 
 矢野誠一さんの『三遊亭円朝の明治』は平成11(1999)年に文春新書で発行され、その後朝日文庫でも発行された。
 本書では、円朝のもてぶりに関する証言が載っている。
*矢野さんの本では“圓”の字を使っているが、この記事では“円”で統一します。
 一昨年の祥月命日に書いた記事と重複する部分があるが、引用したい。
2014年8月11日のブログ
断髪

 三遊亭円朝が自慢の円朝髷をおろして、新時代にふさわしい断髪にした時期については、はっきりとわからない。わからないが、売物にしていた道具をを使った鳴物入りの芝居噺を、弟子円楽の三代目三遊亭円生襲名を機にゆずり渡し、自らは素噺一本に転じた明治五年(1872)には、すでに断髪だったと思われる。
 (中 略)
 こんにち残された三遊亭円朝の写真のいくつかから、いかにも気難むずかしげな晩年の表情をうかがうことができるのだが、それらの写真をこえて、近代肖像画の傑作とされている鏑木清方の「円朝像」くらい、数多くの資料が伝えるこの不世出の藝人の風貌の的確に描かれたものもあるまい。1930年、帝展に出品され、現在東京国立近代美術館におさめられている。湯呑を手にした高座姿は、円朝作品の速記掲載を売物にした「やまと新聞」創刊者でもある篠野採菊を父に持つ清方の幼い頃の瞼の像が描かれたもので、むかしの高座の忠実な記録画ではないのだが、そこには明治という新時代に権威と名誉を求めて対峙したひとりの藝人の全人格が活写されている。もちろん清方の「円朝像」は短髪の黒紋付姿で、着物も大島紬様のもので、衿もとにのぞく半衿も黒と、地味な好みに統一されており、円朝髷姿で赤い襦袢をちらちらさせた時代の面影だにない。

若き日の醜聞

 それだけに岡鬼太郎のいう「緋の襦袢の頃」の軽佻浮薄な衒いに充ちた、円朝の人気者ぶりが気になるところだ。この時代の円朝の尻を、「藝者もあれば、娘も後家さんもといふ風に何十人といふ婦人が」毎晩のように追いまわしたと、「天保老人の談」として「新小説」に記している伊原靑々園は、同じところに、さればこそ「金廻りも好いと云つたやうな訳で、随って其んな縮緬づくめの衣裳なんかも拵へられたといふ勘定」とも記している。このあたりの色模様に関しては、小島政二郎も虚実とりまぜ得意の筆にしているが、当然のことながらこの時代の円朝には婦人をめぐる醜聞のほうも少なからずあったはずである。

 「緋の襦袢」の頃は、円朝もずいぶん、遊んだことが察せられる。

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小島政二郎著『円朝』

 “藝者もあれば、娘も後家さんもといふ風に何十人といふ婦人が”毎晩のように追いまわした時代の円朝について“虚実とりまぜ”て小説にしたものとして矢野さんが名を出している小島政二郎の『円朝』からも紹介したい。
 小島さんの祖父の利八が寛永寺出入りの大工の棟梁で、円朝とは幼友だち、寺子屋が一緒だった。この本は、その祖父から得た貴重な円朝の情報を見事に織り交ぜているように思う。

 その利八と円朝が初めて吉原に行った時のお話。
 円朝の贔屓客は、何も女性に限られたことではない。男性の贔屓客も大勢いた。
 そういう一人に宮野というお金御用の旦那がいた。この人に連れられて、円朝は桐佐という引手茶屋へ遊びに行って、吉原芸者を上げて遊んだことがあった。その一座に、米八という若い芸者がいた。
 その時は、九つ(十二時)ごろまで遊んで駕籠で送られて帰って来た。
 一度でも馴染が出来たので、その後間もなく、
「一度おいらん遊びがして見たい」
 と、ふだんから云っていた利八を語らって、桐佐へ行った。そのころは、二人とも両という金が自由になる身分になっていた。
 桐佐から送られて、二人は彦太楼という大籬へ上がった。芸人は上げないキメになっているので、仕方がなしに円朝は薬種問屋の若旦那ということにして上がった。彼には長尾大夫というおいらんが相方に出、利八には若竹大夫というおいらんが相手になった。
 (中 略)
 二人とも、十分満足するほど持てなされた。桃の花の咲いている夢の国へ遊びに行ったような思いがした。当分二人とも、この夢の国で見た楽しい思い出が忘れられなかった。

 円朝と利八の幼馴染みの初吉原は、たいそう上首尾だったようだ。
 それにしても、薬種問屋の若旦那と偽って登楼とは、まるで『紺屋高尾』や『幾代餅』のようで可笑しい。

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松井今朝子著『円朝の女』(文春文庫)
 
 松井今朝子の『円朝の女』は2008年から翌年にかけて『オール讀物』に連載され、2009年11月に単行本、2012年5月に文庫化された。

 本書では、円朝をめぐる五人の女性が描かれている。

 巻末に春風亭小朝との対談が載っていて、その中の著者松井の言葉から、それらの女性を並べてみる。

(1)気位の高い旗本の娘
(2)円朝の息子を産んでのちに芸者になった人
(3)吉原の花魁
(4)柳橋の名妓から正妻になった人
(5)円朝の最期を看取った娘分

 同じ対談の中で、著者はこう語っている。
松井 円朝に関しては、『三遊亭円朝子の伝』『円朝遣聞』という当時の伝記が残っていて、中にほんの数行、関わった女のエピソードがある。私はそれを思いきり膨らませて書いてみたわけですが、当時の伝記自体はとにかく円朝を「大変な偉人」として書いています。落語家には珍しいくらいの堅気の常識人で、だからこそ貴顕紳士に交われた、という風に書かれているんですけど、私はどう考えても円朝が根っから堅気の人とは思えないわけです(笑)。子供を産ませた人と奥さんは別の女性ですし、亡くなった病気も病気ですし・・・・・・梅毒ですから。そして、人生の最後はかなり逼迫して、経済的に恵まれてはなかったということが、ものすごく印象に残りました。時の権力者と近いところにいた人であるために、持ち上げられてしまったふしもある。それで、その伝記との落差を埋めたい気持ちがありました。

 私も、円朝を過度に偉大な人物として祭り上げることは、出淵次郎吉という等身大の人物を見えにくくさせているように思う。

 きっと、複数の女性との付き合いが並行していた時期があったに違いない。

 そして、できれば、どちらか、あるいはどちらとも関係を清算したい、と「縁切榎」を思い浮かべたことがあったのではなかろうか。

 命日の明日、喬太郎が口演する『縁切榎』というネタから、もてない男の下衆の勘繰りをしていたのであった。

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by kogotokoubei | 2016-08-10 21:38 | 落語のネタ | Comments(4)
 昨日は、全生庵で円朝の幽霊画のコレクションが公開されていることを書いた。

 4日の落語研究会では、柳家権太楼が「心眼」、入船亭扇遊が「怪談牡丹燈籠」から「お札はがし」を演じるようだ。
BS TBSサイトの「落語研究会」のページ

 この「心眼」で思い出したことがある。

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 安藤鶴夫さんの『寄席-落語からサーカスまで-』は、ダヴィッド社から昭和32年に発行され、旺文社文庫で昭和56年、「手拭と扇の使い方」の章を割愛の上で発行された。

 ちなみに、私が持っているのは旺文社文庫版。

 この本でアンツルさんは、円朝作品の中でいちばん好きな噺として「心眼」を挙げている。

 「落語」の章「三遊亭円朝」の中で、作品ごとに書かれた中からの引用。
「心眼」の風俗描写
 
 円朝の作った落語の中では、「心眼」がいちばん好きである。
 現在、桂文楽が得意とする落語の一つだが、円朝はこんな風に導入部(イントロダクション)をつけている。
「ものの色を眼でみましても、ただ赤いというのでは、紅梅か、木瓜の花か、薔薇か牡丹か分りませんが、ははァ早咲きの牡丹であるなと心で受けませんと、五色の見分けがつきませんところから心眼と外題を致しましたが・・・・・・」
 大阪町の梅喜という針医、横浜の親切なひとを頼って出稼ぎにいったが、手引きに連れていった弟の松之助と兄弟喧嘩をして、三日目に帰ってくる。弟にバカにされるというのも眼がみえないからだと、茅場町の薬師さまへ願をかける。
 満願の日、両眼が開いて、そこへきあわせた出入りさきの近江屋の旦那に連れられて浅草の観音様へいく。御堂の中で鏡をみる。いい男だ。だれだと訊くと自分なのである。梅喜は役者よりも美男子だが、女房のお竹はまた気立てはまず日本一の女房ではあるが、二た目とみられぬ醜女(しこめ)だと近江屋が語る。

 そして、小春という芸者が登場して・・・と筋書きの説明が続いた後、アンツルさんは、こう書いている。
 円朝はこの「心眼」を、なにかめでたい落語にしているような気がする。いらざる解釈ではあるが、盲人には盲人のしあわせがあるといった主題(テーマ)の如きものが窺えるし、登場人物の名に松竹梅が配され、さらに小春といった女性まで登場する。
  □
 ある時、弟子の二代目・小円朝が「船徳」を喋って高座を降りてくると、円朝が「よく出来た」と褒めておいて、さて、にわか船頭の徳ちゃんの船に乗る二人の客が、観音さまの四万六千日にいくというのだから、そのあとで、吉原という言葉を使わずに、帰りは弁天さまへお詣りをといえば、前の観音さまを受けて、しかも吉原といわずに吉原ということが分って面白いじゃないかといったそうである。
 これだけ働きのあるひとである。自作の人物の名さえ決して疎(おろそ)かにつけてはいない。

 之助 お 

 なるほど、松竹梅か・・・・・・。

 アンツルさんが言うように、円朝が本当にメデタイ噺にしようとしたかどうかは分からないが、文楽のこの噺にまつわる忘れがたい思い出を語った人がいる。
 
 二年前、文楽の命日前日の記事で紹介したが、池波正太郎だ。
2014年12月11日のブログ

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 朝日新聞から発行された単行本『一年の風景』と『新年の二つの別れ』から選ばれたエッセイ集『小説の散歩みち』(朝日文芸文庫、昭和62年発行)から、あらためて引用。

 あの太平洋戦争が終って、海軍の基地から復員して間もなく、私は人形町の〔末広〕で、桂文楽の独演会があるときき、飛んで行った。
 焼野原の東京で、空腹を抱えている客が、ぎっしりとつめかけた中で、文楽は精気にあふれ、たっぷりと「明烏」と「心眼」と「王子の幇間」をやった。いずれも戦時中はゆるされなかったであろうものだけに、文楽も張り切っていたにちがいない。
 助(スケ)は柳家三亀松に円鏡。三亀松もまた、水に帰った魚のように、おもうさま色気を出しての快演だったが、文楽が最後に「心眼」をやって、夢さめた按摩の梅喜が、
「あゝ・・・・・・」
 おもわず、ためいきを吐いたとき、突然、驟雨が寄席の屋根を叩いてきた。
 その雨音に文楽が・・・・・・いや梅喜が凝(じっ)と聴き入ってから、
「めくらてえのは、妙なもんだ。眠っているうちだけ、よく見える」
 しんみりと演じ終えたとき、私は梅喜の胸の内のさびしさに、おぼえず泪ぐんでしまった。
 以前にも何度も聞いた「心眼」では、こんなおもいをしたことがない。
 私も、いくらか大人になっていたのだろうか。
 そしてまた、偶然の驟雨が、文楽の名人芸の、ちょうど、うまいところへやって来て、おもわぬ効果をあげたからでもあろう。
 (文楽の高座を、生きて帰ってきて聞けようとはおもわなかった。おれも生きている、文楽も生きていた・・・・・・)
 その感動をかみしめながら、私は焼け残った下町の一角にある小さな部屋へ帰って行ったのだった。

 落語を聴いて、生きる喜びに感動する、などということは、なかなかあるものじゃない。
 池波さんが感動した「心眼」、噺そのものの内容も優れてはいるが、やはり演じ手である文楽の技量も大きいだろう。

 文楽版は、必ずしも円朝の原作の通りではない。
 たとえば、原作では、女房のお竹が願をかけ、ご利益で梅喜は眼が見えるようになるが、代わりにお竹が見えなくなる。文楽はその件を割愛している。

 また、サゲも微妙に原作とは違っている。
 
 青空文庫にある原作のサゲは、次のようになっている。
青空文庫の「心眼」のページ

 「めくらてえものは妙なもんだなア、寐てゐる中にはいろ/\のものが見えたが、眼が醒めたらなにも見えない」

 文楽のサゲを再確認。
 「めくらてえのは、妙なもんだ。眠っているうちだけ、よく見える」

 この文楽のサゲの方が秀逸だ。

 原作が「なにも見えない」という否定形になって終わるのに比べて肯定的な「よく見える」となっていることと、蛇足とも言える「眼が醒めたら見えない」という部分を割愛している。

 円朝は、弟子の円丸(*永井啓夫『三遊亭円朝』には弟子と書いているが、アンツルさんは『わが落語鑑賞』で円朝の末弟としている)が実際に体験したという話を元に、このネタを創作したと言われる。

 文楽にこの噺を伝えたのは、二代目談洲楼燕枝。
 なんとこの人は、素人芝居に加わった後に、あの初代快楽亭ブラック門下で旅にも出ていたらしい。その後に二代目禽語楼小さん門下となり、その小さんが柳家禽語楼となって兄弟子初代小三治が三代目小さんを継いだので、二代目の小三治を名乗った。
 その後は小燕枝を経て、明治34(1901)年2月、初代燕枝の一周忌に柳亭燕枝を襲名。それから三年後の明治37(1904)年12月に、二代目談洲楼燕枝となった人。
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 私が持っている筑摩書房版の『わが落語鑑賞』において、アンツルさんは、次のように書いている。
 桂文楽の“心眼”は故二代目談洲楼燕枝から授けられたが、円朝の原作がほとんど翳をとどめぬまでに洗い上げられ、深い人間味に溢れている。
 燕枝がだれから伝えられたかはすでに不明だが、とにかく明治三十三年円朝の死後、よほどすぐれた人の手にかかって洗練されたものと思われる。今日わずかながらも残っている落語のすぐれた演出が、決してひとりの苦心や功績ではなく、多くのひとびとの汗と血の練磨によって完成されていくというはなはだよき一例であろう。

 アンツルさんは、文楽や三木助を手放しで褒め上げてきた、という印象が強いと思うが、こういう文章を読むと、特定の人というよりも、落語という芸を深く愛していた人なのだなぁ、と思う。

 この本を久しぶりに読んで、「心眼」が、“多くのひとびとの汗と血の練磨によって完成されていく”代表的な噺である、ということを再認識させられた。

 私が生でこの噺を聴いたのは、さん喬と白酒の二度だけだと思う。
 
 決して演じ手が多いネタではない。
 それは、盲目の人物が主役であるため今日ではかけにくいということもあるが、やはり、難しいネタなのだと思う。

 4日の落語研究会でこの噺を演じる柳家権太楼は、鈴本の今月中席の夜、「吉例夏夜噺 さん喬・権太楼 特選集」の六日目にも主任でこの噺を演じる予定だ。
 昨年7月の「円朝祭」(五代目小さんのマネージャーだった方の事務所が主催)でも演じているようだ。

 朝日名人会の高座はCDで発売されている。
 
 この噺を十八番の一つにしている数少ない現役の噺家さんと言えるだろう。

 そういえば、喜多八の最後の寄席は、権太楼が主任の鈴本だった。

 権太郎も体調を悪くした時期がある。
 一時は心配したものだが、復帰してくれて、寄席を大事にしている姿は、嬉しい限り。
 この噺を練磨し続ける多くのひとびとの中の一人として、権太楼には今後も頑張って欲しいと思う。

 「心眼」という円朝の作品からは、いろんなことに思いが至る。

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by kogotokoubei | 2016-08-02 22:47 | 落語のネタ | Comments(4)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛